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新年明けましておめでとうございます / 藤田博史
掲示板《カフェ・フジタ》を開設して12年の歳月が流れました。丁度干支が一回りしたことになります。
通算アクセス数ももうすぐ50万になろうとしています。
今年もまた、この場で活発な議論を交わしてゆきましょう。
今年もよろしくお願いいたします。

掲示板管理人 藤田博史

No.521 - 2013/01/01(Tue) 17:33:36

憲法 / id
前回のゼミテーマについて。
今の憲法は勝者が敗者に押し付けた憲法で、勝者の占領政策遂行と継続を容易にするための方便だったと考える。
護憲論者は奴隷の鎖自慢というやつではないか。
だいたい前文からして嘘ばっかりだし。廃棄すべし。

「人類普遍の原理」ってなんだよ。
「平和を愛する諸国民」から領土を奪われ、領土をよこせと恫喝され、核兵器を持たれミサイルを飛ばされて、因縁をつけられているんですけど〜


>日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

No.520 - 2012/12/22(Sat) 13:36:20

ホロ―マスク錯視の必然性 / 水上雅敏
ホロ―マスク錯視。ホロ―なのだ、とわかっていてさえ、普通に膨らんだ顔に見えるとのこと。しかし、こういう錯視があるからこそ、一見ランダムに見える模様の中にも、人の姿が隠されていれば、それにさっと気づく、という芸当ができるのだろうな、と思います。

そんなことを考えていて、なぜ、やはり膨らんだ顔に見えるか、と考えましたが、それは、そもそも「見る」ということは、他者のまなざしを探し続けることであるから、だと思います。つまり、そもそもまなざしは八方からやってきているわけですが、それを収斂して、能動的に自分がそれを探しつつ、ものを「見る」のだと感じられるようにするために、見てくる他者の顔(普通に膨らんだ他者の顔)をふと置いてしまうことになるからだ(その目の背後に無限遠=まなざしを収斂して想像できるように)と思います。つまり「見ること」には、ホロ―マスク錯視的な錯視が必然的にともなうことになるように思えるのです。

分裂病者はホロ―マスク錯視を持てない、とされますが、これは父の名の排除ゆえに、そもそも無限遠としての穴を置けず、3次元的奥行を構成できないからとも考えられますが、
不思議なのは、病者は、ねんどで人形を作るおり、平坦どころか、凹んだ顔を作ることがあるらしいことです(中井久夫氏の著のどこかにそうあったような)。作っているうち、見る―見られるが、混乱し、人形側に同一化した私の顔が、人形を見つめる私の顔に押し込められるように感じられることの表れなのか、何か人形に内部を充満させないほうがよい理由でもあるのか、そこのところはよくわかりません。

No.519 - 2012/12/21(Fri) 16:39:46

訂正 / 水上雅敏
訂正

ビタハン→ピダハン

のようですね。

No.518 - 2012/12/17(Mon) 04:24:41

ビタハン ただタブーによる制限にすぎないのでは??? / 水上雅敏
ビタハン。残念ながら、大半見のがしました。チョムスキーの出ていたところと、ビタハンでは言語ではあるはずのリカージョンがない・・とか言う部分のみ見ましたが・・。

ともかく丁度、少し前にチョムスキー批判(どうも彼の言う生得的な構造は、複雑で、恣意的で必然性のないように思える)をしようと思っていたので、グッドタイミングな話題ですね。

リカージョンとは何?と調べてみると、例えば、英語で言うと関係代名詞を使った節のように、文の中に文があるというような入れ子的になったような構造でしょうか?(よくわかっていませんが)。チョムスキーは言語にはこれが必ずある、としているらしいですね(ネットで少し調べた限りだと)。それがない言語がある!チョムスキーの言っていた、言語にはリカージョンが必ずあるということは間違いだ! ということが、番組で押し出したい主旨だったのでしょうか・・(よく知りませんが)。

となるとチョムスキー以前に、この番組のその主旨への批判ということになりますが、言語の表に出ていなくとも、背景ではリカージョンを使って考えている、ということはありえるのではないか。思考としてはあるのに、その表出が伝統的に許されていないだけではないか? ・・と考えることもできるのではないでしょうか。

そもそも、言語は自らが振り返られるというプロセスなしには考えられない(あったとすると自意識もないし、何をしゃべったかもわからないし、しゃべったことの修正もきかない)とすると、文に対して、文が差し向けられているはず。文のみならず、ある文の中の単語に対しても、すぐに多くの文が連想されてめぐらされているはず・・ということで、潜在的には(前意識的には)関係代名詞節的なものは、そこにあるはずではないでしょうか(これは、チョムスキー的な生得説を持ち出さなくても、無の象徴化をめざしての弁証法として自然に進むプロセスに思えます)。

色や、数、過去や未来を表す言葉がない、というのは、もしかしたらそれらは彼らにとっては、一次元高い視点から抽象化するものに感じられたり(色や数の言葉)、いかにも知覚されてあるといえるような現実から一次元離れたところから俯瞰して見るかのような内容(過去や未来の話)を語ることのように思われたり、また、リカージョンにしても、文に入れ子的に付属した文ということで主節よりはちょっと次元を上げた文を付け加えることのように思われたりなどして、それらはどこか神の領域を侵すものであり、人間がやることではない、というような感じからタブーにされているだけなのだ、ということはないでしょうか(実は十分それらを表現する代理的な文は前意識の中に存在しているのに)?

神の領域などと言わずとも、名は実体を殺す・見えなくさせるとか、言葉にするとこの感情を失わせてしまう、不安なことは考えないようにしよう、とかの感覚は、現代人にもありがちかと思いますが、これと共通するような心性からのタブーでしかないのではないか? あるいは、一昔前は、日本では、「そんなプリンシプル言ったってしかたないよ。現実的じゃない」と年長者が若者に諭していた抽象的思考の制限、あるいは、ラカンや理論なんか語らず技法を語れ!というような傾向と似たものではないか・・。或る分裂病者は「Aさん、Bさんと言うのはあるが、「人」というのは存在しない。だから「人」という言葉を出すな!」というようなことを言っていましたが、そういう実在論的態度、と共通するところからのタブーなのではないか、そんなことを思います。

しかし、そういうところではそれなりの神経症症状が発現してはいないか? そのほうに私は興味があります。

以上、番組はほとんど見ていないところでの感想なので的外れな批判かも知れません。
ビタハンについては、主には、以下を参考にしました。
ttp://booklog.jp/users/looperibi/archives/1/4622076535
ttp://d.hatena.ne.jp/uometorinome/20120515/1337089035

No.517 - 2012/12/16(Sun) 17:33:05

ピダハン / id
NHK教育 地球ドラマチック 2012年12月15日(土) 午後7:00〜午後7:45(45分)
         再放送 12月24日(月) [(日)深夜] 午前0時00分〜0時44分

ブラジル・アマゾンの奥地に、不思議な言語を持つピダハンと呼ばれる少数民族がいる。ピダハンの言語には数や色を示す言葉がなく、過去や未来の表現もない。アマゾンの豊かな自然の恵みの中で、「過去」を思い患うことも「未来」を憂うこともなく、充実した「現在」を生きているのだ。心豊かなピダハンの暮らしを、長年にわたって彼らと共に暮らした元宣教師のアメリカ人言語学者の目を通して見つめる

ttp://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2012-12-15&ch=31&eid=34825

No.516 - 2012/12/15(Sat) 10:55:45

知覚意識化は差異化のスピードあるいは細やかさが不足のとき / 水上雅敏
結局、知覚意識化されてくるものというのは、差異化のスピードの追いつかないもの、あるいは、差異化の細やかさに不足があってその網目から逃れてしまうものに対する、最後のなけなしの(ひとつ次元を変えたところでの)差異化によるのではないか? ベンハムの駒にさまざまな色が見えてくるときは、その白黒の模様の転変の速さに動体視力がついていかないときである(?)とか(その色の差異によって、どうにか駒上の同心円的に分けられた白黒模様のそれぞれのパターンに差異があることだけは浮かび上がる色の違いによってどうにか伝えられている)、300、400、500Hzの波を聞いたときは、それぞれが聞こえるわけではなく、それぞれの共通差異である100Hzの音が聞こえる(換言すると、それぞれの波が重なって構成する「うなり」という一番大きな波だけをつかめている、ということになるのだが)、というところから見ると・・。

幻聴の場合はどうなっているのか、ということも興味深い。

No.515 - 2012/11/23(Fri) 03:18:42

父の二相と本地垂迹説 / 水上雅敏
必要から、わらしべ長者(宇治拾遺物語中の「長谷寺参籠の男利生に預かる事」ttp://www.koten.net/uji/yaku/096.html 以下に要点抜粋*)
を読みましたが、興味深い点がありました。夢の中での観音からのお告げを頼むのに、夢の中でおつげをするのは「人」なのです(原文でも「人」とのみ)。観音は直接には姿をあらわしません。明恵が天竺に渡ろうとするのを引き留めた春日明神も、直接には姿を現さず、おみくじや舞巫女を通じてのお告げであったり、夢の中で白服の俗人(夢の中で明恵は春日明神の御使いだと思う)がおみくじでのお告げをもたらした(覚醒後の判断)ということになっています(梅尾明恵上人伝記 巻上)。夢の中でのお告げは代理人によって告げられる、というような話、意外と多いように思います。

姿を現さない存在と、その御使い、フォルト―ダー的な「死んだ父と生きている父」という水平的な二項・・というより、もう少し斜めに角度を変えて、象徴的父と想像的父の2項関係の模倣と考えられるでしょうか? 本地垂迹説もそういうものでしょうか・・。仏や神に眷属や御使いが居るというのも・・。

しかし、親鸞の性的欲望を観音が直接夢の中で満たした、とかいう親鸞の夢では直接観音が表れています。しかし、実は、親鸞の最高の信仰対象は阿弥陀であるから(観音は、勢至菩薩とともに、その脇侍である)、実はその阿弥陀が上位に隠れているのだ、と考えると矛盾しないようにも思いますが・・。 いつから親鸞が阿弥陀を本尊にしはじめたのかよく知りませんが・・。

*昔、父も母も主もなく、妻も子もない、たった一人のの若く貧しい侍がいた。もうどうにもならなくて、観音様お助けください、と、長谷寺へ参り、御前にうつ伏して、この世でこうしているなら、このまま、仏様の前で干からびて死のう。もし、まだ生きる理由があるなら、その夢を見るまではここを出るまい、と臥せっているのを寺の僧が見て・・(中略)・・二十一日経った日の、夜明け頃に見た夢に、御帳から人が現れ、おまえは、前世の罪の報いを知らないで観音に愚痴を言い、こうしているというのはひどくおかしな話だ。とはいえ、おまえの言葉を聞くとかわいそうだから、少し助けてやろう。まず、すぐにここを出よ。出たらなんでもいいから、手に触れた物をつかみ捨てずに持っておれ。すぐに出て行くのだぞ。と追いたてられると見て、這うように起き出し、約束した僧のもと行って食事をとって寺を出ようとしたとき、大門でつまずいて、うつ伏せに倒れてしまった。起き上がると、知らないうちに手の中に何かあったので、見てみると、わらしべと呼ばれるわらの屑を一本握っていた。これが御仏がくださったものなのか。と、とてもつまらなく思ったが、御仏がの計らいで与えられたものかもしれない、と思い直し・・・(後略)

No.514 - 2012/11/20(Tue) 13:17:36

むろん / 水上雅敏
公立の学校において、生徒の学習や安全確保のためには関係のない美意識まで押しつけて、生徒の自由を損害してもいいといっているわけではありません。どこまでが理にかなった指示かを判断するセンスが学校側に必要だということです。
No.513 - 2012/11/18(Sun) 13:22:55

学校における虚構的な自由の問題 / 水上雅敏
集団教育における諸段階を考えてみました。

1:マス教育を、教師も生徒も、人口が多いゆえの必要悪として「しょうがないな・・」と正直に感じ得ている段階。

2:教師側が、さらには一部の生徒側も、集団化を美化したり、集団化自体に意味があるとし始める段階。その分段階1では有ったはずの、内的な思いが抑圧されている段階。(教師側にしろ生徒側にしろエディプスコンプレクスの罪悪感から、集団化であれ何であれ上から押しつけられてくるものを奉じることによって罪悪感を払拭しようとするメカニズムが働いていることが多いだろう)

3:2に対する反動として、あるいは何らかの主義から、教育の中に自由や生徒一人一人の自主性を持ち込もうとする段階。しかし、学校に行かない自由までは許されない、虚構的な自由の段階。

どれが前景にあるかは各学校や、個々の生徒教師や、各時期によって違おうし、厳密に見れば並行しているのだろう。・・・以上。

さて、どんな契機が、上記段階を移動させるのかも興味深いのですがこれは保留として、3の問題について考えたく思います(2も問題ですが)。

例えばノーチャイム制(授業の始まり終わりにチャイムがならない)の小学校が増えているそうです。理由は「自分で時計をみて行動できるように」との事のよう。しかし、それなら、突然帰ることもあっていいはず。そうでないかぎりは、「空気を読める人間になれ」という教育になりかねません。どうせ帰宅を引き留めるのであれば、チャイムをならして、この時間は教室にいるべき時間だ、との明確な指示を与えることが、学校にとっては正直な欲望の表明であり、場の主催者としての責任を果たしている、理にかなった姿だと思うのです。学校が言わずに生徒に察することを求める、というのは生徒に神経症を助長しかねないでしょう。

こんなことをそもそも考え始めたのは、オープンクラスルーム(クラスごとの空間的仕切りのない授業形態)の流れの影響か、時間空間的仕切りのゆるい授業形態(上記ノーチャイムや、一旦、学校の許可を得れば、大人が授業中も自由に入って見学できる、など)が増えていて(地域差もあるかも)、これが、ADHDの子の注意散漫を招きクラス崩壊を引き起こすのではないかと、懸念し始めたからです。実際そういう影響はあるそうです。

No.512 - 2012/11/18(Sun) 13:14:10

最小限必要なシステムなりシナプスなりの割合と素数定理 / 水上雅敏
>・システムの増殖→合成数の増殖
・無駄なシステムの削減→素数と掛け算だけへの還元・・

素数定理が頭に浮かびました。今あるシステムのうち、最小限残していいものの割合を考えていると・・。

素数定理→ある数Nまでの素数の割合は近似的に1/logN (底はe)。

数学の苦手な私にもイメージしやすいように言い換えると:
・1/(Nという数に達するにはeを何乗すればいいか・・の、その数)≒Nまでの素数の割合

言い換えると:
・ある数Nがeを何乗したものかがわかるためには、Nまでの素数の割合がわかれば大体いい(その割合の逆数がその「何乗」の答えに近い)

多くあるシステムの中で還元して残るべきシステムの割合がこれだ・・とは言いませんが、比ゆ的なイメージです。あるいは、全パロールの中で、充実したパロールの割合?・・とも言えないでしょうが、やはり比ゆ的には私には素数定理がイメージされます。

シナプスが子供の時期に増えて、あと減少していくというのも、知を最小限に還元して、あとは掛け算ですすめていくように節約するのだ、ともし考えるならば、その変化の割合には、比ゆ的という以上に、素数定理を見ることができるのではないか、とも(むろん、常に情報は入り続けるし、因数分解的プロセスも完成はしないから、明らかにはこの割合は見えなくとも、そういう方向性があるのでは)・・ふと思った限りですが。

No.511 - 2012/11/08(Thu) 13:10:02

褒める背後の欲望は? / 水上雅敏
「褒めれば上達」科学が証明=教育、リハビリに応用も―生理研

ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121108-00000021-jij-soci
時事通信 11月8日(木)7時10分配信
 『人間は何かを学ぶ時、褒められた方がより記憶に定着し効果的に学習できることを、生理学研究所(愛知県岡崎市)の定藤規弘教授らの研究チームが科学的に証明した。定藤教授は「教育やリハビリの現場でも、褒めることが効果的な習得につながるのではないか」と話している。研究成果は7日付の米科学誌プロスワンに掲載された。
 研究チームは、右利きの成人男女計48人に、左手を使って決められた順序でパソコンのキーボードを打たせ、30秒間で早く正確に入力する練習を12回させた。
 続いて、練習結果の優劣に関係なく、(1)自分が褒められる映像を見る(2)他の人が褒められる映像を見る(3)自分の成績をグラフで見るだけ―の3グループに分類。翌日に再びテストし、各グループで入力がどれだけ向上したかを調べた。
 その結果、自分が褒められたグループは練習より約20%多く打てたのに対し、他の2グループは約14%の向上にとどまった。』 

そもそもほめてどの方向に導こうとしているのかが問題。自分の美意識や要求に相手をしたがわせようとしていないかどうか・・。まずそこを考えてからでないと。

「がんばれ」がうつ病者によくないといわれるのも、こころの持ち方を他者に勝手に云々され要求されるということと、それ以上に、上司にがんばれと言われることが、結局は会社のために・・という他者の要求に従わさせられてしまう(他者に自らを従わさせる傾向がそもそものうつ病を作り上げていたことに気づき脱出しようとしていたのに、また言われる)ことになるからではないか。

トイレットトレーニングなども、うまくいったからと子供をほめるのも、子供が排泄に価値を見すぎることになり、よくないという話も聞いたことがある。

No.510 - 2012/11/08(Thu) 12:23:25

初期化の構造は? / 水上雅敏
4種の遺伝子(以前は3種か4種かの議論があったと覚えますがやはり4種だったのでしょうか)が、協働で細胞をiPS化するその構造を知りたいですね。まだわかってないのでしょうか・・。分裂病の場合の、シニフィアン連鎖をいったん初期化して、通常の連鎖にもどしていく参考になることを期待しているのですが・・。
No.509 - 2012/11/05(Mon) 22:30:47

最小限の生活の自由の妨害 / 水上雅敏
最近ことに感じる新しい(?)潮流・・「本来余分で絶対必要とも言えないものを広められ、それを拒むとそれまで持っていたものさえ奪われてしまう」という動き。

わかりやすいのは、デジタルテレビを導入しないとそれまでアナログで視聴できていた番組も見られなくなる、という例。小学校や企業での英語の導入も近いものを感じる。また、学校でのパソコン教育も(一方でありがたくもあるが、パソコンを家に買わねばその子は学習する機会が薄れるので、仕方なく家でも買うようにうながされる)。

こういう動きって、社会学的に名づけられているのでしょうか? ラカンのディスクールから何か言えそうには思いますが・・。

No.508 - 2012/11/05(Mon) 13:52:30

中野さんへ / 榊山裕子
藤田本の面白さについて、同意です。
また、精神分析本だけではなく、
最近のカフェ・フジタで書いたことの流れで言えば、
「原理原則」を踏まえている、そして本当に「治す」気がある本は、
分野を問わず、大変貴重であると思います。

それからチャーチルの言葉の言い換え、いろいろ試してみると面白いかもしれません。
わたしもとりあえず、フェミニズム的観点から思いついたので、挙げてみますね。

「『父の名』は最悪の真理である、問題はそれよりもましなものが見つからないことである」

No.507 - 2012/11/05(Mon) 11:19:04

(No Subject) / 中野雅哉
>榊山さんへ
チャーチルの「民主主義は最低のシステムである、問題はそれよりもましなものが見つからないことである」をパラフレーズしていうと「人間(脂さんの言葉で言えば去勢済主体)とは最悪の症候である、問題はそれよりもましなものが見つからないことである」が精神分析の倫理だと思います。
思いますというか、藤田さんがそのようなことを書いていて、また、そのような視点は他の精神分析本にはほとんど書かれていないので、私は藤田本は面白いと思うわけです。

No.506 - 2012/11/05(Mon) 09:10:25

システムの増殖と還元の数学的解釈 / 水上雅敏
・システムの増殖→合成数の増殖
・無駄なシステムの削減→素数と掛け算だけへの還元・・。「変わらないために変わり続ける」、とは、常に入ってくる合成数を「因数分解」し続けて、なるべく単純なところに居続けること。そこに本来あるはずの×(掛け算)をし残して(=抑圧)しまわないこと・・。

No.505 - 2012/11/05(Mon) 01:30:41

とりあえずの感想 / 榊山裕子
「現状肯定」はある状態を維持し続けることに見えるが、周りの状況が変わっていく時期には、
目の前の景色がいつの間にかとんでもないことになっていることもある。
つまり現状肯定のつもりがいつのまにか、とんでもない別のものを肯定してしまっているということもあるかもしれない。
そういえばラーメン屋チェーン店の一風堂の経営者が
「変わらないために、変わり続ける」という言葉を信条としているということを
テレビで言っていたのが妙に印象に残っている。

No.504 - 2012/11/04(Sun) 23:55:08

述語性同一視と具象的思考の構造の類似性 / 水上雅敏
先に述べた述語性同一視の背景構造についての私の仮説をまとめると、それは、例えば、マリアや私の全体も別々のものとして見れつつ、また、処女という部分属性が共通だからとそこだけで「マリア=私」ともなる、という「全体と部分」という二局面への同一化の閉鎖的な行き来がある、そしてそのことで自我を保っている、ということになります。

そこまで考えると、分裂病者の具象的で平板な言葉の使い方、例えば、アンネ・ラウは「(私には)後ろ盾だてが必要」というとき、それは文字通り「母親が自分の後ろにいること(が必要)」と言っているわけですが(『自明性の喪失』160−161ppブランケンブルク)、こういう言葉も、「(後ろにいること、という)具象的な意味(ひとつの部分的な意味)」だけでなく、それと「(精神的な支えが必要というような)通常の、比ゆ的なものも含めたさまざまな使い方(=全体)」との間の行き来の構造にあるのではないか、とも考えたくなってきます。そもそも、最初に「後ろ盾が必要」などという言葉を使い始めたときは、最初から文字通り後ろに立ってもらうことという以上に、精神的な支えが必要と思っていたからこそ言ったことばでしょうし、多分。

調べてみると、はっきりはしませんがラウは、やはりそのようであったようにも思われます。「(ラウは“後ろ盾”を)単に比ゆ的な意味で用いているのではなくて・・・」とブランケンブルクが言うところ(158p:その他そのあたりで書かれているところ)からは、比ゆ的にも用いえていたように思えます。

言葉の具象的用法以外に、特に分裂病者に・・ということだったかどうかもうだいぶ昔のことではっきりとはしませんが、奇妙に感じた場面として、ロールシャッハテストで、例えば、いかにも蝶に見える図版に「蝶」と答えて、理由を聞くと「ここが触覚だから」と部分のみを指摘して終わってしまう・・こちらとしては「きっと全体像から把握したはずなのに。全体を説明してもよさそうなものなのに・・。」と感じる場面が往々にありました。そういうのも、仮説的ですが、述語性同一視と同様「部分と全体への閉鎖的な同一化の行き来」の構造から考ええるようにも思えます。「蝶」と答えつつも、全体をあえてその答えの根拠として提示しないことで、全体と部分の閉鎖的行き来を保持している(全体をきちんと説明すると、図版から独立して判断する主体を形成してしまう。それよりは想像的同一化を部分と全体の行き来の中でキープしたほうがまだいい、と病者は思っているから)のではと思われるわけです。

No.503 - 2012/11/04(Sun) 21:32:03

榊山さん / 水上雅敏
>だとすれば、水上さんのおっしゃる「現状肯定」は抑止力として積極的な意味を持ちますね。

抑止力、さらにマイナス化あるいは無駄の削除への積極性といえばそうかもしれませんね。

No.502 - 2012/11/04(Sun) 18:27:12

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