読書をしていて時に思う。 この本は作家が二十代の時に出版されたものだけれど、もしこの作家が五十代の時に出版されていたらどんな内容になっていただろう。この本は作家の晩年に出版されたものだけれど、初期に出版されていたらどんな内容になっていただろう。 明治の作家が平成に作品を発表したら・・・。平成の作家が明治に作品を発表したら・・・。 この作家とこの作家が対談したらどうなるのだろう。例えば、芥川龍之介と芥川賞受賞者が対談したらどうなるのだろうとか、江戸川乱歩と京極夏彦が対談したらどうなるのだろうとか(笑)。
そしてしばし本を閉じて、作家が暮らしていた街へ実際に足を運んでみる。たいていは、変わり続ける商店街の中で、住宅街の中で、見落としてしまいそうな小さな碑や立て札しか当時を偲ぶものは残されていないけれど、行きつけの居酒屋であるとか、ゆかりの寺であるとか、作家が暮らしていた街を散策するのも、読者にとっては一興である。
東京都文京区本郷に樋口一葉ゆかりの井戸が残されている。地元の人達に清掃され、大切に使用されている現役の史跡である。立て札を読んでいて、享年二十四、という短い一生に驚かされる。 二十代前半の感性で書く作品と年齢を重ねてから書く作品はどれくらい違うのだろうか。 もし三十歳の一葉がたけくらべを書いたら、どんなたけくらべになっただろうか。五十歳の一葉がにごりえを書いたら、どんなにごりえになっただろうか。 そして一葉が現代に生きていたら、どんな物語を紡ぎ出していたのだろうか。
樋口一葉、享年二十四。 というのが私の中で一つの矜持になっている。 ねえ、その文章、それでいいの? 文章を書いていると、一葉が私に語りかけてくるのである。 そうだねえ。もうちょっと書き直してみるかねえ。一葉さんからも何かアイディアをもらえないかねえ。 見えない教えてもらえない一葉におもねる訳にもいかないのだが、今一度推敲してみようか。
手紙やメールにどんなメッセージが書いてあると私は嬉しく思うのだろうか。BBSにどんな事が書いてあると私は興味深く読むのだろうか。そういった読み手の視点を常に考慮して、文章を書いていこうと思う。
本を開き、書かれた物語の世界を想像する事で作者を知る事ができる。そして本を閉じて、作者の生活した場所やゆかりの地を訪れる事で作者の別の一面を知る事もできるのではないだろうか。 116年後、本郷の街角で、創作する際の喜びや苦悩に思いを馳せる人がいるなんて、生前の一葉は思いもよらなかっただろう。 井戸水を汲みながら、その清冽な感触に、行き詰っていたプロットが動き出しただろうか。吹き渡る風はアイディアを運んでくれただろうか。 時代と共に街並みは大きく変わっていくけれど、今も涸れていない井戸水に手を浸し、街に吹く風を肌で感じていると、そんな一葉の姿が脳裏に浮かんでくる。
この本は誰が読むのかわからない。 パソコンの向こうには誰がいるのかわからない。 でもあなたが興味深く楽しく読んでくれたら嬉しい。 時代、能力、環境・・・。私と、1896年11月23日、二十四歳で他界した樋口一葉とでは様々な事が違うのだが、その気持ちだけは同じかもしれない。 |
No.1014 - 2012/11/23(Fri) 01:04:41
|