|
ハーマイオニーは夏休みに入った初日にさっそくハリーに宛てて手紙を書いた。
ハイ!ハリー 私、家についてすぐにこの手紙を書いているの。 ハリーこの前話してくれたわよね。休み中に誕生日だって。 とっても素敵なカードを送るわ。 近所のお店でうんと悩んで選んだの。 そちらはどうですか?酷いことをされてない?とても心配なの。 できれば家に呼びたいのだけれど、両親とも検診が忙しくて呼べないの。 だから、出来るだけ近況を知らせて下さい。 私に出来る事があるなら知らせて下さい。 出来る事ならなんでもするから。
ハーマイオニー
しかし、2日待っても返事は返ってこなかった。それから何度も送ったが、ハーマイオニーは17通目を送るのを最後に何通送ったかを数えるのをやめてしまった。 ハリーは絶対こんな事をするはずはない。送るのも受け取るのも何者かに妨害されていると考えて良いだろう。 しかし、ふくろう便を受け取るのをあのマグルに阻止されているのだろうか? ハーマイオニーは仕方なくロンに手紙を書いた。
ロン お元気ですか?ちょっと聞きたいのだけれど、ハリーに手紙は出したかしら? 私は出してみたのだけれど返事が返ってこないの。 もしハリーから何か聞いてるのなら連絡を下さい。
ハーマイオニー
ロンからの返事はその日の夜遅くに返ってきた。ハーマイオニーがぼんやりと宿題の答えを考えている時だった。 ガラス窓に何かがぶつかってきたのだ。 ハーマイオニーが慌てて2階の窓を開けてみると、玄関脇にふくろうが伸びているのが見えた。 ハーマイオニーは飛ぶように階段を駆け下りて玄関を開けた。 ホーと弱弱しくふくろうが鳴いて、足を差し出した。ハーマイオニーは手紙を受け取ると部屋にも戻らずにその場で読み始めた。
やぁハーマイオニー ひさしぶり。 僕もハリーに休みに入ってから3通は出したんだぜ。 でも返事は無いよ。それでハリーから返事が無いんだってフレッドとジョージに言ったんだ。 そしたらさ。前から一回使ってみたかった物があってさ。せっかくだから使おうぜって事になったんだよ。 ま、詳しくは話せないけどハリーを僕ん家に招待できるのは確実さ。 期待して待ってなよ。ハリーをあの酷いマグルから救い出すぜ!
ロン
ハーマイオニーは訝しく思った。フレッドとジョージ?あのダンブルドアさえ目をつけていそうな問題児の双子? さらにロンまで加わって? ハーマイオニーは眩暈を覚えて額を押さえた。最悪の組み合わせだ。 何か絶対退学スレスレの事をするに違いない。さらに言えば法律など全く気にしていない傍迷惑な事がおこりそうな気がする。 ハーマイオニーは一瞬、恐ろしい想像が頭を駆け巡った。 フレッドとジョージを先頭にロンもハリーも項垂れながら警察署に連行されている場面だ。 いやいやいやいや。そんな事はないだろう。いくら何でも。 引きつった笑みを浮かべながらハーマイオニーはロンにすぐさま返事を書いた。 ハリーが無事ロンの家にいる事を願いながら。
ロン、ハリー(そこにいる?) お元気ですか。すべてうまくいって、ハリーが無事だったことを願っています。 それに、ロン、あなたが彼を救い出したとき、違法なことをしなかったことを願っています。 そんなことをしたら、ハリーも困ったことになりますから。 わたしはほんとうに心配していたのよ。 ハリーが無事なら、お願いだからすぐにしらせてね。 だけど、別なふくろうを使った方がいいかもしれません。 もう一回配達させたら、あなたのふくろうは、もうおしまいになってしまうかもしれないもの。 わたしはもちろん、勉強でとても忙しくしています。 ――わたしたち、水曜日に新しい教科書を買いにロンドンに行きます。ダイアゴン横丁でお会いしませんか? 近況をなるべく早く知らせてね。 ではまた。
ハーマイオニー
ハーマイオニーはこれ程ジリジリしながら手紙を待ったのは初めてだった。 しかし、ロンからの返事はこないのだ。しかも、もう火曜日だ。明日はダイアゴン横丁に行く日なのに。 まったくもう!知らせてって言ったのに! ハーマイオニーは思いつくかぎりの罵詈雑言を思い浮かべた。 絶対、絶対、絶対文句を言ってやる。どうしても言わずにはいられない。 「……ロン……覚えてなさい……」 せっかく、いいヤツかもと見直したロンはハーマイオニーの中での評価が地に落ちた。
翌朝、ロンドンに向かう地下鉄に家族3人で乗り込んだ。ダイアゴン横丁に3人で行くのはこれで2度目だ。 一度目の時はとにかく時間がかかった。入学案内の手紙に書いていた店を見つけるのに四苦八苦したのだ。 しかも、マグルのお金が使えないので一旦途方に暮れたのを覚えている。 しかし、それもこの超がつく巨大な銀行を見つけるまでの話だった。 中には見たこともない生物が接客していてここに何をしにきたのか忘れそうだった。 幸いマグルと分かると人間の接客員が丁寧な対応をしてくれたのも覚えている。 ハーマイオニーは改めてグリンゴッツ銀行を見上げた。 何百年も前に建てられながら、いまだに白く輝く壁面はすばらしく、そして細かな彫刻がなされた扉は優美だ。 しかし、父と母はキョロキョロと周りを見回してばかりだった。 「ハーミィ。本当にここで待つのかい?」 「ええ。来るって返事は無かったけど。私どうしてもハリーに会いたいの」 父と母が顔を見合わせて笑うのを無視してハーマイオニーはグリンゴッツの階段の上から下に行く人々を見回した。 ここはマグルがとても少ない。これだけ見回してもマグルと分かるのは後ろに立っているスーツ姿の父だけかもしれない。 ハリーはどこかしら?と探したがそう簡単に見つかるわけはないと思っていた。大人に囲まれるとハリーは埋もれてしまうからだ。 だがそれは間違いだった。通りの向こうからこちら目指してノッシノッシと歩いてくるのはまぎれも無くハグリッドだ。 どうやっても見間違うはずがなかった。そのハグリッドと並ぶように小走りしているのは間違いない。 「ハリー!ハリー!ここよ!」 ハリーがこちらを向いた。目を見張ってにっこりと笑うハリーを見てハーマイオニーもにっこり笑った。 グリンゴッツの白い階段の一番上からハーマイオニーはふさふさした栗色の髪を後ろになびかせながら、二人のそばに駆け下りた。 「メガネどうしちゃったの?ハグリッド、こんにちは……あぁ、また二人に会えて、わたしとっても嬉しい……ハリー、グリンゴッツに行くところなの?」 「ウィーズリーさんたちを見つけてからだけど」 へぇーロンのご両親も来てるんだ。ハーマイオニーはちょっと見てみたくなった。 何しろフレッドもジョージもパーシーもロンも赤毛なのだ。 全員揃うとちょっと面白いかもしれない。 「おまえさん、そう長く待たんでもええぞ」ハグリッドがニッコリした。 ハリーとハーマイオニーが見回すと、人混みでごった返した通りを、ロン、フレッド、ジョージ、パーシー、ウィーズリーおじさんが駆けてくるのが見えた。 「ハリー」ウィーズリーおじさんがあえぎながら話しかけた。 「せいぜい一つむこうの火格子まで行き過ぎたくらいであればと願っていたんだよ……」 おじさんは禿げた額に光る汗を拭った。 「モリーは半狂乱だったよ――今こっちへ来るがね」 「どっから出たんだい?」とロンが聞いた。 「夜の闇横丁」ハグリッドが暗い顔をした。 「すっげぇ!」フレッドとジョージが同時に叫んだ。 「僕たち、そこに行くのを許してもらったことないよ」ロンがうらやましそうに言った。 「そりゃぁ、その方がずーっとええ」ハグリッドがうめくように言った。 ロンが羨ましがる所……気味の悪い物品がそこかしこに転がっていそうだ。 どうしてこう危険なものの興味があるのだろうか?自分を窮地に追い込むだけなのに。 こんどはウィーズリーおばさんが飛び跳ねるように走ってくるのが見えた。片手にぶら下げたハンドバッグが右に左に大きく揺れ、もう一つの手にはジニーが、やっとの思いでぶら下がっている。 「あぁ、ハリー――おぉ、ハリー――とんでもないところに行ったんじゃないかと思うと……」 息を切らしながら、おばさんはハンドバッグから大きなはたきを取り出し、ハグリッドが叩き出しきれなかった煤を払いはじめた。ウィーズリーおじさんが壊れたメガネを取り上げ、「オキュラス・レパロ」と杖で軽くひと叩きすると、メガネは新品同様になった。 ハーマイオニーはそれをじぃっと見つめた。なるほど、ああやって直すのか。復元呪文の応用……。 「さあ、もう行かにゃならん」ハグリッドが言った。 その手をウィーズリーおばさんがしっかり握りしめていた。(「『夜の闇横丁!』ハグリッド、あなたがハリーを見つけてくださらなかったら!」) 「みんな、ホグワーツで、またな!」 ハグリッドは大股で去って行った。人波の中で、ひときわ高く、頭と肩がそびえていた。 「『ボージン・アンド・バークス』の店で誰に会ったと思う?」 グリンゴッツの階段を上りながら、ハリーがロンとハーマイオニーに問いかけた。 なんだろう?そんな店見たことも聞いた事もない。 「マルフォイと父親なんだ」 では闇の物品を扱う店に違いない。関わるとロクな事がない店だとハーマイオニーは決め付けた。 「ルシウス・マルフォイは何か買ったのかね?」後ろからウィーズリーおじさんが厳しい声をあげた。 「いいえ、売ってました」 「それじゃ、心配になったわけだ」ウィーズリーおじさんが真顔で満足げに言った。 「あぁ、ルシウス・マルフォイの尻尾をつかみたいものだ……」 「アーサー、気をつけないと」 ウィーズリーおばさんが厳しく言った。ちょうど、小鬼がお辞儀をして、銀行の中に一行を招じ入れるところだった。 「あの家族はやっかいよ。無理してやけどしないように」 「何かね、わたしがルシウス・マルフォイにかなわないとでも?」 ウィーズリーおじさんはムッとしたが、ハーマイオニーの両親がいるのに気づくと、たちまちそちらに気を取られた。壮大な大理石のホールの端から端まで伸びるカウンターのそばに、二人は不安そうに佇んで、ハーマイオニーが紹介してくれるのを待っていた。 「なんと、マグルのお二人がここに!」 ウィーズリーおじさんが嬉しそうに呼びかけた。 「一緒に一杯いかがですか! そこに持っていらっしゃるのはなんですか?あぁ、マグルのお金を買えていらっしゃるのですか。モリー、見てごらん!」 おじさんはグレンジャー氏の持っている十ポンド紙幣を指差して興奮していた。 「あとで、ここで会おう」ロンがハーマイオニーにそう呼びかけ、ウィーズリー一家とハリーは一緒に小鬼に連れられて、地下の金庫へと消えていった。 ハリーの物をウィーズリー家が買うはずはない。となると……。 ハーマイオニーはピタリと立ち止まりハリーたちの消えた方を見つめた。 ハリーは個人的に、このグリンゴッツに口座を持ってるんだわ。 そういえばポッター一家は「例のあの人」と戦っていたと書かれていた。 という事は相当優秀な魔法使いなのだろう。ならばここに口座があっても不思議じゃないんだ。彼は親の財産を継いだだけなのだ。 ハーマイオニーの父と母はグリンゴッツの硬貨が珍しいらしく、手持ちのお金を全て換金しようとしたのでハーマイオニーが止めた。 「帰りに何か食べて帰るんでしょ。おなかペコペコで帰らなきゃならなくなるわよ」 「うーむ。ハーミィ。その通りだ。残念無念。食事代と交通費は残しておきゃなきゃな」 明らかに教科書が3セットは買えるガリオン硬貨を手に入れハーマイオニー達はハリー達を待っていた。 ハリーは少々浮かない顔をしていたが、ロン達はトロッコのアトラクションに大満足のようだった。 ウィーズリーおじさんはグレンジャー夫妻に、居酒屋「漏れ鍋」でせび一緒に飲もうと誘ってきた。 ハーマイオニーの父は「何か注意する飲み物や食べ物はあるかい」と不安そうにこっそりと聞いてきた。 「私も詳しくは知らないの。他の人が食べている物なら大抵大丈夫だと思うけど」とハーマイオニーもこっそり耳打ちした。 「ハーミィもこれを持っておいき。何か必要になるかもしれない」とハーマイオニーの父はハーマイオニーにガリオン金貨を握らせた。 「一時間後にみんなフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で落ち合いましょう。教科書を買わなくちゃ」 ウィーズリーおばさんはそう言うと、ジニーを釣れて歩きだした。 「それに、『夜の闇横丁』に一歩も入ってはいけませんよ」 どこかへずらかろうとする双子の背中に向かっておばさんは叫んだ。 ハーマイオニーはハリー、ロンと三人で曲がりくねった石畳の道を散歩した。 ハリーのポケットの中から微かにチャラチャラと音が聞こえる。 どうやらハリーの両親は裕福だったようだ。 ハリーが、苺とピーナッツバターの大きなアイスクリームを三つ買ってくれ、三人で楽しくペロペロなめながら路地を歩き回って、素敵なウィンドウ・ショッピングをした。 ロンは「高級クィディッチ用具店」のウィンドウでチャドリー・キャノンズのユニフォーム一揃いを見つけ、食い入るように見つめて動かなくなった。 ハーマイオニーはそんなものに全く興味が無く、新学期に使うインクと羊皮紙を買うのに、二人を隣の店まで無理やり引きずって行った。 「ギャンボル・アンド・ジェイプスいたずら専門店」でフレッド、ジョージ、リー・ジョーダンの三人組に出会った。手持ちが少なくなったからと、「ドクター・フィリバスターの長々花火――火なしで火がつくヒヤヒヤ花火」を買いだめしていた。 ちっぽけな雑貨屋では、折れた杖やら目盛りの狂った台秤、魔法薬のシミだらけのマントなどを売っていた。そこでパーシーを見つけた。「権力を手にした監督生たち」という小さな恐ろしくつまらない本を、恐ろしく没頭して読んでいた。 「ホグワーツの監督生たちと卒業後の出世の研究」ロンが裏表紙に書かれた言葉を読み上げた。 「こりゃ、すンばらしい」 「あっちへ行け」パーシーが噛みつくように言った。 「そりゃ、パーシーは野心家だよ。将来の計画はばっちりさ……魔法省大臣になりたいんだ……」 ロンがハリーとハーマイオニーに低い声で教え、三人はパーシーを一人そこに残して店を出た。 私でもなれるのかしら?とハーマイオニーは思っていた。せめて魔法省に入省して仕事をしてみたかった。 一時間後、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に向かった。書店に向かっていたのは、決して三人だけではなかったが、そばまで来てみると、驚いたことに黒山の人だかりで、表で押し合いへし合いしながら中に入ろうとしていた。その理由は、上階の窓に掛かった大きな横断幕にデカデカと書かれていた。
サイン会 ギルデロイ・ロックハート 自伝「私はマジックだ」 本日午後12:30〜4:30
「本物の彼に会えるわ!」 ハーマイオニーが黄色い声をあげた。 「だって、彼って、リストにある教科書をほとんど全部書いてるじゃない!」 あれだけの本を書けるのだ。きっと優秀な魔法使いに違いない。 人だかりはほとんどがウィーズリー夫人ぐらいの年齢の魔女ばかりだった。ドアのところに当惑した顔で魔法使いが一人たっていた。 「奥方様、お静かに願います。……押さないでください……本にお気をつけ願いますよう…」 ハリー、ロン、ハーマイオニーは人垣を押し分けて中に入った。長い列は店の奥まで続き、そこでギルデロイ・ロックハートがサインをしていた。 三人は急いで「泣き妖怪バンシーとのナウな休日」を一冊ずつ引っつかみ、ウィーズリー一家とグレンジャー夫妻がならんでいるところにこっそり割り込んだ。 「まあ、よかった。来たのね」ウィーズリーおばさんが息を弾ませ、何度も髪を撫でつけていた。 「もうすぐ彼に会えるわ……」 ギルデロイ・ロックハートの姿がだんだん見えてきた。座っている机の周りには、自分自身の大きな写真がぐるりと貼られ、人垣に向かって写真がいっせいにウインクし、輝くような白い歯をみせびらかしていた。本物のロックハートは、瞳の色にぴったりの忘れな草色のローブを着ていた。波打つ髪に魔法使いの三角坊を小粋な角度でかぶっている。 気の短そうな小男がその周りを踊り回って、大きな黒いカメラで写真を撮っていた。目がくらむようなフラッシュを焚くたびに、ボッボッと紫の煙が上がった。 「そこ、どいて」カメラマンがアングルをよくするためにあとずさりし、ロンに向かって低く唸るように言った。 「日刊預言者新聞の写真だから」 「それがどうしたってんだ」ロンはカメラマンに踏まれた足をさすりながら言った。 それが聞えて、ギルデロイ・ロックハートが顔を上げた。 まずロンを見て――それからハリーを見た。じっと見つめた。それから勢いよく立ち上がり、叫んだ。 「もしや、ハリー・ポッターでは?」 興奮したささやき声があがり、人垣がパッと割れて道を開けた。ロックハートが列に飛び込み、ハリーの腕をつかみ、正面に引き出した。人垣がいっせいに拍手した。ロックハートがハリーと握手しているポーズをカメラマンが写そうとして、ウィーズリー一家の頭上に厚い雲が漂うほどシャッターを切りまくり、ハーマイオニーは咳き込んだ。 「ハリー、ニッコリ笑って!」ロックハートが輝くような歯を見せながら言った。 「一緒に写れば、君と私とで一面大見出し記事ですよ」 やっと手を放して、ハリーがくるりと踵をかえした。 憮然とした表情で明らかに不機嫌だ。しかし、するりと腕が伸びてきてハリーの肩に腕を回し、がっちりとロックハートの傍に抱えられた。 「みなさん」 ロックハートは声を張り上げ、手でご静粛にという合図をした。 「なんと記念すべき瞬間でしょう! 私がここしばらく伏せていたことを発表するのに、これほどふさわしい瞬間はまたとありますまい!」 「ハリー君が、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に本日足を踏み入れたとき、この若者は私の自伝を買うことだけを欲していたわけであります――それを今、喜んで彼にプレゼントいたします。無料で――」人垣がまた拍手した。 「――この彼が思いもつかなかったことではありますが――」 ロックハートの演説は続いた。ハリーが、ガクガクと揺すられてメガネが鼻の下までずり落ちていた。 「間もなく彼は、私の本『私はマジックだ』ばかりでなく、もっともっとよいものをもらえるでしょう。彼もそのクラスメートも、実は、『私はマジックだ』の実物を手にすることになるのです。みなさん、ここに、大いなる喜びと、誇りを持って発表いたします。この九月から、私はホグワーツ魔法魔術学校にて、『闇の魔術に対する防衛術』担当教授職をお引き受けすることになりました!」 人垣がワーッと沸き、拍手し、ハリーはギルデロイ・ロックハートの全著書をプレゼントされていた。 ハリーがよろけながらスッと消えた。ハーマイオニーはハリーのいる方へ人混みを掻き分けて進んだ。 真っ赤になったロンの妹の顔が見えた。それからハリーとマルフォイが見えた。 ジニーとハリーはマルフォイを睨みつけていた。 「なんだ、君達か」 ロンは靴の底にベットリとくっついた不快なものを見るような顔でマルフォイを見た。 「ハリーがここにるいので驚いたっていうわけか、え?」 「ウィーズリー、君がこの店にいるのを見てもっと驚いたよ」マルフォイが言い返した。 「そんなにたくさん買い込んで、君の両親はこれから一ヶ月は飲まず食わずだろうね」 ロンがジニーと同じぐらい真っ赤になった。ロンもジニーの鍋の中に本を入れ、マルフォイにかかって行こうとしたが、ハリーとハーマイオニーがロンの上着の背中をしっかりつかまえた。 「ロン!」 ウィーズリーおじさんが、フレッドとジョージと一緒にこちに来ようと人混みと格闘しながら呼びかけた。 「何してるんだ? ここはひどいもんだ。早く外に出よう」 「これは、これは、これは――アーサー・ウィーズリー」 マルフォイ氏だった。ドラコの肩に手を置き、ドラコとそっくり同じ薄ら笑いを浮かべて立っていた。 「ルシウス」ウィーズリー氏は首だけ傾けてそっけない挨拶をした。 「お役所は忙しいらしいですな。あれだけ何回も抜き打ち調査を……残業代は当然払ってもらっているのでしょうな?」 マルフォイ氏はジニーの大鍋に手を突っ込み、豪華なロックハートの本の中から、使い古しの擦り切れた本を一冊引っ張り出した。「変身術入門」だ。 「どうもそうではないらしい。なんと、役所が満足に給料も支払わないのでは、わざわざ魔法使いの面汚しになる甲斐がないですねぇ?」 ウィーズリー氏はロンやジニーよりももっと深々と真っ赤になった。 「マルフォイ、魔法使いの面汚しがどういう意味かについて、私たちは意見が違うようだが」 「さようですな」 マルフォイ氏の薄灰色の目が、心配そうになりゆきを見ているグレンジャー夫妻の方に移った。 「ウィーズリー、こんな連中と付き合ってるようでは……君の家族はもう落ちるところまで落ちたと思っていたんですがねぇ――」 ジニーの大鍋が宙を飛び、ドサッと金属の落ちる音がした――ウィーズリー氏がマルフォイ氏に飛びかかり、その背中を本棚に叩きつけた。分厚い呪文の本が数十冊、みんなの頭にドサドサと落ちてきた。 「やっつけろ、パパ!」フレッドかジョージかが叫んだ。 「アーサー、ダメ、やめて!」ウィーズリー婦人が悲鳴をあげた。 人垣がサーッとあとずさりし、はずみでまたまた本棚にぶつかった。 「お客様、どうかおやめを――どうか!」店員が叫んだ。そこへ、ひときわ大きな声がした。 「やめんかい、おっさんたち、やめんかい――」 ハグリッドが本の山を掻き分けてやってきた。あっという間にハグリッドはウィーズリー氏とマルフォイ氏を引き離した。ウィーズリー氏は唇を切り、マルフォイ氏の目は「毒きのこ百科」でぶたれた痕があった。マルフォイ氏の手にはまだ、ジニーの変身術の古本が握られていた。目を妖しくギラギラ光らせて、それをジニーの方に突き出しながら、マルフォイ氏が捨て台詞を言った。 「ほら、チビ――君の本だ――君の父親にしてみればこれが精一杯だろう――」 ハグリッドの手を振りほどき、ドラコに目で合図して、マルフォイ氏はさっと店から出て行った。 「アーサー、あいつのことはほっとかんかい」 ハグリッドは、ウィーズリー氏のローブを元通りに整えてやろうとして、ウィーズリー氏を吊るし上げそうになりながら言った。 「骨の髄まで腐っとる。家族全員がそうだ。みんな知っちょる。マルフォイ家のやつらの言うこたぁ、聞く価値がねえ。そろって根性曲がりだ。そうなんだ。さあ、みんな――さっさと出んかい」 店員は一家が外に出るのを止めたそうだが、自分がハグリッドの腰までさえ背が届かないのを見て考え直したらしい。外に出て、みんなは急いで歩いた。グレンジャー夫妻は恐ろしさに震え、ウィーズリー夫人は怒りに震えていた。 「子供たちに、なんてよいお手本を見せてくれたものですこと……公衆の面前で取っ組み合いなんて……ギルデロイ・ロックハートがいったいどう思ったか……」 「あいつ、喜んでたぜ」フレッドが言った。 「店を出るときあいつが言ってたこと、聞かなかったの? あの『日刊預言者新聞』のやつに、喧嘩のことを記事にしてくれないかって頼んでたよ。――なんでも、宣伝になるからって言ってたな」 そして、一行はしょんぼりして「漏れ鍋」の暖炉に向かった。そこから煙突飛行粉でハリーと、ウィーズリー一家と買物一式が「隠れ穴」に帰ることになった。 ハーマイオニーたちは、そこから裏側のマグルの世界に戻るので、みんなはお別れを言い合った。 ハーマイオニーはしょんぼりとしていた。これから一ヶ月も一人ぼっちだ。 その時間を利用して宿題と来年度の教科書の暗記が出来るのはいいが、すこしくらい友達と遊びたいのも事実だった。 その様子を察したのかハーマイオニーの父は慰めるようにこう言った。 「ハーミィ。何が食べたい?ここはおいしいものが多いよ」 それはハーマイオニー一家にとってとても珍しい事なのだ。何でも食べてもいい。 そんな事を言われたのはハーマイオニーは生まれて初めてだった。 「……ステーキとケーキ!」 「ハーミィ?太るよ?」 「太っても一月後には痩せるもの」 「じゃぁ今日はそうしようか。でもそれだと予算が足りないな。どうやら換金しすぎた」 「あんなに換金するからよ」 「家に一式飾ろうと思ってね。じゃぁあそこのATMに行くか。やっぱりこっちの方が落ち着くよ」 心底ホッとしたように言う父にハーマイオニーと母は大笑いした。
夏休みは超がつく程有意義だったが、同時につまらなかった。 宿題は最初の一週間で終わってしまった。来年度の教科書は8割5分は暗記した。特に「魔法薬学」は格段に難しく覚えにくかった。 ハーマイオニーはホグワーツに戻る日を楽しみにしていた。 ロンが今頃ハリーと二人で遊んでいると思うと、なんとも物悲しい気持ちになるのだ。 私も遊びたい。でも場所を知らない。そもそも普通に行けるような所ではないだろう。 でなければマグルにすぐに見つかってしまう。となると、行きかたさえ分からないという事だ。 ハーマイオニーは深い溜息を吐いた。
最後の一週間でじょじょに荷物をトランクに詰め、細々したものまでチェックリストを見ながら詰め込んだ。 最後の夜はハーマイオニーの母が作った特製の夕食だ。 いつもの歯の健康を意識したものではなく、高カロリーでいつも食べれないようなものばかりだった。
翌朝ハーマイオニーは前と同じように壁を通り抜け、紅い汽車に乗り込んだ。 ここにハリーが来る。ハーマイオニーは嬉しくてウキウキしていた。 しかし、列車が発車してもハリーは来なかった。どうしたんだろうと思って、コンパートメントをちらちら覗きながらウロウロと歩いていた。 その時−− 「本当だって!空飛ぶ車にハリー・ポッターが乗っていたんだよ。あともう一人いた!」 「この汽車に乗ればホグワーツに行けるじゃないか。わざわざそんな事するヤツはいないよ」 「いや本当に本当なんだって!」 「もしそれが本当ならヤツらは退校処分だ。ホグワーツにいれるわけがない」
−−何かあった。きっとそうに違いない。 空飛ぶ車とは信じられないが、少なくとも何かがあったのだ。 ハーマイオニーは駆けずり回ってハリーを探した。 どうやらこの汽車には乗っていないらしい ハーマイオニーは心配でいつもの教科書を読むことさえ出来なかった。
ホグワーツに着いて、部屋に荷物を放り込んでそれから二人を探し始めた。 しかしいない。クィディッチ競技場、ハグリッドの小屋、色んな階段や廊下、果ては教室まで。 影も形もなかった。 ハーマイオニーは親しく話せるのはハリーしかいなかった。 ロンは……正直喧嘩しなければいい人だと思うが、喧嘩するのが前提みたいな関係なので正直うんざりしていた。 好き勝手に言い合えるのは傍から見れば仲が良さそうに見えるのだろう。 だが実際他人と四六時中言い合いをしてみろと言いたい。 そんな相手を仲が良いと本人が思ってるのか確認してみろと言いたかった。 喧嘩というのは意見が合わないと言うことだ。 つまり波長が合わない。でもハリーの友達だからしかたなくいるという感じだ。 結局喧嘩とは相手を受け入れられないから喧嘩になるのだ。 自分を切磋琢磨するような喧嘩になるなら相手を認めていけるだろう。 だがロンは放置状態で育てられたのか、我侭・マイペース・自己中、そして我慢を知らず、兄達の影響だろうか口が悪く下品だ。 時々見せる優しさをもっと見せてくれるようになるにはまだまだ膨大な時間がかかるだろう。 ハーマイオニーが二人を見つけたのは談話室の入り口で戸惑ったように佇む二人だった。 「やっと見つけた! いったいどこに行ってたの?バカバカしいうわさが流れて――誰かが言ってたけど、あなたたちが空飛ぶ車で墜落して退校処分になったって」 「ウン、退校処分にはならなかった」 ハリーはどうやらハーマイオニーを安心させようとしてそう言ったのだと思うがハーマイオニーとしては完全に呆れた。 「まさか、ほんとに空を飛んでここに来たの?」 ハーマイオニーはまるでマクゴナガル先生のような厳しい声で言った。 「お説教はやめろよ」ロンがイライラして言った。 「新しい合言葉、教えてくれよ」 相変わらず自己中なヤツめ。そんな事よりも大切な事があるはずなのに。 「『ミミダレミツスイ《ワトルバード》』よ。でも、話をそらさないで――」 ハーマイオニーはイライラしながら言った。 しかし、ハーマイオニーの言葉もそこまでだった。太った婦人の肖像画がパッと開くと、突然ワッと拍手の嵐だった。 グリフィンドールの寮生は、全員まだ起きている様子だった。 丸い談話室いっぱいに溢れ、傾いたテーブルの上や、ふかふかの肱掛椅子の上に立ち上がったりして、二人の到着を待っていた。 肖像画の穴の方に何本も腕が伸びてきて、ハリーとロンを部屋の中に引っ張り入れた。 取り残されたハーマイオニーは一人で穴をよじ登ってあとに続いた。 「やるなぁ! 感動的だぜ! なんてご登場だ!車を飛ばして『暴れ柳』に突っ込むなんて、何年も語り草になるぜ!」リー・ジョーダンが叫んだ。 「よくやった」だれか知らない上級生がハリーの背中を叩いて讃えた。 フレッドとジョージが人波を掻き分けて前の方にやってきて、口をそろえて言った。 「オイ、なんで、俺たちを呼び戻してくれなかったんだよ」 ロンがきまり悪そうに笑いながら顔を紅潮させている、ハリーは無表情を装っているようだ。 しかし、ハーマイオニーは二人共笑い出しそうになる寸前だとはっきりわかった。 伊達に長いこと一緒にいたわけではないのだ。 「ベッドに行かなくちゃ――ちょっと疲れた」 ロンはそう言うと、ハリーと二人で部屋のむこう側のドアに向かった。そこから螺旋階段が寝室へと続いている ハリーがしかめっ面をしているハーマイオニーに呼びかけた。 「また明日!」 にっこりと思わず見惚れそうな笑顔で。 ズルイ。ハリーはズルイ。心が鷲掴みにされそうだ。自分の魅力がちっとも分かっていないにちがいない。 去年とは明らかに違う背丈。肩幅。変わらない仕種やクセ。そして本当の勇気を示して私の命を助けてくれた。 ハーマイオニーはじっとハリーの背中を見送った。 皆の喧騒に紛れてハーマイオニーの小さな呟きは誰にも届かなかった。
ハーマイオニーは朝食を取るために大広間まで下りてきていた。 いつも通り一人なので寂しくないように「バンパイアとバッチリ船旅」も持って下りてきた。 ハーマイオニーはミルクの入った水差しに「バンパイアとバッチリ船旅」を立てかけて読んでいると目の端にハリーが映った。 ハーマイオニーは反射的に「おはよう」と言ってしまった。 その後ろからネビルも来た。何だか嬉しそうだ。 「もうふくろう郵便の届く時間だ――ばあちゃんが、僕の忘れた物をいくつか送ってくれると思うよ」 ハリーがオートミールを食べはじめた途端、うわさをすればで、頭上に慌しい音がして、百羽を超えるふくろうが押し寄せ、大広間を旋回して、ペチャクチャ騒がしい生徒たちの上から、手紙やら小包やらを落とした。大きな凸凹した小包がネビルの頭に落ちて跳ね返った。 次の瞬間、何やら大きな灰色の塊が、ハーマイオニーのそばの水差しの中に落ち、まわりのみんなに、ミルクと羽のしぶきを撒き散らした。 「スコージファイ!<清めよ>」 慌てて魔法で教科書を綺麗にした。 「エロール!」 ロンが足を引っ張ってぐっしょりになったふくろうを引っ張り出した。エロールは気絶してテーブルの上にボトッと落ちた。足を上向きに突き出し、嘴には濡れた赤い封筒をくわえている。 「大変だ――」ロンが息を呑んだ。 ハーマイオニーはふくろうがけぷっとミルクを吐き出すのを見て言った。 「大丈夫よ。まだ生きてるわ」 ハーマイオニーがエロールを指先でチョンチョンと軽く突ついた。 「そうじゃなくて――あっち」 ロンは赤い封筒の方を指差している。ハーマイオニーが見ても別に普通のとは変わりはない。 しかし、ロンもネビルも、今にも封筒が爆発しそうな目つきで見ている。 「どうしたの?」ハリーが聞いた。 「ママが――ママったら『吼えメール』を僕によこした」ロンが、か細い声で言った。 「ロン、開けた方がいいよ」ネビルがこわごわささやいた。 「開けないともっとひどいことになるよ。僕のばあちゃんも一度僕によこしたことがあるんだけど、ほっておいたら――」ネビルはゴクリと生唾を飲んだ。 「ひどかったんだ」 ハーマイオニーは石のようにこわばっているロンたちの顔から、赤い封筒へと目を移した。 吼えメール。何かの記述で読んだ事がある。 まさしく名前の通りなのだ。ハーマイオニーは慌ててハリーの後ろに隠れて耳を塞いだ。 「『吼えメール』って何?」ハリーが聞いた。 しかし、ロンは赤い封筒に全神経を集中させていた。封筒の四隅が煙を上げはじめていた。 「開けて」ネビルが急かした。「ほんの数分で終わるから……」 ロンは震える手を伸ばしてエロールの嘴から封筒をそーっとはずし、開封した。 ネビルが耳に指を突っ込んだ。 「……車を盗み出すなんて、退校処分になってもあたりまえです。首を洗って待ってらっしゃらい。承知しませんからね。車がなくなっているのを見て、わたしとお父さんがどんな思いだったか、おまえはちょっとでも考えたんですか……」 ウィーズリー夫人の怒鳴り声が、本物の百倍に拡声されて、テーブルの上の皿もスプーンもガチャガチャと揺れ、声は石の壁に反響して鼓膜が裂けそうにワンワン唸った。大広間にいた全員があたりを見まわし、いったい誰が「吼えメール」をもらったのだろうと探していた。ロンは椅子に縮こまって小さくなり、真っ赤な額だけがテーブルの上に出ていた。 「……昨夜ダンブルドアからの手紙が来て、お父さんは恥ずかしさのあまり死んでしまうのでは、と心配しました。こんなことをする子に育てた覚えはありません。おまえもハリーも、まかりまちがえば死ぬところだった。まったく愛想が尽きました。お父さんは役所で尋問を受けたのですよ。みんなおまえのせいです。今度ちょっとでも規則をやぶってごらん。わたしたちがおまえをすぐ家に引っ張って帰ります」 耳がジーンとなって静かになった。 ロンの手から落ちていた赤い封筒は、炎となって燃え上がり、チリチリと灰になった。 ハリーとロンがまるで津波の直撃を受けたあとのように呆然と椅子にへばりついていた。 何人かが笑い声をあげ、だんだんとおしゃべりの声が戻ってきた。 ハーマイオニーは「バンパイヤとバッチリ船旅」の本を閉じ、ロンの頭のてっぺんを見下ろして言った。 「ま、あなたが何を予想していたかは知りませんけど、ロン、あなたは……」 「当然の報いを受けたって言いたいんだろ」ロンが噛みついた。 その通りだ。わざわざハリーをそんな尋問を受けるような法律違反の車に乗せるのが間違いなのだ。 その時はいい思いつきだとでも思ったのだろう。 まったく子供にも程がある。しかし全校生徒の前で大恥をかいたのだ。いい薬になっただろうとハーマイオニーは思った。 そして、マクゴナガル先生がグリフィンドールのテーブルを回って時間割を配りはじめたのだ。ハリーの分を見ると、最初にハッフルパフと一緒に薬草学の授業を受けることになっている。 ハリー、ロン、ハーマイオニーは一緒に城を出て、野菜畑を横切り、魔法の植物が植えてある温室へと向かった。 温室の近くまで来ると、他のクラスメートが外に立って、スプラウト先生を待っているのが見えた。三人がみんなと一緒になった直後、先生が芝生を横切って大股で歩いてくるのが見えた。ギルデロイ・ロックハートと一緒だ。スプラウト先生は腕いっぱい包帯を抱えていた。遠くの方に「暴れ柳」が見え、枝のあちこちに吊り包帯がしてあるのに気がついた。 木にも包帯と薬があるんだわとハーマイオニーは感心した。 スプラウト先生はずんぐりした小さな魔女で、髪の毛がふわふわ風になびき、その上につぎはぎだらけの帽子をかぶっていた。ほとんどいつも服は泥だらけで、爪を見たらあのペニチュアおばさんは気絶しただろう。ギルデロイ・ロックハートの方は、トルコ石色のローブをなびかせ、金色の輝くブロンドの髪に、金色の縁取りがしてあるトルコ石色の帽子を完璧な位置にかぶり、どこから見ても文句のつけようがなかった。 ハーマイオニーはお洒落な大人の男の人というのを初めて見た。 マグル時代の時、女の子たちがアイドルを羨望の目で見ていたのをハーマイオニーは冷めた目で見ていたものだが、今その気持ちが分かるような気がした。確かにカッコいいのだ。 「やぁ、みなさん!」 ロックハートは集まっている生徒を見回して、こぼれるように笑いかけた。 「スプラウト先生に、『暴れ柳』の正しい治療法をお見せしていましてね。ても、私の方が先生より薬草学の知識があるなんて、誤解されては困りますよ。たまたま私、旅の途中、『暴れ柳』というエキゾチックな植物に出遭ったことがあるだけですから……」 「みんな、今日は三号温室へ!」 スプラウト先生は普段の快活さはどこへやら、不機嫌さが見え見えだった。 興味津々のささやきが流れた。これまで一号温室でしか授業がなかった――三号温室にはもっと不思議で危険な植物が植わっている。スプラウト先生は大きな鍵をベルトからはずし、ドアを開けた。天井からぶら下がった。傘ほどの大きさがある巨大な鼻の強烈な香りに混じって、湿った土と肥料の臭いが、プンとハリーの鼻をついた。ハリーはロンやハーマイオニーと一緒に中に入ろうとしたが、ロックハートの手がすっと伸びてきた。 「ハリー! 君と話したかった――スプラウト先生、彼がニ、三分遅れてもお気になさいませんね?」 スプラウト先生のしかめっ面をみれば、「お気になさる」ようだったが、ロックハートはかまわず、「お許しいただけまして」と言うなり、彼女の鼻先でピシャッとドアを閉めた。 ハリーはロックハート先生と何を話しているのかしら。 しかしそれにしてもスプラウト先生の前にあるのは普通の植物に見える。 三号温室は危険な植物だと思ってばかりいたハーマイオニーはちょっぴりがっかりした。 ハリーがドアを開け、中に滑り込んだ。 ハリーがロンとハーマイオニーの間に立つと、先生が授業を始めた。 「今日はマンドレイクの植え替えをやります。マンドレイクの特徴がわかる人はいますか?」 一番先にハーマイオニーは手を挙げた。 普通の植物なんてとんでもなかった。マグルの間でも有名な植物だ。人を簡単に殺せる植物だ。 「マンドレイク、別名マンドラゴラは強力な回復薬です。姿形を変えられたり、呪いをかけられたりした人をもとの姿に戻すのに使われます」 「たいへんよろしい。グリフィンドールに一〇点」スプラウト先生が言った。 「マンドレイクはたいていの解毒剤の主成分になります。しかし、危険な面もあります。誰かその理由が言える人は?」 ハーマイオニーの手が勢いよく上がった拍子に、危うくはリーのメガネを引っかけそうになった。 「マンドレイクの泣き声はそれを聞いたものにとって命取りになります」 淀みない答えだ。 「その通り。もう一〇点あげましょう」スプラウト先生が言った。 「さて、ここにあるマンドレイクはまだ非常に若い」 ハーマイオニーはホッとした。文献によれば若いマンドラゴラは人を殺せる程の力を持たないのが定説なのだ。 「みんな、耳当てを一つずつ取って」とスプラウト先生。 みんないっせいに耳当てを――ピンクのふわふわした耳当て以外を――取ろうと揉み合った。 「わたしが合図したら耳当てをつけて、両耳を完全にふさいでください。耳当てを取っても安全になったら、わたしが親指を上に向けて合図します。それでは――耳当て、つけ!」 ハリーが耳を耳当てで覆っていた。 ピンクの耳当てをしたハリーは違和感だらけで少し笑えた。 ハーマイオニーも耳当てをつけた。外の音が完全に聞えなくなった。スプラウト先生はピンクのふわふわした耳当てをつけ、ローブの袖をまくり上げ、ふさふさした植物を一本しっかりつかみ、ぐいっと引き抜いた。 土の中から出てきたのは、植物の根ではなく、小さな、泥んこの、ひどく醜い男の赤ん坊だった。葉っぱはその頭から生えている。肌は薄緑色でまだらになっている。赤ん坊は声のかぎりに泣き喚いている様子だった。 スプラウト先生は、テーブルの下から大きな鉢を取り出し、マンドレイクをその中に突っ込み、ふさふさした葉っぱだけが見えるように、黒い、湿った堆肥で赤ん坊を埋め込んだ。先生は手から泥を払い、親指を上に上げ、自分の耳当てをはずした。 「このマンドレイクはまだ苗ですから、泣き声も命取りではありません」 先生は落ち着いたもので、ベゴニアに水をやるのと同じようにあたりまえのことをしたような口ぶりだ。 「しかし、苗でも、みなさんをまちがいなく数時間気絶させるでしょう。新学期最初の日を気を失ったまま過ごしたくはないでしょうから、耳当ては作業中しっかりと放さないように。あとかたづけをする時間になったら、わたしからそのように合図します。一つの苗床に四人――植え替えの鉢はここに十分にあります――堆肥の袋はここです――『毒触手草』に気をつけること。歯が生えてきている最中ですから」 先生は話しながら刺だらけの暗赤色の植物をピシャリと叩いた。するとその植物は、先生の肩の上にそろそろと伸ばしていた長い触手を引っ込めた。 ハリー、ロン、ハーマイオニーのグループに、髪の毛がくるくるとカールしたハッフルパフの男の子が加わった。ハリーはその子に見覚えがあったが、話したことはなかった。 「ジャスティン・フィンチ・フレッチリーです」 男の子はハリーと握手しながら明るい声で自己紹介した。 「君のことは知ってますよ、もちろん。有名なハリー・ポッターだもの……。それに、君はハーマイオニー・グレンジャーでしょう――何をやっても一番の……。それから、ロン・ウィーズリー。あの空飛ぶ車、君のじゃなかった?」 ロンはニコリともしなかった。「吼えメール」のことがまだ引っかかっていたらしい。 「ロックハートって、たいした人ですよね?」 四人でそれぞれ鉢に、ドラゴンの糞の堆肥を詰め込みながらジャスティンが朗らかに言った。 「ものすごく勇敢な人です。彼の本、読みましたか? 僕でしたら、狼男に追い詰められて電話ボックスに逃げ込むような目に遭ったら、恐怖で死んでしまう。ところが彼ときたらクールで―――バサッと−−素敵だ」 「僕、ほら、あのイートン校に行くことが決まってましたげと、こっちの学校に来れて、ほんとにうれしい。もちろん母はちょっぴりがっかりしてましたけど、ロックハートの本を読ませたら、母もだんだんわかってきたらしい。つまり家族の中にちゃんと訓練を受けた魔法使いがいると、どんなに便利かってことが……」 それからは四人ともあまり話すチャンスがなくなった。耳当てをつけたし、マンドレイクに集中しなければならなかったからだ。マンドレイクは土のかなから出るのを嫌がり、いったん出ると元に戻りたがらなかった。もがいたり、蹴ったり、尖った小さなこぶしを振り回したり、ギリギリ歯ぎしりしたりで、とても大変だった。 ハリーが引き当てた特にまるまる太ったのを鉢に押し込むのにゆうに十分はかかった。 作業が終わるころにはハーマイオニーも、クラスの誰もかれも、汗まみれの泥だらけで、体があちこち痛んだ。みんなダラダラと城まで歩いて帰り、さっと汚れを洗い落とし、それからグリフィンドール生は変身術のクラスに急いだ。
マクゴナガル先生のクラスはいつも大変だ。 しかし今日は比較的楽だった。何しろ復習中心だったからだ。 コガネムシをボタンに変える課題だったのだが、ハーマイオニーは完璧なコートのボタンを6つ作るのに成功した。 ハリーの方はの杖をかいくぐって逃げ回るコガネムシに、机の上でたっぷり運動させてやっただけだった。 ロンの方はもっとひどかった。スペロテープで杖をつぎはぎしていたのだ。 完全に壊れているのは明らかだった。魔法使いなのに杖も大切に出来ないなんて。 ハーマイオニーはロンを呆れて見るよりも憐れさが先にたった。ロンはもうスクイブとして暮らした方が幸せかもしれないとハーマイオニーは思った。 昼休みのベルが鳴り、ハーマイオニーは昼食の為に外に出た。 しかしハリーとロンがいなかった。 ハーマイオニーは二人を大広間で待っていた。 ハリーたちが席に着くと、ハーマイオニーは変身術で作った完璧なコートのボタンをいくつも二人に見せた。 「さすがだね」 ハリーはそう言ってくれたのだが、ロンは不機嫌顔を隠しもしなかった。 自分が出来なかったからといって、人にまで当たり散らすのかとハーマイオニーもムッとした。 「午後のクラスはなんだっけ?」ハリーが聞いてきた。 「闇の魔術に対する防衛術よ」ハーマイオニーがハリーの方を向いてすぐに答えた。 その隙をついてロンがハーマイオニーの時間割を取り上げて聞いた。 「君、ロックハートの授業を全部小さいハートで囲んであるけど、どうして?」 ハーマイオニーは真っ赤になって時間割を引ったくり返した。 すこしくらい女の子っぽいことをしてもいいじゃない。 今までかっこいい男の人に憧れたことの無いハーマイオニーはすこしミーハーな事をしてみたかったのだ。 昼食を終え、三人は中庭に出た。曇り空だった。 ハーマイオニーは石段に腰掛けて「バンパイアとバッチリ船旅」をまた夢中になって読みはじめた。
「ハリー、元気? 僕――僕、コリン・クリービーと言います」 いきなり知らない声が聞こえてハーマイオニーは吃驚した。 「僕も、グリフィンドールです。あの――もし、かまわなかったら――写真を撮ってもいいですか?」 カメラを持ち上げて、少年が遠慮がちに頼んだ。 「写真?」ハリーがオウム返しに聞いた。 「僕、あなたに会ったことを証明したいんです」 コリン・クリービーはまたすこし近寄りながら熱っぽく言った。 ああ、この子も私と一緒なんだ。この子にとってはハリーがアイドルなのね。 ハーマイオニーは微笑ましく思った。 「僕、あなたのことはなんでも知ってます。みんなに聞きました。『例のあの人』があなたを殺そうとしたのに、生き残ったとか、『あの人』が消えてしまったとか、今でもあなたの額に稲妻形の傷があるとか(コリンの目がハリーの額の生え際を探った)。同じ部屋の友達が、写真をちゃんとした薬で現像したら、写真が動くって教えてれたんです」 コリンは興奮で震えながら大きく息を吸い込むと、一気に言葉を続けた。 「この学校って、すばらしい。ねっ? 僕、いろいろ変なことができたんだけど、ホグワーツから手紙が来るまでは、それが魔法だってこと知らなかったんです。僕のパパ牛乳配達をしてて、やっぱり信じられなかった。だから、僕、写真をたくさん撮って、パパに送ってあげるんです。もし、あなたのが取れたら、ほんとに嬉しいんだけど」 コリンは懇願するような目でハリーを見た。 「あなたの友達に撮ってもらえるなら、僕があなたと並んで立ってもいいですか? それから、写真にサインしてくれますか?」 「サイン入り写真? ポッター、君はサイン入り写真を配ってるのかい?」 ドラコ・マルフォイの痛烈な声が中庭に大きく響き渡った。いつものように、デカで狂暴そうなクラッブとゴイルを両脇に従えて、マルフォイはコリンのすぐ後ろで立ち止まった。 「みんな、並べよ! ハリー・ポッターがサイン入り写真を配るそうだ!」 マルフォイが周りに群がっていた生徒たちに大声で呼びかけた。 「僕はそんなことしていないぞ。マルフォイ、黙れ!」 ハリーが鋭く言った。 「君、やきもち妬いてるんだ」 コリンもクラッブの首の太さぐらいしかない体で言い返した。 「妬いてる?」 マルフォイはもう大声を出す必要はなかった。中庭にいた生徒の半分が耳を傾けていた。 「何を? ぼくは、ありがたいことに、額の真ん中に醜い傷なんか必要ないね。頭をカち割られることで特別な人間になるなんて、僕はそう思わないのでね」 クラッブとゴイルはクスクス薄らバカ笑いをした。 「ナメクジでも食らえ、マルフォイ」ロンがけんか腰で言った。 クラッブは笑うのをやめた。トチの実のようにごつごつ尖ったゲンコツを脅すように撫でさすりはじめた。 「言葉に気をつけるんだね。ウィーズリー」マルフォイがせせら笑った。 「これ以上いざこざを起こしたら、君のママが迎えに来て、学校から連れて帰るよ」 マルフォイは、甲高い突き刺すような声色で、「今度ちょっとでも規則をやぶってごらん――」と言った。 近くにいたスリザリンの五年生の一団が声をあげて笑った。 「ポッター、ウィーズリーが君のサイン入り写真が欲しいってさ」 マルフォイがニヤニヤ笑いながら言った。 「彼の家一軒分よりもっと価値があるかもしれないな」 ロンはスペロテープだらけの杖をサッと取り出した。 ハーマイオニーはロンに杖が完全に壊れている事を思い出させようとした。 「気をつけて!」 ロンは最低だがマルフォイは最悪だ。少なくともロンはマルフォイよりはましな人間だ。 「いったい何事かな? いったいどうしたかな?」 ギルデロイ・ロックハートが大股でこちらに歩いてきた。トルコ石色のローブをヒラリとなびかせている。 「サイン入りの写真を配っているのは誰かな?」 ハリーが口を開けかけたが、ロックハートはそれを遮るようにハリーの肩にさっと腕を回し、陽気な大声を響かせた。 「聞くまでもなかった! ハリー、また逢ったね!」 ロックハートに羽交い締めにされ、屈辱感で焼けるような思いをしながら、ハリーはマルフォイがニヤニヤしながら人垣の中にするりと入り込むのを見た。 「さあ、撮りたまえ。クリビー君」ロックハートがコリンにニッコリ微笑んだ。 「二人一緒のツーショットだ。最高だと言えるね。しかも、君のために二人でサインしよう」 コリンは大慌てでもたもたとカメラを構え写真を撮った。そのときちょうど午後の授業の始まりを告げるベルが鳴った。 「さあ、行きたまえ。みんな急いで」 ロックハートはそうみんなに呼びかけ、自分もハリーを抱えたまま城へと歩き出した。 ハリーはロックハート先生と並んで歩きながら不機嫌そうだった。 ハーマイオニーはハリーの後から教室に入り、ハリーの隣に座った。 「顔で目玉焼きができそうだったよ」ロンが言った。 「クリービーとジニーがどうぞ出遭いませんように、だね。じゃないと、二人でハリー・ポッター・ファンクラブを始めちゃうよ」 「やめてくれよ」ハリーが遮るように言った。 心底うんざりなのだろう。ハーマイオニーももし自分がハリーのような立場だとしたら、ぜんぜん嬉しくない。 勝手に英雄の祭り上げられ、知らない人から好かれたり嫌われたり。 もうほっといてくれと叫びたくなるだろう。 クラス全員が着席すると、ロックハートは大きな咳払いをした。みんなしんとなった。ロックハートは生徒の方にやってきて、ネビル・ロングボトムの持っていた「トロールのとろい旅」を取り上げ、ウインクをしている自分自信の写真のついた写真を高々と掲げた。 「私だ」本人もウインクしながら、ロックハートが言った。 「ギルデロイ・ロックハート。勲三等マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員、そして、『週間魔女』五回連続『チャーミング・スマイル賞』受賞――もっとも、私はそんな話をするつもりではありませんよ。バンドンの泣き妖怪バンシーをスマイルで追い払ったわけじゃありませんしね!」 ロックハートはみんなが笑うのを待ったが、ごく数人があいまいに笑っただけだった。 「全員が私の本を全巻揃えたようだね。たいへんよろしい。今日は最初にちょっと見にテストをやろうと思います。心配ご無用――君たちがどのぐらい私の本を読んでいるか、どのぐらい覚えているかをチェックするだけですからね」 テストペーパーを配り終えると、ロックハートは教室の前の席に戻って合図した。 「三十分です。よーい、はじめ!」 ハーマイオニーはテストペーパーを見下ろし、質問を読んだ。
1 ギルデロイ・ロックハートの好きな色は何? 2 ギルデロイ・ロックハートのひさかな大望は何? 3 現時点までのギルデロイ・ロックハートの業績の中で、あなたは何が一番偉大だと思うか? こんな質問が延々三ページ、裏表に渡って続いた。最後の質問はこうだ。
54 ギルデロイ・ロックハートの誕生日はいつで、理想的な贈り物は何?
三十分後、ロックハートは答案を回収し、クラス全員の前でパラパラとそれをめくった。 「チッチッチッ――私の好きな色はライラック色だということを、ほとんど誰も覚えていないようだね。『雪男とゆっくり一年』の中でそう言っているのに。『狼男との大いなる山歩き』をもう少ししっかり読まなければならない子も何人かいるようだ――第十二賞ではっきり書いているように、私の誕生日の理想的な贈り物は、魔法界と非魔法界のハーモニーです――もっともオグデンのオールド・ファイア・ウィスキーの大瓶でもお断りはいたしませんよ!」 何というかハーマイオニーはファンの心理がわかってきた。 かっこいい笑顔が向けられるだけで嬉しい。その声を聞くだけで満足だ。という気持ちだ。 ハーマイオニーはロックハートの言葉にうっとりと聞き入っていたが、突然ロックハートが彼女の名前を口にしたのでびくっとした。 「……ところが、ミス・ハーマイオニー・グレンジャーは、私のひそかな大望を知ってましたね。この世界から悪を追い払い、ロックハート・ブランドの整髪剤を売り出すことだとね――よくできました! それに――」ロックハートは答案用紙を裏返した。 「満点です! ミス・ハーマイオニー・グレンジャーはどこにいますか?」 ハーマイオニーは唯単に教科書であったから丸暗記しただけなのだ。ハーマイオニーはおずおずと手を挙げた。 「すばらしい!」ロックハートがニッコリした。「まったくすばらしい! グリフィンドールに一〇点あげましょう! では、授業ですが……」 ロックハートは机の後ろにかがみ込んで、覆いのかかった大きな籠を持ち上げ、机の上に置いた。 「さあ――気をつけて! 魔法界の中で最も穢れた生物と戦う術を授けるのが、私の役目なのです!この教室で君たちは、これまでにない恐ろしい目に遭うことになるでしょう。ただし、私がここにいるかぎり、何物も君たちに危害を加えることはないと思いたまえ。落ち着いているよう、それだけをお願いしておきましょう」 ハーマイオニーは、籠をよく見ようとした。ロックハートが覆いに手をかけた。ネビルは一番前の席で縮こまっていた。 「どうか、叫ばないようお願いしたい。連中を挑発してしまうのでね」 ロックハートが低い声で言った。 クラス全員が息を殺した。ロックハートはパッと覆いを取り払った。 「さあ、どうだ」ロックハートは芝居じみた声を出した。 「捕らえたばかりのコーンウォール地方のピクシー小妖精」 シェーマス・フィネガンはこらえきれずにプッと噴き出した。さすがのロックハートでさえ、これは恐怖の叫び声とは聞えなかった。 「どうかしたかね?」ロックハートがシェーマスに笑いかけた。 「あの、こいつらが――あの、そんなに――危険、なんですか?」 シェーマスは笑いをCENSOREDのに、むせ返った。 「思い込みはいけません!」 ロックハートはシェーマスに向かってたしなめるように首を振った。 「連中は厄介で危険な小悪魔になりえますぞ!」 ピクシー小妖精は身の丈二十センチぐらいで群青色をしていた。とんがった顔でキーキーと甲高い声を出すので、インコの群れが議論しているような騒ぎだった。覆いが取り払われるやいなや、ペチャクチャしゃべりまくりながら籠の中をビュンビュン飛び回り、籠をガタガタいわせたり、近くにいる生徒にアッカンベーしたりした。 「さあ、それでは」ロックハートが声を張り上げ、「君たちがピクシーをどう扱うかやってみましょう!」と、籠の戸を開けた。 上を下への大騒ぎ。ピクシーはロケットのように四方八方に飛び散った。二匹がネビルの両耳を引っ張って空中に吊り上げた。数匹が窓ガラスを破って飛び出し、後ろの席の生徒にガラスの破片の雨を浴びせた。教室に残ったピクシーたちの破壊力ときたら、暴走する最よりすごい。インク瓶を引っつかみ、教室中にインクを振り撒くし、本やノートを引き裂くし、壁から写真を引っぺがすは、ごみ箱は引っくり返すは、本やカバンを奪って破れた窓から外に放り投げるは――数分後、クラスの生徒の半分は机の下に避難し、ネビルは天井のシャンデリアからぶら下がって揺れていた。 「さあ、さあ。捕まえなさい。捕まえなさいよ。たかがピクシーでしょう――」 ロックハートが叫んだ。 ロックハートは腕まくりをして杖を振り上げ、「ベスキビクシベステルノミ!<ピクシー虫よされ>」と大声を出した。 何の効果もない。ピクシーが一匹、ロックハートの杖を奪って、これも窓の外へ放り投げた。ロックハートはヒェッと息を呑み、自分の机の下に潜りこんだ。一秒遅かったら、天井からシャンデリアごと落ちてきたネビルに危うく押しつぶされるところだった。 就業のベルが鳴り、みんなワッと出口に押しかけた。それが少し収まったころ、ロックハートが立ち上がり、ちょうど教室から出ようとしていたハリー、ロン、ハーマイオニーを見つけて呼びかけた。 「さあ、その三人にお願いしよう。その辺に残っているピクシーをつまんで、籠に戻しておきなさい」 と言った。そして三人の脇をスルリと通りぬけ、後ろ手にすばやく戸を閉めてしまった。 「耳を疑うぜ」ロンは残っているピクシーの一匹にいやというほど耳を噛まれながら唸った。 「わたしたちに体験学習をさせたかっだけよ」 ハーマイオニーは二匹一緒にテキパキと「縛り術」をかけて動けないようにし、籠に押し込みながら言った。 「体験だって?」ハリーはベーッと舌を出して「ここまでおいで」をしているピクシーを追いかけながら言った。 「ハーマイオニー、ロックハートなんて、自分のやっていることが自分で全然わかってなかったんだよ」 「違うわ。彼の本、読んだでしょ――彼って、あんなに目の覚めるようなことをやってるじゃない……」 「ご本人はやったとおっしゃいますがね」ロンがつぶやいた。
ハリーはコリンにストーカーされ、ロンの杖は破壊工作を重ねた一週間がやっとおわろうとしていた。 土曜日の午前中に、ロンやハリーと一緒に、ハーマイオニーはハグリッドを訪ねる予定だった。
ところが、大分待って大広間に下りて来たのはロンだけだった。 「ハリーは?」 ハーマイオニーは不思議に思ってロンに聞いてみた。 「ふわぁー。ハリーは夜明けぐらいにウッドに連れられていったよ。クィディッチの練習だってさ」 「ふーん。朝早くからがんばるのねぇ!」 「がんばりすぎだよ」 「それじゃ、私はハリーを見に行くわ」 「えっ?」 「ハリーの飛ぶ姿は本当に素敵だもの」 「……あー。本人の前じゃ絶対言わないくせに」 「言えるわけないでしょう!」 「いやいや。てっきりかっこいい先生に鞍替えしたのかと」 「……なんですって?」 地を這うような声でハーマイオニーが言うとロンは慌てて話題を変えた。 「僕もいくよ。なんかトーストぐらい持っていこうかな」 競技場につくと、ガランとして誰もいなかった。 おかしいと思いながらも外で食べる朝食は悪くないものだ。 相手がロンでなければ最高なのだが。 むぐむぐとトーストを頬張りながらロンはクィディッチのルールをいろいろと説明してくれた。 「しっかし、今まで何を見てたんだ」 「ハリー」 「……あーそうですか……」 「仕方ないでしょう?ハリーは私の命をトロールから救ってくれた上に、あの”ハリー・ポッター”なのよ」 「やっぱり女の子の噂とかじゃすごいのかい?」 「……目につかないけどストーカー行為してる子は多いわよ」 「いいなぁ……それぐらいモテたいよ」 「ハリーにしてみたら物凄い迷惑でしょうけどね」 「……しかし、もう終わったのかなぁ?秘密練習だったとか?」 その時クィディッチ・グリフィンドールのチームがグラウンドに現れた。 ハリーはやっぱり一番小さい。しかし一番美しい箒を持っていた。ユニフォームをまだ着ている。 「まだ終わってないのかい?」ロンが信じられないという顔でハリーに声をかけた。 「まだ始まってもいないんだよ。ウッドが新しい動きを教えてくれたんだ」 ハーマイオニーは呆れた。夜明けからこの時間まで延々議論していたのだろうか? クィディッチとはそんなに奥が深いゲームなのだろうか?
ハリーが箒にまたがり地面を蹴って空中に舞い上がった。 ハリーがフレッドやジョージと競争しながら競技場の周りを全速力で飛び回っていた。 すごい。フレッドやジョージが真っ直ぐ駆け抜けていくのに対して、緩やかな曲線で巧みに進路を妨害している。 にもかかわらず、見る間にハリーが引き離していく。 「……すごいわねぇ」 「まったくだ。僕なんかフレッドに追いつけた事なんか一回もないぜ」 「やっぱり箒がいいと違うの?」 「そりゃ違う。違うんだけどもっと根本的には飛ぶ為の魔力をどう扱えるかという事さ。ハリーは本能的に知っているんだろう。どうすれば早く飛ぶ為にどう魔力を使うかを」
「こっちを向いて、ハリー! こっちだよ!」コリンが黄色い声を出していた。 ハーマイオニーもロンも突然沸いて出たコリンに目を見張った。 「あの子もすごいわね」 「目に見えるストーカーだな」 突然ウッドが一直線にグラウンドに向かって降りて来た。 ハリー、フレッド、ジョージもウッドに続いてきた。 何とそこにはスリザリン・クィディッチチームがいるではないか。 「練習は別々のはずだぞ。おかしいな」 ロンが首を傾げながらそう言った。 「じゃ、邪魔しに来たのね。なんて卑劣な!」
そうこうしているうちに2つのチームは言い争いを始めた。 「だめだ。聞こえない」 「マルフォイ」 「何?本当だ。なんでいるんだ」 ハーマイオニーとロンは観客席からグラウンドに飛び降りた。 そして何事かと様子を見に、芝生を横切って行った。 「どうしたんだい?どうして練習しないんだよ。それに、あいつ、こんなとこで何してるんだい?」 ロンはスリザリンのクィディッチ・ローブを着ているマルフォイの方を見て言った。 「ウィーズリー、僕はスリザリンの新しいシーカーだ」マルフォイは満足げに言った。 「僕の父上が、チーム全員に買ってあげた箒を、みんなで賞賛していたところだよ」 ロンは目の前に並んだ七本の最高級の箒を見て、口をあんぐり開けた。 「いいだろう?」マルフォイがこともなげに言った。 「だけど、グリフィンドール・チームも資金集めして新しい箒を買えばいい。クリーンスイープ5号を慈善事業の競売にかければ、博物館が買いを入れるだろうよ」 スリザリン・チームは大爆笑だ。 ハーマイオニーはあまりの低俗さに反吐が出そうだった。お金がなにもかもを解決するわけじゃない。 裕福な家に生まれながらも不遇な幼少時代を過ごしたハーマイオニーはそれを良く心得ていた。 「少なくとも、グリフィンドールの選手は、誰一人としてお金で選ばれたりしてないわ。ハリーは純粋に才能で選手になったのよ」 ハーマイオニーがきっぱりと言った。 マルフォイの自慢顔がちらりとゆがんだ。 「誰もおまえの意見なんか求めてない。生まれそこないの『稼れた血』め」 マルフォイが吐き捨てるように言い返した。 とたんに轟々と声があがったので、マルフォイがひどい悪態をついたらしいことは、ハーマイオニーにもすぐわかった。 フレッドとジョージはマルフォイに飛びかかろうとしたし、それを食い止めるため、フリントが急いでマルフォイの前に立ちはだかった。 アリシアは「よくもそんなことを!」と金切り声をあげた。 ロンはローブに手を突っ込み、ポケットから杖を取り出し、「マルフォイ、思い知れ!」と叫んで、かんかんになってフリントの脇の下からマルフォイの顔に向かって杖を突きつけた。 バーンという大きな音が競技場中にこだまし、緑の閃光が、ロンの杖先ではな?反対側から飛び出し、ロンの胃のあたりに当たった。 ロンはよろめいて芝生の上に尻もちをついた。 「ロン!ロン!大丈夫?」ハーマイオニーが悲鳴をあげた。 ロンはロを開いたが、言葉が出てこない。かわりにとてつもないゲップが一発と、ナメクジが数匹ボタボタと膝にこぼれ落ちた。 スリザリン・チームは笑い転げた。フリントなど、新品の箒にすがって腹をよじって笑い、マルフォイは四つん這いになり、拳で地面を叩きながら笑っていた。 グリフィンドールの仲間は、ヌメヌメ光る大ナメクジを次々と吐き出しているロンの周りに集まりはしたが、誰もロンに触れたくはないようだった。 「ハグリッドのところに連れて行こう。一番近いし」 ハリーがハーマイオニーに呼びかけた。 ハーマイオニーは勇敢にもうなずき、二人でロンの両側から腕をつかんで助け起こした。 「ハリー、どうしたの?ねえ、どうしたの?病気なの?でも君なら治せるよね?」 コリンがスタンドから駆け下りてきて、グラウンドから出て行こうとする三人にまとわりついて周りを飛び跳ねた。 ロンがゲポッと吐いて、またナメクジがボタボタと落ちてきた。 「おわぁ?」コリンは感心してカメラを構えた。 「ハリー、動かないように押さえててくれる?」 「コリン、そこをどいて!」 ハリーがコリンを叱りつけ、ハーマイオニーと一緒にロンを抱えてグラウンドを抜け、森の方に向かった。
森番の小屋が見えてきた。 「もうすぐよ、ロン。すぐ楽になるから……もうすぐそこだから……」 ハーマイオニーがロンを励ました。 あと五、六メートルというときに、小屋の戸が開いた。 が、中から出てきたのはハグリッドではなかった。今日は薄い藤色のローブを纏って、ロックハートがさっそうと現れた。 「早く、こっちに隠れて」 ハリーがそうささやいて、脇の茂みにロンを引っ張り込んだ。 ハーマイオニーは渋々従った。 「やり方さえわかっていれば簡単なことですよ」 ロックハートが声高にハグリッドに何か言っている。 「助けてほしいことがあれば、いつでも私のところにいらっしゃい!私の著書を一冊進呈しましょう−−まだ持っていないとは驚きましたね。今夜サインをして、こちらに送りますよ。では、お暇しましょう!」 ロックハートは城の方にさっそうと歩き去った。
ハーマイオニーとハリーはロックハートの姿が見えなるなるまで待って、それからロンを茂みの中から引っ張り出し、ハグリッドの小屋の戸口まで連れて行った。そして慌しく戸を叩いた。 ハグリッドがすぐに出てきた。不機嫌な顔だったが、客が誰だかわかった途端、パッと顔が輝いた。
「いつ来るんか、いつ来るんかと待っとったぞ−−さあ入った、入った−−実はロックハート先生がまーた来たかと思ったんでな」 ハリーとハーマイオニーはロンを抱えて敷居をまたがせ、一部屋しかない小屋に入った。 片隅には巨大なベッドがあり、反対の隅には楽しげに暖炉の火がはぜていた。 ハリーはロンを椅すに座らせながら、手短かに事情を説明したが、ハグリッドはロンのナメクジ問題にまった動じなかった。 「出てこんよりは出た方がええ」 ロンの前に大きな銅の洗面器をボンと置き、ハグリッドは朗らかに言った。 「ロン、みんな吐いっちまえ」 「止まるのを待つほか手がないと思うわ」 洗面器の上にかがみ込んでいるロンを心配そうに見ながらハーマイオニーが言った。 「あの呪いって、ただでさえ難しいのよ。まして杖が折れてたら……」 ハグリッドはいそいそとお茶の用意に飛び回った。ハグリッドの犬、ボアハウンドのファングはハリーを涎でべとべとにしていた。 「ねえ、ハグリッド、ロックハートはなんの用だったの?」 ファングの耳をカリカリ指で撫でながらハリーが聞いた。 「井戸の中から水魔を追っ払う方法を俺に数えようとしてな」 唸るように答えながら、ハグリッドはしっかり洗い込まれたテーブルから、羽を半分むしりかけの雄鶏を取りのけて、ティーポットをそこに置いた。 「まるで俺が知らんとでもいうようにな。その上、自分が泣き妖怪とかなんとかを追っ払った話を、さんざぶち上げとった。やっこさんの言っとることが一つでもほんとだったら、俺はへそで茶を沸かしてみせるわい」 ホグワーツの先生を批判するなんて、まったくハグリッドらしくなかった。ハリーは驚いてハグリッドを見つめた。 ハーマイオニーはいつもよりちょっと上ずった声で反論した。 「それって、少し偏見じゃないかしら。ダンプルドア先生は、あの先生が一番適任だとお考えになったわけだし−−」
「この仕事を引き受けると言ったのはあいつだけだったんだ」 ハグリッドは糖蜜ヌガーを皿に入れて三人にすすめながら言った。 ロンがその脇でゲボゲボと咳き込みながら洗面器に吐いていた。 「他にはだれもおらんかった。闇の魔術の先生をするもんを探すのが難しくなっちょる。だーれも進んでそんなことをやろうとせん。な?みんなこりゃ縁起が悪いと思いはじめたな。ここんとこ、だーれも長続きしたもんはおらんしな。それで?やっこさん、誰に呪いをかけるつもりだったんかい? ハグリッドはロンの方を顎で指しながらハリーに聞いた。 「マルフォイがハーマイオニーのことをなんとかって呼んだんだ。ものすごくひどい悪口なんだと思う。だって、みんなかんかんだったもの」 「ほんとにひどい悪口さ」 テーブルの下からロンの汗だらけの青い顔がひょいっと現れ、しゃがれ声で言った。 「マルフォイのやつ、彼女のこと『穢れた血』って言ったんだよ、ハグリッド−−」 ロンの顔がまたひょいとテーブルの下に消えた。次のナメクジの波が押し寄せてきたのだ。 ハグリッドは大憤慨していた。 「そんなこと、ほんとうに言うたのか?」とハーマイオニーの方を見て唸り声をあげた。 「言ったわよ。でも、どういう意味だかわたしは知らない。もちろん、ものすごく失礼な言葉だということはわかったけど……」 「あいつの思いつくかぎり最悪の侮辱の言葉だ」ロンの顔がまた現れて絶叫した。 「『穢れた血』って、マグルから生まれたっていう意味の−−つまり両親とも魔法使いじゃない者を指す最低の汚らわしい呼び方なんだ。魔法使いの中には、たとえばマルフォイ一族みたいに、みんなが『純血』って呼ぶものだから、自分たちが誰よりも偉いって思っている連中がいるんだ」 ロンは小さなゲップをした。 ナメクジが一匹だけ飛び出し、ロンの伸ばした手の中にスポッと落ちた。 ロンはそれを洗面器に投げ込んでから話を続けた。 「もちろん、そういう連中以外は、そんなことまったく関係ないって知ってるよ。ネビル・ロングボトムを見てごらんよ−−あいつは純血だけど、鍋を逆さまに火にかけたりしかねないぜ」 「それに、俺たちのハーマイオニーが使えねえ呪文は、今までにひとっつもなかったぞ」 ハグリッドが誇らしげに言ったので、ハーマイオニーはパーッと頬を紅潮させた。 「他人のことをそんなふうにののしるなんて、むかつくよ」 ロンは震える手で汗びっしょりの額を拭いながら話し続けた。 「『穢れた血』だなんて、まったく。卑しい血だなんて。狂ってるよ。どうせ今どき、魔法使いはほとんど混血なんだぜ。もしマグルと結婚してなかったら、僕たちとっくに絶滅しちゃってたよ」 ゲーゲーが始まり、またまたロンの顔がひょいと消えた。 「ウーム、そりゃ、ロン、やつに呪いをかけたくなるのも無理はねぇ」 大量のナメクジが、ドサドサと洗面器の底に落ちる音を、かき消すような大声でハグリッドが言った。 「だけんど、おまえさんの杖が逆噴射したのはかえってよかったかもしれん。ルシウス・マルフォイが、学校に乗り込んできおったかもしれんぞ、おまえさんがやつの息子に呪いをかけっちまってたら。少なくともおまえさんは面倒に巻き込まれずにすんだっちゅうもんだ」 ナメクジが次々と口から出てくるだけでも十分面倒だけど−−とハリーは言いそうになったが、言えなかった。 ハグリッドのくれた糖蜜ヌガーが上顎と下顎をセメントのようにがっちり接着してしまっていた。 「ハリー−−」ふいに思い出したようにハグリッドが言った。 「おまえさんにもちいと小言を言うぞ。サイン入りの写真を配っとるそうじゃないか。なんで俺に1枚くれんのかい?」 ハリーは怒りにまかせて、くっついた歯をぐいとこじ開けた。 「サイン入りの写真なんて、僕、配ってない。もしロックハートがまだそんなこと言いふらして……」 ハリーはむきになった。ふとハグリッドを見ると、笑っている。 「からかっただけだ」 ハグリッドは、ハリーの背中を優しくボンボン叩いた。 おかげでハリーはテーブルの上に鼻から先につんのめった。 「おまえさんがそんなことをせんのはわかっとる。ロックハートに言ってやったわ。なんにもせんでも、おまえさんはやっこさんより有名だって」 「ロックハートは気に入らないって顔したでしょう」 ハリーは顎をさすりながら体を立て直した。 「ああ、気に入らんだろ」ハグリッドの目がいたずらっぽくキラキラした。 「それからへ俺はあんたの本などひとっつも読んどらんと言ってやった。そしたら帰って行きおった。ほい、ロン、糖蜜ヌガー、どうだ?」 ロンの顔がまた現れたので、ハグリッドがすすめた。 「いらない。気分が悪いから」ロンが弱々しく答えた。 「俺が育ててるモン、ちょいと見にこいや」 ハリーとハーマイオニーがお茶を飲み終わったのを見て、ハグリッドが誘った。 ハグリッドの小屋の裏にある小さな野菜畑には、ハリーが見たこともないような大きいかぼちゃが十数個あった。一つ一つが大岩のようだった。
「よーく育っとろう?ハロウィーンの祭用だ……そのころまでにはいい大きさになるぞ」ハグリッドは幸せそうだった。 「肥料は何をやってるの?」とハリーが聞いた。 ハグリッドは肩越しにチラッと振り返り、誰もいないことを確かめた。 「その、やっとるもんは−−ほれ−−ちーっと手助けしてやっとる」 ハリーは、小屋の裏の壁に、ハグリッドのピンクの花模様の傘が立てかけてあるのに気づいた。 ハリーは以前に、あることから、この傘が見かけとはかなり違うものだと思ったことがあった。 実は、ハグリッドの学生時代の杖が中に隠されているような気がしてならなかった。 ハグリッドは魔法を使ってはいけないことになっている。三年生のときにホグワーツを退学になったのだ。 なぜなのか、ハリーにはいまだにわからなかった−−ちょっとでもそのことに触れると、ハグリッドは大きく咳払いをして、なぜか急に耳が聞こえなくなって、話題が変わるまでだまで黙りこくってしまうのだ。 「『肥らせ魔法』じゃない?とにかく、ハグリッドったら、とっても上手にやったわよね」 ハーマイオニーは半分非難しているような、半分楽しんでいるような言い方をした。 「おまえさんの妹もそう言いおったよ」ハグリッドはロンに向かって領いた。 「つい昨日会ったぞい」ハグリッドは髭をピクビクさせながらハリーを横目で見た。 「ぶらぶら歩いているだけだって言っとったがな、俺が思うに、ありや、この家で誰かさんとばったり会えるかもしれんって思っとったな」ハグリッドはハリーにウィンクした。 「俺が思うに、あの子は欲しがるぞ、おまえさんのサイン入りの−−」 「やめてくれよ」 ハリーがそう言うと、ロンはブーッと吹き出し、そこら中にナメクジを撒き散らした。 「気ーつけろ!」 ハグリッドは大声を出し、ロンを大切なかぼちゃから引き離した。
そろそろ昼食の時間だった。 ハリーは夜明けから今まで、糖蜜ヌガーをひとかけら口にしただけだったので、早く学校に戻って食事をしたかった。 ハグリッドにさよならを言い、三人は城へと歩いた。 ロンは時々しゃっくりをしたが、小さなナメクジが二匹出てきただけだった。 ひんやりした玄関ホールに足を踏み入れた途端、声が響いた。 「ポッター、ウィーズリー、そこにいましたか」 マクゴナガル先生が厳しい表情でこちらに歩いてきた。 「二人とも、処罰は今夜になります」 「先生、僕たち、何をするんでしょうか?」ロンがなんとかゲップを押し殺しながら聞いた。 「あなたは、フィルチさんと一緒にトロフィー・ルームで銀磨きです。ウィーズリー、魔法はダメですよ。自分の力で磨くのです」 ロンは絶句した。管理人のアーガス・フィルチは学校中の生徒からひどく嫌われている。 「ポッター。あなたはロックハート先生がファンレターに返事を書くのを手伝いなさい」 「えーっ、そんな……僕もトロフィー・ルームの方ではいけませんか?」 ハリーが絶望的な声で頼んだ。 「もちろんいけません」マクゴナガル先生は眉を吊り上げた。 「ロックハート先生はあなたを特にご指名です。二人とも、八時きっかりに」 ハリーとロンはがっくりと肩を落とし、うつむきながら大広間に入って行った。 ハーマイオニーは「だって校則を破ったんでしょ」という顔をして後ろからついてきた。 ハリーはシェパード・パイを見ても思ったほど食欲がわかなかった。 二人とも自分の方が最悪の貧乏くじを引いてしまったと感じていた。 「フィルチは僕を一晩中放してくれないよ」ロンは滅入っていた。 「魔法なしだなんて!あそこには銀杯が百個はあるぜ。僕、マグル式の磨き方は苦手なんだよ」 「いつでも代わってやるよ。ダーズリーのところでさんざん訓練されてるから」 ハリーもうつろな声を出した。 「ロックハートに来たファンレターに返事を書くなんて……最低だよ……」 土曜日の午後はまるで溶けて消え去ったように過ぎ、あっという間に八時はあと五分後に迫っていた。 ハリーは重い足を引きずり、三階の廊下を歩いてロックハートの部屋に着いた。 ハリーは歯を食いしばり、ドアをノックした。 ドアはすぐにパッと開かれ、ロックハートがニッコリとハリーを見下ろした。 「おや、いたずら坊主のお出ましだ!入りなさい。ハリー、さあ中へ」 壁には額入りのロックハートの写真が数え切れないほど飾ってあり、たくさんの蝋燭に照らされて明るく輝いていた。 サイン入りのものもいくつかあった。机の上には、写真がもう一山、積み上げられていた。 「封筒に宛名を書かせてあげましょう!」まるで、こんなすばらしいもてなしはないだろう、と言わんばかりだ。 「この最初のは、グラディス・ガージョン。幸いなるかな−−私の大ファンでね」 時間はのろのろと過ぎた。ハリーは時々「うー」とか「えー」とか「はー」とか言いながら、ロックハートの声を聞き流していた。 時々耳に入ってきた台詞は、「ハリー、評判なんて気まぐれなものだよ」とか「有名人らしい行為をするから有名人なのだよ。覚えておきなさい」などだった。 蝋燭が燃えて、炎がだんだん低くなり、ハリーを見つめているロックハートの写真の顔の上で光が踊った。 もう千枚目の封筒じゃないだろうかと思いながら、ハリーは痛む手を動かし、ベロニカ・スメスリーの住所を書いていた−−もうそろそろ帰ってもいい時間のはずだ−−どうぞ、そろそろ時間にな?ますよう……ハリーは惨めな気持でそんなことを考えていた。
そのとき、何かが聞こえた−−消えかかった蝋燭が吐き出す音ではなく、ロックハートがファン自慢をペチャクチャしゃべる声でもない。 それは声だった−−骨の髄まで凍らせるような声。息が止まるような、氷のように冷たい毒の声。 「来るんだ……私のところへ……引き裂いてやる……八つ裂きにしてやる……CENSOREDやる……」 ハリーは飛び上がった。ベロニカ・スメスリーの住所の丁目のところにライラック色の滲みができた。 「なんだって?」ハリーが大声で言った。 「驚いたろう?六ヶ月連続ベストセラー入り!新記録です!」ロックハートが答えた。 「そうじゃなくて、あの声?」ハリーは我を忘れて叫んだ。 「えっ?」ロックハートは不審そうに聞いた。 「どの声?」 「あれです−−今のあの声です−−聞こえなかったんですか?」 ロックハートは唖然としてハリーを見た。 「ハリー、いったいなんのことかね?少しトロトロしてきたんじゃないのかい?おやまあ、こんな時間だ!四時間近くここにいたのか?信じられませんね−−矢のように時間がたちましたね?」 ハリーは答えなかった。じっと耳をすませてもう一度あの声を聞こうとしていた。 しかし、もうなんの音もしなかった。 ロックハートが「処罰を受ける時いつもこんなにいい目に遭うと期待してはいけないよ」とハリーに言っているだけだった。 ハリーはぼーっとしたまま部屋を出た。 もう夜もふけていたので、グリフィンドールの談話室はがらんとしていた。 ハリーはまっすぐ自分の部屋に戻った。ロンはまだ戻っていなかった。ハリーはパジャマに着替え、ベッドに入ってロンを待った。 三十分もたったろうか、右腕をさすりさすり、暗い部屋に銀磨き粉の強れつな臭いを漂わせながら、ロンが戻ってきた。 「体中の筋肉が硬直しちゃったよ」 ベッドにドサリと身を横たえながらロンが捻った。 「あのクィディッチ杯を十四回も麿かせられたんだぜ。やつがもういいって言うまで。そしたら今度はナメクジの発作さ。『学校に対する特別功労賞』の上にべっとりだよ。あのネトネトを拭き取るのに時間のかかったこと……ロックハートはどうだった?」 ネビル、ディーン、シューマスを起こさないように低い声で、ハリーは自分が聞いた声のことを、その通りにロンに話した。 「それで、ロックハートはその声が聞こえないって言ったのかい?」 月明りの中でロンの顔が曇ったのがハリーにはわかった。 「ロックハートが嘘をついていたと思う?でもわからないなあ−−姿の見えない誰かだっとしても、ドアを開けないと声が聞こえないはずだし」とロンが言った。 「そうだよね」 四本柱のベッドに仰向けになり、ベッドの天蓋を見つめながら、ハリーがつぶやいた。 「僕にもわからない」
第8章絶命日パーティ
十月がやってきた−−校庭や城の中に湿った冷たい空気を撒き散らしながら。 校医のマダム・ポンフリーは、先生にも生徒にも急に風邪が流行しだして大忙しだった。校医特製の「元気爆発薬」はすぐに効いた。ただし、それを飲むと数時間は耳から煙を出し続けることになった。 ジニー・ウィーズリーはこのところずっと具合が悪そうだったので、パーシーに無理やりこの薬を飲まされた。燃えるような赤毛の下から煙がモクモク上がって、まるでジニーの頭が火事になったようだった。 銃弾のような大きな雨粒が、何日も続けて城の窓を打ち、湖は水かさを増し、花壇は泥の河のように流れ、ハグリッドの巨大かぼちゃは、ちょっとした物置小屋ぐらいに大きく膨れ上がった。 しかし、オリバー・ウッドの定期訓練熟は濡れも湿りもしなかった。 だからこそ、ハロウィーンの数日前ある土曜日の午後、嵐の中を、ハリーは骨までずぶ濡れになり、泥跳ねだらけになりながらグリフィンドールの塔へと歩いていたわけだ。 雨や風のことは別にしても、今日の練習は楽しいとはいえなかった。 スリザリン・チームの偵察をしてきたフレッドとジョージが、その目で、新型ニンバス2001の速さを見てきたのだ。 二人の報告では、スリザリン・チームはまるで垂直離着陸ジェット機のように、空中を縦横に突っ切る七つの緑の影としか見えなかったという。 人気のない廊下をガボガボと水音を響かせながら歩いていると、ハリーは誰かが自分と同じように物思いに耽っているのに気づいた。「ほとんど首無しニック」 グリフィンドールの塔に住むゴーストだった。 ふさぎ込んで窓の外を眺めながら、ぶつぶつつぶやいている。 「……要件を満たさない……たったの一センチ、それ以下なのに……」 「やあ、ニック」ハリーが声をかけた。 「やあ、こんにちは」 ニックは不意を突かれたように振り向いた。 ニックは長い巻き毛の髪に派手な羽飾りのついた帽子をかぶり、ひだ襟のついた短い上着を着ていた。 襟に隠れて、見た目には、首がほとんど完全に切り落とされているのがわからない。薄い煙のようなニックの姿を通して、ハリーは外の暗い空と、激しい雨を見ることができた。 「お若いポッター君、心配事がありそうだね」 ニックはそう言いながら透明の手紙を折って、上着の内ポケットにしまい込んだ。 「おたがいさまだね」ハリーが言った。 「いや」 「ほとんど首無しニック」は優雅に手を振りながら言った。 「たいしたことではありません……本気で入会したかったのとは違いましてね……ちょっと申し込んでみようかと。しかし、どうやら私は『要件を満たさない』」 言葉は軽快だったが、ニックの顔はとても辛そうだった。 「でも、こうは思いませんか?」 ニックは急にポケットから先ほどの手紙を引っ張り出し、堰を切ったように話した。 「切れない斧で首を四十五回も切りつけられたということだけでも、『首無し狩』に参加する資格があると……」 「あー、そうだね」ハリーは当然同意しないわけにはいかなかった。 「つまり、いっぺんにすっきりとやって欲しかったのは、首がスッパリと落ちて欲しかったのは、誰でもない、この私ですよ。そうしてくれれば、どんなに痛い目をみずに、辱しめを受けずにすんだことか。それなのに……」 「ほとんど首無しニック」は手紙をパッと振って開き、憤慨しながら読み上げた。
「当クラブでは、首がその体と別れた者だけに狩人としての入会を許可しております。 貴殿にもおわかりいただけますごとく、さもなくば『首投げ騎馬戦』や『首ポロ』といった狩スポーツに参加することは不可能であります。したがいまして、まことに遺憾ながら、貴殿は当方の要件を満たさない、とお知らせ申し上げる次第です。敬具 パーリック・デレニー・ポドモア卿」
憤然としながら、ニックは手紙をしまい込んだ。 「たった一センチの筋と皮でつながっているだけの首ですよ。ハリー!これなら十分斬首されていると、普通ならそう考えるでしょう。しかし、なんたること、『スッパリ首無しポドモア卿』にとっては、これでも十分ではないのです」 「ほとんど首無しニック」は何度も深呼吸をし、やがて、ずっと落ち着いた調子でハリーに聞いた。 「ところで−−君はどうしました?何か私にできることは?」 「ううん。ただでニンバス2001を、七本手に入れられるところをどこか知ってれば別だけど。対抗試合でスリ……」 ハリーの踝のあたりから聞こえてくる甲高いニャーニャーという泣き声で、言葉がかき消さてしまった。 見下ろすと、ランプのような黄色い二つの目とばっちり目が合った。 ミセス・ノリス−−管理人のアーガス・フィルチが、生徒たちとの果てしなき戦いに、いわば助手として使っている、骸骨のような灰色猫だ。 「ハリー、早くここを立ち去る方がよい」即座にニックが言った。 「フィルチは機嫌が悪い。風邪を引いた上、三年生の誰かが起こした爆発事故で、第五地下牢の天井いっぱいに蛙の脳みそがくっついてしまったものだから、フィルチは午前中ずっと、それを拭き取っていた。もし君が、そこら中に泥をボトボト垂らしているのをみつけたら……」 「わかった」ハリーはミセス・ノリスの非難がましい目つきから逃れるように身を引いたが、遅かった。 飼い主と性悪猫との間に不思議な杵があるかのようにアーガス・フィルチがその場に引き寄せられ、ハリーの右側の壁にかかったタビストリーの裏から突然飛び出した。 鼻息も荒く、そこら中をギョロギョロ見回している。 頭を分厚いタータンの襟巻きでぐるぐる巻きにし、鼻は異常にどす赤かった。 「汚い!」 フィルチが叫んだ。 ハリーのクィディッチのユニフォームから、泥水が滴り落ちて水溜りになっているのを指差し、頬をピクビク疫撃させ、両日が驚くほど飛び出していた。 「あっちもこっちもめちゃくちゃだ!ええい、もうたくさんだ!ポッター、ついてこい!」 ハリーは暗い顔で「ほとんど首無しニック」にさよならと手を振り、フィルチのあとについてまた階段を下りた。 泥だらけの足跡が往復で二倍になった。 ハリーはフィルチの事務室に入ったことがなかった。 そこは生徒たちがなるべく近寄らない場所でもあった。 薄汚い窓のない部屋で、低い天井からぶら下がった石油ランプが一つ、部屋を照らしていた。 魚のフライの臭いが、かすかにあたりに漂っている。 周りの壁に沿って木製のファイル・キャビネットが並び、ラベルを見ると、フィルチが処罰した生徒一人一人の細かい記録が入っているらしい。 フレッドとジョージはまるまる一つの引き出しを占領していた。 フィルチの机の後ろの壁にはーピカピカに磨き上げられた鎖や手柳が一揃い掛けられていた。 生徒の足首を縛って天井から逆さ吊りにすることを許して欲しいと、フィルチがしょっちゅうダンプルドアに懇願していることは、みんな知っていた。 フィルチは机の上のインク瓶から羽ペンを鷲づかみに、羊皮紙を探してそこら中引っかき回した。
「くそっ」フィルチは怒り狂って吐き出すように言った。 「煙の出ているドラゴンのでかい鼻くそ……蛙の脳みそ……ねずみの腸……もううんざりだ……見せしめにしてくれる……書類はどこだ……よし……」 フィルチは机の引き出しから大きな羊皮紙の巻紙を取り出し、目の前に広げ、インク瓶に長い黒い羽ペンを突っ込んだ。 「名前……ハリー・ポッター……罪状……」 「ほんのちょっぴりの泥です!」ハリーが言った。 「そりゃ、おまえさんにはちょっぴ?の泥でござんしょうよ。だけどこっちは一時間も余分に床をこすらなけりやならないんだ!」 団子鼻からゾローツと垂れた鼻水を不快そうに震わせながらフィルチが叫んだ。 「罪状……城を汚した……ふさわしい判決……」 鼻水を拭き拭き、フィルチは目をすがめてハリーの方を不快げに眺めた。 ハリーは息をひそめて判決が下るのを待っていた。 フィルチがまさにペンを走らせようとしたとき、天井の上でバーン!と音がして、石油ランプがカタカタ揺れた。 「ビープズめ!」フィルチは唸り声をあげ、羽ペンに八つ当たりして放り投げた。 「今度こそ取っ捕まえてやる。今度こそ!」 ハリーの方を見向きもせず、フィルチはぶざまな走り方で事務室を出て行った。 ミセス・ノリスがその脇を流れるように走った。 ビープズはこの学校のポルターガイストだ。 ニヤニヤしながら空中を漂い、大騒ぎを引き起こしたりへみんなを困らせるのを生き甲斐にしている厄介者だった。 ハリーはビープズが好きではなかったが、今はそのタイミングのよさに感謝しないわけにはいかなかった。ビープズが何をしでかしたにせよ(あの音では今度は何かとても大きな物を壊したようだ)、フィルチがそちらに気を取られて、ハリーのことを忘れてくれるかもしれない。 フィルチが戻るまで得たなきやいけないだろうな、と思いながら、ハリーは机の脇にあった虫食いだらけの椅子にドサッと腰掛けた。 机の上には書きかけのハリーの書類の他に、もう一つ何かが置いてあった。 大きな、紫色の光沢のある封筒で、表に銀文字で何か書いてある。 ドアをテラリと見て、フィルチが戻ってこないことを確かめてから、ハリーは封筒を取り上げて文字を読んだ。
クイックスペル KWIKSPELL 初心者の為の魔法速習通信講座
興味をそそられて、ハリーは封筒を指でボンとはじいて開け、中から羊皮紙の束を取り出した。 最初のページには、丸みのある銀文字でこう書いてあった。
現代魔法の世界についていけないと、感じていませんか? 一簡単な呪文もかけられないことで、言い訳に苦労していませんか? 杖の使い方がなっていないと、冷やかされたことはありませんか? お任せください! クイックスペルはまったく新しい、誰にでもできる、すぐに効果が上がる、楽な学習コースです。何百人という魔法使いや魔女がクイックスペル学習法に感謝しています!トップシャムのマダム・Z・ネットルズのお手紙 「私は呪文がまったく覚えられず、私の魔法薬は家中の笑い者でした。でも、クイックスベル・コースを終えたあとは、パーティの花形はこの私!友人が発光液の作り方を教えてくれと拝むようにして頼むのです」 ディズベリーのD.J.プロッド魔法戦士のお手紙 「妻は私の魔法呪文が弱々しいとあざ笑っていました。でも、貴校のすばらしいコースを一カ月受けた後、見事、妻をヤクに変えてしまいました!クイックスペル、ありがとう!」
ハリーはおもしろくなって、封筒の中身をばらばらめくった−−いったいどうしてフィルチはクイックスペル・コースを受けたいんだろう?彼はちゃんとした魔法使いではないんだろうか?ハリーは第一科を読んだ。 「杖の持ち方(大切なコツ)」。 そのとき、ドアの外で足を引きずるような音がして、フィルチが戻って?るのがわかった。 ハリーは羊皮紙を封筒に戻し、机の上に放り投げた。ちょうどドアが開いたときだった。 フィルチは勝ち誇っていた。 「あの『姿をくらます飾り棚』は非常に値打ちのあるものだった!」 フィルチはミセス・ノリスに向かっていかにも嬉しそうに言った。 「なあ、おまえ、今度こそビープズめを追い出せるなあ」 フィルチの目がまずハリーに、それから矢のようにクイックスペルの封筒へと移った。 ハリーは「しまった」と思った。封筒は元の位置から六十センチほどずれたところに置かれていた。
フィルチの青白い顔が、レンガのように赤くなった。 フィルチの怒りが津波のように押し寄せるだろうと、ハリーは身構えた。 フィルチは机のところまで不恰好に歩き、封筒をさっと取り、引き出しに放り込んだ。 「おまえ、もう……読んだか?−−」フィルチがぶつぶつ言った。 「いいえ」ハリーは急いで嘘をついた。 フィルチはごつごつした両手を絞るように握り合わせた。 「おまえがわたしの個人的な手紙を読むとわかっていたら……わたし宛の手紙ではないが……知り合いのものだが……それはそれとして……しかし……」 ハリーは唖然としてフィルチを見つめた。フィルチがこんなに怒ったのは見たことがない。 目は飛び出し、垂れ下がった頬の片方がピクビク痙攣して、タータンチェックの襟巻までも、怒りの形相を際立たせていた。
「もういい……行け……ひとことも漏らすな……もっとも……読まなかったのなら別だが……さあ、行くんだ。ビープズの報告書を書かなければ……行け……」 なんて運がいいんだろうと驚きながら、ハリーは急いで部屋を出て、廊下を渡り、上の階へ戻った。 なんの処罰もなしにフィルチの事務室を出られたなんて、開校以来の出来事かもしれない。 「ハリー!ハリー!うまくいったかい?」 「ほとんど首無しニック」が教室から滑るように現れた。 その背後に金と黒の大きな飾り棚の残骸が見えた。ずいぶん高いところから落とされた様子だった。 「ビープズを焚きつけて、フィルチの事務室の真上に墜落させたんですよ。そうすれば気をそらすことができるのではと……」ニックは真剣な表情だった。 「君だったの?」ハリーは感謝を込めて言った。 「あぁ、とってもうまくいったよ。処罰も受けなかった。ありがとう、ニック!」 二人で一緒に廊下を歩きながら、ハリーはニックが、パトリック卿の入会拒否の手紙を、まだ握りしめていることに気づいた。 「『首無し狩』のことだけど、僕に何かできることがあるといいのに」ハリーが言った。 「ほとんど首無しニック」が急に立ち止まったので、ハリーはもろにニックの中を通り抜けてしまった。 通り抜けなきやよかったのに、とハリーは思った。まるで氷のシャワーを浴びたようだった。 「それが、していただけることがあるのですよ」ニックは興奮気味だった。 「ハリー−−もし、あつかましくなければ−−いやでも、ダメでしょう。そんなことはお嫌でしょう……」 「なんなの?」 「えぇ、今度のハロウィーンが私の五百回目の絶命日に当たるのです」
「ほとんど首無しニック」は背筋を伸ばし、威厳たっぷ?に言った。 「それは……」ハリーはいったい悲しむべきか、喜ぶべきか戸惑った。 「そうなんですか」 「私は広めの地下牢を一つ使って、パーティを開こうと思います。国中から知人が集まります。君が出席してくださればどんなに光栄か。ミスター・ウィーズリーもミス・グレンジャーも、もちろん大歓迎です−−でも、おそらく学校のパーティの方に行きたいと思われるでしょうね?」 ニックは緊張した様子でハリーを見た。 「そんなことないよ。僕、出席する……」ハリーはとっさに答えた。 「なんと?ハリー・ポッターが私の絶命日パーティに?」 そう言ったあと、ニックは興奮しながらも遠慮がちに聞いた。 「よろしければ、私がいかに恐ろしくものすごいか、君からパトリック卿に言ってくださることは、もしかして可能でしょうか?」 「だ、大丈夫だよ」ハリーが答えた。 「ほとんど首無しニック」はニッコリ微笑んだ。
ハリーがやっと着替えをすませ、談話室でロンやハーマイオニーにその話をすると、ハーマイオニーは夢中になった。 「絶命日パーティですって?生きてるうちに招かれた入って、そんなに多くないはずだわ−−おもしろそう!」 「自分の死んだ日を祝うなんて、どういうわけ?」 ロンは魔法薬の宿題が半分しか終わっていないので機嫌が悪かった。 「死ぬほど落ち込みそうじゃないか……」 雨は相変わらず窓を打ち、外は墨のように暗くなっていた。 しかし談話室は明るく、楽しさ満ちていた。 暖炉の火がいくつもの座り心地のよい肱掛椅子を照らし、生徒たちはそれぞれに読書したり、おしゃべりしたり、宿題をしたりしていた。 フレッドとジョージは、火トカゲに「フィリバスターの長々花火」を食べさせたら、どういうことになるか試していた。
フレッドは「魔法生物の世話」のクラスから、火の中に住む、燃えるようなオレンジ色の火トカゲを「助け出して」きたのだという。 火トカゲは、好奇心満々の生徒たちに囲まれてテーブルの上で、今は静かにくすぶっていた。 ハリーはロンとハーマイオニーに、フィルチとクイックスペル・コースのことを話そうとした。 その途端、火トカゲが急にヒュッと空中に飛び上がり、派手に火花を散らし、パンパン大きな音をたてながら、部屋中を猛烈な勢いでぐるぐる回りはじめた。 パーシーは声をからしてフレッドとジョージを怒鳴りつけ、火トカゲの口からは滝のように橙色の星が流れ出してすばらしい眺めになり、トカゲが爆発音とともに暖炉の火の中に逃げ込み、なんだかんだで、フィルチのこともクィツクスペルの封筒のことも、ハリーの頭から吹っ飛んでしまった。
ハロウィーンが近づくにつれ、ハリーは絶命日パーティに出席するなどと、軽率に約束してしまったことを後悔しはじめた。 他の生徒たちはハロウィーン・パーティを楽しみに待っていた。 大広間はいつものように生きたコウモリで飾られ、ハグリッドの巨大かぼちゃはくり抜かれて、中に大人三人が十分座れるぐらい大きな提灯になった。 ダンプルドア校長がパーティの余興用に「骸骨舞踏団」を予約したとのうわさも流れた。「約束は約束でしょ」ハーマイオニーは命令口調でハリーに言った。 「絶命日パーティに行くって、あなたそう言ったんだから」 そんなわけで、七時になるとハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、金の皿やキャンドルの吸い寄せるような輝きや、大入り満員の大広間のドアの前を素通りして、皆とは違って、地下牢の方へと足を向けた。 「ほとんど首無しニック」のパーティへと続く道筋にも、キャンドルが立ち並んではいたが、とても楽しいムードとはいえなかった。 ひょろりと長い真っ黒な細蝋燭が真っ青な炎を上げ、生きている三人の顔にさえ、ほの暗い幽かな光を投げかけていた。 階段を一段下りるたびに温度が下がった。ハリーが身震いし、ローブを体にぴったり巻きつけたとき、巨大な黒板を千本の生爪で引っ掻くような音が聞こえてきた。 「あれが音楽のつもり?」ロンがささやいた。 角を曲がると「ほとんど首無しニック」がビロードの黒幕を垂らした戸口のところに立っているのが見えた。 「親愛なる友よ」ニックが悲しげに挨拶した。 「これは、これは……このたびは、よくぞおいでくださいました……」 ニックは羽飾りの帽子をさっと脱いで、三人を中に招き入れるようにお辞儀をした。 信じられないような光景だった。 地下牢は何百という、真珠のように白く半透明のゴーストでいっぱいだった。 そのほとんどが、混み合ったダンスフロアをふわふわ漂い、ワルツを踊っていた。 黒幕で飾られた壇上でオーケストラが、三十本の鋸でワナワナ震える恐ろしい音楽を奏でている。 頭上のシャンデリアは、さらに千本の黒い蝋燭で群青色に輝いていた。 まるで冷凍庫に入り込んだようで、三人の吐く息が、鼻先に霧のように立ち上った。 「見て回ろうか?」ハリーは足を暖めたくてそう言った。 「誰かの体を通り抜けないように気をつけろよ」ロンが心配そうに言った。 三人はダンス・フロアの端の方を回り込むように歩いた。 陰気な修道女の一団や、ポロ服に鎖を巻きつけた男がいたし、ハッフルパフに住む陽気なゴーストの「太った修道士」は、額に矢を突き刺した騎士と話をしていた。 スリザリンのゴーストで、全身銀色の血にまみれ、げっそりとした顔でにらんでいる「血みどろ男爵」は、他のゴーストたちが遠巻きにしていたが、ハリーはそれも当然だと思った。 「あーっ、いやだわ」ハーマイオニーが突然立ち止まった。 「戻って、戻ってよ。『嘆きのマートル』とは話したくないの……」 「誰だって?」急いで後戻りしながらハリーが聞いた。 「あの子、三階の女子トイレに取り憑いているの」ハーマイオニーが答えた。 「トイレに取り憑いてるって?」 「そうなの。去年一年間、トイレは壊れっぱなしだったわ。だって、あの子がかんしゃくを起こして、そこら中、水浸しにするんですもの。わたし、壊れてなくたってあそこには行かなかったわ。だって、あの子が泣いたり喚いたりしてるトイレに行くなんて、とってもいやだもの」 「見て。食べ物だ」ロンが言った。 地下牢の反対側には長テーブルがあり、これにも真っ黒などロードがかかっていた。 三人は興味津々で近づいて行ったが、次の瞬間、ぞっとして立ちすくんだ。 吐き気のするような臭いだ。 銀の盆に置かれた魚は腐り、銀の丸盆に山盛りのケーキは真っ黒焦げ、スコットランドの肉料理、ハギスの巨大な塊には姐がわいていた。 厚切りチーズは毛が争えたように緑色の黴で覆われ、一段と高いところにある灰色の墓石の形をした巨大なケーキには、砂糖のかわりにコールタールのようなもので文字が書かれていた。
ニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿 一四九二年十月三十一日没
恰幅のよいゴーストがテーブルに近づき、躯をかがめてテーブルを通り掛けながら、大きく口を開けて、異臭を放つ鮭の中を通り抜けるようにしたのを、ハリーは驚いてまじまじと見つめた。 「食べ物を通り抜けると味がわかるの?」ハリーがそのゴーストに聞いた。 「まあね」ゴーストは悲しげにそう言うとふわふわ行ってしまった。 「つまり、より強い風味をつけるために腐らせたんだと思うわ」ハーマイオニーは物知り顔でそう言いながら、鼻をつまんで、腐ったハギスをよく見ようと顔を近づけた。 「行こうよ。気分が悪い」ロンが言った。 三人が向きを変えるか変えないうちに、小男がテーブルの下から突然スイーッと現れて、三人の目の前で空中に浮かんだまま停止した。 「やあ、ビープズ」ハリーは慎重に挨拶した。 周りのゴーストは青白く透明なのに、ポルターガイストのビープズは正反対だった。 鮮やかなオレンジ色のパーティ用帽子をかぶり、くるくる回る蝶ネクタイをつけ、意地の悪そうな大きな顔いっぱいに二ヤニヤ笑いを浮かべていた。 「おつまみはどう?」 猫撫で声で、ビープズが深皿に入った黴だらけのピーナッツを差し出した。 「いらないわ」ハーマイオニーが言った。 「おまえがかわいそうなマートルのことを話してるの、聞いたぞ」 ビープズの目は踊っていた。 「おまえ、かわいそうなマートルにひどいことを言ったなあ」 ビープズは深く息を吸い込んでから、吐き出すように喚いた。 「オーイ!マートル!」 「あぁ、ビープズ、だめ。わたしが言ったこと、あの子に言わないで。じゃないと、あの子とっても気を悪くするわ」 ハーマイオニーは大慌てでささやいた。 「わたし、本気で言ったんじゃないのよ。わたし気にしてないわ。あの子が……あら、こんにちは、マートル」 ずんぐりした女の子のゴーストがスルスルとやってきた。 ハリーがこれまで見た中で一番陰気くさい顔をしていた。その顔も、ダラーツと垂れた猫っ毛と、分厚い乳白色のメガネの陰に半分隠れていた。 「なんなの?」 マートルが仏頂面で言った。 「お元気?」ハーマイオニーが無理に明るい声を出した。 「トイレの外でお会いできて、うれしいわ」マートルはフンと鼻を鳴らした。 「ミス・グレンジャーがたった今おまえのことを話してたよぅ……」 ビープズがいたずらっぼくマートルに耳打ちした。 「あなたのこと−−ただ−−今夜のあなたはとっても素敵って言ってただけよ」 ハーマイオニーがビープズをにらみつけながら言った。 マートルは「嘘でしょう」という目つきでハーマイオニーを見た。 「あなた、わたしのことからかってたんだわ」 むこうが透けて見えるマートルの小さな目から銀色の涙が見る見る溢れてきた。 「そうじゃない−−ほんとよ−−わたし、さっき、マートルが素敵だって言ってたわよね?」 ハーマイオニーはハリーとロンの脇腹を痛いほど小突いた。 「ああ、そうだとも」 「そう言ってた……」 「嘘言ってもダメ」 マートルは喉が詰まり、涙が滝のように頬を伝った。 ビープズはマートルの肩越しに満足げにケタケタ笑っている。 「みんなが陰で、わたしのことなんて呼んでるか、知らないとでも思ってるの?デブのマートル、ブスのマートル、惨め屋・愚痴り屋・ふさぎ屋マートル!」 「抜かしたよぅ、にきび面ってのを」ビープズがマートルの耳元でヒソヒソと言った。 「嘆きのマートル」は途端に苦しげにしゃくりあげ、地下牢から逃げるように出て行った。 ビープズは黴だらけのピーナツをマートルにぶっつけて、「にきび面!にきび面!」と叫びながらマートルを追いかけて行った。 「ああ、もう」ハーマイオニーが悲しそうに言った。 今度は「ほとんど首無しニック」が人温みを掻き分けてふわふわやってきた。 「楽しんでいますか?」 「ええ」みんなで嘘をついた。 「ずいぶん集まってくれました」 「ほとんど首無しニック」は誇らしげに言った。 「『めそめそ未亡人』は、はるばるケントからやってきました……そろそろ私のスピーチの時間です。むこうに行ってオーケストラに準備させなければ……」 ところが、その瞬間、オーケストラが演奏をやめた。 楽団員、それに地下牢にいた全員が、狩の角笛が鳴り響く中、シーンと静まり、興奮して周りを見回した。 「ああ、始まった」ニックが苦々しげに言った。 地下牢の壁から、十二騎の馬のゴーストが飛び出してきた。 それぞれ首無しの騎手を乗せていた。観衆が熱狂的な拍手を送った。 ハリーも拍手しようと思ったが、ニックの顔を見てすぐに思いとどまった。 馬たちはダンス・フロアの真ん中までギャロップで走ってきて、前に突っ込んだり、後脚立ちになったりして止まった。 先頭の大柄なゴーストは、顎嚢を生やした自分の首を小脇に抱えていて、首が角笛を吹いていた。 そのゴーストは馬から飛び降り、群集の頭越しに何か見るように、自分の首を高々と掲げた(みんな笑った)。 それから「ほとんど首無しニック」の方に大股で近づき、首を胴体にグイと押し込むように戻した。 「ニック!」吼えるような声だ。 「元気かね?首はまだそこにぶら下がっておるのか?」 男は思いきり高笑いして、「ほとんど首無しニック」の肩をパンパン叩いた。 「ようこそ、パトリック」ニックが冷たく言った。 「生きてる連中だ!」 パトリック卿がハリー、ロン、ハーマイオニーを見つけて、驚いたふりをしてわざと大げさに飛び上がった。 狙い通り、首がまたころげ落ちた(観衆は笑いころげた)。 「まことに愉快ですな」 「ほとんど首無しニック」が沈んだ声で言った。 「ニックのことは、気にしたもうな?」床に落ちたパーリック卿の首が叫んだ。 「我々がニックを狩クラブに入れないことを、まだ気に病んでいる!しかし、要するに彼を見れば−−」 「あの−−」ハリーはニックの意味ありげな目つきを見て、慌てて切り出した。 「ニックはとっても−−恐ろしくて、それで−−あの……」 「ははん?」パトリック卿の首が叫んだ。 「そう言えと彼に頼まれたな?」 「みなさん、ご静粛に。ひとこと私からご挨拶を!」「ほとんど首無しニック」が声を張り上げ、堂々と演壇の方に進み、壇上に登り、ひやりとするようなブルーのスポットライトを浴びた。 「お集まりの、今は亡き、嘆げかわしき閣下、紳士、淑女の皆様。ここに私、心からの悲しみをもちまして……」 そのあとは誰も聞いてはいなかった。 パトリック卿と「首無し狩クラブ」のメンバーが、ちょうど首ホッケーを始めたところで、客はそちらに目を奪われていた。 「ほとんど首無しニック」は聴衆の注意を取り戻そうとやっさになったが、パトリック卿の首がニックの脇を飛んで行き、みんながワッと歓声をあげたので、すっかりあきらめてしまった。 ハリーはもう寒くてたまらなくなっていた。もちろん腹ペコだった。 「僕、もう我慢できないよ」ロンがつぶやいた。 オーケストラがまた演奏を始め、ゴーストたちがするするとダンス・フロアに戻ってきたとき、ロンは歯をガチガチ震わせていた。 「行こう」ハリーも同じ思いだった。 誰かと目が合うたびにニッコリと会釈しながら、三人はあとずさりして出口へと向かった。 ほどなく、三人は黒い蝋燭の立ち並ぶ通路を、急いで元来た方へと歩いていた。 「デザートがまだ残っているかもしれない」 玄関ホールに出る階段への道を、先頭を切って歩きながら、ロンが祈るように言った。 そのとき、ハリーはあの声を聞いた。 「……引き裂いてやる……八つ裂きにしてやる……CENSOREDやる……」 あの声と同じだ。 ロックハートの部屋で闘いたと同じ、冷たい、残忍な声。 ハリーはよろよろとして立ち止まり、石の壁にすがって、全身を耳にして声を聞いた。 そして、ほの暗い灯りに照らされた通路の隅から隅まで、目を細めて、じっと見回した。 「ハリー、いったい何を……?」 「またあの声なんだ−−ちょっと黙ってて−−」 「…空腹だ…とても…ずっと…長い間…」 「ほら、聞こえる?」ハリーが急き込んで言った。 ロンとハーマイオニーはハリーを見つめ、その場に凍りついたようになった。 「……CENSOREDやる……CENSOREDときが来た……」 声はだんだん幽かになってきた。 ハリーは、それがたしかに移動していると思った−−上の方に遠ざかって行く。 暗い天井をじっと見上げながら、ハリーは恐怖と興奮の入り交じった気持で胸を締めつけられるようだった。 どうやって上の万へ移動できるんだろう?石の天井でさえなんの障害にもならない幻なのだろうか? 「こっちだ」 ハリーはそう叫ぶと階段を駆け上がって玄関ホールに出た。 しかし、そこでは何か聞こうなど、無理な注文だった。 ハロウィーン・パーティのペチャクチャというおしゃべりが大広間からホールまで響いていた。 ハリーは大理石の階段を全速力で駆け上がり、二階に出た。ロンとハーマイオニーもバタバタとあとに続いた。 「ハリー、いったい僕たち何を……」 「シーツ!」ハリーは耳をそばだてた。 遠く上の階から、ますます幽かになりながら、声が聞こえてきた。 「……血の臭いがする……血の臭いがするぞ!」 ハリーは胃が引っくり返りそうだった。 「誰かをCENSOREDつもりだ!」 そう叫ぶなり、ハリーはロンとハーマイオニーの当惑した顔を無視して、三階への階段を一度に三段ずつ吹っ飛ばして駆け上がった。 その間も、自分の足音の響きにかき称されそうになる声を、聞き取ろうとした。 ハリーは三階をくまなく飛び回った。 ロンとハーマイオニーは息せき切って、ハリーのあとをついて回った。 角を曲がり、最後の、誰もいない廊下に出たとき、ハリーはやっと動くのをやめた。 「ハリー、いったいこれはどういうことだい?」 ロンが額の汗を拭いながら聞いた。 「僕にはなんにも聞こえなかった……」 しかし、ハーマイオニーの方は、ハッと息を呑んで廊下の隅を指差した。 「見て!」 むこうの壁に何かが光っていた。 三人は暗がりに目を凝らしながら、そーっと近づいた。 窓と窓の間の壁に、高さ三十センチほどの文字が塗りつけられ、松明に照らされてチラチラと鈍い光を放っていた。
秘密の部屋は開かれたり 継承者の敵よ、気をつけよ
「なんだろう−−下にぶら下がっているのは?」ロンの声はかすかに震えていた。 じりじりと近寄りながら、ハリーは危うく滑りそうになった。 床に大きな水溜りができていたのだ。 ロンとハーマイオニーがハリーを受け止めた。 文字に少しずつ近づきながら、三人は文字の下の、暗い影に日を凝らした。 一瞬にして、それがなんなのか三人ともわかった。 途端に三人はのけぞるように飛びのき、水溜りの水を跳ね上げた。 管理人の飼い猫、ミセス・ノリスだ。 松明の腕木に尻尾を絡ませてぶら下がっている。 板のように硬直し、目はカッと見開いたままだった。 しばらくの間、三人は動かなかった。やおら、ロンが言った。 「ここを離れよう」 「助けてあげるべきじゃないかな……」ハリーが戸惑いながら言った。 「僕の言う通りにして」ロンが言った。「ここにいるところを見られない方がいい」 すでに遅かった。遠い雷鳴のようなぎわめきが聞こえた。パーティが終わったらしい。 三人が立っている廊下の両側から、階段を上ってくる何百という足音、満腹で楽しげなさざめきが聞こえてきた。次の瞬間、生徒たちが廊下にワッと現れた。 前の方にいた生徒がぶら下がった猫を見つけた途端、おしゃべりも、さざめきも、ガヤガヤも突然消えた。 沈黙が生徒たちの群れに広がり、おぞましい光景を前の方で見ようと押し合った。 その傍らで、ハリー、ロン、ハーマイオニーは廊下の真ん中にポツンと取り残されていた。 やおら、静けさを破って誰かが叫んだ。 「継承者の敵よ、気をつけよ?次はおまえたちの番だぞ、『撮れた血』め!」 ドラコ・マルフォイだった。 人垣を押しのけて最前列に進み出たマルフォイは、冷たい目に生気をみなぎらせ、いつもは血の気のない頬に赤みがさし、ぶら下がったままピクリともしない猫を見てニヤッと笑った。 「なんだ、なんだ?何事だ?」 マルフォイの大声に引き寄せられたに違いない。 アーガス・フィルチが肩で人温みを押し分けてやってきた。 ミセス・ノリスを見た途端、フィルチは恐怖のあまり手で顔を覆い、たじたじとあとずさりした。 「わたしの猫だ!わたしの猫だ!ミセス・ノリスに何が起こったというんだ?」 フィルチは金切り声で叫んだ。そしてフィルチの飛び出した目が、ハリーを見た。 「おまえだな!」 叫び声は続いた。 「おまえだ!おまえがわたしの猫を殺したんだ!あの子を殺したのはおまえだ!俺がおまえをCENSOREDやる!俺が……」 「アーガス!」 ダンプルドアがほかに数人の先生を従えて現場に到着した。 すばやくハリー、ロン、ハーマイオニーの脇を通り抜け、ダンプルドアは、ミセス・ノリスを松明の腕木からはずした。 「アーガス、一緒に来なさい。ポッター、ウィーズリー、グレンジャー。君たちもおいで」ダンプルドアが呼びかけた。 ロックハートがいそいそと進み出た。 「校長先生、私の部屋が一番近いです−−すぐ上ですどうぞご自由に−−」 「ありがとう、ギルデロイ」 人垣が無言のままパッと左右に割れて、一行を通した。ロックハートは得意げに、興奮した面持ちで、せかせかとダンプルドアのあとに従った。 マクゴナガル先生もスネイプ先生もそれに続いた。 灯りの消えたロックハートの部屋に入ると、何やら壁面があたふたと動いた。 ハリーが目をやると、写真の中のロックハートが何人か、髪にカーラーを巻いたまま物陰に隠れた。本物のロックハートは机の蝋燭を灯し、後ろに下がった。 ダンプルドアは、ミセス・ノリスを磨いた机の上に置き、調べはじめた。 ハリー、ロン、ハーマイオニーは緊張した面持ちで目を見交わし、蝋燭の灯りが届かないところでぐったりと椅子に座り込み、じっと見つめていた。 ダンプルドアの折れ曲がった長い鼻の先が、あとちょっとでミセス・ノリスの毛にくっつきそうだった。長い指でそっと突っついたり刺激したりしながら、ダンプルドアは半月形のメガネを通してミセス・ノリスをくまなく調べた。 マクゴナガル先生も身をかがめてほとんど同じぐらい近づき、目を凝らして見ていた。 スネイプはその後ろに漠然と、半分影の中に立ち、なんとも奇妙な表情をしていた。 まるでニヤリ笑いを必死でかみCENSOREDいるようだった。 そしてロックハートとなると、みんなの周りをうろうろしながら、あれやこれやと意見を述べ立てていた。 「猫を殺したのは、呪いに違いありません−−たぶん「異形変身拷問」の呪いでしょう。何度も見たことがありますよ。私がその場に居合わせなかったのは、まことに残念。猫を救う、ぴったりの反対呪文を知っていましたのに……」 ロックハートの話の合いの手は、涙も枯れたフィルチが、激しくしゃくりあげる声だった。 机の脇の椅子にがっくり座り込み、手で顔を覆ったまま、ミセス・ノリスをまともに見ることさえできなかった。 ハリーはフィルチが大嫌いだったが、このときばかりはちょっとかわいそうに思った。 それにしても自分の方がもっとかわいそうだった。 もしダンプルドアがフィルチの言うことを真に受けたのなら、ハリーはまちがいなく退学になるだろう。 ダンプルドアはブツブツと不思議な言葉を呟き、ミセス・ノリスを杖で軽く叩いた。 が、何事も起こらない。 ミセス・ノリスは、つい先日剥製になったばかりの猫のように見えた。 「−−そう、非常によく似た事件がウグドゥグで起こったことがありました。次々と襲われる事件でしたね。私の自伝に一部始終書いてありますが。私が町の住人にいろいろな魔よけを授けましてね、あっという間に一件落着でした」 壁のロックハートの写真が本人の話に合わせていっせいに領いていた。 一人はヘアネットをはずすのを忘れていた。 ダンプルドアがようやく体を起こし、やさしく言った。 「アーガスへ猫は死んでおらんよ」 ロックハートは、これまで自分が未然に防いだ殺人事件の数を数えている最中だったが、慌てて数えるのをやめた。 「死んでない?」フィルチが声を詰まらせ、指の間からミセス・ノリスを覗き見た。 「それじゃ、どうしてこんなに−−こんなに固まって、冷たくなって?」 「石になっただけじゃ」 ダンプルドアが答えた(「やっぱり!私もそう思いました!」とロックハートが言った)。 「ただし、どうしてそうなったのか、わしには答えられん……」 「あいつに聞いてくれ!」 フィルチは涙で汚れ、まだらに赤くなった顔でハリーの方を見た。 「二年生ではこんなことをできるはずがない」 ダンプルドアはキッパリと言った。 「最も高度な闇の魔術をもってして初めて……」 「あいつがやったんだ。あいつだ!」 ぶくぶくたるんだ顔を真っ赤にして、フィルチは吐き出すように言った。 「あいつが壁に書いた文字を読んだでしょう?あいつは見たんだ!あいつは知ってるんだ。わたしが……わたしが……」 フィルチの顔が苦しげに歪んだ。 「わたしができ損ないの『スクイブ』だって知ってるんだ!」 フィルチがやっとのことで言葉を言い終えた。 「僕、ミセス・ノリスに指一本触れていません!」ハリーは大声で言った。 「それに、僕、スクイブがなんなのかも知りません」 ハリーはみんなの目が、壁のロックハートの写真の目さえが、自分に集まっているのをいやというほど感じていた。 「バカな?」フィルチが歯噛みをした。 「あいつはクイックスペルから来た手紙を見やがった?」 「校長、一言よろしいですかな」 影の中からスネイプの声がした。ハリーの不吉感がつのった。 スネイプは一言もハリーに有利な発言はしないと、ハリーは確信していた。 「ポッターもその仲間も、単に間が悪くその場に居合わせただけかもしれませんな」 自分はそうは思わないとばかりに、スネイプは口元をかすかに歪めて冷笑していた。 「とはいえ、一連の疑わしい状況が存在します。だいたい連中はなぜ三階の廊下にいたのか?なぜ三人はハロウィーンのパーティにいなかったのか?」 ハリー、ロン、ハーマイオニーはいっせいに「絶命日パーティ」の説明を始めた。 「……ゴーストが何百人もいましたから、わたしたちがそこにいたと、証言してくれるでしょう……」 「それでは、そのあとパーティに来なかったのはなぜかね?」 スネイプの暗い目が蝋燭の灯りでギラリと輝いた。 「なぜあそこの廊下に行ったのかね?」 ロンとハーマイオニーがハリーの顔を見た。 「それは−−つまり−−」 ハリーの心臓は早鐘のように鳴った 自分にしか聞こえない姿のない声を追って行ったと答えれば、あまりにも唐突に思われてしまう−−ハリーはとっさにそう感じた。 「僕たち疲れたので、ベッドに行きたかったものですから」ハリーはそう答えた。 「夕食も食べずにか?」 スネイプは頬のこけ落ちた顔に、勝ち誇ったような笑いをちらつかせた。 「ゴーストのパーティで、生きた人間にふさわしい食べ物が出るとは思えんがね」 「僕たち、空腹ではありませんでした」 ロンが大声で言った途端、胃袋がゴロゴロ鳴った。 スネイプはますます底意地の悪い笑いをうかべた。 「校長、ポッターが真っ正直に話しているとは言えないですな。すべてを正直に話してくれる気になるまで、彼の権利を一部取り上げるのがよろしいかと存じます。我輩としては、彼が告白するまでグリフィンドールのクィディッチ・チームからはずすのが適当かと思いますが」 「そうお思いですか、セブルス」マクゴナガル先生が鋭く切り込んだ。 「私には、この子がクィディッチをするのを止める理由が見当たりませんね。この猫は箒の柄で頭を打たれたわけでもありません。ポッターが悪いことをしたという証拠は何一つないのですよ」 ダンプルドアはハリーに探るような目を向けた。 キラキラ輝く明るいブルーの目で見つめられると、ハリーにはまるでレントゲンで映し出されているように感じられた。 「疑わしきは罰せずじゃよ、セブルス」ダンプルドアがきっぱり言った。 スネイプはひどく憤慨し、フィルチもまたそうだった。 「わたしの猫が石にされたんだぞ?刑罰を受けさせなけりや収まらん!」 フィルチの目は飛び出し、声は金切り声だ。 「アーガス、君の猫は治してあげられますぞ」 ダンプルドアが穏やかに言った。 「スプラウト先生が、最近やっとマンドレイクを手に入れられてな。十分に成長したら、すぐにもミセス・ノリスを蘇生させる薬を作らせましょうぞ」 「私がそれをお作りしましょう」 ロックハートが突然口を挟んだ。 「私は何百回作ったかわからないぐらいですよ。『マンドレイク回復薬』なんて、眠ってたって作れます」 「失礼だが」スネイプが冷たく言った。 「この学校では、我輩が魔法薬の教諭ではなかったかね?」 とても気まずい沈黙が流れた。 「帰ってよろしい」ダンプルドアがハリー、ロン、ハーマイオニーに言った。 三人は走りこそしなかったが、その一歩手前の早足で、できるかぎり急いでその場を去った。 ロックハートの部屋の上の階まで上り、誰もいない教室に入ると、そっとドアを閉めた。暗くてよく顔が見えず、ハリーは目を凝らして二人を見た。 「あの声のこと、僕、みんなに話した方がよかったと思う?」 「いや」ロンがきっぱりと言った。 「誰にも聞こえない声が聞こえるのは、魔法界でも狂気の始まりだって思われてる」 ロンの口調が、ハリーにはちょっと気になった。 「君は僕のことを信じてくれてるよね?」 「もちろん、信じてるさ」ロンが急いで言った。 「だけど−−君も、薄気味悪いって思うだろ……」 「たしかに薄気味悪いよ。何もかも気味の悪いことだらけだ。壁になんて書いてあった『部屋は開かれたり』……これ、どういう意味なんだろう?」 「ちょっと待って。なんだか思い出しそう」ロンが考えながら言った。
「誰かがそんな話をしてくれたことがある一ビルだったかもしれない。ホグワーツの秘密の部屋のことだ」 「それに、でき損ないのスクイブっていったい何?」ハリーが聞いた。 何がおかしいのか、ロンはクックッと嘲笑をかみ殺した。 「あのね−−本当はおかしいことじゃないんだけど−−でも、それがフィルチだったもんで……。スクイブっていうのはね、魔法使いの家に生まれたのに魔力を持ってない人のことなんだ。マグルの家に生まれた魔法使いの逆かな。でも、スクイブってめったにいないけどね。もし、フィルチがクイックスペル・コースで魔法の勉強をしようとしてるなら、きっとスクイブだと思うな。これでいろんな謎が解けた。たとえば、どうして彼は生徒たちをあんなに憎んでるか、なんてね」ロンは満足げに笑った。 「妬ましいんだ」 どこかで時計の鐘が鳴った。「午前零時だ」ハリーが言った。 「早くベッドに行かなきゃ。スネイプがやってきて、別なことで僕たちを責めないうちにね」 それから数日、学校中がミセス・ノリスの襲われた話でもちきりだった。 犯人が現場に戻ると考えたのかどうか、フィルチは、猫が襲われた場所を行ったり来たりすることで、みんなの記憶を生々しいものにしていた。 フィルチが壁の文字を消そうと「ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし」でこすっているのをハリーは見かけたが、効果はないようだった。 文字は相変わらず石壁の上にありありと光を放っていた。 犯行現場の見張りをしていないときは、フィルチは血走った目で廊下をほっつき回り、油断している生徒に言いがかりをつけて「音をたてて息をした」とか「嬉しそうだった」とかいう理由で、処罰に持ち込もうとした。 ジニー・ウィーズリーは、ミセス・ノリス事件でひどく心を乱されたようだった。 ロンの話では、ジニーは無類の猫好きらしい。 「でも、ミセス・ノリスの本性を知らないからだよ」ロンはジニーを元気づけようとした。 「はっきり言って、あんなのはいない方がどんなにせいせいするか」 ジニーは唇を震わせた。 「こんなこと、ホグワーツでしょっちゅう起こりはしないから大丈夫」ロンが請け合った。 「あんなことをした変てこりん野郎は、学校があっという間に捕まえて、ここからつまみ出してくれるよ。できれば放り出される前に、ちょいとフィルチを石にしてくれりやいいんだけど。ア、冗談、冗談−−」 ジニーが真っ青になったのでロンが慌てて言った。 事件の後遺症はハーマイオニーにも及んだ。ハーマイオニーが読書に長い時間を費やすのは、今に始まったことではない。 しかし、今や読書以外はほとんど何もしていなかった。 何をしているの、とハリーやロンが話しかけても、ろくすっぽ返事もしてくれなかった。 何をしているのかが、やっと次の水曜日になってわかった。 魔法薬の授業のあと、スネイプはハリーを居残らせて、机に貼りついたフジツボをこそげ落すように言いつけた。 遅くなった昼食を急いで食べ終えると、ハリーは図書館でロンに会おうと階段を上って行った。 ちょうどむこうからやってきた、ハッフルパフ寮のジャスティン・フィンチ・フレッチリーは薬草学で一緒だったことがあるので、ハリーは挨拶をしようと口を開きかけた。 するとハリーの姿に気づいたジャスティンが、急に回れ右して反対の方向へ急ぎ足で行ってしまった。 ロンは図書館の奥の方で、魔法史の宿題の長さを計っていた。 ピンズ先生の宿題は「中世における∃ーロッパ魔法使い会議」について、メートルの長さの作文を書くことだった。 「まさか。まだ二十センチも足りないなんて……」 ロンはぷりぷりして羊皮紙から手を離した。羊皮紙はまたくるりと丸まってしまった。 「ハーマイオニーなんか、もう一メートル四十センチも書いたんだぜ、しかも細かい字で」 「ハーマイオニーはどこ?」 ハリーも巻尺を無造作につかんで、自分の宿題の羊皮紙を広げながら聞いた。 「どっかあの辺だよ」 ロンは書棚のあたりを指差した。 「また別の本を探してる。あいつ、クリスマスまでに図書館中の本を全部読んでしまうつもりじゃないか」 ハリーはロンに、ジャスティン・フィンチ・フレッチリーが逃げて行ったことを話した。 「なんでそんなこと気にするんだい。僕、あいつ、ちょっと間抜けだって思ってたよ」 ロンはできるだけ大きい字で宿題を書きなぐりながら言った。 「だってロックハートが偉大だとか、バカバカしいことを言ってたじゃないか……」 ハーマイオニーが書棚と書棚の間からひょいと現れた。イライラしているようだったが、やっと二人と話す気になったらしい。 「『ホグワーツの歴史』が全部貸し出されてるの」 ハーマイオニーは、ロンとハリーの隣に腰掛けた。 「しかも、あと二週間は予約でいっぱい。わたしのを家に置いてこなけりやよかった。残念。でも、ロックハートの本でいっぱいだったから、トランクに入りきらなかったの」 「どうしてその本が欲しいの?」 ハリーが聞いた。 「みんなが借りたがっている理由と同じよ。『秘密の部屋』の伝説を調べたいの」 「それ、なんなの?」 ハリーは急き込んだ。 「まさに、その疑問よ。それがどうしても思い出せないの」 ハーマイオニーは唇を噛んだ。 「しかも他のどの本にも書いてないの−−」 「ハーマイオニー、君の作文見せて」 ロンが時計を見ながら絶望的な声を出した。 「ダメ。見せられない」 ハーマイオニーは急に厳しくなった。 「提出までに十日もあったじゃない」 「あとたった六センチなんだけどなあ。いいよ、いいよ……」 ベルが鳴った。ロンとハーマイオニーはハリーの先に立って、二人でロゲンカしながら魔法史のクラスに向かった。 魔法史は時間割の中で一番退屈な科目だった。担当のピンズ先生は、ただ一人のゴースト先生で、唯一おもしろいのは、先生が、毎回黒板を通り抜けてクラスに現れることだった。しわしわの骨董品のような先生で、聞くところによれば、自分が死んだことにも気づかなかったらしい。ある日、立ち上がって授業に出かけるとき、生身の体を職員室の暖炉の前の肱掛椅子に、そのまま置き忘れてきたという。それからも、先生の日課はちっとも変わっていないのだ。 今日もいつものように退屈だった。ピンズ先生はノートを開き、中古の電気掃除機のような、一本調子の低い声でブーンブーンと読み上げはじめた。 ほとんどクラス全員が催眠術にかかったようにぼーっとなり、時々、はっと我に返っては、名前とか年号とかのノートをとる間だけ日を覚まし、またすぐ眠りに落ちるのだった。 先生が三十分も読み上げ続けたころ、今まで一度もなかったことが起きた。ハーマイオニーが手を挙げたのだ。ピンズ先生はちょうど一二八九年の国際魔法戦士条約についての、死にそうに退屈な講義の真っ最中だったが、チラッと目を上げ、驚いたように見つめた。「ミス−−あー?」 「グレンジャーです。先生、『秘密の部屋』について何か教えていただけませんか」 ハーマイオニーははっきりした声で言った。 口をポカンと開けて窓の外を眺めていたディーン・トーマスは催眠状態から急に覚醒した。 両腕を枕にしていたラベンダー・ブラウンは頭を持ち上げ、ネビルの肘は机からガクッと滑り落ちた。 ピンズ先生は目をパチクリした。 「わたしがお教えしとるのは魔法史です」 干からびた声で、先生がゼーゼーと言った。 「事実を教えとるのであり、ミス・グレンジャー。神話や伝説ではないんであります」 先生はコホンとチョークが折れるような小さな音をたてて咳払いし、授業を続けた。 「同じ年の九月、サルジニア魔法使いの小委員会で…… 先生はここでつっかえた。ハーマイオニーの手がまた空中で揺れていた。 「ミス・グラント?」 「先生、お願いです。伝説というのは必ず事実に基づいているのではありませんか?」 ピンズ先生はハーマイオニーをじーっと見つめた。 その驚きようときたら、先生のクラスを途中で遮る生徒は、先生が生きている間も死んでからも、ただの一人もいなかったに違いない、とハリーは思った。 「ふむ」 ピンズ先生は考えながら言った。 「然り、そんなふうにも言えましょう。たぶん」 先生はハーマイオニーをまじまじと見た。まるで今まで一度も生徒をまともに見たことがないかのようだった。 「しかしながらです。あなたがおっしゃるところの伝説はといえば、これはまことに人騒がせなものであり、荒唐無稽な話とさえ言えるものであ……?」 しかし、いまやクラス全体がピンズ先生の一言一言に耳を傾けていた。 先生は見るともなくぼんやりと全生徒を見渡した。 どの顔も先生の方を向いている。 こんなに興味を示されることなど、かつてなかった先生が、完全にまごついているのがハリーにはわかった。 「あー、よろしい」先生が噛みしめるように語り出した。 「さて……『秘密の部屋』とは……皆さんも知っての通り、ホグワーツは一千年以上も前−−正確な年号は不明であるからにして−−その当時の、最も偉大なる四人の魔女と魔法使いたちによって、創設されたのであります。創設者の名前にちなみその四つの学寮を、次のように名づけたのであります。すなわち、ゴドリック・グリフィンドール、ヘルガ・ハッフルパフ、ロウエナ・レイブンクロー、そしてサラザール・スリザリン。彼らはマグルの詮索好きな目から遠く離れたこの地に、ともにこの城を築いたのであります。なぜならば、その時代には魔法は一般の人々の恐れるところであり、魔女や魔法使いは多大なる迫害を受けたからであります」 先生はここで一息入れ、漠然とクラス全体を見つめ、それから続きを話しだした。 「数年の間、創設者たちは和気藹々で、魔法力を示した若者たちを探し出しては、この城に誘って教育したのであります。しかしながら、四人の間に意見の相違が出てきた。スリザリンと他の三人との亀裂は広がって行った。スリザリンは、ホグワーツには選別された生徒のみが入学を許されるべきだと考えた。魔法教育は、純粋に魔法族の家系にのみ与えられるべきだという信念を持ち、マグルの親を持つ生徒は学ぶ資格がないと考えて、入学させることを嫌ったのであります。しばらくして、この間題をめぐり、スリザリンとグリフィンドールが激しく言い争い、スリザリンが学校を去ったのであります」 ピンズ先生はここでまたいったん口を閉じた。 口をすぼめると、しわくちゃな年寄り亀のような顔になった。 「信頼できる歴史的資料はここまでしか語ってくれんのであります。しかしこうした真摯な事実が、『秘密の部屋』という空想の伝説により、暖味なものになっておる。スリザリンがこの城に、他の創設者にはまったく知られていない、隠された部屋を作ったという話がある。その伝説によれば、スリザリンは『秘密の部屋』を封印し、この学校に彼の真の継承者が現れるときまで、何人もその部屋を開けることができないようにしたという。その継承者のみが『秘密の部屋』の封印を解き、その中の恐怖を解き放ち、それを用いてこの学校から魔法を学ぶにふさわしからざる者を追放するという」 先生が語り終えると、沈黙が満ちた。 が、いつものピンズ先生の授業につきものの、眠気を誘う沈黙ではなかった。 みんなが先生を見つめ、もっと話してほしいという落ち着かない空気が漂っていた。 ピンズ先生はかすかに困惑した様子を見せた。 「もちろん、すべては戯言であります。当然ながら、そのような部屋の証を求め、最高の学識ある魔女や魔法使いが、何度もこの学校を探索したのでありますが、そのようなものは存在しなかったのであります。だまされやすい者を怖がらせる作り話であります」 ハーマイオニーの手がまた空中に挙がった。 「先生−−『部屋の中の恐怖』というのは具体的にどういうことですか?」 「なんらかの怪物だと信じられており、スリザリンの継承者のみが操ることができるという」 ピンズ先生は干からびた甲高い声で答えた。生徒がこわごわ互いに顔を見合わせた。 「言っておきましょう。そんなものは存在しない」 ピンズ先生がノートをパラパラとめくりながら言った。 「『部屋』などない、したがって怪物はおらん」 「でも、先生」 シェーマス・フィネガンだ。 「もし『部屋』がスリザリンの継承者によってのみ開けられるなら、他の誰も、それを見つけることはできない、そうでしょう?」 「ナンセンス。オッフラハーティ君」 ピンズ先生の声がますます険しくなった。 「歴代のホグワーツ校長、女校長先生方が、何も発見しなかったのだからして−−」 「でも、ピンズ先生」 パーパティ・パチルがキンキン声を出した。 「そこを開けるのには、闇の魔術を使わないといけないのでは−−」 「ミス・ペニーフェザー、闇の魔術を使わないからといって、使えないということにはならない」ピンズ先生がピシャッと言い返した。 「繰り返しではありますが、もしダンプルドアのような方が−−」 「でも、スリザリンと血がつながっていないといけないのでは…?。ですからダンプルドアは」 ディーン・トーマスがそう言いかけたところで、ピンズ先生はもうたくさんだとばかりびしりと打ち切った。 「以上、おしまい。これは神話であります!部屋は存在しない!スリザリンが、部屋どころか、秘密の箒置き場さえ作った形跡はないのであります!こんなバカバカしい作り話をお聞かせしたことを悔やんでおる。よろしければ歴史に戻ることとする。実態のある、信ずるに足る、検証できる事実であるところの歴史に!」 ものの五分もしないうちに、クラス全員がいつもの無気力状態に戻ってしまった。 「サラザール・スリザリンって、狂った変人だってこと、それは知ってたさ」 授業が終わり、夕食前に寮にカバンを置きに行く生徒で、廊下はごった返していたが、人混みを掻き分けながらロンがハリーとハーマイオニーに話しかけた。 「でも、知らなかったなあ、例の純血主義のなんのってスリザリンが言いだしたなんて。僕ならお金をもらったって、そんなやつの寮に入るもんか。はっきり言って、組分け帽子がもし僕をスリザリンに入れてたら、僕、汽車に飛び乗ってまっすぐ家に帰ってたな……」 ハーマイオニーも「そう、そう」と頷いたが、ハリーは何も言わなかった。 胃袋がドスンと落ち込んだような気味の悪さだった。 組分け帽子がハリーをスリザリンに入れることを本気で考えたということを、ハリーはロンにもハーマイオニーにも一度も話していなかった。 一年前、帽子をかぶったとき、ハリーの耳元で聞こえたささやき声を、ハリーは昨日のことのように覚えている。 「君は偉大になれる可能性があるんだよ。そのすべては君の頭の中にある。スリザリンに入ればまちがいなく偉大になる道が開ける……」 しかし、スリザリンが、多くの闇の魔法使いを卒業させたという評判を聞いていたハリーは、心の中で「スリザリンはダメ!」と必死で思い続けていた。 すると帽子が「よろしい、君がそう確信しているなら……むしろグリフィンドール!」と叫んだのだった。 人波に流されて行く途中、コリン・クリーピーがそばを通った。 「やー、ハリー!」 「やぁ、コリン」ハリーは機械的に応えた。 「ハリー、ハリー、僕のクラスの子が言ってたんだけど、君って……」 しかし、コリンは小さ過ぎて、人波に逆らえず、大広間の万に流されて行った。 「あとでね、ハリー!」と叫ぶ声を残してコリンは行ってしまった。 「クラスの子があなたのこと、なんて言ってたのかしら?」 ハーマイオニーがいぶかった。 「僕がスリザリンの継承者だとか言ってたんだろ」 昼食のとき、ジャスティン・フィンチ・フレッチリーが、ハリーから逃げて行った様子を急に思い出して、ハリーはまた数センチ胃が落ち込むような気がした。 「ここの連中ときたら、何でも信じ込むんだから」ロンが吐き捨てるように言った。 混雑も一段落して、三人は楽に次の階段を上ることができた。 「『秘密の部屋』があるって、君、ほんとうにそう思う?」 ロンがハーマイオニーに問いかけた。 「わからないけど」 ハーマイオニーは眉根にシワを寄せた。 「ダンプルドアがミセス・ノリスを治してやれなかった。ということは、わたし考えたんだけど、猫を襲ったのは、もしかしたらウーン−−ヒトじゃないかもしれない」 ハーマイオニーがそう言ったとき、三人はちょうど角を曲がり、ずばりあの事件があった廊下の端に出た。三人は立ち止まって、三人は顔を見合わせた。現場はちょうどあの夜と同じようだった。松明の腕木に硬直した猫がぶら下がっていないことと、壁を背に椅子がぽつんと置かれていることだけがあの夜とは違っている。壁には「秘密の部屋は開かれたり」と書かれたままだ。 「あそこ、フィルチが見張っている所だ」ロンが呟いた。 廊下には人っ子一人いない。三人は顔を見合わせた。 「ちょっと調べたって悪くないだろ」 ハリーはカバンを放り出し、四つん這いになって、何か手掛りはないかと探し回った。 「焼け焦げだ!あっちにも−−こっちにも−−」ハリーが言った。 「来てみて!変だわ」ハーマイオニーが呼んだ。 ハリーは立ち上がって、壁の文字のすぐ脇にある窓に近づいていった。 ハーマイオニーは一番上の窓ガラスを指差している。二十匹あまりのクモが、ガラスの小さな割れ目からガザガザと先を争って這い出そうとしていた。慌てたクモたちが全部一本の綱を上って行ったかのように、クモの糸が長い銀色の綱のように垂れ下がっている。 「クモがあんなふうに行動するのを見たことある?」ハーマイオニーが不思議そうに言った。 「ううん」ハリーが応えた。 「ロン、君は!ロン!」 ハリーが振り返ると、ロンはずっと彼方に立っていて、逃げ出したいのを必死でこらえているようだった。 「どうしたんだい?」ハリーが聞いた。 「僕−−クモが−−好きじゃない」ロンの声が引きつっている。 「まあ、知らなかったわ」ハーマイオニーが驚いたようにロンを見た。 「クモなんてへ魔法薬で何回も使ったじゃない…!」 「死んだやつならかまわないんだ」 ロンは、窓にだけに目を向けないように気をつけながら言った。 「あいつらの動き方がいやなんだ…」 ハーマイオニーがクスクス笑った。 「何がおかしいんだよ」 ロンはむきになった。 「わけを知りたいなら言うけど、僕が三つのとき、フレッドのおもちゃの箒の柄を折ったんで、あいつったら僕の−−僕のテディ・ベアをバカでかい大蜘妹に変えちゃったんだ。考えてもみろよ。いやだぜ。熊のぬいぐるみを抱いてるときに急に脚がニョキニョキ生えてきて、そして…!」 ロンは身震いして言葉を途切らせた。ハーマイオニーはまだ笑いをこらえているのが見え見えだ。 ハリーは話題を変えた方がよさそうだと見て取った。 「ねえ、床の水溜りのこと、覚えてる?あれ、どっから来た水だろう。だれかが拭き取っちゃったけど」 「このあたりだった」 ロンは気を取り直してフィルチの置いた椅子から数歩離れたところまで歩いて行き、床を指差しながら言った。 「このドアのところだった」 ロンは、真鈴の取っ手に手を伸ばしたが、やけどをしたかのように急に手を引っ込めた。 「どうしたの?」 ハリーが聞いた。 「ここは入れない」ロンが困ったように言った。「女子トイレだ」 「あら、ロン。中には誰もいないわよ」ハーマイオニーが立ち上がってやってきた。 「そこ、『嘆きのマートル』の場所だもの。いらっしゃい。覗いてみてみましょう」 「故障中」と大きく書かれた掲示を無視して、ハーマイオニーがドアを開けた。 ハリーは今まで、こんなに陰気で憂鬱なトイレに足を踏み入れたことがなかった。 大きな鏡はひび割れだらけ、しみだらけで、その前にあちこち縁の欠けた石造りの手洗い台が、ずらっと並んでいる。 床は湿っぽく、燭台の中で燃え尽きそうになっている数本の蝋燭が、鈍い灯りを床に映していた。 一つ一つ区切られたトイレの小部屋の木の扉はペンキが剥げ落ち、引っ掻き傷だらけで、そのうちの一枚は蝶番がはずれてぶら下がっていた。 ハーマイオニーはシーッと指を唇に当て、一番奥の小部屋の方に歩いて行き、その前で「こんにちは、マートル。お元気?」と声をかけた。 ハリーとロンも覗きに行った。「嘆きのマートル」は、トイレの水槽の上でふわふわしながら、顎のにきびをつぶしていた。 「ここは女子のトイレよ」マートルはロンとハリーをうさんくさそうに見た。 「この人たち、女じゃないわ」 「ええ、そうね」ハーマイオニーが相槌を打った。 「わたし、この人たちに、ちょっと見せたかったの。つまり−−えーと−−ここが素敵なとこだってね」 ハーマイオニーが古ぼけて薄汚れた鏡や、濡れた床のあたりを漠然と指差した。 「何か見なかったかって、聞いてみて」ハリーがハーマイオニーに耳打ちした。 「なにをこそこそしてるの!」マートルがハリーをじっと見た。 「なんでもないよ。僕たち聞きたいことが……Jハリーが慌てて言った。 「みんな、わたしの陰口を言うのはやめて欲しいの」マートルが涙で声を詰まらせた。 「わたし、たしかに死んでるけど、感情はちゃんとあるのよ」 「マートル、だーれもあなたの気持を傷つけようなんて思ってないわ。ハリーはただ−−」ハーマイオニーが言った。 「傷つけようと思ってないですって!ご冗談でしょう!」マートルが喚いた。 「わたしの生きてる間の人生って、この学校で、悲惨そのものだった。今度はみんなが、死んだわたしの人生を台無しにしにやってくるのよ!」 「あなたが近ごろ何かおかしなものを見なかったかどうか、それを聞きたかったの」ハーマイオニーが急いで聞いた。 「ちょうどあなたの玄関のドアの外で、ハロウィーンの日に、猫が襲われたものだから」 「あの夜、このあたりで誰か見かけなかった?」ハリーも聞いた。 「そんなこと、気にしていられなかったわ」マートルは興奮気味に言った。 「ビープズがあんまりひどいものだから、わたし、ここに入り込んでCENSOREDしようとしたの。そしたら、当然だけど、急に思い出したの。わたしって−−わたしって−−」 「もう死んでた」ロンが助け舟を出した。 マートルは悲劇的なすすり泣きとともに空中に飛び上がり、向きを変えて、真っ逆さまに便器の中に飛び込んだ。 三人に水飛沫を浴びせ、マートルは姿を消したが、くぐもったすすり泣きの聞こえてくる方向からして、トイレのU字溝のどこかでじっとしているらしい。 ハリーとロンは口をポカンと開けて突っ立っていたが、ハーマイオニーはやれやれという仕種をしながらこう言った。 「まったく、あれでもマートルにしては機嫌がいい方なのよ……さあ、出ましょうか」 マートルのゴボゴボというすすり泣きを背に、ハリーがトイレのドアを閉めるか閉めないかするうちに、大きな声が聞こえて、三人は飛び上がった。 「ロン!」 階段のてっぺんでパーシー・ウィーズリーがピタッと立ち止まっていた。監督生のバッジをきらめかせ、徹底的に衝撃を受けた表情だった。 「そこは女子トイレだ!」パーシーが息を呑んだ。 「君たち男子が、いったい何を!−−」 「ちょっと探してただけだよ」ロンが肩をすぼめて、なんでもないという身ぶりをした。 「ほら、手掛かりをね……」パーシーは体を膨らませた。 ハリーはそれがウィーズリーおばさんそっくりだと思った。 「そこ−−から−−とっとと−−離れるんだ」 パーシーは大股で近づいてきて、腕を振って三人をそこから追い立てはじめた。 「人が見たらどう思うかわからないのか?みんなが夕食の席についているのに、またここに戻ってくるなんて……」 「なんで僕たちがここにいちゃいけないんだよ」ロンが熱くなった。 急に立ち止まり、パーシーをにらみつけた。 「いいかい。僕たち、あの猫に指一本触れてないんだぞ!」 「僕もジニーにそう言ってやったよ」パーシーも語気を強めた。 「だけど、あの子は、それでも君たちが退学処分になると思ってる。あんなに心を痛めて、目を泣き腫らしてるジニーを見るのは初めてだ。少しはあの子のことも考えてやれ。1年生はみんな、この事件で神経をすり減らしてるんだ−−」 「兄さんはジニーのことを心配してるんじゃない」ロンの耳が今や真っ赤になりつつあった。 「兄さんが心配してるのは、首席になるチャンスを、僕が台無しにするってことなんだ」 「グリフィンドール、五点減点!」 パーシーは監督生バッジを指でいじりながらパシッと言った。 「これでおまえにはいい薬になるだろう。探偵ごっこはもうやめにしろ。さもないとママに手紙を書くぞ!」 パーシーは大股で歩き去ったが、その首筋はロンの耳に負けず劣らず真っ赤だった。 その夜、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は、談話室でできるだけパーシーから離れた場所を選んだ。 ロンはまだ機嫌が直らず、「妖精の魔法」の宿題にインクのしみばかり作っていた。 インクじみを拭おうとロンが何気なく杖に手を伸ばしたとき、杖が発火して羊皮紙が燃えだした。 ロンも宿題と同じぐらいにカッカと熟くなり、「標準呪文集・二学年用」をバタンと閉じてしまった。 驚いたことに、ハーマイオニーもロンに「右倣え」をした。 「だけどいったい何者かしら?」 ハーマイオニーの声は落ち着いていた。まるでそれまでの会話の続きのように自然だった。 「でき損ないのスクイブやマグル出身の子をホグワーツから追い出したいと願ってるのは……誰」 「それでは考えてみましょう」ロンはわざと頭をひねって見せた。 「我々の知っている人の中で、マグル生まれはくずだ!と思っている人物は誰でしょう?」 ロンはハーマイオニーの顔を見た。ハーマイオニーは、まさか、という顔でロンを見返した。 「もしかして、あなた、マルフォイのことを言ってるの?」 「モチのロンさ!」ロンが言った。 「あいつが言ったこと聞いたろう!『次はおまえたちだぞ、『穢れた血』め!』って。しっかりしろよ。あいつの腐ったねずみ顔を見ただけで、あいつだってわかりそうなもんだろ」 「マルフォイが、スリザリンの継承者!」 ハーマイオニーが、それは疑わしいという顔をした。 「あいつの家族を見てくれよ」ハリーも教科書をパタンと閉じた。 「あの家系は全部スリザリン出身だ。あいつ、いつもそれを自慢してる。あいつらならスリザリンの末商だっておかしくはない。あいつの父親もどこから見ても悪玉だよ」 「あいつらなら、何世紀も『秘密の部屋』の鍵を預かっていたかもしれない。親から子へ代々伝えて……」ロンが言った。 「そうね」ハーマイオニーは慎重だ。 「その可能性はあると思うわ……」 「でも、どうやって証明する!」ハリーの顔が曇った。 「方法がないことはないわ」ハーマイオニーは考えながら話した。 そして、いっそう声を落とし、部屋のむこうにいるパーシーを盗み見ながら言った。 「もちろん、難しいの。それに危険だわ。とっても。学校の規則をざっと五十は破ることになるわね」 「あと一カ月ぐらいして、もし君が説明してもいいというお気持におなりになったら、そのときは僕たちにご連絡くださいませ、だ」ロンはイライラしていた。 「承知しました、だ」ハーマイオニーが冷たく言った。 「何をやらなければならないかというとね、わたしたちがスリザリンの談話室に入り込んで、マルフォイに正体を気づかれずに、いくつか質問することなのよ」 「だけど、不可能だよ」ハリーが言った。ロンは笑った。 「いいえ、そんなことないわ」ハーマイオニーが言った。 「ポリジュース薬が少し必要なだけよ」 「それ、なに?」ロンとハリーが同時に聞いた。 「数週間前、スネイプがクラスで話してた−−」 「魔法薬の授業中に、僕たち、スネイプの話を闘いてると思ってるの?もっとましなことをやってるよ」 ロンがぶつぶつ言った。 「自分以外の誰かに変身できる薬なの。考えてもみてよく。わたしたち三人で、スリザリンの誰か三人に変身するの。誰もわたしたちの正体を知らない。マルフォイはたぶん、なんでも話してくれるわ。今ごろ、スリザリン寮の談話室で、マルフォイがその自慢話の真っ最中かもしれない。それさえ開ければ」 「そのポリジュースなんとかって、少し危なっかしいな」ロンがしかめっ面をした 「もし、元に戻れなくて、永久にスリザリンの誰か三人の姿のままだったらどうする?」 「しばらくすると効き目は切れるの」ハーマイオニーがもどかしげに手を振った。 「むしろ材料を手に入れるのがとっても難しい。『最も強力な薬』という本にそれが書いてあるって、スネイプがそう言ってたわ。その本、きっと図書館の『禁書』の棚にあるはずだわ」 「禁書」の棚の本を持ち出す方法はたった一つ、先生のサイン入りの許可証をもらうことだった。 「でも、薬を作るつもりはないけど、そんな本が読みたいって言ったら、そりゃ変だって思われるだろう?」ロンが言った。 「たぶん」ハーマイオニーはかまわず続けた。 「理論的な興味だけなんだって思い込ませれば、もしかしたらうまくいくかも……」 「なーに言ってるんだか。先生だってそんなに甘くないぜ」ロンが言った。 「−−でも……だまされるとしたら、よっぽど鈍い先生だな……」
ピクシー小妖精の悲惨な事件以来、ロックハート先生は教室に生物を持ってこなくなった。 そのかわり、自分の著書を拾い読みし、ときには、その中でも劇的な場面を演じて見せた。 現場を再現するとき、たいていハリーを指名して自分の相手役を務めさせた。 ハリーがこれまで無理やり演じさせられた役は、「おしゃべりの呪い」を解いてもらったトランシルバニアの田舎っぺ、鼻かぜをひいた雪男、ロックハートにやっつけられてからレタスしか食べなくなった吸血鬼などだった。 今日の「闇の魔術に対する防衛術」のクラスでも、ハリーはまたもやみんなの前に引っ張り出され、狼男をやらされることになった。 今日はロックハートを上機嫌にしておかなければならないという、ちゃんとした理由があった。 そうでなければ、ハリーはこんな役は断るところだった。 「ハリー。大きく吼えて−−そう、そう−−そしてですね、信じられないかもしれないが、私は飛びかかった−−こんなふうに−−相手を床に叩きつけた−−こうして−−片手でなんとか押さえつけ、もう一方の手で杖を喉元に突きつけ−−それから残った力を振り綴って非常に複雑な『異形戻しの術』をかけた−−敵は哀れなうめき声をあげ−−ハリー、さあうめいてーもっと高い声で−−そう−−毛が抜け落ち−−牙は縮み−−そいつはヒトの姿に戻った。簡単だが効果的だ−−こうして、その村も、満月のたびに狼男に襲われる恐怖から救われ、私を永久に英雄と称えることになったわけです」 終業のベルが鳴り、ロックハートは立ち上がった。 「宿題。ワガワガの狼男が私に敗北したことについての詩を書くこと!一番よく書けた生徒にはサイン入りの『私はマジックだ』を進呈!」 みんなが教室から出て行きはじめた。 ハリーは教室の一番後ろに戻り、そこで待機していたロン、ハーマイオニーと一緒になった。 「用意は!」ハリーが呟いた。 「みんないなくなるまで待つのよ」ハーマイオニーは神経をピリピリさせていた。 「いいわ……」 ハーマイオニーは紙切れを一枚しっかり握りしめ、ロックハートのデスクに近づいていった。ハリーとロンがすぐあとからついて行った。 「あの−−ロックハート先生!」ハーマイオニーは口ごもった。 「わたし、あの−−図書館からこの本を借りたいんです。参考に読むだけです」 ハーマイオニーは紙を差し出した。かすかに手が震えている。 「問題は、これが『禁書』の棚にあって、それで、どなたか先生にサインをいただかないといけないんです−−先生の『グールお化けとのクールな散策』に出てくる、ゆっくり効く毒薬を理解するのに、きっと役に立つと思います……」 「ああ、『グールお化けとのクールな散策』ね!」ロックハートは紙を受け取り、ハーマイオニーにニッコリと笑いかけながら言った。 「私の一番のお気に入りの本と言えるかもしれない。おもしろかった?」 「はい。先生」ハーマイオニーが熟を込めて答えた。 「ほんとうにすばらしいわ。先生が最後のグールを、茶漉しで引っ掛けるやり方なんて……」 「そうね、学年の最優秀生をちょっと応援してあげても、誰も文句は言わないでしょう」 ロックハートはにこやかにそう言うと、とてつもなく大きい孔雀の羽ペンを取り出した。 「どうです。素敵でしょう!」 ロンのあきれ返った顔をどう勘違いしたか、ロックハートはそう言った。 「これは、いつもは本のサイン用なんですがね」 とてつもなく大きい丸文字ですらすらとサインをし、ロックハートはそれをハーマイオニーに返した。 ハーマイオニーがもたもたしながらそれを丸め、カバンに滑り込ませている間、ロックハートがハリーに話しかけた。 「で、ハリー。明日はシーズン最初のクィディッチ試合だね!グリフィンドール対スリザリン。そうでしょう?君はなかなか役に立つ選手だって聞いてるよ。私もシーカーだった。ショナル・チームに入らないかと誘いも受けたのですがね。闇の魔力を根絶することに生涯を捧げる生き方を選んだんですよ。しかし、軽い個人訓練を必要とすることがあったら、ご遠慮なくね。いつでも喜んで、私より能力の劣る選手に経験を伝接しますよ……」 ハリーは喉からあいまいな音を出し、急いでロンやハーマイオニーのあとを追った。 「信じられないよ」三人でサインを確認しながら、ハリーが言った。 「僕たちが何の本を借りるのか、見もしなかったよ」 「そりゃ、あいつ、能無しだもの。どうでもいいけど。僕たちは欲しいものを手に入れたんだし」ロンが言った。 「能無しなんかじゃないわ」図書館に向かって半分走りながら、ハーマイオニーが抗議した。 「君が学年で最優秀の生徒だって、あいつがそう言ったからね……」 図書館の押し殺したような静けさの中で、三人とも声をひそめた。 司書のマダム・ピンスは痩せて怒りっぽい人で、飢えたハゲタカのようだった。 「『最も強力な魔法薬』!」マダム・ピンスは疑わしげにもう一度聞き返し、許可証をハーマイオニーから受け取ろうとした。 しかし、ハーマイオニーは離さない。 「これ、わたしが持っていてもいいでしょうか」息をはずませ、ハーマイオニーが頼んだ。 「やめろよ」ハーマイオニーがしっかりつかんだ紙を、ロンがむしり取ってマダム・ピンスに差し出した。 「サインならまたもらってあげるよ。ロックハートときたら、サインする間だけ動かないでじっとしてる物なら、なんにでもサインするよ」 マダム・ピンスは、偽物なら何がなんでも見破ってやるというように、紙を明りに透かして見た。 しかし、検査は無事通過だった。 見上げるような書棚の間を、マダム・ピンスはツンとして閥歩し、数分後には大きな黴くさそうな本を持ってきた。 ハーマイオニーが大切そうにそれをカバンに入れ、三人はあまり慌てた歩き方に見えないよう、うしろめたそうに見えないよう気をつけながら、その場を離れた。 五分後、三人は「嘆きのマートル」の「故障中」のトイレに再び立てこもっていた。 ハーマイオニーがロンの異議を却下したのだ−−まともな神経の人はこんなところには絶対来ない。だからわたしたちのプライバシーが保証される−−というのが理由だった。 「嘆きのマートル」は自分の小部屋でうるさく泣き喚いていたが、三人はマートルを無視したし、マートルも三人を無視した。 ハーマイオニーは「最も強力な魔法薬」を大事そうに開き、湿ってしみだらけのページに三人が覆い被さるようにして覗き込んだ。 チラッと見ただけでも、なぜこれが「禁書」棚行きなのか明らかだった。 身の毛のよだつような結果をもたらす魔法薬がいくつかあったし、気特が悪くなるような挿絵も描いてある。 たとえば体の内側と外側が引っくり返ったヒトの絵とか、頭から腕が数本生えている魔女の絵とかがあった。 「あったわ」ハーマイオニーが興奮した顔で「ポリジュース薬」という題のついたページを指した。 そこには他人に変身していく途中のイラストがあった。挿絵の表情がとても痛そうだった。 画家がそんなふうに想僕しただけでありますように、とハリーは心から願った。 「こんなに複雑な魔法薬は、初めてお目にかかるわ」 三人で薬の材料にざっと目を通しながら、ハーマイオニーが言った 「クサカゲロウ、ヒル、満月草にニワヤナギ」ハーマイオニーは材料のリストを指で追いながらぶつぶつ独り言を言った。 「ウン、こんなのは簡単ね。生徒用の材料棚にあるから、自分で勝手に取れるわ。二角獣(パイコーン)の角の粉末−−これ、どこで手に入れたらいいかわからないわ……毒ツルヘビの皮の千切り−−これも難しいわね−−それに、当然だけど、変身したい相手の1部」 「なんだって!」ロンが鋭く聞いた。 「どういう意味?変身したい相手の1部って。僕クラップの足の爪なんか入ってたら、絶対飲まないからね」 ハーマイオニーはなんにも聞こえなかったかのように話し続けた。 「でも、それはまだ心配する必要はないわ。最後に入れればいいんだから……」 ロンは絶句してハリーの方を見たが、ハリーは別なことを心配していた。 「ハーマイオニー、どんなにいろいろ盗まなきゃならないか、わかってる?毒ツルヘビの皮の千切りなんて、生徒用の棚には絶対にあるはずないし。どうするの?スネイプの個人用の保管倉庫に盗みに入るの?うまくいかないような気がする……」 ハーマイオニーは本をピシャッと閉じた。 「そう。二人ともおじけづいて、やめるって言うなら、結構よ」ハーマイオニーの頬はパーッと赤みが差し、目はいつもよりキラキラしている。 「わたしは規則を破りたくはない。わかってるでしょう。だけどマグル生まれの者を脅迫するなんて、ややこしい魔法薬を密造することよりずーっと悪いことだと思うの。でも、二人ともマルフォイがやってるのかどうか知りたくないっていうんなら、これからまっすぐマダム・ピンスのところへ行ってこの本をお返ししてくるわ!」 「僕たちに規則を破れって、君が説教する日が来ようとは思わなかったぜ」 ロンが言った。 「わかった。やるよ。だけど、足の爪だけは勘弁してくれ。いいかい?」 「でも、造るのにどのぐらいかかるの?」 ハーマイオニーが機嫌を直してまた本を開いたところで、ハリーが尋ねた。 「そうね。満月草は満月のときに摘まなきやならないし、クサカゲロウは二十一日間煎じる必要があるから……そう、材料が全部手に入れば、だいたい一カ月ででき上がると思うわ」 「一カ月も!マルフォイはその間に学校中のマグル生まれの半分を襲ってしまうよ!」 しかし、ハーマイオニーの目がまた吊り上がって険悪になってきたので、ロンは慌ててつけ足した。 「でも−−今のとこ、それがベストの計画だな。全速前進だ」 ところが、トイレを出るとき、ハーマイオニーが誰もいないことを確かめている間、ロンはハリーにささやいた。 「あした、君がマルフォイを箒から叩き落としゃ、ずっと手間が省けるぜ」 土曜日の朝、ハリーは早々と目が覚めて、しばらく横になったまま、これからのクィディッチ試合のことを考えていた。
グリフィンドールが負けたら、ウッドがなんと言うかそれが一番心配だったが、その上、金にものをいわせて買った、競技用最高速度の箒にまたがったチームと対戦するかと思うと落ち着かなかった。 スリザリンを負かしてやりたいと、今ほど強く願ったことはなかった。 腸が捻れるような思いで小一時間横になっていたが、起きだし、服を着て早めの朝食に下りていった。 グリフィンドール・チームの他の選手もすでに来ていて、他には誰もいない長テーブルに固まって座っていた。 みんな緊張した面持ちで、口数も少なかった。 十一時が近づき、学校中がクィディッチ競技場へと向かいはじめた。 なんだか蒸し暑く、雷でも来そうな気配が漂っていた。ハリーが更衣室に入ろうとすると、ロンとハーマイオニーが急いでやってきて「幸運を祈る」と元気づけた。 選手はグリフィンドールの真紅のユニフォームに着替え、座って、お定まりのウッドの激励演説を聞いた。 「スリザリンには我々より優れた箒がある」ウッドの第一声だ。 「それは、否定すべくもない。しかしだ、我々の箒にはより優れた乗り手がいる。我々は敵より厳しい訓練をしてきた。我々はどんな天候でも空を飛んだ−−」 (「まったくだ」ジョージ・ウィーズリーが呟いた。「八月からずっと、俺なんかちゃんと乾いてたためしがないぜ」) 「−−そして、あの小賢しいねちねち野郎のマルフォイが、金の力でチームに入るのを許したその日を、連中に後悔させてやるんだ」 感極まって胸を波打たせながら、ウッドはハリーの方を向いた。 「ハリー、君次第だぞ。シーカーの資格は、金持ちの父親だけではダメなんだと、目にもの見せてやれ。マルフォイより先にスニッチをつかめ。然らずんば死あるのみだ、ハリー。なぜならば、我々は今日は勝たねばならないのだ。何がなんでも」 「だからこそ、プレッシャーを感じるなよ、ハリー」フレッドがハリーにウィンクした。 グリフィンドール選手がグラウンドに入場すると、ワーッというどよめきが起こった。 ほとんどが声援だった。 レイブンクローもハッフルパフもスリザリンが負けるところを見たくてたまらないのだ。 それでもその群衆の中から、スリザリン生のブーイングや野次もしっかり聞こえた。 クィディッチを教えるマダム・フーチが、フリントとウッドに握手するよう指示した。 二人は握手したが互いに威嚇するようににらみ合い、必要以上に固く相手の手を握りしめた。 「笛が鳴ったら開始」マダム・フーチが合図した。 「いち−−に−−さん」 観客のワーッという声に煽られるように、十四人の選手が鉛色の空に高々と飛翔した。 ハリーは誰よりも高く舞い上がり、スニッチを探して四方に目を凝らした。 「調子はどうだい?傷モノ君」 マルフォイが箒のスピードを見せつけるように、ハリーのすぐ下を飛び去りながら叫んだ。 ハリーは答える余裕がなかった。ちょうどその瞬間、真っ黒の重いブラッジャーがハリーめがけて突進してきたからだ。 間一髪でかわしたが、ハリーの髪が逆立つほど近くをかすめた。 「危なかったな!ハリー」ジョージが棍棒を手に、ハリーのそばを猛スピードで通り過ぎ、ブラッジャーをスリザリンめがけて打ち返そうとした。 ジョージがエイドリアン・ビューシーめがけて強烈にガツンとブラッジャーを叩くのを、ハリーは見ていた。しところが、ブラッジャーは途中で向きを変え、またしてもハリーめがけてまっしぐらに飛んできた。 ハリーはひょいと急降下してかわし、ジョージがそれをマルフォイめがけて強打した。 ところが、ブラッジャーはブーメランのように曲線を描き、ハリーの頭を狙い撃ちしてきた。 ハリーはスピード全開で、グラウンドの反対側めがけてビュンビュン飛んだ。 ブラッジャーがあとを追って、ビュービュー飛んでくる音が、ハリーの耳に入った。 −−いったいどうなってるんだろう?ブラッジャーがこんなふうに一人の選手だけを狙うなんてことはなかった。 なるべくたくさんの選手を振り落とすのがブラッジャーの役目のはずなのに……。 グラウンドの反対側でフレッド・ウィーズリーが待ち構えていた。フレッドが力まかせにブラッジャーをかっ飛ばした。 それにぶつからないよう、ハリーは身をかわし、ブラッジャーは逸れていった。 「やっつけたぞ!」 フレッドが満足げに叫んだ。が、そうではなかった。まるでハリーに磁力で引きつけられたかのように、ブラッジャーはまたもやハリーめがけて突進してくる。しかたなくハリーは全速力でそこから離れた。 雨が降り出した。 大粒の雨がハリーの顔に降りかかり、メガネをピシャピシャと打った。 ゲームそのものはどうなっているのか、ハリーにはさっぱりわからなかったが、解説者のリー・ジョーダンの声が聞こえてきた。 「スリザリン、リードです。六〇対〇。」 スリザリンの高級箒の力が明らかに発揮されていた。 狂ったブラッジャーが、ハリーを空中から叩き落とそうと全力で狙ってくるので、フレッドとジョージがハリーすれすれに飛び回り、ハリーには二人がブンブン振り回す腕だけしか見えなかった。スニッチを捕まえるどころか、探すこともできない。 「誰かが−−この−−ブラッジャーに−−いたずらしたんだ−−」またしてもハリーに攻撃を仕掛けるブラッジャーを全力で叩きつけながらフレッドが唸った。 「タイムアウトが必要だ」 ジョージは、ウッドにサインを送りながら、同時にハリーの鼻をへし折ろうとするブラッジャーを食い止めようとした。 ウッドはサインを理解したらしい。マダム・フーチのホイッスルが鳴り響き、ハリー、フレッド、ジョージの三人は、狂ったプラッジャーを避けながら地面に急降下した。 「何をやってるんだ?」 観衆のスリザリン生がヤジる中、グリフィンドール選手が集まり、ウッドが詰問した。 「ポロ負けしてるんだぞ。フレッド、ジョージ、アンジェリーナがブラッジャーに邪魔されてゴールを決められなかったんだ。あのときどこにいたんだ!」 「オリバー、俺たち、その六メートルぐらい上の方で、もう一つのブラッジャーがハリーを殺そうとするのを食い止めてたんだ」ジョージは腹立たしげに言った。 「誰かが細工したんだ−−ハリーにつきまとって離れない。ゲームが始まってからずっとハリー以外は狙わないんだ。スリザリンのやつら、ブラッジャーに何か仕掛けたに違いない」 「しかし、最後の練習のあと、ブラッジャーはマダム・フーチの部屋に、鍵をかけてずっと仕舞ったままだった。練習のときは何も変じゃなかったぜ……」ウッドは心配そうに言った。 マダム・フーチがこっちへ向かって歩いてくる。 その肩越しに、ハリーはスリザリン・チームが自分の方を指差してヤジっているのを見た。 「聞いてくれ」マダム・フーチがだんだん近づいてくるので、ハリーが意見を述べた。 「君たち二人が、ずっと僕の周りを飛び回っていたんじゃ、僕の袖の中にでも、むこうから飛び込んでくれないかぎり、スニッチを捕まえるのは無理だよ。だから、二人とも他の選手のところに戻ってくれ。あの狂ったブラッジャーは僕に任せてくれ」 「バカ言うな」フレッドが言った。 「頭を吹っ飛ばされるぞ」 ウッドはハリーとウィーズリー兄弟とを交互に見た。 「オリバー、そんなの正気の沙汰じゃないわ」アリシア・スピネットが怒った。 「ハリー一人にあれを任せるなんてダメよ。調査を依頼しましょうよ−−」 「今中止したら、没収試合になる!」ハリーが叫んだ。 「たかが狂ったブラッジャー一個のせいで、スリザリンに負けられるか!オリバー、さあ、僕をほっとくように、あの二人に言ってくれ!」 「オリバー、すべて君のせいだぞ。『スニッチをつかめ。然らずんば死あるのみ』−−そんなバカなことをハリーに言うからだ!」ジョージが怒った。 マダム・フーチがやってきた。 「試合再開できるの?」ウッドに聞いた。 ウッドはハリーの決然とした表情を見た。 「よーし」ウッドが言った。 「フレッド、ジョージ。ハリーの言ったことを聞いただろう−−ハリーをほっとけ。あのブラッジャーは彼一人に任せろ」
雨はますます激しくなっていた。マダム・フーチのホイッスルで、ハリーは強く地面を蹴り、空に舞い上がった。あのブラッジャーが、はっきりそれとわかるビュービューという音をたてながらあとを追ってくる。 高く、高く、ハリーは昇っていった。輪を描き、急降下し、螺旋、ジグザグ、回転と、ハリーは少しクラクラした。 しかし、目だけは大きく見開いていた。雨がメガネを点々と濡らした。 またしても激しく上から突っ込んでくるブラッジャーを避けるため、ハリーは箒から逆さにぶら下がった。 鼻の穴に、雨が流れ込んだ。観衆が笑っているのが聞こえる−−バカみたいに見えるのはわかってる−−しかし、狂ったブラッジャーは重いので、ハリーほどすばやく方向転換ができない。ハリーは競技場の縁に沿ってジェットコースターのような動きをしはじめた。 目を凝らし、銀色の雨のカーテンを透かしてグリフィンドールのゴールを見ると、エイドリアン・ビューシーがゴールキーパーのウッドを抜いて得点しようとしていた……。 ハリーの耳元でヒュッという音がして、またブラッジャーがかすった。ハリーはくるりと向きを変え、ブラッジャーと反対方向に疾走した。 「バレエの練習かい!ポッター」ブラッジャーをかわすのに、ハリーが空中でクルクルとバカげた動きをしているのを見て、マルフォイが叫んだ。ハリーは逃げ、ブラッジャーは、そのすぐあとを追跡した。 憎らしいマルフォイの方をにらむように振り返ったハリーは、そのとき、見た!金色のスニッチを。 マルフォイの左耳のわずかに上の方を漂っている−−マルフォイは、ハリーを笑うのに気を取られて、まだ気づいていない。 スピードを上げてマルフォイの方に飛びたい。それができない。 マルフォイが上を見てスニチを見つけてしまうかもしれないから。幸い一瞬だ。ハリーは空中で立ち往生した。 バシッ! ほんの一秒のスキだ。ブラッジャーがついにハリーを捉え、肘を強打した。ハリーは腕が折れたのを感じた。 燃えるような腕の痛みでぼーっとしながら、ハリーはずぶ濡れの箒の上で、横様に滑った。 使えなくなった右腕をダランとぶら下げ、片足の膝だけで箒に引っかかっている。ブラッジャーが二度目の攻撃に突進してきた。 今度は顔を狙っている。ハリーはそれをかわした。 意識が薄れる中で、たった一つのことだけが脳に焼きついていた−−マルフォイのところへ行け。 雨と痛みですべてが霞む中、ハリーは、下のほうにチラッチラッと見え隠れするマルフォイのあざ笑うような顔に向かって急降下した。 ハリーが襲ってくると思ったのだろう−−マルフォイの目が恐怖で大きく見開かれるのが見えた。 「い、いったい−−」 マルフォイは息を呑み、ハリーの行く手を避けて疾走した。 ハリーは折れていない方の手を箒から放し、激しく空を掻いた。指が冷たいスニッチを握りしめるのを感じた。 もはや脚だけで箒を挟み、気を失うまいと必死にこらえながら、ハリーはまっしぐらに地面に向かって突っ込んだ。 下の観衆から叫び声があがった。バシャッと跳ねを上げて、ハリーは泥の中に落ちた。 そして箒から転がり落ちた。腕が不自然な方向にぶら下がっている。 痛みと疼きの中で、ワーワーというどよめきや口笛が、遠くの音のように聞こえた。やられなかった方の手にしっかりと握ったスニッチに、ハリーは全神経を集中した。 「鳴呼」ハリーはかすかに言葉を発した。 「勝った」−−そして、気を失った。
顔に雨がかかり、ふと気がつくと、まだグラウンドに横たわったままだった、誰かが上から覗き込んでいる。 輝くような歯だ。 「やめてくれ。よりによって」ハリーがうめいた。 「自分の言っていることがわかってないのだ」 心配そうにハリーを取り囲んでいるグリフィンドール生に向かって、ロックハートが高らかに言った。 「ハリー、心配するな。私が君の腕を治してやろう」 「やめて!」ハリーが言った。 「僕、腕をこのままにしておきたい。かまわないで……」 ハリーは上半身を起こそうとしたが、激痛が走った。 すぐそばで聞き覚えのある「カシャッ」という音が聞こえた。 「コリン、こんな写真は撮らないでくれ」ハリーは大声をあげた。 「横になって、ハリー」ロックハートがあやすように言った。 「この私が、数え切れないほど使ったことがある簡単な魔法だからね」 「僕、医務室に行かせてもらえませんか!」ハリーが歯を食いしばりながら頼んだ。 「先生、そうするべきです」 泥んこのウッドが言った。 チームのシーカーが怪我をしているというのに、ウッドはどうしてもニコニコ顔を隠せないでいる。 「ハリー、ものすごいキャッチだった。すばらしいの一言だ。君の自己ベストだ。ウン」 周りに立ち並んだ脚のむこうに、フレッドとジョージが見えた。 狂ったブラッジャーを箱に押し込めようと格闘している。ブラッジャーはまだがむしゃらに戦っていた。「みんな、下がって」ロックハートが薪翠色の袖をたくし上げながら言った。 「やめて−−ダメ……」 ハリーが弱々しい声をあげたが、ロックハートは杖を振り回し、次の瞬間それをまっすぐハリーの腕に向けた。 奇妙な気持の悪い感覚が、肩から始まり、指先までずーっと広がっていった。 まるで腕がぺしゃんこになったような感じがした。 何が起こったのか、ハリーはとても見る気がしなかった。ハリーは目を閉じ、腕から顔をそむけた。 ハリーの予想した最悪の事態が起こったらしい。 覗き込んだ人たちが息を呑み、コリン・クリービーが狂ったようにシャッターを切る音でわかる。 腕はもう痛みはしなかった−−しかし、もはやとうてい腕とは思えない感覚だった。 「あっ」ロックハートの声だ。 「そう。まあね。時にはこんなことも起こりますね。でも、要するにもう骨は折れていない。それが肝心だ。それじゃ、ハリー、医務室まで気をつけて歩いて行きなさい。−−あっ、ウィーズリー君、ミス・グレンジャー、付き添って行ってくれないかね!−−マダム・ポンフリーが、その−−少し君を−−あー−−きちんとしてくれるでしょう」 ハリーが立ち上がったとき、なんだか体が傾いているような気がした。深呼吸して、体の右半分を見下ろした途端に、ハリーはまた失神しそうになった。 ローブの端から突き出していたのは、肌色の分厚いゴムの手袋のようなものだった。指を動かしてみた。ぴくりとも動かない。 ロックハートはハリーの腕の骨を治したのではない。骨を抜き取ってしまったのだ。 マダム・ポンフリーはおかんむりだった。 「まっすぐにわたしのところに来るべきでした!」 マダム・ポンフリーは憤慨して、三十分前まではれっきとした腕、そして今や哀れな骨抜きの腕の残骸を持ち上げた。 「骨折ならあっという間に治せますが−−骨を元通りに生やすとなると……」 「先生、できますよね?」ハリーはすがる思いだった。 「もちろん、できますとも。でも、痛いですよ」 マダム・ポンフリーは恐い顔でそう言うと、パジャマをハリーの方に放ってよこした。 「今夜はここに泊まらないと……」 ハリーがロンの手を借りてパジャマに着替える間、ハーマイオニー、はベッドの周りに張られたカーテンの外で待った。 骨なしのゴムのような腕を袖に通すのに、かなり時間がかかった。 「ハーマイオニー、これでもロックハートの肩を持つっていうの?ねぇ?」 ハリーの萎えた指を袖口から引っ取り出しながら、ロンがカーテン越しに話しかけた。 「頼みもしないのに骨抜きにしてくれるなんて」 「誰にだって、まちがいはあるわ。それに、もう痛みはないんでしょう?ハリー?」 「ああ」ハリーが答えた。 「痛みもないけど、おまけになんにも感じないよ」 ハリーがベッドに飛び乗ると、腕は勝手な方向にパタパタはためいた。 カーテンのむこうからハーマイオニーとマダム・ポンフリーが現れた。 マダム・ポンフリーは「骨生え薬のスケレ・グロ」とラベルの貼ってある大きな瓶を手にしている。 「今夜は辛いですよ」ビーカーになみなみと湯気の立つ薬を注ぎ、ハリーにそれを渡しながら、マダム・ポンフリーが言った。 「骨を再生するのは荒療治です」 スケレ・グロを飲むことがすでに荒療治だった。 一口飲むと口の中も喉も焼けつくようで、ハリーは咳込んだり、むせたりした。 マダム・ポンフリーは、「あんな危険なスポーツ」とか、「能無しの先生」とか、文句を言いながら出て行き、ロンとハーマイオニーが残って、ハーマイオニーはハリーが水を飲むのを手伝った。 「とにかく、僕たちは勝った」ロンは顔中をほころばせた。 「ものすごいキャッチだったなあ。マルフォイのあの顔……CENSOREDやる!って顔だったな」 「あのブラッジャーに、マルフォイがどうやって仕掛けをしたのか知りたいわ」 ハーマイオニーが恨みがましい顔をした。 「質問リストに加えておけばいいよ。ポリジュース薬を飲んでからあいつに聞く質問にね」ハリーはまた横になりながら言った。 「さっきの薬よりましな味だといいんだけど……」 「スリザリンの連中のかけらが入ってるのに?冗談言うなよ」ロンが言った。 そのとき、医務室のドアがパッと開き、泥んこでびしょびしょのグリフィンドール選手全員がハリーの見舞いにやってきた。 「ハリー、もの凄い飛び方だったぜ」ジョージが言った。 「たった今、マーカス・フリントがマルフォイを怒鳴りつけてるのを見たよ。なんとか言ってたな−−スニッチが自分の頭の上にあるのに気がつかなかったのか、とか。マルフォイのやつ、しゅんとしてたよ」 みんながケーキやら、菓子やら、かぼちゃジュースやらを持ち込んで、ハリーのベッドの周りに集まり、まさに楽しいパーティが始まろうとしていた。 そのとき、マダム・ポンフリーが鼻息も荒く入ってきた。 「この子は休息が必要なんですよ。骨を三十三本も再生させるんですから。出て行きなさい!出なさい!」 ハリーはこうして一人ぼっちになり、誰にも邪魔されずに、萎えた腕のズキズキという痛みとたっぷりつき合うことになった。 何時間も何時間も過ぎた。真っ暗闇の中、ハリーは急に目が覚めて、痛みで小さく悲鳴をあげた。腕は今や、大きな棘がギュウギュウ詰めになっているような感覚だった。 一瞬、この痛みで目が覚めたのだと思った。ところが、闇の中で誰かがハリーの額の汗をスポンジで拭っている。 ハリーは恐怖でゾクッとした。 「やめろ!」ハリーは大声を出した。そして−−。 「ドビー!」 あの屋敷しもべ妖精の、テニス・ボールのようなグリグリ目玉が、暗闇を透かしてハリーを覗き込んでいた。 一筋の涙が、長い、とがった鼻を伝ってこぼれた。 「ハリー・ポッターは学校に戻ってきてしまった」ドピーが打ちひしがれたように呟いた。 「ドピーめが、ハリー・ポッターになんべんもなんべんも警告したのに。あぁ、なぜあなた様はドピーの申し上げたことをお聞き入れにならなかったのですか!汽車に乗り遅れたとき、なぜにお戻りにならなかったのですか!」 ハリーは体を起こして、ドピーのスポンジを押しのけた。 「なぜここに来たんだい。……それに、どうして僕が汽車に乗り遅れたことを、知ってるの?」 ドピーは唇を震わせた。ハリーは突然、もしやと思い当たった。 「あれは、君だったのか!」ハリーはゆっくりと言った。 「僕たちがあの柵を通れないようにしたのは君だったんだ」 「その通りでございます」ドピーが激しく頷くと、耳がパタパタはためいた。 「ドピーめは隠れてハリー・ポッターを待ち構えておりました。そして入口を塞ぎました。ですから、ドピーはあとで、自分の手にアイロンをかけなければなりませんでした−−」 ドピーは包帯を巻いた十本の長い指をハリーに見せた。 「−−でも、ドピーはそんなことは気にしませんでした。これでハリー・ポッターは安全だと思ったからです。ハリー・ポッターが別の方法で学校へ行くなんて、ドピーめは夢にも思いませんでした」 ドピーは醜い頭を振りながら、体を前後に静すった。 「ドピーめはハリー・ポッターがホグワーツに戻ったと聞いたとき、あんまり驚いたので、ご主人様の夕食を焦がしてしまったのです!あんなにひどく鞭打たれたのは、初めてでございました……」 ハリーは枕に体を戻して横になった。 「君のせいでロンも僕も退校処分になるところだったんだ」ハリーは声を荒げた。 「ドピー、僕の骨が生えてこないうちに、とっとと出ていった方がいい。じゃないと、君を締めCENSOREDしまうかもしれない」 ドピーは弱々しく微笑んだ。 「ドピーめはCENSOREDという脅しには慣れっこでございます。お屋敷では一日五回も脅されます」 ドピーは、自分が着ている汚らしい枕カバーの端で鼻をかんだ。 その様子があまりにも哀れで、ハリーは思わず怒りが潮のように引いて行くのを感じた。 「ドピー、どうしてそんな物を着ているの?」ハリーは好奇心から聞いた。 「これのことでございますか?」ドピーは着ている枕カバーをつまんで見せた。 「これは、屋敷しもべ妖精が、奴隷だということを示しているのでございます。ドピーめはご主人様が衣服をくださったとき、初めて自由の身になるのでございます。家族全員がドピーにはソックスの片方さえ渡さないように気をつけるのでございます。もし渡せば、ドピーは自由になり、その屋敷から永久にいなくなってもよいのです」 ドピーは飛び出した目を拭い、出し抜けにこう言った。 「ハリー・ポッターはどうしても家に帰らなければならない。ドピーめは考えました。ドピーのブラッジャーでそうさせることができると−−」 「君のブラッジャー?」怒りがまたこみ上げてきた。 「いったいどういう意味?君のブラッジャーって?君が、ブラッジャーで僕を殺そうとしたの?」 「CENSOREDのではありません。めっそうもない!」ドピーは驚愕した。 「ドピーめは、ハリー・ポッターの命をお助けしたいのです!ここに留まるより、大怪我をして家に送り返される方がよいのでございます!ドピーめは、ハリー・ポッターが家に送り返される程度に怪我をするようにしたかったのです!」 「その程度の怪我って言いたいわけ?」ハリーは怒っていた。 「僕がバラバラになって家に送り返されるようにしたかったのは、いったいなぜなのか、話せないの?」 「鳴呼、ハリー・ポッターが、おわかりくださればよいのに!」 ドピーはうめき、またポロポロとボロ枕カバーに涙をこぼした。 「あなた様が私どものように、卑しい奴隷の、魔法界のクズのような者にとって、どんなに大切なお方なのか、おわかりくださっていれば!ドピーめは覚えております。『名前を呼んではいけないあの人』が権力の頂点にあったときのことをでございます!屋敷しもべ妖精の私どもは、害虫のように扱われたのでございます」 ドピーは枕カバーで、涙で濡れた顔を拭きながら、「もちろん、ドピーめは今でもそうでございます」と認めた。 「でも、あなた様が『名前を呼んではいけないあの人』に打ち勝ってからというもの、私どものこのような者にとって、生活は全体によくなったのでございます。ハリー・ポッターが生き残った。闇の帝王の力は打ち砕かれた。それは新しい夜明けでございました。暗闇の日に終わりは無いと思っていた私どもにとりまして、ハリー・ポッターは希望の道しるべのように輝いたのでございます……。それなのに、ホグワーツで恐ろしいことが起きようとしている。もう起こっているのかもしれません。ですから、ドピーめはハリー・ポッターをここに留まらせるわけにはいかないのです。歴史が繰り返されようとしているのですから。またしても『秘密の部屋』が開かれたのですから−−」 ドピーはハッと恐怖で凍りついたようになり、やにわにベッドの脇机にあったハリーの水差しをつかみ、自分の頭にぶっつけて、ひっくり返って見えなりなってしまった。次の瞬間、「ドピーは悪い子、とっても悪い子……」とぶつぶつ言いながら、目をクラクラさせ、ドピーはベッドの上に這い戻ってきた。 「それじゃ、『秘密の部屋』がほんとにあるんだね?」ハリーが呟いた。 「そして−−君、それが以前にも開かれたことがあるって言ったね?教えてよ、ドピー!」 ドピーの手がソロソロと水差しの方に伸びたので、ハリーはその痩せこけた手首をつかんでお押さえた。 「だけど、僕はマグル出身じゃないのに−−その部屋がどうして僕にとって危険だというの?」 「あぁ。どうぞもう聞かないでくださいまし。哀れなドピーめにもうお尋ねにならないで」 ドピーは暗闇の中で大きな目を見開いて口ごもった。 「闇の罠がここに仕掛けられています。それが起こるとき、ハリー・ポッターはここにいてはいけないのです。家に帰って。ハリー・ポッター、家に帰って。ハリー・ポッターはそれに関わってはいけないのでございます。危険過ぎます−−」 「ドピー、いったい誰が!」ドピーがまた水差しで自分をぶったりしないよう、手首をしっかりつかんだまま、ハリーが聞いた。 「今度は誰がそれを開いたの!以前に開いたのは誰だったの!」 「ドピーには言えません。言えないのでございます。ドピーは言ってはいけないのです!」 しもべ妖精はキーキー叫んだ。「家に帰って。ハリー・ポツター、家に帰って!」 「僕はどこにも帰らない!」ハリーは激しい口調で言った。 「僕の親友の一人はマグル生まれだ。もし『部屋』がほんとうに開かれたのなら、彼女が真っ先にやられる−−」 「ハリー・ポッターは友達のために自分の命を危険にさらす!」ドピーは悲劇的な悦惚感でうめいた。 「なんと気高い!なんと勇敢な!でも、ハリー・ポッターは、まず自分を助けなければいけない。そうしなければ。ハリー・ポッターは決して……」 ドピーは突然凍りついたようになり、コウモリのような耳がピクビクした。ハリーにも聞こえた。外の廊下をこちらに向かってくる足音がする。 「ドピーは行かなければ!」 しもべ妖精は恐怖におののきながら呟いた。パチッと大きな音がした途端、ハリーの手は空をつかんでいた。 ハリーは再びベッドに潜り込み、医務室の暗い入口の方に目を向けた。足音がだんだん近づいてくる。 次の瞬間、ダンプルドアが後ろ向きで入ってきた。長いウールのガウンを着てナイトキャップをかぶっている。 石像のような物の片端を持って運んでいる。 そのすぐあと、マクゴナガル先生が石像の足の方を持って現れた。 二人は持っていたものをドサリとベッドに降ろした。 「マダム・ポンフリーを−−」ダンプルドアがささやいた。 マクゴナガル先生はハリーのベッドの端のところを急いで通り過ぎ、姿が見えなりなった。 ハリーは寝ているふりをしてじっと横たわっていた。 慌しい声が聞こえてきたと思うと、マクゴナガル先生がスイッと姿を現した。 そのすぐあとにマダム・ポンフリーが、ねまきの上にカーディガンを羽織りながらついてきた。 ハリーの耳にあっと息を呑む声が聞こえた。 「何があったのですか!」 ベッドに置かれた石像の上にかがみ込んで、マダム・ポンフリーがささやくようにダンプルドアに尋ねた。 「また襲われたのじゃ。ミネルバがこの子を階段のところで見つけてのう」 「この子のそばに葡萄が一房落ちていました」マクゴナガル先生の声だ。 「たぶんこの子はこっそりポッターのお見舞いに来ようとしたのでしょう」 ハリーは胃袋が引っくり返る思いだった。ゆっくりと用心深く、ハリーはわずかに身を起こし、むこうのベッドの石像を見ようとした。 一条の月明かりが、目をカッと見開いた石像の顔をて照らし出していた。 コリン・クリービーだった。 目を大きく見開き、手を前に突き出して、カメラを持っている。 「石になったのですか!」マダム・ポンフリーがささやいた。 「そうです」マクゴナガル先生だ。 「考えただけでもゾッとします……アルバスがココアを飲みたくなって階段を下りていらっしゃらなかったら、いったいどうなっていたかと思うと……」 三人はコリンをじっと見下ろしている。ダンプルドアはちょっと前かがみになってコリンの指をこじ開けるようにして、握りしめているカメラをはずした。 「この子が、襲った者の写真を撮っているとお思いですか?」マクゴナガル先生が熱っぽく言った。 ダンプルドアは何も言わず、カメラの裏蓋をこじ開けた。 シューッと音をたてて、カメラから蒸気が噴き出した。 「なんてことでしょう!」マダム・ポンフリーが声をあげた。 三つ先のベッドからハリーのところまで、焼けたプラスチックのツーンとする臭いが漂ってきた。 「溶けてる」マダム・ポンフリーが腑に落ちないという顔をした。 「全部溶けてる……」 「アルバス、これはどういう意味なのでしょう?」マクゴナガル先生が急き込んで聞いた。 「その意味は」ダンプルドアが言った。 「『秘密の部屋』が再び開かれたということじゃ」 マダム・ポンフリーはハッと手で口を覆い、マクゴナガル先生はダンプルドアをじっと見た。 「でも、アルバス……いったい……誰が!」 「誰がという問題ではないのじゃ」ダンプルドアはコリンに目を向けたまま言った。 「問題は、どうやってじゃよ……」 ハリーは薄明りの中でマクゴナガル先生の表情を見た。マクゴナガル先生でさえ、ハリーと同じようにダンプルドアの言ったことがわからないようだった。 日曜の朝、ハリーが目を覚ますと、医務室の中は冬の陽射しで輝いていた。 腕の骨は再生していたが、まだこわばったままだった。ハリーは急いで起き上がり、コリンのベッドの方を見た。 昨日ハリーが着替えをしたときと同じように、コリンのベッドも周りを丈長のカーテンで囲ってあり、外からは見えないようになっていた。 ハリーが起き出したのに気づいたマダム・ポンフリーが、朝食をお盆に載せて慌しくやってきて、ハリーの腕や指の曲げ伸ばしを始めた。 「すべて順調」 オートミールを左手でぎごちなり口に運んでいるハリーに向かって、マダム・ポンフリーが言った。 「食べ終わったら帰ってよろしい」 ハリーは、ぎこちない腕でできるかぎり速く着替えをすませ、グリフィンドール塔へと急いだ。 ロンとハーマイオニーに、コリンやドピーのことを話したくてうずうずしていた。 しかし、二人はいなかった。いったいどこに行ったのだろう、と考えながら、ハリーはまた外に出たが、骨が生えたかどうかを気にもしなかったのだろうか、と少し傷ついていた。 図書館の前を通り過ぎようとしたとき、パーシー・ウィーズリーが中からふらりと現れた。 この前出会ったときよくずっと機嫌がよさそうだった。 「ああ、おはよう、ハリー。昨日はすばらしい飛びっぷりだったね。ほんとにすばらしかった。グリフィンドールが寮杯獲得のトップに躍り出たよ−−君のおかげで五〇点も獲得した!」 「ロンとハーマイオニーを見かけなかった?」とハリーが開いた。 「いいや、見てない」パーシーの笑顔が曇った。 「ロンはまさかまた女子用トイレなんかにいやしないだろうね……」 ハリーは無理に笑い声をあげて見せた。 そして、パーシーの姿が見えなりなるとすぐ「嘆きのマートル」のトイレに直行した。 なぜロンとハーマイオニーがまたあそこへ行くのか、わけがわからなかったが。 とにかくフィルチも監督生も、誰も周りにいないことを確かめてからトイレのドアを開けると、二人の声が、内鍵をかけた小部屋の一つから聞こえてきた。 「僕だよ」 ドアを後ろ手に閉めながらハリーが声をかけた。 小部屋の中からゴツン、パシャ、ハッと息を呑む声がしたかと思うと、ハーマイオニーの片目が鍵穴からこっちを覗いた。 「ハリー!ああ、驚かさないでよ。入って−−腕はどう!」 「大丈夫」 ハリーは狭い小部屋にぎゅうぎゅう入り込みながら答えた。 古い大鍋が便座の上にチョコンと置かれ、パチパチ音がするので、鍋の下で火を焚いていることがわかった。 防水性の持ち運びできる火を焚く呪文は、ハーマイオニーの十八番だった。 「君に面会に行くべきだったんだけど、先にポリジュース薬に取りかかろうって決めたんだ」 ハリーがぎゅうぎゅう詰めの小部屋の内鍵をなんとか掛け直したとき、ロンが説明した。 「ここが薬を隠すのに一番安全な場所だと思って」 ハリーはコリンのことを二人に話しはじめたが、ハーマイオニーがそれを遮った。 「もう知ってるわ。マクゴナガル先生が今朝、フリットウィック先生に話してるのを間いちゃったの。だから私たち、すぐに始めなきゃって思ったのよ−−」 「マルフォイに吐かせるのが早ければ早いほどいい」ロンが唸るように言った。 「僕が何を考えてるか言おうか!マルフォイのやつ、クィディッチの試合のあと、気分最低で、腹いせにコリンをやったんだと思うな」 「もう一つ話があるんだ」 ハーマイオニーがニワヤナギの束をちぎっては、煎じ薬の中に投げ入れているのを眺めながら、ハリーが言った。 「夜中にドピーが僕のところに来たんだ」 ロンとハーマイオニーが驚いたように顔を上げた。 ハリーはドピーの話したことというより話してくれなかったことを全部二人に話して聞かせた。 ロンもハーマイオニーも口をポカンと開けたまま聞いていた。 「『秘密の部屋』は以前にも開けられたことがあるの?」ハーマイオニーが聞いた。 「これで決まったな」ロンが意気揚々と言った。 「ルシウス・マルフォイが学生だったときに『部屋』を開けたに違いない。今度は我らが親愛ドラコに開け方を教えたんだ。まちがいない。それにしても、ドピーがそこにどんな怪物がいるか、教えてくれてたらよかったのに。そんな怪物が学校の周りをうろうろしてるのに、どうして今まで誰も気づかなかったのか、それが知りたいよ」 「それ、きっと透明になれるのよ」ヒルを突ついて大鍋の底の方に沈めながらハーマイオニーが言った。 「でなきや、何かに変装してるわね−−鎧とかなんかに。『カメレオンお化け』の話、読んだことあるわ……」 「ハーマイオニー、君、本の読み過ぎだよ」 ロンがヒルの上から死んだクサカゲロウを、袋ごと鋼にあけながら言った。 空になった袋をくしゃくしゃに丸めながら、ロンはハリーの方を振り返った。 「それじゃ、ドピーが僕たちの邪魔をして汽車に乗れなりしたりへ君の腕をへし折ったりしたのか……」ロンは困ったもんだ、というふうに首を振りながら言った。 「ねえ、ハリー、わかるかい?ドピーが君の命を救おうとするのをやめないと、結局、君を死なせてしまうよ」
コリン・クリービーが襲われ、今は医務室に死んだように横たわっているというニュースは、月曜の朝には学校中に広まっていた。 疑心暗鬼が黒雲のように広がった。一年生はしっかり固まってグループで城の中を移動するようになり、一人で勝手に動くと襲われると怖がっているようだった。 ジニー・ウィーズリーは「妖精の魔法」のクラスでコリンと隣合わせの席だったので、すっかり落ち込んでいた。 フレッドとジョージが励まそうとしたが、ハリーは、二人のやり方では逆効果だと思った。 双子は毛を生やしたり、おできだらけになったりして、銅像の陰から代わりばんこにジニーの前に飛び出したのだ。 パーシーがカンカンに怒って、ジニーが悪夢にうなされているとママに手紙を書くぞと脅して、やっと二人をやめさせた。 やがて、先生に隠れて、魔よけ、お守りなど護身用グッズの取引が、校内で爆発的にはやりだした。 ネビル・ロングボトムは悪臭のする大きな青たまねぎ、尖った紫の水晶、腐ったイモリの尻尾を買い込んだ。 買ってしまったあとで、他のグリフィンドール生が−−君は純血なのだから襲われるはずはない−−と指摘した。 「最初にフィルチが狙われたもの」丸顔に恐怖を浮かべてネビルが言った。 「それに、僕がスクイブだってこと、みんな知ってるんだもの」
十二月の第二週目に、例年の通り、マクゴナガル先生がクリスマス休暇中、学校に残る生徒の名前を調べにきた。 ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は名前を書いた。 マルフォイも残ると聞いて、三人はますます怪しいとにらんだ。休暇中なら、ポリジュース薬を使って、マルフォイをうまく白状させるのに、絶好のチャンスだ。 残念ながら、煎じ薬はまだ半分しかでき上がっていない。 あと必要なのは、二角獣<パイコーン>の角と毒ツルヘビの皮だった。 それを手に入れることができるのは、ただ一カ所、スネイプ個人の薬棚しかない。 ハリー自身は、スネイプの研究室に盗みに入って捕まるより、スリザリンの伝説の怪物と対決する方がまだましだと思えた。 「必要なのは−−」木曜日の午後の、スリザリンとの合同の魔法薬の授業が、だんだん近づいてきたとき、ハーマイオニーがきびきびと言った。 「気をそらすことよ。そしてわたしたちのうち誰か一人がスネイプの研究室に忍び込み、必要なものをいただくの」 ハリーとロンは不安げにハーマイオニーを見た。 「わたしが実行犯になるのがいいと思うの」ハーマイオニーは、平然と続けた。 「あなたたち二人は、今度事を起こしたら退校処分でしょ。わたしなら前科がないし。だから、あなたたちは一騒ぎ起こして、ほんの五分ぐらいスネイプを足止めしておいてくれればそれでいいの」 ハリーは力なく微笑んだ。スネイプの魔法薬のクラスで騒ぎを起こすなんて、それで無事と言えるなら、眠れるドラゴンの目を突っついても無事だ、というようなものだ。 魔法薬のクラスは大地下牢の一つで行われた。木曜の午後の授業は、いつもと変わらず進行した。大鍋が二十個、机と机の間で湯気を立て、机の上には真鍮の秤と、材料の入った広口ビンが置いてある。スネイプは煙の中を歩き回り、グリフィンドール生の作業に意地の悪い批評をし、スリザリン生はそれを聞いてザマミロと嘲笑った。 ドラコ・マルフォイはスネイプのお気に入りで、ロンとハリーとに、ふぐの目玉を投げつけていた。 それに仕返しをしようものなら、「不公平です」と抗議する隙も与えず、二人とも処罰を受けることを、ドラコは知っているのだ。 ハリーの「ふくれ薬」は水っぽ過ぎたが、頭はもっと重要なことでいっぱいだった。ハーマイオニーの合図を待っていたのだ。 スネイプが立ち止まって薬が薄過ぎると嘲ったのもほとんど耳に入らなかった。 スネイプがハリーに背を向けてそこを立ち去り、ネビルをいびりに行ったとき、ハーマイオニーがハリーの視線を捉えて、こっくり合図した。 ハリーはすばやく大鍋の陰に身を隠し、ポケットからフレッドの「フィリバスターの長々花火」を取り出し、杖でちょいと突ついた。 花火はシュウシュウ、パチパチと音をたてはじめた。 あと数秒しかない。ハリーはスッと立ち上がり、狙いを定めて花火をポーンと高く放り投げた。まさに命中。 花火はゴイルの大鍋にポトリと落ちた。 ゴイルの薬が爆発し、クラス中に雨のように降り注いだ。 「ふくれ薬」の飛沫がかかった生徒は、悲鳴をあげた。 マルフォイは、顔いっぱいに薬を浴びて、鼻が風船のように膨れはじめた。 ゴイルは、大皿のように大きくなった目を、両手で覆いながら右往左往していた。 スネイプは騒ぎを鎮め、原因を突き止めようとしていた。 どさくさの中、ハリーは、ハーマイオニーがこっそり教室を抜け出すのを見届けた。 「静まれ!静まらんか!」スネイプが怒鳴った。 「薬を浴びた者は『ぺしゃんこ薬』をやるからここへ来い。誰の仕業か判明した暁には……」 マルフォイが急いで進み出た。鼻が小さいメロンほどに膨れ、その重みで頭を垂れているのを見て、ハリーは必死で笑いをこらえた。 クラスの半分は、ドシンドシンとスネイプの机の前に重い体を運んだ。棍棒のようになった腕を、だらりとぶら下げている者、唇が巨大に膨れ上がって、口をきくこともできない者。そんな中で、ハリーは、ハーマイオニーがするりと地下牢教室に戻ってきたのを見た。 ローブの前の方が盛り上がっている。 みんなが解毒剤を飲み、いろいろな「ふくれ」が収まったとき、スネイプはゴイルの大鍋の底をさらい、黒こげの縮れた花火の燃えカスをすくい上げた。急にみんなシーンとなった。 「これを投げ入れた者が誰かわかった暁には」スネイプが低い声で言った。「我輩が、まちがいなくそやつを退学にさせてやる」 ハリーは、いったい誰なんだろうという表情−−どうぞそう見えますように−−を取り繕った。 スネイプがハリーの顔をまっすぐに見据えていた。 それから十分後に鳴った終業ベルが、どんなにありがたかったかしれない。 三人が急いで「嘆きのマートル」のトイレに戻る途中、ハリーは、二人に話しかけた。 「スネイプは僕がやったってわかってるよ。ばれてるよ」 ハーマイオニーは、大鍋に新しい材料を放り込み、夢中でかき混ぜはじめた。 「あと二週間でできあがるわよ」と嬉しそうに言った。 「スネイプは君がやったって証明できやしない。あいつにいったい何ができる!」 ロンがハリーを安心させるように言った。 「相手はスネイプだもの。何か臭うよ」 ハリーがそう言ったとき、煎じ薬がブクブクと泡だった。
それから一週間後、ハリー、ロン、ハーマイオニーが玄関ホールを歩いていると、掲示板の前にちょっとした人だかりができていて、貼り出されたばかりの羊皮紙を読んでいた。 シューマス・フィネガンとディーン・トーマスが、興奮した顔で三人を手招きした。 「『決闘クラブ』を始めるんだって!」シューマスが言った。 「今夜が第一回目だ。決闘の練習なら悪くないな。近々役に立つかも……」 「え!ハリー、スリザリンの怪物と決闘なんかできると思ってるの!」 そう言いながらも、ロンも興味津々で掲示を読んだ。 「役に立つかもね」三人で夕食に向かう途中、ロンがハリーとハーマイオニーに言った。 「僕たちも行こうか!」 ハリーもハーマイオニーも大乗り気で、その晩八時に三人は、再び大広間へと急いだ。 食事用の長いテーブルは取り払われ、一方の壁に沿って、金色の舞台が出現していた。 何千本もの蝋燭が宙を漂い、舞台を照らしている。天井は何度も見慣れたビロードのような黒で、その下には、おのおの杖を持ち、興奮した面持ちで、ほとんど学校中の生徒が集まっているようだった。 「いったい誰が教えるのかしら?」ペチャクチャと、おしゃべりな生徒たちの群れの中に割り込みながら、ハーマイオニーが言った。 「誰かが言ってたけど、フリットウィック先生って、若いとき、決闘チャンピオンだったんですって。たぶん彼だわ」 「誰だっていいよ。あいつでなければ……」とハリーが言いかけたが、そのあとはうめき声だった。 ギルデロイ・ロックハートが舞台に登場したのだ。 きらびやかに深紫のローブをまとい、後ろに、誰あろう、いつもの黒装束のスネイブを従えている。 ロックハートは観衆に手を振り「静粛に」と呼びかけた。 「みなさん、集まって。さあ、集まって。みなさん、私がよく見えますか!私の声が聞こえますか!結構、結構!」 「ダンプルドア校長先生から、私がこの小さな決闘クラブを始めるお許しをいただきました。私自身が、数え切れないほど経験してきたように、自らを護る必要が生じた万一の場合に備えて、みなさんをしっかり鍛え上げるためにです−−詳しくは、私の著書を読んでください」 「では、助手のスネイプ先生をご紹介しましょう」 ロックハートは満面の笑みを振りまいた。 「スネイプ先生がおっしゃるには、決闘についてごくわずかご存知らしい。訓練を始めるにあたり、短い模範演技をするのに、勇敢にも、手伝ってくださるというご了承をいただきました。さてさて、お若いみなさんにご心配をおかけしたくはありません−−私が彼と手合わせしたあとでも、みなさんの魔法薬の先生は、ちゃんと存在します。ご心配めさるな!」 「相討ちで、両方やられっちまえばいいと思わないか?」ロンがハリーの耳にささやいた。 スネイプの上唇がめくれ上がっていた。ロックハートはよく笑っていられるな、とハリーは思った。 −−スネイプがあんな表情で僕を見たら、僕なら回れ右して、全速力でスネイプから逃げるけど−−。 ロックハートとスネイプは向き合って一礼した。 少なくともロックハートの方は、腕を振り上げ、くねくね回しながら体の前に持ってきて、大げさな礼をした。 スネイプは不機嫌にぐいと頭を下げただけだった。 それから二人とも杖を剣のように前に突き出して構えた。 「ご覧のように、私たちは作法に従って杖を構えています」 ロックハートはシーンとした観衆に向かって説明した。 「三つ数えて、最初の術をかけます。もちろん、どちらも相手をCENSOREDつもりはありません」 「僕にはそうは思えないけど」スネイプが歯をむき出しているのを見て、ハリーが呟いた。 「一−−二−−三−−」 二人とも杖を肩より高く振り上げた。スネイプが叫んだ。「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」 目も眩むような紅の閃光が走ったかと思うと、ロックハートは舞台から吹っ飛び、後ろ向きに宙を飛び、壁に激突し、壁伝いにズルズルと滑り落ちて、床に無様に大の字になった。 マルフォイや数人のスリザリン生が歓声をあげた。ハーマイオニーは爪先立ちでピョンピョン跳ねながら、顔を手で覆い、指の間から「先生、大丈夫かしら?」と悲痛な声をあげた。 「知るもんか!」ハリーとロンが声をそろえて答えた。 ロックハートはフラフラ立ち上がった。 帽子は吹っ飛び、カールした髪が逆立っていた。 「さあ、みんなわかったでしょうね!」よろめきながら壇上に戻ったロックハートが言った。 「あれが、『武装解除の術』です−−ご覧の通り、私は杖を失ったわけです−−あぁ、ミス・ブラウン、ありがとう。スネイプ先生、たしかに、生徒にあの術を見せようとしたのは、すばらしいお考えです。しかし、遠慮なく一言申し上げれば、先生が何をなきろうとしたかが、あまりにも見え透いていましたね。それを止めようと思えば、いとも簡単だったでしょう。しかし、生徒に見せた方が、教育的によいと思いましてね……」 スネイプは殺気だっていた。ロックハートもそれに気づいたらしく、こう言った。 「模範演技はこれで十分!これからみなさんのところへ下りていって、二人ずつ組にします。スネイプ先生、お手伝い願えますか……」 二人は生徒の群れに入り、二人ずつ組ませた。 ロックハートは、ネビルとジャスティン・フィンチ・フレッテリーとを組ませた。 スネイプは、最初にハリーとロンのところにやってきた。 「どうやら、名コンビもお別れのときが来たようだな」スネイプが薄笑いを浮かべた。 「ウィーズリー、君はフィネガンと組みたまえ。ポッターは−−」 ハリーは思わずハーマイオニーの方に寄って行った。 「そうはいかん」スネイプは冷笑した。 「マルフォイ君、来たまえ。かの有名なポッターを、君がどう捌くのか拝見しよう。それに、君、ミス・グレンジャー−−君はミス・ブルストロードと組みたまえ」 マルフォイはニヤニヤしながら気取ってやってきた。その後ろを歩いてきた女子スリザリン生を見て、ハリーは「鬼婆とのオツな休暇」にあった挿絵を思い出した。大柄で四角張っていて、がっちりした顎が戦闘的に突き出している。 ハーマイオニーはかすかに会釈したが、むこうは会釈を返さなかった。 「相手と向き合って!そして礼!」壇上に戻ったロックハートが号令をかけた。 ハリーとマルフォイは、互いに日をそらさず、わずかに頭を傾げただけだった。 「杖を構えて!」ロックハートが声を張り上げた。 「私が三つ数えたら、相手の武器を取り上げる術をかけなさい−−武器を取り上げるだけですよ−−みなさんが事故を起こすのは嫌ですからね。一−−二−−三−−」 ハリーは杖を肩の上に振り上げた。が、マルフォイは「二」ですでに術を始めていた。 呪文は強烈に効いて、ハリーは、まるで頭をフライパンで殴られたような気がした。 ハリーはよろけたが、他はどこもやられていない。間髪を入れず、ハリーは杖をまっすぐにマルフォイに向け、「リクタスセンブラ<笑い続けよ>」と叫んだ。 銀色の閃光がマルフォイの腹に命中し、マルフォイは体をくの字に曲げて、ゼーゼー言った。 「武器を取り上げるだけだと言ったのに!」 ロックハートが慌てて、戦闘まっただ中の生徒の頭越しに叫んだ。マルフォイが膝をついて座り込んだ。 ハリーがかけたのは「くすぐりの術」で、マルフォイは笑い転げて動くことさえできない。 相手が座り込んでいる間に術をかけるのはスポーツマン精神に反する−−そんな気がして、ハリーは一瞬ためらった。 これがまちがいだった。息も継げないまま、マルフォイは杖をハリーの膝に向け、声を詰まらせて「タラントアレグラ!<踊れ>」と言った。 次の瞬間、ハリーの両足がピクビク動き、勝手にクイック・ステップを踏み出した。 「やめなさい!ストップ!」ロックハートは叫んだが、スネイプが乗り出した。 「フィニート・インカンターテム!<呪文よ終われ>」とスネイプが叫ぶと、ハリーの足は踊るのをやめ、マルフォイは笑うのをやめた。 そして二人とも、やっと周囲を見ることができた。緑がかった煙が、あたり中に霧のように漂っていた。 ネビルもジャスティンも、ハーハー言いながら床に横たわり、ロンは蒼白な顔をしたシューマスを抱きかかえて、折れた杖がしでかした何かを謝っていた。 ハーマイオニーとミリセント・ブルストロードはまだ動いていた。 ミリセントがハーマイオニーにヘッドロックをかけ、ハーマイオニーは痛みでヒーヒー叫いていた。 二人の杖は床に打ち捨てられたままだった。ハリーは飛び込んでミリセントを引き離した。 彼女の方がハリーより、ずっと図体が大きかったので、一筋縄では行かなかった。 目に涙を浮かべながら「ありがとう」と言いハーマイオニーは、ハリーの背中にしがみついて隠れた。 「なんと、なんと」ロックハートは生徒の群れの中をすばやく動きながら、決闘の結末を見て回った。 「マクミラン。立ち上がって……。気をつけてゆっくり……、ミス・フォーセット。しっかり押さえていなさい。鼻血はすぐ止まるから。ブート…」 「むしろ、非友好的な術の防ぎ方をお教えする方がいいようですね」 大広間の真ん中に面くらって突っ立ったまま、ロックハートが言った。 ロックハートはスネイプをチラリと見たが、暗い目がギラッと光ったと思うと、スネイプはプイと顔をそむけた。 「さて、誰か進んでモデルになる組はありますか?−−ロングボトムとフィンチ・フレッチリー、どうですか?」 「ロックハート先生、それはまずい」性悪な大コウモリを思わせるスネイプが、サーッと進み出た。 「ロングボトムは、簡単極まりない呪文でさえ惨事を引き起こす。フィンチ・フレッテリーの残骸を、マッチ箱に入れて医務室に運び込むのがオチでしょうな」ネビルのピンク色の丸顔がますますピンクになった。 「マルフォイとポッターはどうかね?」スネイプは口元を歪めて笑った。 「それは名案!」 ロックハートは、ハリーとマルフォイに大広間の真ん中に来るよう手招きした。 他の生徒たちは下がって二人のために空間を空けた。 「さあ、ハリー。ドラコが君に杖を向けたら、こういうふうにしなさい」 ロックハートは自分の杖を振り上げ、何やら複雑にくねくねさせたあげく、杖を取り落とした。 「オットット−−私の杖はちょっと張り切り過ぎたようですね」と言いながら、ロックハートが急いで杖を拾い上げるのを、スネイプは、嘲るような笑いを浮かべて見ていた。 スネイプはマルフォイの方に近づいて、かがみ込み、マルフォイの耳に何事かをささやいた。 マルフォイも嘲るようにニヤリとした。ハリーは不安げにロックハートを見上げた。 「先生、その防衛技とかを、もう一度見せてくださいませんか?」 「怖くなったのか?」 マルフォイは、ロックハートに聞こえないように低い声で言った。 「そっちのことだろう」 ハリーも唇を動かさずに言った。 ロックハートは、陽気にハリーの肩をボンと叩き、 「ハリー、私がやったようにやるんだよく」と言った。 「え!杖を落とすんですか?」ロックハートは聞いてもいなかった。 「一−−二−−三−−それ!」と号令がかかった。 マルフォイはすばやく杖を振り上げ、「サーペンソーティア!<ヘビ出でよ>」と大声で怒鳴った。 マルフォイの杖の先が炸裂した。その先から、長い黒ヘビが二ヨロニョロと出てきたのを見て、ハリーはぎょっとした。 ヘビは二人の間の床にドスンと落ち、鎌首をもたげて攻撃の態勢を取った。周りの生徒は悲鳴をあげ、サーッとあとずきりして、そこだけが広く空いた。 「動くな、ポッター」スネイプが悠々と言った。 ハリーが身動きもできず、怒ったヘビと、目を見合わせて立ちすくんでいる光景を、スネイプが楽しんでいるのがはっきりわかる。 「我輩が追い払ってやろう……」 「私にお任せあれ!」ロックハートが叫んだ。ヘビに向かって杖を振り回すと、バーンと大きな音がして、ヘビは消え去るどころか二、三メートル宙を飛び、ビシャッと大きな音をたてて、また床に落ちてきた。 挑発され、怒り狂ってシューシューと、ヘビはジャスティン・フィンチ・フレッチリーめがけて滑り寄り、再び鎌首をもたげ、牙をむき出して攻撃の構えを取った。 ハリーは、何が自分を駆りたてたのかわからなかったし、何かを決心したのかどうかさえ意識がなかった。ただ、まるで自分の足にキャスターがついたように、体が前に進んで行ったこと、そして、ヘビに向かってバカみたいに叫んだことだけはわかっていた。 「『手を出すな。去れ!』」 すると、不思議なことに−−説明のしょうがないのだが−−ヘビは、まるで庭の水撒き用の太いホースのようにおとなしくなり、床に平たく丸まり、従順にハリーを見上げた。ハリーは、恐怖がスーツと体から抜け落ちていくのを感じた。 もうヘビは誰も襲わないとわかっていた。だが、なぜそう思ったのか、ハリーには説明できなかった。 ハリーはジャスティンを見てニッコリした。ジャスティンは、きっとホッとした顔をしているか、不思議そうな顔か、あるいは、感謝の泰情を見せるだろうと思っていた−−まさか、怒った顔、恐怖の表情をしているとは、思いもよらなかった。 「いったい、何を悪ふざけしてるんだ!」ジャスティンが叫んだ。 ハリーが何か言う前に、ジャスティンはくるりと背を向け、怒って大広間から出て行ってしまった。 スネイプが進み出て杖を振り、ヘビは、ポッと黒い煙を上げて消え去った。 スネイプも、ハリーが思ってもみなかったような、鋭く探るような目つきでこちらを見ている。 ハリーはその目つきがいやだった。その上、周り中がヒソヒソと、何やら不吉な話をしているのにハリーはぼんやり気づいていた。 そのとき、誰かが後ろからハリーの袖を引いた。 「さあ、来て」ロンの声だ。 「行こう−−さあ、来て……」ハリーの耳にささやいた。 ロンがハリーをホールの外へと連れ出した。ハーマイオニーも急いでついてきた。 三人がドアを通り抜けるとき、人垣が割れ、両側にサッと引いた。 まるで病気でも移されるのが怖いとでもいうかのようだった。ハリーには何がなんだかさっぱりわからない。 ロンもハーマイオニーも何も説明してはくれなかった。人気のないグリフィンドールの談話室までハリーを延々引っ張ってきて、ロンはハリーを肘掛椅子に座らせ、初めて口をきいた。 「君はパーセルマウスなんだ。どうして僕たちに話してくれなかったの!」 「僕がなんだって?」 「パーセルマウスだよ!」ロンが繰り返した。「君はヘビと話ができるんだ!」 「そうだよ」ハリーが応えた。 「でも、今度で二度目だよ。一度、動物園で偶然、大ニシキヘビをいとこのダドリーにけしかけた−−話せば長いけど−−そのヘビが、ブラジルなんか一度も見たことがないって僕に話しかけて、僕が、そんなつもりはなかったのに、そのヘビを逃がしてやったような結果になったんだ。自分が魔法使いだってわかる前だったけど……」 「大ニシキヘビが、君に一度もブラジルに行ったことがないって話したの!」ロンが力なく繰り返した。 「それがどうかしたの?ここにはそんなことできる人、掃いて捨てるほどいるだろうに」 「それが、いないんだ」ロンが言った。 「そんな能力はざらには持っていない。ハリー、まずいよ」 「何がまずいんだい?」ハリーはかなり腹が立った。 「みんな、どうかしたんじゃないか!考えてもみてよ。もし僕が、ジャスティンを襲うなってヘビに言わなけりゃ−−」 「へえ。君はそう言ったのかい?」 「どういう意味?君たちあの場にいたし……僕の言うことを聞いたじゃないか」 「僕、君がパーセルタングを話すのは聞いた。つまり蛇語だ」ロンが言った。 「君が何を話したか、他の人にはわかりゃしないんだよ。ジャスティンがパニックしたのもわかるな。君ったら、まるでヘビをそそのかしてるような感じだった。あれにはゾッとしたよ」 ハリーはまじまじとロンを見た。 「僕が違う言葉をしゃべったって?だけど−−僕、気がつかなかった−−自分が話せるってことさえ知らないのに、どうしてそんな言葉が話せるんだい?」 ロンは首を振った。ロンもハーマイオニーも通夜の客のような顔をしていた。ハリーは、いったい何がそんなに悪いことなのか理解できなかった。 「あのヘビが、ジャスティンの首を食いちぎるのを止めたのに、いったい何が悪いのか教えてくれないか?ジャスティンが、『首無し狩』に参加するはめにならずにすんだんだよ。どういうやり方で止めたかなんて、問題になるの?」 「問題になるのよ」ハーマイオニーがやっとヒソヒソ声で話し出した。 「どうしてかというと、サラザール・スリザリンは、ヘビと話ができることで有名だったからなの。だからスリザリン寮のシンボルがヘビでしょう」 ハリーはポカンと口を開けた。 「そうなんだ。今度は学校中が君のことを、スリザリンの曾々々々孫だとかなんとか言い出すだろうな……」ロンが言った。 「だけど、僕は違う」ハリーは、言いようのない恐怖に駆られた。 「それは証明しにくいことね」ハーマイオニーが言った。 「スリザリンは千年ほど前に生きていたんだから、あなただという可能性もありうるのよ」
ハリーはその夜、何時間も寝つけなかった。 四本柱のベッドのカーテンの隙間から、寮塔の窓の外を雪がちらつきはじめたのを眺めながら、思いにふけった。 −−僕はサラザール・スリザリンの子孫なのだろうか?−−ハリーは結局父親の家族のことは何も知らなかった。 ダーズリー一家は、ハリーが親戚の魔法使いのことを質問するのを、一切禁止した。 ハリーはこっそり蛇語を話そうとした。が、言葉が出てこなかった。 ヘビと顔を見合わせないと話せないらしい。−−でも、僕はグリフィンドール生だ。 僕にスリザリンの血が流れていたら、「組分け帽子」が僕をここに入れなかったはずだ……。 「フン」頭の中で意地悪な小さい声がした。 「しかし、『組分け帽子』は君をスリザリンに入れようと思った。忘れたのかい?」 ハリーは寝返りを打った−−明日、薬草学でジャスティンに会う。そのときに説明するんだ。 僕はヘビをけしかけてたのじゃなく、攻撃をやめさせてたんだって。−−どんなバカだって、そのぐらいわかるはずじゃないか−−腹がたって、ハリーは枕を拳で叩いた。
しかし、翌朝、前夜に降り出した雪が大吹雪になり、学期最後の薬草学の授業は休講になった。 スプラウト先生がマンドレイクに靴下をはかせ、マフラーを巻く作業をしなければならないからだ。厄介な作業なので、他の誰にも任せられないらしい。特に今は、ミセス・ノリスやコリン・クリービーを蘇生させるため、マンドレイクが一刻も早く育ってくれることが重要だった。 グリフィンドールの談話室の暖炉のそばで、ハリーは休講になってしまったことで、イライラしていた。 ロンとハーマイオニーは、空いた時間を、魔法チェスをして過ごしていた。 「ハリー、あのね」ロンのビショップが、ハーマイオニーのナイトを馬から引きずり降ろして、チェス盤の外までズルズル引っ張って行ったとき、ハリーの様子を見かねたハーマイオニーが言った。 「そんなに気になるんだったら、こっちからジャスティンを探しに行けばいいじゃない」 ハリーは立ち上がり、ジャスティンはどこにいるかなと考えながら、肖僕画の穴から外に出た。 昼だというのに、窓という窓の外を、灰色の雪が渦巻くように降っていたので、城の中はいつもより暗かった。 寒さに震え、ハリーは授業中のクラスの物音を聞きながら歩いた。 マクゴナガル先生は誰かを叱りつけていた。どうやら誰かがクラスメートをアナグマに変えてしまったらしい。 ハリーは覗いてみたい気持を押さえて、そばを通り過ぎた。 ジャスティンは空いた時間に授業の遅れを取り戻そうとしているかもしれない、と思いつき、ハリーは図書館をチェックしてみることにした。 薬草学で一緒になるはずだったハッフルパフ生たちが、思った通り図書館の奥の方で固まっていた。 しかし、勉強している様子ではない。背の高い本棚がずらりと立ち並ぶ間で、みんな額を寄せ合って、夢中で何かを話しているようだった。 ジャスティンがその中にいるかどうか、ハリーには見えなかった。 みんなの万に歩いて行く途中で、話が耳に入った。ハリーは立ち止まり、ちょうど「隠れ術」の本が並ぶ本棚のところに隠れて耳をすませた。 「だからさ」太った男の子が話している。 「僕、ジャスティンに言ったんだ。自分の部屋に隠れてろって。つまりさ、もしポッターが、あいつを次の餌食に狙ってるんだったら、しばらくは目立たないようにしてるのが一番いいんだよ。もちろん、あいつ、うっかり自分がマグル出身だなんてポッターに漏らしちゃったから、いつかはこうなるんじゃないかって思ってたさ。ジャスティンのやつ、イートン校に入る予定だったなんて、ポッターにしゃべっちまったんだ。そんなこと、スリザリンの継承者がうろついてるときに、言いふらすべきことじゃないよな?」 「じゃ、アーニー、あなた、絶対にポッターだって思ってるの?」 金髪を三つ編みにした女の子はもどかしげに聞いた。 「ハンナ」太った子が重々しく言った。 「彼はパーセルマウスだぜ。それは闇の魔法使いの印だって、みんなが知ってる。ヘビと話ができるまともな魔法使いなんて、聞いたことがあるかい?スリザリン自身のことを、みんなが『蛇舌』って呼んでたぐらいなんだ」 ザワザワと重苦しいささやきが起こり、アーニーは話し続けた。 「壁に書かれた言葉を覚えてるか!『継承者の敵よ、気をつけよ』ポッターはフィルチとなんかごたごたがあったんだ。そして気がつくと、フィルチの猫が襲われていた。あの一年坊主のクリービーは、クィディッチ試合でポッターが泥の中に倒れてるとき写真を撮りまくって、ポッターに嫌がられた。そして気がつくと、クリービーがやられていた」 「でも、ポッターつて、いい人に見えるけど」ハンナは納得できない様子だ。 「それに、ほら、彼が『例のあの人』を消したのよ。そんなに悪人であるはずがないわ。どう?」 アーニーはわけありげに声を落とし、ハッフルパフ生はより近々と額を寄せ合った。 ハリーはアーニーの言葉が聞き取れるように近くまでにじり寄った。 「ポッターが『例のあの人』に襲われてもどうやって生き残ったのか、誰も知らないんだ。つまり、事が起こったとき、ポッターはほんの赤ん坊だった。木っ端微塵に吹き飛ばされて当然さ。それほどの呪いを受けても生き残ることができるのは、ほんとうに強力な『闇の魔法使い』だけだよ」 アーニーの声がさらに低くなり、ほとんど耳打ちしているようだ。 「だからこそ、『例のあの人』が初めっから彼を殺したかったんだ。闇の帝王がもう一人いて、競争になるのが嫌だったんだ。ポッターのやつ、いったい他にどんな力を隠してるんだろう?」 ハリーはもうこれ以上我慢できなかった。 大きく咳払いして、本棚の陰から姿を現した。 カンカンに腹をたてていなかったら、不意を突かれたみんなの様子を見て、ハリーはきっと滑稽だと思っただろう。 ハリーの姿を見た途端、ハッフルパフ生はいっせいに石になったように見えた。 アーニーの顔からサーッと血の気が引いた。 「やあ」ハリーが声をかけた。 「僕、ジャスティン・フィンチ・フレッチリーを探してるんだけど……」 ハッフルパフ生の恐れていた最悪の事態が現実のものになった。みんな、こわごわ、アーニーの方を見た。 「あ・あいつになんの用なんだ?」アーニーが震え声で聞いた。 「決闘クラブでのヘビのことだけど、ほんとは何が起こったのか、彼に話したいんだよ」 アーニーは蒼白になった唇を噛み、深呼吸した。 「僕たちみんなあの場にいたんだ。みんな、何が起こったのか見てた」 「それじゃ、僕が話しかけたあとで、ヘビが退いたのに気がついただろう? 「僕が見たのは」アーニーが、震えているくせに頑固に言い酔った。 「君が蛇語を話したこと、そしてヘビをジャスティンの方に追い立てたことだ」 「追いたてたりしてない!」ハリーの声は怒りで震えていた。 「ヘビはジャスティンをかすりもしなかった!」 「もう少しってとこだった」アーニーが言った。 「それから、君が何か勘ぐってるんだったら」と慌ててつけ加えた。「言っとくけど、僕の家系は九代前までさかのぼれる魔女と魔法使いの家系で、僕の血は誰にも負けないぐらい純血で、だから−−」 「君がどんな血だろうとかまうもんか」ハリーは激しい口調で言った。 「なんで僕がマグル生まれの者を襲う必要がある!」 「君が一緒に暮らしているマグルを憎んでるって聞いたよ」アーニーが即座に答えた。 「ダーズリーたちと一緒に暮らしていたら、憎まないでいられるもんか。できるものなら、君がやってみればいいんだ」ハリーが言った。 ハリーは踵を返して、怒り狂って図書館を出て行った。 大きな呪文の本の箔押しの表紙を磨いていたマダム・ピンスが、ジロリと咎めるような目でハリーを見た。 ハリーは、むちゃくちゃに腹が立って、自分がどこに行こうとしているのかさえほとんど意識せず、蹟きながら廊下を歩いた。 結局、何か大きくて固い物にぶつかって、ハリーは仰向けに床に転がってしまった。 「あ、やあ、ハグリッド」ハリーは見上げながら挨拶した。 雪にまみれたウールのバラクラバ頭巾で、頭から肩まですっぽり覆われてはいたが、厚手木綿のオーバーを着て、廊下をほとんど全部ふさいでいるのは、まざれもなくハグリッドだ。 手袋をした巨大な手の一万に鶏の死骸をぶら下げている。 「ハリー、大丈夫か?」ハグリッドはバラクラバを引き下げて話しかけた。 「おまえさん、なんで授業に行かんのかい?」 「休講になったんだ」ハリーは床から起き上がりながら答えた。 「ハグリッドこそ何してるの?」ハグリッドはダランとした鶏を持ち上げて見せた。 「殺られたのは今学期になって二羽目だ。狐の仕業か、『吸血お化け』か。そんで、校長先生から鶏小屋の周りに魔法をかけるお許しをもらわにゃ」 ハグリッドは雪がまだらについたボサボサ眉毛の下から、じっとハリーを覗き込んだ。 「おまえさん、ほんとに大丈夫か!かっかして、なんかあったみたいな顔しとるが」 ハリーはアーニーやハッフルパフ生が、今しがた自分のことをなんと言っていたか、口にすることさえ耐えられなかった。 「なんでもないよ」ハリーはそう答えた。 「ハグリッド、僕、もう行かなくちゃ。次は変身術だし、教科書取りに帰らなきゃ」 その場を離れたものの、ハリーはまだアーニーの言ったことで頭がいっぱいだった。
「ジャスティンのやつ、うっかり自分がマグル出身だなんてポッターに漏らしちゃってから、いつかはこうなるんじゃないかって思ってたさ……」 ハリーは階段を踏み鳴らして上り、次の廊下の角を曲がった。そこは一段と暗かった。 はめ込みの甘い窓ガラスの間から、激しく吹き込む氷のような隙間風が、松明の灯りを消してしまっていた。 廊下の真ん中あたりまで来たとき、床に転がっている何かにもろに足を取られ、ハリーは前のめりにつんのめった。 振り返っていったい何に置いたのか、目を細めて見たハリーは、途端に胃袋が溶けてしまったような気がした。 ジャスティン・フィンチ・フレッテリーが転がっていた。 冷たく、ガチガチに硬直し、恐怖の跡が顔にこびりつき、虚ろな目は天井を凝視している。 その隣にもう一つ、ハリーが今まで見たこともない不可思議なものがあった。 「ほとんど首無しニック」だった。 もはや透明な真珠色ではなり、黒く煤けて、床から十五センチほど上に、真横にじっと動かずに浮いていた。 首は半分落ち、顔にはジャスティンと同じ恐怖が貼りついていた。 ハリーは立ち上がったが、息はたえだえ、心臓は早打ち太鼓のように肋僕を打った。 人影のない廊下のあちらこちらを、ハリーは狂ったように見回した。 すると、クモが二つの物体から逃げるように、一列になって、全速力でガサゴソ移動しているのが目に入った。 物音といえば、両側の教室からぼんやりと聞こえる、先生方の声だけだった。 逃げようと思えば逃げられる。ここにハリーがいたことなど、誰にもわかりはしない。 なのに、ハリーは二人を放っておくことができなかった−−助けを呼ばなければ……。 でも、僕がまったく関係ないってこと、信じてくれる人がいるだろうか! パニック状態で突っ立っていると、すぐそばの戸がバーンと開き、ポルターガイストのビープズがシューッと飛び出してきた。 「おやまあ、ポッツリ、ポッツン、チビのポッター!」ヒョコヒョコ上下に揺れながら、ハリーの脇を通り過ぎるとき、メガネを叩いてずっこけさせながら、ビープズが甲高い声ではやした立てた。 「ポッター、ここで何してる!ポッター、どうしてここにいる−−」 ビープズは空中宙返りの途中でハタと止まった。 逆さまで、ジャスティンと「ほとんど首無しニック」を見つけた。 ビープズはもう半回転して元に戻り、肺一杯に息を吸いこむと、ハリーの止める間もなく、大声で叫んだ。 「襲われた!襲われた!またまた襲われた!生きてても死んでても、みんな危ないぞ!命からがら逃げろ!おーそーわーれーたー!」バタン−−バタン−−バタン。 次々と廊下の両側のドアが勢いよく開き、中からドッと人が出てきた。 それからの数分間は長かった。大混乱のドタバタで、ジャスティンは踏み潰されそうになったし、「ほとんど首無しニック」の体の中で立ちすくむ生徒たちが何人もいた。 先生たちが大声で「静かに」と怒鳴っている中で、ハリーは壁にぴったり磔になったような格好だった。 マクゴナガル先生が走ってきた。 あとに続いたクラスの生徒の中に、白と黒の縞模様の髪のままの子が一人いる。マクゴナガル先生は杖を使ってバーンと大きな音を出し、静かになったところで、みんな自分の教室に戻るように命令した。なんとか騒ぎが収まりかけたちょうどそのとき、ハッフルパフのアーニーが息せき切ってその場に現れた。 「現行犯だ!」顔面蒼白のアーニーが芝居の仕草のようにハリーを指差した。 「おやめなさい、マクミラン!」マクゴナガル先生が厳しくたしなめた。 ビープズは上の方でニヤニヤ意地の悪い笑いを浮かべ、成り行きを見ながらふわふわしている。 ビープズは大混乱が好きなのだ。 先生たちがかがみ込んで、ジャスティンと「ほとんど首無しニック」を調べているときに、ビープズは突然歌いだした。
♪オー、ポッター、いやなやつだ!いったいおまえは何をしたー おまえは生徒を皆殺しおまえはそれが大愉快
「お黙りなさい、ビープズ」 マクゴナガル先生が一喝した。ビープズはハリーに向かってベーッと舌を出し、スーッと後ろに引っこむように、ズームアウトして消えてしまった。 ジャスティンは、フリットウィック先生と天文学科のシニストラ先生が医務室に運んだ。 「ほとんど首無しニック」をどうしたものか、誰も思いつかない。 結局マクゴナガル先生が何も無いところから大きなうちわを作り上げて、それをアーニーに持たせ、「ほとんど首無しニック」を階段の一番上まで煽り上げるよう言いつけた。 アーニーは言いつけ通り、物言わぬ黒いホバークラフトのようなニックを煽いで行った。 あとに残されたのはマクゴナガル先生とハリーだけだった。 「おいでなさい、ポッター」 「先生、誓って言います。僕、やってません−−」ハリーは即座に言った。 「ポッター、私の手に負えないことです」マクゴナガル先生はそっけない。 二人は押し黙って歩いた。角を曲がると、先生は途方もなく醜い大きな石の怪獣僕の前で立ち止まった。 「レモン・キャンデー!」 先生が言った。これが合言葉だったに違いない。怪獣僕が突然生きた本物になり、ピョンと跳んで脇に寄り、その背後にあった壁が左右に割れた。 いったいどうなることかと、恐れで頭がいっぱいだったハリーも、怖さも忘れてびっくりした。 壁の裏には螺旋階段があり、エスカレーターのように滑らかに上の方へと動いている。ハリーが先生と一緒に階段に乗ると、二人の背後で壁はドシンと閉じた。 二人はクルクルと螺旋状に上へ上へと運ばれて行った。 そして、遂に、少しめまいを感じながら、ハリーは前方に輝くような樫の扉を見た。 扉にグリフィンをかたどったノック用の金具がついている。 ハリーはどこに連れて行かれるのかに気がついた。ここはダンプルドアの住居に違いない。
二人は石の螺旋階段の一番上で降り、マクゴナガル先生が扉を叩いた。 音もなく扉が開き、二人は中に入った。 マクゴナガル先生は待っていなさいと、ハリーをそこに一人残し、どこかに行った。 ハリーはあたりを見回した。今学期になってハリーはいろいろな先生の部屋に入ったが、ダンプルドアの校長室が、ダントツに一番おもしろい。 学校からまもなく放り出されるのではないかと、恐怖で縮み上がっていなかったら、きっとハリーは、こんなふうに、じっくりと部屋を眺めるチャンスができて、とても嬉しかったことだろう。 そこは広くて美しい円形の部屋で、おかしな小さな物音で満ち溢れていた。 紡錘形の華奢な脚がついたテーブルの上には、奇妙な銀の道具が立ち並び、クルクル回りながらポッポッと小さな煙を吐いている。 壁には歴代の校長先生の写真が掛かっていたが、額縁の中でみんなすやすや眠っていた。 大きな鈎爪脚の机もあり、その後ろの棚には、みすぼらしいポロポロの三角帽子が載っている−−「組分け帽子」だ。 ハリーは眠っている壁の校長先生たちをそーっと見渡した。 帽子を取って、もう一度かぶってみても、かまわないだろうか?ハリーはためらった。 かまわないだろう。……確認するだけなんだ。 僕の組分けは正しかったのかどうかって−−。 ハリーはそっと机の後ろに回り込み、棚から帽子を取り上げ、そろそろとかぶった。 帽子が大き過ぎて、前のときもそうだったが、今度も、目の上まで滑り落ちてきた。 ハリーは帽子の内側の闇を見つめて、待った。 すると、かすかな声がハリーの耳にささやいた。 「何か、思いつめているね?ハリー・ポッター」 「えぇ、そうです」ハリーは口ごもった。 「あの−−おじゃましてごめんなさい−−お聞きしたいことがあって−−」 「わたしが君を組分けした寮が、まちがいではないかと気にしてるね」帽子はさらりと言った。 「さよう……君の組分けは特に難しかった。しかし、わたしが前に言った言葉は今も変わらない」ハリーは心が躍った。 「−−君はスリザリンでうまくやれる可能性がある」 ハリーの胃袋がズシンと落ち込んだ。 帽子のてっぺんをつかんでぐいっと脱ぐと、薄汚れてくたびれた帽子が、だらりとハリーの手からぶら下がっていた。 気分が悪くなり、ハリーは帽子を棚に押し戻した。 「あなたはまちがっている」動かず物言わぬ帽子に向かって、ハリーは声を出して話しかけた。 帽子はじっとしている。 ハリーは帽子を見つめながらあとずきりした。 ふと、奇妙なゲッゲッという音が聞こえて、ハリーはくるりと振り返った。 ハリーは、一人きりではなかった。 扉の裏側に金色の止まり木があり、羽を半分むしられた七面鳥のようなよぼよぼの鳥が止まっていた。 ハリーがじっと見つめると、鳥はまたゲッゲッと声をあげながら邪悪な目つきで見返した。 ハリーは鳥が重い病気ではないかと思った。 目はどんよりとし、ハリーが見ている間にもまた尾羽が二、三本抜け落ちた。 −−ダンプルドアのペットの鳥が、僕の他には誰もいないこの部屋で死んでしまったら、万事休すだ、僕はもうダメだ−−そう思った途端、鳥が炎に包まれた。 ハリーは驚いて叫び声をあげ、あとずきりして机にぶつかった。 どこかにコップ一杯の水でもないかと、ハリーは夢中で周りを見回した。が、どこにも見当たらない。 その間に鳥は火の玉となり、一声鋭く鳴いたかと思うと、次の瞬間、跡形もなくなってしまった。 一振りの灰が床の上でブスブスと煙を上げているだけだった。 校長室のドアが開いた。ダンプルドアが陰鬱な顔をして現れた。 「先生」ハリーはあえぎながら言った。 「先生の鳥が−−僕、何もできなくて−−急に火がついたんです−−」 驚いたことに、ダンプルドアは微笑んだ。 「そろそろだったのじゃ。あれはこのごろ惨めな様子だったのでな、早くすませてしまうようにと、何度も言い聞かせておったんじゃ」 ハリーがポカンとしているので、ダンプルドアがクスクス笑った。 「ハリー、フォークスは不死鳥じゃよ。死ぬときが来ると炎となって燃え上がる。そして灰の中から蘇るのじゃ。見ててごらん……」 ハリーが見下ろすと、ちょうど小さなくしゃくしゃの雛が灰の中から頭を突き出しているところだった。 雛も老鳥のときと同じぐらい醜かった。 「ちょうど『燃焼日』にあれの姿を見ることになって、残念じゃったの」 ダンプルドアは事務机に座りながら言った。 「あれはいつもは実に美しい鳥なんじゃ。羽は見事な赤と金色でな。うっとりするような生物じゃよ、不死鳥というのは。驚くほどの重い荷を運び、涙には癒しの力があり、ペットとしては忠実なことこの上ない」 フォークスの火事騒ぎのショックで、ハリーは自分がなぜここにいるのかを忘れていた。 一挙に思い出したのは、ダンプルドアが机に座り、背もたれの高い椅子に腰掛け、明るいブルーの瞳で、すべてを見透すようなまなざしをハリーに向けたときだ。 ダンプルドアが次の言葉を話し出す前に、バーンとどえらい音をたてて扉が勢いよく開き、ハグリッドが飛び込んできた。 目を血走らせ、真っ黒なもじゃもじゃ頭の上にバラクラバ頭巾をチョコンと載せて、手には鶏の死骸をまだブラブラさせている。 「ハリーじゃねえです。ダンプルドア先生」ハグリッドが急き込んで言った。 「俺はハリーと話してたです。この子が発見されるほんの数秒前のこってす。先生さま、ハリーにはそんな時間はねえです……」 ダンプルドアは何か言おうとしたが、ハグリッドが喚き続けていた。興奮して鶏を振り回すので、そこら中に羽が飛び散った。 「……ハリーのはずがねえです。俺は魔法省の前で証言したってようがす……」 「ハグリッド、わしは−−」 「……先生さま、まちがってなさる。俺は知っとるです。ハリーは絶対そんな−−」 「ハグリッド!」ダンプルドアは大きな声で言った。 「わしはハリーがみんなを襲ったとは考えておらんよ」 「……ヘッ」手に持った鶏がぐにゃりと垂れ下がった。 「…………へい。俺は外で待ってますだ。校長先生」 そして、ハグリッドはきまり悪そうにドシンドシンと出て行った。 「先生、僕じゃないとお考えなのですか?」 ハリーは祈るように繰り返した。ダンプルドアは机の上に散らばった、鶏の羽を払いのけていた。 「そうじゃよ、ハリー」ダンプルドアはそう言いながらも、また陰鬱な顔をした。 「しかし、君には話したいことがあるのじゃ」 ダンプルドアは長い指の先を合わせ、何事か考えながらハリーをじっと見ていた。 ハリーは落ち着かない気持でじっと待った。 「ハリー、まず、君に聞いておかねばならん。わしに何か言いたいことはないかの?」 やわらかな口調だった。 「どんなことでもよい」 ハリーは何を言ってよいかわからなかった。マルフォイの叫びを思い出した。 「次はおまえたちの番だぞ、『穢れた血』め!」それから、「嘆きのマートル」のトイレでフツフツ煮えているポリジュース薬。 さらに、ハリーが二回も聞いた正体の見えない声。ロンが言ったことを思い出した。 「誰にも聞こえない声が聞こえるのは、魔法界でも狂気の始まりだって思われてる」 そして、みんなが自分のことをなんと言っていたかを思い浮かべた。 自分はサラザール・スリザリンとなんらかの関わりがあるのではないかという恐れがつのっていること……。 「いいえ。先生、何もありません」ハリーが答えた。
ジャスティンと「ほとんど首無しニック」の二人が一度に襲われた事件で、これまでのように単なる不安感ではすまなくなり、パニック状態が起こった。 奇妙なことに、一番不安を煽ったのはニックの運命だった。ゴーストにあんなことが出来るなんて、いったい何者なのかと、寄ると触るとその話だった。もう死んでいる者に危害を加えるなんて、どんな恐ろしい力を持っているんだろう!クリスマスに帰宅しようと、生徒たちがなだれを打ってホグワーツ特急の予約を入れた。 「この調子じゃ、居残るのは僕たちだけになりそう」ロンがハリーとハーマイオニーに言った。 「僕たちと、マルフォイ、クラップ、ゴイルだ。こりゃ楽しい休暇になるぞ」 クラップとゴイルは、常にマルフォイのやる通りに行動したので、居残り組に名前を書いた。 ほとんどみんないなくなることが、ハリーにはむしろ嬉しかった。 廊下でハリーに出会うと、まるでハリーが牙を生やしたり、毒を吐き出したりすると思っているかのように、みんなハリーを避けて通った。ハリーがそばを通ると、指差しては「シーッ」と言ったり、ヒソヒソ声になったり、もうハリーはうんざりだった。 フレッドとジョージにしてみれば、こんなおもしろいことはないらしい。 二人でわざわざハリーの前に立って、廊下を行進し、「したーに、下に、まっこと邪悪な魔法使い、スリザリンの継承者様のお通りだ……」と先触れした。 パーシーはこのふざけをまったく認めなかった。 「笑いごとじゃないぞ」パーシーは冷たく言った。 「おい、パーシー、どけよ。ハリー様は、はやく行かねばならぬ」とフレッド。 「そうだとも。牙をむき出した召使とお茶をお飲みになるので、『秘密の部屋』にお急ぎなのだ」 ジョージが嬉しそうにクックッと笑った。 ジニーも冗談だとは思っていなかった。 フレッドがハリーに「次は誰を襲うつもりか」と大声で尋ねたり、ジョージがハリーと出会ったとき、大きなにんにくの束で追い払うふりをすると、そのたびに、ジニーは「お願い、やめて」と涙声になった。 ハリーは気にしていなかった。少なくともフレッドとジョージは、ハリーがスリザリンの継承者だなんて、まったくバカげた考えだと思っている。そう思うと気が楽になった。二人の道化ぶりを見るたび、ドラコ・マルフォイはイライラし、ますます不機嫌になっていくようだった。 「そりゃ、ほんとうは自分なのだって言いたくてしょうがないからさ」ロンがわけ知り顔で言った。 「あいつ、ほら、どんなことだって、自分を負かすやつは憎いんだ。なにしろ君は、やつの悪行の功績を全部自分のものにしてるわけだろ」
「それに、長くはお待たせしないわ」ハーマイオニーが満足げに言った。 「ポリジュース薬がまもなく完成よ。彼の口から真実を聞く日も近いわ」 とうとう学期が終わり、降り積もった雪と同じぐらい深い静寂が城を包んだ。 ハリーにとっては、憂轡どころか安らかな日々だった。ハーマイオニーやウィーズリー兄弟たちと一緒に、グリフィンドール塔を思い通りにできるのは楽しかった。 誰にも迷惑をかけずに大きな音を出して「爆発ゲーム」をしたり、秘かに決闘の練習をした。 フレッド、ジョージ、ジニーも、両親と一緒にエジプトにいる兄のビルを訪ねるより、学校に残る方を選んだ。 パーシーは「おまえたちの子供っぽい行動はけしからん」と、グリフィンドールの談話室にはあまり顔を出さなかった。 「クリスマスに僕が居残るのは、この困難な時期に先生方の手助けをするのが、監督生としての義務だからだ」と、パーシーはもったいぶって説明していた。 クリスマスの朝が来た。寒い、真っ白な朝だった。寮の部屋にはハリーとロンしか残っていなかったが、朝早く起こされてしまった。 二人分のプレゼントを持って、すっかり着替えをすませたハーマイオニーが、部屋に飛び込んできたのだ。 「起きなさい」 ハーマイオニーは窓のカーテンを開けながら、大声で呼びかけた。 「ハーマイオニー−−君は男子寮に来ちゃいけないはずだよ」 ロンはまぶしそうに目を覆いながら言った。 「あなた”にも”メリー・クリスマスよ」ハーマイオニーは、ハリーに眼鏡を手渡しながら、ロンにプレゼントをポーンと投げた。 「わたし、もう一時間も前から起きて、煎じ薬にクサカゲロウを加えてたの。完成よ」 ハリーは途端に目がバッチリ覚めて、起き上がった。 「ほんと?」 「絶対よ」 ハーマイオニーはネズミのスキャバーズを脇に押しやって、ハリーのベッドの枕許に腰掛けた。 「すごいや」 ハリーが尊敬の念を込めてハーマイオニーを見つめるとぱっとハーマイオニーの頬が赤くなった。 「やるんなら、今夜だわね」 ちょうどそのとき、ヘドウィグがスイーッと部屋に入ってきた。 嘴にちっぽけな包みをくわえている。 「やあ」ベッドに降り立ったヘドウィグに、ハリーは嬉しそうに話しかけた。 「また僕と口をきいてくれるのかい?」 へドウィグはハリーの耳をやさしくかじった。 その方が、運んできてくれた包みよりずっといい贈物だった。 包みはダーズリー一家からで、爪楊枝一本とメモが入っており、メモには、夏休み中にも学校に残れないかどうか聞いておけtと書いてあった。 他のプレゼントはもっとずっと嬉しいものばかりだった。ハグリッドは糖蜜ヌガーを大きな缶一杯贈ってくれた。 ハリーはそれを火のそばに置いて柔らかくしてから食べることにした。 ロンは、お気に入りのクィディッチ・チームのおもしろいことがあれこれ書いてある「キャノンズと飛ぼう」という本をくれた。 ハーマイオニーはデラックスな鷲羽のペンをくれた。 最後の包みを開くと、ウィーズリーおばさんからの新しい手編みのセーターと、大きなプラムケーキが出てきた。 おばさんのクリスマスカードを飾りながら、ハリーの胸に新たな自責の念が押よ寄せてきた−−。 ウィーズリーおじさんの車は「暴れ柳」に衝突して以来、行方が知れないし、その上、ロンと一緒にこれからひとしきり校則を破る計画を立てているのだ。 ホグワーツのクリスマス・ディナーだけは、何があろうと楽しい。 たとえこれからポリジュース薬を飲むことを恐れている人だって、やっぱり楽しい。 大広間は豪華絢欄だった。 霜に輝くクリスマス・ツリーが何本も立ち並び、ヒイラギとヤドリギの小枝が、天井を縫うように飾られ、魔法で、天井から暖かく乾いた雪が降りしきっていた。 ダンプルドアは、お気に入りのクリスマス・キャロルを二、三曲指揮し、ハグリッドは、エッグノッグを杯でがぶ飲みするたびに、もともと大きい声がますます大きくなった。 「監督生」のバッジに、フレッドがいたずらして字を変え、「劣等生」にしてしまったことに気がつかないパーシーは、みんながクスクス笑うたびに、どうして笑うのか聞いていた。 マルフォイはスリザリンのテーブルの方から、聞こえよがしにハリーの新しいセーターの悪口を言っていたが、ハリーは気にも止めなかった。うまくいけば、あと数時間で、マルフォイは罪の報いを受けることになるのだ。
ハリーとロンが、まだクリスマス・プディングの三皿目を食べているのに、ハーマイオニーが二人を追いたてて大広間から連れ出し、今夜の計画の詰めに入った。 「これから変身する相手の一部分が必要なの」 ハーマイオニーは、まるで二人にスーパーに行って洗剤を買ってこいとでもいうように、こともなげに言った。 「当然、クラップとゴイルから取るのが一番だわ。マルフォイの腰巾着だから、あの二人にだったらなんでも話すでしょうし。それと、マルフォイの取り調べをしてる最中に、本物のクラップとゴイルが乱入するなんてことが絶対ないようにしておかなきゃ」 「わたし、みんな考えてあるの」 ハリーとロンが度肝を抜かれた顔をしているのを無視して、ハーマイオニーはすらすらと言った。 そしてふっくらしたチョコレートケーキを二個差し出した。 「簡単な眠り薬を仕込んでおいたわ。あなたたちはクラップとゴイルがこれを見つけるようにしておけば、それだけでいいの。あの二人がどんなに意地汚いか、ご存知の通りだから、絶対食べるに決まってる。眠ったら、髪の毛を二、三本引っこ抜いて、それから二人を箒用の物置に隠すのよ」 ハリーとロンは大丈夫かなと顔を見合わせた。 「ハーマイオニー、僕、ダメなような−−」 「それって、ものすごく失敗するんじゃ−−」 しかし、ハーマイオニーの目には、厳格そのもののきらめきがあった。時々マクゴナガル先生が見せるあれだ。 「煎じ薬は、クラップとゴイルの毛がないと役に立ちません」断固たる声だ。 「あなたたち、マルフォイを尋問したいの?したくないの?」 「あぁ、わかったよ。わかったよ」とハリーが言った。 「でも、君のは?誰の髪の毛を引っこ抜くの?」 「わたしのはもうあるの!」ハーマイオニーは高らかにそう言うと、ボケットから小瓶を取り出し、中に入っている一本の髪の毛を見せた。 「覚えてる?決闘クラブでわたしと取っ組み合ったミリセント・ブルストロード。わたしの首を締めようとしたとき、わたしのローブにこれが残ってたのくそれに、彼女クリスマスで帰っちゃっていないし−−だから、スリザリン生には、学校に戻ってきちゃったと言えばいいわ」 ハーマイオニーがポリジュース薬の様子を見に、慌しく出て行ったあとで、ロンが運命に打ちひしがれたような顔でハリーを見た。 「こんなにしくじりそうなことだらけの計画って、聞いたことあるかい?」
ところが、作戦第一号はハーマイオニーの言った通りに、苦もなく進行した。 これにはハリーもロンも驚嘆した。クリスマスの午後のお茶のあと、二人で誰もいなくなった玄関ホールに隠れ、クラップとゴイルを待ち伏せした。 スリザリンのテーブルに、たった二人残ったクラップとゴイルは、デザートのトライフルの四皿目をガツガツたいらげていた。 ハリーはチョコレートケーキを、階段の手すりの端にちょんと載せておいた。大広間からクラップとゴイルが出てきたので、ハリーとロンは、正面の扉の脇に立っている鎧の陰に急いで隠れた。 クラップが大喜びでケーキを指差してゴイルに知らせ、二つとも引っつかんだのを見て、ロンが有頂天になってハリーにささやいた。 「あそこまでバカになれるもんかな?」 ニヤニヤとバカ笑いしながら、クラップとゴイルはケーキを丸ごと大きな口に収めた。 しばらくは二人とも、「もうけた」という顔で意地汚くもごもご口を動かしていた。 それから、そのまんまの表情で、二人ともパタンと仰向けに床に倒れた。 一番難しい一幕は、ホールの反対側にある物置に二人を隠すことだった。 バケツやモップの間に二人を安全にしまい込んだあと、ハリーはゴイルの額を覆っているごわごわの髪を二、三本、えいっと引き抜いた。 ロンは、クラップの髪を数本引っこ抜いた。二人の靴も失敬した。 なにしろハリーたちの靴では、クラップ、ゴイル・サイズの足には小さ過ぎるからだ。 それから、自分たちのやり遂げたことがまだ信じられないまま、二人は「嘆きのマートル」のトイレへと全速力で駆け出した。 ハーマイオニーが大鍋をかき混ぜている小部屋から、もくもくと濃い黒い煙が立ち昇り、二人はほとんど何も見えなかった。 ローブをたくし上げて鼻を覆いながら、二人は小部屋の戸をそっと叩いた。 「ハーマイオニー!」 閂がはずれる音がして、ハーマイオニーが顔を輝かせ、待ちきれない様子で現れた。 その後ろで、どろりと水あめ状になった煎じ薬がグッグッ、ゴボゴボ泡立つ音が聞こえた。 トイレの便座にタンブラー・グラスが三つ用意されていた。 「取れた?」ハーマイオニーが息を弾ませて聞いた。 ハリーはゴイルの髪の毛を見せた。 「結構。わたしの方は、洗濯物置き場から、着替え用のローブを三着、こっそり調達しといたわ」 ハーマイオニーは小ぶりの袋を持ち上げて見せた。 「クラップとゴイルになったときに、サイズの大きいのが必要でしょ」 三人は大鍋をじっと見つめた。近くで見ると、煎じ薬はどろりとした黒っぼい泥のようで、ボコッボコッと鈍く泡立っていた。 「すべて、まちがいなくやったと思うわ」 ハーマイオニーがしみだらけの「最も強力な魔法薬」のページを、神経質に読み返しながら言った。 「見た目もこの本に書いてある通りだし……。これを飲むと、また自分の姿に戻るまできっかり一時間よ」 「次はなにするの?」ロンがささやいた。 「薬を三杯に分けて、髪の毛をそれぞれ薬に加えるの」ハーマイオニーがひしゃくでそれぞれのグラスに、どろりとした薬をたっぷり入れた。 それから震える手で、小瓶に入ったミリセント・ブルストロードの髪を、自分のグラスに振り入れ、煎じ薬は、やかんのお湯が沸騰するようなシューシューという音をたて、激しく泡立った。 次の瞬間、薬はむかむかするような黄色に変わった。 「おぇ一−−ミリセント・ブルストロードのエキスだ」 ロンが胸糞が悪いという目つきをした。 「きっとイヤーな味がするよ」 「さあ、あなたたちも加えて」ハーマイオニーが促した。 ハリーはゴイルの髪を真ん中のグラスに落とし入れ、ロンも三つ目のグラスにクラップのを入れた。 二つともシューシューと泡立ち、ゴイルのは鼻くそのようなカーキ色、クラップのは濁った暗褐色になった。 「ちょっと待って」ロンとハーマイオニーがグラスを取り上げたとき、ハリーが止めた。 「三人一緒にここで飲むのはやめた方がいい。クラップやゴイルに変身したら、この小部屋に収まりきらないよ。それに、ミリセント・プルストロードだって、とても小柄とは言えないんだから」 「よく気づいたな」ロンは戸を開けながら言った。 「三人別々の小部屋にしよう」 ポリジュース薬を一滴もこぼすまいと注意しながら、ハリーは真ん中の小部屋に入り込んだ。 「いいかい!」ハリーが呼びかけた。 「いいよ」ロンとハーマイオニーの声だ。 「いち……にの……さん……」 鼻をつまんで、ハリーはゴックンと二口で薬を飲み干した。 煮込み過ぎたキャベツのような味がした。 途端に、体の中が、生きたヘビを飲み込んだみたいに振れだした−−ハリーは吐き気がして、体をくの字に折った−−すると、焼けるような感触が胃袋からサーッと広がり、手足の指先まで届いた。 次に、息が詰まりそうになって、全身が溶けるような気持の悪さに襲われ、四つんばいになった。 体中の皮膚が、蝋が熟で溶けるように泡立ち、ハリーの目の前で手は大きくなり、指は太くなり、爪は横に広がり、拳がボルトのように膨れ上がった。両肩はベキベキと広がって痛かったし、額はチクチクするので髪の毛が眉のところまで這い降りてきたことがわかった。 胸囲も拡がり、樽のタガが引きちぎられるようにハリーのローブを引き裂いた。 足は四サイズも小さいハリーの靴の中でうめいていた。 始まるのも突然だったが、終わるのも突然だった。 冷たい石の床の上に、ハリーはうつ伏せに突っ伏し、一番奥の小部屋で「嘆きのマートル」が気難しげにゴボゴボ音をたてているのを聞いていた。 ハリーはやっとこさ靴を脱ぎ捨てて、立ち上がった−−そうか、ゴイルになるって、こういう感じだったのか。 巨大な震える手で、ハリーは、踝から三十センチほど上にぶら下がっている自分の服をはぎ取り、着替えのローブを上からかぶり、ボートのようなゴイルの靴の紐をしめた。手を伸ばして目を覆っている髪を掻き上げようとしたが、ごわごわの短い髪が額の下の方にあるだけだった。目がよく見えなかったのはメガネのせいだったと気づいた。もちろんゴイルはメガネが要らない。 ハリーはメガネをはずし、二人に呼びかけた。 「二人とも大丈夫?」 口から出てきたのは、ゴイルの低いしゃがれ声だった。 「ああ」 右の方からクラップの唸るような低音が聞こえた。 ハリーは戸の鍵を開け、ひび割れた鏡の前に進み出た。 ゴイルがくぼんだ、どんより眼でハリーを見つめ返していた。 ハリーが耳を掻くとゴイルも掻いた。 ロンの戸が開いた。二人は互いにジロジロ見た。 ちょっと青ざめてショックを受けた様子を別にすれば、鍋底カットの髪型もゴリラのように長い手も、ロンはクラップそのものだった。 「おっどろいたなあ」 鏡に近寄り、クラップのぺちゃんこの鼻を突っつきながらロンが繰り返し言った。「おっどろいたなあ」 「急いだ方がいい」ハリーはゴイルの太い手首に食い込んでいる腕時計のバンドを緩めながら言った。 「スリザリンの談話室がどこにあるか見つけないと。誰かのあとをつけられればいいんだけど……」 ハリーをじっと見つめていたロンが言った。 「ねえ、ゴイルがなんか考えてるのって気味悪いよな」 ロンはハーマイオニーの戸をドンドン叩いた。 「出てこいよ。行かなくちゃ……」 甲高い声が返ってきた。 「わたし−−わたし行けないと思うわ。二人だけで行って」 「ハーマイオニー、ミリセント・ブルストロードがブスなのはわかってるよ。誰も君だってこと、わかりゃしない」 「ダメ−−ほんとにダメ−−行けないわ。二人とも急いで。時間をむだにしないで」 ハリーは当惑してロンを見た。 「その目つきの方がゴイルらしいや」ロンが言った。 「先生がやつに質問すると、必ずそんな目をする」 「ハーマイオニー、大丈夫なの?」ハリーがドア越しに声をかけた。 「大丈夫……わたしは大丈夫だから……行って…」 ハリーは腕時計を見た。貴重な六十分のうち、五分もたってしまっていた。 「あとでここで会おう。いいね?」ハリーが言った。 ハリーとロンはトイレの入り口の戸をそろそろと開け、周りに誰もいないことを確かめてから出発した。 「腕をそんなふうに振っちゃダメだよ」ハリーがロンにささやいた。 「えっ!」 「クラップって、こんなふうに腕を突っ張ってる……」 「こうかい?」 「ウン、その方がいい」 二人は大理石の階段を下りて行った。あとは、誰かスリザリン生が来れば、談話室までついていけばいい。しかし、誰もいない。 「なんかいい考えはない?」ハリーがささやいた。 「スリザリン生は朝食のとき、いつもあの辺から現れるな」 ロンは地下牢への入口あたりを顎でしゃくった。 その言葉が終わらないうちに、長い巻き毛の女子生徒が、その入口から出てきた。 「すみません」ロンが急いで彼女に近寄った。 「僕たちの談話室への道を忘れちゃった」 「なんですって!」そっけない返事が返ってきた。 「僕たちの談話室ですって!わたし、レイブンクローよ」 女子生徒はうさんくさそうに二人を振り返りながら立ち去った。 ハリーとロンは急いで石段を下りていった。 下は暗く、クラップとゴイルのデカ足が床を踏むので足音がひときわ大きくこだました−−思ったほど簡単じゃない−−二人はそう感じていた。 迷路のような廊下には人影もなかった。二人は、あと何分あるかとしょっちゅう時間を確認しながら、奥へ奥へと学校の地下深く入っていった。 十五分も歩いて、二人があきらめかけたとき、急に前の方で何か動く音がした。 「オッ!」ロンが勇みたった。 「今度こそ連中の一人だ!」 脇の部屋から誰か出てきた。しかし、急いで近寄ってみると、がっくりした。 スリザリン生ではなく、パーシーだった。 「こんなところでなんの用だい?」ロンが驚いて聞いた。 パーシーはむっとした様子だ。そっけない返事をした。 「そんなこと、君の知ったことじゃない。そこにいるのはクラップだな?」 「エーああ、ウン」ロンが答えた。 「それじゃ、自分の寮に戻りたまえ」パーシーが厳しく言った。 「このごろは暗い廊下をうろうろしていると危ない」 「自分はどうなんだ」とロンが突ついた。 「僕は」パーシーは胸を張った。 「監督生だ。僕を襲うものは何もない」。 突然、ハリーとロンの背後から声が響いた。ドラコ・マルフォイがこっちへやってくる。 ハリーは生まれて初めて、ドラコに会えて嬉しいと思った。 「おまえたち、こんなところにいたのか」マルフォイが二人を見て、いつもの気取った言い方をした。 「二人とも、今まで大広間でバカ食いしていたのか?ずっと探していたんだ。すごくおもしろい物を見せてやろうと思って」 マルフォイはパーシーを威圧するようににらみつけた。 「ところで、ウィーズリー、こんなところでなんの用だ?」マルフォイがせせら笑った。 パーシーはカンカンになった。 「監督生に少しは敬意を示したらどうだ!君の態度は気にくわん!」 マルフォイはフンと鼻であしらい、ハリーとロンについてこいと合図した。 ハリーはもう少しでパーシーに謝りそうになったが、危うく踏みとどまった。 二人はマルフォイのあとに続いて急いだ。角を曲がって次の廊下に出るとき、マルフォイが言った。 「あのピーター・ウィーズリーのやつ−−」 「パーシー」思わずロンが訂正した。 「なんでもいい」とマルフォィ。 「あいつ、どうもこのごろかぎ回っているようだ。何が目的なのか、僕にはわかってる。スリザリンの継承者を、一人で捕まえようと思ってるんだ」 マルフォイは嘲るように短く笑った。ハリーとロンはドキドキして目と目を見交わした。 湿ったむき出しの石が並ぶ壁の前でマルフォイは立ち止まった。 「新しい合言葉はなんだったかな?」マルフォイはハリーに聞いた。 「えーと−−」 「あ、そうそう−−純血!」マルフォイは答えも聞かずに合言葉を言った。 壁に隠された石の扉がするすると開いた。 マルフォイがそこを通り、ハリーとロンがそれに続いた。 スリザリンの談話室は、細長い天井の低い地下室で、壁と天井は粗削りの石造りだった。 天井から丸い緑がかったランプが鎖で吊るしてある。前方の壮大な彫刻を施した暖炉ではパチパチと火がはじけ、その周りに、彫刻入りの椅子に座ったスリザリン生の影がいくつか見えた。「ここで待っていろ」マルフォイは暖炉から離れたところにある空の椅子を二人に示した。 「今持ってくるよ−−父上が僕に送ってくれたばかりなんだ−−」 いったい何を見せてくれるのかといぶかりながら、ハリーとロンは椅子に座り、できるだけくつろいだふうを装った。 マルフォイは間もなく戻ってきた。新聞の切り抜きのような物を持っている。 それをロンの鼻先に突き出した。 「これは笑えるぞ」マルフォイが言った。 ハリーはロンが驚いて目を見開いたのを見た。 ロンは切り抜きを急いで読み、無理に笑ってそれをハリーに渡した。 「日刊予言者新聞」の切り抜きだった。
魔法省での尋問 マグル製品不正使用取締局、局長のアーサー・ウィーズリーはマゲルの自動車に魔法をかけたかどで、 今日、金貨五十ガリオンの罰金を言い渡された。 ホグワーツ魔法魔術学校の理事の一人、ルシウス・マルフォイ氏は、今日、ウィーズリー氏の辞任を要求した。 なお、問題の車は先ごろ前述の学校に墜落している。 「ウィーズリーは魔法省の評判を貯めた」マルフォイ氏は当社の記者にこう語った。 「氏はわれわれの法律を制定するにふさわしくないことは明らかで、彼の手になるバカバカしい 『マグル保護法』はただちに廃棄すべきである」 ウィーズリー氏のコメントは取ることができなかったが、彼の妻は記者団に対し、 「とっとと消えないと、家の屋根裏お化けをけしかけるわよ」と発言した。
「どうだ!」ハリーが切り抜きを返すと、マルフォイは待ちきれないように答えを促した。 「おかしいだろう!」 「ハッ、ハッ」ハリーは沈んだ声で笑った。 「アーサー・ウィーズリーはあれほどマグルぴいきなんだから、杖を真っ二つにへし折ってマグルの仲間に入ればいい」マルフォイは蔑むように言った。 「ウィーズリーの連中の行動を見てみろ。ほんとに純血かどうか怪しいもんだ」 ロンの−−いや、クラップの−−顔が怒りで歪んだ。 「クラップ、どうかしたか?」マルフォイがぶっきらぼうに聞いた。 「腹が痛い」ロンがうめいた。 「ああ、それなら医務室に行け。あそこにいる『穢れた血』の連中を、僕からだと言って蹴っ飛ばしてやれ」 マルフォイがクスクス笑いながら言った。 「それにしても、『日刊予言者新聞』が、これまでの事件をまだ報道していないのには驚くよ」 マルフォイが考え深げに話し続けた。 「たぶん、ダンプルドアが口止めしてるんだろう。こんなことがすぐにもお終いにならないと、彼はクビになるよ。父上は、ダンプルドアがいることが、この学校にとって最悪の事態だと、いつもおっしゃっている。彼はマグルびいきだ。きちんとした校長なら、あんなクリービーーみたいなくずのおべんちゃらを、絶対入学させたりはしない」 マルフォイは架空のカメラを構えて写真を撮る格好をし、コリンそっくりの残酷な物まねをしはじめた。 「ポッター、写真を撮ってもいいかい?ポッター、サインをもらえるかい?君の靴をなめてもいいかい?ポッター?」 マルフォイは手をパタリと下ろしてハリーとロンを見た。 「二人とも、いったいどうしたんだ!」 もう遅過ぎたが、二人は無理やり笑いをひねり出した。 それでもマルフォイは満足したようだった。たぶん、クラップもゴイルもいつもこれくらい鈍いのだろう。 「聖ポッター、『穢れた血』の友」マルフォイはゆっくりと言った。 「あいつもやっぱりまともな魔法使いの感覚を持っていない。そうでなければあの身のほど知らずのグレンジャー・ハーマイオニーなんかとつき合ったりしないはずだ。それなのに、みながあいつをスリザリンの継承者だなんて考えている!」 ハリーとロンは息をCENSORED待ち構えた。あとちょっとでマルフォイは自分がやったと口を割る。 しかし、そのとき−− 「いったい誰が継承者なのか僕が知ってたらなあ」マルフォイがじれったそうに言った。 「手伝ってやれるのに」 ロンは顎がカクンと開いた。クラップの顔がいつもよりもっと愚鈍に見えた。 幸いマルフォイは気づかない。ハリーはすばやく質問した。 「誰が陰で糸を引いてるのか、君に考えがあるんだろう……」 「いや、ない。ゴイル、何度も同じことを言わせるな」 マルフォイが短く答えた。 「それにへ父上は前回『部屋』が開かれたときのことも、まったく話してくださらない。もっとも五十年前だから、父上の前の時代だ。でも、父上はすべてご存知だし、すべてが沈黙させられているから、僕がそのことを知り過ぎていると怪しまれるとおっしゃるんだ。でも、一つだけ知っている。この前『秘密の部屋』が開かれたとき、『穢れた血』が一人死んだ。だから、今度も時間の問題だ。あいつらのうち誰かが殺される。グレンジャーだといいのに」 マルフォイは小気味よさそうに言った。ロンはクラップの巨大な拳を握りしめていた。ロンがマルフォイにパンチを食らわしたら、正体がばれてしまう、とハリーは目で警戒信号を送った。 「前に『部屋』を開けた者が捕まったかどうか、知ってる?」ハリーが聞いた。 「ああ、ウン……誰だったにせよ、追放された」とマルフォイが答えた。 「たぶん、まだアズカバンにいるだろう」 「アズカバン?」ハリーはキョトンとした。 「アズカバン−−魔法使いの牢獄だ」マルフォイは信じられないという目つきでハリーを見た。 「まったく、ゴイル、おまえがこれ以上うすのろだったら、後ろに歩きはじめるだろうよ」 「父上は、僕が目立たないようにして、スリザリンの継承者にやるだけやらせておけっておっしゃる。この学校には『穢れた血』の粛清が必要だって。でも関わり合いになるなって。もちろん、父上は今、自分の方も手一杯なんだ。ほら、魔法省が先週、僕たちの館を立入り検査しただろう?」マルフォイは椅子に座ったまま落ち着かない様子で体を揺すった。 ハリーはゴイルの鈍い顔をなんとか動かして心配そうな表情をした。 「そうなんだ…!」とマルフォィ。 「幸い、たいした物は見つからなかったけど。父上は非常に貴重な闇の魔術の道具を持っているんだ。応接間の床下に我が家の『秘密の部屋』があって−−」 「ホー!」ロンが言った。 マルフォイがロンを見た。ハリーも見た。ロンが赤くなった。髪の毛まで赤くなった。 鼻もだんだん伸びてきた−−時間切れだ。ロンは自分に戻りつつあった。ハリーを見るロンの目に急に恐怖の色が浮かんだのは、ハリーもそうだからに違いない。二人は大急ぎで立ち上がった。 「胃薬だ」ロンがうめいた。 二人は振り向きもせず、スリザリンの談話室を端から端まで一目散に駆け抜け、石の扉に猛然と体当たりし、廊下を全力疾走した。 −−なにとぞマルフォイがなんにも気づきませんように−−と二人は祈った。 ハリーはゴイルのダポ靴の中で足がズルズル滑るのを感じたし、自分が縮んで行くので、ローブをたくし上げなければならなかった。 二人は階段をドタバタと駆け上がり、暗い玄関ホールにたどり着いた。 クラップとゴイルを閉じ込めて鍵を掛けた物置の中から、激しくドンドンと戸を叩くこもった音がしている。 物置の戸の外側に靴を置き、ソックスのまま全速力で大理石の階段を上り、二人は「嘆きのマートル」のトイレに戻った。 「まあ、まったく時間のムダにはならなかったよな」ロンがぜいぜい息を切らしながら、トイレの中からドアを閉めた。 「襲っているのが誰なのかはまだわからないけど、明日パパに手紙を書いてマルフォイの応接間の床下を調べるように言おう」 ハリーはひび割れた鏡で自分の顔を調べた。普段の顔に戻っていた。メガネをかけていると、ロンがハーマイオニーの入っている小部屋の戸をドンドン叩いていた。 「ハーマイオニー、出てこいよ。僕たち君に話すことが山ほどあるんだ−−」 「帰って!」ハーマイオニーが叫んだ。 ハリーとロンは顔を見合わせた。 「どうしたんだい!」ロンが聞いた。 「もう元の姿に戻ったはずだろ。僕たちは……」 「嘆きのマートル」が急にするりとその小部屋の戸から出てきた。 こんなに嬉しそうなマートルを、ハリーは初めて見た。 「きゃははははは!見てのお楽しみ」マートルが言った「ひどいから!」 閂が横に滑る音がして、ハーマイオニーが出てきた。しゃくりあげ、頭のてっぺんまでローブを引っ張り上げている。 「どうしたんだよ?」ロンがためらいながら聞いた。 「ミリセントの鼻かなんか、まだくっついてるのかい!」 ハーマイオニーはローブを下げた。ロンがのけぞって手洗い台にはまった。 ハーマイオニーの顔は黒い毛で覆われ、目は黄色に変わっていたし、髪の毛の中から、長い三角耳が突き出していた。 「あれ、ね、猫の毛だったの!」ハーマイオニーが泣き喚いた。 「ミ、ミリセント・ブルストロードは猫を飼ってたに、ち、違いないわ!それに、このせ、煎じ薬は動物変身に便っちゃいけないの!」 「う、ぁ」とロン。 「あんた、ひどくからかわれるわよ」マートルは嬉しそうだ。 「大丈夫だよ、ハーマイオニー」ハリーは即座に言ってハーマイオニーの猫の肉球になった手をとった。 「医務室に連れて行ってあげるよ。マダム・ポンフリーはうるさく追及しない人だし……」 ハーマイオニーにトイレから出るよう説得するのに、ずいぶん時間がかかった。 「嘆きのマートル」がゲラゲラ大笑いして三人を煽りたて、マートルの言葉に追われるように、三人は足を速めた。 「みんながあんたの尻尾を見つけて、なーんて言うかしらー!」
ハーマイオニーは数週間医務室に泊まった。 クリスマス休暇を終えて戻ってきた生徒たちは、当然、誰もがハーマイオニーは襲われたと思ったので、彼女の姿が見えないことで、さまざまなうわさが乱れ飛んだ。 ちらりとでも姿を見ようと、医務室の前を入れ代わり立ち代わり、往き来するので、マダム・ポンフリーは、毛むくじゃらの顔が人目に触れたら恥ずかしいだろうと、またいつものカーテンを取り出して、ハーマイオニーのベッドの周りを囲った。 ハリーとロンは毎日夕方に見舞いに行った。新学期が始まってからは、毎日その日の宿題を届けた。 「髭が生えてきたりしたら、僕なら勉強は休むけどなあ」 ある夜ロンは、ハーマイオニーのベッドの脇机に、本を一抱えドサドサと落としながら言った。 「バカなこと言わないでよ、ロン。遅れないようにしなくちゃ」元気な答えだ。 顔の毛がきれいさっぱりなくなり、目も少しずつ褐色に戻ってきていたので、ハーマイオニーの気分もずいぶん前向きになっていた。 「何か新しい手がかりはないの?」マダム・ポンフリーに聞こえないようにハーマイオニーが声をひそめた。 「なんにも」ハリーは憂鬱な声を出した。 「絶対マルフォイだと思ったのになぁ」ロンはその言葉をもう百回は繰り返していた。 じっとハーマイオニーを見つめると、スッと視線を外された。 不審に思っていると、枕の下に何か隠そうとしている。 「それ、なあに?」 ハーマイオニーの枕の下から何か金色のものがはみ出しているのを見つけて、ハリーがたずねた。 「た・ただのお見舞いカードよ」 ハーマイオニーが慌てて押し込もうとしたが、ロンがそれより素早く引っ張り出し、サッと広げて声を出して読んだ。
「ミス・グレンジャーへー早くよくなるようお祈りしています。 貴女のことを心配しているギルデロイ・ロックハート教授より 勲三箒マーリン勲章、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員、 『週刊魔女』五回連続チャーミング・スマイル賞受賞−−」
ロンがあきれ果ててハーマイオニーを見た。 「君、こんなもの、枕の下に入れて寝ているのか?」 しかし、マダム・ポンフリーが夜の薬を持って威勢よく入ってきたので、ハーマイオニーは言い逃れをせずにすんだ。
「ロックハートって、おべんちゃらの最低なやつ!だよな?」 医務室を出て、グリフィンドール塔へ向かう階段を上りながら、ロンがハリーに言った。
スネイプはものすごい量の宿題を出していたので、やり終える前に六年生になってしまうかもしれない、とハリーは思った。 「髪を逆立てる薬」にはネズミの尻尾を何本入れたらいいのかハーマイオニーに聞けばよかった、とロンが言ったちょうどそのとき、上の階で誰かが怒りを爆発させている声が聞こえてきた。 「あれはフィルチだ」とハリーが呟いた。 二人は階段を駆け上がり、立ち止まって身を隠し、じっと耳をすませた。 「誰かまた、襲われたんじゃないよな?」ロンは緊張した。 立ち止まって、首だけを声の方向に傾けて聞いていると、フィルチのヒステリックな声が聞こえた。 「……また余計な仕事ができた!一晩中モップをかけるなんて。これでもまだ働き足りんとでもいうのか。たくさんだ。堪忍袋の緒が切れた。ダンプルドアのところにいくぞ……」 足音がだんだん小さくなり、遠くの方でドアの閉まる音がした。 二人は廊下の曲り角から首を突き出した。 フィルチがいつものところに陣取って見張りをしていたことは明らかだ。 二人はまたしてもミセス・ノリスが襲われたあの場所に来ていた。 フィルチが大声をあげていたのか、一目でわかった。 おびただしい水が、廊下の半分を水浸しにし、その上、「嘆きのマートル」のトイレのドアの下からまだ漏れ出しているようだ。 フィルチの叫び声が聞こえなりなったので、今度はマートルの泣き叫ぶ声がトイレの壁にこだましているのが聞こえた。 「マートルにいったい何があったんだろう?」ロンが言った。 「行ってみよう」 ハリーはローブの裾を踝までたくし上げ、水でぐしょぐしょの廊下を横切り、トイレの「故障中」の掲示をいつものように無視して、ドアを開け、中へ入って行った。 「嘆きのマートル」はいつもよりいっそう大声で−−そんな大声が出せるならの話だが−−激しく泣き喚いていた。 マートルはいつもの便器の中に隠れているようだ。 大量の水が溢れて床や壁がびっしょりと濡れたせいで、蝋燭が消え、トイレの中は暗かった。 「どうしたの?マートル」ハリーが聞いた。 「誰なの!」マートルは哀れっぽくゴボゴボと言った。 「また何か、わたしに投げつけにきたの!」 ハリーは水溜りを渡り、奥の小部屋まで行き、マートルに話しかけた。 「どうして僕が君に何かを投げつけたりすると思うの?」 「わたしに聞かないでよ」 マートルはそう叫ぶと、またもや大量の水をこぼしながら姿を現した。 水浸しの床がさらに水をかぶった。 「わたし、ここで誰にも迷惑をかけずに過ごしているのに、わたしに本を投げつけておもしろがる人がいるのよ……」 「だけど、何かを君にぶつけても、痛くないだろう?君の体を通り抜けて行くだけじゃないの?」 ハリーは理屈に合ったことを言った。 それが大きなまちがいだった。 マートルは、わが意を得たりとばかりに膨れ上がって喚いた。 「さあ、マートルに本をぶっつけよう!大丈夫、あいつは感じないんだから!腹に命中すれば一〇点!頭を通り抜ければ五〇点!そうだ、ハ、ハ、ハ!なんて愉快なゲームだ!どこが愉快だっていうのよ!」 「いったい誰が投げつけたの?」ハリーがたずねた。 「知らないわ……U字溝のところに座って、死について考えていたの。そしたら頭のてっぺんを通って、落ちてきたわ」マートルは二人をにらみつけた。 「そこにあるわ。わたし、流し出してやった」 マートルが指差す手洗い台の下を、ハリーとロンは探してみた。 小さな薄い本が落ちていた。 ポロポロの黒い表紙が、トイレの中の他の物と同じようにビショ濡れだった。 ハリーは本を拾おうと一歩踏み出したが、ロンが慌てて腕を伸ばし、ハリーを止めた。 「なんだい?」とハリー。 「気は確かか!危険かもしれないのに」とロン。 「危険?よせよ。なんでこんなのが危険なんだい?」ハリーは笑いながら言った。 「みかけによらないんだ」ロンは、不審げに本を見ていた。 「魔法省が没収した本の中には−−パパが話してくれたんだけど目を焼いてしまう本があるんだって。それとか、『魔法使いのソネット(十四行詩)』を読んだ人はみんな、死ぬまでバカバカしい詩の口調でしかしゃべれなりなったり。それにバース市の魔法使いの老人が持ってた本は、読み出すと絶対やめられないんだ。本に没頭したっきりで歩き回り、何をするにも片手でしなきゃならなくなるんだって。それから−−」 「もういいよ、わかったよ」ハリーが言った。 床に落ちている小さな本は、水浸しで、何やら得体が知れなかった。 「だけど、見てみないと、どんな本かわからないだろう」 ハリーは、ロンの制止をひょいとかわして、本を拾い上げた。 それは日記だった。ハリーには一目でわかった。表紙の文字は消えかけているが、五十年前の物だとわかる。ハリーはすぐに開けてみた。最初のページに名前がやっと読み取れる。
−−T・M・リドル−−
インクが滲んでいる。 「ちょっと待ってよ」 用心深く近づいてきたロンが、ハリーの肩越しに覗き込んだ。 「この名前、知ってる……T・M・リドル。五十年前、学校から『特別功労賞』をもらったんだ」 「どうしてそんなことまで知ってるの?」ハリーは感心した。 「だって、処罰を受けたとき、フィルチに五十回以上もこいつの盾を麿かされたんだ」 ロンは恨みがましく言った。 「ナメクジのゲップを引っかけちゃった、あの盾だよ。名前のところについたあのネトネトを一時間も磨いてりや、いやでも名前を覚えるさ」 ハリーは濡れたページをはがすようにそっとめくっていった。 何も書かれていなかった。 どのページにも、何か書いたような形跡がまったくなかった。 たとえば、「メイベルおばさんの誕生日」とか、「歯医者三時半」とかさえない。 「この人、日記になんにも書かなかったんだ」 ハリーはがっかりした。 「誰かさんは、どうしてこれをトイレに流してしまいたかったんだろう……」 ロンが興味深げに言った。裏表紙を見ると、ロンドンのボグゾール通りの新聞・雑誌店の名前が印刷してあるのが、ハリーの目に止まった。 「この人、マグル出身に違いない。ボグゾール通りで日記を買ってるんだから……」 ハリーは考え深げに言った。 「そうだね、君が持ってても役に立ちそうにないよ」 そう言ったあとでロンは声を低くした。 「マートルの鼻に命中すれば五〇点」 だが、ハリーはそれをポケットに入れた。
二月の初めには、ハーマイオニーが髭なし、尻尾なし、顔の毛もなしになって、退院した。 グリフィンドール塔に帰ってきたその夜、ハリーはT・M・リドルの日記を見せ、それを見つけたときの様子を話した。 「うわー、もしかしたら何か隠れた魔力があるのかもよ」 ハーマイオニーは興味津々で、日記を手に取って、詳細に調べた。 「魔力を隠してるとしたら、完壁に隠しきってるよ。恥ずかしがり屋かな。ハリー、そんなもの、なんで捨ててしまわないのか、僕にはわからないな」 「どうして誰かがこれを捨てようとしたのか、それが知りたいんだよ」ハリーは答えた。 「リドルがどうして、『ホグワーツ特別功労賞』をもらったかも知りたいし」 「そりゃ、なんでもありさ。O.W.Lの試験で三十科目も受かったとか、大イカに捕まった先生を救ったとか。極端な話、もしかしたらマートルを死なせてしまったのかもしれないぞ。それがみんなのためになったとか……」 しかしハリーは、じっと考え込んでいるハーマイオニーの表情から、自分と同じことを考えているのがわかった。 「なんだよ?」その二人の顔を交互に見ながらロンが言った。 「ほら、『秘密の部屋』は五十年前に開けられただろう?」ハリーが言った。 「マルフォイがそう言ったよね」 「ウーン……」 ロンはまだ飲み込めていない。 「そして、この日記は五十年前の物なのよ」 ハーマイオニーが興奮してハリーの肩に顎を乗せ手を伸ばしてトントンと日記を叩いた。 「それが?」 「何よ、ロン。目を覚ましなさい」ハーマイオニーがぴしりと言った。 「『秘密の部屋』を開けた人が五十年前に学校から追放されたことは知ってるでしょう。T・M・リドルが五十年前『特別功労賞』をもらったことも知ってるでしょう。それなら、もしリドルがスリザリンの継承者を捕まえたことで、賞をもらったとしたらどう?この日記はすべてを語ってくれるかもしれないわ。『部屋』がどこにあるのか、どうやって開けるのか、その中にどんな生物が住んでいるのか。今回の襲撃事件の背後にいる人物にとっては、日記がその辺に転がってたら困るでしょ?」 「そいつは素晴らしい論理だよ、ハーマイオニー」ロンが混ぜっ返した。 「だけど、ほんのちょっと、ちっちゃな穴がある。日記にはなーんも書かれていなーい」 しかし、ハーマイオニーは鞄の中から杖を取り出した。 「透明インクかもしれないわ!」ハーマイオニーは呟いた。 日記を三度軽く叩き「アパレシワム!<現れよ>」と唱えた。 何事も起きない。だがハーマイオニーは怯むことなく、鞄の中にぐいっと手を突っ込み、真っ赤な消しゴムのような物を取り出した。「『現れゴム』よ。ダイアゴン横丁で買ったの」一月一日のページをゴシゴシこすった。何も起こらない。 「だから言ってるじゃないか。何も見つかるはずないよ」ロンが言った。 「リドルはクリスマスに日記帳をもらったけど、何も書く気がしなかったんだ」 ではなぜリドルの日記を捨ててしまわないのか、ハリーは自分でもうまく説明できなかった。 何も書いてないことは百も承知なのに、ふと気がつくとハリーは何気なく日記を取り上げて、白紙のページをめくっていることが多かった。まるで最後まで読み終えてしまいたい物語か何かのように。 T・M・リドルという名前は、一度も聞いたことがないのに、なぜか知っているような気がした。リドルが小さいときの友達で、ほとんど記憶の彼方に行ってしまった名前のような気さえした。しかし、そんなことはありえない。ホグワーツに来る前は、誰一人友達がいなかった。ダドリーのせいで、それだけは確かだ。 それでも、ハリーはリドルのことをもっと知りたいと、強くそう願った。 そこで次の日、休憩時間に、リドルの「特別功労賞」を調べようと、トロフィー・ルームに向かった。興味津々のハーマイオニーと、「あの部屋は、もう一生見たくないぐらい十分見た」と言う不承不承のロンも一緒だった。 リドルの金色の盾は、ピカピカに磨かれ、部屋の隅の飾り棚の奥の方に収まっていた。 なぜそれが与えられたのか、詳しいことは何も書かれていない(「その方がいいんだ。なんか書いてあったら、盾がもっと大きくなるから、きっと僕は今でもこれを磨いてただろうよ」とロンが言った)。 リドルの名前は「魔術優等賞」の古いメダルと、首席名簿の中にも見つかった。 「パーシーみたいなやつらしいな」 ロンは鼻に皺を寄せ、むかついたような言い方をした。 「監督生、首席−−たぶんどの科目でも一番か」 「なんだかそれが悪いことみたいな言い方ね」 ハーマイオニーが少し傷ついたような声で言った。ハリーは慰めるようにハーマイオニーの腕をそっと撫でた。
淡い陽光がホグワーツを照らす季節が再び巡ってきた。城の中には、わずかに明るいムードが漂いはじめた。ジャスティンと「ほとんど首無しニック」の事件以来、誰も襲われてはいなかった。マンドレイクが情緒不安定で隠し事をするようになったと、マダム・ポンフリーが嬉しそうに報告した。急速に思春期に入るところだというわけだ。 「にきびがきれいになりなったら、すぐ二度目の植え替えの時期ですからね。そのあとは、刈り取って、トロ火で煮るまで、もうそんなに時間はかかりません。ミセス・ノリスはもうすぐ戻ってきますよ」 ある日の午後、マダム・ポンフリーがフィルチにやさしくそう言っているのを、ハリーは耳にした。 おそらくスリザリンの継承者は、腰砕けになったんだろう、とハリーは考えた。 学校中がこなに神経を尖らせて警戒している中で、「秘密の部屋」を開けることはだんだん危険になってきたに違いない。 どんな怪物かは知らないが、今や静かになって、再び五十年の眠りについたのかもしれない……。 ハッフルパフのアーニー・マクミランはそんな明るい見方はしていなかった。 いまだにハリーが犯人だと確信していたし、決闘クラブでハリーが正体を現したのだと信じていた。ビープズも状況を悪くする一方だ。 人が大勢いる廊下にボンと現れ、「♪オー、ポッター、いやなやつだー……」と今や歌に合わせた振り付けで踊る始末だった。ギルデロイ・ロックハートは、自分が襲撃事件をやめさせたと考えているらしかった。 グリフィンドール生が、変身術のクラスの前で列を作って待っているときに、ロックハートがマクゴナガル先生にそう言っているのを、ハリーは小耳に挟んだ。 「ミネルバ、もう厄介なことはないと思いますよ」 わけ知り顔にトントンと自分の鼻を叩き、ウインクしながらロックハートが言った。 「今度こそ部屋は、永久に閉ざされましたよ。犯人は、私に捕まるのは時間の問題だと観念したのでしょう。私にコテンパンにやられる前にやめたとは、なかなか利口ですな」 「そう、今、学校に必要なのは、気分を盛り上げることですよ。先学期のいやな思い出を一掃しましょう!今はこれ以上申し上げませんけどね、まさにこれだ、という考えがあるんですよ……」 ロックハートはもう一度鼻を叩いて、スタスク歩き去った。 ロックハートの言う気分盛り上げが何か、二月十四日の朝食時に明らかになった。 前夜遅くまでクィディッチの練習をしていたハリーは、寝不足のまま、少し遅れて大広間に着いた。一瞬、これは部屋をまちがえた、と思った。壁という壁がけばけばしい大きなピンクの花で覆われ、おまけに、淡いブルーの天井からはハート型の紙吹雪が舞っていた。グリフィンドールのテーブルに行くと、ロンが吐き気を催しそうな顔をして座っていた。ハーマイオニーは、クスクス笑いを抑えきれない様子だった。 「これ、何事?」 ハリーはテーブルにつき、ベーコンから紙吹雪を払いながら二人に聞いた。 ロンが口をきくのもアホらしいという顔で、先生たちのテーブルを指差した。 部屋の飾りにマッチした、けばけばしいピンクのローブを着たロックハートが、手を挙げて「静粛に」と合図しているところだった。ロックハートの両側に並ぶ先生たちは、石のように無表情だった。ハリーの席から、マクゴナガル先生の頬がヒクヒク疫撃するのが見え、スネイプは、大きいビーカー一杯の『骨生え薬』を誰かに飲まされたかのような顔をしていた。 「バレンタインおめでとう!」ロックハートは叫んだ。 「今までのところ四十六人の皆さんが私にカードをくださいました。ありがとう!そうです。皆さんをちょっと驚かせようと、私がこのようにさせていただきました−−しかも、これがすべてではありませんよ!」 ロックハートがボンと手を叩くと、玄関ホールに続くドアから、無愛想な顔をした小人が十二人ゾロゾロ入ってきた。それもただの小人ではない。 ロックハートが全員に金色の翼をつけ、ハープを持たせていた。 「私の愛すべき配達キューピッドです!」ロックハートがニッコリ笑った。 「今日は学校中を巡回して、皆さんのバレンタイン・カードを配達します。 そしてお楽しみはまだこれからですよ!先生方もこのお祝いのムードにはまりたいと思っていらっしゃるはずです!さあ、スネイプ先生に『愛の妙薬』の作り方を見せてもらってはどうです!ついでに、フリットウィック先生ですが、『魅惑の呪文』について、私が知っているどの魔法使いよりもよくご存知です。素知らぬ顔して憎いですね!」 フリットウィック先生はあまりのことに両手で顔を覆い、スネイプの方は、「『愛の妙薬』をもらいにきた最初のやつには毒薬を無理やり飲ませてやる」という顔をしていた。 「ハーマイオニー、頼むよ。君まさか、その四十六人に入ってないだろうな」 大広間から最初の授業に向かうとき、ロンが聞いた。ハーマイオニーは急に、時間割はどこかしらと、鞄の中を夢中になって探しはじめ、答えようとしなかった。 小人たちは一日中教室に乱入し、バレンタイン・カードを配って、先生たちをうんざりさせた。 午後も遅くなって、グリフィンドール生が「妖精の魔法」教室に向かって階段を上がっているとき、小人がハリーを追いかけてきた。 「オー、あなたにです!アリー・ポッター」 とぴきりしかめっ面の小人がそう叫びながら、人の群れを肘で押しのけて、ハリーに近づいた。 一年生が並んでいる真ん前で、しかもジニー・ウィーズリーもたまたまその中にいるのに、カードを渡されたらたまらないと、全身カーッと熱くなったハリーは、迎げようとした。 ところが小人は、そこいら中の人のむこう腔を蹴っ飛ばして、ハリーがほんの二歩も歩かないうちに前に立ちふさがった。 「アリー・ポッターに、じきじきにお渡ししたい歌のメッセージがあります」と、小人はまるで脅かすように竪琴をビュンビュンかき鳴らした。 「ここじゃダメだよ」ハリーは逃げようとして、歯を食いしばって言った。 「動くな!」小人は鞄をがっちり捕まえてハリーを引き戻し、唸るように言った。 「放して!」ハリーが鞄をぐいっと引っ張り返しながら怒鳴った。 ビリビリと大きな音がして、ハリーの鞄は真っ二つに破れた。 本、杖、羊皮紙、羽ペンが床に散らばり、インク壷が割れて、その上に飛び散った。 小人が歌いだす前にと、ハリーは走り回って拾い集めたが、廊下は渋滞して人だかりができた。 「何をしてるんだい?」 ドラコ・マルフォイの冷たく気取った声がした。ハリーは破れた鞄に何もかもがむしゃらに突っ込み、マルフォイに歌のメッセージを聞かれる前に、逃げ出そうと必死だった。 「この騒ぎはいったい何事だ!」 また聞き慣れた声がした。パーシー・ウィーズリーのご到着だ。 頭の中が真っ白になり、ハリーはともかく一目散に逃げ出そうとした。 しかし小人はハリーの膝のあたりをしっかとつかみ、ハリーは床にバッタリ倒れた。 「これでよし」小人はハリーの踝の上に座り込んだ。 「貴方に、歌うバレンタインです」
♪あなたの目は緑色、新鮮な蛙のピクルスのよう あなたの髪は真っ黒、黒板のよう あなたがわたしのものならいいのに。あなたは素敵 闇の帝王を倒した、あなたは英雄
この場で煙のように消えることができるなら、グリンゴッツにある金貨を全部やってもいい−−勇気をふりしぼってみんなと一緒に笑ってみせ、ハリーは立ち上がった。 小人に乗っかられて、足がしびれていた。笑い過ぎて涙が出ている生徒もいる。 そんな見物人を、パーシー・ウィーズリーがなんとか追い散らしてくれた。 「さあ、もう行った、行った。ベルは五分前に鳴った。すぐ教室に戻れ」 パーシーはシッシッと下級生たちを追いたてた。 「マルフォイ、君もだ」 ハリーがチラリと見ると、マルフォイがかがんで何かを引ったくったところだった。 マルフォイは横目でこっちを見ながら、クラップとゴイルにそれを見せている。 ハリーはそれがリドルの日記だと気がついた。 「それは返してもらおう」ハリーが静かに言った。 「ポッターはいったいこれに何を書いたのかな?」 マルフォイは表紙の年号に気づいてはいないらしい。 ハリーの日記だと思い込んでいる。見物人もシーンとしてしまった。 ジニーは顔を引きつらせて、日記とハリーの顔を交互に見つめている。 「マルフォイ、それを渡せ」パーシーが厳しく言った。 「ちょっと見てからだ」 マルフォイは嘲るようにハリーに日記を振りかざした。 パーシーがさらに言った。「本校の監督生として−−」しかし、ハリーはもう我慢がならなかった。杖を取り出し、一声叫んだ。 「エクスペリアームス!<武器よ去れ>」 スネイプがロックハートの武器を取り上げたときと同じように、日記はマルフォイの手を離れ、宙を飛んだ。ロンが満足げにニッコリとそれを受け止めた。 「ハリー!」パーシーの声が飛んだ。 「廊下での魔法は禁止だ。これは報告しなくてはならない。いいな!」 ハリーはどうでもよかった。マルフォイより一枚上手に出たんだ。 グリフィンドールからいつ五点引かれようと、それだけの価値がある。マルフォイは怒り狂っていた。ジニーが教室に行こうとしてマルフォイのそばを通ったとき、その後ろからわざと意地悪く叫んだ。 「ポッターは君のバレンタインが気に入らなかったみたいだぞ」 ジニーは両手で顔を覆い、教室へ走り込んだ。歯をむき出し、ロンが杖を取り出したが、そはハリーが押し留めた。「妖精の魔法」の授業の間中、ナメクジを吐き続けると気の毒だ。 フリットウィック先生の教室に着いたとき、初めてハリーは、リドルの日記が何か変だという事に気付いた。ハリーの本はみんな赤インクで染まっている。 インク壷が割れていやというほどインクをかぶったはずなのに、日記は何事もなかったかのように以前のままだ。ロンにそれを教えようとしたが、ロンはまたまた杖にトラブルがあったらしく、先端から大きな紫色の泡が次々と花のように咲き、他のことに興味を示すどころではなかった。 その夜、ハリーは同室の誰よりも先にベッドに入った。 一つにはフレッドとジョージが、「♪あなたの目は緑色ー青い蛙の新漬のよう」と何度も歌うのがうんざりだったし、それにリドルの日記をもう一度調べてみたかったからだ。 ロンにもちかけても、そんなことは時間のむだと言うに違いない。 ハリーは天蓋付きベッドに座り、何も書いていないページをパラパラとめくってみた。 どのページにも赤インクのしみ一つない。 ベッド脇の物入れから、新しいインク壷を取り出し、羽ペンを浸し、日記の最初のページにポッンと落としてみた。 インクは紙の上で一瞬明るく光ったが、まるでページに吸い込まれるように消えてしまった。胸をドキドキさせ、羽ペンをもう一度つけて書いてみた。 「僕はハリー・ポッターです」 文字は一瞬紙の上で輝いたかと思うと、またもや、あとかたもなり消えてしまった。 そして、ついに思いがけないことが起こった。 そのページから、今使ったインクが滲み出してきて、ハリーが書いてもいない文字が現れたのだ。 「こんにちは、ハリー・ポッター。僕はトム・リドルです。君はこの日記をどんなふうにして見つけたのですか」 この文字も薄くなって行ったが、その前にハリーは返事を走り書きした。 「誰かがトイレに流そうとしていました」 リドルの返事が待ちきれない気拝だった。 「僕の記憶を、インクよりずっと長持ちする方法で記録しておいたのは幸いでした。 しかし僕はこの日記が読まれたら困る人たちがいることを、初めから知っていました」 「どういう意味ですか?」ハリーは興奮のあまりあちこちしみをつけながら書きなぐった。 「この日記には恐ろしい記憶が記されているのです。覆い隠されてしまった、ホグワーツ魔法魔術学夜で起きた出来事が 「僕は今そこにいるのです」ハリーは急いで書いた。 「ホグワーツにいるのです。恐ろしいことが起きています。『秘密の部屋』について何かご存知ですか?」 心臓が高鳴った。リドルの答えはすぐ返ってきた。知っていることをすべて、急いで伝えようとしているかのように、文字も乱れてきた。 「もちろん、『秘密の部屋』のことは知っています。僕の学生時代、それは伝説だ、存在しないものだと言われていました。でもそれは嘘だったのです。僕が五年生のとき、部屋が開けられ、怪物が数人の生徒を襲い、とうとう一人が殺されました。僕は、『部屋』を開けた人物を捕まえ、その人物は追放されました。校長のディペット先生は、ホグワーツでそのようなことが起こったことを恥ずかしく思い、僕が真実を語ることを禁じました。死んだ少女は、何かめったにない事故で死んだという話が公表されました。僕の苦労に対する褒美として、キラキラ輝く、素敵なトロフィーに名を刻み、それを授与する代わりに固くロを閉ざすよく忠告されました。しかし、僕は再び事件が起こるであろうことを知っていました。怪物はそれからも生き続けましたし、それを解き放つカを持っていた人物は投獄されなかったのです」 急いで書かなくてはと焦ったハリーは、危うくインク壷を引っくり返しそうになった。 「今、またそれが起きているのです。三人も襲われ、事件の背後に誰がいるのか、見当もつきません。前のときはいったい誰だったのですか?」 「お望みならお見せしましょう」 リドルの答えだった。 「僕の言うことを信じる信じないは自由です。僕が犯人を捕まえた夜の思い出の中に、あなたをお連れすることができます」 羽ペンを日記の上にかざしたまま、ハリーはためらっていた リドルはいったい何を言っているんだろう?他の人の思い出の中にハリーをどうやって連れていくんだろう−−ハリーは寝室の入口の方を、チラリと落ち着かない視線で眺めた。 部屋がだんだん暗くなってきていた。ハリーが日記に視線を戻すと、新しい文字が浮かび出てきた。 「お見せしましょう」 ほんの一瞬、ハリーはためらったが、二つの文字を書いた。 「OK」 日記のページがまるで強風に煽られたようにパラパラとめくられ、六月の中ほどのページで止まった。 六月十三日と書かれた小さな枠が、小型テレビの画面のようなものに変わっていた。 ハリーはポカンと口を開けて見とれた。 すこし震える手で本を取り上げ、ハリーが小さな画面に目を押しつけると、何がなんだかわからないうちに、体がぐーっと前のめりになり、画面が大きくなり、体がベッドを離れ、ページの小窓から真っ逆さまに投げ入れられる感じがした−−色と陰の渦巻く中へ。
ハリーは両足が固い地面に触れたような気がして、震えながら立ち上がった。 すると周りのぼんやりした物影が、突然はっきり見えるようになった。 自分がどこにいるのか、ハリーにはすぐわかった。 居眠り肖僕画のかかっている円形の部屋はダンプルドアの校長室だ−−しかし、机のむこうに座っているのはダンプルドアではなかった。 皺くちゃで弱々しい小柄な老人が、パラパラと白髪の残る禿頭を見せて、蝋燭の灯りで手紙を読んでいた。 ハリーが一度も会ったことのない魔法使いだった。 「すみません」ハリーは震える声で言った。 「突然お邪魔するつもりはなかったんですが……」 しかし、その魔法使いは下を向いたまま、少し眉をひそめて読み続けている。 ハリーは少し机に近づき、突っかえながら言った。 「あのー、僕、すぐに失礼した方が?」 それでも無視され続けた。どうもハリーの言うことが聞こえてさえいないようだ。 耳が違いかもしれないと思い、ハリーは声を張りあげた。 「お邪魔してすみませんでした。すぐ失礼します」ほとんど怒鳴るように言った。 その魔法使いはため息をついて、羊皮紙の手紙を丸め、立ち上がり、ハリーには目もくれずにそばを通り過ぎて、窓のカーテンを閉めた。 窓の外はルビーのように真っ赤な空だった。夕陽が沈むところらしい。老人は机に戻って椅子に腰掛け、手を組み、親指をもてあそびながら入口の扉を見つめていた。 ハリーは部屋を見回した。不死鳥のフォークスもいない。 クルクル回る銀の仕掛け装置もない。これはリドルの記憶の中のホグワーツだ。 つまりダンプルドアではなく、この見知らぬ魔法使いが校長なんだ。 そして自分はせいぜい幻みたいな存在で、五十年前の人たちにはまったく見えないのだ。 誰かが扉をノックした。 「お入り」老人が弱々しい声で言った。 十六歳ぐらいの少年が入ってきて、三角帽子を脱いだ。銀色の監督生バッジが胸に光っている。ハリーよりずっと背が高かったが、この少年も真っ黒の髪だった。 「ああ、リドルか」校長先生は言った。 「ディペット先生、何かご用でしょうか?」リドルは緊張しているようだった。 「お座りなさい。ちょうど君がくれた手紙を読んだところじゃ」 「あぁ」と言ってリドルは座った。両手を固く握り合わせている。 「リドル君」ディペット先生がやさしく言った。 「夏休みの間、学校に置いてあげることはできないんじゃよ。休暇には、家に帰りたいじゃろう?」 「いいえ」リドルが即座に答えた。 「僕はむしろホグワーツに残りたいんです。その−−あそこに帰るより−−」 「君は休暇中はマグルの孤児院で過ごすと聞いておるが?」 ディペットは興味深げに尋ねた。 「はい、先生」リドルは少し赤くなった。 「君はマグル出身かね?」 「ハーフです。父はマグルで、母が魔女です」 「それで−−ご両親は?」 「母は僕が生まれて間もなく亡くなりました。僕に名前を付けるとすぐに。孤児院でそう聞きました。父の名を取ってトム、祖父の名を取ってマールヴォロです」 ディペット先生はなんとも痛ましいというように領いた。 「しかしじゃ、トム」先生はため息をついた。 「特別の措置を取ろうと思っておったが、しかし、今のこの状況では……」 「先生、襲撃事件のことでしょうか?」リドルがたずねた。 ハリーの心臓が躍り上がった。一言も聞き漏らすまいと、近くに寄った。 「その通りじゃ。わかるじゃろう?学期が終わったあと、君がこの城に残るのを許すのは、どんなに愚かしいことか。特に、先日のあの悲しい出来事を考えると……。 かわいそうに、女子学生が一人死んでしもうた……。孤児院に戻っていた方がずっと安全なんじゃよ。実を言うと、魔法省は今や、この学校を閉鎖することさえ考えておる。我々はその一連の不愉快な事件の怪−−ア一−−源を突き止めることができん……」 リドルは目を大きく見開いた。 「先生−−もしその何者かが捕まったら……もし事件が起こらなくなったら……」 「どういう意味かね!」 ディペット先生は椅子に座り直し、身を起こして上ずった声で言った。 「リドル、何かこの襲撃事件について知っているとでも言うのかね?」 「いいえ、先生」リドルが慌てて答えた。 ハリーにはこの「いいえ」が、ハリー自身がダンプルドアに答えた「いいえ」と同じだ、とすぐわかった。 失望の色を浮かべながら、ディペット先生はまた椅子に座り込んだ。 「トム、もう行ってよろしい……」リドルはスッと椅子から立ち上がり、重い足取りで部屋を出た。ハリーはあとをついて行った。 動く螺旋階段を降り、二人は廊下のガーゴイル飾りの脇に出た。暗くなりかけていた。リドルが立ち止まったのでハリーも止まって、リドルを見つめた。 リドルが何か深刻な考え事をしているのがハリーにもよくわかった。 リドルは唇を噛み、額に皺を寄せている。 それから突然何事か決心したかのように、急いで歩き出した。 ハリーは音もなり滑るようにリドルについて行った。 玄関ホールまで誰にも会わなかったが、そこで、長いふさふさしたとび色の髪と髭を蓄えた背の高い魔法使いが、大理石の階段の上からリドルを呼び止めた。 「トム、こんな遅くに歩き回って、何をしているのかね?」 ハリーはその魔法使いをじっと見た。今より五十歳若いダンプルドアにまちがいない。 「はい、先生、校長先生に呼ばれましたので」リドルが言った。 「それでは、早くベッドに戻りなさい」 ダンプルドアは、ハリーがよく知っている、あの心の中まで見通すようなまなざしでリドルを見つめた。 「このごろは廊下を歩き回らない方がよい。例の事件以来……」 ダンプルドアは大きくため息をつき、リドルに「おやすみ」と言って、その場を立ち去った。 リドルはその姿が見えなりなるまで見ていたが、それから急いで石段を下り、まっすぐ地下牢に向かった。ハリーも必死に追跡した。 しかし残念なことに、リドルは隠れた通路や、秘密のトンネルに行ったのではなく、スネイプが魔法薬学の授業で使う地下牢教室に入った。 松明は点いていなかったし、リドルが教室のドアをほとんど完全に閉めてしまったので、ハリーにはリドルの姿がやっと見えるだけだった。リドルはドアの陰に立って身じろぎもせず、外の通路に目を凝らしている。 少なくとも一時間はそうしていたような気がする。 ハリーの目には、ドアの隙間から目を凝らし、銅僕のようにじっと何かを待っているリドルの姿が見えるだけだった。期待も萎え、緊張も緩みかけ「現在」に戻りたいと思いはじめたちょうどそのとき、ドアのむこうで何かが動く気配がした。 誰かが忍び足で通路を歩いてきた。 いったい誰なのか、リドルと自分が隠れている地下牢教室の前を通り過ぎる音がした。 リドルはまるで影のように静かに、するりとドアからにじり出てあとをつけた。 ハリーも誰にも聞こえるはずがないことを忘れて、抜き足差し足でリドルのあとに続いた。
五分もたったろうか。 二人はその足音について歩いたが、リドルが急に止まって、何か別の物音のする方角に顔を向けた。 ドアがギーッと開き、誰かがしゃがれ声でささやいているのが、ハリーの耳に聞こえてきた。 「おいで……おまえさんをこっから出さなきゃなんねえ……さあ、こっちへ……この箱の中に……」 なんとなく聞き覚えがある声だった。 リドルが物陰から突然飛び出した。ハリーもあとについて出た。 どでかい少年の暗い影のような輪郭が見えた。 大きな箱を傍らに置き、開け放したドアの前にしゃがみ込んでいる。 「こんばんは、ルビウス」リドルが鋭く言った。 少年はドアをバタンと閉めて立ち上がった。 「トム。こんなところでおまえ、なんしてる?」 リドルが一歩近寄った。「観念するんだ」リドルが言った。 「ルビウス、僕は君を突き出すつもりだ。襲撃事件がやまなければ、ホグワーツ校が閉鎖される話まで出ているんだ」 「なんが言いてえのか−−」 「君が誰かを殺そうとしたとは思わない。だけど怪物は、ペットとしてふさわしくない。君は運動させようとして、ちょっと放したんだろうが、それが−−」 「こいつは誰もCENSOREDねぇ!」 でかい少年は今、閉めたばかりのドアの方へあとずさりした。 その少年の背後から、ガサゴソ、カチカチと奇妙な音がした。 「さあ、ルビウス」リドルはもう一歩詰め寄った。 「死んだ女子学生のご両親が、明日学校に来る。娘さんを殺したやつを、確実に始末すること。学校として、少なくともそれだけはできる」 「こいつがやったんじゃねぇ!」少年が喚く声が暗い通路にこだました。 「こいつにできるはずねぇ!絶対やっちゃいねぇ!」 「どいてくれ」リドルは杖を取り出した。 リドルの呪文は突然燃えるような光で廊下を照らした。
どでかい少年の背後のドアがものすごい勢いで開き、少年は反対側の壁まで吹っ飛ばされた。中から出てきた物を見た途端、ハリーは思わず鋭い悲鳴をもらした−−自分にしか聞こえない長い悲鳴を−−。 毛むくじゃらの巨大な胴体が、低い位置に吊り下げられている。 絡み合った黒い脚、ギラギラ光るたくさんの眼、剃刀のように鋭い鋏。 リドルがもう一度杖を振り上げたが、遅かった。その生物はリドルを突き転がし、ガサゴソと大急ぎで廊下を逃げて行き、姿を消した。リドルは素早く起き上がり、後ろ姿を目で追い、杖を振り上げた。 「やめろおおおおおおお!」どでかい少年がリドルに飛びかかり、杖を引ったくり、リドルをまた投げ飛ばした。 場面がグルグル旋回し、真っ暗闇になった。ハリーは自分が落ちて行くのを感じた、そして、ドサリと着地した。 ハリーは、グリフィンドールの寝室の天蓋付きベッドの上に大の字になっていた。 リドルの日記は腹の上に開いたまま乗っていた。 息を弾ませている最中に、寝室の戸が開いてロンが入ってきた。 「ここにいたのか」とロン。 ハリーは起き上がった。汗びっしょりでブルブル震えていた。 「どうしたの!」とロンが心配そうに聞いた。 「ロン、ハグリッドだったんだ。五十年前に『秘密の部屋』の扉を開けたのは、ハグリッドだったんだ!」
ハグリッドが、大きくて怪物のような生物が好きだという、困った趣味を持っていることは、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人とも、とっくに知っていた。 去年、三人が一年生だったとき、ハグリッドは自分の狭い丸太小屋で、ドラゴンを育てようとしたし、「ふわふわのフラツフィー」と名付けていたあの三頭犬のことは、そう簡単に忘れられるものではない。 −−少年時代のハグリッドが、城のどこかに怪物が潜んでいると聞いたら、どんなことをしてでもその怪物を一目見たいと思ったに違いない−−ハリーはそう思った。 ハグリッドはきっと考えたに違いない−−怪物が長い間、狭苦しいところに閉じ込められているなんて気の毒だ。ちょっとの間そのたくさんの脚を伸ばすチャンスを与えるべきだ−−。 十三歳のハグリッドが、怪物に、首輪と引き紐をつけようとしている姿が、ハリーの目に浮かぶようだった。でも、ハグリッドは決して誰かを殺そうなどとは思わなかっただろう−−ハリーはこれにも確信があった。 しかハリーは、リドルの日記の仕掛けを知らない方がよかったとさえ思った。 ロンとハーマイオニーは、ハリーの見たことを繰り返し聞きたがった。 ハリーは、二人にいやというほど話して聞かせたし、そのあとは堂々巡りの議論になるのにも、うんざりしていた。 「リドルは犯人をまちがえていたかもしれないわ。みんなを襲ったのは別な怪物だったかもしれない……」ハーマイオニーの意見だ。 「ホグワーツにいったい何匹怪物がいれば気がすむんだい?」ロンがぼそりと言った。 「ハグリッドが追放されたことは、僕たち、もう知ってた。それに、ハグリッドが追い出されてからは、誰も襲われなくなったに違いない。そうじゃなけりゃ、リドルは表彰されなかったはずだもの」ハリーは惨めな気持だった。 ロンには違った見方もあった。 「リドルって、パーシーにそっくりだ−−そもそもハグリッドを密告しろなんて、誰が頼んだ?」 「でも、ロン、誰かが怪物に殺されたのよ」とハーマイオニー。 「それに、ホグワーツが閉鎖されたら、リドルはマグルの孤児院に戻らなきやならなかった。 僕、リドルがここに残りたかった気持ち、わかるな……」とハリーは言った。 ロンは唇を噛み、思いついたように聞いた。 「ねえ、ハリー、君、ハグリッドに『夜の闇横丁』で出会ったって言ったよね!」 「『肉食ナメクジ駆除剤』を買いにきてた」ハリーは急いで答えた。 三人は黙りこくった。ずいぶん長い沈黙のあと、ハーマイオニーがためらいながら一番言いにくいことを言った。 「ハグリッドのところに行って、全部、聞いてみたらどうかしら?」 「そりゃあ、楽しいお客様になるだろうね」とロンが言った。 「こんにちは、ハグリッド。教えてくれる!最近城の中で毛むくじゃらの狂ったやつをけしかけなかった?ってね」 結局三人は、また誰かが襲われないかぎり、ハグリッドには何も言わないことに決めた。 そして何日聞かが過ぎて行き、「姿なき声」のささやきも聞こえなかった。 三人は、ハグリッドがうなぜ追放されたか、聞かなりてすむかもしれない、と思いはじめた。 ジャスティンと「ほとんど首無しニック」が石にされてから四カ月が過ぎようとしていた。 誰が襲ったのかはわからないが、その何者かはもう永久に引きこもってしまったと、みんながそう思っているようだった。 ビープズもやっと、「♪オー、ポッター、いやなやつだー」の歌に飽きたらしいし、アーニー・マクミランはある日ー「薬草学」のクラスで、「『飛びはね毒キノコ』の入ったバケツを取ってください」と丁寧にハリーに声をかけた。 三月にはマンドレイクが何本か、第三号温室で乱痴気パーティを繰り広げた。 スプラウト先生はこれで大満足だった。 「マンドレイクがお互いの植木鉢に入り込もうとしたら、完全に成熟したということです」スプラウト先生がハリーにそう言った。 「そうなれば、医務室にいる、あのかわいそうな人たちを蘇生させることができますよ」 復活祭の休暇中に、二年生は新しい課題を与えられた。三年生で選択する科目を決める時期が来たのだ。 少なくともハーマイオニーにとっては、これは非常に深刻な問題だった。 「わたしたちの将来に全面的に影響するかもしれないのよ」三人で新しい科目のリストに舐めるように目を通し、選択科目に「レ」印をつけながら、ハーマイオニーがハリーとロンに言い聞かせた。 「僕、魔法薬をやめたいな」とハリー。 「そりゃ、ムリ」ロンが憂鬱そうに言った。 「これまでの科目は全部続くんだ。そうじゃなきや、僕は『闇の魔術に対する防衛術』を捨てるよ」 「だってとっても重要な科目じゃないの!」 ハーマイオニーが衝撃を受けたような声を出した。 「ロックハートの教え方じゃ、そうは言えないな。彼からはなんにも学んでないよ。ピクシー小妖精を暴れさせること以外はね」とロンが言い返した。 ネビル・ロングボトムには、親戚中の魔法使いや魔女が、手紙で、ああしろこうしろと、勝手な意見を書いてよこした。 混乱したネビルは、困り果てて、ア一、ウー言いながら、舌をちょっと突き出してリストを読み、「数占い」と「古代ルーン文字」のどっちが難しそうかなどと、聞きまくっていた。 ディーン・トーマスはハリーと同じように、マグルの中で育ってきたので、結局目をつぶって杖でリストを指しへ杖の示している科目を選んだ。 ハーマイオニーは誰からの助言も受けず、全科目を登録した。 −−バーノンおじさんやペチュニアおばさんに、自分の魔法界でのキャリアについて相談を持ちかけたら、どんな顔をするだろう−−ハリーは一人で苦笑いをした。 かといって、ハリーが誰からも指導を受けなかったわけではない。 パーシー・ウィーズリーが自分の経験を熱心に教えた。 「ハリー、自分が将来、どっちに進みたいかによるんだ。将来を考えるのに、早過ぎるということはない。それならまず『占い術』を勧めたいね。『マグル学』なんか選ぶのは軟弱だという人もいるが、僕の個人的意見では、魔法使いたるもの、魔法社会以外のことを完壁に理解しておくべきだと思う。特に、マグルと身近に接触するような仕事を考えているならね。−−僕の父のことを考えてみるといい。四六時中マグル関係の仕事をしている。兄のチャーリーは外で何かするのが好きなタイプだったから、『魔法生物飼育学』を取った。自分の強みを生かすことだね、ハリー」 強みといっても、ほんとうに得意なのはクィディッチしか思い浮かばない。 結局、ハリーはロンと同じ新しい科目を選んだ。 勉強がうまくいかなくても、せめてハリーを助けてくれる友人がいればいいと思ったからだ。
クィディッチの試合で、グリフィンドールの次の対戦相手はハッフルパフだ。 ウッドは夕食後に毎晩、練習をすると言い張り、おかげでハリーはクィディッチと宿題以外には、ほとんど何もする時間がなかった。 とはいえ、練習自体はやりやすくなっていた。少なくとも天気はカラッとしていた。 土曜日に試合を控えた前日の夕方、ハリーは箒をいったん置きに、寮の寝室に戻った。 グリフィンドールが寮対抗クィディッチ杯を獲得する可能性は、今や最高潮だと感じていた。 しかし、そんな楽しい気分はそう長くは続かなかった。 寝室に戻る階段の一番上で、パニック状態のネビル・ロングボトムと出会った。 「ハリー−−誰がやったんだかわかんない。僕、今、見つけたばかり−−」 ハリーの方を恐る恐る見ながら、ネビルは部屋のドアを開けた。 ハリーのトランクの中身がそこいら中に散らばっていた。 床の上にはマントがずたずたになって広がり、天蓋付きベッドのカバーは剥ぎ取られ、ベッド脇の小机の引き出しは引っ張り出されて、中身がベッドの上にぶちまけられている。 ハリーはポカンと口を開けたまま「トロールとのとろい旅」の、ばらばらになったページを数枚踏みつけにして、ベッドに近寄った。 ネビルと二人で毛布を引っ張って元通りに直していると、ロン、ディーン、シューマスが部屋に入ってきた。 「いったいどうしたんだい、ハリー?」ディーンが大声をあげた。 「さっぱりわからない」とハリーが答えた。ロンはハリーのローブを調べていた。 ポケットが全部引っくり返しになっている。 「誰かが何かを探したんだ」ロンが言った。 「何かなくなってないか?」 ハリーは散らばった物を拾い上げて、トランクに投げ入れはじめた。 ロックハートの本の最後の一冊を投げ入れ終わったときに、初めて何がなくなっているかわかった。 「リドルの日記がない」ハリーは声を落としてロンに言った。 「エーッ?」ハリーは部屋を出た。 「一緒に来て」とロンに合図をして、ドアに向かって急いだ。 ロンもあとに続いて部屋を出た。 二人はグリフィンドールの談話室に戻った。半数ぐらいの生徒しか残っていなかったが、ハーマイオニーが一人で椅子に腰掛けて「古代ルーン語のやさしい学び方」を読んでいた。 二人の話を聞いてハーマイオニーは仰天した。 「だって−−グリフィンドール生しか盗めないはずでしょ−−他の人は誰もここの合言葉を知らないもの……」 「そうなんだ」とハリーも言った。
翌朝へ目を覚ますと、太陽がキラキラと輝き、さわやかなそよ風が吹いていた。 「申し分ないクィディッチ日和だ!」 朝食の席で、チームメートの皿にスクランブル・エッグを山のように盛りながら、ウッドが興奮した声で言った。 「ハリー、がんばれよ。朝飯をちゃんと食っておけよ」 ハリーは、朝食の席にびっしり並んで座っている、グリフィンドール生をぐるりと見渡した。 もしかしたらハリーの目の前にリドルの日記の新しい持ち主がいるかもしれない−−。 ハーマイオニーは盗難届を出すように勧めたが、ハリーはそうしたくなかった。そんなことをすれば、先生に、日記のことをすべて話さなければならなくなる。 だいたい五十年前に、ハグリッドが退学処分になったことを知っている者が、何人いるというのか? ハリーはそれを蒸し返す張本人になりたくなかった。 ロン、ハーマイオニーと一緒に大広間を出たハリーは、クィディッチの箒を取りに戻ろうとした。 そのとき、ハリーの心配の種がまた増えるような深刻な事態が起こった。 大理石の階段に足をかけた途端に、またもやあの声を聞いたのだ。 「今度はCENSORED……引き裂いて……八つ裂きにして……」 ハリーは叫び声をあげ、ロンとハーマイオニーは驚いて、同時にハリーのそばから飛びのいた。 「あの声だ!」ハリーは振り返った。 「また聞こえた−−君たちは?」 ロンが目を見開いたまま首を横に振った。が、ハーマイオニーはハッとしたように額に手を当てて言った。 「ハリーーわたし、たった今、思いついたことがあるの−−図書館に行かなくちゃ!」 そして、ハーマイオニーは風のように階段を駆け上がって行った。 「何をいったい思いついたんだろう?」 ハーマイオニーの言葉が気にかかったが、一方で、ハリーは周りを見回し、どこから声が聞こえるのか探していた。 「計り知れないね」ロンが首を振り振り言った。 「だけど、どうして図書館なんかに行かなくちゃならないんだろう?」とハリー。 「ハーマイオニー流のやり方だよ」 ロンが肩をすくめて、しょうがないだろ、という仕草をした。 「何はともあれ、まず図書館ってわけさ」 もう一度あの声を捉えたいと、ハリーは進むことも引くこともできず、その場に突っ立っていた。 そうするうちに大広間から次々と人が溢れ出してきて、大声で話しながら、正面の扉からクィディッチ競技場へと向かって出て行った。 「もう行った方がいい」ロンが声をかけた。 「そろそろ十一時になる−−試合だ」 ハリーは大急ぎでグリフィンドール塔を駆け上がり、ニンバス2000を取ってきて、ごった返す人の群れに混じって校庭を横切った。 しかし、心は城の中の「姿なき声」に捕われたままだった。 更衣室で紅色のユニフォームに着替えながら、ハリーは、クィディッチ観戦でみんなが城の外に出ているのがせめてもの慰めだと感じていた。 対戦する二チームが、万雷の拍手に迎えられて入場した。 オリバーウッドは、ゴールの周りを一っ飛びしてウォームアップし、マダム・フーチは、競技用ポールを取り出した。 ハッフルパフは、カナリア・イエローのユニフォームで、最後の作戦会議にスクラムを組んでいた。 ハリーが箒にまたがった。そのとき、マクゴナガル先生が巨大な紫色のメガフォンを手に持って、グラウンドのむこうから行進歩調で腕を大きく振りながら、半ば走るようにやってきた。 ハリーの心臓は石になったようにドシンと落ち込んだ。 「この試合は中止です」 マクゴナガル先生は満員のスタジアムに向かってメガフォンでアナウンスした。野次や怒号が乱れ飛んだ。 オリバー・ウッドは衝撃を受けた様子で地上に降り立ち、箒にまたがったままマクゴナガル先生に駆け寄った。 「先生、そんなり」オリバーが喚いた。 「是が非でも試合を……優勝杯が……グリフィンドールの……」 マクゴナガル先生は耳も貸さずにメガフォンで叫び続けた。 「全生徒はそれぞれの寮の談話室に戻りなさい。そこで寮監から詳しい話があります。みなさん、できるだけ急いで!」 マクゴナガル先生は、メガフォンを下ろし、ハリーに合図した。 「ポッター、私と一緒にいらっしゃい……」 今度だけは僕を疑えるはずがないのに、といぶかりながら、ふと見ると、不満たらたらの生徒の群れを抜け出して、ロンが、ハリーたちの方に走ってくる。 ハリーは、マクゴナガル先生と二人で城に向かうところだったが、驚いたことに、先生はロンが一緒でも反対しなかった。 「そう、ウィーズリー、あなたも一緒に来た方がよいでしょう」 群れをなして移動しながら、三人の周りの生徒たちは、試合中止でプープー文句を言ったり、心配そうな顔をしたりしていた。 ハリーとロンは先生について城に戻り、大理石の階段を上がった。 しかし、今度は誰かの部屋に連れて行かれる様子ではなかった。 「少しショックを受けるかもしれませんが」 医務室近くまで来たとき、マクゴナガル先生が驚くほどのやさしい声で言った。 「また襲われました……また二人一緒にです」 ハリーは五臓六肺がすべて引っくり返る気がした。先生はドアを開け、二人も中に入った。 マダム・ポンフリーが、長い巻き毛の五年生の女子学生の上にかがみこんでいた。 ハリーたちがスリザリンの談話室への道を尋ねた、あのレイブンクローの学生だ、とハリーにはすぐわかった。 そして、その隣のベッドには−− 「ハーマイオニー!」ロンがうめき声をあげた。 ハーマイオニーは身動きもせず、見開いた目はガラス玉のようだった。 「二人は図書館の近くで発見されました」マクゴナガル先生が言った。 「二人ともこれがなんだか説明できないでしょうね?二人のそばの床に落ちていたのですが……」 先生は小さな丸い鏡を手にしていた。 二人とも、ハーマイオニーをじっと見つめながら首を横に振った。 ロンは呆然とベッドの横にある椅子に座り込んだ。 ハリーはベッドの脇に座り、ハーマイオニーの手を愛しげに撫でた。 「……ハー……マイオニー……」ハリーは掠れた声しか出なかった。 「グリフィンドール塔まであなたたちを送って行きましょう」 マクゴナガル先生は重苦しい口調で言った。 「私も、いずれにせよ生徒たちに説明しないとなりません」
「全校生徒は夕方六時までに、各寮の談話室に戻るように。それ以後は決して寮を出てはなりません。授業に行くときは、必ず先生が一人引率します。トイレに行くときは、必ず先生に付き添ってもらうこと。クィディッチの練習も試合も、すべて延期です。夕方は一切、クラブ活動をしてはなりません」 超満員の談話室で、グリフィンドール生は黙ってマクゴナガル先生の話を聞いた。 先生は羊皮紙を広げて読み上げたあとで、紙をクルクル巻きながら、少し声を詰まらせた。 「言うまでもないことですが、私はこれほど落胆したことはありません。これまでの襲撃事件の犯人が捕まらないかぎり、学校が閉鎖される可能性もあります。犯人について何か心当たりがある生徒は申し出るよう強く望みます」 マクゴナガル先生は、少しぎごちなく肖像画の裏の穴から出ていった。 途端にグリフィンドール生はしゃべりはじめた。 「これでグリフィンドール生は二人やられた。寮付きのゴーストを別にしても。レイブンクローが一人、ハッフルパフが一人」 ウィーズリー双子兄弟と仲良しの、リー・ジョーダンが指を折って数え上げた。 「先生方はだーれも気づかないのかな?スリザリン生はみんな無事だ。今度のことは、全部スリザリンに関係してるって、誰にだってわかくそうなもんじゃないか?スリザリンの継承者、スリザリンの怪物−−どうしてスリザリン生を全部追い出さないんだ?」 リーの大演説にみんな領き、パラパラと拍手が起こった。 パーシー・ウィーズリーは、リーの後ろの椅子に座っていたが、いつもと様子が違って、自分の意見を聞かせたいという気がないようだった。青い顔で声もなくぼーっとしている。
「パーシーはショックなんだ」ジョージがハリーにささやいた。 「あのレイブンクローの子−−ペネロピー・クリアウォーター−−監督生なんだ。パーシーは怪物が監督生を襲うなんて決してないと思ってたんだろうな」 しかしハリーは半分しか聞いていなかった。 ハーマイオニーが病棟のベッドに石の彫刻のように横たわっている姿が、目に焼きついて離れない。 犯人が捕まらなかったら、ハリーは一生ダーズリー一家と暮らす羽白になる。 トム・リドルは、学校が閉鎖されたらマグルの孤児院で暮らす羽目になっただろう。 だからハグリッドのことを密告したのだ。 トム・リドルの気持が、今のハリーには痛いほどわかる。 「どうしたらいいんだろう?」ロンがハリーの耳元でささやいた。 「ハグリッドが疑われると思うかい?」 「ハグリッドに会って話さなりちゃ」ハリーは決心した。 「今度はハグリッドだとは思わない。でも、前に怪物を解き放したのが彼だとすれば、どうやって『秘密の部屋』に入るのかを知ってるはずだ。それが糸口だ」 「だけど、マクゴナガルが、授業のとき以外は寮の塔から出るなって−−」 「今こそ」ハリーが一段と声をひそめた。 「パパのあのマントをまた使うときだと思う」 ハリーが父親から受け継いだたった一つの物、それは、長い銀色に光る「透明マント」だった。 誰にも知られずにこっそり学校を抜け出して、ハグリッドを訪ねるのにはそれしかない。 二人はいつもの時間にベッドに入り、ネビル、ディーン、シューマスがやっと「秘密の部屋」の討論をやめ、寝静まるのを待った。 それから起き上がり、ローブを着直して「透明マント」を被った。 暗い、人気のない城の廊下を歩き回るのは楽しいとはいえなかった。 ハリーは前にも何度か夜、城の中をさまよったことがあったが、日没後に、こんな混み合っている城を見るのは初めてだった。 先生や監督生、ゴーストなどが二人ずつ組になって、不審な動きはないかとそこいら中に日を光らせていた。 「透明マント」は二人の物音まで消してはくれない。 特に危なかったのが、ロンが躓いたときだった。 ほんの数メートル先にスネイプが見張りに立っていた。 うまい具合に、ロンの「こんちくしょう」という悪態と、スネイプのくしゃみがまったく同時だった。 正面玄関にたどり着き、樫の扉をそっと開けたとき、二人はやっとホッとした。 星の輝く明るい夜だった。 ハグリッドの小屋の灯りを目指し、二人は急いだ。 小屋のすぐ前に来たとき、初めて二人は「マント」を脱いだ。 戸を叩くと、すぐにハグリッドがバタンと戸を開けた。真正面にヌッと現れたハグリッドは二人に石弓を突きつけていた。 ボアハウンド犬のファングが後ろの方で吼えたてている。 「おぉ」ハグリッドは武器を下ろして、二人をまじまじと見た。 「二人ともこんなとこで何しとる?」 「それ、なんのためなの?」二人は小屋に入りながら石弓を指差した。 「なんでもねぇ……なんでも」ハグリッドがもごもご言った。 「ただ、もしかすると……うんにゃ……座れや……茶、入れるわい……」 ハグリッドは上の空だった。やかんから水をこぼして、暖炉の火を危うく消しそうになったり、どでかい手を神経質に動かした弾みで、ポットをこなごなに割ったりした。 「ハグリッド、大丈夫!」ハリーが声をかけた。 「ハーマイオニーのこと、聞いた?」 「あぁ、聞いた。たしかに」ハグリッドの声の調子が少し変わった。 その間もチラッチラッと不安そうに窓の方を見ている。 それから二人に、たっぷりと熱い湯を入れた大きなマグカップを差し出した(ティーバッグを入れ忘れている)。 分厚いフルーツケーキを皿に入れているとき、戸を叩く大きな音がした。ハグリッドはフルーツケーキをポロリと取り落とし、ハリーとロンはパニックになって顔を見合わせ、さっと「透明マント」を被って部屋の隅に引っ込んだ。 ハグリッドは二人がちゃんと隠れたことを見極め、石弓を引っつかみ、もう一度バンと戸を開けた。 「こんばんは、ハグリッド」 ダンプルドアだった。深刻そのものの顔で小屋に入って来た。次に奇妙な格好の男が続いた。 見知らぬ男は背の低い恰幅のいい体にくしゃくしゃの白髪頭で、悩み事があるような顔をしていた。 奇妙な組み合わせの服装で、細縞のスーツ、真っ赤なネクタイ、黒い長いマントを着て先の尖った紫色のブーツを履いている。 ライムのような黄緑色の山高帽を小脇に抱えていた。 「パパのボスだ!」ロンがささやいた。 「コーネリウス・ファッジ、魔法省大臣だ!」 ハリーはロンを肘で小突いて黙らせた。ハグリッドは青ざめて汗をかきはじめた。 椅子にドッと座り込み、ダンプルドアの顔を見、それからコーネリウス・ファッジの顔を見た。 「状況はよくない。ハグリッド」ファッジがぶっきらぼうに言った。 「すこぶるよくない。来ざるをえなかった。マグル出身が四人もやられた。もう始末に負えん。本省が何かしなりては」 「俺は、決して」ハグリッドが、すがるようにダンプルドアを見た。 「ダンプルドア先生様、知ってなさるでしょう。俺は、決して……」 「コーネリウス、これだけはわかって欲しい。わしはハグリッドに全幅の信頼を置いておる」 ダンプルドアは眉をひそめてファッジを見た。 「しかし、アルバス」ファッジは言いにくそうだった。 「ハグリッドには不利な前科がある。魔法省としても、何かしなければならん。学校の理事たちがうるさい」 「コーネリウス、もう一度言う。ハグリッドを連れていったところで、なんの役にも立たんじゃろう」 ダンプルドアのブルーの瞳に、これまでハリーが見たことがないような激しい炎が燃えている。 「わたしの身にもなってくれ」ファッジは山高帽をもじもじいじりながら言った。 「プレッシャーをかけられてる。何か手を打ったという印象を与えないと。ハグリッドではないとわかれば、彼はここに戻り、なんの答めもない。ハグリッドは連行せねば、どうしても。わたしにも立場というものが−−」 「俺を連行?」ハグリッドは震えていた。「どこへ?」 「ほんの短い間だけだ」ファッジはハグリッドと目を合わせずに言った。 「罰ではない。ハグリッド。むしろ念のためだ。他の誰かが捕まれば、君は十分な謝罪の上、釈放される……」 「まさかアズカバンじゃ?」ハグリッドの声がかすれた。 ファッジが答える前に、また激しく戸を叩く音がした。 ダンプルドアが戸を開けた。今度はハリーが脇腹を小突かれる番だった。みんなに聞こえるほど大きく息を呑んだからだ。 ルシウス・マルフォイ氏がハグリッドの小屋に大股で入ってきた。 長い黒い旅行マントに身を包み、冷たくほくそえんでいる。ファングが低く唸り出した。 「もう来ていたのか。ファッジ」 マルフォイ氏は「よろしい、よろしい……」と満足げに言った。 「なんの用があるんだ?」ハグリッドが激しい口調で言った。 「俺の家から出ていけ!」 「威勢がいいね。言われるまでもない。君の−−あー−−これを家と呼ぶのかね?その中にいるのは私とてまったく本意ではない」 ルシウス・マルフォイはせせら笑いながら狭い丸太小屋を見回した。 「ただ学校に立ち寄っただけなのだが、校長がここだと聞いたものでね」 「それでは、いったいわしになんの用があるというのかね?ルシウス?」 ダンプルドアの言葉は丁寧だったが、あの炎が、ブルーの瞳にまだメラメラと燃えている。 「ひどいことだがね。ダンプルドア」 マルフォイ氏が、長い羊皮紙の巻紙を取り出しながら物憂げに言った。 「しかし、理事たちは、あなたが退くときが来たと感じたようだ。ここに『停職命令』がある−−十二人の理事が全員署名している。残念ながら、私ども理事は、あなたが現状を掌握できないと感じておりましてな。これまでいったい何回襲われたというのかね?今日の午後にはまた二人。そうですな?この調子では、ホグワーツにはマグル出身者は一人もいなくなりますぞ。それが学校にとってはどんなに恐るべき損失か、我々すべてが承知しておる」 「おぉ、ちょっと待ってくれ、ルシウス」ファッジが驚愕して言った。 「ダンプルドアが『停職』?…ダメダメ……今という時期に、それは絶対困る……」 校長の任命−−それに停職も−−理事会の決定事項ですぞ。ファッジ」マルフォイはよどみなく答えた。 「それに、ダンプルドアは、今回の連続攻撃を食い止められなかったのであるから……」 「ルシウス、待ってくれ。ダンプルドアでさえ食い止められないなら−−」 ファッジは鼻の頭に汗をかいていた。 「つまり、他に誰ができる?」 「それはやってみなければわからん」マルフォイ氏がこダリと笑った。 「しかし、十二人全員が投票で……」 ハグリッドが勢いよく立ち上がり、ぼさぼさの黒髪が天井をこすった。 「そんで、いったいきさまは何人脅した?何人脅迫して賛成させた?えっ?マルフォイ」 「おぅ、おぅ。そういう君の気性がそのうち墓穴を掘るぞ、ハグリッド。アズカバンの看守にはそんなふうに怒鳴らないよう、ご忠告申し上げよう。あの連中の気に障るだろうからね」 「ダンプルドアをやめさせられるものなら、やってみろ!」 ハグリッドの怒声で、ボアハウンドのファングは寝床のバスケットの中ですくみ上がり、クインクィン鳴いた。 「そんなことをしたら、マグル生まれの者はお終いだ!この次は『殺し』になる!」 「落ち着くんじゃ。ハグリッド」 ダンプルドアが厳しくたしなめた。そしてルシウス・マルフォイに言った。 「理事たちがわしの退陣を求めるなら、ルシウス、わしはもちろん退こう」 「しかし−−」ファッジが口ごもった。 「だめだ!」ハグリッドが捻った。 ダンプルドアは明るいブルーの目でルシウス・マルフォイの冷たい灰色の目をじっと見据えたままだった。 「しかし」ダンプルドアはゆっくりと明確に、その場にいる者が一言も聞きもらさないように言葉を続けた。 「覚えておくがよい。わしがほんとうにこの学校を離れるのは、わしに忠実な者が、ここに一人もいなくなったときだけじゃ。覚えておくがよい。ホグワーツでは助けを求める者には、必ずそれが与えられる」 一瞬、ダンプルドアの目が、ハリーとロンの隠れている片隅にキラリと向けられたと、ハリーは、ほとんど確実にそう思った。 「あっぱれなご心境で」マルフォイは頭を下げて敬礼した。 「アルバス、我々は、あなたの−−あー−−非常に個性的なやり方を懐かしく思うでしょう。そして、後任者がその−−えー−−『殺し』を未然に防ぐのを望むばかりだ」 マルフォイは小屋の戸の方に大股で歩いて行き、戸を開け、ダンプルドアに一礼して先に送り出した。 ファッジは山高帽をいじりながらハグリッドが先に出るのを待っていたが、ハグリッドは足を踏ん張り、深呼吸すると、言葉を選びながら言った。 「誰か何かを見っけたかったら、クモの跡を追っかけて行けばええ。そうすりやちゃんと糸口がわかる。俺が言いてえのはそれだけだ」ファッジはあっけに取られてハグリッドを見つめた。 「よし。行くぞ」 ハグリッドは厚手木綿のオーバーを着た。ファッジのあとから外に出るとき、戸口でもう一度立ち止まり、ハグリッドが大声で言った。 「それから、誰か俺のいねえ間、ファングに餌をやってくれ」 戸がバタンと閉まった。ロンが「透明マント」を脱いだ。 「大変だ」ロンがかすれ声で言った。 「ダンプルドアはいない。今夜にも学校を閉鎖した方がいい。ダンプルドアがいなけりや、一日一人は襲われるぜ」 ファングが、閉まった戸を掻きむしりながら、悲しげに鳴きはじめた。
夏は知らぬ間に城の周りに広がっていた。 空も湖も、抜けるような明るいブルーに変わり、キャベツほどもある花々が、温室で咲き乱れていた。 しかし、ハグリッドがファングを従えて校庭を大股で歩き回る姿が窓の外に見えないと、ハリーにとっては、どこか気の抜けた風景にに見えた。 城の外も変だったが、城の中は何もかもがめちゃめちゃにおかしくなっていた。 ハリーとロンはハーマイオニーの見舞いに行こうとしたが、医務室は面会謝絶になっていた。 「危ないことはもう一切できません」 マダム・ポンフリーは、医務室のドアの割れ目から二人に厳しく言った。 「せっかくだけど、ダメです。患者の息の根を止めに、また襲ってくる可能性が十分あります……」 ダンプルドアがいなりなったことで、恐怖感がこれまでになく広がった。 陽射しが城壁を暖めても、窓の桟が太陽を遮っているかのようだった。 誰も彼もが、心配そうな緊張した顔をしていた。 笑い声は、廊下に不自然に甲高く響き渡るので、たちまち押し殺されてしまうのだった。 ハリーはダンプルドアの残した言葉を幾度も反芻していた。 「わしがほんとうにこの学校を離れるのは、わしに忠実な者が、ここに一人もいなくなったとたきだけじゃ……。ホグワーツでは助けを求める者には必ずそれが与えられる」 しかし、この言葉がどれだけ役に立つのだろう!みんながハリーやロンと同じように混乱して怖がっているときに、いったい二人は、誰に助けを求めればいいのだろう? ハグリッドのクモのヒントの方が、ずっとわかりやすかった−−問題は、跡をつけようにも、城には一匹もクモが残っていないようなのだ。 ハリーはロンに−−嫌々ながら−−手伝ってもらい、行く先々でくまなく探した。 もっとも、自分勝手に歩き回ることは許されず、他のグリフィンドール生と一緒に行動することになっているのも、二人にとっては面倒だった。 他のほとんどのグリフィンドール生は、先生に引率されて、教室から教室へと移動するのを喜んでいたが、ハリーは、いいかげんうんざりだった。 たった一人だけ、恐怖と猜疑心を思いきり楽しんでいる者がいた。 ドラコ・マルフォイだ。 首席になったかのように、肩をそびやかして学校中を歩いていた。 いったいマルフォイは、何がそんなに楽しいのか、ダンプルドアとハグリッドがいなりなってから、二週間ほどたったあの魔法薬の授業で、ハリーは初めてわかった。 マルフォイのすぐ後ろに座っていたので、クラップとゴイルにマルフォイが満足げに話すのが聞こえてきたのだ。 「父上こそがダンプルドアを追い出す人だろうと、僕はずっとそう思っていた」マルフォイは声をひそめようともせず話していた。 「おまえたちに言って聞かせたろう。父上は、ダンプルドアがこの学校始まって以来の最悪の校長だと思ってるって。たぶん今度はもっと適切な校長が来るだろう。『秘密の部屋』を閉じたりすることを望まない誰かが。マクゴナガルは長くは続かない。単なる穴埋めだから……」 スネイプがハリーのそばをサッと通り過ぎた。 ハーマイオニーの席も、大鍋も空っぽなのになに何も言わない。 「先生」マルフォイが大声で呼び止めた。 「先生が校長職に志願なきってはいかがですか?」 「これこれ、マルフォイ」スネイプは、薄い唇がほころぶのを押さえきれなかった。 「ダンプルドア先生は、理事たちに停職させられただけだ。我輩は、間もなく復職なさると思う」 「さあ、どうでしょうね」マルフォイはニンマリした。 「先生が立候補なさるなら、父が支持投票すると思います。僕が、父にスネイプ先生がこの学校で最高の先生だと言いますから……」 スネイプは薄笑いしながら地下牢教室を閥歩したが、幸いなことに、シューマス・フィネガンが大鍋に、ゲーゲー吐く真似をしていたのには気づかなかった。 「『穣れた血』の連中がまだ荷物をまとめてないのにはまったく驚くねぇ」 マルフォイはまだしゃべり続けている。 「次のは死ぬ。金貨で五ガリオン賭けてもいい。グレンジャーじゃなかったのは残念だ……」 そのとき終業のベルが鳴ったのは幸いだった。 マルフォイの最後の言葉を聞いた途端、ロンが椅子から勢いよく立ち上がってマルフォイに近づこうとしたが、みんなが大急ぎで鞄や本をかき集める騒ぎの中で、誰にも気づかれずにすんだからだ。 「やらせてくれ」ハリーとディーンがロンの腕をつかんで引き止めたが、ロンは唸った。 「かまうもんか。杖なんかいらない。素手でやっつけてやる−−」 「急ぎたまえ。薬草学のクラスに引率して行かねばならん」 スネイプが先頭の方から生徒の頭越しに怒鳴った。みんなぞろぞろと二列になって移動した。 ハリー、ロン、ディーンが最後だった。ロンは二人の手を振りほどこうとまだもがいていた。 スネイプが生徒を城から外に送り出し、みんなが野菜畑を通って温室に向かうときになって、やっと手を放しても暴れなくなった。 薬草学のクラスは沈んだ雰囲気だった。仲間が二人も欠けている。 ジャスティンとハーマイオニーだ。 スプラウト先生は、みんなに手作業をさせた。アビシニア無花果の大木の勢定だ。 ハリーは一抱えの枯れた茎を堆肥の山の上に捨てようとして、ちょうど向かい側にいたアーニー・マクミランと目が合った。 アーニーはすーっと深く息を吸って、非常に丁寧に話しかけた。 「ハリー、僕は君を一度でも疑ったことを、申し訳なく思っています。君はハーマイオニー・グレンジャーを決して襲ったりしない。僕が今まで言ったことをお詫びします。僕たちは今、みんなおんなじ運命にあるんだ。だから−−」 アーニーは丸々太った手を差し出した。ハリーは握手した。 「……ハーマイオニー……」ハリーは顔を歪め弱々しく呟いた。 アーニーの言う通りだった。ハリーはどんな事があってもハーマイオニーを傷つける事は出来ない。 アーニーとその友人のハンナが、ハリーとロンの暫定していた無花果を、一緒に刈り込むためにやってきた。 「あのドラコ・マルフォイは、いったいどういう感覚してるんだろ」 アーニーが刈った小枝を折りながら言った。 「こんな状況になってるのを大いに楽しんでるみたいじゃないか?ねえ、僕、あいつがスリザリンの継承者じゃないかと思うんだ」 「まったく、いい勘してるよ。君は」 ロンは、ハリーほどたやすくアーニーを許してはいないようだった。 「ハリー、君は、マルフォイだと思うかい?」アーニーが聞いた。 「いや」ハリーがあんまりキッパリ言ったので、アーニーもハンナも目を見張った。 その直後、ハリーは大変な物を見つけて、思わず勢定バサミでロンの手をぶってしまった。 ハリーは一メートルほど先の地面を指差していた。大きなクモが数匹ガサゴソ這っていた。 「ああ、ウン」ロンは嬉しそうな顔をしようとして、やはりできないようだった。 「でも、今追いかけるわけにはいかないよ……」アーニーもハンナも聞き耳を立てていた。 ハリーは逃げて行くクモをじっと見ていた。 「どうやら『禁じられた森』の方に向かってる……」 ロンはますます情けなさそうな顔をした。
クラスが終わると、スプラウト先生が「闇の魔術に対する防衛術」のクラスに生徒を引率した。 ハリーとロンはみんなから遅れて歩き、話を聞かれないようにした。 「もう一度『透明マント』を使わなくちゃ」ハリーがロンに話しかけた。 「ファングを連れて行こう。いつもハグリッドと森に入っていたから、何か役に立つかもしれない」 「いいよ」ロンは落ち着かない様子で、杖を指でくるくる回していた。 「えーと−−ほら−−あの森には狼男がいるんじゃなかったかなり」 ロックハートのクラスで、一番後ろのいつもの席に着きながらロンが言った。 ハリーは、質問に直接答えるのを避けた。 「あそこにはいい生物もいるよ。ケンタウルスも大丈夫だし、一角獣も」 ロンは「禁じられた森」に入ったことがなかった。 ハリーは一度だけ入ったが、できれば二度と入りたくないと思っていた。 ロックハートが、うきうきと教室に入ってきたので、みんな唖然として見つめた。 他の先生は誰もが、いつもより深刻な表情をしているのに、ロックハートだけは陽気そのものだった。 「さあ、さあ」ロックハートがニッコリと笑いかけながら叫んだ。 「なぜそんなに湿っぽい顔ばかりそろってるのですか?」 みんなあきれ返って顔を見合わせ、誰も答えようとしなかった。 「みなさん、まだ気がつかないのですか!」 ロックハートは、生徒がみんな物わかりが悪いとでもいうかのようにゆっくりと話した。 「危険は去ったのです!犯人は連行されました」 「いったい誰がそう言ったんですか?」 ディーン・トーマスが大声で聞いた。 「なかなか元気があってよろしい。魔法省大臣は百パーセント有罪の確信なりして、ハグリッドを連行したりしませんよ」 ロックハートは1+1=2の説明をするような調子で答えた。 「しますとも」ロンがディーンよりも大声で言った。 「自慢するつもりはありませんが、ハグリッドの逮捕については、私はウィーズリー君よりいささか、詳しいですよ」 ロックハートは自信たっぷりだ。 ロンは−−僕、なぜかそうは思いません……と言いかけたが、机の下でハリーに蹴りを入れられて言葉が途切れた。 「僕たち、あの場にはいなかったんだ。いいね?」 そう言ってはみたが、ハリーは、ロックハートの浮かれぶりにはむかついた。 ハグリッドはよくないやつだといつも思っていたとか、ごたごたは一切解決したとか、その自信たっぷりな話しぶりにイライラして、ハリーは「ブールお化けとのクールな旅」を、ロックハートの間抜け顔に、思いきり投げつけたくてたまらなかった。 そのかわりに、ロンに走り書きを渡すことで、ハリーは我慢した。 「今夜決行しよう」 ロンはメモを読んでゴクリと生唾を飲んだ。 そしていつもハーマイオニーが座っていた席を横目で見た。空っぽの席がロンの決心を固めさせたようだ。ロンは頷いた。 グリフィンドールの談話室は、このごろいつでも混み合っていた。六時以降、他に行き場がなかったのだ。それに、話すことはあり余るほどあったので、その結果、談話室は、真夜中過ぎまで人がいることが多かった。 ハリーは夕食後すぐに「透明マント」をトランクから取り出してきて、談話室に誰もいなくなるまでマントの上に座って時を待った。 フレッドとジョージが、ハリーとロンに「爆発ゲーム」の勝負を挑み、ジニーは、ハーマイオニーのお気に入りの席に座り、沈みきってそれを眺めていた。 ハリーとロンはわざと負け続けて、ゲームを早く終わらせようとしたが、やっとフレッド、ジョージ、ジニーが寝室に戻ったときには、とうに十二時を過ぎていた。 ハリーとロンは男子寮、女子寮に通じるドアが、二つとも遠くの方で閉まる音を確かめ、それから「マント」を取り出して羽織り、肖僕画の裏の穴を這い登った。 先生方にぶつからないようにしながら城を抜けるのは、今度も一苦労だった。 やっと玄関ホールにたどり着き、樫の扉の門をはずし、蝶番が乳んだ昔をたてないよう、そーっと扉を細く開けて、その隙間を通り、二人は月明かりに照らされた校庭に踏み出した。 「ウン、そうだ」黒々と広がる草むらを大股で横切りながら、ロンが出し抜けに言った。 「森まで行っても跡をつけるものが見つからないかもしれない。あのクモは森なんかに行かなかったかもしれない。だいたいそっちの方向に向かって移動していたように見えたことは確かだけど、でも……」 ロンの声がそうであって執しいというふうにだんだん小さくなっていった。 ハグリッドの小屋にたどり着いた。真っ暗な窓がいかにももの悲しく寂しかった。ハリーが入口の戸を開けると、二人の姿を見つけたファングが狂ったように喜んだ。 ウォン、ウォンと太く轟くような声で鳴かれたら、城中の人間が起きてしまうのではないかと、気が気でなく、二人は急いで暖炉の上の缶から、糖蜜ヌガーを取り出し、ファングに食べさせた−−ファングの上下の歯がしっかりくっついた。。 ハリーは「透明マント」をハグリッドのテーブルの上に置いた。 真っ暗な森の中では必要がない。 「ファング、おいで。散歩に行くよ」ハリーは、自分の腿を叩いて合図した。 ファングは喜んで飛び跳ねながら二人について小屋を出て、森の入口までダッシュし、楓の大木の下で脚を上げ、用をたした。 ハリーが杖を取り出し「ルーモス!<光よ>」と唱えると、杖の先に小さな灯りが点った。 森の小道にクモの通った跡があるかどうかを探すのに、やっと間に合うぐらいの灯りだ。
「いい考えだ」ロンが言った。 「僕も点ければいいんだけど、でも、僕のは−−爆発したりするかもしれないし……」 ハリーはロンの肩をトントンと叩き、草むらを指差した。 はぐれグモが二匹、急いで杖灯り光を逃れ、木の影に隠れるところだった。 「オーケー」もう逃れようがないと覚悟したかのように、ロンは溜息をついた。 「いいよ。行こう」
二人は森の中へと入って行った。 ファングは、木の根や落ち葉をタンクン喚ぎながら、二人の周りを敏捷に走り回ってついてきた。 クモの群れがザワザワと小道を移動する足取りを、二人はハリーの杖の灯りを頼りに追った。 小枝の折れる音、木の葉の擦れ合う音の他に何か聞こえはしないかと、耳をそばだて、二人は黙って歩き続けた。 約二十分ほど歩いたろうか、やがて、木々が一層深々と茂り、空の星さえ見えなりなり、闇の帳りに光を放つのはハリーの杖だけになった。 そのとき、クモの群れが小道からそれるのが見えた。 ハリーは立ち止まり、クモがどこへ行くのかを見ようとしたが、杖灯りの小さな輪の外は一寸先も見えない暗闇だった。 こんなに森の奥まで入り込んだことはなかった。 前回森に入ったとき、「道を外れるなよ」とハグリッドに忠告されたことを、ありありと思い出した。 しかし、ハグリッドは、今や遠く離れたところにいる−−たぶんアズカバンの独房に、つくねんと座っているのだろう。そのハグリッドが、今度はクモの跡を追えと言ったのだ。 何か湿った物がハリーの手に触れた。 ハリーは思わず飛びずきって、ロンの足を踏んづけてしまった。−−ファングの鼻面だった。 「どうする!」杖の灯りを受けて、やっとロンの目だとわかるものに向かって、ハリーが聞いた。 「ここまで来てしまったんだもの」とロンが答えた。 二人はクモの素早い影を追いかけて、森の茂みの中に入り込んだ。 もう速くは動けない。行く手を遮る木の根や切り株も、ほとんど見えない真っ暗闇だ。ファングの熱い息が、ハリーの手にかかるのを感じた。二人は何度か立ち止まって、ハリーがかがみ込み、杖灯りに照らされたクモの群れを確認しなければならなかった。 少なくとも三十分ほどは歩いたろう。ローブが低く突き出した枝や荊に引っかかった。 しばらくすると、相変わらずうっそうとした茂みだったが、地面が下り坂になっているのに気づいた。 ふいに、ファングが大きく吼える声がこだまし、ハリーもロンも跳び上がった。 「なんだ!」ロンは大声をあげ、真っ暗闇を見回し、ハリーの肘をしっかりつかんだ。 「むこうで何かが動いている」ハリーは息をひそめた。 「シーッ……何か大きいものだ」 耳をすませた。右の方、少し離れたところで、何か大きなものが、木立の間を枝をバキバキお折りながら道をつけて進んでくる。
「もうダメだ」ロンが思わず声をもらした。 「もうダメ、もうダメ、ダメ……」 「シーッ!」ハリーが必死で止めた。 「君の声が聞こえてしまう」 「僕の声?」ロンがとてつもなく上ずった声を出した。 「とっくに聞こえてるよ。ファングの声が!」 恐怖に凍りついて立ちすくみ、ただ待つだけの二人の目玉に、闇が重苦しくのしかかった。 ゴロゴロという奇妙な音がしたかと思うと、急に静かになった。 「何をしているんだろう!」とハリー。 「飛びかかる準備だろう」とロン。 震えながら、金縛りにあったように、二人は待ち続けた。 「行っちゃったのかな。・・」とハリー。 「さあ−−」 突然右の方にカッと閃光が走った。暗闇の中でのまぶしい光に、二人は反射的に手をかざして目を覆った。 ファングはキャンと鳴いて逃げようとしたが、荊に絡まってますますキャンキャン鳴いた。 「ハリー!」ロンが大声で呼んだ。 緊張が取れて、ロンの声の調子が変わった。 「僕たちの車だ!」 「えっ?」 「行こう!」 ハリーはまごまごとロンのあとについて、滑ったり、転んだりしながら光の方に向かった。 まもなく開けた場所に出た。 ウィーズリー氏の車だ。誰も乗っていない。深い木の茂みに囲まれ、木の枝が屋根のように重なり合う下で、ヘッドライトをギラつかせている。ロンが口をアングリ開けて近づくと、車はゆっくりと、まるで大きなトルコ石色の犬が、飼い主に挨拶するようにすり寄ってきた。 「こいつ、ずっとここにいたんだ!」ロンが車の周りを歩きながら嬉しそうに言った。 「ご覧よ。森の中で野生化しちゃってる……」 車の泥よけは傷だらけで泥んこだった。 勝手に森の中をゴロゴロ動き回っていたようだ。 ファングは車がお気に召さないようだ。すねっ子のようにハリーにぴったりくっついている。 ファングが震えているのが伝わってきた。ハリーはようやく呼吸も落ち着いてきて、杖をローブの中に収めた。 「僕。たち、こいつが襲ってくると思ったのに!」ロンは車に寄りかかり、やさしく叩いた。 「おまえはどこに行っちゃったのかって、ずっと気にしてたよ!」 ハリーはクモの通った跡はないかとヘッドライトで照らされた地面を、まぶしそうに目を細めて見回した。 しかしクモの群れは、ギラギラする明りから急いで逃げ去ってしまっていた。 「見失っちゃった」ハリーが言った。 「さあ、探しに行かなりちゃ」 ロンは何も言わなかった。身動きもしなかった。ハリーのすぐ後ろ、地面から二、三メートル上の一点に、目が釘付けになっている。 顔が恐怖で土気色だ。振り返る間もなかった。カシャッカシャッと大きな音がしたかと思うと、何か長くて毛むくじゃらなものが、ハリーの体を鷲づかみにして持ち上げた。 ハリーは逆さまに宙吊りになっった。 恐怖に囚われ、もがきながらも、ハリーはまた別のカシャッカシャッという音を聞いた。 ロンの足が宙に浮くのが見え、ファングがクィンクィン、ワォンワオン鳴き喚いているのが聞こえた。 −−次の瞬間、ハリーは暗い木立の中にサーッと運び込まれた。 逆さ吊りのまま、ハリーは自分を捕らえているものを見た。 六本の恐ろしく長い、毛むくじゃらの脚が、ザックザックと突き進み、その前の二本の脚でハリーをがっちり挟み、その上に黒光りする一対の鋏があった。後ろに、もう一匹同じ生物の気配がする。 ロンを運んでいるに違いない。森の奥へ奥へと行進して行く。ファングが三匹めの怪物から逃れようと、キャンキャン鳴きながら、ジタバタもがいているのが聞こえた。ハリーは叫びたくても叫べなかった。あの空き地の、車のところに声を置き忘れてきたらしい。 どのぐらいの間、怪物に挟まれていたのだろうか、真っ暗闇が突然薄明るくなり、地面を覆う木の葉の上に、クモがうじゃうじゃいるのが見えた。首を捻って見ると、だだっ広い窪地のふちにたどり着いたのが見える。 木を切り払った窪地の中を星明りが照らし出し、ハリーがこれまでに目にしたことがない、世にも恐ろしい光景が飛び込んできた。
蜘妹だ。 木の勢の上にうじゃうじゃしている細かいクモとはモノが違う。 馬車馬のような、八つ目の、八本脚の、黒々とした、毛むくじゃらの、巨大な蜘味が数匹。ハリーを運んできた巨大蜘味の見本のようなのが、窪地のど真ん中にある靄のようなドーム型の蜘妹の巣に向かって、急な傾斜を滑り降りた。 仲間の巨大蜘妹が、獲物を見て興奮し、鋏をガチャつかせながら、その周りに集結した。 巨大蜘味が鋏を放し、ハリーは四つん違いになって地面に落ちた。ロンもファングも隣にドサッと落ちてきた。 ファングはもう鳴くことさえできず、黙ってその場にすくみ上がっていた。 ロンはハリーの気持ちをそっくり顔で表現していた。 声にならない悲鳴をあげ、口が大きく叫び声の形に開いている。目は飛び出していた。 ふと気がつくと、ハリーを捕まえていた蜘妹が何か話している。 一言しゃべるたびに鋏をガチャガチャいわせるので、話しているということにさえ、なかなか気づかなかった。 「アラゴグ!」と呼んでいる。 「アラゴグ!」 靄のような蜘株の巣のドームの真ん中から、小型の象ほどもある蜘味がゆらりと現れた。 胴体と脚を覆う黒い毛に白いものが混じり、鋏のついた醜い頭に、八つの自濁した目があった。−−盲いている。 「なんの用だ!」鋏を激しく鳴らしながら、盲目の蜘妹が言った。 「人間です」ハリーを捕まえた巨大蜘妹が答えた。 「ハグリッドか!」アラゴグが近づいてきた。 八つの濁った目が虚ろに動いている。 「知らない人間です」ロンを運んだ蜘味が、カシャカシャ言った。 「殺せ」アラゴグはイライラと鋏を鳴らした。 「眠っていたのに……」 「僕たち、ハグリッドの友達です」ハリーが叫んだ。 心臓が胸から飛び上がって、喉元で脈を打っているようだった。 カシャッカシャッカシャッ一窪地の中の巨大蜘味の鋏がいっせいに鳴った。 アラゴグが立ち止まった。 「ハグリッドは一度もこの窪地に人を寄こしたことはない」ゆっくりとアラゴグが言った。 「ハグリッドが大変なんです」息を切らしながらハリーが言った。 「それで、僕たちが来たんです」 「大変!」 年老いた巨大蜘味の鋏の音が気遣わしげなのを、ハリーは聞き取ったように思った。 「しかし、なぜおまえを寄こした!」ハリーは立ち上がろうとしたが、やめにした。 とうてい足が立たない。そこで、地べたに這ったまま、できるだけ落ち着いて話した。 「学校のみんなは、ハグリッドがけしかけて−−か、怪−−何物かに、学生を襲わせたと思っているんです。ハグリッドを逮捕して、アズカバンに送りました」 アラゴグは怒り狂って鋏を鳴らした。蜘妹の群れがそれに従い、窪地中に音がこだました。 ちょうど拍手喝采のようだったが、普通の拍手なら、ハリーも恐怖で吐き気を催すことはなかったろう。 「しかし、それは昔の話だ」アラゴグは苛立った。 「何年も何年も前のことだ。よく覚えている。それでハグリッドは退学させられた。みんながわしのことを、いわゆる『秘密の部屋』に住む怪物だと信じ込んだ。ハグリッドが『部屋』を開けて、わしを自由にしたのだと考えた」 「それじゃ、あなたは……あなたが『秘密の部屋』から出てきたのではないのですか?」 ハリーは、額に冷汗が流れるのがわかった。 「わしが!」アラゴグは怒りで鋏を打ち鳴らした。 「わしはこの城で生まれたのではない。遠いところからやってきた。まだ卵だったときに、旅人がわしをハグリッドに与えた。ハグリッドはまだ少年だったが、わしの面倒を見てくれた。城の物置に隠し、食事の残り物を集めて食べさせてくれた。ハグリッドはわしの親友だ。いいやつだ。わしが見つかってしまい、女の子を殺した罪を着せられたとき、ハグリッドはわしを護ってくれた。そのとき以来、わしはこの森に住み続けた。ハグリッドは今でも時々訪ねてきてくれる。妻も探してきてくれた。モサグを。見ろ。わしらの家族はこんなに大きくなった。みんなハグリッドのおかげだ……」 ハリーはありったけの勇気を搾り出した。 「それじゃ、一度も−−誰も襲ったことはないのですか?」 「一度もない」年老いた蜘妹はしわがれ声を出した。 「襲うのはわしの本能だ。しかし、ハグリッドの名誉のために、わしは決して人間を傷つけはしなかった。殺された女の子の死体は、トイレで発見された。わしは自分の育った物置の中以外、城の他の場所はどこも見たことがない。わしらの仲間は、暗くて静かなところを好む……」 「それなら……いったい何が女の子を殺したのか知りませんか?何者であれ、そいつは今戻ってきて、またみんなを襲って−−」 カシャカシャという大きな音と、何本もの長い脚が怒りで擦れ合う、ザワザワという音が湧き起こり、言葉が途中でかき消された。 大きな黒いものがハリーを囲んでガサゴソと動いた。 「城に住むその物は」アラゴグが答えた。 「わしら蜘妹の仲間が何よりも恐れる、太古の生物だ。その怪物が、城の中を動き回っている気配を感じたとき、わしを外に出してくれと、ハグリッドにどんなに必死で頼んだか、よく覚えている」 「いったいその生物は!」ハリーは急き込んで尋ねた。 また大きなカシャカシャとザワザワが湧いた。 蜘妹がさらに詰め寄ってきたようだ。 「わしらはその生物の話をしない!」アラゴグが激しく言った。「わしらはその名前さえ口にしない!ハグリッドに何度も聞かれたが、わしはその恐ろしい生物の名前を、決してハグリッドに教えはしなかった」 ハリーはそれ以上追及しなかった。 巨大蜘妹が、四方八方から詰め寄ってきている。今はダメだ。 アラゴグは話すのに疲れた様子だった。ゆっくりとまた蜘妹の巣のドームへと戻って行った。 しかし仲間の蜘妹は、ジリッジリッと少しずつ二人に詰め寄ってくる。 「それじゃ、僕たちは帰ります」木の葉をガサゴソいわせる音を背後に聞きながら、ハリーはアラゴグに絶望的な声で呼びかけた。 「帰る!」アラゴグがゆっくりと言った。「それはなるまい……」 「でも−−でも−−」 「わしの命令で、娘や息子たちはハグリッドを傷つけはしない。しかし、わしらのまっただ中に進んでノコノコ迷い込んできた新鮮な肉を、おあずけにはできまい。さらば、ハグリッドの友人よ」 ハリーは、体を回転させて上を見た。 ほんの数十センチ上に聳え立つ蜘珠の壁が、鋏をガチャつかせ、醜い黒い頭にたくさんの目をギラつかせている……。 杖に手をかけながらも、ハリーには無駄な抵抗とわかっていた。多勢に無勢だ。 それでも戦って死ぬ覚悟で立ち上がろうとしたそのとき、高らかな長い音とともに、窪地に眩い光が射し込んだ。 ウィーズリー氏の車が、荒々しく斜面を走り降りてくる。ヘッドライトを輝かせ、クラクションを高々と鳴らし、蜘妹をなぎ倒し−−何匹かは仰向けに引っくり返され、何本もの長い脚を空に泳がせていた。 車はハリーとロンの前でキキーツと停まり、ドアがパッと開いた。 「ファングを!」 ハリーは、前の座席に飛び込みながら叫んだ。 ロンは、ボアハウンドの胴のあたりをむんずと抱きかかえ、キャンキャン鳴いているのを、後ろの座席に放り込んだ。 ドアがバタンと閉まり、ロンがアクセルに触りもしないのに、車はロンの助けも借りず、エンジンを唸らせ、またまた蜘妹を引き倒しながら発進した。 車は坂を猛スピードで駆け上がり、窪地を抜け出し、間もなく森の中へと突っ込んだ。車は勝手に走った。 太い木の枝が窓を叩きはしたが、車はどうやら自分の知っている道らしく、巧みに空間の広く空いているところを通った。 ハリーは隣のロンを見た。まだ口は開きっぱなしで、声にならない叫びの形のままだったが、目はもう飛び出してはいなかった。 「大丈夫かい!」ロンはまっすぐ前を見つめたまま、口がきけない。森の下生えをなぎ倒しながら草は突進した。 ファングは後ろの席で大声で吼えている。 大きな樫の木の脇を無理やりすり抜けるとき、ハリーの目の前で、サイドミラーがポッキリ折れた。 ガタガタと騒々しい凸凹の十分間が過ぎたころ、木立がややまばらになり、茂みの間からハリーは、再び空を垣間見ることができた。 車が急停車し、二人はフロントガラスにぶつかりそうになった。 森の入口にたどり着いたのだ。ファングは早く出たくて窓に飛びつき、ハリーがドアを開けてやると、尻尾を巻いたまま、一目散にハグリッドの小屋を目指して、木立の中をダッシュして行った。 ハリーも車を降りた。それから一分ぐらいたって、ロンがようやく手足の感覚を取り戻したらしく、まだ首が硬直して前を向いたままだったが、降りてきた。 ハリーは感謝を込めて車を撫で、車はまた森の中へとバックして、やがて姿が見えなくなった。 ハリーは「透明マント」を取りにハグリッドの小屋に戻った。ファングは寝床のバスケットで毛布を被って震えていた。 小屋の外に出ると、ロンがかぼちゃ畑でゲーゲー吐いていた。 「クモの跡をつけろだって」ロンは袖で口を拭きながら弱々しく言った。 「ハグリッドを許さないぞ。僕たち、生きてるのが不思議だよ」 「きっと、アラゴグなら自分の友達を傷つけないと思ったんだよ」ハリーが言った。 「だからハグリッドってダメなんだ!」ロンが小屋の壁をドンドン叩きながら言った。 「怪物はどうしたって怪物なのに、みんなが、怪物を悪者にしてしまったんだと考えてる。そのつけがどうなったか!アズカバンの独房だ!」ロンは今になってガタガタ震えが止まらなくなっていた。 「僕たちをあんなところに追いやって、いったいなんの意味があった!何がわかったか教えてもらいたいよ」 「ハグリッドが『秘密の部屋』を開けたんじゃないってことだ」 ハリーはマントをロンにかけてやり、腕を取って、歩くように促しながら言った。 「ハグリッドは無実だった」 ロンはフンと大きく鼻を鳴らした。アラゴグを物置の中で解すなんて、どこが「無実」なもんか、と言いたげだ。 城がだんだん近くに見えてきた。 ハリーは「透明マント」を引っ張って足先まですっぽり隠し、それから軋む扉をそーっと半開きにした。 玄関ホールをこっそりと横切り、大理石の階段を上り、見張り番が目を光らせている廊下を、息をCENSORED通り過ぎた。 ようやく安全地帯のグリフィンドールの談話室にたどり着いた。 暖炉の火は燃え尽き、灰になった残り火が、わずかに赤みを帯びていた。 二人はマントを脱ぎへ曲がりくねった階段を上って寝室に向かった。 ロンは服も脱がずにベッドに倒れ込んだ。しかしハリーはあまり眠くなかった。 四本柱付きのベッドの端に腰掛け、アラゴグが言ったことを一生懸命考えた。 城のどこかに潜む怪物は、ヴォルデモートを怪物にしたようなものかもしれない。 他の怪物でさえ、その名前を口にしたがらない。しかし、ハリーもロンもそれがなんなのか、襲った者をどんな方法で石にするのか、結局のところ皆目わからない。 ハグリッドでさえ「秘密の部屋」に、何がいたのか知ってはいなかった。 ハリーはベッドの上に足を投げ出し、枕にもたれて、寮塔の窓から、自分の上に射し込む月明りを眺めた。 他に何をしたらよいのかわからない。八方塞りだ。リドルはまちがった人間を捕まえた。 スリザリンの継承者は逃れ去り、今度「部屋」を開けたのが、果たしてその人物なのか、それとも他の誰かなのか、わからずじまいだ。もう誰も尋ねるべき人はいない。ハリーは横になったまま、アラゴグの言ったことをまた考えた。 とろとろと眠くなりかけたとき、最後の望みとも思える考えがひらめいた。 ハリーは、はっと身を起こした。 「ロン」暗闇の中でハリーは声をひそめて呼んだ。 「ロン!」 ロンはファングのようにキャンといって目を覚まし、キョロキョロとあたりを見回した。 そしてハリーが目に入った。 「ロン−−死んだ女の子だけど。アラゴグはトイレで見つかったって言ってた」 ハリーは部屋の隅から聞こえてくる、ネビルの高いびきも気にせず言葉を続けた。 「その子がそれから一度もトイレを離れなかったとしたら?まだそこにいるとしたら?」 ロンが目を擦り、月明かりの中で眉根を寄せた。そして、ピンときた。 「もしかして−−まさか『嘆きのマートル』?」 「僕たち、あのトイレに何度も入ってたんだぜ。その間、マートルはたった小部屋三つしか離れていなかったんだ」 ロンは翌日の朝食の席で悔しそうに言った。 「あのときなら開けたのに、今じゃなあ……」 クモを探すことさえ容易ではなかったのだ。先生の目を盗んで女子トイレに−−それも最初の犠牲者が出た場所のすぐ脇のトイレに−−に忍び込むなどということはほとんど不可能に近いだろう。 ところが、その日最初の授業、「変身術」で起きた出来事のおかげで、数週間ぶりに「秘密の部屋」など頭から吹っ飛んだ。 授業が始まって十分もたったころ、マクゴナガル先生が、一週間後の六月一日から期末試験が始まると発表したのだ。 「試験?」シューマス・フィネガンが叫んだ。 「こんなときにまだ試験があるんですか?」ハリーの後ろでバーンと大きな音がした。 ネビル・ロングボトムが杖を取り落とし、自分の机の脚を一本消してしまった音だった。 マクゴナガル先生は、杖の一振りで脚を元通りにし、シューマスの方に向き直ってしかめっ面をした。 「こんなときでさえ学校を閉鎖しないのは、みなさんが教育を受けるためです」 先生は厳しく言った。 「ですから、試験はいつものように行います。皆さん、しっかり復習なさっていることと思いますが」 しっかり復習!城がこんな状態なのに、試験があるとはハリーは考えてもみなかった。 教室中が不満たらたらの声で溢れ、マクゴナガル先生はますます恐いしかめっ面をした。 「ダンプルドア校長のお言い付けです。学校はできるだけ普通通りにやって行きます。つまり、私が指摘するまでもありませんが、この一年間に、みなさんがどれだけ学んだかを確かめるということです」 ハリーは、これからスリッパに変身させるはずの二羽の自ウサギを見下ろした。 −−今年一年何を学んだのだろう?試験に役立ちそうなことは、何しつ思い出せないような気がした。 ロンはと見ると、「禁じられた森」に行ってそこに住むようにと、たった今、命令されたような顔をしている。 「こんなもんで試験が受けられると思うか?」ロンは、ちょうどピーピー大きな音をたてはじめた自分の杖を持ち上げて、ハリーに問いかけた。 最初のテストの三日前、朝食の席で、マクゴナガル先生がまた発表があると言った。 「よい知らせです」途端にシーンとなるどころか、大広間は蜂の巣を突ついたようになった。 「ダンプルドアが戻ってくるんだ!」何人かが歓声をあげた。 「スリザリンの継承者を捕まえたんですね!」レイブンクローの女子学生が、黄色い声をあげた。 「クィディッチの試合が再開されるんだ!」ウッドが興奮してウオーッという声を出した。 ガヤガヤが静まったとき、先生が発表した。 「スプラウト先生のお話では、とうとうマンドレイクが収穫できるとのことです。今夜、石にされた人たちを蘇生させることができるでしょう。言うまでもありませんが、私は、そのうちの誰か一人が、誰に、または何に襲われたのか話してくれるかもと考えています。この恐ろしい一年が、犯人逮捕で終わりを迎えることができるのではないかと、期待しています」 歓声が爆発した。ハリーがスリザリンのテーブルの方を見ると、当然のことながらドラコ・マルフォイは喜んではいなかった。 逆にロンは、ここしばらく見せたことがなかったような、嬉しそうな顔をしている。 ハリーもとても嬉しかった。 「それじゃ、マートルに聞きそびれたこともどうでもよくなった!目を覚ましたら、たぶんハーマイオニーが全部答えを出してくれるよ!でもね、あと三日で試験が始まるって聞いたら、きっとあいつ気が狂うぜ。復習してないんだからな。試験が終わるまで、今のままそっとしておいた方が親切じゃないかな」 そのとき、ジニー・ウィーズリーがやってきて、ロンの隣に座った。 緊張して落ち着かないようすだ。膝の上で手をもじもじさせているのにハリーは気がついた。 「どうした?」ロンがオートミールのお代わりをしながら聞いた。 ジニーは黙っている。グリフィンドールのテーブルを端から端まで眺めながら、おぴえた表情をしている。 どこかで見た表情だとハリーは思ったが、誰の顔か思い出せない。 「言っちまえよ」ロンがジニーを見つめながら促した。 ハリーは突然、ジニーの表情が誰に似ているか思い出した。椅子に座って、前後に体を揺する仕草がドピーそっくりだ。 言ってはいけないことを漏らそうかどうか、ためらっているときのドピーだ。 「あたし、言わなければいけないことがあるの」ジニーはハリーの方を見ないようにしながらボソボソ言った。 「なんなの?」ハリーが聞いた。 ジニーはなんと言っていいのか言葉が見つからない様子だ。 「いったいなんだよ?」とロン。 ジニーは口を開いた。が、声が出てこない。ハリーは少し前かがみになって、ロンとジニーだけに聞こえるような小声で言った。 「『秘密の部屋』に関することなの?何か見たの?誰かおかしな素振りをしているの?」 ジニーはスーッと深呼吸した。その瞬間、折悪しく、パーシー・ウィーズリーがげっそり疲れれきった顔で現れた。 「ジニー、食べ終わったのなら、僕がその席に座るよ。腹ペコだ。巡回見廻りが、今終わったばかりなんだ」 ジニーは椅子に電流が走ったかのように飛び上って、パーシーの方をおぴえた目でチラッと見るなり、そそくさと立ち去った。 パーシーは腰を下ろし、テーブルの真ん中にあったマグカップをガバッとつかんだ。 「パーシー!」ロンが怒った。 「ジニーが何か大切なことを話そうとしたとこだったのに!」 紅茶を飲んでいる途中でパーシーは咽せ込んだ。 「どんなことだった?」パーシーが咳込みながら聞いた。 「僕が何かおかしなものを見たのかって聞いたら、何か言いかけて−−」 「ああーそれくそれは『秘密の部屋』には関係ない」パーシーはすぐに言った。 「なんでそう言える?」ロンの眉が吊り上がった。 「うん、あ、どうしても知りたいなら、ジニーが、あ、この間、僕とばったり出くわして、そのとき僕が−−うん、なんでもない−−要するにだ、あの子は僕が何かをするのを見たわけだ。それで、僕が、その、あの子に誰にも言うなって頼んだんだ。あの子は約束を守ると思ったのに。たいしたことじゃないんだ。ほんと。ただ、できれば……」 ハリーは、パーシーがこんなにオロオロするのを初めて見た。 「いったい何をしてたんだ?パーシー」ロンがニヤニヤした。 「さあ、吐けよ。笑わないから」パーシーの方はニコリともしなかった。 「ハリー、パンを取ってくれないか。腹ペコだ」
明日になれば、自分たちが何もしなくても、すべての謎が解けるだろうとハリーは思ったが、マートルと話す機会があるなら逃すつもりはなかった−−そして、嬉しいことに、その機会がやってきた。午前の授業も半ば終わり、次の「魔法史」の教室まで引率していたのがギルデロイ・ロックハートだった。 ロックハートはこれまで何度も「危険は去った」と宣言し、そのたびに、たちまちそれがまちがいだと証明されてきたのだが、今回は自信満々で、生徒を安全に送り届けるためにわざわざ廊下を引率して行くのは、まったくのむだだと思っているようだった。 髪もいつものような輝きがなく、五階の見廻りで一晩中起きていた様子だった。 「私の言うことをよく聞いておきなさい」生徒を廊下の曲り角まで引率してきたロックハートが言った。 「哀れにも石にされた人たちが最初に口にする言葉は『ハグリッドだった』です。まったく、マクゴナガル先生が、まだこんな警戒措置が必要だと考えていらっしゃるのには驚きますね」 「その通りです、先生」ハリーがそう言ったので、ロンは驚いて教科書を取り落とした。 「どうも、ハリー」ハッフルパフ生が、長い列を作って通り過ぎるのをやり過ごしながら、ロックハートが優雅に言った。 「つまり、私たち、先生というものは、いろいろやらなければならないことがありましてね。いっばい生徒を送ってクラスに連れて行ったり、一晩中見張りに立ったりしなくたって手一杯ですよ」 「その通りです」ロンがピンと来てうまくつないだ。 「先生、引率はここまでにしてはいかがですか。あと一つだけ廊下を渡ればいいんですから」 「実はへウィーズリー君、私もそうしようかと思う。戻って次の授業の準備をしないといけないんでね」 そしてロックハートは足早に行ってしまった。 「授業の準備が聞いてあきれる」ロンがフンと言った。 「髪をカールしに、どうせそんなとこだ」 グリフィンドール生を先に行かせ、二人は脇の通路を駆け下り、「嘆きのマートル」のトイレへと急いだ。 しかし、計略がうまく行ったことを、互いに称え合っていたそのとき……。 「ポッター!ウィーズリー!何をしているのですか!」 マクゴナガル先生が、これ以上固くは結べまいと思うほど固く唇を真一文字に結んで立っていた。 「僕たち−−僕たち−−」ロンがもごもご言った。 「僕たち、あの−−様子を見に」 「ハーマイオニーの」とハリーが受けた。 ロンもマクゴナガル先生もハリーを見つめた。 「先生、もうずいぶん長いことハーマイオニーに会っていません」 ハリーはロンの足を踏んづけながら急いで付け加えた。 「だから、僕たち、こっそり医務室に忍び込んで、それで、ハーマイオニーにマンドレイクがもうすぐ採れるから、だから、あの、心配しないようにって、そう言おうと思ったんです」 マクゴナガル先生はハリーから目を離さなかった。一瞬、ハリーは先生の雷が落ちるかと思った。 しかし、先生の声は奇妙にかすれていた。 「そうでしょうとも」 ハリーは先生のビーズのような目に、涙がキラリと光るのを見つけて驚いた。 「そうでしょうとも。襲われた人たちの友達が、一番幸い思いをしてきたことでしょう……よくわかりました。ポッター、もちろん、いいですとも。ミス・グレンジャーのお見舞いを許可します。ピンズ先生には、私からあなたたちの欠席のことをお知らせしておきましょう。マダム・ポンフリーには、私から許可が出たと言いなさい」 ハリーとロンは、罰則を与えられなかったことが、半信半疑のままその場を立ち去った。 角を曲がったとき、マクゴナガル先生が鼻をかむ音が、はっきり聞こえた。 「あれは、君の作り話の中でも最高傑作だったぜ」ロンが熱を込めて言った。 しかし、作り話というよりは、ハーマイオニーの事はずっと気掛かりなだけだったのだ。 こうなれば、医務室に行って、マダム・ポンフリーに「マクゴナガル先生から許可をもらって、ハーマイオニーの見舞いにきた」と言うほかはない。 マダム・ポンフリーは二人を中に入れたが、渋々だった。 「石になった人に話しかけてもなんにもならないでしょう」と言われながら、ハーマイオニーのそばの椅子に座ってみると、二人とも「まったくだ」と納得した。 見舞客が来ていることに、ハーマイオニーが全然気づいていないのは明らかだった。 ベッド脇の小机に「心配するな」と話しかけても、効果は同じかもしれない。 「でも、ハーマイオニーが自分を襲ったやつをほんとうに見たと思うかい?」 ロンが、ハーマイオニーの硬直した顔を悲しげに見ながら言った。 「だって、そいつがこっそり忍び寄って襲ったのだったら、誰も見ちゃいないだろう……」 ハリーはハーマイオニーの顔を見てはいなかった。 撫でていた右手の方に興味を持った。 かがみ込んでよく見ると、毛布の上で固く結んだ右手の拳に、くしゃくしゃになった紙切れを握り締めている。 マダム・ポンフリーが、そのあたりにいないことを確認してから、ハリーはロンに、そのことを教えた。 「なんとか取り出してみて」ロンは椅子を動かし、ハリーがマダム・ポンフリーの目に触れないように遮りながらささやいた。 簡単には行かない。 ハーマイオニーの手が紙切れをガツチリ握り締めているので、ハリーは紙を破いてしまいそうだった。 ロンを見張りに立て、ハリーは引っ張ったり、捻ったり、緊張の数分の後、やっと紙を引っ張り出した。 図書館の、とても古い本のページがちぎり取られていた。 ハリーは級を伸ばすのももどかしく、ロンもかがみ込んで一緒に読んだ。
我らがせ界を俳掴する多くの怪獣、怪物の中でも、最も珍しく、 最も破壊的であるという点で、バジリスクの右に出るものはない。 『毒蛇の王』とも呼ばれる。 この蛇は巨大に成長することがあり、何百年も生き長らえることがある。 鶏の卵から生まれ、ヒキガエルの腹の下で醇化される。 殺しの方法は非常に珍しく、毒牙による殺傷とは別に、バジリスクの一にらみは致命的である。 その眼からの光線に捕われた者は即死する。 蜘妹が逃げ出すのはバジリスクが来る前触れである。 なぜならバジリスクは蜘殊の宿命の天敵だからである。 バジリスクにとって致命的なのは雄鶏が時をつくる声で、唯一それからは逃げ出す。
この下に、ハリーには見覚えのあるハーマイオニーの筆跡で、一言だけ書かれていた。 「パイプ」 まるでハリーの頭の中で、誰かが電灯をパチンと点けたようだった。 「ロン」ハリーが声をひそめて言った。 「これだ。これが答えだ。『秘密の部屋』の怪物はバジリスク−−巨大な毒蛇だ!だから僕があちこちでその声を聞いたんだ。他の人には聞こえなかったのは、僕は蛇語がわかるからなんだ……」 ハリーは周りのベッドを見回した。「バジリスクは視線で人をCENSORED。でも誰も死んではいない。それは、誰も直接目を見ていないからなんだ。コリンはカメラを通して見た。バジリスクが中のフィルムを焼き切ったけど、コリンは石になっただけだ。ジャスティン−−ジャスティンは『ほとんど首無しニック』を通して見たに違いない!ニックはまともに光線を浴びたけど、二回はCENSOREDない……。ハーマイオニーとレイブンクローの監督生が見つかったとき、そばに鏡が落ちていた。ハーマイオニーは、怪物がバジリスクだってきっと気づいたんだ。絶対まちがいないと思うけど、最初に出会った女子学生に、どこか角を曲がるときには、まず最初に鏡を見るようにって、きっと忠告したんだ!そしてその学生が鏡を取り出して−−そしたら−−」 ロンは口をポカンと開けていた。 「それじゃ、ミセス・ノリスは?」ロンが小声で急き込んで聞いた。 ハリーは考え込んだ。ハロウィーンの夜の場面を頭に描いてみた。 「水だ…!」ハリーがゆっくりと答えた。 「『嘆きのマートル』のトイレから水が溢れてた。ミセス・ノリスは水に映った姿を見ただけなんだ……」 手に持った紙切れに、ハリーはもう一度、食い入るように目を通した。 読めば読むほど辻複が合ってくる。「致命的なのは、雄鶏が時をつくる声」ハリーは読み上げた。 「ハグリッドの雄鶏が殺された!『秘密の部屋』が開かれたからには、『スリザリンの継承者』は城の周辺に、雄鶏がいてほしくない。『蜘殊が逸げ出すのは前触れ!』何もかもピッタリだ!」 「だけど、バジリスクはどうやって城の中を動き回っていたんだろう?」ロンは呟いた。 「とんでもない大蛇だし……誰かに見つかりそうな……」 「パイプだ」ハリーが言った。 「パイプだよ……ロン、やつは配管を使ってたんだ。僕には壁の中からあの声が聞こえてた」 ロンは突如ハリーの腕をつかんだ。「『秘密の部屋』への入口だ!」ロンの声がかすれている。 「もしトイレの中だったら!もし、あの−−」 「−−『嘆きのマートル』のトイレだったら!」とハリーが続けた。信じられないような話だった。 体中を興奮が走り、二人はそこにじっと座っていた。 「……ということは」ハリーが口を開いた。 「この学校で蛇語を話せるのは、僕だけじゃないはずだ。『スリザリンの継承者』も話せる。そうやってバジリスクを操ってきたんだ」 「これからどうする!」ロンの目が輝いている。 「すぐにマクゴナガルのところへ行こうか?」 「職員室へ行こう」ハリーが弾けるように立ち上がった。 「あと十分で、マクゴナガル先生が戻ってくるはずだ。まもなく休憩時間だ」 二人は階段を下りた。どこかの廊下でぐずぐずしているところを、また見つかったりしないよう、まっすぐに誰もいない職員室に行った。広い壁を羽目板飾りにした部屋には、黒っほい木の椅子がたくさんあった。ハリーとロンは興奮で座る気になれず、室内を往ったり来たりして待った。 ところが休憩時間のベルが鳴らない。かわりに、マクゴナガル先生の声が魔法で拡声され廊下に響き渡った。 「生徒は全員、それぞれの寮にすぐに戻りなさい。教師は全員、職員室に大至急お集まりください」 ハリーはクルッと振り向き、ロンと目を見合わせた。 「また襲われたのか!今になって!」 「どうしよう?」ロンが愕然として言った。 「寮に戻ろうか?」 「いや」ハリーは素早く周りを見回した。 左側に、やぼったい洋服掛けがあって、先生方のマントがぎっしり詰まっていた。 「さあ、この中に。いったい何が起こったのか聞こう。それから僕たちの発見したことを話そう」 二人はその中に隠れて、頭の上を何百人という人が、ガタガタと移動する音を聞いていた。 やがて職員室のドアがバタンと開いた。徽臭いマントの袋の間から覗くと、先生方が次々と部屋に入ってくるのが見えた。 当惑した顔、おびえきった顔。やがて、マクゴナガル先生がやってきた。 「とうとう起こりました」シンと静まった職員室でマクゴナガル先生が話し出した。 「生徒が一人、怪物に連れ去られました。『秘密の部屋』そのものの中へです」 フリットウィツク先生が思わず悲鳴をあげた。スプラウト先生は口を手で覆った。 スネイプは椅子の背をぎゅっと握り締め、「なぜそんなにはっきり言えるのかな?」と聞いた。 「『スリザリンの継承者』がまた伝言を書き残しました」マクゴナガル先生は蒼白な顔で答えた。 「最初に残された文字のすぐ下にです。『彼女の白骨は永遠に『秘密の部屋』に横たわるであろう』」 フリットウィツク先生はワッと泣き出した。 「誰ですか!」腰が抜けたように、椅子にへたり込んだマダム・フーチが聞いた。 「どの子ですか?」 「ジニー・ウィーズリー」マクゴナガル先生が言った。 ハリーは隣で、ロンが声もなくへなへなと崩れ落ちるのを感じた。 「全校生徒を明日、帰宅させなければなりません」マクゴナガル先生だ。 「ホグワーツはこれでおしまいです。ダンプルドアはいつもおっしゃっていた……」 職員室のドアがもう一度バタンと開いた。一瞬ドキリとして、ハリーはダンプルドアに違いないと思った。 しかし、それはロックハートだった。ニッコリ微笑んでいるではないか。 「大変失礼しました−−ついウトウトと−−何か聞き逃してしまいましたか?」 先生方が、どう見ても憎しみとしかいえない目つきで、ロックハートを見ていることにも気づかないらしい。 スネイプが一歩進み出た。「なんと、適任者が」スネイプが言った。 「まさに適任だ。ロックハート、女子学生が怪物に泣致された。『秘密の部屋』そのものに連れ去られた。いよいよあなたの出番が来ましたぞ」 ロックハートは血の気が引いた。 「その通りだわ、ギルデロイ」スプラウト先生が口を挟んだ。 「昨夜でしたね、たしか、『秘密の部屋』への入口がどこにあるか、とっくに知っているとおっしゃったのは?」 「私は−−その、私は−−」ロックハートはわけのわからない言葉を口走った。 「そうですとも。『部屋』の中に何がいるか知っていると、自信たっぷりにわたしに話しませんでしたか?」 フリットウィック先生が口を挟んだ。 「い、言いましたか!覚えていませんが……」 「我輩はたしかに覚えておりますぞ。ハグリッドが捕まる前にへ自分が怪物と対決するチャンスがなかったのは、残念だとかおっしゃいましたな」スネイプが言った。 「何もかも不手際だった、最初から、自分の好きなようにやらせてもらうべきだったとか?」弧ロックハートは石のように非情な先生方の顔を見つめた。 「私は……何もそんな……あなたの誤解では……」 「それでは、ギルデロイ、あなたにお任せしましょう」マクゴナガル先生が言った。 「今夜こそ絶好のチャンスでしょう。誰にもあなたの邪魔をさせはしませんとも。お一人で怪物と取り組むことができますよ。お望み通り、お好きなように」 ロックハートは絶望的な目で周りをジーツと見つめていたが、誰も助け舟を出さなかった。 今のロックハートはハンサムからは程遠かった。唇はワナワナ震え、歯を輝かせたいつものニッコリが消えた顔は、うらなり瓢箪のようだった。 「よ、よろしい」ロックハートが言った。 「へ、部屋に戻って、し−−支度をします」ロックハートが出て行った。 「さてと」マクゴナガル先生は鼻の穴を膨らませて言った。 「これで厄介払いができました。寮監の先生方は寮に戻り、生徒に何が起こったかを知らせてください。明日一番のホグワーツ特急で生徒を帰宅させる、とおっしゃってください。他の先生方は、生徒が一人たりとも寮の外に残っていないよう見廻ってください」 先生たちは立ち上がり、一人また一人と出て行った。 その日は、ハリーの生涯で最悪の日だったかもしれない。 ロン、フレッド、ジョージたちとグリフィンドールの談話室の片隅に腰掛け、互いに押し黙っていた。 パーシーはそこにはいなかった。ウィーズリーおじさん、おばさんにふりろう便を飛ばしに行ったあと、自分の部屋に閉じこもってしまった。 午後の時間が、こんなに長かったことはいまだかつてなく、これほど混み合っているグリフィンドールの談話室が、こんなに静かだったことも、いまだかつてなかった。 日没近く、フレッドとジョージは、そこにじっとしていることがたまらなりなって、寝室に上がって行った。 「ジニーは何か知っていたんだよ、ハリー」 職員室の洋服掛けに隠れて以来、初めてロンが口をきいた。 「だから連れて行かれたんだ。パーシーのバカバカしい何かの話じゃなかったんだ。何か『秘密の部屋』に関することを見つけたんだ。きっとそのせいでジニーは−−」 ロンは激しく目をこすった。 「だって、ジニーは純血だ。他に理由があるはずがない」 ハリーは夕日を眺めた。地平線の下に血のように赤い太陽が沈んでいく−−最悪だ。 こんなに落ち込んだことはない。何かできないのか……なんでもいい−− 「ハリー」ロンが話しかけた。 「ほんのわずかでも可能性があるだろうか。つまり−−ジニーがまだ−−」 ハリーはなんと答えてよいかわからなかった。ジニーがまだ生きているとは到底思えない。 「そうだ!ロックハートに会いに行くべきじゃないかな?」ロンが言った。 「僕たちの知っていることを教えてやるんだ。ロックハートはなんとかして『秘密の部屋』に入ろうとしているんだ。それがどこにあるか、僕たちの考えを話して、バジリスクがそこにいるって、教えてあげよう」 他にいい考えも思いつかなかったし、とにかく何かしたいという思いで、ハリーは、ロンの考えに賛成した。 談話室にいたグリフィンドール生は、すっかり落ち込み、ウィーズリー兄弟が気の毒で何も言えず、二人が立ち上がっても止めようとしなかったし、二人が談話室を横切り、肖僕画の出入口から出て行くのを、誰も止めはしなかった。 ロックハートの部屋に向かって歩くうちにあたりが闇に包まれはじめた。 ロックハートの部屋の中は取り込み中らしい。カリカリ、ゴツンゴツンに加えて慌しい足音が聞こえた。 ハリーがノックすると、中が急に静かになった。それからドアがほんの少しだけ開き、ロックハートの目が覗いた。 「あぁ……ポッター君……ウィーズリー君……」ドアがまたほんのわずか開いた。 「私は今、少々取り込み中なので、急いでくれると……」 「先生、僕たち、お知らせしたいことがあるんです」とハリーが言った。 「先生のお役に立つと思うんです」 「あー−−いや−−今はあまり都合が−−」やっと見える程度のロックハートの横顔が、非常に迷惑そうだった。 「つまり−−いや−−いいでしょう」 ロックハートはドアを開け、二人は中に入った。 部屋の中はほとんどすべて取りかたづけられていた。 床には大きなトランクが二個置いてあり、片方にはローブが、窮翠色、藤色、群青色など、慌ててたたんで突っ込んであり、もう片方には本がごちゃ混ぜに放り込まれていた。 壁いっぱいに飾られていた写真は、今や机の上にいくつか置かれた箱に押し込まれていた。 「どこかへいらっしゃるのですか?」ハリーが聞いた。 「うー、あー、そう」ロックハートはドアの裏側から箒身大の自分のポスターを卦ぎ取り、丸めながらしゃべった。 「緊急に呼び出されて……しかたなく……行かなければ……」 「僕の妹はどうなるんですか?」ロンが愕然として言った。 「そう、そのことだが−−まったく気の毒なことだ」 ロックハートは二人の目を見ないようにし、引き出しをグイと開け、中のものを引っくり返してバッグに入れながら言った。 「誰よりもわたしが一番残念に思っている−−」 「『闇の魔術に対する防衛術』の先生じゃありませんか!」ハリーが言った。 「こんなときにここから出て行けないでしょう!これだけの闇の魔術がここで起こっているというのに!」 「いや、しかしですね……私がこの仕事を引き受けたときは……」 ロックハートは今度はソックスをロープの上に積み上げながら、もそもそ言った。 「職務内容には何も……こんなことは予想だに……」 「先生、逃げ出すっておっしゃるんですか!」ハリーは信じられなかった。 「本に書いてあるように、あんなにいろいろなことをなきった先生が!」 「本は誤解を招く」ロックハートは微妙な言い方をした。 「ご自分が書かれたのに!」ハリーが叫んだ。 「まあまあ坊や」ロックハートが背筋を伸ばし、顔をしかめてハリーを見た。 「ちょっと考えればわかることだ。 私の本があんなに売れるのは、中に書かれていることを全部私がやったと思うからでね。 もしアルメニアの醜い魔法戦士の話だったら、たとえ狼男から村を救ったのがその人でも、本は半分も売れなかったはずです。 本人が表紙を飾ったら、とても見られたものじゃない。バンドンの泣き妖怪を追い払った魔女は兎口(みつくち)だった。ファッション感覚ゼロだ。要するにそんなものですよ……」 「それじゃ、先生は、他のたくさんの人たちのやった仕事を、自分の手柄になきったんですか?」ハリーはとても信じる気になれなかった。 「ハリーよ、ハリー」 ロックハートはじれったそうに首を振った。 「そんなに単純なものではない。仕事はしましたよ。まずそういう人たちを探し出す。どうやって仕事をやり遂げたのかを聞き出す。それから『忘却術』をかける。するとその人たちは自分がやった仕事のことを忘れる。私が自慢できるものがあるとすれば、『忘却術』ですね。ハリー、大変な仕事ですよ。本にサインをしたり、広告写真を撮ったりすればすむわけではないんですよ。有名になりたければ、倦まず弛まず、長く幸い道のりを歩む覚悟が要る」 ロックハートはトランクを全部バチンと締め、鍵を掛けた。 「さてと。これで全部でしょう。いや、一つだけ残っている」 ロックハートは杖を取り出し、二人に向けた。 「坊ちゃんたちには気の毒ですがね、『忘却術』をかけさせてもらいますよ。私の秘密をベラベラそこら中でしゃべったりされたら、もう本が、一冊も売れなくなりますからね……」 ハリーは自分の杖に手を掛けた。間一髪、ロックハートの杖が振り上げられる直前に、ハリーが大声で叫んだ。 「エクスペリアームズ!<武器よ去れ>」 ロックハートは後ろに吹っ飛んで、トランクに足をすくわれtその上に倒れた。 杖は高々と空中に弧を描き、それをロンがキャッチし、窓から外に放り投げた。 「スネイプ先生にこの術を教えさせたのが、まちがいでしたね」 ハリーは、ロックハートのトランクを脇の方に蹴飛ばしながら、激しい口調で言った。ロックハートは、また弱々しい表情に戻ってハリーを見上げていた。ハリーは、ロックハートに杖を突きつけたままだった。 「私に何をしろと言うのかね?」ロックハートが力なく言った。 「『秘密の部屋』がどこにあるかも知らない。私には何もできない」 「運のいい人だ」ハリーは杖を突きつけてロックハートを立たせながら言った。 「僕たちはそのありかを知っていると思う。中に何がいるかも。さあ、行こう」 ロックハートを退いたてるようにして部屋を出て、一番近い階段を下り、例の文字が闇の中に光る、暗い廊下を通り、三人は「嘆きのマートル」の女子トイレの入口にたどり着いた。 まずロックハートを先に人らせた。 ロックハートが震えているのを、ハリーはいい気味だと思った。 「嘆きのマートル」は、一番奥の小部屋のトイレの水槽に座っていた。 「アラ、あんただったの」ハリーを見るなりマートルが言った。 「今度はなんの用?」 「君が死んだときの様子を聞きたいんだ」 マートルはたちまち顔つきが変わった。こんなに誇らしく、嬉しい質問をされたことがないという顔をした。 「オォォォゥ、怖かったわ」マートルはたっぷり味わうように言った。 「まさにここだったの。この小部屋で死んだのよ。よく覚えてるわ。オリーブ・ホーンピーがわたしのメガネのことをからかったものだから、ここに隠れたの。鍵を掛けて泣いていたら、誰かが入ってきたわ。何か変なことを言ってた。外国語だったと思うわ。とにかく、いやだったのは、しゃべってるのが男子だったってこと。だから、出ていけ、男子トイレを使えって言うつもりで、鍵を開けて、そして−−」マートルは偉そうにそっくり返って、顔を輝かせた。 「死んだの」 「どうやって?」ハリーが聞いた。 「わからない」マートルがヒソヒソ声になった。 「覚えてるのは大きな黄色い目玉が二つ。体全体がギュッと金縛りにあったみたいで、それからふーっと浮いて……」 マートルは夢見るようにハリーを見た。 「そして、また戻ってきたの。だって、オリーブ・ホーンピーに取っ想いてやるって固く決めてたから。あぁ、オリーブったら、わたしのメガネを笑ったこと後悔してたわ」 「その目玉、正確にいうとどこで見たの?」とハリーが聞いた。 「あのあたり」マートルは小部屋の前の、手洗い台のあたりを漠然と指差した。 ハリーとロンは急いで手洗い台に近寄った。 ロックハートは顔中に恐怖の色を浮かべて、ずっと後ろの方に下がっていた。 普通の手洗い台と変わらないように見えた。二人は隅々まで調べた。 内側、外側、下のパイプの果てまで。そして、ハリーの目に入ったのは−−鋼製の蛇口の脇のところに、引っ掻いたような小さなへどの形が彫ってある。 「その蛇口、壊れっぱなしよ」ハリーが蛇口を捻ろうとすると、マートルが機嫌よく言った。 「ハリー、何か言ってみろよ。何かを蛇語で」ロンが言った。 「でも」ハリーは必死で考えた。 なんとか蛇語が話せたのは、本物のヘビに向かっているときだけだった。 小さな彫物をじっと見つめて、ハリーはそれが本物であると想僕してみた。 「開け」 ロンの顔を見ると、首を横に振っている。 「普通の言葉だよ」 ハリーはもう一度ヘビを見た。本物のヘビだと思い込もうとした。首を動かしてみると、蝋燭の明りで、彫物が動いているように見えた。 『深け』もう一度言った。 言ったはずの言葉は聞こえてこなかった。かわりに奇妙なシューシューという音が、口から出た。そして、蛇口が眩い白い光を放ち、回りはじめた。次の瞬間、手洗い台が動き出した。 手洗い台が沈み込み、見る見る消え去ったあとに、太いパイプがむき出しになった。 大人一人が滑り込めるほどの太さだ。 ハリーはロンが息を呑む声で、再び目を上げた。 何をすべきか、もうハリーの心は決まっていた。「僕はここを降りて行く」ハリーが言った。行かないではいられない。 「秘密の部屋」への入口が見つかった以上、ほんのわずかな、かすかな可能性でも、ジニーがまだ生きているかもしれない以上、行かなければ。 「僕も行く」ロンが言った。 一瞬の空白があった。 「さて、私はほとんど必要ないようですね」ロックハートが、得意のスマイルの残骸のような笑いを浮かべた。 「私はこれで−−」 ロックハートがドアの取っ手に手を掛けたが、ロンとハリーが、同時に杖をロックハートに向けた。 「先に降りるんだ」ロンが凄んだ。 顔面蒼白で杖もなく、ロックハートはパイプの入口に近づいた。 「君たち」ロックハートは弱々しい声で言った。 「ねえ、君たち、それがなんの役に立つというんだね?」 ハリーはロックハートの背中を杖で小突いた。 ロックハートは足をパイプに滑り込ませた。 「ほんとうになんの役にも−−」ロックハートがまた言いかけたが、ロンが押したので、ロックハートは滑り落ちて見えなくなった。 すぐあとにハリーが続いた。ゆっくりとパイプの中に入り込み、それから手を放した。 ちょうど、果てしのない、ぬるぬるした暗い滑り台を急降下していくようだった。あちこち四方八方に枝分かれしているパイプが見えたが、自分たちが降りて行くパイプより太いものはなかった。 そのパイプは曲がりくねりながら、下に向かって急勾配で続いている。ハリーは学校の下を深く、地下牢よりも一層深く落ちて行くのがわかった。 あとから来るロンがカーブを通るたびにドスンドスンと軽くぶつかる音をたてるのが聞こえた。 底に着陸したらどうなるのだろうと、ハリーが不安に思いはじめたそのとき、パイプが平らになり、出口から放り出され、ドスッと湿った音をたてて、暗い石のトンネルのじめじめした床に落ちた。 トンネルは立ち上がるに十分な高さだった。ロックハートが少し離れたところで、全身ベトベトで、ゴーストのように白い顔をして立ち上がるところだった。 ロンもヒユーッと降りてきたので、ハリーはパイプの出口の脇によけた。 「学校の何キロもずーっと下の方に違いない」ハリーの声がトンネルの闇に反響した。 「湖の下だよ。たぶん」暗いぬるぬるした壁を目を細めて見回しながら、ロンが言った。 二人とも、目の前に続く闇をじっと見つめた。 「ルーモス!<光よ>」ハリーが杖に向かって呟くと、杖に灯りが点った。 「行こう」ハリーがあとの二人に声をかけ、三人は歩き出した。 足音が、湿った床にピシャツピシャッと大きく響いた。 トンネルは真っ暗で、目と鼻の先しか見えない。 杖灯りで湿っぽい壁に映る三人の影が、おどろおどろしかった。 「みんな、いいかい」そろそろと前進しながら、ハリーが低い声で言った。 「何かが動く気配を感じたら、すぐ目をつぶるんだ……」 しかし、トンネルは墓場のように静まり返っていた。 最初に耳慣れない音を聞いたのは、ロンが何かを踏んづけたバリンという大きな音で、それはネズミの頭蓋骨だった。 ハリーが杖を床に近づけてよく見ると、小さな動物の骨がそこら中に散らばっていた。ジニーが見つかったとき、どんな姿になっているだろう……そんな思いを必死で振り切りながら、ハリーは暗いトンネルのカーブを、先頭に立って曲がった。
「ハリー、あそこに何かある……」 ロンの声がかすれ、ハリーの肩をギュッとつかんだ。 三人は凍りついたように立ち止まって、行く手を見つめた。 トンネルをふさぐように、何か大きくて曲線を措いたものがあった。 輪郭だけがかろうじて見える。そのものはじっと動かない。 「眠っているのかもしれない」 ハリーは息をひそめ、後ろの二人をテラリと振り返った。 ロックハートは両手でしっかりと目を押さえていた。 ハリーはまた前方を見た。心臓の動博が痛いほど速くなった。 ゆっくりと、ぎりぎり物が見える程度に、できるかぎり目を細くして、その物体にじりじりと近寄った。 ハリーは杖を高く掲げ杖灯りが照らし出したのは、巨大な蛇の抜け殻だった。 毒々しい鮮やかな緑色の皮が、トンネルの床にとぐろを巻いて横たわっている。 脱皮した蛇はゆうに六メートルはあるに違いない 「なんてこった」ロンが力なく言った。 後ろの方で急に何かが動いた。 ギルデロイ・ロックハートが腰を抜かしていた。 「立て」ロンが、ロックハートに杖を向け、きつい口調で言った。 ロックハートは立ち上がり−−ロンに跳びかかって床に殴り倒した。 ハリーが前に飛び出したが、間に合わなかった。 ロックハートは肩で息をしながら立ち上がった。 ロンの杖を握り、輝くようなスマイルが戻っている。 「坊やたち、お遊びはこれでおしまいだ!私はこの皮を少し学校に持って帰り、女の子を救うには遅過ぎたとみんなに言おう。君たち二人はズタズタになった無残な死骸を見て、哀れにも気が狂ったと言おう。さあ、記憶に別れを告げるがいい!」 ロックハートはスペロテープで張りつけたロンの杖を頭上にかざし、一声叫んだ。 「オフリビエイト!<忘れよ>」 杖は小型爆弾なみに爆発した。 ハリーは蛇のとぐろを巻いた抜け殻に躓き、滑りながら、両手でさっと頭を覆って逃げた。 トンネルの天井から、大きな塊が、雷のような轟音を上げてバラバラと崩れ落ちてきたのだ。 次の瞬間、岩の塊が固い壁のようにたちふさがっているのをジッと見ながら、ハリーはたった一人でそこに立っていた。 「ローン!」ハリーが叫んだ。「大丈夫か!ロン!」 「ここだよ!」ロンの声は崩れ落ちた岩石の影からぼんやりと聞こえた。 「僕は大丈夫だ。でもこっちのバカはダメだ−杖で吹っ飛ばされた」 ドンと鈍い音に続いて「アイタッ!」と言う大きな声が聞こえた。 ロンがロックハートのむこう脛を蹴飛ばしたような音だった。 「さあ、どうする!」ロンの声は必死だった。 「こっちからは行けないよ。何年もかかってしまう……」 ハリーはトンネルの天井を見上げた。 巨大な割れ目ができている。ハリーはこれまで、こんな岩石の山のような大きなものを、魔法で砕いてみたことがなかった。初めてそれに挑戦するには、タイミングがよいとは言えない−−トンネル全体が潰れたらどうする? 岩のむこうから、また「ドン」が聞こえ、「アイタッ!」が聞こえた。時間がむだに過ぎて行く。 ジニーが『秘密の部屋』に連れ去られてから何時間もたっている−−ハリーには道は一つしかないことがわかっていた。 「そこで待ってて」ハリーはロンに呼びかけた。 「ロックハートと一緒に待っていて。僕が先に進む。一時間たって戻らなかったら……」 もの言いたげな沈黙があった。 「僕は少しでもここの岩石を取り崩してみるよ」ロンは、懸命に落ち着いた声を出そうとしているようだった。 「そうすれば君が−−帰りにここを通れる。だからハリー−−」 「それじゃ、またあとでね」ハリーは震える声に、なんとか自信を叩きこむように言った。 そして、ハリーはたった一人、巨大な蛇の皮を越えて先に進んだ。 ロンが力を振りしぼって、岩石を動かそうとしている音もやがて遠くなり、聞こえなくなった。 トンネルはくねくねと何度も曲がった。体中の神経がきりきりと不快に痛んだ。 ハリーはトンネルの終わりが来ればよいと思いながらも、そのときに何が見つかるかを思うと、恐ろしくもあった。 またもう一つの曲り角をそっと曲がった途端、遂に前方に固い壁が見えた。 二匹のヘビが絡み合った彫刻が施してあり、ヘビの目には輝く大粒のエメラルドが嵌め込んであった。 ハリーは近づいて行った。喉がカラカラだ。今度は石のヘビを本物だと思い込む必要はなかった。 ヘビの目が妙に生き生きしている。何をすべきか、ハリーには想僕がついた。咳払いをした。 するとエメラルドの目がチラチラと輝いたようだった。 『聞け』低く幽かなシューシューという音だった。 壁が二つに裂け、絡み合っていたヘビが分かれ、両側の壁が、スルスルと滑るように見えなくなった。 ハリーは頭のてっぺんから足のつま先まで震えながらその中に入って行った。
ハリーは細長く奥へと延びる、薄明りの部屋の端に立っていた。 またしてもヘビが絡み合う彫刻を施した石の柱が、上へ上へとそびえ、暗闇に吸い込まれて見えない天井を支え、妖しい緑がかった幽明の中に、黒々とした影を落としていた。 早鐘のように鳴る胸を押さえ、ハリーは凍るような静けさに耳をすませていた−−バジリスクは、柱の影の暗い片隅に潜んでいるのだろうか?ジニーはどこにいるのだろう? 杖を取り出し、ハリーは左右一対になった、ヘビの柱の間を前進した。 一歩一歩そっと踏み出す足音が、薄暗い壁に反響した。目を細めて、わずかな動きでもあれば、すぐに閉じられるようにした。 彫物のヘビの虚ろな眼寓が、ハリーの姿をずっと追っているような気がする。 一度ならず、ヘビの目がギロリと動いたような気がして、胃がざわざわした。 最後の一対の柱のところまで来ると、部屋の天井に届くほど高くそびえる石像が、壁を背に立っているのが目に入った。 巨大な石像の顔を、ハリーは首を伸ばして見上げた。 年老いた猿のような顔に、細長い顎髭が、その魔法使いの流れるような石のローブの裾のあたりまで延び、その下に灰色の巨大な足が二本、滑らかな床を踏みしめている。そして、足の間に、燃えるような赤毛の、黒いローブの小さな姿が、うつぶせに横たわっていた。 「ジニー!」小声で叫び、ハリーはその姿のそばに駆け寄り、膝をついて名を呼んだ。 「ジニー!死んじゃだめだ!頼むから死なないでくれ!」 ハリーは杖を脇に投げ捨て、ジニーの肩をしっかりつかんで仰向けにした。 ジニーの顔は大理石のように白く冷たかったし、目は固く閉じられていたが、石にされてはいなかった。 しかし、それならジニーはもう……。 「ジニー、お願いだ。日を覚まして」 ハリーはジニーを揺さぶり、必死で呟いた。ジニーの頭はだらりと空しく垂れ、グラグラと揺すられるままに動いた。 「その子は目を覚ましはしない」物静かな声がした。 ハリーはぎくりとして、膝をついたまま振り返った。 背の高い、黒髪の少年が、すぐそばの柱にもたれてこちらを見ていた。まるで曇りガラスのむこうにいるかのように、輪郭が奇妙にぼやけている。しかし、まざれもなくあの人物だ。 「トム−−トム・リドル?」 ハリーの顔から目を離さず、リドルは領いた。 「目を覚まさないって、どういうこと?」ハリーは絶望的になった。 「ジニーはまさか−−まさか−−?」 「その子はまだ生きている。しかし、かろうじてだ」 ハリーはリドルをじっと見つめた。トム・リドルがホグワーツにいたのは五十年前だ。 それなのに、リドルがそこに立っている。薄気味の悪いぼんやりした光が、その姿の周りに漂っている。 十六歳のまま、一日も日がたっていないかのように。 「君はゴーストなの?」ハリーはわけがわからなかった。 「記憶だよ」リドルが静かに言った。 「日記の中に、五十年間残されていた記憶だ」 リドルは、石像の巨大な足の指のあたりの床を指差した。ハリーが「嘆きのマートル」のトイレで見つけた小さな黒い日記が、開かれたまま置いてあった。 一瞬、ハリーはいったいどうしてここにあるんだろうと不思議に思ったが−−いや、もっと緊急にしなければならないことがある。 「トム、助けてくれないか」ハリーはジニーの頭をもう一度持ち上げながら言った。 「ここからジニーを運び出さなけりゃ。バジリスクがいるんだ……。どこにいるかはわからないけど、今にも出てくるかもしれない。お願い、手伝って……」 リドルは動かない。 ハリーは汗だくになって、やっとジニーの体を半分床から持ち上げ、杖を拾うのにもう一度体をかがめた。 杖がない。 「君、知らないかな、僕の−−」 ハリーが見上げると、リドルはまだハリーを見つめていた−−すらりとした指でハリーの杖をくるくる弄んでいる。 「ありがとう」ハリーは手を、杖の方に伸ばした。 リドルが口元をきゅっと上げて微笑んだ。 じっとハリーを見つめ続けたまま、所在なげに杖をクルクル回し続けている。 「聞いてるのか」ハリーは急き立てるように言った。 ぐったりしているジニーの重みで、膝ががくりとなりそうだった。 「ここを出なきゃいけないんだよ!もしもバジリスクが来たら……」 「呼ばれるまでは、采やしない」リドルが落ち着き払って言った。 ハリーはジニーをまた床に下ろした。もう支えていることができなかった。 「なんだって?さあ、杖をよこしてよ。必要になるかもしれないんだ」 リドルの微笑がますます広がった。 「君には必要にはならないよ」ハリーはリドルをじっと見た。 「どういうこと?必要にはならないって?」 「僕はこのときをずっと待っていたんだ。ハリー・ポッター。君に会えるチャンスをね。君と話すのをね」 「いいかげんにしてくれ」ハリーはいよいよ我慢できなりなった。 「君にはわかっていないようだ。今、僕たちは『秘密の部屋』の中にいるんだよ。話ならあとでできる」 「今、話すんだよ」 リドルは相変わらず笑いを浮かべたまま、ハリーの杖をポケットにしまい込んだ。 ハリーは驚いてリドルを見た。たしかに、何かおかしなことが起こっている。 「ジニーはどうしてこんなふうになったの?」ハリーがゆっくりと切り出した。 「そう、それはおもしろい質問だ」リドルが愛想よく言った。 「しかも話せば長くなるジニー・ウィーズリーがこんなふうになったほんとうの原因は、誰なのかわからない目に見えない人物に心を開き、自分の秘密を洗いざらい打ち明けたことだ」 「言っていることがわからないけど?」 「あの日記は、僕の日記だ。ジニーのおチビさんは何ヶ月も何ヶ月もその日記にバカバカしい心配事や悩みを書き続けた。兄さんたちがからかう、お下がりの本やローブで学校に行かなきゃならない、それに−−」リドルの目がキラッと光った。 「有名な、素敵な、偉大なハリー・ポッターが、自分のことを好いてくれることは絶対にないだろうとか……」 こうして話しながらも、リドルの目は、一瞬もハリーの顔から離れなかった。 むさぼるような視線だった。 「十一歳の小娘のたわいない悩み事を聞いてあげるのは、まったくうんざりだったよ」リドルの話は続く。 「でも僕は辛抱強く返事を書いた。同情してやったし、親切にもしてやった。ジニーはもう夢中になった。『トム、あなたぐらい、あたしのことをわかってくれる人はいないわ……なんでも打ち明けられるこの日記があってどんなに嬉しいか……まるでポケットの中に入れて運べる友だちがいるみたい……』」 リドルは声をあげて笑った。似つかわしくない、冷たい甲高い笑いだった。 ハリーは背筋がゾクッとした。 「自分で言うのもどうかと思うけど、ハリー、僕は必要となれば、いつでも誰でも惹きつけることができた。だからジニーは、僕に心を打ち明けることで、自分の魂を僕に注ぎ込んだんだ。ジニーの魂、それこそ僕の欲しいものだった。僕はジニーの心の深層の恐れ、暗い秘密を餌食にして、だんだん強くなった。おチビちゃんとは比較にならないぐらい強力になった。十分に力が満ちたとき、僕の秘密をウィーズリーのチビに少しだけ与え、僕の魂をおチビちゃんに注ぎ込みはじめた……」 「それはどういうこと?」ハリーは喉がカラカラだった。 「まだ気づかないのかい?ハリー・ポッター?」リドルの口調は柔らかだ。 「ジニー・ウィーズリーが『秘密の部屋』を開けた。学校の雄鶏を絞め殺したのも、壁に脅迫の文字を書きなぐったのもジニー。『スリザリンの蛇』を四人の『穢れた血』やスクイプ<できそこない>の飼い猫に仕掛けたのもジニーだ」 「まさか」ハリーは呟いた。 「そのまさかだ」リドルは落ち着き払っていた。 「ただし、ジニーは初めのうち、自分がやっていることをまったく自覚していなかった。おかげで、なかなかおもしろかった。しばらくして日記に何を書きはじめたか、君に読ませてやりたかったよ……前よりずっとおもしろくなった……。『親愛なるトム−−』」 ハリーの愕然とした顔を眺めながら、リドルは空で、読み上げはじめた。 『あたし、記憶喪失になったみたい。ローブが鶏の羽だらけなのに、どうしてそうなったのかわからないの。ねえ、トム、ハロウィーンの夜、自分が何をしたか覚えてないの。でも、猫が襲われて、あたしのローブの前にペンキがべっとりついてたの。ねえ、トム、パーシーがあたしの顔色がよくないって、なんだか様子がおかしいって、しょっちゅうそう言うの。きっとあたしを疑ってるんだわ……。今日もまた一人襲われたのに、あたし、自分がどこにいたか覚えてないの。トム、どうしたらいいの?あたし、気が狂ったんじゃないかしら……。トム、きっとみんなを襲ってるのは、あたしなんだわ!」
ハリーは、爪が手のひらに食い込むほどギュッと拳を握りしめた。 「バカなジニーのチビが、日記を信用しなくなるまでにずいぶん時間がかかった。しかし、とうとう変だと疑いはじめ、捨てようとした。そこへ、ハリー、君が登場した。君が日記を見つけたんだ。僕は最高に嬉しかったよ。こともあろうに、君が拾ってくれた。僕が会いたいと思っていた君が……」 「なぜ、どうして僕に会いたかったんだ?」 怒りが体中を駆け巡り、声を落ち着かせることさえ難しかった。 「そうだな。ジニーがハリー、君のことをいろいろ聞かせてくれたからね。君のすばらしい経歴をだ」 リドルの目が、ハリーの額の稲妻形の傷のあたりを舐めるように見た。むさぼるような表情が一層顕わになった。 「君のことをもっと知らなければ、できれば会って、話をしなければならないと、僕にはわかっていた。だから君を信用させるため、あのウドの大木のハグリッドを捕まえた有名な場面を見せてやろうと決めた」 「ハグリッドは僕の友達だ」ハリーの声はついにワナワナと震えだした。 「それなのに、君はハグリッドを嵌めたんだ。そうだろう!僕は君が勘違いしただけだと思っていたのに……」 リドルはまた甲高い笑い声をあげた。 「ハリー、僕の言うことを信じるか、ハグリッドのを信じるか、二つに一つだった。アーマンド・ディペットじいさんが、それをどういうふうに取ったか、わかるだろう。一人はトム・リドルという、貧しいが優秀な生徒。孤児だが勇敢そのものの監督生で模範生。 もう一人は、図体ばかりでかくて、ドジなハグリッド。一週間おきに問題を起こす生徒だ。狼人間の仔をベッドの下で育てようとしたりへこっそり抜け出して『禁じられた森』に行ってトロールと相撲を取ったり。しかし、あんまり計画通りに運んだので、張本人の僕が驚いたことは認めるよ。誰か一人ぐらい、ハグリッドが『スリザリンの継承者』ではありえない、と気づくに違いないと思っていた。この僕でさえ、『秘密の部屋』について、できるかぎりのことを探り出し、秘密の入口を発見するまでに五年もかかったんだ……ハグリッドに、そんな脳みそがあるか!そんな力があるか!」 「たった一人、変身術のダンプルドア先生だけが、ハグリッドは無実だと考えたらしい。ハグリッドを学校に置き、家畜番、森番として訓練するようにディペットを説得した。そう、たぶんダンプルドアには察しがついていたんだ。他の先生方はみな僕がお気に入りだったが、ダンプルドアだけは違っていたようだ」 「きっとダンプルドアは、君のことをとっくにお見通しだったんだ」ハリーはギュッと歯を食いしばった。 「そうだな。ハグリッドが退学になってから、ダンプルドアは、たしかに僕をしつこく監視するようになった」リドルはこともなげに言った。 「僕の在学中に『秘密の部屋』を再び開けるのは危険だと、僕にはわかっていた。しかし、探索に費した長い年月をむだにするつもりはない。日記を残して、十六歳の自分をその中に保存しようと決心した。いつか、時が巡ってくれば、誰かに僕の足跡を追わせて、サラザール・スリザリンの、崇高な仕事を成し遂げることができるだろうと」 「君はそれを成し遂げてはいないじゃないか」ハリーは勝ち誇ったように言った。 「今度は誰も死んではいない。猫一匹たりとも。あと数時間すればマンドレイク薬ができ上がり、石にされたものは、みんな無事、元に戻るんだ」 「まだ言ってなかったかな?」リドルが静かに言った。 「『穢れた血』の連中をCENSOREDことは、もう僕にとってはどうでもいいことだって。この数ヵ月間、僕の新しい狙いは−−君だった」 ハリーは目を見張ってリドルを見た。 「それからしばらくして、僕の日記をまた開いて書き込んだのが、君ではなくジニーだった。僕はどんなに怒ったか。ジニーは君が日記を持っているのを見て、パニック状態になった。君が日記の使い方を見つけてしまったら?僕が君に、ジニーの秘密を全部しゃべってしまうかもしれない。もっと悪いことに、もし僕が君に、鶏を絞め殺した犯人を教えたらどうしよう?−−そこで、バカな小娘は、君たちの寝室に誰もいなくなるのを見計らって、日記を取戻しに行った。しかし、僕には自分が何をすべきかがわかっていた。君がスリザリンの継承者の足跡を確実に追跡していると、僕にははっきりわかっていた。ジニーから君のことをいろいろ聞かされていたから、どんなことをしてでも君は謎を解くだろうと僕にはわかっていた−−君の仲良しの一人が襲われたのだからなおさらだ。それに、君が蛇語を話すというので、学校中が大騒ぎだと、ジニーが教えてくれた……」 「そこで僕は、ジニーに自分の遺書を壁に書かせここに下りてきて待つように仕向けた。ジニーは泣いたり喚いたりして、とても退屈だったよ。しかし、この子の命はもうあまり残されてはいない。あまりにも日記に注ぎ込んでしまった。つまりこの僕に。僕は、おかげでついに日記を抜け出すまでになった。僕とジニーとで、君が現れるのをここで待っていた。君が来ることはわかっていたよ。ハリー・ポッター、僕は君にいろいろ聞きたいことがある」 「なにを?」ハリーは拳を固く握ったまま、吐き捨てるように言った。 「そうだな」リドルは愛想よく微笑しながら言った。 「これといって特別な魔力も持たない赤ん坊が、不世出の偉大な魔法使いをどうやって破った?ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方は、たった一つの傷痕だけで逃れたのはなぜか……」 むさぼるような目に、奇妙な赤い光がチラチラと漂っている。 「僕がなぜ逃れたのか、どうして君が気にするんだ?」ハリーは慎重に言った。 「ヴォルデモート卿は君よりあとに出てきた人だろう」 「ヴォルデモートは」リドルの声は静かだ。 「僕の過去であり、現在であり、未来なのだ……ハリー・ポッターよ」 ポケットからハリーの杖を取り出し、リドルは空中に文字を書いた。 三つの言葉が揺らめきながら淡く光った。
TOMMARVOLORIDDLE(トム・マールヴォロ・リドル)
もう一度杖を一振りした。名前の文字が並び方を変えた。
IAMLOADVOLDEMORT(わたしはヴオルデモート卿だ)
「わかったね?」リドルがささやいた。 「この名前はホグワーツ在学中にすでに使っていた。もちろん親しい友人にしか明かしていないが。汚らわしいマグルの父親の姓を、僕がいつまでも使うと思うかい?母方の血筋にサラザール・スリザリンその人の血が流れているこの僕が?汚らしい、俗なマグルの名前を、僕が生まれる前に、母が魔女だというだけで捨てたやつの名前を、僕がそのまま使うと思うかい?ハリー、ノーだ。僕は自分の名前を自分でつけた。ある日必ずや、魔法界のすべてが口にすることを恐れる名前を。その日が来ることを僕は知っていた。僕が世界一偉大な魔法使いになるその日が!」 ハリーは脳が停止したような気がした。麻痺したような頭でリドルを見つめた。 この孤児の少年がやがて大人になり、ハリーの両親を、そして他の多くの魔法使いを殺したのだ。
しばらくしてハリーはやっと口を開いた。 「違うな」静かな声に万感の憎しみがこもっていた。 「何が!」リドルが切り返した。 「君は世界一偉大な魔法使いじゃない」ハリーは息を荒げていた。 「君をがっかりさせて気の毒だけど、世界一偉大な魔法使いはアルバス・ダンプルドアだ。みんながそう言っている。君が強大だったときでさえ、ホグワーツを乗っ取ることはおろか、手出しさえできなかった。ダンプルドアは、君が在学中は君のことをお見通しだったし、君がどこに隠れていようと、いまだに君はダンプルドアを恐れている」 微笑が消え、リドルの顔が醜悪になった。 「ダンプルドアは僕の記憶に過ぎないものによって追放され、この城からいなくなった!」リドルは歯を食いしばった。 「ダンプルドアは、君の思っているほど、遠くに行ってはいないぞ!」ハリーが言い返した。 リドルを恐がらせるために、とっさに思いついた言葉だった。本当にそうだと確信しているというよりは、そうあって欲しいと思っていた。 リドルは口を開いたが、その顔が凍りついた。 どこからともなく音楽が聞こえてきたのだ。リドルはクルリと振り返り、がらんとした部屋をずっと奥まで見渡した。音楽はだんだん大きくなった。妖しい、背筋がぞくぞくするような、この世のものとも思えない旋律だった。ハリーの毛はザワッと逆立ち、心臓が二倍の大きさに膨れ上がったような気がした。 やがてその旋律が高まり、ハリーの胸の中で肋骨を震わせるように感じたとき、すぐそばの柱の頂上から炎が燃え上がった。 白鳥ほどの大きさの深紅の鳥が、ドーム型の天井に、その不思議な旋律を響かせながら姿を現した。 孔雀の羽のように長い金色の尾羽を輝かせ、まばゆい金色の爪にポロポロの包みをつかんでいる。 一瞬の後、鳥はハリーの方にまっすぐに飛んできた。運んできたボロボロのものをハリーの足元に落とし、その肩にずしりと止まった。 大きな羽をたたんで、肩に留まっている鳥を、ハリーは見上げた。長く鋭い金色の嘴に、真っ黒な丸い目が見えた。 鳥は歌うのをやめ、ハリーの頬にじっとその暖かな体を寄せてしっかりとリドルを見据えた。 「不死鳥だな……」リドルは鋭い目で鳥をにらみ返した。 「フォークスか?」 ハリーはそっと呟いた。すると金色の爪が、肩を優しくぎゅっとつかむのを感じた。 「そして、それは−−」リドルがフォークスの落としたぼろに目をやった。 「それは古い『組分け帽子』だ」 その通りだった。つぎはぎだらけでほつれた薄汚ない帽子は、ハリーの足元でぴくりともしなかった。 リドルがまた笑いはじめた。その高笑いが暗い部屋にガンガン反響し、まるで十人のリドルが一度に笑っているようだった。 「ダンプルドアが味方に送ってきたのはそんなものか!歌い鳥に古帽子じゃないか!ハリー・ポッター、さぞかし心強いだろう!もう安心だと思うか?」 ハリーは答えなかった。フォークスや「組分け帽子」が、なんの役に立つのかはわからなかったが、もうハリーは一人ぼっちではなかった。リドルが笑いやむのを待つうちに、ふつふつと勇気がたぎってきた。 「ハリー、本題に入ろうか」リドルはまだ昂然と笑みを浮かべている。 「二回も−−君の過去に、僕にとっては未来にだが−−僕たちは出会った。そして二回とも僕は君を殺し損ねた。君はどうやって生き残った?すべて聞かせてもらおうか」 そしてリドルは静かにつけ加えた。 「長く話せば、君はそれだけ長く生きていられることになる」 ハリーは素早く考えを巡らし、勝つ見込みを計算した。リドルは杖を持っている。ハリーにはフォークスと「組分け帽子」があるが、どちらも決闘の役に立つとは思えない。完全に不利だ。 しかし、リドルがそうしてそこに立っているうちに、ジニーの命はますます磨り減っていく……。 そうこうしているうちにも、リドルの輪郭がはっきり、しっかりしてきたことにハリーは気づいた−−自分とリドルとの一騎打ちになるなら、一刻も早いほうがいい−−。 「君が僕を襲ったとき、どうして君が力を失ったのか、誰にもわからない」 ハリーは唐突に話しはじめた。 「僕自身もわからない。でも、なぜ君が僕を殺せなかったか、僕にはわかる。母が、僕をかばって死んだからだ。母は普通の、マグル生まれの母だ」 ハリーは、怒りを押さえつけるのにワナワナ震えていた。 「君が僕をCENSOREDのを、母が食い止めたんだ。僕はほんとうの君を見たぞ。去年のことだ。落ちぶれた残骸だ。かろうじて生きている。君の力のなれの果てだ。君は逃げ隠れしている!醜い!汚らわしい!」 リドルの顔が歪んだ。それから無理やり、ぞっとするような笑顔を取りつくろった。 「そうか。母親が君を救うために死んだ。なるほど。それは呪いに対する強力な反対呪文だ。わかったぞ−−結局君自身には特別なものは何もないわけだ。実は何かあるのかと思っていたんだ。ハリー・ポッター、何しろ僕たちには不思議に似たところがある。君も気づいただろう。二人とも混血で、孤児で、マグルに育てられた。偉大なるスリザリン様ご自身以来、ホグワーツに入学した生徒の中で蛇語を話せるのは、たった二人だけだろう。見た目もどこか似ている。しかし、僕の手から逃れられたのは、結局幸運だったからに過ぎないのか。それだけわかれば十分だ」 ハリーは今にもリドルが杖を振り上げるだろうと、体を固くした。しかし、リドルの歪んだわら笑いはまたもや広がった。 「さて、ハリー。すこし揉んでやろう。サラザール・スリザリンの継承者、ヴォルデモート卿の力と、有名なハリー・ポッターと、ダンプルドアがくださった精一杯の武器とを、お手合わせ願おうか」 リドルはフォークスと「組分け帽子」をからかうように、チラッと見てその場を離れた。 ハリーは感覚のなくなった両足に恐怖が広がっていくのを感じながら、リドルを見つめた。 リドルは一対の高い柱の間で立ち止まり、ずっと上の方に、半分暗闇に覆われているスリザリンの石像の顔を見上げた。 横に大きく口を開くと、シューシューという音が漏れた。ハリーにはリドルが何を言っているのかわかった。
『スリザリンよ。ホグワーツ四強の中で最強の者よ。われに話したまえ』
ハリーが向きを変えて石像を見上げた。フォークスもハリーの肩の上で揺れた。 スリザリンの巨大な石の顔が動いている。恐怖に打ちのめされながら、ハリーは石像の口がだんだん広がって行き、ついに大きな黒い穴になるのを見ていた。 何かが、石像の口の中でうごめいていた。何かが、奥の方からズルズルと這い出してきた。ハリーは「秘密の部屋」の暗い壁にぶつかるまで、あとずさりした。目を固く閉じたとき、フォークスが飛び立ち、翼が頬を擦るのを感じた。 ハリーは「僕を一人にしないで!」と叫びたかった。しかし、蛇の王の前で、不死鳥に勝ち目などあるだろうか? 何か巨大なものが部屋の石の床に落ち、床の振動が伝わってきた。 何が起こっているのかハリーにはわかっていた。感覚でわかる。巨大な蛇がスリザリンの口から出てきて、とぐろを解いているのが目に見えるような気がした。リドルの低いシューッという声が聞こえてきた。 「あいつを殺せ」 バジリスクがハリーに近づいてくる。 埃っぽい床をズルッズルッとずっしりした胴体を滑らせる音が聞こえた。 ハリーは目をしっかり閉じたままへ手を伸ばし、手探りで横に走って逃げようとした。リドルの笑う声がする……。 ハリーは躓き、石の床でしたたかに顔を打ち、ロの中で血の味がした。毒蛇はすぐそばまで来ている。 近づく昔が聞こえる。ハリーの真上で破裂するようなシャーッシャーッという大きな音がした。 何か重いものがハリーにぶつかり、その強烈な衝撃でハリーは壁に打ちつけられた。 今にも毒牙が体にズブリと突き刺さるかと覚悟したとき、ハリーの耳に狂ったようなシューシューという音と、何かがのた打ち回って、柱を叩きつけている音が聞こえた。 もう我慢できなかった。 ハリーはできるだけ細く目を開け、何が起こっているのか見ようとした。 巨大な蛇だ。テラテラと毒々しい鮮緑色の、樫の木のように太い胴体を、高々と宙にくねらせ、その巨大な鎌首は酔ったように柱と柱の間を縫って動き回っていた。ハリーは身震いし、蛇がこちらを見たら、すぐに目をつぶろうと身構えたそのとき、ハリーはいったい何が蛇の気を逸らせていたのかを見た。 フォークスが、蛇の鎌首の周りを飛び回り、バジリスクはサーベルのように長く鋭い毒牙で狂ったように何度も空を噛んでいた。 フォークスが急降下した。長い金色の嘴が何かにズブリと突き刺さり、急に見えなくなった。その途端、どす黒い血が吹き出しボタボタと床に降り注いだ。毒蛇の尾がのたうち、あやうくハリーを打ちそうになった。 ハリーが目を閉じる間もなり蛇はこちらを振り向いた。ハリーは真正面から蛇の頭を−−そして、その目を見た。
大きな黄色い球のような目は、両眼とも不死鳥に潰されていた。
おびただしい血が床に流れ、バジリスクは苦痛にのたうち回っていた。 「違う!」リドルが叫ぶ声が聞こえた。「鳥にかまうな!ほっておけ!小僧は後ろだ!匂いでわかるだろう!殺せ!」 盲目の蛇は混乱して、ふらふらしてはいたが、まだ危険だった。フォークスが蛇の頭上を輪を描きながら飛び、不思議な旋律を歌いながらバジリスクの鱗で覆われた鼻面をあちこち突ついた。 バジリスクの潰れた目からは、ドクドクと血が流れ続けていた。 「助けて。助けて。誰か、誰か!」ハリーは夢中で口走った。 バジリスクの尾が、また大きく一振りして床の上を掃いた。 ハリーが身をかわしたそのとき、何か柔らかいものがハリーの顔に当たった。 バジリスクの尾が、「組分け帽子」を吹き飛ばしてハリーの腕に放ってよこしたのだ。 ハリーはそれをしっかりつかんだ。もうこれしか残されていない。 最後の頼みの綱だ。ハリーは帽子をぐいっとかぶり、床にぴったりと身を促せた。 その頭上を掃くように、バジリスクの尾がまた通り過ぎた。 「助けて…………助けて……」帽子の中でしっかりと目を閉じ、ハリーは祈った。 「お願い、助けて」 答えはなかった。しかし、誰かの見えない手がぎゅっと絞ったかのように、帽子が縮んだ。 固くてずしりと重いものがハリーの頭のてっぺんに落ちてきた。 ハリーは危うくノックアウトされそうになり、目から火花を飛ばしながら、 帽子のてっぺんをつかんでぐいっと脱いだ。 何か長くて固いものが手に触れた。 帽子の中から、眩い光を放つ銀の剣が出てきた。柄には卵ほどもあるルビーが輝いている。
「小童を殺せ!鳥にかまうな!小童はすぐ後ろだ!匂いだ−−嗅ぎ出せ!」 ハリーはすっくと立って身構えた。バジリスクは胴体をハリーの方に捻りながら柱を叩きつけ、とぐろをくねらせながら鎌首をもたげた。 バジリスクの頭がハリー目がけて落ちてくる。 巨大な両眼から血を流しているのが見える。 丸ごとハリーを飲み込むほど大きく口をカッと開けているのが見える。ずらりと並んだ、ハリーの剣ほど長い鋭い牙が、ヌメヌメと毒々しく光って……。 バジリスクがやみくもにハリーに襲いかかってきた。ハリーは危うくかわし、蛇は壁にぶつかった。再び襲ってきた。今度は、裂けた舌先がハリーの脇腹に打ち当たった。 ハリーは諸手で剣を、高々と掲げた。三度目の攻撃は、狙い違わず、まともにハリーを捉えていた。 ハリーは全体量を剣に乗せ、剣の鍔まで届くほど深く、毒蛇の口蓋にズブリと突き刺した。 生暖かい血がハリーの両腕をどっぷりと濡らしたとき、肘のすぐ上に焼けつくような痛みが走った。長い毒牙が一本ハリーの腕に突き刺さり、徐々に深く食い込んで行くところだった。 毒牙の破片をハリーの腕に残したまま牙が折れ、バジリスクはドッと横様に床に倒れ、ヒクヒクと痙攣した。 ハリーは壁にもたれたまま、ズルズルと崩れ落ちた。 体中に毒を撒き散らしている牙をしっかりつかみ、力のかぎりぐいっと引き抜いた。 しかし、もう遅過ぎることはわかっていた。傷口からズキズキと、灼熱の痛みがゆっくり、しかし確実に広がっていった。 牙を捨て、ローブが自分の血で染まっていくのを見つめたときから、もうハリーの目は霞みはじめていた。 「秘密の部屋」がぼんやりした暗色の渦の中に消え去りつつあった。 真紅の影がスッと横切った。そしてハリーの傍らでカタカタと静かな爪音が聞こえた。 「フォークス」ハリーはもつれる舌で呟いた。 「君はすばらしかったよ、フォークス」 毒蛇の牙が貫いた腕の傷に、フォークスがその美しい頭を預けるのをハリーは感じた。 足音が響くのが聞こえ、ハリーの前に暗い影が立った。 「ハリー・ポッター、君は死んだ」上の万からリドルの声がした。 「死んだ。ダンプルドアの鳥にさえそれがわかるらしい。鳥が何をしているか、見えるかい泣いているよ」 ハリーは瞬きした。フォークスの頭が一瞬はっきり見え、すぐまたぼやけた。真珠のような涙がポロポロと、そのつややかな羽毛を伝って滴り落ちていた。 「ハリー・ポッター、僕はここに座って、君の臨終を見物させてもらおう。ゆっくりやってれ。僕は急ぎはしない」 ハリーは眠かった。周りのものがすべてクルクルと回っているようだった。 「これで有名なハリー・ポッターもおしまいだ」遠くの方でリドルの声がする。 「たった一人、『秘密の部屋』で、友人にも見捨てられ、愚かにも挑戦した闇の帝王に、遂に敗北して。もうすぐ、『穣れた血』の恋しい母親の元に戻れるよ、ハリー……。君の命を、十二年延ばしただけだった母親に……しかし、ヴォルデモート卿は結局君の息の根を止めた。そうなることは、君もわかっていたはずだ」 −−これが死ぬということなら、あんまり悪くない−−ハリーは思った。痛みさえ薄らいでいく…… しかし、これが死ぬということなのか?真っ暗闇になるどころか、『秘密の部屋』がまたはっきりと見え出した。 ハリーは頭をプルブルッと振ってみた。 フォークスがそこにいた。ハリーの腕にその頭を休めたままだ。 傷口の周りが、ぐるりと真珠のような涙で覆われていた−−しかも、その傷さえ消えている。 「鳥め、どけ」突然リドルの声がした。 「そいつから離れろ。聞こえないのか。どけ!」 ハリーが頭を起こすと、リドルがハリーの杖をフォークスに向けていた。 鋏砲のようなバーンという音がして、フォークスは金色と真紅の輪を描きながら、再び舞い上がった。 「不死鳥の涙……」リドルが、ハリーの腕をじっと見つめながら低い声で言った。 「そうだ……癒しの力……忘れていた……」リドルはハリーの顔をじっと見た。 「しかし、結果は同じだ。むしろこの方がいい。一対一だ。ハリー・ポッター……二人だけの勝負だ……」 リドルが杖を振り上げた。 激しい羽音とともに、フォークスが頭上に舞い戻って、ハリーの膝に何かをポトリと落とした−−日記だ。 ほんの一瞬、ハリーも杖を振り上げたままのリドルも、日記を見つめた。 そして、何も考えず、ためらいもせず、まるで初めからそうするつもりだったかのように、ハリーはそばに落ちていたバジリスクの牙をつかみ、日記帳の真芯にズブリと突き立てた。 恐ろしい、耳をつんざくような悲鳴が長々と響いた。日記帳からインクが激流のようにほとばしり、ハリーの手の上を流れ、床を浸した。リドルは身を振り、悶え、悲鳴をあげながらのたうち回って……消えた。 ハリーの杖が床に落ちてカタカタと音をたて、そして静寂が訪れた。 インクが日記帳から浸み出し、ポタッポタッと落ち続ける音だけが静けさを破っていた。 バジリスクの猛毒が、日記帳の真ん中を貫いて、ジュウジュウと焼け爛れた穴を残していた。 体中を震わせ、ハリーはやっと立ち上がった。暖炉飛行粉で、何キロも旅をしたあとのようにクラクラしていた。 ゆっくりとハリーは杖を拾い、「組分け帽子」を拾い、そして満身の力で、バジリスクの上顎を貫いていた眩い剣を引き抜いた。 「秘密の部屋」の隅の方から微かなうめき声が聞こえてきた。ジニーが動いていた。 ハリーが駆け寄ると、ジニーは身を起こした。トロンとした目で、ジニーはバジリスクの巨大な死骸を見、ハリーを見、血に染まったハリーのローブに日をやった。そしてハリーの手にある日記を見た。 途端にジニーは身震いして大きく息を呑んだ。それから涙がどっと溢れた。 「ハリー−−あぁ、ハリー−−あたし、朝食のときあなたに打ち明けようとしたの。でも、パーシーの前では、い、言えなかった。ハリー、あたしがやったの−−でも、あたし−−そ、そんなつもりじゃなかった。う、嘘じゃないわ−−リ、リドルがやらせたの。あたしに乗り移ったの−−そして一いったいどうやってあれをやっつけたの?あんなすごいものを?リドルはど、どこ!リドルが日記帳から出てきて、そのあとのことは、お、覚えていないわ−−」 「もう大丈方だよ」 ハリーは日記を持ち上げ、その真ん中の毒牙で焼かれた穴を、ジニーに見せた。 「リドルはおしまいだ。見てごらん?リドル、それにバジリスクもだ。おいで、ジニー。早くここを出よう−−」 「あたし、退学になるわ!」 ハリーはさめざめと泣くジニーを、ぎこちなく支えて立ち上がらせた。 「あたし、ビ、ビルがホグワーツに入ってからずっと、この学校に入るのを楽しみにしていたのに、も、もう退学になるんだわ−−パパやママが、な、なんて言うかしら!」 フォークスが入口の上を浮かぶように飛んで、二人を待っていた。 ハリーはジニーを促して歩かせ、死んで動かなくなったバジリスクのとぐろを乗り越え、薄暗がりに足音を響かせ、トンネルへと戻ってきた。 背後で石の扉が、シューッと低い音をたてて閉じるのが聞こえた。
暗いトンネルを数分歩くと、遠くの方からゆっくりと岩がずれ動く音が聞こえてきた。 「ロン!」ハリーは足を速めながら叫んだ。 「ジニーは無事だ!ここにいるよ!」 ロンが、胸の詰まったような歓声をあげるのが聞こえた。 二人は次の角を曲がった。 崩れ落ちた岩の間に、ロンが作った、かなり大きな隙間のむこうから、待ちきれないようなロンの顔が覗いていた。 「ジニー!」ロンが隙間から腕を突き出して、最初にジニーを引っ張った。 「生きてたのか!夢じゃないだろうな?いったい何があったんだ?」 ロンが抱きしめようとすると、ジニーはしゃくりあげ、ロンを寄せつけなかった。 「でも、ジニー、もう大丈夫だよ」ロンがニッコリ笑いかけた。 「もう終わったんだよ、もう−−あの鳥はどっから来たんだい?」 フォークスがジニーのあとから隙間をスイーッとくぐって現れた。 「ダンプルドアの鳥だ」ハリーが狭い隙間をくぐり抜けながら答えた。 「それに、どうして剣なんか持ってるんだ?」 ロンはハリーの手にした眩い武器をまじまじと見つめた。 「ここを出てから説明するよ」ハリーはジニーの方をチラッと横目で見ながら言った。 「でも−−」 「あとにして」ハリーが急いで言った。 誰が「秘密の部屋」を開けたのかを、今、ロンに話すのは好ましくないと思ったし、いずれにしても、ジニーの前では言わない方がよいと考えたのだ。 「ロックハートはどこ?」 「あっちの万だ」 ロンはニヤッとして、トンネルからパイプへと向かう道筋を顎でしゃくった。 「調子が悪くてね。行って見てごらん」 フォークスの広い真紅の翼が闇に放つ、柔らかな金色の光に導かれ、三人はパイプの出口のところまで引き返した。 ギルデロイ・ロックハートが一人でおとなしく鼻歌を歌いながらそこに座っていた。 「記憶をなくしてる。『忘却術』が逆噴射して、僕たちでなく自分にかかっちゃったんだ。自分が誰なのか、今どこにいるのか、僕たちが誰なのか、チンプンカンプンさ。ここに来て待ってるように言ったんだ。この状態で一人で放っておくと、怪我したりして危ないからね」 ロックハートは人のよさそうな顔で、闇を透かすようにして三人を見上げた。 「やあ、なんだか変わったところだね。ここに住んでいるの?」ロックハートが聞いた。 「いや」ロンはハリーの方にちょっと眉を上げて目配せした。 ハリーはかがんで、上に伸びる長く暗いパイプを見上げた。 「どうやって上まで戻るか、考えてた?」ハリーが聞いた。 ロンは首を横に振った。 すると、不死鳥のフオークスがスーッとハリーの後ろから飛んできて、ハリーの前に先回りして羽をパタパタいわせた。 ビーズのような目が闇に明るく輝いている。長い金色の尾羽を振っている。ハリーはポカンとしてフォークスを見た。 「つかまれって言ってるように見えるけど…!」ロンが当惑した顔をした。 「でも鳥が上まで引っ取り上げるには、君は重すぎるな」 「フォークスは普通の鳥じゃない」ハリーはハッとしてみんなに言った。 「みんなで手をつながなきゃ。ジニー、ロンの手につかまって。ロックハート先生は−−」 「君のことだよ」ロンが強い口調でロックハートに言った。 「先生は、ジニーの空いてる方の手につかまって」 ハリーは剣と「組分け帽子」をベルトに挟んだ。ロンは、ハリーのローブの背中のところにつかまり、ハリーは手を伸ばして、フォークスの不思議に熱い尾羽をしっかりつかんだ。 全身が異常に軽くなったような気がした。次の瞬間、ヒューッと風を切って、四人はパイプの中を上に向かって飛んでいた。 下の方にぶら下がっているロックハートが、「すごい!すごい!まるで魔法のようだ!」と驚く声がハリーに聞こえてきた。 ひんやりした空気がハリーの髪を打った。 楽しんでいるうちに、飛行は終わった−−四人は「嘆きのマートル」のトイレの湿った床に着地した。 ロックハートが帽子をまっすぐにかぶり直している間に、パイプを覆い隠していた手洗い台がスルスルと元の位置に戻った。 マートルがじろじろと四人を見た。 「生きてるの」マートルはポカンとしてハリーに言った。 「そんなにがっかりした声を出さなくてもいいじゃないか」 ハリーは、メガネについた血やベトベトを拭いながら、真顔で言った。 「あぁ……わたし、ちょうど考えてたの。もしあんたが死んだら、わたしのトイレに一緒に住んでもらったら嬉しいって」 マートルは頬をポッと銀色に染めた。 「ウヘー!」トイレから出て、暗い人気のない廊下に立ったとき、ロンが言った。 「ハリー、マートルは君に熱を上げてるぜ!ジニー、ライバルだ!」 しかし、ジニーは声もたてずに、まだポロポロ涙を流していた。 「さあ、どこへ行く?」 ジニーを心配そうに見ながら、ロンが言った。ハリーは指で示した。 フォークスが金色の光を放って、廊下を先導していた。四人は急ぎ足でフォークスに従った。 間もなくマクゴナガル先生の部屋の前に出た。ハリーはノックして、ドアを押し開いた。 ハリー、ロン、ジニー、ロックハートが、泥まみれのネトネトで(ハリーはその上血まみれで)戸口に立つと、一瞬沈黙が流れた。 そして叫び声があがった。 「ジニー!」 ウィーズリー夫人だった。 暖炉の前に座りこんで、泣き続けていたウィーズリー夫人が飛び上がってジニーに駆け寄り、ウィーズリー氏もすぐあとに続いた。 二人は娘に飛びついて抱きしめた。 しかし、ハリーの目は、ウィーズリー親子を通り越したむこうを見ていた。 ダンプルドア先生が暖炉のそばにマクゴナガル先生と並んで立ち、ニッコリしている。 マクゴナガル先生は胸を押さえて、スーッと大きく深呼吸し、落ち着こうとしていた。フォークスはハリーの耳元をヒュッとかすめ、ダンプルドアの肩に止まった。 それと同時に、ハリーもロンもウィーズリー夫人にきつく抱きしめられていた。 「あなたたちがあの子を助けてくれた!あの子の命を!どうやって助けたの?」 「私たち全員がそれを知りたいと思っていますよ」マクゴナガル先生がポツリと言った。 ウィーズリー夫人がハリーから腕を離した。ハリーはちょっと躊躇したが、デスクまで歩いて行き、「組分け帽子」とルビーのちりばめられた剣、それにリドルの日記の残骸をその上に置いた。 ハリーは一部始終を語りはじめた。 十五分も話したろうか、聞き手は魅せられたようにシーンとして聞き入った。 姿なき声を聞いたこと、それが水道パイプの中を通るバジリスクだと、ハーマイオニーが遂に気づいたこと、ロンと二人でクモを追って森に入ったこと、アラゴグが、バジリスクの最後の犠牲者がどこで死んだかを話してくれたこと、「嘆きのマートル」がその犠牲者ではないか、そして、トイレのどこかに、「秘密の部屋」の入口があるのではないかとハリーが考えたこと……。 「そうでしたか」 マクゴナガル先生は、ハリーがちょっと息を継いだときに、先を促すように言った。 「それで入口を見つけたわけですね−−その間、約百の校則を粉々に破ったと言っておきましょう−−でもポッター、いったい全体どうやって、全員生きてその部屋を出られたというのですか?」さんざん話して声がかすれてきたが、ハリーは話を続けた。 フォークスがちょうどよいときに現れたこと、「組分け帽子」が、剣をハリーにくれたこと。 しかし、ここでハリーは言葉を途切らせた。それまではリドルの日記のこと−−ジニーのこと−−に触れないようにしてきた。 ジニーは、ウィーズリーおばさんの肩に頭をもたせかけて立っている。 まだ涙がポロポロと静かに頬を伝って落ちていた−−ジニーが退学させられたらどうしよう?混乱した頭でハリーは考えた。 リドルの日記はもう何もできない……。ジニーがやったことは、リドルがやらせていたのだと、どうやって証明できるだろう? 本能的に、ハリーはダンプルドアを見た。 ダンプルドアがかすかに微笑み、暖炉の火が、半月形のメガネにチラチラと映った。 「わしが一番興味があるのは」ダンプルドアがやさしく言った。 「ヴォルデモート卿が、どうやってジニーに魔法をかけたかということじゃな。わしの個人的情報によれば、ヴォルデモートは、現在アルバニアの森に隠れているらしいが」 −−よかった−−暖かい、すばらしい、うねるような安堵感が、ハリーの全身を包んだ。 「な、なんですって?」ウィーズリー氏がキョトンとした声をあげた。 「『例のあの人』が?ジニーに、ま、魔法をかけたと?でも、ジニーはそんな……ジニーはこれまでそんな……それともほんとうに?」 「この日記だったんです」ハリーは急いでそう言うと、日記を取り上げ、ダンプルドアに見せた。 「リドルは十六歳のときに、これを書きました」 ダンプルドアはハリーの手から日記を取り、長い折れ曲がった鼻の上から日記を見下ろし、焼け焦げ、ブヨブヨになったページを熱心に眺め回した。 「見事じゃ」ダンプルドアが静かに言った。 「たしかに、彼はホグワーツ始まって以来、最高の秀才だったと言えるじゃろう」 次にダンプルドアは、さっぱりわからないという顔をしているウィーズリー一家の方に向き直った。 「ヴォルデモート卿が、かつてトム・リドルと呼ばれていたことを知る者は、ほとんどいない。わし自身、五十年前、ホグワーツでトムを教えた。卒業後、トムは消えてしまった……遠くへ。そしてあちこちへ旅をした……闇の魔術にどっぷりと沈み込み、魔法界で最も好ましからざる者たちと交わり、危険な変身を何度もへて、ヴォルデモート卿として再び姿を現したときには、昔の面影はまったくなかった。あの聡明でハンサムな男の子、かつてここで首席だった子を、ヴォルデモート郷と結びつけて考える者は、ほとんどいなかった」 「でも、ジニーが」ウィーズリー夫人が聞いた。 「うちのジニーが、その−−その人と−−なんの関係が?」 「その人の、に、日記なの!」ジニーがしゃくりあげた。 「あたし、いつもその日記に、か、書いていたの。そしたら、その人が、あたしに今学期中ずっと、返事をくれたの−−」 「ジニー!」ウィーズリー氏が仰天して叫んだ。 「パパはおまえに、なんにも教えてなかったというのかい?パパがいつも言ってただろう?脳みそがどこにあるか見えないのに、一人で勝手に考えることができるものは信用しちゃいけないって、教えただろう?どうして日記をパパかママに見せなかったの?そんな妖しげなものは、闇の魔術が詰まっていることははっきりしているのに!」 「あたし、し、知らなかった」ジニーがまたしゃくりあげた。 「ママが準備してくれた本の中にこれがあったの。あたし、誰かがそこに置いて行って、すっかり忘れてしまったんだろうって、そ、そう思った……」 「ミス・ウィーズリーはすぐに医務室に行きなさい」ダンプルドアが、きっぱりした口調でジニーの話を中断した。 「苛酷な試練じゃったろう。処罰はなし。もっと年上の、もっと賢い魔法使いでさえ、ヴォルデモート卿にたぶらかされてきたのじゃ」 ダンプルドアはツカツカと出口まで歩いていって、ドアを開けた。 「安静にして、それに、熱い湯気の出るようなココアをマグカップ一杯飲むがよい。わしはつもそれで元気が出る」 ダンプルドアはキラキラ輝く日で優しくジニーを見下ろしていた。 「マダム・ポンフリーはまだ起きておる。マンドレイクのジュースをみんなに飲ませたところでな−−きっと、バジリスクの犠牲者たちが、今にも目を覚ますじゃろう」 「じゃ、ハーマイオニーは大丈夫なんだ!」ロンが嬉しそうに言った。 「よかった」ハリーも言った。 「回復不能の傷害は何もなかった」ダンプルドアが答えた。 ウィーズリー夫人がジニーを連れて出て行った。 ウィーズリー氏も、まだ動揺がやまない様子だったが、あとに続いた。
「のう、ミネルバ」ダンプルドアが、マクゴナガル先生に向かって考え深げに話しかけた。 「これは一つ、盛大に祝宴を催す価値があると思うんじゃが。キッチンにそのことを知らせに行ってはくれまいか?」 「わかりました」マクゴナガル先生はキビキビと答え、ドアの方に向かった。 「ポッターとウィーズリーの処置は先生におまかせしてよろしいですね?」 「もちろんじゃ」ダンプルドアが答えた。 マクゴナガル先生もいなくなり、ハリーとロンは不安げにダンプルドア先生を見つめた。 −−マクゴナガル先生が「処置はまかせる」って、どういう意味なんだろう? まさか−−まさか−−僕たち処罰されるなんてことはないだろうな? 「わしの記憶では、君たちがこれ以上校則を破ったら、二人を退校処分にせざるをえないと言いましたな」ダンプルドアが言った。 ロンは恐怖で口がパクリと開いた。 「どうやら誰にでも誤ちはあるものじゃな。わしも前言撤回じゃ」 ダンプルドアは微笑んでいる。 「二人とも『ホクワーツ特別功労賞』が授与される。それに−−そうじゃな−−ウム、一人につき二〇〇点ずつグリフィンドールに与えよう」 ロンの顔が、まるでロックハートのバレンタインの花のように、明るいピンク色に染まった。 口も閉じた。 「しかし、一人だけ、この危険な冒険の自分の役割について、恐ろしく物静かな人がいるようじゃ」ダンプルドアが続けた。 「ギルデロイ、ずいぶんと控え目じゃな。どうした?」 ハリーはびっくりした。 ロックハートのことをすっかり忘れていた。振り返ると、ロックハートは、まだ暖味な微笑を浮かべて、部屋の隅に立っていた。 ダンプルドアに呼びかけられると、ロックハートは肩越しに自分の後ろを見て、誰が呼びかけられたのかを見ようとした。 「ダンプルドア先生」ロンが急いで言った。 「『秘密の甜屋』で事故があって、ロックハート先生は」 「わたしが、先生!」ロックハートがちょっと驚いたように言った。 「おやまあ、わたしは役立たずのダメ先生だったでしょうね?」 「ロックハート先生が『忘却術』をかけようとしたら、杖が逆噴射したんです」 ロンは静かにダンプルドアに説明した。 「なんと」ダンプルドアは首を振り、長い銀色の口髭が小刻みに震えた。 「自らの剣に貫かれたか、ギルデロイ!」 「剣?」ロックハートがぼんやりと言った。 「剣なんか持っていませんよ。でも、その子が持っています」ギルデロイはハリーを指差した。 「その子が剣を貸してくれますよ」 「ロックハート先生も医務室に連れて行ってくれんかね?」ダンプルドアがロンに頼んだ。 「わしはハリーとちょっと話したいことがある……」 ロックハートはのんびりと出ていった。 ロンはドアを閉めながら、ダンプルドアとハリーを好奇心の目でチラッと見た。 ダンプルドアは暖炉のそばの椅子に腰掛けた。 「ハリー、お座り」ダンプルドアに言われて、ハリーは胸騒ぎを覚えながら椅子に座った。 「まずは、ハリー、お礼を言おう」ダンプルドアの目がまたキラキラと輝いた。 「『秘密の部屋』の中で、君はわしに真の信頼を示してくれたに違いない。 それでなければ、フォークスは君のところに呼び寄せられなかったはずじゃ」 ダンプルドアは、膝の上で羽を休めている不死鳥を撫でた。ハリーはダンプルドアに見つめられ、ぎごちなくニコッとした。 「それで、君はトム・リドルに会ったわけだ」ダンプルドアは考え深げに言った。 「たぶん、君に並々ならぬ関心を示したことじゃろうな……」 ハリーの心にしくしく突き刺さっていた何かが、突然口をついで飛び出した。 「ダンプルドア先生……僕がリドルに似ているって彼が言ったんです。不思議に似通っているって、そう言ったんです……」 「ほお、そんなことを?」ダンプルドアはふさふさした銀色の眉の下から、思慮深い目をハリーに向けた。 「それで、ハリー、君はどう思うかね?」 「僕、あいつに似ているとは思いません!」 ハリーの声は自分でも思いがけないほど大きかった。 「だって、僕は−−僕はグリフィンドール生です。僕は……」 しかし、ハリーはふと口をつぐんだ。ずっともやもやしていた疑いがまた首をもたげた。「先生」しばらくしてまたハリーは口を開いた。 「『組分け帽子』が言ったんです。僕が、僕がスリザリンでうまくやって行けただろうにって。みんなは、しばらくの間、僕をスリザリンの継承者だと思っていました……僕が蛇語が話せるから……」 「ハリー」ダンプルドアが静かに言った。 「君はたしかに蛇語を話せる。なぜなら、ヴォルデモート卿がサラザール・スリザリンの最後の子孫じゃが−−蛇語を話せるからじゃ。わしの考えがだいたい当たっているなら、ヴォルデモート卿が君にその傷を負わせたあの夜、自分の力の一部を君に移してしまった。もちろん、そうしようと思ってしたことではないが……」 「ヴォルデモートの一部が僕に?」ハリーは雷に打たれたような気がした。 「どうもそのようじゃ」 「それじゃ、僕はスリザリンに入るべきなんだ」ハリーは絶望的な目でダンプルドアの顔を見つめた。 「『組分け帽子』が僕の中にあるスリザリンの力を見抜いて、それで−−」 「君をグリフィンドールに入れたのじゃ」ダンプルドアは静かに言った。 「ハリー、よくお聞き。サラザール・スリザリンが自ら選び抜いた生徒は、スリザリンが誇りに思っていたさまざまな資質を備えていた。君もたまたまそういう資質を持っておる。スリザリン自身のまれにみる能力である蛇語……機知に富む才知……断固たる決意……やや規則を無視する傾向」 ダンプルドアはまた口髭をいたずらっぼく震わせた。 「それでも『組分け帽子』は君をグリフィンドールに入れた。君はその理由を知っておる。考えてごらん」 「帽子が僕をグリフィンドールに入れたのは」 ハリーは打ちのめされたような声で言った。 「僕がスリザリンに入れないでって頼んだからに過ぎないんだ……」 「その通り」ダンプルドアがまたニッコリした。 「それだからこそ、君がトム・リドルと違う者だという証拠になるんじゃ。ハリー、自分がほんとうに何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ」 ハリーは呆然として、身動きもせず椅子に座っていた。 「君がグリフィンドールに属するという証拠が徹しいなら、ハリー、これをもっとよーく見てみるとよい」 ダンプルドアはマクゴナガル先生の机の上に手を伸ばし、血に染まったあの銀の剣を取り上げ、ハリーに手渡した。ハリーはぼんやりと剣を裏返した。ルビーが暖炉の灯りで憧いた。 そのとき、鍔のすぐ下に名前が刻まれているのが目に入った。
ゴドリック・グリフィンドール
「真のグリフィンドール生だけが、帽子から、思いもかけないこの剣を取り出してみせることができるのじゃよ、ハリー」 ダンプルドアはそれだけを言った。 一瞬、二人とも無言だった。それから、ダンプルドアがマクゴナガル先生の引出しを開け、羽ペンとインク壷を取り出した。 「ハリー、君には食べ物と睡眠が必要じゃ。お祝いの宴に行くがよい。わしはアズカバンに手紙を書く−−森番を返してもらわねばのう。それに、『日刊予言者新聞』に出す広告を書かねば」ダンプルドアは考え深げに言葉を続けた。 「『闇の魔術に対する防衛術』の新しい先生が必要じゃ。なんとまあ、またまたこの学科の先生がいなくなってしもうた。のう?」 ハリーは立ち上がってドアのところへ行った。取っ手に手をかけた途端、ドアが勢いよくむこう側から開いた。あまりに乱暴に開いたので、ドアが壁に当たって跳ね返ってきた。 ルシウス・マルフォイが怒りをむき出しにして立っていた。 その腕の下で、包帯でぐるぐる巻きになって縮こまっているのは、ドピーだ。 「今晩は、ルシウス」ダンプルドアが機嫌よく挨拶した。 マルフォイ氏は、サッと部屋の中に入ってきた。その勢いでハリーを突き飛ばしそうになった。 恐怖の表情を浮かべた惨めなドピーが、その後ろから、マントの裾の下に這いつくばるようにして小走りについてきた。 「それで!」ルシウス・マルフォイがダンプルドアを冷たい目で見据えた。 「お帰りになったわけだ。理事たちが停職処分にしたのに、まだ自分がホグワーツ校に戻るのにふさわしいとお考えのようで」 「はて、さて、ルシウスよ」ダンプルドアは静かに微笑んでいる。 「今日、君以外の十一人の理事がわしに連絡をくれた。正直なところ、まるでふくろうのどしゃ降りに遭ったかのようじゃった。アーサー・ウィーズリーの娘が殺されたと聞いて、理事たちがわしに、すぐ戻って欲しいと頼んできた。結局、この仕事に一番向いているのはこのわしだと思ったらしいのう。奇妙な話をみんなが聞かせてくれての。もともとわしを停職処分にしたくはなかったが、それに同意しなければ、家族を呪ってやるとあなたに脅された、と考えておる理事が何人かいるのじゃ」 マルフォイ氏の青白い顔が一層蒼白になった。しかし、その細い目はまだ怒り狂っていた。
「するとあなたはもう襲撃をやめさせたとでも?」マルフォイ氏が嘲るように言った。 「犯人を捕まえたのかね!」 「捕まえた」ダンプルドアは微笑んだ。 「それで?」マルフォイ氏が鋭く言った。「誰なのかね?」 「前回と同じ人物じゃよ、ルシウス。しかし、今回のヴォルデモート卿は、他の者を使って行動した。この日記を利用してのう」 ダンプルドアは真ん中に大きな穴の開いた、小さな黒い本を取り上げた。その目はマルフォイ氏を見据えていた。しかし、ハリーはドピーを見つめていた。 しもべ妖精はまったく奇妙なことをしていた。大きな目で、いわくありげにハリーの方をじ一っと見て、日記を指差しては次にマルフォイ氏を指差し、それから拳で自分の頭をガンガン殴りつけるのだ。 「なるほど……」マルフォイ氏はしばらく間を置いてから言った。 「狡猾な計画じゃ」ダンプルドアはマルフォイ氏の目をまっすぐ見つめ続けながら、抑揚を押さえた声で続けた。 「なぜなら、もし、このハリーが−−」 マルフォイ氏はハリーにチラリと鋭い視線を投げた。 「友人のロンとともに、この日記を見つけておらなかったら、おぉ−−ジニー・ウィーズリーがすべての責めを負うことになったかもしれん。ジニー・ウィーズリーが自分の意思で行動したのではないと、いったい誰が証明できようか……」 マルフォイ氏は無言だった。突然能面のような顔になった。 「そうなれば」ダンプルドアの言葉が続いた。 「いったい何が起こったか、考えてみるがよい。ウィーズリー一家は純血の家族の中でも。最も著名な一族の一つじゃ、アーサー・ウィーズリーと、その手によってできた『マグル保護法』にどんな影響があるか、考えてみるがよい。自分の娘がマグル出身の者を襲い、CENSOREDいることが明るみに出たらどうなったか。幸いなことに日記は発見され、リドルの記憶は日記から消し去られた。さもなくば、いったいどういう結果になっていたか想像もつかん……」 マルフォイ氏は無理やり口を開いた。 「それは幸運な」ぎごちない言い方だった。 その背後で、ドピーはまだ指差し続けていた。まず日記帳、それからルシウス・マルフォイを指し、それから自分の頭にパンチを食らわせていた。 ハリーは突然理解した。ドピーに向かって領くと、ドピーは隅の方に引っ込み、自分を罰するのに今度は耳を捻りはじめた。 「マルフォイさん。ジニーがどうやって日記を手に入れたか、知りたいと思われませんか?」ハリーが言った。 ルシウス・マルフォイがハリーの方を向いて食ってかかった。 「バカな小娘がどうやって日記を手に入れたか、私がなんで知らなきやならんのだ!」 「あなたが日記をジニーに与えたからです。フローリシュ・アンド・プロッツ書店で。ハリーが答えた。ジニーの古い『変身術』の教科書を拾い上げて、その中に日記を滑り込ませた。そうでしょう?」 マルフォイ氏の蒼白になった両手がギュッと握られ、また開かれるのを、ハリーは見た。 「何を証拠に」食いしばった歯の間からマルフォイ氏が言った。 「ああ、誰も証明はできんじゃろう」ダンプルドアはハリーの方に微笑みながら言った。 「リドルが日記から消え去ってしまった今となっては。しかし、ルシウス、忠告しておこう。ヴォルデモート卿の昔の学用品をバラまくのはもうやめにすることじゃ。もし、またその類の物が、罪もない人の手に渡るようなことがあれば、誰よりもまずアーサー・ウィーズリーが、その入手先をあなただと突き止めるじゃろう……」 マルフォイは一瞬立ちすくんだ。杖に手を伸ばしたくてたまらないというふうに、右手がピクビク動くのが、ハリーにははっきりと見えた。 しかし、かわりにマルフォイ氏はしもべ妖精の方を向いた。 「ドピー、帰るぞ!」 マルフォイ氏はドアをぐいっとこじ開け、ドピーが慌ててマルフォイのそばまでやってくると、ドアのむこう側までドピーを蹴飛ばした。 廊下を歩いている間中、ドピーが痛々しい叫び声をあげているのが聞こえてきた。 ハリーは一瞬立ち尽くしたまま、必死で考えを巡らせた。そして、思いついた。 「ダンプルドア先生」ハリーが急いで言った。 「その日記をマルフォイさんにお返ししてもよろしいでしょうか!」 「よいとも、ハリー」ダンプルドアが静かに言った。 「ただし、急ぐがよい。宴会じゃ。忘れるでないぞ」 ハリーは日記を鷲づかみにし、部屋から飛び出した。 ドピーの苦痛の悲鳴が廊下の角を曲がって遠のきつつあった。 −−果たしてこの計画はうまく行くだろうか−−急いでハリーは靴を脱ぎ、ドロドロに汚れたソックスの片方を脱ぎ、日記の中に詰めた。それから暗い廊下を走った。ハリーは階段の一番上で二人に追いついた。 「マルフォイさん」ハリーは息を弾ませ、急に止まったので横滑りしながら呼びかけた。 「僕、あなたに差し上げるものがあります」 そしてハリーはプンプン臭うソックスをマルフォイ氏の手に押しつけた。 「なんだ−−?」 マルフォイ氏はソックスを引きちぎるように剥ぎ取り、中の日記を取り出し、ソックスを投げ捨て、それから怒り狂って日記の残骸からハリーに目を移した。 「君もそのうち親と同じに不幸な目に遭うぞ。ハリー・ポッター」口調は柔らかだった。 「連中もお節介の愚か者だった」 マルフォイ氏は立ち去ろうとした。 「ドピー、来い。来いと言ってるのが聞こえんか!」 ドピーは動かなかった。 ハリーのドロドロの汚らしいソックスを握り締め、それが貴重な宝物でもあるかのようにじっと見つめていた。 「ご主人様がドピーめにソックスを片方くださった」しもべ妖精は驚嘆して言った。 「ご主人様が、これをドピーにくださった」 「なんだと!」マルフォイ氏が吐き捨てるように言った。 「今、なんと言った!」 「ドピーがソックスの片方をいただいた」信じられないという口調だった。 「ご主人様が投げてよこした。ドビーが受け取った。だからドピーは−−ドピーは自由だ」 ルシウス・マルフォイはしもべ妖精を見つめ、その場に凍りついたように立ちすくんだ。それからハリーに飛びかかった。 「小僧め、よくもわたしの召使を!」 しかし、ドピーが叫んだ。 「ハリー・ポッターに手を出すな!」 バーンと大きな音がして、マルフォイ氏は後ろ向きに吹っ飛び、階段を一度に三段ずつ、もんどり打って転げ落ち、下の踊り場に落ちてぺしゃんこになった。 怒りの形相で立ち上がり、杖を引っ張り出した。が、ドピーが長い人差し指を、脅すようにマルフォイに向けた。 「すぐ立ち去れ」ドピーがマルフォイ氏に指を突きつけるようにして、激しい口調で言った。 「ハリー・ポッターに指一本でも触れるのは許さん。早く立ち去れ」 ルシウス・マルフォイは従うはかなかった。いまいましそうに二人に最後の一瞥を投げ、マントを翻して身に巻きつけ、マルフォイ氏は急いで立ち去った。 「ハリー・ポッターがドピーを自由にしてくださった!」近くの窓から月の光が射し込み、ドピーの球のような両眼に映った。 その目でしっかりとハリーを見つめ、しもべ妖精は甲高い声で言った。 「ハリー・ポッターが、ドピーを解放してくださった!」 「ドピー、せめてこれぐらいしか、してあげられないけど」 ハリーはニッコリした。 「ただ、もう僕の命を救おうなんて、二度としないって、約束してくれよ」 しもべ妖精の醜い茶色の顔が、急にぱっくりと割れたように見え、歯の目立つ大きな口がほころんだ。 「ドピー、一つだけ聞きたいことがあるんだ」 はドピーが震える両手で片方の靴下を履くのを見ながら、ハリーが言った。 「君は、『名前を呼んではいけないあの人』は今度のことに一切関係ないって言ったね。覚えてる?それなら−−」 「あれはヒントだったのでございます」そんなことは明白だといわんばかりに、ドピーは目を見開いて言った。 「ドピーはあなたにヒントを差し上げました。闇の帝王は、名前を変える前でしたら、その名前を自由に呼んでかまわなかったわけですからね。おわかりでしょう?」 「そんなことなの……」ハリーは力なく答えた。 「じゃ、僕、行かなくちゃ。宴会があるし、友達のハーマイオニーも、もう目覚めてるはずだし……」 ドピーはハリーの胴のあたりに腕を回し、抱きしめた。 「ハリー・ポッターは、ドピーが考えていたよりずーっと偉大でした」 ドピーはすすり泣きながら言った。 「さようなら、ハリー・ポッター!」 そして、最後にもう一度パチッという大きな音を残し、ドピーは消えた。 これまで何度かホグワーツの宴会に参加したハリーにとっても、こんなのは初めてだった。 みんなパジャマ姿で、お祝いは夜通し続いた。ハリーには嬉しいことだらけで、どれが一番嬉しいのか、自分でもわからなかった。 ハーマイオニーが「あなたが解決したのね!やったわね!」と叫びながらハリーに駆け寄って抱きついてきたこと。ジャスティンがハッフルパフのテーブルから急いでハリーのところにやってきて、疑ってすまなかったと、ハリーの手を握り、何度も何度も謝り続けたこと。ハグリッドが明け方の三時半に現れて、ハリーとロンの肩を強くボンと叩いたので、二人ともトライフル・カスタードの皿に顔を突っ込んでしまったこと。ハリーとロンがそれぞれ二〇〇点ずつグリフィンドールの点を増やしたので、寮対抗優勝杯を二年連続で獲得できたこと。マクゴナガル先生が立ち上がり、学校からのお祝いとして期末試験がキャンセルされたと全生徒に告げたこと(「えぇっ、そんな!」とハーマイオニーが叫んだ)。 ダンプルドアが「残念ながらロックハート先生は来学期学校に戻ることはできない。学校を去り、記憶を取り戻す必要があるから」と発表したこと(かなり多くの先生がこの発表で生徒と一緒に歓声をあげた)。 「残念だ」ロンがジャム・ドーナツに手を伸ばしながら呟いた。 「せっかくあいつに馴染んできたところだったのに」 しかし、ニヤニヤと笑いながら言ったのでは、全く説得力は無かった。
夏学期の残りの日々は、焼けるような太陽で、もうろうとしているうちに過ぎた。 ホグワーツ校は正常に戻ったが、いくつか小さな変化があった。 「闇の魔術に対する防衛術」のクラスはキャンセルになった(ハーマイオニーは不満でプツブツ言ったが、ハリーは「だけど、僕たち、に関してはずいぶん実技をやったじゃないか」と、慰めた)。 ルシウス・マルフォイは理事を辞めさせられた。 ドラコは学校を我が物顔にのし歩くのをやめ、逆に恨みがましくすねていたようだった。 一方、ジニー・ウィーズリーは再び元気いっぱいになった。 あまりにも速く時が過ぎ、もうホグワーツ特急に乗って家に帰るときが来た。
ハリー、ロン、ハーマイオニー、フレッド、ジョージ、ジニーは一つのコンパートメントを独占した。 夏休みに入る前に、魔法を使うことを許された最後の数時間を、みんなで十分に楽しんだ。 「爆発ゲーム」をしたり、フレッドとジョージが持っていた最後の「花火」に火を点けたり、お互いに魔法で武器を取り上げる練習をしたりした。 ハリーは武装解除術がうまくなっていた。キングズ・クロス駅に着く直前、ハリーはあることを思い出した。 「ジニー−−パーシーが何かしてるのを君、見たよね。パーシーが誰にも言わないように口止めしたって、どんなこと?」 「あぁ、あのこと」ジニーがクスクス笑った。 「あのね一パーシーにガールフレンドがいるの」 「なんだって!」 フレッドがジョージの頭に本を一山落とした。 「レイブンクローの監督生、ペネロピー・クリアウォーターよ」ジニーが言った。 「パーシーは夏休みの間、ずっとこの人にお手紙書いてたわけ。学校のあちこちで、二人でこっそり会ってたわ。ある日二人が空っぽの教室でキスしてるところに、たまたまあたしが入って行ったの。ペネロピーが−−ほら−−襲われたとき、パーシーはとっても落ち込んでたでしょ。みんな、パーシーをからかったりしないわよね?」ジニーが心配そうに聞いた。 「夢にも思わないさ」そう言いながらフレッドは、まるで誕生日が一足早くやってきたという顔をしていた。 「絶対しないよ」ジョージがニヤニヤ笑いながら言った。 ホグワーツ特急は速度を落とし、とうとう停車した。 ハリーは羽ペンと羊皮紙の切れ端を取り出し、ロンとハーマイオニーの方を向いて言った。 「これ、電話番号って言うんだ」 番号を二回走り書きし、その羊皮紙を二つに裂いて二人に渡しながら、ハリーがロンに説明した。 「君のパパに去年の夏休みに、電話の使い方を教えたから、パパが知ってるよ。ダーズリーのところに電話くれよ。オーケー!あと二ヶ月もダドリーしか話す相手がいないなんて、僕、耐えられない……」 「でも、あなたのおじさんもおばさんも、あなたのこと誇りに思うんじゃない?」 汽車を降り、魔法のかかった柵まで人波に混じって歩きながら、ハーマイオニーが言った。 「今学期、あなたがどんなことをしたか聞いたら、そう思うんじゃない?」 「誇りに?」ハリーが言った。 「正気で言ってるの?僕がせっかく死ぬ機会が何度もあったのに、死に損なったっていうのに?あの連中はカンカンだよ……」 そして三人は一緒に柵を通り抜け、マグルの世界へと戻って行った。 |
No.120 2016/02/11(Thu) 10:36:26
|