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クリスチャン・フェローシップ・オン・ザ・インターネットのコミュニティー掲示板
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レーシェルさんへ / 大垣(管理人) 引用

レーシェルさん。管理人としてお願いがあります。___という名前を出されたのは、レーシェルさんではないので、勝手なお願いです。しかし、名前が出た以上、レーシェルさんが、これからご自分の信念をこの掲示板で語られるとき、どうしても宣教の要素が入ってしまうと考えます。掲示板のルース上、対話の場を変える必要が生じたと判断いたします。

masaoogaki@hotmail.com

にメールで連絡していただけないでしょうか。どうぞ、よろしくお願いいたします。

No.4323 2008/08/07(Thu) 22:42:25

Re: レーシェルさんへ / 大垣(管理人) 引用

上のNo.4323に書いた状況とルールにより、宣教の要素があると思えるレーシェルさんの書き込みは予告なく削除しますので、ご了解ください。

メールでの連絡をお願いいたします。

No.4325 2008/08/07(Thu) 22:53:28
聖書の奥義。 / レーシェル 引用

聖書解釈を個性として、容認する段階で、聖書は意味がなくなるのではなくなりませんか?

この世の矛盾の始まりが、聖書からになっていませんか?

私は聖書を否定するのではなく、神の意図とはかけ離れた使われ方をしているのではないかと危惧しているからです。

No.4304 2008/08/07(Thu) 08:14:27

Re: 聖書の奥義。 / 大垣(管理人) 引用

僕の管理人としての考えは、レーシェルさんが、どのような宗教に属しておられようが、何を信じておられようが、掲示板のルールに反して宣教をされないかぎり、真摯に交流をしたい、ということです。宣教をする、ということと、自分の信念にもとづいて、他の信念を持った人たちと会話をする、ということは、似ているようでも違うことだと考えます。

その意味で、レーシェルさんが、自分の属している宗教団体の名前について、一切、書かれていないことを、僕は管理人として感謝しています。

No.4311 2008/08/07(Thu) 14:40:28

器が大きいと未来が開拓されます。 / レーシェル 引用

大垣さんはやはり、真摯な方ですね。
ありがとうございます。
あなたのように、極めて深い真理の世界をお持ちの方は、ネット生活の中(感情に任せた無責任な世界)で初めて出会いました。

No.4320 2008/08/07(Thu) 19:33:35
自分で確かめた意見でお願いします。 / レーシェル 引用

____には、キリスト教の縮図かのように、数多くの個性が存在しています。 先生の言われた一言の内容にしても捉え方は様々です。

____は一つの価値観だけで存在しておりませんよ。

実際私は、____で統一した価値観が確立できていない事に、苦しんでいる一人です。 
私だけではないということです。

組織というものは、いろんな慣習が存在してまいります。

既成教会でもそうだと思いますが、信者をそう簡単に扱えるものではありませんでしょ。

現役信者でも、見つめている方向が違う方も居ます、それは、裁く事ではありませんが、個性でもありまた、個人の責任でもあります。

____も個性を尊重するあまりに、誤解をさせてしまったり、本人の悟りに任されるべき事も多々ありますから、現役信者でも取り違うことや、誤解していることも実際ありますから、比較的普通の現象ともいえませんか?

あなたがもし、多くの情報を元にしているのであれば、私の情報も知っていなければなりませんが、そうでなければ、日本のマスコミと同様に偏った情報でしかありませんよ。

共産党関係からと反対牧師の言い分以外での情報があるのであれば教えてみてください。
恐らく難しいのではないでしょうか?

No.4319 2008/08/07(Thu) 19:22:31
愚かな選択は、簡単ですよ。 / レーシェル 引用

堕落人間は、教えなくても神の願いとは違う事をします。

神の願いは、教えても難しいことかもしれません。

洗礼ヨハネと同じ間違いはし易いものです。

No.4312 2008/08/07(Thu) 14:45:24
訂正 / レーシェル 引用

聖書解釈を個性として、容認する段階で、聖書は意味がなくなるのではなくなりませんか?
             ↓
聖書解釈を個性として、容認する段階で、聖書は意味がなくなるのではありませんか?

No.4305 2008/08/07(Thu) 08:16:19

Re: 訂正 / 大垣 引用

僕は聖書には「ことば」が住んでおられると信じています。姿が違っても、聖書の「ことば」は人間として来られたキリストとひとつです。だから、分けて考えることはできません。「ことば」は、神の愛と一体であって、不完全な人間の理解をはるかに超えて深いのです。

人間は、その「ことば」をそれぞれ自分なりに解釈します。厳密に言えば、一人一人、皆、別の聖書解釈を持つはずです。聖書の意味は、不完全な人間の解釈の一致にあるのではなく、人間が「ことば」に触れ、個人的に知ることにあると思います。

しかし、自分の罪とけがれを知り、キリストの十字架を自分の罪の贖罪ときよめとして受け入れたキリスト者なら、誰でも一致する聖書解釈あります。それは、キリストが自分の罪のために十字架にかかられたこと、自分には、そのほかに救いの道がないことです。そして、十字架で死なれたキリストが三日後に復活され、自分の主であることです。僕は、キリスト者の間で、ここの聖書解釈が一致していれば、それで十分だと思います。

No.4310 2008/08/07(Thu) 14:29:07
大垣さん、ありがとうございます / レーシェル 引用

神が摂理の第一候補として準備されたのが、イエスを迎える為に準備された、 ユダヤ教を中心とするイスラエル民族でありました、(聖書を学ぶエリート集団)が神の一人子として、王を迎える心情と体制があればそのまま天国を創るには理想的な道が第一候補の摂理でした。
 しかし、結果はどうかといえば、茨の道を行かざるえない道として、(そのエリート集団がイエスを排除・迫害したがゆえに)第二候補として、神から愛されてエリートとして育てられ導いてきた最高の人たちが神の摂理を理解できなかったので、イエスと同じように捨てられた立場の人たちを集めて摂理しなくてはいけなくなったのが、イエス教団を中心として、集まってきた人たちなのです。

 そんな中でも、歴史を賭けてイエス様が全身全霊投じ既成教会の方々を教育し導いてきたのがエリート集団であるとすれば、第一候補である既成教会が再臨主を迎えなければなりません。
 ですから、再臨主を迎えるに相応しいのは、既成のキリスト教会なのです、ですから、再臨の主を一刻も早く迎え入れていただきたいと思っています。

わたしは、そのお手伝いが出来れば幸いかと思っております。

No.4280 2008/08/03(Sun) 22:51:35

Re: 大垣さん、ありがとうございます / 大垣 引用

レーシェルさんが、僕たちクリスチャンを手伝いたいと思ってくださっていることを感謝します。

お手伝いしてくださるなら、レーシェルさんは、僕たちクリスチャンの立場を理解していただきたいと思います。僕たち、クリスチャンは、再臨の主が来られるまで、聖書にある神の教えに忠実であろうとしています。

ご説明しましたたようにクリスチャンは、聖書を通して、イエスから「私こそキリストだ。」と言う人が、にせキリストであるかどうか、注意するように指示を受けています。今までのレーシェルさんの説明を読んで僕が理解できたかぎり、レーシェルさんのお考えは、聖書の基本的な教えとかけはなれているように思います。それで、前もってイエスが聖書に示された教えと違う教えを受けられたレーシェルさんが出会われたのは、本物のイエスでなかったという可能性が強いと考えざるをえません。

もちろん、僕の聖書解釈の間違いなど、僕の方に問題がある可能性も考えられます。もし、レーシェルさんが本物の再臨主に出会われたのなら、レーシェルさんが、聖書を勉強されて僕の聖書解釈の間違いを指摘して説明してくだされば、役にたちます。レーシェルさんは、聖書を勉強してみようという気持ちはお持ちでしょうか。

ところで、訂正の書き込みは、このスレッドの最初のもとの書き込みの方に訂正した後に、消去しました。ご了承ください。

No.4283 2008/08/04(Mon) 11:13:21

Re: 大垣さん、ありがとうございます / レーシェル 引用

大垣さんの言われる立場はよく理解できます。

イエス様の当時に、イエスを救い主として信じて付いて行った漁夫や娼婦や収税人のような学識のないような立場にあるのが私のようなものです、

大垣さん達のように聖書を熟読し聖書の一字一句を大事にしてこられた方はプライドというハードルが私たちよりは高いように思います。

わたしは、学識がない分、感性で勝負するところがあります、理論理屈よりも感性を優先して生きています。
 
 クリスチャンの言葉のなかではよく聞きますよね。
「幼子のような心」でというフレーズ。

 私はそのような心で、固定観念や既成概念にとらわれずに相対しているかと思います。

ですから、聖書解釈に対しては個人の感性が影響しているところですから、違いがあって当たり前かもしれません、その点では、私の解釈を紹介することはあっても、対決する意思はございません。

聖書のポイントはある程度は知っていますが、詳細なところは、深く学べば、根本が解らなくなる気がしますので詳細な点は大きな気持ちで見つめております。

No.4284 2008/08/04(Mon) 15:15:26

Re: 大垣さん、ありがとうございます / 大垣 引用

レーシェルさんがおっしゃるように、人間のプライドは本当に神の愛と人間との高いハードルとなりますね。聖書を深く研究するだけでなく、神を信頼し愛するクリスチャンは、みな、同じような結論に達すると思います。僕はカトリックではないので、よく知りませんが、ずっと昔から、カトリックでは「7つの大罪」ということが言われ、一番の大罪は、プライドであるということです。

聖書を勉強すると知識が増えるので、その知識にプライドを持ってしまうと、幼子のような心を失ってしまいます。これは、人間の力では避けがたいことです。しかし、神の力に頼れば、人間は聖書を勉強して、知識を増やしても、プライドを高くしていかないどころか、むしろ、聖書を通して語られる神の力でプライドを破壊していただくことが可能だと思います。

このことについて、レーシェルさんは、どう思われますか?

No.4286 2008/08/04(Mon) 22:07:38

Re: 大垣さん、ありがとうございます / レーシェル 引用

聖書というのは、神のみ言が記された、石版(十戒)から始まり、幕屋を持って信仰の中心として立てたものが時代の変化に合わせて編成され受け継がれて来た信仰の象徴であり、み言の象徴ではないかと思います。

本来ならば、神がイエスを救世主として送られた時には、信仰の実体であり、み言の実体となっているのではないかと確信しております。

イスラエル民族として、プライドの象徴でもあった、旧約聖書をイエスを迎えた時点で、天秤にかけることもなく、プライドを含めて、しまい込んで置かなければならなかったのだと思います。

象徴と実体では、実体の方が優位なのですから。

洗礼ヨハネの失敗は、み言の実体のイエスに付き従う事が出来なかったことです。  
その要因は云うまでもなく、プライドなのですから。

自分の築き上げたプライドも収めることが出来れば、天的なプライドとなるでしょう。 

プライドは破壊するのではなく、新しく創り上げるのではないでしょうか?

No.4288 2008/08/05(Tue) 08:45:25

Re: ことばと十字架 / 大垣 引用

約2000年前にキリストは神のことばが人間の姿となって現れてくださいました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。(ヨハネの福音書1:1-2)

と聖書に神が示されたとおりです。そして、

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。(申命記6:4)

と書いてあるとおり、神はただひとりなので、神のことばも姿を変えてもひとつです。ですから、聖書にある「ことば」が、姿を変えて人間のキリストとなられたとき、キリストが聖書にある「ことば」より優位な存在となり、本質的に違うものになられたわけではないと信じます。キリストを聖書の「ことば」から分けることはできないのです。例えばマタイ5:17で、キリストは

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

と言われました。

当時、キリストは、ユダヤ人の聖書の解釈に対して、間違いを指摘され、ご自分の優位を教えられました。また、ユダヤ人の自分たちの聖書解釈へのプライドや、人間の行いや悟りへのプライドを非難されました。しかし、キリストは聖書のことばが間違っていたり、自分の方が優位な存在であるとは、教えられませんでした。

ユダヤ人がキリストを受け入れることができなかったのは、自分たちの聖書解釈や悟りや善行にプライドを持ったからです。そのようなプライドを持たず、自分の罪とけがれを知っていたユダヤ人たちはキリストを受け入れました。たとえば、12使徒のリーダーのペテロは、イエスのされた不思議なわざを見たとき、

「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8より)

と言いました。そしてイエスに、こわがらなくてもよい、と声をかけられて、何もかも捨てて、イエスにつき従うようになりました。

僕は2003年以前は、自分の能力と倫理的な良さにプライドを持っていました。だから、キリストの十字架による罪の贖いと、キリストの血によるきよめを自分が必要とするとは思ってもいませんでした。復活したキリストから直接教えを受けたパウロは、ローマ3章で、ユダヤ人も、異邦人もすべての人が罪の下にあると語って、旧約聖書から引用しています。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、にな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12より)。

ですから、パウロは人間の悟りや善行による救いの可能性を否定し、すべての人が、キリストの十字架による罪の贖いと、キリストの血によるきよめを必要としていることを書きました。

ですから、神は僕のプライドを破壊され、砕かれます。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)

とあるように、僕は砕かれたたましいを、神にささげたいのです。

また、パウロが?Tコリント1:31に

まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

と書き、また、ガラテヤ 6:14で

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

と書いたように、僕は自分の悟りや自分のきよさではなく、主イエス・キリストの十字架だけを誇りたいのです。

No.4291 2008/08/06(Wed) 05:23:14

Re: 大垣さん、ありがとうございます / レーシェル 引用

神はノアの時代に洪水審判をされましたが、

ノアの家庭よりも、イエス=キリストは神にとっては貴重で重要な立場でありながら、罪人を守るために十字架につけて人類の贖罪をはかることにしたのか?

なぜ、ノアの時のように洪水審判をしなかったのでしょうか?

あなた方が頑なに十字架を美化した立場で受け止めておられるようですが、神の立場をもって、十字架が示す意味が違う可能性はあるのではないでしょうか?

No.4296 2008/08/06(Wed) 08:43:56

Re: 神の愛 / 大垣 引用

?Uペテロ3章5-6節に、ノアの洪水と、キリストの再臨の後の最後のさばきについて書いてあります。

天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

最後のさばきの日については、10節に

その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はくずれ去り、地と地のいろいろなわざは燃え尽くされます。

ところが義人はひとりもいず、すべての人は、罪を犯したのです(ローマ3:10,33より)。だから、キリストによる十字架による、罪の贖いがなければ、この、さばきの日には、ひとり残らず、すべての人々が滅びるところでした。もし、父なる神が、尊い御子キリストを十字架にかけられずに、審判を与えて、すべての人々を滅ぼされたのなら、それは、公平なことでした。しかし、神は罪人たちさえ愛しておられます。神は

ひとりでも滅びることを望ます、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(?Uペテロ3:9より)。

だから、僕がキリストを信じず、クリスチャンたちを馬鹿にし、神に対するけがしごとを言っていた罪人であったときに、僕をあわれみ愛して神はキリストの十字架を与えてくださいました。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ 5:8)

とあるとおりです。そして

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

No.4297 2008/08/06(Wed) 12:03:35

Re: 大垣さん、ありがとうございます / 名も無い通りすがり 引用

横槍失礼します。

>神の立場をもって、十字架が示す意味が違う可能性は
>あるのではないでしょうか?


「可能性」について語るならば、何でもあり得ます。
人間の感性と想像力は、可能性を無限に生み出せますから。

しかし、無限大の可能性は、それ自体では混沌でしかなく、なんらかの形で制約され、絞り込まれなければ、意味を成し得ません。


キリスト者は、十字架の意味の可能性を、新約聖書によって制約し、絞り込みます。

あなたは、それを、主に自らの感性によってする訳です。(だから、聖書の章句は都合に合わせて無視してもかまわないわけです。)


あなたの目には、固定された書物である新約聖書に頼る我々の姿勢が「かたくな」と写ることでしょうね。

まぁ、それは判る気がします。

No.4299 2008/08/06(Wed) 13:46:35

Re: 大垣さん、ありがとうございます / レーシェル 引用

 私が言う可能性というのは、思いつきの可能性ではなく、良心的に理屈を理解できての可能性の事ですから、無限に生み出せるものではなく、あなたの言っているように絞り込まれるべく内容で紹介させて頂いております。

 キリスト教には、一つの価値観で形成されていません、神は複数形ではないはずですが、キリスト教の現状は、大きくはカトリックとプロテスタント宗派的には何百と分かれているほど、主張が違っております。

 まずは、クリスチャンが一つの価値観に到達するように努力すべきではないでしょうか?

歴史あるキリスト教自体が矛盾を容認しているのではないでしょうか? 
 神様は、エデンの園の住人としての理想的姿を頑なに求めたが故に、サタンと因縁を持ったアダムとイブを追い出さざるを得なかったのではないでしょうか?

 聖書には、情報量が圧倒的に少ないところが、クリスチャンのなかで混乱している原因なのではないでしょうか?

聖書外伝といわれる、書物もあるという理由は何でしょうね?

No.4300 2008/08/06(Wed) 16:41:41

Re: 絶対基準は何か / 大垣 引用

可能性を絞り込んでいくとき、何を絶対基準として選んで、制約していくか、という問題があります。レーシェルさんは、ご自分の良心や、理屈を理解できる力や、悟りを絶対基準として、制約しておられると思います。

預言者イザヤは聖書で人間の義について

私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

と書いています。神の義は完全に聖です。僕の人間的な良心による義は、他の人と比べるとき、白いように思えることがあります。しかし、自分を神の純白の聖さに比べると、いろいろなしみがあるのに気づきます。僕の人間的な良心の義は、神の義と比べるとき、不潔な着物のようです。僕は、自分の人間的な良心は、完全に聖なる神の義を指し示すものであって、大切なものと思いますが、絶対視できるようなものではないと思います。

それで僕は聖書にある神のみことばを絶対の基準として選びます。そのみことばは、真のキリストと一体であり、神と一体であると信じるからです。そうしてみると、自分が論理と理屈で考えて、絶対視していたことの多くが、真理からずれていることを教えられてきました。僕は、論理や理屈ということを、神の真理を指し示すものとして、重要視しますが、絶対視することをしません。

僕は、クリスチャンは、ひとつの神の愛によって、互いに愛しあい、神の栄光のために協力しあうように、努めるべきだと思います。しかし、クリスチャンが、お互いに、全く同じ聖書解釈をするように努力することには反対です。人間は、一人一人、個性を持って神が造ってくださいました。不完全なりに、神を理解しようとするとき、それぞれ、異なった聖書解釈を持つのは当然です。理解が違っても、相手の考えを尊重し、愛しあい、協力しあうことが、理想です。無理やりに同じ聖書解釈にしようと努力することは、人間の個性の違いと不完全さに気づかない人のすることだと思います。

情報量についても、神の永遠の目から見て、多くの情報を必要する個性を持つ人と、そうでない人がいると思います。聖書外伝のような書物についても、必要とする人といない人がいると思います。いろいろな情報には嘘もまざる可能性がありますから、僕は、神のみことばを絶対視して、嘘を見分けるようにします。

エデンの園での堕落以前のアダムとイブは、罪もけがれもなく、神とともに幸福でした。しかし、彼らは、誘惑されれば、すぐに神を裏切ってしまう性質を持っていました。

主の再臨後の最後のさばきのあとは、多くの聖徒たちが、罪もけがれもキリストの十字架と血によりきよめられ、誘惑されても、神を裏切らない状態になります。それは、エデンの園よりも、さらに優れています。誘惑されれば、だまされるエデンの園の状態に戻るだけなら、キリストの十字架は必要ないと思います。黙示21:1−4に、

また私は、新しい天と地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もやは過ぎ去ったからである。

とあります。

No.4301 2008/08/06(Wed) 23:54:34

Re: 大垣さん、ありがとうございます / 名も無い通りすがり 引用

レーシェルさんへ。

管理人さんのレスとは関係ないものとして、レスを差し上げます。

>私が言う可能性というのは、思いつきの可能性ではなく、
>良心的に理屈を理解できての可能性の事ですから、無限に生>み出せるものではなく、あなたの言っているように絞り込ま>れるべく内容で紹介させて頂いております。


ええ。

私が言いたいのは、その可能性の「制約」の仕方と、「絞込み」の仕方が、あなたとクリスチャンとの間では、まったく違いますねぇ、という事です。 (補足: その根本的な相違をきちんと扱い、解決した上で対話を試みないと、クリスチャンとの意見交換は、すれ違うだけですよ、と、間接的に言っているわけです。)


>聖書外伝といわれる、書物もあるという理由は何でしょう
>ね?


外伝、ではなく、外典(聖書66巻に含まれ無かった物。)のことですか?  どちらにせよ、外典(あるいは外伝)が存在するのは、イエスの周辺で起きた出来事について、その意味の解釈の可能性が多様に存在したからです。

その可能性の存在自体は、私は否定しませんし、問題視もしません。  問題は、その「可能性」が何を根拠に受容され、何を根拠に棄却されたか、ということです。


あなたのご質問を、あなたに投げ返しますが、そもそも、聖書という一つの書物が存在する理由は何でしょうか。

それは、イエスの人生と、十字架、そして彼の復活の意味の解釈が、使徒をはじめとして、当時の教会によって制約され、絞り込まれ、固定された、という経緯があるということです。


●そして、クリスチャンはその可能性に命をかけたのです。

No.4302 2008/08/07(Thu) 04:01:03
士師記12章 / 沙耶香 引用

今日は士師記12章を読みます。

3節の
あなたがたが私を救ってくれないことがわかったので、私は自分のいのちをかけてアモン人の所へ進んでいった。そのとき、主は彼らを私の手に渡された。なぜ、あなたがたは、きょう、私のところに上ってきて、私と戦おうとするのか。」
が印象に残りました。

5,6節に
ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が、「渡らせてくれ。」と言うとき、ギルアデの人々はそのものに、「あなたはエフライム人か。」と尋ね、そのものが「そうではない。」と答えると、
そのものに、「「シボレテ」と言え。」といい、そのものが「スィボレテ」といって、正しく発音できないと、そのものをつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。そのとき、4万2千人のエフライム人が倒れた。
とあるが、何で「シボレテ」というのだろうか?何か意味があるのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ23章11-15節を読みます。
天におられるお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、11節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様を侮辱するなんて本当に最低だ。でもよくよく考えると、直接侮辱していなくても、間接的にしていることがあるのかもしれないです。気をつけないといけない。

No.4290 2008/08/05(Tue) 21:56:24

Re: 士師記12章 / 大垣 引用

6節の「シボレテ」に何か意味があるのではなく、エフライム人たちは、「シボレテ」の最初の音を正しく発音できなかったので、この語を言わせて、その人がエフライム人かどうか調べました。たとえば、東北の人たちの方言のなまりがよく分かる語を言わせて、その人が東北の人かどうか調べるようなことです。

No.4293 2008/08/06(Wed) 05:42:27

再士師記12章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度士師記12章を読みます。

9節に
彼には30人の息子がいた。また彼は30人の娘を自分の氏族以外のものにとつがせ、自分の息子達のために、よそから30人の娘達をめとった。彼は7年間、イスラエルを裁いた。
とあるが、自分の氏族以外のものに娘を嫁がせたり、息子達をよそから来た人を嫁に取ったりすることがイスラエルをさばくことになるのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ23章16-21節を読みます。
天のお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
イエス様は何も悪くないのに、十字架につけられ、苦しみました。何も悪くないのにずっといじめられてきた私、家庭でみなに虐待されている私・・・イエス様と一緒だと思うと救われます。

No.4294 2008/08/06(Wed) 07:48:58

Re: 士師記12章 / 大垣 引用

9節。結婚に関することは、彼の家庭に関することで、彼がイスラエルをさばいた、ということとは別のことです。

No.4298 2008/08/06(Wed) 12:19:59
士師記11章残り / 沙耶香 引用

今日は士師記11章残りを読みます。

38節に
エフタは、「行きなさい。」と言って、娘を2ヶ月の間、出してやったので、彼女は友達といっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。
とあるが、この処女というのはどういう意味だろうか?男性経験がないという意味とは違うような気がするが・・・。

と思っていたら、39節を見ると、やはりそういう意味だったみたいだ・・・でもよく分からないなー。そうすると何で2ヶ月の間山で自分がそうであることを嘆いたのだろうか?うーん??

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ23章1-5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
イエス様は素晴らしいのにイエス様をはめようとする人がいたなんて・・・

No.4279 2008/08/03(Sun) 21:35:05

再士師記11章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度、士師記11章残りを読みます。

例年のように2泊3日で宗教合宿に行っていました。スキー用ホテルのオフシーズンだったためにかなり涼しく避暑になりましたし、牧師と3日間も一緒に過ごせて最高だったし、広いお風呂に何度も入れて最高だったし、いろんな祝福と恵みを受けて帰ってきました。
教会でお証もしました。

34節の
エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出てきているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
が印象に残りました。

39節に
二ヶ月の終わりに、娘は父のところに帰ってきたので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、
とあるが、父が誓った誓願どおりに彼女に行ったことって一体何だろうか?と思って、横の注を見ると、士11・30とあるので、開きます。
主がアモン人を与えてくれるということだと思うのだが、でもその場合誓願どおりに彼女に行ったというのはおかしいなー・・・。彼女に行ったわけじゃないと思うのだが・・・。

あっ、でも40節に
毎年、イスラエルの娘達は出て行って、年に4日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。
とあるので、彼女に行ったというのはこのことかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日は、ルカ23章6-10節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、8節が気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、実際にイエス様の行う奇跡を間近で見たいというのはみなありますよね。例えばイエス様が手を置いただけで癒されたりするのを見てみたいですよね。

No.4285 2008/08/04(Mon) 19:55:25

Re: 士師記11章残り / 大垣 引用

30-31章で、エフタは、主が、アモン人との戦いで、自分に勝利をくださり、無事に家に帰ってきたとき、最初に戸口から迎えに出てくる者を、全焼のいけにえとして、主にささげるという誓いをたてました。エフタは何が最初に出てくると予想していたのかわかりませんが、飼っていた羊が最初に出てくるとでも思っていたのでしょう。非常に愚かな誓いをたてた、と言って良いと思います。エフタを迎えに最初に出てきたのは、彼の愛するひとり娘でした。エフタは、主に誓ってしまっていたので、39節で、娘を全焼のいけにえとして主にささげました。ところで、39節で「彼女に行った」ではなく、「彼女に行なった。」となっていることに注意してください。

旧約聖書の時代では、霊の子どものいう考えは、まだ神がはっきり示しておられませんでしたから、この世の普通の意味での子孫を持つということが、非常に重要でした。だから娘が処女であることを泣き悲しんだことのは、自分が子孫を持てない、ということが大きかっただろう思います。

No.4287 2008/08/04(Mon) 22:22:48

Re: 士師記11章残り / 沙耶香 引用

>>30-31章で、エフタは、主が、アモン人との戦いで、自分に勝利をくださり、無事に家に帰ってきたとき、最初に戸口から迎えに出てくる者を、全焼のいけにえとして、主にささげるという誓いをたてました。エフタは何が最初に出てくると予想していたのかわかりませんが、飼っていた羊が最初に出てくるとでも思っていたのでしょう。非常に愚かな誓いをたてた、と言って良いと思います。エフタを迎えに最初に出てきたのは、彼の愛するひとり娘でした。エフタは、主に誓ってしまっていたので、39節で、娘を全焼のいけにえとして主にささげました。ところで、39節で「彼女に行った」ではなく、「彼女に行なった。」となっていることに注意してください。

あ、でも娘さんが出てくる可能性だって十分あったわけで、主に誓って、娘さんを捧げなくてはならなくなったなんて最悪だけれど、主は情けをかけてくれないのだろうか?
うん、本当「彼女に行った。」ですね・・・もー私は愚かで不注意者だということを主に謝罪します。

No.4289 2008/08/05(Tue) 11:33:27

Re: 士師記11章残り / 大垣 引用

僕はあわれみ深い主が、エフタと娘さんが、天国で永遠に主とともにいられるようになさったと信じます。エフタと彼の娘だけでなく、僕たちも、この世での自分たちや他の人たちの愚かで不注意な行いのため、この世で、さまざまな苦しみにあいます。しかし、あわれみ深い主は、そのような苦しいことも含めて、すべてのことをともに働かせて、僕たちの永遠の幸福のための益としてくださいます(ローマ8:28)。そして、僕たちが耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません(?Tコリント10:13)。

No.4292 2008/08/06(Wed) 05:32:38

Re: 士師記11章残り / 沙耶香 引用

>>僕はあわれみ深い主が、エフタと娘さんが、天国で永遠に主とともにいられるようになさったと信じます。

でもそんなこと言っていたら、すべての人はいずれ死ぬんだから・・・。でもエフタも娘さんも天国にいけたとは限らないです。

>>僕たちも、この世での自分たちや他の人たちの愚かで不注意な行いのため、この世で、さまざまな苦しみにあいます。しかし、あわれみ深い主は、そのような苦しいことも含めて、すべてのことをともに働かせて、僕たちの永遠の幸福のための益としてくださいます(ローマ8:28)。そして、僕たちが耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません(?Tコリント10:13)。

うん、この世であまり大きな試練にあっていない管理人さんはこういう風に御言葉で押さえつけることができるが、私なんかは試練の連続のような人なので・・・でもそういうことも益としてくださると信じます。

No.4295 2008/08/06(Wed) 07:57:09
大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

私は、聖書解釈には人間の都合によって偏った解釈がされているという事を、聖書を信仰している方には360度見渡せる視野をもって考えて頂きたいというこてです。

もしも、あなた方が、神の意図する聖書解釈をしているならば、予言のこの時には再臨のイエスに会って、真理を再臨主から学んでいるはずです。

その事が私のあなた方に考えて欲しい事なのです。

あなたは、再臨主に会えた実感がありますでしょうか?

No.4238 2008/07/29(Tue) 00:22:54

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

レーシェルさん、僕はキリストと出会ったという実感を持っています。ただ、そういう風に書いても、それこそ、いろいろな解釈が可能で、あまり意味がないかな、という気がします。

僕がどういう風にしてキリストと出会って、キリストとの個人的な関係を深めてきたか。また、そのときに、聖書が僕の場合には、どのような役割を果たしたか、ということを書くと、レーシェルさんがご自分の場合と比べられて、参考になるかもしれない、と思います。レーシェルさんは、どう思いますか?

No.4241 2008/07/29(Tue) 12:30:33

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

私の質問は、2000年前に、3弟子や12弟子や72門徒が実体のイエスにお目にかかり、み言を聞けるような、出会いの事で、キリストの愛に出会ったという訳ではありませんから、捉え違いをしないでください。

その点、すごく重要なところなのでよろしくお願いします。

No.4242 2008/07/29(Tue) 14:39:39

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

僕のまわりのキリスト者たちのイエスとの出会いの形はさまざまです。友人の友人は、とても苦しんでいるときに、光の中にイエスが現れて、クリスチャンとなったそうです。レーシェルさんのイエスとの出会いは、そういうような実体のイエスとの出会いですか。

僕の場合は、イエスの声が聞こえたので信じるようになり、その後、夢の中で一度だけお会いして声をかけていただいたことがあります。そのような形の出会いです。

No.4244 2008/07/29(Tue) 22:11:20

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

私の言っている出会いは、幻や夢の中のイエスではなく、
先ほども言いましたように、イエスが再臨するときは実体でされると言われているように、実体でツーショットで写真が撮れるような出会いの事です。

No.4246 2008/07/29(Tue) 22:57:42

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

レーシェルさんの言われているような形の出会いでしたら、僕はまだ体験していません。友人の友人が体験したのは、そのような出会いだったと思います。2000年くらい前には、パウロが体験しました。

No.4247 2008/07/30(Wed) 01:41:26

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

パウロもイエス=キリストのすぐそばで仕えていながら、神の一人子で王の王として、この世で天国を実現するために、世界の指導者として果たさなければ成らない使命をパウロは理解できていないという事を知らなければならないのです。

そばにいながらイエス=キリストを見殺しにしたという事実を考えると、再臨主を目の前にした時に、大垣さんもパウロと同じ事をする可能性があるというのです。

No.4249 2008/07/30(Wed) 08:17:05

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

レーシェルさん、パウロは、十字架のときにはまだイエスの弟子ではありませんでした。使徒1章1−11節にあるように、十字架の3日後に復活されたイエスは、雲に包まれて天に昇られました。パウロはサウロとも呼ばれますが、使徒8章1−3節、9章1−30節にあるように、イエスに出会うまではクリスチャンたちを迫害した人でした。そして、パウロは、ガラテヤ1章11ー12節で

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

と書いています。このように、パウロは、彼が出会ったイエス・キリストから福音を直接に教えていただいた人です。

No.4254 2008/07/31(Thu) 23:10:09

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

失礼しました。 わたしは、聖書の細かく勉強しているわけではないので、その点では大垣さんが学者になります。

私は聖書の存在に対して、関心を持っているのです。

 聖書を研究、探求した学者たちは人類歴史には大勢いたと思います、しかしながら、人知を集結してがんばってきて、やっと、共産主義(マルクス・レーニン主義)の間違いが生活レベルにまで浸透しはじめてきました。
そんな、資本・民主主義も限界を呈しております。

 このような混沌とした時が終末の現象であり、再臨主を迎えて、人類に新しい希望の日を実現に導く時なのです。

突拍子もない展開と思うでしょうが、聖書の大まかな内容でも私はそう感じております。

大垣さんはどう思いますか?

No.4256 2008/08/01(Fri) 08:51:03

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

人間は失敗しますが、神は失敗されません。人間は聖書を読んでも、完全には真理に達しないで、いろいろな解釈が生じますが、それは、人間に問題があるからです。神が与えられた聖書に問題があるわけではありません。

僕はこの世界を造られた父なる神に真理へのお導きをお願いしながら聖書を読みます。それでも、僕の聖書解釈は、僕の能力に欠けと自分の都合によって、偏ったものになっていることがあります。しかし、僕が失敗しても、その失敗さえも、用いて真理へとお導きくださる力を神が持っておられると信じています。

クリスチャンの間で、聖書の解釈は完全には一致しません。真理はひとつですから、聖書解釈が完全ではないことは明らかだと思います。ただ、それを、聖書を人類に与えた神の失敗とは、僕は思いません。

もし、僕たちが、多くのクリスチャンたちが、どこかで聖書解釈に失敗したからといって、神が聖書に前もって示されたことを無視するなら、新しく神が現実の体験を通して僕たちに示されることを、正しく解釈することは難しいと思います。

レーシェルさんはどう思われますか。

今のときについては、マタイ24章2−44節でイエスが聖書で前もって語っておれると思います。23−31節をここに書いてみます。

そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうして、大きなしるしや不思議なことをしてみせます。さあ、わたしはあなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出してはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。人の子が来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

このように、イエスは前もって、僕たちが終わりのときに惑わされないように、イエスが栄光を帯びて来られる前に起こることを話してくださいました。

No.4263 2008/08/02(Sat) 00:28:38

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

そうですね、神は失敗しませんよね。

やはり、人間が選択を誤っているということですね。

何をもって信じて神の栄光を示すことが出来るのか?

人間が失敗する限り、神は安息することは出来ないでいるのですよね。

イエスが惑わされないようにと忠告する意味は、よく研究してくださいと言う事ではないかと思いますが、人の噂や無責任な意見に左右されることなく、自分の目と心で感じ取ることも必要だと思いますが。
どう思いますか?

No.4264 2008/08/02(Sat) 00:53:51

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

人間は失敗するので、人の噂や意見に左右されないことは、とても大切だと思います。それで、僕は自分の目と心で感じ取ったことを大切にしますが、僕も人間であって失敗するので、それを絶対視することはしません。僕の感じたことより、神が絶対なので、「これは、本当に、世界を造られたあなたからのものでしょうか。教えてください。」とお祈りします。

お祈りしても、すぐに新しい答えがあるとは限りません。そういうとき、前もって、神が示されたことを、よく研究する必要があると思います。神が前もって、聖書で示されたことを無視するとき、自分の目と心で感じ取ったことを絶対視して、どんどん真理からずれていってしまうことが僕にはありました。

レーシェルさんも、神にお導きを祈りながら、特に興味があるところなどから、もう一度聖書を読んで、前もって神が示されたことを研究してみられたらいかがでしょうか。きっと、レーシェルさんの視野がさらに広がり、今よりさらに神の栄光を示すことにつながっていくと信じます。

No.4266 2008/08/02(Sat) 02:14:00

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

私は、聖書は神が人間に与えた記録書として、理解はしますが、聖書を研究し礼拝で学んでいても、その中から真理は見出せないと思っています、断片的にはヒントとして現れていますが、過去の歴史を参考に神の真意を探し出す為の参考書という位置づけとして捉えています。

あとは、神が導き個人の心霊のレベルが上がることに神が選択のヒントを与えてくれて導いてくださるのだと確信しています。

No.4271 2008/08/02(Sat) 15:16:08

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

神以外の何ものをも礼拝するのは間違いであるので、聖書を礼拝したりすると、もちろん間違いになります。また、聖書をいくら研究しても、自分の都合にあわせた解釈をするなら、真理からずれていってしまうと思います。

現代の僕たちが神の導きを考える場合、聖書に前もって示された神の導きと、現代を生きるときに新しく示される導きを区別して考えることが重要だと思います。聖書には、人間の失敗の記録だけが書いてあるのではなく、神が人間の失敗に対して、何をされてきたか、また、神に忠実であろうとするものが、どのようであり、何をすべきか、書いてあります。また、主の再臨の直前に起こること、再臨の後に起こることも書いてあります。

神が前もって示されたことを無視して、真理からそれる例として、キリストの再臨の前に現れる、にせキリストに惑わされる人たちのことを、イエスは警告されました。にせキリストが嘘ばかり言い、悪いことばかりするなら、僕たちはすぐに見分けることができるでしょう。しかし、マタイ4章1−11節で悪魔が、みことばを使ってイエスを誘惑しようとしたように、悪魔は聖書のみことばの一部を用います。また、黙示17章16ー17節は、寓意として書いてあるため、黙示全体を深く読まないと読み取るのは簡単ではありませんが、にせキリストやにせ教師が、神のみこころを行い、教会に混じっている悪い者たちを攻撃することが書いてあると思います。このように、悪魔と同盟をくむ、にせキリストも神の聖書の一部を用いるし、神のみこころも行います。イエスさえ誘惑しようとする悪魔の嘘に対抗するためには、神が聖書全体に前もって示されているお導きを無視しないようにすることが大切だと思います。

No.4273 2008/08/02(Sat) 22:19:12

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

大垣さんは、よく知っておられますね。

そうなんです、悪魔も元々は神の被造物の天使なのですから、神の法則を逸脱した方法はとれないのです。
神が創られた被造万物の原理原則に従って存在しているのですから。

ということがあるから、複雑で難しいのですよね。
角度を変えてみれば、悪魔の働きも神の導き(状況判断をすれば)の一部とみれる事もあるのではないでしょうか?

No.4276 2008/08/03(Sun) 15:57:44

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

悪魔の働きさえも、神の支配下にあり、神の善きご計画の一部であり、神が永遠の目から見て益になるように善用されることは、聖書に何回も書いてあることだと思います。例えば、黙示13章1-7節で、獣とは、にせキリストのことだと思われます。獣は神に対してけがしごとを言いますが、聖徒たちに対して戦いをいどんで打ち勝つことが神に許されます。この獣の一時的勝利は、聖徒たちの永遠の勝利のために益となるのだと信じます。

しかし、このような悪の働きが、神のご計画の一部であるからと言って、僕たちが不注意に悪魔の嘘に惑わされて、知らないうちに獣と一緒に神に対してけがしごとを言うようなことになってはいけません。僕は、よく調べないまま事実を誤認して自分の通っていた教会を批判してしまい、恥をかいたことがあります。悪魔の嘘は巧妙ですから、惑わされないように注意していることが必要だと思います。

No.4278 2008/08/03(Sun) 21:02:24
いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

クリスチャンの皆様方は、目の前に再臨のイエスが現れた時に何を基準として、再臨のイエスと判断しますか?

2000年前にイエスが十字架に就く時に、あなたがその場に居合わせたらどのようにしたいと思いますか?

冗談ではなく、真剣にお答えできる方、お願いします。

No.4183 2008/07/17(Thu) 10:29:51

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣(管理人) 引用

レーシェルさん、はじめまして。2つの投稿は内容が同じだったので、ひとつにまとめました。ご了承ください。

>目の前に再臨のイエスが現れた時に何を基準として、再臨のイエスと判断しますか?

僕は何かの基準によって自分の力で確信できるのではないだろうと思います。イエスがイエスの力で目の前におられる方がイエスであると僕が知るようにされると信じます。

>2000年前にイエスが十字架に就く時に、あなたがその場に居合わせたらどのようにしたいと思いますか?

「わが主、わが神、感謝します。」と言ってひれ伏して拝みたいと思います。

レーシェルさんが、このような質問をされたのは、どうしてですか。さしつかえなかったら、教えてください。

No.4187 2008/07/17(Thu) 11:55:24

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣 引用

レーシェルさんの信じておられるお考えが、少しは分かってきたと思うので、もう一度最初に戻って、

目の前に「私が再臨のイエスである。」と言う人が現れたとき、その人が本当に再臨のイエスであるかどうか、どのようにして僕が判断するか、ということを書いてみたいと思います。

僕ならまず、父なる神に「この方が、本当にあなたのひとり子、イエス・キリストでしょうか。お示しください。」と祈ってお願いしたいと思います。というのは十字架にかかられる前、弟子たちがイエスに

「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるでしょう。」

と聞いたとき、イエスは

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24章5節より)

と答えられました。惑わされないようにしたいと思います。

たとえば「私こそキリスト」だ、と名のる人が、性的な不品行を行っていたり、その人の弟子たちが不品行を行ないつづけていても容認するような人なら、本物のキリストではないことが分かると思います。

また、その人の教えが、納得できるものであっても、聖書のイエスの教えに反しているなら、その人は、本当のキリストでないということが分かると思います。

たとえば、マタイ26:51−54が、レーシェルさんの2番目の質問に関係しています。ここを読むと、イエスの弟子の中には、十字架にかかる前のイエスを守ろうとして、剣を抜いて、大祭司のしもべに撃ってかかった者がいました。マタイ26:52−54に、イエスが彼にどう教えられたか書かれています。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今、わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されるでしょう。」

このイエスの教えに反して、もし、「私こそキリスト」だ、と名のる人が、イエスの弟子たちには、イエスが十字架で殺されないように守る義務があった、と教えるなら、その人は本物のキリストではないと分かると思います。

また、「こうならなければならない。」とイエスが言われたように、罪のある人間には十字架による救いがどうしても必要になることをイエスは教えられました。もし、「私こそキリスト」だ、と名のる人が、キリストの十字架は人間の救いのために必要ではない、ということを教えるなら、その人は本物のキリストではないと分かると思います。

レーシェルさんは、どう思われますか。

No.4251 2008/07/30(Wed) 22:02:18

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

まずは、祈り求めることが必要ですよね。

「人に惑わされないように」と忠告されたのは真理を深く追求することを意味すると思います。追求すれば自然にたどり着く事となるでしょう。

>また、その人の教えが、納得できるものであっても、聖書のイエスの教えに反しているなら、その人は、本当のキリストでないということが分かると思います。

この部分は、あなたにとっては大きなハードルになるでしょうね。

十字架は、人類の救いには必要ですが、イエスが神から遣わされて果たさなければならなかった救いの方法ではなかった事を考えて欲しいのです。 再臨の時にイエスの使命を果たす為にバトンの意味も含めて苦肉の策で受けられた十字架であるのだと考えてみてもらえませんか?

大垣さんには、この2点をよく考えて欲しいところかな?

No.4252 2008/07/31(Thu) 08:51:19

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣 引用

> まずは、祈り求めることが必要ですよね。

本当にそうですね。イエスはマタイ7章7節に記録されているように

「求めなさい。それすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と言われました。

この嘘と堕落に満ちた世界で、祈りながら真理を捜し求めていけば、必ず与えられるのだと信じます。そのときに、愚かで真理よりも嘘を好んでしまうことの多い僕が、嘘と真理を見分けるのを助けるために、神が聖書を与えてくださっていると信じています。

レーシェルさんが書かれた2点のうち、十字架が

「イエスが神から遣わされて果たさなければならなかった救いの方法ではなかった事」

ということについて考えみました。ルカ24章13−34節で、イエスが十字架につけられたので、自分たちが望んでいたイエスを王としたこの世での王国が、すぐには来なかったことを嘆きながら、エルサレムからエマオという村に行こうとしてていた二人の弟子たちのことが書いてあります。二人の弟子たちは、十字架の3日後にイエスが復活されたことをまだ知りませんでした。その二人に、復活されたイエスが現れて、

「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

と言われました。ここで復活されたキリストは、十字架の苦しみは、イザヤら、旧約聖書に記録のある預言者があらかじめ預言していたように、十字架がキリストの果たさなければならなかった救いの方法と言われたと思います。

No.4253 2008/07/31(Thu) 22:55:07

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

イエスは誕生する時点で、二つの道が予言されていたということですね。
 一つは、ユダヤ人の王 もう一つは、十字架での処刑

この、選択の権限はユダヤ人(選民イスラエル)によるものだと言う事が言えるのではないでしょうか?
 受け手側のの信仰と努力によって、結果が変わるということです。

再臨主の臨在されるこの時でも同じ事が言えるのです、再臨主が王として迎えるのも、偽メシヤとして迫害し処刑に追い込むのも、人類に課せられた課題であり、責任なのです。

No.4257 2008/08/01(Fri) 09:11:14

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

今、見ずに信じている、再臨のキリストを見たら、なおさら信ずるでしょう。

今、見ずに信じないなら、再臨のキリストを見てもまったく信じないでしょう。

信仰とは、そういうものじゃないんでしょうか?

つまり、大切なのは、「今」、「信ずること」です。

将来キリストが再臨されたら、それがどう判りますか?とか、人類に課せられた責任だとか、そんなことは考えても仕方無いっす。

No.4258 2008/08/01(Fri) 10:34:07

名も無い通りすがり さんへ / レーシェル 引用

あなたのように考えていると、準備が出来ないので、いつ来られても受け止めることができるように準備する者が時を理解できるのです。

ちにみに、今、イエス=キリストが、再臨されていたとして、あなたはどのように行動しますか?

何から手をつけて探したらいいのかは解らないと思いますが、いかがでしょうか?

それと、>大切なのは、「今」、「信ずること」です。
とは、何を信ずることですか?

No.4259 2008/08/01(Fri) 11:11:23

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

>いつ来られても受け止めることができるように準備する

「再臨の準備をする」というのは、新約聖書のイエスのみことばのモチーフでは、主人の帰りを待つ しもべ のイメージですね。

そのイメージが我々に促しているのは、「主人が帰ってきたらどう行動しよう?私に主人がわかるだろうか?」という考えではなくて、むしろ 「主人が外出前に命じたことを、主人の留守中であっても、今、忠実に行おう。」という態度です。

だから、

>今、イエス=キリストが、再臨されていたとして、あなたはどのように行動しますか?

という問いは、今の私にとって実質的な意味をもちません。

イエスキリストが再臨される前である「今」の私のキリストに対する態度が、再臨のイエスキリストへの態度を決定するからです。

>それと、>大切なのは、「今」、「信ずること」です。
>とは、何を信ずることですか?


上に書いたように、
「今」の私のキリストへの態度に関する問題として、
「今」キリストを信ずることです。 (^_^)

No.4260 2008/08/01(Fri) 22:24:49

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

>、「主人が帰ってきたらどう行動しよう?」という考えではなくて、むしろ 「主人が外出前に命じたことを、主人の留守中であっても、忠実に行おう。」という態度です。

外出していた主人が帰ってきました、命じられてた事を果たしました。その次に召使のする事は何ですか?

No.4261 2008/08/01(Fri) 23:04:14

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

>外出していた主人が帰ってきました、
>命じられてた事を果たしました。


この時点で、すでに聖書の解釈の領域を逸脱して、個人的な想像の域に入っています。

お互いに共通項の無い会話になりますので、私は答えは控えます。

第一、

>命じられてた事を果たしました。

と、あなたは さらり と仰いますが、これが我々にとって、いかに大きな課題であるか・・・。 

目の前に明確に示されているその命令に忠実であること以上に、我々にとって大切なことは無いと私は思います。

キリストの再臨は、今、私がこの課題に直面するにあたって、希望と忍耐を与えます。 

ですが、キリストの再臨のその時に私が具体的にどうするかということは、私の想像でしか無く、議論しても仕方の無いことです。

No.4262 2008/08/02(Sat) 00:06:10

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

別に、私と議論することではありませんが、視野を広げることが出来ると思います。

再臨のキリストが直面する現象は、2000年前と同じような現象が考えられますが、

 再臨のキリストが来られたら、ますは、若くて貧しい姿で神のみ言を語るので、既存の教会からは煙たがれる存在になってしまうことは考えられます。
 そして、既存の教会から迫害され、抹殺される方向に再臨主が追い込まれることは容易に想像できます。

その事を考慮して頂いて、あなたはどう考えますか?

No.4265 2008/08/02(Sat) 01:14:57

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

> 再臨のキリストが直面する現象は、2000年前と同じ
>ような現象が考えられますが、


これは聖書にそう書いてありますから、そうでしょうけれど、


>再臨のキリストが来られたら、ますは、若くて貧しい姿で
>神のみ言を語るので、


これはあなたの想像ですね。


>既存の教会からは煙たがれる存在になってしまうことは
>考えられます。


これも、あなたの想像。


>そして、既存の教会から迫害され、抹殺される方向に
>再臨主が追い込まれることは容易に想像できます。


そう。これもあなたの「容易な」「想像」。


>その事を考慮して頂いて、あなたはどう考えますか?

ちょっと角の立つ言い方になりますが、あなたは、あなたの「想像」に基づく色々な考えについて、私に「まじめに考慮して視野を広げよ」と、そう仰っておられるわけです。

>あなたはどう考えますか?

「それはあなたの想像ですね?」 と考えます。

そうじゃない、ということなら、それなりの根拠の提示をお願いします。

・・・でも僕は単なる通りすがりなんで・・・。
気にせず議論を続けてください。

No.4267 2008/08/02(Sat) 02:23:48

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

そうでしょうね、イエス=キリストが人類の罪をあがなう為に十字架について下さったと信じている人は、可能性を想像として否定したくなるでしょうね。

No.4268 2008/08/02(Sat) 09:29:37

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

>可能性を想像として否定したくなるでしょうね。

想像は想像として扱い、それが想像でないのなら、根拠を教えてください、とお願いしているだけなのに・・・。

私に変なレッテルを貼る前に、あなたの仰る可能性なり何なりの「根拠」を示すという努力をしてくださいよ。(^^;

あと、4265に

>既存の教会から迫害され

と、ありますが、あなたの「教会」は「既存の教会」とは別なのですか?

あなたの投稿記事を拝見していると、どこか、普通の教会と、普通の教会の「イエス=キリストが人類の罪をあがなう為に十字架について下さったと信じている」福音の理解を否定する一方で、ご自分の特有の立場こそ正しいのだとお考えのように見受けられるのですが・・・。

そういうことはありませんか?

No.4269 2008/08/02(Sat) 11:48:23

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

イエス=キリストが布教していた時代には、ユダヤ教という教会の勢力が占めていたのではないでしょうか?

イスラエル民族としてのプライドが会ったのではないでしょうか。

その時に、イエスは神の一人子として宣言して神のみ言を述べ伝えていた時に既存の教会はイエスをキリストとして、受け入れたのでしょうか? そうではないのです。

イスラエル民族として救世主を待ちに待っていたのですが、実際イエスを目の前にした時、待望していたイスラエル民族がどのような行動をとったのかは、皆さんの知っているところですが、イエスは無実の罪により十字架で既存の教会の勢力により処刑されたのが事実としてよく理解できますね。

聖書の記録が間違いでなければ、再臨の主が来られる時も、迫害し既存の勢力が最も毛嫌いするような立場に立つことも必然の事実になります。

再臨の主が来られたときの現象として、聖書で教えているのではないでしょうか?

以上のように、再臨の主に対して一番反応しやすいのは、既存の教会ですから、既存の教会が一番毛嫌いする新興宗教が最も興味を持って研究しなければならないのではないでしょうか?

いくつか頭に浮かんでくると思いますが、その中に必ずその道が示されるようになっているのではないでしょうか?

No.4270 2008/08/02(Sat) 15:04:57

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣(管理人) 引用

名も無い通りすがりさんへ、管理人として書きます。

書き込みありがとうございます。

レーシェルさんは、このスレッドで登場されて「クリスチャンの皆様方」と書かれたように、キリスト教という宗教に属する人ではない、ということを初めから明らかにされたと思います。その後の書き込みで、「自分は再臨のキリストである。」と言っておられる人に出会われて、その人の教えによる宗教に属しておられるということも、明らかにしてくださったと思います。レーシェルさんは、掲示板のルールに反してご自分の宗教を宣教されておられるわけではなく、僕たちクリスチャンと真摯に交流しようとされていると理解しています。

No.4274 2008/08/02(Sat) 23:37:34

大垣さん、ありがとうございます。 / レーシェル 引用

神が摂理の第一候補として準備さらたのがイエス迎える為に準備されたユダヤ教を中心とするイスラエル民族でありました、(聖書を学ぶエリート集団)が神の一人子として、王を迎える心情と体制があればそのまま天国を創るには理想的な道が第一候補の摂理でした。
 しかし、結果はどうかといえば、茨の道を行かざるえない道として、(そのエリート集団がイエスを排除・迫害したがゆえに)第二候補として、神から愛されてエリートとして育てられ導いてきた最高の人たちが神の摂理を理解できなかったので、イエスと同じように捨てられた立場の人たちを集めて摂理しなくてはいけなくなったのが、イエス教団を中心として、集まってきた人たちなのです。

 そんな中でも、歴史を賭けてイエス様が全身全霊投じ既成教会の方々を教育し導いてきたのがエリート集団であるとすれば、第一候補である既成教会が再臨主を迎えなければなりません。
 ですから、再臨主を迎えるに相応しいのは、既成のキリスト教会なのです、ですから、再臨の主を一刻も早く迎え入れていただきたいと思っています。

わたしは、そのお手伝いが出来れば幸いかと思っております。

No.4277 2008/08/03(Sun) 16:41:25
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