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いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

クリスチャンの皆様方は、目の前に再臨のイエスが現れた時に何を基準として、再臨のイエスと判断しますか?

2000年前にイエスが十字架に就く時に、あなたがその場に居合わせたらどのようにしたいと思いますか?

冗談ではなく、真剣にお答えできる方、お願いします。

No.4183 2008/07/17(Thu) 10:29:51

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣(管理人) 引用

レーシェルさん、はじめまして。2つの投稿は内容が同じだったので、ひとつにまとめました。ご了承ください。

>目の前に再臨のイエスが現れた時に何を基準として、再臨のイエスと判断しますか?

僕は何かの基準によって自分の力で確信できるのではないだろうと思います。イエスがイエスの力で目の前におられる方がイエスであると僕が知るようにされると信じます。

>2000年前にイエスが十字架に就く時に、あなたがその場に居合わせたらどのようにしたいと思いますか?

「わが主、わが神、感謝します。」と言ってひれ伏して拝みたいと思います。

レーシェルさんが、このような質問をされたのは、どうしてですか。さしつかえなかったら、教えてください。

No.4187 2008/07/17(Thu) 11:55:24

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣 引用

レーシェルさんの信じておられるお考えが、少しは分かってきたと思うので、もう一度最初に戻って、

目の前に「私が再臨のイエスである。」と言う人が現れたとき、その人が本当に再臨のイエスであるかどうか、どのようにして僕が判断するか、ということを書いてみたいと思います。

僕ならまず、父なる神に「この方が、本当にあなたのひとり子、イエス・キリストでしょうか。お示しください。」と祈ってお願いしたいと思います。というのは十字架にかかられる前、弟子たちがイエスに

「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるでしょう。」

と聞いたとき、イエスは

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24章5節より)

と答えられました。惑わされないようにしたいと思います。

たとえば「私こそキリスト」だ、と名のる人が、性的な不品行を行っていたり、その人の弟子たちが不品行を行ないつづけていても容認するような人なら、本物のキリストではないことが分かると思います。

また、その人の教えが、納得できるものであっても、聖書のイエスの教えに反しているなら、その人は、本当のキリストでないということが分かると思います。

たとえば、マタイ26:51−54が、レーシェルさんの2番目の質問に関係しています。ここを読むと、イエスの弟子の中には、十字架にかかる前のイエスを守ろうとして、剣を抜いて、大祭司のしもべに撃ってかかった者がいました。マタイ26:52−54に、イエスが彼にどう教えられたか書かれています。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今、わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されるでしょう。」

このイエスの教えに反して、もし、「私こそキリスト」だ、と名のる人が、イエスの弟子たちには、イエスが十字架で殺されないように守る義務があった、と教えるなら、その人は本物のキリストではないと分かると思います。

また、「こうならなければならない。」とイエスが言われたように、罪のある人間には十字架による救いがどうしても必要になることをイエスは教えられました。もし、「私こそキリスト」だ、と名のる人が、キリストの十字架は人間の救いのために必要ではない、ということを教えるなら、その人は本物のキリストではないと分かると思います。

レーシェルさんは、どう思われますか。

No.4251 2008/07/30(Wed) 22:02:18

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

まずは、祈り求めることが必要ですよね。

「人に惑わされないように」と忠告されたのは真理を深く追求することを意味すると思います。追求すれば自然にたどり着く事となるでしょう。

>また、その人の教えが、納得できるものであっても、聖書のイエスの教えに反しているなら、その人は、本当のキリストでないということが分かると思います。

この部分は、あなたにとっては大きなハードルになるでしょうね。

十字架は、人類の救いには必要ですが、イエスが神から遣わされて果たさなければならなかった救いの方法ではなかった事を考えて欲しいのです。 再臨の時にイエスの使命を果たす為にバトンの意味も含めて苦肉の策で受けられた十字架であるのだと考えてみてもらえませんか?

大垣さんには、この2点をよく考えて欲しいところかな?

No.4252 2008/07/31(Thu) 08:51:19

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣 引用

> まずは、祈り求めることが必要ですよね。

本当にそうですね。イエスはマタイ7章7節に記録されているように

「求めなさい。それすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と言われました。

この嘘と堕落に満ちた世界で、祈りながら真理を捜し求めていけば、必ず与えられるのだと信じます。そのときに、愚かで真理よりも嘘を好んでしまうことの多い僕が、嘘と真理を見分けるのを助けるために、神が聖書を与えてくださっていると信じています。

レーシェルさんが書かれた2点のうち、十字架が

「イエスが神から遣わされて果たさなければならなかった救いの方法ではなかった事」

ということについて考えみました。ルカ24章13−34節で、イエスが十字架につけられたので、自分たちが望んでいたイエスを王としたこの世での王国が、すぐには来なかったことを嘆きながら、エルサレムからエマオという村に行こうとしてていた二人の弟子たちのことが書いてあります。二人の弟子たちは、十字架の3日後にイエスが復活されたことをまだ知りませんでした。その二人に、復活されたイエスが現れて、

「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」

と言われました。ここで復活されたキリストは、十字架の苦しみは、イザヤら、旧約聖書に記録のある預言者があらかじめ預言していたように、十字架がキリストの果たさなければならなかった救いの方法と言われたと思います。

No.4253 2008/07/31(Thu) 22:55:07

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

イエスは誕生する時点で、二つの道が予言されていたということですね。
 一つは、ユダヤ人の王 もう一つは、十字架での処刑

この、選択の権限はユダヤ人(選民イスラエル)によるものだと言う事が言えるのではないでしょうか?
 受け手側のの信仰と努力によって、結果が変わるということです。

再臨主の臨在されるこの時でも同じ事が言えるのです、再臨主が王として迎えるのも、偽メシヤとして迫害し処刑に追い込むのも、人類に課せられた課題であり、責任なのです。

No.4257 2008/08/01(Fri) 09:11:14

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

今、見ずに信じている、再臨のキリストを見たら、なおさら信ずるでしょう。

今、見ずに信じないなら、再臨のキリストを見てもまったく信じないでしょう。

信仰とは、そういうものじゃないんでしょうか?

つまり、大切なのは、「今」、「信ずること」です。

将来キリストが再臨されたら、それがどう判りますか?とか、人類に課せられた責任だとか、そんなことは考えても仕方無いっす。

No.4258 2008/08/01(Fri) 10:34:07

名も無い通りすがり さんへ / レーシェル 引用

あなたのように考えていると、準備が出来ないので、いつ来られても受け止めることができるように準備する者が時を理解できるのです。

ちにみに、今、イエス=キリストが、再臨されていたとして、あなたはどのように行動しますか?

何から手をつけて探したらいいのかは解らないと思いますが、いかがでしょうか?

それと、>大切なのは、「今」、「信ずること」です。
とは、何を信ずることですか?

No.4259 2008/08/01(Fri) 11:11:23

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

>いつ来られても受け止めることができるように準備する

「再臨の準備をする」というのは、新約聖書のイエスのみことばのモチーフでは、主人の帰りを待つ しもべ のイメージですね。

そのイメージが我々に促しているのは、「主人が帰ってきたらどう行動しよう?私に主人がわかるだろうか?」という考えではなくて、むしろ 「主人が外出前に命じたことを、主人の留守中であっても、今、忠実に行おう。」という態度です。

だから、

>今、イエス=キリストが、再臨されていたとして、あなたはどのように行動しますか?

という問いは、今の私にとって実質的な意味をもちません。

イエスキリストが再臨される前である「今」の私のキリストに対する態度が、再臨のイエスキリストへの態度を決定するからです。

>それと、>大切なのは、「今」、「信ずること」です。
>とは、何を信ずることですか?


上に書いたように、
「今」の私のキリストへの態度に関する問題として、
「今」キリストを信ずることです。 (^_^)

No.4260 2008/08/01(Fri) 22:24:49

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

>、「主人が帰ってきたらどう行動しよう?」という考えではなくて、むしろ 「主人が外出前に命じたことを、主人の留守中であっても、忠実に行おう。」という態度です。

外出していた主人が帰ってきました、命じられてた事を果たしました。その次に召使のする事は何ですか?

No.4261 2008/08/01(Fri) 23:04:14

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

>外出していた主人が帰ってきました、
>命じられてた事を果たしました。


この時点で、すでに聖書の解釈の領域を逸脱して、個人的な想像の域に入っています。

お互いに共通項の無い会話になりますので、私は答えは控えます。

第一、

>命じられてた事を果たしました。

と、あなたは さらり と仰いますが、これが我々にとって、いかに大きな課題であるか・・・。 

目の前に明確に示されているその命令に忠実であること以上に、我々にとって大切なことは無いと私は思います。

キリストの再臨は、今、私がこの課題に直面するにあたって、希望と忍耐を与えます。 

ですが、キリストの再臨のその時に私が具体的にどうするかということは、私の想像でしか無く、議論しても仕方の無いことです。

No.4262 2008/08/02(Sat) 00:06:10

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

別に、私と議論することではありませんが、視野を広げることが出来ると思います。

再臨のキリストが直面する現象は、2000年前と同じような現象が考えられますが、

 再臨のキリストが来られたら、ますは、若くて貧しい姿で神のみ言を語るので、既存の教会からは煙たがれる存在になってしまうことは考えられます。
 そして、既存の教会から迫害され、抹殺される方向に再臨主が追い込まれることは容易に想像できます。

その事を考慮して頂いて、あなたはどう考えますか?

No.4265 2008/08/02(Sat) 01:14:57

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

> 再臨のキリストが直面する現象は、2000年前と同じ
>ような現象が考えられますが、


これは聖書にそう書いてありますから、そうでしょうけれど、


>再臨のキリストが来られたら、ますは、若くて貧しい姿で
>神のみ言を語るので、


これはあなたの想像ですね。


>既存の教会からは煙たがれる存在になってしまうことは
>考えられます。


これも、あなたの想像。


>そして、既存の教会から迫害され、抹殺される方向に
>再臨主が追い込まれることは容易に想像できます。


そう。これもあなたの「容易な」「想像」。


>その事を考慮して頂いて、あなたはどう考えますか?

ちょっと角の立つ言い方になりますが、あなたは、あなたの「想像」に基づく色々な考えについて、私に「まじめに考慮して視野を広げよ」と、そう仰っておられるわけです。

>あなたはどう考えますか?

「それはあなたの想像ですね?」 と考えます。

そうじゃない、ということなら、それなりの根拠の提示をお願いします。

・・・でも僕は単なる通りすがりなんで・・・。
気にせず議論を続けてください。

No.4267 2008/08/02(Sat) 02:23:48

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

そうでしょうね、イエス=キリストが人類の罪をあがなう為に十字架について下さったと信じている人は、可能性を想像として否定したくなるでしょうね。

No.4268 2008/08/02(Sat) 09:29:37

Re: いのちの道はどこからか? / 名も無い通りすがり 引用

>可能性を想像として否定したくなるでしょうね。

想像は想像として扱い、それが想像でないのなら、根拠を教えてください、とお願いしているだけなのに・・・。

私に変なレッテルを貼る前に、あなたの仰る可能性なり何なりの「根拠」を示すという努力をしてくださいよ。(^^;

あと、4265に

>既存の教会から迫害され

と、ありますが、あなたの「教会」は「既存の教会」とは別なのですか?

あなたの投稿記事を拝見していると、どこか、普通の教会と、普通の教会の「イエス=キリストが人類の罪をあがなう為に十字架について下さったと信じている」福音の理解を否定する一方で、ご自分の特有の立場こそ正しいのだとお考えのように見受けられるのですが・・・。

そういうことはありませんか?

No.4269 2008/08/02(Sat) 11:48:23

Re: いのちの道はどこからか? / レーシェル 引用

イエス=キリストが布教していた時代には、ユダヤ教という教会の勢力が占めていたのではないでしょうか?

イスラエル民族としてのプライドが会ったのではないでしょうか。

その時に、イエスは神の一人子として宣言して神のみ言を述べ伝えていた時に既存の教会はイエスをキリストとして、受け入れたのでしょうか? そうではないのです。

イスラエル民族として救世主を待ちに待っていたのですが、実際イエスを目の前にした時、待望していたイスラエル民族がどのような行動をとったのかは、皆さんの知っているところですが、イエスは無実の罪により十字架で既存の教会の勢力により処刑されたのが事実としてよく理解できますね。

聖書の記録が間違いでなければ、再臨の主が来られる時も、迫害し既存の勢力が最も毛嫌いするような立場に立つことも必然の事実になります。

再臨の主が来られたときの現象として、聖書で教えているのではないでしょうか?

以上のように、再臨の主に対して一番反応しやすいのは、既存の教会ですから、既存の教会が一番毛嫌いする新興宗教が最も興味を持って研究しなければならないのではないでしょうか?

いくつか頭に浮かんでくると思いますが、その中に必ずその道が示されるようになっているのではないでしょうか?

No.4270 2008/08/02(Sat) 15:04:57

Re: いのちの道はどこからか? / 大垣(管理人) 引用

名も無い通りすがりさんへ、管理人として書きます。

書き込みありがとうございます。

レーシェルさんは、このスレッドで登場されて「クリスチャンの皆様方」と書かれたように、キリスト教という宗教に属する人ではない、ということを初めから明らかにされたと思います。その後の書き込みで、「自分は再臨のキリストである。」と言っておられる人に出会われて、その人の教えによる宗教に属しておられるということも、明らかにしてくださったと思います。レーシェルさんは、掲示板のルールに反してご自分の宗教を宣教されておられるわけではなく、僕たちクリスチャンと真摯に交流しようとされていると理解しています。

No.4274 2008/08/02(Sat) 23:37:34

大垣さん、ありがとうございます。 / レーシェル 引用

神が摂理の第一候補として準備さらたのがイエス迎える為に準備されたユダヤ教を中心とするイスラエル民族でありました、(聖書を学ぶエリート集団)が神の一人子として、王を迎える心情と体制があればそのまま天国を創るには理想的な道が第一候補の摂理でした。
 しかし、結果はどうかといえば、茨の道を行かざるえない道として、(そのエリート集団がイエスを排除・迫害したがゆえに)第二候補として、神から愛されてエリートとして育てられ導いてきた最高の人たちが神の摂理を理解できなかったので、イエスと同じように捨てられた立場の人たちを集めて摂理しなくてはいけなくなったのが、イエス教団を中心として、集まってきた人たちなのです。

 そんな中でも、歴史を賭けてイエス様が全身全霊投じ既成教会の方々を教育し導いてきたのがエリート集団であるとすれば、第一候補である既成教会が再臨主を迎えなければなりません。
 ですから、再臨主を迎えるに相応しいのは、既成のキリスト教会なのです、ですから、再臨の主を一刻も早く迎え入れていただきたいと思っています。

わたしは、そのお手伝いが出来れば幸いかと思っております。

No.4277 2008/08/03(Sun) 16:41:25
詩篇72篇 / 大垣 引用

詩篇72篇。「ソロモンによる」という頭書の原語のへブル語は「ソロモンのために」とも訳せるそうです。20節に「ダビデの祈りは終わった。」とあることから、この詩篇はダビデが王となるソロモンのために作ったのではないか、と思います。

1-8節。ダビデはわが子ソロモンと、遠い未来のイエスを重ねあわせて、この詩篇を書いたようである。王が、神の義により公正に民をさばき、弱者を救い、永遠に世界を統治するように祈っている。

どうか、王の王であられる、僕たちの主、イエスさまが、僕たちをいつも支配してくださいますように。

9-18節。世界中からイスラエルの王にみつぎ物が集まり、すべての国々が彼に仕える。これは、王が弱者や貧しい者をあわれむからである。人々は彼によって祝福される。

どうか、多くの人々がイエスさまに仕え、イエスさまによって祝福されますように。

18-19節。第2巻の終わりの締めくくりのことば。

No.4255 2008/08/01(Fri) 06:47:28

Re: 詩篇72篇 / 亜衣瑠 引用

父ダビデが愛息ソロモンのために神に祈った詩であろう。

わがたましいの救いを叫んで祈ったトーンとは やはり異なる 優しさと思いやりが溢れている

伝道の書に見えるソロモン王は このように祈られていても
世界の誰よりも優れた知恵者であっても
あこがれの君ではなかった (さぞやお美しかったでしょうけど)

讃えられる方はお一人
18節
ただ一人驚くべき御業を行う方を。

偉大な王ダビデが祈っても 息子王のシナリオは この御業を行う方に委ねられる。

No.4275 2008/08/03(Sun) 05:03:50
士師記11章20節まで / 沙耶香 引用

今日は士師記11章20節までを読みます。

2節に
ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたは他の女の子だから、私たちの父の家を受け継いではならない。」
とあるが、エフタが遊女の子であることなんか、エフタの責任ではないはずなのだが・・・。

8節に
すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。「だからこそ、私たちは、今、あなたのところに戻ってきたのです。あなたが私たちと一緒に行き、アモン人と戦ってくださるなら、あなたは、私たちギルアデの住民全体の頭になるのです。」
とあるが、エフタからすると、都合のいい言い分であるという気がしますね・・・あきれてしまいます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ22章61-65節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様野語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、65節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様に悪口を浴びせていると、後で自分に返ってくるんだ。

No.4227 2008/07/26(Sat) 19:44:22

Re: 士師記11章20節まで / 大垣 引用

>エフタが遊女の子であることなんか、エフタの責任ではないはずなのだが・・・。

そうですね。こういうことを人間が判断材料にするとき、ろくなことにならないと思います。マタイ1:5にある主イエスの先祖のラハブはヨシュア記2:1にあるように遊女でした。

No.4229 2008/07/27(Sun) 03:43:46

再士師記11章20節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度士師記11章20節までを読みます。

7,8節の
エフタはギルアデの長老たちに言った。「あなたがたは私を憎んで、私の父の家から追い出したではありませんか。あなたがたが苦しみにあったからといって、今なぜ私のところにやってくるのですか。」
すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。「だからこそ、私たちは、今、あなたのところに戻ってきたのです。あなたが私たちと一緒に行き、アモン人と戦ってくださるなら、あなたは、私たちギルアデの住民全体のかしらになるのです。」
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ22章66-71節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、70節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様は神の子です。ただ一人唯一の神です。

No.4272 2008/08/02(Sat) 18:00:39
大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

親の愛という点では、解りやすい例え話としては、
親が子供に、「勉強しろと」うるさく言います、しかし、当人の子供は、「ムッチャうざい」といいながら親の言うことを聞きません。

よくある事でしょ! 

親の愛情としては、各家庭での価値観はちがえども、子供の将来の幸せのことを考えての動機があったとしても、子供が自分の将来の幸せがわかりません、そのような、生きている時間のギャップがあることは確かですから、

この中で、「親」=「神」に入れ替えて、「子供」=「人類」に入れ替えて考えてみてください、どう思いますか?

No.4239 2008/07/29(Tue) 11:10:23

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

レーシェルさん、分かりやすい例え話をどうもありがとう。

この例え話で、神と人に命令する場合と、僕が息子に命令したり助言したりする場合を比べると、僕の場合には、特に2つの大きな違いがあります。僕は基本的には子の幸せを思って言うわけですが、完全に純粋ではない思いが入ってきます。それと、神は人の能力や性質を完全に理解して命令するわけですが、僕は子を完全に理解しているわけではないので、僕が子に助言したり命令するとき、それが子にとって適切でないことがあります。

具体的に思いうかぶのは、息子が高校のときです。当時、僕も息子も、まだキリストに出会っていませんでした。息子は僕の専門の経済学が好きだったので「金融経済学者になったらどうか。」と僕は助言しました。僕は基本的に息子の幸せのためになると思って言ったわけですが、今から考えると、そう言った僕の動機には、純粋でないところがありました。ひとつには、当時、僕は才能を使って有名になることが、人生の意味と考えていました。それで、息子に幸福になってほしい、と思う心に、息子が有名になってほしい、と思う心が混じってしまっていました。また、金融経済学者になると、給料が経済学者の中でも一番高いので、息子にお金持ちになってほしいという気持ちも混ざっていました。

それと、息子は、高校まで算数や数学がよくできたので、僕は彼が、金融経済学のための高等数学の才能があるだろうと思ったのです。ところが、後になって分かったのですが、息子の才能は別のところにありました。それで、僕の助言を受けて、金融経済学者になることを目指して大学の経済学部に入った息子は、とても苦しい経験をすることになってしまいました。

No.4240 2008/07/29(Tue) 12:23:40

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

私がここで言いたい事は、親の心子知らずという事です。

子たる人類が、聖書の使い方が、親である神の目的に合った使われ方をしているかが、「疑問なのです」と言いたいのです。

あくまでも、子供目線で判断するのではなく、親目線で判断してくださいと言う事です。

No.4243 2008/07/29(Tue) 14:44:36

Re: 大垣さん、どうもです / 大垣 引用

神の愛を人間が知るのは、本当に難しいことだと思います。ひとつには、人間が短期の快楽を求めたがり、神の愛は、この世ではなく、永遠の幸福を人間に与えようとしておられる、というタイミングの問題が大きいと僕も考えています。

聖書の使い方ということでは、神は、人間が聖書を通して神との交わりをすることを望んで聖書を人間に与えられたと思います。僕が日本に一時帰国したときに指導を受けている戸村先生という牧師は、このことを強調されています(戸村先生の許可を得たので実名を書いています。)戸村先生は、「聖書を読むのではなく、聖書に読まれなさい。」という風にこのことを表現されることが多いです。

ところが、僕が「聖書に読まれよう」としても、なかなか難しいです。どうしても、自分の聖書解釈を読み込んでしまうことが多いです。聖書解釈については、戸村先生は、「自分の聖書解釈に確信を持つが、絶対視しない。」と言われています。

レーシェルさんが、聖書信仰と神信仰を区別しておられるように、クリスチャンが自分の聖書解釈を絶対視してしまい、聖書解釈を信仰してしまって、神の愛からかけはなれた方向に行ってしまう、という問題によく注意する必要があると常々思っています。

No.4245 2008/07/29(Tue) 22:33:37

Re: 大垣さん、どうもです / レーシェル 引用

凄く難しい聖書解釈をしていますね。

私が思うに、その聖書解釈は目隠しをして綱渡りをしているような印象を感じます。

確実に渡れるようにしたらいいのにと思います。

No.4250 2008/07/30(Wed) 10:59:39
詩篇71篇 / 大垣 引用

詩篇71篇。この詩篇はダビデが年老いてから書いたのだろうと想像して以下を書きます。

1−3節。ダビデが年老いてから、若いころ、試練のときに書いた詩篇31:1−3を思い出して祈っているのだろう。

主よ。僕はあなたに身を避けています。あなたの義によって、僕を救い出してください。どうか、僕の住まいの岩となり、強いとりでとなって、僕を救ってください。

4−8節。ダビデは主の力によって、奇蹟的に数々の困難から救い出され、イスラエルの王となった。ダビデはこの世での主の救いを賛美している。

神なる主よ。僕は生まれたとき、あなたにいだかれたのに、若いとき、あなたにそむいて、あなたとともに歩きませんでした。あなたが、僕を自分の悪の道より救い出してくださった奇蹟を賛美して、感謝します。

9−14節。ダビデは年老いてから、試練にあって、敵からは「神は彼を見捨てたのだ。」と言われたのだろう。しかし、ダビデは主を待ち望み、主を賛美した。

神よ。僕から遠く離れないでください。僕が、どんなときも、絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美するようにしてください。

15−20節。ダビデは神の心をひとつにした王だったが、自分が神の義と救いを全部知っているわけではないことを知っていた。ダビデは神の御前に謙虚さを持っていた。ダビデは自分が最後のときに復活することを心の奥底で知っていたと思う。

主よ、あなたが僕にしてくださった素晴らしいことを、多くの人々に語り告げるようにしてくださいませ。あなたの力を次の世代に告げ知らせることができるようにお導きくださいませ。

21−24節。ダビデは神の義により、悪が罰されることを知って、主の義を立琴や歌で賛美した。

主よ、あなたの正しいさばきと、あなたの聖なることを、賛美します。僕が高らかほめ歌を歌えますように。

No.4228 2008/07/27(Sun) 03:37:31

Re: 詩篇71篇 / 亜衣瑠 引用

この方のもとになら、かくれんぼしてもつかまらない。
ずっと隠してくださるだろう。
主、と呼べる方をいただいて わたしたちは ほんとうに幸せです。
あなたを知らなかった長い日々 お赦しください。
これからの日々、あなたの賛美ができるこの口に感謝します。
あなたが義の方であること、救いの主であられること、
そして何より、愛でできた方であること 愛そのものでいらっしゃること
このことを はっきりと知ることのできる喜び
他に代え難い喜び

「わたしは、その全部を知ってはおりませんが。」

全部は知っていなくとも、それでもこんなに明らかにされました。
ありがとうございます。
それを知る、  この世に生まれ出て この世を生きている意味が
それによってあるのです。
麗しい愛の主

No.4248 2008/07/30(Wed) 01:50:21
士師記10章 / 沙耶香 引用

今日は士師記10章を読みます。

6節に
またイスラエル人は、主の目の前に重ねてあくを行い、バアルやアシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。
とあるが、いろんな神様がおられるのですね・・・真の神様はイエス様のみなのに・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ22章51-55節を読みます。
天のお父様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、51節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様が触られただけで癒されるという・・・素晴らしいですよね。

読んでいる途中で昔のひどいいじめを思い出した。ずっと辛かった。この世の中って本当弱者や劣っているものには冷たい。最近大分県教育委員会での不正が出てきているが、同じ点数なら口利きでというのはあるだろうと思っていたが、点数をかさ上げしたり、わざと下げたりしているなんて絶対赦せないですね・・・。そういう人が教師になっているんだから、いじめもなくならないはずだ。教育現場がすさんでいるのに、子供達もすさんでいくよ。イエス様が早く再臨してこの世の不正や理不尽さを取り去って欲しいです。

No.4217 2008/07/24(Thu) 21:55:30

再士師記10章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度士師記10章を読みます。

7節の
主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。
が印象に残りました。主の怒りが一番怖い。

15,16節の
すると、イスラエル人は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でもわたしたちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」
彼らが自分達のうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。
が印象に残りました。主は悔い改めるとまた救おうとされるお方・・・どこまでも優しくどこまでも哀れみ深いお方・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ22章56-60節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、全体をもう何度か読みます。
どうつくろっても、どう隠してもイエス様には分かります。

No.4225 2008/07/25(Fri) 22:23:28
沙耶香 さんへ / レーシェル 引用

この世の全ての女性が信仰をもって、自分を大事にする貞操観念を持ち続けてくれれば、地位向上し神様が求めた女性像が実現するに違いないと思っております。

現在の世界中の多くの問題は、女性本来の能力を発揮し切れていないのが原因だと思います。

可能性はあると思いませんか?

No.4218 2008/07/24(Thu) 22:24:13

Re: 沙耶香 さんへ / 沙耶香 引用

世界中のすべての女性が信仰をもつ・・・???かなりありえない話のような気がいたしますが・・・。でもそうなるといいですよね。そうなると素晴らしいと思います。
可能性はイエス様にお任せしましょう。
私は何もかも普通の人より劣っている人なので、私なんかの意見は参考にはならないと思うのですが・・・。

No.4221 2008/07/25(Fri) 09:06:46

Re: 沙耶香 さんへ / レーシェル 引用

> 世界中のすべての女性が信仰をもつ・・・???かなりありえない話のような気がいたしますが・・・。でもそうなるといいですよね。そうなると素晴らしいと思います。
> 可能性はイエス様にお任せしましょう。
> 私は何もかも普通の人より劣っている人なので、私なんかの意見は参考にはならないと思うのですが・・・。


「私なんか」といわれるのは、神に対して親不孝な言い方ではないかと思いますよ、神は女性を創造の全てのものを集約した全ての愛情を注いで創られたのが女性なのですから、

女性という事にもっと自信を持ってください、お願いします。

女性は神の愛を受け止めるだけの大きな器を持った存在で、男性からすれば、究極に尊敬するべき存在なのですよ!

女性が神の愛を受けた時に輝く姿に男性は喜び男性としての存在意義を感じれるものだと思います。

ですから、女性の不幸な姿は、男性の存在意義の喪失となってしまいますから、女性は自身が最高の幸せを求める為の努力は惜しまないでがんばってほしいと思います。

No.4222 2008/07/25(Fri) 09:24:10
大垣さん、沙耶香さんありがとうございます。 / レーシェル 引用

罪の解明をしようとすると、その原因は失楽園の出来事を正しく分析しなければ理解する道はないと確信しています。

わたしは、キリスト教のりんご説はあまりにも幼稚な解説だと思っていますが、大垣さんは失楽園の物語から人類の罪をどのように理解されておりますか?

それに、罪が解らなければ、イエス=キリストの価値が見出せないのではないでしょうか?

女性がこの世を左右する大きな存在なので、沙耶香さんの感じている事は将来の日本に少なからず影響を及ぼしますのであなたの意見も貴重なので、重要な参考意見ではあります。

素直なご意見をこれからもよろしくお願いします。

No.4216 2008/07/24(Thu) 17:45:16

Re: 大垣さん、沙耶香さんありがとうございます。 / 大垣 引用

>それに、罪が解らなければ、イエス=キリストの価値が見出せないのではないでしょうか?

まさしくそのとおりだと思います。僕はキリストの恵みの価値について深く知りたいので、罪について深く知りたいと思います。僕は信仰を持つ前は、どんどん勉強して調べて考えれば自分の力で、知りたいことは何でも解明して理解できると思っていました。それで、信仰を持ってからも、ほぼ同じような考えで、祈りながら、勉強していけば、真理が理解できると思っていました。理解が大きく深まったと感じたとき、罪や恵みを完全に理解したと錯覚して、納得していたこともありました。そのようなときには、しばらく僕の理解の進歩はそこで止まってしまっていたと思います。しかし、しばらくすると、自分の理解より、さらに深い真理があることを神が示してくださいました。

そのようなことを繰り返していううちに、だんだん神の恵みも愛も自分の理解力が遠く及ばない深いものであることに実感を持って気がつかされました。だから、罪の本当の意味も、自分の理解力は遠く及ばないと考えています。

僕の神の理解は、本当に、薄っぺらな浅いものだと思います。それでも、僕が今の理解で満足せずに神を信頼して真理を求め続けるる限り、神がお導きくださり、だんだんより深い真理の理解を与えてくださるのだと信じています。

失楽園についてですが、まさに、罪の理解はここに始まると僕も思います。創世記2−3章の描写が、歴史上に現実に起こったことなのか、寓意であるのか、僕にはよく分かりません。僕は聖書が神のみことばだと信じていますから、歴史的な事実であるにせよ、寓意であるにせよ、真理を正しく描写していることを信じます。ただ、一人一人、みな違いますから、レーシェルさんが今の時点で、失楽園についての理解をさらに深めるために、別の失楽園の描写を神に求められるなら、神がそのような描写を与えてくださると信じます。

No.4219 2008/07/24(Thu) 23:52:00
大垣 さんへ / レーシェル 引用

あなたの言い分では、「人間が罪人で生まれ、多くの人を殺戮する戦争は当然の事で、性倫理の混乱も、神の創造理想の人間の姿であり、人間が苦しみ悲しむ姿を見て神は喜んでいる」と言っているように聞こえますが。

そう言う事ですか?

それと、あなたにとって「人間の罪」はどのようなものなのですか?

No.4211 2008/07/23(Wed) 08:14:28

沙耶香 さんへ / レーシェル 引用

沙耶香さんも考えてみてくれませんか?

No.4213 2008/07/23(Wed) 23:05:38

Re: 大垣 さんへ / 大垣 引用

罪とは何か、ということは、この掲示板でかなりいろいろ話し合って考えたことがあるのですが、結局僕は、よく分かりませんでした。ごく基本的には、罪とは神にそむくことだと考えています。

僕の書いた考えは、レーシェルさんの解釈と全く違います。なぜ違うかということを説明するのは、それほど簡単ではありません。ひとつには、人間はどうしても時間に縛られて考えるので、僕は自分の考えを自分でよく理解できているとは思いません。

それでも、試しにたとえ話のように説明してみるなら、創世の前には、まだ時間は造られていなかったと考えます。その時間のない世界で、まず、神は心の中でアダムとイブを造られ、理想として、彼らが自由意志を持っていても、神にそむく罪を犯さないことを望まれた。それで、彼らがそむことを前提に、歴史を心の中で展開された。そして、神のひとり子キリストを心の中で世に送ってみられた。神は人間たちが、キリストのいうことに聞き従うことを理想とされた。しかし、人間たちは、キリストにもそむことが神には分かった。そこで、神は、そのことを前提に、キリストが十字架で死ぬこと以外に、人間を救う道はないことを見られた。そして、キリストの救いによって、やがて、信仰者たちが理想の新しい天と地に住むことを見られた。そこで、神は歴史のすべてをご計画された上で、時間を造られ、世界を造られ、人間を造られた。

人間の罪を、神は悲しみ、また、その罪が原因となる苦しみを神は一緒に苦しまれ悲しまれたと信じます。キリストの十字架を見れば、それは明らかだと思います。同時に、キリストの十字架のような苦しみも、人間の罪を前提とした神のご計画にあらかじめ入っていたと僕は信じます。

No.4214 2008/07/24(Thu) 08:26:10

Re: 大垣 さんへ / 沙耶香 引用

人間は罪人・・・
イエス様にきよめてもらいながら、イエス様に近づいていこうとしても罪の性質は残ります。
でも罪を悔い改めながら、生きていく姿をイエス様は喜ばれると思います。
答えになっていないかもしれない。私は管理人さんと比べても誰と比べても能力も劣るし、学歴もないし、活字アレルギーでなかなか聖書の内容もわからないし・・・苦戦している状態で、私なんかの意見は参考にならないと思いますが・・・

No.4215 2008/07/24(Thu) 08:36:24
士師記9章残り / 沙耶香 引用

今日は士師記9章残りを読みます。

37節に
ガアルはまたいった。「いや。人々がこの地の一番高いところから降りてくる。また一隊がメオヌニムの樫の木のほうから来る。」
とあるが、メオヌニムの樫の木とは何だろうか?と思って横の注を見ると、あるいは「ト者のテレビンの木」とあるが、ト者って何だろうか?テレビンの木って何だろうか?と思って辞書を引くと、ト者は載っていない。テレビンで引くと、テレビンチナというので出てきて、マツ科植物から採取される樹脂のことみたいだ。聞いたことないが・・・。

45節に
アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた。
とあるが、「塩をまく」というのはどういう意味があってしているのだろうか?と思って、脚注を見ると、永遠の廃墟であることを示す象徴的行為だと書いてあります。うーん、普通に考えたら塩をまくというのは、きよめるとかそういう意味かと思っていましたが・・・。
申命記29・23、エレ17・6が関連箇所となっているので、開いてみます。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ22章41-45節を読みます。
天のお父様神様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、42節が気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、お祈りするときに、わたしの願いではなく御心のままにしてください。というのがいいです。自分の願いではなく、御心が最善策だから・・・。

No.4207 2008/07/22(Tue) 09:05:09

Re: 士師記9章残り / 大垣 引用

45節。塩はけがれをきよめる、ということと、永遠の廃墟、ということは関係があるように思います。人間は、イエスの尊い血できよめられないかぎり、どうしてもけがれがあるので、塩が大量にまかれたところには住めない、というようなことです。

No.4210 2008/07/22(Tue) 21:22:31

再士師記9章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度士師記9章残りを読みます。

31節に
トルマにいるアビメレクのところに使者を送って言わせた。「今、エベデの子ガアルとその身内のものたちがシェケムに来ています。今、彼らは町を、あなたにそむかせようとしています。
とあるが、トルマってどこだろうか?と思って脚注を見ると、アルマと同じらしい。アルマはシェケムの南8キロにある、ベート・リマと同定らしい。

44節の
アビメレクと、彼とともにいた一隊は突入して、町の門の入口に立った。一方、他の2隊は野にいたすべての者を襲って、打ち殺した。
が印象に残りました。

57節に
神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した。
とあるが、ヨタムののろいとは何だろうか?と思って脚注を見ると、シェケムも滅び、アビメレクも滅びるということだそうだ。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ22章46-50節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、48節が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様を裏切るなんてふとときだけれど、人間はみな多かれ少なかれイエス様を裏切りながら生きているんだと思います。罪人はみなそうです。

No.4212 2008/07/23(Wed) 09:52:07
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