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申命記8章 / 沙耶香 引用

今日は申命記8章を読みます。

5節に
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
とあるが、本当私は訓練をたくさん受けているが、それだけ愛されていると思っているが、それにしても辛い。

15節に
燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、
とあるが、これは一体どういう意味だろうか?と思って、燃える蛇のところの横の注を見ると、民21・6とあるので、開いてみます。
民21・6・・・
そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
あるいは「激しい蛇」とあります。
脚注を見るとこれは神のなさった奇跡のことが書かれているようだ。

16節の
あなたの先祖達の知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、貴方を試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。―
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章47―49,7章1,2節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、48,49節の
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものとなりました。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
聖書の御言葉を聞いても実行しない人がほとんどだけれど、段々と近づけるようにイエス様がしてくださると信じて期待して感謝します。

No.3891 2008/02/20(Wed) 19:56:51

再申命記8章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記8章を読みます。

2節の
あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、貴方を苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにある物を知るためであった。
が印象に残りました。

6節の
あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。
が印象に残りました。

12,13節に
貴方が食べて満ちたり、りっぱな家を建てて住み、
貴方の牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、
とあるが、こういう人はなかなか神様をおろそかにしがちな人が多いですね・・・17節のように、
あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。
というように神様からでなく、自分の力を信じてしまいがちです。本当は人間なんてみな同じなのに、人間は富を築けるかどうかで優劣をつけたがる。でも富を築ける能力だって神様からいただいたものだと知って神様に感謝することが大切なことだと思います。その点管理人さんは素晴らしいと心より尊敬します。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ7章3―7節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、7節の
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべはかならずいやされます。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
御言葉を握って離さない事が一番の癒し勝利の近道でしょうね・・・

No.3892 2008/02/21(Thu) 18:15:16
申命記7章 / 沙耶香 引用

今日は申命記7章を読みます。

3節に
また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
とありますが、強い7つの異邦の民(ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人)をかなり嫌っているというか聖絶しているということだろうか?

15節に
主は、すべての病気をあなたから取除き、貴方の知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。
とありますが、悪疫って何だろうか?と思って、横の注を見ると、出9・14,15、15・26、申命記28・27,60
とあるので、開いてみます。
出9・14,15・・・
今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせる為である。
わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、貴方は地から消し去られる。
15・26・・・
そして、仰せられた。「もし、貴方があなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つ貴方の上に下さない。わたしは主、あなたを癒すものである。」
申命記28・27・・・
主はエジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたは癒されることができない。
申命記28・60・・・
主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにももたらされる。それはあなたにまといつこう。
悪い疫病のことなのですね・・・

20節に
あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者達や隠れている者たちを、貴方の前から滅ぼされる。
とあるが、くまばちとは蜂の一種だろうか?比喩的表現だろうか?
横の注が出23・28、ヨシュア24・12とありますので、開いてみます。
出23・28・・・
バラクはバラムを荒地を見下ろすペオルの頂上に連れて行った。
ヨシュア24・12・・・
わたしはあなた方の前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。
この部分の脚注に、くまばちはカナンを襲った恐怖感のたとえだと書いてあります。
別訳に「疫病」「落胆」とあります。この場合のくまばちは疫病のことかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章37―41節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、37節の
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
でもなかなか、自分が人からかなりの精神的・肉体的打撃を受けるようなことをされると完全には赦せない。イエス様の力でイエス様に寄りすがって赦せるようにと祈りもとめている途中です。でも時が過ぎると段々と癒されてきました。時間もイエス様が下さっているものなので、イエス様が癒してくださいます。

No.3883 2008/02/18(Mon) 21:53:25

再申命記7章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記7章を読みます。

5節に
むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ち壊し、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。
とあるが、アシェラ像って前にも出てきたけれど、何だったのかな?と思って、脚注を見ると、いろんな神々を生んだ母で、最高神エルの配偶神であり、肥沃祭儀における女神として、アシュタロテと混同してカナンで礼拝されていたと思われる。というようなことが書いてありますが、配偶神って何だろうか?と思って辞書を調べても出てなくて、「配偶神」で検索すると、多分ある神様の配偶者の神ということだろうと思います。だからこの場合はエルの配偶者の神ということだろうと思います。
その後の肥沃祭儀というのはどういう意味だろうか?と思って、辞書を引くと、出てこず、肥沃で辞書を引くと、土地がよく肥えて、作物がよくできることだと書いてあります。祭儀で辞書を引くと、聖所や神殿で行われる儀礼のことだそうです。これらを総合すると、よく肥えた作物のできる土地でおこなう儀礼のことかな?と思います。

14節に
あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福されたものとなる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。貴方の家畜も同様である。
とあるが、本当に子のない男、子のない女は、一人もいなかったのだろうか?

25節に
あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌み嫌われるものである。
とあるが、わなって何の罠だろうか?と思って、横の注を見ると、士8,27とあるので、開いてみます。
士8,27・・・ギデオンはそれで、一つのエポデを作り、彼の町のオフラにそれを置いた。すると、イスラエルはみな、それを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって、落とし穴となった。
ふーん、この落とし穴がわななのかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章42―46節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、46節の
なぜ、わたしを「主よ、主よ。」と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様大好きで聖書も何度も通読していて勉強しているのに、イエス様の御心の行えない人多いです。なかなか人間の罪はそれほどまでに大きくとてつもないということですね・・・

No.3885 2008/02/19(Tue) 19:45:28

Re: 申命記7章 / 大垣 引用

2節の「聖絶」とは、新解訳の新しい訳語ですが、人間を聖絶するとは、その人間をCENSOREDといことだと思います。これはカナンの地にいた異邦人たちのこの世の命は重要ではない、ということではないと信じます。しかし、彼らのこの世の命より、さらに重要なことがあったので、彼らをCENSOREDように、モーセを通して、主が命じられたといことだと思います。さらに重要なこととは、イスラエルの民が、カナンの地に住んでいたヘテ人たちに影響されて、主から離れ、ほかの神々に仕えるようなことがあってはならない、ということでした。

3節では、カナンの地に住んでいたヘテ人たちを聖絶しなくて、彼らが生きていた場合、彼らと結婚するようなことがあってはならない、といことです。これは好き嫌いの問題ではなく、イスラエルの民がほかの神々に仕えるようになってはならないからでした。

5節。カナンの地で崇拝されていたほかの神々の代表はバアルとアシェラでした。エジプトなどと違い、大きな川のなかったカナンの地では、雨が降らないとすぐにききんとなりました。それで、カナンの人たちは雨が降って土地が豊かに作物を実らせるように、と神々に願い神殿で娼婦たちと交わるというような肥沃祭儀を行っていたそうです。

14節は、イスラエルの民がカナンの地でモーセの律法をすべて守ったときの祝福です。もし、彼らがモーセの律法をすべて守っていたら、神は約束とおりにされたでしょう。イスラエルの民は、カナンの地で、律法をすべて守りとおすことができませんでした。キリスト以降は、モーセの律法による契約は廃止され、キリストの命令による新しい契約となりました。この契約では、血のつながった子供がいることよりも、福音の伝道による信仰の子供が重視されていると思います。

20節のくまばちは、象徴的に読めばよいと思いますが、文字通りにくまばちも神が使われたであろうと思います。

25節の「わな」とは、神以外のものを例拝する偶像礼拝のわなで、士師記8:27の「落とし穴」もおそらく何らかの意味で偶像礼拝に関わると思います。

No.3886 2008/02/19(Tue) 22:37:14

Re: 申命記7章 / 沙耶香 引用

>>2節の「聖絶」とは、新解訳の新しい訳語ですが、人間を聖絶するとは、その人間をCENSOREDといことだと思います。

えーーー、そうなんだーーー。主がそういうことを命じる場合もあるんだ。

>>3節では、カナンの地に住んでいたヘテ人たちを聖絶しなくて、彼らが生きていた場合、彼らと結婚するようなことがあってはならない、といことです。これは好き嫌いの問題ではなく、イスラエルの民がほかの神々に仕えるようになってはならないからでした。

あ、そうなの?結婚したら、ほかの神々に仕えるようになるのかな?

>>5節。カナンの地で崇拝されていたほかの神々の代表はバアルとアシェラでした。エジプトなどと違い、大きな川のなかったカナンの地では、雨が降らないとすぐにききんとなりました。それで、カナンの人たちは雨が降って土地が豊かに作物を実らせるように、と神々に願い神殿で娼婦たちと交わるというような肥沃祭儀を行っていたそうです。

えっ??肥沃祭儀ってそういうものなの??えーー何だか不思議な信仰ですね・・・

No.3890 2008/02/20(Wed) 10:27:59
?Tペテロ1章 / 大垣 引用

?Tペテロ1章。3節。僕たちが生ける望みを持つのは、キリストが死者の中からよみがえられたことを信じて、僕たちが新しく生まれたことによる。

4-5節。終わりのときに現される救いという資産は、はかないこの世の富と違って、朽ちることも汚れることもない。

6-7節。僕たちは、この世ではさまざまな試練を受けるが、信仰の試練は尊い。

8-9節。僕たちは、信仰の結果、イエス・キリストをみたことはないけれども愛する。

10-12節。イザヤのような旧約の預言者たちも、信仰によって彼らのうちにおられる御霊があかししたキリストの苦難とそれにつづく栄光について調べた。新約のキリストの恵みは、キリストの十字架以降に生きている僕たちのために、福音を伝える人たちによってはっきり告げ知らされた。

13節。僕たちはキリストの再臨をひたすら待ち望む。

14-19節。神は僕たちが聖であるように命じられる。僕たちの中には自分で聖になるための力はないと思う。しかし、キリストが尊い血によって僕たちをきよめてくださる。

21節。僕たちの信仰と希望は神にかかっている。

22節。主イエスが、ヨハネ13章34節で、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられた。ペテロも偽りのない兄弟愛で互いに心から愛し合うように命じている。イエスが弟子たちを愛したように、偽りのない、聖い、慈しみ深いが、甘やかしのない愛ということを思います。

23-25節。福音のことばはとこしえに変わることがない。

No.3888 2008/02/20(Wed) 08:59:16

Re: ?Tペテロ1章 / 亜衣瑠 引用

緒論も読む。
神さま この書を読めるようにしてくださってありがとうございます。この世にペテロさんを生み出しくださってありがとうございます。イエスさまがペテロさんを最初のお弟子に選ばれるようにしてくださってありがとうございます。きょう、この書を読む幸せを感謝いたします。発せられるみことばに従い聞くことのできますように。
ハンドブックもこれまでも何度も合わせ読んでいるが、筆者の表現によるとこの1章を「壮大な章。ほとんど1語1語が珠玉の意味を持っている。」とある。また「尊い」はペテロの愛用語であるとも。

1−3節 イエス・キリストがおられることがわたしたちが生きていく望みです。

4節 朽ちない汚れない宝をわたしたちは愛します。

5節 この約束を喜びをもって受け信じます。

9節 そうなのです。この世的な理屈では解説しつくせない事実は ただイエスさまを信じたことによるのです。

13節 わたしたちにとって最も大事なことがこの辺から始まる。
「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」
はい。漫然としていてはこれは実現できませんね。

14−15節「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」

16節「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」と書いてあるからです。」
わたしはこの聖句を一体何度くりかえし読み唱え書き記したことでしょう。何度胸に刻み込んだことでしょう。しかし、それは今の時点であまりにも不完全であることを知っています。それでも、これからもしつこく繰り返しこのことを祈って自らの変身に希望をもって期待して唱えます。愛して祈ります。

17節 「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父を呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
わたしたちのこの世での人生はほんの「しばらく」の間であることを忘れないようにしたいです。まして、自分の年齢まですでに生きてきたことを思えば、さらに晩年のときは一瞬といってもよいくらいです。最後の一瞬に間に合ってあなたさまに出会うことができたことを感謝いたします。

18−19節「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」この世では銀や金を崇め、子羊であるキリストを見下しました。わたしたちはわたしたちの贖い主を自分たちの手でCENSOREDその方によって救われたのです。死んでくださった方によって いのちを奪われることなく、虚しさからも救われました。それは救われたわたしたちひとりひとりが証しします。

20節はヘブル冒頭を思い起こさせます。

21節「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」
信じる根拠、拠り頼むもののこれほど信頼できるお方は他にはありません。

22節「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
あなたが定めた真理を受けることは この世に生まれ生きていることに意味をもたせられることです。あなたの愛によって愛し合えるという喜びは何にも変え難いほどのものです。

23節「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」
For you have been born again, not of perishable seed, but of imperishable, through the living and enduring word of God.

24−25節「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」イザヤ40章から引用されたこの句は わたしの愛するブラームスの『ドイツ・レクイエム』の第2楽章の歌詞として使われていて大変印象的なことばである。

But just as he who called you is holy, so be holy in all you do; for it is written:
“Be holy, because I am holy.”
Since you call on a Father who judges each man’s work impartially, live your lives as strangers here in reverent fear.
For you know that it was not with perishable things such as silver and gold that you were redeemed from the empty way of life handed down to you from your forefather, but with the precious blood of Christ, a lamb without blemish or defect. (15-19)

No.3889 2008/02/20(Wed) 10:08:18
ヤコブ5章 / 大垣 引用

ヤコブ5章。1-6節。歴史的な観点からも、現代の国際的観点からも、今の平均的日本人は相当な金持ちである。金持ちであるという、はかないこの世での祝福を受けることによって、永遠の神の国で受けるべき祝福が減らされているなら悲惨である。主イエスがルカ6章20節で「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものです。」と、ルカ6章24節で「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。」と言われたことを思います。与えられたお金を、この世でのぜいたくな暮らしと快楽に使うのではなく、永遠の報いを増やすために使いたい。

7-11節。主イエスが再臨されるまで、苦難を耐え忍ぶことが大切。ヨブは特定の罪の結果ではない苦難をよく忍耐した。その結果、主はヨブに現れてくださり、ヨブを大いに祝福された。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる。

12節。人間には一瞬先のこともどうなるか分からない。これが、神のみこころに違いない、と思ってもそうでないことがある。いつも、神のみこころを聞き求めて従うつもりなら、将来のことについて誓いをたてることは、基本的にはできない。何かの行動を誓った後に、そのことが、みこころにかなわないことを知っても遅いからである。同じ理由で、人に約束することも、できるだけ避けたほうが良いと思う。

13-18節。喜んでいる人は賛美すると良い。苦しんでいる人は祈ると良い。病気のときも、まず主に頼って祈ると良い。もし、医者に行くべきなら、行くようにお導きくださるようにお祈りすると良いと思う。医者に行ったら、医者を用いて主がいやしてくださるように祈るのが良いと思う。エリヤの祈りによって、3年6ヶ月の間、雨が降らなかったように、義人の祈りは働くと大きな力がある。

19-20節。クリスチャンが真理から迷い出ると、信仰を失ってしまうことがありうると信じます。自分のまわりにいる兄弟姉妹が真理から迷い出た時、彼らを励まして信仰に立ち返らせると、自分の多くの罪をおおう。

No.3884 2008/02/19(Tue) 16:49:58

Re: ヤコブ5章 / 亜衣瑠 引用

1節から4節まで読んでいて 自分は金持ちではないし、賃金を払う側にないから・・と無関係のつもりでいると、5節の「自分の心を太らせました」でストップがかかる。自分では普通と思っているぜいたくがないとは言えない。快楽をもとめようとする心―内面が自分のうちに皆無か?と尋ねられたとき、即答できない自分がまだ存在している。それは捨て去ります。きょうも聖餐をとりながら、あなたに表明しました。あなたのからだと血潮をこのからだに摂り入れながら「従います」を表明しました。

7,8節「耐え忍びなさい」が繰り返される。 主が間違いなく来られる。それでわたしたちは待つことができる。期待に期待して待つことができる。希望に胸をふくらませることができる。「心を強くしなさい」パウロの祈り、愛のとりなしを思い起こします。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(エペソ3:16)

9節 「さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」この聖句は かつて読んだとき、大変「こわい」ものに聞こえた。それはまるで見たくないものが ホラ!そこに!という感じで来て欲しくない方の急襲、怖い「生活規律委員長」が抜き打ち検査に来られるような、そういうイメージだった。しかし、いまは怖さよりも、それほどまでにわたしたちの身近にいておられ、見守ってくださる祝福を思います。そして感謝します。

11節にあるように、主の本質は、「慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」アーメン。感謝します。どうかわたしたちもその主にますます似る者となりますように。主を愛し、隣人を愛してあなたに従えるようにしてください。

13−16節 信仰によって祈り、信仰によって賛美する・・・いえ、祈りが信仰を現し、賛美もまた信仰を現すものではないでしょうか。苦しんで祈り、喜んで賛美する・・・苦しむときもまたハレルヤ!と賛美したい。祈りの主人公がイエスさま、あなたでありますから、それでわたしたちは癒されます。あなたがいつどのような状況であってもとりなしてくださいますから、わたしたちは勇気を与えられ、落ち着いて大胆に率直にたましいの祈りをあなたに向かって捧げることができます。ヨブやエリヤの信仰、そして祈りの力を見てわたしたちの神を思い、神の力と愛を思います。またヘブル13:7もすぐに思い出します。「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」

参照箇所?Tヨハネ5:14を読む。どうか、わたしたちの願い、祈りが常に神のみこころにかなうもの、神の願いといつも一致しているようでありますように。これからはすべてが一致するのが当然、という具合になっていきますように。父なる神さまに向かって祈ることができるようにしてくださった神さまとイエスさまに感謝します。

No.3887 2008/02/19(Tue) 23:15:38
申命記6章 / 沙耶香 引用

今日は申命記6章を読みます。

3節に
イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いに増えよう。
とあるが、乳と蜜の流れる国というのは前にも出てきたと思って、横の注を見ると、出3・8とあるので、開いてみます。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広いよい地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいるところに、彼らを上らせるためだ。
脚注に、乳と蜜の流れる地は牧草がたくさんあり、ミツバチが好む草花、樹木がたくさんなっている地のことだそうだ。

5節の
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
が印象に残りました。

7節に
これを貴方の子供たちによく教え込みなさい。貴方が家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
とありますが、すごいですね・・・いつもいつも御言葉と一緒に生活しろということかな?でもここまでしたらここまでできたら素晴らしいでしょうね・・・

8節に
これをしるしとして貴方の手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
とあるが、これはどういう様子かな?と思って脚注を見ると、「シェマ」というのが出てくるが、意味不明だ。4―9節脚注とあるので、見てみます。「聞きなさい。」という意味らしい。
「経札」という言葉も出てくるが、意味不明なので、辞書で引いても出てこず、「経札」で検索すると、「ユダヤ教徒の男性が朝の祈りに際して額(テフィリーン)と左腕(リツーア)につける小箱。」のことらしい。
マタイ23章5節を参照と書いてあるので、開いてみます。
彼らのしていることはみな、人に見せる為です。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。

16節に
あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。
とあるが、マサって一体何だろうか?と思って、脚注を見ると、「試み」の意味、ホレブ近辺。イスラエルがここで、飲み水を欲しがり主を試みたことが書いてあります。

25節に
私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」
とあるが、義とはどういう意味だろうか?とおもって、脚注を見ると、神との正しい関係をあらわす言葉らしい。おきてを守ることによって、イスラエルは、神との契約の中にとどまり続け、神の民としていきることができることが書いてあります。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章27―31節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、27,28節の
しかし、今聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。貴方の敵を愛しなさい。貴方を憎むものに善を行いなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱するもののために祈りなさい。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
実際これを守っているクリスチャンなんてほとんどいないですね・・・でもクリスチャンといえども人間だからいないのが普通だけれど、実際そういう人がいるのが、イエス様の御技なのでしょうね・・・・

No.3875 2008/02/16(Sat) 20:25:05

再申命記6章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記6章を読みます。

10,11,12節に
あなたの神、主が、貴方の先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導きいれ、あなたが建てなかった、大きくて、素晴らしい町々、
貴方が満たさなかった、すべての良いものが満ちた家々、貴方が掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったブドウ畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、貴方が食べて、満ち足りるとき、貴方は気をつけて、貴方をエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。
とあるが、今一ピンとこないなーと思って、脚注を見ると、自分の力に頼らずただ主の恵みによって与えられる祝福が、忘恩の誘惑ともなりえると警告されているというようなことが書かれているが、この忘恩の誘惑とは一体何だろうか?と思って、辞書を引くと、恩を忘れることとあった。字のとおりですね・・・

17節の
あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章32―36節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、35節の
ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子供になれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、哀れみ深いからです。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うーん、なかなかこれを守り行える人はいないですね・・・人間の罪深さを思い知ります。

No.3876 2008/02/17(Sun) 19:09:59

Re: 申命記6章 / 大垣 引用

4-5節はマルコ12:29-30で、イエスがモーセの律法の中で一番大切な命令であるとされました。6節にあるように、特にこのようなみことばを自分の心に刻み、7節にあるように、自分の子どもたちによく教え込みたい。キリスト者にとっては、自分の子どもとは、血の通う子どもだけでなく、自分の伝道が神に用いられた場合、伝道によって信仰に入った人は「信仰による真実のわが子」(?Tテモテ1:2より)となると思います。

No.3880 2008/02/17(Sun) 22:11:12

Re: 申命記6章 / 沙耶香 引用

マルコ12・29―30・・・
イエスは答えられた。「一番大切なのはこれです。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
1テモテ1・2・・・
信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。

No.3882 2008/02/18(Mon) 09:33:47
ヤコブ4章 / 大垣 引用

ヤコブ4章。1節。自分たちの間に戦いや争いがあるとき、その根本原因は僕たちの中で戦う欲望にあると思う。それは意識されていなくても、無意識の中にある。

2−4節。ほしがったり、うらやんでも手に入らないとき、僕たちは争ったり、戦ったりする。ほしいものがあったら神に願えば、その願いが完全に神を信頼し、神の栄光を願う良い動機からのものであれば、与えられる。僕たちが信仰の道を進んでいくと、だんだん、僕たちの願いが「あなたのみこころのように、なさってください。」というマタイ26章39節のイエスの願いのようになっていき、その願いが受けられるのだと信じます。

5-6節。神は僕たちを愛し、さらに豊かな恵みをあたえくださる。

7節。神に従い、悪魔と自分の罪の性質に立ち向かうと良い。

8-10節。神に近づくとき、神が近づいてくださる。罪から遠ざかり、不信仰の心をとりのぞき、キリストの苦しみと悲しみにあずかるようにし、主の御前にへりくだること。

11-12節。隣人をさばいて悪口を言ってはいけない。

13-15節。自分はしばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎないと知ることが大切だと思う。自分は全知全能の神の前で、究極的には必要な存在ではない。しかし、自分は愛されていて、神は自分を用いることを喜んでくださる。だから、「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と言いたい。

16節。むなしい誇りをもって高ぶることをやめたい。

17節。「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」とは、13-16節の文脈の中で、僕は唐突な感じを受ける。考えてみると、自分の職業を誇るために、その職業を口実として、本来なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それは、その人の罪になるということかと思います。

No.3878 2008/02/17(Sun) 21:51:05

Re: ヤコブ4章 / 亜衣瑠 引用

個人的にこのヤコブの書の一番印象的に感じているのは4章です。それはかなり早い時期から13−15節の力に惹かれていることと、大変重いみことばである8節があるからです。
今はより8節に自分の読みの重心が絞り込まれていくような感を持ちます。

1節から7節までの問いかけながら戒め諭し教えていく真理のみことばに感謝します。わたしたちの友、味方は、どうあっても神その方なのであるという最大にして最強の事実。その方がわたしたちに恵みをくださる、それをすでに受けました。それで(7節)「神に従いなさい」の命令を聞くことができます。そして、その方が友であり、味方であるのだから、当然「悪魔に立ち向か」うことが可能で、結果「悪魔はあなたがたから逃げ去」るのは当然なのです。あなたが勝利してくださることは知っています。(ヨハネ16:33)

2節 「ほしい」という願望は神のみこころでなく、わが欲望のためだけのものではないですか?それは妬み、そねみから生まれ出た邪悪なものではないですか?

3節 動機が悪ければ、願いや祈りは神が退けられます。イエスさまの名によってわたしたちが祈ることをあなたさまは拒まずしてくださいます。それはイエスさまが何度も約束してくださいました。(ヨハネ15:16、16:23)イエスさまがおっしゃられたわたしたちへの教え、戒め(互いに愛し合うこと)を守っていけますように。

10節 真のへりくだりを実行する者でありますように。参照箇所ヨブ5:11を読む。
「神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う」同じく22:29「あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ」この世とは一見逆の評価と見えるけれど、神の前には どんな者も低くされて当然であり、「高い」位置にある者などひとりもいないのだ。もうひとつの参照箇所は?Tサムエルの2:7−8 あの美しく崇高かつ力強い賛美のハンナの祈りである。聖なる神はもともと高きところにおられるが、わたしたちがへりくだればくだるほど、その妙なる輝きが増してくるという不思議な相関関係にあるように思う。福音書に登場するあの人のことも浮かんでくるのです。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(ルカ18:13)

12節「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」マタイ7:3 わかってるつもりでみことばを聞き、人に語り、いつの間にか裁き手になっていることさえ分からないほどになって、ここまでの問われ方をしないと気づかないようになる。主に詰問されるまで目が開かないようにさせられる・・・問われる前に気づくように、裁いてしまう前に気づくように、そして裁くことなどないように、御ことばによりわたしを整えてください。造りかえてください。

15節 主のみこころとあわれみにより、きょう、わたしたちは、きょうまでは生きております。その愛を感謝します。いのちを感謝します。わたしたちは霧です。あなたがすべての主導権を握っておられます。わたしの手足をあなたの意志により動かしてください。あなたのみこころによってのみ、いのち与えられ、動き、意味をなすようにしてください。

No.3881 2008/02/17(Sun) 22:13:23
申命記5章 / 沙耶香 引用

今日は申命記5章を読みます。

7,8節に
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
とありますが、前の章でも偶像礼拝を禁じることが書いてましたので、このことはかなり重大なことだと思います。

10節の
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
が印象に残りました。

15節に
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守る様、あなたに命じられたのである。
とあるが、これはどういう意味だろうか?と思って脚注を見ると、奴隷の体験を通して、社会的弱者に対しての思いやりということと、奴隷の悲惨な状態から主が救い出され、カナンに行くという恵みに預かったことを覚える為に安息日を守らなければならないとあります。いろいろ深いですね・・・

29節の
どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、私のすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章17―21節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、21節の
いま飢えているものは幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いているものは幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
輪廻転生ということかな?段々回りまわってきます。

No.3871 2008/02/14(Thu) 17:43:53

再申命記5章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度、申命記5章を読みます。

3節の
主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖達とではなく、きょう、ここに生きている私たち一人一人と、結ばれたのである。
が印象に残りました。

4節に
主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とをあわせて語られた。
とあるが、火の中というのは4章のところで管理人さんがご説明くださっているように火のように見える中から語られたということだろうか?

あっでもしかし、5節に
そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。
とあります。山火事になっているのだろうか?

11節の
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。
が印象に残りました。

16節に
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなる為、また、貴方の神、主が与えようとしておられる地でしあわせになるためである。
とありますが、主が与えられようとしている地で幸せになることはいいが、齢が長くなるのは困りますね・・・早く天に召されたい。

26節に
いったい肉を持つもので、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。
とありますが、ということは火の中から神の声を聞いたらもうそれ以上生きていけないということかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章22―26節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様野尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
この節全体が、私たち自分では何もない精神障害者には嬉しい御言葉ですので、全体が気になるので、全体をもう何度か読みます。
今悲しみ苦しみ嘆いていて試練の連続である私、その姿を見て主は哀れんで段々と祝福してくださっているし、今後もどんどん祝福されると信じて期待して感謝します。

No.3874 2008/02/15(Fri) 21:16:22

Re: 申命記5章 / 大垣 引用

4節は4章のところと同じで、シナイ山で主の栄光が火のように見えている中から、主が語られたことを書いていると思います。

26節。火の中からの神の声が聞こえるほど生ける聖なる神に近づくと、汚れた人間はすぐに死んでしまうのだと思います。イスラエルの民はアブラハムの信仰のために、特別に選ばれていました。

No.3879 2008/02/17(Sun) 21:58:12
ヤコブ3章 / 大垣 引用

ヤコブ3章。1節。教師は責任重大なので、罪や失敗があったとき神は厳しくさばかれる。イスラエルの民のリーダーとして責任重大であったモーセは民数記20章7-12節での罪のために、約束のカナンの地に入れないという厳しいさばきを受けた。

2-12節。人間はことばで失敗することが多いので、特に注意が必要である。人や団体の批判を軽々しくしないように。特にカルトや異端というような強い言葉は、基本的に個人が軽々しく決めつけるのではなく、教会全体の決定に従うのが良いだろうと思います。人の秘密をもらさないように。8節にあるように、人は舌を制御することができないので、イエスにしっかり頼るのが良い。

13-18節。上から来る知恵とはキリストであると思います。だから知恵のある人はキリストにふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示すことができるはずです。苦いねたみと敵対心は上から来る知恵ではありません。そういうものは、神の怒りのように自分には思えることがある。しかし、1章20節に、人の怒りは、神の義を実現するものではないことが書いてあります。18節にあるように、義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれる。

No.3873 2008/02/14(Thu) 23:55:16

Re: ヤコブ3章 / 亜衣瑠 引用

1節「ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」ヤコブは「わたしたち教師は」と言っている。この手紙のあて先、手紙の受け手、また書き手は「教師」の意識のある者たちだったということか。 「格別きびしいさばき」 教師でも何でもない人とは影響の度合い、責任という点において大きいからであろう。多く用いられ、多くの恵みをいただく分、責任が伴うであろう。「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」(?Uペテロ1:20)「もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示22:18,19)

2−10節 この章の見出しに「舌の制御」とある。まさにこのみことばは、舌の制御を苦手とし、ことばで幾たびも失敗をした自分にあてて書かれている。

5節「小さい火があのように大きい森を燃やします」6節「舌は火であり、不義の世界です」
神のことばが「みことば」であるのに対し、何と罪深いことか! 

9,10節 「賛美とのろい」「このようなことはあってはなりません」――アーメン!
創世記9章でノアが息子ハムにのろったことを思い起こされます。「のろわれよ。カナン。」
(創世記9:21−27)世界で「のろう」ことのおできになる方は 唯一 神おひとりであると思う。われわれ人間にはのろうことは許可されていない。皆、神が愛をもって造られた子どもたち同士なのであるから。のろいの権威は神にしかない。

11節 もし、甘い水と苦い水の両方を わたしたちがわき上がらせているとするなら、それはヨハネ13:34のイエスの教えに逆らう重罪人になります。ヤコブ1章で「忍耐」ということを刻み込まれた感じを持ちましたが、そして、神の愛を思うとき、その本質は忍耐にほかならないとこれまでも何度も思い知らされます。けれど、わたしたちは「忍耐する」ことを一生懸命するのが使命ではない。わたしたちは神さまの命令に従うのみなのだ。それは互いに愛し合うこと、神が導く道に逆らわないこと。黙々と進んでいくこと。それは14節でいう「真理に逆らう」ことと同意だと思う。それらの出どころは15節で明らかなように「上から来たものではなく」「悪霊」から来ている。1章17節の真逆である。

17節に列挙されていることを何度でもくりかえし読みたい。
「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」

18節「平和のうちに蒔かれる」邪悪な作為によって蒔かれるものではない。
ガラテヤの御霊の実ももう一度読んでおきます。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」そして、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」
イエスさまのまことのぶどうの木からイエスさまにとどまることにより、あなたのぶどうの実を豊かに実らせる者とさせてください。

No.3877 2008/02/17(Sun) 20:35:16
申命記4章残り / 沙耶香 引用

今日は申命記4章残りを読みます。

私は主イエス様によって圧倒的な勝利者になります。
私は主イエス様によってすでに癒されたのです。

25,26節の
貴方が子を産み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行い、御怒りを買うようなことがあれば、
私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅び失せる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。
が印象に残りました。

29節の
そこから、あなたがたは、あなたの神、主をしたい求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。
が印象に残りました。偶像礼拝をしていても、そこから気づき、真の神様を求めていく・・・素晴らしいですね・・・きっと偶像礼拝していたことも益とされるでしょう。。。

39節の
きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章6―10節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると10節の
そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」といわれた。そのとおりにすると、彼の手は元通りになった。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
救い主イエス様癒し主イエス様素晴らしいですね・・・

No.3867 2008/02/12(Tue) 20:17:19

再申命記4章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記4章残りを読みます。

33節に
あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。
とありますが、これはどういう意味だろうか?と思って、脚注を見ると、つみあるイスラエルの民を特別に赦し、直接的な交わりに入られた。様なことが書いてあるが、何だかあまりよく分からない・・・

34節に
あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みとしるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。
とあるが、これはどういう意味だろうか?と思って、脚注を見ると、救いのために振るわれた神の偉大な力は、イスラエルが選ばれた民であることの栄誉の大きさを示すというようなことが書いてあります。試みというのがエジプト王パロにとってのものらしくて、伸べられた腕というのは、神の救いを示す慣用的表現らしい。あー何だか難しい。

36節に
主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。
とありますが、これは、火の中とかありますが、比喩的表現だろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章11―16節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、13節の
夜明けになって、弟子達を呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
この12人は大変な使命があります。

No.3869 2008/02/13(Wed) 18:10:15

Re: 申命記4章残り / 大垣 引用

36節ですが、チェーン式の聖書で「大きい火」の横に3という数字があり、横の注の参照箇所を見ると、主がシナイ山で民に語られたとき、主の栄光は民には火のように見えたことが分かります。だから、火の中から、ということは比喩的な表現ではなく、実際に火のように見えるものの中から、みこえが聞こえたということだと思います。

No.3872 2008/02/14(Thu) 23:53:50
ヤコブ2章 / 大垣 引用

ヤコブ2章。1-9節。人をえこひいきしないこと。りっぱな服を着ている人も、みすぼらしい服装をした人も、主にあって、同じように神のかたちとして造られた人として、また、信仰者であれば、主にある兄弟姉妹であることを覚えたい。

10-11節。モーセの律法の違反者にならないためには、自分にとって意味の分かる戒めや、都合の良い戒めだけでなく、すべての戒めを守る必要がある。姦淫しなくとも、人殺しをすれば、罪人となったというのは、この原則のわかりやすい例だが、もっと人間にとって細かくて重要でないと思えるような戒めについても同様である。

12−13節。ここでの「自由の律法」とは、イエスの十字架による恵みのシステムのことだと思います。恵みによって、自分の罪を赦されたと信じるのなら、人が自分に罪を犯したときにその人をあわれんで赦し、あるいは、自分の罪が赦せないと思ったときにも、自分を赦すことが、受けた恵みにふさわしい行いだと思います。

14−20節。信仰があるなら、いずれは、信仰からの行いが出てくるはずである。もし、信仰を持っても、それまでの自分と全く変わらない行動をしているなら、本当に自分は信仰をいただいているのか、神に聞いてみると良いと思います。悪霊どもは、神はおひとりだという知識を持っているが、彼らは神を信頼せず、悪い行いをするので、自分たちの時が短いことを知って身震いしています。生きた信仰は、知識だけでなく、神に対する信頼を含み、神を信頼すなら、行いが違っているはずです。しかし、行いのない信仰とは反対に、宗教的な活動をしすぎて、疲れきってしまうようなときは、神が恵みによって自分にさせようとされていることではなく、自分が良いと思うことを勝手にしてしまっている場合があると思います。

21−24節。アブラハムがパウロの意味(ローマ4章)で信仰による義認を受けたのは、創世記の15章6節。それから、ずいぶん時がたってから、アブラハムはイサクをいけにえとする試練を受けて、みごとに信仰によって(へブル11章17−19節)イサクをささげた(創世記22章)。ヤコブによると、この行いによって、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現した。パウロの意味で信仰によって義と認められると、イエスの血によってきよめられ神の御前に出ることができるようになる。神の御前に出る人は、神に聖められて聖化の道を歩み、ずいぶん時間がかかるかもしれないが、やがて神が恵みによって用意された良い行いをするようになる。

26節。良い行いがいつまでたっても出てこない信仰は、たましいを離れたからだが死んでいるように、死んでいる。信仰が死んでいないかどうか、自問し、また神に聞き求めることが大切であろう。しかし、同時に良い行いは時が来たら与えられるので、神に信頼すべきであって、あせってはいけない。

No.3868 2008/02/13(Wed) 09:32:08

Re: ヤコブ2章 / 亜衣瑠 引用

緒論によるこの書の特色として「実践的な教えを強調し、多くの問題について少しずつ語っている」とあり、確かにそういう意味では新約の中の箴言のようであるな、と感じていたら、ハンドブックにはズバリ「キリスト者の箴言のようで、様々な信仰生活の実際生活について語っている」とあった。自分が特に愛読する?Tペテロもそうだが、新約の後半のこのヤコブと?Tヨハネは 何か困ったとき答えを求めて意識的に開く書なのである。

神の民、神の家族とされた上に わざわざ罪人に逆戻りしたい人はいない。しかし、気づかぬうちに罪を犯したり、自ら罪に近づいていく愚行をしないよう注意しないといけない。

1−9節 えこひいきはいけません。結局その元を辿れば、自分の都合による裁きから来ている。

7節 わたしたちはすべきは 「その名で呼ばれている尊い御名を」讃えて愛し、その方に倣うことだけです。

10−12節 「また、そのように行いなさい。」(12節)語っても行なわない人のことはだれも信じない。どんなに尊いことばがその口から出ても、それが形とならなければ、世の光とはならない。

13節 イエスが言われたことの言い換えとして聞こえる。(マタイ7:2 「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」)

17節 死んだ信仰は要りません。死んだ信仰者になりたくありません。

19節 このようにヤコブが厳しい表現で語らなくてはいけなかったのには、残念な事実の背景があったから、また後に、それはきょうのわたしたちに同じく起こり得る誘惑であることを知っていたからに他ならない。

21節 このアブラハムの行いは 義を現した実証である、という言い方をしているようだ。わたしはさらに、イエスさまの表現でいえば、この行動はアブラハムが見える形で表した彼の信仰の実のように感じられる。(ヨハネ15:4)

みことばに触れるということは 常に新鮮な知識としての喜びや感動でもあるけれど、神のことばと向き合うのだから、逃げることができない。神のことばだから、すばらしいのは当り前で、むしろそれによって今の自分が露わにされる。神のことばは「迫り」である。
神が迫るのであるから、どうするかは決まっているのである。救われた者としてはどうするかは決まっているのである。

No.3870 2008/02/14(Thu) 09:52:53
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