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ヤコブ1章 / 大垣 引用

ヤコブの手紙。1章。2−4節。試練によって信仰が試されると忍耐が生じ、忍耐を働かせていくと、成長する。それは喜ばしいことであることが頭では分かっている。実際に試練にあったときに喜ぶのは難しいが、頭で分かっているのだから、主イエスの恵みによって、喜ぶことができるように祈ることができると思う。

5−8節。知恵は知識と違っていて、イエスが知恵であられると思う。イエスは僕たちが持っている知識を最大限に用いてくださる。知識とし違い、知恵は信じて求めれば必ず与えられると信じます。だから、与えられると信じて願えばよい。知識などは、願って求めても、神のご計画にかなわなければ、与えられないこともある。

9−11節。ここを読むと、ルカ6章20節の「貧しい者は幸いです。」、またルカ6章24節の「富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。」という主イエスのみことばを思い出します。9−11節も、ルカ6章のみことばも、いろいろな解釈が可能であるが、ほかのことが同じなら、この世で富を得て慰めを得ている人たちは、その分、神の国での永遠の報いは少なくなっているということだと僕は思います。むしろ、この世で貧しい人々ほど、神の国での報いと慰めは大きい。この世でお金や才能や教育や時間などを与えられて富んでいる人は、それぞれタラントを与えられている(マタイ25章14−30節)ので、イエスの恵みによって、それらのタラントを用いて神の国の報いを得るような行いをすることが期待されていると思います。

12節。困難にあったり、誘惑に耐える試練を与えられたとき、大きな励ましになるみことば。試練に耐え抜く人にはいのちの冠が与えられる。しかし、聖句を覚え、祈っていても人間には誘惑に負けない力はないと思う。ローマ7章24−25節にあるように、人間はみじめである。そして、主イエス・キリストが救ってくださる。信仰によって、キリスト者の中に入られたイエスは誘惑に打ち勝つ力を持っておられる。キリスト者は、イエスの力によって、誘惑に打ち勝つ。聖句を覚え、祈るというような人間的な努力も役に立つだろうが、本当に自分の罪に向き合って戦うとき、パウロのように、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」と告白することになると信じます。あくまでも、人間ではなく、イエスが罪に勝たれる。

13-18節。試練にあったとき、僕たちが罪の誘惑を受けるのは、自分たちの欲による。すべての良い贈り物は神から来るのであって、神は真理のことばをもって信仰を与え僕たちを新しくされてお生みになった。

19-20節。どうか僕たちが、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそくなりますように。人の怒りは神の義を実現するものでないことをよく知りますように。

21-27節。どうか、僕たちが、みことばをすなおに受け入れ、みことばを実行する人になれますように。困っている人たちをイエスの恵みで世話をし、この世から自分たちをきよく守れますように。

No.3864 2008/02/12(Tue) 18:12:58

Re: ヤコブ1章 / 亜衣瑠 引用

ハンドブックをあらかじめ見渡す。このことは伝説なのだろうか。「彼はあまりに長く祈りのためにひざまずいたので、ひざは固くなり、感覚がなくなって、らくだのひざのようになったという。」とあった。また、殉教のさまは 主イエスのように、ステパノのように、偉大な赦しの祈りのなかであったことを読んだ。緒論の執筆年代を読むと、「この手紙は新約の中でもかなり早い時期に書かれた」とある。 この世では主の兄弟であったヤコブから神とキリストのしもべヤコブ(1節)となって書かれたこの手紙を読んでいきます。

1章の中で、開くたびに読むことを出会いを期待する箇所があります。それは17節。
「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」
この、父を現すみことばの保証により、わたしは瞬時に平安をいただきます。

6節 「少しも疑わずに、信じて願いなさい」 これを実行する生活を続けると、結果、らくだのひざのようになるのだろう。

8節 「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
二心は怖い。二心は悪魔の誘い。脚注にある説明「信仰と不信仰に心が分裂している人」「あるいは神と神以外のものとに信仰が分かれている人」読めば読むほど恐ろしい。そのような誘惑を寄せつけない固い信仰を、闘える信仰をわたしに根付かせてください。いばらやあざみ(ヘブル6章)を生えさせる土壌になりませんように。ぶどうの実をならせてください。

2節‐ 試練と忍耐 愛唱した12節ともつながっている。喜びとは 主からいただくいのちの冠だ。その喜びに向かう道に忍耐を通っていく。必ず通っていく。避けようとしても、必ず、わたしたちの「この道」は忍耐と一緒の道だ。もう、それは当り前のこと、普通のこととして受けなくてはならない。もしそれがなければ、
14,15節のように誘惑に負け、罪を生み、死に向かうことになる。それは神が望んでおられないこと。神に向かう者に忍耐がついてくる。しかし、いつも変わらずおられるイエス(
ヘブル13章8節)がともにいてくださり、そして共に歩んでくださるのだから、安心して忍耐を育もう。
忍耐の中に、舌の制御がある。きょうこのようにして聖書に親しみこの書を読んでいくのは、21節のみことばに信頼するからです。
「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
どうかこの者が25節のように、みことばを一心に見つめて離れず、忘れず実行する者でありますように。19,20節のように、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい」者であり、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れ」る者でありますように。父なる方がしてくださった「初穂」となった自分を欺くことのないように、「この道」をまっすぐ歩ませてくださいませ。
Every good and perfect gift is from above, coming down from the Father of the heavenly lights, who does not change like shifting shadows.
光を造られた神よ、栄光あれ。
「大いなる光を造られた方に。  その恵みはとこしえまで。」(詩篇136:7)

No.3866 2008/02/12(Tue) 18:21:43
申命記4章24節まで / 沙耶香 引用

今日は申命記4章24節までを読みます。

2節の
私があなたがたに命じることばに、付け加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなた方に命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。
が印象に残りました。

11節に
そこであなた方は近づいてきて、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗闇の暗黒とがあった。
とあるが、聖書では神様のことを雲などに例えていたことがあったと思うけれど・・・と思って脚注を見ると、意味不明なことが書いてあります。

12節の
主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。
が印象に残りました。

23節の
気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造る事のないようにしなさい。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章36―39節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、39節の
また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みません。「古い物は良い。」というのです。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
古い物のよさが分かる人になりたいですね・・・

No.3857 2008/02/09(Sat) 18:35:51

Re: 申命記4章24節まで / 大垣 引用

11節は出エジプト記20章1-21節の十戒授与のときの様子だと思います。

No.3859 2008/02/09(Sat) 22:25:17

再申命記4章24節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記4章24節までを読みます。

4節の
しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。
が印象に残りました。神、主に毎日どんなときもすがって生きる・・・イエス様はすがると底なし沼だ。人にはすがっても何も出ない。

6節に
これを守り行いなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼は、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。
とあるが、これを守りなさいのこれは十戒のことだろうか?

20節に
主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、御自分の所有の民とされた。
とあるが、これはどういう意味だろうか?と思って、横の注を見ると、鉄の炉のところに1・列・8・51、エレ11・4とあるので、開いてみます。
彼らは、貴方の民であり、あなたがエジプトから、すなわち鉄の炉の中から連れ出されたあなたご自身のものであるからです。
あっ、エレミア11・4のところの脚注に鉄の炉の説明があります。エジプトでの苦難の例えだそうです。
所有のところにも横の注があるので、見てみると、申命記7・6、9・29、14・2、26・18、32・9、出19;5、テト2・14、1ペテ2.9とあるので、開いてみます。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んで宝の民とされた。
しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とを持って連れ出された民です。」
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んで御自分の宝の民とされた。
きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、
主の割り当て分は御自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。
今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から購いだし、よいわざに熱心な御自分の民を、御自分のためにきよめるためでした。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、闇の中から、御自分の驚くべき光の中に招いて下さった方の素晴らしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
下の注を見ると、鉄の炉は激しく徹底した試練を表し、所有の民は神の相続分である民の意味だそうです。
うーん、総合すると、主はイスラエルの民を取って、激しい試練のエジプトから連れ出し、今日のように神の相続分である民とされたという意味かな?と思うのだが・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ6章1―5節を読みます
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、4節の
ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、共の者にも与えたではありませんか。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
安息日の規定は難しいですね・・・何もしてはならないのかと思ったら、そうでもなさそうだし・・・???

No.3863 2008/02/11(Mon) 22:35:21

Re: 申命記4章24節まで / 大垣 引用

6節の「これ」とは、5節の「おきてと定め」だと思いますが、これは、十戒だけでなく、十戒を中心とするモーセの律法全体をさすと思います。

20節は、沙耶香さんの書かれたような意味だと思います。

ルカ6章1-5節に関して、モーセの律法の安息日の規定をどう解釈したら良いのか、とても難しいと思います。「何もしてはならない」ということではないのは確かだと思います。

No.3865 2008/02/12(Tue) 18:20:23
へブル13章 / 大垣 引用

へブル13章。1-3節。兄弟愛をいつも持っていること。特に旅人や苦しんでいる人たちに対して。

4節。不品行と姦淫を避けること。

5―8節。金銭に頼らないこと。いま持っているもので満足し、主イエスに頼ること。イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつでも、同じです。だから困難なときもイエスを信頼して大丈夫。

9節。食物に気を取られないようにすること。

10-16節。モーセの律法でいけにえの動物のからだの一部が宿営の外で焼かれたように、イエスも門の外で苦しみを受けられた。僕たちも律法主義の宿営の外に出て、恵みのあふれているイエスのみもとに行きたい。僕たちはキリストを通して、賛美と恵みによる善行のいけにえを絶えずささげたい。

No.3861 2008/02/10(Sun) 20:40:30

Re: へブル13章 / 亜衣瑠 引用

ハンドブックにはこの章の見出しとして「慈愛あふれる勧告」とあり、「人生行路すべてにおいてキリストの従うようにとの優しい訴えで終っている」とある。確かにこの書は 初めて読んだとき、また2回目くらいまでは 個人的にとっつきにくい書であった。何か叱られているような、責められているような、そういう気分にさせられた。くりかえし読むうちに やはりこの見出しのように慈愛に満ちた勧めに感じられるようになった。特にこの13章の8節には 深くたましいの底に届く イエスのエキス、イエスそのものが滲んでいる。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」このみことばを胸に抱き毎日生きていきたい。

1,2節 「兄弟愛」「もてなし」イエスのことばを思い起こさせます。(マタイ25:37,38)

7節 「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」最終段階での結実がすべてを語る。マタイ7章16−20節を思います。「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」

8節「イエス・キリストは」イエスさまは、「きのうも」きのうも、「きょうも」きょうも、「いつまでも」永遠に、「同じです」嗚呼、そうなんですね。イエスさまは きょうこの日まで、確かに 信仰の父祖たちの時代から、いえそのずっと前から、そしてわたしの短い歴史の遡りにおいても、きょうこの日も、あの日のイエスさまである。きょう手にしている聖書に生きておられるイエスが きょうのわたしにも生きておられる。そして これからのどの日にもどの時代にもいつまでも愛のイエスが、愛を具現化したイエスがいてくださる。イエスは何一つ変わらず、いつまでも、いつ出会っても、同じ愛の神である。そのイエスの住まいは何処なのであろうか?そこで

14節「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
イエスの永遠に住まわれる都をわたしたちも求めています。そして、その永遠なる都はわたしたちの内にもあられます。それを思い

15節のように「すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」に応えたい。

20,21節はとても長い一文であるが、根幹となっているのは「平和の神が」「あなたがたを完全なものとしてくださいますように」との祈りであろう。18,19節では筆者は「祈ってください」とある。祈り、祈られることはイエスに信頼する者の幸福の証しだと思う。

21節参照箇所、関連箇所を見る。ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」?Tヨハネ3:22「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」

23節 この著者が兄弟テモテとかなり近しい間柄にあることを表している。

ヘブル書を書かれた著者に感謝します。書かせたお方に感謝します。

No.3862 2008/02/11(Mon) 20:12:03
へブル12章 / 大垣 引用

へブル12章。1節。信仰の道は孤独な長距離ランナーのようで、ゴールまで走りぬくには忍耐が必要である。まとわりついてくる罪との戦いの道でもある。

2節。走りぬくには、ゴールにおられるイエスから目を離さないことだけが必要だと思う。横からいろいろな嘘による罪の誘惑や、自分勝手な思い込みが邪魔をするが、横を見ないように、イエスから、目を離さないようにする。

3節。主イエスが罪人たちの反抗を忍ばれたことを思うとき、僕たちも元気を失わないで、忍ぶことができる。

4節。僕は罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがない。まず、自分の中の罪との戦いで神の訓練を受けて、成長したい。

5-8節。信仰による神の子であれば必ず試練にあう。訓練と思って耐え忍ぶこと。

9-10節。人間の不完全な愛であっても、愛をもって訓練してくれた父がいれば、なおさら、神の完全な愛からくる訓練を理解したい。

11節。神の懲らしめを受けるのは悲しいことだが、義の実を結ぶために必要な訓練であることを理解したい。

12-13節。試練にあって弱っている兄弟姉妹への愛の叱咤激励。

14-17節。聖められるためには、主にある兄弟姉妹がお互いによく監督することが大切。エサウはこの世の小さい楽しみに目を奪われて、主の永遠の祝福を軽く扱ってしまった。僕たちが、そのようなことをすることのないように。

18-25節。モーセが律法を与えられたシナイ山は恐ろしかった。しかし僕たちキリスト者は、シオンの山に近づく。そこは、生ける神の都、天にある新しいエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいている。今、語っておられるイエスを拒むことのないように注意したい。

28節。揺り動かされない御国を受けていることへの感謝の気持ちを持つときに、僕たちはイエスの恵みによって、神に喜ばれるように奉仕することができる。

29節。僕たちの神は焼き尽くす火です。恐ろしいことに、完全に聖なるお方です。そのようなお方に、聖くない僕もイエスの血によるきよめを信じて大胆に近づき、聖くしていただくことができることを感謝します。

No.3858 2008/02/09(Sat) 22:14:45

Re: へブル12章 / 亜衣瑠 引用

2節は 緒論においてこの書のテーマとされ掲げられている箇所。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

7節 「訓練と思って耐え忍びなさい。」なぜなら10節「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」
聖くなるために訓練が必要なのは 当然です。聖さとかけ離れていた者たちだったのですから。

11節 いま、受ける懲らしめを 喜びとは受け取らず、そのまま悲しく思って受け留めてしまいます。平安の義の実はいただきとうございます。平和の義の実を結びとうございます。主の訓練ならば喜んで。

12節「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」 はい。

13節「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。」はい。真理の道。

14節「すべての人との平和」すべての人 すべての人ですね。聖めてください。

16節 神のものとそうでないもの、見分ける正しい目をお与えください。

17節 エサウは古い契約の時代だったので、心を変えてもらう余地がありませんでした。しかし、わたしたちは新しい契約の時代の子であったので、ただ恵みにより、イエスさまにとりなしていただけます。そして、毎日のように、心を変えていただくことが可能です。求めて退けられません。

22節 近づいている天の大祝宴から遠ざかることのないよう この旅路を最後までお導きください。

23節 わたしたちはもはや天に登録されているのです。

24節 アベルの血との比較。創世記4:10を読む。復讐を求める旧約の求めを 新しいわたしたちは捨てなくてはならない。自分で報復、また神に報復を求めるのでもなく(創4:23,24)マタイ18:22の教えなのだ。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」ヘブル12:24の脚注に「アベルの血は、殺されたことが不当であることを訴え、報復を求めていたが、キリストの血は、罪人の罪を赦し、神に近付かせる道を開く」とある。クリスチャンの道は楽ですか?はい。とってもラクです。何故なら自分で道路を切り開かなくとも すでに行くべき道は前に用意されずっと続いているのですから、ただ辿っていけばいいんです。 それで、その道を辿るのはラクなんですか?クリスチャンの道は楽ですか?・・・・・・・神さま それは あなたからの大いなる挑戦、ときにあまりな辛酸を頂戴します。それさえ感謝します、ということはできます。しかし、備えの道を拒まず歩むことは いやしというよりは日々戦いの意識です。それはそうです。?Tペテロ5:8で現される悪魔のしぶとさ、知恵の巧みさは並みのものではない。
しかし、神のご判断が待っている。そして、わたしたちはただ、ただ神の裁きが下ること、その日、を待っている。なぜなら、そのときにすべてが明らかにされるのだから。

27,28節 永遠の神の国をすでに相続するとされた身分に感謝します。その主権であられる神さまに感謝します。 このみことばをくださる神さまに感謝します。 イエスの赦しを知らせてくださるみことばに感謝します。イエスさまを遣わしてくださった神に感謝します。イエスさまの十字架に感謝します。クリスチャンにしていただいてありがとうございます。

No.3860 2008/02/09(Sat) 22:26:02
申命記3章 / 沙耶香 引用

今日は申命記3章を読みます。

11節に
―バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。見よ。彼の寝台は鉄の寝台、それはアモン人のラバにあるではないか。その長さは、規準のキュビトで9キュビト、その幅は4キュビトである。―
とあるが、寝台とは寝床のことですよね?違うのかな?確認のために辞書引いたらベッドのことみたいだ。鉄のベッド??あるかもしれないなーーー。見たことないけれど・・・

14節に
マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との教会までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。
とあるが、ということはバシャンはハボテ・ヤイルと名前が変えられたのだろうか?ハボテ・ヤイルのところに横の注があるので、見てみると、民数記32章41節、士師記10章4節とあるので、開いてみます。
民数記32・41・・・
マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。
ヤイルが攻め取ったので、ハボテ・ヤイルと名づけたのだろうか?
士師記10・4・・・
彼には30人の息子がいて、30頭のロバに乗り、30の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。

あーー何だか聖書の御言葉が素通りしていく。もっともっと心と頭に残って欲しい。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章26―30節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、27,28節の
この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。
するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
レビは一番正しい選択をしたのですね・・・

No.3851 2008/02/07(Thu) 20:08:15

Re: 申命記3章 / 大垣 引用

民数記32:41の脚注によればハボテ・ヤイルとは「ヤイルの天幕集落」という意味なので、ヤイルが攻め取った村々に、彼の親族や仲間たちが天幕の集落を作ったのだろうと思います。

バシャンとハボテ・ヤイルはチェーン式聖書の後ろの「12部族に分割されたカナン」の地図のマナセの領地に描いてあります。これらの地はヨルダン川の東(地図の右)にあることが重要だと思います。約束のカナンの地はヨルダン川の西(地図の左)にあります。民数記32章でイスラエルの民が約束の地を目前にしていたとき、ルベン族とガド族とマナセの半部族は、約束の地ではないところに領地を持つことにしました。

No.3854 2008/02/08(Fri) 21:17:18

再申命記3章 / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記3章を読みます。

天のお父様神様イエス様どうかイエス様の御言葉が詰まっている聖書の言葉の意味を私に砕いて教えてください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

5節に
これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。
とあるが、かんぬきって何だろうか?と思って、辞書を引くと、扉を閉じる横木のことみたいだ。

24節の
「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示しはじめられました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。
が印象に残りました。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章31―35節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、31,32節の
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。
わたしは正しい人を招く為ではなく、罪人を招いて、悔い改めさせる為に来たのです。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
私たちも罪人だからこそイエス様が必要なのですよね。私たち人間罪人で弱くもろく最低で駄目でイエス様に比べると本当に何もないです。それをイエス様がたくさん補充してくださるから感謝します。

No.3855 2008/02/08(Fri) 22:06:09

Re: 申命記3章 / 沙耶香 引用

うーん、いろんな領地難しいですね・・・

No.3856 2008/02/08(Fri) 22:08:18
へブル11章 / 大垣 引用

へブル11章。信仰の章。1節。信仰は望んでいる事がらを保証する。僕たちが心の底から本当に望んでいることは、すべてイエスの再臨の後に神さまが実現されると信じます。しかし僕たちが望んでいると思っていることは、いろいろな本来の望みを混ぜ合わせてずらしてしまったもので、そういうずれた望みは、実現しないことがほとんどだと思う。信仰は目に見えないことを確信させるものです。神は目に見えないし、神が僕たちを愛されていること、全知全能の力を持っておられることも目に見えない。しかし、神にいただいた信仰によって、僕たちは目に見えない神が神であることを確信する。

2節。旧約聖書に記録のある多くの信仰の英雄たちのことを思います。へブル書の著者が僕の好きなヨブのことを書いていないことを残念に思います。

3節。神のことばであられるキリストがこの世界を造られた。子なる神としてのキリストは受肉されるまでは「ことば」であって、目に見えなかったが、目に見えるこの世界を造られた。

4節。アベルは信仰によって、カインよりもすぐれたいけにえをささげた。ルカ21章1-4節の貧しいやもめも、信仰によって、すぐれたささげものを神にささげた。僕たちが、献金するときも、時間をささげるときも、信仰によってすぐれたささげものをしたい。

5節。信仰によってエノクは神とともに歩んで喜ばれ、生きたまま天に移された(創世記21-24節)。?U列王記2章11節でエリヤがたつまきに乗って天へ上って行ったのも、エノクと同じように、生きたまま天に移されたのだろう。

6節。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。イスラエルの民がものごとがうまく行っているときには神を無視し、困難に陥ったときだけ神に頼って、だんだん、らせん状にひどい状態に陥っていくことを描いた士師記の最後の21章25節に「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」とある。僕たちが、せっかく信仰をいただいても、信仰によらず、自分の目に正しいと見えることを行うとき、人々の賞賛を得るようなことはできても、神に喜ばれる行いをすることはできない。自分の目に正しいと見えることをするよりも、まず、イエスの血によってきよめられたことを信じて、神の御前に出て、静かに神の指示を待つことが重要である。また、神がおられることを信じるだけでなく、神を求める者には報いてくださる方であることを信じることが大切である。

7節。ノアは信仰によって箱舟を造り、世の罪を定めたことに注目したい。

8-19節。特にアブラハムの信仰に注目したい。彼が約束された地に他国人のように住み、寄留人として天幕生活をしたことは、キリスト者が、すべてを相続する神の子とされながら、この世で他国人のように住み、寄留人であることに対応すると思う。アブラハムは約束の子のイサクをささげるようにという試みを受け、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と信じたので、イサクを手放すことができた。アブラハムは神を信じてイサクを手放したからこそ、本当の意味でイサクを子として取り戻すことができた。ヨハネ12章25節と同じ原理だと思う。神を信じてこの世の自分のいのちを手放す人は、本当の意味で、永遠のいのちを与えられる。

23-29節。モーセの信仰。特に、モーセがエジプトのパロの娘の子としてはかない罪の楽しみを受けるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったことが印象的。

31節。異邦人の遊女ラハブの信仰は、マタイ1:5で、キリストの先祖として名前があげられる名誉を受けるほどであった。

38節。この世は旧約聖書の信仰者たちにふさわしい所ではなかった。彼らは、生きている間に約束されたものを得なかった。神は彼らに、キリスト者と同じく、天国ですべて約束されたものを与えられる。

No.3852 2008/02/08(Fri) 08:19:27

Re: へブル11章 / 亜衣瑠 引用

ヘブル書を今ほど繰り返し読んでいないころ、1章1,2節の冒頭部分、と、11章に歴代信仰者が登場するところは期待を持って読んでいた。その信仰の章にまた出会う。

まず1節 暗唱したいところです。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
Now faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see.

3節 これも暗唱したいです。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
By faith we understand that the universe was formed at God’s command, so that what is seen was not made out of what was visible.
このみことばを聞き、読み、受けとめ、信じ、喜びます。ヨハネ1:1−3をもちろんかみしめています。見えるものが目に見えるものからできたのではない、とハッキリと言えること、確実に同意できることに感謝します。

4節 いよいよ信仰者歴伝の開始です。  カインとアベルのアベル。人類初めての殺人の犠牲となった人。神が良しとされ、喜ばれた捧げものを捧げた弟が兄に殺された。神の選び、神の選り分けにただ従うことができるか、わたしたちは常に挑戦を受け続けている。弟に嫉妬する兄という図がとても印象深く刻まれる。その捧げものが良いかどうかは神がご覧になってわかることである。ただそれだけだ。ただ神にささげ、という心があるかどうか、ということだけだ。それを証しされるのは神なのだ。自分たちではない。自分を自分で判断したり裁いたりすることは誰にもできない。

6節 わたしたちはもちろん、神に喜ばれる者でありたい。そのための条件は?「信仰」「信じること」「神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを」信じること。何とシンプルな何とわかりやすく純粋なことなのでしょう。ですから、きっとできると思います。神さまは わたしたちにできることを課される方ですから。

7節 ノアが好きです。ノアにあこがれ、ノアを見習いたい。ノアはわたしの手本です。その「従いのさま」が素敵であこがれるのです。簡単にまねできそうにないほどの従いなので手本に思います。どうか、わたしたちが 恐れを持って従いの信仰を現すものでありますように。

8節 ここにもすばらしい印象に残る大先輩が燦然と輝いています。アブラハム!この方のとんでもない従いは「どこに行くかを知らないで」出て行ったことです。参照箇所のひとつ使徒の7章ステパノの熱い説教の語り始めに登場するように、このアブラハムが神への従いの人でなければ、ことが始まらなかったのです。それを思うと、アブラハムへのお礼はイスラエル人ではないわたしたちも、当然、この上なく感謝する方です。これら諸先輩は ところが、13節のように「約束のものを手に入れることはありませんでした」しかし、信仰の大先輩たちは つづくことばにこうあります。「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」そして出て来た故郷に帰ることをせず(15節)
16節 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」 そうです、神さま わたしのあこがれも天上にあります。

次に興味深い「型」が示される。
ところで、アブラハムが神が約束してくださったとおりに授かったイサクを捧げようとしたとき、神の求めを聞いてから行動にするまでの時間はどうであったろうか?神の指定された場所に着くのに3日かかった。それで、イサクをいけにえにしようと決心するまで3日かかったか?というと、そうは思えない。創世記22章3節の「翌朝早く」アブラハムはもう「捧げの旅」を開始した。たきぎも用意して出かけた。覚悟の上で出かけたと思う。決して葛藤しながら進んでいったとは思えない。創22:8のアブラハムのせりふがすばらしいと思う。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」この神への信頼がわたしにも根付くようにしてください。

23節から 偉大なるリーダーとなったモーセが登場する。モーセがその人生において体験した「苦しみ」(25節)「そしり」(26節)「忍び」(27節)の大きさがどんなであったかを思う。モーセが見ていたものは この11章の最初に掲げられていたように「目に見えないもの」であったことのすばらしさ。 いまにつなげられ、いまに生きる 聖餐のルーツともいうべき過越しと血の注ぎの開始者。それは神の声に聞き従ったモーセがいてくださったから。

32節 「エフタ」がどんな人だったかを忘れているので復習。士師記11,12章を読む。ここは、脚注に書かれてもあるが、エフタよりもエフタの娘と言った方が適切なように思う。すさまじく悲しく強く哀れな信仰の現われ。初めて読んだ時の衝撃も甦るが、この娘の従順は神々しいまでである。それは、「お口に出されたとおりのことを私にしてください」ときっぱり言った後で、「私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです」といういのちの叫びを告白しているところに逆に感じるのです。
最後の瞬間危機一髪にイサクは手にかかることから救われる しかし、エフタの娘が捧げとなるとき、止められるものはなかった。しかし、それは正しいことと神が見なしてくださった。そして聖書にこのようにみことばとして名が記されている者となった。神がご判断なさった。

38節「―この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。」39節「約束されたものは得ませんでした。」それだけで終わるなら、信仰というのはとてもみじめな、見るも無残な、無縁でいたい、近づきたくないもの、あるいは逆に、これ見よがしの思わせぶりな犠牲の精神とカン違いされるかもしれない。しかし神さまは、さらにすぐれた場所へわたしたちを導きくださる方である。

No.3853 2008/02/08(Fri) 21:03:40
申命記2章残り / 沙耶香 引用

今日は申命記2章残りを読みます。

20節に
―そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。
とあるが、レファイムの国って何だろうと思って、横の注を見ると、申命記2章11節と創世記14章5節が載ってあるので、開いてみます。レファイムとはパレスチナの原住民らしい。巨人だそうです。

21節に
これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。
とあるが、主はザムズミム人を背が高かったので、根絶やしにされたのだろうか?

22節にも
それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住み着き、今日にいたっている。
とあるし、続く、23節にも
また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出てきたカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住み着いた。―
とあり、根絶やしがはやっているのですね・・・

27節に
「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。
とあるが、大路って大きい道のことかな?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章16―20節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると18節の
するとそこに、男達が、中風をわずらっている人を、床のままで運んできた。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様を救い主癒し主だと信じてこういう行動を取られたのだと思いますね・・・

No.3845 2008/02/05(Tue) 21:02:11

再申命記2章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記2章残りを読みます。

25節に
きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」
とあるが、わななくとはどういう意味だろうか?と思って辞書を引くと、恐れおののくことみたいだ。

30節の
しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼を貴方の手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。
が印象に残りました。

34節に
そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々―男、女および子供―を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。
とあるが、ひとりの生存者も残さなかったってすごいなーーー。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章21―25節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、24,25節の
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせる為に。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うーん、イエス様の御技は素晴らしいですね・・・本当に・・・私もいつか自分の体精神にきっとこういう素晴らしい御技を現して下さると信じて期待して感謝します。

No.3846 2008/02/06(Wed) 19:50:13

Re: 申命記2章残り / 大垣 引用

主はカナン人たちを根絶やしにするようにイスラエルの民に命じられました。これは、カナン人たちの偶像崇拝の罪のためだったと思います。彼らのこの世のいのちも主は大切に思われたと信じますが、さらに大切なことがあったということだと考えます。

21節で、レファイムの背の高さと根絶やしにされたこととは直接には関係がないと思います。背が高く、軍事的に優れていたので、おごりの罪がひどくなったというようなことはあるかもしれません。

大路とは、沙耶香さんの思われたとおり、大きい道のことです。

No.3849 2008/02/07(Thu) 00:50:28

Re: 申命記2章残り / 沙耶香 引用

>>21節で、レファイムの背の高さと根絶やしにされたこととは直接には関係がないと思います。背が高く、軍事的に優れていたので、おごりの罪がひどくなったというようなことはあるかもしれません。

背が高いと軍事的に優れているの??うーん???ま、ほかの人が見えない部分まで見えるというのはあるけれど、うん、でもある程度はそうかもしれないですね・・・

No.3850 2008/02/07(Thu) 09:08:24
へブル10章 / 大垣 引用

へブル10章。1-4節。モーセの律法による雄牛とやぎの血は、罪を完全に除くことができません。それで、かえって毎年の贖罪の日のささげ物によって、罪が思い出されます。

5-10節。キリストは、父なる神のみこころを行うためにこの世に人間としてこられた。このみこころによって、モーセの律法によるいけにえは廃止されて、キリストの贖罪が立てられた。

11-13節。キリストは一度だけ永遠のいけにえをささげられて、神の右の座に着かれ、父なる神がすべての敵をご自分の足台とされるのを待っておられる。

14節。僕たち信仰者は、キリストの1つのささげ物によって、永遠に全うされた。

15-18節。新しい契約では主は信仰者の心に律法を書かれた。モーセの契約では、イスラエル人は、血縁によって、神の民となった。神の民となるために、律法を知らないとなれないということはなかった。新しい契約では、キリストのことを読んだり誰かに聞いたりして、キリストのことを知って信仰を持ち、神の民とされる。

19節。キリストの血によって、汚れが洗い落とされたことを信じて、大胆に、ありのままの自分で、父なる神の御前に出たい。

20節。イエスの肉体は、幕屋で聖所と至聖所を分けた垂れ幕に対応し、イエスは僕たちに新しい生ける道を設けてくださった。

22節。イエスの聖い血によってきよめられたことを信じて、いつも神に近づいていきたい。

23-25節。迫害を受けても、しっかり希望を告白し、互いに主にある兄弟姉妹と励ましあいたい。

26-31節。イエスへの信仰を捨てようかという誘惑を受けている人たちへの厳しい警告。

32-39節。約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐である。そして、39節にあるような、警告の後の、確信に満ちた励まし。

No.3847 2008/02/07(Thu) 00:37:37

Re: へブル10章 / 亜衣瑠 引用

3節がなんとしても目に残る耳に残ることばだ。それはロマ書の響きと同じに聞こえる。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ロマ3:20)

4節「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」 実際そうであることを記したのであろうが、読み方によっては笑えるほどであり、またはその先に泣けてくるほどである。
1章前の9章でやぎと雄牛、あるいはやぎと子牛の血のことをさかんに言っている。やぎじゃないぞ、牛じゃないぞ、それじゃダメなんだ。あるひとつの、ある方の、何とそれはイエス・キリストという神の御子であられる方の血によってでなければできないことだった! それが わたしたち罪人を救おうとしてくださった父なる神のみこころであったとは!

10節 それゆえわたしたちはこうして、きょう、死なずにいのちにあずかっている。
「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」
このように神が保証してくださっている。それはイエスが保証してくださっている。いまやキリスト・イエスは神の右の座に着座しておられる。もう仕事を為し終えて着座しておられる。

20節 イエスの十字架 わたしたちは十字架を見上げる、十字架を仰ぎ見る。十字架のもとにひざまずく。そこから進むことができた。そしてすでに完了している。

22節「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
わたしたちは「きよめられ」「洗われた」者たちである。動揺は不要である。(23節)
恐れなくていい、しかし恐れるべきものがある、31節「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」

37節「もうしばらくすれば・・・」そうです、黙示録にも書いてあります。
「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示22:20)わたしたちが忘れてはならないもの、常にもっていなくてはいけないものは「忍耐」
「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(36節)
神さま、どうか、忍耐が苦手で、忍耐を放り投げ、放棄したくなりそうな誘惑にすぐかられる弱いわたしを助けてくださいませ。どうか、忍耐が必要なことをよく知り、実際に忍耐をし続けて、神さまの愛を映し出しあふれ出す者となっていきますように。どうぞわたしを造り変えてください。

No.3848 2008/02/07(Thu) 00:38:49
申命記2章19節まで / 沙耶香 引用

今日は申命記2章19節までを読みます。

天のお父様神様イエス様、どうかあなたの御言葉がすんなり頭に入ってきて心に響きますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

10節に
―そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。
とあるが、アナク人は背が高い人種だと言っているが、両親が背が高くても、背の低い子が生まれる可能性はあります。みなが背が高いとは限らないのではないんですかね?

12節に
ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。―
とあるが、何で、エサウの子孫はホリ人を追い払い根絶やしにしたのだろうか?何か恨みでもあったのだろうか?

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章6-10節を読みます。
天におられるお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、6,10節の
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網が破れそうになった。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこういわれた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
が気になるので、これをもう何度か読みます。
イエス様の言うとおりしていると、結局は勝利者になります。

No.3842 2008/02/03(Sun) 22:07:33

再申命記2章19節まで / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記2章19節までを読みます。

5節の
彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。
が印象に残りました。

9節に
主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いを仕掛けてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。
とあるが、アルって一体どこのことだろうか?と思って、横の注を見ると、申命記2章18,29節と民数記21章15,28節とイザヤ15章1節が関連箇所になっているので、覗いてみます。
申命記2章18節・・・「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。
あっ、アルってモアブ内にあるんだ・・・うん、全部見てみたが、やはりモアブの中にあるようだ。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章11-15節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、13節の
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
うん、私もイエス様の真理に触れているので、そのうち癒されると信じて期待して感謝します。

No.3844 2008/02/04(Mon) 17:27:07
申命記1章残り / 沙耶香 引用

今日は申命記1章残りを読みます。

27節に
そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。
とあるが、これは主の命令に逆らったので、主に報復を受けたのだろうか?

28節に
私たちはどこへ上っていくのか。私たちの身内の者たちは、「その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。」と言って、私たちの心をくじいた。」
とあるが、何で城壁が高く天にそびえているところでアナク人を見たら心をくじかれるのか?アナク人が城壁に隠れなかったからなのか?心をくじいたのところの横の注にヨシュア2の11とありますので、開いてみます。
ヨシュア2・11・・・
私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。
これと何の関連があるのだろうか?ますますわからなくなりますね・・・

33節の
主は、あなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んでいく道を示されるのだ。」
が印象に残りました。主はいつも私たちの進む道を示してくださいます。

今41節を読み終えたところだが、頭とお腹が痛くて何だか文章がなかなか入ってこない。もう一分張りだ。神様イエス様どうか力をお与えください。アーメン・・・
あーしかし痛い痛い・・・イエス様癒してください。

42節に
それで主は私に言われた。「彼らに言え。「上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。」」
とあるが、これはどういう意味だろうか?と思って脚注を見ても分からない。上ってはならない、戦ってはならないとしているのに、敵に打ち負かされてはならないとなっている。うーん??どうなっているのだろうか?

43節に
私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に上っていった。
とあるが、不遜とはどういう意味だろうか?と思って、辞書を引くと思い上がりという意味みたいだ。

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ4章40-44節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいると、40節の
日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れてきた。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
が気になるので、これをもう何度か読みます。
やはりさすがの癒し主イエス様ですね・・・

No.3831 2008/02/01(Fri) 20:47:34

Re: 申命記1章残り / 大垣 引用

27節で出てくる「つぶやく」という言葉は、聖書では、不平不満を言う、という意味で出てくることが多いです。27-28節はイスラエルの民が主を信頼せずに、カナンの地に攻め入らなかったとき(民数記13章)に、イスラエルの民が不信仰から持っていた不平不満の気持ちを書いています。

No.3833 2008/02/02(Sat) 00:39:10

再申命記1章残り / 沙耶香 引用

今日はもう一度申命記1章残りを読みます。

痛いです・・・でもきっともうすぐある宗教合宿にイエス様行かせて下さると信じて期待して感謝します。

29節に
それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。
とありますが、本当に恐れないといけないのは主だけですね・・・

31節に
また、荒野では、あなたがたがこのところに来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのをみているのだ。
とあるが、これはどういう意味だろうか?人がその子を抱くように・・・その子ってどの子??

35節に
「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見るものは、ひとりもいない。
とあるが、良い地ってカナンの地のことかな?

37節に
主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。
とあるが、このあなたというのはエフネの子カレブだろうか?そことはカナンの地のことだろうか?
なんせ、文章のつながりが全く分からないので、よく読み取れない。神様イエス様どうか、聖書の御言葉の意味がすんなり入ってきますように。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・

・・・癒しに通じる読み方・・・
今日はルカ5章1-5節を読みます。
天のお父様神様イエス様どうか今から読む聖書の聖句からイエス様の語られるべきお言葉をお語りください。イエス様の尊い御名によってお祈りいたします。アーメン・・・
何度か読んでいたが、一つに絞れなかったので、もう全体を何度か読みます。
イエス様は湖でも、行き先案内人=船頭の役目を果たしてくださいましょう。

No.3838 2008/02/02(Sat) 22:18:17

Re: 申命記1章残り / 大垣 引用

チェーン式の聖書の申命記の梗概を見てみてください。1章6節から4章40節までは、モーセの第一の説教とあり、4章44節から26章19節までは、モーセの第二の説教とあるのを確認してください。これら2つの説教は、約束の地を目前にして、自分がもうすぐ死ぬことを知って、モーセがイスラエルの民に語っています。だから、基本的には「私」とはモーセ、「あなたがた」とは、イスラエルの民です。また「良い地」、「そこ」などは、基本的に、イスラエルの民の目前にある約束のカナンの地のことです。

37節の最初の「あなたがた」と「私」が誰か、これで分かると思います。37節では、主がモーセに言われたことが、「あなたも」で始まります。だからこの「あなた」とは、モーセのことです。「そこ」はカナンの地です。ここは、民数記20章7-12節で、主がモーセが犯した罪のために、モーセをカナンの地に入れないようにされることを言われたところを、モーセが説明しています。

No.3840 2008/02/03(Sun) 21:07:28

Re: 申命記1章残り / 沙耶香 引用

>>チェーン式の聖書の申命記の梗概を見てみてください。1章6節から4章40節までは、モーセの第一の説教とあり、4章44節から26章19節までは、モーセの第二の説教とあるのを確認してください。

うん、確認しました。

>>民数記20章7-12節

うん、読みました。

うーん、でもしかしつながりが難しくて分かりづらい。

No.3843 2008/02/04(Mon) 08:57:41
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