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一瞬の虹色、永遠の灰色/2 (No.617 への返信) - アズミ

 安曇が理小路細の住むビルに到着したのは、宮野川とほぼ同時だった。

「安曇先輩、すいませんこんな時間に」
「いい。理小路は?」
「あ、さ、3階です」

 聊か困惑の色合いの強い宮野川に対して、安曇は果断だった。
 挨拶もそこそこに理小路の住む階を聞くと、非常階段に回り上り始める。
 その歩調は駆け足、と表現して構わないほど早いのだが、同時に奇妙なリズムを刻んでいた。
 両足を揃えたかと思えば左足を踏み出し、また両足を揃えたかと思えば右脚を踏み出す。見ているだけで足がもつれそうな足運びである。

「ゆっくりついてきて」

 安曇はもたついている宮野川を見て取ると、踊り場でそう言い放って再び階段を上り始めた。
 そもそも階段など上らずとも、正面から自動ドアを潜ればエレベーターがある。そちらで先回りしようか……と逡巡するものの。

「……、なんだろう」

 自動ドアを覗き込んだ瞬間、胃の底を引っ張られるような嫌な感覚を覚えて、やめた。
 時刻は真夜中。昼間のうだるような暑さは幾分和らいでいたが、エアコンの室外機が吐き出す熱気混じりの生温かい外気が肌に絡みついて不快極まりない。
 まるで見えない妖怪に吐息をかけられているようだ……と思わず想像してしまい、身震いした。
 同時に、安曇の妙に急いた様子を訝る。
 宮野川は、あくまで『念の為』程度の認識で此処に来た。嫌な予感はするのだが、逆に言えば根拠はそれだけだ。安曇に相談した時も、一笑に付されることを覚悟の上だった。
 だが、二つ返事で安曇は来た。そして、何かの確信を持って一直線に理小路の部屋を目指している。
 嫌な予感が、強くなった。

「安曇先輩、何か――――」

 3階で追いついた安曇の背に問おうとして、どう問うたものか言葉に詰まる。

「――――何か、マズいことが起きてるんですか?」

 刹那の逡巡の後、宮野川の口を突いたのはそれだった。

「マズいことが起きている」

 安曇は鸚鵡返しにそう答える。
 ふざけているのか、と思ったが、覗き込むとその表情は渋いものだった。
 自分で口に出した言葉を、改めて噛み砕きながら思考を巡らせている。そんな顔。

「郵便受けを見たかい?」
「郵便受け?」

 記憶を探る。自動ドアを覗き込んだ時に、視界には入ったはずだが。

「中身が溢れてた」
「あ」

 そうだ。そう言われてみれば確かに、どの郵便受けも中身がはみ出していた。
 案外ズボラな理小路はチラシの類を放置するため珍しいことではないのだが、1、2階はテナントで、それぞれ事業所が入っている。郵便受けを放置するというのは聊か考えにくい。

「こんな真夜中なのに全部の階でエアコンが動いてるのも妙だ。あと……」
「あと?」
「エレベーターが2階で点滅してた」
「……?」

 何がおかしいのか、理解しかねて眉をひそめる。
 点滅。2階で、止まっている……?

「まだ点滅してる」

 安曇が指し示す先。3階のエレベーターは、確かにまだ2階で点滅している。
 そこでようやく理解した。“2階が待機階になっている”のではない、“2階に到着したまま動かない”のだ。

「…………、それは」

 背筋が冷えた。
 不意に、怪談の中に紛れ込んでしまったような、そんな感覚。
 いずれもたまたま、とは考えられる。
 たとえば郵便物。
 1、2階の事業所をよく知っているわけではない。宮野川が知らない間に潰れてしまったのかもしれない。あるいは、郵便物を放置するようないいかげんな企業だってあるかもしれない。
 エアコンやエレベーターもそうだ。
 2階の人が乗るのにもたついてずっとドアを開けているだけかもしれない。時刻は真夜中だが、業種によっては深夜残業だってあるだろう。

 ありないことでは、ない――――

(――――わけが、あるものか)

 宮野川は心中で吐き捨てる。
 一つだけならたまたまで済む異状も、二つ、三つと重なれば確固たる異常となる。
 原因はわからない。何が起きているのかはわからない。
 だが、断片的な結果だけが提示されている。
 何か、マズいことが起きている。
 安曇は神妙な足取りで、3階の通路に踏み込んだ。

「エレベーターを避けたのは念の為だ。非常階段を反閇(ヘンパイ)で祓いながら進んできたのも念の為」

 反閇、という名前には聞き覚えがあった。何かのワイドショーで見た気がする。素人でも出来る、魔除けの歩き方。妖怪と人が共存するこんな時代には、そんなオカルトも防犯テクニックとして広く紹介される。

「アテになるんですか?」
「熊避けの鈴ぐらいには」

 つまるところ、人食い熊には役に立たない程度。上手い表現だが、褒める気にはなれなかった。
 このビルの何処かに。明確に敵意を持つ何者かがいたとしたら。
 その時は――。

「行くよ」

 生唾を飲み込んだ宮野川を、安曇が促して進む。
 ちかちかと明滅する蛍光灯の灯りの下、実距離にしてたった10m足らずであろう距離をたっぷり5分はかけて進み、二人は理小路宅のドアに辿り着いた。
 宮野川が恐る恐る、インターフォンを押す。

「理小路」

 我知らず震える声で、宮野川は呼び掛ける。
 インターフォンにも呼びかけにも、応答は無し。
 安曇はそこまでで宮野川を下がらせると、片手に持っていたペットボトルの水をその場にぶちまけた。
 何をするのか宮野川が訝る前に、水が動いた。
 手も触れていない、風も吹いていない水溜まりの水が、波立ったのだ。そのままそれ自体が知性を持つ生物のように床を這うと、古びた鉄のドアの下を潜って部屋の中に入る。

「妖術、ですか?」

「こういう使い方が出来る、っていうのは秘密で頼むよ」

 水を操る妖術。さほどパワーは無さそうなのでこの妖術自体には違法性は無いのだろうが、行為はれっきとした不法侵入である。在り合わせの道具でピッキング行為をするようなものだ。
 程なく、シリンダー錠が回るがちゃり、という音が響いた。
 躊躇う宮野川を制して、安曇が取っ手を回し、ドアを開け放った。

 びゅう、と。部屋の中に向けて一陣、風が吹いた。
 理小路の部屋は相変わらず肌寒いほどの冷気で満ち満ちていた。気圧差で、生温い外気が中に流れ込んだのだ。
 眼球を撫ぜる冷やかな風に思わず目を窄め、そして――――

「な――――」

 宮野川は、絶句した。

 灰色だった。
 部屋の総てが、灰色だった。
 床、壁、天井。机、エアコン、冷蔵庫。脱ぎ散らかされたパジャマまで。
 総てが、塗り潰されたように灰色。

「理小路!」

 安曇の声にようやく我に帰り、それがディスプレイから漏れ出る光に照らされたが故だと気付く。

「宮野川、灯りを」
「あ、はい!」

 言われて、慌てて壁を弄る。果たして、いつも通り電気は点いた。
 そこにあるのは、いつも通りの冷ややかな雪女の部屋。
 いや、いつもの部屋とは相違点が二つ。
 一つは、部屋の主たる理小路細が不在であること。
 もう一つは。

「…………これは」

 灰色に染まった無人の部屋の真ん中で、ディスプレイに表示されていた、あのスレッド。

 ――私は、灰色になった。


[No.618] 2015/02/02(Mon) 22:43:47

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