第6回リトバス草SS大会(仮) - 主催 - 2008/03/26(Wed) 23:51:21 [No.201] |
└ 頭が春 - ひみつ@ちこく - 2008/03/29(Sat) 04:38:49 [No.213] |
└ それはとても小さな春 - ひみつ 甘@遅刻はしたけど間(ry - 2008/03/29(Sat) 02:03:12 [No.212] |
└ 春秋 - ひみつ@遅刻 - 2008/03/28(Fri) 23:46:30 [No.211] |
└ 葉留佳の春の悲劇 - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 23:27:42 [No.210] |
└ 最後の課題 - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 22:05:49 [No.209] |
└ ほんの小さな息抜き - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 21:58:39 [No.208] |
└ 宴はいつまでも - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 21:57:58 [No.207] |
└ はなさかきょうすけ - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 21:57:57 [No.206] |
└ 春の寧日 - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 21:56:39 [No.205] |
└ 春の朝 - ひみつ - 2008/03/28(Fri) 17:14:22 [No.204] |
└ 少年、春を探しに行け。 - ひみつ - 2008/03/27(Thu) 21:20:32 [No.203] |
└ 感想ログとか次回とかー - 主催 - 2008/03/30(Sun) 01:35:31 [No.216] |
耳鳴りがまた聞こえる。ざわめきの絶えて静まり返った一瞬に、高く澄み切って耳に響いてくる、しんとした、音とも言えない音だ。幻聴ではなくて、健常の耳ならば静寂のうちに自然と聞く、生理的な耳鳴りであるらしい。気付かないときにはまるで気付かない。しかしふとした拍子に一度聞いてしまえば、どこまでも執拗に、物音の隙間から甲高く、張り詰めて鳴る。それが最近では、耳の奥で殆どどよめくように響く。 外廊下を走る音がどたどたとしたかと思うと、鈴が「ただいまー」と玄関を開けて走り込んできた。玄関から風が吹き込んで、元々開け放たれていた窓から勢いよく抜けた。鈴の手には缶のカルピスが二本収まっていた。一本くれるのかと思いきや、まだガムテープで封のされたままの段ボール箱の上に二本とも乱暴に置いた。なんだか不機嫌そうだ。立ち上がってカルピスに手を伸ばしながら、ずいぶん時間かかったね、と理樹が言おうとすると、言う前に視線で意図が伝わってしまったらしくて鈴はぽつりと呟いた。 「迷った」 「え? 本当に?」 「本当に」 「えーと、どうやって?」 「うっさい。どうやってかなんて知るか」 荷物の整理の最中、喉が渇いたから来るとき見かけた自販機でジュース買ってくる、理樹も来るか、と言った鈴に、鈴一人だと迷っちゃうから一緒に行くよ、と冗談で返したら、迷うかぼけーっ!と物凄い勢いで反論された。そのことを証明すべく鈴は一人で出かけた。三十分前のことだ。鈴の言う自動販売機は理樹も行きに目にとめていた。家の目の前にあるも同然の自販機で、道中で迷うなど常人には不可能に近い。さすがは方向音痴の鈴だった。 理樹がカルピスを開けて飲み出したところで鈴が言った。 「そうそう、天気よかったぞ。こんなとこで荷物の片付けしてる場合じゃない。出かけよう」 「ええー」 引っ越してきて僅かに二時間が経過しただけである。開封していない段ボール箱が、山積みとは言わないまでもまだまだたくさんあって、六畳の洋室を埋めていた。今夜寝る場所にすら困っているところだ。出かける暇なんてあるものかと思いながら、缶を床に置いて窓から外を覗いた。 確かに鈴の言うとおり、雲一つなく晴れ渡った空だ。 真昼の陽光に満ちて白く輝き、殆ど透明なように遥々と広がって、しかし一面に見渡せばどこまでも深い青だけを湛えて静まっていた。いつの間にか理樹の背中に張り付いていた鈴が、「ほら、いい天気だろ?」と肩越しに言った。窓から射すのはまるで夏のような陽だが、時折吹き渡る突風で季節は春と知れた。 「でも部屋の中はこんなだよ?」 理樹の言葉に鈴が部屋を改めて見渡した。理樹も続けて同じようにした。壁際に段ボール箱が計七個、三段に積まれ、蓋を開けたはいいが中身はまだ入ったままの箱がその手前に二つ投げ出され、直径が三十センチ以上あるに違いない黒い銅製のキャセロールが重々しく床に放置されたその脇に、空っぽの箱が二つほど転がっている。ふすまが閉めてあってさしあたり見えないが、隣の四畳の和室には衣類と寝具が未だ収納場所も定まらず積み上げられたままだ。高校の寮からの引っ越しで家具は皆無だし日用品もだいぶ少ないはずなのに、どうしてこんなに荷物が膨大になっているのか、引っ越しの当事者たる二人にもよくわかっていなかった。 「片付け飽きた」と鈴が不満げに言った。 「まあ同感ではあるけど」 「桜を見に行こう」 「それはまた唐突な提案だね」 「いい考えだろ?」 「後学のために聞いておきたいんだけど、どうしてそこで突然桜が出てくるの?」 「春だからに決まってる」と腕を組んで言った。そのとき窓から吹き込んだ春の風に、長い髪がふわりと浮いて背に流れた。自らの重みで流れ落ちながら、蛍光灯の光の中で青いように艶めいた。 春だから桜とはまた随分と単純な発想だ。満開の桜を見てみたい、とはしかし理樹も確かに思った。白い花びらが天蓋を一面に覆い、四方も視界の果てまで花だけが続く、そんな美しい桜の森を想像する。暖かい空気にざわめくように咲き出して、鮮やかな桜色に爛漫と冴え返り、吹きつのる突風を受けて枝を涼やかに鳴らしながら、霧めいて淡い雨の中でやがて静かな赤に照って散る。よく考えたら、今年はまだ桜を見ていない。 「千鳥ヶ淵かなあ」 我ながら平凡な結論だった。 「なんだそれ」 「桜で有名な場所。皇居の濠、なのかな。僕も詳しくはないんだけど」 「桜あるのか」 「濠に沿ってずらーって並んでる。テレビで見た限りは」 「つまり理樹もよく知らないんだな」 「そういうこと」 結局鈴の提案に乗って桜を見に出かけることにしてしまったのは、新しく住むことになった東京という土地を見て回りたい気持ちが少しあったからかもしれない。ひと月前に受験でやって来たときにはそんな余裕はなかったし、後一週間もすれば大学が始まって、ゆっくりとどこかへ出かける暇はやはりなくなる。だから今のうちに遊びに行こう、と鈴の提案は、それなりに理にかなってはいた。 家を出て、黄色の花の植木鉢を店先はおろか歩道にまでずらりと並べた花屋の前を通り過ぎて、横断歩道を渡ってから小さな路地に入り込んで、でもすぐに大通りに出て、しばらく道なりに行けば都営新宿線の大島駅に到着する。天井の低い地下鉄の駅だった。その低さの内側に、地鳴りを深くこもらせるような圧迫感が時折凝った。休日だというのにホームにひとはあまりいなかった。ホームの真ん中にはひとの身長よりも高い大きな路線図が立っていて、赤や緑や水色や紫の鮮やかなラインが曲がりくねりながら交わって、複雑でカラフルな模様を形作っていた。しばらくその模様に見入っていた鈴が不意に理樹のほうを振り返って訊いた。 「これ全部地下鉄なのか」 「たぶん」 「東京はこんないっぱい地下鉄あるのか。地面穴だらけだな。陥没とかしないといいな」などと呟きながらまた路線図に視線をやり、大島、西大島、住吉、菊川、森下、と新宿線の緑を順に指でなぞって終点の新宿に辿り着くと、「どこで下りるんだ?」と言う。 「九段下だと思う」 「なんだ思うって」 「いや、千鳥ヶ淵がどこにあるのかは正直よくわからないんだけど、皇居なら九段下で下りれば間違いないんじゃないかなと」 せめてネットが繋がっていれば千鳥ヶ淵の最寄り駅を調べられたし、それ以前にもっと近場の桜の名所を探すこともできたはずなのだが、今はまだネットどころかパソコンそのものがなかった。今度買いに行こうと思ったところでアナウンスが聞こえ、暖かな風が舞い上がり、銀の下地に浅い緑の引かれた車体が轟音を響かせてホームに滑り込んできた。乗り込んで長い座席の端っこに並んで座ると、がたん、と大きくひと揺れして発車した。ひとも数えるほどしか乗っておらずがらんとした感じの車内を見回して鈴が言った。 「地下鉄って狭苦しいな」 「確かに」 返事をしてから理樹はちょっと考え込んで、「でも」と言った。 「なんだか静かでいい感じもするな。落ち着くよ」 地上の喧騒を離れ、地の底をゆるりと這う電車に乗って、その一時だけは地上の何もかもを忘却したとでも言うような、無窮の静かさを車輪の音の果てに感じながら進む、そんな感覚だった。うーん?と鈴が首を傾げた。黙り込んだまま車窓の外の灰色とも黒ともつかぬ奇妙な色の後ろに流れていくのへ視線をやり、白い明かりの眩しく溜まる天井を見上げ、「まあそうかもしれないな。がたごといってるだけだしな」と言った。わけわからん、と返されると思っていた理樹にはその返事が少し意外で、思わず鈴のことをまじまじと見つめてしまった。 「なんだひとの顔じろじろ見て」 そう言って自分の髪を掴んで振り回し、ぺしぺしぺしと理樹の顔を叩いた。痛いというよりくすぐったかった。それから「それにしても帰ってから荷物片付けるの面倒だ」と話題を転じた。 「そこは頑張らないと、明日から生活できないよ」 「いや、半年くらいかけてゆっくり片付ければいいだろ」 「えー」 「でも理樹が頑張りたいって言うならとめないぞ。むしろすすんで応援してやる」 「応援じゃなくて手伝ってね」 電車が速度をゆっくりと緩め始めた。もうすぐ次の西大島に到着するのかもしれないと思った。不満げな声を上げる鈴を無視して、身を乗り出すように車内を改めて見渡した。車両と車両を隔てる扉は全部開け放たれていて、最後尾の車両まで過剰な遠近法の作用でまっすぐに見通せた。ひとは一人もいなかった。一定の間隔で天井にぶら下がった一つも同じもののない中吊り広告が、視界の奥へ行くにつれて小さくなりながら、赤や水色の背景や、黄色やオレンジの文字をゆらゆらと揺らしていた。 静かだった。外は相変わらず熱い陽射しの絶え間なく注ぐ晴天だ。傾きかかった瓦屋根の並ぶ下町めいた町並みが車窓を流れていた。遠くで花を燦爛と咲かせているのはこれから見に行くはずの桜の樹だった。天井の電灯が羽虫の飛ぶような音をたてて、途切れてはまた付くことを繰り返した。そのたびに車内は白い光でいっぱいになった。空の青を背景に線路の脇に立つ大きな三本の糸杉の、黒々とした影が地面にくっきりと刻まれているのが見えた。その影の中を通過する一瞬に窓からは夜のような暗さが射し込んだ。糸杉の幹の影に見知ったひとを見たように思った。どうしてこんなところに恭介がいるのか、理樹にはそれが不思議でならなかった。死んだひとが現れるなんて、まるで眠っているようじゃないかと思った。深い深い眠りの中で、かなわない夢を見てるみたいじゃないかと思った。 夢? はっとして目を見開くと、鈴の顔がすぐ近くにあった。 「おはよう」 「あ、うん。おはよう」 「動けるか?」 「大丈夫」 ホームの小さな椅子にぐったりと沈み込む体を起こした。ナルコレプシーで眠り込んだときに特有の、倦怠の中に軽躁のようですらある爽やかさの入り混じった目覚めだった。変な夢を見たはずだけど、既に霧散していて内容は思い出せなかった。灰色の天井を見上げた。線路の向こう側のパネルには黒い文字で新宿とあった。その二文字を呆然と眺めていると、「西大島の手前で寝ちゃって、九段下通り過ぎても起きなくて、新宿に着いた」と鈴が説明してくれた。 理樹は心の中で溜息を吐き出した。 強烈な無力感を覚えるのはこんなときだ。ナルコレプシーに襲われれば、どんな決意も行動も物語も瞬く間に中断される。僅かな抗いすらなしえずに理樹は濃く差しつのる眠気に飲まれて昏々と眠る。幼児のように深く熱っぽい、端正なほどの眠りだ。そうして辿り着くこともできなかった九段下を、千鳥ヶ淵を思った。理樹は振り返って訊いた。 「ええと、どうやって電車降りたの?」 「駅員のひとに手伝ってもらった。寝てるだけだって言っても聞かなくて、救急車呼ばれそうになったんだぞ」 それから鈴は、理樹が何か言う前に「それより理樹に残念なお知らせがある」と切羽詰ったような表情で続けた。 「桜、咲いてないらしい」 「え?」 「九段下に戻るのも面倒だから、新宿に桜見れる場所ないか駅員のひとに聞いたら、新宿なんとかって公園があるけどたぶんまだ全然咲いてないって言われた」 「ああ」と理樹は眩暈を感じながら言った。「そういえば、東京って結構北にあるんだった……」 日本地図をうねるようにして分断する桜前線の図を思い浮かべた。ひとの歩くほどの速度で、ゆるやかに北上すると聞く。しかしこの時期ではまだ本州の南くらいまでしか来ていないはずだ。東京の桜はまったく咲いていないか、開花した直後で咲いていないに等しいかのどちらかだろう。会話が途切れ、京王線の橋本行きの急行が到着し、ホームで待っていたひとたちを残らず乗せてまた発車する頃になってようやく鈴が口を開いた。 「千鳥ヶ淵とか新宿なんとかに今行っても駄目ってことか?」 「うん」 再び沈黙が下りた。かと思ったら鈴が突然爆発した。 「黙れぼけーっ! 時期も考えずに桜見に行こうとか言い出した馬鹿はどこの誰だとか言うなーっ!」 「言ってない! 言ってないよ! 首が! 首が!」 襟元を締め上げられ、首をがくがくとゆすぶられて、なんだか再び意識が朦朧としかける気すらした。三十秒ほども続いたところでやっと解放された。鈴はしばらく不貞腐れるように下を向いていたが、いいことを思い付いたというふうに顔を上げると、理樹の肘を掴んで「まあせっかく新宿に来たんだしその辺歩いてみよう」と提案した。返事する暇すら貰えず、鈴に引きずられるままにエスカレーターに乗った。その途中で理樹は不意にあることに思い至って「ひょっとして気を使ってくれてる?」と訊いた。 「ん? どうしてだ?」 「いや、新宿に来ちゃったのは僕のせいで、だからせめてそのことが無駄にならないようにとかなんとか、そんな感じのことを思ってくれたのかなと」 「何言ってるのかさっぱりわからん」 本当になんのことだかわからないという口振りだった。 「でもまあ理樹、落ち込むな。元気出せ」 その言葉が本当にありがたくて、理樹は思わず深々と頷いた。「変な理樹」と鈴がそれを見て笑った。エスカレーターが途切れると改札はすぐそこだった。財布から小銭を取り出そうとしたけれど、制止する暇もなく鈴が駆け出して自動改札に切符を入れた。高い電子音と共に二枚の板に通行を思い切り妨害され、「ふかーっ!」と改札機に向かって威嚇していた。この上なく間抜けな光景だ。しょんぼりとして戻ってきた鈴に小銭を渡して言った。 「大変だったね」 「うっさい!」 九段下から新宿までのぶんを精算して改札を出た。新宿駅の構造がよくわからないのでとりあえずまっすぐ進むことにした。緩やかな上りの勾配になったショッピングモールを抜けて四つ角にさしかかって、右に折れるとJRと京王線の改札に出た。こっちは出口じゃないのかなあと思っていたら右手に短い階段があった。登ると片側に店舗の並ぶ狭くて天井の低い連絡通路に通じた。通路の先には地上への階段が伸びていて、ゆっくりと半分ほどまで登ったところで、真昼の青空の光が目に眩しく雪崩れ込んできた。 これまで絶えていた喧騒が、ざわり、と急に聞こえ出したのはその明るさの中でのことだ。ざわざわとした話し声が遠くから湧き上がるように耳に届いた。歌詞の聞き取れない洋楽が後ろで響いた。あらゆる方向から近付いては離れる無数の足音、吹きしきる突風の音、罅割れたアナウンスが、混ざり合って波のように押し寄せてきた。二人で階段を最後まで登り、春の陽光の中へ足を踏み出した。その瞬間、新宿駅前の風景がいっぱいに広がった。出口の前の幅の広い歩道は大勢のひとで溢れ返っていた。隙間なく建ち並ぶビルの群れが遠くの空の下に見え、その手前の通りを何台もの車が、低いエンジン音を響かせて引っ切りなしに右から左へ流れた。左側に建つ一番高いビルは斜めに重なる骨組みを曝した硝子張りだった。空の深い青の中へまるで聖堂の尖塔か大樹の梢のように突き出して、陽射しを浴びて輝くその透明さを理樹はとても綺麗だと思った。どこかで信号が青になったのか、数え切れないくらいのひとたちが賑やかなざわめきと共に右の歩道から歩いてきた。駅の構内や空中に巡らされた回廊からも、途切れることなくひとが現れては別の方向に消えていった。隣に立つ鈴は物珍しげにきょろきょろと辺りを見回して忙しそうだ。 「で、どこに行くの?」 「わからん。理樹が決めてくれ」 「いや、新宿歩き回ろうって言ったのは鈴だから鈴が決めてよ」 「うー」 鈴は困ったように左右を見た。やがて何か気になるものでも見つけたか、右手を背伸びするように見通して「よし、じゃああっちだ!」と言い、理樹の手を引っ張って歩き出した。「どこに向かってるの?」と訊ねると「あたしにもよくわからん」と返された。どこにも到着しない予感がひしひしとしたけれど、鈴と歩いていればそれだけでも楽しいだろうから別にいいかと思い直して、理樹は鈴の手を握り返した。 [No.205] 2008/03/28(Fri) 21:56:39 |
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