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No.746へ返信

all 第21回作品への感想や投票やその他 - 主催 - 2008/11/13(Thu) 00:17:25 [No.685]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - uma - 2008/11/18(Tue) 23:09:41 [No.715]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - 大谷 - 2008/11/19(Wed) 14:16:44 [No.716]
とても長いですが… - uma - 2008/11/23(Sun) 21:57:25 [No.717]
Re: とても長いですが… - 大谷 - 2008/11/25(Tue) 20:50:25 [No.719]
やっぱりとても長いですが…! - uma - 2008/11/29(Sat) 04:00:00 [No.746]
Re: やっぱりとても長いですが…! - 大谷 - 2008/11/29(Sat) 12:06:11 [No.747]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - ぶりかま - 2008/11/16(Sun) 23:49:24 [No.713]
前半戦ログ - ― - 2008/11/16(Sun) 01:43:54 [No.710]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - 蒼風 - 2008/11/15(Sat) 23:13:05 [No.708]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - uma - 2008/11/15(Sat) 15:45:04 [No.706]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - Foolis - 2008/11/15(Sat) 06:48:07 [No.705]
追記 - Foolis - 2008/11/15(Sat) 16:16:08 [No.707]


やっぱりとても長いですが…! (No.719 への返信) - uma

前回、こちらこそお返事ありがとうございました。
かえすがえすも申し訳ないです…あれだけ書いたのにどうやら私は基本的に言葉が足りないようで…。
しかもまたも遅くなってしまい申し訳ありません…!
まずは整理しまして、「あからさまな矛盾」と「作品の批評と書く事への批判とを分ける理由」と「不条理な小説(ゲーム)」として三つに分けて話を進めたいと思います。前回の妥協点に関しては、大谷氏さえそれでよろしければ、こちらとしても異論はありません。

まずは、瑣末な問題ではありますが、今まで一応、「二次である事」を大前提として論じてきましたので、その辺を先に解決しておきます。

最初に、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」が「特定の個人の思想的限定」にあたるのでは、というご意見ですが、この言葉以前に、「二次を創作するにはその矛盾と葛藤を受け入れる必要があり」としている通り、「二次を書く事は、二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れる事を必然とする」という図式を作っています。よって「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」は、言わば前置きを再度念押し強調したようなもので、二次を書く上での「特定の個人の思想的限定」にはなり得ず、理論上は矛盾しません。
「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」=「二次創作を肯定してさえいるなら」と単純に置き換えて頂ければよろしいかと。逆に、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れない」=「二次書きたくも読みたくもない」という意味合いを持たせているつもりでしたが、どうやら書き方が紛らわしかったらしく、いらぬ混乱を招いてしまったようです。もっと単純に、「二次を書きたい」と思っているなら、書く事は許されるべきでは?という風に書くべきだったかもしれません。
が、その一方、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」を二次を書く上での「特定の個人の思想的限定」にあたるとお考えになった経緯には興味がありましたので、ちょっとだけ考察を。取り敢えず三つほど考えられるので、以下に。
まず一つ目は、前述した「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」が、「二次を書く事は、二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れる事を必然とする」という図式と繋がらなかった場合。
二つ目は、「特定の個人の思想的限定」でいう個人を、二次創作者に限らず、広義に解釈した場合。(「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れていない」人=いわゆる二次否定派も含んだ場合)
三つ目は、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れない」けれど二次を受け入れている二次創作者がいる、という主張がある場合。
二つ目の場合は、一つ目同様すぐに解決します。まず「特定の個人の思想的限定」でいう個人とは、ご存じのごとく元々大谷氏の事をさしており、詰まるところこの「個人」は二次創作者である個人です。例えば「二次というのものはそもそも個人の自由思想によって成り立つもの」としていますが、これもやはり前提として、ここでの個人は二次創作を受け入れている人、という事が必然となります。よって「誰であってもどんな内容のものでも書く事を許される」のも、やはり二次創作を受け入れている人達の間で、という事になります。私からすると、「矛盾を受け入れ二次を書きたいとしている人達」でもあり、「矛盾を受け入れ二次を書きたいとしている人」でさえあるなら、「同じく二次を書く人間に、書く事自体を否定されるべきではないのでは?」という事になります。(因みに、二次否定派であるなら、二次を「書く事」の否定は十分あり得ると思っていますが、ここではさほど関係ないので、割愛します)
三つ目の場合、そもそもの「二次を書く事は、二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れる事を必然とする」という図式が崩れますので、そうなるともう、これは私の論理が及ぶ所ではありません。勿論、只単純に「矛盾も葛藤も受け入れない。でも二次は書く」としているだけでは、やはりそこにはどう足掻いても原作の再構築が事実としてある訳で、私の中では、その人は無自覚に二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れている、という図式が成り立ってしまいます。ですので、そうではなく「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れないが、二次を受け入れる二次創作者」がいるとしたら、それは何やら興味深い。私個人は出会った事がないので分かりませんが、もしそういう方がいるなら会って話を聞いてみたいところではあります。
以上、私の推測は三つですが、一つ目なら、これは理解されるよう書けなかった私の表現が悪かった、力不足、という事になるかと思います。二つ目なら、これもまた、私が「特定の個人の思想的限定」の個人を二次創作者であると言明しなかったという落ち度があると思います。三つ目なら、それはある意味素晴らしい事かもしれません。(つまり私を含む全二次創作者が、自覚無自覚を問わず矛盾と葛藤を受け入れる事から解放される訳です!)。
以上をもちまして、「あからさますぎる矛盾」への回答とします。


次に、「作品に対する批評と書く事への批判」を分ける理由について説明します。
この二つを別に扱うのは、それが読み手と書き手、どちらに帰属しているか、という違いがあるからです。作品は読まれるべくして公の場に出されたものであり、それは読み手に渡されたものでもあります。が、依然として「書く事」は書き手に帰属しています。誰かが、ある作品を嫌いだったとしても、だからといってそういう作品を「書くな」と強要する事は出来ないし、その権限も権利もない。それは「書く事」自体を保有しているのが書き手であり、書き手の「書く権利」まで読み手に委ねられてはいないからです。
書き手は読み手からの「作品の批評」に真摯であるべきで、こう読め、そう読むな、と読み手に強要すべきではない。それと同様、読み手もまた「書く権利」に真摯であるべきで、こう書け、そう書くな、と書き手に強要すべきではない。それが私の持論です。故に、「作品の批評」は良くて、「書く事への批判」は駄目だとしている訳です。(勿論、こう読んで欲しかった、という書き手の弁明や、こう書いてほしかった、という読み手の要望はあってしかるべきだと思います)
しかしながら前回、それは「なぜ書くのか?」という純粋な疑問である、という回答を頂きました。「書く事への純粋な疑問」であるなら、つまり私の言う否定的な意味での書く事への批判=「書く事の否定」には当たりません。よって、何ら書き手の権利や思想を侵すものではなく、私としても妥協点を見つけられたようです。寧ろ、私の反論は実に的外れであった、とも言えます。「書く事への否定」だとして強い拒絶を示してしまい、不快な思いをなさったと思います。その点は申し訳ありません。同時にお付き合い下さってありがとうございました。


最後に、主問題である所の不条理な小説についてです。…大丈夫です、これは…そんな長くは…多分…。
大谷氏にとってはリトバス自体が「夢なんて見てないで現実へ帰れ」としているゲームであり、具体的にいえば「ゲームなんてしてないで現実へ帰れ」と言っている、つまり「じゃあなんでゲーム作るの?」と製作者に問いたい対象となり得る訳ですね。同時に、敢えて目を瞑っていた部分を切り出す「夢なんて見てないで現実へ帰れ」とするSSは、その問題を顕在化してしまったという事になる。
小説を夢や虚構と定義するか否かはまた人によりますので、ここでは具体的に「小説を読むなと書いてある小説」もしくは「ゲームをするなという内容のゲーム」であるとします。それは確かに端的に矛盾であり、いわば不条理な小説、若しくはゲームであると言えます。
リトバスの二次ですと、特に「夢なんて見てないで現実へ帰れ」というようなSSを目にする機会は多いと思います。が、それは未だ大谷氏の中では解決されていない、という事ですか?私自身はリトバスをそうしたゲームとは思っていませんので正しくは言えませんが、その手のSSの多くは、「虚構で遊ぶ」=「ゲームをする事」と定義せず、リトバスを理樹成長記として考え、「虚構で遊ぶ」=「モラトリアムの停滞」としている可能性が高いのではないかと。リトバスを「夢なんて見てないで現実へ帰れ」というゲームだと定義していても、それが「ゲームなんてしてないで現実へ帰れ」とするか、「モラトリアムから卒業し、一人立ちして強く生きろ」とするかで、そこに於ける夢(虚構)の定義は大分変ってくるかと。モラトリアムは社会的な責任からの執行猶予期間に過ぎないので、そこを卒業したからといって、ゲームをするなという事にはなりませんし、そういう解釈だとすると少しは矛盾も解決するかもしれません。
また、二次の書き手が「二次なんて読んでないで現実へ帰れ」とする二次を書く事は滅多にないように(少なくとも私は知りません)、一次であれ二次であれ、「夢なんて見てないで現実へ帰れ」とする小説があったとして、そこで言う”夢”が小説自身を指し示す事は、寧ろ少ないのではないかと思います。語彙力不足で有体な言葉でしか言えませんが、小説の数だけ言葉の定義がある、とすれば「夢なんて見てないで現実へ帰れ」とするSSの矛盾も少しは軽減するかと。
以上、…気がつけばまた長くなってしまいました。最後辺りは蛇足ですので、お気になさらず。多分大谷氏にとっては既知の事柄だと思うので…。
的外れな反論であったにも関わらず、長々お付き合い下さりありがとうございました!


[No.746] 2008/11/29(Sat) 04:00:00

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