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all 空、海、星の夜 - 月影 - 2006/12/22(Fri) 22:34:58 [No.83]
Re: 空、海、星の夜 - 月影 - 2006/12/22(Fri) 22:35:29 [No.84]


空、海、星の夜 - 月影

T/


 仕事先に届けられた一枚の葉書。
 そこには簡素な文字で事実だけが書き述べられていた。



「……ん?」
 間もなく電車が発車いたします、というアナウンスを耳に春原は瞼を開ける。薄ぼんやりとした視界の中で今まさに開いた電車の扉に駆け込もうと、大勢の人が詰め掛けていた。その光景は何となくだが、学校の食堂を彼に思い返させる。座席という名のサバイバルを掛けて奮闘するその様はまさに昼食を掛けた一大イベントと類似しているとも取れなくもない。
「そうか……! 学校の食堂にはこういう意味もあったんだ!!」
 声に出して感心、肯いて歓心。若干ずれている彼の思考を止める者はこの世界広しと言えど誰もいないのは明白である。可哀相な子を見るような眼も彼にとってみれば「そうか、気付いているのは僕だけなんだ」という優越感の元にしかならない。
 とにかく、それが解れば苦労はないというもの。歴戦の中で勝ち取ってきた栄えある勇姿を今ここで見せなくて何処で見せる。
「よしっ!」
 肩に喰い込んだカバンを地面に置くと、軽く柔軟をする。程好く解した筋肉をバネに一気に駆け込もうという算段だ。サッカーで鍛えられた黄金の足は現役、とまではいかないがそれに近い力を発揮してくれるだろう。
「僕はこの戦いに勝利してみせる!!」
 キックオフの代わりに、電車の到着を知らせるアナウンス。それに遅れるようにして、プラットホームに電車が滑り込むようにして入ってきた。呼吸を整え、瞼を下ろす。隣にいる青年が「何してるんだ、この人?」という眼で春原を見ているが今の彼は暗闇の中、独りで戦う戦士の他ならない。
 電車の急ブレーキの音が響き渡る。轟音から神経を背けるようにして、春原は瞼をこじ開けると同時に足をコンクリートへと叩きつける。軽やか、とまではいかないが中々に悪くないスタートダッシュ。その勢いのまま、開いた扉へと強引に躰を捻じ込ませ、スライディングまで決める。ズボンがリノリウム張りの床を擦れ、若干皺になったが春原は気にしない。ゆっくりと、背後を振り返り自分の成果をみる。彼の奇異な行動に臆して入るのを躊躇っていた客が数人程いたが、彼が振り返ったことで我に返ったのだろう。眼を合わさないようにして、次々に中へと入っていく。「僕は……勝ったんだ」と訳の解らない勝利に自分を酔わせ、思わずガッツポーズ。「見ちゃいけません」という母親の声も何のその。今の彼にあるのは、一番乗りできた、という事実だけ。

「グゥゥゥッレイトォォォォ!!!」

 車両中に響き渡っているのではないか、と思わせる彼の声は達成感に満ちていた。満足気に自分の行いを振り返ってみて――そこで、ふと気付く。
 プラットホームにポツンと忘れられたかのよう置かれたているカバン。自分と似たようなカバンがそこにあって、彼は止まない高揚感のまま「良い趣味してるなー」と笑いながら、自分のカバンを手繰り寄せようと手を伸ばして――。

「って、ああああああああああ!!!!」

 春原が如何に絶叫しようとも、地球は廻っているし牛乳は白いし、ましてや電車のダイアは変わる筈がない。
 ガシャン、と無常にも彼の前で閉まる無機質な扉は彼の想いも無視して走り出してしまった。

 速度を増していく電車は止まる事を知らず、上部のモニタに映し出された次の停車駅へと向かっていく。「ま、次の停車駅で降りれば……」と軽く考えながら上部のモニタへと視線を移して初めて気付く。
「って新幹線じゃんっ!!」
 勿論の事、次の停車駅までそれ相応の時間と距離がある。便利な世の中は同時に誤ったものには多大な迷惑でしかない。
 しかし、今更引き返せといった所で引き返してくれる訳もなく、こうなったら楽しむしかない、という彼特有のポシティブさで自由席、と書かれたプラカードを確認するや否や連絡通路の扉を開いた。
 乗客は疎らで所々席は空いている。真ん中の通路を大股で歩きつつ春原は前の方に二席空いていた窓側に腰を下ろす。ガタンゴトン、という小刻みに揺れる振動音に身を任せ何とはなしに外を見る。
 踏み切りの先に田園が窺える。列を成して下校中だろうか、高校生くらいの男が歩いているのが見えた。思わず「懐かしいねぇ」と肯いてしまう。社会人になってから暇が余りない自分を振り返れば、高校時代が酷く遠い夢のような物語に思えた。
 元気にしてるのかな、とある親友の顔を思い浮かべてみて――思考をやんわりと遮断した。あの日以来、顔を付き合わす事は愚か電話一本もしていない自分がいるのを春原は知っていたし解っていた。
「だからって……」
 どうにかできるものでもない。そう割り切るように春原は瞼を固く閉じ、背もたれに躰を埋めるとそのまま眠りに付いた。

 どのくらい眠っていたのだろう。急に寝苦しさを感じ、春原は眠い目を擦り「んー」と伸びをすると辺りを見回し、モニタに映った駅名が既に自分の降りる筈だった駅を通過した事実に気付く。
「……何で起こしてくれないんだよ!」
 誰にでもなく悪態を吐くと、ふと肩に重みを感じた。そちらに視線を移すと、女性がいつの間にか春原の肩に凭れ心地良い寝息を立てている。一瞬、「え? 何!?」と思ったが状況の整理が追い付かず躰が硬直してしまう。
「あ、あれ……? 僕、こんなラッキーな展開だった、け」
 落ち着け、落ち着け、とまずは周囲を見る。カメラはない。という事はドッキリではない。となると、と春原は思考をする。これは、本当にひょっとするとひょっとした展開。
 彼女いない暦の長い自分に舞い込んだ幸運。これを逃す手はないと、春原は女性を起こさないよう気を配りながら居住まいを直そうとするが「ん……」と女性が反応し、瞼を開けていく。
 びくっ、と電気が走ったように緊張が躰中を駆け巡る。春原は反射的に言い訳を並べようと口を開き掛けるが「あ、す、すいません」と女性が頭を下げると同時に「あっ」何かが足元に落ちた。
 コロコロ、と転がっていく小箱。お土産屋に売っていそうな木箱で、表面には誰もが目にした事のあるような気がする小さなだんごの絵が描かれている。反射的に春原は緊張から逃れるようにそれを掴み、「あ、その、はい」と女性に渡そうとして「あ」と声を漏らした。
「え……?」
 それは女性の方もそうだったらしく、小箱を受け取ると同時に逡巡するように「えっと」と春原の顔を禍々と覗き込み「……ああ」合致したのだろう。忽ち嫌悪感に表情を歪ませていく。
「って何ですかその間は!」
 言いつつも、それは春原も同じで、記憶の底から嫌というほど脂汗が滲み出た。古傷が抉られるような脳への痛み。ガツンガツン。電車の音に交じる自分の悲鳴。

「何で陽平がここにいるのよ……」

 女性――藤林杏はそれだけ春原の思い出の中で棲んでいる化け物だった。



U/


 旅路を終えた少女は笑顔で報告。あんな事があった。こんな事があった。
 良かったわね、と彼女は微笑む。
 うん、と少女は頬を高揚させ、まだ彼女が知らなかった一面を浮かべた。



「呆れるとモノも言えないっていうけど、今まさにその心境だわ」
 はぁ、と解りやすいくらいに溜め息を吐く杏は「何でよりによってアンタなのよ」と春原の存在自体を揶揄している。
「それはこっちのセリフだね! 何で杏なんかに凭れられなきゃいけな―――すいません、何でもないです」
 眼は口程にモノを言う。記憶は開いた口を塞がらせる。両方を一度に体験して、春原は押し黙る。その行為に満足したのかしていないのか杏は「はぁ」と解りやすいくらいに大袈裟に溜め息を零し、小箱をポケットに突っ込む。
「それ何なの?」
 怪訝そうに眉を顰める春原に杏は「骨よ」とあっさり言って答える。余りにもあっさりと普通に言うものだから「え……?」と一瞬、躊躇してしまい居住まいまで直してしまう。
「そんな事より」
 だが、杏はそんなビビっている春原に対して何も言わず話を変えてしまう。
「あんた何でこんなところにいるのよ……。高校帰るならもう過ぎちゃってるわよ」
「帰りません! もう、卒業したじゃん!」
「…………え」杏は頬を引き攣らせやんわりと諭すように「あんたまだそう思ってるの?」と心配そうに言う。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ! な、何でそんな可哀相なものを見る目で言うんだよ!! ぼ、僕卒業したよ!」
「そうだっけ」しれっと言いのけると杏は目の前の荷物入れからミルクティーを取り出し「だって、制服着てるじゃない」口に含む。
「これはスーツです!」
 日本人が初めて覚える英語みたいね、と杏は思いながら嚥下すると「あんたが着るとスーツがブレザーに見えるわよね」と素直な感想を持ち出す。
 言われて春原は自分の姿を見る。まだ新しい方だとは言え大分着崩れてきたスーツは確かに学生時代に着ていたブレザーを思い起こさせるには充分な気もしないでもない。ないのだが、釈然としないのか「まだ、若いという事だよ」と笑って見せる。
「貫禄がないとも言えるわね」
「そ、そんな事ないよ!」
「どうかしらね……」訝しがるように口元をニヤ付いてみせると何か思い付いたのか「――あ、もしかして左遷中だったりするの?」と半ば本気で言う。
「違います。出張の帰りだよ」
 嘘は言ってなかったが、真実でもない。しかし、大方それだけで全てお見通しなのだろう。杏はそれ以上は言及せずに「出張って何処行ってたの?」と話題を変える。
「今回は東北の方に行かされてたんだよ」言いつつ仕事の事を思い出したのか少し嫌悪感を滲ませながら「色々廻されてるところだよ。ほら、僕って学生の頃から失敗ばっかだっただろ」と苦笑する。
「今頃自分が変態だった事実に気付いたの?」
「そこまで思ってないよ!! というか変態じゃないよ!」
「…………」
「なんだか、無性に腹が立つんですけ―――すいません、何でもないです」
 脊髄反射のように反応してしまう春原を見て杏は、また呆れとも疲れとも取れない溜め息を零す。何にも変わっていない春原が羨ましいのか、妬ましいのか。
「で、でも、聞いてよ。こんな失敗ばかりだったけど、それはそれで結果的には良かったんだよ」
「結果出せなきゃ社会で生きていけないでしょ」
「……解ってないよ、杏」
 解りたくもないけど、とは口に出さずミルクティーに口を付ける。甘い紅茶の香りが鼻腔を擽ってくれる。その仕草に聴く体勢を取ってくれたと判断したのか春原は「僕、先輩に聞いたんだよね」と続ける。
「失敗は成功の種、なんだって。成功ばっかしてる人よりも失敗を繰り返してると人の方が最後は偉くなれるんだよ。
 だから、僕みたいに将来有望な奴は出張とか大事な仕事を任されるんだよ」
 得意気に笑って見せる春原だが杏の方は「それって、ただの厄介払いでしょ」と切って捨てる。
「そ、そんな訳ないじゃん。杏は僕の仕事振りを解ってないだけだよ」
「…………」
「なんだか、無性に腹が立つんですけ―――すいません、何でもないです……ってループですよね!!?」
 ハァハァ、と全力で突っ込む春原の視野にワゴンが見えた。丁度良いタイミングともいえる幸運に、春原は手を挙げ「すいません」とワゴンを運んでいる女性を呼ぶ。女性は営業スマイルを浮かべると「はい」と丁寧にお辞儀を加え、春原の元へと向かってくる。
「ホットコーヒー、一つ」
「はい、一五〇円になります」
 言われて尻ポケットへと手を突っ込み――春原は固まる。「あ……」と嫌な脂汗を滲み出し、苦笑を浮かべた。財布がない。どこやったかな、と躰中を調べて思い出した。鞄の中に入れっぱなしだ。
 乾いた笑みが凍り付いていく。春原の目の前で女性は今まさコーヒーをカップの中へと注いでいる。今更「あ、やっぱなし!」と言える空気ではない。拙い。非常にヤバイ、と心は急くが財布はない。
「どうぞ」
 差し出されるコーヒーを眺め、またも笑う。その仕草に女性は小首を傾げ訝しがるように眉根を顰める。どうしよう、と内心で焦っているとすっ、と杏の手が伸び「はい、一五〇円」とお金を払う。女性はにこやかにそれを受け取りコーヒーを手渡し、会釈すると次のお客へと移って行った。
「はい」とぶっきら棒に言うと「ちゃんと後で返しなさいよ」コーヒーを渡す。
「あ、ありがとう」
 いきなりの展開に春原は普段言いもしない言葉が出た。言ってから思う。お礼を言うなんてどれくらい振りだろう。考えながら、コーヒーを口へと運んだ。口内に残ったのはほろ苦い青春時代の味な気がして春原は懐かしむように頬を緩ませた。


 トンネルを通過すると一気に田舎の風景が広がっていく。今までとはまた違った田舎。郷愁の煽りを思わせる裸の木が寒々しく揺れている。
「ところでさ、杏は何処に何しに行くの?」
 ガタン、と一際揺れがあった。舗装が少し荒いのだろう。「うわっと」とコーヒーもそれに伴い揺れる。幸い零れずに済んで、安堵の吐息を漏らすが「舗装がなってないよね」と春原は苛正し気に杏へと同意を求めるが彼女は答えない。逡巡するように春原の背中越しの風景を見てぽつりと「人探しよ」詰まらなそうに答える。
 一瞬何の事か解らず、春原は首を傾げたが自分のさっきの質問の答えである事に気付くと「あ、そうなんだ」と納得するように肯き「……ん?」とまた疑問を浮かべる。
「え、人探しって……え? 杏って探偵だっけ?」
「バカね。そんな訳ないでしょ。あたしは幼稚園の先生よ」
「幼稚園の先生で人探し……」春原は天井を見やり納得したように手を打つと「あ、解った! 杏が苛めすぎちゃって今流行の不登校になっちゃ」刹那、顔が歪んだ。
「陽平ー? 何トチ狂った事言ってんのよ? 殴るわよ?」
「殴ってから言わないで下さい!」
 欠けた頬を摩りつつ「えっと、何の話だっけ?」と春原はコーヒーを飲む。少し冷めてしまった所為か苦味が強く眉根を寄せてしまう。
「あんたに何で彼女が出来ないか、でしょ?」
「そうだよ。こんなイケテル僕に何で彼女が出来ないか真剣に悩んで――って違うよ!」
「なら、昨今の不景気についてじゃない?」
「不況の煽りとか言ってて給料また減らされてさー……。こんなに頑張ってるのに、もう嫌になっちゃうよね――ってこれも違うよ!」
 冗談よ、と疲れたように杏は乾いた笑みを浮かべるとポケットに手を突っ込む。手遊びでもしてるのだろうか、何かを弄っているように春原には見えたが特に言及はせずに「幼稚園の先生って大変なの?」と話を変える。
「楽ではないわね。でも、子どもたちは可愛いものよ。
 ちょっとした事で喧嘩したり仲直りしたりで、凄く純粋なのよね」
 大人が忘れたものを子どもは持っていて、何れ、その子どもが大人になるときっと忘れる。純粋だからこそ、成長すればそうなっていく。今の春原と杏も似たようなものなのかもしれない。
「遣り甲斐があるかは微妙だけど、まあ、何とかやってる感じよ」
 だから、曖昧に笑って見せる杏の表情に春原は違和感を感じた。疲れてるだけ、とも取れなくもないがそれだけでは説明できない何かを春原は感じる。
 ふと、何となく春原は思い出す。ある一人の赤ん坊。まだ、幼い親友の子ども。確か、名前は……。
「――汐ちゃん」
「え?」
 突然、春原の口から出る名前。目を丸くさせた杏に「だったよね、岡崎の子ども」と春原は訊ねる。
「え、あ……」動揺を隠しきれずに言い淀んでしまうが「うん、そうよ。うん」と何とか杏は答える。
「確か、渚ちゃんの葬儀の時だよ。僕、会ったんだよね。
 その時思ったんだよ。皺くちゃで猿みたいな顔だったけど、あれは絶対可愛くなるって」 渚ちゃんに似てたしね、と寂しそうに口を尖らせながらも春原は笑う。その笑みに杏は目頭を押さえながらも「うん、可愛かった……わね」搾り出すように声を出す。その声に、気付いていても春原は何も言わない。渚の死を思い出して、自分も鼻を啜っているから。
「うん――。渚ちゃんも死んじゃったけどさ」
 人差し指で鼻の下を擦り視線を風景へと逸らすと「岡崎は幸せな方だと思うよ」願うように呟いたが杏は何も言わなかった。

 電車が停車すると春原と杏は扉を潜り、ホームに躍り出た。
 頬を過ぎる風が冷たい。身を縮こませるように春原はポケットに手を突っ込み周囲を見回す。すると、電光掲示板の下に駅員の姿が見え「ちょっと待っててよ」と言うと駆け出した。
 しかし、杏は寒い中外で待つのが嫌だったのだろう。待て、と言わたのにも関わらずそそくさと待合室の中へと入り適当な席に腰を下ろし春原を姿を眺める。何かを話しているらしい様子が窺えた。
 一・二分もしない内に春原はキョロキョロと杏の姿を探し待合室に目をつけると駅員に会釈し、トボトボと歩き出す。黒髪になってしまった髪を金色に染め直せば、学生時代のまま抜け出してきたように思える。成長しない悪友の姿に杏はまた溜め息を零す。
「何で置いてくんだよ!」
「寒いじゃない」
「そ、そりゃー、寒いけどさ」
 もごもご、と文句を言う春原だが杏は知らない振りだ。さすがに言っても無駄だと解ったのか、春原も杏の隣に腰掛ける。
「それで、荷物はどうだったの?」
「ああ、だいじょ」と、言い掛けて春原は目を丸くすると「あの、どうして知ってるんですか?」冷や汗混じりに答える。
「さっき財布出さなかったじゃない。それに、出張帰りとか言って荷物持ってないのもおかしいでしょ?
 大方、あんたの事だから引っ手繰られたか置き忘れでもしたんでしょ?」
「引っ手繰られてなんかないよ!」
「なら、置忘れね」呆れたように溜め息を吐きつつ「バカよバカ」と首を左右に振る。
 ぐぅの音も出ないとはまさにこの事だがそこは春原。言い返そうと言葉を探すが「んで、あんたどうするの?」杏の質問に思考が遮られる。
「どうする……って戻るよ」
「そう、ならここでお別れね」
「え……。あ、うん……」
 言われて気付いた。
 自分達は偶然出会っただけという事に。
 学生気分が少しだけ戻ってしまった春原にはそれが凄く違和感のある事のように思えた。それは杏も同じなのか「何か変な感じよね」と自嘲気味に呟く。同意するように春原は息を思いっ切り吐き出した。

 電車が来る、という放送が耳に届く。春原は重い腰を上げるが――、一向に動こうとはしない。その行動に杏は怪訝そうに眉根を寄せると「ほら、早く行かないと」と急かすが春原は歩き出そうとしない。まるで石のように固まったまま遠くを見つめている。
 何だろう、と杏は春原の視線を辿るがそこには特に何もない。時間が止まったような錯覚を杏は覚える。プラットホームに響く電車のブレーキ音。合図に合わせるように「杏」春原は口を開く。
「お金、返してなかったよね?」
「え?」一瞬何の事を言われたのか逡巡して「ああ、コーヒー代? それならまた今度会った時にでも返してくれれば」とやんわりと言うが春原はそれを遮る。
「あのさ」低く、独り言でも言うように「杏、無理してない?」寂しげに自嘲気味に笑う。
「……え?」
 扉の開く音。駆け込む乗客。流れるような景色。
「…………ど、どうしてそう思うの?」
 なのに、待合室だけは時間が止まったかのように緩やかに思えた。
「出張先にさ、葉書が来たんだ」手元にない葉書を如何にも持っているかのように片手でブラブラさせ「そこにさ、書いてあったんだよ」
 春原は目を瞑る。言いたくない事を言わされる子どものように。泣きそうな顔で、言葉を吐き出した。

「汐ちゃんが亡くなった、って」

 ああ、と杏は項垂れる。知っていたんだ、と疲れたような笑みが自然と零れた。
「なんだ、知ってたんじゃない。あーあー、あたしバカみたいよね」
 無理にでも付き合わせていた。気を紛らわせるように、問題を見ないようにしていた。なんて我侭なのか。
「ホント、バカみたい」
 扉が閉まる。
 電車は街へと帰っていった。




/V


 真っ白な少女。
 まるで生きているみたいだ、と彼女は思った。思い出すのはあの満面の笑顔と駆け出す少女の影。もういない。もう、ない。感情の波は堰を超え、涙腺を破壊させる。零れ落ちる涙。荒げる悲鳴。
 そんな彼女にそっと温かい手が差し伸べられたのはその時。



 ローカル線に乗り換え、座席に座ると春原は息を吐き出し周囲を見やる。
「人、いないね」
 何となく話しかけてみるが、杏は答えない。あの後、切符を買って貰った居心地の悪さとはまた違う雰囲気が春原を襲う。まだ、車内が賑やかであれば少しは気が紛れたかもしれないが生憎時刻は夕暮れ時。こんな時間に地方に行く方が稀なのかもしれない。
 車内に赤い光が差し込んでくる。風景が赤く染まっていく中、電車は速度を緩やかに進んでいく。その緩やかなスピードが新幹線に乗っていた所為もあってか、よく解る。若干、カルチャーショックを喰らったような気がして春原は「ゆったり過ぎる気がするよ」と苦笑を浮かべると――お腹が鳴った。
「……あ」
 一気に空気が変わる。「こんな時でもお腹は空くんだよね」と照れ笑いを浮かべている春原の横で杏は荷物を漁り弁当箱を取り出した。
「――少し」何処か居た堪れない様子で杏は目を合わそうとしないが、それでも言う。「食べる? さすがにお腹一杯にはならないかもしれないけど」
「良いの!? 頂きます頂きます!」
 懇願する春原の様子を見て、やっと杏は頬を緩ませ「バカね」と笑うと蓋を開ける。玉子焼きにウインナー、おにぎりが二つ。春原はおにぎりを一つ貰うと直ぐに齧りついた。もぐもぐと咀嚼し、ごくん、と飲み込む。
「美味いよ! これ、具何なの?」
「豚の角煮よ」言いつつ玉子焼きを口に含むと、微妙な甘さ加減が舌を転がす。「うん、上出来」
「そういえば、杏ってガサツな性格からは考えられないくらい意外と料理美味かっ」
「陽平」頬が引き攣っている。さっきまで沈んでいたのが嘘のように「殺すわよ?」と自然と笑う。
「ひぃぃ!!」
 勿論、春原を萎縮させるのには充分だった。

 結局、弁当の殆どを春原は平らげた。最後に玉子焼きを口に放り込むと「ほひほうはま」と手を合わせる。
 食べ過ぎよ、と注意しなかったのは一種の罪滅ぼしなのだろうか。杏は「お粗末様」とだけ答えると弁当箱を片付けるとミルクティーを取り出す。
「いやー、満腹満腹」
「借りはフランス料理のフルコースで良いわよ」
「明らかにボッタくりですよねっ!」
「何言ってるのよ」ミルクティーを一口飲み、喉に流し込むと「電車賃もあたし。コーヒーも弁当もあたし。……あんた何かやった?」
「ちゃんと返すよ!」
「当たり前よ。もしも、返さなかったらあんたの実家と会社に『陽平は無銭飲食するわ、借りたお金は返さない変態です!』って言ってから電話を切るからね」
「酷過ぎですよねっ!!」
 とは言いつつも春原は若干嬉しそうに笑っている。学生の頃の懐かしい気分が自分を高揚させているのがよく解った。隠し事のない杏はさっきに比べれば昔のままだ。
「ニタニタして気持ち悪いわね」
「煩いよ!」
 調子が合う。カチリ、と噛み合う歯車が綺麗に回るイメージが春原の中であった。
 カラカラ、と電車の車輪のようにクルクル回る。ガタンゴトン、と揺れるのを背中で感じながら、ふと、春原は外へと視線を移すと夕日が目に入った。遠い、まるで故郷を思い返すように春原はぼんやりと眺める。
 坂の下。桜が舞っていた。一人、昇っていく上である少年と少女が肩を並べあっている。
 そんな風景が脳裏を過ぎり春原は物思いに耽た表情を浮かべると「人探しってさ……」と何気ない風を装って言葉に出す。
「ん?」
「杏の言ってた人探しって――やっぱり、岡崎?」
 推測を確信へと変える質問に、杏は躊躇いもなく答える。
「そうよ」
「ふーん」
「汐ちゃんの葬儀の後に姿がなくなったのよ。みんなで探してみたんだけど見つからなくて、それであたしがここまで来たのよ。全く、面倒掛けるわよね」
 苦笑を浮かべて、杏は俯く。春原は、それには気付かない振りをしながら「そこに岡崎はいるの?」と素っ気なさそうに言う。一拍置いて、前方へと目を向けた杏は、それには答えず違う事を口にする。

「朋也の決意と汐ちゃんの笑顔はあるわよ」




/W


 旅の終着点は、
 澄み切った空と海、そして星の夜。



 電車を降りると杏は案内図で行き先を知るや否や歩き出す。遅れて、春原も後に続く。
 すっかり、夜も更けてしまって既に辺りは暗い。街灯も田舎特有の薄暗さを保っている。これなら星の光の方がまだ明るい。
「ねえ、陽平?」
 満点の星空の下を二人は歩く。「何?」と息を吐き出しつつ春原が訊くと「朋也ね、最初は立ち直ってなかったの」杏は御伽噺でも話すかのように語り出す。
「まるで死人みたいだったらしいわ。何もかもから逃げるようにして、ずっと何年もそうしてたの」
 仕事に熱中してみたり、酒や煙草に溺れたり。逃げる事で目を背けるという行為。
 そうだよね、と春原は思った。愛する人を失う悲しみは解らないが、大事な人を失う悲しみは解る。渚は、春原にとってみれば――或いは皆にとって掛け替えのない少女だったのだ。
 ぎゅ、と春原は唇を噛み締める。後悔がじわじわと押し寄せてきたのが解る。友人が困っていても何もしなかった自分。何もできなかった自分。
「でも、ね。朋也は――きちんと立ち直れた。汐ちゃんに真っ直ぐに向き直った」
 家族。その存在で、彼は立ち直った。それは同時に、彼に関わっていた者全てが救われたとも思える。
「それが出来た……場所がこの先にあるのよ。朋也の出発点が」
「岡崎の出発点、か」
 そのまま、坂を少し昇っていくと視野が広がった。
 一面の草。土の中ではきっと、来年の夏に芽を出す準備でもしているのだろう。満点の星空の下で花畑は凍えているように見える。
「夏になると向日葵が咲いてとっても綺麗なんだって」
 少し足を止めて、杏は日記の一ページを捲るように語る。
「ここで、汐ちゃんは遊んでたらしいわ。後、朋也に玩具買って貰ったんだけど失くしちゃったんだって」
 玩具を失くした汐。その姿を想像して「そそっかしいね。渚ちゃんに似たんじゃない?」春原は笑う。「そうかもね」と杏も笑った。
「でも、運動神経は朋也に似たみたいよ。男の子顔負けの御転婆だったわ」
 杏は何処か遠くを見つめて、懐かしむように目を細める。彼女の中で、汐は幼稚園を駆けずり周っているのだろう。春原には、ない過去。あるのは、汐がまだ生まれたてだった頃くらいだ。少しだけ悔しい気持ちが胸に溜まると、それを吐き出すように瞼をきつく閉じると、頭の中でイメージが線となって浮かんできた。
 一面に花畑が見える。黄色い花が揺れている。その中を元気に走る少女とそれを見守る一人の青年。
「おか、……ざき?」
 返事に答えるように青年は振り返ると、いつもの気懈そうな目で春原を見る。少女は向日葵みたいな笑顔を浮かべると春原の方へと駆け寄って来て――、一つの方向を指差した。春原は指先に誘われるように振り向き「あ……!!」と瞼を開ける。
「きゃ! な、何よ! 急に大声――って陽平?」
 杏の声を無視して、春原は駆け出す。草に隠れていて解り難いが、それでもそれはそこにあると確信できた。春原は膝を付きゆっくりと少女が示した場所へと手を伸ばし――それを掴み取った。
「……やったじゃん、僕」
「な、何よ急に走り出して」
「杏、ほら」
 手の中にあるのは朽ちた玩具。錆び付いて動きそうにもない、小さな玩具。しかし、春原の見つけた繋がり。
「僕さ」春原は嬉しそうに「やっと腰の荷が少し取れた気がするよ」笑う。
「肩≠セから」
 苦笑を浮かべつつも、そんな春原の労いを称えるように杏は彼の背中をポンと叩いた。

 暫く歩くと、背中を押すように強い風が吹いてきた。思わず、春原は背を丸めてしまう。
「後、どれくらいなの?」
「もう少しよ」
 海が近いのだろうか。潮の香りが微かに漂っている事に気付く。波の音も聞こえてきて、自然のメロディーが春原と杏の足を少しだけ速める。
「ね、杏?」沈黙が耐えれないのか、春原は思い出したように「流れ星に願った事ある?」と呟く。
「消える前に三つ言うっていうやつ?」
「あれって、絶対無理だよね」
 白い吐息を吐き出し前を向くと、視界が途切れようとしていた。もう、少しでも歩けば着くのだろう。春原は逸る気持ちを抑えようと軽く息を吸い込み一歩踏み込むと――、視界が消えた。
 見惚れる、というのはこういう事だろうか。春原と杏は声を失くした人形のように立ち尽くしてしまう。
 海が一望できる。その先は地球の球体を表すように緩やかなカーブを描き、空には満天の星が騒いでいる。風は何処までも穏やかで、波の音しかしない。海は空を映して、まるで星が落ちているように見えた。
 シャリ、と草を踏む音が隣で聞こえ我に返った。そちらを見ると、杏はポケットに手を突んで髪を風に靡かせている。まるで何かを覚ったか見つけたかのような表情だ。それに影響されたように春原は周囲を見回すが――やはり、姿が見えない。
「…………居ないね、岡崎」
 答えはない。他に何を言えば良いのか、と逡巡している春原に「汐ちゃんが亡くなった時ね」と杏はぽつりぽつり、と言葉を吐き出す。
「え?」
「真っ白い雪の中で朋也に抱かれながら死んでいったのよ。それから暫くして、朋也は消えた。まるで、二人揃って溶けちゃったみたいに」
 不意に重なる。
 輝く一つ一つが雪ならば、幾千幾万の星々がまるで敷き詰められた白のように春原には見えた。何かに似ている。何だろう、と逡巡し掛けて不意に気が付いた。
「ここって、渚ちゃんが立ってた所に似てるね」
 学生時代。舞台に上がった少女。そうか、と春原は息を吐き出す。白い息が霧散していく。あの時からそうだった。彼女は独りじゃない。彼女の傍には必ず、彼がいた。
「………………考えたくはないんだけど」
 春原は、言葉を選ぶように白い海を見つめる。星は眩くばかりに輝いていて、何故だか悲しくなった。
「言わなくても良いわよ」杏は自嘲するように肩を竦め「何となく……解ってたから」涙を浮かべる。
 朋也はいない。いや、きっと、何処かにはいる。だけど、何処にいるかを知っているのは二人しかいない。
 杏の脳裏に汐の笑顔が過ぎる。旅を終えた、少女の笑顔。今まで見た事がないくらいに愛らしくて可愛らしい笑顔。その時になって、初めて覚った。
「家族は」杏は一度だけ肯くと、ポケットから取り出す。「一緒にいるものなのよ」
 掌で転がるのは小箱。白い灰。
「それって……」
 杏は何も答えない。いや、ちゃんと答えている。
 電車の中で冗談だと思っていた、言葉。春原はそれを思い出し「汐ちゃん?」と訊く。コクン、と杏は一度だけ肯くと「渡してくれた人がいたのよ」と感謝を捧げるように胸に抱き、お別れを告げる。
「またね、汐ちゃん」
 幼稚園に迎えが来た時と同じように杏はさよならを言うと、カチリ、と留め金を外し蓋を開ける。カポ、と空気の抜ける間抜けな音と共に中身が潮風に浚われる。
「これで」杏は肩の荷が下りたように俯くと、涙を零す。「後は、朋也が来るだけね」
 白い汐が海へと消えていく。いや、帰っていくのだ。
 悲しいけど、迎えは来る。楽しかった時間を報告する為に。家族の元へと帰る。それで気付く。小箱の絵柄。昔どこかで見たと思っていた。
「あ、そうか。だんご大家族」
 春原は納得したように――玩具に目を向ける。止まっている玩具。だけど、今にも動き出しそうだ。
 春原は一度だけ深く肯くと星を見下ろしできなかった事をしてみる。
 今なら出来る。星は落ち続け、そのまま止まっているのだから。
 三回願う。「また、会えますように」と指が白くなるくらい強く握った玩具を持ち主へと投げる。

「イッッケェェェ!!!!」

 白い汐の手に。玩具は星と同じように海へと落ちていく。
 やがて、その姿が見えなくなると春原は鼻の下を人差し指で擦り「へへ」と得意気に笑う。
「汐ちゃんは渚ちゃんのとこへ行くんだね」
 きっと朋也はここに来る。彼を見つけられる二人が揃ったのだから。
 それにここは、始まりの場所だ。だから、最期にはならない。家族はここで、また始まる。
「バーカ。今更、気付いたの?」
 それを解っているのか。
 杏はくしゃくしゃの顔で振り返り、笑顔を浮かべた。


[No.83] 2006/12/22(Fri) 22:34:58

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