あたしがその話を聞いたのは、妹の椋からだった。 その椋が誰から聞いてきたのかは分からない。 随分と都会の風情を見せ始めたこの町だけれど、やっぱり元はただの田舎なのだ。 ご近所の情報網は、未だに健在だった。 だから、誰から、誰に。 どんな風に伝わっていったのかは分からない。 ただ―――確かな事は。 あいつから聞いたのではない、という事。 古河渚が、死んだ。 「あたし、何やってんだろな〜」 我が事ながら、情けない気分でそう呟いた。 時刻は早朝。チュンチュンと小鳥が五月蝿く啼いているだけで、周囲に人のざわめきは一切無い、それくらいの早朝だ。大気は凍えるほど冷たく、吐く息が真っ白な靄を作り出す。完全に日が昇ってしまえば暖かくなるそうなのだが、今は丁度、最低気温を更新している時間だろう。 目の前に見えるのは古びたアパート。確か築二十年くらい経っているとか……そんな話を聞いたことがある。間違っても、望んで、うら若き華の女子大生が近寄るような場所ではない。 しかしあたしは、その場所にノコノコとやってきていた。 しかも、今日で三日連続だ。 一日目は椋からその話を聞いて、すぐに。 だけど会えなかった。 二日目は時間帯を合わせて夕方に。 それでも会えなかった。 結局、三日目(きょう)はこうし、朝早くからやってきているのである。 正直……少し眠い。 この三日間、ろくに眠れていないのだ。 眠れるはずが無かった。 眠ろうと目を閉じれば、浮かび上がるあいつの顔。それはかつてと同じ、どこか不貞腐れたような、つまらなそうな顔だった。 だけど、これから見ることになるのは、もっと別の、それまで見たことの無い表情なのだろう。 そんな、想像する事さえ出来ないものを、延々と想像し続けていたのだから、眠れるわけがなかった。 そもそも、会って何を話すというのか。 慰めの言葉なんて、思いつかない。あたしには、そういうのは向いていないのだ。それくらいの自己分析は出来ている。だからきっと、会えば捻くれた事を言ってしまうだろう。 そして、もしかしたらそれは、あいつを傷つけるかもしれない。 そう考えると怖かった。 どうしようもなく。 だけど、会わずには居られなかった。 今此処で、あいつと会わなければ。会って、正面から向かい合わなければ。あたしは一生変われない。これからの人生も、ずっとずっと、あたしは自分の気持ちに背を向けたまま生き続けなければならないだろう。 「……姑息、よねぇ」 悲しみと絶望の淵にある朋也に、自分の気持ちをぶつけようとするなんて―――いや、もちろんそこまではっきりとした行動は取らないけれど、あいつの欠けた心の穴に自分の存在を割り込ませようとするなんて、最低を通り越して最悪なくらい姑息な手段だった。 本来ならもっとキレイな、大人びたやり方があるのだろう。 とはいえ、目を醒ましてしまった気持ちは、もう自分でもどうしようもなかった。 高校時代から、ずっと朋也が好きだった。 最初に会ったときは、ただ『捻くれた餓鬼だな』なんて、自分の事を棚に上げた感想を抱いただけだったけれど、それは何時からか、どうしてなのか、自分でも分からないうちに友愛へと変わり、そして親愛へと昇華してしまった。 もちろん、その分岐点や、そもそも境界自体が不明確だ。 だからあたしは、自分の気持ちが友愛なのか親愛なのか分からないまま、あいつと同じ時間を過ごし、そして正直に言うと、実はそんな関係に満足していた。 実際、あたし達の関係は、そんじょそこらの恋人たちのそれに負けないくらい近しいものだった。そう自負している。お互いに何の気兼ねをする必要もなく、語り合い笑い合い、じゃれる様に口喧嘩をし、甘噛みのようにお互い無茶をした。 それは堪らなく、心地のいい関係だった。 だから、あたしは、告白なんかしてその関係を壊すくらいなら、今のままで良いと思っていたのだ。 だけど、三年生になったある日。思っても見なかった事態が起こった。 まさかまさか、あいつに恋人が出来てしまうだなんて……。 どう考えても無愛想で面白みが無くて、他人に靡かなそうなあいつが、あっさりと、そうと気づいた時にはとっくにその少女だけを見つめていただなんて……まさにトンビに油揚げ。寝耳に水だった。 さすがのあたしも、ちょっぴり泣いたね。 ちょっぴり泣いて、その後、大激怒したさ。 なに横取りしてんのよこの泥棒猫ふざけんなそれはあたしが先に見つけたんだとっくの昔に唾つけてるんだ勝手に人様のものを持ってくなんていったいどんな神経してんのよどんな教育受けてんのよあんたの両親は海賊でもやってんのか馬鹿間抜けお前なんか朋也の恋人には百年早いのよ百光年遠いのよ一昨日きやがれ―――みたいな感じで。 ……もちろん、九割は嘘なんだけど。 でも、その相手。演劇部部長―――渚は、あたしから見ても分かるくらいに良い子だった。優しい子だった。ヘンテコな子ではあったけれど、それさえも愛せてしまうような、そんな素敵な女の子だった。 怒りなんて、八つ当たりの醜い感情なんて、一瞬でどっか遠くへ飛んでいってしまった。 敵わないな。 純粋に、そう思った。 朋也にはあんな風な子がお似合いなのかもしれない。 真実に、そう思った。 何より、渚と一緒にいる朋也があんまりにも楽しそうで、嬉しそうで、その関係を壊してまで奪い取るなんていう事は、あたしには出来なかった。 倖せならそれで良いかな―――なんて、そう思ったのだ。 だから、あたしは自分の気持ちを封印した。 心の奥底に閉じ込めて、何も無かった事にして、ただの友達になった。 それで良かった。 それが一番正しい選択だったのだ。 だから、 朋也と渚が同棲を始めたと聞いたときも。 二年遅れの卒業式に出席を求められたときも。 二人が結婚するのだと聞いたときも。 子供が出来たのだと聞いたときも。 あたしは何も感じなかった。 苦しまなかった。 悲しまなかった。 傷つかなかった。 仲の良い友達として、祝福した。 でも、渚が亡くなったのだと聞いたとき、閉じ込めていたはずの思いがあふれ出てきてしまった。 それまでずっと心を押さえ込んできたダムが、決壊してしまった。 そしてそれは、押さえ込んできた分の勢いも合わさって、もうどうにも、制御する事ができなくなってしまった。 あたしは、ただ―――朋也に会いたかった。 その気持ちだけで、頭の中がいっぱいいっぱいになってしまった。 だからこうして、三日連続やってきているわけである。 「しっかし……遅いわねぇ」 朋也はもうとっくに仕事に出ていなければならない時間になっても、顔を見せなかった。 (まさか――――) 嫌な予感がして、あたしは駆け出していた。 アパートのギシギシと音をたてる脆そうな階段を駆け上がり、そのドアの前に立つ。 まさか、とは思うのだが、餓死とか衰弱死とかしていたら、どうしよう。 そんな不吉すぎる予感を振り払うように、あたしは力いっぱいドアを叩いた。 「朋也っ! 朋也ーっ! 居るんでしょ! あたしよ、杏よ! 出てきなさい、朋也!!」 あたしは叫ぶ。 今すぐにでも、ドアが開いて、中から朋也の鬱陶しそうな顔が出てくる―――そう信じて。 だが、ドアは開かない。薄っぺらい金属の扉は、しかしそれこそ核シェルターの隔壁のように頑なで、その向こうにいるはずの朋也との距離を断絶していた。 「おいっ! 静かにしろよ!!」 いきなり怒鳴りつけられて、あたしは身体を震わせた。 声の方に視線を向けると、お隣の家から男性が顔を出していた。寝惚け眼のまま、凄い形相でこちらを睨みつけている。どうやら、まだ眠っていたらしい。 「すみません」 とりあえず一般常識として謝り、しかしそんなどうでも良いことに構っている余裕も無く、あたしは聞いた。 「あの、朋也……岡崎さんは?」 「あぁ? ……隣なら、しばらく帰ってきてないけど?」 「え……?」 予想外の答えだった。 しばらく帰っていない……。 どういう事なのだろう? どこかへ出かけるにしたって、朋也に行く宛てがあるとは思えない。まさか、あの実家に帰っているとは思えないし。 それに、時期も時期だ。ここ以外の何処かへなんて、行っている余裕はないはずである。 しかも、それが『しばらく』というのだから、なお更に。 この男性の『しばらく』がどの程度を指すのかは分からなかったが、二・三日――恐らくあたしが朋也に会おうと待っていた期間――よりは前という事になるだろう。 そんな期間、あいつが居られる場所など、そうそう無いはずだ。 どこか心当たりは……。 (あっ、そういえば――――) 確か近くに渚の実家が有ったはずだ。パン屋さんらしい。高校時代に朋也に「そこのパンって美味しいの?」と聞いたら「スゲェマジで超絶ビッグバン級に美味しいぞ」と何故か棒読みで言われ「じゃあ、貰ってきて」とお願いしたら、何を思ったか『梅干パン』なる未知の物質を持ってきやがって、「こんなもん食えるかぁっ」と地面に叩き付けたら、どこか遠くで「わたしのパンは食べられないパンなんですねぇぇぇぇぇ」なんて遠ざかっていく泣き声が聞こえてきた―――という、原稿用紙5枚にも満たないサイドエピソード的にしか覚えていなかったので、まったく失念していた。 もしかしたら、そちらに居るのかもしれない。 考えてみれば当然の事だった。生まれてきた赤ちゃんの事を考えれば、朋也一人で置いておくわけにはいかないのだから。落ち込んでいる朋也に、育児能力があるとは、どれほど楽天的な考え方の持ち主でも思わないだろう。 その点、渚の両親の家なら、何の心配もない。渚をあんなにも良い子に育てた両親ならば、当然孫にも――例えそれが我が子の命と引き換えに生まれてきた子であろうとも――しっかりと面倒を見てくれるだろう。 あたしはまだ睨みつけてくる男性にもう一度謝り、そして「ありがとうございましたー」と適当に言って走り出した。 ・ ・ ・ 渚の実家には、一度も行ったことが無かった。 あたしたちは、それほど親しい仲ではなかったから。 それでも凡その位置は聞いていたし、何度かは行方不明になってしまったボタンを探して通った事もある道だった。 とはいえ、多少記憶が曖昧になっていたので、少し迷ってしまった。この辺り、結構ややこしいからね。それに、随分風景も様変わりしてしまっているようだし。 しかし、この時間。忙しい社会人の人たちならば、とっくに家を出ている時間。こんな時間にやってきて、果たして朋也は居るだろうか? あたしが椋から渚の死を聞いた時点で、実際の死から十日ほど経っていたのだから、すでに二週間近くが過ぎている事になる。となると、いい加減朋也も職場復帰しているはずだ。二週間も休んで構わないような、そんな仕事ではないはずである。 視線の先に目的の看板を見つけたときも、だから『もしかしたら今日も会えないかもしれない』なんて、そんな陰鬱な気分だった。となると、やっぱり四日連続になってしまうのだろうか。……なるんだろうなぁ。 そんなことを考えながら、あたしは一歩一歩近づいていく。 後十メートルといった所まで近づいた時、あたしは視界の隅っこに見覚えのある姿を見つけた。 「え……」 驚きつつ、そちらへと視線を向ける。 パン屋の前にある小さな公園。 そこに、居た。 朋也が、居た。 ブランコに座っている。 俯いている所為で表情は伺えないが、しかし相当落ち込んでいる様子だった。 それくらいは、一目で分かる程度に、あたしはあいつと近しい距離にあったのだ。 一瞬、どうするべきか戸惑った。もちろん、声を掛けるべきなのだろう。そのために、あたしはこうやって来ているわけだし。 だけど、何となく、近づき難かった。 いや、違う。 近づきたくない。近づいてはいけない。 ワケの分からない本能が、そうアラートをかき鳴らす。 それは今までにもほんの数度しか感じた事のない、危険信号だった。 近づけば、良くない事が起こる。 半ば確信するように、左足があたしの意識から外れ、一歩下がる。 だけど―――あたしはそこで何とか踏みとどまった。ここで帰ってしまえば、今までのあたしと同じではないか。 あたしはパンッと頬を叩き、気合を入れた。 大丈夫。大丈夫。大丈夫。 変に暗い顔をしていたら、余計にあいつを落ち込ませるだけだろう。だから笑って、明るく、だけど優しく、慰める。 『お久しぶり』 『調子はどう?』 『そんなに落ち込まないで』 『元気出してよ』 『あたしも、力になるからさ』 なんて―――そんな風に。 うん。我ながら、なかなか良い感じだ。 これはかなり好印象だろう。 だけど、あたしが歩き出すのより早く、一人の女性が朋也に駆け寄って行った。 一瞬、凄く嫌な予感がした……けれど、それはただの杞憂だった。 その女性の顔を、あたしは知っていた。 渚の卒業式のとき、見たのだ。 彼女とよく似た雰囲気――優しそうで、だけどどことなくポヤヤ〜ンとしている――で、よく印象に残っている。ついでに、そんな二人とは見るからに正反対な、近所の悪ガキみたいな男性の事も。 その女性は朋也の傍に寄ると、何かを囁きかけた。 優しげな表情。優しげな瞳。 なるほど、間違いなく渚の母親なのだと思う。 朋也はそんな女性に対して、何も答えなかった。 反応さえしなかった。 やがて、囁きかけるのを止めた女性は、朋也の脇に手をかけて、彼を立ち上がらせた。 まるで糸の切れた操り人形のように、朋也は立ち上がった。 そして―――― あたしは、見た。 見てしまった。 見ちゃダメだと、見てはいけないのだと、分かっていたはずなのに。 あれほど本能が警告していたのに。 なのに愚かなあたしは、その指示に従わなかった。 いったい何を期待していたのだろう。 今となって、浮かれていた自分がぶん殴ってやりたいくらいに憎い。 あたしは、その場から一歩たりとも動けなかった。 だって、そこに居たのは、あたしの知っている朋也じゃなかったから。 それは、朋也の皮をかぶった、朋也のフリをした、別の、知らない誰かだった。 それは、あたしが一番見たくない、彼の姿だったのだ。 とてもじゃないけど、見ていられなかった。 でも、目を逸らす事が出来なかった。 あたしは動くことも声を掛けることも出来ず、そこにじっとして、女性の手でパン屋の中へと連れられていくその姿を、ただ見つめていた。 ・ ・ ・ 大学で過ごす時間は楽しかった。 自分の目標がはっきりしているからだろうか、授業は苦じゃなかった。 新しく出来た友人たちも面白く、話題には事欠かない。 本当に、楽しくて、だからあたしはそんな時間に埋もれていった。 それでも、心の片隅には何時も、あいつの顔があった。 あの時見た、死人のような表情。 あたしの知らなかった、あいつの顔。 あれから幾月もの時間が流れた今でも、鮮明に思い出すことが出来る。 脳裏に焼きついて、どうしたって消えてくれはしなかった。 あたしは悶々とした気分を抱えながら、それでも表面上は明るく楽しく、日々を過ごしていた。 そんな時だった。 偶然にも朋也と再会したのは。 コンパの帰りだった。 今日のコンパは、思いっきりハズレだった。 相手は国立大学の医学部生で、仕切りを担当した友人に言わせれば『顔良し、頭良し。その上、将来性抜群の超お買い得品よ!』らしいのだが、あたしとはどうにも波長の合わない男ばかりだった。 妙に偉そうで、自分のキャリアを鼻にかけている雰囲気といい、女を値踏みするようなドロドロとした視線といい、本当に国立大学の学生なのかと疑いたくなるような頭の悪い話題といい……とにかく、気に入らなかった。 (まぁ、そういう場、なんだけどねぇ……) 思わず、ため息が漏れる。 分かっているのだ。コンパとはそういう場で、そしてそこに居るあたしも、あいつらと同じ側の人間なんだって。 だけど、なかなか割り切れる事ではない。 そもそも、何故コンパになんか参加しようと思ったのだろう。 ただの付き合いのつもりだった。もともと、友人に頼まれて行ったのが最初だった。何でもあたしは『戦力』になるらしい。何の『戦力』なのかは分からなかったし、分かっても呆れるしかないだろうから聞かなかった。 コンパは、それなりに楽しかった。 いや、より正確な言い方をするならば、楽しいコンパも確かにあった。 短い時間、お酒とその場のノリのおかげとは言え、色々な事を忘れられた。 羽目を外しすぎて、色々危ない橋を渡ったこともある。 かなり格好いい男がいて、そのまま『お持ち帰り』されてしまいそうになった事もある。まぁ、ギリギリで、朋也の顔が浮かんできて抵抗――というには少々過剰防衛であったかもしれない――したのだが、その後で何だか少し自分が情けなくなったのを覚えている。 ここまで来ると、ある種の呪いだな―――と。 だからたぶん、こんな事を続けているのは、朋也のことを忘れるためなのだろう。 いい加減、あたしはあたしの倖せを見つけないと、人生を棒に振ってしまう気がしていた。 だからこんな、就職活動の忙しい時期に無理やりセッティングされた、あからさまにダメそうなコンパにも参加してしまったのだ。 だが……結局、それは未だ叶えられていない。 そもそも、しっかりとした、きっちりとした区切りを付けなかったから、こんな事になっているのだろう。 ちゃんと振られていれば、良かったのかもしれない。 ちゃんとお別れの挨拶をしておけば良かったのかもしれない。 とはいえ、そんな事が出来るようなら、最初から苦労はしないのだ。これは最早、性格というよりは人格そのものであり、二十年以上生きてきて、今更スイッチを切り替えるように変えられないもの。あたしは一生、今のあたしと付き合っていかなければならないのだ。 などと鬱々と考えていたからだった。あたしは丁度曲がり角を曲がってきた相手と、思い切り正面衝突してしまった。ドンッと硬い胸板に鼻を打ちつけてしまい、一瞬目の奥に火花が散る。 酔っていて気が強くなっていたあたしは、すぐさま、文句を言ってやろうと相手を睨みつけ―――そして、そこにいるのが見知った顔であったことに気づいた。 「朋也……?」 「……杏か?」 驚いた。本当に、心臓が飛び出すんじゃないかというくらいに、驚いた。 驚きすぎて、逆にそれをストレートに表現できず、硬直してしまったくらいだった。 そこにいたのは、間違いなく、岡崎朋也―――その人だった。 「奇遇だな。こんなところで」 「あ、え……うん。そうね」 「なんだ? 変だぞ、お前」 そう言ってあたしの顔を不躾にも覗き込んできた朋也は、あの時見たような死人の顔ではなかった。 昔に戻った……という程ではないにせよ、ある程度、眼に光が戻っていた。 吹っ切れたのかな―――なんて、一瞬そう思った。 だけどすぐに、違う事に気づいた。 朋也からは僅かにアルコールの匂いがした。 あたしだってアルコールを飲んでいて、その匂いをさせているのだから、それでも感じ取れるという事は、つまりあたし以上に飲んでいるという証拠だ。 朋也もまた、呪縛から逃れられていない。 だからなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。 パニック状態から復帰したあたしは、提案していた。 「ねぇ、これから飲みに行かない?」 「……悪ぃ、さっきまで飲んでたんだ」 「あたしもそうよ?」 「…………」 「いいから、来なさい。飲み足りないのよ」 そう言って、朋也の手を引いて歩いた。 朋也の手は、高校時代に触れたそれよりもずっと厚く、固くなっていた。ザラついていて、触れ合う指先が少し痛い。 それでも、その温かみは昔と一緒だった。 「奢ってよね!」 「おいおい……俺は安月給なんだぞ」 「大学生と割り勘で、恥ずかしくないの?」 「…………」 痛いところを突かれて、憮然とした表情で黙り込む朋也。 この子供っぽい反応は、高校のときのそれと全く同じだった。 あたしたちが入ったのは、小さな居酒屋だった。 外観も内装もオンボロで、昭和の匂いがプンプンするような、そんな店だ。 大学の友人たちとは、間違っても入らないだろう。 当初、あたしも良く知っているチェーン店に入ろうとしたのだが、朋也が「そんなところで飲んでんじゃねえ」とか言って、こっちに連れて来てくれたのだった。 あたしはビールを頼み、朋也は焼酎を頼んだ。 付き出し――なるほど、なかなか確かな味だった――を摘みながらメニューを眺める。それは商品のイメージ写真なんて一つも載っていない、むしろ『お品書き』というべき代物だった。朋也は、こういう店が好みなのだろうか? その後、あたしたちはとりあえず近状を語り合った。と言っても、話したのは主にあたしで、朋也はずっと聞き役だった。あたしの方も、わざわざ彼の地雷原に踏み込む気にはなれなかった。 いや、あるいは―――単純に浮かれすぎていて忘れていただけかもしれない。 「飲んでたって、もしかして、コンパってやつか?」 「そうよぉ〜」 「はぁ……大学生は気楽だな、ったく」 「あははっ、悔しかったらあんたも大学生になってみなさい!」 「うるせぇ、受験勉強なんかやってられるかよ」 「確かに、あんた馬鹿だもんねぇ」 そう言って、「あははは」と豪快に笑う。それに対して朋也は、ぶすっとした顔で「馬鹿じゃねぇ。ただその気がなかっただけだ」なんて言った。 そんな感じで二時間以上、あたしたちは飲み続けた。後々考えれば、かなり酷いペースだったのだが、その時のあたしたちは、次から次へとお酒を注文していた。 まるで、坂道を登っているときのSLみたいだ。次々と補給し続けていなければ、すぐに前へと進む力を失ってしまう。そうなれば、後は逆方向に落ちていくだけ。 朋也はどうだったのか、分からない。 だけど、あたしは分かっていた。 その点、酷く自覚的だった。 上がったテンションが少しでも落ちた瞬間、ほんの一瞬でも会話が途絶えた瞬間、この時間は終わりを迎えてしまうのだ……と。 テンションが上がり続けている限り、この時間は終わらない。 この楽しい時間は、終わらない。 あたしは、終わらせたくなんてなかった。 だから、飲み続けた。 そんなペースで二時間。 当たり前の話だ。 あたしは、自分でもどうしようもないくらいに、酔っ払っていた。 「あたしさぁ、高校の時から、アンタのこと好きだったんだからねぇ」 どんな話の流れでそうなったのかは分からないが、気づいたら、あたしはそんな事を言っていた。 朋也も酔っていた。 あたしの爆弾発言に気づかない様子で、 「そりゃ、嘘だ」 そんな風に笑った。 ……頷けばよかった。 笑って、「バレた?」なんて言えば、それで良かったのだ。 そうすれば、何も変わらなかった。 そうすれば、誰も傷つかなかった。 だけど、あたしはどうしようもなく、酔っていた。 笑った朋也が嬉しくて、止まらなかった。 止められなかった。 「ホントよ」 「でも、俺はお前に何度も殺されそうになったぞ?」 「愛情表現よ」 「嫌な愛情表現だな、おい」 「人様の愛情表現にケチつけるんじゃないわよー」 「お前、言ってること、無茶苦茶だからな?」 まるで、あの頃に戻ったみたいだった。 幼く、無邪気で、何も知らず、苦しみと悲しみを知らず、世界の残酷さを知らなかった、どうしようもなく倖せだった高校時代に。 今はもう、眼を閉じても、朋也の苦しんでいる顔は見えない。 あの頃と同じ、笑っている顔しか見えない。 それがどれ程の倖せなのか、きっとあたし以外の誰にも分からない。 あたしだからこそ分かる、その掛け替えの無い幸福。 こんなに楽しいお酒は、初めてだった。 コンパなんか、比べ物にならなかった。 だから、店を出たときには、あたしは既に自分ひとりでは立っていられないくらいになっていた。 「どうするよ……帰れるか? 送ってやるぞ?」 「イヤァ」 「嫌ぁ?」 「泊めて」 「家にかよ……」 「いーでしょぉ、別にぃ」 酔っ払った頭で、そう言えばあたしは一度もこいつの家に行ったことがなかったんだなぁ……と思い出す。まさか遠慮する間柄でもなかっただろうに。なんとなく、近づき難かった。渚が居た、その時は。 「ねぇ〜、ねぇ〜?」 「あー……もう、仕方ないか……」 朋也は結局、折れてくれた。 酔っ払いに理屈は通じないと諦めたのかもしれない。 面倒臭そうにしながらもあたしを支え、家まで運んでくれた。 「おい、まだ寝るなよ? ちゃんと布団敷いてから――――」 朋也の声は、あたしの頭にはほとんど届いていなかった。 グアングアンと、凄い勢いで回転する視界の気持ち悪さに耐え切れず、ベタンと倒れこむ。 自分の頭さえも支えきれないあたしは、ぐにゃりと陸に打ち上げられたクラゲみたいに、全身を畳の上に投げ出した。 目に映るのは、メリーゴーラウンドのように回転する天井。 そしてこちらを覗き込む、朋也の顔。 あたしはそれを見つめ続ける。 この場所に、この布団で―――こんな風に、渚が眠っていたのだろうか。 こんな風に、朋也の顔を見つめながら、眠ったのだろうか。 そう考えた瞬間、何故だか無性に腹が立った。 だから、というわけでもないだろう。 対抗心、なんてそんな単純なものじゃない。 それは色んな感情が複雑に絡まりあって出来た―――欲望だった。 「ねぇ……あたし。ホントにアンタの事……」 キスをしたのは、あたしから。 倒れたあたしを布団の上に移動させようと近づいてきた朋也の首に腕を回し、力いっぱい、叩きつけるように唇を合わせた。 そして驚く彼を、そのまま押し倒した。 全ては、あたしから。 だから、責任はあたしにある。 あらゆる罪は、あたしにある。 あらゆる罰も、あたしにある。 酔っていたのだ。 朋也は酔っていたのだ。 酔っていて、そして、寂しかったのだ。 どうしようもなく、寂しかったのだ。 だから、それは―――仕方のないこと。 生き物だから。 ここに居るあたしは一匹の雌で、 そこに居るあいつは一匹の雄だった。 だから、これは、あたしの責任。 全てが終わって、眠りに落ちていく一瞬。 耳元で、声が聞こえた。 「なぎさぁ……」 あぁ―――――― ・ ・ ・ 翌朝、正気に戻ったあたしは、自分のしてしまったことの重大さを、これでもかという程、思い知らされた。 目を覚ました朋也は、隣に居るあたしを見つけると、一瞬不思議そうに首を傾げた。 しかしそれは、本当に一瞬だけだった。 すぐに朋也は、昨夜の出来事を全て思い出し―――顔を蒼くした。 それは、むしろ滑稽なくらいだった。 深海のような蒼。 夜空のような蒼。 そして、 死人のような蒼。 人間の顔がこれほどまで蒼くなれるのか、という限界に挑戦しているかのようで、もしそれが一発芸だというのなら、あたしはお腹を抱えて大爆笑していただろう。 だが、もちろん、そんなものじゃない。 一発芸なんかじゃ―――冗談なんかじゃ、なかったのだ。 朋也は謝った。 「すまない。すまない」 そう言って何度も何度も、額を畳に押し付けながら。 「すまない。すまない」 あたしがどんなに宥めても、笑っても、怒っても、拗ねてみても―――何を言っても、彼は止めなかった。 全ての責任はあたしにあるのだと言い聞かせても、聞かなかった。 泣きながら、嗚咽を漏らしながら。 「すまない。すまない」 そう言い続けた。 「すまない。すまない」 その声が頭の中でガンガンと鳴り響く。 「すまない。すまない」 頭が痛い。 頭が割れそうだ。 「すまない。すまない」 五月蝿い。 黙れ。 「すまない。すまない」 静かにして。 喋らないで。 あたしに、聞かせないで。 「すまない。すまない」 もう、お願いだから。 止めて――――。 「すまない。すまない」 そして、あたしの中で、何かが壊れる音がした。 気づいたら、あたしは彼を引っ叩いていた。 呆然としていた。 自分が何をしているのか、まるで分からなかった。 あたしの意識は宙に浮いていて、勝手に動いている自分の身体を見つめている。 そんな錯覚。 そんな夢幻。 だけどそこにいるあたしは本物で、聞こえてくる声も、手のひらの痛みも、錯覚でも夢幻でもない、現実。 あたしは、走った。 朋也の家から飛び出した。 走って、走って、走り続けた。 乱れた髪とか、服とかは、まるで気にならなかった。 ただ走り続けた。 朋也の声から逃げるように。 「すまない。すまない」 彼はそう、何度も謝っていた。 本当に真剣に。真摯に。 でも―――それは誰に? 分かっている。 分かってしまった。 それは、あたしではない。 あたしではない誰かに。 あたしの向こうに見た―――あの子に。 こんな事なら、ずっと閉まって置けば良かった。 閉まっておければ、みんな倖せだった。 こんなに苦しい思いをしなくたって済んだのだ。 誰も―――傷つかなかったのに。 高校時代の記憶。 倖せの記憶。 笑い合う、二人。 壊れてしまった。 あたしが、壊したんだ。 あたしは、大声で泣いた。 [No.85] 2006/12/22(Fri) 22:47:42 |
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