第26回リトバス草SS大会(ネタバレ申告必要無) - 主催 - 2009/02/05(Thu) 21:25:32 [No.908] |
└ 死ねない病 - ひみつ@6617 byte まにあったきがする - 2009/02/07(Sat) 21:33:50 [No.925] |
└ しめきりー - 主催 - 2009/02/07(Sat) 00:15:37 [No.923] |
└ 持たぬ者 - ひーみーつ@6144Byte - 2009/02/07(Sat) 00:05:34 [No.922] |
└ [削除] - - 2009/02/07(Sat) 00:00:46 [No.921] |
└ 馬鹿につける薬はない - ひみつ@10133byte - 2009/02/07(Sat) 00:00:25 [No.920] |
└ ガチ魔法少女 マジカル☆みおちん - ひみつ@13165Byte・作者は病気 - 2009/02/06(Fri) 23:58:32 [No.919] |
└ 桃缶はっぴぃ - ひみつ@9202 byte - 2009/02/06(Fri) 22:57:21 [No.918] |
└ 風邪をひいた日に - 秘密 @4507Byte - 2009/02/06(Fri) 22:47:32 [No.917] |
└ 手樫病 - ひみつ@9345 byte - 2009/02/06(Fri) 22:43:28 [No.916] |
└ 世界の卵 - ひみつ@19577byte - 2009/02/06(Fri) 19:16:02 [No.915] |
└ pony症候群 - ひみつ@12934 byte - 2009/02/06(Fri) 18:04:37 [No.914] |
└ 一滴の涙 - ひみつ@14144 byte - 2009/02/06(Fri) 07:36:37 [No.913] |
└ 裏庭での一時 - ひみつ@17018byte(冒頭、若干修正) - 2009/02/06(Fri) 05:09:24 [No.912] |
└ わらしべクドリャフカ - ひみつ@20356 byte - 2009/02/06(Fri) 00:01:36 [No.911] |
└ 父娘の平日〜看病編〜 - ひみつあーんど初 5810byte - 2009/02/05(Thu) 21:46:40 [No.910] |
少年はそこが何処なのか理解していなかった。見知らぬ街並みを見知らぬ人々が滑つく足取りで通り抜けていく。自分の家の方角は凡そ理解している。何せここまで走ってきたのは自分なのだから。しかし、その道順はすっかり記憶から失せていた。 端的に表現してしまえば、彼は迷子である。誰に聞かれたって帰り道なんて分からない。それでも赤く染まった顔に不安はなかった。彼にとって自分が迷子であるという認識などなく、迷路の途上だったのだから。少年の名前は翔。だから翔る。道は知らないし何処かも分からないが、とにかく翔ていく。空は青い。身体も軽い。通い始めた小学校は楽しいが、友達は居ない。とある事情から彼は他人に敬遠され、何時だって一人きりだった。それを寂しく思う感情はある。だが、それよりも強い愛情が小さな身体に溢れていた。 夏の日差しに気付けばすっかり汗だくで、髪に篭る熱に驚くほどだった。帽子を被ってくるべきだったと少しだけ後悔する。後悔なんて長くは続かないけれど。心の高揚感に反して肉体の疲労感は小さくなかった。丁度通りかかった公園で一休みする事にする。 公園なんて何処も大差ない。ブランコがあって滑り台がある。翔はそれを知っているから、迷わずベンチへと向かった。 「あ……」 その足が止まったのはベンチに一人の草臥れた男が居たからだった。 背を丸め手の中で缶コーヒーをゆらゆらと動かしている。お盆休みであり身なりも整っている事からホームレスではないようだが、退屈そうに欠伸を繰り返すその姿は何処となく野良猫を髣髴とさせる。 なんだかその仕草が可愛く思え、翔は怖れる事無く男性へと声を掛けた。 「おじさん、暇なの?」 男性は少し驚いた様子だったが、相手が子供だと分かると表情を和らげ頷いた。 「お兄ちゃんは、確かに暇だよ」 「おじさん、もしかして怪しい人?」 「お兄ちゃんだから、全く怪しくはないさ」 拘る年頃なのかもしれない。翔には良く分からなかった。それよりも何故こんなところで退屈そうにしているのかが気になっていた。大人の男の人は何時も仕事が忙しくて、父親がそうであるように少しも構ってくれないものだと信じている翔にとって、よほど奇妙に感じられたのかもしれない。 覗き込んで来る真っ直ぐな瞳に男性は困ったように視線を逸らしてみせた。それから少し間をおいて子供のような顔をして告白した。 「いやいや、ちょっとお掃除中の嫁さんにちょっかいを出したんだけど、怒られちゃってね」 「イタズラしちゃいけないんだよ」 「君はとても良い子みたいだけど、分かっていないね。あの後姿を見ていると、こう……沸々とちょっかいを掛けたくなるもんなんだ。君だって学校でスカート捲りの一つもするだろう?」 「そんなのしないよ!」 「しないだって? 駄目だ駄目だ、スカート捲りの一つも心得ていない人間は、まともな大人にならないよ」 「でも……してた奴、先生に怒られてたよ」 「如何なる強権によっても、この内なる情動は屈しない!」 翔には良く意味が分からなかったが、とりあえず面白い人であることは間違いなかった。何せ、周りに居る大人と言えば誰も彼も自分の話を聞くよう言いつけるだけなのだ。何時だってそれらの言葉は高い位置から降り注ぐだけで、何処までいっても一方的でしかない。だから目の前の人物がとても対等に感じられて嬉しかった。 「少年、君の名前は?」 「翔! 翔って書いてかける!」 「そいつは良い名前だ」 「おじさんは?」 「お兄ちゃんの名前は、理樹だよ」 ・ ・ ・ 悪意は無かった。善意ではなかったし、欲望に塗れていたのかも知れないが、少なくとも邪魔するつもりではなかったのだ。結果的に邪魔になってしまっただけの話で。 お盆休み、退屈を持て余していた理樹は詰まらないワイドショーを肴に惰眠をむさぼっていたが、それにも限界があった。やれ誰それが結婚しただの離婚しただの下劣な好奇心が溢れ、チャンネルを変えれば大食いタレントが登場し、もう一つ変えれば節約特集が流れる。混沌としたその映像に、理樹は新種の拷問であると結論した。 生憎と苦痛を覚えながら電気を浪費するほどマゾヒストではない彼はテレビを消した。するとたちまち、窓ガラスの向こう側から蝉の大合唱が聞こえてくる。中の雑音と外の騒音。どちらがマシかと問われれば、答えは決まっていた。 即ち、嫁の尻だ。嫁の尻と書いて現実逃避と読む。92年製の無骨なエアコンは愛情の欠片もなくゴォゴォと老人が咳するように冷気を吐き出していたが、室温の上昇を辛うじて防いでいるだけで、座っているだけでも汗が浮かぶほどだった。 だから愛する女性は、三日三晩掛けて説得し着用してもらったハート型のエプロン以外には、タンクトップとホットパンツだけの姿で掃除していて、剥き出しの太ももと張り詰めた尻肉がしきりに揺れて見えるのである。 我慢できるわけもなく飛びついた理樹を、華麗な回し蹴りが襲った。暑さに苦しみながら家事をこなしている彼女にとって、だらけた旦那の存在は堪らなく鬱陶しいものだったのだろう。容赦の欠片も無いそれに吹き飛ばされた理樹を更に踏み付け、彼女は宣言した。 「出て行け、もしくは出て行く!」 フーッと猫のように威嚇する愛する嫁を前に旦那が出来る事は、只管雷雨が過ぎ去るのを祈って待つ事だけと古来の碑文にさえ記されている。 そんなわけで、一人ぶらぶらと公園にやってきたわけだが、すっかり退屈していた。パチンコなどのギャンブルに興味はなく、映画を一人で見に行っても意味はない。とりあえずベンチに座ってみたものの、次なるプランは思い当たらなかった。嫁の機嫌が直るまで、まだ数時間は掛かるだろう。 キンキンに冷えていたはずの缶コーヒーはすっかり温くなり、不味さばかりが際立っている。不健康飲料として登録したいほどの甘さにウンザリしながらも、捨てられないのが貧乏人の性だった。 直ぐ傍にある灰色のゴミ籠には誰かが捨てたスポーツ新聞があり、それに手を伸ばしかける事、数度。普段読まないが、退屈しのぎにはなるだろう。しかし、どうにも汚らしい行為のように思えて、理樹はその衝動を抑えていた。 あるいは、このまま三十分もすれば羞恥心などかなぐり捨てていたかもしれない。退屈に狂うか熱で狂うか、そのどちらか限界が訪れていただろう。 だから、翔の登場は理樹にとって僥倖だった。 面白い少年に出会った。それが最初の感想だった。見た限り、小学校に入りたてという程度の年頃である。大きな瞳は好奇心に輝いていて、身体全体から活力が溢れていた。とてもではないが現在の理樹には出せない力が、そこに見えるようだ。 物怖じしない幼い翔に、若干のこそばゆさを感じながらも理樹は微笑む。 「翔はこんなところで何をやってるの?」 「走ってる!」 「走ってるって……何で? スポーツでもやってるの?」 「ううん、違うよ。ただ走ってるだけ」 「どこか行きたいところがあるの?」 「あるよ!」 満面の笑みを浮かべ身体全体で頷く翔に、理樹は少しだけ戸惑っていた。公園に立ち寄ったのは軽い休憩だったのかもしれないが、それにしても急いでいる様子は見られない。この炎天下、走ってまで向かいたい場所があるのだからよほど重要な用事だろうに。 「この近く?」 「わかんない。知らない」 「知らない? なんで?」 「だって、誰も知らないもん。おじさんは知ってるの?」 「待って。もしかして、迷子だったりする?」 「じんせいにまよってる!!」 元気良く叫びながら煙草を吹かす仕草は、テレビドラマか映画の真似事なのだろう。言葉の意味も良く分かっていない様子で、ニコニコ笑顔だった。理樹は知らなかったが、それは日曜の朝にやっている『ハードボイルドライダー・V3』という特撮ものの主人公のキメ台詞だった。 さて、困ったぞ……と理樹は脳内で独り言ちた。少年との会話は退屈しのぎにはもってこいだが、迷子の相手は若干手に余る。泣きもしなければ不安の欠片も見られない翔だが、それが三十分後も続いている保証などありはしない。不安は突然空を覆い、涙は必然降り注ぐ。 「翔は、一人? お友達は居ないの?」 「……友達、居ないから」 軽く地雷を踏んでしまった事実に、理樹は頭を抱えたくなった。 だいたい、夏休みに一人でいる事から想像は難くないだろう。普通なら網と籠を持って仲間達を走り回っているはずだ。最近なら携帯ゲーム機かもしれないが、凡そこれくらいの歳の子供が一人きりというのは、何かしらの事情があるはずだ。 理樹の脳裏に、かつての自分の姿が浮かんだ。彼もまた、一人きりだった事がある。 瞼を閉じれば、幼い恭介の姿が僅かな誤差も無く浮かび上がった。真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐに手を伸ばしていたその姿は、今でも、あるいは今だからこそ夏の太陽よりも輝かしい。救い出してくれた、そして引っ張ってくれたその手の厚さと温もりは永遠に刻まれている。 だからこそ、自分がどれほど恵まれていたかも分かっていた。例え何百の人生をやり直したとしても、恭介とはもう二度と出会えないだろう。そして彼が居なければ他の誰とも出会えなかっただろう。リトルバスターズという奇跡のようにあり得ない仲間を持てた自分は恵まれている。愛されている。 その証拠として、翔のような孤独な少年が居る。 「だって、仕方ないもん。一緒に遊べないんだもん」 「遊べない? どうして?」 「だってだって……」 翔はそこで少しだけ躊躇っていた。口をもごもごと動かして、言葉を租借し吟味しているようだった。聞いてはいけない事だったかと理樹がたっぷり冷や汗を掻く時間を置いて、少年は唇を尖らせながら言った。 「いっつも、いきなり寝ちゃうから」 「寝ちゃうって、夜更かしでもしてるのかい?」 「違うよ! そういう病気なの。お休み病!」 「…………ナルコレプシー?」 「あっ、そうだっ! そんな変な名前!」 不可思議な手品でも見たかのように目を見開きながら肯定した翔に反して、理樹は何てことだ、と今度は本当に頭を抱えた。 そんなところまでそっくりだと、奇妙すぎる縁に眩暈を覚える。 理樹は既にそれを克服している。だがかつてはそうだった。突然襲いくる睡魔に度々意識を奪われ、その度に周りの人に迷惑を掛けた。恭介達のように、助けてくれる仲間が居なければ、友達など出来なかった。出来るはずがなかったのだ。 「おじさん、どうかしたの?」 「いや、なんでもない。何の因果かって思っただけだよ」 「インガ?」 「困っちゃうくらいの偶然って意味さ」 「おじさん、困っちゃったの?」 「ん? いや、そう言われてみれば別に困るような事じゃないのかもしれない。あ、けどむしろ翔の方が困っちゃうんじゃないか? ナルコレプシー……翔のお休み病は突然やってくるんだから、一人でいたら危ないよ」 「大丈夫だよ。だって僕、ワープ出来るんだから」 「ワープだって? そいつは凄い、君は超能力者なのか」 理樹が感心すると、翔はよほど嬉しかったのか鼻息を荒くした。少年にとって、ここまで話が通じる相手は初めてだったのかもしれない。理樹にとっても記憶がある、理解者の存在は心を強くする。彼はヒーローのように胸を張って宣言してみせた。 「それだけじゃない、僕は死んだ人とだって会えるんだ!」 「死んだ人と?」 「そう! 眠るとね、次に眼が覚めた時、色んな場所に居るんだ。学校の保健室だったり、家だったり、車の中だったり、あっちこっちワープしちゃって、すっごく困るんだけど、時々だけど見た事もない場所に辿り着くの。そこにはお母さんが居るんだよ」 「……それは、いや、うん。凄いな」 言葉を濁したのは、理樹がワープの正体を知っているからだった。ナルコレプシーは場所や時間を選ばない。本人にさえどうしようもない睡魔が訪れ、強制的に眠りへと誘う。たとえ道端であったとしても、だ。 そんな場所で子供が倒れていれば、常識的な大人が無視する事は出来ないし、また社会的に許されない。誰かが安全な場所へと運んでいるだけだ。眠っている本人には分からないが、ワープしているわけではない。 「死んだ人とも会えるって言ったけど、もしかして翔のお母さんは?」 「うん、死んじゃったの」 「そっか。寂しいね」 「でも、会えるから良いの! 時々しか会えないんだけど、ちゃんとお話も出来るもん」 これについても、理樹は答えを知っていた。 ナルコレプシーには入眠時に幻覚を見る事がある。幽霊などの心霊現象を見るという例があるのだ。だが、それらはただの幻覚であり、夢は所詮夢だ。どれほど現実的であったとしても、存在しないものなのである。 「翔は、そんなにお母さんに会いたいの?」 「なんでそんな事、聞くの?」 当たり前の事を聞かれ、翔はとても不思議そうだった。それと同時に、瞳の中に僅かな、初めて見せる警戒の色を悟り、理樹は言葉を濁す。 「ほら、お父さんとか……色んな人に心配をかけるじゃないか」 「そうかもしれないけど、お母さんに会いたい」 「お母さんの事が大好きだったんだね」 「うん! お母さんはね、とっても優しいの! だから会いたいよ!」 「その気持ちは、分かる」 「おじさんも会いたい人が居るの? あっ、もしかしたらおじさんも一緒に行けるかもしれないよ。一緒に居たら、会えるかもしれない!」 「……ありがとう。でも、ごめん。その人達とはもう会えないんだ」 「なんで? そんな事ないよ、ちゃんと会えるよ?」 「そうだとしても、会っちゃいけない。会おうとも思っちゃいけない。それを望んでしまったら、僕はイカロスになってしまう」 「イカ? なんで?」 「あぁ、まだ知らないのかな。学校の音楽の授業で絶対習うと思うんだけど、昔々イカロスって名前の男の人が居てね、蝋燭で固めた羽で空へと飛び立ったんだよ。でも、あんまりにも高くに上がってしまったから、お日様の光で羽が溶けちゃったってお話」 「……つまんない」 子供は正直だ。理樹は思わず苦笑してしまった。夢のようなお話は夢でしかなく、待っているのは現実としての結末なのだから、これほど退屈なものもない。 「実はね、お兄ちゃんも翔と同じ病気だったんだ。僕は翔みたいに死者には会えないけど、何時だって直ぐ傍に眩しい光があった。僕にとってそれこそが目指すべき場所で、そのためにずっと走ってた。でも今は少しだけ違う。凄く綺麗なものがそこにあるのは知ってるけど、僕らはそれを求めるべきじゃないんだよ。イカロスみたいにさ、近づき過ぎて落ちちゃうよりも、地面の上で生きていくべきだって」 「……つまんない!」 吐き出された少年の声には強い憤りがあった。賢い子だと理樹は思う。伝えなければならない事だが、伝えたくはないというのが理樹の本心だった。だから出来る限り迂遠に話を運んだ。不思議そうにしていてくれたなら、むしろ成功だとさえ考えていたほどだった。 死者を求めるべきではない。彼らとはもう会えないのだ。 「そんなの嫌だ! おじさんもお父さんみたいな事を言う! どうして皆、そんな事を言うの、どうしてお母さんと会わせてくれないの、会えるんだから、本当に会えるんだから、僕は知ってるの、眠ったら会えるんだよ、会えるのお母さんと会える!」 「分かってる。分かってるから」 「わかってない! お母さんに会えるんだ! 会えるんだから!」 乗り越えるには余りにも高い壁がある。現実という名のそれに幼い心は我武者羅にぶつかり時には砕けそうになる。理樹にはその記憶があった。認める事の出来ない事実を前に膝をつき崩れ落ちる瞬間があった。 それでも、死者とは会えないし、それを願うべきではない。もし本当にそれを望んでいたのなら、太陽よりも高く飛ぶ事が出来たのなら、そんな風に考える事はあった。膝を抱える鈴の手を取ってもう一度挑戦していたとしたら、そんな夢を見る事はあった。そうしていれば、もしかしたら自分達はずっとリトルバスターズで居られたのかもしれない、などと。その度にあり得ない事だと自嘲するのが彼の癖になっていた。恭介は助からなかった、真人も謙吾も助からなかった、理樹と鈴以外は誰も助からなかった。それが、現実だ。 それでも幼い少年には認めがたいものだったのだろう、ついには癇癪を起こし始めた彼の身体から、急に力が抜けた。操り人形の紐が切れたようにその場に崩れ落ちる。 理樹は慌てて軽いその身体を受け止めた。受け止められる側としては熟練だったが、受け止める側は少ない理樹だから、若干乱暴になってしまった。それでも、ゆっくりと瞼は落ち、翔は夢の中へと去っていく。 強い感情に誘引されやすいその眠りは、かつての自分にそっくりだ。だからこそ、受け止める事に成功した後は冷静だった。理樹は当然のように翔のポケットを探り、そこから薄い財布と共に一枚のカードを取り出した。携帯を持っているかと思ったのだが、どうやらそれだけらしい。 症状が時と場所を選ばない以上、万が一の事を考えて常に氏名と連絡先が分かるものを持っているのは当然だ。カードはどうやら翔の自作らしく、のたうつ平仮名で名前と住所、電話番号が書かれていた。 「なんだ、直ぐ近くじゃないか」 あまりの読み難さに何度か角度を変えながらようやく解読した理樹は、思わず呟いた。迷子と思っていたから、何処からやってきたのかと考えていたが、表記された住所はものの十分ほどで辿り着く距離だった。 この距離なら電話するよりも直接送った方が早いだろう。 理樹は翔を背負い上げると、歩き出した。 「何時かきっと、君もその夢から覚める時が来るよ。死んだ人とは会えないし話せないんだ。それが悲しくてたまらなかったとしても、僕らは皆、受け入れて生きていくべきなんだよ」 好きな人が出来れば、尚の事そう思うだろう。理樹は無性に愛する人に会いたくなった。まだ怒っているかもしれないが、土下座してでも許してもらおう。それでしっかりと抱きしめていたい。 だから祈るしかない。今はただ、翔がそれを乗り越える日を。それまで見守るしかないのだ。案外、恭介も同じような気持ちだったのだろうか。理樹はそんな風に考えてみた。あんな悲劇がなければ、あるいは彼は何時までだってその場所で待っていてくれたのかもしれない。 翔の家は直ぐに発見できた。見るからに草臥れたアパートの一室だった。表札はなかったが住所は確かであり、錆びた金属のドアの奥からはテレビの音が聞こえていた。雌の蛍のようにひっそりと佇むチャイムを鳴らすと、低い女の声が返ってきた。 「……女の人?」 てっきり父親が在宅しているのだと思っていた理樹は、ドアを開けて現れた女性の姿に困惑した。もしかしたら再婚したのかもしれない。そう思うのだが、目の前の彼女からは母親のイメージがどうしても浮かんでこなかった。 ほとんど下着同然の薄着の彼女は理樹を見て眉を顰め、それから背負われている翔へと視線を移し、たちまち表情を醜く変えた。 「糞ッ、またか!」 酒焼けし擦れた声はドスが効き、思わず引いてしまうほど迫力があった。化粧をしていない顔が真っ赤に染まっているのは羞恥ではなく怒りに起因したものである事に疑いようはなく、理樹はさらに混乱する。 「あの……お姉さん、ですか?」 「どうして何時も何時もあたしの所に!」 「こちらの住所が書かれたカードを持っていたのですが、もしかして間違っていましたか?」 「カード!? またっ、こんなの作って!」 理樹が確認のために差し出したそれを彼女は乱暴に奪い取ると、びりびりに破いてしまった。本能的に危険を感じ、理樹はこの女性に翔を渡すまいと後ずさる。だが、伸ばされた腕は少年の服をしっかりと握り締めた。 「ちょ、ちょっと待ってください!」 「五月蝿い! アンタには関係ないでしょ!」 「関係あります、そんな乱暴に……」 「自分のガキをどう扱おうが、親の勝手じゃない!」 「……親? 親、ですか?」 では女性に見える目の前の人物は、実は男性だというのか。理樹は目を凝らして見たが、何処にも男性的な部分は見えなかった。メイクもしていない荒れた肌は女性的な柔らかさがあり、口元にヒゲの色も見えない。 事実として、彼女は女であった。 「で、でもお母さんは亡くなったって」 「死んだわよ! あたしはもうコレの親じゃない! こんなの要らないのに!」 理樹は言葉をなくした。 では、何故翔は母親が死んでいると思い込んでいたのだ? 父親が離婚した母親と会わせないために嘘を教えたのかもしれない。だが、それなら何故夢の中で出会っているのか。いや、それは本当に夢だったのか? ナルコレプシーの症状として心霊現象を見たという例はある、だが全てがそのように幻覚だったとどうして言えるのか。 彼女の言葉から、こういった事が初めてではない事が覗えた。カードの連絡先が彼女の家であった以上、周囲に彼の立場を理解している人間が居ない場合、当然連絡が入る。 翔は何度も、この家を訪れている。 だが、そこで母親と会話したのなら、生きている事を理解しているはずだ。 「はぁ? そんなの、コレの妄想でしょ。糞っ、何時まで経ってもガキだんだから! 鬱陶しい! 邪魔なのよ、コレ!」 「違う……あなたは、死んでるんだ。彼の中で、ここに居るあなたなんて居ない」 「は? 何わけの分からない事言ってんのよ! 死んでる? 結構よ、死なせて欲しいわ。こんなモノの親になりたくてなったんじゃないんだからっ!」 「違う。そうじゃないんですよ!」 「死ねば良いのに。こんな馬鹿、死んじゃえば楽なのに!」 理樹は一歩、後ずさった。それは彼の意識を超えたものだった。 肉体的に疲弊していたわけではなく、心が崩れ落ちそうだったわけでもない。 それは、逃避だった。ぐらりと視界が歪んで見える。懐かしいその感覚を懸命に拒絶しながら、理樹は女性の声を聞いていた。 「良い? もう二度とこの糞ガキを家に連れて来ないでよね! 次に連れて来たら、男呼んで追い込み掛けてやるから! 分かった? 分かったらさっさと消えろよ、糞野郎!」 理樹の顔に、彼女の吐き出した唾が掛かった。それでも理樹は、優しさも愛情も感じられない力で翔が床へと投げ捨てられるのを見ていた。ナルコレプシーの力は強く、ちょっとやそっとじゃ起きない。目覚める事が出来ない。だから知る事もない。 それでも、何時かは目覚めなければならないのだ。永遠に眠ったままで居られるわけではない。だが、目覚めたところで、何処に翔にとっての救いがあるというのだろうか。 母親は生きている。本当に会う事が出来る。 それは素晴らしい事だが、絶望の色しか見えなかった。 そこには否定しかない。優しく大好きな母親の姿はなく、翔を拒絶しながら生きる女が一人居るだけで、決して彼の願いとは両立しない。翔が願う日常はそこではっきりと途切れていた。本人の意思とは関係なく、まるで不意の事故のように。 「何度も……繰り返しているの?」 理樹は眠る少年に問いかけた。街中を駆け回り、眠りに落ち、母親の元へと辿り着く事を願い、時には失敗しながらもようやく願いを叶え、しかしそこに待っているのは少年にはどうしようもない現実。 だが、翔はそれを否定する事が出来てしまう。感情の高ぶりによっても眠りに落ちてしまう彼はそこで受け入れる事の出来ない現実を夢に、夢を虚構に、虚構を現実に、一つずつズラす事が出来てしまう。だから母親と会えた事は夢になり、優しかった記憶が現実として残る。 そうして、繰り返す。何度でも、何度でも。 理樹は震える手を伸ばそうとした。届く事の無いその先に翔を求め、その回転する小さな世界に触れようと思った。だが、指先は薄膜のような意識によって遮られた。 バタン、と扉が閉じられた。 [No.915] 2009/02/06(Fri) 19:16:02 |
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