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   第3回リトバス草SS大会(仮) - 主催 - 2008/02/05(Tue) 21:24:01 [No.150]
バレンタイン IN リトルバスターズ! - ひみつ@激遅刻 - 2008/02/09(Sat) 06:36:52 [No.160]
水に流す - ひみつ - 2008/02/08(Fri) 23:02:13 [No.159]
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2ぶんの1 - ひみつ - 2008/02/08(Fri) 03:23:18 [No.153]
水符「河童のポロロッカ」 - ひみつ - 2008/02/08(Fri) 02:20:40 [No.152]
感想会ログとか次回とか - 主催 - 2008/02/10(Sun) 19:10:46 [No.164]



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第3回リトバス草SS大会(仮) (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「水」です。

 締め切りは2月8日金曜午後10時。
 厳しく締め切るつもりはありませんが、遅刻するとMVPに選ばれにくくなるかも。詳しくは上に張った詳細を。

 感想会は2月9日土曜午後10時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.150] 2008/02/05(Tue) 21:24:01
水符「河童のポロロッカ」 (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ



 にゃーう、うにゃう、ごろにゃー。
 群がる猫の眼前で、猫じゃらしをぴこぴこと振ってやる。
 もう片方の手で別の猫の頭を撫でてやり、肩に乗った猫や背中にひっついた猫を振り払うでもなく受け入れる。

「あー、もう。鈴どこに行ったのかなー」

 鈴と付き合うようになってから世話をする機会が増えたとは言え、さすがに十数匹の猫を僕1人で相手にするのはきつかった。
 鈴から言わせれば鍛錬が足りないらしいけど、そんな鍛錬はいらないかなぁと心の底から思う。
 天気はからっ、としたこの上ないほどの快晴。夏が過ぎ秋も半ば、冬に近いこともあって空気は少し乾いている。

「理樹、ちょっといいか」

 背後から声。ようやく鈴が来たようだ。
 けど、今の僕は手が放せない。猫が身体に張り付いているから振り向く事すら億劫だ。

「なぁに、鈴」
「……ちょっと、見て欲しいモノがある」

 そう言った鈴の言葉を理解したのか空気を読んだのか、僕に張り付いていた猫が離れて行く。
 余裕の出来た僕は、猫じゃらしだけをやはりぴこぴこ小刻みに振りながら後ろへ目をやった。

 そこには、

 170cm半ばくらいの緑色の何かを右手一つで摘み上げている鈴が居た。
 そんな大きなものを身体能力が高いとは言え女の子である鈴が持てているのはきっと力の入れ方が上手いのだろう。
 感服する。
 けど、今はそれよりも。

「鈴、……どうしたの、それ」
「なんか朝マックしに出かけたら、途中で河原に居た」

 朝から居ないと思ったらまたそんな。
 多分衝動的な行動なんだろうけど、僕としては誘って欲しかった。悲しいじゃない。

「なんか段ボールの中に佇んでて捨てられてたっぽいから、拾ってきたんだ」
「いやでも、それ鈴」
「なぁ理樹」

 鈴が、真剣な顔で、続ける。


「……河童って、なに食べるんだ?」


 僕にわかるわけないじゃない。





―― 水符「河童のポロロッカ」 ――





 どこからどう見ても鈴が拾ってきたものは河童だった。
 着ぐるみかどうかすらよくわからない。
 肌は見た感じベトベトと粘質でぶつぶつしていて、一見つぶらなような瞳もよく見ると非常にリアル。
 その緑は意外にも明るく太陽の光によく映えて、少し眩しい。
 頭にはすべすべとした皿もついていて、三角形で毛みたいにもさもさした物が周りについていた。
 足も手もちゃんと水がかきやすいようになっている。

 いやでも、現実的に考えて。

「あの……どちら様ですか?」

 僕の弾き出した答えはこれだった。絶対、中に誰か居る。そうとしか考えられない。
 なんか土の上に胡坐をかいて猫と戯れている河童が顔を上げ、困ったように首を捻り、何やら木の板を取り出した。
 すると、それにマジックでキュッキュと文字を書いていく。

『中の人など居ない』
「凄いなこの河童、日本語がわかるのかっ」
「いやいやいや」

 どこから突っ込めばいいんだろう、僕は。
 リトルバスターズで鍛えられたつもりでいたけど、まだまだ甘かったらしい。

「あの、喋れますよね?」
「ゲコグゥー」

 喋れないと主張したいらしい。
 でも口ばしが開いてない。

「馬鹿だな、理樹。河童が日本語喋れるわけないだろ。人間とは声帯がちがうんだから」

 鈴の言葉に河童が大きく頷く。
 その後で何か書くと、高く掲げた。

『水』
「水か、お前水飲むのか」

 フルフルと首を横に振って、頭を指差した。

「なるほど。ちょっと待て、いまそこの水道で」

 そう言って背を向けた鈴の手を、河童が掴んだ。
 また板を出し、

「グラグァー」

 と鳴いた。

『ミネラルウォーターキボンヌ』
「理樹」
「なに、鈴」
「最近の河童はぶるじょあじーなんだな……」
「コーラでもかけたくなってきたよ……」
『そんなんしたら頭の皿が溶ける』

 溶けるんだ……。

「しかも思ったよりデリケートだ……けっこう濁った河でも泳いだりしてるイメージだったから意外だ」
「そもそも存在自体を疑うよ、鈴」
「あたしは半信半疑派だったけど、こうして目の前に河童がいる。肌もそれっぽいしなにより本人が」
『僕は河童です』
「と、書いている」

 そんな腕を組みながら偉そうに言われても。
 もうどうでもいいや。


 兎も角中庭の自販機でペットボトルのミネラルウォーターを買ってくる。

「はい、これでいいの?」

 手渡す。河童は持ちにくそうな手でそれでもしっかり受け取ると、底を見たりラベルを見たりしている。
 器用に蓋を外し、豪快にかけるのではなく猫のミルク用の皿に水を入れてちろちろと流し皿を潤した。
 なんかシュールだ。

「ウガァヴー」
「え、なに、どうしたの?」
「なんか、ちょっと不満そうだ」
『ボル○ィック派じゃなくてエビ○ン派』
「あたしはクリス○ルガイザー派なのに……」
「派閥争いおっぱじめようとしないでよ」

 何やら握り拳を作って立ち上がって対峙した2人(1人と1匹?)を宥める。
 と言うか鈴の順応性の高さが凄い。僕じゃ達し得ない高みにある気がした。
 「うぅ」と警戒心丸出しで目を細めた鈴の手首を掴む。
 「ウジャブー」と対抗した河童の手首を躊躇しながらも掴もうとする。
 と、

「モルスァ!」
「いたっ」

 叩かれた。
 結構痛い。

「理樹! 大丈夫か!?」
「まぁ……一応大丈夫」
『……俺の肌に触れるとガチで火傷するぜ?』
「河童って水場に棲むものなのに!?」
『実は肌のぶつぶつのひとつひとつは全部小型の火山だ』
「こわっ! 理樹、河童ってくちゃくちゃこわい!」
「体内構造どうなってるの……」

 とりあえず触れて欲しくないらしい事はよくわかったけどさ。
 と言うか最初鈴が首のあたり摘んでたんじゃない。
 猫にも触ってたし。むしろ現在進行形で貼り付いてるし。
 僕の視線から何か読み取ったのか、河童はまた板に何やら何やら書き出す。

『心が純粋なら大丈夫』

 純粋の部分を赤文字で縁取りまでして書きやがった。
 僕が穢れているとでも……でもたまに鈴にしてる事を……鈴にされて悦んでいる事を考えれば……穢れてるのかも知れない。
 俯き、視線を逸らす。そよぐ風がなんか痛い。
 すると河童は勝ち誇ったかのような雰囲気を醸し出しつつ(表情は変化してもよくわからない)、板を僕の方に向けた。

『フッ』

 うわぁ。僕らしくないし言動が乱れすぎるのは物凄く自覚あるけど、なんか。
 こ い つ マ ジ で ぶ ん 殴 り た い 。
 睨み付けてやると、それを無視してペットボトルを傾けて水浴び始めるし。にゃうにゃう鳴きながら猫が少し距離をとる。
 ミネラルウォーターで豪快に水浴びする人なんて始めて見たよ。河童だけど。

「さすが河童……水浴び一つとってもむだがない。洗練されたみごとなフォルムだ……」
「え!? ちょっと待って鈴今の感心するところなの!? ……はぁ……そんなに水が好きならさっさと河に帰って平穏に暮らせばいいのに」

 ……思わず本音が口から出てしまった。
 何か気に障ったのか河童がまた凄い勢いで視線を僕の方へと向けてくる(多分睨みつけてる)。

「ヴーマァグゥー!!」

 獣のように喚きながら、ずびしと今までにないほどの壮絶さで板を突き出してくる。

『ポロロッカを舐めるな……!』
「アマゾン川から来たの?」
『弾幕出身の河童です』

 沈黙。わけがわからない
 10秒ほどして、鈴がゆっくりと口を開いた。

「理樹、あたしとんでもない事に気付いてしまった……」
「なに? 言ってみて?」
「この河童、きっとアホだ……きょーすけや馬鹿2人にも負けないほどに」

 何を今更。

「とりあえずもと居た場所に捨てて来ようよこの河童……精神衛生上良くない」
「いくらアホとは言え、……それはそれでなんかかわいそーだ」
『NOと言える河童に僕はなりたい』

 うるさいお前は黙れ。喋ってないけど。

「そんな事を言ってもさ……飼えるわけじゃないし」
『飼ってください』
「理樹……」

 訴えるような上目遣いで、鈴が僕を見てくる。
 これには弱い。けど、ここは冷静に、されど心を鬼にしなくちゃいけない。

「いやまあ、だから現実的に考えてね?」
『いいから黙って飼えよこの鬼畜野郎。あんま可愛い顔してると女体化させて犯すぞコラ』
「もういいよ! 早く捨てて来ようよこいつ! 河原とは言わずクリーンセンターのゴミ焼却炉に!」
「どうしたんだ理樹、いきなり取り乱して」

 よく見たら鈴には見えないようにするためか、さっきとは微妙に板の角度が変わっていた。
 なんて姑息な変態河童なんだ……!!

『……僕にはナイル川で帰りを待つ妻と2匹の子供と97人のファラオが……!』
「え? なにそれ1○1匹ワンちゃんのノリ? って言うかなおさら帰ってよ家族が居るなら」
「あたしもなんかよくわからなくなってきた……」
『(∵)……』

 いやそれだけ書かれても。

『実は出稼ぎに来てます』

 出稼ぎて。

「そうか、ならしょうがないな」
「しょうがなくないよ! なに言ってるんだよ鈴!」

 そう叫んだ時だ。
 ぐぎゅるる〜、とお腹の鳴る音がした。
 2つ分くらい。僕と鈴だ。うにゃ〜と鳴く猫たちが、なんだか笑っているように感じられるくらいには恥ずかしい。

「おなかへった……そういえばけっきょく朝から何も食べてなかった……」

 最初に、鈴が力なく呟いた。
 変態河童見つけてそのまま何も食べてなかったみたいだ。

「……何か買ってくるよ。コンビニのお弁当でいい?」
「この際食べれてあたしが好きなやつで美味しければなんでもいい」

 それはなんでもいいって言わない。

『かっぱ巻き』
「買ってくるから食ったら帰れ」
『えー……まぢぁりえなぃしぃ』
「…………」

 兎も角、ひとっ走りしてこよう。お腹は減ってるけど、それくらいなら何とかなりそうだ。
 学校からコンビニまでは少しあるけど、それでも20分もあれば戻ってこれる。
 1人と1匹に背を向け歩き出す、と、

 ちょんちょん。

 ……肩を叩かれた。振り向くとそこには阿呆河童が。
 右手で板に書いた字を見せ、

『ヘイ待ちなガール』

 ……左手で校門の方を指差している。
 もう突っ込む気すら起きない。突っ込みたくない。疲れる。ちくしょう。

「なに、何か用?」
『マイカーでコンビニまで送ってやるぜ』

 河原で捨てられてた河童がなんでマイカーなんて持ってるのさ。
 最初からだけど言ってる事に一貫性がないよねまるで。


 鈴に行って来ます、とだけ言い、校門まで移動する。
 するとそこにはピカピカに磨き上げられ光り輝く、

 ……『滑破号』のプラカードをぶら下げた緑色のママチャリ(荷台付き)が。

 え? なにこれ滑るの? しかも全然かっこよくないよ?
 ……ダサいなぁ。美的センスを疑うよ。所詮河童と言う事なんだろうか。
 僕が思わず頭を抱えて考えてしまった隙に、河童は自転車に乗っていた。
 しかも後部の荷台に座れとばかりに、くいっと親指(?)をそちらに向ける。
 ……色々言いたい事はあるけど拒否権はなさそうだ。それに、何も取って食おうってわけじゃないだろうし……。

「はぁ……」

 溜め息を吐いて、大人しく従う事にした。……受け身でお人好しな自分がちょっと嫌で憂鬱になる。「グガァー」……相手河童だけど。
 荷台に乗り、

「……掴まっていいの?」
『肌に火山があるわけないだろ?』

 いやそれはわかってるけど。
 ぬるぬるで気持ち悪いけど河童の肩をしっかりと掴む。意外と滑らない。

「あれ?」

 そこで違和感……いや、懐かしい気持ちを抱く。不思議と安心するような、そんな。
 がこん、とひとつ音を立てて自転車が軽快に走り出す。
 ペダルを漕ぐのは兎も角、よくあの手でハンドルを握れたものだ。

 さー、とやはり軽快に走り続ける。周りからは奇異の目を向けられるけど、気にしないより他手段は無い。

「グァラゴワァー!!」

 ガキーン?
 いや、それはどうでもいいとして、何で雄叫び(?)を上げるんだろうこの河童。
 少しスピードが速くなって、反射的に肩を今までより強く掴んだ。

「あ」

 気付く。そうだ、僕はこの肩を知っている。掴んだ事がある。
 この肩は…………。

「恭介? ……何してるの?」
「う」

 初めて、河童から人間らしい声が出た。
 この河童は、やっぱり恭介なんだ。

「もう一度聞くよ。なんでこんな事してるのさ」
「なんでってそりゃお前……」

 言い淀んだ。

「鈴を、楽しませようとしたの? ……って言うか、なんで河童?」

 しばしの沈黙が訪れる。
 恭介が着ぐるみの中で笑った……気がした後、



「頭の皿が……とってもセクシーだったからさ……」



 ちりんちりーん、と青空へ向かってベルが鳴らされる。
 …………………………………………あほだろこいつ。意味がわからない。
 それだけですか。マジでそれだけなんですか。我を失うよホント。
 僕は直枝理樹。おーけー? おっけい。
 ……きっと恭介は今、清々しいほどに満ち足りた笑顔をしている思う。

「それにしても、よくそんなの着てまともに動けるよね。自転車まで漕いで」
「あぁ、これが意外としっかりと出来ていてな。皿がセクシーなだけではなく、本物の河童と見紛う程気持ち悪い外見、皮膚、間接も完璧だ。まぁ…………」
「まぁ?」



「前は全く見えないがな」



「は?」
「…………」
「え? あ、いや、じゃあ恭介はさっきまでどうしてたの?」
「俺の勘とお前らへの愛があれば、あれくらいなんともないさ」
「えっと、ちなみに行く先になんか下り坂が見えるんだけど…………」
「安心しろ、理樹」

 何度も聞いてきた、僕を落ち着かせてくれた、自信たっぷりの恭介の声。
 それが今は、果てしなく信用出来ない。何せ今の恭介は頭の皿がセクシーとか言うだけで河童になった男だ。

「言ったろう? 俺は勘がいい。ついでに運も良ければ根性もあるしちょっとやそっとの障害に屈するやわな男じゃあない」
「いやだから、坂だよ? 自転車だよ? 前見えないんだよね?」
「それがどうした!」
「危険だよ危ないよ止まってよ僕が運転するからこの障害には屈してよお願いだから!」
「だが全力で断る!!」
「えぇー!?」
「行くぞ理樹! しっかりと掴まっていろ!」
「ちょ、ま、」
「俺は今! ポロロッカの速さを越える!」

 ぼう、と恭介のハートが燃え上がったような、そんな気がした。
 何が恭介をこうさせたのかはわからない。もしかしたら本物の河童の呪いなのだろうか?



「俺は宇宙最速の河童になるんだー!!」



「ならないでいいよおおぉぉぉおぉぉ……」


[No.152] 2008/02/08(Fri) 02:20:40
2ぶんの1 (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ



 ……それは、リトルバスターズの幼馴染組が食堂のいつもの席で駄弁っていた時の出来事だった。
 なんでもない日常。

「そこで、俺の筋肉がメガドレインでストレルカから栄養を吸収し始めたんだよ!」
「真人の筋肉は既に人外の域に達していたのか……」
「いや謙吾、そこは感心するところじゃないから……」

 いつも通り。
 真人がボケ、ジャンパーを着た謙吾がノリ、理樹が突っ込む。
 鈴が呆れ、恭介が楽しそうに笑っている。
 周りの喧騒は既に薄く、食事の時間は終わりに近付いていた。

 そんな中、彼らとは特に関わりもない女生徒がトレイを持ちふらふらと歩いていた。
 テストに向けて勉強をしていたが突然まほらば(アニメ版)が見たくなり、徹夜で見ていたのである。
 真面目なようで、ただのアホである。

「おまえあほだろ」
「んだとこら鈴! アホって言った方がアホなんだよ! やーい鈴のアホ!」
「やめなよ真人恥ずかしい。小学生じゃあるまいし」
「止めるな理樹! 例え小学生になろうとも俺は!」
「きゃっ」
「へ?」

 勢いよく立ち上がった真人が女生徒にぶつかってしまい、彼女は小さく悲鳴を上げて倒れてしまった。
 舞い上がるトレイ。散乱するカレーライス。
 ――そして、水の入ったコップ。

「ひゃわっ!?」

 それが、理樹の頭に着地した。
 見事に、逆さまになって。つまり、水を被ったと言う事だ。
 驚いたせいでそのままバランスを崩し、椅子ごと理樹は倒れてしまう。

「理樹!?」
「大丈夫か、理樹!」

 棗兄妹が、すぐさま理樹に駆け寄る。
 大袈裟ではあるが、友情ゆえだ。

「う、うん。水がかかって驚いただけ。そ、それより……ふたりとも、こっち来ないで……見ないで……」

 理樹は自らの身体を抱くようにして、俯き、顔を真っ赤にしてそう言った。
 だが恭介はそれを聞かず――むしろより心配になって、理樹に近付く。

「なに言ってるんだ。それよりほら、早くこれで拭け」

 言い、恭介はどこから取り出したのか、タオルを差し出す。

「ほ、ホントにいいから。じ、自分で部屋に戻ってから……」
「そんな事をして風邪でも引いたらどうする、ほら」

 恭介が半ば強引に理樹の腕を掴んで引き寄せ、頭を拭こうとタオルを当て――そこで、違和感に気付いた。

「理樹、お前……?」
「だから、見ちゃダメだって……」

 声変わりもまだでただでさえ高かった声――それが、心なしかいつもより澄んで聞こえる。
 恭介は違和感の正体を探るべくしっかりと理樹の身体を見る。


 いつもよりほっそりとしてしまった腕。
 女の子のような柔らかさ……何より、あるはずのない、胸。

「理樹、お前まさか……」
「恭介にだけは、見られたくなかったのに……!」

 顔を真っ赤にして、涙を流している理樹。
 恭介はただ呆然と見る事しか出来なかった。
 理樹が恭介の腕を荒く振りほどいて走り出す。
 
「そんな……俺は、どうすればいいんだよ、理樹……」

 そう。
 なんと、理樹は水を被ると女の子になってしまうのだった……。
 この日から理樹の苦悩と、そして、理樹を巡る兄妹の恋の争いが始まる……!!






 ぺら、とめくっていた紙をまだ中途にも関わらず元に戻す。
 数十枚に及ぶ原稿用紙。その内容がいかなものか、もう知りたくはなかった。
 後ろに佇む少女へと振り返り、静かに、問う。

「で、……西園さん、なにこれ」
「『りき1/2』。……可愛すぎる直枝さんを見ていたら、思わず」
「…………」
「…………」

 沈黙。

「すいませんでした……」

 謝罪、でも。

「正直、反省はしていません。満ち足りた気持ちです」


[No.153] 2008/02/08(Fri) 03:23:18
水辺の彼女 (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ

 ふと、誰かに呼ばれた気がした。
 緩慢な動作で起き上がり、伸びをする。枕もとの携帯を見ると、もう深夜と言っても差し支えのない時間だった。力強くものん気なルームメイトは二段ベットの上で大きないびきをかいている。高いびきに紛れて鈴虫が一匹、窓の下で鳴いている。僕を呼んだのは君なのかい。歯の浮くような台詞に、ぼりぼりと頭をかく。寝惚けているようで、頭の中だけが妙に澄みわたっている。 



水辺の彼女



 寮を抜け出し夜の散策、などという高尚な趣味を僕は持ち合わせてはいない。だから今夜、川辺で佇んでいた西園さんを見つけたのは全くの偶然と言うほかない。トレードマークの日傘も持たず、何をするでもなくただぼんやりと川の向こう岸を眺めているように見えた。
「西園さん」
 暗闇の中、顔もろくに確認しないままに彼女の名前が口をついて出る。セミロングの柔らかな髪の隙間から覗く白い首筋、平均より少し低めの身長に、容易く折れてしまいそうなほどに細い身体。彼女以外の誰かであるはずがない。数秒の沈黙の後、「……よくわかりましたね」と彼女は笑った。見透かされていたのかもしれない。
「何してるの? もう遅いよ?」
「………」
 聞かなければよかったと、押し黙る彼女を見てそう思った。しかし予想に反して、沈黙した時間の長さの割になんでもなさそうな声色で答えが投げ返される。
「今日の練習で私が飛ばしてしまったボールを探しに来たんですよ」
「え?」
 間抜けな声を出してしまったのも無理からぬことだ。ボールなんていつだってぞんざいに扱っている僕らだ。川に飛び込んだボールも出来る限りは見つけるようにはしているが、練習後に数を数えて確認するようなことはしていないし、もちろん練習後に探しに行くことなんてない。なくなってしまうボールなんて、僕らが気付いていないだけでそれこそ無数にあるはずだ。それに、そもそも西園さんがボールを飛ばしてしまうなんてことがあったのだろうか。少なくとも僕は見ていないが、もしかしたら僕が誤って彼女の方へボールを飛ばしてしまい、弾いたボールが川の方に行ってしまったということも考えられなくはない。
「いえ……ちょうど目が覚めてしまったので。夜の散歩のついでです」
 有無を言わせぬ口調に、僕は脳裏に浮かんだいくつかの疑問を全て破棄する。聞いてもしょうがないことだし、今日僕が稀有なきまぐれを起こしたように、人には誰しもそういう時があるものだ。
「日傘は忘れてきたの?」
 思いつきのような問いに、西園さんの瞳がすぅっと細められていく。呆れたような、それでいて糾弾されているような視線に、僕はなぜか身構えてしまう。そんな僕の様子を見た彼女は、満足したようにふっと表情を崩した。
「夜に、日傘が必要ですか?」

 僕らは何をするでもなく、川の流れに沿って歩き出した。ボールを探していると言った彼女に、足下をうかがっているような様子はない。何の目的もなく、ただ歩いているだけのように見えた。そこから彼女の明確な意思を読み取ることは出来ない。
 かさ、かさ、と。枯れ草を踏みしめる音がする。僕は草むらに隠れている地面の起伏に足を取られながら不器用に歩いている。西園さんはそんな僕とは対照的に、あくまで優雅に歩を進める。同じ場所を歩いているはずなのに、まるで異なる世界を行くかのよう。僕らの間に会話はない。言葉を交わせばこの静寂が壊れてしまうように思えた。穏やかな川の流れ、水の音。遠くに聞こえる虫の声。緩やかに時間の感覚が鈍くなっていく。夢と現の境目が薄れていく。
 彼女の声はそんな幻想の世界によく響いた。
「昔から、水辺にはこの世ならざる者が棲むと言いますよね」
 ぞわり、と。背筋を冷たいものが這う。
 空は新月、星もない。手を伸ばせば届く距離で話しているはずの相手の顔がよく見えない。闇の中、彼女の白い肌が曖昧な輪郭をなぞって妖しく煌く。気圧されているのを悟られたのか、彼女は薄く笑みを浮かべている。
「た、確かに、水にまつわる怪談って多いもんね。そうだね、うん……どんなのがあったっけ」
 やっとのことで返した言葉は内心の震えを如実に表わしていた。知ってか知らずか、何気ない問い掛けに考え込む仕草をする彼女。
「……そうですね」
 揺れる川面に遠くの光が反射する。瞬間、照らされた彼女が縁取る表情は微笑み。慈愛の中にほんの少しの妖しさを含ませた眼差し。瞳の奥へ、もっと奥へと、僕は吸い込まれていく。

「こんなのは、どうでしょう――」





 夜の闇をヘッドライトが切り裂いていく。
 山壁に沿うように走らせた国道を人里目指してひた走るタクシー、運転していたのは、まだまだ経験が豊富とはお世辞にも言えない若い男だ。四六時中運転する生活を始めてようやく一年。態度の悪い客のあしらい方や、効率の良いサボり方は覚えても、眼下に河川を臨む夜の国道にはいまだに慣れない。さらに悪いことに、今日は雨まで降っている。ちくしょう、あの客があんな遠くの駅に行きたいなんて言わなけりゃ、今頃俺はあったかい風呂にでもつかっていられただろうに。彼は何度目かもわからないため息をつく。
 ふと、ヘッドライトが照らした先に人影が見える。すらりとした肢体に、長い髪。女。彼女は峠を通りかかったのがタクシーであると気付いたのか、おずおずと右手を小さく上げた。彼は内心舌打ちをした。ただでさえ面倒なこの道を、客を乗せて走るなんて。見て見ぬふりをして通り過ぎてしまおうか。彼にブレーキを踏ませたのは、ひとえにその女の美しさだった。彼女の造形美は、遠目に見ていた彼をも貫いた。彼女の真横でタクシーを停車させた。手元のボタンを操作しドアを開けると、女はするりと車内にその身体を滑り込ませた。閉まるドアの隙間から漏れた空気が湿っている。雨の匂いがしている。
 バックミラー越しに彼女を見る。間近で見た彼女は今まで出会った事がないほどに美しかった。濡れた大きな瞳に、すっきりとした鼻立ち、慎ましやかな唇。淡い色の洋服の隙間からはこの世のものとは思えないほどに白く透き通った肌が見えた。無意識のうちに生唾を飲み込んでしまう。
「どちらまで」
 かすれた声で問うと、彼女はどこか困ったような顔をした。数秒の沈黙の後「……道なりに」と呟く。確かに、この道は向こう一時間くらいは分岐のない一本道だ。分岐の近くまで走ったらまた聞けばいい。彼はそう判断して、おもむろにアクセルを踏み込む。

 一時間も走っただろうか。分岐点には一向に辿り着かず、後ろに乗せた女にも降車する様子は見えない。いつの間にか雨は止み、辺りには霧が立ち込めている。運転するには最悪に近い天候だ。すぐ先にあるカーブの向こう側すら見えない。最初の一言以来、話しかけてもまったく口を開こうとしない女の様子とも相俟って、彼の苛立ちはますますつのるばかり。
 俺は一体どこまで走らされるんだ。この道はどこまで続くんだ。そもそもここはこんなに長い道だったか? それ以前にあんな場所からタクシーを捕まえようとするこの女は一体何者なんだ。近くに民家や建物など見当たらないあの場所で、こいつは一体どれだけタクシーが偶然通りすがるのを待ち続けたんだ? 何分? 何時間? 何日――
「止めてください」
 女の鋭い声。彼は慌ててタクシーを止める。ついさっきまでの思考も忘れ、この不気味な女を降ろせることに安堵していた。つい声も弾む。
「料金は――」
「運転手さんも一緒に降りてもらえませんか?」
 彼の声を遮るように彼女は言った。妖艶な声。彼女の洋服の隙間からは透き通るように白い肌が見え隠れしている。彼の喉が無意識のうちに音を立てる。彼は首肯する。
 車を降りるとそこは河原だった。濃い霧の向こうにぼんやりと川の流れが見える。晴れた所で見れば詰まらない川の風景も、霧が立ち込めているというだけで、どこか幻想的な印象を与えた。女は何かを探すように辺りを歩いている。彼は車の傍で立ち尽くしていた。なぜか足が動かなかった。まるで一寸先が崖だとでも言うように。
 不意に彼女がくるりと振り向いた。
「あなたも一緒に探してくださらない?」
「何を」
 震える声で尋ねた。自分の客だという意識は既に飛んでいた。霧の中にあるというのに、彼女の姿はまるで光を放つかのようにはっきりと彼の目に映った。
「わたしの……あっ」
 彼女はしゃがみこんで、川と河原の境目を探っている。遠目からでも彼女の頬が笑みを浮かべているのがわかる。彼女の口元が、赤く赤く歪んでいく。

「みつけた」

 そして、霧に吸い込まれていくように彼女の姿が消えた。彼は慌ててそこに駆け寄った。声帯が千切れたかのように、掠れた声も出ない。彼女のいた場所には人が手で掘った穴がある。覗き込む。ひゅっ、と彼の喉が笛のように鳴った。

 そこにあったのは――崩れかけた、人の髑髏(しゃれこうべ)。





「この話には続きがあります」
 僕は息をするのも忘れたように立ち尽くしていた。西園さんの話ぶりはとにかく真に迫っていて、怖いとか、恐ろしいと思うことさえ忘れていたくらいだ。
「警察が調べたところ、そこに落ちていた髑髏は数ヶ月前に遺書を残して失踪したある女性のものだということがわかりました。川に流された形跡があることから、自殺した場所で白骨化してからそこまで流されたのだろうということになりました。警察は上流まで捜査範囲を広めました。なぜだかわかります?」
「うーん……身体の他の部分の骨がまだ見つかっていなかったから?」
「そうです。もちろん、髑髏の第一発見者である運転手に死体遺棄の嫌疑が掛けられていたから、という意味もありました。女の幽霊に連れられて偶然その場所に辿り着きました、なんて言う彼の言葉など、警察の人は誰も信じようとはしませんでした。事件性があるかもしれない、と錯覚した警察がかけた保険ですね」
 くすり、と笑って西園さんは続ける。
「で、上流まで捜索した結果、彼が彼女を拾ったと思われる場所のすぐ近くから、彼女の骨の残りの部分と思しき白骨と、彼女の衣類らしき布状の物が見つかりました。鑑定の結果、彼女の物と断定されました。運転手にかけられた嫌疑も、その後の捜査でこれといった証拠が発見されなかったため、然るべき期間を経た後に解消されました」
 ふぅ、と西園さんは深く息を吐き出した。
「これで、話はおしまい――どうでしたか?」
「いや、面白かったよ」
 物語の終わりに深く息をつきたいような気分だったが、僕はどこか釈然としない気持ちを抱えていた。面白かったのは本当だが、どこか終わり切れていない。物語がまだ閉じられてはいない。素晴らしい小説の大事な一ページが破れていて、ストーリーも最後まで追い切ったのに読み終えた達成感は奪い去られている。そんな気持ちだ。
「西園さん、一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「彼のタクシーに乗ってきた女の人だけど、もしも本当にその自殺したっていう人の……幽霊だとしたらさ、どうして彼女は彼のタクシーに乗ったんだろう」
「…………」
「だって、彼女は明らかに自分の髑髏のありかに気づいてたじゃないか。じゃないとそんなにぴったりタクシーを止める場所を指示できないし、仮にある程度の位置がわかっていたとしても、そんなすぐに見つけられないんじゃないかと思うんだ。だから、彼女がタクシーに乗って彼を連れて行ったのは、流された自分の髑髏を探すとかいうことより、もっと他の理由があったような気がする」
 西園さんは顎に手を当てて、考えるような仕草をとってからこう言った。
「それは、『彼女はなぜ彼の前に姿を見せたのか?』ということでしょうか?」
「うん」
 そして彼女は、僕がそれについて質問したことが嬉しくて堪らないとでも言うかのように、唇の端を歪めた。それを見た僕はわけもなく背筋を震わせた。
「これはあくまで私の想像ですけど……おそらく彼女は誰かと一緒にいたかったんじゃないでしょうか」
「まったく見知らぬ人と?」
 タクシーの運転手など、言ってしまえば他人でしかないだろう。もしも僕なら――もしも僕が死を選んだとして、その死を誰かに見届けてほしいと願ったとして、その相手を選べたなら、きっとその相手は、自分にとって何か特別な意味を持つ人間を選ぶ。誰かもわからない人間に、自分の遺体を見つけてほしいとまでは思えないはずだ。そこまで思えるのは、もっと特別な、それは例えば彼女のような――
 顔を上げると、彼女はなんとも形容できない表情を浮かべていた。それは例えば喜びだったり、悲しみだったり、諦めだったり、憎しみだったり。くるくると入れ替わるのではなく、同居している。
「見知らぬ人じゃなかったかもしれませんよ」
「へ?」
「運転手の彼はその道を通るのは初めてじゃありませんでした。だから、彼女は見ていたのかもしれないってことですよ」
 何を。
 問うた言葉は音になったのか。
「彼がその道をタクシーで通る様子を、何度も、何度も。死んで白骨化した髑髏の目から」
 西園さんは笑う。今まで見たことがないくらい優しい瞳。その瞳の奥に潜んだ光を見た。かさかさと足元の草が乾いた音を立てる。ぐにゃりと目の前の風景が歪んでいく。
 この世ではない場所から、この世の物ではない誰かが誰かを見つめている。生きているとか、生きていないとか、後先の有無まで霧消して、見つめて、見つめられるという関係性だけが残された。好悪も優劣も、善悪すら消えた、ただそこにあるという純粋だ。
「もしかしたら、恋でもしていたのかもしれないですよ。だから、好きな人の手で見つけてもらいたかったのかもしれません。好きな人の手で。くすくすくす。あれ、どうしました理樹君、気分でも悪くなりましたか」
 彼女の唇の端がつり上がって行く。楽しくて楽しくて仕方がないという顔。
「あるいは、彼のことを道連れにするつもりだったのかもしれませんよ。そういうことだってないとは言い切れないでしょう? 古来、魑魅魍魎とは、くすくすくす、そうしたものではないですか? くすくすくす!」
 その時、僕はようやく気付いた。
 そうか、彼女はなぞらえていたのだ。
 彼女の白い肌、真っ赤な唇。歪んでいく。
「もう、しょうがないなぁ。くすくすくす。まぁ、また偶然会えることもあるんだろうし、今日はこの辺で勘弁してあげるとしますか。ほら、理樹君こんなところで寝ちゃだめだよ風邪引くよ……」
 差し伸べられた彼女の手の温度を、僕は覚えていない。西園美魚はけして僕を名前で呼ばない。僕を名前で呼ぶ彼女は彼女ではない。日傘を持たない彼女は、彼女ではない。だから彼女は彼女ではない彼女であって、彼女であって、彼女ではなくて。意識は混濁し、ゆっくりと現実から遊離して、やがて無我の沼へと沈んでいった。朧な視界の中にあって、彼女の瞳だけが鮮やかに輝いていた。細い眉毛も、長い睫毛も、ほんの少し茶色がかった虹彩も、それらがすべて例えようもない慈愛の笑みを形成して――
「――をよろしくね、なおえさん?」
 僕の意識はそこで完全に途切れた。



 翌日のこと。僕は休憩時間に西園さんの所に行き、昨夜のことを話した。
「直枝さんは夢でも見ていたのでしょう」
 思っていた通り、西園さんは昨夜の話を完全に否定した。やはり、と内心思ったが、それを口に出すのは憚られた。「だよね」と、返すのがせいぜいだ。実際僕は朝にはちゃんと自分の部屋で寝ていたし、あれが全て僕の夢であったという可能性もなくはない。僕が夜中に外に出て彼女と会ったという証拠など、どこにもない。
 西園さんは木陰に腰掛けていて、脇には彼女のトレードマークである白い日傘が立てかけてある。外にいる時でも日傘をしないことが多くなった今でも、やはり日傘は手放せないようだ。
「それに……」
「それに?」
「そんな話にかこつけて私に怖い話を聞かせようとするなんて、直枝さんはいじわるです」
 物凄い非難の目で見られた。
「直枝さんは私が夜中お手洗いに行けなくなるのがそんなに楽しいのですか……直枝さんの趣味はマニアックというレベルを遥かに越えて、実に変態的です」
「いや、そんなことはないんだけど」
 野球のボールについても、やはり昨日の練習中に失くしたという事実はないらしい。もしも本当に失くしていたとしても夜中に出歩いてまで探しには行かない、と。考えてみれば、というか当たり前のことだ。
「じゃあ、その話も知らないんだ」
「その話は知りませんが……そういう話は結構多いと思いますよ」
「そうなの?」
「水辺を走るタクシーにまつわる怪談で、乗せた乗客が忽然と姿を消す、というのはかなりポピュラーな部類に入るかと。似たような話なら私も小さい頃にいくつか本で読んだことはありますが……」
 そこで黙って俯いてしまう。
「……話したくない、と」
「……はい」
 太陽が傾きかけている。木々の間から差し込む光が僕らを照らしている。西園さんの髪が光を反射して輝いている。白い肌は昨夜と同じ。だけど、なんというか、その、あれだ、光の下で見る彼女は、やはり綺麗だった。闇の中で白くうすぼんやりと輝いていた彼女も綺麗だったけど、やはり僕は太陽の下の西園さんがいいみたいだ。
「私は嘘をついているわけではありませんし、直枝さんも嘘をついていないとしたら……」
 昨夜と同じように、西園さんは川の向こう岸を見ている。あの向こうに何が見えるのか、それがとても気になって、僕は彼女のすぐ横に並んで一緒にそれを眺めた。
「直枝さんは、化かされたのかもしれません、ね」
 傾きかけた太陽を背に西園さんは「……ほら」と柔らかく微笑む。優美に細められた瞳が暮れゆく陽光に濡れる。昨夜新月の下で見た彼女のそれと同じ笑顔がそこにある。

「昔から――水辺にはこの世ならざる物が棲むと言いますし」


[No.155] 2008/02/08(Fri) 20:29:41
(No.150への返信 / 1階層) - ひみつ

 水に溶けていた。
 そこは恐らく小さな閉じられたグラスの中だ。磨き上げられたガラスの内側で水は七色に輝いていたが、それが濁りである事実を知っていた。本来ならば透明でなければならないのに濁っている。
 理由も知っている。そこには単位が存在しないからだ。数える術のないそれ、あるいはそれらは無限に拡散するものの集合体だ。狂っているのだろう。
 だから誰にだって明らかだ。
 いずれそれらは希薄で無力な一つへと帰するだろう。
 その水槽を外側から覗き込むとして、何かを期待してはならないのだと思う。懸命に死んでいく魚達の姿を望んではならない。濁りという名の輝きを長く見すぎてもいけない。けれど眼を奪われてしまうのだ。在り方が歪んでいるからこそ、そこに美しさに似た何かを得られるのかもしれない。醜悪な姿も鼻をつく腐臭も過ぎればきっと価値を持つ。
 そう、水は確かに醜かった。見苦しかった。一滴、縁より零れ落ちたそれはガラスを伝っていく。水はその光景に猛り狂い、または嘆いていた。身体をうねらせ薄いガラス越しに踊る。涙を溢れさせる。
 そんな粘りつく動きの中に光が見えた。色の無いそれは温もりでも安らぎも与えてはくれない。水が感じているものは痛みだった。水は悲鳴を上げ身体を震わせた。激しく明滅しちぐはぐな色を奏でるその姿は滑稽でさえある。哀れな生贄の羊は首を断たれ、または腹を割かれ己の心臓を目撃するその瞬間まで死を知らない。ならばこれは拷問であろうか。違う、それこそが希望なのだ。
 語り合う声が聞こえる。
 痛いですか、嬉しいでしょう?
 嬉しくありません。
 痛いですね、悲しいですか?
 悲しいもありません。
 痛いでしょう、楽しいですか?
 楽しいはずがありません。
 痛いのに、怒らないのですか?
 怒りません。
 ではアナタは痛くないのですか?
 痛くて痛くて堪りません。
 では嬉しいでしょう?
 嬉しいです。
 悲しいでしょう?
 悲しいです。
 楽しいでしょう?
 楽しいです。
 怒っているのでしょう?
 怒っています。
 では痛くないのですね?
 痛くないんです痛いんです嬉しくないんです嬉しいんです悲しくないんです悲しいんです楽しいんです楽しくないんです怒っているんです怒らないんです分からないんです分かってるんです全部全部全部なんです痛いんですでもそんなのどうだって良いじゃないですか全部なんです。
 アナタは狂っていますね、痛いですか?
 狂っています。
 アナタは狂っていませんね、痛いですか?
 狂っていません。
 痛いですか、どちらですか?
 全部です。
 そこには単位がなくて全てがあって、だからこそ一つの小さなものへと戻るのだ。やがて水は少しずつその嵩を減らしていく。枯れていく、終わっていく。零れ落ちていく一滴一滴の為に水は嘆き滴っていくその姿を追った。粘りつくように身体をたゆませている。沸騰しているかのようだった。懸命に水面へと手を伸ばし取り戻そうとしている。その度に失われていく。滑稽なのではない。悲壮なのだ。同時に哀れだった。
 今だから分かる。それは、幼さと呼ばれるものの全てだった。
 だから僕はテーブルの上に置かれたグラスを手に取った。
 底に取り残された一滴の雫が見える。
 最後に残った水だった。
 指で掬い上げ、口に含む。
 それは、命の味がした。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい」


[No.156] 2008/02/08(Fri) 20:46:07
亡きコウモリからの手紙 (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ

 親愛なるおじい様へ


 明日の朝には私はもう修学旅行のバスに乗っているでしょう。日本に残るべきか、それともテヴアに帰るべきか――ここ数日間私を悩ませていた問いは、実のところ今も私を悩ませ続けています。修学旅行の準備が終わり、私はつい先刻まで、お母さんのドッグタグの冷え冷えとした感触を掌に感じながらベッドに寝そべって天井を見上げていましたが、その時にも思っていたのは、大使館のひとに貰ったチケットを返してはいけなかったのではないか、ということでした。そんな中何故こうしておじい様に手紙を書く為に筆(本物の筆ではなくてご覧の通りボールペンです。こんなことを言うとおじい様には怒られるかもしれませんけれど、ちゃんと手紙を書けるほど習字が上手くはないのです)を取ったのか、その理由は判然とはしません。お母さんが亡くなり、お父さんの生存も絶望的という状況下で、それでも日本に残った私はきっととても大きな間違いを犯している――修学旅行へ出発することで、いよいよその間違いが決定的なものになろうとしている、そんなふうに今の私が感じていることを、おじい様にだけは伝えておきたかったのかもしれません。或いは、ただの言い訳なのかもしれません。いずれにせよそうした理由は悲しいほどに無意味なものなのでしょう――私が幾ら私自身について書こうとも、そこに立ち現れるのは斯くある私ではなく斯くあって欲しい私でしかない為ですが、それ以上に、私は今とても酷いことをしているのだと思います。私の身を一番に案じたからこそ事故後の私のテヴア行きに真っ先に反対したおじい様に、そんな内容の手紙を送りつけるなんて、責任転嫁めいた呪詛を投げ付けるのと殆ど変わらない行いだからです。それでもこうして筆を先に進めてしまっていることをまずは謝ります。ごめんなさい。


 ロケットの打ち上げを見に来ないかという手紙がお母さんから私の元に届いた日、私がおじい様に国際電話をかけたことを、おじい様は覚えているでしょうか。あの時の私は、お母さんのところに行った方がいいか、おじい様に相談したかったというよりは、おじい様に決めて貰いたかったのだと、今となっては判ります。でもおじい様は色々と助言をしてくれながらも、結局最後は明言を避けました。それは私が決めなければ意味のないことだからです。そして私は、行かない、とエアメールでお母さんに返事を送ってしまいました。それが私の過ちの第一歩であることも知らずにです。
 正直に告白すれば、私は昔からお母さんに対して劣等感を抱いていました。お母さんが嫌いであるという訳では無論ありません。むしろ大好きな、自慢のお母さんでした。けれど同時にそんなお母さんのことを――たとえば言葉一つ取っても、日本語と片言じみたロシア語しか判らない私とは全然違って、日本語も英語もロシア語も完璧に話せるお母さんのことを、血が繋がっているとは到底思えない彼方の存在であると私が頭の何処かで常に感じ続けていたこともまた、紛れもない事実なのです。
 それが、私の足を踏みとどまらせた理由でした。
 つまらない理由だと、書いている私ですら思います。すべての源に私の弱さがあったのは間違いのないことです。しかしそうであったとしても、と言うよりも、そうであったからこそ、それはもう乗り越えがたい壁として私の前に立ちはだかっていたのです。そうして私はいつしか一つの問いの周りをぐるぐると旋回するようになりました。完璧すぎるほど完璧なお母さんの、どうしようもなく不完全な娘。どう見ても日本人ではありえない、しかし日本語が母語の女の子。そして今、唯一故郷と言えそうな地と、そこに住む家族すら失いつつある私。
 おじい様。私は一体、誰なのでしょうか。


 でも、笑わないでくれたひとがいたのです。何気ない会話の中でふと漏らしてしまった、私のもう一つの名前を聞いても、決して笑わず聞いてくれたひとが。
 私のロシア語名が日本語の語感においては異常に大仰に聞こえることを、日本のひと以上に日本語に堪能なおじい様は知っている筈です。私の見かけとあまりにもかけ離れたその名前を、初めて聞いたひとはいつも笑いました。無論そうしたひとたちに悪意がある訳ではありません。それどころかひとのすることは何事も根っこには悪意はないと私は思います。でもそう判ってはいても笑われるのはつらくて、そんな体験を幾度かした後、私は決めたのです。この名を他人の前で口にすることは何があってもしないようにしようと。
 そんな固い決意があったにも拘らずその名を口にしてしまったのは、多分、私が彼のことを好きで、二人きりになって舞い上がってしまったからでした。ある晩春の日の夕暮れ時のことです。その頃私は毎日放課後に野球をしていて、その日も遅くまで練習をしていたのですが、片付けに手間取ってしまって、部室を出た時にはグラウンドは無人に近い状態でした。そこに偶々彼が残っており(彼も一緒に野球をやっていたひとたちの一人でした)、一緒に寮までの短い距離を歩くことになったのです。
 不用意にあの名を口にしてしまった後、私は酷い後悔の念に駆られました。私はこうして好きなひとにも笑われるのだ、と思いました。それなのに彼はその名前を聞いても全然笑わないで、そのことに慌ててしまった私の方が逆に、噛みそうな名前でしょう、なんて言って笑ってしまいました。笑われることが多いのであまり言いません、秘密にしておいてください、と頼むと彼はまたもや真面目な顔で頷いたものです。たったそれだけ――でも私は、それだけで嬉しかったのです。とても嬉しくて、嬉しすぎて俄には信じられなくて、わふー、といつまで経っても直らない例の口癖をいっぱい言って、そんな彼のことを私はもっと好きになって(でも私のこの気持ちは彼には伝わりません――彼の隣には、彼と小さい頃からずっと一緒だった素敵な女性がいるからで、それはとっくの昔に諦めたことです)、同時に、彼を慕って集まった沢山のひとたちともとても良い友達になれました。野球をしていたというのもこのひとたちとのことです。
 それが、第二の理由。離れたくありませんでした。彼と離れることなんてできませんでした。そうして私はお母さんの最初の手紙に、行かない、と返事を書き送り、お帰りなさいを待ってるわ、というお母さんが今までで唯一私に頼み事をした言葉にすら、応えないままでいます。


 そういえばおじい様には話したでしょうか。或いは私が言わずともお母さんから聞いたでしょうか。返事の手紙を送った後、お母さんとは電話で話をしました。お帰りなさいを待ってるわ、とはそこでお母さんが私に言ったことです。
 思えばお母さんは――私の自慢で、同時に劣等感の原因ともなっていたお母さんは、私に何一つ求めることをしないひとで、だからといって酷い母親だったという訳でもなく私にはいつも優しくて、私はそうしてお母さんがもたらしてくれた自由の恵みを存分に受け取って育ってきた筈でした。変な風に捻じ曲がった気持ちを抱く必要なんてまるでありませんでした。
 そんなお母さんがたった一度だけ私に投げかけた言葉は、今になって思えば、私が考えていたより何十倍も何百倍も重いものだったのでしょう。だとしたら私はやはり、あの優しいお母さんの娘に値しない、駄目な子であるに違いないのです。今度こそ、それは間違いのないこと。他の誰が否定しようとも、私自身が心の底からそう思い、己が身を責め苛みます――でも同時に考えもするのです。そのことに気付き、判っているのに、何故今こうして修学旅行に出発しようとしているのかと。
 私にはきっとなしうることがありました。お母さんのように立派でない私だから、それはお母さんがするような立派な行いでは決してありません。しかしそれでも世界を動かす歯車の一つになることは出来た筈ですし、またそうならなければならなかったのです。お父さんやお母さんの分まで、私がこの身に災いのすべてを引き受けなければならなかったのです。


 私の人種やお父さんとお母さんの職業を考え合わせた時、Кудрявкаという名前が殆ど不可避的に指示してしまうある史実を、おじい様はよくご存知の筈です。世界で初めて地球の衛星軌道を回った生き物。大気圏再突入が不可能な片道切符のСпутник‐2に乗って打ち上げられ、そのまま宇宙で孤独に死に、Спутник‐2と共にやがて空の果てで燃え尽きた犬。
 先日偶然にも、友人(このひとも一緒に野球をやっている友人たちの一人です)の書いた童話を読む機会がありました。『鳥さん村と獣さん村のお話』と題されたそれは、鳥の村と獣の村の仲たがいを治める為に自ら進んで双方に嫌われ、裏切り者扱いされることとなった蝙蝠の話でした。だから蝙蝠は、せめて皆が寝静まった後の音のない夜空を――あのとても暗く綺麗で、深い青を溶かし込んだ銀幕のような空をだけ独り飛ぶのだ、とその話は結ばれています。獣と鳥の、いずれの特徴をも持つが故に、どちらにもなり切れなかった蝙蝠。彼が獣や鳥たちにしてあげられるのは、そんな風に生贄めいた形で、世界が上手く動いていくようにその歯車となることのみなのでしょうか。
 それしかないのだと、そう思えてなりません。
 とはいえ夜空は美しいものです。蝙蝠は元々暗いところが好きだった訳で、夜空を自由気侭に飛び回ることができるなんて実は案外幸せだったりするのかもしれません。ところで、おじい様は覚えているでしょうか――私の愛用する髪留めが、蝙蝠を象ったものであることを(全然関係ありませんが、日本では蝙蝠は珍しい生き物なのでしょうか。日本に来てから何度もこの髪留めについて訊ねられ、そのたびに、日本ではどうかは知らないですけど他の国には蝙蝠はいっぱい居て、身近な生き物で、私は可愛いと思います、などと答える機会がありました)。私はどうしても、チケットを返さずにテヴアに赴いて、蝙蝠のように居場所のない、蝙蝠のように中途半端な私が、蝙蝠のように生贄になればよかったのではないかと思ってしまうのです。そのままの意味でのНи пуха,ни пераという訳です。そうすれば蝙蝠のように、歯車の一つとして世界を平穏に保つことの役に立てます。お父さんとお母さんは死なずに済んだかもしれません。お父さんとお母さんを救うことができなくても、それ以外の多くのひとを救えたかもしれません。それはおそらく、私にとっても、みんなにとっても幸せなことです。
 Кудрявка、私の名に刻まれた運命と共にこの身が朽ち果てれば。


 私は想像します――事故発生の一報と共にテヴアに入国した私は、瓦礫の山と暴徒と化した人びとと血の海の中を彷徨います。その間、送信制限をかいくぐって、日本にいる好きなひとや仲の良い友人たちに、何度かメールを送るかもしれません。可能なら電話もかけるでしょう。やっぱり声を聞きたいからです。やがて私は、追っ手から逃げながらなんとか生き延びていたお母さんと再会します。再会を喜びあい、お父さんも無事だとお母さんから聞かされて、私は殆ど泣きそうです。しかし私たちは捕まってしまいます。お母さんのせいだとひとは言います。事故の理不尽さや、皆の失ったものの大きさを考えれば、もうどうなっても仕方ないのかもしれません。だから私は神に捧げられる生贄――神様ならばなんとかしてくれるかもしれない、何処かにいる神様がきっと助けてくれるに違いない、そうひとが祈り願う為の人柱の役割を担います。地下牢に閉じ込められ、折れ曲がって痛みも感じなくなった血塗れの腕を錆びた鎖に吊るされ、擦り切れた背を硬い石の壁に押し付け、頭を上げる力すらなく項垂れて、足元からひたひたと上昇する水位をただじっと見つめるだけの存在になります。それから随分と時間が経ち、感覚の殆どが消えて体内時計も狂い切ったある時のことです――外が晴れたらしく、高みの天窓から縞模様の光が眩しく射し込みます。胸まで上がっている水を濁らせていた金色の砂は、青い水底にゆっくりと沈み始めます。すると次の瞬間、鏡のように、硝子のように、水晶のように冷たく透明に漲り、静かに波紋を沸き立たせていた水面が、不意に陽の光を鮮やかに照り返して、きらきらと、とても綺麗に輝き出すのです。まるで銀を掻き砕いたみたいに綺麗に輝くのです。それはそれは美しい光景です。そして私はそこにくっきりと映し出された自らの顔を眺めながら、嵩を増す水に飲み込まれて溺れ死ぬのです。
 それできっと、私は満足です。


 しかし現実の私はそんな道は断固として辿らなかった私で、修学旅行を明日に控える身です。悔やんでも悔やみ切れない気持ちと、好きなひとの為に何もかも見捨ててしまった罪とを抱え込んだ、自分勝手で役に立たない子です。修学旅行から帰ってきて、今度こそテヴアに行きたいと私がもし言ったら、おじい様はどんな顔をするでしょうか。尤もこれも意味のない問いかもしれません。その覚悟と決意とがなかったからこそ、修学旅行に旅立とうとしている今の私がいるからです。
 この手紙は明日、バスに乗る前に校門の傍のポストに投函します(できなかったら修学旅行二日目の自由行動の日にポストを見付けます)。だからおじい様がこれを受け取った時、私は既にあの事故を前にして遂に何もできなかった人間として存在しています。ごめんなさい。私はもうどうすることもできません。


 それではおじい様、お元気で。乱筆の程をどうかお許しください。


 Кудрявка Анатольевна Стругацкия


[No.157] 2008/02/08(Fri) 21:38:30
Rainymagic (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ

 イメージするのは水面に映る大好きな顔。その表情。澄ましていたかと思うと、赤くなったりもして意外と忙しない。
 けれど、今日はきっと雨が降る。
 イメージされたのは、飛び込んだ雨粒の波紋と、揺れるその表情。どうしてか、波紋は消えてもその表情は揺れている。
 たぶん、当人は意識していないのだろう。きっと、雨は何故だか嫌いなんだよ、と呟いて、それからようやく笑ってみせてくれる。
 ほんの一瞬。でも大切なものが、消え去った一瞬。雨粒が連れてくる、奪っていく、その一瞬。
 ほとんど変わらない歩調で聞こえる隣の足音に耳を傾けながら、ぽつぽつと歩きつつ、頭上に広がった薄い曇の冬空を理樹は見上げる。



 朝から行動し始めて、今はもう三時過ぎ。今まで何をしていたかと考えて、少し前の自分たちの姿を想像してみる。
 とりあえず、集合。町に出て、ぷらぷらとウィンドウショッピング。本屋に立ち寄ったのが少し時間がかかっただろうかというくらいで、特に何をしたというわけでもない。それから昼食をとって、食後の運動ということでふと目にとまったボーリング。「玉でもどうだい?」なんていう、妙に似合った口調の誘いに乗って、ついでにビリヤード。
 その時間の中にいる間は、随分とゆっくり時が動いている気がしたのに、気がつけば三時過ぎ。楽しさと時間の速さの比例はやっぱり正しいらしいなどと思いつつ、左をちらりと窺う。偶然か、それとも気配でも読んだのか、ばっちりと視線が合う。
「来ヶ谷さん?」
「なんだい、理樹君」
「どうしよっか」と言ってから、言葉が足りなさすぎたことに気がつく。「結構動き回ったから、すること思いつかないよね」
「なんだ」とまずは返して「そんなことか」とつまらなそうに来ヶ谷は続けて言った。
「悩ましげな顔をしてるから、おねーさんが一つ、助け船でも出して上げようかと思っていたのに」
「いや、ただ、今日は何してたんだろなーて思い出してただけだよ」
「真っ昼間だというのに、一緒に突き合ったりしてたじゃないか。玉を」
「妙に聞こえるから、わざわざ倒置して、しかも最後だけ小声で言うのはよそうよ」
 ちょうどすれ違ったおばちゃんが、今後ろを振り向いたらこちらを見ているかもしれない。
「それが若いということだよ、少年」
「いや、もう、なにがなんだか」
 ふふ、と含み気味に笑って、来ヶ谷は理樹を見る。理樹も慣れてきたのか、以前のように対応が慌てたり、少々照れ気味に頬を染めたりもしていなかった。
「では、ちょうど二人まで貸し出し可能な私のおっぱいで、もう一度ボーリングでもするかい?」
「それが事実だったら、たぶん僕腰が抜けるよ……」
 声を拾ったらしいお兄さんが、振り返るまでもなく、通り過ぎざまに驚いた視線を投げてよこしていた。
 それもそうだ。世界の何処におっぱいが貸し出し可能な人がいるのだろう。そもそもいたとして、借りなければならない状況が思い浮かばない。
 美術の授業の写生に使うとか? 高校の授業でヌード? まさか。
 まあ、私のおっぱいはともかくだ、と問題を振ったはずの本人が話題を仕切り直す。
「いいか理樹君。人生で大切なことは、為すがままになることができること、だ。そして、本当に大切な一瞬で流れに逆らえることが出来れば、それでいいのだよ」
「じゃあ」と言って、理樹は視界の端に見慣れた喫茶店を認める。言うまでもなく、来ヶ谷の視線も同じものを捉えていた。
「今のところ、僕らは何もしないでのんびりしてよっか」
「うむ。それでいいのだよ、少年」
 ご褒美に手を繋いであげようと言い放って、するっと来ヶ谷は理樹の手を掴む。触れた一瞬のひんやりとした心地は、すぐに体温に上塗りされる。ぬくぬくとして、少しくすぐったいくらいの感覚。縫うように通り抜ける風が、これほどじゃまに思えることも珍しい。
 それならと、理樹はふと思い付いたように、その手を自分のポケットに連れて行く。風が通り抜ける隙間も、これなら有りはしない。雪が降るほどではないが、それでも着実に寒さを増してきた冬の空気の何倍も、二つの手の入ったポケットは温かかった。
「女性の手を服の中に引っ張り込むなんて、理樹君は実は随分と積極的なんだな」
「来ヶ谷さん」思わず、ため息が零れる。「どんだけ僕をからかうの好きなのさ」
「『好き』の量なんて、わかるはずがないだろう?」
 気のせいかどうか、ポケットの中の手を握る力が、少しだけ強くなった気がした。
「明確な理由なら一つだけだ。今、その時、そこに少年がいるから、だよ」
 何ら普段と変わらない、ある意味の真顔で言われては、やっぱり理樹にはため息をつくより他はない。
「……それもさ、妙な発言に聞こえるから、あんま力強く言うのはよそう」
 神経がもう今更だと諦めているのか、隣を過ぎ去ったおばちゃんが、今どんな反応をしているか何て気にならなくなってきた。くふくふと楽しそうに笑う声を聞きながら、変わらないテンポで歩き続ける。
 外も寒いせいか、喫茶店はいつもよりも賑わっていた。店の硝子越しに、今まで歩いてきた道が見える。雪や雨の様子はなく、視界に映ったのは過ぎ去る人の白い吐息だけで、生きる力でも失ったように宙を漂って、空へと昇る。まるで、そこから先の全てを一分の光も与えずに遮るように、追いかけた先は曇っている。
 繁盛しているとは言っても、二人分くらいの席は空いていたのか、すぐに中へ通される。座った席の硝子越しにも、重そうな曇り空が覗えた。
 昼食は済ましていたから、別段お腹はすいていない。ボーリングやビリヤード分の空きはあるだろうけれど、食べ物は頼まず、理樹も来ヶ谷もコーヒーだけを注文した。
 特に何も入れず、ブラックのまま。一口分含んで、テーブルに戻す。コーヒーに真っ黒に塗りつぶされた自分の顔が、薄らながら揺れるコーヒーの中に映り込んでいた。少し覗いてみても、ゆらり、ゆれて、あまりしっかりと反射はされず、表情までは掴めそうにない。もう一口飲もうとして、その前に一つ、ふうと息で表面を冷ます。広がった波紋に、映し出されていた顔は歪にそよいだ。
 ふと顔を上げて、思わず目をこする。ほんの一瞬、波紋が未だ自分の目に残っているように思われて、けれどすぐにその感覚は消えた。雨の日、何度も見てきたその横顔を数秒眺めてから、同じ物を探して、視線の先を追いかける。ふらふら揺れる視線の先で、見つかるのはやはり曇り空だけだ。
 視線に気づいたのか、戻ってきた来ヶ谷の視線と、理樹の視線が混ざり合う。
「雨」と理樹は言った。「降るかもしれないね」
「ああ、そうだな。降ってくる前に帰ってしまおうか」
「来ヶ谷さん」
 一拍、言葉を選んでから、理樹は言う。
「嫌い、だよね。雨」
「確かに、あまり好きではないな。何故だか、好きにはなれないんだよ」
 やっぱり、と思うけれど、口には出さず、その言葉を飲み込む。
「僕は雨の音とか好きだけど」
「私も嫌いではないよ。不規則な雨の出す音はなかなかに面白い」
「でも、嫌いなんだよね。雨」
 理樹に小さく頷いて返して、来ヶ谷は再び窓の外へ視線を投げる。曇り空はますます重みを増しているようにも見えた。
「雨ぐらい、傘があればなんとなかなるよ。きっと」
「理樹君。そういう君の持ち物に、傘らしきものは見受けられないんだが」
「来ヶ谷さん。さっきの言葉」
 不意に言われてわからなかったのか、小さく笑ってから理樹が言葉を続ける。
「大切なのは、為すがままになれること、でしょ? 降ってきたら、僕がコンビニで買ってくるよ」
 ほとんど、そう言ったのと同じだろう。小さな音が聞こえた気がして、硝子を見てみると、水滴が細く揺れる線を引いて、下へ下へと流れてゆく。小さな音はどんどんと数を増して、こつこつと硝子をノックした。
「さっそく」来ヶ谷を一瞥してから、理樹は言う。
「降ってきちゃったね」



 ちょうど近くにコンビニがあり、そこで買ってくるからちょっと待っていてと言われ、来ヶ谷は一人、まだ喫茶店の中でコーヒーを飲んでいた。
 実際は飲み終わってしまっていて、おかわりでもすればいいのかもしれないが、長居するわけでもないのでそういうわけにもいかない。店も空いてきているからその必要もないのだろうけれど、何となくたまに空のカップを持ち上げては、飲む振りを繰り返す。
 外と中を隔てるガラスには、幾つもの水の足跡が残っていた。するすると垂れてきて、いつの間にか消える。どうやら小雨だったようで、これなら傘がなくとも帰れたかもしれない。もう少し、視線を上げると、そこにはより黒々と厚みを増した雲が待っていて、何処か一つにでも穴が開きようものなら、風呂の水を逆さにしたような土砂降りになりそうだった。
 コツコツと、雨とは違う叩く音が聞こえて、視線を空から戻してくる。頭にぱらぱらと小さな水滴を乗せた、理樹がそこには立っていた。
「お待たせ」
 店の入り口の屋根の下、そこから見える道には、時たまにしか雨の姿は見つからなかった。
「なあ、理樹君。これだけ小雨なら傘はいらないらなかったんじゃないか?」
「冬だし、雨に濡れたらきっと風邪引くよ」
「君はもう濡れてしまっているぞ」
「そこは、その、根性でなんとか」
 言っておいて、なんて自分に似合わない言葉だろうと理樹は思う。自然に表情も苦いものになってしまっていた。
「確かにあまり似合う言葉ではないが、それは決して、理樹君にないわけではないよ」
「手に取るように読まれてるし」
「理樹君のことなら何でもござれ、だ。自分に迷った時は、このおねーさんを訪ねるといい」
「すっごい」白いため息を一つ。「情けないよね、それ」
 来ヶ谷は笑いながら、理樹の頭についたままでいた水滴を払ってやる。温かい喫茶店の中にいたためか、外は来たときよりも酷く寒く感じた。僅かながらあった空気の温度を、雨がこそこそと持って行ってしまったのかもしれない。
 もう一度、来ヶ谷は空を見上げる。タイミングばっちりに、頬に水滴が飛び込んでくる。
 曇り空の雰囲気でも乗り移るのだろうか。やはり気分はあまり晴れず、理樹の言うとおり、雨は嫌いなのかもしれないとも思う。けれど、嫌いというのとは少し違う気もしていた。雨が降ってくるといつの間にか気分が晴れなくなる、ただそれだけのことで、理由もなく嫌いになるようには思えなかった。
 何か、理由があるのだろうか。でも、思いつこうとしている時点で、きっとそれはもう理由ではないんだろう。少なくとも、今の自分には、雨を嫌う理由がない。
「ねえ、来ヶ谷さん」
 空を見上げる来ヶ谷の見つめながら、理樹は言う。
「やっぱり、雨は好きじゃない、みたいだね」
「私にもよくわからないんだが、確かにそう、なのかもしれないな」
 空を見上げたまま返事してくる来ヶ谷の顔を、理樹もそのまま見つめる。
「それ、本当?」
「ん? 本当とは、どういうことだ?」
「来ヶ谷さんはさ、本当に、雨が嫌いなの?」
「少なくとも好きではないようだから、雨は嫌いなんだろうね、私は」
「そっか」
「うむ」
「でもさ」
 空を見上げていた来ヶ谷の視線が、こちらを向いてきたのを見てから、理樹は言った。
「僕にはさ、嫌いじゃなくて、悲しそうに見えるよ」
「悲しそう?」
「雨が降るとさ、来ヶ谷さん、なんか悲しそうで」
 ふと下げた視線の先で、出来たばかりらしい水溜まりに、幾つも雨粒が飛び込んでゆくのが見えた。どんどんと重なる波紋は、通り過ぎた自転車の車輪に裂かれ、ばらばらに散った。反射して映っていた全ても、飛んで散る。どうしてか、息が詰まりそうになって、無理矢理に言葉を続ける。
「たぶん、来ヶ谷さんは、そんなこと気づいてなかったと思うけど」
「……どうした、理樹君?」
 驚いたような来ヶ谷に、何でもないと手を振ってから、熱くなりかけていた目頭を抑え込む。雨が降ると悲しくなるなんていうのは、自分自身のことでもあった。よくわからないけれど、雨は、好きじゃない。本当に。
 そして、雨の日に、やっぱり――悲しそうに見上げるその横顔を見るのは、もっと嫌なのだ。
 雨の日に、いつか何かあったのかもしれない。覚えは、ない。だけど、もしこれが偶然じゃないとしたら、本当に心から雨を憎らしく思った日があったのかもしれない。雨上がりにあんなにもほっとしてしまうのは、いつの日にか、雨上がりを待ちこがれた日々があったからなのかもしれない。
 でも、このままされるがままになるわけにはいかなかった。必要なのは、大切な一瞬に、確かに流れに抗えること。よくもわかりもしない理由に為すがままにされて、悲しい気持ちになるなんて、そのままでいいはずがない。
「流れに逆らわなきゃいけないのは、本当に大切な一瞬、だったよね」
「ああ。さっき、私はそう言ったよ」
「だったらさ。悲しい、に逆らえるのは、きっと、嬉しいこととか、幸せなことだけだよね」
「ふむ」逡巡してから、頷いて答える。「きっとそうなのだろうね」
「ならさ、僕は来ヶ谷さんと居られれば、それで嬉しいし、幸せ」
 来ヶ谷さんは? と理樹が尋ねてみるが、しばらくたっても相づちすら返ってこず、隣を見てみると、その顔は赤く染まっていた。
「君は、聞いてるこっちが恥ずかしくなるような台詞を、たまにすらすらと並べてくれるな」
 俯き気味に、赤い顔を隠しながら言葉を漏らす。ごめんごめんと、謝りどころでないのだろうけれど、そう返しておいた。
 ため息にも聞こえる深呼吸をして、来ヶ谷は言った。
「理樹君が、私と居てくれて幸せなら、私も理樹君と居られれば、幸せだよ」
 何かをごまかすかのように、そのまま一気に言葉を続ける。
「それでいて、理樹君と密着できればなおいい。理樹君もそっちの方が幸せだろう?」
「それなら」
 からかうつもりの発言だったのに、平然と答えをしてくる理樹に逆に驚いてしまう。
「雨も降ってるし、出来るだけ密着して、ゆっくり帰ろっか」
 そう言った理樹が差し出した手には、つい先ほど買ってきた、一本の傘が握られていた。もう片方の手に、更にもう一本傘を持っているような様子もなく、それ一本きり。来ヶ谷がそれを察するのとほぼ同時に、雨脚は少し駆け足になった。
「案外」
 理樹の差す傘の中に身を滑り込ませながら、来ヶ谷は言う。
「理樹君は大胆なんだな」
「別に狙ったわけじゃなくて、コンビニにこれ一本と、後は折りたたみ傘しかなかったんだよ」
「なんだ。それじゃあ、もう一本あったなら理樹君はそれを買ってきたんだな?」
「いや、それは、まあ……」
 理樹が返事を詰まらせると、隣からはくつくつと笑い声が聞こえてくる。
「やっぱり来ヶ谷さん、僕のことからかうの好きだよね」
「ふふ。否定はしない」
「それと」一度、傘の天井を見上げ、笑いながら来ヶ谷の方を向いた。
「今、来ヶ谷さん、すごい楽しそうだね」
 雨降ってるけど、と呟きが続き、同じように一度見上げてから、笑い返す。
「こんな気持ちになれるなら」ちらりと、横目で理樹を見る。「私は、雨の日も好きだよ」
「そっか」
「ああ」
 今度は傘から顔を覗かし、二人揃って空を見上げてみる。一瞬、目を疑う。ほんの少し前まで降っていたはずの雨の姿は、何も見えない。少し視界をずらしてみると、あまつさえそこには日の光さえ差し込んできていた。
「なあ、理樹君。私たちはおちょくられているようだ」
「そうみたいだね」
 思わず笑って頷きながら、理樹はゆっくりと傘を閉じる。
「うーん。どうしようか」
 ちょうど真正面。歩いていく先の雲はどんどんと分かれ、代わりばんことでも言うように、虹が姿を見せていた。まるで誰かに上手く作り込まれた展開のように思えてくる。
「なんか、虹があるよ?」
「よし。行こうか」
 理樹の返事は待たず、手を取って来ヶ谷はゆっくりと走り出す。
 証拠も何もないのだけど、感覚が、間違いじゃないことを二人に教えてくれていた。きっとではなく確かに、いつか、雨を嫌いになって、雨上がりがどうしようもなく待ち遠しかった日はあったと。どうしようもなく、青空に届かなかった日も、間違いなくあったのだと。
 でも、今は、雨上がりを待って、雨の中を超えて、吹き始めの虹の風に乗って、二人で歩いていける。
 今なら虹の向こうにだって行けそうな、そんな気さえしていた。


[No.158] 2008/02/08(Fri) 21:59:05
水に流す (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ

『水に流す』







 彼女は今日も日傘を差している。
 朝の登校風景に、ひとつだけぼんやりと満月のように浮かび上がる白。くるくると回る。彼女の存在をよりはっきりと認識できる。
 相変わらず、彼女は今日も一人だった。
 ふむん、とひとつ頷き、僕は歩みを速めた。彼女といえば、その風貌に似つかわしい速度で歩いているので、追いつくことは容易かった。段々と近づく白い日傘。
 心臓の鼓動が早まる。毎朝のことだと言うのに、どうしてこう僕は興奮してしまうのだろう? 変態なのだろうか? 胸の内のもやもやが加速する。彼女の後方二メートルをキープしながら歩いていると、なんだか彼女の香りに包まれているようで……。
 ああ、僕はやっぱり変態なのだろうか? 僕は、毎朝これを繰り返している。彼女と着かず離れずの距離を保ちつつの登校を。これは俗に言うストーカーというものではないのか。いや、でも教室で会えば普通に話すし、一緒に野球をしたりもする。最近、一緒に登校しない理樹は怪しいと、恭介達にも言われるが、怪しいの意味が違う意味に聞こえてきて最近の僕は若干ノイローゼ気味だ。
 いやいや、そういう変態的なこととは無関係に僕はきっと彼女のことを真剣に「おはようございます、直枝さん」唐突に僕の苦悩を見透かすかのように正面から声がした。見るとスカートをひらり翻した西園さんが、こちらを無表情で見つめていた。
「……おはよう」
 挨拶をされたのだから、挨拶を返すのが道理というもので。人間挨拶を出来なくなったら終わりだよね。最近の若者は挨拶が出来ないと言われているけども、僕と西園さんは決してそんなことはないね。
「毎朝ストーキングご苦労様です」
 そんなくだらない現実逃避をしていると、西園さんの容赦無い言葉のナイフが僕をめった刺しにしてくれた。身体はこちらを向いているが、視線は決して僕のほうを向かない。それはそれで彼女らしいと思う。
 というか、彼女は僕の日課に気づいていたようだ。いつからだろうか。
「最初からです。尾行をするならあまり鼻息を荒くしないほうがいいと思いますよ」
 それは、君からいい匂いがするから。とも言えずに、僕は「はい」と頷き項垂れた。ついでに両手で頭を抱え、うわー、という感じを体現してみた。最悪だもの。今の状況。
「まあ、今までは見逃してきたのですが、今日は少し……」
 何かを言い淀む。見た目とは裏腹にはっきりと物を言う彼女には珍しい。生理だろうか?
「違います。まあ、そんなあなただから……」
 またしても言い淀む。間違いなく生理だな。
「違います」
 今度は少し怒気を含んだ言い方だった。生理じゃないとすればなんなんだろう?
「はあ。少しはそこから離れてください」
「そんなこと言われても……」
 僕には西園さんがイライラする理由が生理以外考えられなかった。聡明で、純粋無垢な彼女だ。そうそう何が起きたって怒るはずも無い。じゃあ、やっぱり生理しかないじゃないかと思うが、これ以上言っても違うと否定されるだけなので、心の内に『西園さんは生理の時苛つく』と覚えておくことだけに留めておこう。
「いいですか、直枝さん。一度しか言わないですからね」
「あ、うん」
 改まってどうしたというのだ? 西園さんは深呼吸を何回かした後、拳を握り、傘の柄をぎしりと軋らせ、意を決するように言い放った。
「付き合ってください」
「悦こんで」
 即答した。
「……少しは考えたらどうですか? というか、発音おかしくなかったですか?」
 わたしの勇気を返してくださいと言わんばかりにため息を吐く。
「西園さんからの申し出なら大歓迎さ!」
「……変態」
 なんとでも言ってくれ。いつの間にやら打たれ強くなってる僕がいた。野球で鈴にデッドボールばかりされてるからだろうか。あれも段々気持ちよくなってきているから困る。
「で、付き合うっていうのはどこに?」
「ああ、そこはちゃんと理解してるんですね」
「まあ」
「変に勘違いするようにわざわざあんな言い回しにしたと言うのに……。なんだかつまらないですね」
「そこまで馬鹿じゃないから」
「まだ、間に合いそうですね……」
 なにが? もう、彼女の言ってることがよく分からない。
「……で、どこ行くの?」
「海です」





***





 バスでの移動は何故か気が引けたので、徒歩と言う伝統的な移動手段を僕達はとった。幸い海はそれほど遠い場所ではなかった。歩いて一時間。それなりに距離はあるが、体育の時間と考えればそんなに苦痛ではない。
「一時間目は体育でしたね」
「十分、体育してるでしょ」
 さぼっているという自覚があるが故に、罪悪感があったが、運動したという事実がそれを少しだけ和らげてくれた。
 それよりも、息一つ乱さず、汗もかいていない西園さんに感服です。
 汗を出してくれたほうが僕としては嬉しいのだが。
「呼吸法を変えるだけで疲れないものですよ」
 そうは言うが、西園さんは異常だった。
「寧ろ、わたしからしたら直枝さんのほうが異常ですが」
 僕はというと汗をこれでもかと言うほどにかいていた。それは西園さんと二人で歩くという素敵行為により僕の興奮度がマックスまで高まったせいなのだが。
「西園さんは運動苦手だと思ってた」
「苦手ですよ」
 やっぱりね、と僕が笑うと、西園さんはふっと表情を緩めて「でも」と笑顔を作った。
「でも、歩くのは好きですよ」
 西園さんの笑顔が好きです。





***





 海に着いた僕達は無言だった。
 ただただ、無言で立ち尽くしていた。それでも不思議と悪い気はしない。
 それに何故だろう。以前にもこんなことがあった気がする。
「気持ちいいですね」
 沈黙を破ったのは西園さんだった。確かに彼女の言うとおり風が気持ちいい。
 まだ夏にも満たない季節。春が一歩だけ脚を踏み出した季節に、僕達は海を訪れた。
 周りには誰も居ない。海と風と空。僕と西園さん。なんだか嬉しかった。
 僕は、思った。
 彼女が好きだなって。
 唐突に思ったんだ。だから、素直にこの気持ちを伝えようと思った。
「あの、西園さん」
「直枝さん、この世界の秘密を知っていますか?」
 だけど、彼女は僕の話をシャットアウトするかのように話始めた。
「え?」
 この世界の秘密。どこかで聞いたことのある言葉だった。どこでだろうか?
「あなたは努力してきました。強くなるために」
「いや、そんなことはないと思うけど」
 僕の言葉を強く否定するため、西園さんは大きく首を横に振った。
 らしくない。そう感じるのが精一杯だった。
「いいえ、以前のあなたは努力していました。一生懸命に。強さとは何かと自分に問い、世界に問い。そして、少しずつですが、あなたは強くなっていった」
 ふと、彼女の頬が緩む。郷愁の念を抱いているのか。小さく波打つ海を見る。
「わたしたちは寂しくもありましたが、嬉しかった。喜ばしかった。あなたと、鈴さんの成長を願っていたから」
 鈴? なんでここで鈴が出てくるの? 今は僕と西園さん、二人の話をしているはずなのに。
 動悸が止まらない。うるさいくらいに聞こえる心臓の音。きっと彼女の耳にも届いているはずだ。
「だけど、あなたは間違えた。いえ、わたしたちが間違えたのかもしれない。それは分かりません」
「何を言ってるの?」
「最初に言いましたよね? この世界の秘密」
「うん」
「またやり直すだけなので、ここで全てをお話します。そうすれば、世界のシステムに従って、また始まりに戻るだけですから」
「え? いや、ダメだ!」
 ダメだ。まだ、僕は伝えていない。君に想いを。
 というか、何を焦っているんだ? でも、何かに追い立てられている。そんな気が……。
「焦っているのですか? 少しは気づいたようですね。まあ、もう何回目かも、わたしたちですら分からなくなっているんですから。あなたもデジャヴを感じてもしょうがないことなのでしょう」
 彼女の言うとおり、幾つものデジャヴを感じていた。さっきだって……。でも。
「待ってよ!」
「待ちません。聞いてください」
「い、いや……っ!」
 突然息苦しくなる。意識が……飛ぶ!
「恭介さんですか。お節介です。相変わらず、直枝さんには甘い。見せるべきです。今からわたしが……」
 恭介?

――ドックン!

「かはっ!」

――無重力の世界。

――覚えているのはガソリンの匂いと鉄の味。

――霞む眼球が捉えた映像は、真っ赤で真っ黒な世界。

――こんな地獄がこの世界にはあるのだ。
 
「今の……は?」
「見えましたか? それが現実です」
「げんじつ?」
 僕の疑問に西園さんは一切答えない。ただ空を見ていた。そして、誰とも分からない相手に話しかける。
「一度現実を見せてあげないとダメなんです。わたしは何度も言いました。挫折から学び、人は成長すると。こんな箱庭の中ではもう歪んだ成長しかありえない。だからこんなことになったんです。この役目は、わたしにしか出来ないものですから。みなさんあなたたちに甘いですから……」
「さっきから誰に話しかけてるの? ねえ!」
 僕の声に反応したのか、思い出したかのように僕に向き直る。
「直枝さん。この世界には秘密があります。それは、とても温かくて優しい秘密です」
「いやだ! 聞きたくない!」
「あなたは成長した。強くなった。ただ……変態になってしまった。そんなあなたでは、鈴さんと二人で生きていくことは難しい。だから、全てを終わらせます。また最初から。全ては無かったことに」
「いやだ! いや……だ……」
 くる。また、こんな時にばかり僕は……。
「さあ、そろそろ来る頃じゃないですか? ナルコレプシーでしたっけ? 眠いでしょ? 全て仕組まれているんです。さあ、委ねて」
 風が吹いた。日傘が空へと舞い踊る。ふわりと僕を何かが包む。
 西園さんが僕を抱きしめていた。いや。
「みんな?」
『わたしたちはみんなあなたのことが、あなたたちのことが大好きなんですよ』
「い、いやだ! 僕はまだ……っ!」
 瞬間、訪れる闇の世界。
 ああ、この世界は、こんなにも優しくて温かかったのか。





****





 目が覚める。
 カーテンの向こう側はまだ暗い。こんな時間に目が覚めてしまうなんて、持病のせいだろうか?
「ぐごー」
 きっと真人のいびきのせいだろう。
 まあ、なんにしても……。
「寝よう」





→start,again.


[No.159] 2008/02/08(Fri) 23:02:13
バレンタイン IN リトルバスターズ! (No.150への返信 / 1階層) - ひみつ@激遅刻

 私は静かな雰囲気が好きで、葉留佳はにぎやかな雰囲気が好きだ。
 私は柑橘類が苦手で葉留佳は柑橘類が好きだ。
 私たちは、双子といってもその実は結構違う。まるで水と油のように。
 ―――だから。
 だから、この想いは私の勘違いにすぎない。
 いや、勘違いで、なければいけない。
 だけど、
 だけど――。
 ああ、この想いは――認めたくないけど、本物だ。


『バレンタイン IN リトルバスターズ!』



  ****

 2月14日19:00

 何やってんのよ、何やってんのよ、何やってんのよ!
 そういいながら、私は雨の中、傘を差して走っていた。
 本当になにやってんだろう、私。私ってこんなに馬鹿だとは思わなかった。


 そんなことを考えながら、私は今日あったことをおもいだしていった――。
  ****

2月14日12:55

「これからはこんなことのないように、二木は風紀委員長なんだからしっかりしろよ」
「はい、すみませんでした」
「それではもういっていい」
「失礼しました」
 私はそういって職員室の部屋を出る。
「何やってるんだろ、私」
 ポケットに手を入れてもう一度つぶやく。
「少なくとも、全校生徒のためになることはやったのではないかな」
 その声がして思わず飛びのいた。
「く、来ヶ谷さん驚かさないでください」
「驚かしたつもりはないのだが、驚かしたのなら謝る。それはそれとして今回の君の行動には、賞賛の拍手を送りたいな、たとえ、それが私利私欲のためであっても」
「おっしゃっている意味が全くわかりません」
「おやおや、おねーさんはなんでもお見通しなんだぞ?」
 そういって来ヶ谷さんはにんまりと笑う。
「私は忙しくて、『バレンタインにチョコの持込禁止』の命をだすのを忘れただけです。たしかにチョコレート持込OKにするよう生徒からの要望は多かったですが、それに負けたわけではありません、もちろん他意はないですし、そもそもいわなかったから、といって、学校に関係ないものをもってきていい物ではありません」
 『バレンタインにチョコの持込禁止』の命を出さなかったせいでさっきまで、怒られていた。実際今年は、チョコレートをもってきている女子が多いらしい。クラス連中のうわさによれば今年はクラス委員とか数人がクラス全員分のチョコレートをつくってもってきたりしているとか。
「いくら忙しかったから、といって、忘れるなんて言語道断ですけどね。今回は私は反省すべきでしょう。出来れば、こんな未熟な私を来ヶ谷さんがぜひ風紀委員会に入ることにより補助してほしいのですが」
「ほう?口もうまくなったようじゃないか?そんなことをいえるようになったなんて」
「何のことですか?」
「2月10日、私は君がどこで何をやっていたのか知っているんだからな、葉留佳くんと一緒に理樹くんに渡すためのチョコレートをつくっていたんだってな。二人っきりで。料理が苦手な葉留佳くんに一日中、つきっきりだったそうじゃないか。そして、そのまま二人、一緒の布団で寝たそうじゃないか」
 その言葉で私の顔は一気に真っ赤になった。
「……くっ、な、なんで……」
 そういっても犯人は一人ではない。私ではもちろんないのだから。犯人はつまり。
「葉留佳くんは私に隠し事なんかしないからな」
「……葉留佳ぁ」
「しかし、妹のために、こんなことやるなんてなぁ……」
 来ヶ谷さんはけらけら笑う。
「二木女史もなかなかかわいいところ、あるじゃないか」
「いわないでくださいっ」
 ああ、もうっ。葉留佳、あとでお説教ね。おとなしく聞く子じゃないんだけど。
 でもそんな葉留佳がかわいいんだけど。自分でいうのもなんだけどほんとダメな姉だ、私は。
 手がかかる妹、ってのはほんとかわいいことを葉留佳と和解したこの数ヶ月実感していた。
 一緒に料理したり、一緒に登校したり、一緒に寝たり(念のためいっておくと、本当に一緒に寝るだけよ?私にそんな趣味はない)。小学生のころからずっとしたかった、そんな普通の姉妹がすることを葉留佳とできることに、幸せを感じていた。
 小学生のときはそうでもないが、今やると、まわりからみればちょっと気持ちが悪かったりするかもだけど。そんなことはきにしない。
 ついでにいっておくと葉留佳との和解が縁で今の私はリトルバスターズに入っていたりする。



「まったく、なんで葉留佳はあんなのがすきなのかしら」
 数分たって、落ち着いたあと、来ヶ谷さんと再び話し始めた。
「私も理樹くんのことは好きなんだがな、今日の放課後、私直々につくったチョコレートを渡すつもりだし」
「……あなたも物好きですね、あんなののどこがいいんですか」
「いや、いや、結構いいヤツなんだぞ、彼は」
「そうですか……そろそろ私は教室に戻りますねもう少しでチャイムもなりますし」
「ああ、じゃあな……ああ、それとな、一つ聞きたいことがあるんだが」
「はい?」
「二木女史は、”あんなの”のどこがいいんだ?」
 その言葉に凍りつくが、努めて冷静に言葉を返す。
 ……なんで、わかったの?
「……おっしゃっている意味がこれっぽっちもわかりませんね」
 だが、心の動揺を悟られないよう、努めて冷静に返す。
「おやおや。おねーさんはなんでもお見通しだぞ?もし君がチョコレートを渡したいのなら放課後にな、そういう指令が恭介氏から出ているから」
「だから意味がわかりません」
「おやおや、もうちょっと素直になったほうがいいぞ」
 そういってにこやかに来ヶ谷さんはわらっていた。
 ――素直になれるわけ、ないじゃない。
 心の中でそう毒づく。
「……そろそろチャイムがなるので失礼します」
「おやおや」
 もういちど、そういって来ヶ谷さんは肩をすくめた。


            ***
 私は、直枝理樹が好きだ。
 この感情を認めない、わけにはいかない。
 本当だったらこの感情を伝えたり、すくなくとも今日だったら、チョコレートをあげたりするんだろう。
 でもそれだけは出来ない。
 私はポケットの中を探る。
 ポケットの中にはチョコレートがはいっていた。
 家来る前にもってきた、チョコレート。
 このチョコレートを渡すわけには、いかない。
 だって。
 頭の中に葉留佳の顔が浮かぶ。
 

 ええ、渡すわけには、いかない。
            ***


 放課後、私たちは3ON3をやることになった。
 試合に出ない人が、直枝理樹にチョコレートを渡すようになっていた。直枝理樹は今日ずっと試合に参加しないから他の女子は、休憩中に渡す、そういう手はずだ。

「ミッションスタート!」
 その言葉とともに3ON3が始まり、同時にチョコレート私が始まった。


「お爺様からおくられてきたロシアのちょこれーとです、ぷれぜんと・ふぉ〜・ゆ〜なのです」
「あ、ありがとうクド、で、でもいいの、こんな高価そうなの」
「理樹だからいいのです」
「…あ、ありがとう」
「わふーっ、理樹の顔が真っ赤です」
「く、クドが変なこというから」
「はっ、私ひょっとしてものすごくはずかしいこといいましたっ!?」


「理樹くん、バレンタインチョコなのですヨ」
「ありがとう葉留佳さん」
「本命なので、じっくり食べてほしいですヨ」
「ははは……」


「少年、そろそろ少年は誰が好きなのか、はっきりさせたほうがいいんじゃないか?」
「そろそろ、っていわれても、こんなに好意をもたれているって知らなかったし…」
「鈍感だな、少年、……おねーさんと付き合わないか?」
「く、来ヶ谷さん、胸が…」
「あててるんだ、少年。どうだ、少年?私はスタイルがいいし、包容力もある、理樹君をまもってやれる強さもある。お買い得だとはおもわないか?」
「僕、男として形無しだよね、それじゃ」


 そんなこんなで全員がチョコレートを渡していた。――私も、チャンスはあった。
 だけど。私は。


「もてもてね」
「ははは……」
「まったくみんな物好きにもほどがあるわね」
「僕もそうおもう」
「あげないわよ、私は」
「うん」

 そんな会話をしただけだった。

 全試合がおわり。
「理樹、お前の置かれている状況はわかったと思う」
「う…うん」
「とりあえず、お前がなんらかの結論を出すことを期待しているぞ。迷うのはわかるが、時間は有限だからなるべく早めにな」
「がんばれよ、理樹」
「いいか、理樹、わからないときは筋肉に頼るんだそれできっと答えが出る」
「ははは…」
 相変わらず理樹は苦笑いを浮かべていた。


 そういって、解散となった。解散となったあと、私に棗恭介がよってきた。
「お前もチョコレート渡せたのか?」
 その言葉に凍りつく。――だからなんでわかるの?そんな言葉が脳内を駆け巡るが、二度目だったのでまだ冷静に返すことが出来た。
「あなたも来ヶ谷さんも何を勘違いしているんですか?私は直枝理樹のことなんか好きじゃないですし」
「もうちょっと素直になったら、どうだ、二木?」
 ――素直になれるわけ、ないじゃない。
 そう、心の中で再び毒づいた。




 18:30。
「おいし〜ですか?ちょこれーと」
「ええ」
 それから、夕食後、私はクドリャフカと一緒にチョコレートをたべていた。今日理樹にあげたのと同じチョコレートらしい。
「緊張しました〜」
 さっき、直枝理樹のチョコレートを渡したことをいっているのだろう。
「ご苦労様、それにしてもクドリャフカもあいつのことが好きだったのね」
 うすうすは感じていたけど、やっぱりそうだったか。
「はい、直枝さんはすごくいい人ですし」
 そういってにっこりと笑う。
「それにしてもクドリャフカにあんな度胸があったとは以外だったわ、あれってすごく恥ずかしくない?」
 試合中とはいえ、みんなが見ている前で渡すのだし。考えただけで結構恥ずかしそうだ。
「私もはじめ下駄箱に入れようと思ったのですが、恭介さんからとめられまして、ああいう形になりました。すごくはずかしかったから、渡すのやめようかとも思ったのですが昔の私だったら、そんなことなかったと思いますが。伝えなくて後悔したくなかったんです」
 そういえば、今年度のはじめ、クドリャフカがすんでいる国でいろいろあったのを思い出した。
 あのとき、クドリャフカの中でなんか、思うことがあったのだろう。
「……そう」
「佳奈多さんはどうなんですか?」
「私は好きな人はいないわ」
「わふ?チョコレート渡していないんですか?理樹さんに」
 また、その質問?
 うんざりしながら私は言葉を返す。
「だからなんで、私が直枝理樹にチョコレートを渡さないといけないのよ」
「はぁ」
「まったく、来ヶ谷さんも棗恭介もあなたも勝手に勘違いしないでほしいわね」
「勘違い、じゃないと思っているんですが」
「はぁ…いい?クドリャフカ、私はね」
「もう少し、素直になったほうがいいと思います、佳奈多さんは。誰もあなたをせめたりはしませんよ」
 前半だけだったら、よかっただろう、でも後半の言葉にカチン、と来てしまった。
「……うるさいわね」
「え?」
「何もわかっていないくせに!」
 私はそういって部屋を飛び出した。




19:00

「はぁ、はぁ、はぁ」
 何やっているんだろう、私。あんなこといって、飛び出して。
「最低ね、ほんと、最低――」
 一人で勝手にいらついて、クドリャフカに八つ当たりして。
 ――なんで、あんなヤツを好きになってしまったんだろう。
 あんな鈍感で、いつもニヤニヤわらっていて、ひょろひょろしていて――そして、葉留佳が好きになった男性を。
 そもそもあきらめればいいのだ。
 初恋はみのらないって、昔からいうから私がここであきらめてもあきらめなくても結果はおなじなの……、あ、これだと葉留佳の初恋が実らないことになるから今のなし。
 とにかく、私は直枝理樹のことを好きになってはいけなかったのだ。でも――でも好きになってしまった。
 葉留佳と同じ男性好きになるなんて、思わなかった。
 でも葉留佳を失いたくない。
 あの子の笑顔をみていたい、あの子といっしょにいたい、姉妹水入らずで、ずっとそばにいたい。もうあの子をいじめる必要はなくなったのだから。
 だけど――。ああ、もう、本当にだめな姉だ。
 決着を、つけよう。この想いに。

『私もはじめ下駄箱に入れようと思ったのですが』

 さっきのクドリャフカの言葉を思い出し、私は学校にむかって、歩き始めた。



 下駄箱にたどり着く。私は、目的の靴箱を探す。
 直枝理樹。そう書かれた靴箱をさがし、ポケットの中にしまっていた、チョコレートを入れた。
 今日一日中、ずっとしまっていたチョコレート。一日中、ずっとしまっていたが、溶けてはいなかった。
 私はチョコレートだけいれて靴箱をとじた。
「はあ」
 葉留佳、ごめん。でもこれくらいは赦してほしい。もう奪わないから。これだけで、満足だから。
 葉留佳を本当に失いたくないから。
「いやはや、おそかったですネ」
「は、葉留佳?」
 なんで、こんなところに?


「お姉ちゃん」
 その声に私は、縮こまる。
「私たち、仲直り、したよね?」
「…ええ」
 私はもう観念した。私は、また間違いを犯してしまったらしい。
 こんなことになるくらいなら、義理チョコっていってさっき渡せば本当によかった。
 いえ、そもそもこんなことをしなければよかった。
 今だったらもう言い訳は聞かない。
「だったら、だったらさぁ!」
 その言葉にびくっと震える。
「もうちょっと素直になってよ!わかっちゃうんだよ!双子だから!同じ男性を好きになったんだから!」
「え…?」
「私に――遠慮しないでよ!そんなの本当の姉妹じゃないよ!」
 葉留佳は泣きながら、そういった。
 ああ、そうか、葉留佳はずっと気づいていたんだ。そして、私は、そんな葉留佳を無意識のうちにずっと傷つけていたんだ――。
「ごめん、本当に、ごめん葉留佳」
 私はそういって葉留佳に抱きついた。


「じゃ、そろそろみんな出てきてください」
 数分後、そう葉留佳はいった。
「はい?」
 みんな?
「では、ミッションスタートだ」
 !?
「な、棗恭介、どうしてここに!?」
「おいおい、俺だけじゃないぜ」
「え?」
「わふわふ」
 クドリャフカ!?
「いやいや、いいもの見させてもらったよ、姉妹の和解とはかくも美しい、か」
 来ヶ谷さん!?
「ライバルまた一人ふえたな」
「直枝さんはそろそろフラグたてるの自重してほしいものです。下手するとそのうち刺されますよ?」
「ほえ、ふらぐってなに?」
「フラグってのは筋肉の一種か!」
「アホだな」
 ……あまりの展開に声が出ない。
「では最後に、――少年、でてこい」
「あ、あははははは……」
 苦笑い――というかひきつった顔をしながら最後に直枝理樹が出てきた。
 これでリトルバスターズのメンバー全員がそろったことになる。
「な、なんであなたたちここにいるの!?」
「葉留佳君のメールのお陰だ」
「はい、私のメールですヨ。お姉ちゃんがきたときにおくっておきました。正直くるのか五分五分だったのですが、きてよかったデス」
「は、葉留佳、なんて――、なんてことを!」


「では、本日最後のチョコレートの贈与式を行う」
「ちょ、ちょっとまって、いくらなんでもこれは」
 恥ずかしくて死にそうだ。さっきのクドリャフカの気持ちがよくわかった。
「こんな時間まで渡さなかった君がわるい。……葉留佳くん、下駄箱にあるチョコレートをとってくれ」
「はい、姉御、…あれ?」
「ん?どうした?」
「いや、ないんデスよ?」
 その言葉に我にかえる。そうだ、渡したチョコレート、見つからないで、見つからないで、お願い。
 だって…。
「葉留佳くん、もうちょっとよく探してみたらどうだ?」
「そんなこと、いってもチョコレートなんてみつか…」
 葉留佳の顔がかわる。
「あ、あった」
 そういって、とりだしたチョコはチロルチョコだった。
 いや、私がもってきたんだけどっ。


「我が姉ながら、ちょっと泣けてきますよ、なんで本命チョコがチロルチョコなんです?」
「いや、いや、葉留佳くんにちょっとでも気があると思われてはいけない、二木女史なりの精一杯の気遣いだろう。しかし、気持ちは私たちと引けをとっていないぞ、はやく、佳奈多くん理樹くんに渡してくれ」
 そういって、チロルチョコを来ヶ谷さんから受け取る。
「な、直枝理樹」
「は、はいっ」
「誤解しているかもしれないけど、私、そんなにあんたのことすきじゃないし、ここにきたのは気の迷いだけど――これ、あげるっ」
 そういってチロルチョコを渡す。
 ちゃんとしていないチョコだけに余計恥ずかしい。
「ああ、こういう佳奈多くんは新鮮でいいな…」
 そう、来ヶ谷さんがつぶやいているのが聞こえた。

「ミッションコンプリート!」
 この様子をみて、棗恭介がそういい、この場はお開きになった。


 帰り道。
 私は葉留佳と一緒に帰っていた。
「はぁ…」
「お姉ちゃん、ため息ばかりついていたら幸せが逃げちゃいますヨ?」
「ため息もつきたくなるわよ…」
 まったく、なんでこんなことになったんだろう。
「お姉ちゃんがもっと素直だったらよかったんデス」
「ごめん、葉留佳。それにしても私がくるのなんでわかったの?」
「だって、お姉ちゃんがこうなるよう、けしかけたの、私デスし。恭介さんと、姉御とクドに相談したんですよ、なんとかお姉ちゃんが素直になる手がないかって」
「あの3人がしっていたのあんたのせいなの!?」
「姉御と恭介さんはうすうす気づいてたたみたいですケドね。で、今回のバレンタインの運びになったわけです。正直ここまでうまくいくとは思いませんでしたケド」
「はぁ…」
 私はため息をつく。


「でもほんと、なんで、好きになっちゃったのかしらね……私ね、昔こうおもったのよ、葉留佳と仲良くなっても、同じ男性を好きにならないんじゃないかって。それに好きになりそうになかったのをほっとしたの、私の両親のこともあったし」
「あーー」
「でもね、私と葉留佳って結構すきなの違うじゃない?私はどちらかというと静かな雰囲気が好きで、葉留佳はにぎやかな雰囲気が好きだし、食べ物でいえば私は柑橘類が苦手で葉留佳は柑橘類が好きだし。まるで水と油のようにさ」
「ああ、お姉ちゃん、それは簡単デスよ」
「?」
「理樹君は石鹸水、なんデスよ、私たちにとって」
 その葉留佳の言に私は噴出した。
「石鹸水、ね、なるほど」
 葉留佳もうまいことをいうものだ。


 私たち二人は、笑いながら、寮にもどっていった。


[No.160] 2008/02/09(Sat) 06:36:52
感想会ログとか次回とか (No.152への返信 / 2階層) - 主催

 MVPはえりくらさんの「水辺の彼女」に決定しました。
 えりくらさん、おめでとうございます。
 感想会のログはこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/Little3.txt


 次回のお題は「子供」
 締め切りは2/23 感想会は2/24 (普段と違い土曜締切の日曜感想会でございまする)
 みなさん是非是非参加を。


[No.164] 2008/02/10(Sun) 19:10:46
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