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第4回リトバス草SS大会(仮) (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「子供」です。

 締め切りは2月23日土曜午後10時。
 厳しく締め切るつもりはありませんが、遅刻するとMVPに選ばれにくくなるかも。詳しくは上に張った詳細を。

 感想会は2月24日日曜午後8時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。



 ※ 締め切り、感想会ともに普段と一日ずれておりまする。
 ※ 更に感想会は翌日が平日であることを考慮して午後8時からとなっておりますのでご注意くださいませ。


[No.166] 2008/02/20(Wed) 22:28:34
時をかけちゃった少女 (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ

 鈴は最近憂鬱だった。
原因は彼女の兄の恭介にあった。恭介がことある毎に鈴に「理樹とこれからもいっしょにいたいのなら、今年のバレンタインは手作りチョコを渡せ」といっていたからだ。
 いつもどおり、出来合いのチョコでいいだろ、と鈴がいっても全く聞いてくれない。

 そんなこんなで2月12日。

 朝、目を覚ましたときから鈴は憂鬱だった。
 バレンタインデーまで残り少なくなるにつれて、馬鹿兄貴が言う回数がとみに増えてきたからである。今日も馬鹿兄貴が「チョコを作れ」といってくるのか、と思うと、鈴は憂鬱でしかない。
 しかし、その心配は杞憂だった。
 それ以上のニュースが恭介の元――いや日本中に舞い降りてきていたから。



『時をかけちゃった少女』



「数日前、ロシアの数学者がタイムマシンがあと3ヶ月以内で完成するといっていたときは、何を馬鹿なことを、とおもっていたが、まさか本当にというか、数日で完成するとは、おねーさんもびっくりだよ」
 感心したように来ヶ谷が言う。そう、『タイムマシン完成』のニュースが飛び込んできたのだ。
 日本中がこのニュース一色に染まっており、鈴たちが通っている学園でも、もちろん例外ではなかった。今、恭介、鈴、理樹、真人、謙吾、来ヶ谷の6人での帰っていたが、この話題が中心だった。
「もし、タイムマシンにのれたら、2039年になる前に、JFKの真相を暴きたいな」
「恭介、最近JFKでもみたの?」
 そんなことをいう恭介に理樹があきれたようにいった。
「真相を暴くとろくでもないことになりそうだから、やめておいたほうがいいと思うぞ…」
 とは謙吾。たしかに真相を暴くとロクでもなさそうな事件である、あれは。
「あたしは平安時代に行きたいな」
 みんなでどこの時代に行きたい、とか色々なことを話しあっていた。
 そんな、時だった。


 目の前に――何もないところから、車が突然あらわれたのは。


「うわっ」
 理樹のすぐ目の前を通り過ぎ車が急ブレーキをしてとまった。
「理樹、大丈夫か!?」
 と、鈴が理樹に呼びかける。
「う、うん、大丈夫だけど…、今…」
 理樹は車のほうをみつめていう。
「何もないところから車が出てきたように見えたんだけど…」
「理樹もそうか、あたしもそうみえた」
「鈴も?」
 不思議そうな顔をして理樹がいう。
「俺もだ、確かにさっきまで車なんてなかった」
「私もそう見えた、なにもないところから車が出てきた」
 恭介、来ヶ谷が同意し、続いて謙吾、真人も同意する。狐につままれたような気分で車をみていると、一人の女の子がでてきた。
 4歳くらいの、ショートヘアのよく似合ったかわいらしい女の子だ。手には一冊の絵本をもっていた。
 その女の子は鈴たちをみまわし――とてとてとかけだし――
「ぱぱこわかったよぉ」
 といって理樹に抱きついた。


「え……ええ!?」
 少女のその言葉に理樹が驚き、まわりも驚いた。
「理樹、お前子どもがいたのか」
「少年、娘がいたのか、お姉さんに内緒で!」
「いないから!」
 そう理樹が反論すると、
「ぱぱ。どうしてそんなこというの?」
 そういって、うるうると涙目で少女は理樹をみつめた。その様子に理樹はなにもいえなくなる。
「それにこの少女、みればみるほど少年にそっくりだぞ?」
その言葉で、皆がその女の子をみつめた。
「おお、たしかにそっくりだな」
 鈴のその言葉にみんなが同意した。
「で、でも僕、こんな子しらないし……あ、そうだ、パパの名前、いってみて」
 きっと人違いだろう、そう理樹は思って少女にきいた。
「なおえりき」
 しかし、その期待もむなしく少女はそうこたえた。
「ほら、やっぱり理樹くんの娘さんじゃないか、さぁはけ、はけ」
「ほんとにしらないんだって!」
 そう理樹がとまどっていた時である。
「くるがやさん、パパいじめちゃだめ」
 そう少女がいったのは。
「おや、あったことあったかな?」
「なんどもある…忘れちゃったの?」
 そう少女が言う。
「え?」
「来ヶ谷、この少女にあったことあるのか?」
 今まで静観していた恭介がきいた。
「いや、あったことないが……ひょっとして他にもあったことある人この中にいるか?」
 そう来ヶ谷が少女に聞くと、
「うん、りんさん、きょーすけさん、まさとさん、けんごさん、みんなあったことある」
 少女はそう答えた。
 その言葉にみんなが顔をみあわせる。
 全員が全員この少女にあったことがなかったからだ。
「まさか」
 そんな中恭介は一人、そういって行動を開始した。

 20分後。

「間違いなく、この少女は未来から来た」
 そう恭介は結論付けた。
「車の中にあるものに、今の時代にはないものがあった。それにこの車、少し運転してわかったんだが、人とか障害物が先にあったら自動的に止まるようになっている、この機能をもった車は今の時代開発されていない、つまりこの少女が未来から来た可能性はかなり高い」
「で、それで僕の娘ってこと?」
「みたいだな」
 そう恭介が言うと「うん」と少女――名前はさっき聞いたところ理沙というらしい――はうなづいた。
「タイムマシンが完成した日にこんなことが起こるとはな」
 謙吾がそういって感心した。
「どうして、理沙はこの時代にきたんだ?」
 恭介がきく。
「えほん、くるまのなかにとりにいったらへんなスイッチがはいっちゃったの」
 理沙はそういったあと。
「ごめん、パパ」
 そういって理樹に謝った。
「うーん、僕に謝ってもしょうがないんだけどね」
「?」
 理沙はわけがわからない、といった表情をした。きっと理沙にとってはいつでもパパはパパなんだろう。
 たしかにタイムマシンの概念を少女が理解するのは難しいのかもしれない。
「となると、やることは一つだな…理沙くん、ママの名前教えて…」
「来ヶ谷さん、その質問は絶対やめて!」
 真っ赤な顔をして、理樹がいう。
「どうした、少年?将来の伴侶がだれかしりたくないのか?」
「知ったら僕どうすればいいのさ!その人とあったらどうすればいいのかわからなくなるよ!」
「気合だ、少年」
「無理だよ!」
 そう理樹は必死に否定する。
「今から知っておけば、もっと仲良くなれるんじゃないか?」
 鈴がいう。
「そういう問題じゃないよ!」
「ほら鈴君もそういっているじゃないか、さぁ、理沙くん、ママの名前を」 
「まて来ヶ谷、その質問はしてはいけない」
「そうだよね、恭介」
 安心したように、理樹はいった。
「ここは一つ、俺たちがママをさがさないと」
「は?」

 そして、鈴たちは、校内でママを探しを開始した。謙吾と真人に、タイムマシンの見張りをさせ、残りの5人でママ探しを開始した。もっとも理樹は「ほ、ほんとに探すの!?」といって、未だにとまどっていたが。
「ママに早く会いたい」
 そう理沙がつぶやいた。
「おお、早くあわせてやるぞ」
 理沙は知り合いもしくはママがいたら呼びかけるようにしている。ちなみに”ママ”と呼ばれなかったことで、鈴と来ヶ谷はママではないらしい。
「大体、この学園の中にいるの?」
 理樹が当然の疑問を口にする。
「もしいなかったらとんでもないろくでなしに少年はなることになる」
「そうだな」
 恭介が同意する。
「はい?」
 そんな理樹の態度に恭介はため息をついた。
「お、あそこにいるのは西園じゃないか、おーい西園」
 恭介が呼びかけると、美魚がよってきた。
「なんでしょう、みなさん」
「おい、理沙、この人がママか?」
「んーーん、違う」
「………恭介さんそれはなんの冗談ですか?…笑えませんよ?」
「あー西園女史、実はな」

 事情を全員で説明する。

「なるほど、そういうわけですか」
「ま、そんなわけで全員で探しているんだ」
「しかし、本当に理沙さんは直枝さんにそっくりですね」
 感心しながら美魚はいう。
「これはひょっとしたら、直枝さんの処女懐胎、という展開もあるかもしれません」
「ないよ!それは!ってか僕、何者だよ!」
「冗談です――ではちょっと真面目に考えて見ましょう、理沙さん、その本見せてください」
「はい」
 美魚がそういうと素直に理沙は本を手渡した。
「やっぱりそうですか」
「その絵本で何かわかったの?」
 理樹がいう。
「この絵本、よく出来ていますが自作のものです」
「え、そうなの!?」
「というと、容疑者は一人に絞られるのではないですか?」
 その言葉で皆は顔を見合わせた。
「小毬ちゃんか…小毬ちゃんはかわいいし、理想の相手だな」
そう鈴が納得したように言う。
「そうだな、理想の相手だな」
 恭介が鈴と、理樹二人をみつめ「なぁ鈴?」と、鈴のほうを向いてそういった。
「とりあえず、いってみよう」
 そう来ヶ谷が皆を促した。


 小毬をさがして数分後。
「あれ?みんなどうしたの?」
 そういって、小毬がよってきた。
「あ、かわいいね、この子」
 そういって理沙を抱きしめた。
 各人思い思いに小毬をみつめていた。
「この子、どうしたの?」
 ほおずりしながら、小毬がきく。
「理樹の娘だ」
「…………………………………………………………え?」
 そういった瞬間、小毬の周りの空気が凍りついた。
「も、もういっかい鈴ちゃん、いってくれるかな」
「理樹の娘だ、小毬ちゃん」
「り、りりりりりりり、鈴ちゃん、いつの間に理樹くんとそういう仲になったの!?」
 いつものんびりした小毬が鈴を殺しかけないような勢いで、つめよった。
「ち、違う、母親はあたしじゃない」
「じゃあ、誰!?ゆいちゃん!?みおちゃん!?」
すごい勢いで二人に詰め寄る。
「違うぞ、おちつけ、小毬ちゃん」
 あの来ヶ谷ですら、こうなっているあたりからして、彼女の迫力は押して知るべし、である。
「母親は小毬ちゃんだ」
「え、えええええええ!?わ、私ま、”まだ”理樹君とそんな関係に、そんなかんけーじゃ、関係じゃ」
 そういって顔を真っ赤にして小毬は気絶した。


20分後。

「さっきまでの私はみなかったことにしよう」
 そういって小毬はまわりを指差し――、
「みられなかったことにしよう」
 そういって自分を指差した。
「無理だ、コマリマックス」
「ふぇ〜ん」
「しかし、小毬ちゃんでもなかったか」
「うん。こまりちゃんは、いつもえほんとか、おかしとか、くれるやさしいひと…だけどさっきちょっとこわかった」
 そう理沙はいった。
「ふぇーん、だっていきなりだったからびっくりしたんだよぉ」
 今は事情を聞いてとりあえずは落ち着いていた。
「やっぱりこの学園にはいないんじゃない?」
 とは理樹。なんとしても理樹ははやく終わらせたかった。
「少年、何を言っているんだ、まだまだこれからだ、調査は」
 そう、来ヶ谷がいきこんだときである。「あ、おばちゃん」と、理沙がいったのは。
 皆で理沙のほうをみると、寮母さんがいた。葉留佳と何か話していた。
「理沙は寮母さんとも知り合いなのか、理樹か理樹の奥さんがこの学園の先生にでもなっているのか?」
 そう鈴がいう。理沙は、とてとて二人にむかっていき――、そして転んだ。寮母さん葉留佳が振り返る。
「おやおや、大丈夫かい?」
「大丈夫デスか?」
 そう二人が呼びかける。鈴たちも理沙にかけよった。
「うん、大丈夫だよ、おばちゃん」
 そういった、理沙は、”葉留佳”のほうを向いていた。
「お、おばちゃん、私がデスか!?」
「うん、おばちゃん」
 そう、悪意のかけらもなく理沙いう。
「ガーン、あ、姉御?私そんな老けてみえますかネ?」
「……」
「いや、ちょっと無視しないでくださいヨ、姉御?」
「いや、これは」
「意外な」
「展開だね〜」
 来ヶ谷、美魚、小毬がそういった。



 場所はかわって。風紀委員室。
「それにしても今日はほんとありがと、手伝ってもらって」
「のーぷろぶれむです、佳奈多さん、困ったときはお互い様、ですよ」
 そういってクドが微笑む。
 佳奈多が風紀委員の数人がが風邪をこじらせ数日学校にこられない状況になってしまい、困っていたところ、昨日の夜、クドが手伝いましょうか、といってくれたのだ。
 最初は断ったが、クドの必死さに負けて手伝ってもらうことにした。
「佳奈多さんはもう少し周りに頼ってもいいと思います」
「うん」
 それは来ヶ谷にもいわれたことがあった。手伝ってもらったが確かにこういうのもいいのかもしれないな、と佳奈多はおもった。
 こうして"自分"というものはかわっていくのか、案外心地いいかもしれない、そう佳奈多はおもった。
「そういえば、明後日はバレンタインですね」
 ふとクドがつぶやいた。
「佳奈多さんは誰かに渡すんですか?チョコレート」
「…そんな相手いるわけないじゃない」
 そういいながら、彼女の頭の中には一人の男性が浮かんでいた。
 でも彼にチョコレートは渡さないだろうな、とは思っている。
 初めて好きになった人なんだけど、葉留佳がいるので遠慮している相手だ。
(ま、あきらめているのは慣れているし)
 それだけを話すと、静かな空気が流れた。
 この時間が一番の至福ね…。
 佳奈多がそうおもっていたときだった。ドタドタと誰かが走ってくる足音がしたのは。
「やっぱりここにいたか!」
「来ヶ谷さん、何かあったんですか?」
 静寂なときをぶち壊され、思わず言葉遣いが少し乱暴になってしまう。
「理沙君、この人だろう?」
「うん」
「……その子、どうしたんですか?」
 そういえば、この前も子どもがこの学園に迷い込んできたことをふと思い出した。
 そうおもっていると、その少女は佳奈多のほうによってきて――
「ママ〜」
といって、佳奈多に抱きついた。
「え?え?え?え?」
「か、か、か、佳奈多さん、子どもがいたんで…」
「いるわけないじゃない!来ヶ谷さんこれはいったい何の冗談ですか!?」
 そう佳奈多がおこったときである。
「理沙、理沙!?」
 そういって、教室に誰かがはいってきたのは。


 20分後。

「信じられるわけないでしょう!」
 なんどいってもわからない佳奈多に皆うんざりしていた。
「これは事実だ、信じろ」
 と誰もがいうが聞く耳をもたない。ちなみにクドはとっくに納得していた。
「大体どこの誰だかしりませんが、あなたもよくこんな冗談につきあいますね!?」
 そういって、さっき風紀委員室にはいってきた女性にいう。
「自分に向かってあなたって言い方もないと思うけど、さすが私ってところかしら」
 そういいながら、さっき風紀委員室に入ってきた女性――未来からきた佳奈多――はわらった。タイムマシンを誤作動させた娘を迎えに来たのだ。
「やれやれ、佳奈多くんは強情でこまる。タイムマシンが完成したニュースは君も知っておろうに」
「だからといってこんなこと信じられますか!」
「……以前からいっているだろう?もう少し余裕を持って行動したらどうだと」
「これはそういう問題じゃありません!大体私は直枝理樹のことなんか、好きじゃ――」
 理樹のほうをみながらそこまで言って言葉につまる。みると、少し顔が赤くなっていた。
「お姉ちゃん、理樹君のことが好きだったんですネ」
「ち、ちがうわよ、葉留佳。私は――」
「葉留佳、騙されちゃダメよ。この人強情でなかなかそれを認めようとはしないけど事実だから」
 というのは未来佳奈多。
「あんたがそれをいうか」
 と、恭介がつっこむが華麗にスルーされた。
「大体、私って言うなら証拠、みせてください」
 そう佳奈多がいうと、未来から来た佳奈多は少し考え、ポケットから鏡をとりだした。
「そんな鏡いくらでもこの世にあるでしょう?そんなんじゃ証拠になりませんね」
 そう、佳奈多がいうと、未来佳奈多はにやっと微笑んで――にっこりと微笑みなおし、鏡に向かってこういった。

「おはよう、理樹………はぁ…」

 そういって鏡をまたしまう。その行動にまわりのほとんどが固まった。
「理樹、みんなどうしたんだ?」
「いや、僕もわかんない」
 そういって二人は顔をみあわせる。理樹と鈴だけ、この行動が何を意味しているのかわからなかった。
「いや、これはやられますね」
「ああ、全くだ」
「これは反則ですヨ、お姉ちゃん」
 納得する数人を横目に佳奈多は口をぱくぱくさせていた。
「じゃあ、もう一ついきましょう」
「いかなくていいです!納得しました!」
 そう、佳奈多が顔を耳まで真っ赤にして言う。
「さっきよりちょっとソフトだから安心して」
「ソフトでも何でもダメです!」
 いつもは物静かな佳奈多が激しく言い争っていた。
「こんなあせったお姉ちゃん、はじめてみましたヨ」
「全くだな」
 そういって葉留佳と、来ヶ谷がうんうん、とうなづきあっている。
「あまり私に逆らうと、今度は生徒手帳をまわりにみせながらさっきのことをやりますよ?」
 その言葉に佳奈多の顔が一気に青ざめた。
「まぁからかうのはこの辺にしましょうか。それと、過去の私、素直にならないと、他の人にとられるから、素直になりなさい。私と理樹が結婚する未来はこの時点では確定していないんだから」
「どういうことデスか?」
 意味がわからず葉留佳が聞く。
「その辺のことは西園さんにでも聞いて頂戴、私なんかよりその辺のこと詳しいと思うから、お願いするわね」
「私に任せないでください」
 美魚のそんな様子をみて未来佳奈多は微笑む。
「じゃあね」
 そういって、未来佳奈多はさっていった。


「葉留佳、塩もってきて、塩!」
 去ったのを確認し、佳奈多が叫ぶ。
「お姉ちゃん、その前に聞いておきたいんだけど、理樹くんの事すきなの?」
「…ええ…」
 未来佳奈多がまた現れるかもしれない、そうおもうと、反論できなかった。
「ごめん、葉留佳」
「謝る必要、ないデスよ、もっと早く言ってほしかった気はしますケド。あ、そうだ、みおっち、さっき未来のお姉ちゃんがいっていたこと説明してくれる?まだ確定していないとかそういうの」
 そういって、葉留佳は美魚に説明をお願いした。
「簡単にいいますと、未来は一通りではないということです。理沙さんがいる世界では、直枝さんと二木さんが結ばれたみたいですが、たとえば、ここで直枝さんが違う人、たとえば鈴さんを結婚相手に選んだとしましょう。でも直枝さんが二木さんを選んだ未来が消えるわけではないのです。別次元として確固として存在しています。そんな感じで色々な世界が存在しているんです。小説とかではたいていこのような仕組みになっていますね。『また逢えたらいいね』という小説でも――」
「あーなんとなくわかったデスよ」
「ここからがいいところなんですが」
「とりあえず西園女史は自重しろ。つまり、理樹くんが必ず、佳奈多くんを選ぶというわけではないってことだろう」
「まぁそういうことです……まぁ可能性は高いみたいですけどね……まったく、もてる人は大変ですね」
 そういって美魚は理樹をみつめた。
「え?え?」
 その美魚の言葉に理樹は戸惑った。
「それはともかく、理樹、悪かったな、変な思いをさせて」
 そういって恭介が理樹に謝った。
「謝るくらいならこんなことしないでよ、恭介」
 理樹があきれたようにいう。
「まぁこっちにも色々事情があるんだよ」
 そういって恭介は鈴をみつめた。
 その言葉を最後に、全員、解散した。




「理樹は二木さんを選ぶのか」
 鈴は寮にもどってからそうつぶやく。
「理樹は、二木さんを選ぶ…」
 そうなんどもつぶやいていた。
 鈴の中でいいようのない、感情がうずまいていたから。
(あたしたちはずっと一緒にいるはずなのに…)
 理沙から聞く限りまわりのみんなはずっと一緒にいるらしい。理沙がクドをいれた全員をしっていたのがその証左だ。
 でも――、何か納得出来なかった。
『理樹とこれからもいっしょにいたいのなら、今年のバレンタインは手作りチョコを渡せ』 
 馬鹿兄貴のこの言葉がよみがえる。
「とりあえず」
 そういって、立ち上がる。
「作ってみるか」
 そう鈴はつぶやいた。
 ――なぜだかそうしないといけない気がした。

 どこからともなく、『ミッション・コンプリート』そう恭介の声が聞こえたような気がした。



おまけ。
「そういえばお姉ちゃん?」
「ん?」
「生徒手帳って何ですか?」
「忘れて、ほんとに忘れて…」
「ってかお姉ちゃん、すごい人になってましたね…」
「それもほんとに忘れて」

 変わるのが心地よい、今日そうおもったが、あれが未来の自分だとおもうと、佳奈多はため息しか出なかったとか。


おしまい。
参考資料:http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1090139.html


[No.168] 2008/02/21(Thu) 02:58:00
真夜中の内緒話 (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ ちょっぴり優しくして

 女子寮内、クドと佳奈多の部屋。
 今日はここで親交を深めるため、と称し、リトルバスターズメンバーの女性陣が集まっていた。
 全員が風呂に入った後パジャマへと着替え、雑談に興じていたところで寮長に注意され、消灯して現在に至る。
 当然と言うべきかクドと佳奈多は自分のベッドに入り(ドア側から見て手前がクド、奥は佳奈多。ベッドの隙間は詰めている)、若干狭苦しいが床で他の五人が横になっている。クドの隣は美魚、佳奈多の隣には葉留佳が陣取り、彼女達四人と向かい合うようにして、玄関の方から唯湖、小毬、鈴の順に並んだ形。普段は壁側に枕を置いているベッド組も、本日ばかりは逆向きで寝転がっていた。

「……行っちゃいましたかネ」
「うむ、足音も大分遠ざかった。もう平気だろう」

 葉留佳の呟きに唯湖が頷き、張り詰めていた室内の空気が少し緩む。
 そのやりとりを聞いた佳奈多は、両腕を枕の上で組み、そこに顎を乗せながら呆れ混じりの声を放った。

「何を考えてるのか知らないけど、騒がしくするのは止めなさいよ。特に葉留佳」
「ええー、何で私だけー!?」
「ほら、早速声が大きい。もっとトーンを落としなさい。……起きていることは大目に見るから」
「ありゃ、珍しい。お姉ちゃんなら絶対さっさと寝なさいとか言うと思ってたのに」
「佳奈多君も混ざりたかったんだろう。監視の名目でわざわざ私達に付き合っているくらいだしな」
「な……っ、来ヶ谷さん、出鱈目を言わないでください!」
「……声が大きいですよ、二木さん」

 唯湖に揶揄され、感情的に反論したところで、クドに隠れ姿の見えない美魚から指摘を受ける。
 先ほど自分が同じ注意を葉留佳にしたこともあり、佳奈多は羞恥でさっと頬を赤らめた。続く言葉を探すが、結局口を噤んでしまう。そんな様子を前に、今まで喋らずにいたクドが楽しそうな笑みを浮かべる。

「わふー、皆さんとこういう風におはなしするのは初めてなので、わくわくします」
「そういえば、わたし達だけで集まるなんてことはなかったですね」
「いつもきょーすけたちがいたからな」

 美魚が同調し、鈴もそう言って、ふぁ、と小さな欠伸を一つ。
 横では小毬が早くもうとうとしていたので、おもむろに唯湖は隣の布団へと潜り込んだ。

「ほわあぁっ!? ゆゆゆいちゃん、な、なにするのー!?」
「む、起きてしまったか。おねーさんとしてはもう少し寝ていてくれても構わなかったのだが」
「でで、でもっ、いきなりあんなところに手を入れないでよ〜」
「静かにしなさい」
「静かにしてください」
「あう……」

 素っ頓狂な悲鳴を上げ、全く懲りない唯湖に必死の抵抗を試みるも、佳奈多と美魚の両名に窘められて鎮静化した。

「打ち合わせもしてないのに、何だか漫才みたいですネ」
「こまりちゃん、今のはなかなかおもしろかった」
「なるほど、これがじゃぱにーずこんとなのですねっ」
「え? えーとぉ……ありがとうございます?」
「……ちょっと頭痛くなってきたわ」
「はっはっは、キミはまずこの会話のペースに慣れるべきだな。……さて」

 と、ここで進行役の唯湖が話を区切る。
 一旦周囲を見渡し、それぞれが起きているのを確認して、

「では始めようか。男子禁制、女同士の内緒話というものを」





 真夜中の内緒話





「時に葉留佳君、修学旅行の夜にありがちなこの状況だが、キミならまずはどんなことを話すかね?」
「ここはいっちょ怪談の一つでも始めて、キャーとかウヒョーとか小声で叫ぶのがいいんじゃないっスか?」
「わふ……。怖い話は苦手なのです……」
「大丈夫だ、眠れなくなったら私がクドリャフカ君に添い寝をしてあげよう」
「却下です。来ヶ谷さんにそんなことをさせたら、クドリャフカの貞操が危険に晒されますから」
「ほう……さしずめ佳奈多君は能美女史の騎士ナイトといったところか」
「っ! ……別に、そんなつもりはありません。保護者として見過ごせないだけです」
「わふ!? 私、佳奈多さんの子供ですか!?」
「じゃあ誰がクーちゃんのおとうさんなのかな?」

 ふとこぼれた何気ない小毬のひとことで、一瞬空気が凍った。

「お姉ちゃん、まさか……!」
「ちょっと葉留佳、まさかって何よまさかって! 言葉の綾に決まってるでしょう!? だいたい保護者だからって血縁関係だとは限らないし、父親が必ずいるっていうのは短絡的な考えに過ぎるんじゃない!?」
「でも、かなちゃんならいいおかあさんになれそうだね〜」
「ああもう、神北さんも余計なことを言わない!」
「……なあはるか、どうしてかなたは慌ててるんだ?」
「やはは、お姉ちゃんってばこういうのにあんまり慣れてないですからネ。本当は楽しくてしょうがないのデスヨ」
「佳奈多君は着々と墓穴を掘っているな。これならいじられ要員としての地位を確立するのも遠くはないぞ」
「誰が……っ!」
「……二木さん、そこで構うと来ヶ谷さんの思うツボですよ?」

 どんどんヒートアップしていく佳奈多を、さらっと美魚が制止する。
 案外いいコンビかもしれないな、と思いながら、散々場を引っ掻き回した諸悪の根源である唯湖は悪びれることなく、

「まあ、怪談は止めておいた方がいいだろう。おねーさんとしては、クドリャフカ君や小毬君がこの後トイレに行けなくなってくれれば付き添いと称してあれこれできるからむしろ大歓迎なのだが、肝心の怪談そのものを話せそうなのがほとんどいないようだからな」
「……残念です。いくつか準備していたのですが」
「あのー、みおちんが言うと何かシャレになってない気がするんですけど……」
「それは次の機会に回すとして、やはり修学旅行と言えばアレだろう」

 意味深に告げ、数拍の溜めを置く。
 アレ、という単語で葉留佳はその内容を察したのか「あー、アレですネ」と共犯者の笑みを見せた。
 美魚も唯湖が言おうとしていることがわかったらしく、微かに眉根を潜めたが、他の四人は続く言葉を待つしかない。
 結局長い沈黙に耐えかね、佳奈多が訊ねた。

「勿体ぶらずに言ってください」
「いいのか?」

 が、返ってきた簡潔な問いに心中でたじろいだ。眼下で浮かべている唯湖の表情に、佳奈多はチェシャ猫のような、という形容を思い出す。例えようのない嫌な予感を覚えつつ、純粋な興味もあり、無言で首肯した。

「うむ、佳奈多君の同意も取れたところで……こういう時の定番、恋の話でも始めようか」
「こ、ここ恋の話ですかっ!?」
「定番なのか? あたし飼ったことないぞ」
「いや鈴ちゃん、ちょっとそのボケはベタ過ぎない?」
「フフフ、今のクドリャフカ君の反応を見られただけでも、この話題を選んだ甲斐はあったな。それと鈴君、一応言っておくが、carpではなくloveの方だぞ。好きな人がいるか、という話だ」
「ちょっとゆいちゃん、そんなの言えるわけないよ〜」
「だからゆいちゃんは止めろと……」
「……神北さんの言う通りよ。それに、私達から訊き出そうとするのなら、来ヶ谷さん、あなたが真っ先に告白するのがフェアじゃないですか?」
「確かに、一理あるな」

 佳奈多の指摘にも、唯湖はまるで動じなかった。
 どころか、それならと前置きして、

「私が言えばキミ達も包み隠さず告白してくれる、ということだな?」
「な……それは論理が飛躍してるでしょう!?」
「佳奈多君にとって言えるはずのないことであれば、当然私にとってもそうだとは思わないか? 何せ乙女の秘め事だ、他人に知られるのを恥ずかしいと感じるのは当たり前だろう。それとも、キミは私に恥じらいがないとでも言うつもりかね」
「いえ、そんなつもりは……」
「……ふむ。まあ、無理強いするのは私も好まん。具体的な名前を出すのには抵抗があるという気持ちもわかる」

 言い放ち、唯湖は視線を軽く巡らせる。表情の読めない美魚、未だにきょとんとした顔の鈴はともかく、誰の目から見ても明らかなほど頬を火照らせ俯くクドや、笑ってごまかしているつもりらしいが微妙に目が泳いでいる葉留佳、明らかに免疫の低そうな小毬は、被った毛布を揺らし頷いていた。

「なら来ヶ谷さん、どうするつもりです?」
「簡単なことだよ。具体性をなくせばいい」
「へ? 姉御、それってつまりどういうこと?」
「もっと質問を曖昧なものにして、それだけでは判別できないようにしよう。イエスかノーか、単純な二択にでもすれば情報はさらに少なくなる。……ただ、これは嘘を吐かないことが前提だ。どうしても答えにくい質問以外には正直に答えてもらわねば、公平性に欠けてしまうからな」
「………………」
「何か言いたそうだな、佳奈多君」
「……いえ」
「ではこうしようか。質問に対しイエスなら挙手、ノーなら動かずにいる。原則として目を開けてはいけない。これならある程度答えるのが恥ずかしい質問でも、皆に知られることはないだろう。もっとも、全員がそうしていては挙手をする意味がない。だから、目を開ける役は佳奈多君にお願いするとしよう」

 予想だにしなかった指名に一瞬思考が停止し、佳奈多は口篭もった。

「……どうして私なんですか?」
「この中ではキミが一番適任かと思ってな。風紀委員長の佳奈多君なら、こういうことに関しても公平だろう?」

 そう言われれば認めるしかない。
 全く、単純ながら腹が立つほど優れた一手だった。
 半ば仕方なく、けれどそんな気持ちを表情には出さず佳奈多は引き受け、カウント役に徹することにした。
 手が挙がった人数を自分も含めて数え、誰が、とは言わず、何人が、と公開することで匿名性を守る。質問の内容と照らし合わせて挙手者を推理してみるも良し、純粋に緊張感を楽しむも良し、というわけだ。
 一人につき質問は一つ。先陣を切るのは、唯湖だった。

「そうだな……核心に近いものは後回しになるのを祈るとして、まずは小手調べと行こう。――今、気になる人はいるか?」

 しばらく、静寂が満ちた。やがて恐る恐るといった様子で、手が控えめに天井へと伸び始める。
 挙げたのは、四人。小毬、クド、葉留佳……そして、佳奈多。

「もう下ろしてもいいわよ」
「さて佳奈多君、早速だが、何人いた?」
「四人。勿論誰とは言わないけど」
「ほぼ半分かー。結構多くない?」
「そうですね。これだけいると、結構簡単に特定できてしまいそうです」
「わふ、お手柔らかにお願いしますー……」
「で、くるがや、次は誰なんだ?」
「小毬君に頼むとしようか」
「うん、わかったよ〜」

 以降順に、小毬、鈴、美魚、クド、葉留佳と続く。本題に関係ない問いも混ざったが、途中美魚がかなり狙ったところを突いてきたので、佳奈多にはおおよその構図が見えていた。

(クドリャフカと葉留佳は直枝理樹に気がある……まあ、これは予想の範囲内だったけど。特にクドリャフカなんてわからない方がおかしいし。神北さんは微妙なところね。彼か、あるいは棗恭介か……。西園さんと妹さんはさっぱり。そして――)

 暗闇に慣れた目が唯湖の端正な顔を捉える。と、微かな笑みを返してきたので、何となく視線を逸らしてしまった。
 ……そもそも、何故自分に集計を任せたのかがわからない。質問をする人間が結果を確認した方が色々な意味でいいだろうに、わざわざこちらだけが正解を仔細に知ることができるようにしたのは、何らかの意図があっての策謀なのか。
 困惑しつつも佳奈多は自身の質問を終え、これで全てが済んだと思った瞬間、唯湖が口を開いた。

「すまないが、最後に私からもう一つだけいいかな?」
「こまりちゃんがそろそろ限界みたいだから、さっさとしろ」
「うむ、心配しなくともすぐ終わるよ。佳奈多君以外は目を閉じてくれ」

 さっきと同じ状況が生まれる。唯湖と佳奈多以外の、視覚を封じた五人が耳をそばだてる。
 静寂を割るように、ゆっくりと動き出した唇が言葉を紡いだ。それは、


「ここに――恋を諦めた、あるいは、諦めようとしている者は、いるか?」


 嘘を吐かない、という取り決めがあった以上、佳奈多は。
 そこで、手を挙げるしか、なかった。

「……もういいわよ」
「そうか。佳奈多君、何人いた?」
「……二人」

 声は震えてないだろうか、と思う。幸い他の五人には気付かれなかったらしく、特に追及されることもなく終わったが、皆が床に就いた後も、しばらく佳奈多は寝付けずに過ごした。どうにも胸にずしりと残った重いものが消えず深い溜め息を吐くと、不意に小さく喉を鳴らす音が聞こえる。それが誰のものかを確認しないまま、声は自然に口をついて出た。

「まだ起きてたんですか」
「寝付けなくてな」
「奇遇ですね。私も同じです」
「フフ、なら眠くなるまで語り明かすのはどうだ?」
「遠慮しておきます。あなたと話していたら、余計眠れなくなってしまいそうですから」
「……素直じゃないな、キミは」
「野菜だって、真っ直ぐなものよりも少しくらい歪な方が美味しいでしょう?」

 冗談めかして言うと、唯湖は心底可笑しそうに「そうだな」と呟いた。
 笑われているとは思わない。ただ、複雑な感情が胸の奥で波打っていた。

「……どうして、あんな質問を?」
「その答えは、もう佳奈多君の中で出ていると思うのだが。私の勘違いだとしたら申し訳ないがな」
「恋の話、なんて言い出したのも、答え方を二択にしたのも、集計役に私を指名したのも……全て、布石ですか」
「美魚君辺りは途中から感付いていたようだがね。しかしそれでも、最後の質問の意味まではわからなかっただろう。だから安心するといい。佳奈多君、キミの想いは、私以外の誰にも知られてはいない。大切なもののために、決してその気持ちを表に出すまいというキミの決意は」
「………………」

 ――例えば、ずっとずっと幸せでいてほしいと願ったひとがいて。
 泣かせた分、苦しめた分、そばにいようと思った子と、同じ相手を好きになってしまったなら――
 自分を抑え付けてきた彼女にとって、恋慕の情を閉じ込めるなんてことは、本当に簡単だったのだ。
 もう一度傷つけてしまうよりも、そっちの方がよほどいい。佳奈多は、心の底からそう信じていた。

「む……我ながら、少々芝居めいた言い回しだったな。空気に酔っていたようだ。そこは反省しよう」
「反省するところが違うでしょう。……本当に、来ヶ谷さん、あなたって人は」
「それは褒め言葉だよ」
「褒めてません。あと、早く寝てください」
「少しくらいは素直になった方がいいと思うぞ?」
「余計なお世話です!」

 布団をばさりと被り、胎児のように身体を丸めると、精神的な疲れが来たのか、急に瞼が重くなっていくのを佳奈多は感じた。遠ざかる意識の内で、ふと考える。同じというのなら……彼女は、何を守るために諦めたのだろうか、と。


「……おやすみ、佳奈多君。良い夢を」


 最後に聞いたその声は、いつもの彼女からは想像もつかないほどに――儚げで、寂しそうなものだった。


[No.170] 2008/02/23(Sat) 17:46:56
2月のクリスマス (No.166への返信 / 1階層) - ひ・み・つ

 雪はしんしんと降っている。今年はどうやら大雪らしくて来る日も来る日も雪雪雪雪雪また雪。降り始めのうちこそはそれこそ雪合戦だったり鎌倉を作ったりして遊んでいたけど、雪遊びもあっという間にネタが尽きてしまった。
 そんな雪が降り敷きなるかでも相変わらずクドはヴェルカ、ストレルカと元気に雪の中で遊びまわっていたし、鈴ははじめからほとんど外に出ることもなくコタツで丸くなっていた。
 そして今はもう年が明けて、初詣もとうに過ぎた。そろそろ男子生徒が一同に期待と不安を寄せるバレンタインシーズンだって言うのに、そんなのかんけぇねぇって言うギャグもとっくに廃れたはずなのに、何で僕たちはこんなことをしているのだろう? 冷静に考えなくてもそんなことを考えてしまう。
 だって……
「筋肉持ってこーいっ」
「いや、持ってこれないから」
「よし、じゃあ俺の筋肉をこいつの一番上につけよう」
「お願い、やめて」
 そもそもこの時期にこんなことしようという考えも分からないけど、モミの樹の一番上に真人の筋肉が輝いている光景も想像したくない。それ以前に筋肉はつけられないと思う。
 モミの樹のてっぺんで光輝くポーズを取るを真人を想像して――イギリスのほうだと星の代わりに天使を飾ったりするらしいけれど――無いなと思った。おまけに少し気持ち悪くなった。想像するんじゃなかった……。
 気持ち悪くなって頭を抑えていると、別の方向から声をかけられた。
「ねぇねぇ理樹君」
「なに葉留佳さん?」
「お願い事の短冊はどこにつければ良いですカ?」
「うん、それは5ヶ月ほど早い行事だからね」
「後はお化けのコスプレとお菓子の準備もしなくちゃいけませんネ?」
「うん。トリック・オア・トリートとか言って寮の中を駆け回るのはやめておこうね。後で二木さんに怒られるから」
「ちぇーちぇーちぇー」
 残念がる理由が分からない。
「ちなみにみおちんは向こうで短冊をワッセワッセと書いてますヨ?」
 葉留佳さんが指差した方を見てみると、なるほど、確かにそこには西園さんが書いたと思しき短冊と思われるものが山を作っていた。
「ちなみに、面白そうだったので一枚パチってきちゃいました」
 そういって僕に短冊を差し出す葉留佳さん。そこには
「直枝理樹 棗恭介 カップリング(字足らず)」
 不穏な川柳が書かれていた。……これ、短冊じゃないよね、そもそも。見なかったことにしよう、これが願い事でないことを祈りつつ。
 樹の低いところでは鈴やクドがヴェルカ、ストレルカと一緒になって飾り付けをしている。ほほえましいなぁ。一方の高いところでは真人、謙吾、恭介、来ヶ谷さんたちが人間離れした技でモミの樹に飾り付けをしている。頼もしいなぁ。
 嘘。真人だけはモミの樹にぶら下がって懸垂をしてる。飾り付けをしようよ。
 そのうち足でぶら下がって腹筋でもはじめそう『バキッバサバサバサバサバサバサドウッ』だなぁって、うわぁ、枝が先に折れて真人が落ちちゃったっ。
「真人大丈夫っ?」
「井ノ原さん大丈夫ですかーっ?」
「ふぅーっ、鋼の筋肉たちが俺を守ってくれたぜ」
 ……いろいろ間違ってる気もするけど、とりあえず真人が無事でよかった。あわてて駆け寄ってみたけど本当にかすり傷ひとつもない。落ちた時に聞こえた嫌な音をものともせずにケロッとした顔でほこりを払っている真人を見て思わずほっとする。……だけどもう筋肉とか頑丈とかそういう問題じゃない気がする。
「よっと。大丈夫か真人」
「おうよ、自慢の俺の筋肉達ががうなりを上げて俺の体を守ってくれたからな」
 ……筋肉も体の一部だと思うんだけど。
 「そうか」特に心配した様子もなく降りてきた恭介はそれだけ返事をして、モミの樹を見上げて言った。「この時期に作るクリスマスツリーってのも、なかなかオツなもんだろ」
 みんなもだいぶデコレーションされたモミの樹を見上て頷いた。そう、これは僕たちリトルバスターズの、クリスマスツリーだった。

 恭介がこのモミの木を見つけてきたのはずいぶん前らしい。どうやら旅(就職活動)をした帰りにさまよった山の中で見つけたらしいんだけど、それからみんなが忙しくなったり、なかなか時間が合わなくなってしまい、今日までずるずると日程が延びてしまった、ということだ。
 なんでクリスマスも過ぎたのにこんなことするの? と一応言ってみたら
「それは俺達が」
 恭介はゆっくりと目をつぶる。「どうせつまらない理由だろ」うん、僕もそう思う。そんな鈴のツッコミもものともせずにくわっと目を見開いた恭介が言い切った。
「リトルバスターズだからだ」
「わけが分からないよ」
「なら、ここにモミの樹があるからだ」
 爽やかに言ってのけるし。そもそも『なら』て……理由はなんでもいいんじゃないか。そして予想通りたいした理由じゃなかった。そもそも理由が無かった。
「こいつやっぱりバカだな」
 無事に内定が出た(らしい)恭介は就職活動から開放されたせいも手伝ってか、頭のネジがさらに何本か緩んだか飛んだ気がする。鈴の発言をものともせずに嬉々としてモミの木に登って飾り付けを再開している。そんな楽しそうな姿を見ていると僕も子供のころみたいに木に登って楽しく飾り付けをしたくなってしまう、なんて考えるのは僕が流されやすい性格だからだろうか。


「そういえば、クリスマスツリーなんだよね、これ」それだけ言って小毬さんは髪飾りに付いた星をいとしそうになでながらツリーを見上げる。「私のこれ、一番上につけたら……届くかな?」
 まだモミの樹のてっぺんには何も付いてなくて徐々にデコレーションされていくモミの樹が少しさびしげな印象を受ける。
 「だれに」「なにを」を言わずに漏れた小毬さんの言葉。きっとみんなの願いが、ってことなんだと思う。いつも自分以外の誰かのために一生懸命なんだから、自分の願いだって誰かに届けたっていいと思う。
「小毬さんは?」「ふえ?」
「小毬さんは何か願い事、あるの?」
「私?」
「うん。小毬さんも、何か願い事ってないのかなって思ってさ」
「う〜ん」
「う〜〜ん」
「う〜ん? そうだね〜」
 顔が百面相していて見ていて飽きない。しばらくうんうんうなっていろいろ考えてた小毬さんがほんのりとほほを赤らめた。
「赤ちゃんが、欲しい……かも」
「赤ちゃん?」
「うん、赤ちゃん。家族は、いつか減っちゃう。それは仕方がないことなんだよ、どうしても。でもね、増やすことだってできるんだよ?」
 普段のほんわりとした空気をまとった小毬さんはそこにはいなくて、大人の空気をまとった女性が一人たたずんでいた。僕はなんて返事をしたらいいのか分からなくで、あいまいに返事をした。
「? 理樹君、どうかしたの?」
 さっきまでの空気はどこへやら。いつもの空気を取り戻した彼女に「なんでもないよ」とだけ、僕は答えた。
「ぼ、僕も、上に行って飾り付けを手伝ってこようかな」
 ギクシャクとし始めた空気から逃げるために、それだけ取り繕って、上にあがろうとするとどこからともなく、声が聞こえてきた。
『おぎゃ〜っ、おぎゃ〜……』
 気のせいかとも思ったけど、たぶん気のせいじゃない。
 注意深く耳を済ませて泣き声が聞こえるほうへと向かうと、なぜかそこには鎌倉があった。どうやら泣き声は鎌倉の中かららしい。
「理樹く〜ん、どうしたの〜。……あれ? 中から声がするね〜」
 どうやらモミの樹からはなれて行く僕を心配して後からついてきてくれてたらしい小毬さんも、鎌倉とその中から聞こえる泣き声に気づいた。
「この泣き声って……赤ちゃん、だよね?」
「多分」
 一応あたりを警戒しながら鎌倉に入ってみる。
 外の気温に比べれば意外と暖かな鎌倉の中で、厚手の衣装をしこたま着込んだ赤子がぽつねんと一人、泣いていた。
「わぁ〜、やっぱり赤ちゃんだ〜。ほ〜ら、もう大丈夫でちゅよ〜」早速赤ちゃん言葉で小毬さんがその赤ちゃんをあやしながら、嬉しそうに言った。「早速願い事がかなっちゃったよ〜」
 うん。家族を増やしたいみたいなことをさっき言ってたもんね。早速かなってよかったね、って僕も言ってあげれればいいとは思うよ。それに赤ちゃんをあやしてくれたことも凄いと思んだ、多分僕じゃできないし。でも、それ以前にこのわけのわからない状況に気が付いて欲しい。
「……って、そういう問題じゃない〜〜〜〜っ」
 あ、遅まきながらようやっと気が付いた。子供を抱えながら早速テンパる小毬さん。首はちゃんと据わっているらしく、小毬さんに抱きかかえられてとキャッキャと喜んでいる。ほんわかとしている小毬さんが赤ちゃんを抱えているのを見ると、どことなく母親って気がしなくもない。見ているこっちもほんわかとしてくる。いいお母さんになりそうだな、なんて思ってしまう。現在テンパってる真っ最中だけど。
「おんやぁ? 急に二人が消えたと思ったらこんなところ出会いの巣を構えておまけに子供までいちゃったってオチデスカ?」
 鎌倉の入り口から顔を半分だけ出して家政婦は見た、のようなポーズのまま葉留佳さんがニヤリと笑った。……やっぱりいなくなった僕らを探しに来てくれたんだろうけど、出歯亀をしようとしていたようにしか見えない。多分実際そうだろう。葉留佳さんに続いて続々とみんなが入ってくる。
「わふーっ、その子はリキと小毬さんのお子さんですかっ!?」
「なにぃ〜理樹とこまりちゃんの子供だとーっ」
「直枝さん、存外鬼畜だったんですね」
 ……あらぬ誤解とともに。
「なんだそりゃ? ってうぉっ、子供じゃねぇか。なんだこの子供、筋肉が無いぞ」
 いくらなんでも赤ちゃんにまで筋肉を求める必要は無いと思う。
 続々とやってくるバスターズのメンバー。あれやこれやと勝手な妄想を各人繰り広げてくれる。何でこういうときばっかりチームワークがいいんだろう?
「どれどれ、俺が筋肉を分けけてやろう」
 むちゃくちゃなことを良いながら赤ちゃんを抱えようとすると
「ふぎゃーふぎゃーふぎゃーーーーっ」
 息つく暇も無いくらいに必死に赤ちゃんが泣き出した。きっと身に危険を感じたんだと思う。
「なんだこのガキは。筋肉は暑苦しいので近くで息を吸いたくありません。だから泣いて必死に抵抗します、って感じだなっ」
「すごい、赤ちゃんにまで無理やり言いがかりをつけるなんて、さすが真人だね」
「ほめるなよ」
 ……ほめてない。だけど、真人と赤ちゃんって言うカップリングもある意味凄い。筋肉マッチョで長身の真人と赤ちゃんを一緒にみると、どうしても違和感がついて回る。真人が父親になるっていう光景はちょっと想像できない。まず第一に相手が。
「ふむ、赤ちゃんか。そういえばクドリャフカ君」
「はい、なんでしょうか?」
「実は赤ちゃんは木の股から生まれるという事実を知っているかい?」
「わふー、それは知りませんでしたっ」
「そうなのか?」
「いやいやいやいや、クドに嘘を教えない。鈴も信じないでよ」
「なんだ嘘か。って言うか、子供ってのは筋肉から生まれるんじゃないのか?」
「……イヤーーーーっ!!」
 筋肉から真人が生まれてくる光景あたりをリアルに想像したんだと思われる葉留佳さんが頭を必死に振って想像をかき消そうとしている。……うわっ、僕も少し想像しちゃったよ。葉留佳さんが必死になって頭を振る気持ちも分かる。筋肉から真人が生まれてくる光景はなかなかにしてシュールだ。いや、なかなかどころの騒ぎじゃない。シュールだ。
「ダメですよ、嘘ばかり教えては」
 モミの樹の一角をダークなオーラが出ている短冊で占拠し終えたらしい西園さんが冷静に会話を割った。小毬さんもそれに続く。
「そうだよ、赤ちゃんはね、男の人と女の人がせっくすをして、女の人が妊娠をして生まれるんだよ〜」





 …………場が、凍った。小毬さんの台詞にほぼ全員が硬直している。
 意外な人からとんでもな台詞が出てきた気がする。……いつもどおりののんびり口調でそんなことを言われて、聞いたこっちが赤面してくる。言った本人は相変わらずほわほわしてるし。
 来ヶ谷さんだけが鼻血をダボダボと垂れ流している理由も分からない。「ヤバイ、小毬君が言うとえろい……」とか言ってるけど、それはこのさい聞かなかったことにしよう。
「え? ……あっ、……ふぇ、ふええええええ〜〜〜〜〜〜〜!???」
 どうやら自分が言った台詞がとんでもな内容だったことにいまさら気がついたらしい。……遅いよ。
 自分の言った内容にわたわたとしている小毬さんに
「うむ、見事なエロテロリストっぷりだったぞコマリマックス」
 来ヶ谷さんが止めを刺した。あ〜あ。
「うわああああああん、私がえろい〜」
「みんなどうしたんだ、気が付いたら人が減ったり騒がしかったり」
 気が付いたらて……そんなに飾り付けに熱中してたんだ。
「ああ、恭介。この子なんだけど……」
「……やべっ、すっかり忘れてた」
「「「「「「「「「へ?」」」」」」」」」」
 状況にほぼ完全に全員が置いていかれる。間抜けな声を上げた僕らに恭介はあっはっはと爽やかにかつぬけぬけといつもの調子で言い切った。
「いやぁ、その赤ん坊さ、実は俺がベビーシッターのバイトで頼まれた子だったんだ」
「はい?」
「せっかく内定ももらったんだから、バイトでもして金を稼ごうと思ったらちょうどいい仕事があってな、まぁそれがベビーシッターだったわけなんだが。せっかくだからバイトで金を稼ぎながらなんか面白いことでもできないかなと思ってさ、それでちょっと……な?」
「ふむ、赤子の存在をすっかり忘れてツリーのデコレーションに励んでしまった、と言うわけだな」
「はっはっは。そのとーり」
 あきれながら言う謙吾の言葉も爽やかに跳ね返すし。いや、自分のバイトでしょうが。
「もぉむちゃくちゃだな」
「いや、くちゃくちゃだ」
 確かに、めちゃくちゃくちゃくちゃぐだぐだだった。
「はぁ〜、恭介……鎌倉まで作って赤ちゃん自体は寒くならないようにいろいろ厚着させて工夫しようとしたのは分かるけど、忘れちゃダメでしょ、忘れちゃ」
「いや、面目無い」
 少なくとも悪いとは思っているようでだったけど、次の瞬間には「ああ、いいこと思いついた」とテンションを明るくした。うぅ、嫌な予感がする。
「この赤ん坊は理樹と小毬の直枝夫婦に任せたいんだが、いいか?」
 予感的中。めちゃくちゃなことを言ってきた。
「ふっ、夫婦? ふーふぉわああああああ?」
 小毬さんは錯乱してるし。
「見ての通り、小毬はその赤ん坊になつかれているみたいだしな。小毬をここに一人にしていくわけにもいかないだろう?」
「うっ、まぁ、確かに」
 ていよく恭介のバイトをタダで押し付けられただけな気がする。っていうかそれ以外の何物でもない。
「まぁまぁ、礼はちゃんと後ではずむからさ。な、理樹? このミッション、引き受けてくれるか?」
 はぁ、『ミッション』と言われてしまうと、もうこっちの負けだと思う。仕方なくだけど了解すると、恭介はみんなを連れてクリスマスツリーへと戻っていった。

 急にあたりが静かになる。ここだけ急にクリスマスを離れて正月になった気分だ。それでもまだ現実とは一ヶ月遅れなんだけど。
「ふふふ、赤ちゃん、かわいいねぇ」 とりあえず落ち着いたらしい小毬さんは、今度はうれしそうにつぶやく。そういえばさっきからずいぶんと長いこと赤ん坊を抱えてる気がする。変わったほうがいいのかな?
「腕、疲れない?よかったら変わるけど」
「ううん、だいじょぶ。……ふふふふふ」
「僕の顔に何か付いてる?」
「ううん、そんなんじゃないよ。ただ、こうしてると本当に家族みたいでいいなーって、そう思っただけ」
「願いごと、かなっちゃった」
「叶ったね」
「特別なクリスマスだね、今日は」
「そうだね。僕も何かお願い事を伝えておけばよかったかな?」
「だいじょうぶ、まだきっと間に合うよ」



 そんな、他愛のないことを話しながら時間は淡々と過ぎていって、ゆるゆるなミッションは終わった。
 赤ん坊と別れるとき、小毬さんはきっと泣いちゃうんだろうなと思ったけど、意外tなことに笑顔で別れを告げていた。
「お別れするのはやっぱり寂しいけど、だいじょうぶ、きっとまた会えるから」
 満面の笑みを浮かべて笑う小毬さんがいつもより少し大人っぽく見えて、少し、ドキッとしてしまった。あまりにも照れくさかったから僕は
「そうだね、いつかまた、きっと会えるよ」
 とだけ、返事をした。


[No.171] 2008/02/23(Sat) 18:31:36
2008年5月11日 (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ

 普通の家の母の日はどんなのだろう。
 私にはお母さんもお父さんもずっといなかった。
 周りにいたのはただ私を競争の道具としか見ない大人たち。
 だから競争に使うために時々通っていた学校で、母の日だからお母さんについて作文を書くよう言われた時は何一つ書けなかった。
 その作文はあいつも何も書けなかったらしく、あいつの顔にもはっきりわかるほど叩かれた跡があった。
 自分の痛みも忘れて、あいつが痛い目を見ていることが少し笑えた。
 そんなあいつからの陰湿なプレゼントなのだろうか。
 高校に入って初めてお母さんとお父さんに会えた頃は、あいつが優越感に浸りたいだけと分かっていても少し嬉しかった。
 去年の母の日はお母さんに喜んでもらおうとカーネーションを買って、マフィンを焼いたりもした。
 けれど無駄だった。
 あの日あったのはいつもと同じ報告を聞くことだけ。
 その時私はこの人たちは決して三枝家に逆らえないただの道具だとわかった。
 私には私を生んだ道具はいてもお母さんはいなかった。



 並べられた食事は豪勢でいかにもお祝いの時の風景だと思う。
 でもそんなのどうでもよかった。
 こんな人の母の日を祝う気にはなれないのにこんな食事出されても気持ち悪くなってくる。

「さあ、食べようか母さん。葉留佳もお祝いして」
「……」
「葉留佳あなたと一緒にこんな時間を過ごせて本当にうれしいわ」
「……」
「葉留佳学校の方はどうだい」
「しっかりと勉強しなさいね」
「勉強ばかりでなくクラスの子と仲良くすることも忘れないように」
「ねえ、去年もそんなことしか言ってなかったよね。カーネーションやマフィンのことよりも私の様子を聞くことばかり気にして」

 少しだけ二人の顔がひきつったように顔に変わった。
 そんな顔を見ていると余計に苛立ってくる。
 何かに脅えたように周りをうかがっている顔をすると、余計に私の顔に似てくるから。
 そんな顔をしていると私がこの人の娘だってこと嫌でも認めないといけないじゃない。

「母親が娘のことを気にしたらおかしい」
「気にしているのは佳奈多や三枝の家だけでしょ」

 バタン、ガシャーン

 立ち上がって皿を全部払いのけても二人の様子は全然変わらない。
 お母さんは「大丈夫」と私に声をかけ、お父さんは淡々と破片の後片付けをする。
 こんなの絶対親子じゃない。
 私を叩いたりしたら三枝の家に何されるかわからないとでも思ってるの。
 別にあの家の人間は私が叩かれても何とも思わないわ。
 だって、あいつらが一番私を叩いているんだから。
 そんなの気にせず私を叱ってよ、少しは母親らしいところ見せてよ。

「葉留佳あなたが私のことを嫌っていることはわかるわ。でもこれだけは信じて。私はね、あなたが……あなた達が健康に暮らしていくことが何よりも喜びなのよ」
「そうだね、私たちがケガでもしたら、お家の連中に何されるかわからないからね」

 ダダダ

 家を飛び出した私に後ろから何か言っているみたいだけど立ち止まる気にはなれなかった。
 もうどうでもいいや。
 私が死んでも悲しむ人より、きっと喜ぶ人の方が多いだろうしてもう死んでもいいかな。





 あの日から私は報告の日を無視し続けた。
 お姉ちゃんに色々と言われたけれどそれもどうでもよくなっていた。
 あの事故がなければ私はずっとそのままだったと思う。
 死んでもいいと思っていた。
 でも血がどんどん流れていくのを感じていると急にそれがつらくなった。
 そんなことを考えていると声が聞こえた。
 生き残った理樹くんと鈴ちゃんが強くなれるよう力を貸してほしいと。
 二人は私が死んだとき悲しんでくれる数少ない人、そう思ったから私は自分の想いをぶつけてみた。
 学校が街が人が次々と作られていく中で私はなぜかお姉ちゃんたちのことを考えた。
 私が死んでもきっとお姉ちゃんたちは悲しまない。
 もし世界を作り出せることができるのなら、私を大切に思ってくれる人が現実より多い世界になって欲しいと願った。
 私は心のどこかでお姉ちゃんたちに愛されていたかったんだと気づいた。



 あの不思議な世界が5月13日から始まったのは多分私の想いが強かったからだと思う。
 謙吾くんは古式って子が生きていたころに戻りたかった。
 恭介さんや真人くんは理樹くんと鈴ちゃんが強くなることを願っていただけだから日付はこだわってなかった。
 姉御や小毬ちゃんやみおちんは特に何も望む日はなかった。
 クド公はあの日嬉しそうにお母さんが宇宙に行くこと話してたから、ひょっとしたらクド公ももう一度母の日からやり直すことにこだわってたのかな。
 けど私はやり直すことができるのならあの日しか考えられなかった。
 でも結局戻りたいと願っただけで何をやったらいいのかはわからなかったから、同じことの繰り返しだったけど。
 そんな私を理樹くんが支えてくれた。
 そして初めて私は誰かが救ってくれるのを待つんじゃなく、自分の方が動こうとしなければ何も始まらないことを知った。





 ガンッ

「何するんですか!」
「何ってフライパン叩いただけよ。準備が進まないでしょ。はい、ぼうっとしてない」
「あんなに強く叩いといて何もなし。ひどいひどすぎる。きっとこれからも理樹くんとラブラブな私をねたんで、行かず後家になってネチネチといじめてくるんだ」
「もうちょっとお塩足した方がいいかも」
「えっ! スルー」



 三度目の母の日は初めてお姉ちゃんと一緒に祝う母の日だ。
 理樹くんも来てくれるようお願いしたのに、「今日は家族だけでお祝いした方がいい」と断られた。
 いずれ理樹くんのお母さんになるのだから遠慮しなくていいのに。



 事故の後私の世界はすべて変わった。
 目を覚ましたときお母さんたちは泣き疲れた顔をしてベッドのそばに付いていてくれた。
 あの地獄のような家の中で死にたいと思ったことは数え切れないほどあったけれど、私の命をこんなに心配してくれているとわかったら、頑張って生きようと思うようになった。
 私はお母さんたちに愛されていると初めてわかった。
 欲望の道具にされていてもそれでもお母さんは二人の父親を愛し、そして二人の娘を愛しているとわかった。
 私は愛されて生まれてきた、だから私も一番愛している人とずっと一緒に生きたいと考えるようになった。
 だから私は恭介さんが戻ってすぐに理樹くんに告白した。
 リトルバスターズの他の女の子はどの子もとってもかわいいから、告白受け取ってもらえないだろうなと思っていた。
 それでも私は最初からあきらめたくはなかった。
 そしてそんな私を理樹くんは受け入れてくれた。
 鈴ちゃんたちもきっと理樹くんのことを好きだったと思うけれど、それでも私の告白がOKされたことを喜んでくれた。
 ひょっとしてお姉ちゃんも好きなのじゃないかと聞いてみたら、馬鹿なこと言わないでと怒られた。
 赤い顔して言われても説得力ないのに。



「さてできたわね」
「お母さん、お父さん席について」

 二人で作ったごちそうメニュー、ところどころ失敗したかもって思う部分があるけれど喜んでくれるといいな。
 二人の父親、その父親の血をひく双子が並んで祝う母の日は、間違いなく普通じゃない母の日の姿だと思う。
 それでも私たちは今間違いなく幸せだ・
 だからお姉ちゃんと声を重ねて一つの言葉を言う。

「「お母さん、私達を生んでくれてありがとう」」


[No.172] 2008/02/23(Sat) 20:40:16
散歩の途中 (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ

 幾つもの大通りを横切る形で長々と設けられた、川沿いの公園を散歩しているときのことだ。蝉の声のやかましい遊歩道の真ん中で突然鈴が立ちどまり、「この川って公園を作るときにわざわざ通したのか?」と訊いてきた。理樹は鈴と一緒に住んでいるアパートの近所に時々散歩に来るおじさんと、以前立ち話した折に仕入れた知識を総動員して答えた。
「いや、元は材木を運ぶための運河で、二十年くらい前に川を半分埋め立てて、上に公園を作ったみたいだよ」
 ふうん、と鈴は、自分から話を振っておきながら興味なさそうに頷いた。
「奥のほうまで歩いていくと昔材木を浮かべて保存してた池が残ってるらしいけど、見に行く?」
「別にいい」
 案の定素気なく返された。かと思ったら本当はちょっと気になるのか、「材木を貯める池――」と呟きながら、遊歩道のすぐ脇を流れる川を覗き込むような仕草を見せたりもして、何がしたいのかよくわからない。不機嫌一歩手前の鈴に特有の仕草だった。理樹は思い切って「電話、なんだったの?」と訊いた。
「お母さんだった」と鈴はなんでもないことのように言った。
「え? そうなの?」
「ん? どうしてそんな意外そうな顔するんだ?」
 目を丸くして訊ね返してきて、理樹は答えに窮した。不機嫌そうにしてたから、と素直に答えると、そんなことない、とそれこそ不機嫌に言われてしまいそうな気がしたのだ。とはいえ家を出る直前に電話が鳴って鈴が受話器を取り、毛を逆立たせた猫みたいにして短く受け答えをして受話器を置いた後、理樹に何を言うでもなく靴を履いて外に出て行ってしまったのは事実で、だからこそ今まで電話が誰からのものだったのか訊ねることができなかったのだが、鈴は理樹が何か言う前に「あー」と目を泳がせた。それからぽつりと言った。
「理樹の想像通り、たぶんちょっと不機嫌だ」
「ひょっとしてあの話?」
 小さく頷いて、鈴は歩き始めた。辺りに響くのは、水音、蝉の声、遠くを走る車の音。


 陽射しが強くて夏真っ盛りという感じでとても暑い。アスファルト舗装の遊歩道は川に沿って途切れることなくどこまでも続いているように見えるけれど、目を凝らしてみれば視界の奥で一度途切れて横断歩道になり、その先にまた同じ造りの遊歩道が伸びている。右側にはかろうじて底を見ることができるくらいの深さの川が流れていて、左側には太い枝に賑やかに葉を繁らせた染井吉野の木が点々と植えられていて、幹に札がぶら下がっていなければ理樹にも鈴にもそれが染井吉野だとわからないのは言うまでもないが、その木の向こう側には遊具とか小さな野球場とか林とか丘とか沼めいた池とかそういったものが道に沿って並んでいる。端的に言って無秩序だ。周囲をぐるりと見回して鈴は言った。
「変な公園だな。なんのためにあるのかよくわからない」
「なんのためにあるのかわからないためにあるんだよ」
「意味わからん」
「特に目的もなくのんびりと散歩してる僕たちみたいなひとが歩くには、厳密な目的を持った場所よりも、なんのためにあるのかよくわからない場所のほうがいい。――そういう場としてここはあるんだよ、きっと」
「理樹の言うことは時々抽象的すぎる」
 そうやって会話を交わしながら並んで歩いている。周りを木々に囲まれて、緑のにおいが濃密だった。木漏れ日が川面に降り注いで、その模様が一瞬ごとに変容していくのがよく見えた。ばさり、と鳥の羽ばたきがどこかから聞こえた。
「子供の話」
 鈴が突然ぽつりとそう言って、理樹にはなんのことか一瞬わからなかったけれど、お母さんからかかってきた電話の話だと気が付いて頷いた。船の形をした大きな遊具の前で子連れの女のひととすれ違って、喫煙所で囲碁を打っているおじさん二人組みの横を通り過ぎて、喫煙所の常として辺りが煙草臭くて、そのにおいは川面から立ち昇る水の香りと混ざり合っていた。
 鈴の言う子供の話というのは、一ヶ月前の命日に鈴の実家に帰ったとき、いずれ孫の顔が云々、ということを鈴のお母さんが遠回しに言ったら、鈴が鬱陶しがるのを取り越していきなりぶち切れたことに端を発するもので、どこにでもありそうな話ではあるにせよ鈴の怒りようは普通ではない。理樹はと言えば、息子を事故で早くに亡くし、娘は子供産まない宣言で、孫の顔を見る見込みをほぼ断たれた鈴の両親がかわいそうだとは感じなくもないが、意見は鈴と同じだ。春頃に後一年で大学も卒業だからということで将来についての真剣な話し合いの場を設け、真剣な話し合いの場とは思えぬほど短時間で、子供を作ることはしない、と結論が出ていた。
 遊歩道が途切れて普通の歩道に出ると、陽が照り付けて肌がじわりと焼かれるようだった。掌で顔を扇ぐ鈴の表情はぐったりとしていた。横断歩道を渡ってまた遊歩道に足を踏み入れて、木陰の涼しさに少し感動した。
「まあ、不機嫌になるのはわからないでもないかな」
「当然だ」と鈴は本当に当然だと思っている口調で言った。「理樹なんだから、あたしのことはだいたいわかるだろ」
「えーと」判断に困って訊いた。「それって喜ぶべきところ?」
「え? どうしてだ?」
 真顔で問われたので、「いや、聞かなかったことにして」と返してうやむやにした。鈴はしばらく首をひねっていたけれど、やがて気にしないことにしたらしく、「どうしてあたしが子供産むことになってるのかわからん。なんでだ?」と訊いた。素朴だが尤もな疑問ではあった。
「よく聞くのは、生物として本能的で自然なことだからとか、人間の義務や責任であるからとか、大人になるとはそういうことなのだとか――。まあどう聞いても胡散臭いけどね」
「胡散臭いというか気持ち悪い」
「気持ち悪いといえばむしろ、少子化の時代云々とかその手の物言いかな。あとは、幸せの形とか愛の結晶とか家族が増える喜びとかいうのがあるけど、いまいちよくわからないし、これが意外に一番暴力的だとも思うんだけど――。あ、でも、こうやって並べてみると、自然でもなんでもないことを自然なことのように偽装するのが、制度であり言説なんだなあって実感するよね」
 鈴が顔をしかめた。
「理樹の言うことはやっぱり抽象的すぎる」
「ときには抽象性の高い言葉も大事だよ」
「うーん?」
 またもや首を傾げる鈴を見ながら理樹は、色々言ってみたけど、そもそも疑問なのは、理樹と鈴の二人の関係の果てにどうしてもう一人別の人間が必要とされるのかという点だ、と思った。たぶん鈴も同じことを思っているのだろう。ひとの内心を勝手に推測するのも暴力的なおこないだけど、あたしのことはだいたいわかるだろ、という鈴の言葉を信じることにした。


 同じ大きさの石を地面の高さまで積み上げて金網で縛り上げた謎の物体が、川の流れを塞きとめるようにして置かれていた。その前で足をとめ、ざらざらした手触りの白い金属製の柵にもたれかかった。
「これなんだ?」
「わからない。濾過装置かな?」
「ふーん」
 石の間を流れる水のさらさらとした音がとても涼しげで、でも実際は全然涼しくなかった。並木の向こうの広場に、コンクリートの壁に向かって一人でボールを投げる小学生くらいの男の子がいて、ボールのぶつかる音がぽーんぽーんと、蝉の合唱に混じって一定の間隔で響いていた。全力でボールを投げたり打ったりしていた日々が懐かしかった。
「そういえば」と鈴は言った。「世の中は結構複雑なんだって、高校出てからは特に思うようになったな」
「いきなりどうしたの?」
「一応さっきの話の続き」
「それはつまり、学校を出て子供産んで家庭を作って、というのだけが生き方じゃない、っていう話?」
「ちょっと違う。――いや、ちょっとどころじゃなくて全然違う」
 そんなに力強く言い直さなくてもいいじゃないか、と落ち込んだ。鈴は柵から手を離してゆっくりと歩き出した。行く先は大振りの枝が空に何本も懸かっているせいでトンネルのようになっていて、木漏れ日がまだらな模様を道に落としていて、ざわざわと音を立てながら枝葉が風に揺れていて、それにあわせて光の模様もゆらゆらと揺らめいている、そんな様子がとても綺麗だった。
「木漏れ日のことを綺麗だと考えるのは」と立ちどまったまま理樹は思わず言った。「自分の本当の気持ちなのかな。それとも、住んだことどころか実際に見たこともない絵葉書的な田舎の風景に懐かしさを感じてしまうみたいな、類型としてのノスタルジーの一種なのかな」
 鈴は肩越しに振り返って、顔に木漏れ日を浴びて眩しそうに目を細めながら、そんなの簡単だと言わんばかりに答えた。
「両方じゃないか? どっちかに限定する必要もないだろ」
 成程、と素直に納得して、理樹は鈴の斜め後ろを付いていった。飼い主に連れられた大型犬が、暑がっている犬特有の荒い呼吸の音を響かせながら脇を通り過ぎた。黒くてふさふさの毛が暑そうだった。木漏れ日の話題などなかったかのように鈴は先程の続きを話し始めた。
「あたしが言いたいのは、「前」ってどこだ、ってことだ」
「どこなの?」
「知らん」
 わけがわからなかった。しかし二人はさしあたり、川に沿って、前へ向かって歩いてはいる。空気の緩やかな流れが肌に感じられた。しばらく歩くと左手に林のように連なっていた木々が途切れて、代わりに現れたのはなぜか土俵で、左側の川はいつの間にか水遊びができる浅さになっていて、実際に水遊びのためのものらしい浮島や、イルカの形をした噴水が水の中に据えられていた。今川に素足を浸けたら水は冷たいだろうか、それとも陽を浴びてぬるんでいるだろうかと不意に考え、柔らかい布に包まれるようなその肌触りを思わず想像したが、ところで今の鈴の言葉は、わけがわからないなりに言いたとえてみるとこういうことだろうか。
「自分の生をつくづくと省みるとき、わたしはそれが曖昧な形をしているのに驚く」
「きしょい」
「えー」
「いきなり変な一人称使うな。なんだそれ」
「あるローマ皇帝の一生を描いた小説に出てくる文章」
「成程」鈴は腕を組んで尤もらしい口調で言った。「さすが仏文学専攻だな」
「フランスの小説だってよくわかったね」
「ああ。まぐれ」
「ええー」
 鈴はその言葉をさらりと無視して、「まあ「曖昧な形をしている」っていうのは、たぶんその通りだ」と言い、少しだけ躊躇って、「あの事故の後で――」と滅多に話題に上らない事故のことを口にした。「事故の後で、気を使いすぎるひととか、逆に無神経すぎるひととかに色々言われて、むかついたってわけじゃないけど、なんかもやもやした」
「ああ、そっか」
 今度こそわかった気がした。引用をする必要なんて全然なくて、それはたぶん理樹も、鈴とまったく同じようにではないにせよ感じていたことだった。鈴の言葉を引き継いで理樹は言った。
「前向きに生きるだとか、悲しみを乗り越えてだとか、みんなのぶんも幸せにだとか――。確かにそんなことを言うひとはいたし、別にそう言うひとは悪いひとではないんだけど、前向きって言うときの「前」はどっちなんだというのは謎だね」
 鈴はこくこくと頷いた。話し込んでいたせいでしばらく気が付かなかったけれど、さっき見たのと同じ濾過装置と思しき物体を挟んで川はまた普通の川に戻っていて、その畔には小さな水車小屋が建っていた。一瞬水に浮かんでいるように見えた。建物の土台が、護岸から川面へ突き出るように組まれていたからだ。中を見たいと思ったけれど、建っているのは柵の向こう側にだったし、扉に鍵がかかってもいて入れそうになかった。鈴が残念そうな顔をした。
「見れないのか、これ」
「そうみたいだね」
 仕方ないので柵から身を乗り出した。水の香りを強く感じた。窓の奥に複雑に噛み合わされた歯車や石臼が見えて、小屋はちゃんと水車小屋としての機能を果たしているらしいとわかって、それはいいのだが、二人揃ってこうして腕で体を柵の向こうに押しやっているのは、傍から見ると凄く間抜けな光景かもしれない。着地してから辺りを見回した。誰も見ていなかったので安心した。蝉の声は知らぬ間に途切れていて、代わりに踏み切りの音が遠く微かに聞こえた。
「それで続きだけど」と理樹は砂で汚れた手を払って言った。「悲しみを乗り越えてだとか言われても、乗り越えられるような実体的な悲しみなんてないし、「前」と一緒で「越える」っていうのもどこからどこへなのかとても謎ではある。物語じゃあるまいし、どこかを「前」と見定めてそこへ向かって歩いていったり、何かを単に「幸せ」と言い表してそれを追い求めたりするような、そんな単純な世の中に僕らはきっと生きてはいない。世界はもっと複雑で豊かだ――。よくわからないけど、こんなところかな」
「やっぱり理樹の言うことは抽象的すぎる」
「だから言ったじゃないか。抽象性は必要だよ」
「うー、あたしはいじめられてるようにしか感じないぞ」
 そんなふうに拗ねる鈴の姿を見て理樹は、長い間抱えていた疑問が少しだけ解消されたと感じた。事故後初めて目覚めたとき、理樹は鈴に、何があろうとも僕がいる、一緒に生きよう、という内容のことを言って、それはプロポーズかと鈴に問われて、いやそんな大層なものではない、と返したのだった。どうして頷かなかったのか、自分のことなのに不思議に思っていたけれど、それはたぶん、そのとき心の中に渦巻いていたさまざまな感情を、プロポーズというただ一つの言葉に置き換え、まとめてしまうのが酷く嫌だったからだ。どこかが「前」で、何かが「幸せ」であるということが成り立たないように、あの気持ちも「プロポーズ」であるということにはならない。


 水車小屋を通り過ぎたところでまた横断歩道に突き当たり、そこで公園を出ることにした。土や緑のにおいが急速に遠ざかって、皮膚に感じる光の圧力が強まった。すぐ隣のコンビニでアクエリアスを買って二人で回し飲みすると、その冷たさが掌や喉にとても心地よくて、炎天下を散歩するのも悪くないなと内心で呟いたけれど、そこでそもそもどうしてこんな暑い日に散歩に出かけようとしたのかわからなくなって、まあ別にわからなくてもいいかと思った。店の前の駐車場では灰色の車止めが陽射しに熱く焼かれていた。
「で、そもそもあたしたちはなんの話をしてたんだ?」
「子供の話」
 そうだっけ? という顔を鈴はした。そうなんだよ、と理樹が頷き返すと、鈴は、そうだったか、と納得した表情になって口を開いた。
「子供の話で思い出したけど、さっき理樹が言ってた制度とか言説って結局なんなんだ?」
「うーん、なんて言うか、男と女の自由恋愛はあらゆる人間関係の中で至上のものであり、それはいずれ結婚に至って家族や子供をなすことにつながるっていうのは、別に根拠ないけどみんな信じてるし、信じてなくてもそうあるべきだと思ってる、ってところかな。――そろそろ行こうか」
 空き缶をコンビニの入り口脇のゴミ箱に捨てて出発した。
「じゃあそういうのはみんな嘘なのか?」
「それはわからない。何かが擬制であることは必ずしも悪くないしね。けどそこのところに対する問いを含んでいない場合、実在のひとにせよ虚構の物語にせよ、あんまり本当っぽくは見えないんじゃないかなあ」
 神社の先を右に曲がると、古い家並みの中を縫う裏路地に入り込んだ。ぐねぐねと曲がって先を見通せない狭い道を歩くのは、先に何が現れるのかわからなくてちょっと楽しい。八百屋、小さな駐車場、無数の丸い刻印のある細い坂道、その脇に建つ木造の家、軒先にぶら下がった沢山の風鈴、ちりんちりんと音を重ねる。二人ともしばらく無言で、周囲をきょろきょろと見回しながら歩く。焼けたアスファルトと湿った土のにおいが混ざって流れてくる。
「少なくとも僕は――」と理樹は何事もなかったように続けた。「小説とかで、男女が結ばれてめでたしめでたしで終わって、後日談でさらりと子供が出てきたりするのを見ると、ああそこに疑問を差し挟むことはしないんだなあとか思う。でも、これは好みの問題かな」
「なんか話が」抽象的だ、と言うとまた反論されると思ったのか、鈴は言いかけて少し考えて言い直した。「大きくなりすぎてないか。あたしたちの問題だったはずだぞ」
「うん。だけど改めて話し合うことなんてあったっけ?」
「お母さんの追及をどうやって回避するか」
 そういう現実的な問題があったかと理樹は思って、お母さんもかわいそうに、とはやっぱり感じたが、口に出すと蹴られそうなのでやめた。剪定をサボっているとしか思えない繁りすぎの生垣を越えて、洞のある巨木が道路に大きく飛び出していた。
「こういうときは、まさにその抽象性故に抽象的な言葉は役に立たないね」
「その言い方自体が抽象的でわけわからん」
 足場が組まれてネットに覆われた、工事中の小学校の前を通り過ぎた。やや下り勾配になった道を辿り、家と家の間の数十センチしかない隙間を体を横にして抜けるとようやく大通りに出た。大きな音を響かせて、色々な種類の車がせわしなく行ったり来たりしていた。上に遮るもののないせいで陽光がやけに眩しい。理樹は特に考えもなしに歩道を左に曲がろうとした。すると鈴が理樹の服の裾を引っ張った。
「理樹、ここどこだ? あたしはこんな場所知らんぞ」
「――鈴、ごめん」
「ん? どうした?」
「僕も知らない」
 理樹と鈴は顔を見合わせてとりあえず笑い、それから責任の擦り付け合いを一通り済ませると、知らない道を歩き出した。歩けば歩くほど「うー、あたしたちはこのまま街中で遭難してしまうんだ。人混みの藻屑と化すんだ」と想像力を豊かにしていく鈴が面白い。適当に歩いていけばどこかの駅にでも着くだろうし、そうすれば知ってる駅まで電車で行けるはずだけど、さしあたり二人は道に迷っていて、家に帰れなくて、だからまだ散歩の途中だ。


[No.173] 2008/02/23(Sat) 22:03:14
Step forward (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ


 世界を全て失ったと、古式みゆきはようやく自覚することができた。
 視界の先に映る電信柱が自分から近いのか遠いのか、ひとつの瞳でははっきりと判別できない。距離感を掴むことのできないお前はもはや無意味なんだ、彼女は暗闇の奥からそう誰かに突きつけられた気がした。
「む」
 難しい顔で目の前の同級生が考え込む。剣道と弓道、道は違えども武道に打ち込むその姿勢は、以前の彼女から見ても自分と似ているように思えた。
 だけど、今はもう違う。自分はすべて失ってしまった。持ち合わせている時間のほとんどを鍛錬に費やしていた彼女は、やることがなくなってしまったのだ。ひとつのことに集中しすぎた彼女には他にやりたいことなんて思いつくはずがない。だから、なんでもいいから誰かに道を示してもらいたかった。
 それなのに。
「古式、今のお前は突然の出来事に混乱してしまっている。時間を置いて改めて考えるべきだろう」
 何を? 彼女は聞き返したい気分だった。それでも、こうして話を聞いてくれるだけましだった。他の生徒は彼女に同情の視線を向けるだけで、彼女と目が合ったとたんにさっと視線を逸らしてしまう。ついこの間まで、一緒に腕を磨いていた部員たちもそうだ。同情という生ぬるい世界に包まれていた彼女に対して、先を照らしてくれる人間なんていなかった。
「ん?」
 ただ一人を除いては。それは敵意と呼ぶほどはっきりとしているわけではないが、確かに他の皆とは一線を画していた。しかし今のみゆきに直接問いただす余裕があるわけもなく、その場は疑問を残したままでいるしかなかった。



「え、笹瀬川さんのこと?」
 クラスメートに話を聞くと、すぐにその名前が返ってくる。ソフトボール部に所属している彼女がなぜ自分にあんな感情をぶつけてくるのか、みゆきには分からなかった。それよりも彼女を苛むのは相変わらず自分を包む生ぬるい空気。かつての自分であれば気に留めることのなかったその空気に、押しつぶされてしまいそうになる。
 助けて。
 助けて。
 彼女は心の中で何度叫んだことだろう。
 けれども、彼女の声に気がつく人はひとりもいない。ずっと暮らしている家族でさえも腫れ物を扱うかのように対応される。
 陰鬱な気持ちを抱えたまま教室に彼女が入ると、とたんにぎこちなくなる空気。もうどこにも彼女の居場所はない。
 失った瞳の奥が酷く疼く。
 逃れたい。
 どうやって。



 まだ未練が残っているのか、部活が終了して誰もいなくなった道場にみゆきは一人たたずむ。慣れ親しんだ匂いも風にさらわれて、ひんやりとした空気だけがみゆきの体を取り巻いている。
 よろよろと、壁際まで移動するとみゆきは床に腰を下ろした。直に触れる部分から熱をゆっくりと奪われていく。緩慢な死が迫っている気がした。
 思い出がありすぎた。顧問の教師からは別にやめなくてもいいといわれている。マネージャーとして他の子のサポートをしてくれるとすごくありがたいなんてことも言われた。でも、弓を引かない自分がここにいる意味なんてない。どうあがいても以前の自分に戻ることなんてできない。
 ぽたりぽたりと雫が床に落ちていく。しゃくりあげるみゆきの体が小刻みに震えて辺りの空気をも揺らしていく。



 そして、彼女は飛び降りた。



 世界が闇に閉ざされている。
 必死に両の目を開けようとしても得体の知れない力で上から押さえつけられている。外に向かえず逆流する激しい感情が内に向かって渦巻いている。
 苦しみ、悲しみ、怒り。すべて負の感情で満たされており、それが彼女自身を傷つけていく。喘ぐように胸をかきむしっても救われることはなく、永遠と続く苦しさに気が狂いそうになる。
 必死に手を伸ばすその先に見えるものを掴みたくて、精一杯身体を伸ばす。それでも届かなくて、届かなくて。喉から振り絞った声をあげて、みっともなく涙を流して、それでも届かないと分かった時に、ようやく力を抜いた。闇の中に沈んでいく身体を何かを取り込んでいく。
 彼女が意識を取り戻した時、まるで世界に戻る代償のように片方の目を奪われていた。
「…………?」
 失ったのは本当に片目だけなのか? 何か間違っていないだろうか。
 何が起こったのだろう、彼女は混濁する意識を必死に呼び起こそうとするが、隅っこに追いやられる違和感がどんどんと小さくなってくる。考えなければならない、その思考さえも奪われて、黒一色に染まっていく。
 やがて違和感すら消え去って、彼女は外の世界に放り投げだされた。野生の草食動物はすぐに立ち上がり走ることができる。同じ子どもでも人間とは大違いなのだ。
 相変わらず彼女を取り巻く世界は同情に満たされている。みゆきはずっと水に顔をつけていたように苦しげに空を仰ぐ。流れていくすじ状の雲が世界の果てへと向かっていくように感じられる。
 そっと左腕を伸ばし、そのまま肩の高さまで上げた。顔を伸ばした腕の方に向けると遠くの看板に狙いをつける。
「ああ……」
 絶望だけがみゆきの心を満たしていく。真剣勝負の場では少しのミスも命取りになってしまう。彼女の抱える障害は集中力や経験ではカバーしきれないほど致命的であった。
 果たして自分の人生は何だったのだろう、みゆきは自問する。物心つく頃には弓を手にしていた。周りの大人たちに混じって、はるかに大きな弓を引いてみせると、皆が褒めてくれた。それがうれしくてみゆきは――――。



「気をしっかり持て。お前ももっと芯の強い人間だと思っていたんだがな」
 憔悴しきって、どこか諦めた感じのみゆきを見かねたのだろう。宮沢謙吾は校舎裏まで付き添ってくれる。
 でも彼女に話したいことはない。話したところで何が解決するというのだろう。埒があかないみゆきの様子に、彼はいつまでも困り顔でいて、それでもみゆきを置いて帰ろうとはしなかった。
「私は、どうすればいいのでしょう」
「俺が言えるのは……」
 慰めの言葉もみゆきの耳には入らなかった。淡々と時間が流れていくだけ、そこに意味があるのだろうかという問いに対して、答えることを誰もが避ける。
「いつもありがとうございます。私のために」
「いや、お前がな」
 謙吾が言葉を切る、それは終わりの合図となった。一礼してさっと振り向くみゆきに横顔に暗い影が覆う。校門に向かう彼女からは、嘆息する彼の表情は見ることはできなかった。



「私はどうして……」
 屋上まで来てしまっていた。
 なぜなのか、よく分からない。
 けれど彼女の運命がここへ来るべきだと強く訴えかけている。金網越しの風景が、まるで自分を閉じ込める檻のように彼女には感じられた。
「誰か教えてください」 
 当然、答えてくれる存在などここにはない。夢に浮かされたように現実味がない空間にみゆきはずっと立ち尽くしていた。

 私は
 ここで
 何を。

 空気がびりびりと震えて、それは世界が望まない闖入者に対する警告のように、ノイズが走る。教師という名のイレギュラーたちは口々に響かない言葉を彼女に対して投げかけながら、ゆっくりとその距離を縮めていく。それは、哀れな獲物に群がる肉食獣だ。
 狙いをつけられた獲物ができることはひとつだけしかない。
 逃げること。
 どこへ?
 混乱するみゆきに追い討ちをかけるように。
 風が吹いた。



「ちょっといいかしら?」
 呼び止める声に振り向くと、不機嫌な表情を隠さずに女生徒が自分を睨んでいる。その顔に見覚えはあるが、名前はなんだったか、喉の奥まで出かかっているのに、何かが足りない。
「あなたね、見ているといらいらしてくるのよ」
「え?」
 わけが分からない。
「確かにあなたが気の毒なことは認めるけど、ひとりで悲劇のヒロインぶって周りを巻き込まないでくれないかしら?」
「別に、そんなことをした覚えなんて」
 ない、と言おうとしたその上から声を被せられる。
「あなたね、ひとつの道がなくなったからってすべてに絶望しましたって顔をするのはやめてくださらない。お気に入りのおもちゃを取り上げられた子どものようにピーピー泣くのはやめなさい」
「なっ」
 何で、ろくに話したこともないような人に悪し様に言われないといけないのか、彼女の心に怒りの感情が芽生えてくる。
「あら、もしかして怒ったの?」
 彼女が薄く笑った。
「でも、今のあなたに怒る資格なんてあるのかしら?」
「それはどういう」
「分からないのっ、あなたのわがままで宮沢様の将来をだめにしてしまったんじゃない」
「あ……」
 目の前の少女の言葉が重くのしかかっていく。それはみゆきにも分かっていたことだけにこうして他者に突きつけられると改めてその重さに気づく。
「……まったく、宮沢様に相談を受けていただいただけでも羨ましいというのに……」
「え、何?」
 あまりにも小さな声にみゆきが聞き返すと、少女ははっとしたように目を見開いた。
「な、なんでもありませんわ」
 そしてなぜか少女の頬が赤くなった。
「とにかく、その陰気臭い顔をしゃんとしなさい」
「え、あ、うん」
 気がそがれてしまったとでも言うのか、今のやり取りでみゆきの怒りとかそういう感情が消えてしまっている。
「まったく、本当に分かっているのかしら……」
 腕組みをして大仰にため息。でも目の前の辛辣な言葉は、それだけにみゆきの心に強く響いていく。今まで彼女に投げかけられた言葉は優しさだけで中身が空虚なものだった。そうではなかったのかもしれないが、みゆき自身に受け止める余裕がなかった。
「でも、もしあなたが私と同じ立場だったら」
「そんなの決まっているじゃありませんか」 
 少女が誇らしげに胸を張った。
「わたくしが諦めるなんてありえませんわ」
 後ろめたさなどかけらもない自信に満ちた言葉には、眩しげに目を細めるしかない。
「ああもう、何でわたくしがこんな役回りにっ、ともかく、もう小さな子どもでないんですからっ」
「ありがとうございます」
「へ、そう素直になられると調子が狂っちゃうのですけれど……でもまあ、分かっていただけたようで何よりですわ」 
 何でわたくしが、ぶつぶつ言いながら去っていく彼女はいったいなんだったのだろう、まるで嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。それだけ強い印象をみゆきに与えていった。
 


 言われたことは分かるが、納得はできない。それでも、少女が自分のために力づけようとしてくれたことは分かる。わざわざ自分のために労力を割いてくれたことに感謝しながらも、みゆきはなかなか動き出すことができなかった。
 その原因は、もちろんみゆきの心にある思い。
「会わないといけないのに」
 ため息も重い。みゆきのために怪我を負った宮沢謙吾に会わなければならないと思っているのに勇気が出てこない。
「あ……」
 いつしかみゆきはグラウンドに足を運んでいた。ここは確か、いぶかしげに首を捻るみゆきの耳に威勢のよい声が飛び込んでくる。その中に聞き慣れた声があったような気がしてみゆきは目をそちらに向けた。
 みゆきはぽかんと口を開けた。
 彼が手にしているのは、竹刀ではなくバットだった。いつから知り合ったのだろうか、仲間たちに囲まれて笑顔でいる彼の姿を眺めているうちに、彼の強さが羨ましくなってきた。どこが自分と違うのだろう。
 それでも参考になるだろう。みゆきは汗を流す彼を一瞬たりとも見逃さないようずっと眺めていた。
 私もあんなふうになれるだろうか、憧れが彼女を確実に変えていく。思いのほか単純な人間だったらしい、それでも構わないとみゆきは思い直した。
 人間は成長するものだ。



 でも、これですべてが解決というわけではない。
 ひとつだけ、たったひとつだけ心残りが。
 もし戻れるならば。
 それは――――。



 再び意識が閉ざされる。しかし今度は不思議と、彼女は絶望も焦燥感も抱くことはなかった。今までと何が違っているのか分からないが、世界は自分を見捨ててはいないとだけは分かる。
 まるで夢から覚めたかのような気分だった。布団から身体を起こすと、何度も瞼を瞬かせる。気のせいか今日という日が初めてではない気がする。きっと寝ぼけているせいだろうと、彼女は結論付けた。
「まるでではなくて、本当に夢から覚めたんですね」
 朝を告げる鳥のさえずりが優しく染み込んでみゆきの覚醒を促した。何の変わりもない自分が過ごしていた部屋。何の飾り気もなく自室は今まで歩んできた歴史を雄弁に物語っている。なんとも思わなかったはずなのに、少し寂しく感じるのはどんな心境の変化であったのか。
「あはは」
 なぜだか、笑いがこぼれてきた。顔をうつむかせて声を押しとどめようとしても感情をコントロールできない。しばらくひとりで笑っていると、いつしか気分はすっきりとしていた。
「おはようございます」
「あら、何かいいことでもあったの?」
 両親の驚く顔を眺めながら、何でもありませんよ、と答える。みゆきにはまだまだたくさんの時間が残されている。だからなんだってできるはずだ。そう気づかせてくれたのは誰か。分からない誰かに感謝をする、そうした気持ちこそが今の彼女に必要なことなのだろう。
「いいことはこれから見つけるんです」
 向かう先はもちろん決まっている。



「おはよー」
「おはよう」
 挨拶が飛び交う教室に足を踏み入れる。一瞬ぎくしゃくする空気。みゆきはそ知らぬふりをすると、わだかまったものを吹き飛ばすように息を吸い込んだ。
「おはようございます」
 彼女が微笑みかけると、クラスの皆が驚いた表情で固まってしまった。
「…………?」
 失った景色を取り戻すには、まず自分から変わっていかないといけない。そのための時間をみゆきは手にしている。以前よりも明るくなったと、友人が不思議そうに首を捻るのを軽く受け流しながら、みゆきはクラスの輪に溶け込んでいった。
「実は古式さんって、もっと怖い人かと思った」
「怖いですか……?」
「うん、なんかこう他人を寄せ付けない感じとでも言うのかなぁ。でもなんだか今の古式さんって可愛いな」
「なっ、可愛いってどういう意味ですかっ」
「わー、顔が赤いよ。もしかして照れてる?」
「照れてませんっ」
 こんなふうに他愛もない会話でじゃれあうのも悪くないと、思えるようになった。こうした無駄を楽しめる余裕が前の自分には足りなかったのだろうとみゆきは思う。
 不意に誰かの笑顔が脳裏に浮かんできた。すぐにそれも一瞬のことで、すぐに周りの会話に引き戻される。
 それは移動教室のことだった。休み時間屋上へ上がる階段が目に入る。通り過ぎる時にかすかに後ろ髪を引かれる想いが浮かんでくる。
 みゆきは衝動をたやすく押さえつけることができた。
「もう、用はないのです」
「古式さん、急がないと授業始まっちゃうよー」
「はい」
 迷わず歩き出すことができる。
「あれは―――――笹瀬川さん」
 聞いたことがないはずなのに、まるで初めから知っていたかのようにその名前が浮かんでくる。既視感と呼べるかは分からないが、みゆきは一言発しないといけない気がしてきた。
「ありがとう」
 すれ違いざまにそっと呟くと、みゆきは前を見据えて歩き始める。死角から声をかけた少女の戸惑いが感じられて、なぜだか笑い出しそうになってきた。


[No.174] 2008/02/23(Sat) 22:11:29
小鳥と子犬の恋愛模様 (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ

 ふと横目に見た先で、小さな鳥が二羽、じゃれ合うように澄んだ青空を飛んでいた。窓枠に切り取られた小さな空の中、くるくると二羽は旋回する。つつくように一羽が近づけば、もう一羽はそれをひらりと避けてみせる。何度も繰り返しては離れて、また近づく。決して追いつくことのない時計の針のように、時々歪みながらも、円を描きながら二羽は羽ばたき続ける。
 二羽はその鳥が訪れるのを待っていたのかもしれない。やがてもう一羽、小鳥が窓枠の空に飛び込み、三羽は鳥らしい鳴き声としか言いようのない風情の音色を残して、窓枠から完全に飛び立った。
 そのまま追いかけようとした視線は窓枠をはみ出し、かわってそこに映り込んだのは、部屋を共にして生活しているわふーと鳴く不思議な小鳥。一瞬その姿を想像してから、いや、と考え直し、もう一度窓枠から空へと視線を投げる。
 鳥、というよりは、どう考えても子犬だろう。
 青空を飛び回るよりも、野原からそれを見上げ、何処までも走り回る絵の方がずっと楽に想像ができる。もしそこにグラブと空を切る白球を描き込んだのならば、そのまま絵日記にだってなってしまう。
 様子を窺って見ると、どうやら探し物ついでに、棚の中のものを盛大に床にばらまいてしまったらしかった。今日だけですでに三回目。一回目は運んでいる途中に躓いて、二回目は引っ張り出すときに勢い余り、三回目の今回は分からないが、そう前の二つと理由はそう違わないだろう。例の鳴き声はもちろん一緒に、あたふたと撒いたものを集めている。
 そんな今まで何度も見た光景に、今更あきれられるはずもなく、何故だかほっとしたような心持ちで二木佳奈多は口を開いた。
「どうしたのよ、クドリャフカ」
「あ」とクドリャフカは佳奈多の方を視線だけで見てから、小さな声でわふーと鳴いた。
「これはまた、思い切った探し方ね?」
「いえ、その、これは捜索中の事故で、そんな理由のある行動ではないというかもしかしたらあるということもないということもないわけではないかも……」
 もはや意味の分からなくなった弁明をごにょごにょとクドリャフカは続け、そんな様子に堪えきれなかったのか、佳奈多は思い切りクドリャフカに両腕を伸ばす。状況が掴めず、やはり子犬のようにクドリャフカは目をぱちくりとさせる。
「あのぉ、佳奈多さん?」
 無言を貫いて、抱きしめてしまいたい衝動を何とか抑え込む。折角出してもらったミルクを思い切りひっくり返し、焦りながら困る子犬の姿とどうしてかクドリャフカが重なって見えた。たぶん、直前に子犬だのなんだのと想像していたせいだろう。
 深呼吸を一つ、落ち着きを取り戻す。なんでもないように伸ばしていた腕を戻して、一応は「何?」と訊き返しつつ、返答の届くより先に床に落ちた物を集め始める。クドリャフカもつられたのか、言葉を飲み込んで佳奈多と同じように手を伸ばした。
 シャープペン、消しゴムなどの文房具や、リング形式に閉じられた、まだ何も書き込まれていない単語帳などいろいろな物が姿を現していた。何本も新品の筆が混ざっていたりもして、ふと手にとった一つが存外に高い値段で驚いてしまう。
「これ、使わないの?」
「ああ、えっと、見ての通り」
 そう言いながら、落ちていた他の筆を拾い上げる。そのどれも新品だった。
「使い切れていない筆がほんっとーにたくさんあるんです。これとは別に今使っている筆だって何本もありますし……。おじい様がことあるごとに送ってくださるからなんですけれど」
 手に取っていた筆をくるりと一回転させながら、なるほどと頷いて返す。詳しく話を聞いたことはなかったが、壁に掛けられているタペストリーなどからでも、その「おじい様」の日本に対する熱の入れようが半端物ではないことは十分に分かっていた。正直なところを言えば、熱意空回りで間違った視点を持っているようにも思われる。
「それで、探してる物は見つかったの?」
 一拍間をとって、咄嗟に出てこなかった言葉を思い出してから話を続ける。
「犬のキーホルダー、よね?」
「はい」とクドリャフカは答えた後に、ちっちゃいせいかなかなか見つからないんですよね、と拗ねと諦めの入り混じったような子供っぽい言葉を漏らした。一瞬、ちっちゃいの言葉が、フィギュアのことを形容しているのか、それとも本人のことを言っているのか分からなくなる。
「何か、探すのにいい手段ってないんでしょうか」
「置いた場所とか、少しは覚えていたりしないの?」
 思案げに目を瞑ったクドリャフカの表情は、すぐに軽い泣きっ面へと変わる。「ごめんなさいですー」
「まあ、仕方ないわね」
 落とした場所やら置いた場所を覚えていたら、それはそもそもなくしものの内には入らないのかもしれない。
「佳奈多さんは、なくしものした時とか、場所を思い出せたりするんですか?」
「どうかしら」視線を落として、少し記憶を漁ってみる。「……第一、そんなになくしものをしないのよ」
 元も子もない返事だったが、漁ってみても出てくるものは特に何もなく、実際これ以外の答えは見つかりそうになかった。
「私、記憶が下手なせいで、実はかなりなくしものがあるんですよねぇ……」
 とっくの昔に知っていると、開きかけた口を抑え込み、何とか別の言葉を口にする。
「棚とかの引き出しに分け入れるのを意識して、記憶を整理したらどう? 少しは記憶がはっきりして、なくしものとかも少なくなるかもしれないじゃない」
「引き出し、ですかぁ」
「何か思い出したいと考えた時に、それを入れた引き出しを開ければそれでいいでしょう?」
 思いつきで言ったことだったが、それにしてもむちゃくちゃに過ぎるなと、説明しながら少し反省する。クドリャフカの視線が一度、部屋に置いてある棚へと向けられ、数秒後、また苦い表情へと変わる。
「うー、何だか、私の中には大きな引き出しが一つだけあって、その中に今までの記憶とか思い出とかみんなごちゃごちゃに入ってるみたいです……」
 クドリャフカの言ったとおりの絵はあまりにも想像しやすく、それでいて妙にしっかりとした説得力があった。
 よし、と一つ声を出してから、クドリャフカの方を見る。
「それじゃあ、気合いを入れて、部屋中をくまなく探すしかなさそうね」
 何か名案が佳奈多の口から飛び出るとでも思っていたのか、妙に間の抜けた調子で「そーですよね」とクドリャフカは答えた。



 記憶の引き出し。同じものを佳奈多が想像してみて描かれたのは、引き出しを二つだけ持ったものだった。一つではなくて二つ。思い出し、漁ろうとしたのは漠然とした過去。たぶん、引き出しが分かれた基準は明と暗。見たわけでも確かめたわけでもないが、きっとそうだった。自分のことなのだから、間違いはない。
 手は伸びもせず、その引き出しを引こうとしなかった。ただ、何をするでもなく立ちつくし、いつ頃からこんな風に分けたのだろうと考えてみる。目を瞑ってたどり着いた世界の中で更に目を瞑る。
 ――子供の頃から。その答えに行き着くのは簡単だった。そもそも選べるほど、永くは生きてきていない。瞼を一度開ける。目を瞑った先の世界が姿を現す。変わらず、そこには二つの引き出しがあった。
 明と、暗。昔の自分を哀れむわけでもないし、蔑むわけでもないが、それは、仕方のないことのように思えた。ため息を一つ、手を伸ばそうとした途端――世界は白く、霧散した。
 ふいに、窓から飛び込んできた厚い光の束が、閉じていた視界中を埋めた。唐突に映っていた世界が消えて変わる。呼び戻しに来た陽の光は邪魔くさくもあったが、近づいた窓から飛び込んでくる風は気持ちがよく、カーテンを閉める気は起きなかった。
 今頃は何をしているんだろうかと、違いといえば髪の結びぐらいしかない、自分とよく似た姿を今度は想像してみる。昔は、すぐに何処にいるかも、何をしているかも、ある程度は想像できた気がする。けれども今は、ほとんどその姿を描くことはできなかった。むしろ、その隣にいるはずの彼の姿の方が、色濃く想像することができた。
 ぴゅうと少し強めの風が外から吹き込んできたのと、「ありましたっ」とクドリャフカが叫んだのはほとんど同じタイミングだった。聞いてみれば在りかは何てことはなく、制服の内ポッケ、ということだった。何処にしまったというわけでもなかったのだから、棚とかをひっくり返しても見つかるはずがない。
 見つかったのなら少し休憩しましょうと提案すると、クドリャフカは元気よく頷いて答えてきた。探し物が見つかったせいか、動きも言葉の調子も跳ねるように軽い。
「お茶、お願いできる?」
「ラジャーッ!」
 テーブルに向かい合って座り、ひとまずお茶を一口。心底おいしそうに飲んで和むクドリャフカに、思わずもらって和んでしまう。お茶とともに、これから何かすることがあるかと考えても特には何も思い浮かばず、クドリャフカとお茶で和み続けることに決定する。
 窓の外からはまた鳥の鳴き声が聞こえていた。姿が見えないからあの小鳥たちではないのかもしれないが、その声は同じように聞こえる。薄ら覚えで、はっきりとは断定できそうにない。曖昧な記憶の鳴き声だけ含んだ空が、窓枠に囲われ広がっている。
 意識と視線を窓の外から戻してくると、ちょうどクドリャフカと視線が重なった。上目遣いに覗き込むように。クドリャフカはあまりに気持ちが表情に出やすい。何か、聞きたいことがあるようだった。
「何?」と佳奈多は言った。「私に何かついてるの?」
「そうではないんですけれど」
 一瞬、反応に遅れながら、恐る恐るといった感じにクドリャフカは言う。
「佳奈多さん。今日はリキや葉留佳さんと一緒のはずではなかったんですか?」
「今、彼の隣にいるのは葉留佳だけよ」
 それがどうかしたの、と口には出さず、お茶を口に運びながら目だけで伝える。
「今日は、葉留佳さんのバースデイ、なんですよね?」
「ええ、そうよ」
 誕生日なんだからと強引に彼を連れさり、今頃は何をしているだろう。ウィンドウショッピングついでに誕生日プレゼントでもねだっているだろうか。いろいろと姿を想像してみるが、しっくり来る二人の姿はやはり思い浮かばない。
 かわりに思い浮かんだのは葉留佳一人の姿だった。一緒に行こうと、持ち前のハイテンションで誘ってくるのを、用事があると言って断った自分の姿も一緒に思い出す。嘘で答える時のこの上ない常套文句。この返事をした時に、今日、クドリャフカの探し物をすることになるなんて事が分かるはずもない。
 ふと見ると、また上目遣いで覗き込むような視線を発見する。今度はさっきよりも聞きにくいことであるらしい。口元までもがあわあわとして忙しない。
 下手なことは言わず、目だけ合わせて言葉を促す。
「その、私なんかがこんなこというのも変だとは思うんですけれど」
 その、と自分自身を落ち着かせるように、クドリャフカは一つ間をとった。
「それで、いいんですか?」
「それで、って?」
「葉留佳さんが誕生日なら、佳奈多さんも、今日は誕生日ですよね」
 頷き、「ええ」と一言返す。
「でしたらなおさら、葉留佳さんと」
 そう言ってから、いいえ、と似つかわしくないほど強い口調で、クドリャフカは言葉を選びなおした。
「リキと、一緒にいなくていいですか?」
 静かに、手に持っていたコップを佳奈多は戻す。佳奈多さんも、と続けて言いかけたクドリャフカの声は、言葉半分に止められる。
「クドリャフカ」
 鋭く、それでいて強くない口調を選んで、佳奈多は言った。
「私はね、おじゃまむしになるつもりはないわ」
「おじゃまむし、ですかぁ」
「そう。おじゃまむし」
 少しでも知っている人から見れば、葉留佳が彼を好いていることは明らかだった。気持ちの問題に証拠も何もありはしないのだが、それでもそうだと思えるのは、たぶん、女の勘というやつのおかげなんだろう。
 ただ、普段の様子を鑑みると、クドリャフカも彼のことが好きなように感じる。本当に勘、何となくの話をしてしまえば、あの草野球チーム――リトルバスターズというらしい――の女性陣は皆少なからず彼を好んでいるのではないかとさえ思える。使った試しのない勘だから、たいした当てにはならないのかもしれないが。
「いいのよ、クドリャフカ」と呟くように佳奈多は言った。「私には、今で十分なのよ」
「十分、ですか」
「ええ」
 目を閉じ、もう一度あの記憶の引き出しの前へ。分けられた記憶や思い出が子供の頃のものなら、分けたのも間違いなく子供の頃の自分。仕方がないと、そう、思う。だからこそ、考えて嫌になる。自分ですら分けてしまっている子供の頃の記憶を、あの子はどうしたのだろう。自分と同じように分けたか、いや、分けることすら出来なかったのではないか。
 いくら想像してみても、そこがどうなっているかなんてわかりはしない。けれど、少なくとも今は、大好きな彼と二人でいるだろう今の時間は、きっと明るいものに違いはないと思えた。やはり、そんなところについて行くべきではないし、権利だって、ない。
「あの」とまた恐る恐るといったように、クドリャフカは言う。
「佳奈多さんは、何をそんなに遠慮しているんですか?」
「遠慮?」
 予想外の言葉に、自分を指さしながら思わず聞き返してしまう。
「あなたには遠慮しているように見えるの?」
 控えめながら、クドリャフカは確かに頷いて答える。
「遠慮なんてしてないわよ。本当に、十分なの。十分すぎるし、それに、やっぱりおじゃまむしなんて言われたくはないから」
「それですけど……葉留佳さんは、おじゃまむしなんて言わないと思います」
 私がいたら言われてしまうかもしれませんが、と頬をかきながらクドリャフカは言う。
「ね、クドリャフカ。きっと、葉留佳は今、幸せでしょう?」
「それは、たぶんですけれど、そうだと思います」
「好きな人と二人でいて、幸せじゃないわけがないでしょうしね」
 うんと、自分に聞かせるように一度頷く。
「それならやっぱり、私はそこにいなくていいのよ。私は彼のことが好きなわけでもないし」
 二人で幸せなんだから。そう言うと、わふ、となにやら鳴き声が返ってきて、ばっちりとクドリャフカと目が合う。変わらず、上目遣い。どうにも納得がいかないらしい。
「佳奈多さんは、今日、葉留佳さんに誘われたりしなかったんですか?」
「さあ、どうかしら」
 はっきりと返事は返さず、文字通りにしらばっくれる。
「……もし、ですよ」とクドリャフカは呟いた。「もし、私が葉留佳さんでしたら、特別な日には、大好きな人たちみんなと一緒にいたいと思います。もし葉留佳さんが佳奈多さんを誘っていたんでしたら、それは大好きなリキと佳奈多さんの二人と、一緒にいたかったからじゃないんでしょうか」
 クドリャフカの口調は、今日、葉留佳に誘われていたことを知っているような、はっきりとしたものだった。訊いてみれば「ちょっとだけ聞きました」と、予想通りの答えが返ってくる。
 葉留佳がクドリャフカになんと言ったのかはわからない。しかし何にしろ、今となってはどうしようもない。
「クドリャフカ。あなたこそ、彼と葉留佳を一緒にいさせてよかったの?」
 彼を好いているようだけれどと、何となしに思いついたような口ぶりで切り出し、根拠は勘だけれどね、と笑いながら付け足す。
「それは、女の勘、というやつですか?」
 クドリャフカの予想外すぎる反応に思わず目を開く。照れたりなんだりとしてわふわふ言っている内に話を煙に巻いてしまうつもりだったのに、くふくふ笑われてしまってはどうしようもない。
「かーなたさん」と、今度は妙に明るいテンポで、クドリャフカは言う。
「女の子の勘、っていうのは、好きな人のことにしかよく働いてくれないらしいですよ? それと、葉留佳さんが言うには、『お姉ちゃんと一緒に、理樹くん二人占めってのがいいデスネ』だそうです」
 あまり似てもいない声まねをした後、目だけで訴えかけてくるクドリャフカは作戦だったのか、それとも天然なのか。どちらにしろ、一本勝負でありながら、出し抜けに一本とられてしまったことには変わりなかった。真っ直ぐすぎる程の視線に目を合わせてから、やれやれといった具合に両手を上げる。
 仕方がない。そう心の中で呟いて、携帯を取り出す。クドリャフカの視線が不思議そうなものに変わる。
 数回の呼び出し音の後に返事が返ってくる。本人からおじゃむしと言われては面倒なので、かけた相手は葉留佳ではなくて直枝理樹の方。夕飯とか食事は控えてお腹を空かせて帰ってくるようにとだけ伝えて、電話を切る。
「クドリャフカ」と佳奈多は言った。「あなた、暇よね?」
 自分の誕生日に自分で料理をするというのも妙な話だと思ったが、あまり気にはしないことにする。
 普段の行いがある分、適当な理由を作れば調理場は簡単に借りることができそうだった。問題となるのは、たぶん、食材と人手。
「ラジャー!」
 何をして欲しいかを伝えるよりも早く、クドリャフカは敬礼の構えをとって、携帯を取りだした。
「恭介さんですか? えと、佳奈多さんがお誕生日のパーティを開くそうなので、私たちも一緒に――はい、了解、しましたっ」
 電話を切り、晴れ渡った笑顔を向けてくる。
「すぐに皆さんを呼び集めるそうですよっ」
 佳奈多はため息をつこうとしたが、それすら上手くすることができなかった。息をつく暇すらないという状況を、現実で味わったのは初めてだった。
「どうしてこうなるのかしら」
「佳奈多さん。佳奈多さん」
 呼びかけてくるクドリャフカは、両手の人差し指で頬の場所を指し示していた。その指に従うままに自分の頬に佳奈多は触れる。自分でも気づかない内、いつの間にやら浮かんでいた笑顔が、そこにはあった。
「佳奈多さんは、もっと素直になった方がいいと思います」
「あなたは真っ直ぐすぎるわよ」
「私の言ったこと、全部勘だったんですよねぇ」
 あははと一度笑い、見当違いならどうしようかと思ってましたと、クドリャフカは大きくため息をわふーと漏らす。
「その勘も、女の勘?」
 逡巡してから、「はいー」とクドリャフカは頷いた。
「クドリャフカ」
 笑えばいいのかため息をつけばいいのかもわからないまま、佳奈多は言った。
「女の勘が、好きな人のことにしかよく働かないって言ったのは誰だったかしら?」
「ですから」と携帯をとりだして指さす。「佳奈多さんと葉留佳さんでの二人占めは阻止させていただきましたっ」
 なるほどと思い、我慢できずに笑いあっていると、窓の方からまた鳥の鳴き声が聞こえてきた。歩いて近づき、窓枠から身を乗り出す。
 記憶の引き出しは大きいのが一個だけだなんていうクドリャフカの台詞を、ふと思い出す。もう一度、自分の中に引き出しを描いて、さっきは手を伸ばそうとも思わなかった記憶の引き出しを、今度はゆっくりと引っ張ってみる。片方だけ開いても、暗すぎて中は何も見ることができなかった。もう片方を開いても、今度は眩しすぎて見ることができない。
 両方同時に引き出し、二つをまぜこぜに、一つに移動させる。明かりが陰をつくって、陰の中からまた光が飛び出ていた。まるで、子供のおもちゃ箱のように、中はごちゃごちゃとして見えた。
 そしてこれから、更に加えられるはずのにぎやかすぎる記憶。
 ふと、どうして、葉留佳が今何をしているかを上手く想像できなかったのか、その理由がわかった気がした。可能性は二つ。一つは主観的に、もう一つは客観的に自分をとらえて。
 一つは、葉留佳が好きな人とどこに行くか何をするかなんていう色恋沙汰は、姉妹だって知り得ないということ。子供ではないのだ。恋の関係がなかった子供の頃は葉留佳のことがわかっても、今のことはわかるはずがない。
 もう一つは、その彼が、慕われている異性と二人きりでいるところを考えたくなかったからではないか、ということ。
 二つに一つと考えて、なんだかさっきとよく似ているなと佳奈多は思う。答えの出るものでもないだろう。後者は認められそうにないが、二つに一つでなくて、二つともが理由なのかもしれない。
 ――素直じゃない。
 そんな声が蘇り、行きましょーと呼ぶクドリャフカの声に、堪えきれず瞼を思い切り開いた佳奈多の視界へ、透き通る鳴き声を含んだ広すぎるほどの青空が飛び込んでくる。


[No.175] 2008/02/23(Sat) 22:11:45
ダイブ (No.166への返信 / 1階層) - ひみつ@遅刻

「理樹のことか?」
 柔らかくも鋭い恭介の先読みに「むぐ」と、鈴は言葉を詰まらせる。少し困ると、途端に黙り込んでしまうのは鈴の悪い癖だ。快活な見た目からは容易に想像出来ない引きこもり属性持ちの妹に、小さくため息をつく。ちょんまげよろしく頭のてっぺんに結ばれたポニーテールもどきが、ふらふらと所在なさげに揺れている。
「なんだよ。違うのか?」
「……違わない」
「鈴」
 ぽむ、と両肩に乗せられた手。即座に鈴の内部で第一級警戒警報(恭介専用)が発令される。
「婚約、おめでとう」
 音速の蹴りが恭介のテンプルを襲った。
「痛いぞ」
「ううううっさいぼけーっ!!」
 公道の端っこで思いっきり愛を否定する。
「ったく……お前は可愛くないわけじゃないが、いかんせん手が出るのが早過ぎだ。そんなんじゃいい嫁になれないぞ」
「いい加減嫁から離れろ馬鹿きょーすけ」
「へいへい」
 女にしておくのがもったいないほどに鈴の蹴りは鋭い。もしも彼女が男だったら、果てはサッカー選手か、K‐1か。夢は尽きない。
「で、理樹がどうしたんだ?」
「……むー」
 唸り出した。一度タイミングを逃すと中々言いにくいものらしい。
「きょーすけ、むちゃくちゃ言いにくいぞ」
「あぁ、今のお前を見てれば誰だってわかるさ」
「いや、これはもうぐちゃぐちゃだな。ぐちゃぐちゃ言いにくい」
「なんかえらく響きが汚くなったな」
 そのあともしばらくうんうん唸っていた。恭介は粘り強く妹の準備が整うのを待った。唸り始めて五分、ようやく小さな覚悟が決まったらしい。
「……苦手だ」
「苦手って……もしかして理樹のことか?」
 うん。
 大きく頷いた。
 鈴の苦手なもの。数え出したらきりがないくらい、たくさんある。人付き合いは特に苦手だ。知らない人とは話せないし、仲良くなれない。だから、鈴が誰かと仲良くなるためには、恭介という優秀なフィルターを必要とした。真人と謙吾にしても、結局は恭介を通じたからこその友だ。本当の意味で鈴に触れることの出来る人間は、兄である恭介しかいない。
 恭介はつい最近仲間になったばかりの少年の姿を思った。ひ弱で頼りなく、いつも寂しそうな目をしている。人恋しいくせに、どこか根っこのところで人を信じきることが出来ない。
「あたし、あいつ、苦手だ」
 鈴は自分で自分の発した言葉を確認するかのように繰り返した。恭介は「そうか」とだけ口にして、それ以上を言葉にしようとはしなかった。
 恭介は鈴に先んじて歩き出す。鈴はその背中を追うように駆ける。道路脇で揺れる街路樹からは蝉の声がしている。辺りには夏の匂いが満ち満ちている。





「うおおおぉぉぉ―――りゃああぁぁ―――――っ!!」
「どおおおぉぉぉ――ああぁぁぁ―――――っ!!」
 真人と謙吾の馬鹿でかい叫び声がこだまする。じーじーと、夏の入口のような空の下で鳴く蝉の声に紛れて、じょーじょーといかにも情けなさそうな水の音がする。裂帛の気合いから発せられる聖なる水流――ぶっちゃけ小便である。
 彼らの小水が標的としているのは、小さな町の小さな道には到底似つかわしくない車両。車体はいやらしく黒光りしていて、高価であるはずなのにやけに下品に見えた。
「――来たぞ」
 電信柱の陰に身をひそめて辺りをうかがっていた恭介から鋭い声が飛ぶ。
「にげるぞっ! 急げっ!」
「「…………」」
 じょー。
 じょー。
「どうした? 撃ち方やめ」
「そんなんすぐに止められるかあああぁぁぁ――――――っ!!」
 謙吾がキレた。さもありなん、である。
 恭介が皆に伝えたのは車の持ち主の接近だった。サングラスに似合わない黒のスーツの二人組。
「へへっあのババアもあと一押しでオチますねアニキ」
「バカヤロウそんなこと天下の往来で言うもんじゃねぇ。だからおめぇはいつまで経ってもこんな木っ端仕事しか回ってこねえんだよ、わかってんのかサブ」
「すんませんアニキ」
 分かりやすさ満点の地上げ屋だった。
 恭介率いるリトルバスターズが正義の鉄槌の矛先をこの二人組のクルマに向けたのは、二人組の狙いが彼ら昔馴染みの駄菓子屋の土地だったから、というのもあるが、直接的な原因は「この車ムカつくな。ションベンかけちまおうぜ」という井ノ原真人の一言だったりする。正義執行の理由など基本的に後付けである。
 車の上に乗って足をぶらぶらさせていた鈴は不穏な空気を肌で察して、身軽にそこから飛び降りる。局部丸出しの二人を意識する様子は見られない。
「へっ、怖じけづいたか謙吾」
「……なんだと?」
「ついこの間まで無敵の剣道ヤロウだったってのに、人間丸くなるもんだぜ」
「いや俺は別に剣道やめてないが」
「オレは逃げねえ……こういう日のために鍛えに鍛えた筋肉だ、思い切り暴れてやるぜ!」
「チ○コ丸出しで立ちションしながら言っても全然しまらないからな」
 恭介の突っ込みも徐々に焦りの色を帯びてくる。
「しょうがないな――鈴、理樹」
 理樹は突然呼ばれた自分の名前に驚いているように見えた。リトルバスターズが五人になってまだ幾日も経たない。この気弱な少年は、いまだにこの五人の中に於ける自分の身の置き所を手探りしているようだった。
「お前達は先に逃げろ。落ち合う場所は――鈴、わかるな?」
 こく、と小さく頷く。この前蜂を退治した場所のすぐ近くにある、リトルバスターズしか知らない秘密の場所だ。
「恭介くんは……どうするの?」
 理樹がおずおずと口を開く。その様子からは明らかに不安が見て取れた。
「俺はこの小便小僧たちを回収してから合流する。なあに、捕まるようなヘマはしないから心配するな」
 そこで「なあにやってんだこのクソガキどもがあ――――ッ!!」という怒号が道の向こうから聞こえてくる。
「早く行けっ!」
 恭介の鋭い声に弾かれるように鈴は駆け出した。鈴と恭介を一瞬見比べた後、理樹もそれに続く。背後からは「うおおぉぉ―――っ!! オレのチ○コが真っ赤に燃えるううぅぁあああぁぁぁ―――っ!!」などという叫び声が聞こえてくる。前を走る鈴の背中も、後ろの喧騒も、ぐんぐん遠ざかっていくように理樹には思えた。鈴の足は、それこそ理樹など問題にならないくらい速かったし、地上げ屋と真っ向から対決する三人の度胸には敵うべくもない。慎重に、距離を測るようにして、理樹は走る。
 鈴はそんな理樹の様子を背中越しに確認し、口の中で小さく舌打ちをした。



 青い空だ。
 目を覚ますと空が目の前にあった。また眠ってしまったと、何の感動もなく思った。この現象に慣れつつある自分が、理樹は嫌いだった。
 意識が覚醒したのを認識するまで、通常時は数分の経過を必要とした。焦っても仕方ない。前後の記憶のつじつまを合わせるだけでも、そのくらいの時間は欲しい。
 しかし、今日は違った。
 温かいような、柔らかいような硬いような、そんなわけのわからない感覚が後頭部にある。違和感に誘われて頭の後方をゆっくり確認する。
 目が合った。
「ふぎゃあッ!!」
 瞬間、跳ね起きた。
 わけのわからない感触の正体は鈴だったらしい。鈴自身も跳び下がり「ふかーっ!!」と、まるで尻尾を踏んづけられた猫のような反応をする。
 なんだなんだなんだこの状況は。意味がわからない。威嚇行動を続ける鈴と対峙しつつ、しっちゃかめっちゃかな頭で記憶を探る。
「か、確認していいかなっ?」
「ふーっ! ふーっ!」
 荒い息。真っ赤な頬。硬く、それでいて柔らかいあの感触。記憶を探るのにそれらの情報は邪魔だ。後ろ髪を引かれる思いを一旦振り切って、理樹は記憶を手繰る。

「――そこで、僕が眠っちゃったと」
「…………」
 鈴は無言で頷いた。
 十分に距離をとったと判断した鈴は最寄りのコンビニに入店、理樹もそれに続く。鈴の目的はガリガリ君。購入し、店の脇にある駐車場に腰を下ろし、ガリョガリョ食す。理樹も便宜上しかたなく鈴の隣に座ろうとする。そこで理樹の身体は大きく傾いで、鈴に覆いかぶさるように倒れ込んだ。脱力状態の理樹の身体は見た目に反して重かったが、そこらに放り出しておくわけにも行かず、しょうがなく大腿の上に理樹の頭を乗せ、目を醒ますのを待っていた――というのが大体の状況だ。
 そして二人にとってわかりやすい形の沈黙が訪れる。この理樹という少年は、鈴にとって、ようやく慣れかけた四人でいるという日常に紛れ込んだ異物でしかない。少しの時間とは言え膝を貸すことになった自分に少々戸惑いもしている。ちらりちらりと彼の方に視線をやるが、彼も自分と同じような居心地の悪さを感じているらしきことがわかる。落ち着きのない様子で、空や街路樹、通り過ぎる車など様々な事物に視線を行き交わせている。不意に視線がかちあってしまいそうになるたび、鈴は慌てて気のない様子を装わなければならなかった。そんな自分にも腹が立った。
「棗さん達は……」
 誰のことかと思った。棗さん。そんなふうに呼ばれたことなど数えるほどしかない。それは例えば学校の先生とか、クラスの連中とか。
「これまでずっと四人で遊んでたんだよね?」
 何を聞きたいんだ、お前。どこか怯えを含んだ声に苛立ちを覚える。
「……けんごと遊ぶようになったのは最近。まさともそんなに前じゃない」
 会話終了。そしてまた、先ほどまでと同じ沈黙が流れ出す。
 ああ。
 これだからあたしはこいつのことが苦手なのだ、と鈴は思った。上手く言葉にすることは出来ない。空気とか、雰囲気とか、そんな胡散臭い単語に頼らなくてはいけなくなるから。
 人といるのが怖い。馬鹿にされたり、仲間外れにされたり、上履きを隠されたりなんて、本当はとてもどうでもいいことだ。本当に怖いのは、信じたものに手の平を返されることだ。一人きりでいることが本当はすごく寂しいことなんだと、骨の髄まで思い知らされることだ。それが怖くて、怖くて、怖くて。
 だからいつだってお前は、興味のないふりをしているんだろう?
  理樹を見るたびに心の奥底から訴えかけるもう一人の自分の声。それを聞くのは、耐えられないほどに苦痛だ。
 だから彼女は苛立っている。その苛立ちの正体すら知らないままに。
「ねぇ、棗さん」
「……ん」
「棗くん……恭介くんはどうして僕なんかを仲間に入れてくれたのかな」
 鈴は答えられない。そんなこと、鈴にはわからない。もしかしたら恭介自身にだってわからないかもしれない。
「恭介くん達は学校一番の人気者じゃないか。君達と遊びたいと思ってる人はきっとたくさんいるよ。なんで僕なんだろうって思ったんだ。いや、本当、なんとなく、なんだけど……」
 蚊のなくような声は今にも消え入りそうだった。俯く彼の姿は温かい日差しの中に出来た小さな木陰へと隠れていくように見えた。彼はきっと鈴にではなく自分に問い掛けているのだろうと思った。
 重苦しい空気に堪えかねたように、鈴は立ち上がる。付き合いきれない、と思った。さっさと恭介達の待つ集合場所に向かってもいいし、もう一度ガリガリ君を調達しに行くのもいい。後ろのこいつはどうしようか。そうやって思考を巡らせた時にはもう言葉になってしまっている。
「なぁ。お前は寝る時いつもそうなのか?」
 眠り病のことを言われたと思った理樹は何か言おうと焦るが「あ、ぅ……」と、言葉にならない。
「……ん!」
「え?」
「だから……んー!」
 何を言っているのか、理樹には理解出来ない。鈴は長い間悩んだ末に自分の目を指差して「ん!」と唸るばかり。そんなやり取りを四、五回繰り返した後、諦めたようにぷいっとそっぽを向いてしまう。
 目?
 何気なく理樹は自分の頬を撫でる。
「ぁ……」
 そして理樹はようやく自分の頬のかさつきに気付いた。慌てて、Tシャツの袖でそれを拭う。一度渇いてしまったかさつきは簡単には取れない。
 もう一度鈴の方を見る。横にいた奴の身体が自分の方に崩れてきた時。膝の上で眠るよく知らない奴を見た時。その頬を一筋の雫が流れた時。鈴はそれを見て、どう思ったのだろうか。
「僕――」
 口を開こうとしたその時、

「くおぉるあああぁぁぁ――っ!! 待ちやがれぇぇあああぁぁぁ――――――っ!!」

 閑静な住宅街にはまるで似つかわしくない、騒々しい幾つかの足音、怒声。まさか。思わず顔を見合わせる鈴と理樹。そっと曲がり角から顔を出してのぞいてみる。恭介、それに少し遅れて真人がいる。真人はなぜか半袖のTシャツにパンツ一丁という出で立ち。そして、必死で彼らを追いかけるガラの悪そうな二人組。さっき車のところで見た連中だ。
 恭介は曲がり角からちょこんと顔を出した二人を目敏く見つけ、少し後ろを走る真人に何ごとかをささやく。それを聞いた真人は「へっ、しゃーねぇな」とニヤリと笑み、おもむろに上に着ていたTシャツを脱ぎ捨て、大声をあげて恭介が曲がったのと反対方向に向かって走っていった。恭介は曲がった瞬間に鈴と理樹を連れ、物陰に身をかくす。恭介を見失った二人組は、上半身裸のパンツ一丁になった真人を追いかけていく。
 恭介は状況を理解できていない二人の顔を見てほっと一息つく。ずっと走ってきたにも関わらず、恭介の息は驚くほど乱れていない。呆れた顔でこう呟いた。
「なにやってんだお前ら」
「それはこっちの台詞だ。なんでまだ追いかけっこしてるんだ?」
「ああ、あいつら意外としつこくてな、撒こうにも撒けなかったんだ」
「まさとは一体どうしたんだ? あいつ、気でも狂ったのか?」
「真人は囮だ。ちょっとの間あいつらをひきつけてくれって言った」
「服も脱げっていったのか?」
「いや、それは言ってない」
 相変わらず服を脱ぐ理由が謎な真人だった。
「ったく、だからお前らには先に逃げろって言ったんだ。面倒なことになるだろ、このままだと」
「恭介くんは」
「おっ?」
 不意に口を開いた理樹に少し驚いた様子の恭介。
「これからどうする気なの?」
「これからか」
 恐る恐る聞いてみた、というような様子の理樹に向かって、恭介は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「決まってるだろ。やっつけるのさ、あいつらを」




 木の葉がかさかさ揺れるたび、神経を尖らせる。音を立ててはいけない。そういった配慮に必要以上に過敏になるのは、きっとアドレナリンのせいだろう。鈴はどこかわくわくしている自分を感じている。
「とりあえず、真人にはこのまま逃げ続けてもらう。真人には逃走ルートは指示してあるから問題ない。謙吾はあいつらをひっかける罠を準備してもらってるから、あとはお前たち次第だ。頑張れよ」
 恭介の合図は手鏡で二人組を引きつけている真人が来たら、恭介が合図を出す。その辺りに潜伏している謙吾が二人組を罠にかけ、最後に木の上にいる二人がとどめをさす。単純な作戦だ。
 三分後。恭介はそう言って持ち場についた。鈴と理樹も持ち場につく。道に大きく張り出した木の枝は二人が乗っても悲鳴を上げる様子はない。
 鈴はちらりと理樹を見る。わけもわからずただ手を引かれるままに巻き込まれるだけだった少年は、今木の上にいて震える腕をおさえるように、必死で木の幹を掴んでいる。瞳には明らかに怯えとは違う色も浮かび始めている。理樹自身でさえその感情を持て余しているように見える。
「棗さん」
「なんだ?」
「どきどきする」
「ああ、するな」
「うん」
 少し先のほうにいる恭介の方を伺う。恭介からの合図はまだない。予告の時間は刻々と迫っている。
「これを上手くやれたらさ、僕も、君たちと一緒に遊べるかな」
 もう一緒に遊んでるじゃないか、と鈴は思った。思ったけど、それを口に出すのはなぜか正しくないような気がした。彼の声はちょうど遠足を待ち切れない子供のようにどこか躍っていて、異論を挟める余地などないように感じた。それに、よくわからないことに意見を言うことを、鈴は苦手としていた。
 一瞬二人の視界が真っ白に染まった。来た。合図だ。
「ねぇ、今の」
「わかってる」
 短く返す。緊張が高まっていく。
 向こうから真人と、二人組が来る。今日一日で彼らはどれだけ走ったのだろう。車に小便かけられたくらいで、子供を追いかけて何時間も走れる二人組みはもちろん凄いが、走らせた恭介たちも凄い。一体どんな挑発をしたら人はそこまで走れるのだろう。想像もつかない。
 流石の真人も疲労困憊といった様子だった。彼は既にパンツしか身に着けていなかったが、不思議と違和感はなかった。パンツの似合う男、井ノ原真人である。二人組はというと、こちらも負けず劣らず疲労困憊している。もはや惰性で追い続けているとしか思えない。二十四時間テレビもびっくりの大激走だが、終わってもきっと自分で自分は褒められないのが残念な限りではある。
 そこで、もう一度恭介からの合図。カウントダウンが始まる。口の中で走る彼らに合わせてテンカウント。10、9、8。真人が二人の下を通り過ぎる。7、6、5、4。
「いまだっ!」
 恭介の声。

 3。

 持ち上がる誰かの手。
 転ぶ二人組。

 2。

 顔を見合わせ、小さく頷きあう二人。

 1。

「てやあああああぁぁぁぁぁ―――――――――っ!!」
「うわああああぁぁぁぁぁあああ―――――――――っ!!」

 弾みをつけ、飛び降りる。
 風を感じた。





「結局最後まで謙吾がどこにいたのかわからなかったぞ」
 鈴が今日二個目のガリガリ君を食べながら言った。
「ふん」
 謙吾は笑う。
 恭介に言われて逃走から離脱したのは、鈴と理樹に会う少し前のことだった。
「お前らがわからんのも無理はない。なにせ俺の潜伏技術は親父の仕込みだからな」
「何を教えてんだよお前の親父。剣道じゃなかったのかよ」
「いや、剣道だが」
 剣道にそんな技はいらないのではないかと、そこにいた誰もが思ったが、そこはあえてスルー。いわゆるひとつの優しさである。
 謙吾は理樹たちの持ち場の少し前方に位置していた。あらかじめ電柱に結び付けておいた縄跳びを真人が通りすぎた瞬間を狙って一気に持ち上げたのだ。疲弊して集中力を欠いていた二人組はそのまま転倒し、鈴と理樹の飛び降り攻撃の餌食となった。伸びた二人を縄跳びでふんじばり、放置して一丁上がりである。即現場を離脱し、家の傍のコンビニで小休止を取り今に至る。
「そういえば真人はなんでTシャツ脱いだんだ?」
「いや、なんとなく流れで」
「そんな流れ感じたのはお前だけだ」
「なんだと? てめぇ……もう一回言ってみやがれ」
 ちなみに真人は今もパンツ一丁である。いくらすごんでも迫力に欠けることこの上ない。
「ほう……この俺にケンカを売るつもりか? いいぞ、買ってやろう。罠を張るなどという女々しい作戦で、少々身体が鈍っていたところだ」
「へへ……今日こそお前のそのすかしたツラをぐちゃぐちゃにひん剥いてやるぜ」
「グロいわっ!」
 鈴様、ハイキック。
「ちなみにツラはボコボコにするもので、ひん剥くものじゃないからな」
 恭介が優しく教えてやるが、昏倒した真人にはおそらく聞こえていない。
「そうだ理樹」
「ん、なに?」
「お前、そろそろ俺たちのこと、君づけはやめにしないか?」
「えっ、ええっ!?」
「そうだな。俺も少々気になっていた。皆呼び捨てで呼んでいるのに、今さら君づけもないだろう」
「今日は理樹の初手柄だったしなっ! 素晴らしき筋肉・真人オブ・ザ・イヤーでも何でもいいぜっ! お前の好きに呼べよっ!」
「長いわ。素晴らしきパンツ・真人オブ・ザ・イヤー」
 真人と謙吾は喧嘩に興じた。それを見て、みんなで腹を抱えて笑う。
「で、どうなんだ。理樹」
「うん、じゃあ」
「呼んでみろよ」
 恭介はニヤニヤ笑っている。恥ずかしがる理樹を眺めて、きっと楽しんでいるに違いない。
 鈴は改めて理樹の顔を見る。いつもよりも皆の輪に半歩近づいている。あの二人組をノックアウトした興奮はいまだ冷めやらずといった様子で、顔色はいつもより赤い。年相応な子供の顔がそこにある。
 鈴は今さらながらに、理樹を見た時の不思議な不安感がいつの間にか霧消していることに気付いた。恭介以外の誰かとこんなに長く二人きりになったのは初めてのことだったし、単純に慣れたということなのかもしれない。
「恭介」
「おうっ」
「真人、謙吾」
 おうっ、と喧嘩しながらも律儀に返事を返す二人。
 そして、理樹は鈴に向き直る。
「鈴」
「――っ!?」
 飛び下がり、そのまま恭介の後ろに隠れた。
「おいおい、今のは自分も呼ばれる流れだったろ? 心の準備くらいしとけよ」
「ううううるさいわぼけっ!!」
 真っ赤な顔で「ふかーっ」と尻尾を踏まれた猫のような声で威嚇する。恭介は苦笑し、理樹は名前を呼んでしまった気恥ずかしさと、鈴の態度に対する困惑で、おろおろと落ち着かない様子だ。
「ま、徐々に慣れていけばいいさ。理樹、アイス食うか? 俺のおごりだ」
「いいの?」
「ああ、理樹は頑張ったからな。ご褒美だ」
 そう言って、理樹と恭介は連れ立ってコンビニの中に入っていく。鈴は慌てて、恭介の服のすそを掴む。
「ん、どうした?」
「あたしも」
「は?」
「あたしもがんばった。ごほうび」
「お前は駄目」
「なんでだっ!」
「お前、理樹が折角名前で呼んでくれたのに、返事出来なかったじゃないか。だからだめ」
 そう言うと、三個目のガリガリ君が遠のいた鈴はがっくりと肩を落とす。恭介はあからさまにため息をついた。
「わかった。じゃあもう一回チャンスをやる」
「ほんとかっ」
「ただし、今度はお前が理樹って呼ぶんだ」
「うぐっ……」
「出来ないのか? じゃあアイスはなしだな」
 恭介はくるりと背を向ける。理樹はどこか寂しそうな顔をしている。
「待てっ」
「なんだ?」
「……………やる」
 すぅ、はぁ、と深呼吸をする。
 自分の鼓動の音がやけにうるさい。さっき飛び降りた時よりもどきどきしてるじゃないか、と鈴は思った。顔に体中の血が集まっていくように感じた。きっと顔は夕焼けの太陽みたいに真っ赤に染まっている。でも、アイス。それに、この苦手な少年の寂しそうな顔。
「………………………………………理樹」
 呼んだ。目を伏せる。彼の顔が見れない。
「……うんっ!」
 前髪の向こうには嬉しそうに笑う理樹の顔があった。
「おっけ。じゃあついてこい」
 改めてコンビニに向けて歩き出す恭介。その後ろを理樹がついていく。鈴はそんな二人の後姿を見つめたまま、なぜか動けずにいる。じーじーと、どこかで蝉が鳴いている。背後では、謙吾と真人がまだ喧嘩を続けている。
 理樹。
 もう一度だけ、小さく口に出した。うん、響きは悪くない。
 そして、耳元につけた鈴をちりんと鳴らし、鈴は二人の元へと走った。


[No.178] 2008/02/23(Sat) 23:17:44
感想会ログとか次回とか (No.168への返信 / 2階層) - 主催

 MVPはえびさんの「小鳥と子犬の恋愛模様」に決定しました。
 えびさん、おめでとうございます。
 感想会のログはこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/Little4.txt


 次回のお題は「音」
 締め切りは3/14 感想会は3/15
 みなさん是非是非参加を。


[No.180] 2008/02/24(Sun) 23:06:52
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