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No.182に関するツリー

   第5回リトバス草SS大会(仮) - 主催 - 2008/03/13(Thu) 20:57:40 [No.182]
音信 - ひみつ@リリカル☆遅刻 - 2008/03/15(Sat) 04:31:04 [No.192]
それは呪いにも等しくあり - ひみつ@マジカル☆遅刻 - 2008/03/15(Sat) 00:45:12 [No.191]
ヒット - ひみつ - 2008/03/15(Sat) 00:05:15 [No.190]
騒がし乙女の憂愁 - ひみつ - 2008/03/14(Fri) 21:50:34 [No.189]
二人きりの僕らに雨の音は聞こえない。 - ひみつ - 2008/03/14(Fri) 21:49:19 [No.188]
下弦の月 - ひみつ - 2008/03/14(Fri) 21:02:12 [No.187]
しあわせのおと - ひみつ - 2008/03/14(Fri) 01:52:21 [No.186]
ギロチン - ひみつ - 2008/03/13(Thu) 23:38:38 [No.185]
感想会ログとか次回とかですよ - 主催 - 2008/03/17(Mon) 00:47:13 [No.198]



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第5回リトバス草SS大会(仮) (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「音」です。

 締め切りは3月14日金曜午後10時。
 厳しく締め切るつもりはありませんが、遅刻するとMVPに選ばれにくくなるかも。詳しくは上に張った詳細を。

 感想会は3月15日土曜午後10時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.182] 2008/03/13(Thu) 20:57:40
ギロチン (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ

 カラカラカラ
 ジョキン。
 ガシャン。
 ズバッ。
 コロコロ。
 ユラユラ。
 ニヤリ。










『ギロチン』











 たまに出歩けばこれだ。
 目の前の光景に私は嘆息した。
 なんとなく服でも買おうかと街へと来てみただけ。ただそれだけ。私は不幸属性なんだろうか? まあ、そうなんだろう。
 目の前には車に轢かれてぐちゃぐちゃになった猫の死体があった。何度も車の下敷きになったようで、タイヤの跡がくっきりと残っている。今もまたなんの障害にも感じていないように車が猫の上を通り過ぎた。もう死んでる。だから、置物と同じなんだろうね。逆に笑える。
 私の周囲は、一様に気持ち悪いだとか、かわいそうだとか、そんなお通夜のような雰囲気になっていた。それが少し辛い。
 アレは私だ。あの頃の私だ。今も一緒。ずっと道路に寝ているの。目覚めないの。吐気がする。
 気分が悪いし、見ていられない。どうせその内掃除のおばちゃんが片付けにでもくるだろうね。ゴミを片付けに。そんなもの、見たくない。
 私は踵を返した。目的の服屋さんへ向かおう。ミニスカートが欲しい。デニムでピチピチの。Tシャツは黒の無地かな。重ね着で、ストライプのタンクトップ。靴下も合わせてストライプでどうだ。うん、まあ、そんなイメージ。いいんじゃない?
 気を取り直し、意気揚々と服屋へと向かおうとする私を引き止めたのは、周囲の喧騒。先ほどのお通夜のざわめきとは毛色の違う、困惑や驚嘆のざわめき。
 振り返ると、道路に走る女の子の姿が見えた。それを守るように男が四人、彼女の周りを固めていた。
 姫一人に騎士四人とは贅沢な。ケッと思う。いや、これは決して羨ましいとかそういうのでは無い。断じて無いですヨ?
 女の子を守るように立っていた男の中で特にゴツイ人が車に轢かれた。おいおい。そう思ったが頭から血を流す程度で、十分それでも危険だけど、筋肉筋肉騒いで、平気なのをアピールしていた。その間に女の子がぺちゃんこになった猫を抱きかかえていた。
 彼女は歯を食いしばり泣きそうな顔で、ギュッと腕に力を込めていた。彼女の飼猫だったんだろうか。よかったね。私にはいなかったよ。
 ふと、見覚えのある顔だと思った。何処で見たのか分からない。でも、確かに見たことがある。
 モニュモニュするなぁ……。こう、喉の奥で何かがつっかえている感じ。歯の間に何か挟まって取れそうで取れない感じ。
 ぬふぅ、とモニュモニュイライラしていると、ふと、周りから拍手が巻き起こった。泣いている人もいた。急にアホらしくなった。
 興ざめ、とはつまりこういうことを言うんだろう。さっさと服買って帰ろう。










 大きな鋏を引きずりながら、ゆっくりと歩く私。
 その先の断頭台で首を差し出す私。
 死刑執行間近。見物している私。
 私。私。私。
 三人の私。
 同じ顔をしているのだから、私なのだろう。
 鋏を持った私が、ギロチンの刃を吊る縄を躊躇無く切る。
 刃が落ちる。私の首も落ちる。
 転がる。転がる。私の首。
 見物していた私の前に転がる。
 シーソーのように揺れた後、ピタリと止まる私の首。
 私はその生首から目が逸らせない。私が死んでいる。
 首がニヤリと笑う。
 私を殺したのは私?










 耳から離れない。夢で聞いた。錆び付いた鋏の音。肉の裂ける音。
 何処かで聞いたことがある。断頭台初期を使い始めた頃は、刃が丸くてうまく首が切れずに死刑囚は無駄に苦しみ、最終的には窒息死してたんだそうな。あー、こわいこわい。
 どうでもいいことを考えながら、私は目的地へと向かう。
 昨日のモニュモニュな疑問は、簡単に氷解した。だって、寮に昨日の五人が集まって動いてたんだもん。あんな目立つ人たちを忘れてるなんて。なんで忘れてるの、と自分のアホさを呪った。まあ、あまり周りに目がいってなかったのかもしれないけども。
 到着。隣の教室。今は放課後で、後はもう身支度をして帰宅するのみ。ガラリと躊躇無くドアを開ける。探す。昨日の光景のにいた男の子。
「お、いたいた。おーい直枝くーん!」
 私の声に驚いた彼は、早足にこちらに来た。そして、はたと立ち止まる。腕を組み、うーんと思考を巡らす。意を決したようで、声を出す。
「僕に何か用?」
「え?」
「え?」
 見詰め合うこと約二秒。
「ひどい! 何よその言い方! 私とは遊びだったのねー!」
「いやいや」
 無駄に大きなリアクションをとる。この前のドラマで見た感じではこんなんだったけど。
 彼に最初に声を掛けたのは、クラスでのリサーチによるもの。あの五人の中で一番彼が普通だと教えられた。
 ちらりと横目で彼を見る。呆然としているが、どこか冷静なようで。トラブルに慣れてるのか。単に鈍感なんだか。どっちにしてもおもしろい。
「三枝さんだよね」
「んえ?」
 素のリアクションを取ってしまう。なんで私の名前を知ってるんですかネ?
「有名だもん」
 私の心を読んだかのように、彼は言う。私ってそんな有名ですかネ?
「で、どうしたの?」
 今度は私の心を読めなかったようで、笑顔でのたまう。正直、特別な用があるわけでもなく、ただ、昨日のことがおもしろかったから。お近づきになりたくて。彼らと遊べば、何か分かる気がしたんだ。
 普通の人って何? 友達って何? 私って不幸?
 そんな疑問には答えてくれないよね。ほぼ初対面だし。
「んー、直枝くんは……」
「なに?」
 何にも考えてなかった。いざ、こんな場面になることも考えずの神風特攻。ノープランもいいとこ。最近、変な子だと思われだしているというのに。ここで、下手なことをすれば噂に拍車がかかってしまう。はるちん、ぴーんち。
 しかし、何も言わないのは変だ。沈黙が痛い。何か。何でもいい。何か言おう。
「お、お豆腐好きデスか?」
「え? 豆腐?」
 それは無いわ。
 自分で思う。いきなり大声で呼んでおいて豆腐て。
 二人の間で、温度が休息に冷えていくのが分かる。たぶん、今息を吐いたら白いはずだね。たぶん。
 自分で冷たい空気を作り出してしまった手前、責任は私にある。なんとか切り抜けねば。
「やあ、そろそろ湯豆腐の季節かと思いましてー」
「……思いっきり夏だけど」
「あ、あははー」
 やばいー。
 妙に怪訝な表情の直枝くん。このままではお近づきどころか、一生避けられかねない。再び、はるちん、ぴーんち。だぶる・ぴーんち。
「理樹、ナンパか?」
「あ、真人」
「ナンパならばもっと筋肉をアピールしていけ。筋肉の嫌いな女はこの世界には存在しないんだぜ」
「私、あんまりムキムキ好きじゃない」
「え……あ、いや、そうか。うん、まあ、ふっ。お子様には分からない……か」
 私の素の言葉に筋肉くん(仮)はゆっくりと教室を出て行く。その目にうっすらと涙が浮かんでいたのは気のせいではないだろう。私の無神経な言葉で彼を傷つけてしまったようで……落ち込む。
 ああ、ダメだ。私はダメだ。ダメ。もう本当ダメ。
 心の中で鋏を引きずる私。処刑場の風景。また私は殺す。私を。
 カラカラ。耳障りな音が聞こえる。
 躊躇は無い。後は縄を切るだけ。
「あ、気にしなくてもいいよ。真人はいつもあんな調子だから。すぐに戻ってくるよ」
「え?」
 鋏を持つ私の手がピタリと止まる。
「だから、そんな顔しないでもいいよ」
「どんな……顔してた?」
「すごい苦いものを食べたみたいな顔」
「あは、あははー。どんな顔ですカー」
「真人には、後で筋肉最高って言ってあげたら立ち直るから」
「やー、自分を曲げるのはイヤですネー」
「あはは。まあ、気が向いたらでいいから」
「にゃー。まあ、気が向いたらー。ではでは、さようならー」
「あ、うん。さようなら」
 ガラリとドアを閉める。はあ、と息を吐く。真人くん(仮)のおかげでなんとか誤魔化せた。
 変な人というイメージがついてしまったのは否めないが、まあ、いいでしょう。印象には残ったはずだ。これから、きっと、仲良くなれるはず。そう思った。










 期待と興奮に満ち溢れた私は、かつてない充足感を携え、スキップをしそうなほどに上機嫌になっていた。この歳になってスキップは流石に頭のおかしい子にしか見えないので自重し、それでも漏れ出るわくわく感やらは止められない。鼻歌として体内から放出する。
 自分の教室に戻り、まだ残っていたクラスメートに、また明日、と告げる。クラスではそれなりにうまく立ち回ってたりするのだ。
 何も入っていない軽すぎる鞄を振り回しながら、私は教室を出た。
 しかし、どうしても私は不幸を引き寄せるのだろう。こんな楽しい気分だったと言うのに。
 帰りの廊下。下駄箱まであと数メートル。あいつはいた。私と同じ顔で不貞腐れたような表情のあいつが。風紀委員だかなんだか知らないが、偉そうに帰宅する生徒数名に説教を垂れているようだ。うざったそうな顔でそれを聞く生徒の気持ちは分かる。あいつなんかに注意されていると思うだけで私なら殺したくなる。
「あら」
 あいつが私に気づく。
 私はそれを無視して通り過ぎる。強く握った手がギリギリと痛い。
「気をつけて帰りなさいよ」
 困ったような表情であいつが言った。なんの……つもりだ。
 カッとなる。あいつは何の気なしに言ったのだろう。そんな言葉が私を苛々させるんだ。そんなことにも気づいてないこいつが、本当に殺したいほどむかつく。
「だまれ」
「え?」
「だまれ。お前なんか死ね」
 視線だけで人を殺せるなら、私は今こいつを殺した。それぐらいに睨みつけた。あいつは、ただ呆然としていた。温室育ちと雑草の違いだね。本当、さっさとこいつ死なないかな?









 
 大きな鋏を引きずりながら、ゆっくりと歩く私。
 その先の断頭台で首を差し出すあいつ。
 死刑執行間近。見物している私。
 私。あいつ。私。
 鋏を持った私が、ギロチンの刃を吊る縄を躊躇無く切る。
 刃が落ちる。あいつの首も落ちる。
 転がる。転がる。あいつの首。
 見物していた私の前に転がる。
 シーソーのように揺れた後、ピタリと止まるあいつの首。
 私はその生首から目が逸らせない。あいつが死んでいる。
 見物していた私はニヤリと笑う。
 処刑した私も声を上げて笑う。
 あいつを殺したのは私。










 彼らに接触した翌日も私は、隣の教室へと赴いた。目的は一つ。
「直枝くーん、あーそーぼー」
「ちょ、小学生じゃないんだから……」
「いやー、遊びに誘うのってこんな感じかなー、と思ってさ」
 小学生の頃なんてほとんど陵辱されてました、って言ったらどんな顔するんだろう。そう思ったけど、引くことだけは明らかだったのでやめておく。
 あの日以降、私はこんな感じでちょくちょく隣の教室へと遊びに行った。直枝くんと絡んでいる内に真人くんなんかともそれなりに打ち解けていった。謙吾くんは、寡黙な人だ。私はちょっと苦手で、積極的に彼には近づかなかった。彼も私が苦手なんだろう。彼からも話しかけられることはなかった。
 鈴ちゃんは、人見知りが激しいのか、直枝くんの陰に隠れていつも威嚇してくる。それは小動物的で、私の嗜虐心を煽る。煽りすぎる。ついちょっかいを出してしまう。それを警戒し、私を見るたびにフカーっと威嚇してくるようになった。その姿がより私をぞくぞくさせているというのに。
 先輩の恭介さんは、鈴ちゃんのお兄ちゃんなんだそうな。仲の良い兄妹である。世の中にはこんな仲睦まじい兄妹もいれば、殺したいという感情しか向けれない姉妹もいる。
 そんなことを考えると、カラカラカラ、あの引きずる音が聞こえてきた。
 仲良くなるにつれ、頻繁に聞こえるようになった。
 人との違いがより鮮明に浮き彫りになるんだ。
 誤魔化しても拭えない。一度汚れた身体はどんなに擦っても綺麗にならない。
 黒い絵の具にどれだけ白を混ぜたって、絶対に白くはならない。
 行かなきゃ。









 心の中の処刑場。
 首を差し出すのは、私? それともあいつ?
 カラカラカラ。
 私の精神安定剤。
 ジョキン。
 私を殺すことで、私は新たな気持ちで進める。
 ガシャン。
 あいつを殺すことで、私は私でいられる。
 ズバッ。
 私は人殺しなんだ。
 コロコロ。
 何回殺したんだろう。
 ユラユラ。
 もう、分からないや。
 ニヤリ。


[No.185] 2008/03/13(Thu) 23:38:38
しあわせのおと (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ

 かたかたことん

 電車がレールを叩く音。

 かたかたことん

 私と理樹君を運ぶ音。

 ぽりぽりぱくん

 私がお菓子を食べる音。

 てくてくことり

 これは……?



「小毬さん、ジュースどう?」
「ありがと〜あ、つぶつぶ入り」
 理樹君だ、いつの間にかいなくなって、いつの間にか私の側にいる不思議な理樹君。持っているのはつぶつぶみかんの缶ジュース?
「嫌だった?」
「ううん。甘いジュースはおいしいよね、つぶつぶみかんもおいしいです。二つ揃うともっとおいしい、だからこれは大好きです」
 これも幸せスパイラル、幸せに幸せが重なって、たどり着くのはつぶつぶみかん。
 渡された缶はちょっとひんやり、ごくごくと飲んでとっても幸せ。私はほわっと笑顔です。



 今日は理樹君と湖にお出かけ、二人一緒に電車でお出かけ。
 突然誘われたのにびっくりで、行く先を聞いてもっとびっくり、理樹君の口から出てきたのは、私の大好きな湖でした。
これは驚きスパイラル、もしかして、私の気持ちが以心伝心理樹君に届いたの? 私たちは仲良しさん、きっと心も仲良しさん、だから気持ちが繋がって、二人で一緒に湖にお出かけ?
 とっても素敵な気持ちを乗せて、とっても嬉しい私を乗せて、電車はどんどん走ってる。目的地は素敵な湖、側にいるのは素敵な理樹君。
 楽しいお休み嬉しいお出かけ、もっと嬉しい理樹君と一緒。
 でも二人でお出かけなんて、まるで、ででで……でーと!?

「デートがどうかしたの? 小毬さん」
「うわーん! 口に出してた〜」
 うう……何で私って自爆が好きなんだろう……
「好きなの? デートが?」
「うあぁああ〜好きだけど違う〜」
 自爆が誘爆、大爆発。うう……こんなスパイラルはなんか嫌。

 その時小さく電車が揺れて、大混乱な私も揺れて、これを機会にていくいっといーじー。

「よし、落ち着こう」
 理樹君を指さす、そう、落ち着くのは大切です。
「小毬さんがね」
 返された。
「うん、私が」
 頷いた。……あれ?



 何はともあれ落ち着こう、みかんジュースをごっくん一口、つぶつぶ甘いみかん味が、私の中にやってきて、これで私はとっても幸せ。

「おっけー、大丈夫落ち着いた」
 そもそも何で慌ててたんだっけ? でも思い出すとまた慌てちゃうから思い出さないでおこう。これで私はハピネス。

 ……ん?

「理樹君何で私を見てるの?」
「何でもないよ」
「?」
 幸せ笑顔な理樹君は、やっぱり笑顔。なんで笑っているのかな、つぶつぶみかんが口元にいるの?
「わわわ……あれ?」
 でも触ってみても何にもない、これは不思議、不思議なみかん。理樹君は相変わらず笑顔だなぁ。
 う〜んと首を傾げる私の隣に、理樹君が座ります。きゅっときしんだ椅子の音、それはきっと幸せの音。私がお菓子の袋を開けるのも、ちょっと小さな幸せの音。
 そんな私たちを乗せている、電車はかたこと楽しそう。

 笑顔のまんまで視線をずらせば、やっぱり笑顔の理樹君が、持っているのはつぶつぶみかん。

「お揃い?」
「そうだね」
「ん〜」

 ちょっと考える。お揃いは嬉しい、嬉しいはお揃い、お揃い……?

「めめめめ夫婦ジュース!? 私たちにはまだちょっと早いような気もするですけど理樹君が望むのでしたら食器棚に仲良く並べてでもジュースだから冷蔵庫の方が……」
「落ち着いて小毬さん。夫婦茶碗はともかく、夫婦ジュースはないと思うんだ」

 そっか、ちょっと残念。あれ、残念? 残念っていうことは私は夫婦じゃないのが残念っていうことだから理樹君と夫婦茶碗になりたいっていうことで仲良く食器棚に収まって毎日一緒に朝ご飯のちゃぶ台に……

「うわーん、違う〜」
「ちょっと小毬さん、落ち着いて。はい、チョココロネ」
「はぁわ!?」
 口の中にはチョココロネ、甘い気持ちで幸せで、理樹君の気持ちでもっと幸せ。

「う〜んおいしい〜」
「よかった」
 隣に座った理樹君が、お日さまにさっと照らされて、ちょっとでかぷー。



 かたたんことんと小さな揺れと、低く唸るモーターに、がらがら電車に差し込んだ、昼下がりのほんわかな日射し。電車にあわせてゆらゆら揺れて、私たちを照らしてる。
 乗ってる人はのんびりのんびり揺られてて、私たちと一緒です。
 いつかどこかで見たような、とっても大切なような、でも、今はきっと振り返らなくてもいいような……そんなでかぷー。
 そういえば、どうして理樹君は湖に誘ってくれたのかな? やっぱりあの湖を知ってたの? これはとっても不思議。
 謎の解けない向こう側、記憶がないけど引っかかる、それはとっても不思議な気持ち。

 悩んでいる間も電車はかたこと、鉄橋を渡ってがたんごとん、街を抜けたらトンネルにごー。



「どうしたの? 小毬さん」
 ごーっというトンネルの音に、混じって聞こえる理樹君の声。
「ほぇ?」
 途切れた景色の真っ暗闇で、突然途切れる私の不思議、気付けば首を傾げる理樹君。思い切って聞いてみよう。
「う〜ん、理樹君でかぷーしない?」
「デジャ・ビュね。うん、そうだね、僕もだよ」
「あれ?」
 この会話にもでかぷー……じゃなくてデジャ・ビュ。それに理樹君がちょっと嬉しそうで寂しそう……なんでだろう?
 心のどこかに引っかかる、記憶の鍵は開かない?
 そんな不思議なでで……でかぷーを考えながら、私は視線を窓の外。

 トンネルを抜けたら明るくて、寄り添う道にパン屋さん、さっきすぎたのはケーキ屋さん、今の車はりんご色。時間があったら寄ってみよう、おいしいお菓子を探すのです。
 かたたんことんと軽い音、湖の駅まではあと少し。だけど、流れる景色に記憶はなくて、あるのはもっと昔の記憶だけ、さっきのでかぷーは私の気のせい?



 ごとんと小さな揺れがきて、電車はだんだん速度を落としてる。進む田んぼの向こうには、懐かしい街並みが見えてきて、電車はだんだんのんびりさん。
 流れる川はソーダアイス、あぜ道の色はドーナッツ、空の太陽はみかん色、ってみかんジュースを飲んでない!?

「ふぇええ〜着いちゃう〜」
 まもなく到着の放送で、慌てて残りを飲もうとしたら、なくなるジュース、立ち上がる理樹君。え? もしかして遅いから没収!?
「持ってかないで〜」
「小毬さん、大丈夫、持っていかないから。降りてから飲もう、ね」
 そう言う理樹君はすっかり準備完了です、なんと私の荷物まで。うう、早とちり。





 ごろごろぴしゃんと扉が閉じて、出発進行トレインごー。
 街の向こうのそのまた向こう、空と山の間へと、かすんで消える小さな電車。かたたんことんと小さな音も、いつの間にかなくなって、ホームは静かになりました。
 駅に降りたのは二人だけ、私と理樹君の二人だけ。他には誰もみえなくて、空の雲は何に見える?

「ふわふわドーナツ……」
「食べたいの? ドーナツ?」
「うわぁーん違う〜」
「違うの?」
「違わないけど違う〜」
 うう……理樹君がいたずらな目をしてる。からかってるんだ、よーし。

「理樹君」
「何、小毬さん?」
 真面目な顔で理樹君を見て……
「人をからかって遊んではいけません、それはとってもいけないことです」
 びしっ! うん、これできっと理樹君は……
「うん、わかった」
 あ、理樹君わかってくれた。これでおっけー、のーぷろぶれむ。

 だけど、満足顔な私は、そうそう長くは続かなくて……

「それならもう小毬さんはからかわない、いけないことだもんね」
 ……あれ?
「鈴や葉留佳さんと遊ぶことにしよう」
 ……あれれ?
「……あう」
「何?」
「理樹君いじわるだよ〜」
 やっぱりいたずらな顔した理樹君に、私は泣いて駈けだして……

「はうっ!?」
「ちょっと小毬さん!?」
 ホームの柱とごっつんこ……
 


「ごめんごめん」
「もー」
 ちょっとふくれっつらな私に、理樹君が謝ります。
「ひどいですよ理樹君」
「慌てる小毬さんが可愛かったから」
「ふわぁ!?」
 またからかわれてるの私!? あ、でも理樹君は真面目な顔、真面目な顔っていうことはつまり私のこと可愛いって言ってくれたわけだから理樹君は私を可愛いって思ってくれてるっていうことできっともう顔が真っ赤になっているから……

「よし」
 一声。

「言わなかった事にしよう、おっけー?」
 理樹君にびしっと。
「あ、え、お、おっけー」
 そんな声を聞いて今度は私の番。
「聞かなかった事にしよう、おっけー」
 何を言わなかった事にするのかなっていう理樹君の声が聞こえた気もするけど、それも聞かなかった事にする。おっけー。

 悩んでいても怒っていても幸せは逃げていくから、そういうことはなかったことに、笑顔でいるのが大切なのです。



「あ、そうだ、小毬さん、ジュース。そこのベンチに座って飲んだら?」
 そう言って私にジュースをくれる理樹君。指された指の向こうでは、ホームの屋根が途切れてて、青空の下にベンチが一つ。
「ありがとー」
 私はそう言って座ります。理樹君も隣にやってきた。

 お日さまに照らされたおんぼろベンチは、少しほわっと暖かい。そよそよ風も暖かで、ここはとってもベストプレイス。理樹君と座ると小さくたわんで、私ダイエットした方がいいのかなぁ。
 渡されたつぶつぶみかんの缶ジュースも、いつの間にかあったかみかん、つめたいみかんとあったかみかん、両方飲めるのは素敵です。
 ごくごくと飲んで幸せ一杯、隣にいるのは理樹君で、とっても嬉しいのんびり時間。もうちょっとだけ、ここでのんびりしてたいなぁ。
 




 ドーナツ雲がまるまって、あんぱん雲になった頃、聞こえてきたのは理樹君の声。
「そろそろ行こうか、のんびりしてると、湖についたら夕方になっちゃうし」
「ほえ……?」
 ちょっとだけ考える。えーっと今日ここに来たのは……
「あーそうだ、湖」
「小毬さん、忘れてた?」
「ちょっとだけ」

 幸せすぎて忘れてた。そうそう、今日ここに来たのは湖に行くんだった。理樹君が湖を知っていたのはやっぱり不思議だけど。

「じゃあさ、おまじない」
「おまじない?」
 そう言って近寄る理樹君、理樹君のあったかさが側に来て、私は少しどきどき。
 そして、理樹君は優しい、でもちょっといたずらな顔で私に言いました。

「……小毬さんの思い出が、もう少し、ほんのちょっとだけ見えるようになりますように」

「え?」
「行こうか」
「ふぁ……りりり理樹君?」
 心のどこかでかちりと小さな音、何かがどこかで合わさった、それは小さな始まりの音。忘れていた始まりの音。
 ……とっても幸せな、始まりの音。

「約束……だからね」
 立ち上がる理樹君、理樹君……
「うん、約束、約束は守らないといけません」
 びっくりして立ち止まる理樹君、だけどすぐに優しい顔。
「だから行こう、いつかみたいに、二人できれいな湖を見よう」
「……そうだね」

 嬉しそうな理樹君の顔、私もつられて笑顔です。これはとっても幸せスパイラル。
 ホームの向こう、山並みの中、もう一度湖でボートに乗ろう。二人一緒にボートに乗ろう。
 幸せ笑顔を見合わせて、てくてくホームを歩きます。
 きっとそれは幸せな道、今度は二人で手をつなぎ、笑顔で先を目指すのです。私たちは泣いたから、たっぷりたくさん泣いたから、今度は笑えるはずだから。

 理樹君、今度は二人で笑おうね。
 


『おしまい』


[No.186] 2008/03/14(Fri) 01:52:21
下弦の月 (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ

 ひゅん――

 それは空気を切り裂く一本の矢。闇を貫く光線は数秒とおかずに小気味いい音を立てて、的の中心に突き刺さる。見事に的を射抜いて見せた彼女に喜びの表情はない。まるで中ることを最初から知っていたかのような。透徹した眼差しは的を透かして、その先にある未来すら射抜いている。そう言われたら信じてしまいそうなほど、彼女の周囲は静寂に満ちていた。
 ふぅ。
 微かに聞こえた呼吸音。それは始まりの合図だ。彼女の射は何物にもまして美しく、乱れることのないリズムだった。どこか胸の奥の脈動を思わせた。
 目を閉じる。

 ふぅ。

 きゅ

 き、きり
 ぎり
 ぎり、ぎりぎりぎり――

 ひゅん

 たぁん

「――宮沢さん」

 彼女の声に、目を開ける。
 月明かりの中に彼女は立っている。眩しさに目が慣れるまでの間、彼女は光の中にいるように見えた。
「ちゃんと見ていてください」
 なにもかもお見通しか。それも仕方がないことだ。もとより自分が彼女の目を偽れるはずがないのだ。
「古式」
「何ですか?」
「――いや、なんでもない。続けてくれ」
 ただ、美しいとだけ思った。美しいのは彼女の射であり、長くのばした黒髪であり、彼女の全てだ。彼女は一瞬表情を緩めると、また小さく息をつく。射は当たり前のように始まり、そして終わる。全てはその繰り返しだ。
 彼女は弓をこちらに振り返る。彼女の右目は不似合いなほど大きな眼帯がある。下弦の月が二人を見下ろしている。






 謙吾が古式みゆきと出会ったのはある春のことだった。
 小学生の中でだけとはいえ、向かう所敵なし、無双の剣士であるという自負は、少なからず謙吾の自意識をより強固なものにしていた。剣そのものよりも、わかりやすく、目に見える強さを求めていた。それをあからさまにひけらかすことこそなかったが、心の奥底にあったのは、自分が他の誰かと比べてどれだけ強いか、それだけだった。
 未熟だった。歪んでもいた。その歪みは慢心の温床になり、慢心は歪んだ自己肯定を育てる。
 ある日、『弓術を使う女』が同じ学校にいると人から聞いた。それを耳にした謙吾が最初に思ったのは、『どちらがより強いのか』ということだった。弓と剣が相対してどちらが強いかもくそもないが、当時はそんなことを本気で考えてしまっていたのだから性質が悪い。「キュードー女と宮沢君なら、断然宮沢君の方が強いに決まってるよ」などと無責任に吹聴する同級生もいた。磨き上げた互いの技を同じ土俵の上で競い合うことはないだろうが、それでも隠し切れない「格」というものがある。何か機会があれば、いかな弓使いと言えど、格の違いというものを見せつけてやる。そんなことを思っていた。
 他流試合の折、大規模な道場に足を運ぶ機会があった。稽古の合間、父親たちの会話の中、ふとこんなことを耳にする。宮沢氏のご子息も類稀な才を持っているが、古式の娘の弓もこれまた非凡なものがある、才能と言うのは同じ年代に固まる物だ――と。学校での噂を思い出す。弓術の女。謙吾は好奇心に誘われるままに、弓道場へ向かった。
 そこで彼が目にしたのは、一つの射。
 大勢が一斉に射掛ける中にあって、小柄な少女の姿は光を放たんばかりだった。
 八節というものが弓道にはあるのだということは謙吾も耳にしたことがあった。射る際の手順のようなものだと思っていた。年若いその少女が体現して見せたのは、正にその美しさだ。一つ一つの動作に意味があり、意志があった。終わり、始まり、そしてまた終わる。少女の射は正確無比だったが、それ以上に少女自身が放つ神々しさに圧倒された。
 的に当たること。それは結果だ。だが少女の射はそんな結果を超えて完成されている。
 試合の勝ち負けにこだわる自分。目に見えるわかりやすい強さを求める自分。それは的の中心に矢を突き立てる、ただそのことだけに腐心しているようなあさましさを思わせた。

 それからいくつかの季節が過ぎ、謙吾には無二の友が出来た。あからさまな強さを求めることがなくなった代わりに、強さとは何かを考える時間が増えた。言われるままに剣を握り、それを自分自身の意思だと言い張る欺瞞を塗りつぶしてきたのは、幼い頃に持ち続けていた歪んだ強さへの渇望だ。じゃあ、本当の強さとは一体何だ? 友と遊ぶ傍ら、剣の鍛錬は続けていた。いつか見たあの少女のような美しさに憧れていた。剣を振るう理由は変わり始めていた。
 きっかけとなった少女とはその後も会うことはなかった。あの時の少女が古式みゆきという名前で、自分と同じ学校で学ぶ同級生だということはわかっていた。会って話をする機会もないままに別々の中学に進学した。時折目にする弓道の雑誌で彼女の名前を見つけるたび、頑張っているんだなと人知れず励まされている気持ちになった。
 次に彼女と出会ったのは高校。皆で決めて進学した全寮制の学校に彼女はいた。クラス分けの張り出しの中に彼女の名前を見つけた瞬間、柄にもなく謙吾の胸は高鳴った。関係があるわけではない。ただ単に通っていた小学校が同じだったというだけのことだ。話したことはおろか、視線が合ったことすらない。昔に一回だけ足を踏み入れた道場で、ただ一度だけ見た彼女の射に心を奪われた。ただそれだけのことだ。ただ、それだけの。
 当たり前のように入部した剣道部、その主な活動場所である武道場のすぐ隣が射場だ。いつでも彼女の射を見られる環境に身を置いたことになる。そのことに目敏く気付き謙吾を茶化したのは、恭介ただ一人だった。
「話し掛ければいいじゃないか。ロマンティック大統領の称号を欲しいままにする謙吾なら簡単なことだろう」
 一歩踏み出せと、にやにやしながら唆す恭介に「だから、彼女はそんなんじゃないんだ」と、何回説明しただろう。謙吾にとって古式みゆきとは美しさの象徴であり、同時に目指すべき理想でもある。憧れと思慕は似ているようで、まるで違うものだ。
 ある日、謙吾が居残りで一人鍛練を続けていた時のことだ。竹刀が風を切る音、踏み込みで板が鳴る音に一つ、誰かの足音が紛れているのを感じた。教師の見回り、もしくは迷い込んだ学生か。そのくらいのことで集中を解くのも癪だと、極力意に介さず鍛練を続けた。
 やがてその闖入者が背後に座り込むのを気配で察する。素振りなど見ても面白くはなかろう。それでも見るなら好きにするがいいさ。
 一時間ほど一心不乱に振り続け、ようやく竹刀を置いた。背後の誰かも動いた様子はなかった。酔狂な見学者の顔でも拝もうかと考えたその時、
「――終わりですか」
 かけられた声に震えた。
 彼女だ。震える内心を必死に押さえ込み「ああ」とだけ答えた。
「真摯に、振られるんですね」
 心底感嘆したような声色に二の句を継げなくなる。黙り込むのを勘違いしたのか、「あ、すみません。私、古式といいます。古式みゆき。弓道部の一年です」と、慌てて自己紹介をした。
「知ってる。宮沢謙吾。剣道部一年」
 必要以上にぶっきらぼうな言い方になってしまう。胸の鼓動は明らかに宿主の異常を訴える。「知ってます」と、少し和らいだ彼女の声。まともに古式を見ることが出来ない。視線はあらぬ方向をさまよい、手は落ち着きなく空を切った。
「あんたは何をしてたんだ」
 いくらなんでもこれは酷かった。口調は不機嫌、視線は合わない。普通の人間なら話にならないと会話を打ち切られていてもおかしくはない。けど、古式にそれを意に介す様子は全く見られない。
「宮沢さんの剣を見てました」
「あんなものただの素振りだろう。面白がって見るものじゃない」
「宮沢さん以外なら、それは単なる素振りでしょう」
 どくんと心臓が一声鳴いた。
「誰のだって、俺のだって同じだ」
「違いますよ」
「違わん」
 子供のようなやりとり。不意に彼女がくすりと笑う。
「嘘ばっかり」
「嘘……?」
「嘘じゃないですか。だってあなたの素振りは相手を斬るためのものじゃない」
 顔が火を吹くかと思った。誰かに心の内をを覗かれたと感じた時、人は一目散に逃げ出したくなるのだということを知った。謙吾の内心を知ってか知らずか、罪のない顔で古式は続ける。
「うまくは言えませんけど、あなたの剣は相手を斬るためにこうしなければならない、打ち倒すためにはこうしなければならない、という制約が無いように見えました。無心というか……なんというか、とても、自由に見えたんです」
「そんなの単に勝とうと思ってないただの腑抜け、ということではないのか」
 勝とうと思っていない腑抜け。
 自分で口にした言葉にずきんと胸が痛んだ。それはまさに自分のことではないのか。勝つことよりも大事なことがある、だなんて怠け者の言い訳じゃないのか。幼い頃、目の前にいる彼女の射を見てから、何度も何度も繰り返した自問自答だ。そんな謙吾の内心を知らない古式は少し笑って「全然違いますよ」と呟いた。
「勝負をしないことと、勝ち負けに拘らないことは全然違います」
「それは――」
 それは、理解できる。が、しかし。
 あの日、彼女の射を見てからずっと考えてきた。本当に強いとはどういうことか。勝ち負けは所詮勝ち負けであって、それ以上でもそれ以下でもない。そう考えるのは簡単だ。 
 例えばこういう考え方がある。勝ち負けそのものよりも勝負が決する過程を重要視するという考え方。その過程で、自分が納得出来れば、満足できる勝負が出来ればそれでいい。それは勝ち負けという結果よりも尊い何かなのだ、と。
 しかしそれは、命をかけた勝負の緊張や執念、そこから生まれる何かから逃げ出したのと一体何が違う?
「――羨ましくなってしまいました。すごく」
 自問自答の海に溺れた謙吾の耳に、ささやくような声は届かなかった。






「私たちが話すようになったきっかけ、覚えてますか」
 当然覚えているに決まっている。忘れるはずがない。謙吾が小さく頷くと、古式は小さく微笑んだ。月明かりの下、額に輝く汗の跡を見つける。
「私、ずっと宮沢さんの後ろで見てましたね」
「ああ。あの時は一体何者かと思った。実際、俺の素振りを一時間も眺めて喜んでる奴なんて古式くらいだと思うぞ」
「そんなことないと思いますよ」
「そんなことあるだろ」
「そんなことないですって。宮沢さんはもてますから」
 そんなことない、と続けようとしてやめる。どうも彼女と話していると、こんな水掛け論の連続になってしまう。最初に会った時のように照れているわけでも、意地を張っているわけでもないというのに。
「宮沢さん、冷えませんか」
「いや、大丈夫だ」
「風、冷たいですよね」
「平気だ。こんな寒さくらいで参るようなやわな鍛え方はしていない」
「なら、いいですけど」
「俺より古式だろう。古式は寒くないのか?」
「私なら平気です。昔から弓を持つと、弓を引くこと以外の全部が頭から吹っ飛んじゃうんですよ」
 そう言った古式の額にはもう汗の跡は見当たらなかった。
「しかし……大丈夫なのか」
「何が、ですか?」
「それは、まぁ……色々だ」
 いくつかの意味を込めて言った言葉だった。そのどれもを軽く言葉に出来れば良かったのかもしれないと思った。少し古式は考えた後「ああ」と手の平を拳でぽん、と打った。
「大丈夫です。この時間に見回りの先生や警備の人は来ません。体力が続くならあと二時間くらい引き続けても大丈夫なくらいです。それに、もし万が一誰か来ても私が勝手に引いてただけで宮沢さんは関係ありませんって言うから大丈夫です。宮沢さんが怒られることはありません」
「いや、そういうことを言ってるわけじゃなくてな」
「私の目のことですか?」
 真っ直ぐに見つめられる。その眼光に何も言えなくなる。
 そもそも、なぜ古式はこんな夜中に一人きりで、二度と引けなくなったはずの弓を引いているのか。
『良かったら、夜の八時に射場まで来てください』
 靴箱の中に入っていたメモ。流麗な字体は、それだけで古式を思わせた。そして、メモに誘われるままにのこのこと一人で来てみれば、これだ。
「目なんて見えなくたって、弓は引けます」
 強い口調で言い放つ。その台詞が口だけではないことは、薄い闇の向こうで串刺しになっている的が証明している。五体満足の人間が引いたとしても、容易くは到達出来ない地点に古式はいる。しかも、彼女は片目の視力を失っているのだ。
「それなら、もう俺に言えることは、ない」
 諦めたように、笑う。
 古式の射は回数を重ねるごとにその精度を落としていた。生命の脈動を思わせるようだった優美な八節にも、徐々に綻びが生じていく。それは、背中の翼に生えている羽を一枚一枚もぎ取っていくかのようだ。そう遠くない未来、天使は翼を失い地に堕ちる。それは古式がどうあがこうとも、既に確定された未来だ。
 謙吾は小さく息を吐いた。口に出せない言葉をそっとそのまま逃がしていくように。
「前に勝ち負けの話をしたこと、覚えてますか?」
「ああ、覚えている」
 忘れるはずはない。それは自分の内側に突き刺さり、今も抜けない見えない棘だ。答えは今も分からないまま。
「諦めてしまえば、弓は引けるんです」
「諦める?」
「勝負の際、限界まで魂を注ぎ込んで、命を削って放つ射――それを諦めて、ただあるがままに、弓を引くためだけに弓を引く。そういうものでいいのなら、私はまたいつか弓を引けるようになるんです」
 古式は俯いてじっと床の隙間を見つめていた。
「この前、お医者さんに言われました。今を我慢すれば、いずれ視力は戻るって」
「なんだって?」
 謙吾は耳を疑った。
 古式の目はもう元に戻らないものだと思っていた。それが戻るかもしれない?
 喜びの光が謙吾の瞳から漏れた。
 数秒後、謙吾はそれが間違いであることを知る。
「そう……今を我慢すれば、前の“何分の一”かの視力は戻るかもしれないって」
 床についた手の甲にぽたりと雫が落ちた。
 古式は泣いている。
 そして、謙吾は彼女がなぜ泣いているのか痛いほどに理解した。古式はもう二度と、古式が望む弓を引くことは出来ない。薄っすらと見える世界では様々な人が弓を引くだろう。古式はそれを霞んでしまった目で見るのだろう。手を伸ばせば届くところにある、もう二度と立ち入ることの出来ない世界を。
「それなら、いっそ見えなくなってしまえばよかった」
「古式」
「光なんて永久に失ってしまえばよかった!」
「古式っ!」
 肩を掴んで揺さぶっても、左目の焦点はけして謙吾に合わない。涙は滂沱として、流れていく。
 知らず、謙吾は叫んでいた。
「古式! 俺は君を見たことがあるんだ! ずっと昔に!」

 そうだ。
 俺は古式の射を見て知った。
 勝ち負けを超えて、結果を超えて、そんなものよりもっと尊いものがあるってことを、俺は古式の射を見て知ったんだ!

 どれだけ叫んでもそれは音でしかなかった。どれだけ空気を震わせようとそれは言葉でしかなかった。古式の心まで届くことはなかった。
 なんという皮肉だろう。
 古式は遥か彼方にいるのだと思っていた。地べたを這うように、結果と、結果それ自体の虚しさの間で彷徨っているのは自分だけなのだと思っていた。古式はそんなものを超越した何かを掴んでいる、だから彼女はあんなにも美しいのだと。
 違っていた。
 古式は謙吾のすぐ傍にいた。古式も謙吾も、同じように出口のない迷路の中を彷徨っていた。答えのない両天秤。古式はその正体を確かめる前に、その片方を永久に失ってしまったのだ。
「私は、宮沢さんが羨ましいです」
「あぁ」
「あなたの剣は自由だったから。勝ち負けなんて大したことじゃない、それよりも大事なものがあるんだって、教えてくれてるみたいだった」
「あぁ」
「右目をやってしまってから、ずっとあなたのことばかり考えてました。あなたみたいになれたら、私はこれからも生きていけるって。諦めるんじゃなく、それよりもっと素晴らしいものを見つけられるかもしれないって。でも無理だった。私には見つけられなかった。捨てるしかない。諦めるしかないの」
 古式はすくっと立ち上がった。涙を拭く。
「――見ててください」
 弓を構える。手には一本の矢。
 これが古式にとって生涯最後の八節になる。理屈ではなく、感覚でそう悟った。これから、どれだけ長い時間を過ごそうと、古式は二度と弓を手に取ることはないだろう。古式は弓を捨て、普通の、どこにでもいる女の子になる。たまの休みに友達とアイスクリームを食べ、きれいな服を着て街へ繰り出す。カラオケをしたり、本を読んだり、時には誰かと恋をしたり。
 古式は輝けるだろうか。
 これから生きていく長い人生のどこかで、弓を引くこと以上に輝けることを、彼女は見つけることが出来るだろうか。勝ち負けの際、たった一本の矢に魂を注いで放つ射――それ以上に生命が輝ける瞬間を。
 見つけることは出来るだろう。だけど、だからこそ、こんなに悲しいことはないと思った。
 この茫漠とした未来を、彼女は弓を忘れて生きていくのだ。

 呼吸が変わる。これより古式は人ではなくなる。ただ一つ、弓を引く、そのことだけに特化した一つの生命体になる。呼吸は歌うように、そしてリズムが生まれる。
 それは、今まで見た中で最も美しい八節だった。

 ひゅん――

 離れから、残心へ。
 幼い頃の彼女と、今の彼女の姿が重なっていく。
 気付けば、立ち上がっていた。
 勝敗に、結果に拘泥することのあさましさを恥じた。勝敗を越えたところにある何かを探して闇雲に剣を振り続けた。そして、それも結局勝敗から逃げ出しただけじゃないのかと思い悩んだ。そのどれもが自分で、古式だった。互いが互いを美しいと思い、何も掴めない自分を悔やんでいた。果てしない堂々巡り。出口のない迷路。きっと、これからも考え続ける。

 ざしゅ――

 古式の放った矢は的を大きく外れ、離れた地面に突き刺さった。その音は波紋のように広がって二人を包み、やがてどこかへ消えていった。
 音が消えたその時、からん、と弓が落ちる。古式は膝をつき、やがて静かに嗚咽を漏らした。謙吾は何も出来ずに、ただ彫像のように立ちつくしている。
 どこにも行けない二人を、下弦の月が見下ろしている。


[No.187] 2008/03/14(Fri) 21:02:12
二人きりの僕らに雨の音は聞こえない。 (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ

 鈴が随分と久しぶりに猫を拾ってきた。数日降り続いている雨の音が、こつこつとやたらに窓を叩いて煩い日だった。
 アパートで二人暮らしを始めてからは、これが最初の拾い猫だった。今まで見た中でもかなり小柄な猫で、名前はまぁくん。鈴が付けたにしてはおとなしい名前なのは、みゃうともにゃーとも鳴かず、まぁとしか言わないからというところに理由があるらしい。「へぇ」と、とりあえず反応しておいて覗き込んでみた体よりも更に小さなまぁくんの瞳は、澄んだ青色をしていた。そういえばこのアパート、ペットって大丈夫だったろうか。
「本当に、『まぁ』としか言わないんだぞ」
 なあ、と鈴が話を振ってもまぁくんの方は返事をよこさなかった。若干ムキになったように鈴は名前を連呼するが、やはり反応はない。猫よりもよっぽど鈴の方がまぁまぁ鳴いている。
 話によると、街路樹の近くで力なく雨に打たれていたのを連れてきたらしく、まぁくんはもちろん、傘を投げ捨ててまぁくんを抱いて走り帰ってきた鈴も、この上ないほどの濡れ鼠だった。冬だったならば間違いなく、風邪を引いていただろう。
「あれだな。水もしたたるいい女っていうやつだろ?」と、僕の持ってきたタオルで頭とマー君を拭きながら、鈴は言った。「いい女には雨が勝手に寄ってくるから困る」
「はいはい」適当に相づちを打つ。
「どうでもいいけど、鈴、タオルで拭くだけじゃなくて早いとこシャワー浴びた方がいいと思うよ」
「何だ。理樹は、食事とお風呂とわたしだったらお風呂のタイプなのか」
 咳き込むように吹き出した。変なところに空気が入って息苦しい。
「鈴、ごめん。それ誰に吹き込まれたの?」
「同じゼミの奴らが何か言ってた。っていうか、最後の『わたし』って意味わからんな」
「意味もよくわからないのに使わないように。あ、たぶん、お風呂沸いてるから」
 Tシャツが雨で張り付いていて、ボディラインくっきり、水色の下着うっすらで目のやり場に困る、とは言わないことにしておく。
 一通り拭き終わったのか、鈴は埋めていたタオルからまぁくんの顔だけだし、「お前も来るか?」とお風呂の方を指さしながら訊いた。まぁくんはにゃあともまぁーとも言わず、タオルから飛び跳ねるように抜け出し、部屋の隅へと脱兎の如き逃走。
「なんだお前、お風呂嫌いなのか。……そうか、シャワー怖いのか」
「え、鈴、会話成立してるの?」
「仕方ないな。あたしがお風呂あがったら、ドライヤーとグルーミング地獄だからな。覚悟しとくんだぞ」
 思いっきり問いかけは無視される。見ていた限りまぁくんの表情や行動は、鈴との会話中は微動だにしておらず、コミュニケーションを図れるようなものは何もなかった気がした。僕にはそもそも猫の表情やら何やらはわかりっこないが、猫の道を歩いて長い鈴なら出来てしまうのかもしれないと、自分勝手に納得する。しっかりと質問したのに説明はないのだから、仕方がない。
「あ、それと」
 がらり、と戸の開く音がして、鈴が顔と薄い肌色の肩だけを覗かせた。服を脱いだらしく、それ以上は顔を出せないらしい。
「理樹、まぁくんにホットミルクつくっておいてやってくれ」
 言い残されたのはそれだけで、がらがらっと勢いよく戸が閉まる。数秒遅れて思わずため息。
「……だってさ?」
 相変わらず部屋の隅に逃げたままのまぁくんに近づき、少し話しかけてみる。
「そういえば、本当に『まぁー』なんて鳴くの?」
 手を伸ばして撫でようとしてみる。まぁくんはやはりみゃあともまぁーとも鳴かずに、ただ――僕の右手に噛みついた。がぶりんちょ、とか気持ちのいい音が聞こえそうな勢いだった。左右にぶらぶらすると噛みついたままの姿勢でまぁくんぶらぶら。甘噛みではない激痛を感じるのを忘れるくらい、漫画のような光景だった。ぶらぶら。ぶらん、ぶらぶら。
 動きは面白いのだけれど、痛みがシャレになってない。
 結局、引きはがすことも振り払うことも何も出来ないままでいると、ぶら下がっているのが疲れたのか、それとも僕の手はおいしくなかったのか、まぁくんの方から勝手に噛むのをやめて離れていった。
 卓袱台の上にちょこんと座ったまぁくんと正対する。
「ホットミルク、好き?」
 まぁー。


 ◇◆◇


 がしゃん。
 鈴がドアを開け放つ音では、間違いなくなかった。一瞬シンクの中を見て、そこに音の原因がないことを確認する。硝子や、鏡の割れる、高く澄んだ音色。
 ホットミルクの火を止め、後ろを振り返り見る。卓袱台の上にポカリスウェットを入れたまま乗せておいたはずのコップが床に落ち、中身を全てぶちまけていた。点々と落ちるポカリスウェットが、運悪く真下にあった、鈴のお気に入りである猫まだらクッションに染みこんでゆく。
 ――まぁくんの仕業だろう。
 そこまでの予想は正しかった。猫の理解不足から起きた偶然の事故で僕には何の非もないのに、ポカリを出しっぱなしにしていたのは理樹の責任だ、と鈴は文句を付けてくるだろうという予測も、きっと、正しかった。
 けれど。
 ぐったりとテーブルの上にうつぶせになるまぁくんの姿までは、予想の範囲に収まるはずもなかった。
「鈴っ!!」
 ちょうど出てきたところだったのだろう。つやつやと湿り気を帯びた髪を乾かしながら、鈴の目がすっと丸くなり、時が止まる。


 ◆◇◆


 雨の中傘も差さず、まぁくんを抱いた鈴を自転車の後ろに、全速力で近くの動物病院へと向かった。あまり運動していなかったせいか、足の筋肉がすぐに弱音をこぼしてくる。
 それでも、そんな弱音をいちいち聞き入れていられる状況じゃなかった。そもそも、筋肉じゃなく僕自身だって、息切れやら雨のせいでやたらに悪い視界に今すぐにでも音をあげたくなる。以前なら自分が漕がずとも、チェーンを壊す勢いで自転車を漕いでくれる人がいて、二人乗りをしてペダルを踏んだことなんてほとんど無かったのだから。
 目的地までの道のりがうろ覚えの僕に向けて、背中から鈴の指令が飛んでくる。右、左、しばらくまっすぐ行って、左、そこ右に曲がって、後はまっすぐ――
 たどり着いたと同時に、鈴が自転車を文字通りに飛び降り、中へと駆け込んでゆく。僕もすぐ後に続く。
 幸いなのか、病院の中には診察待ちをしているらしき人とペットの姿は全くなかった。きょろりと視線を回し、すでに説明を終えたらしい鈴が、更に奥の診療室へと入っていくの見つける。鈴の隣に追いつき、一緒に奥へと進む。
 医師からの質問、それに対する受け答え、まぁくんについての諸々のことは、全て鈴が説明していた。鈴はやはり猫についてはいろいろと知識があるらしく、診察が終わった後にも僕にはわからない単語を並べながら医師と会話をしていた。
 そんな言葉の応酬の中から僕にわかったことは一つだけで、少なくとも、二、三日の入院は必要だが、まぁくんは命に障る状況には置かれていないということだった。詳しく検査するとひょっとすると違うのかもしれないが、状況を訊く限り、極度の衰弱か何かが原因だろう、と曖昧に医師は答えていた。


 ◇◆◇


 往路では気がつかなかったけれど、道はずっと意識しなければ気づかないくらいの軽い傾斜になっていたらしい。ますます多くの弱音を吐く足に鞭を入れて、何とかアパートの前までたどり着く。玄関のドアを開け放った時には、ほんの数時間前に鈴が帰ってきた時と同じように、二人とも濡れ濡れにぬれきった濡れ鼠だった。
「鈴。またになるけど、先、お風呂に入っちゃいなよ」
 火にかけられていた時のままに置かれていたホットミルクは冷め切ってはおらず、言うなれば猫舌にはちょうどいいような温度になっていた。卓袱台の前に座り込んで動く気配のない鈴にタオルを被せ、ホットミルクを二人分テーブルに運ぶ。
「そういえば」
 ホットミルクを見てふと思い出したことを、そのまま口にする。
「まぁくんにさ、ホットミルクを作る前に思いっきり噛みつかれたよ。何か、身動きとれないくらいの噛みっぷりでさ。ほら、まだ跡も残ってる」
 きれいに弧を描いた口の跡が、右手の表裏どちらにも残っていた。はい、と鈴にホットミルクを手渡すと、鈴は右手でそれを受け取り、ん、と左手が僕の目の前に差し出される。
 そこにはあったのは、僕の右手に残されたものと全く同じ噛み跡だった。
「あいつな、たぶん、すっごい人のこと怖いんだ。だから、理樹、ありがとう」
「え?」
 脈絡がなさ過ぎて、何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。詳しく聞き返してみると、噛みつかれてもまぁくんを振り払わなかったことについての感謝らしい。驚きすぎて反応できなかっただけのことなのだけれど、それでも、きっと安心したから、と鈴は呟いた。
「実はな、まぁくんを街路樹の近くで拾ったっていうのな、嘘なんだ」
「そう、だったんだ」
 少し押し黙り、「ああ、そうなんだ」と小さく頷いて、鈴はまた言葉を紡いだ。
「家の近くに、あんま人気のない空き地あるだろ?」
「近道の途中にあるやつ?」
 この家に帰ってくるときの道のりで、徒歩の時に近道として使ってる道に、そんな空き地があることを思い出した。「たぶん、そこだな」と鈴が言葉を続ける。
「それで今日そこを通った時に、『まぁー』っていう変な声を聞いたんだ。雨の音でよくわかりにくかったけど、人気がなかったから、何とか聞こえた」
 一度だけ聞くことの出来た、あの不思議な鳴き声を思い出す。鈴はホットミルクを口に運び、一つ間をとった。
「……理樹。火って、怖いと思うか?」
「それは、まあ、うん」
「ならな、やっぱり、まぁくんも怖かったと思うんだ。くちゃくちゃに。それに……あんなことした人間のことなんて、なおさら、こわい」
 噛まれたって、仕方ない。左の手のひらを見つめながら、ぽつりと零す。
「鈴、どういうこと?」
 鈴もあまり思い出したくないのか、説明は簡潔で、あまり詳しくはされなかった。まず、まぁくんは段ボールなどに捨てられていたわけではなく、長く大きな筒のような物を立てて置いた中に捨てられていたということ。まぁくんが小さいせいもあるが、その中からはどんなにあがいても出られそうになかったらしい。
 更に、鈴がこれ以上ないほど眉を顰め、「最悪だ」と言い放ったのは、そのまぁくんの下に敷かれていた物と、転がっていた物のことだった。
 敷かれていた物は、ティッシュや落ち葉、新聞紙など、とにかく燃えやすい物。そしてその脇に落ちていたのは、周りをほんの少し焦がした形跡のあるライターだった。
「ここんとこ、雨降ってただろ? あれがきっと、タイミングよく降ったんだ」
 もし雨が降っていなかったらなんて、とてもじゃないけれど想像することは出来なかった。意識したせいか、降り続けている雨の音を一層強く感じる。
「……理樹、ちょっと変なこと言っていいか」
「だめだ、とは言わないよ」
 訊いておきながら鈴は迷っているのか、しばらく無言を貫いた。こつこつこつこつとしつこいくらいに音が響き渡り、窓が雨に叩かれていた。
「雨でな」と慎重に、鈴は言った。「まぁくんは助かっただろ?」
「そう、なんだろうね」
「もし、な」
「もし?」
「もし、あの時雨が降ってたら……みんな、まぁくんみたいに助かってたと思うか?」
 鈴の視線は言ったきり下を向いてしまい、返事を切り出すタイミングが見つからなかった。第一、返す答え自体、僕には見つかりそうもない。
 ――突然降り始める強い雨が、バスから立ち上る火の手を片っ端から消していく様を想像したのは、ほんの、一瞬。思い描いたのは強い雨なのに、一切の雨音は聞こえなかった。というか雨音ってそもそもなんなのだろう。雨そのものの音なのか、それとも雨が地面に当たる音なのか。僕は、雨を知ってるんだろうか。
 何にしても、そんなことはどうでもいいのかもしれない。少なくとも、僕の想像の中でも、記憶の中でも、そんな雨音が聞こえることは決して、ないのだから。
 数分固まったままでいた鈴が、ホットミルクに手を伸ばして「冷たい」と言ったのに続いて、僕もすっかり失念していたホットミルクに口をつける。鈴の言う通りもう冷たくなってしまっていて、「冷たい」と、僕も同じ言葉を繰り返す。
 すまん。忘れてくれ。
 また下を向いたまま消え入りそうな声で鈴は呟き、僕が相変わらず雨の音が止まない部屋の片隅で後ろから鈴を抱きしめると、染みこんだ雨のにおいがいっぱいに広がっていった。


[No.188] 2008/03/14(Fri) 21:49:19
騒がし乙女の憂愁 (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ

 三時間目の授業が終わった休み時間、理樹くん達の教室前の廊下でふとそうしたくなって、私は携帯をカシャンと開いた。
 スライド式はこう、近未来チックな感じが好きで、前のが駄目になって買い替えてからは絶賛愛用中。時々無意味にスライドさせまくって遊ぶんだけど、途中で何やってるんだろうって虚しくなる……とそんなことはどうでもよくて。
 ポケットから携帯専用のイヤホンを取り出し端子に差し込み、メニューからミュージックプレイヤーを選択、その中の一曲を再生する。耳に入れた小さなスピーカーを通して聴こえてくるのは、あからさまに音程が外れた珍妙なメロディ。以前自分で作った曲だけど、我ながら無茶苦茶な出来だと思う。でも、あーだこーだと音の並びを考えてる時はすごく楽しかった。

「久しぶりにまた作ろっかなー……」
「ふむ。葉留佳君にそんな趣味があったとは」

 一人ぼやいていると、いきなり横から伸びてきた手が片耳のイヤホンを掻っ攫っていった。
 聞き慣れた声と独特の口調が、気配もなく隣に現れた相手の正体を雄弁に語っている。けれども、隣にいるのが誰かわかったからといって、驚かないわけじゃない。本当に不意打ちだったこともあり、私はびくんと背筋を跳ねさせて驚いた。

「わひゃっ! あ、姉御、心臓に悪いっスよ……」
「それはすまない。しかし、キミがわざわざ足を止めて何を聴いているのか気になってな」
「別に、そんな面白いものじゃないですよ?」

 ちょっぴり本音で呟くと、姉御は小さく首を左右に振る。

「いや、なかなか面白いぞ。なるほど、葉留佳君はこういう曲が作れるのか」
「……あれ? これが自作だって、私姉御に言いましたっけ」
「言ってないが」
「……どうしてわかったんで?」
「勘と、あとは情報から推察してだ。何、そう難しいことでもないさ」

 姉御以外はできない芸当じゃないかなー、という言葉は抑えておいた。
 そういうことを嫌味なく言える姉御が私は好き。同い年なのに頼れるお姉さんみたいに思えるのは、きっとそんなところがあるからなんだろう。傲慢とかじゃなくて、当然のように『難しいこと』をやってのける強さが。
 三分もない短めの曲が終わると、姉御はイヤホンを外して私に返した。片手でプレイヤーを停止させながら受け取り、くるっと丸めてポケットに仕舞う。一瞬視界に過った小さな画面に描かれたデジタル時計は、休み時間が残り僅かなことを示していた。
 雑談するには、ちょっと厳しい。四時間目のあっちの授業は数学じゃないから、たぶん教室に戻るはず。お昼になるといつも姉御はどこかに消えちゃうし、次に顔を合わせるのはきっと放課後だ。
 そう考えて、私はなるべく颯爽と去ってみることにした。

「ではでは姉御、私は教室に戻るので、また放課後にお会いしましょー」
「まあ待て」

 しゅたっ、と片手を上げて振り返った瞬間、前触れなく首根っこを掴まれて息が詰まる。これじゃ颯爽も何もあったもんじゃない。軽く咳き込む私を尻目に、そこで姉御はさらっと言った。

「葉留佳君。昼休み、少し私に付き合わないか?」





 如何にも重そうな鉄製のドア。その上にほとんどおまけみたいな感じで『放送室』と書かれている部屋の前で姉御が立ち止まった時、私は正直ちょっぴり困惑していた。そりゃあ学校なんだから放送室だってあるだろうけど、今まで先生の呼び出しとか以外で使われてるのをどうも聞いた覚えがない。だいたいここに来るまでには職員室を通り過ぎなきゃいけないわけで、風紀委員のみならず先生にも苦手意識がある私としては、こんな場所に近寄りたいとも思わないのだった。
 ……というか、どーして姉御は鍵を持ってるんでしょーか。
 あんまりにも自然に入ったから違和感なかったデスよ?
 そういった意味の質問をしたら、

「私は放送委員長だからな。別におかしいところはないだろう」

 と返ってきてはるちんますます混乱。今明かされる姉御の秘密の数々……! なんて煽りがぴったりかどうかはともかく、毎日のようにお昼になると姉御が姿を消す理由が判明して、納得すると同時にまた新たな疑問が湧いて出る。

「……そういや、姉御はどうして私を連れてこようと?」
「簡単に言えば、勝手にキミの曲を聴いたことに対する、お詫びとお礼のようなものだよ」

 いまいち要領を得ない説明に首を傾げると、応える代わりに姉御はドアを開けて中に入った。私も足を踏み入れる。
 室内には一目見ただけじゃどう使うのかよくわからない複雑そうな機材が机の上に並んでいて、その向かいにビデオのテープとかカセットとか、資料っぽいものがずらりと詰められた棚が鎮座していた。壁は音楽室と同じ、小さい穴だらけで白一色。仕切りみたいなところを挟んで、部屋の奥に窓がある。今はカーテンが閉められてるから薄暗くて、外の陽射しも入ってこない。棚の並び、左側には、埃除けの布に覆われた黒くて大きな何かがどんと置かれている。
 姉御はまず、カーテンを両手で開いた。さーっとレールを滑る音が鳴り、電気を点けていない室内が多少明るくなる。次に棚からCDを取り出してデッキに入れ、手際良く機材を弄り始めた。淀みない動きであっという間に準備を終えると、スピーカーから音楽が流れ出す。聴き心地のいい、クラシック。
 そこまで終えて、二つある椅子のうち一つを勧められ、私は座った。姉御も腰を下ろす。

「はー……なるほど、姉御っていっつもこんなことやってたんですね」
「うむ。厳密に言うと、これは委員の仕事の範疇ではないのだがな」
「へ? そうなんスか?」
「この歳になって昼の放送に聴き入る者など、そうはいないだろう? 実際葉留佳君も今まで存在を知らなかったようだし、アンケートを取ったことはないが、おそらく調べれば大半の生徒が認知していない、という結果が出ると思うぞ」
「姉御はそれでいいんですか? 折角やってるんだから聴いてもらいたいとか、そういうのは」
「特にないな。仕事ではなく趣味のようなものだ。ある意味これは、他人に聴かせるための放送ではないのだよ」

 何となーく他に隠してることがあるんじゃないかとはるちんレーダーが告げていたけど、追及してもはぐらかされるだけなのは目に見えているので疑問は口にしない。
 ミステリアスなお方相手に安易な詮索は死を招くのだ、ってどっかの誰かが言ってた。

「……葉留佳君、ちょっと曲紹介をしてみる気はないか」
「なんですとー!? 私にそんな大役を!?」
「このテンプレートに従って、該当部分を読み上げてくれればいい。今流しているのはこれだ」

 で、結局会話の糸口をなくして落ち着かなくなっていたら、唐突にテンプレートの紙を渡され、ついでにマイクの使い方も教えられた。さっきデッキに突っ込まれたCDのケース、その裏面の曲目を姉御のたおやかな指が示す。
 私は顔を近付けて、一瞬自分の目を疑った。

「あのー……姉御?」
「どうした? 気になることでもあったか?」
「曲のタイトル、これって本当に実在してるものだったりします? 実は姉御がでっち上げたりとか」
「正真正銘、実在する曲だ。CDもちゃんと正規のルートで販売されているぞ」
「うわ、マジっスか」

 クラシックというと、私は堅苦しいイメージを思い浮かべてしまう。あと眠くなるイメージ。題名も妙に厳めしいのが多くて、ぶっちゃけそんな好きじゃない。だから、はるちん的にこれはちょっとしたショックだった。
 とりあえずテンプレートを置いてマイクの前に移動し、ボタンをぽちっと押す。
 それからもう一度タイトルを確認して、

「えーと、ただいまお送りしている曲は、モーツァルト作曲『男たちはいつでもつまみ食いしたがる』です」

 実に間抜けな曲名を大真面目に言い放ち、マイクを切ったところで私は込み上げてくる笑いを抑えられなくなった。いったいモーツァルトさんは何を考えて面白過ぎる名前をこの曲に付けたのか、それを想像するだけで可笑しい。他にもそのCDには奇抜なタイトルがずらりと並んでいて、わざわざそういうのを狙ってチョイスする辺り、とても姉御らしいと思った。
 散々爆笑した私の反応に満足したのか、楽しんでもらえたようで何よりだ、と姉御は漏らした。

「さて、一段落ついたところで昼食を済ませよう」
「姉御はお弁当?」
「購買でも構わんのだが、足を運ぶ手間を考えるとこちらの方が楽でね。そういうキミはパンか」
「いやー、人の群れを掻き分けて買うのは結構楽しくて」
「フフ、葉留佳君らしい理由だな」

 五分くらいで食べ終わり、途中次の曲に変えたりしながら雑談。
 こまりんは具体的にどれくらい無防備なのかという議題から始まり、理樹くんの女装のさせ方で論争し、何故かそこからクド公はひんぬーのままでいるべきだ、って話に飛んで、それも収束すると、私は視界の奥にある、布が被さったあの黒い机みたいなものが気になって仕方なくなった。
 こっちの視線に気付き、姉御も後ろを向く。そこにある例の何かを一瞥し、

「……キミはあれが気になるのか?」
「どっかで見たことあるような気がするんだけど、こう、出そうで出なくてもどかしいのです」

 魚の骨が喉に刺さって抜けない感じ。
 もどかしさにうんうん唸っていると、すっと姉御が立ち上がってそれの前まで行った。
 おもむろに布を取り去る。微妙に隠されていた輪郭が露わになって、ようやくつかえが取れた気がした。

「ああっ! そうだ、電子ピアノ!」
「……本当に今更気付いたのか。割とどこででも見ると思うんだが」
「そりゃあほら、ド忘れってやつですよ姉御。ふう、はるちんすっきり」

 謎は全て解けたー! といい気分で姉御を眺めていたら、ピアノの電源を入れて突然椅子に座ったのでどうしたのかと思う。両手の指が蓋をそっと持ち上げて、中の鍵盤に触れた。

「まだお詫びとお礼を済ませてなかったな。まあ、即興曲だが、キミにプレゼントしよう」

 ――演奏が、始まった。
 私はピアノを弾けないけど、それでもわかる。右手と左手がまるで別々の生き物みたいに動き跳ねて奏でる音は、どこか切なくて、寂しくて、悲しくて、だからこそ綺麗だった。平坦な曲調ながらも手付きには迷いがなく、本当に即興かと疑いたくなるほど完成度が高い。
 ……はっきり言えば、たかだか一趣味として曲を作ってる私なんかとは比べ物にならないくらいすごかった。
 ちょっと、コンプレックスを覚える。姉御は「何でもできる」人なんだ、と改めて実感して。
 胸が、ちくりと痛んだ。

「葉留佳君。……葉留佳君?」
「……あ」

 顔を上げると、いつの間にか、姉御が私の目の前まで来ていた。

「すいやせん、ちょいとぼんやりしてました。やはは」
「そうか。……ならいい。少し、浮かない表情をしていたように思えたのでな」
「んなことないですって、もう心配性だなー姉御は。この通り、はるちんはいつも通りの元気っ子ですヨ」
「うむ。すまない、私の思い過ごしだったようだ」

 自分でもあからさまな誤魔化しなのは理解してて、けれど姉御は聡いから私の気持ちを汲んでくれた。
 そのことに安心するも、一度おかしくなった空気までは戻らない。どうにも居心地が悪くて、どうしようこれはちょっと早いけど放送室を出た方がいいのかなと考え始めた時、小さく姉御は呟いた。

「……キミに聴かせてもらった曲だが」
「え、あ、はい」
「何という曲名なんだ?」
「えっと……『タナー家の騒がしくも素晴らしい日々』っていうんですけど」
「ほう。アルフか」
「おおっ、姉御知ってるんスか?」
「向こうにいた頃見ていたからな。あれは名作だ」
「ゴードン・シャムウェイは私が尊敬する人物なのですヨ……って、向こう?」
「それに関してはまた次の機会にしよう。で、だ。葉留佳君、ちょっと話がある」
「何ですか姉御、唐突に改まって」
「キミのその曲を、放送で流してみるのはどうだろう」
「……は?」

 はるちん思わず絶句。
 普段から姉御はとんでもないことを言ったりしたりするけれど、今回のはいつにも増して強烈だ。
 ――いやだって、自作のあんな曲を全校生徒に向けてオープンするなんて恥さらし以外の何物でもないわけで。
 その旨を婉曲的に伝えたところ、

「無理には勧めんさ。もしよければ、程度で構わない」

 あっさりと言われ、かえって私は戸惑った。
 別に、誰かに聴かせようと思って作った曲じゃない。音楽の知識はほとんどないし、きっと姉御みたいに即興で曲が紡げるような人からすれば、技術もへったくれもない無茶苦茶なものにしか見えないんだろう。
 調子外れな音色。それは、もしかしたらある意味、私そのもので――。
 またも気持ちが沈んでもう普段のはるちんはどこ行ったって感じの私を前に、何とはなしにポケットから取り出していたマイ携帯を姉御はひょいと抜き取り、マイクの前に優しく置いた。

「先ほど、この放送は他人に聴かせるためのものではない、と言ったのを覚えているか?」
「……そんなすぐに忘れるほどボケてないっスよ、私」
「知っているよ。……だが、例え私がそうであったとしても、キミまで同じようにする必要はない。確かに葉留佳君の曲は色々な意味で無茶苦茶だが、聴いていて実に楽しかった。私には決して真似できない、キミだけが作れるものだ」
「………………」
「それに――想像してみるといい。耳触りの良い無難なクラシックばかりを流している中、突然調子外れなその曲が聴こえてきたら、皆はどう思うかね。……こんな時、いつもの葉留佳君なら間違いなくこう言うだろう」
「わっ、ちょっと待って姉御っ! ストップ! そこまで言わなくてもダイジョーブですって!」
「そうか」

 上手い具合に踊らされてるなぁ、と思うけど、いつの間にかネガティブモードなはるちんはどこかに消えてしまってて、もやもやした気持ちとかが晴れているのを感じる。我ながら実に簡単だ。でも、すぐ元気を取り戻せるのが私の強み。
 調子外れで無茶苦茶で、いつでも賑やかで楽しい騒ぎを求める自称乙女こそこの私、三枝葉留佳。人が定めし決まり事、常識や予定調和を、真正面から堂々とぶち壊すことの面白さは、如何なる時でも忘れないのである!

「ちょっぴり鬱っておりましたが、不肖はるちん復活致しました! ということで姉御、私の答えはイエスですヨ!」
「ふむ。では葉留佳君、準備をするといい。携帯に繋げられる端子はないから、マイクを通して流すことになるが」
「元々携帯用に作ったんで問題ないと言いますか、むしろそっちの方が余計変に聴こえて楽しそうですネ」
「なるほど、一理あるな」

 もし、私が教室で何も知らずこの放送を耳にしていたら。
 突然流れ出す珍妙なメロディに、腹を抱えて笑い転げるかもしれない。
 理樹君達なら予想通り、しっかり驚いてくれるだろう。その姿を脳裏に思い浮かべるだけでもわくわくする。
 誰のためにもならないような、変で役立たずなこの曲だけど、少なくとも私と姉御が楽しめるものにはなるのだ。
 ……そう考えたらもう、後でみんなの反応を聞いて回るのが待ち遠しくてたまらなくなった。

「ああ、ちなみに、キミの曲で時間的には最後だな」
「なにーっ!? それはますます燃えるシチュエーションだーっ!」
「……葉留佳君がヒートアップしても意味はないだろう」
「姉御、こういうのはその場のノリですヨ。とりあえずウヒャーとか騒いどけば気分はバッチリ最高潮に!」
「キミ一人でやるといい。私はそういうキャラじゃないからな」
「つれないっスよ姉御〜」
「ほら、時間がなくなるぞ」
「へーい。……っと、気を取り直して、それじゃあスイッチオンっ! ポチっとな」

 響き始める私の曲。携帯から聴こえるのと、室内に取り付けられたスピーカーから聴こえるのが重なって、しかもそれが微妙にズレてるものだから、ただでさえ変な曲調がさらにとんでもなく思える。
 何とも私らしい決まらない感じで、最高に可笑しかったけど、マイクが繋がってる以上あまり大きな声を上げるわけにもいかず、必死に口を押さえながら、それでも私は肩を震わせていた。
 三時間目の授業が終わった休み時間、理樹君達の教室前の廊下でふとそうしたくなって、私は携帯をカシャンと開いた。
 スライド式はこう、近未来チックな感じが好きで、前のが駄目になって買い替えてからは絶賛愛用中。時々無意味にスライドさせまくって遊ぶんだけど、途中で何やってるんだろうって虚しくなる……とそんなことはどうでもよくて。
 ポケットから携帯専用のイヤホンを取り出し端子に差し込み、メニューからミュージックプレイヤーを選択、その中の一曲を再生する。耳に入れた小さなスピーカーを通して聴こえてくるのは、あからさまに音程が外れた珍妙なメロディ。以前自分で作った曲だけど、我ながら無茶苦茶な出来だと思う。でも、あーだこーだと音の並びを考えてる時はすごく楽しかった。

「久しぶりにまた作ろっかなー……」
「ふむ。葉留佳君にそんな趣味があったとは」

 一人ぼやいていると、いきなり横から伸びてきた手が片耳のイヤホンを掻っ攫っていった。
 聞き慣れた声と独特の口調が、気配もなく隣に現れた相手の正体を雄弁に語っている。けれども、隣にいるのが誰かわかったからといって、驚かないわけじゃない。本当に不意打ちだったこともあり、私はびくんと背筋を跳ねさせて驚いた。

「わひゃっ! あ、姉御、心臓に悪いっスよ……」
「それはすまない。しかし、キミがわざわざ足を止めて何を聴いているのか気になってな」
「別に、そんな面白いものじゃないですよ?」

 ちょっぴり本音で呟くと、姉御は小さく首を左右に振る。

「いや、なかなか面白いぞ。なるほど、葉留佳君はこういう曲が作れるのか」
「……あれ? これが自作だって、私姉御に言いましたっけ」
「言ってないが」
「……どうしてわかったんで?」
「勘と、あとは情報から推察してだ。何、そう難しいことでもないさ」

 姉御以外はできない芸当じゃないかなー、という言葉は抑えておいた。
 そういうことを嫌味なく言える姉御が私は好き。同い年なのに頼れるお姉さんみたいに思えるのは、きっとそんなところがあるからなんだろう。傲慢とかじゃなくて、当然のように『難しいこと』をやってのける強さが。
 三分もない短めの曲が終わると、姉御はイヤホンを外して私に返した。片手でプレイヤーを停止させながら受け取り、くるっと丸めてポケットに仕舞う。一瞬視界に過った小さな画面に描かれたデジタル時計は、休み時間が残り僅かなことを示していた。
 雑談するには、ちょっと厳しい。四時間目のあっちの授業は数学じゃないから、たぶん教室に戻るはず。お昼になるといつも姉御はどこかに消えちゃうし、次に顔を合わせるのはきっと放課後だ。
 そう考えて、私はなるべく颯爽と去ってみることにした。

「ではでは姉御、私は教室に戻るので、また放課後にお会いしましょー」
「まあ待て」

 しゅたっ、と片手を上げて振り返った瞬間、前触れなく首根っこを掴まれて息が詰まる。これじゃ颯爽も何もあったもんじゃない。軽く咳き込む私を尻目に、そこで姉御はさらっと言った。

「葉留佳君。昼休み、少し私に付き合わないか?」





 如何にも重そうな鉄製のドア。その上にほとんどおまけみたいな感じで『放送室』と書かれている部屋の前で姉御が立ち止まった時、私は正直ちょっぴり困惑していた。そりゃあ学校なんだから放送室だってあるだろうけど、今まで先生の呼び出しとか以外で使われてるのをどうも聞いた覚えがない。だいたいここに来るまでには職員室を通り過ぎなきゃいけないわけで、風紀委員のみならず先生にも苦手意識がある私としては、こんな場所に近寄りたいとも思わないのだった。
 ……というか、どーして姉御は鍵を持ってるんでしょーか。
 あんまりにも自然に入ったから違和感なかったデスよ?
 そういった意味の質問をしたら、

「私は放送委員長だからな。別におかしいところはないだろう」

 と返ってきてはるちんますます混乱。今明かされる姉御の秘密の数々……! なんて煽りがぴったりかどうかはともかく、毎日のようにお昼になると姉御が姿を消す理由が判明して、納得すると同時にまた新たな疑問が湧いて出る。

「……そういや、姉御はどうして私を連れてこようと?」
「簡単に言えば、勝手にキミの曲を聴いたことに対する、お詫びとお礼のようなものだよ」

 いまいち要領を得ない説明に首を傾げると、応える代わりに姉御はドアを開けて中に入った。私も足を踏み入れる。
 室内には一目見ただけじゃどう使うのかよくわからない複雑そうな機材が机の上に並んでいて、その向かいにビデオのテープとかカセットとか、資料っぽいものがずらりと詰められた棚が鎮座していた。壁は音楽室と同じ、小さい穴だらけで白一色。仕切りみたいなところを挟んで、部屋の奥に窓がある。今はカーテンが閉められてるから薄暗くて、外の陽射しも入ってこない。棚の並び、左側には、埃除けの布に覆われた黒くて大きな何かがどんと置かれている。
 姉御はまず、カーテンを両手で開いた。さーっとレールを滑る音が鳴り、電気を点けていない室内が多少明るくなる。次に棚からCDを取り出してデッキに入れ、手際良く機材を弄り始めた。淀みない動きであっという間に準備を終えると、スピーカーから音楽が流れ出す。聴き心地のいい、クラシック。
 そこまで終えて、二つある椅子のうち一つを勧められ、私は座った。姉御も腰を下ろす。

「はー……なるほど、姉御っていっつもこんなことやってたんですね」
「うむ。厳密に言うと、これは委員の仕事の範疇ではないのだがな」
「へ? そうなんスか?」
「この歳になって昼の放送に聴き入る者など、そうはいないだろう? 実際葉留佳君も今まで存在を知らなかったようだし、アンケートを取ったことはないが、おそらく調べれば大半の生徒が認知していない、という結果が出ると思うぞ」
「姉御はそれでいいんですか? 折角やってるんだから聴いてもらいたいとか、そういうのは」
「特にないな。仕事ではなく趣味のようなものだ。ある意味これは、他人に聴かせるための放送ではないのだよ」

 何となーく他に隠してることがあるんじゃないかとはるちんレーダーが告げていたけど、追及してもはぐらかされるだけなのは目に見えているので疑問は口にしない。
 ミステリアスなお方相手に安易な詮索は死を招くのだ、ってどっかの誰かが言ってた。

「……葉留佳君、ちょっと曲紹介をしてみる気はないか」
「なんですとー!? 私にそんな大役を!?」
「このテンプレートに従って、該当部分を読み上げてくれればいい。今流しているのはこれだ」

 で、結局会話の糸口をなくして落ち着かなくなっていたら、唐突にテンプレートの紙を渡され、ついでにマイクの使い方も教えられた。さっきデッキに突っ込まれたCDのケース、その裏面の曲目を姉御のたおやかな指が示す。
 私は顔を近付けて、一瞬自分の目を疑った。

「あのー……姉御?」
「どうした? 気になることでもあったか?」
「曲のタイトル、これって本当に実在してるものだったりします? 実は姉御がでっち上げたりとか」
「正真正銘、実在する曲だ。CDもちゃんと正規のルートで販売されているぞ」
「うわ、マジっスか」

 クラシックというと、私は堅苦しいイメージを思い浮かべてしまう。あと眠くなるイメージ。題名も妙に厳めしいのが多くて、ぶっちゃけそんな好きじゃない。だから、はるちん的にこれはちょっとしたショックだった。
 とりあえずテンプレートを置いてマイクの前に移動し、ボタンをぽちっと押す。
 それからもう一度タイトルを確認して、

「えーと、ただいまお送りしている曲は、モーツァルト作曲『男たちはいつでもつまみ食いしたがる』です」

 実に間抜けな曲名を大真面目に言い放ち、マイクを切ったところで私は込み上げてくる笑いを抑えられなくなった。いったいモーツァルトさんは何を考えて面白過ぎる名前をこの曲に付けたのか、それを想像するだけで可笑しい。他にもそのCDには奇抜なタイトルがずらりと並んでいて、わざわざそういうのを狙ってチョイスする辺り、とても姉御らしいと思った。
 散々爆笑した私の反応に満足したのか、楽しんでもらえたようで何よりだ、と姉御は漏らした。

「さて、一段落ついたところで昼食を済ませよう」
「姉御はお弁当?」
「購買でも構わんのだが、足を運ぶ手間を考えるとこちらの方が楽でね。そういうキミはパンか」
「いやー、人の群れを掻き分けて買うのは結構楽しくて」
「フフ、葉留佳君らしい理由だな」

 五分くらいで食べ終わり、途中次の曲に変えたりしながら雑談。
 こまりんは具体的にどれくらい無防備なのかという議題から始まり、理樹くんの女装のさせ方で論争し、何故かそこからクド公はひんぬーのままでいるべきだ、って話に飛んで、それも収束すると、私は視界の奥にある、布が被さったあの黒い机みたいなものが気になって仕方なくなった。
 こっちの視線に気付き、姉御も後ろを向く。そこにある例の何かを一瞥し、

「……キミはあれが気になるのか?」
「どっかで見たことあるような気がするんだけど、こう、出そうで出なくてもどかしいのです」

 魚の骨が喉に刺さって抜けない感じ。
 もどかしさにうんうん唸っていると、すっと姉御が立ち上がってそれの前まで行った。
 おもむろに布を取り去る。微妙に隠されていた輪郭が露わになって、ようやくつかえが取れた気がした。

「ああっ! そうだ、電子ピアノ!」
「……本当に今更気付いたのか。割とどこででも見ると思うんだが」
「そりゃあほら、ド忘れってやつですよ姉御。ふう、はるちんすっきり」

 謎は全て解けたー! といい気分で姉御を眺めていたら、ピアノの電源を入れて突然椅子に座ったのでどうしたのかと思う。両手の指が蓋をそっと持ち上げて、中の鍵盤に触れた。

「まだお詫びとお礼を済ませてなかったな。まあ、即興曲だが、キミにプレゼントしよう」

 ――演奏が、始まった。
 私はピアノを弾けないけど、それでもわかる。右手と左手がまるで別々の生き物みたいに動き跳ねて奏でる音は、どこか切なくて、寂しくて、悲しくて、だからこそ綺麗だった。平坦な曲調ながらも手付きには迷いがなく、本当に即興かと疑いたくなるほど完成度が高い。
 ……はっきり言えば、たかだか一趣味として曲を作ってる私なんかとは比べ物にならないくらいすごかった。
 ちょっと、コンプレックスを覚える。姉御は「何でもできる」人なんだ、と改めて実感して。
 胸が、ちくりと痛んだ。

「葉留佳君。……葉留佳君?」
「……あ」

 顔を上げると、いつの間にか、姉御が私の目の前まで来ていた。

「すいやせん、ちょいとぼんやりしてました。やはは」
「そうか。……ならいい。少し、浮かない表情をしていたように思えたのでな」
「んなことないですって、もう心配性だなー姉御は。この通り、はるちんはいつも通りの元気っ子ですヨ」
「うむ。すまない、私の思い過ごしだったようだ」

 自分でもあからさまな誤魔化しなのは理解してて、けれど姉御は聡いから私の気持ちを汲んでくれた。
 そのことに安心するも、一度おかしくなった空気までは戻らない。どうにも居心地が悪くて、どうしようこれはちょっと早いけど放送室を出た方がいいのかなと考え始めた時、小さく姉御は呟いた。

「……キミに聴かせてもらった曲だが」
「え、あ、はい」
「何という曲名なんだ?」
「えっと……『タナー家の騒がしくも素晴らしい日々』っていうんですけど」
「ほう。アルフか」
「おおっ、姉御知ってるんスか?」
「向こうにいた頃見ていたからな。あれは名作だ」
「ゴードン・シャムウェイは私が尊敬する人物なのですヨ……って、向こう?」
「それに関してはまた次の機会にしよう。で、だ。葉留佳君、ちょっと話がある」
「何ですか姉御、唐突に改まって」
「キミのその曲を、放送で流してみるのはどうだろう」
「……は?」

 はるちん思わず絶句。
 普段から姉御はとんでもないことを言ったりしたりするけれど、今回のはいつにも増して強烈だ。
 ――いやだって、自作のあんな曲を全校生徒に向けてオープンするなんて恥さらし以外の何物でもないわけで。
 その旨を婉曲的に伝えたところ、

「無理には勧めんさ。もしよければ、程度で構わない」

 あっさりと言われ、かえって私は戸惑った。
 別に、誰かに聴かせようと思って作った曲じゃない。音楽の知識はほとんどないし、きっと姉御みたいに即興で曲が紡げるような人からすれば、技術もへったくれもない無茶苦茶なものにしか見えないんだろう。
 調子外れな音色。それは、もしかしたらある意味、私そのもので――。
 またも気持ちが沈んでもう普段のはるちんはどこ行ったって感じの私を前に、何とはなしにポケットから取り出していたマイ携帯を姉御はひょいと抜き取り、マイクの前に優しく置いた。

「先ほど、この放送は他人に聴かせるためのものではない、と言ったのを覚えているか?」
「……そんなすぐに忘れるほどボケてないっスよ、私」
「知っているよ。……だが、例え私がそうであったとしても、キミまで同じようにする必要はない。確かに葉留佳君の曲は色々な意味で無茶苦茶だが、聴いていて実に楽しかった。私には決して真似できない、キミだけが作れるものだ」
「………………」
「それに――想像してみるといい。耳触りの良い無難なクラシックばかりを流している中、突然調子外れなその曲が聴こえてきたら、皆はどう思うかね。……こんな時、いつもの葉留佳君なら間違いなくこう言うだろう」
「わっ、ちょっと待って姉御っ! ストップ! そこまで言わなくてもダイジョーブですって!」
「そうか」

 上手い具合に踊らされてるなぁ、と思うけど、いつの間にかネガティブモードなはるちんはどこかに消えてしまってて、もやもやした気持ちとかが晴れているのを感じる。我ながら実に簡単だ。でも、すぐ元気を取り戻せるのが私の強み。
 調子外れで無茶苦茶で、いつでも賑やかで楽しい騒ぎを求める自称乙女こそこの私、三枝葉留佳。人が定めし決まり事、常識や予定調和を、真正面から堂々とぶち壊すことの面白さは、如何なる時でも忘れないのである!

「ちょっぴり鬱っておりましたが、不肖はるちん復活致しました! ということで姉御、私の答えはイエスですヨ!」
「ふむ。では葉留佳君、準備をするといい。携帯に繋げられる端子はないから、マイクを通して流すことになるが」
「元々携帯用に作ったんで問題ないと言いますか、むしろそっちの方が余計変に聴こえて楽しそうですネ」
「なるほど、一理あるな」

 もし、私が教室で何も知らずこの放送を耳にしていたら。
 突然流れ出す珍妙なメロディに、腹を抱えて笑い転げるかもしれない。
 理樹くん達なら予想通り、しっかり驚いてくれるだろう。その姿を脳裏に思い浮かべるだけでもわくわくする。
 誰のためにもならないような、変で役立たずなこの曲だけど、少なくとも私と姉御が楽しめるものにはなるのだ。
 ……そう考えたらもう、後でみんなの反応を聞いて回るのが待ち遠しくてたまらなくなった。

「ああ、ちなみに、キミの曲で時間的には最後だな」
「なにーっ!? それはますます燃えるシチュエーションだーっ!」
「葉留佳君がヒートアップしても意味はないだろう」
「姉御、こういうのはその場のノリですヨ。とりあえずウヒャーとか騒いどけば気分はバッチリ最高潮に!」
「キミ一人でやるといい。私はそういうキャラじゃないからな」
「つれないっスよ姉御〜」
「ほら、時間がなくなるぞ」
「へーい。……っと、気を取り直して、それじゃあスイッチオンっ! ポチっとな」

 響き始める私の曲。携帯から聴こえるのと、室内に取り付けられたスピーカーから聴こえるのが重なって、しかもそれが微妙にズレてるものだから、ただでさえ変な曲調がさらにとんでもなく思える。
 何とも私らしい決まらない感じで、最高に可笑しかったけど、マイクが繋がってる以上声を上げるわけにもいかず、必死に口を押さえながら、それでも私は肩を震わせていた。
 と、マイクから距離を取って姉御が不意に囁く。

「葉留佳君」
「はい?」
「やはりキミはそうやって楽しそうにしている方が似合うな」
「……姉御、それって告白にしか聞こえないですよ」
「なら受け入れてくれるのか?」
「いやー……さすがに遠慮願いたいなー、と」
「その気になったらいつでも言ってくれ。おねーさんは大歓迎だぞ」

 茶化しつつも、何故か姉御は複雑な表情を浮かべた。
 哀しそうな、嬉しそうな、よくわからない顔。

「……キミを羨むのは、門違いかもしれないな」
「へ?」
「何でもない。ほら、曲が終わるぞ」

 リピートを掛けてないプレイヤーは、演奏時間を終えてぴたりと止まる。
 そのタイミングに合わせ、スイッチが入ったままのマイクに寄り、私は小さく息を吸い、言った。
 誰かが聴いて、何かを思ってくれたかもしれない、そんな自分の曲の名前を。

 騒がしくも素晴らしい日々。
 私はいつも、そういうものがずっと続くことを、求めてる。


[No.189] 2008/03/14(Fri) 21:50:34
ヒット (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ

 ピッチャーがグラブを構えると、それに合わせるようにバッターの身体に自然と力がこもる。細かな身体の動きも見逃さず、相手がどんなボールを投げてくるのか見極めようとする。
 ピッチャーが振りかぶった。爆発的なエネルギーをボールに伝え、放たれたボールは一瞬でキャッチャーのミットに吸い込まれていく。バッターはコースを予測し、バットを振りぬくことでそれを阻止しようとする。マウンドからの距離が野球よりも短いソフトボールの場合、ボールを投げられてからでは遅い。
 笹瀬川佐々美は四番バッターである。決してそれは譲られたものではなく、自らの力で掴み取ったものだと思っている。また、それだけの努力もしてきたつもりだ。何万回と繰り返された行為に自然と身体が反応する。だから今日も、バットに乗せたボールを遠くへ飛ばすことができる。
 しかし、そうはならなかった。
「くっ」
 衝撃に腕がしびれる。思った以上にバットの内側に食い込んだボールは、快音を響かせることなく、ファールゾーンへ転がっていった。



ヒット



「先輩、大丈夫ですか?」
 顔をしかめた佐々美の周りに入部したての後輩が集まってくる。
「ええ、心配ありませんわ。ほんの少し振り遅れただけですから」
 そう言って、心配そうに集まろうとする後輩たちを制すると、腕の調子を確かめるように何度かバットを振ってみた。腕に残っていた痺れも取れたことを確認すると、ゆっくりとマウンドに向かう。それを見た後輩が慌てて佐々美のグラブを持ってくる。
「いい球でしたわ」
「そ、そうですか?」
 まさかそんな言葉をかけられるとは思わなかったのだろう、佐々美に言われた方は困惑げな表情を浮かべてしまう。笑顔を繕っている佐々美に怯えているようにも思えたが、佐々美は気にせずに足元の土をならし始めた。
「わたくしもうかうかとしていられませんわね」
 ボールを半ば強引に受け取ると、キャッチャーに合図をし、佐々美は投球練習を繰り返した。パァンとミットにボールが収まるたびに小気味のよい音を立てて辺りに反響する。
「速いですわ」
「さすがですっ」
 先ほどのことを忘れたようにすぐに飛び交う黄色い声。しかしそれでも佐々美は満足できないのか、息を弾ませながらも投げ続ける。
「む……」
 一息ついて、どこか不満げにグローブの中でボールを遊ばせる。どこかしっくりとしない手の感触。周りには気づかない違和感。集中しきれない自分の未熟さに腹が立つ。そんな空気を周りは感じ取ったのか、やがて佐々美に声をかけるものはいなくなった。
「はあっ、ありがとうございますわ」
 納得のいかないまま結局諦めた佐々美は、ボールを受け続けた仲間に礼を言うとグラウンドの隅でバットを振り始める。その横をダッシュを始めた部員が通り過ぎていくが、彼女には何の影響も与えない。
 何がいけなかったのか、先ほどのボールの軌道を思い返しながら振り抜く。想像の中ではボールは高く上がり、外野の頭を越していく。
「なぜですの……?」
もう一度振り抜く。そして何度も何度も。佐々美はその日の練習が終わるまで同じことを繰り返した。



「ふう」
 練習後に部活のメンバーと分かれると懐いてくる後輩たちを制し、ひとりで休める場所を求めた。すっきりとしない気分は大勢でいると却って滅入ってしまう。同じように部活を終え、帰宅する生徒を見るともなしに見送ると、佐々美はふらふらと歩き始めた。
 いつしか校舎裏にまでやってきていた。こんなところまで来てしまったと、壁に背中を寄りかからせて、群青色に染まった空を見上げる。どこか身体がきしむ、変なところに力が入ってしまったのだろうか。
 今までの自分なら打ち返していた。
「もちろん、あの日からですわね」
 棗鈴と勝負をし、敗れ去ったあの日の出来事。じっと手を見る。数え切れないほど素振りを繰り返し、ごつごつと硬くなった手のひら。この日までの努力が幻だったなんてことはない。しっかりとその手に証拠が残されている。
 それでも、ごっこ遊びに過ぎないと馬鹿にした相手に当てることすらできなかった。今までの努力をすべて否定されたような気持ちにさせられた。
 悔しい。才能には努力は勝てないのだろうか。迷いが自分自身をだめにしてしまっている。だから練習にも身が入らない。だけど弱みを見せることもできない。こんなことを相談できる相手がいないことを佐々美ははじめてつらいと思った。
「なぁー」
 気の抜けた声に、佐々美の思考が途切れた。
「は?」
 いつから現れたのか、黒い猫が焼却炉の隅からこちらの様子を窺っている。なんだかその猫に見覚えがあるような気がしていた。じっと見つめあうひとりと一匹。妙な空気が流れていく。よく分からない緊張感に佐々美が包まれていると、敵意のないのを見て取ったのか猫が尻尾を立てながら佐々美に近寄ってくる。その前足が汚れているように見え、佐々美はじっと目を凝らす。どうやら怪我をしているようだ、とそこで佐々美はようやく思い出した。
「あ、あの時の……」
「なぁ」
 動かない、いや動けない佐々美を恐れる様子もなく近づいてくると、靴に鼻を擦り付けてくる。甘える仕草は佐々美の興味を引くには十分だった。
「もしかしてお腹が空いているのかしら?」
 もっときちんと世話をしてあげなさいよと、心の中で呟く。とはいえ、あれだけの数が相手だ、面倒が見切れなくなっても仕方がない、鈴の姿を追っている佐々美にはある程度の事情が分かっていた。いや、偶然のことだ。その考えをすぐに否定する、素直になれない性格がよく現れていた。
 考えに耽る佐々美の足元で猫はしきりに身体を擦り付けている。まるでおねだりをしている姿に自然と笑みがこぼれた。
「わたくしの名前を知っているのかしら」
 今度は地面に背中をすりつけ始めた猫のお腹をつついてやる。反射的に身体を丸めて、その指に飛びかかる前足をさっとかわすと、佐々美は猫を踏まないように注意して足を踏み出した。
「でも、いくら『ささみ』だからといって、あなたに食べられるわけにはいきませんわよ」
 ちょっと待っていなさい、そういい残して、佐々美はどこかへと向かっていった。



「……あら、本当に待っているなんて」
 パックの牛乳を容器に注ぐと、猫の目の前に置いてやる。猫はチラッと佐々美を見上げると、目もくれずに容器に顔を突っ込んだ。
「少し温めてあげたほうがよろしいらしいですけど、これで我慢してくださるかしら?」
 すぐ側にしゃがみこむと指で耳をつついてみる。ピクリと耳は震わせるものの、相変わらず目の前の牛乳に夢中だ。
「野良猫は人に懐かないって聞きますけど、あなたは少し変わり者のようですわね」
 猫が牛乳に夢中になっている間に、もうひとつ用件を済ませてしまおうと、佐々美はポケットから包帯と消毒液を取り出した。
「まぁ、懐かれて悪い気はしませんけど」
 怪我をした前足を掴みあげると、しゅっとガーゼに消毒液を吹きかけ、それを当てる。さすがにそれは刺激が強すぎたか猫はびくっと身体を震わせて、抗議の視線を佐々美に向けた。
「ごめんなさいね……本当に悪かったわ」
 傷を覆うように包帯を巻いていく。牛乳から注意がそっちに向かったのか、猫は包帯の辺りをじっと眺めていた。
「わたくしではそれが精一杯ですわ。誰かに手伝ってもらえるとありがた……って何を考えているのっ」
 ぶんぶんと頭を振った。左右に髪が揺れて、パタパタと身体を叩く。それを獲物かなんかと思ったか、猫が伸び上がった。
「きゃっ、だから、ささみだからといって、あなたの食べ物ではありませんわっ」
 佐々美の剣幕に猫がしゅんとうなだれる。思わず吹き出してしまった。
「にゃっ」
 まるで伺いを立てるようにそろそろと前足を伸ばしてくる。佐々美が動かないのを見て取ったのか、猫は再び容器に顔を突っ込んだ。見れば喜びからか尻尾が揺れている。
「懐かない猫は身近にいますけど、あなたとは正反対ですわね……」
 人を必要以上に警戒し、常に毛を逆立てている野良猫のごとく振舞う知り合いの姿は、警戒する相手に好かれているのに寂しいと思う。
「人間は一人では生きていてはいけませんのに……あなた方と違って人は弱いですわよ」
 ふうっと息を吐いて、佐々美はしきりに猫の背中をさすっていた。指が黒い毛に沈み、一転して硬い骨の部分に触れる。しなやかに伸びる身体は十分に野生を感じられた。
「あの子が本当に猫でしたら、よかったのかもしれませんわね」
 彼女は幼い頃の風景しか信じられる物がないように振舞っている。鈴と名づけられた少女は金属のように硬い音を周囲に響かせている。それに対して佐々美自身でも声にならない複雑な感情を彼女に対して向けてしまうのだ。無意識に自分と似た匂いを感じ取っているのか、気にしないと思っていればいるほど気になってしまう。
「はっ?! な、何であいつのことを心配しなくてはいけませんのっ。もう、あなたの面倒を見てしまったのが悪いのですわ」
「にゃあ」
 それは違うと言いたげな猫の返事に、佐々美の気がそがれる。
「本当に変な猫ですわね。でもあなたと一緒にいるとなんだか気が休まる感じがする……ふうっ、このところのわたくしは少し考えすぎなのかしれませんわね」
「なぁ」
「あなたもそう思うの? もっと自然に振舞えばいいとおっしゃるの?」
 じっと猫を見つめる佐々美に、猫もじっと見つめ返す。佐々美が口にした言葉はかねてから佐々美の心の中に生まれていたもの。今度は猫は答えない。まるで答えは佐々美自身が見つけろとでも言うかのように。
 佐々美はすっと立ち上がった。いつしか空は紺色の幕が下り、足元の猫の姿さえ分からなくなっている。ふたつの瞳がきらきらと光り自分のことを見上げている。
 佐々美は手を左右に小さく振った。
「今日はもうおしまい。また会いましょう」
 その言葉にどんな気持ちが含まれていたのか、そこに存在している誰にも分かってはいない。それでも温かさは残った。
「ごきげんよう、あなたと話すことができて本当によかったわ。黒猫は不幸を呼ぶなんて嘘ですわね」
 砂を踏む音がゆっくりと遠ざかっていく。猫はずっとその後ろ姿を眺めていた。
「なあー」
 小さく一声鳴くと、猫もどこかへと消えていった。静けさと、猫が飲み干した皿だけが残される。それもゆっくりと闇に飲まれていくのであった。



 澄み切った空気に程よい気温、運動を楽しむには最適な季節。
「いきますよっ」
 マウンドからの声に、佐々美はグリップをぎゅっと握り締めた。今日はこのバットからどんな音が聞こえるのか、それは分からない。ただ思いっきり振り抜くだけだと初めから決めていた。だから佐々美はピッチャーが投げるモーションをあまり気にしないでいた。
 ブンと風を鋭く切り裂いて、バットが佐々美の身体の周りを回る。その後に遅れてボールがキャッチャーのミットに吸い込まれた。
「あら、どうかしたのかしら?」
 リアクションに困っているギャラリーの空気を感じ取り、佐々美は楽しげに笑った。すっきりとした自分に相応しい音が鳴りそうだ。そんな予感がして再び構え直した。
「今日もあの猫はいるかしら、ね」
 校舎裏に視線を向けて、久々に純粋に部活を楽しむことができることが心地よかった。だから当然、澄んだ音を響かせて、ボールは空へと吸い込まれていくのだ。
 それが笹瀬川佐々美なのだから。


[No.190] 2008/03/15(Sat) 00:05:15
それは呪いにも等しくあり (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ@マジカル☆遅刻



 逢魔ヶ刻。
 夕と夜の境界で揺れる陽が淡く照らす廊下を、理樹は歩いていた。
 理由は大したことではない。
 教室へ忘れ物を取りに行くためである。

 引き戸を開け、教室に入る。

「あ……」

 まず最初に目に入ったのは、自分の席に座り、腕を枕に寝入っている鈴だった。
 呼吸に合わせて肩が動き、長い髪が揺れる。穏やかな寝息が、静まった教室では心地よく聞こえた。
 一瞬、魅入る。
 僅かに開いた唇、閉じた目、綺麗な睫毛、沈み行く夕陽に照らされた艶やかな茶の髪。
 それらが、理樹の動きを止め、その視線を釘付けにさせた。
 忘れ物の事など、既に頭の中には無かった。
 普段意識しなかった鈴の可愛さが、可憐さが――ともすると、触れただけで壊れてしまいそうな儚さが、頭を埋め尽くす。

 聞こえる音は鈴の寝息だけ。
 外からの音はなく、理樹はその音を聞いていたいがために音を出さない。
 そうして、数十秒が過ぎただろうか。

 にゃう、とベランダから猫の鳴き声。

「……!」

 そこでやっと理樹は動き……そして、気付いた。
 鈴が枕にしている左腕。
 その手に握られているものに。
 そう言えば、と思う。
 小学校の頃は、今、鈴の小さな白い手に握られているものひとつで、騒がしくしていた連中も居たものだった。
 ふと、疑問。
 鈴は何故、それを握っているのかと言う。恐らく練習していたのだろう。
 だが、高校では中学までと違い、それを使う授業は無いはずだ。中学の頃のものを引っ張り出してきた、と言う事。
 では、何故わざわざ――

 考えかけるが、そんな疑問は今の理樹にとってはどうでも良い事だった。
 触れたい、と思う。
 どこで、どこに、と自ら疑問を抱く。
 そんなの、決まっている。鈴が握っているそれに、異性の持つそれに触れたいと思ったのであれば、必然と触れるべき箇所は決まっている。
 いや……自分の物でも、そうするしか用途のない道具なのだ。そのために生まれた道具だ。
 それは扱う者の技量によっては多くの人々を魅了しうる道具。主役となる事もあれば主役を引き立てるために使われる事も、そもそも使われない場合も。

「すぅー」
「!」

 理樹が身体を強張らせる。
 知らず知らずのうちに鈴へと近付いていたらしい。
 音も立てず静かに。無意識のうちの行動だったというのに。

「鈴……」

 名を呟き、改めてその姿を見る。
 陽はほとんどが沈み、髪を照らしていた朱はなく、闇に染まり始めていた。
 ……ソフト部かサッカー部あたりが練習を続けているのだろうか。
 校庭では照明が使われ、その白い光が夕陽の朱に変わって教室をほんの少しだけ、足元が見えるくらい照らす。
 歩ける。触れられる。

「でも」

 思い直す。無理だ。鈴の手に握られているのだから、それに触れれば、理樹が手にすれば――間違いなく、鈴は起きる。

「ん……」

 夢の中で何かあったのだろう。
 僅かに鈴が動き、手に握られていたものが、机の上で小さく音を立てる。
 鈴は、起きなかった。不思議と、目を閉じ小さく息を吐いて安堵する。

「あれ?」

 理樹が目を逸らしたその間に、鈴の手から、それは離れていた。

「そんな……」

 逡巡する。これなら、触れられる。手に出来る。
 ダメだ、と思うのに、その魅力に引き込まれる。ある種呪いにも等しい。
 また、鈴を見る。
 穏やかな寝顔。可愛い寝顔。
 出会った時は男の子だと思っていた。
 けれど、今の鈴は。
 近くに居すぎて、日頃意識する事は無かったけれど。
 クラスの男子にだってモテる。普段の行動と相俟って、それが一部の女子からの不評を買ってしまうくらいには。
 それくらい、鈴は可愛くなった。……或いは、鈴が可愛い事に、理樹が気付いた。
 それでも、普段から意識する事は無く。隣に居て、近くて、だから。

 そんな単純な見方だけではない、中学高校と経て、鈴は成長した。
 女の子らしく、他の子と同じように、年相応に。
 呼吸とともに上下する小さな肩。
 呼吸とともに上下する胸の膨らみ。
 唇。整った鼻。細い腰を覆う長くて綺麗な髪。
 こんなに可愛い女の子の持つ、その道具に、触れられたなら、きっと。

 男として。

「すごく、」

 幸せな事なんじゃ、ないかと。
 恭介はどう思うだろう。謙吾はどう感じるだろう。真人は……どうでもいいか。
 では、他の皆は。
 きっと、笑い飛ばす。それだけだ。大した事は無い。いつもと同じだ。少なくとも許されざる行為というわけではないだろう。
 いや、そもそも知られる事が無いのだ――鈴にさえ、気付かれなければ。
 近付く。手が届く範囲まで来た。

「鈴」

 また、名を呟き。

「ごめん」

 罪悪感から、事前の謝罪を行う。
 聞こえないのだから、意味のない行為。
 理樹の優しさゆえの言葉。けれど、そんなものを軽く越える、男としての欲望が、今の理樹を突き動かしていた。

 小さな寝息。可愛い寝顔。
 その手から離れ、危ういバランスで机の上に乗っていたそれを、理樹は手に取った。
 そして静かに握り、動かし、見る。『棗 鈴』と名前が彫られている。
 そこにあったはずの白い塗料はほとんどが禿げてしまっていたが。
 ああ、と思う。
 これは間違いなく、鈴の物だ。
 ならこれは、鈴しか使った事がないのだろう。
 誰にだって触れられていないはずだ。そこに踏み込ませないくらいには、鈴は堅かったような気がする。
 意識的にせよ、無意識的にせよ、だ。

 それを、理樹は、自らの口に、唇に、近付け……そして。

「………………」

 確かに、触れた。
 感無量だった。理由は説明出来そうもない。
 なのに無性に嬉しかった。達成感があった。


 ――――ぴゅるぴっ!


「え」

 あれ?
 息を吹いてしまったらしい。
 理樹が手に持った鈴のそれが――アルトリコーダーが、澄んだ音を奏でたのである。
 結構な音量だった。鈴が、その音に反応して目を開いた。

「んう……」
「え、ぁ」

 ただ元に戻せばよかった。だが、理樹は動揺していた。
 その事に思い至る前に、どうすればいいか悩みあたふたとし、そして。
 鈴が完全に眠りから覚め目を擦りながら顔を上げ。
 隣に立つ理樹と目が合った。その鈴の視界の隅には、理樹の手に握られたアルトリコーダー。
 少し、濡れているようにも見える。
 覚醒すると同時、状況を認識した。

「……理樹……」
「お、おはよう、鈴」
「……なにをしている?」
「えっと、」

 何を? そうだ、理樹は教室に何をしに来たのだったか。

「わ」
「わ?」
「WAWAWA、わすれもの〜♪」
「…………」
「…………」
「…………」

 外した。滑った。と言うかそもそも意味が無かった。
 鈴の疑問に対する答えには、決してなりえていない。

「それ」

 アルトリコーダーを指差す。

「ぅ」
「あたしの、だな?」
「……はい」
「なんで理樹が持ってる?」
「……はい」
「変態」
「……はい」

 否定のしようが無かった。





 その後。
 恭介たちには冷やかされからかわれ、リトルバスターズ女子メンバーには距離を取られたり弄られたり。
 鈴は一週間、口を聞いてくれず、

 杉並には「なんで私のじゃないの!?」と泣かれた。
 意味が分からなかった。


[No.191] 2008/03/15(Sat) 00:45:12
音信 (No.182への返信 / 1階層) - ひみつ@リリカル☆遅刻

 つまりそれは簡単な事なのだ。
 私から一歩を踏み出せばいいだけ。姉妹として、そして親子として今までしているはずだった事を、あらためてすればいいだけの事。その為に、ちょっとした行動を起こせばいいだけなのだ。
 それは実に簡単なはずなんだけど……



「……最初の一歩というのはえてして踏み出しにくいものなのよ」
 誰に説明しているのかしら私は?
 最後の一枚となった便箋を丸めてゴミ箱に放る。そして、自嘲混じりのため息と共にボールペンを放り出すと、そいつは机の端まで転がっていき、止まった。何もない机にボールペンが一本、逆に寂しい。
 大体何で今こんなに苦労しなければならないのか、そう、別に今すぐ行動しなくても明日でも明後日でも一年後でも死んでからでもいいじゃない……あ、いや最後は駄目か、さすがに。
 ともかく、今までこんなに長く出来なかったのだから、少しずつ、少しずつでもきっと問題はない……と思う。思うけど……

「ううう……」
 頭を抱える。
 そうやって、ここ一週間クドリャフカがいなくなる度に机の前で悶々としていたのはこの私。書いては消し、そして丸めてゴミ箱送り。ちょっとずつ前進どころか、むしろ全速後進しかねない勢いだ。
 これじゃあ正直どうにもならない。
 邪魔なのはつまらない意地とかプライド、そして、今までそれが正しいと思っていた自分。過ちを認めるのは難しい、認めても、そこからさらに前へと進むのはもっと難しい。
 それはわかっているのだけれど、わかっていてもどうしようもないものはあるのである。

「あーもうっ!!」
 八つ当たり気味に机を叩くと、ボールペンが跳ね上がって床へと落ちる。風紀委員長たる私がこんな事をしてどうする。寮の机は共用物じゃない、備品は大切に扱いなさいと、クドリャフカにも常々言っているというのに……
 頭を抱えながら隣の机を見れば、慌てて出て行ったのかごちゃごちゃと鉛筆だのなんだのが転がっている。
 帰ってきた直後に、急ぎの用があるらしく、わふわふ言いながら飛び出していったのだけど、余裕をみて行動するとういうのがないのかしらあの子は。
 帰ってきたら、ちゃんと注意してあげないと……将来困るのはあの子なんだから。



「……しょうがないわね」
 ため息まじりに立ち上がり、彼女の机を軽く片づける。
 鉛筆消しゴム蓋の開いたペンケース、倒れたぬいぐるみがつぶらな瞳でこちらを見つめ、そして転がる目覚まし時計からは、乾電池が脱走を図っていた。
 それにしても、青ざめた熊のぬいぐるみ……あの子の感性はよくわからない。彼女曰く『とても可愛い白熊さんなのですよわふー』だそうだけど、ひとまず青い白熊というのは存在自体が間違っている気がする。
 さて、整然とした私の机とは対照的に、いろいろな物がある彼女の机。雑然としているようで、奇妙に楽しげなのは気のせいかしら?
 そんな事を考えていると、一瞬、あいつら……リトルバスターズと共にいるクドリャフカと、風紀委員を従えている私の姿が重なる。
 友人達と共に騒いで、揃って怒られる彼女と、ただ一人誉められる私の姿……どちらが幸せなのかは言うまでもなかった。
 
「孤独……ね」
 どんなに嘲るように言っても、どうしても吹き飛ばせない困った言葉。気にしないようにしても、なぜだか私につきまとう、嫌な言葉。

「ねぇ、私は孤独だと思う?」
 倒れた青白熊に声をかけながら、本日何度目かの自嘲。ぬいぐるみにそんなことを聞いているだなんて、私もずいぶん乙女じゃない。
「乙女だなんて……私が?」
 思わず失笑してしまう。私が乙女?そんなのはあり得ない。どっちかっていうとサッチャーね、鉄の女。





「わふー孤独じゃないと思うのですよー。私と佳奈多さんはお友達なのです!」
「うっわ!?」
 突然の声に思わず叫ぶ、後ろで「わふー!?」とかぼふーとかいう声と音がして、静寂が戻ってきた。

 ……ひとまず、今ありえない声が聞こえた気がする。っていうかありえちゃいけない。ついでに今の叫び声も消しておきたい。
 胸に手を当て、状況を確認。

 静かな部屋の中、初夏の風にカーテンが揺れている。少しだけ夏の匂いを詰め込んで、暖かな風が流れ込む。遠くに聞こえる電車の音は、鉄橋を渡っているのかしら?
 差し込む日射しは夕方のもの、クドリャフカの机には小さな影。そして、私の下の方からまんまるな目でこちらを覗き込んでいるのは……



「わふー、佳奈多さんただいまです!」
「ククククククドリャフカ!?」
 屈託なく笑う私のルームメイト。なんで……なんで……出かけてたんじゃないの!?
 扉を開ける音なんてしなかったはず、この子は、いつも元気いっぱい扉を開けて、もっと元気にただいまののですーなんて言って、静かにしなさいと私に怒られて……

「クが多いのですー豪華なのです」
 そんな私の混乱をよそに、嬉しそうになにやらよくわからないことを言い出すクドリャフカ。豪華なの?
 顔が真っ赤になって、ひとまず突っ込みの言葉も出てこない。まずい、落ち着け、私は隙を見せてはいけないんだから。
 ひとまず、落ち着いて何事もなかったかのように装いましょう、そうしましょう。
 私は、いつもの表情を作って彼女を迎える。

「おかえりクドリャフカ、机をちゃんと片づけないとだめじゃない」
「わふー申し訳ないのです……」
「しょうがないわね……」
 縮こまるクドリャフカにため息をつく。ようやく調子が戻ってきた。
 あとはこのまま何事もなかったかのように……

「お詫びにその白熊さんはぷれぜんとですー」
「ほえ?」
 できなかった。間抜けな声を出して自分の胸元を見て……
「っ!?」
 目にとまったのはクドリャフカの青い白熊人形。まさかとっさに抱きしめて……?
 ぬいぐるみを抱きしめながら、偉そうに叱る自分の姿が頭によぎる。
 ……死にたい。

 でも、硬直した私をよそに、クドリャフカは嬉しそうに言葉を続ける。

「わふー佳奈多さんにならあげてもいいのです。でも、佳奈多さんがろじぇすとう゛ぇんすきーの事を気に入って下さるとは思いませんでした!大切にしてくださいなのですー」
 笑顔のクドリャフカに、どんどん顔が真っ赤になっていくのがわかる。何その偉そうな名前とか突っ込む余裕なんてどこにもない。

「〜〜〜〜っ!」

 思わず放り投げた、ぬいぐるみは空を飛び、クドリャフカをかすめると、ベットを飛び跳ね壁にぶつかる。ごろんと転がった小さな瞳が、恨めしげにこちらを見つめていた。

「わふっ!?佳奈多さん何をするんですかっ!」
「あ、わ、クドリャフカ、ごめんなさい」
 そして、ほぼ同時に抗議の声をぶつけてきた彼女に慌てて謝る。かすめただけだからケガはないと思うけど……大丈夫かしら?
「佳奈多さん、お人形も大切にしないといけないのですよ。きっと痛いのです」
「あ、え、そ……そうね、ごめんなさい、ロジェ……なんとか」
 いつになく真面目なクドリャフカを見て、反射的にぬいぐるみに謝ってしまう。困った、一度ペースを乱されるとなかなか元には戻れない。
 
「わふーそれでいいのです!ろじぇすとう゛ぇんすきーも、きっと許してくれたのです。それにいいあだ名が出来てうれしがっているのですよー」
「あだ名?」
「ろじぇは素敵な名前なのですよー、今日からあなたはろじぇなのです。わふー!」
 いつの間にか、この熊はロジェという名前になったらしい。そしてクドリャフカは万歳三唱してはしゃいでいる。

 ……そんなに嬉しかったのかしら?

「今日からロジェと佳奈多さんはお友達なのです。私もお友達でみんなお友達なのですー」

 友達……という単語が少し嬉しい。今までだったら、きっと拒絶していたであろう言葉、受け入れられなかった言葉、でも…… 


「まぁ、いいわ」
 自嘲を一つ、でも今度の自嘲は少し明るい。
「わふ?わふ〜♪」
 首を傾げるクドリャフカの頭をなでながら、私は言った。
「ありがとう、大切にするわ。大切な……友達からの贈り物だものね」
「わふっ!」
 尻尾があるなら振っているであろうくらい嬉しそうに頷くクドリャフカに、少しだけ表情が緩む。



 私にはようやく家族ができた。
 なら、友達が出来てもいいだろう、一人と一匹。
 今ならあの手紙を書けそうな気がする。
 母への手紙、ずっと書けなかった母への手紙……



「……しまった、便箋はさっきので最後か」
 散々書き損じた挙げ句、肝心なときになくなってしまった。まぁいい、買ってくればいいだけの話。そして、今度こそ書き上げよう、ちょっとでもいいから……私の気持ちを。

「わふー丁度よかったのですー」
「え?」
 その時、耳に届いたクドリャフカの言葉に、問い返す。何が丁度よかったの?
「あのですねー佳奈多さんがお手紙を一杯書いているみたいでしたので、今日お手紙セットを買ってきたのですよ!」
 そう言って、手に持っていた鞄から、色ペンやらなにやらをごちゃごちゃ取り出すクドリャフカ。
 ……硯だの筆だの、ちょっと気になるものもあるけど。

「……知ってたの?」
「はい、一杯書きかけの便箋が捨ててありましたからっ!」
 ため息と同時に自分に呆れる。なんだ、ばればれじゃない。ばれたところでなんの問題もないものを、必死に隠そうとしていたのは私だけ。本当に間抜けな話だ。
 そんな私に、彼女はいつものように笑って続けた。
「いつもお世話になっているお礼なのですー!受け取って下さいっ!!」
「しょうがな……いえ、嬉しいわ、ありがとうクドリャフカ」
「わふっ!」
 ぴょんと飛び跳ねるルームメイトに苦笑しながら、彼女から次々と贈り物を受け取る、手に持ちきれなくなって机に置けば、たちまち私の机はクドリャフカ色に染まってしまった。もうごちゃごちゃだ。

「これを買いに行っていたのね」
「わふっ!」
 私の言葉に、嬉しそうに彼女は頷く。ああ、寮に帰るなり飛び出していったのはこういう事だったのね。
「ありがとう」
 それは滅多に心から言わない言葉、それなのに今日はやたらと口にしてしまう。そして、これからはもっともっと多く言えるはず。言えるようになろう。
「わふー!どういたしましてなのです。それと、その言葉は葉留佳さんにも言ってあげて下さい!」
「え、葉留佳に?」
 その時、突然出てきた意外な名前に思わず問い返す。
「はい!私はこの街にはあまり詳しくないので、葉留佳さんに案内をお願いしたのですよっ!!」
 嬉しそうに言うクドリャフカ、そっか、あの子が……
「はいなのです。送って頂いたのでまだそこに……」
「……はい?」
 予想外の言葉に、私は固まる。何、葉留佳が、クドリャフカと一緒に……もしかして今までの全部?



「……え?」
 ぎぎぎと視線を上げる。扉の影にぴょこっと隠れる、見覚えのある髪の毛……
「葉留佳?」
 私の問いかけに、おそるおそるといった風に、彼女は顔を出した。

「や……やはは、集中してたから邪魔するの悪いかなーって静かに扉を開けたのですヨ? 他意はないのですヨ?」
 あはははとか笑いながらこちらに歩いてくる葉留佳。明らかに嘘だ、っていうか手に持っているビデオカメラは何? 明らかに私の日常を撮ろうとしていたに違いないでしょうが! 期待以上のものが撮れたんでしょうね、そうでしょうね!
 ひとまず、確信犯を誤用すべきなのはこういう時だということがよくわかったわ。
 私は葉留佳に言った。
「語尾がカタカナの時点で信用できない」
「や、HAHAHA、そんな、文字は見えないのですヨ? それにそんなこと言ったら私は普段から……」
「信用できないに決まってるでしょ」
「ひどい!?」
 大仰にダメージを表現する葉留佳に、ため息をついて呼吸を落ち着ける。



「で、どこから撮ってたの?」
 何呼吸か置いて、冷静に質問。私があまり怒っていないと思ったのだろうか? 葉留佳は少し表情を緩める。
「さ、最初の一歩を踏み出すのって難しいよね」
「ほとんど全部じゃねーか」
「うわ、言葉、言葉遣いがまずいことなってるってお姉ちゃん!? 言葉の乱れは風紀の乱れですヨ!?」
 慌て出す葉留佳を見ながら、私は歩き出す。扉の方へ。

「大丈夫よ、葉留佳」
 とっておきの笑みで、葉留佳を見つめた。葉留佳の動きが止まり、クドリャフカはいつの間にか布団を被って丸まっている、賢明ね、さすがは私の友人だわ。
 後ろで扉を閉めて、ついでに鍵とチェーンでがっちり。
 そして言葉を続ける。

「今日のあなたの記憶、全部なかった事にするから。クドリャフカもそれでいいわよね? あ、それとロジェを頼むわね。巻き込まれると危ないから」
「わふ! わふ!!」
「そうね、いい子だわ。さすがは私の友人ね」
「きゅーん……」
「よくない! 異議あり!! っていうか、クド公「わふ」しか言ってないじゃん!」
 ますますがっちりと丸まったクドリャフカに、慈愛の視線を送ると、次いでなんかわめいてる葉留佳へ向ける。
「私とクドリャフカの仲だもの、これでちゃんと判るわ。ね、クドリャフカ?」
「わふ! わふっ!!」
「怯えてるだけじゃん! 脅迫反対っ! クド公を大切にっ! 動物愛護!!」
「クドリャフカは大切にするわよ、クドリャフカは」
「しまったー!? ついでに私も大切に! はるちん愛護運動っ! ジュネーブ条約を守ろうっ!」
「そんなの知らないわ。あ、でもあなたの事も大切にするわよ? なんせ姉妹だもの、お姉ちゃんが丁寧に教えてあげるわ。……していいことと悪いことを」






 その後、三枝家に、長年離れていた佳奈多から、葉留佳の教育について延々と書かれた巻物が届いたとか、代わりに葉留佳がしばらく音信不通になったとかいう出来事があったが、それはまた別の物語である。

 どっとはらい。


[No.192] 2008/03/15(Sat) 04:31:04
感想会ログとか次回とかですよ (No.185への返信 / 2階層) - 主催

 MVPはえびさんの「二人きりの僕らに雨の音は聞こえない。」に決定しました。
 えびさん、二連覇おめでとうございます。
 感想会のログはこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/Little5.txt


 次回のお題は「春」
 締め切りは3/28 感想会は3/29
 みなさん是非是非参加を。


[No.198] 2008/03/17(Mon) 00:47:13
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