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さいぐさはるかが大学でぼっちになっているようです。 - ひみつ - 2008/04/25(Fri) 22:04:52 [No.250]
Invitation to Hell(原題) - ひみつ   グロ注意 - 2008/04/25(Fri) 22:00:53 [No.249]
虚構世界理論 - ひみつ - 2008/04/25(Fri) 21:55:39 [No.248]
誰かが何かを望むと誰かがそれを叶えるゲーム - ひみつ - 2008/04/25(Fri) 21:12:18 [No.247]
Engel Smile - ひみつ - 2008/04/25(Fri) 18:30:18 [No.246]
笑顔(SSのタイトルはこちらで) - ひみつ - 2008/04/26(Sat) 08:41:43 [No.251]
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小さな頃の大切な想い出 - ひみつ - 2008/04/24(Thu) 20:17:47 [No.244]
笑う、ということ - ひみつ@初 - 2008/04/24(Thu) 18:57:03 [No.243]
笑顔の先に - ひみつ@甘 - 2008/04/24(Thu) 10:56:09 [No.242]
遥か彼方にある笑顔 - ひみつ@長いですスミマセンorz 初めてなので優しくしてもらえると嬉しいかも - 2008/04/24(Thu) 02:49:25 [No.241]
感想会ログー次回ー - 主催 - 2008/04/27(Sun) 01:58:36 [No.253]



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第8回リトバス草SS大会(仮) (親記事) - 主催

 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「笑い」です。

 締め切りは4月25日金曜午後10時。
 厳しく締め切るつもりはありませんが、遅刻するとMVPに選ばれにくくなるかも。詳しくは上に張った詳細を。

 感想会は4月26日土曜午後10時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.239] 2008/04/23(Wed) 20:37:59
遥か彼方にある笑顔 (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ@長いですスミマセンorz 初めてなので優しくしてもらえると嬉しいかも

 放課後のグラウンド。手負いの謙吾、そしてマネージャーに美魚を加え、野球チームとしてようやく一応の体裁を整えたリトルバスターズ、その練習中のことであった。

「よーし、バッチこーい!」

 センターの深い所で、葉留佳は無駄に気合いの入った声をあげた。
 日々の練習の成果か、最近の理樹は腕力がついてきたらしく、けっこうな飛ばし屋である。主として内野を守っていることの多い恭介はそのことをどこか寂しく思っているような節があり、その一方で鈴は猫への被害が減って満足気だったりする。
 どうせやるなら捕ったり投げたりした方が楽しいに決まっている、そんなわけで、ここ最近の葉留佳はこの辺りが定位置となっていた。
 が、しかし。

「む〜……今日は飛んでこないなぁ。理樹くん、調子でも悪いんですかネ」

 恭介の切なげな視線に耐え切れなくなった理樹がゴロを連発しているだけなのだが、その辺りの事情は距離の離れた葉留佳に分かるべくもない。
 どちらにせよ、理樹と鈴を徹底的に鍛え上げるという恭介発案のこの練習方式は、ボールが飛んでこないと暇でしょうがない。喋る相手もいない。前に出ようか、そう考え始めた時だった。

「わふーっ、三枝さーんっ!!」

 声のした方を向けば、さっきまでストレルカと戯れていたはずのクドリャフカが、こちらに駆けて来るところだった。

「ありゃ、クド公。おっきいワンコはどしたの?」
「ストレルカは、これから風紀委員の方達と一緒にお仕事だそうです」
「……ふぅん」

 脳裏に、過ぎるものがあった。顔を顰めそうになって、思い直す。

「三枝さん……?」
「……ん、なんでもないですヨ。で、なんか用?」
「はっ、そうでした。大事な用があるんでしたっ」

 あっさりとごまかせて、葉留佳は拍子抜けしつつもとりあえず安堵した。

「実はですね、来々谷さんの発案で、お泊り会を開くことになったのです。それで、お誘いに来ました」
「お泊り会?」
「はいっ、チームの女子メンバーも全員揃ったことだし親睦を深めようではないか、と」

 ああ姉御の意図が透けて見えるッスよエロエロだぁー、などと思いつつも、葉留佳はすでに参加する気満々だった。こんな楽しそうなイベント、見逃せるだろうか。いや、見逃せるはずがない。

「うん、おっけおっけ。で、誰の部屋に泊まるの? こまりん? 鈴ちゃん? はっ、それとも、ついにベールに包まれていた姉御の私生活が暴露されてしまうのかーッ!?」
「わふー、ご期待に添えなくて申し訳ないのですが……私の部屋です」
「へ?」

 しょんぼりと肩を落とすクドリャフカと、その彼女の思わぬ理由で硬直する葉留佳。
 先に口を開いたのは、葉留佳だった。

「あ、あのさ、クド公。クド公の部屋って、最近新しくルームメイトが入ったんじゃなかったっけ? その人に迷惑なんじゃ……」

 柄にもないことを言っているという自覚があった。普段の自分なら、そんなものお構いなしで騒いでいるだろうに。

「二木さんなら、今日は何かご用事だとかで、おうちのほうに戻ると言ってました。明日まで帰ってこないそうです」
「へ、へぇ」

 タイミングが良いのか悪いのか、判断がつかなかった。
 あいつがいないなら問題ないと思う一方で、行きたくない、そうも思い始める。

「あー、クド公。やっぱ私――」
「おっと、一度了承した以上、今さら逃げることは許さんぞ」
「うひゃあっ!?」

 突然の背後からの声に、葉留佳は飛び上がった。
 声の主は見ずとも分かる。分かるのだが――。
 いやでも。だって。さっきまでいつもみたく、ショート辺りでビシュバシュと瞬間移動しまくってたはずじゃん――って、いないし。
 恐る恐る振り返ってみれば、そこにいたのはやはり、来々谷唯湖その人であった。

「どうしたね、葉留佳君。そんな狐にでも化かされたような顔をして」
「あー、姉御ってキツネミミ似合いそうですネ」
「ふむ、褒め言葉として受け取っておこう。クドリャフカ君はもちろん、イヌミミだな」
「わふーっ! あいあむ・どっぐいやー! なのですっ」

 よーし上手い具合に話題が逸れたぞーこのままクド公で遊んでうやむやにしてしまえー、などと短絡的な策を講じようとする葉留佳だったが、うまくいくはずもなく。がっしと肩を掴まれる。

「さて葉留佳君。君も女なら、二言はあるまい? それとも君は実は男だったのか? なんなら確かめてやってもいいが……」

 男にだって二言はないんじゃないデスカとか、手をワキワキさせながら下に持ってくるのは何故デスカとか、色々とツッコミどころはあったのだが。

「……ハイ、行かせていただきマス」

 結局のところ、葉留佳は頷くしかないのだった。





 遥か彼方にある笑顔





 その日の夜。
 クドリャフカの部屋で行われるお泊り会は、葉留佳の懸念を他所に、実に――葉留佳自身にとっても――楽しい時間となっていた。
 なぜか強制参加となっていた理樹を縛ったり目隠ししたり唯湖の制服を着せたりと、主に彼をおちょくって遊ぶ。
 楽しいなぁ。ほんっと、楽しいなぁ。やっぱり理樹くんは弄られキャラですネ。いちいち反応が面白いというか、可愛いというか。ああ、姉御が輝いていらっしゃるっ。
 女装理樹と唯湖による百合の花が似合いそうな撮影会を、葉留佳は笑いながら見物する。
 笑っているのは、葉留佳だけではない。小毬、鈴、クドリャフカの三人は、まあ意味が分かっているのかは定かではないものの楽しそうだし、唯湖は言うに及ばず、デジカメを手にしている美魚は「百合は専門外なのですが……これは、なかなか……」などと呟いているし、理樹は――さめざめと涙を流してはいるが、満更でもないはずである。多分。
 皆が笑っている。笑顔でいる。葉留佳には、それが楽しくて、嬉しくて――幸せだった。
 何かが足りないと、彼女自身気付いていない心の奥底で、そう思いながら。



 そんな時間も、小毬とクドリャフカの2人がうとうとし始めた頃を皮切りに、終わりを告げようとしていた。
 全員パジャマに着替えた後、布団を引っ張り出して寝床の準備をする。

「さて、誰がどこで寝るかだが」

 唯湖が言った。無論、その瞳の奥では、怪しげな光がキランと輝きを放っている。

「とりあえず、ベッドはクドでいいでしょ。ここクドの部屋なんだし」

 当然そのことには気付いている理樹が、余計なことは言わすまいと提案する。唯湖を含め、全員異論はないようだった。

「わふー、すいませんです、皆さん……あ、でも、このベッド私には大きすぎるので、もう一人くらいなら入れますけど」

 クドリャフカの言葉に真っ先に反応したのは、唯湖である。

「ふむ。実はおねーさん、ベッドでないと眠れないんだ。というわけで」
「じゃあ来々谷さんは空いてる方のベッドを使いなよ。みんな、いいよね?」

 理樹のカウンター。今度も異論は出なかった。
 理樹の言っていることは正論であるが、いつもの唯湖なら強引にクドリャフカのベッドにルパンダイブを決行してもおかしくはない。しかし、今回に限っては様子が違っていた。

「ふふ……なかなか言うようになったじゃないか、少年」
「それほどでもないよ」

 何やら、二人の間にはバトル的雰囲気が漂い始めている。真剣勝負にルール無視の強硬策は無粋、ということらしい。どんなルールかは不明である。

「さて、じゃあクドのベッドに入るもう一人だけど」
「私は布団で構いません」
「あたしもだ」

 控えめな美魚と、恥ずかしがりやの鈴、両者からの申し出は理樹、唯湖双方にとって予想の範疇であっただろう。と、なると――。

「じゃ、小毬さんで」
「ふぁい〜」

 半覚醒状態の小毬が、よたよた歩きの末にクドリャフカのベッドの上へ倒れこみ、くかーすぴーと寝息を立て始めた。こうなると、その安らかな眠りを邪魔するのにも気が引けてくるというもので、小毬を自分のベッドに引き込むために練っていた唯湖の策は全てパーとなる。
 ついでに、クドリャフカもその隣で眠りに落ちた。わふーわふーという寝息が実に可愛らしい。

「…………あれ? 理樹くん、私は?」

 華麗にスルーされていた葉留佳が、ちょっぴり不満の色が混じった声をあげる。確かに、小毬でなく葉留佳という選択肢もあったはずである。
 理樹は少し考えた後、答えた。

「いや、葉留佳さんって寝相悪そうだし。一緒のベッドで寝かせたら、クドが下敷きにされちゃうでしょ」
「あー、理樹くんってばひどーい! ひっどーい!」
「今のは、相手が三枝さんとはいえ随分と失礼な発言だと思いますよ、直枝さん」
「よくわからんが、理樹が悪いな」

 当事者の葉留佳に加え、唯湖を除いた二人の援護も加わり、理樹は思わずたじろいだ。
 その風向きの変化を、唯湖が見逃すはずもなく。

「なあ理樹君、私実は抱き枕がないとぐっすり眠れないんだ」
「くっ……」

 ここまで、唯湖の思惑通りにさせまいと場の進行役を担っていたことが災いした。こう言われては、理樹は唯湖の安眠のため、抱き枕を提供しなければならなくなる。ちなみに、抱き枕になりそうなクッションの類はこの部屋にはない。こんなこともあろうかと、という無駄に鋭い唯湖の先読みにより、お泊り会の準備段階ですでに排除されていたのである。
 つまり、抱き枕候補は3人。

「そういうわけだから少年、私の抱き枕になってくれ」
「ええっ!? そっち!?」

 訂正。4人。

「む。ダメなのか?」
「ダメも何もないよっ! というか、どうして来々谷さんはそういうことをそんな軽々しく言えるのさ!?」
「どうして、と言われてもな……その、なんだ。困る」
「え? そこ照れるとこなの!?」
「仕方がない、理樹君は諦めるとしよう。では、そうだな。美魚く――」
「すぅ、すぅ」

 美魚はすでに布団に潜り込んで寝入っていた。逃げたと言った方が正しいかもしれない。これで、残る候補は2人。

「ちっ」
「そこ、舌打ちしない」
「したくもなる。西園女史はあれでなかなかガードが固くてな……あんなことやこんなことする絶好の機会だったというのに」
「なに堂々と危ないことを口走ってるのさ……」
「よし鈴君、おねーさんと一緒にあんなことやこんなことをしよう」

 なんとも素早い切り替えであった。

「いやじゃぼけーっ!」

 そして同様に素早い鈴の斬り返し。

「抱き枕っていう建前はすっかりどこかに行っちゃったみたいだね……まあ、どっちにせよ却下だけど」
「む……俺の鈴に手ェ出そうなんざいい度胸じゃねぇかファッキンこのクサレアマ、とでも言いたげだな、少年」
「いやいやいや」
「なにぃ……あたしはいつの間に理樹のモノになっていたんだ?」
「わー、理樹くんってばおとなしい顔して、実はオトナだったんですネー」
「そこの2人もノラないでよ……」

 理樹は大きな溜息を一つついた。随分と疲れているようである。まあ、いきなり女子寮まで引っ張り込まれた上、散々な仕打ちを受け、さらに今のこの状況とくれば、それも当然と言えるかもしれない。

「で、鈴君。話を戻すが……どうしても嫌なのか?」
「くるがやは変なことしそうだからいやだ。……こまりちゃんなら、いい」
「くっ、コマリマックスめ……! 私と彼女とで、一体何が違うというのだ!?」
「とりあえず来々谷さんはその下心丸出しの態度を改めた方がいいと思うよ」

 理樹の的確なツッコミを受け流しつつ、唯湖は最後に一人残った候補者へと視線を向ける。それは、獲物を追い詰める狩人の眼であった。

「ぐーぐー」
「狸寝入りはよせ」
「うわぁーバレたぁーっ!?」

 掛け布団を引っぺがされ、ずるずると引き摺り出される葉留佳。

「ふふ……そういえばこんな言葉があるな。残り物には福がある、と」
「い、いやぁ……私はどちらかというと、不幸が常に付き纏っている女だと思いますヨ?」
「私はそんなこと、気にしないさ」
「うひゃー!? 理樹くんたすけてー!」
「…………」

 理樹は無言で、目を逸らした。

「ええっ!? 私だけ扱いひどっ!?」
「いやまあ、一緒にお風呂にも入る仲だし、大丈夫かなーって」
「そりゃさっきは姉御と一緒だったけどそれとこれとは話が別というかうわーっ!?」
「ええい、つべこべ言わずおとなしく私のモノになれ」

 唯湖が理不尽極まりないことを口にしながら、葉留佳をベッドに押し倒す。
 それを横目に、理樹は部屋の隅にひかれた布団に潜り込んでいた。

「じゃ、来々谷さん、あんまりうるさくしないようにね。おやすみ」
「うむ。良い夢を」
「うわーん理樹くんの薄情者―! 冷たいぞーっ!」

 葉留佳の叫びが虚しく響く中、部屋の電気は消され、暗闇に包まれた。



 どれくらいの時間が経っただろうか。
 唯湖は色々危ないことを言ってはいたものの、葉留佳を背中側から抱き締めたまま、それ以上のことをしようとはしなかった。建前であったはずの要求通り、抱き枕にされているだけである。包み込むような優しさに溢れ、同時に、決して逃がすまいとする、柔らかいんだか硬いんだかよく分からない抱擁だった。
 葉留佳は、なかなか寝付けなかった。唯湖の腕の中だから、というのも理由の一つではあるが、それは然したる問題ではない。
 思い出してしまったのだ。自分が今横になっているこのベッドが、誰のものであるかを。
 どうして忘れていたのかと問われれば……皆で過ごす時間が、あまりに楽しかったからだと、そう答えるだろう。あの笑顔の中では、嫌なことから目を背けられていた。思い出さずにいられた。

「それは“逃げ”でしかないな」
「っ!」

 耳元の声に、葉留佳は身体を強張らせた。

「あ、姉御……まだ、起きてたんですか」
「うむ、まあな」

 さっきの言葉は、なんだったのだろう。考えを読まれた? いや、まさか、そんな。きっと……偶然だ。

「そ、それにしても。残念でしたネ、姉御。ホントは私なんかより、小毬ちゃんとかクド公とかの方が良かったでしょ?」
「いや……実を言うと、今日は最初から君が目当てだった。話したいことがあったからな」

 話を逸らそうと、苦し紛れで口にした言葉に返ってきたのは、意外な答えだった。

「まあ……ふふ。理樹君の成長ぶりを見たら、少しばかり遊びたくなってしまったがな。我ながら熱くなりすぎたよ」

 唯湖の言っていることに、葉留佳は一抹の違和感を覚える。理樹の成長ぶり。彼は、成長している? いつ? なにが?
 その違和感が、自分の中でじわりじわりと広がっていくのを感じる。恐い。何が恐いのかは分からない。それでも、恐い。

「あ、あの、姉御。それで、話って? 別に、こんな場所じゃなくても」
「まあ、確かに。ここでなければならない、ということはない」

 言いかけた言葉の先を引き継いで、唯湖が答えた。
 彼女は今、どんな顔をしているのだろう。振り返りたい衝動に駆られたが、できなかった。

「ここを選んだのは……“ここ”なら、私が何を言いたいのか、嫌でも分かると思ったからだ」

 ドクン、と心臓が一際大きく鳴ったような、そんな気がした。
 ここ。この場所。そこを選んだ理由。葉留佳には思い当たることが一つあって――いや、むしろ、“それ”に違いないと確信できる――、だが、それを否定したかった。
 今まで、姉御と慕う彼女には、色々なことを相談してきた。だが、あのことについては一切話していないはずだ。知っているわけがない。
 でも――。鼻腔をくすぐる微かなミントの匂いが、答えを教えていた。

「さて、葉留佳君。君は、いつまで逃げ回っているつもりだ?」
「……っ!」

 今度は間違いなく、心臓の音が聞こえてきた。
 なんで。どうして。

「本当なら、こんなことを言うのはルール違反なのだろうがな。しかし、理樹君と鈴君の与り知らぬ所で問題が停滞してしまっているのでは、仕方ないだろう」
「え?」

 確信が、わずかに揺らいだ。
 なぜそこで、理樹と鈴の名前が出てくるのか、理解できない。もしかしてこの人は、私が考えているのとは全く別のことを言っているのではないか?
 だが、そうすると……理樹と鈴、逃げ回る自分、そしてこの場所。それを繋ぐものに、全く見当がつかなかった。

「まあ、逃げたくなる気持ちも分からないでもない。何度も繰り返して、その度に失敗して――理樹君や鈴君のように、君もどこかで覚えているのだろうな」

 何を言っているのか、分からない。今自分を背中から抱き締めているこの人は、本当に来々谷唯湖なのだろうか……?

「葉留佳君、今日、いやもう昨日か、その昼休み、君はどこにいた?」

 あまりに唐突な話題の転換。それでも、葉留佳は記憶を手繰って答える。

「……何か面白いことはないかなー、って色々歩き回ってたような……」
「ふむ。学食には?」
「えと……行って、ない」
「なるほど。それは……それは、よくないことだ。理樹君達は行ったんだ。そして、君も行くはずだった。そこで会うはずだった」

 ますます意味が分からなくなる。混乱する葉留佳を他所に、唯湖は訥々と言葉を連ねていく。

「君は無意識の内に彼を避けているのだろうな。だが、それでは……彼らは、前に進むことができない」

 進む? 誰が? どこに? 前へ。前とは、どこのことだ?
 頭の奥に、何か引っかかるものがあった。

「……姉御、その」

 耐え切れなくなって、口を開いた。このまま黙っていたら、頭がどうにかなりそうだった。

「さっきからいったい、何言ってるんですか? 全然、何が何だか、ワケ分かんないッスよ。ねえ、姉御――」
「分からなくてもいい。君は眠っている。そして、これは夢だ。朝目覚めれば忘れている――君は、聞いてくれるだけでいい」

 返事は、随分と勝手なものだった。
 一方的にワケの分からない話を聞かされて、何の説明もなく、ただ混乱しろと言うのか。冗談じゃない、そう言おうとして、

「葉留佳君」

 強い声に、それを止められた。すべてを包み込むような、あたたかな強さだった。

「君が最後だ。前向きに立ち向かってくれることを祈るよ」

 意識はそこで唐突に途切れて……闇の只中に、沈んでいった。










「……ん」

 カーテンの隙間から差し込む光が、目に痛かった。
 今、何時だろうか。視界に時計が無いから分からないが、まあ、もう少しぐらい寝ていてもいいだろう。そんなことを寝惚け頭で考えながら、寝返りをうとうとして――身動きが取れないことに気付く。

(へ……? あれ? まさか、これが噂の金縛りってやつデスカ!? うひょーっ!)

 眠気は一気に吹き飛んだ。だって、金縛りである。こんな不思議体験、一生に一度あるかないかぐらいだろう、多分。これでテンション上がらないのは、三枝葉留佳の常識からすればおかしいとしか言いようがないのだ。
 しかし。眠気が消え去ってしっかりと見開かれた瞳には、早速現実が突きつけられることになる。
 隣のベッドでは、小毬とクドリャフカが安らかに寝息を立てていた。

(あーそっか、お泊り会か……で、確か姉御に抱き枕にされて……)

 なーんだ金縛りじゃなかったのかー、と落胆する葉留佳である。
 しかしまあ、この様子ではずっと抱き締められていたようだが、不思議と寝苦しさを感じることはなかったように思う。むしろ、そちらも――。

(んー……なんか妙な気分だなぁ。夢見でも悪かったかな)

 永い……永い夢だったような気がする。その夢の中で何があったかは、もう思い出すことはできない。あるのは、先の見えない暗闇の只中で迷っているような、そんな辛く悲しい絶望的なイメージだけ。
 でもそれは、決して悪夢ではなかった。覚えていないのに、なぜかそう確信できる。
 ああ、そうだ。夢の中、最後に見たのは――光だった。

(……うーん。これ以上は思い出せないですネ)

 まあいいや、と葉留佳は思考を切り替えた。さて、相変わらず身動きできないけれど、どうしようか。

(そういや、さっきからなんだか変な感じが……)

 葉留佳は、背後から抱き締められている格好である。必然的に、唯湖の豊満な胸はその背中に押し付けられ、エロティックな感じに押し潰されたりしているはずなのだが。
 足りない。背中には、確かに柔らかな感触がある。だがしかし、圧倒的にボリュームが足りないのである。

「……はっ!? ま、まさか姉御って実はパッ――」
「朝っぱらから随分と失礼な物言いだな、葉留佳君」

 唯湖の声がした。耳元ではなく、頭上から。

「へ? あれ? 姉御?」

 唯湖……だと思っていた人物の片腕が首に回されているため、声のした方を向くのも多少不自由をしたが、そうやって巡らした視線の先には、確かに唯湖がいた。その隣には、美魚も立っている。

「なんなら直に触って確かめてみるかね? ん?」
「いや、女として自信無くしそうだから遠慮しときますケド……あれ、おかしいな。はるちんは姉御の抱き枕にされてたのでは?」

 葉留佳の言葉に、唯湖と美魚は顔を見合わせて、すぐに葉留佳へと向き直った。

「寝惚けてますね」
「寝惚けてるな」

 二人タイミングをピッタリ揃えて溜息をつかれ、さらにジト目で見られた。

「ええっ、なんデスカその扱い!? はるちんショーック!!」
「まったく……もう少ししっかりしてもらわなくては困るな。今日は我々リトルバスターズの復活試合なのだから」
「中堅手が腑抜けていては、点を取られ放題です」
「え……あー、そういやそうでしたネ」

 そう、それで改めてチームメンバーの絆を深めようということで、昨夜はここ、クドリャフカの部屋でお泊り会を開いたのだった。理樹をおちょくって遊ぶのは、実に楽しかった。

「……しかし、まあ。先ほどの言葉から察するに、葉留佳君は本心では私の抱き枕になりたかったようだが」
「へ? あ、いやー、そのー、さっきのはですネ……」

 抱き枕、というワードで思い出す。唯湖は目の前にいる。では、自分を抱き締めて枕代わりにしているのは誰なのだろう……?

「……別に私は動揺なんてしてませんよ、来々谷さん。ええ、してませんとも」
「うひゃあっ!?」

 今度こそ耳元で声がして、葉留佳は飛び上がりそうになった。
 抱擁は解かれないままなので、相変わらず振り返ることができないものの、その声の主が誰なのかはすぐに分かった。

「……お、お姉ちゃん?」
「おはよう、葉留佳」
「あ、うん、おはよー」

 背中越しに朝の挨拶を交わす。心なしか、抱擁がキツくなったような気がしたが、葉留佳はとりあえず、気にしないことにした。

(……ということは、お姉ちゃんが……)

 そういえば、ミントの匂いがする。最近ではその爽やかな香りにもすっかり慣れてしまって、だから気付かなかったのだろう。

「ふふ……しかし残念だったな、佳奈多君。どうやら君の片想いのようだぞ?」
「……な、何を言っているのか、さっぱりです」

 心底楽しそうに、笑いながら言う唯湖に対して、佳奈多の表情は葉留佳の位置からは見えない。が、なんとなく想像はできるような気がした。

「ほう、シラを切るか……美魚君」
「はい」

 美魚が、どこからともなくデジカメ……いや、ビデオカメラを取り出した。その画面を葉留佳の目の前まで持ってくる。そうすれば、その後ろにいる佳奈多にも見えるというわけだ。
 美魚は唯湖の指示通りビデオカメラを操作し、やがて録画されている映像が再生される。

「こ、これは……」

 佳奈多が困惑の声をあげる。
 映されていたのは、葉留佳と佳奈多、二人の寝姿であった。早くに起きて隠し撮りしていたらしい。

「うわー……は、はずかしー」

 葉留佳の寝顔は、どこかマヌケであった。それだけ安心しきっているのだとも言える。とにかく、実に気持ち良さそうに眠っていた。
 そして、その葉留佳を抱き枕にしている佳奈多はと言えば。

「うっ……!」

 ゆるゆるだった。
 思わず誰だアンタ、とか言ってしまいたくなるほど、ゆるゆるだった。鈴が見たら「こわっ」だとか「めちゃくちゃだ。いやもーくちゃくちゃだ」だとか言い出しそうなほどにゆるゆるだった。それはもう、ものすごーく幸せそうなゆるゆるであった。
 そして、トドメの一撃。

『……んぅ……はるかぁ……』
「ぐっはぁ! いやもう、反則だろソレ。これでおねーさん、一ヶ月は戦えるよ!」

 かつてないほどのテンションを見せる唯湖に、佳奈多も羞恥心がマックスに達したのか、抱擁を解いてバッと起き上がる。

「西園さん、それ消して! 早く消しなさい!」
「……惚れた弱みという言葉もありますから、二木さんが受け、ということでしょうか。葉留佳×佳奈多……アリです。語感的にもバッチリです。そんなタイトルのBGMがありそうなほどです」
「何を言っているのあなた!?」

 データを消去する気は更々無いどころか、素晴らしい具合に昇華されていた。

「ああ、もうダメだ、辛抱たまらん。佳奈多君、おねーさんと一緒に朝シャンでもどうかね?」
「って、いや、ちょ、来々谷さん!?」

 いつの間にか佳奈多の背後に回っていた唯湖が、部屋に備え付けのバスルームへと獲物を強引に引っ張っていく。元々の身体能力の差に加え、佳奈多は寝起きであるため、為す術がない。

「なに、君にとっても悪い話ではないはずだ。どうやら葉留佳君は大きなおっぱいが好みのようだからな、私が責任をもって育てあげてみせよう」
「け、結構ですっ! ちょっと葉留佳、見てないで助けなさい!!」
「へ?」

 ポカンと、ただ成り行きを見守っていた葉留佳だが、貞操の危機に晒されている姉からの助けを求める声に、しばし考える素振りを見せて、

「あーうん、ごめんネお姉ちゃん。下手なこと言って姉妹丼とか言い出されたらたまらないのデスヨ」
「葉留佳ぁああぁああああっ!!」

 実にあっさりと、見捨てた。
 そのまま佳奈多は脱衣所に連れ込まれ、しばらくの間は騒がしいのが続いていたが……やがて、静かになった。
 表情一つ変えない美魚が、ぽつりと言う。

「意外です」
「え? 何が?」
「三枝さんは、どちらかというとMっ気が強いと思っていたのですが」
「ぶっ! みおちん、いきなり何言い出すんデスカ!?」
「最近のあなたは、二木さんに叱られたいがために騒ぎを起こしているような節がありますから」
「や、やはは。なぁにを言っているのカナ? カナ?」
「つまり……どちらもこなせる、と」
「…………」

 唯湖は言うまでもないが、美魚の暴走っぷりも酷いものだった。
 これ以上余計なことを言わせる前に話題を変えるのが得策ではないか、と考える葉留佳の目先に、美魚が持つビデオカメラが留まった。

「あ、えーと。ねーねーみおちん、それ見せて」
「いいですよ。どうぞ」

 ビデオカメラを受け取ると、適当に巻き戻してみる。
 撮っていたのは葉留佳と佳奈多だけではなく、唯湖と美魚を除いた全員の寝顔のようだった。当然、理樹のものもある。寝顔もまた、女の子みたいで可愛かった。
 そうやって順々に見ていく内、画面に再び葉留佳と佳奈多が現れる。
 自分の寝顔を見るのは恥ずかしかったが、普段は絶対に見られない、姉のあの寝顔をもう一度じっくり見たくなった。
 画面に映る寝顔は何度見てもゆるゆるで、葉留佳はそれを微笑ましいとさえ思う。

『……んぅ……はるかぁ……』
「はは。お姉ちゃん、笑ってますネ」
「……それ、笑ってるんですか?」
「うん。良い笑顔」

 答える葉留佳も、また笑っていて。
 いつかの日に、足りないと感じたものが、そこにあった。



Fin


[No.241] 2008/04/24(Thu) 02:49:25
笑顔の先に (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ@甘



 色んなものを奪われてきた。
 生きるために、傷つかないために、手放してきた。
 そして。

 あいつらから、人間のふりをした醜い生き物から、全てを、もしかしたら、取り戻せる知れない。守れるかも知れない。
 私の大切なひとを。私が大切にしたかったひとを。
 そんな時に。
 完全に、取り戻す事など出来なくなった。
 それはまるで、信じてもいない神が奪い去ったかのように思えるほどあっさりと、抗いようも無く、変えようも無く。
 世界はただただ無慈悲で、壊れていて。

 でも、簡単だった。奪われないようにするためには。
 私たちにとって壊れていたこの世界で、大切なものを守り続けるには。
 私が――

  □  ▼  □

 広い和室に酒の匂いが充満する。
 瓶から漂う酒が本来持ちうる芳醇な香りと、人の口から吐き出される鼻を塞ぎたくなるような異臭。
 華やかな料理の香りなど感じられないほどに、空気の淀んだ空間で、二木佳奈多はひとり、興味もなさげに冷めた目でその場に集まった大人たちを見る。
 一言で言って、醜い。……否、
 ――それですら、生温い。
 内心で罵倒する。目の前の人の姿をした魑魅魍魎の状態を、人の言葉で言い表す事など不可能だとすら思った。
 酔いつぶれた者は無く、一定の礼儀は守られているように見えるが――非常識な会話の内容、汚らわしく歪んだ口元、耳障りな高笑い。
 いつかに見た、夜の住宅街の道路に倒れ伏していた酔っ払いサラリーマンの方が、まだ人間らしくすらある。
 或いは、仮にも血縁のある人の死を酒の肴に歓喜する連中と、仕事に忙殺されて少々節度に欠けた飲酒をしてしまっただけの人間を比べる事すら、失礼極まりない思考か。
「本当に……」
 くだらない。茶の入ったグラスを握り、思う。
 こいつらは、歪んだ存在。だから、価値観も歪んでいるのだと。
 血を崇める一族。きっと、血からして腐っているのだろう。
 同じ血が流れていると思うだけで、反吐を吐きたくなるほどに気分が悪くなり、堪えるかのように歯を軋ませた。
「どうしたの、佳奈多さん」
 歯軋りの音でも聞こえたのだろうか。声がかかる。
 視線を上げる。そこには……誰だったか、忘れてしまったが、二木家の女性だ。
 歳の頃は、佳奈多の母親よりも僅かに上と言った程度だったか。名前も含め、大した事は記憶していなかった。
 佳奈多にとって記憶する価値も無かったと言う事もあるが、……やたらと血に、本家――三枝の家――の力を手に入れたい連中が多い中、影が薄かった事もある。
 本家の三枝や二木を含めた分家とも血の関わりもなく、ただ余所から嫁いできただけの女だったから、大人しくしていただけかも知れないが。
「どうしたって、なにが?」
「暗い顔をしているわ」
「呆れているのよ、この空気に」
「仕方のない事でしょう。……佳奈多さんが選ばれる事が決まったのだから」
「そんなもの、とうの昔に」
 葉留佳との比べられ、争わされ、そしてもう何年も前に自分は勝ったのだと。
 佳奈多は無表情のまま、半ば威圧するかのような声色で食って掛かろうとする。
 だが、その佳奈多の言葉を遮り。
「いいえ? ……あの疫病神が生きている限り、『ほぼ決まり』だった。けれど、その死を以って『当確』となった。
 選ばれる可能性を残した、ゴクツブシでしかなかった出来損ないがこの世界から消え去った……退場した事でね。邪魔者はいなくなったのよ」
「…………」
「これは喜ぶべき事でしょう、わたしたち二木家にとって。三枝からすればあなたに継がせ、子を産ませるしか選択肢がなくなっただけでしょうけれど」
 佳奈多が不機嫌さを隠そうともせず表情に出し、睨み付けた。
 余所から二木に嫁いできただけの貴様だってゴクツブシだと言うのに、と思う。
 だと言うのに、二木が手に入れる、既にほぼ取り仕切っている三枝の家の力の『お零れ』だけは欲しがっているのだ。
 三枝の家を乗っ取ろうと言う気概があるわけでもなく、ただ贅沢な暮らしや名声、そんな下らないものを欲しているだけ。そしてそんなもののために、人の死を祝っている。
 佳奈多にとっては、それだけではない。
 その程度の、見下している葉留佳にも格段に劣る屑の癖に、佳奈多の事を直系の血を維持させるための道具であるかのように見ている。
 ――道具にすらなれない下等生物の分際で。
 気に入らなかった。何より、それ以上に。
 ――本当に。
「どいつも、こいつも」
 ――穢れている。腐っている。
 胸中で吐き捨てた後で、葉留佳を貶め追い詰めた私も同じ穴の狢か、と佳奈多は自嘲した。
 感情任せに酒瓶を掴み、茶の残ったグラスに混ぜ、喉の奥に流し込む。
 不味かった。
 葉留佳の死を心の底から喜べるようになれば、この部屋に集った腐った連中と同じように、この不味い酒を美酒として味わえるのだろうか。
 考えるが、そんな事は真っ平ごめんだった。嫌う振りはしても嫌いたくはないし、たったひとりの妹を嫌えるはずも無かった。
「…………」
 全て飲んだ後でグラスを荒々しくテーブルに叩き付け、立ち上がる。
「あら、どこへ行くの?」
「外の空気を吸ってくるだけ…………人の死すら祝い事にするなんて、気分が悪いわ」
「…………そう」
 見下し、座ったままのゴクツブシを威圧する。
 その自覚すらない、佳奈多から見れば害虫にも劣る下劣で醜悪な生き物。
 穏やかなようで、本心が見え透いた薄汚い笑みを向ける愚か者。
 出来る事なら、殺してやりたかった。
 葉留佳のため、自らのため。
 そしてそんな私的な感情以上に。
 この歪みきった世界を、なるべくならこれ以上歪めてしまう事の無いように、殺してやりたかった。

  □  ▼  □

 空は暗く、月は無い。
 敷地の外の、外灯の光だけを頼りに、二木家の広い庭を目的もなく佳奈多は歩く。
 それこそ二木の姓を持つ者の他に、今や本家の多くを取り仕切るその力にハエのように群がる親戚連中が全て集まっても余裕のあるくらいには大きな家屋、広い敷地。
 だが、三枝の家の比べれば何もかもが劣る家。
 広さも内装や清潔さも……周囲の家から向けられる羨望の眼差しも、頭を下げに来る役人や議員の数も増えてきたとは言え、まだ何もかもが劣る。
 ああ、そうだ、群がる連中が病原菌を撒き散らす事もあるハエのような存在であるのなら。
「この家はさしずめ…………」
 建物の中から聞こえる笑い声と、未だに吐き続けられているであろう死した葉留佳を罵倒、愚弄する言葉を思い浮かべ思う。
「巨大な汚物、か」
 これほどに相応しい比喩はあるまいと思う。
 自分もいつかは、それにまみれて慣れ切ってしまうのかも知れない。
 人間と言う生き物はそうやって見下している環境にも慣れてしまう生き物であり……そうして、人間以下の生き物へと成り下がって行くのだろう。
 だからこそ奴らは神を信じ、泥水が酒に変わるとのたまいながら狂気をも帯びた濁りきった瞳で、子供の頭を容赦なく踏みつけ、あらゆるものを奪い去る事が出来たのだ。
 葉留佳だけではない。それに比べれば大したことのない仕打ちでも、佳奈多自身も似たような経験が全く無いわけではなかった。
 覚えている。憎しみでもなく、意思でもなく、ただただ恐怖から逃れるために鋭い物で突き刺したくなるほどに狂った、大人たちの目を、視線を。
 非力な子供の力では出来ず、逃れられず、いつの間にか葉留佳に勝ち、その目は全て葉留佳に向けられていたのだが。
「ああ……」
 何も無い夜空を見上げ、思う。
 周りがそう見たように、本家に選ばれたように、私は葉留佳に比べれば何もかもが優秀で、劣るものなど無かったのだろう、と。
 ただ、だから、この世界の誰よりも劣っているものがあるのだと。
「この世界で一番、不出来な姉ね、私は」
 奪われた妹を取り戻そうと救おうと足掻き、けれどすれ違いもあって救えず、いつの間にか、たったひとりの妹は死んでしまった。
 覆す事の出来無い事実に、その命は、見たかったその笑顔は、完全に奪われてしまった。
 そして佳奈多は今、死んでしまった妹すら、救えずにいる。
 霞んでしまった、遠い昔に自分に向けられたはずのその笑顔でさえ、自分の中に留める事も出来ず、奪われ続けている。
 苦しかった。いつかのように、葉留佳が罵ってくれれば、どんなに楽だろうか。もしこの壊れた世界が滅びてしまえば、どんなに楽だろうか。
 立っているのも億劫になって、物置の影に座り込む。
「葉留佳」
 ごめんなさい、と謝る事すら出来ない。許されない。
「はる……、かっ……」
 情けなさに、嗚咽が混じる。
 視線の先の光の漏れる部屋で、これ以上ないほどに妹の事を馬鹿にされているのに、何も出来ない自分に腹が立って、泣き出してしまいたくなる。
 けれど、そんな当たり前の事ですらきっと、許されはしない。
 葉留佳のために泣く資格など、有していないと。

「随分と無様だなァ……えぇ? 佳奈多」

 不意に耳障りな足音と、声が聞こえた。
 頭ごと叩き割りたくなるくらいに酒臭い息を吐きながら、右手に酒瓶を持ったまま近づいてくる男。
 今の『二木家の』当主、三枝にも影響力を持つおじだ。
 無意識に、身体が萎縮する。幼い頃に叩き込まれた恐怖が呪縛のように佳奈多の身体を締め付ける。
「……なんのことです?」
「わからんか? あぁ、そうか……わからんか、なら教えてやろう」
 一歩だけ。意思ではなく、本能によって後ろに下がった佳奈多に。
 まずい、と思った時にはもう遅かった。本能の鳴らし続けていた警鐘に、理性による状況判断が追いついていない。
「ぉ、っぐ!?」
 容赦の無い膝蹴り。か細い悲鳴は出ない。
 ただ、腹の奥から音が漏れただけだ。
 脳が衝撃で軋むかのように揺れ、状況を把握するのに時間がかかる。
 ああ蹴られたのか、と分かった時に理解した。
 あの女だ、と。
 自覚も無いゴクツブシの癖に、こんなどうでもいい事は伝えたのだ。
 佳奈多が、葉留佳の死を哀しんでいる。そう知って、葉留佳を忌み嫌う連中が黙っているわけが無かった。
 迂闊だった、とは思う。
「俺たちも、葉留佳の死は哀しいさ、ああ哀しいさ。だがな……喜んでいるのは他でもない、佳奈多、お前のためなんだよ」
「なにを……がっ!?」
 酒瓶が地面に置かれ、腹を殴られる。
 脳漿ごと揺れた視線の先に、意地悪く笑んでいるあのゴクツブシがいた。
 憎々しげに睨み付けた佳奈多の前髪をおじが掴み持ち上げ、汚物そのものでしかない臭い息を漏らす。
「本家のジジババに求められる役割を果たせ、自分が勝ち得た義務を全うしろ」
「そして、あなたたちの私腹を満たせと? 冗談じゃ、うあっ!?」
 頭が引き千切れてしまいそうなほどの鋭い痛みに耐えられず呻く佳奈多に平手を食らわせた後で、おじは投げ捨てるように手を離した。
 そして、頭を踏みつけ唾を吐きかけ、たしなめるように言う。
「素直に喜んでいいんだよ、お前は。そうじゃないと愛しの妹があの世で悲しむぞ?」
「……そんなわけ」
「あのロクデナシの疫病神はきっと、楽に死ねて嬉しかったろうよ」
「…………は、ぁ?」
「なぁ、苦しんで苦しんで、姉には敵わず虐げられ惨めな思いをして育てた奴らには事業失敗の責任を押し付けられ……あぁ、もしも俺だったなら死んでしまいたい気分だよ」
 足の裏を動かされ、佳奈多の頬が砂利に塗れていく。
「反省するといい。明日には、ゴクツブシの死を祝えるようにしていろ。奴のために……な。
 それが出来なかった時には、少々きつい仕置きが必要かも知れんな」
 やはり、思考が遅れる。しかし、今までよりは確かに、動いている。
 今、こいつは何と言った? 死ねて嬉しかった?
「行くぞ」
「はい」
 最後に肩を蹴り上げた後で、おじは女に声をかけて背を向け今尚宴会騒ぎをしている部屋へ戻って行こうとする。
 あんな中で、それでも、葉留佳は、自分よりは、よほど生きたがっていただろうに。
 怒りで、頭が沸騰するのではないかと感じた。骨が溶けてしまいそうに身体が熱く、血が滾っている。
 体温が上がる。シナプスが茹だる。
 モシモオレダッタナラシンデシマイタイキブンダヨ?
「ああ、そう」
 死ねて、嬉しかっただろうか。
 ここに来て、祝うだけでなく。
 葉留佳自身の心まで陵辱し、我が物であるかのように言い、そして。
 それを、佳奈多のためだと。
「ああ、そうか」
 そうだ。
「そんなに、……そうなら」
 シオキガヒツヨウ?
 佳奈多から見れば人にすらなれていない屑ごときが、人に仕置きをすると、そう言ったのだ。
 しんでしまいたいきぶんだよ。
「く、はは、あっはははははっはっはは!!!!」
 笑う。哂う。嗤う
 ああ、なんて簡単なことだったのだろう。
 ここまで奪われて、何もかも奪われて、ようやく気付く。
 だから佳奈多は立ち上がる。

 ―― な ら 、 死 ね よ 。

 試してやる、と思う。本当に死ねるかどうか。この私が、と。
 その方法はある。哀しみに暮れて思いつきもしなかった。簡単な事なのに。
 頭が良くても役に立たないものだ。けれど、今、頭は動いた。
「アハハハハハハハ!!!!」
 佳奈多の狂いかけた笑い声を訝しく思ったのか、おじが振り向く。
「どうした? やっとわか」
 ったのか、そう言おうとした思考は、肩口に叩き込まれた一撃によって封じられた。
 おじの目には、佳奈多が、物置に立てかけられていた、鉄パイプを手にしている姿が映る。
 その姿を目に捉えたのと同時に、腹に佳奈多の飛び蹴りが入り、無様に仰向けに倒れこむ。
 先に立ち上がったのは上に乗った佳奈多の方。そのまま、おじが起き上がってくる前に顔面を足の裏で踏みつけ、胸元に鉄パイプを突き立てた。
 靴底と唇の隙間から、怒気を含んだ叫びにはならない声が漏れる。
「き、さま……」
「どうしたの? 何が言いたいのかサッパリねぇ」
 口を歪め、右目を前髪の奥に伏せて佳奈多が笑う。まるで、目覚めた悪魔みたいに。
「ころっ……!」
「殺す? 出来るわけがないわよね。傷つける事だって……もう、私しかいないんだから」
「づ!?」
「ねぇ、私に何かあった時に代わりに出来た葉留佳はもういない。何かしたら、三枝のお爺様やお婆様我がさぞやお怒りになるんじゃないかしら?」
 おじが、言葉を詰まらせる。佳奈多に言われて初めて気付いたらしい。どうしようもなく愚かだった。
 女はただ離れたところで腰を抜かしているだけだ。誰かに知らせる事も出来ない。
 害虫にも劣る生き物が何も出来ない事くらい、想定の範囲内だ。
「何かしたとして……。私が正式に本家に入って、色々引き継いだらどうしようかしら…………そうね、望みどおり殺してさしあげましょうか、おじ様?
 簡単よ、虐げる必要も敵わない誰かを用意する必要も無い。ただその力と権限を使って、社会的に抹殺してあげればいいだけだもの。
 私を育てた事で取り仕切っているだけで、たいした能力も持たない駄犬の一匹や二匹失ったところで、私や三枝の家にとってはなーんの痛手にもならないのよ?
 貴様の言葉通りなら、辛くて辛くて、自らその命を断ち切ってしまうはずよね? 貴様の言う葉留佳がそうであったように、喜びと共に」
 何かしら言おうとしたのだろうその口に踵を捻じ込み、強く押さえつけて言葉を封じる。
 これで、人の言葉も失った、正真正銘の駄犬だ。否、鳴き声を発する事も出来ない生き物にすらなれない、ただのモノだ。
「ねぇ、そこのあなた」
 顔を伏せ、口元の笑みだけを見せ、佳奈多は女に声をかける。
 脅えきった表情。死の恐怖に竦む姿。遠かりし日の、葉留佳の姿。自らのなりかけ。
 そうだ、こんなにも簡単だったのだ。
 佳奈多は、葉留佳は、この壊れた世界で何もかもを奪われてきた。
 抵抗し、取り戻そうと足掻き、そして2人して全てを失った。
 けれどせめて。心の中で笑んでくれる、幼い頃の妹の姿だけは奪わせまいと。
 でも、守ろうとするだけでは無駄。駄目。では、奪わせないためにはどうすべきか。
 守り続けるにはどうすればいいのか。やっぱり、考えれば考えるほどその方法は簡単で。

 自分自身が、奪う立場に立てばいいのだ。

 奪えば、それ以上のものを奪われる。
 下種どもの腐った脳と血にその事をしっかりと覚えさせてやって、奪い続ければいい。
 奪われる恐怖を常に隣に置いてやればいい。その恐ろしさは、佳奈多自身が身を以って知っている。
 だから、効果的である事も分かる。
「余計なことをしたあなたの処遇はどうしようかしら? 二木から追い出しても生きていけるわよね、汚物にたかる虫ごときなら」
「ひ、ぁ……」
「……まったく。許して欲しければどうすればいいか。それすらもわからないの? 葉留佳なんてわけにならないほどのゴクツブシのロクデナシね。
 いいえ……葉留佳と比べるなんて、葉留佳に悪いわね。許しの請い方もわからないなんて、葉留佳どころか猿や犬にも劣る存在よ。やっぱり虫だったのね、あなた」
 くすくすと、佳奈多は口元に手をあて、悦楽に浸るように淑やかな笑い声を真っ暗な夜空に響かせる。
 暴力に訴えれば、間違いなくこの2人に佳奈多は勝てないだろう。
 今は押さえつけていても、それは酒を飲んで酔っているからでもある。
 だから、今の内に、すべてを叩き込んでやるのだ。教えてやるのだ。奪われる側の、惨めで哀れな生き方を。
「も、申し訳、ありませんでした」
「はぁ……」
「っ!?」
 佳奈多の溜め息ひとつにも、身を竦ませる。
「言葉だけ? 本当に物分りが悪いのね。行動で示しなさいよ、奪われたくなければね」
「も、申し訳ありませんでしたっ!」
 さすがに理解したのか、すぐさま土下座をする。
 この2人の状態を見せれば、他は言い聞かせるだけで済むかも知れない。
 そう考えてから佳奈多は足を離し、近くに落ちていた酒瓶を拾い上げ、地面に叩き付ける。
 割れ、あたりには破片と半分以上残っていた酒が広がった。
「飲みなさい、儀式よ」
「ふざけっ……!」
「ふざけ? 泥にまみれた酒なんて、ただの泥水を酒になると飲まされた私や葉留佳よりよっぽど幸せじゃなくて?」
 2人して、地面を舐め始める。
 ああ、そうだ、それでいい。
「ふふ。そうそう、次期本家当主様の命令は素直に聞くものよ……そうすれば、死なない程度には可愛がってあげる」
 ぴちゃぴちゃと耳に届く音を掻き消すかのように、佳奈多は笑う。
 笑い続ける。
 幼い頃の、確かに自分に向けられた愛する妹の笑顔を、佳奈多は守り抜いた。
 そして、きっと、今も葉留佳は笑ってくれているだろう。
 不出来な姉が、やっと、妹のために何か出来たのだから。
 ああ、そうだ、もう誰にも、何も奪わせない。
 奪う側の人間だけに与えられる罪悪感など、
「ふふ、あはは、あははははははははっ!!!!!!!!」

 とびっきりの狂気に染まった笑いで、こうも容易に掻き消せるのだから。


[No.242] 2008/04/24(Thu) 10:56:09
笑う、ということ (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ@初

「……」
 行き先は真っ暗。
 
 
   笑う、ということ
 
 
「…礼」
 今日も、授業が終わった。
 僕は、となりの席に声をかけようとして、立ち止まる。
「…鈴」
「……」
「帰ろうか」
「……」
 となりの机には、手向けられた白い花。
 …そっと、バッグを手に取り、寮へと向かう。
 
 
 
 寮で、何をするというわけでもなかった。
 宿題を解いた。
 そうして、お風呂に入り、ご飯を食べて、眠りにつく。
 どうしようもなく、作業的だ。
 でも、となりには鈴がいた。
 それだけで、もう、望むものはない。
 そう思う。
 
 
 
 今日も授業が終わった。
 鈴と一緒に、寮へと帰る。
「……」
 鈴は今日も喋らない。
 いつものことだ。
「鈴」
「……」
「今日はさ、どこかにいこうか」
「……」
 返事はなかった。
 それでも、今日はどこかに行こうと思った。
 
 
 
「……」
 とりあえず、と、学校の外へと出た。
 今は七月。
 もう、とても暖かい。
「どこに行きたい?」
「……」
 返事はない。
「…じゃあ、公園に行こう」
「……」
 やはり答えは返ってこない。
 それだったら、僕が動かなくてはいけない。
 半ば使命的なものを感じ、僕は鈴と一緒に歩く。
「もうすぐ、夏休みだね」
「……」
「鈴はどこか行きたいところとかある?海とか、山とかさ」
「……」
「行きたいところがあったら言ってね。僕もある程度までなら、連れて行ってあげるから」
「……」
 そうして、目的地へと進む。
 
 
 
 無駄な話をして、時間をつぶして。
 空が夕焼けに染まる頃、ようやく、公園に着く。
「……」
「公園だよ。鈴」
「……」
「何しようか。…ブランコとか、滑り台とか、色々あるよ?」
「……」
 僕は、鈴の興味のありそうなジャングルジムへと向かう。
「……」
 鈴も一緒だ。
「ほら、登ろう?鈴」
「……」
 そうして、ジャングルジムの天辺へ。
「……」
 鈴はやはり何も言わなかった。
 …それでも僕は、一人、前へ進んだ。
 
 
 
「なあ」
「…なに?」
 同じ学年の人に話しかけられた。
 大して面識があるわけでもないが、少し、話をしたことがあったはずだ。
 …名前は、思い出せない。
「お前、どうしたんだ?ショックでどうかしちまったのか?」
「…どうって…?」
「いや、お前よく独り言言ってるだろ?」
「……」
 …独り言?
 僕は独り言を発していたのだろうか。
 まったく、見に覚えがない。
「そんなに言ってた?」
「ああ。…もしかしてお前、無意識か?…ああ、なんかいってたな。ナルコ…なんとかって」
 そうか。…それなら、あるのかもしれない。
 もしかしたら。
「…そうかも」
「そっか。じゃあ、気にしないでおいてくれ。へんなこと言って悪かった」
「ううん。…じゃあ、またね」
「ああ」
 そうして、その人は友達のところへと戻っていった。
 …少し、悲しくなった。
 でも、僕には鈴がいる。
 
 
 
 また、作業的に数日が流れ、夏休み直前。
「今日も、どこか行こうか」
「……」
 また、僕は鈴と出かけることにした。
 少しでも、鈴が喋ってくれればと思った。
 これがきっかけになればと、思った。
「……」
 それでも、答えは返ってこなかった。
「じゃあ、今日は商店街に行こう」
 
 
 
 駅前。
 人が多かった。
 周りから聞こえる、笑い声。
 …どうして、こんなに不公平なんだろう。
「……」
「鈴、行こうか」
 どうしようもない。
 どうしようもなかった。
 だから、歩いた。
 
 
 
 たまたまだった。
 そこに、大きな鏡があった。
「……」
 となりには、変わらず鈴がいると思っていた。
「鈴…?」
 鏡には、僕の姿。
 当たり前だ。鏡には目の前にあるもの全てが映る。
 でも
「…りんっ…」
 鏡に映る僕のとなりには
「…どうして」
 鈴の姿は、なかった。
 頭が追いつかない。
 いつもいると思っていた、鈴がいない。
 …どこかではぐれたか。
 そんなわけがない。
 考えられる可能性。
 それは。
「ふふっ、はははっ…」
 鈴を、あの時、助け出すことが出来なかったということ。
「あははっ、ははははははははははっ!」
 笑いが止まらなかった。
 そうだ。
 僕はずっと幻想に浸かっていた。
 …あの日から、ずっと。
 助け出せたと思っていた。
 二人であのバスの爆発から逃げたと。
 でも、助け出せていなかったのか。
 ずっと、幻想でしかなかったのか。
 全てが僕の妄想だったのか。
 ひざが崩れる。
 それでも、笑い続けた。
 
 …そうすれば、すべてわすれられる。


[No.243] 2008/04/24(Thu) 18:57:03
小さな頃の大切な想い出 (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ


私はよく夢を見る。

今は存在しない、おにいちゃんの夢。

大好きだったおにいちゃんの夢。

でも今日は、おにいちゃんの夢じゃなかったんだ。





「小さな頃の大切な想い出」





小さな子供達が草原で遊んでいる。

その子達は、追いかけっこをしているようだった。

「ほら、理樹、それじゃあ俺にはおいつけないぞ」
「まってよ恭介。ぼくにおいつけるわけないじゃない」
「はは、理樹はよわいな」
「謙吾は剣道してたからいいんだろうけど、ぼくはなにもやってなかったんだよ?」
「俺としょうぶしてたらつよくなれるぜ」
「真人にかてるわけないよ」
「理樹はよわい」
「鈴にいわれるとかなりおちこむよ…」

そう、これはずっと昔のリトルバスターズ。

まだ私達と出会っていない頃の、リトルバスターズ。

そんな夢を何で私は見てるんだろう。


「うわぁ!」


どさっ


小さな理樹君がこけた。

「いったたぁ…」
「大丈夫か、理樹」
「はは、やっぱり恭介たちにはかなわないよ」
「いや、俺は理樹みたいにそんなこけ方はできない」

小さなきょーすけさんに賛同するように、他の3人も頷いた。

「ぜんぜんうれしくないよ…」

りきくんは少し拗ねているようだ。
なんだか見ていて微笑ましい。

私がこのぐらいの時も、よくおにいちゃんに慰められたな。


☆ ★ ☆


「おにいちゃん、おいかけっこしよう」
「病院(ここ)で?」
「うん、ここで」
「えーっと、人の迷惑になっちゃうよ」
「じゃあお外で」
「うーん…じゃあ屋上でしようか」
「うん!」

おにいちゃんは優しかった。
私がやる事は大抵付き合ってくれた。
自分の体はそんなことを出来る体ではないのに。
でもその頃の私は、そんなこと、よくわからなかったから。

「でも、もうお昼だから、お昼ご飯食べてからな」
「えー」
「俺もう腹減って、追いかけっこなんかしたら倒れちゃうぞ」
「えー」
「だから、な?」
「うん。じゃあはやくたべてあそぼ」
「って小毬はお昼ご飯どうするんだ?」
「おにいちゃんのをもらう」
「病院(ここ)のご飯なんて美味しくないぞ?」
「うん、いいの」


私とおにいちゃんは二人で一人分のお昼ご飯を食べて屋上に出た。

「ほら小毬、俺を捕まえてみろ」

そう言っておにいちゃんは走り出す。

「よーし」

私はおにいちゃんを追いかける。

でも、おにいちゃんは予想以上に走るのが速く、なかなか距離が縮まらない。

「どうした小毬。早く捕まえろよ」
「うぅー、おにいちゃんはやいぃ」

必死でおにいちゃんを追いかける。

「わぁ!」


どさっ


足をつまずき、私は顔の方から地面へ。

「小毬! 大丈夫か」
「うぅぅ…いたいぃ」

私は涙声だった。

「ほら、痛いの痛いのとんでいけー」

当然、そんなことを言っても痛みが無くなる訳もない。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」

とうとう私は泣きだした。

「小毬」

おにいちゃんは優しく私を呼びかける。

「小毬が泣いたら、俺も悲しいよ」
「どう、して?」

嗚咽の混じった声で私は訊く。

「俺は小毬の笑っている姿が好きなんだ。小毬が泣いてるところなんて見たくない。少しでも長い間、小毬の笑顔が見ていたいんだ」

きっとこの時にはもう、自分が近いうちに死ぬ事を予感していたんだろう。

「だから、な? 笑おう、小毬」
「うん」

でもその頃の私はそんな事も知らなくて。

ただ純粋に、おにいちゃんと笑って過したいと思っただけだった。

ずっとこうして遊んでいられれば良いと思っていた。

「えへへー」
「じゃあ続きするか」
「おにいちゃんつかまえた!」
「え、あ!」

泣き止んだ私は、おにいちゃんの袖をしっかりと掴んでいた。

「あはははは、泣いたのは小毬の作戦か?」
「うん! そうだよー、えへへー」

私達は、空が真っ暗になるまで、遊び続けた。


☆ ★ ☆


「恭介つかまえた!」
「え、あ、おい、今のはなしだろう」

理樹くんはきょーすけさんの袖をしっかりと握っていた。

「今のはお前をたすけるために…」
「でもタイムともなにもいってないもん」
「ま、今のはゆだんした恭介がわるいんじゃねぇの」
「そうだな」
「しかたないか」
「うん」

ほら、ときょーすけさんはポケットから飴玉を取り出し、理樹くんに手渡す。

「まさか理樹にわたるとはな」
「へへー、ゆだんするからだよ」

理樹君は飴玉をもらって嬉しそうに笑っていた。
でも、飴玉をとられたきょーすけさんもなぜか笑っていた。
それどころか、他の3人も笑っていた。

「よし、じゃあ今度はとるぞ」
「え、まだやるの?」
「あたりまえだろ、日がくれるまでやるぞ」
「飴玉は?」
「さいごに残ってる分だけもらえる」
「えー、せっかく手にいれたのにー」
「いっかいで終わっちまったら、あめの数も1個しか変わらないぞ」
「よし、次はあたしが全部もらってやる」

そういってりんちゃんは走り出す。

「あめってあくりょくいくらあったらつぶせるんだ?」

真人くんが走り出す。

「そんなこと知るか」

謙吾くんが走り出す。

「ほら、ぐずぐずしてないでやるぞ」
「う、うん」

きょーすけさんと理樹くんも走り出す。

文句を言っていたわりに、理樹君は終始笑顔のままだった。

きっと飴玉をもらうことよりも、きょーすけさんを捕まえたことよりも、

皆と遊べる事が嬉しかったんだろう。

その後もずっと、その草原に笑い声が絶える事はなかった。





夕暮れ。

「もう夕方か」
「時間がたつのってはやいね」
「さ、何個飴玉もってるか言っていくぞ」
「あたしは3つだ」

りんちゃんがポケットから飴玉を取り出して見せる

「俺は2つだ」

真人くんも手のひらに飴玉を乗せて見せる

「俺も2つだ」

謙吾くんも飴玉をポケットから出す。
手のひらに乗せた瞬間、真人くんが謙吾くんの飴玉を1つ盗んだ。

「あ、おい」
「ゆだんしてるからだよ」
「この、返せ!」
小規模な乱闘が起こる。

「わぁ真人、謙吾、やめなよ」
「おい、真人、返してやれ」
「いやだね、こいつがゆだんしたからわるいんだぜ?」
「おい真人」

きょーすけさんは止めに入っているがなかなか治まらない。
りんちゃんは呆れたようにそれを見ている。
理樹くんはあたふたしている。
でも、すぐに理樹くんが提案した。

「ほら真人、僕の1つあげるから、ね?」
「お、いいのか理樹!」
「うん、だからそんな争い止めよう」
「いいわけないだろ」
「でも、このままじゃ…」
「だいたい理樹、お前いくつ持ってるんだ」
「え、えっと、1つ」

結局理樹くんはあの後ずっととられてばっかりだった。

「ならもっとダメだ。真人、お前は罪のない理樹の大切な飴玉をとるのか?」
「う…」

真人くんが固まる。

「わ、わぁったよ、返すよ、ほら」

真人くんは謙吾くんへ飴玉を返す。

それにしても、やっぱり理樹くんは優しいな。
1つしかないのに、何も悪い事とかしてないのに、あげようとする。
それも理樹くんの『幸せスパイラル』なのかな。
小さい頃からそんな事できるなんて、理樹くんは凄いなぁ。

「そういえば恭介はいくつなの?」

思い出したように理樹くんはきょーすけさんに訊く。

「ん? 俺は7つだ」
「一人勝ちだったもんねぇ」
「みんな弱すぎなんだよ」

そう言ってきょーすけさんは笑った。

「さ、もう暗いし、帰ろうぜ」
「そうだね」
「明日はなにして遊ぶかなぁ」

そうして理樹くんたちは暗闇に消えていった。


☆ ★ ☆


「さ、そろそろ病室に戻るか」
「えー、もっと遊ぼうよぉ」
「ダメ、上を見なよ、もう真っ暗だぞ」
「もっと遊びたいーー」
「俺ももう疲れた、何時間やったと思ってるんだ」
「おにいちゃんなかなか捕まえられないー」
「それは小毬が遅いからだ」
「むーー」

確かにおにいちゃんは速くてなかなか捕まえられなかったけど、私はおにいちゃんと遊べて嬉しかった。
おにいちゃんと遊ぶだけで、私の心は満たされていった。

だから私はそっぽを向いて拗ねたフリをする。
あくまでフリ。

そのフリもすぐに止め、笑顔に戻る。
自然に出る笑み。
見ると、おにいちゃんも笑っていた。
満面の笑みで、笑っていた。

「さ、戻ろう」
「うん!」
「明日は室内で遊ぼうな」
「なんで?」
「かなり疲れたから」
「えー、明日もお外で遊ぶのー!」
「一日は休ませてくれ」
「じゃあ、かくれんぼ」
「ん、まぁかくれんぼぐらいなら、いいか」

そんな事を話しながら私達は病室に戻っていった。


☆ ★ ☆


朝、清々しいほどに晴れた朝。

「ん〜…」

ひとつ、背伸びをする。それから身支度を整えて学校へ。
といっても寮生活だから、そんなに時間はかからないんだけど。

「おはよう、小毬さん」

理樹くんが笑顔で挨拶をしてくれる。

「うん、おはよーございます」

私も笑顔で返す。

「ほら、理樹、小毬、遊ぶぞ」

きょーすけさんが私達を呼ぶ。

「え、朝から遊ぶの?」
「当たり前だろう」

何故だろう、そんなやり取りを見ているだけで笑みがでてくる。

やっぱり、あの夢を見たからかな…。

「よし、今日は…そうだな、追いかけっこをしよう」
「追いかけっこ? 鬼ごっこじゃなくて?」
「そうだ、全員が敵だ」
「っで、どんなルールなの?」
「全員この飴玉を3つずつ持ち、捕まえられたやつは捕まえたやつにこの飴玉を1つやること。時間は放課後まで、以上」
「長いね、時間」
「そうでないと面白くないだろ」
「まぁね」
「よし、じゃあ30秒後にメールを全員に出すからそれが開始の合図だ」

今日見た夢も、そんな内容だった。

でも今回は、理樹くん達5人だけじゃない。

はるちゃんやくーちゃん、ゆいちゃんにみおちゃん。

そして、私がいる。

きっとこれだけ揃えばとても楽しくなる。

夢の中の理樹くんたちも楽しそうだったけど、今からやるのはもっと楽しそう。

高校生になっても皆は子供心を忘れていない。

笑うことを忘れていない。

私もそう。

皆で楽しく遊ぶ事が出来る。

それがとても嬉しい。

だから、私は幸せ。


おにいちゃん、おにいちゃんが死んだ日、おにいちゃんは私に自分がいた事を夢と思えって言ったよね。
私はそれを守ったよ。
だから、今まで笑顔のままで過せてきた。

でも、おにいちゃんが本当にいて、今はもういないってわかった今でも、私は笑っていられるよ。

もちろん、おにいちゃんがもういないっていうのは寂しいし、悲しいよ。

それは乗り越えられない。

でも、理樹くんに笑っていられる強さを与えてもらったから。

おにいちゃんも私の悲しむ姿より、笑っている姿の方が好きだって言ってくれたから。

だから、私はずっと笑っているよ。

どんな事があっても、笑っているよ。

天から見守ってくれているおにいちゃんも、きっと笑ってるよね。

私もおにいちゃんの笑ってる姿が大好きだから。


一人が笑うと皆が幸せになり…皆が笑うと、世界が幸せになる。

世界が幸せで包まれるように、私はこれからもずっと笑っているから…。


[No.244] 2008/04/24(Thu) 20:17:47
夏祭りトーク (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ

 夏。
 夏祭りの会場から少し離れた山の中腹で僕は来ヶ谷さんと一緒にいた。射的やらなにやらで、二人とも疲れ果て、休んでいる。僕は普段の格好で、来ヶ谷さんは和服を身に纏っていた。「どうだ、惚れ直したろう?少年」と、来ヶ谷さんに待ち合わせ場所でいわれてすごくどきどきした。
 今日は来ヶ谷さんとつきあってから、初めての夏祭りだった。虚構世界で僕と来ヶ谷さんの二人ともが虚構世界でのことを思い出し、それがきっかけで僕たちは付き合いはじめた。僕と、来ヶ谷さんがつきあい始めたきっかけ、来ヶ谷さんとの恋人同士としてのやりとり、そして終わらない6月20日のことなど全部。それらすべてを僕たちは思い出していた。
「風が、気持ちいいな」
 髪をたなびかせながら、笑みを――本当に素敵な笑みを浮かべながら、来ヶ谷さんがいった。
 僕が目を離せないくらい、本当に素敵な笑顔だった。
「どうした?少年、おねーさんに見とれたか?」僕の視線に気づいたのだろう、来ヶ谷さんがいった。
「うん」
 自然と言葉が口から出た。僕のこの言葉に来ヶ谷さんが顔を真っ赤にする。
「……少年は本当に女殺しだな、この独特な雰囲気を楽しみたいから、軽口をたたいたのに無意味じゃないか」
「だって、本当に笑顔、かわいかったし」
 僕がそういうと、来ヶ谷さんがふむ、といいながら、手を口元にやった。
「少年にそういってもらえると、うれしいよ」
 この言葉では来ヶ谷さんは、顔を真っ赤にせず、ただ、うれしそうに微笑んだ。…ちょっと、意外だった。顔を真っ赤にする、とおもったのに――いや、別に来ヶ谷さんの顔を赤くするのが目的ではないんだけど。
「今の、君にならいってもいいかな」
「何を?」
「本当の、ことを」
「本当の、こと?」
「――君がきっと、勘違いしていることだ。聞きたいか?」
 来ヶ谷さんは笑顔でそういったので僕は「聞きたい」と答えた。そういうと、来ヶ谷さんは話し始めた。




「本当に、私は笑わない、子どもだったんだ……笑い方を、知らなかった…というより人間に興味をもてなかった」
「興味が、もてない?」
「他の人が、笑おうが、泣こうが、私にはどうでもいいことだったんだよ、嫉妬すら覚えていなかった」
「?」
 最初と最後の言葉が僕にはつながらなかった。
「普通、私みたいに笑えない人は、嫉妬を覚えるものなんだよ。少年、この感情わかるか?」
「いや、わかんない」
 僕にはわからなかった。理解することが出来なかった。
「そう、か。少年はいい人生を歩んできたな。まぁとにかくだ。私はそれすら覚えなかったロボットのような存在だったんだ……少年。私は笑い方をしらなかった、どうして笑うのか、わからなかった。君と付き合い始めて、初めてわかったんだ、何もかも」
「でも、来ヶ谷さん、笑っていたじゃない」
 教室でよくみる来ヶ谷さんはよく笑っていた。鈴や、クドで遊んで。僕がそういうと、来ヶ谷さんは少し考えていう。
「たとえばだ、少年。少年にとって非常に難しい、数学の宿題を出されたとする。他の人の力を借りずに解かないといけないとしたら、どうやってその問題をとく?」
 僕は少し考える。
「参考書をみる?」
「そうだな、それが普通だ」
 それが何の関係が…、そこまで考えて、わずかばかりだが僕はぞっとした、ぞっとなんか、したくなかったのに。来ヶ谷さんに対してぞっとしたことがたまらなく嫌だった。
「つまりはそういうことなのだよ、少年。私は人間の行動パターンを覚えるため、本を読んだんだ。こういうときに人は笑う、こういうときに人は泣く、そういうことを覚えた。信じられない、とおもうだろうけどな」
「……」
 僕は何も言うことが出来なかった。
「そして私は人と付き合い始めた。この学園に来てからもそれは続いた。クドリャフカ君や鈴君や小毬君をかわいい、と思ってああする自分は、作り物、なんだ。楽しかったが、正直、苦痛だと思ったこともある」
 僕の顔をちらり、と来ヶ谷さんはみて、再び話し始めた。
「君にクドリャフカ君をルームメイトとして紹介されたとき、断ったのは、寝るときくらい一人でいたい、と思ったからだ、そっちのほうが、落ち着くからな…、私を軽蔑するか?」
「……」
 僕は何もいえなかった。
 こんなとき、恭介だったらなんていうんだろうか。そこまで考えて、気づく。
「…しないよ、僕は」
 だって。
「そうなりたい、と来ヶ谷さんは願ったんでしょ?そうなった来ヶ谷さんに惚れたんだから。それに、来ヶ谷さん、今では苦痛じゃないんじゃない?」
「ああ」
「だったらいいじゃない、僕だって、こんな人になりたい、そうおもって変わってきた、と思うから」
 恭介みたいになりたい、であったころから、僕はそうおもった。その頃の僕と比べれば、僕だって成長しているはずだ。そのほかにも僕だって、いろいろなものに影響されて変わった。それを思えば、来ヶ谷さんがちょっと特殊だっただけだ。
「来ヶ谷さんは考えすぎなんだと思う、今までそういうこと、意識してなかったからしょうがないとおもうけど」
 以前、来ヶ谷さんは自分を不幸だとしらなかった、そういっていたことを思い出す。自分が変わることをしらないこと。それはひょっとしたら、本当に不幸なのかもしれない、そんなことをふと思う。
「…ありがとな、理樹君。理樹君に相談して本当によかった」
 僕の言葉に来ヶ谷さんはそう、いった。




「それにしてもどんな本読んだの?」
 何かすごいチョイスしたとおもう。
「少年誌、青年誌、少女漫画その辺をかたっぱしから」
「男子のことについて間違った認識をもっているのはそこから来ているんだね」
 いくらなんでも「あの子のおっぱい世界一」とか男子は叫んだりしないし、国道を裸で走ったりはしない。
 そんなことやる男子がいたらただの変態だ。
 と、来ヶ谷さんがきっと僕をにらんだ。…あ、失敗した。
「ん?今、何をいったのか、聞こえなかったな」
「いや、ごめん」
「男子の認識が間違っている、と聞こえたんだが」
「いや。そんなことないです」
「だったらなんで、私は、こんな格好をしているんだろうな?」
 来ヶ谷さんはそういいながら自分が纏っている和服を見た。来ヶ谷さんが今纏っている和服ところどころ破れていて、着るという表現はおこがましく、纏う、という表現が適切なくらいな格好だ。(僕的には、纏っているという表現だと布がすこしでもかかっていれば纏っている、という表現でいいとおもう、うん…実際にどうかはしらないけど)
 しかもその和服は土やら白いなんやらで汚れている。
 何をしていたのか言及するのははばかれるし、白いなにやらの正体についてはまちがってもいうことは出来なかった。
「まったくこんなところで人に見られたらどうするつもりだったんだ」
「だったらこの場から早く離れようよ」
「君とピロートークならぬ、夏祭りトークを楽しみたかったんだ、前にもいったとおり、女性が満足を感じるのは男性と違い、”コト”のあとだと」
「ってかそういうことをいうってことは来ヶ谷さんもノリノリだったって…あいたっ」
 蹴られた、超蹴られた。
「まったく、理樹君は…本当に私以外を彼女にするとダメな人だな、私以外に理樹くんみたいな鬼畜な人と一緒にいれるひとなんていないぞ?」
「…だね」
「…だからそう、ストレートに答えるな、と」
 そういう来ヶ谷さんの顔は真っ赤だった。
 さっき顔を赤くするのが目的じゃない、といったけどやっぱりこの顔をみていたい。
「でも、それが理樹君か。――これからもよろしくな」
 来ヶ谷さんが笑みをうかべる。
「うん」

 その来ヶ谷さんの笑顔に僕は力強く、そう答えた。


[No.245] 2008/04/25(Fri) 18:30:17
Engel Smile (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ

 朝。
「わふーーーっ」
 クドリャフカの寝顔をみることで私の一日は始まる。本当にいい笑顔をクドリャフカは浮かべていた。天使の笑顔なんて、もちろんみたことはないがもし天使の笑顔があるとしたら、きっと今、クドリャフカが浮かべている笑顔と同じものだろうと思う。寝言がわふーっということは、今までの経験上、クドリャフカは今、本当にいい夢をみているみたいだ。
 クドリャフカと暮らし始めてだいぶたつが、クドリャフカの笑顔には本当に癒されっぱなしだった。
 私はぼんやりと、昔のことを思い出していった。





 彼女のことをはじめて知ったのは、先生から渡された写真つきの文書だった。
「明日より、この学園に外国人が転校してきます、名前は能美クドリャフカ。日本語は十分、話せるようですが、不慣れなことや日本の習慣にとまどったりすることもあるでしょうから、風紀委員として、彼女が困っているのを見かけたときは、彼女の手助けをしてあげてください」
 先生からわたされた文書を、風紀委員の前でよみあげながら、犬みたいな名前の、かわいらしい子だな、とおもった。それがクドリャフカに対する第一印象だった。それから、なんとなく校内の見回りのときに、彼女のことを気にするようになっていた。
「わふーーーっ」
 彼女はみると、いつも笑っていた。彼女の笑顔は、なんというか昏い(くらい)ところがなかった。言い方は悪いが、本当に子どもが浮かべるような笑顔で、心の底から楽しく、純粋に、無邪気に笑っている。彼女はいつも、笑顔だった。本当に、この世につらいことなど、ないとおもっているくらいに。
 もちろん、彼女だって辛いことがあることはしっている。
 私が現場にいあわせたことはないが、外国人のクドリャフカが英語をはなせなくてからかわれていることは聞いていたし、他にも外国暮らしが長かったから、きっと、彼女なりに悩みがあるのではないか、ということは容易に想像がつく。
 ――でも、彼女は笑っているのだ。一点の、曇りもなく。彼女の笑顔をみるだけで、自分の卑近さをどうしても感じてしまうくらい、彼女の笑顔は私にとって――笑った記憶がほとんどない私にとって――本当にまぶしかった。
 私はそんな彼女の笑顔を遠めで見ているだけだった。



 転機がおとずれたのは5月18日のことだった。
「わふ…」
「?」
 珍しく私は落ち込んでいるクドリャフカをみかけた。落ち込んでいるクドリャフカを見かけることは本当に珍しい、というか初体験だった。私が彼女とであうときは、彼女はものすごい笑顔をうかべているか、笑顔を浮かべているか、どちらかしかなかったから。
 その姿をみていると、心が痛んだ。彼女は私にとって、いつも笑っていなければいけない存在だから。そこまで考えて、顔が赤くなったのを自分でも自覚できた。何を言っているのだろうか。私は――かなり恥ずかしいことを思っていたような気がする。
「やっぱり、無理なのでしょうか」
 クドリャフカのその声に、聞き耳を、たてる。いったい何がクドリャフカを悩ませているのか。もし、私に出来ることがあるのなら、おこがましいかもしれないが、彼女の手助けをしてあげたい。そう、おもった。
「ルームメイト、見つかるでしょうか…一人で夜を過ごすのは寂しいこともあるので見つかってほしいのですが」
 なるほど、ルームメイトになってくれる人がいないので悩んでいるらしい。
「ま、悩んでいてもしょうがないです」
 そういって、笑顔をうかべて、犬と戯れ始めた。やっぱり、彼女には笑顔がよく似合う。
 できれば、彼女にはずっと笑っていてほしい。こんなこと思うのは、妹を除いては、初めてだった。


 だから。


「うん、そうしよう」
 ちょうど私が一人で暮らしていたことも幸いした。
 私みたいな堅苦しい相手と一緒にいたい、という物好きはいないみたいで、私は一人で暮らしていた。

 大丈夫、きっとうまくやれる。



 それから、彼女とルームメイトになれたときは、本当にうれしかった。

「今思えば本当に大胆なことをしたものね」
 自分で自分がしたことが信じられない。でももちろん後悔はしていない。後悔なんかするはずがない。
 クドリャフカと暮らしていて、何度救われたかしらない。「佳奈多さんルームメイトになってくださりほんとうにありがとうございました」そう、クドリャフカは、同じ部屋で暮らすときにいっていたが、自分がなんど私を救ったのかきっと彼女はしらないだろう。
 感謝してもしきれないくらい、彼女の笑顔に救われてきた。実家で嫌なことがあっても、しょうがないとはいえ、妹にとても酷いことをした自分に嫌気がさしても、彼女の笑顔をみるだけでだいぶ心が軽くなった。
 そこまで考えたとき、彼女の顔がぴくり、と動いた。
「おはようございますーーっ」
 天使が、目覚めた。
「おはよう、クドリャフカ」
 私は、できるだけ笑顔で彼女につげる。――今の私は少しは昔と比べて、笑えているのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。
「おはようございます、佳奈多さん」
 クドリャフカもまた、私に笑顔でこういった。いつもどおり、本当に無邪気な笑顔で。
 こうして今日も私の一日が、はじまる。
 きっと彼女の笑顔がある限り、私はきっと、がんばれる。そうおもった。


[No.246] 2008/04/25(Fri) 18:30:18
誰かが何かを望むと誰かがそれを叶えるゲーム (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ


私には葉留佳という妹がいる。

その葉留佳は学年、いや、学校のトラブルメーカーで、問題ばかり起こしては私達風紀委員を困らせている。

でも、そんな彼女は誰とでも接することができる。
棗鈴なんかの人見知りな子とも、持ち前の明るさで仲良くなることができた。

その葉留佳を知らない人は学校中そうはいない。

でも、私はどうだろう?
葉留佳の片割れである私は。

風紀委員長の私は、一言で言えば『皆の敵』。

風紀を乱す生徒に厳しく接するからだろうか、私と親しくしてくれる生徒は数えるほどしかいない。
それどころか、誰もあまり話しかけてくれない。
たぶん、私の存在は知っていても、それはあくまで『風紀委員長』というわけで、私の名前を知らない、という生徒が多いんだと思う。

今まで私はそれで良いと思っていた。
諦めていたのではなく、満足していた。

でも、いつからか私は、皆と楽しくやっている葉留佳のことが、羨ましいと思い始めていた…。

私も葉留佳のように、皆に好かれたい。
葉留佳のように、皆と楽しく笑っていたい。

だから私は、これからは皆に明るく接していこうと思った。





誰かが何かを望むと誰かがそれを叶えるゲーム





1時限目の休み時間、廊下で直枝理樹を見つけた。

「おはよう、直枝理樹」
「あ、おはよう…ってどうしたの? 二木さん」
「何かおかしい?」
「え、いや、別に…」

嘘なのはわかってる。
初めから笑顔でいる人が笑顔でいるのは普通。
でも、今まで笑顔じゃなかった人が、急に笑顔で声をかけてきたら、おかしく思うのは当然でしょう。
そんなことわかってるんだから、隠さずに言ってほしい。
だから言ってやった。

「言いたい事があるならはっきり言いなさい」
「いや、何でもないよ」

知ってる?
人って、はっきり言われるより、何も言われないほうが悲しく思う生き物なのよ。

そんな心の叫びに気付いたのか、直枝理樹はおずおずと言う。

「えっと、何で笑顔なのかなって思って」
「別に理由なんてないわよ、駄目かしら?」
「いや、そんなことはないけど」
「そ、じゃあ私は仕事があるから」

最後まで直枝理樹は怪訝そうな顔をしていた。

本当ならここで本当の理由を話しておくべきだったのかも知れない。
葉留佳のように皆と仲良くしたいって。
でも、私はそんなに正直にはなれないから。
私は不器用だから。
だから私はそっぽを向くことしかできなかった。


昼休み、私は直枝理樹達のクラスへいった。
目的は…さぁ、私にもわからないわ。

教室をのぞくと、直枝理樹達が何かをしようとしているところだった。

「じゃあ、ストラックアウトでもするか」
「でもやるための道具とかないよ?」
「いや、実は用意はしてある」
「どこに?」
「前を見ろ、前を」
「え? ってうわ! なんかパネルとか置いてあるし!」

黒板の前には縦横3枚のパネルがはまった台が設置されていた。

「っていうかここでやるんだ。他の人の迷惑じゃない?」
「いや、訊いたら是非やれって」
「そうなんだ!?」
「ちなみに、パネルの裏にはミッションが書いてある。それをクリアしたらOK」
「最後に残った一人は九人全員にジュースおごりだ」
「また凄い提案だね…」
「緊迫した雰囲気を楽しむのもゲームの1つだ」
「まぁ…」

ストラックアウト。
あなた達としたら、楽しくなりそう。
私も一緒になってやりたい…。
風紀なんていう、堅苦しいものなんて気にしないで、皆で一緒にそんなことをしてみたい。
そんなことを言ったら、皆は仲間に入れてくれるかな…。


○       ○       ○


「ねぇ、私も入れてくれないかしら」
「あれ、二木さん」
「駄目かしら?」
「いや、いいぜ」
「ついにおねえちゃんも参戦だねー!」
「ふふ、そうね」
「ならおかしくなるが、パネル一個増やさないとな」



スパンッ


「お、二木、早速当てたな」
「簡単よ、こんなのは」

私はパネルの裏を見る。

『リトルバスターズに入る』

「…え」

本当に…?
私なんかが、あなた達のような人達の仲間になってもいいの?

「さ、二木、どうするんだ?」
「え…」
「入るよな?」
「え、えっと…」

迷うことなんてない。
入らせてくれる機会さえあるのなら、あなた達が受け入れてくれるなら、私は喜んで入るわ。

「えぇ、入るわ」
「よし、じゃあ今日から二木もリトルバスターズの一員だ」
「じゃあ、よろしく」

お辞儀をしてあいさつをする。
顔を上げると、皆が笑顔で私を迎えてくれていた。
あぁ、私は本当に、叶えることができた…。
ずっとずっと入りたかったこのリトルバスターズに、私は入る事ができた…。
これで私は、葉留佳と一緒に笑って過ごすことができる。

葉留佳の方をみると、葉留佳も笑顔で私を迎えてくれていた。


○       ○       ○


ふと気付くと、私は頬に数滴の涙を伝わせながら、教室の前に立っていた。

「さて、始めるぞ」

直枝理樹達は教室の中でストラックアウトを始める。
その中に私はいない。
そう、私はまだ、孤独のまま。
誰にも笑うことができず、皆から敵視されている存在。

そんな私が、彼等の中になんて、入れるわけがなかった。


スパンッ


「お、理樹、一発目から当てるとはすげぇな」
「あはは、僕も運動神経上がったかな」
「え〜っと、理樹のミッションは…」

楽しそうな彼等を見ているのは、私には耐え難い。
あまりにも、私は間違えすぎたから。
本当は彼等のように楽しく生活したかったのに。
私はそれをしなかった。
皆に冷たく当たり続けた。
大切な葉留佳にも、ずっと冷たく接していた。
初めから笑っていれば、今頃私だってあの輪に入れてたと思う。
今見た幻覚のように、皆とストラックアウトが出来たんだと思う。
でも、私はこんなだから。
今頃皆と仲良くなんて、できないから。

私は涙を俯いて隠しながら自分の教室に戻った。


○       ○       ○


放課後、私はグラウンドへ行った。
直枝理樹達が放課後に野球をしているのはかねてから訊いていたから。


カンッ


「わぁ、理樹くん飛ばしすぎッ!」
「ごめん!」

葉留佳が宙を舞うボールを追いかける。


ザザーーッ


そして葉留佳はダイビングキャッチをしてボールを捕った。

あぁ、そんなことをしたら服汚れるわよ、葉留佳。

「あぁ! 服が汚れたぁ!」

ほら見なさい。

「理樹くんのせいだよーー!」
「えぇ、僕のせいなの!?」

愚痴を言いつつも、その葉留佳の表情は笑ったままだった。

ねぇ葉留佳。
どうしたらあなたのようにいつも笑っていられるの?
どうしたら私は、皆と仲良くなれるの?
教えて、葉留佳。
私もあなたのような存在でありたいのよ…。


○       ○       ○


葉留佳 Side


カンッ


理樹くんが打った球は私の頭上を抜けた。

「わぁ、理樹くん飛ばしすぎッ!」
「ごめん!」

でもこれは特大のフライ。
これくらいなら追いつける。


ザザーーッ


余裕で追いつけるけど、敢えてダイビングキャッチをした。
勿論、そのほうが楽しめると思ったから。

服を汚れるのは承知だったけど、ここは理樹くんをいじめる絶好の機会。

「あぁ! 服が汚れたぁ!」

わざとらしく高々と声をあげる。

「理樹くんのせいだよーー!」
「えぇ、僕のせいなの!?」

勿論、誰のせいでもない、飛び込んだ私が悪いんだけど。
でも、理樹くんいじめるの楽しいから。
ごめんね、理樹くん。

「やはは、まぁいいんですけどネ」

やっぱり楽しい。
リトルバスターズに入ってから、楽しい事ばっかり。
リトルバスターズの皆といれば、ずっと笑っていられる。
でも、何かが足りない気がする。

そんなの考えなくてもわかる。

二木佳奈多(お姉ちゃん)がいないから。

お姉ちゃんがいれば、きっと今のリトルバスターズはもっと楽しくなる。
お姉ちゃんはいつもはあんな性格でも、本当はとても優しい。笑うことだってできる。
だから、お姉ちゃんもきっと、笑う機会があれば、きっと…。

ふとした時に、小さなことが気になりだすのは世の必然。
気にしないでおこうと思えば思うほど、気になる。

私の視界の隅に、人らしきものが映った。
目を凝らす。

お姉ちゃんだ。
私達のほうを見ている。
でも、そのお姉ちゃんは寂しそう。
涙を流しているようにも見える。
ほんの少し風が吹いただけで、崩れ去りそうなくらい、弱々しい。

「おねえちゃーーーーん!」

私は叫んだ。


○       ○       ○

佳奈多 Side


「おねえちゃーーーん!」

葉留佳の声が聞こえる。
私の存在に気付いたんだろう。

「おねえちゃーーーーん」

私は立ち去ろうとする。

本当なら、返事をしたい。
大声で、葉留佳の声に応えたい。
でも、そんなこと、私は今までしなかった。
だから、今もできない…。

「いっしょに野球しよーーよ!」

足を止めた。
葉留佳、そんな言葉を、私にかけてくれるの?
こんな冷えきった私に、声をかけてくれるの?

「ぜったい楽しいから、ね! いっしょにやろーー!」

そうね、きっと楽しいわね。
あなたが楽しそうなんだから、それが私にとって楽しくないわけ、ないでしょうね。
でも私はあなた達と一緒にいることなんてできない…。

「二木さん、ほら、おいでよ!」

…え?

「佳奈多さん、れっつ・あ・べーすぼーるなのですっ!」
「佳奈多君、早く来るがいい」

私を受け入れてくれている?

「ほら、二木、ぐずぐずしてないで早く来い」
「一緒に筋肉つけようぜ」
「二木も、野球ぐらいはできるんだろ?」
「かなちゃん、一緒にやりましょ〜!」
「や、やるならさっさと来い!」

あんまり面識のない人達まで、私のことを呼んでくれている…。

「早く行ってはどうですか? 二木さん」

いつの間にか隣には、確か、そう、西園美魚が立っていた。
彼女もまた、私の後押しをしてくれる…。

「ほら、お姉ちゃん。皆待ってるよ」

葉留佳が近づいてきて私の手を掴んだ。

「で、でも葉留佳」
「一緒にやれば、絶対楽しいよ、ね?」
「でも私は…」
「それに、お姉ちゃんがいないと、なんだか物足りなくて…」
「っ! 葉留佳っ」
「だから、ね?」

葉留佳、あなたは私にきっかけをくれるの?
皆の前で笑うことのできない私に、笑うきっかけをくれるというの?

「きっとリトルバスターズに入れば、学園生活が楽しくなるよ」

葉留佳がそれを私に与えてくれるというのなら。

「お姉ちゃんの笑う姿、もっと見たいよ」

私は喜んで受け取らせてもらうわ。

「だから入ろうよ、リトルバスターズに」
「えぇ、そうね…」

ありがとう、葉留佳。


○       ○       ○

葉留佳 Side


昼休みの終わり、私は理樹くん達に言った。

「ねぇ皆、お願いがあるんだけど、いいかな?」

皆の視線がこっちを向く。

「お姉ちゃんを、リトルバスターズに入れてくれないかな」

突然だったから驚いたかな、と皆を見ると、そんなに驚いた風には見えなかった。

「いいぜ、二木佳奈多だったっけか? 大歓迎だ」

恭介君が賛成してくれる。

「うん、いいよ」
「大歓迎だよ〜」

恭介君に続き、皆も同じ意見だった。

「じゃあ誘いに行くか」

恭介君が誘いに行こうと提案する。

「あ、駄目だよ」

私はそれを止める。

多分、いきなり面識の少ない人が誘うと怪しまれる。

「今度私が誘ってみるからさ、そのとき皆も一緒に誘ってよ」
「まぁそれならそれでいいが」

もちろん、皆もOKを出してくれる。

これで後はお姉ちゃんに声をかけるだけ。


5時限目が終わったらすぐに声をかけようとしたけど、いなかった。

6時限目が終わった時も、同等にいなかった。

仕方なく、野球の練習へ行く。

そして、お姉ちゃんを見つけた。

「おねえちゃーーん!」

そう叫んでも、お姉ちゃんは返事をしてくれない。
それでも私は言い放った。

『一緒に野球をしよう』と。

その言葉を先駆けに、皆もお姉ちゃんを誘ってくれた。

すかさずお姉ちゃんのところへ行った。
お姉ちゃんは皆と遊ぶきっかけが欲しいだけ。
きっかけさえあれば、お姉ちゃんは皆と楽しく遊べる。
だから私はお姉ちゃんの手を掴んだ。
そしてお姉ちゃんは『リトルバスターズに入ろう』という私の言葉を受け入れてくれた。


○       ○       ○

佳奈多 Side


「よし、そうとなればテストだな」
「やっぱりやるんだ」
「リトルバスターズに関心がある」
「えぇ、とてもあるわ」
「合格」
「それテストなのかな…」

そんなくだらないものも、今の私にとってはとても嬉しかった。

「ふふ」

だから自然に笑いがこぼれた。

「どうかした?」

直枝理樹が訊いてくる。
今度の私は正直に答える。

「あなた達って、ホント楽しいことしてるのね」
「あはは、まぁね」
「二木もリトルバスターズに入ったんだから、楽しい事をすることになるんだぞ」
「もちろん、望むところよ」
「じゃあお姉ちゃんは今からノックをして真人くんにボールを当てて『おら、しゃきっとしやがれクズ野郎』と言う事!!」

ズビシ、と葉留佳が私を指差してくる。

「わかったわ」

今の私ならどんなことだってやるわ。
それを私は精一杯楽しむ。
今まで味わうことのなかった楽しさを、私は味わいたい。

勿論、私は葉留佳の言われたとおりにした。
井ノ原真人は痛がっていたけど、私はとても楽しかった。

その後の野球の練習の時も、私はずっと笑顔だった。
その笑顔は誰でもない、葉留佳が与えてくれたもの。
笑いたくても笑えなかった私に、きっかけをくれた。
一度与えてもらったものを失わないためにも、私にはやるべきことがあった。



翌日。

「風紀委員を辞める?」

先生が驚いた表情で言ってきた。

「はい」
「いや、はいって、君がいなくなったら、学校はめちゃくちゃだよ」
「そうでしょうね」

ホント、そうでしょうね。
だって、これからは私が風紀を乱す側につくのだから。

「とにかく、辞めさせてもらいますから」
「ちょ、ちょっと二木さん」

一方的に押し付けて私は教室を出た。
どんなことを言われても、私は風紀委員には戻らない。
『皆の敵』ではありたくないから。
皆と楽しく遊びたいから。
いつまでも、笑っていたいから。

「お姉ちゃん!」

葉留佳が私の隣を歩く。

「先生となにしてたの?」
「ん、風紀委員を辞めてきたの」
「そうなんだ」
「えぇ、だからこれからはあなた達と思いっきり遊べるわ」
「ホント? じゃあ早く皆のところへ行こ! ってあれ!?」
「ほら、早くしないと、昼休み終わるわよ!」

私は走りながらそう言う。

「あ、待ってよぉ!」

あぁ、なんて楽しいんだろう。
こんな楽しい毎日を過せるようになるなんて夢にも思わなかった。
ずっと笑っていられる日々が来るなんて、想像もできなかった。
そんなものを手に入れることができた。
私はそれを失いたくない。

でも、きっと大丈夫よね?
大好きなあなたが与えてくれたものなんだから、きっと失わないわよね?

皆違う道へ行っても、私達はずっと仲間でいられる。
皆一緒に、笑っていられるよね、葉留佳。



「お、やっときやがったな」
「遅れてごめんなさい」
「なにしてたの?」
「ちょっとね」
「言っちゃいなよ、お姉ちゃん」
「えっと、風紀委員を辞めたのよ」
「おぉーー!」
「んじゃ皆で風紀委員脱退祝いのパーティをしなくちゃな」
「ふふ、じゃあ楽しみにしてるわ」
「勿論だ、やるからには、徹底的にやらないとな」
「じゃあ日時は後日決めましょ〜」
「お、小毬、今回も主催でいくのか」
「よぅし、任せてぇ〜」
「んじゃ、皆揃ったし、今日も始めるか」
「今日は何するの?」
「ん、そうだな…」


始まりは遅くても、遅れた分を取り返すぐらい、楽しめば良い。

どんなことでも精一杯楽しんでみせる。

それに、今までのあなた達を見ていると、リトルバスターズにいて楽しくないというのは考えられない。

だっていつもあなた達は、笑っていたから。

私が入った時も、あなた達はずっと笑っていた。

心から祝福してくれるかのように、迎え入れてくれた。

だから私も、今こうして笑うことができる。

全ては、リトルバスターズの皆のおかげ。

私の笑いの絶えない日常は今、幕を開けた…。


[No.247] 2008/04/25(Fri) 21:12:18
虚構世界理論 (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ

 棗恭介失踪の報せが世界中を駆け巡った八月の日曜日、僕は昼まで寝ていてしばらくそのことに気が付かなかった。鈴に叩き起こされ、「なんかきょーすけがどっか行ったみたいだ」と言われてよく状況の掴めないままテレビを付けると、報道番組で若き数学者の蒸発が大々的に取り上げられていた。五日前から姿が見えなくなっており、五日間いなくなることくらい珍しくもないと放置されていたら、同僚が彼の研究室で遺書めいた短文を発見した為に警察へ通報、発覚の運びとなったという。
「何これ」
「知らん。馬鹿兄貴がまた馬鹿やったんだろ」
 鈴の言う通りなのだろうと思う。遺書と言うがあの恭介がそんなものをマジになって残す訳がなく、携帯電話に電話してみると案の定死んでもおらず普通に出た。
「一体どうしたの?」
「研究の日々に疲れたのさ。だから俺は旅に出る。真実の俺を探す旅にな」
 発言者の文学的感受性の欠如が明瞭に読み取れるあまりにもあんまりな発言だが、問題はそんな理由で実際に旅立つ奴は初めて見たという点にある。しかし恭介が旅に出ると言うのならとめる理由もさしあたり存在しない。「行ってらっしゃい」と言って僕は電話を切った。切ってから、鈴に替わった方がよかっただろうかと思ったけれど、その旨申し出ると「いらん」と言われた。素っ気ない妹である。
 ちなみにニュースによると恭介の残した文章は以下の通りだ。
「しかし、もう出て行かなければならない時間だ。この俺は死ぬために、お前らは生き続けるために。しかし、俺たちのどちらがより善いもののほうへ向かっているのかは、神にさえ明らかではない。」
 何処からどう見てもプラトンの『ソクラテスの弁明』のパクリだが、実は一点、決定的な改変が加えられている。オリジナルは「しかし、我々のどちらがより善いもののほうへ向かっているのかは、神以外のだれにも明らかではないのです」だ。ソクラテスの死から二千四百年余りの月日が流れ、僕達は遂に神にすら匙を投げられた世界を生きるようになったらしい。
 恭介の行方は現在に至るも明らかでない。


 これは増殖しすぎた愛についての物語。或いは失われた孤独についての。
 こう格好つけて語り起こすのも悪くはないと思う。しかしごく散文的に述べれば、今から十二年前に恭介の手によって発見された虚構世界理論のお話ということになる。斯くの如き文章を僕が書くに至った経緯については、二年程前に僕と鈴と恭介との間で交わされた以下のような会話がその説明になる筈だ。
「理樹、お前を俺の伝記作家に任ずる」
「毎回のことながら意味不明だね」
「きょーすけの言うことなんか気にするな」
「いやいや、俺の伝記を書ける人間はそうはいない。事故と子供の頃の俺の両方を知っている奴となるとお前ら二人の他に謙吾と真人だけだが、剣道馬鹿と筋肉馬鹿に伝記は無理だ。鈴にも無理だ。何故なら鈴だからだ」
「うっさい!」
「甘い!」
 そう言って鈴のハイキックを左腕で打ち払った筈の恭介だったけれど、そのまま空中で体を地面と水平に回転させて逆の足を延髄に叩き込むという鈴の神業の前に、次の瞬間悲鳴を上げながら真横に吹っ飛んだ。あまりにも重力を無視した所業だったのでさすがに反応できなかったらしい。鈴が如何にしてそんな技を体得するに至ったかの説明は多くの紙面を必要とするので差し控えよう。とにかくこのようにして僕は恭介の伝記作家に任命された、というのは勿論その場限りの冗談だったには違いなく、僕も今の今まで忘却していたのだけれど、こうして恭介が失踪してみると思わないでもなかった――恭介の言う通り、何か書き起こしてみようと。
 増殖しすぎた愛について。或いは失われた孤独について。
 棗恭介(日本、1989―)は数学者である。一般に虚構世界理論と呼ばれる高次元虚構空間理論および自己増殖高次元虚構空間理論の発見とその諸性質の研究、また高次元虚構空間におけるデータベース構造の発見がその主な業績として知られる。
 虚構世界理論の始まりは高校時代に恭介が巻き込まれたとあるバス事故による。修学旅行に向かう最中のバスが、運転者の不注意によって突如として横転、ガードレールを突き破って崖から転落。自らの死を悟った恭介は、せめて僕と鈴だけでも強く生き延びさせたいとの切なる願いから、無意識の内に虚構世界を作り上げた。永遠に続く一学期。そこで僕と鈴は無数の世界を体験し、そのことで強くなり、遂には恭介の思惑さえ超えて、恭介達全員を助けるという感動的な結末に至った。喜ばしいことだ。
 時は流れる。夏休みが過ぎ去り二学期の初め、怪我から快復し、ついでに普通自動車免許まで取得して帰還した恭介の提案によって、修学旅行のやり直しが決行される。ところが海に向かう最中のワゴン車が、三速から四速に入れようとしたら二速に入ってしまったという初歩的にも程があるミスによって突如として減速、後続車に追突され崖から転落。自らの死を悟った恭介は、せめて僕と鈴だけでも強く生き延びさせたいとの切なる願いから、無意識の内に虚構世界を作り上げた。永遠に続く夏休み。そこで僕と鈴は無数の世界を体験し、そのことで強くなり、遂には恭介の思惑さえ超えて、恭介達全員を助けるという感動的な結末に至った。喜ばしいことだ。
 時は流れる。夏が過ぎ去り二学期の終わり、怪我から快復し、ついでに新しい車まで購入して帰還した恭介の提案によって、修学旅行のやり直しのやり直しが決行される。ところが飽きもせず海に向かう最中のワゴン車が、発車に際してクラッチを離し過ぎてエンストという初歩的にも程がありすぎるミスによって突如として停止、後続車に追突され崖から転落。自らの死を悟った恭介は、せめて僕と鈴だけでも強く生き延びさせたいとの切なる願いから、無意識の内に虚構世界を作り上げた。永遠に続く二学期。そこで僕と鈴は無数の世界を体験し、そのことで強くなり、遂には恭介の思惑さえ超えて、恭介達全員を助けるという感動的な結末に至った。喜ばしいことだが、ちょっと待て。
 何やら恐るべき無限の連鎖に取り込まれているような気がその時したものだが、無限とまではいかず後二回で済んだのは幸運と言えるのかもしれない。ここに至って恭介は虚構世界の構築が妄想などでは決してなく、偶然の結果でも無論なく、意図的に反復しうる事象であることに完全に気が付いたばかりか、その成り立ちを直観しさえした。
 高次元虚構空間理論、通称虚構世界理論の誕生である。


 説明の必要はないと思うけれど一応簡単に述べておけば、虚構世界理論とは即ち、望む通りの虚構世界を望む通りの人間を巻き込んで、事故などによらず安全に作り出す為の理論である。
 誕生と書いたが、実際にはそれが理論として体系化されるまでに五年が費やされた。高次元虚構力学系を直観的に把握しうる、当時において、また現在に至るもただ一人の人間である棗恭介には、その成績が十段階評価において四という落第ギリギリの数字であることによって端的に示されるように数学的素養がまるでなく、直観的には理解しているその存在を論理的に証明することが全くできなかったからである。しかし彼は事故を起こしすぎて元よりご破算になっていた就職を投げ打ち、大学受験に邁進した。その驚異的と言っていい努力が実を結び、翌年見事に第一志望の大学の理学部に潜り込むことに成功する。
 しなければよかったのに。
 学部どころか博士課程にまで居残り、そのまま研究職に付いてしまった恭介だが、少し前まで勉学になど少しも頓着しなかった彼をそこまで突き動かした原動力とは一体何か。僕がそう訊ねると、今のところ望み通りの虚構世界を作り出す安全な方法は確立できていないのだと前置きした上で、恭介は晴れ晴れとした笑顔で答えたものだ。
「お前が隣の家に住んでて毎朝起こしに来てくれる女の幼馴染みで、鈴が俺を上目遣いでお兄ちゃんと呼んでくれる、そんな世界を作るのが俺の夢なんだ――」
 壊れてしまえそんな夢。
 普通のひとなら冗談となるところだが恭介なのでマジである。こうして僕と鈴は毎朝欠かさず恭介の家の方角へ向けて呪詛を送るようになった訳だが、その努力も虚しく、「高次元虚構力学系の模型の厳密解」と題された論文によって、虚構世界理論はその華々しい第一歩を数学界に印してしまったのだった。ところで僕は今数学界と書いたけれどこれは恭介の自己認識の上では正しくない――恭介は量子脳機能力学の専攻であると自称していた為であるが、そんな物理学なのか生物学なのかさえ判然としない怪しげな学術的分野の存在など当然のように誰も聞いたことがなく、高次元虚構空間が多くの場合複雑な数学的構造物として扱われることから、彼は自称はともかくとして数学の世界に収まっている。だからこそ僕は何度か数学者と書いている訳だ。ちなみにここまでに登場した専門用語について、数学の得意でない僕は一切責任を持たないと断っておきたい。以降も同様だ。してみるに恭介は伝記作家の人選を間違えたとしか言いようがない――当該人物の専門分野に少しも明るくない伝記作家など存在しうるのか。尤も僕が今ここに書いているのは、伝記とはとても呼べないささやかな文章であるのだけれど。


 虚構世界理論における虚構世界の成り立ちの説明は、僕の乏しい知識を総動員すれば次のようになる。
 一、車に乗る。
 二、事故る。
 三、完成。
 これは勿論冗談で、いや冗談でなかったことが五度あったのは既に書いた通りだけれど、恭介の理論に則ると事態は加速度的に複雑さを増す。虚構世界は高次元空間に浮かぶ滑らかな高次元多面体として想定される。多面体は平面として一般に想像される環境基盤構造と、自然言語によるテキストとして一般に想像される言語基盤構造とからなり、実際には存在しない根を存在するように偽装した上で構造全体に遍在させた擬似的なツリー構造――敢えて例えるならばクラインの壺とリゾームの相の子のような形に組み立てられる。その組み立てをおこなうのは虚構世界に参与する人間の現象的意識である。現象的意識の虚構世界へのアクセス方法については、説明に日本語ではなく数式を――かの複雑な棗方程式を必要とするのでここには書けない。恭介曰くオイラー方程式を縦に三つ積み上げて螺旋状に捻じ曲げたような数式だそうだ。なおこれらはオートポイエーシス的に作動する為、その挙動は形式的、理論的に把握しうる範疇を些か超えている。
 なんのことやらまるで判らないという苦情があると思うけれど安心して欲しい。僕にも全く判らない。


 恭介が三本目の論文を書き上げる頃、虚構世界は工業製品として日の目を見ることとなった。これが今から三年前の自己増殖高次元虚構空間理論の確立を経て、今日僕達がドラッグストアやネット上のダウンロード販売で簡単に購入できる、虚構世界パック学園編、妹編、幼馴染み編、とかその手の商品の発売に繋がる。
 自己増殖高次元虚構空間理論とは、文字通り放置しておいても自己増殖していく虚構世界についての基礎理論である。厳密には、その最底部において人間による意識的な支えを必要とした現行の虚構世界に対し、一度組み上げさえすれば後は何処までも勝手に挙動してくれる虚構世界を指す。この発見によりひとは虚構世界の中の無数の他人、町並み、風、物音といった瑣末な細部の維持に力を注がなくてもよくなった。気を抜くと空が落ちてくるなんて事故もなくなった。自己増殖というよりは自己拡張か自己生成といったところなのではないかと門外漢の僕は素朴に思う。
 これら虚構世界の商品化が、人びとを一挙に虚構世界へと向かわせる社会現象を国内外問わず生み出したことは論を待たない。手短に言ってしまえば、多くの個人が個人の欲望を自在にかなえうる虚構世界を持つことが可能になり、都合の悪い現実世界でわざわざ苦労をする必要が殆どなくなった、といったところだ。また虚構世界の普及は個人利用に留まらない。たとえば企業の所有する虚構世界を介した在宅労働の確立で、人びとの生活様式は大きく変化した。理想的な実験環境を虚構世界に求めた研究機関は多かったし、虚構世界それ自体を計算と捉える虚構世界演算の発明とその並列化は計算の概念を根底から覆した。僅か数年で、虚構世界は社会の不可欠な一部を形作ったと言ってよい。
 さて僕と鈴はと言えば丁度その頃に結婚して、それまでも一緒に暮らしていたのだから生活はまるで変わりなかったが、虚構世界にまつわる商品は可能な限り拒んだ。特に嫌と言う訳ではなかったけれど、好ましいともまた思ってはいなかったからだ。
「馬鹿兄貴も偉くなったなー」
 ある休日、恭介の顔写真が一面に載った新聞を読みながら鈴がそう言ったのを覚えている。虚構世界理論の発見者であり、虚構世界の全貌を把握しうる頭脳を持った唯一の人類たる恭介は、メディアへの露出を通じ、その若すぎる年齢と容姿とで理論それ自体には全く興味のない層にも爆発的な人気を博していた。CDデビューを持ちかけられたんだが、と僕のところに相談に来たこともある。とある国立大学に教授職を得てから僅か五日後の出来事になる。無論僕と鈴が全力で制止した。したがって恭介のCDは歴史に登場しない。


 虚構性同一性障害という精神疾患が報告され始めたのがいつのことなのか僕は知らない。米国精神医学会によるDSM-VI-TR(『精神障害の診断と統計の手引き』第六版修正版)において初めて病名を与えられたその解離性障害は、自分が虚構世界内で作られた登場人物であり、内面を一切持たない哲学的ゾンビであると感じる、という僕にはちょっと理解しがたいものである。大方の脳科学者は、自分を哲学的ゾンビと感じるその「感じ」がクオリアに相当する為患者は哲学的ゾンビでは多分ない、と尤もすぎる見解を示したが、それが患者に信用された例は少ない。現実世界が実は知らぬ間に作られた虚構世界であると感じることに起因する、現実感の強烈な喪失を多くの場合併発する。患者が自らをデータベース構造の産物と位置付ける症例も存在する――ただしごく稀である。棗恭介の業績の中に、高次元虚構空間のデータベース構造の発見、およびその総数を巡る棗予想があることは、虚構世界理論それ自体の発見という華々しい仕事の影に埋もれて一般には忘れられがちである為だとされているが、ここはデータベース構造論そのものの怪しさを含めて議論の紛糾する点らしいので、素人の僕は深入りを避けたい。
 話を虚構性同一性障害に戻せば、数十万とも数百万とも言われる患者数の爆発的な増加は、棗恭介という固有名がそのトリガーとなって発生しているとする、主に社会学的な側面からの研究が実は多い。高次元虚構空間を理論的なツールなしに直観的に把握しうる唯一の人間というカリスマ性が、あらゆる虚構世界は恭介の意思を介在させたものであると人びとに何処かで認識させた、とそれらの研究は述べる。つまり虚構性同一性障害とは、棗恭介という人物にすべてを操られているように感じられる精神疾患、と言い換えることができる。
「え? 俺?」
 うん。
「んなことある訳ないじゃないか」
 僕は恭介のその意見には全面的に賛成するし、世の多くの人びともおそらくは賛成してくれるに違いない。だがそこに一抹の割り切れなさが残るのも事実であるようで、その結果現に虚構性同一性障害が実在する。二十一世紀の新たな病理としてせっせと患者数を増やしている最中だ。


 今や虚構世界は現実世界を覆い尽くし、その恩恵なしには社会は最早立ち行かない。一方で虚構性同一性障害という形で具体的に現れたような病巣をもまた社会は抱え込む羽目になったが、それは今更引き返しえぬ進歩の、ささやかすぎて気にもならない代償でしかない。いずれにせよ世の中はよい方向へ進歩している筈である――とこれが世間一般の考えであり、僕も大筋で異論はないと言っておく。
 しかしそれでもなお僕の抱えている釈然としない思いを吐露すれば、それはやはり増殖しすぎた愛について。或いは、失われた孤独のこと。
 今やあらゆる事柄は虚構世界によって理想的に、円滑に解決することが可能になった。それ自体は極めて喜ぶべきことだ。しかしその完璧すぎる虚構は、完璧すぎるが故に何処かでディストピアへと姿を変えるものではないか。いずれ独りで死ぬべきである人間が最低限背負わなければならない孤独さえも消え失せ、理想的な世界を苦もなく生み出しそこでやすらかに生きていくことのできる、愛に満ち溢れた世の中。そんな壮大な楽園を前にして、僕は間違いなく立ち竦む。
「研究の日々に疲れたのさ。だから俺は旅に出る。真実の俺を探す旅にな」
 発言者の文学的感受性の欠如が明瞭に読み取れるあまりにもあんまりな発言が、しかし僕達の中で切実なものに響きうるとしたらそれは「真実の俺」など最早何処にも存在しないことを知っている為だ。愛が増殖しすぎ、孤独が失われたから。僕達は何者にでもなれるし、何をも愛することができる。したがって僕達は本当のところ、何者にもなれないし、何をも愛することができない。
 この見解を笑い飛ばすひとはいるだろう。世の中の動きについていけない古い感性の持ち主の、反動的なノスタルジーに過ぎないという訳だ。それは多分その通りだ。最初のバス事故の際に僕達の前に現れ、僕と鈴を育み、僕と鈴と皆を救ったあの虚構世界を、その時一度限りの輝きとして僕はいつまでも胸の内に閉じ込めておきたかった。僕には全く理解できない数式と言語で記述された、データベース構造を背景とする環境基盤構造と言語基盤構造の重ね合わせとしての自己増殖高次元虚構空間などではなく、自然科学の対象が常にそうであるように同じ環境下ならば反復が確実に可能な事象でさえなく、ただ一度の奇蹟として、思い出の中にだけあって欲しかった。それは極めて個人的で、感傷的で、救いがたく愚かな思いだ。
 ここまで書いて僕は、恭介の残した文章の意味に辿り着いたように思う。
「しかし、もう出て行かなければならない時間だ。この俺は死ぬために、お前らは生き続けるために。しかし、俺たちのどちらがより善いもののほうへ向かっているのかは、神にさえ明らかではない。」
 虚構世界の普及は人びとに多大な幸福をもたらした。それはどう考えても肯定されるべきことであり、その事実を認めず「真実の俺」を探す旅に出た恭介は僕と同じ古い人間でしかないけれど、しかし虚構世界を尊ぶひとと虚構世界に背を向けるひと、「どちらがより善いもののほうへ向かっているのかは、神にさえ明らかではない」。虚構世界に浸り切った生は肯定されるべきなのだろうか。或いは否定されるべきなのだろうか。それともそのどちらでもない何かなのだろうか。
 僕達は、より善いものの方へ向かっているのだろうか。
 この問いが困難なのは、善いものの方へ向かうとは何か、という問いそのものへの問いを必然的に含むからであり、それに対して社会が一応の回答をひとに与えてくれていたのが近代であるとすれば、僕らはもうそんな時代に生きてはいない。乱立する虚構世界が現実世界を侵蝕し、刻み尽くし、ひとの心を悉く奪い去った瞬間に、最早終わりかけていたそんな時代は今度こそ決定的に終焉を迎えた――その筈だ。


 僕と鈴と謙吾と真人でささやかな忘年会を催した。昨晩のことになる。恭介が失踪してから既に半年が経過していた。社会的には完全に姿を暗ましており、その結果虚構世界理論の整備が百年分は遅れるとする向きさえあるけれど、僕達には一ヶ月に一度くらいの割合で連絡があるので失踪したという感じは余りしない。
「恭介と言えば、前に酷いこと言ってたなあ」
 一軒目の居酒屋でふと昔を思い出し、口にした。
「どうしてそんなに熱心に勉強するのって訊いたら、僕が女の幼馴染みで隣に住んでて毎朝恭介を起こしに行って、鈴は恭介をお兄ちゃんって上目遣いで呼ぶ世界を作りたいからだって」
「思い出したくないから言うな、そんなこと」
 鈴に脇腹を突かれる。
 真人は「うわー」と素で引いていた。テーブルの端で目を瞑り、瞑想するようにしばらく黙っていた謙吾が、やがて目を見開いて真顔で問うた。
「その世界では俺と真人はどうなるんだ?」
「知らないよそんなの」
「そんな馬鹿な……俺は……俺は何処に行けば……」
 どんよりとした影をまとって床に手を付き、勝手に落ち込み始めた謙吾を横目で見て笑うと、真人は「へっ。俺はどんな世界であろうと筋肉担当だからな!」と頼んでもいないのにスクワットを開始する。それなら俺だってとばかりに立ち直って、謙吾は素振りを始める。一体その竹刀は何処から出てきたのか。
「あー! 暑苦しいからやめんかぼけーっ!」
「他のひとに迷惑だしね」
 そう言いながら僕は笑っていた。久しぶりに、心の底から笑ったように思ったものだ。何処かに行ってしまった恭介を含めて、このひと達がいれば僕は大丈夫だと確かに感じられた。それからまた僕は考えた――恭介は、自らの力で作り上げた自己増殖高次元虚構空間理論で、望み通りの虚構世界を、好き勝手に、理想的に組み立てたのだろうかと。つまり口にすれば今度こそ鈴にぶん殴られるに違いない、僕が女の幼馴染みで鈴がお兄ちゃんと呼ぶあれを実現したのだろうか。
 正答は次の二つの内にあると僕は確信している。
 一、欲望に打ち勝ち実現しなかった。
 二、欲望に負けて実現してしまったけれど、その虚構世界のあまりの底の浅さに絶望してすぐに返ってきた。
 より可能性の高いのは二だろう。恭介が一を選べる程に倫理的な人間であることはさすがにない気がするからだ。そして二を選んで味わったその絶望が、恭介を旅立たせた遠因のそのまた遠因の一つくらいにはなっているのではないだろうかとも僕は考える。考えながら、仲間達の馬鹿馬鹿しい発言の一々に笑い、そうして笑いあえるこの場所を、ここは確かに現実世界なのだと感じ、信じる。


 以上が、虚構世界理論を巡る僕のお話の大体だ。語り続ければ切りがない。この辺りでやめておくのが賢明だろう。
 締めくくりの光景はだからこうなる――十二月半ばの東京には雪が積もっていた。夜を徹して飲みすぎたせいで店を出る頃には朝だった。視界の果てまで続く、雪に埋もれた片側三車線の道路の向こうに、赤い朝焼けが別世界のように静かに照っていた。真人がタクシーを捕まえ、謙吾が始発に乗ると、僕と鈴は街へ足を踏み出した。寒さからか酔いからか、鈴の頬は僅かに紅潮していた。
「きょーすけがいないのにもなんか慣れたな」
「いなくてもいるみたいな存在感があるからね」
「そんなんいらん」
「確かに」
「いらんから、だからさっさと帰ってこーい」
 頬を白いマフラーに半分埋め、コートのポケットに手を突っ込みながら、空を見上げてそう言った。


[No.248] 2008/04/25(Fri) 21:55:39
Invitation to Hell(原題) (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ   グロ注意

「珍しいな、今日は小毬君の部屋か」

 買い物から帰ってきてドアにメモが張り付けられているのを見て思わずひとりごちた。

『今日は私の部屋でお泊まり会を開きます。ゆいちゃんも来てね。小毬』

 小毬君らしいと言える丸みを帯びたかわいらしい文字でそう書かれてあった。
 やや疲れはあるがそのようなものは誘いを断る理由にはならない。
 リトルバスターズのメンバーと過ごす時間は今の私には至福の時といえるものだから。





 コン、コン、ガチャ

「やあ、み……」
「クーちゃん、かわいい。本当に絵本から出てきたみたい」
「そうですか。そんなに褒められると照れてしまいます」

 バタン

 ……気のせいだな。あのような光景あるはずがないな。

 ガチャ

「あら、あなたでもそのような格好をすれば少しはかわいらしく見えますね」
「お前はどんな格好をしてもかわいくないな」
「何ですって」
「ああん、りんちゃんもさーちゃんもけんかしたらメッ」

 バタン

 いかんな、季節の変わり目だし風邪でもひいたかな。今日は早めに切り上げた方がいいかもしれない。

 ガチャ

「だらしないわね、葉留佳。タイが曲がってるわよ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「だから前から注意していますように、こういう場合はお姉さまと言わなければなりません。そうですよね、来ヶ谷さん」
「あっゆいちゃん。いらっしゃい」

 この場から逃げ出したかったがどうやら逃げる機会を失ってしまったらしい。
 頭がくらみそうになるが、それでも意を決して小毬君にこの状況について尋ねてみる。

「小毬君、これはいったい何なのだろうか?」
「ううん、お泊まり会だけど今日はみんなでファッションショーかな」
「ああ、ふぁっしょんしょーか……」

 思わず棒読みになってしまう。
 それぐらいこの部屋の人間のファッションセンスは異次元へ向かっていた。
 こんな狭い部屋の中にロリータファッションに身を包んだものが7人。
 こんな光景はかつて想像したことはなかった。










 ようこそ☆来ヶ谷秋のロリヰタまつり(邦題)










 美魚君が出してくれた紅茶を飲むうちに少し私は落ち着きを取り戻した。
 しかし、そうしたところで目の前に広がる光景は一向に変わらない。
 できれば本当に私が何らかの理由で幻覚を見ていただけだったらよかったのだが。





「来ヶ谷さん、何だかお疲れのようですが大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫だ。いや、それにしても良く似合ってるな、お姉さん驚きだよ」
「ありがとうございます。小毬さんは色々とかわいい服を持っているからふぁっしょんの勉強になります」
「できれば反面教師にした方がいいと思うがな」

 今のクドリャフカ君は青いワンピースに白いエプロンドレス、そして頭に変則的な形のリボンをつけさらにはウサギのぬいぐるみを胸に抱いている。
 早い話がディズニー映画の不思議の国のアリスをイメージしたようなファッションだ。
 いくらクドリャフカ君が幼い外見をしているとはいえ、こういうのは流石に幼稚園児とかのファンが着るようなたぐいのものではないのか。
 でもあのテーマパークは熱狂的なファンを大人にも多数抱えているしな。
 ひょっとしてこれも普通に大人向けなのだろうか。





 それにしてもこのようなコスプレ姿が、お世辞とか抜きでほんの少しだけ似合っているかもと思わせるなんて恐るべしクドリャフカ君。
 いや、クドリャフカ君だけに限った話ではないかもしれない。
 常識的に考えればありえない格好の集団のはずなのに、ひょっとしてギリギリセーフではないかと思わせるとはなんというスペックの持ち主たちだ。
 よくよく考えてみればリトルバスターズのメンバーさらには今日はプラスしている佳奈多君も佐々美君も、色々な意味で常識破りのスペックの持ち主のであるからな。
 必ずしも驚きには当たらないか。










 いや、待て、気をしっかり持つんだ。
 この雰囲気に飲まれてどうする。
 この状況で突っ込まなくて一体いつ突っ込めばいいというんだ。
 理樹君、君の突っ込みのセンスをほんの少しだけ分けてくれ。
 ……すでにこういう思考に陥っている状況が理樹くんに突っ込まれそうだな。
 さて、誰に突っ込めばいいだろうか。
 私は小毬君に対して絶望的に相性が悪いから無理だ、またゆいちゃんゆいちゃんを繰り返されて返り討ちにあうだろう。
 鈴君は……小毬君に言われるがままあんな格好をしているのだろうし、私の突っ込みではまるで理解してくれないだろう。
 クドリャフカ君は一度褒めた手前いまさら突っ込めないな。
 葉留佳君は……そうだ葉留佳君なら大丈夫だ。
 私が突っ込んでも葉留佳君ならうまくリアクションを取ってくれて、きれいにオチを付けてくれるだろう。





「葉留佳君、おかしくないかその格好」
「え、姉御なんかおかしいのかな。ごめん、私オシャレとか知らずに育ったからよくわからないんだ」
「えっ……」
「お前みたいなクズにはそんな恰好がお似合いだとボロボロの服を着せられて、それでも足りないのかお姉ちゃんに負けた時は裸で蔵に閉じ込められたりしたし」
「葉留佳……」
「あ、お姉ちゃんは気にしなくていいよ、悪いのはあいつら何だから。というわけで姉御だったらファッションとかも詳しそうだし、なんか変なところあったら教えてくれる」
「……その、ごめん。よく似合っている」

 重い、とんでもなく重い。
 葉留佳君がこうであれば多分佳奈多君もあまり差はないだろう。
 この姉妹がどんな格好をしてもそれに突っ込んだら100%突っ込んだ側が悪い。
 葉留佳君なら何を言っても笑ってる流せるだろうと甘く見ていた私が馬鹿だった。
 それにしても突っ込みがこれほど神経をすり減らさなければこなせないものだったとは。
 それを易々こなす理樹くんはなんとすごい男なんだろう。





「来ヶ谷さん顔が真っ青ですよ」
「ああ、いろいろ考えることが多すぎて」

 いわゆるゴスロリという奴だな。
 黒をベースにふんだんに白いレースを取り入れ胸元には赤いリボン。
 頭にも同様に黒いヘッドドレスの着用。
 美魚君の白い肌に黒をベースにした服は映え、正直なところかなりつぼに入る。

「美魚君は今日の集まりに関して何か疑問とかは抱かないのかな」
「疑問ですか……最初はこのような集まりはどうかと思ったのですが、いざ色々と着てみると変身願望というのでしょうか。何かいつもと違う自分になったみたいで」
「うむ、いつもと違うというのはよくわかる」
「ただ、こういうコスプレ感覚で着るのは真面目にロリータファッションを究めようとしている人に対して失礼だと思います。ロリータファッションもボーイズラブも悲しいですけれど白い目で見られることが多い文化ですから、ロリータファッションの愛好家の努力に敬意を表さないと」

 また突っ込みにくい感想を述べる。
 真面目に取り組むというのは一番効果的な突っ込みへの対処法なのだろうか。





 あと残されたのは佐々美君か。
 もう既に返り討ちにあうだけだろうなという気がしれないでもないが、それでも一縷の希望を抱いて突っ込もう。

「佐々美君、普段は我々と一線を画しているのにこんな時だけいるなんてなかなか面白いな」
「見ているとリトルバスターズの皆さんはあまり服のセンスが良いとは言えませんし、差し出がましいかもと思いましたがわたくしが少しファッションというのを教授しようと思いまして」
「えっ!?」
「ゆいちゃん、さーちゃんてものすごくオシャレさんだよ。さーちゃんに教えてもらうまでItaruなんてデザイナーさん全然知らなかった」
「まったく皆さんもわたくしを見習って、ハイソなセンスを身につけ……」
「お前が真犯人かあーーーっ!」

 まったく効果がないだろう私の叫びが響き渡った。
 なんで今まで疑問に思わなかったのだ。
 よくよく考えてみれば他の人間は今日だけだが、佐々美君の場合は普段からレースがふんだんについた猫耳型のリボンをつけてるセンスの持ち主ではないか。
 今気付いたが猫耳リボンの色が今日は服に合わせて白になっている。
 ……ひょっとしてこのリボンは当たり前のように市販されていたのか。
 というか市販されるほどある程度の購入者が見込めるものなのか。





 気がつけば私の突っ込みは全戦全敗。
 ああ、これが敗北感か……苦いな。










「でも何だか嘘みたい。あれだけ憎んでいたのに今は佳奈多のことを普通にお姉ちゃんと呼んで、それで服の見せ合いっこするなんて」
「葉留佳……」
「あれ、おかしいな。何だか涙が出てきた。こんな当たり前のことで泣くなんてやっぱり私おかしいのかな」
「そうです、葉留佳さん。おかしいです。嬉しい時は泣くんじゃなくて笑うんです」
「うっ……このーっクド公のくせにえらそうなこと言うな」
「わふ」
「ちょっとクドリャフカを放しなさい」
「えー、お姉ちゃんクドの味方するんだ、ひっどーい」
「そうよ、家族愛と恋愛はまた別だから」
「あっ、そんなこと言うんだ。だったら私がこのままクド持ってくから」
「わふー、いつの間にか三角関係に組み込まれてます」
「百合は本職ではないですが、人形のように愛くるしい少女を巡って争う美しい姉妹……ありです」

 長年お互いの境遇を理解できずに憎しみ合っていた姉妹の和解。
 そしてそれを喜ぶ友人達。
 感動できる場面のはずなのに、感動できる場面のはずなのに服装のせいで台無しだ。
 知らなかったな、人が他人から受ける印象において服の効果がここまで大きかったとは。
 赤をベースにしたジャンパースカートにレースを多用したブラウス、黒のリボンタイ、胸元には十字架……葉留佳くんの格好はこの中では比較的まともな方だろうか。
 だが佳奈多君の服は一体どう形容したらよいのだ。
 一見男装のようで男装ともまた違う。
 宝塚の男役と言えなくもないが、これを宝塚として扱ったら宝塚の役者に失礼だろう。
 黒のタキシード風の上半身に膝元がすぼんだ半ズボン、小物として半ズボンにステッキ……男装のようだし、これは本当にロリータファッションの範疇なのか。

「小毬君、佳奈多君の服だがあれは一体何なのだ」
「えーっと王子ロリって言うんだよ」
「王子ロリ……それは少年なのか少女なのかどっちだ」

 ロリータファシッョンと言うと女の子女の子した格好のことだと思っていたが、想像以上に奥、いや闇は深いらしい。
 私が悩んでいるうちに勝負がついていたのか葉留佳君が床に転がされている。
 その姿は改めて考えてみるとかなりおかしいな。
 あれを比較的まともだと考えてしまうなんて……
 いかん、だいぶ感覚が麻痺してきているようだ。










 しかし、今日は私らしからぬ態度を取っているな。
 最初からこの集まりに参加していたのならうまくこの雰囲気になじめたのかもしれないが、途中参加のためか妙に冷めてしまう。
 でも今の彼女たちの姿は心の底から楽しんでいるのではないか。
 常識的に考えれば彼女らのセンスはおかしいと思う。
 だが日頃やや非常識なまでの方法でリトルバスターズは毎日を楽しんでいるではないか。
 こういう風にして楽しむのは今に始まったことではない。
 この瞬間はただの変な格好であっても、後から写真を見てみれば素晴らしい一日として思い出されるのであろう。
 そうだな、この場は似合う似合わないは置いといて雰囲気を楽しむか。





「小毬君、私も着て見ていいかな」
「もちろんおっけーですよ」

 ロリータファッションはかわいい系の顔なら似合う者もいるのだろう。
 だが美人系のきりっとした顔ではとても似合いそうにない。
 葉留佳君と佳奈多君でもストライクゾーンから外れていると思うのに、私が着るとなれば完全に暴投になるだろう。
 あまりの似合わなさにこの部屋が爆笑に包まれるかもしれない。
 だが日頃は私は他のメンバーを笑う役ばかりだ。
 たまには笑われる役と言うのも悪くない。

「来ヶ谷さんはずいぶん大きいですからわたくしの手持ちの服ではどれも合わないので、一着特別に購入いたしました」
「何も他人の服をわざわざ購入しなくても。まあ、その話を聞いたのならますます着ないわけにはいかなくなったな」
「ただ一着だけですので特別に選び抜いたものですから必ず気に入っていただけるでしょう」
「ありがとう」





 渡された箱の包装紙をきれいに開けるつもりが少しミスがあるな。
 何だ、少し興奮しているのか。
 考えてもみればこのメンバーに合わなければ、一生ロリータファッションを着てみようなどと思わなかっただろう。
 これもまたこのメンバーにあえて幸運がもたらしたものか。

 パカッ

「……」
「うわあ、さーちゃんやっぱりオシャレさんだね」
「当然ですわ。さあ、来ヶ谷さん、どうぞ遠慮せずに袖を通して下さい」

 しばらく絶句したのち、油の切れたロボットのような動きで佐々美君の顔をのぞいてみる。
 その表情には全く悪意は見てとれない。
 それでも私は本当に善意でこれを選んだのか尋ねずにはいられない。

「佐々美君、これは本当に私のことを考えて選んだものか?」
「ええ、必ず似合いますわ。わたくしの見立てに間違いはありませんわ」

 ほんの少しだけ黒系の配色であれば私でも似合うかもしれないと思った。
 だがいくらなんでもこれはあり得ない。
 私にピンクはないだろ、ピンクは!

「こんなもの着れるかあーっ!」
「あっ」
「くるがや、服を叩きつけるなんてひどいぞ」
「な、棗さん」
「ゆいちゃんどうしたの。せっかくさーちゃんがかわいいの選んだのに」
「来ヶ谷さんこんな可愛い服がかわいそうです」
「姉御は女の子を傷つけるようなことはしないと思ってたのに」
「来ヶ谷さん、いじめはよくないわ」
「今いじめられているのは私だ」

 あと佳奈多君、君がいじめはよくないと言っても説得力に欠ける。





「来ヶ谷さん、その服ウェディングドレスのようにも見えなくありませんか」

 私と佐々美君たちが押し問答をしている中、一人離れたところで状況を眺めていた美魚君が妙なことを口にした。
 あらためてよくデザインを見るとリボンとレースを多用し、ところどころバラの模様が組み込まれたデザインはウェディングドレスのようであるな。

「うん、まあ最近はピンクのウェディングドレスと言うのも別に珍しくはないが」
「来ヶ谷さんも女の子ですからウェディングドレスにあこがれはありませんか」

 たしかに純白のウェディングドレスに身を包んだ姿という私を小さい頃なら想像したことはあるが。

「少し目を閉じて想像してみてください。美しいドレスに身を包んだ来ヶ谷さん。そしてその隣に優しく寄り添う想い人の姿を」

 美魚君は想い人と濁すような言い方をしたが、美魚君は当然私が誰を想像するかわかっているはずだ。
 そんなことを言われて私が理樹君以外の人間を想像するはずがない。
 花嫁の私、花婿の理樹君、花嫁の私、花婿の理樹君……





「あー、姉御真っ赤になってる」
「来ヶ谷さんとってもかわいいですよ」
「な、そんなにしまりのない顔をしていたのか」
「ゆいちゃん本当に幸せそうな顔をしていたよ」
「……」

 知らなかったな、私がここまで乙女だったとは。
 好きな男の子との結婚式を想像してぼーっとなるなんて、今どきここまで乙女しているのも珍しいのではないか。
 どう考えたって私というキャラには合わないがな。

「どうです、その服着てみたくなったのではないですか」
「……やられたな」

 美魚君の作戦勝ちだ。
 今ここでこの服を着れないようでは、とてもじゃないがウェディングドレスを着る恥ずかしさに耐えられないだろう。
 そんなまぬけな理由で理樹くんを巡る恋のバトルから脱落するわけにはいかない。
 いいだろう、この服を着こなして見せよう。

「すまなかったな、佐々美君。ちゃんと着させてもらおう」
「いいですわ。素晴らしいデザインですから気後れするのも無理ありません。小物類も私が用意いたしましたのでお任せしてもらえますか」
「頼む」










「さて完成しました」
「ゆいちゃんかわいい」
「よくお似合いです」
「姉御はやっぱり何でも着ても似合うね」

 ああいった手前されるがままにしていたが、完成したその姿は予想をはるかに超える代物だった。
 姿見を見ると街に100人いれば100人全員引くほど痛い人間の姿があった。
 私のキャラと大きくかけ離れている鮮やかなピンクのドレス。
 レースを多用し大きなリボンが備え付けられたカチューシャ。
 薄くひかれたピンクのルージュ。
 さらに極めつけはなぜ自分が今抵抗せずに抱いているのか謎な大きなテディベア。
 なあ、君たちどうして今の私を見て笑わずに本当に似合っているような態度がとれるのだ。

「……今の来ヶ谷さんはエリザベスと言うよりもフランソワーズといった感じでしょうか」
「フランソワーズ、たしかにそうかもしれませんわね」
「おお、ふらんそわーずなのか」
「フランちゃんかわいい」
「一部の人間が激しく反応するような略し方をするな!」

 怒鳴ったらますます姿見に映る自分に対する違和感がひどくなった。
 かわいい系の服が似合いそうにないことは当然自覚がある。
 ロリータファッションが似合う女の子なんて世の中でもほんの一握りだろう。
 それでもここまで似合わないとは私だって年頃の少女なのに。

「来ヶ谷さん、自信がなさそうにしていればどんな服でも似合いませんよ」
「……それは決して自信を持っていれば、どんな服でも似合うということとはイコールで結ばれない」
「……言われてみるとその通りです」
「あっさり認めるな!」

 他のメンバーは本気みたいだが、美魚君だけは明らかに似合ってないと思ってその上で楽しんでいるな。
 ウェディングドレス云々はこのためだな。
 騙された。










「ねえせっかくかわいい格好しているんだしさ、男の子にも見せに行かない」

 葉留佳君の言葉に何か想うことがあったのかみんなぼーっと何かを思い浮かべているようだ。
 きっと理樹君に褒められている姿を想像しているのだろうけど、いくらなんでもそれはあり得ない。
 こんな姿を見られても引かれるだけだ。

「よーし、れっつごー」
「ちょっと待った。その格好で部屋の外へ出ていくつもりか」
「えっ来ヶ谷さんはお出かけしないのですか」
「姉御、ちゃんと空気読んだ方がいいと思うよ」
「こんな時だけ空気を読むな!」
「おーい、行くぞ」

 私の叫び声がまるで聞こえてないかのように、さっと鈴君は扉まで息の部へ手をかけた。

 ガチャ










 そしてこの部屋に封じ込められていた、この世の全ての者に恐怖と絶望を与える大いなる災いが世に解き放たれた










「ぎゃあああああああああああーーーっ!」
「あっこんばんは」

 小毬君、嬉しそうに手を振りながら挨拶している場合か。
 たぶん友達なのだろうけれど、その子叫び声をあげて気絶したではないか。
 私たちに対して見せる反応は様々だ。
 さっきの子みたいに叫び声をあげる子、ただ眼をそらすだけの子、慌てて自分の部屋に逃げ込む子、何もできずにただ呆然としているだけの子もいる。
 とりあえず確実に言えることは、まかり間違っても最初に小毬君が言ったようなファッションショーで見られるような反応ではないということだ。





「あっ来ヶ谷さん」
「や、やあ杉並君」

 部屋を出てから初めてまともに声をかけられた。
 私の全身を確かめるように何度も繰り返し見るように眼が動いた。

「……知らなかった。直枝くんがそう言う服を着た女の子が好きだったなんて全然知らなかった」
「いや、万に一つもそれはあり得ないと思うが。」
「負けません。私は強くなるんです。来ヶ谷さんのように愛のために自分を捨てて見せます」
「自分を捨ててとか言うなあーーーっ!」

 またしても私の言葉に耳を傾けないまま駆け出して行った。
 たぶん明日には彼女の服はすべてロリータファッションに変わってしまうだろう。
 ちょっとかわいそうなことをしてしまった気がする。
 それにしても君たちはもう少し人の話を聞きなさいとか叱られたことはないのか。





「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、いい、さいこうっ、にあう、いひっ、さいこう、あひゃひゃひゃひゃ」

 やはり寮長あなたは只者ではないようだな。
 誰もが驚いたり怯えたりしている中、ちゃんと笑うという一番当たり前の反応を見せることができるなんて。
 でもさすがにそれは笑い過ぎではないか。

「あーちゃんセンパイもよかったら一緒に着てみませんか」
「ちょーっ二木さ……む、むり、そんなの着たら、わらいすぎて、あひゃひゃひゃ、ゲホッゲホッゲホッ」

 無理して喋ろうとしたためか呼吸困難に陥ってしまっている。
 私のロリータファッションは毒ガス兵器か何かなのか。
 似合わないということはちゃんとわかっているが、いくらなんでもそこまで笑われるようなものではないだろう。
 酸欠状態で痙攣を起こし始めた寮長を心配するかのようにみんな取り囲んでいるが、その人を助ける必要なんてないだろう。

「早く行くぞ」
「でも何だか寮長さんの様子が……」
「いいから」

 私の一言でみんな後ろを振り返りながらだが、男子寮へ向けて再び歩き始めた。
 そんな腹立たしい気分のなかでも私の理性は正常に作動しているようで、ある疑問が頭をもたげてくる。

「もし、これであのまま寮長が呼吸困難で死んだ場合私たちは殺人罪に問われるのだろうか」
「さあ、どうでしょう。わたしが知る限りでは殺したい相手をコスプレ姿で笑い死にさせて、完全犯罪を成し遂げようとして例はなかったですけれども」
「そりゃあまあ、そんなふざけた内容のミステリー小説なら世に出る前に抹消されるだろう」
「そうかもしれません」
「来ヶ谷さん最初の疑問ですが、別に悪意を持って行おうとしたわけではなく、結果として死に至らしめるのなら業務上過失致死になるのでは」
「過失……大失敗だと思うのならなぜする」

 佳奈多君もひょっとして自分の服のありえなさを分かって着ているのではないのか。
 いかん、だんだん小毬君たちも悪意を持って私にこのような格好をさせているのではないかと思えてきた。
 ……本当に大丈夫だろうか。










「くぁwせdrftgyふじこlp」

 真人君、顎が外れてしまったのか。
 まともな言葉がしゃべれなくなっているではないか。
 少し心苦しく思うよ。

「ク、クルガヤサン、ヨクニアッテイルヨ」

 理樹くん、首を150度ほど後ろへ向けて人と会話するのは苦しくないか。
 それと誰かとしゃべる時はまっすぐ前を向いてしゃべるものだと思うよ。

「ま、まあ、ほんのわずかながらたまにはそんな格好するの悪くないという気持ちが起こらないわけでもないような気がちょっぴりする。な、なあ、謙吾」
「えっ! おっおい、俺に振るな」
「いっそ笑ってくれ!」





 気の毒そうに私の方を向いている恭介氏達にそう叫んでしまった。
 道化を演じ笑われるのも良いと思っていたのに、まさか笑われるのではなく憐れまれるなんて。
 笑われたほうがどれだけ心が満たされただろうか。
 結局部屋を出てからここまで様々な人に会った中、笑ってくれたのは寮長だけか。
 すまなかったな、見捨てるような真似をしてしまって。
 もしまだ生きているのならこれからは寮長に優しくすることを約束しようと思う。




















 あの日から一週間私の心は壊れてしまったらしい。
 すっかり笑いを失い心が闇にとらわれてしまった。
 そればかりか幻覚すら起こすようになっている。

「おーい、ふらんそわーず大丈夫か」
「あら、ベアトリーチェさんこんなところで何をしているのですか」
「うるさい、えらそうにしているには関係ない」
「えらそうにしているではなくエレオノールですわ。あなたと言う人はどこまで間違えれば気が済むのですか」

 そうだ、これは幻覚だ。
 あの日から寮の誰もがロリータファッションを着用し、お互いを謎な名前で呼び合っているなんて幻覚だと思わせてくれ。


[No.249] 2008/04/25(Fri) 22:00:53
さいぐさはるかが大学でぼっちになっているようです。 (No.239への返信 / 1階層) - ひみつ

 時計の針が十二時を回った。お昼休み。今日は学食で何を食べようかな、久しぶりにきしめんなんかいいなぁと夢膨らませていた私の耳に飛び込んできた、髪の薄い四十代くらいの教授の「レポートの提出期限は来週までですので、まだ提出していない人は忘れないように」という捨て台詞。ホワイトボードの真ん前の席にぽつんと取り残されていた私は思わず戦々恐々としてしまった。
 ていうか、レポートなんてあったんだ。私全然知らなかったんですけどー、と文句言いに行ってやろうかなと思ったところで、三、四週くらい前の講義を自主休講したことを思い出した。ちくしょうあの時ですか。だってしょうがないじゃん、目が覚めたらもう授業が半分終わってたんだもの。
 なんとかしなきゃなぁ。今日はもう授業もないし、久しぶりに図書館にでも寄っていこうかな。面倒くさいけど、この講義の単位を落とした時のことを考えると、それはそれでウツになる。課題レポートも適当な本を見つけてコピペすればなんとかなりそうだし、図書館使って調べ物をするのはそんなに嫌いじゃない。

 今日このあと授業ないんでしょーどっか遊びに行こうよー、課題だりー、俺もうこの授業切るわー、この後麻雀しねぇ? ぎゃはははは! ばっかでー! 

 お昼休みの構内はなんかざわざわしている。ざわざわざわざわ、と口に出して言ってみても違和感はそんなにない。このざわざわ感てなんか凄い。実は他の人も意味のある言葉なんて喋ってなくて、今の私と同じように「ざわざわざわざわ」って言ってるだけなのかも。もしそうだったらちょっと面白い。
「ざわざわざわざわ」
 うーん、やっぱり面白くないかも。どっちでもいいや。
 お腹空いたから先にお昼ご飯を食べようかなとも思ったけど、学食のあまりの混雑にげんなりしたので、後回し。先に図書館に行って調べ物を済ませてしまおう。どうせ今日も誰かと一緒にお昼食べる約束なんてしてないし。
 食堂に向かう人の波に逆らうように歩くと、無神経な連中と肩がぶつかりそうになったりしてムカツク。私ばっかが他の人にぶつかるのを気にして、肝心の他の人が私とぶつかるのを気にしてないっていうのがさらにムカツク。いーだ!と心の中で言ってやる。
 やーい! ばーか、ばーか! おまえのかーちゃんでーべそー!
「やはは」
 ちょっと楽しくなった。楽しくなりました記念に、上着の内ポケに入っているipodの電源を入れる。スイッチオン。お気に入りのナンバーが流れ出す。ズンズンズン。響く重低音。周りのざわざわと切り離された感じが、たまらなくいいんだよ。私はまた少し笑う。やはは。










さいぐさはるかが大学でぼっちになっているようです。










 課題の文献探しに飽きたので三階にある雑誌コーナーで小休止。でも、ここの雑誌コーナーってマジメなのばっかりだから面白くないんだよね、フラッシュとかジャンプとか置いてくれればいいのに、場合によってはアサヒ芸能でも可、なんてどうでもいいことを考えていたら、急に携帯がぶるぶる震えだしてびっくりした。一応図書館だし電話だったらやだな、なんて思っていたらすぐ切れた。メールだったみたい。良かった。
 カチ、カチカチ。
 やっぱり昼休みだからかな、雑誌コーナーには昼寝している人しかいない。すごく静か。携帯のボタンを押す音がやけにうるさく聞こえる。メールは、お姉ちゃんからだった。『今度の休みに地元に戻るんだけど、葉留佳も一緒にどう?』だって。別にどっちでもいいけど、面倒だったので『そうだねー、でも試験近いからまた今度にするよー』と送った。本当は試験なんてないけど、そう言っておいたほうが後々面倒くさくないし。本当は正月とかもこの手が使えればいいんだけどなぁ。
『そう、それじゃ仕方ないわね。しっかり頑張りなさいよね』と、五分も経たない内に期待通りの答えを返してくる高二の時からの姉。『あいあいさー!』と返してほっと一息ついた。前の前の席の人が時々立てるパラ、パラというページをめくる音。折りたたみの携帯をぱたんと閉じる音さえ耳障りに聞こえるんじゃないかと心配になる。心配性だなぁ私。前にスライド式のやつを持ってた時はこんなこと気にしなかったような気がするのに。あの携帯、携帯を開く動作自体が楽しかったからすごく気に入ってたのに、どうして変えちゃったんだろう。うーみゅ、と脳内検索中にまた携帯がぶーんと鳴く。ぶーんぶーんぶ、途切れる。またメールだよ。はるちん、今日はメールづいてるねうふふのふ……ってまた姉貴かよ! なんだよもう! じゃねーとか、またーとかギレイ的なメールだったらいくらお姉ちゃんでもノーセンキューだよ。カチカチカチ。
『たまには帰ってきて皆に元気な顔見せてあげなさいね。皆きっと気にしてるわよ』
 ぱたんとまた閉じる。勢いよく閉じてしまったので、割とおっきな音がした。雑誌熟読中のヲタク風のお兄ちゃんが訝しげな視線を向けてくる。なんだよーわたしゃ何にも悪いことしとらんぜよーと思ったけど、そういえば館内は携帯の使用は禁止だったね。めんご。十分休めたし、私はまた課題に取り掛かることにするよ。よいしょ、立ち上がり伸びをして、そういやお昼どうしようかと思った。
「ま、いっか」
 なんか食欲なくなっちゃったし。課題やろ、課題。





 三限が空いた時の四限はキツイ。なんていうかこう、気分的に。三限で終了する時の「わー早く終わったらっきー☆」感もないし、三四続きの二コマ講義を終えた「私、頑張った!」感もない。早く終われ、むしろブッチ切れという悪魔の囁きに私は断じて屈しない。真面目なんて今でも大嫌いだけど、単位落として留年なんて嫌だし。基本的にお馬鹿なので、せめて出席だけでもしないと単位が取れないんだよね。
 四限は面白くもない教養系の授業。あーめんどくさい。そもそもこれって何の授業だっけ。お尻に史って付いてた気がするから、なんか歴史的なことをやるんだろうということはわかる。だから何の歴史なんだっつーの。スターリンとかレーニンとか言ってないで、国名で言ってください国名で。そじゃないとはるちん、退屈で眠ってしまうよ。はるちんが眠ると代わりにノート取ってくれる友達がいないから大変なんだからねー。
 眠そうな教授、あれ助教授だったかな。ま、どっちでもいいけど、ともかくセンセー。いつも無気力なセンセーが珍しく指名で意見言わせようとしてた。まだまだ遠いから全然気にならないけど。
 うん、せっかくだし脳みそを思考に戻そう。
 はるちん、地味にさっきは泣いていいところだった気がする。いやーねこの子ったらいい年して代わりにノート取ってくれる友達もいないんですのよオホホノホ! うわーん! はるちんのことをぼっちって言うなー! 泣くぞコラー! ウサギだって寂しかったら死んじゃうんだぞー!
 うわんわんわんと泣きわめいていた私の肩をポンポンと叩くのはド派手なカッコの正義の味方。あなたのお名前なんてーの? なになに? アクション仮面? うーん、はるちん悪いけどそんな名前の職業ヒーロー聞いたことないなあ。もっかい「僕の顔をお食べ?」からやり直してくればいいよ。はい復唱! 僕の顔をお食べ! はいよく出来マシたー。ぱちぱちぱち。ばいばいきーん、と陽気にアクション仮面は去っていった。かっこいー。てか君は結局バイキンマンだったのかよ。もう、世の中わけわかめだよね。ねー理樹くん。理樹くん……てうわぁ! なんか理樹くんがいるよ! びっくりしたー! まぐれで大学に受かった時の次くらいにはびっくりだよ。なんでいるのー、って……なんでいきなり服を脱ぎ出すの?! いやいやいやいや上半身裸に黒タイツのEGASHIRAスタイルでそんな爽やかに笑われてもっ! あわてふためく私の手を取り理樹くんは夕日に向かって走り出す。おぅいはるちん、何やってるの今日は待ちに待った、恭介祭りだぞぅー!! な、なんだってー!
「では、三枝さん」
「いやっほーう! 恭介最高ー!!」
 立ち上がり拳を天に突き上げ高らかに叫んだ私を取り巻く視線、視線、視線。そこは夕日落ちる浜辺などではなく、私は浜で遊ぶヒトデ少女などでもなく、江頭理樹くんなんてどこにもいなかった。
「恭介さんという方がどうかしましたか?」
 冷静なのか、天然なのかは知らないが、あくまで質問形式なセンセーの声。その瞬間私は生まれて始めて耳まで真っ赤に染まる音を聞いた。うわぁマッキーみたい。
「三枝さん?」
「トイレ行ってきます」
 センセーの返事も聞かずに、荷物をひっつかんで教室を飛び出した。ふぅふぅ。呼吸が荒い。胸が苦しい。恋かしら。そんなわけないけど。
「とりあえず帰ろ……」
 流石のはるちんといえど、もう一回あの空気の中に戻っていけるほど丈夫な心臓はしていない。とぼとぼとほとんど人のいない構内を歩き出す。帰り際にちらと見た掲示板で、ようやくさっきまで受けてた授業の名前を知った。ロシア史だったのね。なんていうか、ごめんねクド公。





「ただいまグッピー」
 私の帰りを毎日健気に待ち続ける愛しき熱帯魚への挨拶もそこそこに、荷物を放り出してベランダに直行。五階建てのアパートの四階にあるマイスイートホームまで階段ダッシュを敢行したせいで私の息はとんでもなく荒い。ひぃふぅぜいぜい。早くエレベーターつけてよ管理人さん!
 まだそんなに雨も強くない。なんとか間に合ったみたい。吊してある洗濯物を部屋の中に放り込んで、後のことは後で考えようと思った。ぽいぽいぽい! 投げる投げる投げる! あっという間に私の部屋は洗濯物で足の踏み場もなくなった。よっしゃ。ぼすん、とベッドに倒れ込む。
 ちょうどその時、外の霧のような雨が、たたき付けるような雨に変わる。ざかざかざかざか。ベッドに倒れ込んだまま、何の感情もなくそれを眺める。柱に吊してある時計がかっちこっちと静かに自己主張している。四時半。夕飯にするにはまだ早い。いつも食事をするちゃぶ台の上にも洗濯物が積もっている。まずはあれをなんとかしないとご飯も食べられない。私もグッピーも。かたづけないと。かたづけないと。そう思うほどにだらしなく垂れ下がる瞼。
 ふと思う。今日は色々あった。一日の終わりにそう思わなくなって一体どのくらいの時間が過ぎただろう。毎日毎日が代わり映えのしない毎日で、昨日が今日、今日が昨日になったとしても何の問題もない日々の繰り返し。明日私がこの部屋で死んじゃっても誰も気付かないし、誰も悲しまないんだろうなぁ。そんなことを考え出したら止まらなくなる。馬鹿な妄想も、ここでは何の力も持たない。明日もしも私が死んだら。死んだら。
「――やはは」
 そんな時、決まって私は薄い作り笑顔を浮かべている。思い出せないくらい昔に、心から笑う事が出来なくなった私が編み出した、とっておきの笑い方。少しの間忘れていたそれを、一年と少し前、あっけなく思い出した。これを思い出したおかげで私はまた、楽しくなくても笑えるようになった。それはすごく便利なことだ。
 葉留佳さん。
 私を呼ぶ声が聞こえる。耳を澄ます。
 はるか。はるちゃん。葉留佳くん。はるかさん。三枝さん。みんな私のこと。どれもこれも私のことを呼ぶ声だ。
 おーい! 私はここだよー!
 満面の笑顔で、ぴょんぴょん跳びはねながら、大声を出す。まるで小さな部屋に閉じ込められているように私の声は壁や家具のあちこちに当たって跳ね返る。それなのにみんなの声は遥か遠くから聞こえている。私の気持ちが曖昧なせいなのか、その声はとてもぼやけている。
「やはは」
 我に返れば、そこはいつものワンルーム。あまりにも当たり前過ぎて、「やはは」と、私はまた笑う。
 あれは本当にあったことなのだろうかと、最近は思うようになった。あの楽しかった時間は嘘で、辛かった時の記憶だけが本当なんじゃないか。全ては、追い詰められた私が作り出した幸せな妄想だったとしたら。あの楽しさも、愉快さも、涙も和解も、許しも喜びも嘘だったとしたら。間抜けに笑って地元に戻った私は、開口一番みんなにこう言われるのだ。
「君、誰だっけ?」
 当たり前だ。全て嘘だったのだから。楽しいと思っていたのは、妄想の中にいた私一人だったのだから。
 ぷちん、とぷっちんプリンを弾いたような音を、私は何度も何度も聞いた。それは繋いだ糸を一つずつ噛み切る音だ。ぷちん、ぷちん、ぷつん。本当に大切な糸はどれだ。本当に切るべき糸はどこだ。血眼になって、見つかるはずもないそれを、私は探す。本当はそんなものどこにもなかったんじゃないの? それでも私は探し続ける。千切り続ける。
 まだ太陽が明るいはずの時間なのに、分厚い雨雲のせいで辺りは恐ろしく暗い。電気もつけずに一人部屋の中にいる私は、監獄で死刑を待つ囚人のよう。
 心のどこかで、これはしょうがないことなんだよ、ともう一人の自分が冷たく言い放つ。

 そう、この結果は必然なんだよ。これははるちんの悪い癖なんだ。はるちんはいつだって心を開かなかったじゃないか。はるちんは表面上だけ笑ってみせて、自分ですら面白いと思えないような奇行を繰り返してただけじゃないか。

 ちがう! 私は心を開いた! こわかったけど、くるしかったけど! だからお姉ちゃんとも仲直り出来た! みんなとも仲良くなれた!

 本当にそうかな。はるちんは仲良くなったふりをしていただけじゃないのかな。本当は誰とも仲良くなんてなりたくないのに、ただ一人でいたくないってだけの理由でみんなの厚意を利用してただけなんじゃないのかな。お姉ちゃんとだって、同じなんじゃないのかな。

 そんなんじゃない! 私は!

 じゃあ、どうしてはるちんは自分からみんなと離れてしまったの? みんなと同じ地方の大学に進学すればよかったじゃない。馬鹿だから、なんて言い訳でしょ?

(無言)

 ほら、何も言い返せないじゃないか。野球の練習をやってる時だってそうさ。はるちんはいつも守備を一生懸命やっていたよね? みんなは適当に休んだり、お話したり、お菓子を食べたりしていたのに。はるちんは絶対そういうことをしなかったよね。ねえ、なんで?

(無言)

 それはこういうことだよ、はるちん。君は怖かったんだ。役に立っていない自分がみんなの輪から弾かれてしまうのが怖かったんだ。はるちんははるちんであるだけで良かったはずなのに、役に立たない自分はみんなの輪の中にいる資格はないって、勝手に思い込んでしまったんだ。何もしていない自分が、みんなから優しくしてもらえるイメージを持つことが出来なかったんだ。
 結局はるちんははるちんを許してあげることが出来ないだけなんだよ。自分で自分を認めてあげることが出来ないだけなんだ。たったそれだけのことさ。でもね、はるちん。自分を信じられない人がどうして他人の根拠のない優しさを信じることが出来るの? 何も出来なくても自分が他人から優しくしてもらえる存在だって、どうしてのんきに信じていられるのさ。はるちんはそういうものを信じられなかったから、自分から離れてしまったんでしょ? 結局のところね、本当にみんなのことを信じられなかったのは、はるちんの方なのさ。
 だけどそれは、はるちんが悪いわけじゃない。本当さ。だから私は何度もそう言ってるんだよ。これは『しょうがない』ことなんだって。そういうふうにはるちんは育ってきてしまったんだから、これはしょうがないことなんだよ。

「やはは」
 遠くの空で、稲妻。光に遅れること数秒、天が崩れたような轟音が鳴り響く。底の見えない妄想はそこで途切れてしまった。手の平にじっとりと汗をかいていた。洒落っ気のないジーンズで拭うと携帯が震えた。一瞬お姉ちゃんかと思ったが、ただの出会い系サイトのメールだった。良かった、お姉ちゃんじゃなくて。そう思ってしまう自分が悲しかった。


[No.250] 2008/04/25(Fri) 22:04:52
笑顔(SSのタイトルはこちらで) (No.246への返信 / 2階層) - ひみつ

タイトルはこちらでお願いします。
訂正しようとしても出来ませんでした。
上記タイトルは普通に誤字です、申し訳ありません。


[No.251] 2008/04/26(Sat) 08:41:43
感想会ログー次回ー (No.241への返信 / 2階層) - 主催

 MVPは大谷さんの「虚構世界理論」に決定しました。
 大谷さん、MVPおめでとうございます。
 感想会のログはこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/Little8.txt


 次回のお題は「文字」
 締め切りは5/9 感想会は5/10
 みなさん是非是非参加を。


[No.253] 2008/04/27(Sun) 01:58:36
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