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   オリジナル作品批評会 - かき@主催っぽい人 - 2005/08/30(Tue) 21:34:43 [No.3]
Re: オリジナル作品批評会 - かき@主催っぽい人 - 2005/09/09(Fri) 00:14:57 [No.7]
煙に巻く - 二人目 - 2005/09/04(Sun) 14:33:58 [No.6]
作品について - 二人目 - 2005/09/13(Tue) 00:46:05 [No.9]
名前はいらない - 一人目 - 2005/09/01(Thu) 06:42:19 [No.4]
名前はいらない・加筆修正版1 - 一人目・改 - 2005/09/13(Tue) 00:11:07 [No.8]
感想〜 - pentium - 2005/09/13(Tue) 14:20:55 [No.11]
かんそーとか - かき - 2005/09/13(Tue) 02:00:13 [No.10]
第一回批評会ログ - かき@主催っぽい人 - 2005/09/04(Sun) 02:26:28 [No.5]
第二回批評会ログ - かき@主催っぽい人 - 2005/09/18(Sun) 00:59:21 [No.12]



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オリジナル作品批評会 (親記事) - かき@主催っぽい人

Yahoo! JAPAN文学賞(http://bungakushou.yahoo.co.jp/)に先駆けて、応募用作品の批評会を行います。
この記事へレスする形で作品を投稿、毎週末にチャット(http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html)で批評会という形式になります。
週毎の詳しい予定は、後ほど追記します。


とーこーのるーる

・Yahoo! JAPAN文学賞規定にあわせた作品の投稿をお願いします。
・作品の投稿は一人三作まで(ヤフーに合わせています)
・投稿は匿名でお願いします。作者の名前によって批評が後込みすることを避けるための処置です。
・作者が特定できないものであれば、名前は何でも結構です。(つまり「おぱいまん」とか「もこりまん」とかは駄目。駄目ったら駄目)
・直接的な性描写は禁止ってことで。限度は各自の良心で。
・早めに投稿→集まった批評を元にパワーアップ→再び投稿
 のコンボを使用する場合には、その作品へレスする形でお願いします。その際、改めて批評会で取り扱うことはしません。掲示板上で意見を求める形で。


ちゅーいじこー

・会の性質上、作者にとって痛い意見も多く出てくるかと。覚悟の上での参加を。
・会での意見が一般論とは限りません。「こいつの言った通りにしたら駄目になっちまったぜ」なんてのはやめてー。
・集まった批評に文句は言わないで。意見を求めるために言葉を返す、補足するのはおっけー。
・批評会とは言っても、あんまりギスギスするのもヤー。目的は互いを高めあうことです。揶揄とか悪意はだめー。
・投稿者はできる限り批評会の方にも参加してくだせえ。そのための企画ですので。
・第四週に投稿が集まると考えられます。批評会も恐らく第四土曜日付近で最大の規模になるかと。
・逆に、早い段階での投稿は比較的批評が少なくなる可能性もあります。批評会の参加が強制でない以上、やむを得ないことですのでご了承ください。
・誤字脱字は積極的に随時報告したってつかあさい。
・もしも賞金取った人がいたらその時はみんなに何か奢ろうよ。


[No.3] 2005/08/30(Tue) 21:34:43
名前はいらない (No.3への返信 / 1階層) - 一人目



 私の家の隣には一人娘がいる。幼い頃はよく遊んでいた覚えがあるが、年が経つにつれ、お互いの性を意識してか手を取り合って遊ぶことも少なくなった。私もそれを当然のものとして受け入れ、回覧板の配達や、雨が降っているからと言って親切にも洗濯物の取り込みを指示してくれる他には、目立った会話も接触もなかった。
 私にとって、彼女はよくある近所付き合いの輪に内包された一人であり、別段私の人生を左右するほどの逸材ではなかった。眉目秀麗でもなければ学力も平均的。日本人らしい黒髪が自慢だと聞いたことはあるが、両親の遺伝子が日本産であればおよそ全ての日本人が獲得しうる才能である。目を見開いて偉ぶることでもない。
 彼女が私に与える影響など塵芥ほどもないと本気で考えていたから、大学に入った直後の四月八日、彼女がしばらく病床に臥せっていることを聞いたときも、「お大事に」という在り来たりな美辞麗句を吐くのが精々だった。それでいて、自分を冷たい人間だとは思っていなかったのだから、本当に世話はない。
 五月、六月とカレンダーをなぞるように日々は流れ、適当に飲み明かせる友人も、今まで一度たりとも機会のなかった恋人との甘い生活を送ることも出来た。学業に専念しているとは言い難かったが、レポートや試験を無難にこなし、テニスサークルにも暇を見ては顔を出していた。大学の施設もそれなりに活用し、八月の長い休暇に至る頃には、大学における自由を存分に満喫していたのだ。
 大学に入っても自宅から通学する姿勢は変わらなかったが、実家での生活も少々窮屈になって来た。私には兄が一人いるが、兄は大学卒業時に就職し、家から離れて三年ほど経つ。一度兄のアパートにも訪れたが、実家の狭い六畳一間で煙草を吸っていた兄と比較して、自分の城を手に入れた兄の背中は少し誇らしげに見えた。恐らくは錯覚であろうが、これが自由なのかと狭い視野で考えたりしたものだ。
 以降、兄の部屋は物置と化し、始終淀んだ空気と埃の温床に変わっている。思い出せば、兄の部屋から隣の女の子の部屋が見えて、小さい頃は手を振ったり声を掛けたりした。大抵、その後は兄に出て行けと蹴り出されるのだが。
 長期休暇直前のレポートを提出し終え、私は安穏とした面持ちで居間のソファに身を委ねていた。家の中にいても、インナーやトランクス一枚という隙の多い格好はしない。テーブルに置いた麦茶を持ち上げ、結露した雫が裸足の甲にぴたりと落ちる。冷たくも心地良い感触に身震いしていると、台所にいた母が苦い顔をして近付いて来る。母は肉付きが良い普通の母親で、取り立てて上げるべき特徴も見当たらない。無理に挙げるとすれば、私を一度も殴らなかったということか。それは父も同様であるが、一方で兄には酷く痛め付けられた。
 母は、絞ったばかりの布巾で丁寧にテーブルを拭いた後、自分も座布団に腰掛ける。私と正対しているのに、視線を合わせようとも顔を上げようともしない。嫌な予感がする。予感は自分に不利な事象を察知する場合に起こりやすい。今回も、その例外ではないだろうと思った。
 母は喉の底から声を絞り出す。枯れた響きが、背景の中庭にそびえる老木を彷彿とさせた。
「お前、隣の子をお見舞いしておいで」
 何故と口にするより早く、母は端的に告げる。事務的で淀みの無い口調は、悲しみや絶望、あるいは諦観といったものを少なからず経験した人だけが持ちうる、残酷な能力としか思えなかった。
「あの子、もう先が長くないそうだから」
 麦色のコップを取り落とす。
 絨毯に染み込んでいく濃い液体を見て、まるでドラマか映画みたいだな、と詰まらない感想を抱いていた私は、自分で思うほど酷く冷たい人間なのだと思った。



 薄汚れたチャイムを押す。子どもには高くて鳴らせなかったベルも、今では腰を屈めた方が押しやすい。間もなく、引き戸の向こうから慌しい足音が聞こえて来る。不意に、それが彼女のような
気がして、心臓が無意味に鼓動を速める。
 いらっしゃい、と顔を出したのは彼女の母親で、私は促されるまま彼女の部屋に通された。錠前の掛かっていない扉の前に佇み、母親が扉の向こう側に言葉を投げる。
 はい、と力なく帰って来た細い女性の声が、どうしても人間のそれとは思えなかった。
 いや、違う。私の狭い世界では、痩せ細って十分に声の出ない人間の言葉など耳にしたことはないのだから、それを人間以外のものと履き違えてしまったのだ。
「入るよ」
 軋みながら開かれた扉の向こうに、白い女性が座っていた。腰から下を白いシーツで覆い、色白な痩躯は精巧に作り上げられた繰り人形を思い出させる。過去に出会った女の子とはあまりにも違っていたから、私は何の言葉も紡げなかった。「今日は」とも「久しぶり」とも、おそらくは彼女が期待しているどんな言葉も。
 母親は、気を遣って彼女の部屋から去って行った。相変わらず私は何も言えず、静かに俯く彼女の横顔から目を逸らせないままでいた。
「あの、座りませんか」
 控えめに、彼女が進言する。扉の前に直立していた私を、視線でベッドの近くにある椅子へ誘導する。多少ぎこちない動作で、彼女の顔がよく見える椅子に腰掛けた
 整頓された部屋の中には、勉強のための机、椅子の他に洋服箪笥、最近流行っている歌手のポスター、CDや映画のDVDも幾つかある。だが、それらは彼女の手の届く範囲にはない。部屋の全体からしても、ベッドは異様に大きかった。だから物が少ないように見えるのか。
 窓の向こうには、物置小屋と化した兄の部屋が見える。どんなに目を凝らしても、無邪気に手を振っている自分の姿までは覗けなかった。
「久しぶり」
「ええ、何年かぶりですね」
 初対面の人間が交わす会話だった。それでも、自然に話せるのであれば贅沢は言えない。
「十年ぶり、だと思います」
「もう、そんなに経つんですね。懐かしい」
 唇に指を当てて、冗談ぽく彼女は笑う。私は、まだ笑えなかった。頬の肉が落ち、腕時計も嵌められないほど細い手首を思えば、彼女がどういう境遇にあるかは漠然と理解できる。その程度の理由で何も言えなくなる自分を、この時ほど歯痒く思ったことはない。
「私、不安に思っていました」
「何を」
「あなたが、私のことを忘れてるんじゃないかって」
 椅子に浅く腰掛けたままでは、彼女の顔色を察することは難しい。声色だけで相手の心情を察知できるほど、私はまだ世界を知らなかった。言い訳する機会を失い、不自然な沈黙が流れる。こういう時に限って、鳥の鳴き声も近所の子どもが泣き喚く音も聞こえて来ない。
「本当に、忘れてしまったんですね」
 窘めるような呟きが、何より心に痛かった。同時に、そこに悲哀や失望が込められていないことを訝しむ。
「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど」
「それは、そうでしょうね」
 また、下唇に指を添えて淡く微笑む。それが彼女の癖だと気付いたのは、再会からしばらく経ってのことだった。
「なら、また会う日までに、私の名前を思い出しておいてくださいね」
 言って、自らの小指を差し出そうとする。指切りげんまん、という懐かしい盟約のことだと察した時にはもう、彼女の指は清潔なシーツに引っ込められていた。頬が少し紅潮しているところを見ると、自分でも恥ずかしいと思っていたらしい。
 再開の日は、お互いの顔合わせで終わってしまった。私が彼女のことを明確に記憶していれば問題はなかったのだが、かつて遊んでいた頃の彼女と、乾いた老木のような今の彼女にあまりの落差があり、上手くイメージを擦り合わせることが出来なかった。
 彼女の体に障るといけないから、と尤もらしい理由を連ねて退室しようとした際、彼女から頼まれ事を受けた。
「もし良ければ、大学の話でも聞かせてください。私、最後まで楽しみにしてたんですけど、結局行けませんでしたから」
 最後はきちんと私の目を見て、楽しみにしています、と期待の言葉を投げ掛けた。



 幸い、長期休暇はサークル活動以外特にするべきことも無かったから、私は暇を探すまでもなく彼女の部屋に足を運んだ。暇潰しなんて子どもでもしない言い訳を見付けなければ、他人と会話することも出来ない卑怯者だった。
 すんでのところで、彼女の名前は私の記憶から擦り抜ける。それでも私は、もうひとつの約束を果たすために彼女の家へ赴く。朝は十時から夜は八時まで、時折病状と通院の関係で会えないもあったが、八月いっぱいは特に問題もなく彼女と話すことが出来た。一方で、大学を挟んで反対方向に住んでいる恋人との付き合いも、ほぼ問題なく進んでいた。
「大学は、楽しいですか?」
 窓はいつも開け放たれたまま、締め切られた物置の窓を映している。彼女のベッドからは空も中庭も見えるだろうが、彼女にはもう見飽きた風景なのだろう。学食の安いカレーや、大学にありがちな怪談話が佳境に入ったところで、彼女は不意を打って訊いて来る。
 しばし、正答を模索する。その間も、彼女は両の手をシーツに隠れたお腹の上に当て、穏やかに返答を待っていた。
「はい、楽しいですよ。思っていたように」
 返せた言葉は、誰にでも言える当たり障りのないものだけれど、私なりに考えた偽りのない答えだった。
「そうですか。それなら、良かったです」
 確かめるように、彼女は小さく唇を動かした。言ってしまえば、私より彼女の方がよほど在り来たりな台詞だったように思う。そこに含まれる意味を読み取りはしなかったけれど。
「ところで、いい加減に私の名前は思い出せましたか?」
 私は、首を振るしかなかった。嘘や冗談の類は元々得意ではなかったし、彼女にそういうものは一切通用しそうになかったからだ。
 残念です、と冗談めかして肩を落とす彼女に、私は平謝りすることしか出来ない。必死に謝罪を繰り返す私を見て、くすりと分かりやすく微笑んだ後、じゃあ次はよろしくお願いしますねと言ってくれたら、大抵は収まりがつくのだった。
 予定調和のような、断絶された十年を補填する些細な遣り取りの中で、いつの間にか彼女の白い体も気にならなくなった。八月の最終週、私たちはまだ止まり続けている。



 母親や恋人から、一人暮らしのことを聞かれる。その都度、良い条件が見当たらないと嘘を吐いた。恋人には一緒に暮らそうと言われた。私は、倫理上の観念を説いて強引に諦めさせた。
 暇潰しというより、暇を見付けては彼女の部屋の扉を叩く。空腹も紛れた午後二時の昼下がり、その頃が最も穏やかに過ごせる時間帯だと分かった。茶色の古臭い椅子は私の専用となり、彼女の家族とも親交が深くなった。彼女にまつわる思い出も少しずつ浮かび上がって来て、そのことを語るたびに彼女の表情がころころと変わった。楽しい記憶には喝采を、恥ずかしいエピソードには悲鳴を。意地悪く繰り返せば、しばらく拗ねて押し黙ってしまう。
 それでも、彼女の名前が浮上することはなかった。
「酷いですね、本当に」
「ごめん。でも、努力はしているんだ。本当に」
「言葉だけなら何とでも言えます」
 珍しく、彼女は怒っている風だった。手を合わせて腰を曲げても、一切譲ろうとしない。午後三時の柔らかい時間なのに、私たちはまだその恩恵を与ることが出来ていない。
「そういえば、もう敬語じゃなくなったんですね」
 まるで、今この瞬間に気付いたとでも言うように彼女は話す。
 悪くなりかけた空気を一掃したかったのは、彼女も同じなのだろう。
「そうだね。昔は、もっと普通に話していたと思うから。……ああ、だから」
 彼女の名前が出て来ない。自然な会話を心掛けても、肝心なところで蹴躓く。自業自得だから、責める相手も見付からずに自分の膝を打つ。馬鹿なことをしている自覚はあった。
「だから、私にも普通に話してほしい、と言いたいんですね」
 言い切れなかった台詞の端を、彼女が受け持つ。そう、と頷いている間に、彼女は今までにない悪戯っぽい笑みを浮かべていた。いつものように、唇を指に這わせて。
「でも、私は昔からこんな喋り方でしたよ? 覚えていませんか」
 硬直する。細く滲ませた彼女の瞳が黒く染まっているのは、邪気が目に宿ったのではなく、美しい黒瞳が見せる幻影だと思いたかった。
「やっぱり、忘れてしまったんですね」
 意気消沈し、首と肩をだらんと下げる彼女は、私が想定していた病人のそれよりも随分と感情豊かなものだった。母からお見舞いを勧められてから一ヶ月、聞こえて来る足音が季節の移り変わりを示すものだと、一人で勝手に思い込んでいた。



 暦の上ではとうに秋を通り過ぎているが、現代の私たちは日差しの強弱からしか四季の流れを察することが出来ない。サークルに顔を出すことも疎らになり、恋人から逢瀬の請求を受けるようになった。その頃から、恋人は私の挙動を不審に思っていたのだろう。私は何も気付かなかった。本当に、何もかも。
 彼女の部屋から見える小さな空が、白く淀んだ雲に流されていく。残暑にはまだ早いが、夕立前の薄ら寒い風邪が吹いている。この機会に、蒸し暑い体の熱を逃がす。彼女は、特に汗を掻いている様子もなく、いつも通り涼しい表情のまま空を眺めている。
 大学の話もあらかた底を尽きて、私たちが共有する昔話も消化し終えた後には、私自身の記憶、そして彼女自身の記憶を掛け合わせる以外に話す内容が構成出来なかった。穏やかで、落ち着きもあり、丁寧に言葉を綴る彼女のことだから、何も喋らない日は、喋らなくても良い日なのだと思った。これまでもそうだったから、きっと今日もそうだろうと。
「覚えてますか」
「何を」
「私たちが、最後に遊んだ日のこと」
 真剣な口調なのに、彼女は視線をシーツに落としている。私の目線も、彼女が睨んでいるシーツに重なる。
「少しだけ、覚えてる。外で遊ぶのが恥ずかしかったら、うちの家でトランプか何かをやって」
「そうでしたね。もう十歳でしたから、女の子と遊ぶのが照れくさかったんですよね。私、少し傷付きました」
「それは、ごめん」
 素直に謝る。頭を下げるのが恥ずかしかった子どもはもういない。元の位置に戻ると、彼女は華奢な体を震わせて笑っていた。唇に当てるはずの指は、シーツの上に倒されていた。一頻り、ささやかな笑いが収束して、能面のように澄んだシーツから、特徴のない私の顔に視線が移る。
「あの時も、またあしたって言ったのに。私が風邪で長い間学校を休んだから、会うことも無くなってしまって。お見舞いにも来てくれなかった。窓のところから、あなたが友達と遊びに行く姿も見えていたのに。喉が痛くて、声も掛けられなかった」
 眉も吊り上げず、声も荒げずに淡々と事実のみを並べ立てる。
 再会して初めて、彼女は怒っているように見えた。以前は、もっと感情豊かな子どもであったと思う。今更になって、十年の空白を思い知る。彼女が変わらざるを得なかった瞬間に立ち会えなかったことを悔やむ。そうすれば、彼女は変わらずにいられた。私が安穏と呼吸をしている間、彼女は弓を引き絞るように呼吸をしていたのに。
「でも、いいです。こうして、恨み言を言う機会も出来たから。ちゃんと、約束通り会いに来てくれましたから。テンションは低いですけど、これでも楽しんでいたんですよ。あなたと話せることが、嬉しくて仕方ないんです」
 薬指と中指を、上下の唇に這わせる。目を細め、彼女は静かに微笑んでいた。額面通りに受け取るべきか、彼女なりの世辞と捉えるべきかわずかに逡巡する。直後、彼女の透き通った白磁の肌が赤みを帯びていることに気付き、頭の中に用意していた無難な台詞の一切合財が消滅した。
 辛うじて、喉の奥底から滑り出てきたものは、
「それは、ありがとう」
 初めから準備していた、単純で簡潔な謝辞に過ぎなかった。それでも彼女は満足げに首肯し、添わせていた指をベッドの上に垂らす。高い位置から落としたにもかかわらず、スプリングはちっとも響かない。
「どういたしまして」
 教科書通りの丁重な挨拶を交わし終えた後、彼女は不意に時計を見る。午後四時、帰るにはまだ早い時間だ。当初は居心地が悪かったこの場所も、今では第二、第三の安らげる空間になった。たった一ヶ月の再会と逢瀬を味わっただけで、これほど寛容になれる。こんな自分は、果たして馬鹿なのか利口なのか。
 瑣末な疑問の解答が出る前に、静謐な空気をなぞる柔らかな声が響く。
「ごめんなさい。私、ちょっと体が熱くて」
 目を伏せる。彼女が申し訳ないと思う時、決まってシーツを睨み付ける。一緒にいたい、話をしていたい気持ちはある。おそらくは彼女と同等、あるいはそれ以上に。
「分かった。じゃあ、またあした」
「はい、また、あした」
 たどたどしく、搾り出すように告げて、彼女は枯れ木にも似た半身をベッドに横たえる。いくら彼女が軽くても、聞こえなければならないスプリングの軋轢は、とうとう私の耳に届くことはなかった。
 別れる前に、私は彼女に聞こえるだけの囁きを漏らす。
「あした、絶対に来るから。今度は、必ず」
「そう言って、来なかったら本当に恨みますからね。呪って、祟って、枕元に立ってあげますから。覚悟してください」
「うん。そうならないように、必ず」
「でしたら、指切りでもしましょうか」
 小刻みに震える小指を、顔の位置まで掲げる。私はその指を支えるように、自分の無骨な指を彼女のそれと絡めた。幼い頃に唱えた呪文は、今となっては何の効力も持たない。こうしていると安心するから、ただそれだけの意味しかなかった。
 指切りげんまん、嘘吐いたら……。
 心の中で、遠い日の歌を反芻する。程なくして、どちらともなく指が離れた。触れ合っていた部分はわずかなのに、何故か小指と胸と頭が熱くて仕方なかった。さようなら、と足早に部屋を去る。生暖かいドアノブに触れる指は、約束を結んでいない方の掌に委ねた。
 退室した私と入れ替わるように、彼女の母親が急ぎ足で部屋へと入って行く。薬の時間なのか、本当に体調が悪かったのか。だとすれば、私は来るべきではなかったのかもしれない。過ぎたことは取り返せないが、後悔は反省材料になる。俯きながら彼女の家を出、すぐ隣にそびえ立つ自宅に引っ込む。
 中途半端に温かい頭を抱えて、二階の私室へ急ぐ。途中で聞こえた母親の声は無視して、兄の物置を通り過ぎてベッドに直行。後は何も考えようともせず、うつ伏せのまま眠りに落とす。幸せに包まれ、今日と明日の境界を通り過ぎる。
 そういえば、今日は名前のことを聞かれなかった。
 その意味を深くは考えず、静かに、流水のように意識は流れて行った。



 翌日、彼女の家には誰の姿もなかった。母から病院の住所を聞いて、駆けつけた先の彼女はいつもより白い顔をしていた。病名、悪性骨肉腫。九月十一日午前十時三十八分、心停止。同十一時五十二分、死亡確認。確認。確認。
 結局、彼女は約束を果たせなかった。今か今かと待ち望んでいた明日を、迎えることが出来ないままに。



 母親や恋人から、よく一人暮らしを勧められる。おおよその理由は察しが付いていたから、私は丁寧にその申し出を断った。あれから私は、兄の物置小屋を整理整頓して自分の部屋としている。ここの窓からは、彼女の部屋がよく見えた。彼女のように白く澄んだ花瓶に、雅な百合が活けられている。彼女の名前も、あの花になぞらえたものだったように思う。今更、思い出せても仕方ないのに。
 開かれた窓の縁に、手を掛ける。中庭のハルジオンは力強く咲き誇っている。粘っこい雲が空を埋め尽くそうとしていた。小さな小さな垣根の先に、どれだけ目を凝らしても、無邪気に笑う彼女の姿を覗くことは出来なかった。


[No.4] 2005/09/01(Thu) 06:42:19
第一回批評会ログ (No.4への返信 / 2階層) - かき@主催っぽい人

第一回のログです。
『名前はいらない』の批評となっております。

http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/hihyou1_log.txt


[No.5] 2005/09/04(Sun) 02:26:28
煙に巻く (No.3への返信 / 1階層) - 二人目

『どこに行くの?』
 この言葉が耳から離れないのは何故だっただろうか。理由はわかっていたはずなのだが、彼は考えることが出来ない。当たり前のようにタバコを吸って、当たり前のように道を歩いていた最近の自分。だが、昔のことを当たり前のように考えることが何故だかできないのだ。


 どのくらい前のことだろうか。彼がまだ住処を持って定職に付き、世の中の大半の社会人と同じような生活を繰り返していたころだ。その頃のことを思い返そうとしてみるも彼にはほとんどのことが靄がかかったように現れた瞬間消えてしまう。所詮その程度の生活だったということだなと思うのではあるが、思い出せないのに懐かしいとも感じる気がしているのは彼が言う「その程度の生活」というのにも感慨深いものがあったということだろう。
 線路沿いを歩きながら懐から箱を取り出そうとして、それを掴んだまま手が止まる。そうだ。禁煙を始めたんだったか。禁煙するのなら残っていたその箱を捨てればいい話であるのだが、半分に届かない量の煙草とライターがその箱には残ったままだった。左手をポケットに入れれば携帯灰皿も未だに入っている。
 昔からこの良くわからない考えは変わらないな。空を見ながらそう思った。昔のことなんてほとんど、いや、全くと言っていいほど覚えていないはずなのに。彼は明日は何をするかが大体わかっていたあの頃でもこんな風だったのだろうか? おそらく彼を知るものがここにいたならば少し悩みながらも一応は首を縦に振っていたことだろう。彼は変人だった。それなりの仕事に就いて、それなりに働いて、それなりに人並みの生活を送って明日に不安を感じることのない生活を送っていた、どこにでもいるレベルの変人だった。自らそれを破り捨てた時には彼は何になったのだろうか。しかし今の彼を知るものはいない。

 何が彼をそうさせたのはわからない。ただ、何かが影響したことは確かである。それが何かでさえ思い出せないくらいに遠い昔のように彼には感じるが、実際にはそう時は経っていない。ただあの頃とは時間の密度が違うだけで、今でも平等に昔と同じように時は流れている。
 まず最初に仕事のことを考え、次にストレスの発散のために趣味のことを考える。そういう暮らしから抜けだしたのはどんな日だったのだろうか。そんなことを考えて金網に体を預けた。反射的に手がポケットに行きかけるが、大きな溜息とともに後頭部へまわす。

 全てが順調だった。同僚ともいい関係を築け、上司にも悪くない印象を与えていたはずだ。会社も急成長というほどではないにしろ将来性のある場所だった。ストレスは溜まるが、発散方法もたくさんあったし、どこにも不満なんて無いと思っていたはずの自分。どこがターニングポイントだったのだろう。今まで触れてこなかった。いや、触れようとしても何かが邪魔をしていた、鍵をかけたように大切に仕舞われていた小さな箱にゆっくりと手をかける。
 空を見上げると煙草の煙のような雲がゆっくりと流れていた。


 残業があった。上司に頼まれたわけでもない、まだ締めに入るまでは時間があったその程度の仕事だ。会社の同僚も珍しく残業しておらず偶然に一人で残っていた、そんな日。
 いつも仕事でやっているようにパソコンのデスクに座り、キーボードと格闘し、ときどき首を回しながら、少しずつ片付けていた。
 そしてやはりいつものように小休止をしてコンタクトレンズ用の目薬を点す。片方の目に二滴ずつ。慣れ親しんだその四つの感覚。だが爽快感というのは慣れ親しんでいても良いものであり、少しだけ疲れが取れたような気になってもう一度液晶画面を見る。
 頭が少し揺れた。地震かな、と思い頭上の書類の束を見てみるも変化は無い。もう一度液晶画面に目を映すとやはり揺れていた。
 後少しでノルマをこなせそうなところまで来て不調を訴える自分の身体にいらいらしてみるもすぐに気を取り直して休憩室へ向かった。よくB型と思われているが俺はれっきとしたA型人間だ、と入社二年目の事務の女の子に宣言しようとしている自分が頭の中に現れていたことに気づいて、自分は疲れているんだな、と自覚した。

 会社が試験的に導入したエアカーテンで仕切られた休憩室で煙草を咥える。最近はどこにいても喫煙者に優しくない世の中になった。公共の場なんて論外であるし、どこかの店内にだったとしても嫌煙家の目は酷く気になる。こちらは喫煙席で吸っているんだからそんな目で見るなと言いたいが、自分でも煙草の生み出す悪影響は理解していたので、結局は肩身の狭い場所へと甘んじることになる。
 エアカーテンに消されていく煙をぼんやりと見つめる。なんだかそれが酷く滑稽に思えた。自分がこの場所にいることに、自分の知っていたはずの世の中が全て入れ替わったかのような違和感を覚える。
 煙が消える。目に見えないはずの空気の流れがタバコの煙を通して見ることによってくっきりと浮き上がる。なんだかそれが異常なほどいらだたしくて煙を増やし、そして結局すぐに消されていく。矛盾。いらいらが募る。エアカーテンで仕切られている空間。消えていく煙。それを生み出す自分。立地する会社。所属する自分。
「ふっ」
 今までしたことの無い笑いが漏れていた。いや、過去にあったのだろうか。一度だけ。あれは罠にかかっている虫を見た時だ。甘い匂いに誘われてのこのこやってきて。必死にもがくのに。逃げ出したくてもがくのに。もがけばもがくほどソレは絡みつく。甘い匂いの中で屍になっていく過程。その様子を見て虫の色をそのまま映し出したようなどす黒く光った衝動を感じたのは中学に入ったばかりの頃だっただろうか。映画だったか。はたまた本だったか。どっちでもいいが何かに影響されて哲学的な問いを頭でぐるぐると回しつづけて明日なんてどうでもよくなったころの出来事。両親にそんな自分でもよくわからなかった考えのことを聞くと思春期の頃特有のはしかみたいなものだ、と一蹴されたことを思い出した。その両親は今は墓の中。もう三年も前のことだった。そういえば今日は命日だった。朝付けるとたまたまやっていたテレビのニュースで振り返っていたことを今ごろ思い出して、限界まで短くなったその先で燻っている火を消した。

 もう残りの仕事を片付ける気になるわけが無かった。四本の吸殻と中途半端な量の仕事を残して、彼は会社を後にした。普段はするはずの無い歩きタバコ。人並みの常識は持ち合わせていた彼だったがそれは会社に忘れてきてしまったようだった。いらいらした頭のまま家路を歩む。もしかしたら競歩のような早さだったかもしれない。反転したままの世界は新しい乗り物を手に入れて試乗しているかのように現れては消えていく。変わらないのは咥えたタバコから出ている煙だけ。その煙を追うようにして後ろを振り向くと、待っていたものは不快そうにこちらを睨んでいる老婆の姿で煙はすぐに消えていった。
 世界は反転したままだったが、常識が戻る。いらいらは消えないままだったが、すぐさま携帯灰皿を取り出して半分以上残っているそれを灰皿へと押し付けた。もう一度後ろを見る。今度はじっくりと頭上から地面、足元から遠くまでぐるりと視界を一周するように注視してみると視界ぎりぎりのラインに吸殻が残っていた。そこまで戻り、拾う。そして先を見るとまたしてもぎりぎりの場所に残る足跡。周りを見渡し、気が付けば会社よりも家のほうが近い位置まで来ていた。そしてやはり吸殻を拾いに行って、その先に見つける。
 全てを拾い終える。するとその先は会社の目の前であった。わずかに日の光を残していたはずの世界が人口の光に彩られていた。色が反転していてもそんなことは理由もなくしっかりとわかってしまう自らの脳にやはり苛立ちを感じた。
 再び家への道を辿ることとなった。タバコを吸いたかったが、理性をどうにか総動員して押し留めた。何をするにもいらいらという名の何かが一斉に署名を集めて募っていく。そう言えば衆議院が解散したのだったかな。街灯の明かりはブラックライトとなって彼の目へと流れ込む。常識と非常識の有り得るはずのない融合。あまりにも異常な世界を映し出しているはずなのだが彼は今までの人生のおかげで常識を覚えていて今までに何度も見た正常な世界へと異常を補正しようとしている。視覚と脳で見る映像が別物になっていて、違和感が三百六十度回転して元に戻っているのだが何らかのパーツが規格外であり、何度試しても合うことのないおかしな感覚。
 なんだかやたらと煙草が吸いたくなった。仕事帰りに寄ることの多い行きつけのファミレス。もちろん喫煙席も用意してあるところだ。いつのまにここまで辿りついたのかはやはりわからなかったがいつものように、何がいつものようなのか不自然な世界では良くわからないはずだったのだが、店員に案内されてホットコーヒーとハンバーグセットを頼む。今さら山姥メイクなんて流行らないだろうと思った。やりとりは不快だった。他の客の生み出す喧騒も不愉快だった。ただ煙草が吸いたかった。店員が一礼をして頭を上げる前に我慢が効かなくなってタバコに火を付けた。
 全反転の空間の中で何故かその灰色だけが彼が見ていたいつもの色だった。白みがかった灰色のはずなのに不思議とそれだけが反転されておらず切り取ってきたように同じ色のままだった。いや、全てが違うこの中でこれが違わないとも限らない。全てのことが疑問であり、全てのことが正常なのだ。口の先から煙が登っていくは正常だ。いつものように仕事を終えて会社から帰るのも正常なのだ。そう。自分はヘヴィスモーカーだからいつのまにか吸殻が増えていくのも正常だ。すでに会社で一箱消費したし、たった今もそれはまた増えた。
 懐から目薬を取り出す。いつも必ず、二滴ずつ両目に垂らす。変な癖ね、と言われたのは誰にだっただろうか。点す。点す。点す。点す。あぁ、そうだ。彼女だ。そういえば明日はレディスデーだから新作の映画を見にいくんだったか。俺は男だからあんまり意味はないし浮きそうなんだけど、と言っても笑って取り合ってくれなかったんだ。
 いつもの店員さんが笑って注文を運んでくる。いつものように愛想笑いを浮かべて軽いやりとり。見慣れた店内に見慣れたホットコーヒーとハンバーグセット。スッと入るナイフの感触も付け合せのにんじんのグラッセの色も見慣れたものだ。ホットコーヒーを運んでみると程よい熱さと適度な薄さが落ち着きを取り戻させる。
 明日は休日だ。朝からすでに予定が入っている。久々に彼女と出かける。張り切っている彼女に振り回されることになるのだろうか。こんな風に一人でゆっくりしている暇はなさそうだ。慣れた味を全て味わったころには彼は心地よい満腹感に満たされていた。
 レジの係もいつもの彼女だった。初めて見たときより少しだけアイシャドウが濃くなっているのはたぶん気のせいではない、と思いながら店を出る。
 夜の街並み。この店から自宅はもうすぐそこだった。1LDKの一人で住むには少し広く感じるそれなりの値段がするアパート。彼女にしてみればこれでも狭いらしい。もう少し広くして二人で住んで折半しようよと頻繁に話題に出してくるが、一人の時間がなくなるのが嫌で断っていた。なのでおそらく、彼にとってはまだ今しばらくは過ごすであろう我が家。

 家の中は特に飾らない彼の性格と元々の内装もあって白を基調としたシンプルな印象。見慣れたはずの自分の部屋に帰った彼だったが、色感が薄いいつものソコを見た瞬間にまたしても目眩に襲われた。疲れという揺れの総攻撃に為すすべも無くたまらずにベッドに倒れこんだ。その中で睡眠を欲する体に対抗しているような煙草を求める勢力。ポケットに手を伸ばしてまさぐっていると小さくポケットが震えた。反射的に通話ボタンを押してしまい震えるそれを取り出して耳に当てる。
『ねぇ、明日の約束覚えてるー?』
「…あぁ」
 彼自身は気づいていなかったが、これ以上ないほどに不機嫌な声だった。煙草が見つからない。触れているのに取り出せない。いらいらがうじゃうじゃと傷口に、急所に集まりだした。
『なんだか疲れてるね』
「そうだな」
 見つけた。これだ。暗闇の先にわずかな光を見つけた。くしゃくしゃの箱を取り出した。中身を見ると残りは一本しか無かった。どうせ今から眠りに入るのだと思って火を付ける。かちっ。かちっ。なかなかライターから火は出ない。いらいらしてもう右手に持ったそれを放り投げようとした時にようやく火がついた。
 部屋一面が黒くなった。窓の外は白かった。
『…っと! 聞いてる!?』
 聞いてるよ。聞いてる。タバコの煙は灰色だ。炎は青色だ。もちろん部屋は真っ黒だ。窓の外には飛び出したホワイトが広がって黒点がそこかしこに溢れてる。ああ、あの奇妙な形してる奴は月だよな。
『なーに? 聞こえないんだけど?』
 声が出ていなかった。それに不自然さを感じて、彼は限界まで伸びたバネが戻るようにベッドから跳ね起きた。タバコの先が刻一刻と減っていく。減る。灰が下に落ちる。
「行か…なくちゃ」
 タバコを。もう無いんだ。
『え?』
「ちょっと行って来る」
『どこに行くの?』
 彼は答えなかった。
『…あしたきっちり、時間通りに来てね。楽しみにしてるからね!』
 ブツッ。電話を切ったのはあちらからだったのか自分からだったのか。もう折りたたみ式のそれは無造作に放り投げられた後だったので、彼が電話の内容を気にすることは無かった。後少ししかない唇の先のタバコの残りがどうしようもなく不安だった。

 あの時買ったタバコは1カートンだっただろうか、2カートンだっただろうか。それよりももっと多かっただろうか。
 ポケットからタバコを取り出して火を付けた。禁煙なんかしてると頭がおかしくなりそうだ。どうせ後ろのリュックにはまだわんさかとこいつは入っている。どのくらい禁煙を続けていたのかは彼自身にはわからない。二時間にも満たなかったということはわからない。
 ふかした煙は相変わらず灰色だった。それが空に溶けていくのを見ると今自分が何を考えていたのか、綺麗さっぱりと消えてしまった。ただ酷く不快で、それでいて懐かしいものだったことは不透明ながらもわかっていた。
 タバコをふかす。煙が風に誘われて消えていく。空というのはこんな色だっただろうか。最近空の向こう側という言葉が心に沁みる。今は空の色と煙の色は全く同じで。自分が空を構成する要素を増やしていっているかのような錯覚に陥る。もしかしたら錯覚じゃないのかもしれなかった。あちら側には何が広がっているんだったかな。二本目のタバコに火をつけながら彼は煙の向こうに目を向けた。
『どこへ行くの?』
 さっぱりわからない。何を考えているのか自分でもわからないままに、彼は今日もタバコの煙が向かうほうへ。向こう側へ。気のみ気のまま歩く。わかっていることは、昨日の眠りは浅かったから今の自分は睡眠不足だということだけだった。だからこんなに面倒で。だからこんなに眠りたくて。今日はもうどうでも良くて。金網に身体を預けたまま瞼を閉じた。同時に吸殻を灰皿へ。睡眠を取る時だけ彼はタバコと離れる。
 しかし目が覚めると必ずすぐにタバコを吸う。そうすることが一日の始まり。四つセットだったあの感覚はどこにいったのだろうか。思い出せないまま意識は底へと沈んでいく。

 起きるといつもよく思うことが彼にはあった。今自分はどこにいるのだろうか。昨日自分はどこにいたのだろうか。明日の自分はどこにいるのだろうか。いつものようにタバコをひとふかし。とりあえず余計な考え事はあしたに回して今はタバコを吸っていたい。この煙はどこに行ってるのかな。


[No.6] 2005/09/04(Sun) 14:33:58
Re: オリジナル作品批評会 (No.3への返信 / 1階層) - かき@主催っぽい人

文字の色が見づらいとの意見をいただきましたので、文字色は黒で統一したいと思います。
次回投稿される方から、協力をお願いします。


[No.7] 2005/09/09(Fri) 00:14:57
名前はいらない・加筆修正版1 (No.4への返信 / 2階層) - 一人目・改



 私の家の隣には、一人の女の子がいる。幼い頃はよく遊んでいた覚えがあるが、年が経つにつれ、お互いの性を意識してか手を取り合って遊ぶことも少なくなった。私もそれを当然のこととして受け入れ、回覧板の配達や、雨が降っているからと言って、親切に洗濯物の取り込みを指示してくれる他には、目立った会話も接触もなかった。
 私にとって、彼女はよくある近所付き合いの輪に内包された一人であり、別段私の人生を左右するほどの逸材ではなかった。眉目秀麗でもなければ学力も平均的。日本人らしい黒髪が自慢だと聞いたことはあるが、両親の遺伝子が日本のものであればおよそ全ての日本人が獲得しうる才能である。目を見開いて偉ぶる程のことでもない。
 彼女が私に与える影響など塵芥ほどもないと本気で考えていたから、大学に入った直後の四月八日、母から彼女がしばらく病床に臥せっていると聞いた時も、「お大事に」という在り来たりな美辞麗句を吐くのが精々だった。それでいて、自分を冷たい人間だとは思っていなかったのだから、本当に世話はない。
 五月、六月とカレンダーをなぞるように日々は流れ、適当に飲み明かせる友人も増え、サークルにも入った。学業に専念しているとは言い難かったが、レポートや試験を無難にこなし、大学の施設にも慣れ、八月の長い休暇に至る頃には、大学における自由とやらを存分に満喫していたのだ。
 大学に入っても自宅通学は相変わらずだったが、実家での生活も少々窮屈になって来た。私には兄が一人いるが、兄は大学卒業時に就職し、家から離れて三年ほど経つ。
 以降、主の無くなった部屋は通例に従い雑然とした物置と化し、始終淀んだ空気と埃の温床に変わっている。思い出せば、兄の部屋から隣の女の子の部屋が見えて、小さい頃は手を振って声を掛けた。大抵、その後は兄に出て行けと蹴り出される。
 休日の緩慢な時間、私は安穏とした面持ちで居間のソファに身を委ねていた。テーブルに置いた麦茶を持ち上げ、結露した雫が裸足の甲にぴたりと落ちる。冷たくも心地良い感触に身震いしていると、台所にいた母が苦い顔をして近付いて来る。
 母は絞ったばかりの布巾で丁寧にテーブルを拭いた後、自分も座布団に腰掛ける。私と正対しているのに、視線を合わせようとも顔を上げようともしない。なんとはなしに、嫌な予感はした。
 少しばかり俯いて、母は喉の底から声を絞り出す。枯れた響きが、背景の中庭にそびえる老木を彷彿とさせた。
「お前、隣の子をお見舞いしておいで」
 何故と口にするより早く、母は端的に告げる。事務的で淀みの無い口調は、悲しみや絶望、あるいは諦観といったものを少なからず経験した人だけが持ちうる、残酷な能力なのかもしれなった。
「あの子、もう長くないそうだから」
 手が滑った訳でもないのに、麦色のコップを取り落としていた。
 絨毯に染み込んでいく濃い液体を見て、まるでドラマか映画みたいだな、と詰まらない感想を抱いていた私は、自分が思うほど酷く冷たい人間なのだと思った。



 薄汚れたチャイムを押す。子どもにとっては、無闇に高く好き勝手に鳴らせなかったベルも、今では腰を屈めた方が押しやすい。間もなく、引き戸の向こうから慌しい足音が聞こえて来る。不意に、それが彼女のような気がして、心臓が無意味に鼓動を速める。
 いらっしゃい、と顔を出したのは彼女の母親で、私は促されるまま彼女の部屋に通された。錠前の掛かっていない扉の前に佇み、母親が扉の向こう側に言葉を投げる。
 はい、と力なく返された細い女性の声が、どうしても人間のそれとは思えなかった。
 いや、違う。私の狭い世界では、痩せ細って十分に声の出ない人間の言葉など耳にしたことはないのだから、それを人間以外のものと履き違えてしまったのだ。
「入るよ」
 軋みながら開かれた扉の向こうに、白い女性が座っていた。腰から下を白いシーツで覆い、色白な痩躯は精巧に作り上げられた繰り人形を思い出させる。過去に出会った女の子たちとはあまりにも異なっていたから、私は何の言葉も紡げなかった。「今日は」とも「久しぶり」とも、おそらくは彼女が期待していた如何なる言葉も。
 彼女の母親は、気を遣って部屋から出て行った。相変わらず私は何も言えず、静かに俯く彼女の横顔から目を逸らせないままでいた。
「あの、座りませんか」
 控えめに、彼女が進言する。扉の前に直立していた私を、視線でベッドの近くにある椅子へ誘導し、多少ぎこちない動作ながら、私も彼女の顔がよく見える椅子に腰掛けた。
 整頓された部屋の中には、勉強机と椅子の他に洋服箪笥、最近流行っている歌手のポスター、CDや映画のDVDも幾つかある。だが、それらは彼女の手の届く範囲にはない。
 部屋の全体からしても、ベッドは異様に大きかった。窓のスペースにある白磁の花瓶には、彼女より白い花が活けられている。ここに蔓延している白は、清潔さよりか残酷過ぎる無垢さ、あるいは空虚さといったものを浮かび上がらせた。
 窓の向こうには、物置小屋と化した兄の部屋が見える。どんなに目を凝らしても、無邪気に手を振っている自分の姿までは覗けなかった。
「久しぶり」
「ええ、何年かぶりですね」
 初対面の人間が交わす会話だった。それでも、自然に話せるのであれば贅沢は言えない。
「十年ぶり、だと思います」
「もう、そんなに経つんですね。懐かしい」
 唇に指を当てて、冗談ぽく彼女は笑う。私は、まだ笑えなかった。頬の肉がこそげ落ち、腕時計も嵌められないほどに細く締まった手首を思えば、彼女がどういう境遇にあるかは漠然と理解できる。その程度の理由で何も言えなくなる自分を、この時ほど歯痒く思ったことはない。
「私、不安に思っていました」
「何を」
「あなたが、私のことを忘れてるんじゃないかって」
 椅子に浅く腰掛けたままでは、彼女の顔色を窺い知ることは難しい。声色だけで相手の心情を察知できるほど、私はまだ人間を知らなかった。言い訳の機会を失い、不自然な沈黙が流れる。こういう時に限って、鳥の鳴き声も近所の子どもが泣き喚く音も聞こえて来ない。
「本当に、忘れてしまったんですね」
 窘めるような呟きが、何より心に痛かった。同時に、そこに悲哀や失望が込められていないことを訝しむ。
「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど」
「それは、そうでしょうね」
 また、下唇に指を添えて淡く微笑む。それが彼女の癖だと気付いたのは、再会からしばらく経ってのこと。
「でしたら、また会う日までに、私の名前を思い出しておいてくださいね」
 言って、自らの小指を差し出そうとする。指切りげんまん、という懐かしい盟約を意味するのだと気付いた時にはもう、彼女の指は清潔なシーツに引っ込められていた。頬が少し紅潮しているところを見ると、自分でも恥ずかしいと思っていたらしい。
 再会の日は、お互いの顔合わせで終わってしまった。私が彼女のことを明確に記憶していれば問題はなかったのだが、かつて遊んでいた頃の彼女と、乾いた老木のような今の彼女とに、上手にイメージを擦り合わせることが出来なかった。
 体に障るといけないから、などと尤もらしい理由を連ねて、退室しようと試みる。その際、彼女からひとつ頼まれ事を受けた。
「もし良ければ、大学の話でも聞かせてください。私、最後まで楽しみにしてたんですけど、結局行けませんでしたから」
 最後はきちんと私の目を見て、楽しみにしています、と上ずった台詞を投げてよこした。



 幸い、長期休暇はサークル活動以外に予定もなかったから、暇を潰すためと称して彼女の部屋に足を運んだ。暇潰しなんて子どもでもしない言い訳を見付けなければ、他人と会話することも出来ない卑怯者だった。
 すんでのところで、彼女の名前は私の記憶から擦り抜ける。それでも私は、もうひとつの約束を果たすために彼女の家へ赴く。朝は十時から夜は八時まで、時折病状と通院の関係で会えないもあったが、八月いっぱいは特に問題もなく彼女と話すことが出来た。一方で、大学のサークル活動も友人の付き合いも、ほぼ滞りなく続いていた。
「大学は、楽しいですか?」
 窓はいつも開け放たれたまま、締め切られた物置の窓を映している。彼女のベッドからは空も中庭も枯れた老木も見えるだろうが、彼女にはもう見飽きた風景なのだろう。学食の安いカレーや、大学にありがちな怪談話が佳境に入ったところで、彼女は不意を打って訊いて来た。
 しばし、正答を模索する。その間も、彼女は両の手をシーツに隠れたお腹の上に当て、穏やかに返答を待っていた。
「はい、楽しいですよ。思っていたように」
 返せた言葉は、誰にでも言える当たり障りのないものだったけれど、私なりに考えた偽りのない答えだった。
「そうですか。それなら、良かったです」
 確かめるように、彼女は小さく唇を動かした。言ってしまえば、私より彼女の方がよほど在り来たりな台詞だったように思う。その器に含まれた真意という水を、深く汲み取りはしなかったけれど。
「ところで、いい加減に私の名前は思い出せましたか?」
 問われたところで、私は首を振るしかなかった。嘘や冗談の類は元々得意ではなかったし、彼女にそういうものは一切通用しそうになかったからだ。
 残念です、と冗談めかして肩を落とす彼女に、私は平謝りすることしか出来ない。必死に謝罪を繰り返す私を見て、くすりと分かりやすく微笑んだ後、じゃあ次はよろしくお願いしますねと言ってくれたら、大抵は収まりがつくのだった。
 予定調和のような、断絶された十年を補填する些細な遣り取りの中で、いつの間にか彼女の白い体も気にならなくなった。八月の最終週、私たちはまだ止まり続けている。



 母親や友人から、よく一人暮らしのことを聞かれる。その都度、良い条件が見当たらないと嘘を吐いた。親しい友人には、ルームシェアだとかで一緒に暮らそうと言われた。私は、倫理と経済の観念を説いて強引に諦めさせた。
 暇潰しとしてではなく、暇を見付けては彼女の部屋の扉を叩く。空腹も紛れた昼下がりの午後二時、その頃が最も穏やかに過ごせる時間帯だと分かった。茶色の古臭い椅子は私専用となり、彼女の家族とも親交が深くなった。彼女にまつわる思い出も少しずつ浮かび上がって来て、そのことを語るたびに彼女の表情はころころと変わった。楽しい記憶には喝采を、恥ずかしいエピソードには悲鳴を。意地悪く繰り返せば、しばらく拗ねて押し黙ってしまう。
 それでも、彼女の名前が浮上することはなかった。
「酷いですね、本当に」
「ごめん。でも、努力はしているんだ。本当に」
「言葉だけなら何とでも言えます」
 珍しく、彼女は怒っている風だった。手を合わせて腰を曲げても、一切譲ろうとしない。午後三時の柔らかい時間なのに、私たちはまだその恩恵を与ることが出来ていない。
「そういえば、もう敬語じゃなくなったんですね」
 まるで、今この瞬間に気付いたように彼女は話す。
 穏やかでない空気を一掃したかったのは、彼女も同じなのだろう。
「そうだね。昔は、もっと普通に話していたと思うから。ああ、だから」
 彼女の名前が出て来ない。自然な遣り取りを心掛けても、肝心なところで蹴躓く。自業自得なのだから、責める相手も見付けられずに自分の膝を叩いた。
「だから、私にも普通に話してほしい、と言いたいんですね」
 言い切れなかった台詞の端を、彼女が受け持つ。そう、と頷いている間に、彼女は今までにない悪戯っぽい笑みを浮かべていた。いつものように、唇を指に這わせて。
「でも、私は昔からこんな喋り方でしたよ? 覚えていませんか」
 硬直する。細く滲ませた彼女の瞳が黒く染まっているのは、美しい黒瞳に邪気が宿ったからなのではないかと錯覚する。
「やっぱり、忘れてしまったんですね」
 意気消沈し、首と肩をだらんと下げる彼女は、私が想定していた病人のそれよりも随分と感情豊かなものだった。お見舞いを勧められてから一月、聞こえて来る足音が季節の移り変わりを示すものだと、一人で勝手に思い込んでいた。



 暦の上ではとうに秋を通り過ぎているが、現代の私たちは日差しの強弱からしか四季の流れを察することが出来ない。
 彼女の部屋から見える小さな空が、白く淀んだ雲に流されていく。残暑にはまだ早いが、夕立前の薄ら寒い風が吹いている。この機会に、蒸し暑い体の熱を逃がす。彼女は、特に汗を掻いている様子もなく、いつも通り涼しい表情のまま空を眺めている。
 大学の話もあらかた底を尽きて、私たちが共有する昔話さえも消化し終えた後には、私自身の記憶、そして彼女自身の記憶を掛け合わせる以外に話す内容が構成出来なかった。穏やかで、落ち着きもあり、丁寧に言葉を綴る彼女のことだから、何も喋らない日は、喋らなくても良い日なのだと思った。
「覚えてますか」
「何を」
「私たちが、最後に遊んだ日のこと」
 真剣な口調なのに、彼女は視線をシーツに落としている。私の目線も、彼女が睨むシーツに重ねられる。
「少しだけ、覚えてる。外で遊ぶのが恥ずかしかったら、うちでトランプか何かをやって」
「そうでしたね。もう八歳でしたから、女の子と遊ぶのが照れくさかったんですよね。私、少し傷付きました」
「それは、ごめん」
 素直に謝る。頭を下げるのが恥ずかしかった子どもは、もうここにはいない。元の位置に戻ると、彼女は華奢な体を震わせて笑っていた。唇に当てるはずの指は、シーツの上に倒されていた。一頻り、ささやかな笑いが収束して、能面のように澄んだシーツから、特徴のない私の顔に視線が移る。
「あの時も、またあしたって言ったのに。私が風邪で長い間学校を休んだから、会うことも無くなってしまって。お見舞いにも来てくれなかった。窓のところから、あなたが友達と遊びに行く姿も見えていたのに。喉が痛くて、声も掛けられなかった」
 眉も吊り上げず、声も荒げずに淡々と事実のみを並べ立てる。
 再会して初めて、彼女は怒っているように見えた。以前は、もっと感情豊かな子どもであったと思う。今更になって、十年の空白を思い知る。彼女が変わらざるを得なかった瞬間に立ち会えなかったことを悔やむ。そうすれば、変化を拒むことは出来なくても、手を繋ぐことくらいは出来たのだ。だというのに、私は安穏と呼吸をしていて、彼女は弓を引き絞るように呼吸を繰り返し。
「でも、いいです。こうして、恨み言を言うことも出来たから。ちゃんと、約束通り会いに来てくれましたから。雰囲気は暗いですけど、これでも楽しんでいるんですよ。あなたと話せることが、嬉しくて仕方なかったんです」
 薬指と中指を、上下の唇に這わせる。目を細め、彼女は静かに微笑んでいた。額面通りに受け取るべきか、彼女なりの世辞と捉えるべきか、わずかに逡巡する。直後、彼女の透き通った白磁の肌が赤みを帯びていることに気付き、頭の中に用意していた無難な台詞の一切合財が消滅した。
 辛うじて、喉の奥底から滑り出てきたものは、
「それは、ありがとう」
 初めから準備していた、単純で簡潔な謝辞に過ぎなかった。それでも彼女は満足げに首肯し、添わせていた指をベッドの上に垂らす。高い位置から落としたにもかかわらず、スプリングはちっとも響かない。
「どういたしまして」
 教科書通りの丁重な挨拶を交わし終えた後、彼女は不意に時計を見る。午後四時、帰るにはまだ早い時間。その意図を図りかねている間に、静謐な空気をなぞる柔らかな声が響いた。
「ごめんなさい。私、ちょっと体が熱くて」
 目を伏せる。彼女が申し訳ないと思う時、その瞳は決まってシーツを睨み付けていた。一緒にいたい気持ちはある。彼女と同等、あるいはそれ以上に。
「分かった。じゃあ、また明日」
「はい、また、あした」
 たどたどしく、搾り出すように告げて、彼女は枯れ木にも似た半身をベッドに横たえる。いくら彼女が軽くても、聞こえなければいけなかったスプリングの軋轢は、とうとう私の耳に届くことはなかった。
 別れる前に、私は彼女に聞こえるだけの囁きを漏らす。
「明日、絶対に来るから。今度は、必ず」
「そう言って、来なかったら本当に恨みますからね。呪って、祟って、枕元に立ってあげますから。覚悟してください」
「うん。そうならないように、必ず」
「でしたら、指切りでもしましょうか」
 小刻みに震える小指を、顔の位置まで掲げる。私はその指を支えるように、自分の無骨な指を彼女のそれと絡めた。幼い頃に唱えた呪文は、今となっては何の効力も持たない。こうしていると安心するからと、ただそれだけの意味しかなかった。
 指切りげんまん、嘘吐いたら……。
 心の中で、遠い日の唄を反芻する。程なくして、どちらともなく指が離れた。触れ合っていた部分は僅かなのに、小指と胸と頭が熱くて仕方なかった。さようなら、と足早に部屋を立ち去る。生暖かいドアノブに触れる指は、約束を結んでいない方の掌に委ねた。
 退室した私と入れ替わるように、彼女の母親が急ぎ足で部屋へと入って行く。薬の時間なのか、本当に体調が悪かったのか。だとすれば、私は来るべきではなかったのかもしれない。過ぎたことは取り返せないが、後悔は反省材料になる。俯きながら彼女の家を出、すぐ隣にそびえ立つ自宅に引っ込む。
 中途半端に熱い頭を抱えて、二階の私室へ急ぐ。途中で聞こえた母親の声は無視し、物置を通り過ぎてベッドに直行する。後は何も考えようとせず、突っ伏したまま眠りに落とす。慎ましやかな幸せに包まれ、今日と明日の境界を簡単に通り過ぎる。
 今日は、彼女から名前のことを訊かれなかった。
 その意味を深くは考えず、意識は濁流のように流されて消えた。



 翌日、電話の音で叩き起こされた。胡乱な頭は、病院の前まで来てようやく現実に追いついた。
 指定された病室の脇に、手書きのプレートが嵌められている。見慣れた苗字は、確か彼女の家と同じだったと思う。だから、その下にある文字は彼女の――。
 開いたままの扉を潜る。
 魚が地面を這いずるような、重苦しい空気と雑音の中。彼女は、いつもより白い顔で寝転んでいた。病名、右大腿部悪性骨肉腫。九月十一日午前十時十八分、心停止。同十時五十分、死亡確認。確認。確認。
 彼女の頬に触れようとしたが、医師と彼女の母親に留められた。私は最期まで気付けなかったから、だから彼女の名前を囁き掛けるのは妙に躊躇われた。そうして呆と突っ立っている私の背中を、リノリウムの白天井から誰かが見下ろしているようだった。振り向こうとしても、目蓋の裏から覗いて来る彼女の瞳から逃れ得る術もなく、泣き続けるより他に何も出来ないでいた。





 母親や友人から、よく一人暮らしを勧められる。おおよその理由は察しが付いていたから、丁寧にその申し出を断って来た。あれから私は、兄の物置小屋を整理整頓して自分の部屋にしている。ここの窓からは、彼女の部屋がよく見えた。白磁の淡く澄んだ花瓶に、雅な百合が活けられている。彼女の名前は初めからそこにあり、ずっと彼女を示し続けていた。首を垂れた百合は何も語らない。私もまた、囁き掛ける名前はいらないと思った。ここにいれば。そこにいれば。
 開かれた窓の縁に、掌から全ての体重を掛ける。中庭の老木はまだ健在で、雑草のようなハルジオンは力強く咲き誇っている。粘っこい白雲が、まっさらな空を埋め尽くそうとしていた。
 小さな中庭を挟んだ向こう側に、誰もいなくなったけれど彼女の部屋はある。どれほど目を凝らしても、無邪気に笑う彼女の姿を覗くことは出来ないのだけど。


[No.8] 2005/09/13(Tue) 00:11:07
作品について (No.6への返信 / 2階層) - 二人目

私としてはどちらでも構いません。
どちらでも主催者様と批評者様の都合のいいほうでお願いします。

私用で感想会の予定日時に間に合わず申し訳ありませんでした。
この場を借りて、陳謝申し上げます。


[No.9] 2005/09/13(Tue) 00:46:05
かんそーとか (No.8への返信 / 3階層) - かき

さすがの早いお仕事ですね。
では早速思ったことなどを。

・恋人に関してはやはりこのまま、いなくても良いかと。
・最後、病院のシーンと、自室でのシーン。どちらもちょっとくどく感じてしまいました。個人的には少ない描写で突き放したような修正前の方が好みです。ラスト一文も同じく。
・彼女との約束について(修正前、『結局、彼女は約束を〜』の部分) 修正後は触れていないようですが、そうするとテーマである「明日」がいっそう弱くなってしまいます。名前の描写との兼ね合いで削ってしまわれたんだと思いますが、やはりあの部分は欲しいと思いました。

こんなところです。是非とも賞を取って奢ってくださいー


[No.10] 2005/09/13(Tue) 02:00:13
感想〜 (No.8への返信 / 3階層) - pentium

堪能させていただきました、ゴチですw

さて感想ですが僕もかきさんに近いものを感じました。がそこら辺は好みの問題が出てくるでしょう。
難しい話ですが小説と言うものは、読む人によって評価がかなりぶれるものでありますので仕方がないかと。
最終的には無責任かもしれませんが作者様の手に委ねる他ないわけです。前のよりは後半の描写不足がかなり改善されておりましたので、一般向けに、と考えるならばこちらのほうが良いと思いますです。


[No.11] 2005/09/13(Tue) 14:20:55
第二回批評会ログ (No.5への返信 / 3階層) - かき@主催っぽい人

第二回のログです。
『煙に巻く』の批評となっております。

http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/hihyou2_log.txt


[No.12] 2005/09/18(Sun) 00:59:21
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