どこまでも広がっていく青空の下、屋上にひとり。 今日もお菓子に囲まれて幸せ。 誰かと一緒だったら、もっと幸せだったのかな。 私はふと下を眺めたくなって、ワッフル片手に立ち上がった。そのまま、手摺りの方に歩いていく。 「あ」 校門のほうに、人影が二つ見える。 一人は、見ただけでわかる特徴的なツインテールのはるちゃん。その横のもう一人は……うん、理樹くんだね。 「そっかぁ……決めたんだね、はるちゃん」 前向きに、立ち向かうことを。 昨日のお泊まり会ではるちゃんがゆいちゃんと何か話をしていたことは知っているけど、その時は眠くてしょうがなかったから内容までは覚えていない。でもゆいちゃんのことだから、きっと上手く言ったんだろうな。 「でも、大丈夫かな」 今まで何度も失敗してきて、それで前に進むのが恐くなっちゃったはるちゃん。今度も同じことにならないとは限らないけど……そこは理樹くんに期待するしかない。 「うん、きっと大丈夫」 はるちゃんは逃げ回ってたし、ゆいちゃんは鈍感だし、そんなこんなで理樹くんは私の所にばっか来ていたけれど。その私が言うんだから、間違いない。理樹くん、ちゃんと成長してるもの。 ……でもなぁ。女の子の扱いが上手くなったとか、最近はそういう成長ばかりが目立つのはどうなんだろう。まあ、私はもう理樹くんのおかげでお兄ちゃんのこととか色々解決してるから、特にすることもなくて、それでそういう流れになっちゃうのは仕方ないとは思うんだけど。これって、理樹くんとりんちゃん、二人のこれからに役立つのかな。りんちゃんも女の子なんだから無駄になるってことはないと思うけど、私はそれ以上に、理樹くんがオンナたらしになったりしないか心配だよ。まあ、私から見ればもうじゅうぶんオンナたらしなんだけど、そればっかりはしょうがないことだし。 「そういえば」 りんちゃんは、嫉妬とかしないのかな。みおちゃんの時も、クーちゃんの時も、私の時も。嫉妬、しなかったのかな。 私は、いっぱいしたよ。今だってそう。理樹くんとはるちゃん、これからどこに行くんだろう。はるちゃんの家かな。はるちゃんの部屋で二人きりになって、キスとかしちゃうのかな。そういえば理樹くん、キスもすごく上手になったよね。うーん、はるちゃんが羨ましい。 でもね。私が一番羨ましいのは――えへへ。やっぱり、理樹くんとりんちゃんの二人、なのかなぁ。 だって。 これからもずっと、生きていけるんだから。
「あのね、理樹くん。……大好きだよ」 オレンジ色の空、寮の前。もう何度目になるかもわからない初めてのデートの帰り、私はいつものように満面の笑顔を浮かべて言った。理樹くんが反応するより早く、じゃあね、と駆け出す。 そうやって自分の部屋まで戻ってくると、私は真っ先にベッドに飛び込んだ。顔を枕に押し当てて、足をバタバタさせる。 「う〜……すごかったなぁ、理樹くん」 思い出して、頬が火照ってくるのがわかる。いつのまにあんな大胆なことできるようになっちゃったんだろう。ボートの上じゃなかったら……その、ちょっと危なかったかも。あれ、う〜ん、ボートの上じゃなければよかったな、ってしょんぼりすべきところなのかな? よくわからないけど、とにかくすごかったなぁ。はるちゃん、いったい理樹くんと何をやってたんだろう。 「そりゃ、ナニだろう」 「ほわあっ!?」 どこからともなく声が聞こえてきて、私は飛び上がった。そして、ベッドの下からおもむろに姿を現すゆいちゃん。 「ゆ、ゆいちゃんっ! どこから湧いてでるのっ!」 「はっはっは。いやはや、小毬君は今日も可愛いなぁ。それと、ゆいちゃんはやめてくれ」 「ゆいちゃんゆいちゃんゆいちゃん!」 「ぐあああっ!」 がっくりと膝をつくゆいちゃん。よし、勝ったっ。敗者のゆいちゃんには『本当はかわゆいゆいちゃん』の称号をぷれぜんと。ゆい、って二回連なっているのがポイントなのです。 うん、冗談はおいておくにしても、ゆいちゃんが私の所にまで来た理由はわかる。最初のリトルバスターズを除けば、残っているのはとうとう私たち二人だけになってしまったからだ。はるちゃんはあれから、理樹くんと一緒に数度の失敗を経て、それでも挫けることなく、ゴールまで辿り着いた。 それは、理樹くんがまた一歩前に進めたということで。もちろんそれは喜ばしいことなんだけど、私はどうしても一抹の寂しさを拭い去ることができなかった。 また、お別れ言えなかったなぁ……。 「なぁ、小毬君」 平静を取り戻したらしいゆいちゃんが、窓の外の世界で沈んでいく夕陽を眺めながら、ぽつりと言った。 「先の葉留佳君が、最後の一人だった。残ったのは、理樹君と鈴君、それに恭介氏と馬鹿二人。もうすぐ、全てが終わりになる」 「うん、そうだね」 本当は、もうひとりいるんだけどね。ニブいなぁ。でもね。そういうところがかわいいよ、ゆいちゃん。 「そういうわけだから、小毬君」 私の肩を掴んで、ずい、と前に出てくるゆいちゃん。その目は、とっても真剣だ。 「最後に一回、私と一緒にオトナの階段を登らないか?」 「ごめんね、ゆいちゃん。さっき理樹くんと一緒に登ってきちゃった」 もちろん嘘――途中までだったから嘘で合ってるよね〜?――なんだけど、ゆいちゃんはこの世の終わりみたいな表情を浮かべてorzのポーズになっちゃった。そんなにショックだったのかなぁ。 「くっ……なぜだ、なぜ理樹君ばかりがいい目を見るっ!? 私だって鈴君やクドリャフカ君とあんなことやこんなことして甘酸っぱい性春を過ごしたかったのにっ!」 ダンダンと床を叩きつけながら、ゆいちゃんが叫ぶ。ちょっと怖い。 でも、ゆいちゃんの嫉妬は私のそれに比べれば――ずいぶんとかわいいものだと思う。この繰り返される世界の中で果たされてしまえば、それで満足してしまうんじゃないだろうか。私のは、そうじゃないから。 「ねぇ、ゆいちゃん」 「……なんだ、小毬く――!?」 ちゅ。 顔を上げたゆいちゃんのほっぺたに、不意打ち。 「な、な、なにを」 「えへへ」 真っ赤になって照れているのがかわいい。うんうん、なるほど。されるのは苦手なんだ……ということは、今の理樹くんを相手にするのはちょっと大変かもね。ふぁいとだよ、ゆいちゃん。 「理樹くんと一緒に、甘酸っぱい青春、過ごしてきてね」 「こ、小毬君、ちょっと待――」 世界が閉じていく間際、想う。 もう私のところに来ちゃダメだよ、理樹くん。
願いが叶ったのか、理樹くんはもう私のところに来ることはなかった。今までに彼が積み重ねてきた経験のおかげか、ゆいちゃんとの別れは思っていた以上に早かった。もっとも、やっぱり今までのようにお別れを言う機会は与えられなかったけれど。それどころか、今回は6月の半ばあたりに入ってからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。世界が新しく始まってしばらく経ってから、ようやくゆいちゃんがいなくなったことに気付いた。 そもそも、この繰り返しの記憶がどこまで信じられるものなのかはわからないのだけれど。私が覚えているのは、私の“正解”の道筋と、それ以降の繰り返しについてだけ。それ以前についてはまったく覚えていなくて、みおちゃんとクーちゃん、どちらが先にいってしまったのか、それすらもわからない。 わからないものはわからないのだから、私は考えることをやめた。 いっそ、全部夢だったらいいとさえ思う。夢から覚めれば、そこにはみんながいて。変わらない毎日を過ごしていく。私とりんちゃんは仲の良いお友達で、でも私はちょっぴり嫉妬したりして。うん、りんちゃんを独り占めする理樹くんに嫉妬するのもいいかも。理樹くんとりんちゃんの二人に、自分で考えてみても微笑ましい嫉妬をしている私。悪くない。 でも、それこそが夢だということを、私は知っている。だから、微笑ましさの欠片もない醜い嫉妬を、二人に向けるしかなかった。 理樹くんとりんちゃんが行方不明になってから、すでに三日が経っている。
ついに終わりの時がきた。 「こんにちは、きょーすけさん」 「小毬か」 崩れ始めた世界、そのグラウンドで二人を見送った恭介さんの背中に、私は声を投げかけた。制服の袖で目のあたりを擦るような動きを見せてから、こちらを振り返る。泣き腫らした跡は隠せていなかったけれど、私はそれを言おうとは思わなかった。 「ようやく、だね」 「ああ。残るは、最後の予習だけだ。その後で……」 「ごめんなさい。私のワガママ、聞いてもらって」 私はもう、とっくにこの世界を去っていなければいけないはずの存在。それを、無理を言って留まらせてもらっていた。そのたった一つのワガママも、もうすぐ果たされる。そうして私は、みんなと同じ場所にいく。 恭介さんが、呆れたように言った。 「あのな、おまえのはワガママとは言わない。ワガママってのは、自分のために言うもんなんだぜ?」 「ううん、ちゃんと自分のためのワガママですよ〜」 恭介さんはまだ何か言いたそうだったけど、諦めたかのように口を噤んだ。 うーん。恭介さんには、ワガママじゃないように見えるのかな。 「なぁ、小毬」 「はい、なんですか〜」 塗料が剥がれていくかのように色を失っていく空を見上げながら、恭介さんはやけに神妙な面持ちと声で言った。私も少し、身構える。 「ありがとうな」 「え?」 「たったの一か月とちょっと、そんな短い時間でも……鈴に友達ができて、笑っているのを見られて。俺は、幸せだった」 空を仰ぎ見ていた視線が、私に向けられる。彼は、照れ臭そうに笑いながら――それは、見慣れた子供のような笑顔ではなくて、ああ、なんて言うんだろう――私の頭の上に、ぽん、とその手の平を置いた。 「鈴に、おまえみたいな良い友達ができて、よかった」 その手の平が、あまりに大きくて、温かくて――私はふいに、泣き出してしまいたい衝動に駆られた。必死で堪えようとして、でも堪えようとしているのが表情に出てしまいそうで、私は顔を俯かせるしかなかった。 「小毬?」 怪訝そうな声がかかる。 「……え、えへへ。そんな、私……全然、良い友達なんかじゃなかったですよ〜」 ずっと黙っているわけにもいかず、適当に言葉を吐いてみたけど、失敗だった。出てきたのは、今にも泣き出してしまいそうな、情けない声だったから。 「小毬……」 「だ、だって私、理樹くんのこと大好きだから……りんちゃんに理樹くん取られたくなくて、いっぱい嫉妬して……」 私は、何を口走っているんだろう。止められない……いや、止める必要なんてないのかもしれない。だって、私も恭介さんも、もうすぐどこにもいなくなってしまうのだから。聞いても、知っても、全ては無に帰してしまうのだから。 だったら……言ってしまおう。溜め込んできたもの、全て吐き出してしまおう。そうして、心を綺麗にしてから……それから、お別れを言おう。 「恭介さん。私、悪い子なんだ。りんちゃんだけじゃないの。理樹くんにも嫉妬して、羨ましくて、どうしようもないの」 「…………」 いつのまにか、頭の上の手はどけられていた。でも、恭介さんはちゃんと私の話を聞いてくれている。 「だって、だってね? ……どうして、理樹くんとりんちゃんだけが助かるの?」 それは、この世界の成り立ちを知ったその時から、私の中で芽生えて、少しずつ大きくなっていった思い。どうして、あの二人しか助からないのか。どうして――私は、死んでしまうのか。 一緒にお菓子を食べながら、唇を重ねながら、ずっと胸に抱き続けていた、みっともない生への執着。これからも生きてゆける二人に向けた、醜い嫉妬。ああ、私は――なんて悪い子なんだろう。りんちゃんの友達を、理樹くんの恋人を演じながら、ずっと二人を嫉んで、妬んで。そうしてまで生きたがっている私。この人とは――私が今、縋りついてしまっているこの人とは、大違いだ。二人のために、一つの世界までをも創りあげてしまった、この人とは。 「私っ……私はっ……!」 恭介さんの制服をぎゅっと掴んで、私はもう耐えず、そうしようとも思わず、泣き喚く。 「私は、もっと……もっと、生きていたかった! 生きて、いたかったよぅ……やだよ、こんなの……やだぁ……」 恭介さんは、ただ黙って、受け止めてくれていた。そうすることしか、できないのかもしれない。だって……恭介さん、やさしいから。 「生きたい、死にたくない! だって、だって! だって、私は……!」 その、やさしい恭介さんは……私の言葉に、何を思うのだろう。もしかしたら、嫌われてしまうかもしれない。それでももう、止められなかった。 「私は……!」 止めようとも、思わなかった。 「私は、もっと……もっと生きていたかったのに! 理樹くんと、りんちゃんと、恭介さんと、みんなと! ずっとずっと一緒にいたかったのに!! みんなと、もっといろんな話をしたかったのに! いろんなことをしたかったのに! どうして!? どうして死ななきゃいけないの!? どうして……どうして理樹くんとりんちゃんだけなの!? っぅ、あぐ、あ、ぅあ……うわああぁああああぁああぁああああっ!!」 後はもう、言葉にならなくて。私は恭介さんの、思っていたよりゴツゴツした胸に顔を埋めて、ただ泣き叫ぶことしかできなくて。 「……俺の胸でよかったら、いくらでも貸してやる」 ふいに、恭介さんの声が聞こえた気がした。 「だから、思う存分泣け」
私がようやく落ち着いた頃には、世界はすでに消滅する間近にまで迫っているようだった。 「えっと……ごめんなさい」 「いや、気にするな」 私はまだ、顔を上げることはできない。上げたくなかった。だから、恭介さんがどんな顔をしているかもわからなかった。 「なぁ、小毬」 「は、はい」 ビクッと身体が震える。何を言われるのか、わからない。恐くてしようがなかった。 「正直、拍子抜けだ」 「…………」 それは、何に対してだろう。そんなのわかりきっている。恭介さんが、妹の良い友達だと言ってくれた、私に対しての。 なのに、私の頭上から漏れ聞こえてきたのは。苦笑するような、小さな笑い声だった。 「悪い子だなんて言い出すから、どれほどのもんかと身構えてたのに」 「え……」 「結局、おまえは最後までおまえらしさを守ったわけだ」 幻滅されたものだと思っていたのに、恭介さんはそんなことを言う。私はようやく顔を上げて、恐る恐る、恭介さんの顔を覗き込む。 笑っていた。私はその笑顔に、見覚えがあった。いつか見たことのある――そう、りんちゃんや理樹くんに時折向けていたのと同じ、あの笑顔。 「ああ、実に小毬らしい。なんだかんだ言っても、根っこにあるのは鈴や理樹、みんなへの想いだ。まったく……すごいやつだよ、おまえは」 「そ、そんな……私は……ひゃうっ!?」 そんなことない、と否定しようとした私の言葉は、恭介さんの突然の奇行によって遮られてしまった。 なんだろう、これ。えっと……抱きしめられてる? 「きょ、きょきょきょ、恭介さんっ!?」 「悪い。つい、こうしたくなっちまってな。……うーむ。吊り橋ナンタラではないと信じたいところだが……」 何かブツブツ言っているけど、もはやそれどころではなかった。顔から火が出そうってこういうことを言うんだろうなーだとか、そういえば理樹くんに初めて抱きしめられた時も似たような感じだったなーだとか、そんなどうでもいいことばかりが頭の中でグルグルと回っていて。さっきまで胸の奥底で渦巻いていたはずの死への恐れと生への執着、どちらも綺麗さっぱり消し飛んでしまっていた。 恥ずかしいから離してほしい、あるいはずっとこのままでいてほしい、自分でもどちらなのか分からなくなってきた頃。さほど時間は経っていないはずだけど、永遠にも感じられる長さであったのもまた確かで。 「小毬」 恭介さんの一声が、そんな時間に終わりを告げた。 「ごめんな。俺には、もうどうすることもできない。女の子があんなに泣いてるのを見て、それでも何もできない、無力な男だ。許してくれ……なんて言えるわけないな、はは」 そう言って、恭介さんは……私の両肩に手を置いて、ゆっくりとその身を離す。 「きょ、恭介さん……」 「さあ、もう時間だ。……今まで、ありがとうな」 そのまま、背を向けて、歩き始める。 恭介さんの言葉通り、虚構の世界は終焉を迎えようとしているらしい。色を失って真っ白になっていた空が、その侵食を広げていく。みんなで野球の練習をしたグラウンドが、恭介さんの背中が、薄らいでいく。 「え、あ……!」 その背中に、待って、と声をかけようとした。なのに、口が動かない。動こうとしない。動いたとしても……私は、何を言うつもりなのだろう。今の私は、言うべき言葉を持ち合わせていなかった。 行ってしまう。背中が、見えなくなる。声も、もう―― 「小毬ぃっ!」 「っ!」 届かない、そう思っていたものが、逆に向こうから届けられた。 「最後だから言うぞ! 俺はっ!」 それは、どんなに距離があっても届いてしまいそうな、大きな声で。 「理樹と鈴、真人や謙吾だけじゃない! 俺は……っ!」 私は必死に、見えなくなってしまった恭介さんの姿をさがす。もうどこにも、その姿は見えなかった。 「おまえのことも……っ、おまえらのこともっ! 好きだった! 大好きだった!」 何を言えばいいのかはわからない。でも……もう少し。もう少しだけ。お願いだから。 「最高に……愛してたっ!!」 「……恭介さんっ!!」 その時。完全に白に包まれた世界の中で……恭介さんの笑顔が見えた気がした。 だから、私も。今の私にできる、最高の笑顔で――
夕暮れ時。私はひとり、屋上にいた。 もう、じゅうぶん泣いた。涙と一緒に、いろんなものも流し落した。今なら、きっと果たせる。私のワガママ。 笑って……笑顔でお別れ。 だから、はやくおいで。わたしたちの、さいごのゆめに。
[No.354] 2008/06/08(Sun) 02:00:39 |