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   第17回リトバス草SS大会(仮) - 主催 - 2008/09/11(Thu) 21:30:32 [No.548]
直枝理樹のある生活 - ひみつ@22336 byte EX微バレ 大遅刻&容量オーバー - 2008/09/13(Sat) 19:55:03 [No.573]
――MVP的K点―― - 主催 - 2008/09/13(Sat) 00:11:35 [No.569]
君が居た夏は - ひみつ@11312バイト バレほぼ無し - 2008/09/13(Sat) 00:02:29 [No.568]
茜色の雲 - ひみつ@9540byte EXネタバレ無し - 2008/09/13(Sat) 00:01:34 [No.567]
一つの絆 - ひみつ@初投稿 8316byte EX微バレ - 2008/09/12(Fri) 23:54:30 [No.566]
孤独を染め上げる白 - ひみつ@10452byte - 2008/09/12(Fri) 23:32:21 [No.565]
ブラックリトルバスターズ - ひみつ 16138 byte - 2008/09/12(Fri) 22:22:11 [No.564]
奇跡の果てで失ったもの - ひみつ@10365 byte EXネタバレありません - 2008/09/12(Fri) 21:59:19 [No.563]
奇跡の果てで失ったもの・蛇足 - 117 - 2008/09/14(Sun) 23:41:16 [No.584]
トライアングラー - ひみつ@どうかお手柔らかに わかりにくいEXネタバレあり 15730 byte - 2008/09/12(Fri) 21:34:15 [No.562]
はぐれ恭介純情派 - ひみつ・7738 byte - 2008/09/12(Fri) 20:07:25 [No.561]
[削除] - - 2008/09/12(Fri) 19:16:22 [No.560]
[削除] - - 2008/09/15(Mon) 10:03:25 [No.586]
ただひたすらに、ずっと。 7772 byte - ひみつ@BL注意 - 2008/09/12(Fri) 19:02:31 [No.559]
ずっとずっと続いてゆくなかで 19760 byte - ひみつ@EX激ネタバレ、BL注意 - 2008/09/12(Fri) 18:44:41 [No.558]
ありがとう - ひみつ@6304 byte ネタバレ無し - 2008/09/12(Fri) 18:34:27 [No.557]
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パーフェクトスカイ・パーフェクトラブ - ひみつ@10940byte - 2008/09/12(Fri) 01:53:27 [No.555]
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一つの過ち - ひみつ@初投稿 8316byte EX微バレ - 2008/09/11(Thu) 22:41:40 [No.550]



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第17回リトバス草SS大会(仮) (親記事) - 主催


 エクスタシーネタ解禁です!!
 ただし、未プレイの方のために名前の欄に『EXバレ』などの申告をお願いします。



 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「純情」です。

 締め切りは9月12日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は9月13日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。



 エクスタシーネタ解禁です!!
 ただし、未プレイの方のために名前の欄に『EXバレ』などの申告をお願いします。


[No.548] 2008/09/11(Thu) 21:30:32
一つの過ち (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@初投稿 8316byte EX微バレ

「…………」

目の前にある光景が意味するもの、1つの可能性を理解し、彼女は呆然としていた。
靴下やスカートが汚れることを気に留める余裕などない彼女は、あまり清潔とは言えないトイレの床にぺたんと座り込み、自分の行った行為を眺めることしか出来なかった。

どうしよう……。

そんな思いが頭の中をぐるぐると回り続け、正常な思考を妨げる。
気だるい身体は立ち上がることさえ拒否し、現状をなんとかしようとする気力さえ削いでいく。
目の前で異臭を放つ吐瀉物を眺め、彼女が――葉留佳が思うことはただ一つ。
「まさか……出来ちゃったの?」




一つの過ち




長い間すれ違いからいがみ合っていた双子の姉――佳奈多と和解してから2ヶ月が経っていた。
まだ全てが解決したわけではない。三枝の家とか、佳奈多のこととか。
それでも昔と違い、心の底から笑えるようになってきたのは間違いない。
そしてそのキッカケを作ったのは、普段はなよなよとしてお人よしで頼りないけど、深い優しさを持ちここぞと言う時に普段とは比べ物にならない強さを発揮する彼――今は葉留佳の彼氏である直枝理樹だった。
そしてその……なんだ……えっとまあ、葉留佳にとってのは、初めての相手でもあるわけで……。
その後は色々とバタバタしてたりして逢瀬の時はなかったので、つまり原因は間違いなくその時なわけでして……。


「葉留佳、大丈夫?」
吐き気を催してしまったのは授業中であったため、葉留佳は脱兎の勢いで教室を飛び出し、トイレに駆け込んでいた。
周りの目を気にする余裕など全く無かった為、傍から見ても只ならぬ状況であったのは一目瞭然で、その様子に同じクラスにいた佳奈多が不安そうに様子を見にきた。
「お姉……ちゃん……」
吐瀉物と汗と涙で酷いことになっている顔を佳奈多に向ける。不安と後悔と恐怖から、全力で身を投げ出して助けを乞いたくなる衝動をぐっと堪え、努めて冷静に振舞おうとする。
そう、まだそうと決まったわけではないのだ。
「やはは、昨日あまりに暑かったもんだから、ちょっとアイス食べ過ぎちゃったのデスヨ。見っともないところをお見せしてしまいましたネ」
普段と変わらぬ明るい調子で喋る。いつもの葉留佳らしく喋る。
まだお姉ちゃんには知られたくない。というより誰にもまだ知られたくない。このまま杞憂で終わってくれれば、何事もなくまたいつも通り過ごせるのだ。
「だからそんな心配しなくても大丈夫なのですヨ。明日になったらケロッとしてますって」
「馬鹿っ!そんな楽観的でいいわけないでしょっ!」
佳奈多は自分のポケットからハンカチを取り出して葉留佳の顔を拭くと、強引に手を取り引っ張って行く。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃ……」
「この暑い時期はサルモネラとかボツリヌツとか、食中毒の菌がうようよしてるんだから!どうせ他に変なものでも食べたんでしょっ!さっさと保健室行ってきちんと診てもらうわよ!」
「いやちょっとお姉ちゃあう痛い引っ張んないでキャア〜!」
周りの視線を集めることも気にせずに、今や過保護気味となった佳奈多にずるずると無理やり引っ張られていくのだった。


「最低ね…本当に最低」
突きつけられた残酷な現実に、一縷の望みは無惨に打ち砕かれた。
「あはは…やっちゃいましたネ」
いつものように明るく振る舞おうとするも、現実の重さにひきつった笑いしか出てこない。
「この私の可愛い葉留佳に手を出して、あまつさえ妊娠させるなんて……。全く、あの鬼畜のド変態のスケコマシには、二木家流三日三晩地獄の交響曲オンパレード(拷問)を味わせてあげなきゃ気が済まないわね……」
三日月型に反った口許からうふふふと妖しい笑いを浮かべ、普段より深く深く色を無くしてきりりとつり上がった目をしたその様子は、まるでこれから黒い儀式か何かを始めるかのよう。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、落ち着いてってば!」
その後、六法全書を片手に、さーこれから腸流しにいくわよ、顔を潰して七つの杭で打ち据えてあげるんだから!と息巻く佳奈多を止めるのに、軽く一時間は費やしたという……。


「それで、どうするのよ……?」
ようやくまともに相談が出来るくらいに落ち着きを取り戻した佳奈多と、ベッドの上に座りながら向き合って話していた。
「うん……、理樹君に、きちんと話してみるよ」
「まあ、それが妥当、というか当然よね。どうする?私もついていこうか?」
「ううん、これは私たちの問題だから。どうしたらいいか分かんないし、すっごく不安だけれど、それでも2人で話合わなきゃいけない事だと思うから」
というか、お姉ちゃん連れてったら理樹君死んじゃうし。
「そう……。こんなことしか言えないけど、頑張ってね、葉留佳。もし直枝理樹がヘタれた事言い出すようなら、すぐ私を呼びなさい。その時は生まれてきてごめんなさいと言いたくなるくらい締め上げてあげるから、ね?」
「やはは……」
何が何でも理樹を惨劇の主人公にしたいらしい佳奈多を前に、葉留佳は苦笑いを浮かべるしかなかった。




その後葉留佳は直枝理樹を呼び出し、きちんと自分達の置かれた状況について話し合ったらしい。
場所は両親がいる家の、葉留佳の部屋。2人の初めての場所で2人のこれからについて話し合う。
もうあの場所は、2人にとって特別な場所になっているのだろう。
そして直枝理樹が、たびたび幼馴染――いわゆるリトルバスターズのメンバーに相談している場面を見かけた。
無論1人で抱え込むには重過ぎる問題なのだから、信頼できる他の人に相談するのは、ごく当然のことだろう。
最初から簡単に結論が出せる問題ではないので、彼も悩み、苦しみ、不安に潰されそうになり、でも真剣に考えていた。
その真摯な態度は葉留佳の姉としては嬉しかった。(無論彼を許すわけじゃないけどね)
そして二人が出した結論は――中絶だった。


仕方のない事だとは思う。学生である2人に子供を養う経済力も、育てられる器すらまだないだろう。
愛情だけでどうにかなるほど現実は甘くない。もし生んでしまえば、その負担だけで押しつぶされかねない。
だから正しい判断だと思った。感情に流されず、冷静な判断をしたと思った。


そして葉留佳は。



「葉留佳、入るわよ」
控えめにノックをしたあと、寝た子を起こさないような静かさでドアを開ける。
全てのカーテンは閉められ、昼間だというのに殆どの明かりが遮断されたその部屋は、まるで時間が止まってしまったようにさえ感じた。
昨日訪れた時と寸分変わらぬ姿でベッドに横たわる葉留佳の蒼い瞳からは、一寸の光すら見出すことが出来ない。


中絶の結果は酷いものだった。
処置の後葉留佳は数日間入院し(感染症らしいが、詳しくは知らない)、退院した後も体調は回復しないままだった。
一度学校には登校したものの、周りの目が葉留佳を更に苦しめた。
どんなに隠したとしてもどこからか情報は広がるわけで、葉留佳が妊娠したという噂は既に殆どの生徒に浸透していた。
前回の噂――父親が犯罪者であるという噂は殆ど忘れられていたが、今回の噂と結びつき、いつか何かやらかすと思ったんだよなあ、とか、やっぱり犯罪者の娘よね、など、心無い陰口を叩く奴が増えてきていた。
奇異の目は弱った身体を内側からも蝕み、それを避けるために学校へも行かなくなった。
そして致命的な追い討ちをかけたのは、医師の言葉だった。



「消えなさい。そして永遠に葉留佳に近づかないで」
葉留佳に逢いにきた直枝理樹に、私は冷たく言い放つ。
「どうして?逢わせてよ!」
佳奈多の言葉にも、射殺さんばかりに睨みつける目線にも怯まず、一途な目――葉留佳に逢いたいという意思を持った目をぶつけてくる。
よく言えば純情、悪く言えば無知。一番最悪だ。
こいつは自分のしたことが本当に分かってるのだろうか?自分の無知が、行為がどれだけ葉留佳を苦しめ、どれだけ大切なものを奪ったのかを。
「とにかく僕は逢いに行く。僕は葉留佳さんの恋人だから」
その言葉に一気に頭に血が上り、目の前が真っ赤になる。
本気で絞め殺さんばかりの勢いで直枝理樹の首元をつかみ上げ、壁に叩きつける。
「あなたの浅はかな行為が、葉留佳を、葉留佳が……、葉留佳から、一番大切なものを奪っていったのよっっ!!」
心の底から湧き上がってくる感情を言葉に変え、一気にぶつける。何で葉留佳ばかり何もかも奪われなければならないのだろうか?
三枝には小さい頃から何もかもを奪われ、恋人などと抜かしたこの男からも大切なものを奪われた。
こいつも三枝や二木と同じだ。生かしておく価値などない。このまま絞め殺しても全然構わない。
首を締め付けられた直枝理樹の顔はだんだんと青白く変色していき、喉からはヒューヒューと苦しそうな音が漏れる。
ほら、もう少しだ。もう少しで葉留佳の恋人などと抜かすこの男から全てを奪える……。
「危ねえっ!!」
正義の味方が発しそうな声とともに、佳奈多にダンプカーがぶつかってきたのではと思われる力がかかってきた。
直枝理樹の首元を締めていた手は振り解かれ、佳奈多は床に転がった。
立ち上がって直枝理樹の方向に顔を向けると、そこには彼を守るように3人の男が立っていた。
「なんのつもりだ、二木」
3人の中でもリーダー各の男――棗恭介が佳奈多を睨みつける。
普段であれば頼もしさを感じさせるが、今この状況では滑稽でしかない。
「幸せね……貴方は。ずっと幸せなところで生きていなさい。私達には2度と近づかないで」
言い捨てて佳奈多はその場を後にする。直枝理樹が何かを叫んでいた気がするが、もうそれは耳には届かなかった。


身体的にも精神的にもボロボロにされた彼女の身体は、暗い部屋で静かに横たわっていた。
光を湛えていない瞳は開いていても何も映さず、ただ規則的な呼吸音と胸の上下のみが、彼女が生きている事を示している。
もはや生きた屍と化してしまった葉留佳は、女として一番大事なものを奪われてしまった葉留佳は、もう2度と笑顔を見せてくれることはないのだろうか。
「う……く…うっく……うあ…うあああ……」
葉留佳の眠るベッドに腰かけて顔を覗き込んだまま、佳奈多は静かに泣いた……。


[No.550] 2008/09/11(Thu) 22:41:40
滲む幸せ (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ・12858 byte


 誰か、叱って下さい。
 誰か、責めて下さい。
 誰か、嗤って下さい。


 誰か――。
 どうか私を…。





 緑の並木の遊歩道。柔らかな日差しと暖かな風。揺れるマントに葉の影と光が躍る。気持の良い土曜の昼下がりを、一人の少女が闊歩する。
 能美クドリャフカはその日、思いつくまま気の向くままに散歩を楽しんでいた。犬を連れてもいなければ、友人と時を共にするわけでもなく、只ひたすらに歩く。風や樹のざわめきに耳を傾け、時折抜けるような青空に目を細めたりしながら歩くだけのその行為に、だが彼女は満足そうに微笑む。それから、誰に言うとでもなく、無い胸を張って自慢げに呟いた。
「なるほど…これがらんぶるなのですねっ」
 つい先日、本の中で見つけた逍遥という言葉の意味を同室の友人に問うた所、目的無く彷徨う事、英語ではrambleだと教えて貰ってからこっち、いつ実践しようかと思案していたのだ。自慢げに言ったものの、聞いてくれる相手がいなければ単なる独り言。少しだけ侘しくなる。
 やはり、誰かと一緒にくれば良かっただろうかとそんな事を思う。こんなにいい天気ならば、お弁当を作ってピクニックも良かっただろう。皆でわいわいと楽しむのもいいし、誰かと二人でもいい。
 そう例えば――理樹と、一緒だったら。
 そんな事を思った時、視界の端を見慣れた物が掠めた。
「わふ…?」
 木々の合間から覗く男子の学生服。背格好に見覚えがある。もしかして、と目を凝らしたクドは、はっと息を呑む。そこに、件の理樹の姿があった。これは奇跡か神の采配かとそんな域にまで思考が跳ぶ。見る間にクドの両頬が赤らみ、口元が自然と弧を描く。今にも声を出して呼びかけようと、表情が笑み崩れた――その瞬間。

 ちりん、と軽やか音がした。

「あ…」
 クドは思わず立ち止まる。
 理樹の隣に走り寄るのは屈託ない笑顔。幼馴染の少年と少女は、笑顔で何事かを言い交わし、明るく弾む笑い声がクドの耳に届く。
 幸せそうな情景は、青い瞳の曲面でやんわり歪んでやがて小さく滲むだけになる。二人の声は直ぐに聞こえなくなって、ただ遠くから、ちりんと幸せの残滓が響いた。
 足は、縫い留められたかのように動かなかった。
 風が吹く。葉擦れの音に掻き消され、もうスズの音すら聞こえない。クドの口元が、一度だけ笑みを形作ろうとして、けれどそれは上手くはいかなかった。
 もし隣に誰かがいれば、きっと彼女は笑えたはずだった。彼女の気持ちを知って気遣う相手に、笑顔で”邪魔してはいけません”などと強がって、それから殊更にはしゃいで見せただろう。
 だが、今彼女は、独りきりだった。明るくあれ、笑顔であれと、そう自制を強いる何物も存在しない。
 ぽたり、と温かい滴が襟元に落ちる。

「――ぁ…?」

 間の抜けた声が聞こえた。頬に触れれば、指が濡れる。
 これは何だろう。どうして――。
 戸惑うクドの意思をまるで無視して、自分とは別個の生き物であるかのように、それはひたすら滂沱と流れていく。
 うまく息が出来ない。気管が細く空気を吸い込むたび、唇が震える。
「っ…、……ぅっ…ぁ…」
 何か言葉を出そうと喉に手を持っていった途端に、嗚咽が漏れた。せり上がってきた感情が堰を切ったように溢れ出ていく。堪え切れずに、クドは思わずその場にしゃがみ込んだ。そして、まるでそんな己を恥じ入る様に、帽子を掴んで顔を隠そうと試みる。
 理樹の事が好きだった。鈴の事も好きだった。二人とも大好きで大切だった。
 幸せな二人の姿を見られる――それだけで自分は十分幸せだ。本心からそう思う。そこに嘘はない。
 今自分達は生きてここにいて、それこそが奇跡に等しい幸福であり、それ以上など望むべくもないと分かっている。
 けれど――幸せである事と、傷付く事は別物だった。
 微笑みながら、祝福しながら、幸せを噛みしめながら、…それでも、深く胸の奥底が軋んだ。
 泣きそうになるたび、クドに出来たのは儚く笑う事だけ。
 ――私は、悪い子なのですっ…。
 幸せそうな二人を見て、悲しそうに泣くなんて。
 別れて欲しいなどと思うわけもなく、二人の幸せを心の底から望んでいるのに。
 理樹の隣に並び立つ笑顔。それに朧げな虚構の自分を重ねて、理想と違う現実に打ちのめされる。
 なんという傲慢。理樹の隣を独占する資格など、自分にありはしない。
 ――私は、罪人なのですから…。
 帰る場所はある。温かく自分を迎えてくれる家族はいる。だが、それで己の罪が消えるわけではない。自ら選び取った罪深き選択が、生涯消える事はないのだ。
 されど恥知らずにも、咎人である癖に理樹の隣を羨む浅ましい自分がここにいる。例え仮初めでも、一度は手に入れた幸福。虚構だったとしてもその心に嘘偽りなどあるはずもなく、だがそれは自分の手からは擦り抜けてしまった。
 もう二度と同じ幸福は掴めない。その覚悟は――あったはずなのに。
 なのにどうしてこんなに痛い。どうしてこんなに苦しい。

 どうしてこんなに…。


 ――私は、罪深いのでしょうか…。


 それは最早救いようもなく。



「クドリャフカ…?」
「っ」
 不意に後ろから聞こえた声にハッとなる。
「そんな所で何をしているの。具合でも悪いの?」
 幾らか心配げな響きを伴なう台詞。近づいてくる足音。
「どうしたの、クドリャフカ」
「す、すみませんです佳奈多さんっ…!」
 慌てて立ち上がったものの、しかし泣き顔を晒すわけにもいかず、振り向かないままクドは無意味に帽子を掴む。
「通行の邪魔をしてしまいましたっ…お先にどうぞなのです」
「……貴方、泣いているの?」
「――」
 言葉に詰まる。こんな鼻声ではそれはバレるだろうと、遅まきながら気がついた。どうしよう、と思った時、背後で溜息を吐かれた。
「――向こうに見えるのは、直枝理樹と棗鈴、ね」
「っ…!」
 ひゅっとクドは息を飲む。どこまで知っていてその台詞が出て来たのかは分からない。だが、彼女なら全てお見通しではないかとも思った。知っているのか――知られているのか、己の醜悪な心根を。クドは身を竦ませる。
 二木佳奈多が心優しい少女である事を、クドは知っている。けれど同時に、正しく真実を見抜く事も知っている。彼女の正義はいつでも真っ直ぐで、それは時折どんな言葉より辛辣に人の心を突き刺す。
 何と言われるだろう、と思った。だが、きっとその言葉は何より己に相応しい…。

「……好きなら好きと言えばいいのよ」

 ぽつりと投げ掛けられた、あまりに予想外な内容にクドは目を見開いた。
 ――今、なんて…?
「あ、あの…?」
「いいじゃない、言えば」
「え、で、でも…」
「言えないの?」
「………」
 黙り込むクドに、背後から盛大な嘆息が返ってくる。
「そう…。リトルバスターズだのなんだのと言っても、結局単なる仲良しゴッコだったという訳ね?」
「っ!そ、そんな事はっ…」
「そんな事で壊れるようなら、所詮はその程度の仲だったという事よ。そうでしょう?」
「違いますっ私が悪いのですっ…!」
 こんな、罪深い自分が。
 ジワリとまた涙が滲みそうになって、クドは唇を噛みしめる。誰も悪くない。誰一人として悪くはないのだ。だが、己の罪だけは別物だ。自分が悪いのだと繰り返すクドの台詞に、後ろで起伏のない声が、そう、と短く応える。
「貴方が悪いの。それは、どうして?」
「それは…」
「それは?」
「……私は、罪、を…」
 呟きながら、これは懺悔だろうかとそんな事を考えた。
 母親の事。祖国の事。ロケット打ち上げ実験の失敗。帰国の打診とその拒否。淡々と、まるで他人のごとのように事実だけを述べていく。改めて己の出した結論を口にすれば、それは笑いだしたくなるほどに愚かで滑稽な、無知の産物だと知れる。
 罪を吐き出しながら、クドは祈る様に目を瞑る。家族を愛していた。母を誇りに思っていた。大切に想っていた。なのに――最も大事な時に裏切った。帰るべき時に帰らなかった。たった一度の、それは取り返しのつかない過ち。

 その時クドはただ、好きな人と、修学旅行に行きたかったのだ。

 けれどもそれは罪だった。酷い裏切りに繋がるもの。気付かなかった気付けなかった――その幼い浅慮。そうして、稚拙な我儘を優先した。無知である事それ自体が罪だと、彼女は思う。その罪は決して消えることなく、今も胸の奥で生々しく蠢く。
 そんな咎人に、他人を羨む資格などない。好きな人の幸せを遠くから祈りこそすれ、その姿に傷付くなどと――あってはならない事だ。胸が痛む事すらおこがましい。罰されるべきは自分。幸せを希うは罪なき人にこそ相応しい。
「私は、――罪深いのです…」
 声が震える。あの真っ直ぐな琥珀色の瞳に、今の自分はどんな風に映っているのだろう。それを確かめるのは怖くて、振り向く事も出来ない。冷たく、最低ねと吐き捨てられるかもしれない。彼女は優しくも厳しい人だから。
 断罪を待つ小さな背中に、だが、後ろから投げ掛けられたのは、またも予想外なセリフだった。
「いいんじゃないかしら?」
「え?」
「別に、傷付いたからといって悪い事じゃないわ。寧ろ傷付かない方が罪深いと、私は思うけれど」
「それは…どういう事でしょうか…?」
「傷付かないなら、その”好き”は本物じゃないわ。本当に好きでもない人の為に罪深い選択をしたというなら、それは怯懦故の逃げでしょうね。けれど、本気で好きな人の為に罪深い選択をしたなら、それは寧ろ一途というものよ」
「そ、れは――新解釈、なのです…」
 涙混じりの鼻声で、クドはそれでも少しだけ笑う。掛けられる声は平坦で、こちらを慰めようなどという意図はないと、きっと彼女は後ろでそんな表情をしているだろう。眉を顰めて、如何にも仏頂面で。
「優しいですね、佳奈多さんは」
「それは貴方でしょう」
 またも予想しない応え。何を言っているのだろう。こんな――誰より罪深い咎人に。クドが首を横に振ると、呆れたような声音が返る。
「本当に、――馬鹿ね、貴方は」
 クドは無言で頷く。
 はい、馬鹿なのです。
 だから――。


「いい加減になさい」


 誰か、叱って下さい。


「罪なんて誰でも背負っているのよ。貴方独りだけが贖罪に追われているとでも思ってるの?」


 誰か、責めて下さい。


「そんな事で悩むなんて本当に馬鹿げてるわ。それともそれだけ幸せという事かしらね」


 誰か、嗤って下さい。


「クドリャフカ。私は」


 誰か――。


「だけど私は」


 どうか私を…。


「貴方のそういう一途で純情な所は、嫌いじゃないわ」



 どうか、私を――…。




 唇を震わせ押し黙るクドの背後で、再び溜息が漏れる。
「まぁ、貴方が自分で解決しなければならない問題のようだし、私がこれ以上言う意味はないかしらね。…じゃあ、気をつけて寮に戻るのよ」
「ま、待って下さい佳奈多さっ…!」
 はっと振り返った青い瞳に――眩しい白が反射する。
 真白な日傘が一つ、そこに揺れていた。
 立ち尽くしたのはクドだったのか、あるいは日傘を持つ少女だったのか。柄を握る読書好きの白い指が、もじりと恥ずかしげに擦り合わされる。暫しの間があって、”彼女”は自分の声で呟いた。
「只の声帯模写ですが…何か」
「って西園さんなのですーっ!?」
「お気になさらず」
「そんなっ!?すごい気になりますっ。か、佳奈多さんはっ…!」
「――わたしです」
「わふーっ!?佳奈多さんは西園さんだったのですかっ!?では西園さんはどこにって目の前にいますですー!」
 わふわふと混乱するクドの姿に、美魚はやや沈黙してから、気恥かしそうに目を伏せる。
「……すみません…つい…」
 続きをどう言うべきか逡巡し、やがて彼女は小さく言った。
「その…能美さんが…叱って欲しそうに、見えたものですから…」
「――叱って欲しそう、だったですか…?」
「…はい」
 美魚は静かに頷く。
 ”今日はらんぶるなのです!”と朝元気よく部屋を出て行った小さな友人。けれど、いざ美魚が発見した時には元気な様子など欠片もなく、たった独り遊歩道で、まるで隠れるようにしゃがみ込んで声無く震える肩が痛々しかった。その遥か前方には、よく見知った幸せな恋人達の姿があって――ならば察するのは容易い。
 只失恋に傷ついて、自分可愛さに泣いているなら慰めようもあっただろう。次の恋を見つけようでもいい。だがあの二人は、自分達にとって掛け替えのない大切な存在だった。同時に能美クドリャフカは、優しく…一途で純情な人だった。
 傷付いて、その傷付く自分自身を許せずに泣いている。それは結局自身で決着をつけなければならない問題で、美魚にできる事は少しでも解決への道を示唆する事。
「ですが…わたしでは、能美さんを叱れないと思いました」
 同室の友人の声を聞けば、きっとクドはすぐに笑って、泣いていたのはお腹が痛くてだとか、そんな言い訳で誤魔化してしまうだろう。心優しく、その優しさに自分で気づいていない少女。彼女が微笑んだら、きっと美魚ではそれ以上問い詰める事も出来ない。
 叱られたいと思っているなら、それに相応しい人物は――彼女の信頼を得ていて尚且つ、他人を糾弾できる芯の強さを持つ者。二木佳奈多しかいない、とそう美魚は判断した。だから、彼女を演じた。振り向いたらすぐにバレてしまう、何とも綱渡りな演技ではあったけれども。
「騙してしまって、すみませんでした」
 頭を下げる美魚に、クドは慌てて首を横に振る。
「謝らないで下さい。…ありがとうございます、西園さん…。私、すごく嬉しいです」
 本当は、胸の内に燻る罪悪を誰かに吐き出してしまいたかったから。けれど、叱られ追及されなければ、きっと吐き出すことも出来なかった。楽になりました、と笑顔で告げるクドに、しかし美魚は憂い顔でわずか首を傾ける。
「――能美さん。…わたしも、罪を負っています」
「え…」
「それに、”贖罪”という言葉はありません。何故なら、――贖えない罪だからです。ですがそれでも…幸せを望んでもいいと、思っています」
 その罪を忘れさえしなければ。
 そうじゃありませんか?と美魚は問いかける。
 罪がなければ幸せになってもいいのか、罪を購えば幸せを望んでもいいのか――きっとそういう事ではない。誰だって、いつでも傷付いていいし、いつでも幸せを望んでいい。もっと自由に生きていいのだと、美魚は視線に想いを込める。
 その想いを受け止めて、クドは顔を歪ませる。青い瞳がじわりと潤み、けれどその唇は引き結ばれたまま。
 思ったよりずっと頑固な彼女に、だから美魚は、少しだけ強く言う。
「…傷付いた時は、泣いていいんですよ、能美さん」


 そうして――心優しい少女は漸くと、子供のように声を上げて、泣いた。





 石畳みの遊歩道を静かに踏む靴と、飛び跳ねる靴が並ぶ。
 小さな少女の泣き腫らした目元は赤い。けれど、そこに浮かぶ笑顔はすっきりと澄んでいる。土曜の気持ち良い午後。それに相応しい笑みだ。
「西園さん」
「はい」
「こんな風に二人で歩いても、らんぶると言うのでしょうか?」
「さあ…どうでしょうか」
「あ、今気付きました!らんぶるとらんでぶーは似ていますっ」
「では、今度は皆さんで集まって散歩でもしましょうか」
「はいなのですっ…!」
 揺れる白い日傘の隣で白いマントがふわりと翻る。寄り添う影が二つ、それはまるで姉妹のように仲睦まじく。
 もう少し歩けば、石畳の上の影はこの先で待っていた二つと合流し、やがて更に増えるだろう。
 何度傷付いても、どれほど泣いても。


 けれどいつでも――その輪の中から、幸せが滲んでいくのだ。


[No.552] 2008/09/12(Fri) 00:00:41
ココロのキンニク (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@19786 byte

 秋の夕暮れ。放課後の校舎。傍の木立に身を寄せて、唇を引き結んでじっと前を見詰める女の子。見下ろした横顔が紅く染まっているのは、たぶん夕日のせいだけじゃない。
「…そろそろだな」
 確認するように彼女に告げると、びくりと身を竦ませる。見かねて、右の手のひらを小さな頭に乗せる。
「ひぃ、っ…」
「っと、悪ぃ」
 よほど緊張していたんだとは思うが、そんなに怯えた声を上げられるとちょっと傷つく。
 言いたいことはあるが、それよりもまず、手のひらに収まった小さな頭をわしわしするのが先だ。胸よりも低い位置の頭を、子供や犬をあやすように髪ごと撫でる。
「あーうー」
 いつもならもう少し荒っぽくやるところだが、大事な本番前に目を回されても困る。
 手の下で硬さがほぐれてきた頃、校舎の角から目的の人物が現れた。
「…来たな」
「は、はひっ」
 手のひら越しに、また少し硬くなったのが分かる。だがそれは仕方がない。だから余計なことは言わず、手のひらで頭を軽く叩く。
「すぅーっ、はぁーっ…すぅぅぅっ、はぁぁぁっ」
 やりすぎて過呼吸になるんじゃないかとちょっと心配したが、こちらを見上げた顔には決意が見て取れた。
「…よ、よしっ。行きます」
「おう。…2週間、よくついてきた。もう何も教える事はねぇ。後は、信じろ。お前の筋肉を! 今のお前はあの時のお前より強い。行ってこい。行ってバシっと伝えて来い!」
「はい!」
 はっきりと返事をして、決戦の地へと駆けて行く。その後姿は、今までで一番頼もしかった。




『ココロのキンニク 〜それは一通の手紙からはじまった〜』




「あ、待って真人。これ、落としたよ?」
 親友に呼び止められたオレは、半分落ちかかったまぶたを筋肉で無理矢理持ち上げながら、差し出されたモノに顔を近づけた。
「…なんか足の臭いがするな」
「そりゃそうだよ。真人の下駄箱に入ってたんだから。…気がつかなかったんだ?」
 全く気付かなかった。たぶん動きながら寝てたんだろう、靴は履き替えているのに下駄箱を開けた記憶もない。
 同じく寝不足のはずの謙吾は、オレたちが立ち止まったことにも気付かず、さっさと先に行ってしまう。
 半寝どころか全寝のくせにぶつかりもせず歩いていくヤツに対抗心が沸くが、今は親友が優先だ。
「手紙…だな」
 薄桃色で無地のシンプルな封筒。裏返せば花のシールで封印がなされ、右下隅に少し丸まった小さな文字で差出人のクラスと名前が書かれている。
 下駄箱に入れられてたって事は、考えられる可能性は一つ。心臓がばくばくと暴れだす。
「うん、これってたぶん」
「果たし状だな!」
「ラブレターでしょっ!」
「ええー」
 予想はどうやら間違っていたらしい。熱い展開を期待していただけに余計残念だ。
「何でそんなに残念そうなのさ。ラブレターだよ? 普通しっぽりむふふなピンク色の期待にうへへへって来たりするものじゃないのっ?」
 そういうものなんだろうか。最近真友が遠くなっていくようで少し寂しい。それが顔に出たのかもしれない。心友は軽い咳払いとともに興奮を収めて話を続けた。
「差出人は隣のクラスの娘みたいだけど、心当たりある?」
「いんや、全然」
 名前どころか、隣のクラスには女子の知り合い自体がいないので首を横に振るしかない。
「うーん、それじゃあ中を見てみるしかないね。きっと何か手がかりが書いてあるはずだよ」
 ほら、と手紙を突きつけられる。見れば満面の笑みを浮かべている。
「…なんか楽しそうだな」
 こっちは反射的に受け取ってしまったものの、この場で開けて見るわけにも行かずに困っているのに。
 だから、とても恐ろしい可能性を思いついちまった。
「そうか、秋も深まってきたのに相変わらずの暑苦しさを振りまいてる筋肉は、そばにいられると季節感がまるっきり感じられないから、この際彼女でも作って残暑と一緒に消えてくれないかな、って事かよっ!!」
「うんまあそれもあるけど」
「うああああぁぁぁぁっ!!」
 聞かなければよかったという後悔が口から迸り、ついでに髪と頭皮も悲鳴を上げる。そうか共に悲しんでくれるのか。
「冗談はさておき、真人のいいところをちゃんと見ててくれる人がいるって事でしょ?それが嬉しいんだよ」
 そう話す我がルームメイトは、天使のように無垢な微笑を浮かべていた。その微笑に凍りつくような絶望が溶かされていくのが解った。
「そ、そうか…へっ、ようやく世間がオレの筋肉を――」
「筋肉は暑苦しいけどね」
「ぬぅああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!」



―― 突然のお手紙でごめんなさい。どうしても伝えたいことがあって。
   1年のとき、あなたに助けられてから、ずっとあなたのことが好きでした。
   きっと私のことなんか覚えていないと思います。あなたにとっては大したことではなかったのでしょうから。でも、私にとっては大事件でした。
   あの時、お礼を言いそびれてしまって、ずっと言わなくちゃ、と思っていました。
   それ以来あなたをずっと見ていました。見ているだけで十分だと思っていたから。
   でも、あなたがお友達と一緒に楽しそうに笑ったり怒ったりしているのを見ていて、私の中で気持ちがどんどん大きくなって、もう抑えられなくなってしまいました。
   会って、お話がしたいです。
   放課後、裏庭のベンチでお待ちしています。
                       2年D組 宮崎多恵――



 放課後、クラスの皆が帰っていくのを見送りながら、オレはスクワットで漫然と時間を潰していた。
「さて、俺も今日は部活に顔を出してくる。また後でな、理樹」
「あ、うん。頑張ってきてね」
「おう、また後でな! 今日は勝つ!!」
「フ、片腹痛いわっ!」
 再戦の約束をしつつ謙吾を見送る。これで教室に残っているのはオレたちと他数人だけになった。
「897!さて、898!そろそろ、899!帰るか、900!あと、901!ちょっとで、902!キリが、903!いいから、904!よっ、905!」
「だめだよー、真人。手紙の人に返事しなきゃ」
「うっ…911!」
 携帯をいじりながらこちらを見もせず釘を刺してきた。スクワットでごまかせば気付かれないと思ったのに。
「で、でもよぅ。何度も言ってるけど、全然心当たりないんだぜ?」
 名前もそうだが、1年前にそいつを助けたっていうのも覚えがない。
「けどさ、真人は筋肉関係のことなら息するように人助けしちゃうから、覚えてなくても不思議じゃないって」
「うーん…そうかぁ?」
 自覚は全くないし、もし理樹たちが言うとおりだったとしても、筋肉関係のことなら礼を言われるほどのことじゃない。
「顔を見たら思い出すかもしれないじゃない。恭介の話だと、結構可愛い子らしいよ?」
「けど恭介の可愛い、ってのは標準からずれてるからなぁ」
 今日も小毬のボランティアに付き合って保育施設に行ったヤツの基準は当てにならない。
「それに、みんなも言ってたでしょ?たとえ断るんだとしても返事はしなくちゃダメ、ってさ」
「う、あぁ…」
 さっきも女子メンバーたちに散々言われたな。他のことは結構茶化したりしてたのに、それだけはみんな真面目に言ってたっけ。
「さて、僕も用事があるからそろそろ行くよ。頑張ってね、真人」
 ずっといじっていた携帯を仕舞うと、少しだけ済まなそうに言って立ち上がった。
「え、理樹も行っちまうのかよ? ひとりは心細ぇよ、ついてきてくれよっ!」
「ダメだよ真人。これは、真人のミッションなんだから」
 ぴんと立てた人差し指をオレの胸に突きつけて、真面目腐った顔を近づけてくる。次期リーダーの自覚が出てきたせいか、妙に押しが強くなってきた。そんなところを真似しなくたっていいだろうに。
 その手には乗るまいとそっぽを向いて吐き捨ててやる。
「へっ、なんでもミッションて言やぁ喜ぶと思ったら大間違いだぜ!」
「うわ、ひねくれちゃって。仕方ないなあ。
…わかったよ。僕はついていってあげられないけど、真人の筋肉を連れて行けばいいよ。それならひとりじゃないでしょ?」
「え、いいのか? よしっ、この筋肉が一緒なら何も怖いもんはないぜ、ひゃっほぅ!!」
 筋肉が一緒なら話は別だ。筋肉さえあれば、オレはどんな困難にでも打ち勝つ自信がある。



   よ、よう。あんたが宮崎…か?
   そうですけど…井ノ原さん、ですよね。私に何か?
   ? いや、今朝の手紙のことなんだけどよ。オレは…



「ただいま、理樹! おお、恭介と謙吾っちも来てたのか。待たせちまったな!」
「おう、待ちかねたぞ!」
「びっくりした…おかえり、真人」
「よう、お帰り。ずいぶんご機嫌じゃないか」
 上機嫌で帰ってきたオレを、トランプ片手に同じく上機嫌で迎える謙吾と、微妙な表情で迎える理樹といつもどおりの恭介。
「ご機嫌って、もしかして…」
「ああ。おめでとう、真人!」
「何っ、そうなのか!? そうか、おめでとう真人!」
「嘘っ!? ってそれは失礼か。うん、おめでとう」
 オレが何も言わないうちからお互いに納得しあって、口々に祝福してくれる。なんだかよく分からないが、照れくさくも嬉しいもんだ。
「へへ、ありがとよ!」
「ぃよぉしっ! それじゃ、真人のこれからの幸せを願って、全力神経衰弱だぜっ!」
「うん!」
「応!」
「へっ、臨むところだ!」
 恭介の号令のもと、オレたちは、何だかよく分からない盛り上がりと連帯感のまま、遊びに没頭していった。

「む、見えたっ! そこだああァァァァッ!!!!」
 気合一閃、右から2番目、上から3番目のカードが宙に舞い上がる。そして、天井近くで上昇から下降へと転じると、ひらりひらりと頼りなく舞いながら元の場所へと降りてくる。絶妙のコントロールで裏返されたカードはダイヤの3。先に裏返されていたクラブとペアを作り、窮屈な行列から開放される。
「これで2組め。今回こそは俺がこのゲームを制してみせよう」
 謙吾が獲ったカードを手にこちらを挑発してくる。だがそれには乗らない。前回まんまと乗せられて惨敗したからだ。
 神経衰弱は自分との戦いだ。惑わされずにカードの場所を頭に焼き付けるんだ。
「あ、いけない。みんなにも知らせなきゃ」
 真剣にカードを睨んでいるオレと謙吾の横で、理樹が急にそんなことを言い出した。邪魔するつもりか、面白え。その程度じゃオレの集中力を乱すことなんか出来ないってことを教えてやろう。
「ん? ああ、それならさっき俺が全員にメールしておいた。週末にはパーティだ」
 恭介までオレを邪魔するつもりか。よほどオレの本気が怖いらしいな。いいぜ、まとめて相手してやろうじゃないか。
「さすが恭介。でも、まだパーティは早いんじゃない? 相手の人はそういうの慣れてないだろうから、ちょっとくらい様子を見た方がいいと思うけど」
「大丈夫だって。真人を選ぶような娘だぜ? きっと物事に動じない、包容力のある女の子さ」
「そうかなぁ…ねぇ真人。宮崎さんってパーティとか大丈夫な人かな? …真人?」
「ぁん?」
 急に話を振られても、その前をまるで聞いていなかったから問い返すしかない。
「だから、宮崎さん。お祝いパーティやろうと思うんだけど、みんなでわいわいやったりして大丈夫そう?」
 理樹の言っている意味が半分くらいしか分からないものの、さっきまで一緒にいた宮崎を思い返しながら答える。
「あー、あんま得意ってわけじゃなさそうだったけど、大丈夫なんじゃねえの?」
「そう、良かった。せっかく真人に彼女ができたのに、僕らのせいで別れたなんてことになったら悪いもんね」
「はぁ? なんだそりゃ?」
 理樹が何にほっとしているのかさっぱり分からなくて、つい聞き返していた。だが、理樹からその答えを聞く前に、オレは突然鳴り出した携帯への対応に追われることになった。
「うおっ、なんだ一体!? みんなから一斉にメールが来たぜ!」
 『おめでとう』とか『うらやましい』『美しくない』など、どれもオレを祝福するもので、嬉しいことは嬉しいんだが…
「何でオレに彼女が出来たことになってるんだ?」
 オレがこぼした素朴な疑問が、なぜかその場を凍らせた。



   手紙?
   おう…ほら、下駄箱に入れてったろ? これ…
   え、それ…うそ、あれ? え、ええぇぇーーっ!!??



「…つまりだ。お前が受け取ったラブレターは、本来違う相手へと宛てられたものだったと?」
 オレが一応の説明を終えると、部屋いっぱいにやっちまった感が充満した。理樹も恭介もぐったりしていたし、謙吾なんか真っ白な灰になるほど燃え尽きていた。
「だったら何であんなに上機嫌だったのさ…」
「そりゃ気が重い用事が終わって、理樹たちと遊べるからに決まってるだろ?」
 みんな分かってて喜んでくれているもんだと思っていただけに、この反応は予想外だった。
「まったく、人騒がせな…」
「てめえはオレ関係なく一人で騒いでただろうが」
「まあよせ謙吾、真人も残念だったな」
「いや、そうでもねえが…それより相手の方が平謝りでよ。見ててこっちが居たたまれなかったぜ」
「すごい、真人が平謝りとか居たたまれないなんて言葉をちゃんと使ってる。まるで別人に見えるよ」
 理樹がオレを尊敬の眼差しで見ている。謙吾と恭介も驚いているな、実に気分がいい。
「よく言うだろ、『ダンス3日続ければカツ多くしてくれるよ』てな!」
「うん、やっぱり真人だね。安心したよ」
 どうやら筋肉と頭脳を兼ね備えたオレのかっこよさに、理樹のハートががっちり和紙掴みになったようだ。
「馬鹿だな」
「ああ、馬鹿だ」
 謙吾と恭介のひがみも今のオレには心地いい。



   本当にすみませんでした…
   いや、だからもういいって。オレの方こそ、悪かったな、手紙読んじまって。
   それは仕方ないです、私が間違えちゃったんだし…
   ま、まあ今度はちゃんと名前も書いて出しゃきっとうまくいくって!
   …いえ、もういいんです。



「それにしても、その宮崎さんて娘、どうするのかな?」
 謙吾と恭介がカードを巡って熱い攻防を繰り広げているとき、ふと理樹がそんなことを聞いてきた。
 何が気になるのか分からずに聞き返すと、理樹は宿題する手を休めて顔を上げた。
「宮崎さんは、渡したい相手には結局ラブレターを渡せなかったわけでしょ? しかも全然関係ない真人に読まれちゃって…」
「そうだな、気が弱い娘ならそこで諦めてしまうかもしれないな」
 謙吾からカードをもぎ取った恭介が手札を突きつけながら理樹の言葉を継いだ。謙吾の方を見ると、どうやらババはまだ謙吾の手の内にあるようだ。
「そんなようなことを言ってた、気もするな…」
「ええっ、それじゃ宮崎さんが気の毒――」
 オレは曖昧に答えながら攻撃の構えを取る。理樹が何か言っているような気がするが、その声は急速に遠ざかっていく。
 左手で手札を盾のように構え、右手の指を鳴らして間合いを確認する。ババがないとはいえ、ペアに出来なければいずれは負ける。狙いは慎重に絞らなければいけない。
 筋肉が囁く。右から2番目のカードだ。
「いくぜぇ…恭介ぇっ!!」
「来い! 真人!!」



   もういいって…
   きっと、間違えなかったとしても最初から駄目だったと思います。だからこれは、神様が諦めろって言ってるんです。あはは…
   …そりゃ違うな。
   え?
   なるほどな、分かったぜ。神様があんたに言おうとしてるのはそんなことじゃねぇ。
   どういう、ことですか?
   筋肉だ! あんたには自信、つまり筋肉が足りねえ!
   え、ええー。
   オレは思うんだ。自信てのはよ――



 時間にすればわずか数十秒の攻防だった…はずだ。何時間にも感じた激しいやり取りの末、オレの右手には1枚のカードがあった。
「ふ、オレの勝ちだな、恭介」
 しかし、カードを奪われた恭介の表情は悔しさに満ちてはいなかった。
「く、くくくくくっ、あーっはっはっはっ!!」
「な、何がおかしいっ!?」
 恭介の態度にうろたえながら聞き返すと、ヤツはオレが手にしたカードを指差して言い放った。
「そのカードをよく見ろ、真人!」
「カードがどうしたって…な、何ぃぃぃっ!?」
 カードに描かれていたのはこちらをあざ笑うピエロ。慌てて謙吾を見れば、あいつも唇の端を吊り上げていた。
「だましやがったな、謙吾ぉっ!!」
「油断を誘うのも兵法のうちだ、真人」
 がっくりと膝を突いたオレを慰めてくれるのは勝負の外にいる理樹だけだ。
「頭を使う分だけ真人に不利なのはしょうがないよ、ね?」
 理樹の優しさが身にしみるが、まだそれに甘えるのは早い。
「まだ勝負は終わってねぇ。そして、筋肉がある限り、オレは負けねぇっ!!」
 何度でも、立ち上がるんだ。



   自信てのはよ、心の筋肉なんじゃねえかってな。



「悪い、待たせたな」
「いえ、大丈夫、です…」
 昼休み、裏庭で待ち合わせた宮崎はやはりオドオドしていた。視線は斜め下に向けたまま、小柄な身体をさらに小さく縮こまらせて。
 近づいていくとさらに縮こまる。でかい男と2人きりで怯えるのも無理はないんだが、ちょっと悲しい。
「まあ、なんだ…」
 こういうときに何て言えばいいのか、筋肉は教えてくれない。考えようとしたときに身体が勝手に動いた。
「ひっ…」
 わしわしわしわし…
「あ、あのっ、ぅぁうぁうぁう〜…」
 一心不乱に頭を撫でているとようやく気分が落ち着いてきた。オレも結構緊張していたみたいだ、宮崎のことばかり言えないな。
 しかし頭の位置が似てるせいか、つい普段クー公にしているのと同じように身体が動いてしまった。ほぼ初対面の女子にすることじゃなかったかもしれない。もしかして怒っていないだろうか。
「ぅあーうー…」
 覗きこむと宮崎は目を回してしまっていた。慌ててベンチに寝かせる。忘れていた、女子は壊れやすいんだった。
「悪い、やりすぎた」
「ぁ、いぇ〜。こちらこそすみません、ご迷惑を…」
「何で謝んだよ」
「ひぅ、っ」
 しまった、怖がらせたか。くそ、加減が難しいな。確か理樹も始めはこんなだったか。思い出しながら、自然と手が宮崎の頭にのびた。
 手を載せると少し身体が強張っていたが、そっと手のひらを動かしていると、ゆっくりほぐれていった。
「さっきのはオレが悪かったんだ。お前は悪くねぇ。だから謝んな」
「…はぃ」
 遠くから色んな声や音が聞こえてきて、今が昼休みなんだってことを思い出させる。いつもは大抵理樹たちと遊んでいたから、こんな静かなのは初めてかもしれない。
 そう気付くと落ち着かなくなって、それをごまかすためにスクワットを始める。
「ふっ! ふっ! 筋肉! 筋肉っ!」
「ど、どうしたんですか急に」
「気に、すんな! まだ、いつもの、メニューを、こなして、ねえなと、思った、だけだ!」
 静かな裏庭に、オレの息遣いだけが響く。とりあえず1セットだけにしておこう。
「…あの、格闘家とか、そういうの目指してるんですか?」
 ベンチに横になったまま眺めていた宮崎が不意に口を開いた。
「オレ、か? …いや、考えた、こと、ねぇな!」
「え、でも、それじゃどうして…」
 確かに、普通は何か夢とか目標があって、それを叶えるために鍛えるんだろう。
 スクワットを中断して向き直る。
「筋肉ってのはよ、鍛えれば鍛えた分だけ強く太くなるんだ。ちょっとずつな。てことはだ、筋トレした今日のオレは、昨日のオレよりも確実に強いってことだ、そうだろ?」
「そう、かも…」
 くっ、リアクションが薄くても気にしないぜ。オレは宮崎に伝えたいんだ。
「だからよ、宮崎も一緒に筋トレしようぜ!」
「は、ええっ!?」
「神様がお前に、筋トレしろって言ってんのさ。…確かに昨日のお前は駄目だったかもしれない。だが、ここからは違うぜ。なんたってオレがいるからな!」
 オドオドとさ迷っていた視線が今は定まっている。頬に赤みもさしてきた。そして、半開きだった唇を一度結び、言葉を探している。
「…昨日の私より、強くなる、ため?」
「そーゆーこと。任せな」
「よろしくお願いします、井ノ原さん」
「おうっ、今日からはコーチと呼べ!」
「はい、コーチ!」
 もう一度手のひらを頭に乗せ、今度は少し加減して撫でる。それでも丁寧とは言いがたかったが、目を細めて笑っていたからきっと大丈夫なんだろう。



   も、もうだめです…お腹、もうっ…
   弱音を吐くな、まだ2回じゃねえか! あと1回、頑張ってみろ!
   はい…っ! んぅ…ぁあっ! …はぁ、はぁ…っ。
   よし、よくやったな! 3回できるようになったじゃねぇか!
   あ、ありがと、ござい、ますぅ…
   へへ、よーしよし。
   あーうー、目がー、回りますぅー。



   真人、今日の練習、どうする?
   悪ぃ、今日もパスするわ。
   宮崎、だったか。…良く続くな。
   まあな、結構あいつ根性あんだよ。見てて楽しいぜ。
   へえ、最初見たときはなんか気弱そうな感じだったのにな。
   おう、昨日なんか腹筋3回もできるようになったんだぜ、2回しかできなかったのによ! …おっと、もう行くぜ。また後でな!
   …あいつ、なんかくちゃくちゃ楽しそうだったな。
   そうだね…。



   ご…かい! っ、はぁっ、はぁーっ、はぁぁ…。
   やったな宮崎! とうとう5回達成だぜ! すげぇすげぇっ!
   あー、うー。あ…ありが、とう…ござい、ます…。
   ははっ…は…そうだな、もう、いいだろ。
   はぁ、はぁ…え?
   もう十分、強くなったってことさ。少なくとも、お前の心は。
   コーチ…。



「――そう、宮崎さん上手くいったんだ?」
「ああ、最後まで見たわけじゃねぇけど、たぶん大丈夫だろ」
 寮の部屋で心配そうにオレを待っていた理樹は、宮崎の勝負の結果を聞いて、溜息を一つついた。
 自分が何かしたわけでもないのに、難儀なヤツだと思ったとたん、自分にも疲れがべっとりこびりついているのを自覚して苦笑いした。
「なーんか今日は疲れたぜー。さすがに遊ぶ気になんね」
「筋トレは?」
「筋トレはベツバラだ」
「それはご飯のときに言う言葉だよ…」
 飯か。そういえば食欲もあまりない。昼もそんなに食ってなかったのに。
「…今日はカツくらいしか食えねぇな」
「カツは食べられるってのが凄いよ」
 変なところにこだわる理樹を誘って食堂に行くことにした。途中で謙吾を誘い、ついでだから恭介と鈴も誘おうと携帯を取り出すと、いつの間にかメールが届いていた。
「ねぇ謙吾。思うんだけど、もしかしてさ…」
「…さぁ、どうだったんだろうな。たぶん、本人も分かってないだろう」
「おいっ、仲間はずれにすんなよ。寂しいじゃねえかよぅ!」
 コソコソ話していた2人の首を抱え込んだまま、食堂に駆けていった。カツを食いに。



―― 宛先:みやざき  件名:Re:コーチ、ありがとうございました!
   削除しますか? はい/いいえ
   はい



 翌朝、軽く走って帰る途中、小柄な女子に声をかけられた。
「いーのはーらさーんっ! ぐっどもーにんぐー、なのですっ」
 手を振り振り、白いマントを翻してぱたぱたと駆け寄ってくる。いや、犬に引きずられてくる。
「ようクー公。早いな。散歩か」
「ゥオンッ!」
「ヴァウー」
 息も絶え絶えな飼い主の代わりに、犬たちが答えた。2匹はオレのところに辿り着いた途端に大人しく座っている。いじめのようにも見えるが、お互い気を許してるから出来るんだろう。
「遊ばれてんなー」
「はっ、はっ、わ、わふー…」
 まあ落ち着けよ、と何気なく頭に手のひらを置く。
「わふっ!?」
「悪ぃ、大丈夫か?」
 少し勢いが余って頭をはたくようになってしまった。
「…そっか、こんなちっちゃいんだったな、クー公は」
「がーんっ! ちっちゃくないのですーっ! 井ノ原さんがでっかいだけなのです、あいむ・のっと・すもーれすとですーっ!」
「ははっ、悪ぃ悪ぃ」

 手の下で小さな身体が暴れる。頭の上はどこまでも続く青い空。赤とんぼがいっぴき、どこかに飛んでいった。


[No.553] 2008/09/12(Fri) 00:21:22
二人ごっこ (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@7286 byte

 机で寝ていたようで、右腕の感覚がまるで無い。顔を上げて教室を見渡す。誰も居ない。窓から差し込むオレンジ色の夕陽が、現在の時刻を曖昧に教えてくれる。誰一人として、僕を起こしてくれなかったのかと思うと、若干悲しい。頭を振った後、腕を絡ませストレッチ。ボキボキと軽快に骨を鳴らすと、少しだけ頭が冴えた気がした。
 机の横から鞄を取り、帰りの仕度を始める。いつ頃から寝ていたのか覚えていない。記憶を辿ると、最後に覚えているものは、黒板に書かれた小難しい数式で、数学は確か五時限目で。前日の寝不足が、その頃になって爆発したんだろう。六時限目は丸々記憶に無い。すっかり気の抜けた自分。その怠惰ぶりに、呆れを通り越して笑いまで行った挙句に更に突き抜けて感動すら覚えた。
 アホくさ。
 まだ感覚の戻らない右手ではきつい。平常どおりに動く左手で、大して物の入っていない鞄をひん掴み、僕は席を立った。





『二人ごっこ』





 未だに右手はジンジンと痺れている。仕方が無く、足でドアを開けようとするがなんともうまくいかない。上履きの裏側についているゴムを利用しようとしたが、日頃の使い方が悪いせいか摩擦が思うように働かず苦戦中。最終的に諦めて左手で開けようと思い、鞄を置いた。瞬間、反応の悪い自動ドアのように、ゆっくりと扉が開いた。教室に誰もいなかったせいか、少し驚いた。「うっ」とか小さく呻いてしまった。
 開いたドアの向こう側、というか、僕の目の前には見慣れた顔があった。彼女もいきなり眼前に顔が現れたせいで驚いたらしい。僕は聞き逃さなかった。「ひゃっ」という小さな声を。
「お、驚いてなんかいないからな」
 ハッとして、いちいちそう取り繕う彼女がかわいい。そんなことを言わなければ、特に僕も突っ込みはしないと言うのに。
「本当に?」
「ほんと」
「ふーん」
「何か言いたそうだな」
「別に」
「そうか」
「驚いてたでしょ?」
「うっさいわボケ」
 僕の方も驚いて声を上げていたのだが、うまいことドアが障壁になってあの呻き声は聞こえなったらしい。ラッキー。
 それにしても鈴はかわいいなぁ。顔を赤くして、少しだけ頬を膨らませている。子供っぽい仕草が似合うのはなんでだろう。鈴だからかなぁ。
「……もう、起きてたのか」
「え?」
「あー、いや、まだ寝てるんだったら、あたしが起こしてやろう、かなぁ、なんて……言わせるなボケー」
「いやいやいや、鈴が勝手に言い出しただけでしょ」
「しらん」
 そう言って、憤然とした面持ちで僕の脇を器用にすり抜け、何故か教室の中へと入ってきた。僕もなんとなくその後ろについていった。鈴が僕の机の上に座ったので、僕は自分の椅子に座った。机に座った鈴は、真っ直ぐに窓の外を見ていた。僕もつられて見る。そこに何があるかなんて分かっている。ほんの少し前まで、その場所で僕らは毎日野球なんてことをしていたんだから。
「理樹の寝顔はかわいかったぞ。まるで女の子みたいだった」
「それは、どうも」
 先ほどの仕返しなのだろう。窓の外を見ながら澄ました顔でそう言うが、少しだけ口元がひくひくしている。にやけるのを我慢しているらしい。そういう仕草がかわいくて、しょうがなく僕は鈴のリベンジを甘んじて受け入れる。なんてことは無く。「でも、鈴のほうがかわいいよ」そう呟いた。
「んなっ!」
 真っ赤な顔をして驚く。僕が普段絶対に言わないような台詞。鈴自身も初めて聞くであろう言葉。鈴の顔から沸騰したヤカンみたいな音がしそうだった。
「ん?」
「あう〜」
「ん〜?」
「ぬぬ〜」
「んんん〜?」
「うー、うっさいアホ! こっぱずかしいわ!」
「嬉しい?」
「うれしくなくもない」
「嬉しいんだ」
「なんなんだぁ? 今日はいじめの日か? そうなのか? やめろよー」
「鈴がかわいいから、つい」
「だからっ、そういうことを言う、にゃー」
 茹蛸みたいにふにゃふにゃになる鈴。語尾も若干不安定。やばい。すごくおもしろい。そして、かわいい。
 力が抜けたのか、こてり、と僕のおでこに鈴がおでこをのせてきた。至近距離で見る鈴は本当に赤い顔をしている。おでこを通して感じる体温は、なかなかに高熱だ。ついでに、ドキドキという心音まで聞こえる、気がした。それは幻聴かもしれないけど、つられて僕もドキドキしてきた。
「理樹のせいで力がぬけた」
「僕のせい?」
「せきにんをとれ」
 鈴の吐息を唇で感じる。お昼に食べたうどんのカツオ出汁の匂いがした。
「どうやって?」
「そんなもん、じぶんでかんがえろ」
「本当に僕の考えたやり方でいいの?」
「たぶん、それでせーかいだから。まかせる」
「……発情?」
「だれのせいだとおもってる」
「僕?」
「あほ。あほ理樹」
「えへへ」
「ほめてない」
「知ってる」
「……さっきからうっとーしーその口をふさいでやる」
 言うが早いか、鈴は僕の口を塞いだ。自分の唇で。柔らかい感触。何度重ねても、重ねるたびにドキドキする。やばいよね、これ。
「ぷはっ」
「ふぅ」
 未だに息継ぎがうまく出来ないのは、きっと僕らが未だ初心者だからだろう。もっと先に進むと舌とか絡ませるらしいけど。唇を合わせるだけでこんなんになるのに。その先に言ったら。死ぬんじゃないかな。真面目な話。
 上目遣いで鈴を見る。若干の恨めしさを込めたが、ドキドキで鈴はそれどころじゃないようだ。言うなればトリップ状態。そんな鈴を馬鹿みたいに呆けて見る。なんか、エロい。しばらく待つと、魂が戻ってきたらしい。ハッとか言っていた。そして、確かめるように唇を舌でぺろりと舐める。その仕草はあまりにも反則で、今度は僕の魂が抜けそうになった。そこはなんとか堪えた。そんな僕の心中の動きを知ってか知らずか、鈴はニヤニヤとしていた。先手を取った気分でいるらしい。悔しい。
「先にやられた」
「おそいからだ」
「焦らしてみようかなぁ、なんて」
「ちょうしこくな」
「すいません」
「ゆるす」
 許してくれた。
「まあ、なんだ。でも、その、な。いつもよりドキドキした、な」
「あ、うん。そ、そだね」
 改めてそんなことを言われると、こっちも恥ずかしいというか照れるというか。
「……」
「……」
 微妙な沈黙。少し気まずい。恥ずかしくて、鈴の顔をまともに見れない。もしかしたら、僕の顔も赤いかもしれないけど、それは夕陽のせい。たぶん、きっとそう。
「うん。よし」顔を上げて思い切って提案。「か、帰ろうか」
「そ、そうだな」
 なんだこれ。





***





 すっかりと陽の落ちた帰り道。と言っても寮までの道のりなのだが。二人きりで歩くなんて、今まででは絶対にありえなかっただろう。教室での妙な沈黙を引きずり、未だ気恥ずかしい心持で僕らは歩く。
 なんだこれ。なんだこの初々しさ。僕ら出会ってもう十年ぐらい経つんですけど。今更肩書きが幼馴染から恋人に変わったからって、別に変わらないでしょう。とか思ってたのが甘かったのか。鈴はかわいい。正直言って凄まじくかわいい。横目でちらりと見る。教室での出来事を思い出してるのか、猫の肉きゅうの感触を思い出しているのかは分からないけども、口をぽかんと開け、顔を赤くして、空を見上げている。僕が手を引いて歩かないと多分この娘はこける。うにゃーとか言ってこけるに違いない。そういうところもかわいい。
「理樹ー」
「ん?」
 鈴が正気を取り戻したようで、僕に話しかけてきた。
「二人っきりだな」
「何を今更」
「いや、まあ、なんとなく」
「寂しい?」
「すこし」
 掴んでいただけだった手。指を絡ませる。
「はやく帰ってこないかなぁ。ちょっとつまらん」
「そうだね」
 ギュッと力を込める。鈴も僕と同じように。
「僕と二人きりは嫌?」
「そんなことない」
「でも、寂しい?」
「ちょっとだけ」
「やけに素直だね」
「そういう日なんだ」
 どんな日だよ。でも、前が賑やかどころか、騒々しい毎日だったから。こんな静かな日常を、僕らはあまり知らない。
「逆に考えてみよう」
「逆?」
「うん」
「皆が居ないうちに二人でイチャイチャしよう」
 我ながら名案。
「えろ理樹」
「でも、皆が帰ってきたらこんな風に手を繋いで帰るとか、教室でキスとか。そんなこと出来なくなるよ」
「それはそれでさびしいな」
「だから、まあ、今のうちにイチャイチャしよう」
「うん。そうだな」
 絡めていた手が離れる。どうしたんだろう。と疑問を感じた瞬間に、僕の腕に軽い衝撃が走る。
「そんなに言うなら仕方がない」
 鈴がぶら下るように、僕の腕に抱きついていた。傍から見れば。所謂、腕を組むと言う状態なのではないだろうか。二の腕部分に当たる柔らかいけど物足りない感じのものは、鈴のさびしいアレなのだろう。
「仕方がないからイチャイチャしてやる」
 そう言う鈴の顔は、僕の腕に隠れてよく見えない。
「鈴」
「なんだ?」
「ギュッてしていい?」
「えろ理樹」
 このまま、恭介たちが戻ってこなくてもいいかな、なんて思ってしまった僕はきっと普通だ。


[No.554] 2008/09/12(Fri) 00:44:54
パーフェクトスカイ・パーフェクトラブ (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@10940byte

 恋をしたことがない。多分、したことがない。

 多分、なんていう曖昧な言葉を使ったのは、それが一体何でどんな形をしていてどんな味がしてどんな匂いがするものなのかを全く知らないからだ。テレビドラマや漫画、小説、ゲームの中にある恋愛ならなんとなく知っている。正直に言って、全く興味がない。あんなものは実際に恋を経験した人が当時の甘酸っぱい(もしくは苦い)思い出を追体験し、共感するために見るものであって、本当の恋を知らないお子様がそれを見てわかったような気になっているのは端的に言って頭が悪いだけだと思う。
 大体の話だ、恋愛などという概念自体がどこか胡散臭い。ぶっちゃけそれって単なる性欲と一体何が違うの? わかりやすく説明できるなら誰か私に説明して見せてほしい。そんなものに夢中になって、あなたたちは猿か何かですか? 脳みそまで下半身で出来てるんですか?
 まぁ、いい。
 思春期を迎えた男女が集まる学校のような場所ではそれこそ朝から晩まで、そういう色恋沙汰には事欠かない。毎日毎日飽きもせず、誰が好きで、誰が嫌いで、誰が誰と付き合って、別れて、またくっついて、離れて――
「ねえ、神北さんは誰か好きな人いないの?」
 そらきた。
 そういう時はね、おもくそにっこり笑って、えへへのへー。えーだれ、だれなのーなんていう追及もなんのその。逃げに逃げ、話題が私からずれた時を狙い、気配を殺してそっとその場から立ち去るのだ。私のにっこし笑顔をもってしてかわせないものはない。ふははははと笑い出したいのを我慢しながら私は一人屋上を目指す。もちろん、おやつだって忘れちゃいない。わっふる、ポテチにメロンパン。たまには和風にどら焼きだって構わない。財布に隠した屋上へ鍵を手早く解除し、準備おーけー。視界いっぱいに広がる青空が私に向かってにっこり笑いかける。
「ぶいー」
 誰にするでもなく、私は私にブイサイン。青空に勝利の報告をして、また私はまどろんでお菓子の国の夢を見る。



    △▼△▼△



 私は恋をしたことがない。する前に死んじゃうかもしれない。
 というか、もう九割九分九厘死んじゃうんですけど。

 きっかけは修学旅行に行く途中に起こったバス事故。運転手のミスか突発的不運かは知らないけど、とにかく私たちを乗せたバスが崖から転落し、あっけなくお陀仏――かと思いきや、私を含む九人の仲良し集団、通称リトルバスターズの面々は、神の思し召しか、繰り返す一ヶ月余りという終わりなきループ現象に捕らわれてしまったのである。正直、ゲームみたいな話だと思う。
 唯一状況を全て把握してるっぽい恭介さんが言うには、理樹くんと鈴ちゃん以外の人はバスガス爆発的なことで、もう助からないらしい。で、折角こうして起こってしまったループ現象なんだから存分に利用しようじゃないかとなり、仲間内で唯一生き残れるっぽい二人を鍛えて外の世界でも頑張って生きられるようにしよう作戦、名づけて『Forever Love 〜理樹鈴よ、俺達の屍を越えていけ〜』がミッションスタートしたというわけだ。
 仕掛け人は恭介さんに、真人くんに謙吾くん、それに私だ。死んじゃう他の子達も状況はなんとなく感じてはいるらしいんだけど、はっきりとは把握しきれていないみたいで、仕掛け人会議での厳正な協議の結果、彼女達には好きに動いてもらうことにした。なんかその方が私達の目的にとって効率が良さそうだし、何よりエキストラ達を動かすのと違って手間がかからなくていい、とのことだ。でも、ゆいちゃんだけは大方の状況を理解しているみたい。「最低限付き合うが私は基本的に好き勝手やらせてもらうぞ。悪く思わないでくれ」と、表立っての協力はしてくれていないけど。
 ミッションは仕掛け人の働きもあって、概ね滞りなく進んでいった。理樹くんは持ち前の可愛さと顔に似合わない手練手管でもって次々とみんなの心のわだかまりを解きほぐしていった。その手腕には私も感心せざるを得なかった。
 が、しかし。
 どうしても私は理樹くんのいい加減さが気に入らなかった。要するに彼は無自覚にとは言え、この現象に巻き込まれた女の子全員を何らかの形で口説いているわけだ。毎回毎回手を変え品を変え、押してみたり、引いてみたり、たまには甘く囁いてみたり。全員に対して一線を越えているかどうかは定かではないが、少なくとも私の時は――まぁ、いいか。ぶっちゃけ、あんまりよく覚えてないし。
 理樹くんはみんな一人一人それぞれと、毎回毎回“恋”をしているのだろうか。少なくとも相手の子達はみんな理樹くんのことを好きになっていた。恋をしていた。みんな理樹くんのことが大好きなんだ。でも、肝心の理樹くんは状況次第であっちに転んだりこっちに転んだり。「あなたのことが好きで好きでしょうがない」というような意味のことを言った次の回にはもう他の子に対して「君が好き」だとか言ってしまうのだ。
 まったく、ため息が出る。
 これは理樹くんだからそうなのだろうか。それとも男の人ならみんなそうなのか。お互いがお互いを運命の人だと思い合っている恋人同士でも、私達のようなループ現象に巻き込まれたら、状況次第で他の人とくっついてしまうのだろうか。例えば、告白するタイミング。例えば、出会いのシチュエーション。例えば――
 私は恋を知らない。だから、その一つ一つが恋なのかどうかなんてわからない。
 でも、納得はいかない。こんな不完全で、不確定なものを、どうして私達は恋などと呼ばなくてはならないのだろうか、と。

 そうして、また新しい一ヶ月が始まる。
 いつものように私は屋上で理樹くんが来るのを待つ。今日この日に理樹くんがここに来る確率は大体三割から四割というところ。三回の機会があって一回来るか来ないか、という計算だ。果たして今回はどうなるだろう。
「ふわあぁ」
 いつもと同じ青い空を、いつもと同じ雲が、いつもと同じように流れていく。もう何度これを繰り返しただろう。なんど繰り返してもこの空だけは変わらない。この空はいきあたりばったりな理樹くんの行動とは違う。完璧な事象。完璧な空だ。
 腕にした時計をちらちらと確認する。約束の時間まであと十分足らず。この時間を過ぎたら、今日はもう理樹くんが屋上に来ることはない。今回の理樹くんは、少なくとも私をターゲットにすることはない。
 あと五分。屋上へ続く窓が開けられる気配はない。私は日陰に横になりながらゆっくりとその時が来るのを待つ。あと三分。眠気が私を襲う。本来ならもうとっくに昼寝しているはずの時間。お腹を出して、恥じらいも気負いも知らないように、私は予定どおりに理樹くんを待ち続ける。一分。なぜかそれを心待ちにしている自分がいることに気づく。あと三十秒。二十秒、十秒、五、四、三、二、一――
「はい――おしまい」
 零。
 空が一層青く見える。流れる白い雲にも青が透けて見える。
 私は今、自由だ。誰よりも、何よりも、自由。
 これ以上、この世に素晴らしいことがあるのだろうか。
「――うふ」
 そんなつもりなんて全然ないのに、ひとりでに笑いが漏れてくる。
「うふふふふふっ」
 抑えきれない。タガが外れてしまったのだろうか。私を私で保つ安全弁。それが、
「あはははははははっ――!」

「――ご機嫌だな、小毬」

 驚くには値しない。
 もとより、この世界に不確定な物など数えるほどしかないのだ。
 この声、聞き違えるはずもない。
「何かいいことでもあったのか?」
「そうかも」
 いつもの笑顔で言うと、恭介さんは力なく笑った。

「菓子、ちょっともらっていいか」
「いいよー」
 いつも持ち歩いているポーチの中身をざらっとあける。恭介さんが選んだのはうすしおのポテチ。器用に破いて、コンクリートの床に広げる。
「もしかしたら小毬はもう気づいてるかもしれないって、思ってたんだけどな」
 ポテチをつまむ。そういう何気ない仕草でさえ絵になる。
「かなり、いなくなっただろ」
「みんなのこと?」
「そうだ」
 理樹くんが触れ合った相手は私を除いて、みんないなくなってしまった。姿だけは、確かにある。でもそれは周りに満ち溢れたエキストラとなんら変わりない存在だ。
 確定されてしまったんだ。
 可能性が。
「もう俺たちだけじゃこの世界を保てないんだ。理樹と鈴はこの学園を出てしまった。細かいところまで俺たちの手が及ばなくなってる。このままじゃ近いうちに――」
「もう、おしまいってこと?」
「……ああ」
 驚きはなかった。どこか、そんな空気を感じていた。終わらないものなど、この世にはないのだから。
「意外と短かったね」
「そうか? 俺には十分長かったさ」
 髪をぐしゃぐしゃとかきむしる。
 ごまかそうとして、ごまかせていない不器用な恭介さん。もう余裕など、なくなっているのかもしれない。
「俺はあっちの世界をなんとかする」
「あっちって?」
「事故現場さ。タンクの方から漏れ出したガソリンがさ、周りの熱気にいつ引火してもおかしくないんだ。このままじゃ理樹たちが逃げる前にみんなお陀仏だ」
「なんとか、出来るの?」
「出来なくたって、なんとかするしかないだろ」
 恭介さんは不遜に笑ってみせた。作り笑いにしたって、もう少し上手く笑ってほしいと思う。
「あとのことは、お前に任せた」
「任せたって……私、どうしたらいいかわからないよ」
「何もしなくていいさ。もう仕掛けは打ってある。お前は今まで通りに過ごしてくれればいい」
「あと、どのくらいもつの?」
「さあな、もってあと一、二周……いや、もっと短いかもな……小毬、何か甘いもの、ないか?」
 たしか、ポーチの奥にワッフルがあったはず。私は慌ててポーチの中をあさる。
「はい」
「さんきゅ」
 びりびりーと乱雑に包装紙を破る。恭介さんはそれをぽいっと捨ててしまう。
「ぽい捨て禁止ー」
「いいだろこんな時くらい」
「こんな時だからこそ、人としてのルールを守りましょう」
「ちえっ」
 拾おうとした包装紙を、風がさらってしまう。舞い上がる包装紙。ぐるぐると巻かれるように空を飛び、やがてどこかへ消えてしまった。
「ねえ、恭介さん」
「なんだよ」
「私、実は誰かを本気で好きになったことって、ないんだ」
「理樹もか?」
「好きだよ。もちろん、鈴ちゃんも。みんなみんなだーいすき。でもね……何か違ったんじゃないかって、気がしてるの」
「そりゃ……参ったな」
 立ち上がり、恭介さんの横に立つ。校庭には、心のない人たちが、今日もいつもと同じように蠢いている。わらわら、わらわらと。
 だけど、きっとそうじゃない。
 心がないのは、本当に心がないのは、こうして彼らのことを“心がない”と感じてしまう私自身なんじゃないか。本当は、誰もがどこか他人に見えないところに脈々と息づかせているのではないか。消えてしまいそうなほど、か細い脈動を。
「恭介さんは、誰かを焦がれるほどに恋したことがありますか?」
「どうかな……もしかしたら、ないかもな」
「私も」
 そうして、私たちは笑った。笑いながら床に置いたポテチを頬張った。さっき吹いた風に大半がこぼれてしまっていた。蟻が、その一片にたかっている。
「もしも私が誰かを好きになるならね、本当に、本当にその人のことを好きになりたいな。何が起こっても、誰と出会っても、揺らぎようがないくらい。それこそ――」
 この日々を何度繰り返そうとも。
 小毬は夢見る夢子だなと、恭介さんは困ったような顔をした。



 △▼△▼△



 完璧な空がなくなっても、空は続いている。

 私たちは助かった。理樹くんと鈴ちゃんが私たちを救った。彼らを強くしようなんていうのが、ただの傲慢であったことが明らかになったわけだ。そんなこと、私や恭介さん、真人くんや、謙吾くん以外には知らないことだけど。
 私たちは少しの療養期間を置いて、また日常に還っていった。あの終わらない日々の残り滓をみんなのうちの誰かが何気なく口にした言葉の節々に感じることはあるけれど、それはそれだけのことではある。例えば私は今でも一人で屋上に行くし、はるちゃんは相変わらず整備委員を続けている。くーちゃんはいまだに英語が苦手だ。みおちゃんはみおちゃんで、まだ擦り切れそうな文庫本と日傘を手放さない。でも、ゆいちゃんは前よりたくさんピアノを弾くようになった。
 理樹くんと、鈴ちゃんは……どうだろう、よくわからない。
 結局のところ、紆余曲折を経て理樹くんが選んだのは鈴ちゃんだったということなのかもしれない。人によってはこれを運命と呼ぶかもしれないし、人によってはこれを偶然と呼ぶのかもしれない。私はそれを何と呼ぶのだろう。まだ決めかねている。
 でも、ふとした時、思ってしまうことがあるんだ。
 もしも、生き残るのが鈴ちゃんじゃなくて、例えば、はるちゃんだったら。くーちゃんだったら、みおちゃんだったら、ゆいちゃんだったら。理樹くんじゃなくて、真人くんだったら、謙吾くんだったら、恭介さんだったら。例えば、私だったら。
 どんな空が私たちを待っていたんだろう。
 そんなことを考えてしまうのって、間違ったことなんだろうか。

 今日も私たちの周囲には恋が溢れている。偶然に彩られて、それぞれに光を放っている。閉じていたまぶたが開いて、最初に見たものは君とあなたの笑顔。

 恋をしたことがない。
 する予定もない。


[No.555] 2008/09/12(Fri) 01:53:27
夏の所為 (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@10029 byte

 たぶん、夏の所為だろう。毎年の事ながら、今年の夏も猛暑らしいのでな。既に頭のネジがぶっ飛びまくっている彼女のことだ。可哀相な事に、更に数百本ぐらいボロボロと落ちてしまったのだろう。私にそんな質問をしたところで何になるというのだ。
「姉御の初恋っていつ?」
 知らんわ。





『夏の所為』





 昼の唯一の楽しみであるランチタイムに、いつも通り一人で自作のテラスにて食事をとっていたところ、いきなり「いよーっす、姉御ー!」とか言いながら乱入してきて、人のお弁当をぱくぱくと断りも入れず、つまみ食いしたと思ったら、「初恋っていつ?」とか言い出して脈絡もへったくれも無い。たまに葉留佳君の脳みそは右脳しか動いてないのでは?と思ってしまったりもするのだが、それは少々失礼だと思った。右脳に対して。
 先ほどまでは、どうしてクドリャフカ君の胸はあんなに抉れているのかと、物理的な観点からの推察をしていたというのに。ため息を一つ吐き、暇だし付き合ってやるか、と我ながら珍しい考えに至ったのも、また、夏の日差しのせいだろう。
 首を傾げ過去を振り返ってみる。これまでの長いようで短いようで中身の全く無さそうな自分の人生のことを。我が生涯において、特に男という生物は路傍の石というか、腐った死体のケツを拭く紙以下の存在だった覚えしかない。唯一の例外として、今の野球メンバーに関しては路傍の石レベルの扱いはしてやってるつもりである。が、その程度だろう。強いて言うならば、まだ年端もいかぬロリータだった時代のこと。あの頃は私としてもやたらめったら大人が格好よく見えたもので、今思えば若かったのだろう。人並みに男の先生というものには憧憬の念を抱いたような、そうでもないような。みたいな話を端折りつつしてみた。
「へえ」
 返事は異様に素っ気無いものだった。鼻を穿ってやがる。なんという失礼な奴だ。
「それぐらいか」
 折角、おねーさんが話してやったというのに「ふーん」ととんでもなくつまらなそうな反応が返ってきた。彼女の顔には、意外に普通でつまらん、と書いてあった。たまに、このガキをぶん殴ってやりたくなる。
「で?」
「んー?」
「そういう葉留佳君はどうだ?」 
「え? 私?」
「当たり前だ。人に話を振って、人の話だけ聞いて、さらばだ、とはさせんからな。しかも、相手はこの私だぞ?」
「あはー。あははー。あはははははははははー」
「笑って誤魔化すなんざ無理だ」
「ちぇーい! 煙玉ー!」
 ボウン、と軽い爆発音と共に大量の煙が辺りを埋め尽くした。一寸先も見えない。なんでそんなものを持っているのか謎だが、女の子のスカートのポケットの中は異次元につながっているというもっぱらの噂なので、気にしない。気にしたら負けだ。なんせ葉留佳君は馬鹿の筆頭株主だからな。一般人ならばこれで逃げ果せただろうが、甘い。相手はこの私だ。気配とか匂いとかフェロモンとか、そういったもので人の動きを察知するのは私の特技の一つである。履歴書にも書ける。軽く右手を伸ばし、彼女の頭をふんづかまえる。段々と視界が開けていくと同時にギリギリ右手に力を込める。今までの鬱憤を右手に込めたら、トマトのようにグチャリとか言わせる自信はあるのだが、それをしたら今後の楽しみが大いに減ってしまう上、犯罪者、人殺しのレッテルを張られ、これからの一生を過ごさねばならないので、仕方なくだがやめておく。さて、その小動物のように怯えた顔を拝んでやるとするか。
 開けた視界の先、私の右手には、彼女の顔大のスイカ握られていた。
「なんでやねん」
 思わず関西弁になるほどだった。
 この私が欺かれるとは。何者だ。あの小娘は。物理法則を無視しよって。
 グチャリと音を立ててスイカが砕けた。







 悶々として気持ちを引きずりまくった私は、エアコンも無いサウナ風呂のような教室に帰る気も起きず、学校内でクーラーが設置されている部屋の一つ、図書室に避難することにした。この貧乏校にはそもそもそんなV.I.P部屋は二つしかないのだが、もう一つは当然の如く教職員達の住処、職員室である。自分らばかりいい思いをして、いつか痛い目に会え。搾取した入学金やら、授業料やらを我々に還元するのが義務ではなかろうか。……どうでもいいわ。
 図書室の扉の鍵は閉まっていたのだが、それはアドリブでなんとかして中に入ると、ばっちりクーラーの電源は落ちていた。それでも、昼休みに稼動していたクーラーの最後っ屁的な涼しさはまだ残っていたので、それに微妙な涼を感じつつ、早々に電源を入れた。設定温度は、クーラーの限界点である十八度まで下げ、噴出し口の正面に立って両手を広げた。クーラーはといえば、壊れかけのギシギシ、ミシミシといった音を立てつつ、多分今まで使ったことの無いであろうその潜在能力を目一杯発揮していた。予想以上のパワーに、逆に肌寒さを感じるほどだった。温度を二十度まで上げた。
 たまたま目に付いただけだと思うのだが、己の無意識下において、彼女の言葉がなんらかの作用を働かせた可能性は否定できない。手に取ったそれは、私にしては珍しく文系書物だ。日本の全てが書いてあるといったら過言ではある国語辞典。広辞苑では無いあたり、やはり文系は私の苦手とする分野であると思って欲しい。それを小脇に抱えて、そこらに転がる椅子に腰を掛けた。
 蛍光ペンを胸元から取り出し、卑猥と思われる言葉全てにチェックを入れていく。一頁目から始めて、それなりにその作業もこなし、そろそろ飽きてきたなと思ったところで、先ほどの彼女との会話のメインテーマでもある、私の理解の範疇外にあったその言葉が満を持して登場した。
 

こい〔こひ〕【恋】
 1 特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「―に落ちる」「―に破れる」
 2 土地・植物・季節などに思いを寄せること。


 だそうだ。全く持ってその意味は分からなかった。曖昧に表現して、逃げているようにしか見えないのは、私が捻くれているせいだろうか。なんだ、『切ないまでに深く』って。さっぱり分からんぞ。その曖昧さ、淡さ、儚さが日本語のいいところなのかもしれないが、これじゃあ、経験したことの無い人には不親切すぎやしないか。不親切すぎるぞ。
 その後、授業に出る気など一切無かったので、暇つぶしのためだったと思う。もの凄い、どうしようもないくらい暇だったのだと思う。だから、恋愛小説の類を放課後になるまで読み漁ってみたりなんかしたのだと思う。まあ、三十冊ほど読んで、あまり理解が出来なかったという結果に陥ったのはとても悲しい出来事であり、とても時間を無駄にした。全てハッピーエンド。好きです。好きだ。僕も。私も。はい、終わり。もし、これらの物語に続きがあるのならば、主人公達ははすぐ別れるだろう。そう思わずにはいられない。結局のところ、恋とは風邪のようなものなのではないだろうか。熱が下がれば、すぐに元通り。多少の喉の痛みなどは数日続くかもしれないが、そこまでだ。アホらしい。
 机に突っ伏す。目を閉じる。真っ暗闇だ。慣れない事をしたせいか、少々疲れた。この涼しい部屋で、少しだけ眠ることにした。







 夢とは過去の記憶の再生だと聞いたことがある。
 これは過去の映像だと言うのだろうか。
 過去に私が妄想した事柄だと言うことか。
 永遠の刹那。一瞬の繰り返し。恥ずかしい私。
 ご勘弁願いたい。







 真っ暗闇の中だった。寝ていたらしい。まだ朝ではないことは分かった。無理な体勢で寝たせいか、身体が軋む。首が痛い。おでこがひりひりする。微妙に覚束ない頭でぼんやりと考える。何をしていたのか。徐々に蘇ってくる記憶は、まるで真綿で首を絞めるような拷問のようだった。自己嫌悪に陥ったことは言うまでも無い。異常な量の汗は暑さのせいだ。そうすることにした。
 今日の自分は無かったことにしようではないか、と自分に言い聞かせながら、クーラーの切れた蒸し風呂のような図書室を後にする。鞄は教室に置きっぱなしだ。別段、物を入れているわけではないのだが、日頃の習慣である。持って帰らないと気持ち悪いし、絶世のセクシーおねえさんである私の、汗と匂いに塗れた体操服なんぞもあったりして、悪戯されたりしかねないので。自然と足は教室へと向かっていた。
 暗闇の廊下を歩いていると思い出す。少し前に肝試しをしたこと。美魚君で遊ぶのは非常に面白かったが、葉留佳君が本気のような演技のような、なんとなく消化不良な反応だったので途中で萎えた。どうして恭介氏は私を仕掛ける側に指名しなかったのか、甚だ疑問で仕方が無い。私ならばきっと恐怖どころか、失禁させることや、ポロリもあるよ、という領域まで、この娯楽を昇華させることが出来たろうに。今考えても非常に面白くない。今度、恭介氏に再び肝試し大会を開くように誘導しようか。頭が切れるように見えて、むちゃくちゃ単純な男だと言うことは分かっているので、すぐにそれは実現されるであろう。一回やったら飽きたし、教室に着いたので、やっぱりやめた。
 体操服は無事だった。それはそれでつまらないと思ってしまう私は、人としてどうなのだろうか。ダメだろうな。夜の学校。夜の教室。学校と言うものは、『夜の』と頭につけるだけでとてもエロティカルな響きに生まれ変わる。夜の授業。一人、真っ暗な教室で席に着く。普段の喧騒には程遠い、静かな教室。夏なので、五月蝿い程に蝉は鳴いているのだが。早く寿命を全うしてしまえ。
 いつからだろうか。
 少し学校に来ることが楽しくなってきたのは。考えるまでも無いことなのだが、そういう無駄なことをしたくなる時がたまにある。それもきっと、夜のエロス教室がそうさせるんだろう。思春期の暴走だと受け止めて頂きたい。
 と、外からワイワイガヤガヤと聞き覚えのありまくる声が聞こえた。また、あの連中は何かを始めるらしい。遊びに事欠かない、楽しい奴らめ。私も混ぜろ。窓から見下ろす。
 目に映ったのは、無駄に綺麗な光のシャワー。皆、それぞれに花火に火を点ける。私の足が止まる。教室から見るその光が、私を金縛りにする。目を奪われたとかではない。心臓がドクンと飛び跳ねる。真人少年が大きな筒を持ってきている。あれはきっとあれだ。たまたまだろう。私が、教室に居ることなんて理樹君が知っているはずがない。だって、今の私の状況は偶然なのだから。
 どこで手に入れたのか。詳しくは知らないので適当に言うが、きっと三尺玉とか、そういう名前の物だ。装填。心臓の鼓動が止まらない。着火。窓ガラスには、半笑いの私が映っている。いやいや、これは私じゃない。発射。ボスっと鈍い音を上げ、光の玉がゆらゆら揺れながら飛ぶ。開花。窓ガラスには、真っ赤な顔をした私が映っている。私じゃない。でも、私だ。
 私じゃない。ガラスに背を向け走る。ドアを蹴破る。荷物は置いていく。とにかく走る。階段を飛び降りる。走る。コーナーを曲がる。走る。靴なんて変えない。走った。
 ハアハアと息切れしている私を見て、少年がにっこり微笑み「遅かったね」と言った。まるで私が来ることを知っていたかのようだ。いや、まあ、こんな派手なことをしていたら、教室にいなくてもすぐに駆けつけただろうが。でも、私を見透かされたようで悔しくて。後ろから羽交い絞めにしてやった。そして、とりあえず笑ってみた。なんだかよく分からんが、笑ってみた。楽しくなってきた。そのまま、一人でへび花火で遊んでいた葉留佳君の近くまで行く。寂しい奴。
「ああ、葉留佳君や」
「なんスかー?」
 ジッとへび花火がうねうねする様を見つめる彼女はやっぱり頭がおかしい。
「昼の質問の答え。訂正する」
「んー?」
「今だよ」
「え?」
「今」
「え? え?」
 ポカーンとした後、意味をようやく理解したのか、「ぬおー! はるちんも負けないッスよー!」とか言って突っ込んできたが、それを私のおっぱいバリアで弾き飛ばしてやった。
 この胸でじたばたしている少年。このまま私の胸の内が伝わらないものかと、青臭いことを考えてみた。
 数秒経って、少年が動かなくなったので若干焦った。
 たぶん、これら全部、夏の所為だ。


[No.556] 2008/09/12(Fri) 06:10:29
ありがとう (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@6304 byte ネタバレ無し

朧気な頭、寝すぎた時みたいに思考が全く回らない。
「ぅぁ…………」
 私は軽く首をふって倦怠感を払おうとするが、そんな事で脳にこもっている霞が晴れるわけもなく。
「頭、ぃた」
 私は頭を押さえながら最悪の気分で体を起こす。
「あら?」
 少しだけ自分の目が信じられなかった。周りの景色は学校の裏庭、鬱蒼という程ではないが木や草が生い茂っているせいで滅多に立ち入る人がいないという場所。かくゆう私もここに訪れた事はなく、春の陽気が気持ちいい季節とは言えどもなぜこんな所で眠っていたのかと首を傾げる事しか出来ない。
「?」
 眠る前の記憶を掘り起こしてみると――空。一面の青空が脳裏をよぎる。上を向いてみれば確かに雲一つない夕暮れの茜空が。
(あまりにも気持ちよくて、お昼寝でもしてしまいましたか?)
 とにかく今はそんな感想しか頭に浮かばない。ここでボーとしていても仕方がないと、私はとりあえず足を動かした。
 珍しく風の無い夕暮れで、耳が痛くなる程音がない裏庭を私は歩く。

「おかしいわ」
 自覚できる位に顔が歪む。夕暮れ時の校舎、いつもならばたくさんの部活が精を出している時間だというのにも関わらず、校舎内はどこまでも静か。
「…………まるでお通夜みたい」
 いつも騒がしい場所の静けさは不気味と感じ取れる程。誰かが廊下を歩けば響くはずであるリノリウムの音もなく、私は孤独に校舎を歩く。
 教室、特別室、廊下。どこもかしかも人っ子一人いない世界はまるで自分一人を除いて世界から消えてしまったようで。
「…………」
 薄ら寒いものが背中を舐めた。私の中のどこか冷静な部分が恐慌状態になっている自分を教えてくれるが、しかし体が止まらない。教室から教室へ、廊下に出る時間さえ惜しむ私は学校中を最短距離で駆け巡る。
 教室、教室、教室、廊下、階段、特別室、教室、階段、廊下、廊下、廊下、教員室――――
「嘘」
 けど、いない。この時間なら誰かいるはずの、教員室にも誰もいない。人間がいない。この世界の、どこにも。
「ひっ……」
 知らず喉から空気が漏れた。ガクガクと震える体が止まらない。一度も行ったことがない場所で目が覚めて、そしたら世界はこんなにも狂っていた。
「だ、大丈夫、大丈夫、大丈夫――……」
 寮になら人はいる、絶対にいる、いなくちゃおかしい。でも、今の世界はおかしい――――
「ッ!」
 不安を奥歯でかみ殺す。とにかく確かめてみなくては進まないと、怖がる心を叱咤して寮へ向かう。
 教員室から校庭へ。いつもと違いすぎるその校舎を最後にもう一度見上げ、
「!」
 人影が目に映った。屋上、見覚えのあるあの道着と白い髪は、
「宮沢さんっ!」
 間違いなかった。誰もいないと思っていた世界で屋上にぽつりと佇むその人を見た瞬間、私は駆けた。人が居た、その喜びのままに校舎内に飛び込んだ私は階段を駆け上がり、屋上への扉をくぐる。
「宮沢さんっ!!」
 歓声に近い大声。今までこんな大声を出せるなんて知らなかったと、そう思えるくらいの大声で宮沢さんを呼ぶ。そうして宮沢さんはゆっくりとこちらを振り返った。
「よく、ここに俺がいると分かったな」
「あの、校庭から宮沢さんが見えたんです。それで、それで…………」
 なんと言葉にすればいいのか。私は一生懸命に言葉を探して宮沢さんに声をかける。
「あの。居ないんです、誰も、人が。宮沢さんは何か御存知でないのですか?」
 一瞬が驚く程長い。私はじっと宮沢さんの顔を見つめる。何か思い詰めたような、悲しみを湛えた顔をしたままで宮沢さんはゆっくりと口を開く。
「…………ここからの景色、どう思う?」
「――え?」
 全く繋がらない言葉を口にする宮沢さんに、私は固まってしまう。そして私に構うことなく言葉を続ける宮沢さん。
「綺麗だろう? …………俺もそう思う。だけどこれからは見れなくなる、屋上は立ち入り禁止になるらしい」
「えっ? なぜです――」
「まあ、仕方がないだろうな」
 屋上は人気のスポット。それが立ち入り禁止になるなんてと、私の疑問に被せるような言葉に続けて、宮沢さんは絶望的な事を口にする。

「古式のように、また飛び降り自殺する生徒が出てはかなわんだろうからな」
 ガツンと頭が叩き割られたように痛んだ。なぜ、そこで私の名前が出てくるのだろう? ならば宮沢さんは、誰に話しかけているのだろう?

「本来ならば自殺なんていくらでもしようがあるはずだ。一つの場所だけ封鎖しても実質的な意味は少なかろう。だがまあ、学校側としても何かしなくちゃいけないというのも分かる。
 分かるが、そんな場当たり的な対処で古式が最期に見た景色を潰されてしまうのはどうも、な」
 自嘲的な宮沢さんの言葉が止まる。私は宮沢さんの目をじっと見ているし、宮沢さんも私の目をじっと…………見ていない。宮沢さんの目は私を見ていない。私を素通りして私の後ろを見つめている。
「誰っ!?」
 自分でも分かる金切り声で後ろを睨む。だけどやっぱりそこには誰もいなくて、まるで図ったように宮沢さんがその答えを口にしてくれる。
「ああ、ありがとう恭介。なんとなくそんな気はしたんだ。虫の知らせというやつか。30分程前だろう? 古式が息を引き取ったのは」
 30分程前。それは確か、私が目が覚めた時間。
「う、そ…………」
 自分で自分が支えきれなくて、私はヨロヨロと宮沢さんへと近づく。
「嘘でしょ? 嘘だって言ってよ、宮沢さんっ!!」
 そう言って突き出した手は、スルリと宮沢さんの体をすり抜けた。
「――あ」
 前につんのめった私はそのままフェンスへと寄りかかる。その下にある鬱蒼とした裏庭は見間違いなく私が目覚めた場所。
「いや、いやいやいやいや…………っ!!」
 でも、でも、そんな事、認めていいはずがない。私が死んだなんて、そんな事を認めていいはずがないっ。この世界のどこにも私以外の人間がいなかったんじゃない、この世界のどこにも私がいなかったなんて…………。
「ありがとうございますって、言ったんだ」
 震えたままの体に宮沢さんの言葉だけが聞こえてくる。
「馬鹿だよな、俺。古式がありがとうございますって言って、もう大丈夫だなんて思った。そんな訳、あるはずなかったのにな…………」
 私の位置からは宮沢さんの背中しか見えない。だからどんな表情で宮沢さんがそんな事を言っているのか、私には伺い知る事が出来ない。
「そうだな、恭介」
 私には見えない、宮沢さんの正面にいる人。その人の言葉にそうとだけ言った宮沢さんはくるりと振り返り、こちらを向く。
「古式…………」
 泣いていた。誰にも見られないように、誰にも知られないように。宮沢さんの肩は震えていない、声も震えていない。ただただ辛そうに宮沢さんは泣いていた。
「俺にはそんな資格は無いのかもしれない、悲しむ事すら許されないのかもしれない。
 …………すまない、これは俺のワガママだ、分かっているんだ。だけど、悼ませてくれ…………。
 そしてな、これだけは伝えたいんだ。俺は、お前が大好きだった。俺と出会ってくれて、ありがとう」
「はい、ありがとうございます、宮沢さん」
 自然に私の口はそんな言葉を口にしていた。体の震えは止まっていた、心の中でくすぶっていた恐怖ももう無い。全て宮沢さんが肩代わりしてくれた、全て宮沢さんが溶かしてくれた。
 ――――私は馬鹿だ。こんなにも純粋に私の事を心配していてくれた人にも気が付こうともしなかったなんて。
 心残りは無い。消えゆく体で、もう届かない言葉を口にする、もう届かない微笑みにのせて。



 ありがとうございます、そしてごめんなさい。最後にさようなら、宮沢さん。


[No.557] 2008/09/12(Fri) 18:34:27
ずっとずっと続いてゆくなかで 19760 byte (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@EX激ネタバレ、BL注意

「朱鷺戸さんって、男になってもカッコよさそうだよね」
「そう?」
 訓練中の、ほんの少しの会話。


  ずっとずっと続いてゆくなかで


 練習後の、その日の夜。朱鷺戸さんとの待ち合わせ場所。
「ん。直枝か」
 金髪の、男の人が立っていた。
「誰ですか…?」
「誰って…。忘れたのか?お前アホだな。…朱鷺戸沙耶だよ。覚えてねーのか」
「…ときど…さや…?」
 聞いたことある名前の気がする。
 …そうだ。
 僕を三回殺そうとして、その上僕をパートナーにしたスパイ。
 朱鷺戸沙耶。
 いや、そんなわけがない。
 朱鷺戸さんは女だ。
 …違う人だよね。
「じゃあ、さっさと地下探索行くぞ。もうローソンとかファミマとかわけわかんねーこと言うなよ」
「え…。本当に?」
「いまさらなに言ってんだ。往生際が悪いな」
「ちがくてっ!!朱鷺戸さんは女じゃなかったの?!」
「は?」
 変な顔をして、僕のほうを見た。
「元から男だろ。…お前またアホな電波でも受信してんのか?」
「え…えええええぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」
「夜中にうるせぇ」
「あ…うん…」
 そのまま、僕をおいて先へと進む朱鷺戸さんらしい人。
 本当に?
 僕はこれを信じて良いのか?
 そんな馬鹿な。
 とにもかくにも、今は朱鷺戸さん(仮)についていくことしか出来ないのだが。
「お前、大丈夫か?」
「うん…。もしかしたら頭がおかしくなったかもしれないけど」
 本当に、そうなのかもしれない。
「それは元からな気がするが」
 そういいながら、僕の額に手を当てる朱鷺戸さん(仮)。
 熱を測ろうとしているのだろうか。
 その人は、男の僕から見てもかっこよくて。
「調子悪かったら言えよ?パートナーに無理させるわけにはいかねーからな。…それに、巻き込んだのは俺だし」
 朱鷺戸さんの、面影。
「…う、うん」
 …なぜか速くなる胸の鼓動を抑え、僕は夜道を歩いた。


「お前…。すげーな…。パーフェクトだ」
「いや…偶然だよ」
「偶然でこんなまねできるか。運動神経良いのか?」
「むしろ悪いほうだと思うよ…」
 地下探索が始まる。
 緊張で、僕の手は汗をかいていた。
「ふぅ…」
「なんだ?緊張してんのか?情けねーな」
「いや…。そういわれてもさ。初めてだし。こんなの」
 とりあえず、僕はこの人のことを朱鷺戸さんとすることにした。
 違う人にしては似すぎているし、それに…もう闇の執行部が出てきた時点でおかしいんだ。僕の毎日は。
「じゃあ、進むか」
「うん…」
「頑張れよ。直枝」
 笑顔で、僕を振り返って朱鷺戸さんが言う。
 心臓が、高鳴る。
 どうしたんだ、僕。
 本当に頭がおかしくなったのか…?!
「なに一人で壁に頭ぶつけてんだ?」
「いえ…。なんでもないです」
 つい異常行動に走ってしまった…。
 大丈夫。僕は変な方向に目覚めてない。
 そう言い聞かせた。


「…おーい、理樹ー」
「…真人?」
 真人が話しかけるということは休み時間だろうか。
「すげー寝るな、お前」
「まあね。夜中起きてるし」
「なあ、久しぶりに筋肉で遊ばねぇか…?」
「最近遊んでなかったもんね…。うん。遊ぼう!!」
「いいのかっ!?理樹、ありがとうっ!大好きだっ!!」
 横で、西園さんが変な目で見ていたが、気にしないことにする。
「筋肉、筋肉〜っ!!」
 …早く、朱鷺戸さんに合いたいなぁ…。
 って、僕は何を考えているんだ?!
 本当にそっちの道に走り始めているのか?!
 …いや、楽しいから会いたいだけだ。そんなの当たり前じゃないか。
 恭介だって、真人だって謙吾だって同じ。
 友達だから、会いたいんだ。
 当たり前だろ。何を考えてるんだ、僕は。
「理樹、大丈夫か?本当に」
「うん!!大丈夫だよ!!」
「おおー、なんかいきなり元気になった」
 真人が僕の頭を撫でる。
 …ほら、なんともないじゃないか。


「……」
 朱鷺戸さんが、来ない。
「どうしたんだろう…」
 心配だ。
 もしかしたら、他のスパイに襲われたのかも…。
 どうしよう。本当に心配になってきた。
「朱鷺戸さん…」
 こうなっては、いても立ってもいられない。
 そうだ、同じ男子寮なんだから(多分)部屋に行けばいいんじゃないのか?!
 早く、行かないと…!!
「…直枝」
「はっ…!!え、あ…朱鷺戸さん?!」
「そうだよ…」
 なぜかほほに線をつけ、微妙な顔で立っている朱鷺戸さん。
「…惨めだろ…」
「え?」
 ぼそっと、朱鷺戸さんが喋り始める。
「人に忠告しておいて、このざま、滑稽だろ!!そうだよ、どうせ寝てたよ。スパイのくせに、自分の部屋でほほに線つけながら寝てたよ!!笑えば良いだろ?!いいよ、笑えよ。はっはっはっはっ!!って、むしろすがすがしいくらいに笑えば良いだろ?!」
「……」
「はーっはっはっはっは!!!」
「……」
「何でなんもしゃべんねーんだよ…」
「寝てたんだ…」
「…ってもしかして、寝てたこと気付いてなかった…?!」
 朱鷺戸さんが、ものすごく落ち込んでいる。
「…ごめん…」
「なにが?」
「寝てた…。遅くなって、ごめん」
「いいよ。別に」
 朱鷺戸さんが来てくれたのなら、僕はかまわない。
「何時にって約束してたわけじゃないし」
「…お前、じわじわ来るな…」
 落ち込みながらも、校舎へと進む朱鷺戸さん。
「…ありがとな」
 そう言って、僕の頭を撫でる。
「…っ?!」
「どうした?」
「いっ、いやいやいやっ。何でもありませんからっ」
「変なやつ」
 どうしよう。
 本気で、僕はおかしくなってしまったのかもしれない。
 男の人に、ドキドキするなんて。
「直枝って面白いよなー」
 …いや、朱鷺戸さんだからなのだ。
 初めて生まれた感情に、僕はどうすればいいのか分からなかった。
「……」
 恋?
 …本当に、そうなのかな。


「お前、そろそろ俺のこと名前で呼んでもいいんじゃねぇか?」
「え?」
「苗字って…よそよそしいだろ?だから、そろそろ良いんじゃないかな…って」
 そういえば、確かにずっと苗字で呼んでた。
 名前で?
「……」
 …無理だ。
 恥ずかしすぎる…!!
「さん付けもなんか寂しいし。いいだろ?」
「……」
「おい、理樹?」
「…っ??!!!」
 いま、名前で呼んだ?!
 どどどどどどどうしようっ?!
 今、ものすごくドキドキしてる。
 名前で呼ばれただけだろ?
 恭介にだって、真人だって謙吾だってみんな呼んでるのに!!
 どうして…?
「理樹。ほら」
「…う、うん…」
「なんだ、恥ずかしいのか?」
「そ、そそそそんなわけありませんからっ!!よ、呼ぶよっ!!呼べばいいんだろっ!?」
「なんで逆切れされてるんだかわけわかんねーんだけど…」
 落ち着け、落ち着け直枝理樹。
 たかが名前で呼ぶだけじゃないか。
「…さ…」
 これではまるで鈴みたいだ。
「……さ…っ」
 人見知りの、鈴のよう。
「…さっ…さささささ…っ!」
 でも、理由はぜんぜん違う。
「沙耶っ!!」
「よく出来ました」
 沙耶が頭を撫でる。
 心臓が、飛び出しそうだ。
 どうしよう。
 僕は、どうしたらいいんだろう。
「じゃあ、行くぞ。理樹」
 返事なんて、出来なくて。
 それは目の前にいる、沙耶に対してのドキドキのせいだ。
 こんなに近くにいたら、心臓の音が伝わってしまう。
 どうしよう。
 僕はこの人に。
 恋を、してしまったんだ。


「…沙耶…?」
「大丈夫か?病気…なんだろ?」
 僕の部屋。
 沙耶が、僕の手を握ってくれている。
「…大丈夫だよ。いつものことだから」
 沙耶の手は、つるつるで。
 銃を握っているなんて、思えないくらい。
 どうして、沙耶がそんなことをしなくてはいけないんだろう。
「……」
 ただ、好きなんだ。
「…ありがとね」
「何言ってんだ。パートナーだろ?」
 パートナー。
 二人の、関係。
 僕はこの関係にいられるだけでも幸せなのに。
 これ以上、望んじゃいけないのに。
 …本当は、めぐり合うこともなかったのに。
「理樹?大丈夫か?…今日は休んでたほうが良いか?」
「大丈夫。心配ないよ」
「そう…か」
 コンコン。
 部屋にノックの音が響く。
「理樹ー、今大丈夫かー?」
 真人だ。
 沙耶がいても別に問題はないだろうと思い、鍵を開けようと僕がベッドから立ち上がろうとすると、沙耶が開けてくれる。
「…誰だ?」
「…朱鷺戸沙耶。はじめまして。理樹から話はよく聞いてる」
「…そうか」
 なんか、微妙な雰囲気。
「理樹、大丈夫か?また倒れちまったか」
「うん。心配かけてごめんね」
「いいってことよ。俺の筋肉さんも、役に立ててうれしいしな」
「ありがとう、真人」
「……」
 沙耶が、しかめっ面をして黙り込む。
 …どうしたんだろう。
「あ、そうだ、理樹。……あの…明日、放課後あいてるか?」
「どうしたの?」
 なにか、改まって話すことがあるのだろうか。
「いや、少しな。ちょっとだけなんだが、時間、あるか?」
「別に大丈夫…」
「……っ」
「…え?」
「…なんでもない」
 沙耶が、何か言ったと思ったんだけど…聞き間違え、かな。
「…じゃあ、明日の放課後ね。練習の後で良いかな」
「おう。大丈夫だ」
 その日、沙耶は、僕と話そうとしなかった。


 放課後の校舎裏のベンチ。
 いつもどおりそこには誰もいなかった。
 僕はそこに腰掛け、真人はとなりで立っている。
「真人も座れば?」
「いや、俺はいい」
 真人は、一向に話し出そうとしない。
 長い、沈黙。
「…理樹。落ち着いて、聞いてくれ」
「…う、うん…」
 やっと、真人が話し始める。
「…俺は…理樹のことが…」
「……」
「好き、なんだ」
 …好き?
 いま、好き、っていったのか…?
 真人が?
 僕に?
「……」
「ずっとずっと好きだった。俺と一緒に、軽蔑しないで筋肉で遊んでくれて、俺はとってもうれしかったんだ」
「…え……?」
「だから理樹…俺は…」
 真人が僕に向き合った。
 そして―――

 パンッ!!

 冷たい銃の音が響き渡る。
 通り抜けたのは、僕の真人の間。
「…お前…」
 真人が呆然と音のしたほうを見る。
 そこには。
「理樹に……」
 金色の髪、きれいな色の目をした。
「理樹に、触るなっ!!」
 僕の大好きな人が、立っていた。


「…沙耶…」
「……」
 校舎裏。
 今は、僕と沙耶の二人だけ。
 真人は、沙耶が追い払った。
「…さっきのは…なんでもねーから…」
 うつむいて、真っ赤な顔で言う、沙耶。
「…本当に、なんでもねーからな」
 まったく説得力なんてなくて。
 愛しい。
 この人が、大好きだ。
「っ!?」
「…沙耶…」
 後ろから、抱きしめる。
「お前…何して…」
「…好きだよ」
「なっ…」
「僕は、沙耶のことが好きだ」
 大切なものを抱きしめるように。
 そして、決して手を離さないように、ぎゅっと。
「何馬鹿なこといってんだっ、第一、俺とお前は男同士…」
「好きだ」
「何言って…」
「好き、だ」
 何度も、確かめるようにその言葉を繰り返す。
 大好き。
 ただ、それだけなんだ。
「…好き。だよ」
「……っ」
 そっと、沙耶に口付けた。


「……」
 沙耶が、何も話さなくなった。
 僕が何か話そうとすると、威嚇。
「……さ」
「うんが―――っ!!」
 どうしろって言うんだ…。
 っていうか、僕、沙耶にキス…したんだよね?!
 うわぁぁぁぁぁぁ…っ!!なんかいまさら恥ずかしくなってきたっ!!
「……」
「……」
 結局、黙るしかないのか…。
「…敵だ…」
「えっ?!前倒したんじゃ」
「いるんだよ。前倒した部屋にも」
「…そんな…」
「…いける、な?」
「…うん」
 沙耶となら、きっと。
「じゃあ、いつもの作戦だ。…ゲーム、スタートっ!!」
 階下へと降りてゆく沙耶の後姿は、とても儚く見えた。


「沙耶…大丈夫…?」
「だいじょうぶじゃねーよっ!!てめーのせいだ、てめーがへんなこと言うからいけねーんだっ!!」
「いや、そんなこといわれても…」
「もういいから話しかけんなっ!!」
 沙耶がそっぽを向いてしまう。
「……」
 今日は何かおかしかった。
 さっきの部屋から、ずっと、敵がいる。
 前倒したところにも、全部。
 その上敵まで強くなっていて…。
 何が起こっているんだろう。
「…沙耶…」
 不吉な、予感。
 それは、これから手に入れるはずだった物が、なくなってしまうかのような。
「…今度、一緒にデートしよう。これが、この戦いが、終わったら」
 …いや、なくなるわけが、ない。
 ないって、信じてる。
 ずっと好きだったんだ。
 やっと伝えたんだ。
「絶対に、行こう」
 壊させない。
 絶対に、誰にだって。
 壊させや、しないんだ。




『ゲーム、スタート』
 何度も聞いた言葉。
 ずっと続いてゆく世界。
 これは、あいつのゲーム。
 繰り返してゆく、ゲーム。
「この学校の生徒だな?」
 大好きだった。
 理樹のことが。
 俺の、初恋だった。
 強くて、恥ずかしがり屋で、かわいくて、かっこよくて…。
 最初はおかしいと思った。
 男同士なのに、おかしいと思っていた。
 でも、違ったんだ。
 そんなのは違うって思えるくらい、好きだったんだ。
 こいつのことが。
「……」
 生徒手帳を放り投げる。
 理樹に出会うため。
 こんな狂ったゲームの中で、ずっと会い続けている。
 こいつの存在が、俺の支えになっているんだ。
 いつの間にか、こんなにも大きくなっていたんだ。
「…なあ」
 どこかで会ったこと、ある?
 そんなことを聞かれたら、俺はどうするんだろうな。
 好きなんだ。
 ずっとずっと好きだから。
 一緒にいるだけで、満足だから。


 …地下、八階。
 最下層。時風のいる場所。
 俺はなんとしてでも勝って、そして、理樹との世界を守らなくてはいけない。
 理樹と、一緒にいたいんだ。
 理樹との約束を、守るんだ。絶対に。
 一緒に、デートに。
「時風…」
 この世界の神が現れた。
「理樹、下がってろ」
「え、でも…」
「いいからっ!!俺が倒すんだっ!!」
 銃を二丁、構える。
「うおおおぉぉぉりゃあぁぁぁぁっ!!!!!」
 絶対に、こいつを倒してみせる。
 倒すんだ。何があっても。


「……負け…た…」
 負けた。
 俺は、負けたんだ。こいつに。
『…どうしてそんなに一生懸命になる』
「……」
 どうして?
「そんなの、決まってるだろ…」
 ずっとずっと、知らなかったもの。
「友情も、恋も、青春もっ!!何も知らなかったんだっ!!なのに、俺は死んだ。死んだんだよっ!!」
 思いが、あふれ出てくる。
「ずっと、そんな場所が欲しかった。それが、ここに全部あったんだ!!一生懸命?当たり前だろ!!」
 涙と、一緒に。
『……』
「…一度だけ…」
 心からの言葉。
「もう一度だけ、チャンスをくれ」
『そんなに、俺を倒してこの世界を手に入れたいのか?』
「ちげーよ。…あいつとの約束を、果たすんだ」
『…理樹とのか』
「ああ」
 あの日、理樹が言ってくれたこと。
 デートしようって。
 こんな戦いが終わったら、一緒に、二人で行こうって。
 だから俺は―――
「…お願い、だ」
『…わかった』
 よかった。
『もう一度だけ、チャンスをやろう』
 約束、果たせるんだ。
『それが最後だ。…理樹との約束、果たしてやれ』
 また、一緒にいられるんだ。
 …あいつと。




 会ったことが、ある気がするんだ。
 僕はこの人のことが好きだった。
 そんな気がして。
「…理樹…」
 この人のことが。
「…沙耶」
 なぜか。なんでだか、すごく。
「なんだよ」
「…昔、どこかで会ったこと、ある?」
「…っ!?」
 沙耶が目を見開く。
 やっぱり、そうだったんだ。
 僕とこの人は、好きあっていたんだ。
「…理樹…」
「うん。なに?」
「キス、したい」
「…うん」
 大好きなんだ。
 この人のことが。


「…あああああぁぁぁぁぁっ!!!!」
「ど、どうしたの?沙耶っ?!」
「な、なんで俺たちあんなところであんなことしちまったんだっ!!」
「いや、街中でそんなこと叫ばれても…」
「ちっくしょーっ!!なんなんだ、てめーのせいで腰がいてーじゃねーかこんちくしょーっ!!」
 沙耶と、デート。
 二人で外にいるだけなのに、なんだか幸せな気分。
「…どこ行く?」
「沙耶が行きたいところ」
「…っ!!てめーが行きたいとこ行けっ!!お前は気を使いすぎなんだ、たまには俺に甘えろっ!!」
「そんなこといわれても…」
 第一、男同士でデートって、どこに行けばいいんだろう。
 デートらしいところに行くのもあれだし、かといって普通に遊ぶようなところに行くのもどうかと思うし…。
「よし…ゲームセンターだ」
「…え?」
 突然沙耶が口を開いた
「ゲームセンターに行こう。そうしよう」
「どうしたのいきなり…」
「…さっさと行くぞ!!」
 沙耶に手を引っ張られる。
 …すごく、幸せだ。
「沙耶、行ったことあるの?」
「ないっ!!」
 自信満々に答えられた…。
「じゃあどうして…」
「……お前と、行ってみたかったから」
「…え…」
「だから、デートするなら少し行ってみたいかなーって思っただけだよ!!特別とかそんなのねーし!!いや、お前のことは好きだがっ!!」
「……」
「って、何で俺は大声で告白してんだぁぁっ!!」
 かわいい。
 全部。沙耶の何もかも全部。
「…好きだよ、僕も」
「うるせぇっ!!」
「大好きだよ」
「だから言うなよっ!」
 ずっと一緒にいたいんだ。
「……」
 二人、手をつないで。


「すごい取れたぞっ!!何だ、理樹。これ欲しいのか?よし、譲ってやろう。俺からのプレゼントだっ!!」
「……」
 ものすごいハイテンションだった。
 沙耶は自分のスパイの能力を駆使し、あるもの全ての景品を取ってきた。
 それはもう、抱えるほど。
「お前もやればよかったのになーっ」
「…うん」
「…って…」
 沙耶の動きが、急に止まった。
「お前、何もやらなかった?」
「…?…うん」
「俺だけ、一人で楽しんでた?」
「いや、沙耶見てて僕は十分楽しかったけど…」
 どうしたんだろう。そう思った瞬間に、沙耶が大声で喋りはじめた。
「俺は馬鹿だ!!なにやってんだ、理樹と一緒に楽しむためにゲームセンターに行ったのに、本当になにやってんだ?!なんで俺一人で景品取り巻くって、いよっしゃー!とか言ってたんだよっ!!いいよ、笑えよ。理樹、笑っちまえよ!!笑えったら、おい!!」
「……」
「はーっはっはっはっ!!!」
 本当に、かわいい。
「…お前、ノリ悪いぞ…」
「だって、本当に楽しかったし」
「…本当か?」
「こんなことにうそついてどうするのさ」
 大好きだ。
 この人の、ことが。


 地下探索。
 今日はものすごい兵器がある。
「よし。じゃあ、ついたらすぐにこいつで襲撃するからな」
「うん…」
「がんばれって!お前はすげー訓練頑張ったから大丈夫だ。絶対成功する」
「そうかな…」
 そういって、地下へともぐってゆく。
 半ば反則技のような気もしたが、まあいいんだろう。
「そろそろ休憩するか?」
「そうだね」
 地下七階。
 沙耶の話によれば、次の階で最後の階らしい。
「…弁当、作ってきた」
「…え…?」
「ま、まずかったら食わなくていいからっ!だからあの…その…」
 沙耶が、お弁当を差し出して。
「食べて、くれ」
 僕がそれを、受け取った。
「ただ詰め合わせただけだからなっ!!別にそんなお前のために力を入れて作ったとか、そんなのはねーからっ!!」
「…うん」
 卵焼きを、食べてみる。
「…おいしい…」
「あったりまえだろ!!俺が必死に本読んで研究して一時間かけて作ったんだからなっ!!」
「そうなんだ…」
「って、ちげーよ!!んなわけねーだろ!!」
 必死に弁解する沙耶がかわいくて、僕はずっとお弁当をほめ続けた。
 実際にものすごくおいしくて、僕のためにすごく頑張ってくれたんだな。暖かかった。
 僕は、幸せものだな。


 地下八階。
 最後の階。
 沙耶は、僕に作戦を伝える。
「分かったな?」
「う、うん…」
 エレベーターを壊すと、誰かが現れた。
「…闇の執行部部長…。時風瞬…」
 憎憎しげに、沙耶が名前を吐き捨てる。
『……朱鷺戸、沙耶』
 作戦とは、僕を中心にして沙耶が時風の点対称の場所に動く、というものだった。
 つまりはこの勝負の行方は僕に預けられたということ。
「…理樹っ」
「……っ…」
 怖かった。
 人を殺してしまうことが。
 怖かった。
 …でも…。
「っ!!」

 パンッ!

 やらなくちゃいけないんだ。
 僕が。
 この、僕が。


 エレベーターが、下降してゆく。
 ゆっくりと。
 この地下の最後へと。
「……」
 何も喋れなかった。
 …光に照らされた沙耶が。
 ものすごく、きれいだった。
 それだけ。


「…この中…だな」
 すごく長かった。
 やっとついた地下は、何かの研究室のような場所、それしかなかった。
「じゃあ、俺が行くから。…理樹は待ってろ」
「僕も行くよ!!」
「お前は、外を探しててくれ」
 そう言われると、何も言えない。
「……」
 沙耶が、部屋の中に入る。
 探している。
 何か分からない、何かを。
『……っ』
 沙耶が驚いた顔をしている。
 見つかった…?
「……」
 そこにいたのは。
 生物兵器。
「…沙耶?!…逃げてっ!!早く逃げてよっ!!」
 硝子をたたく。
 でも、割れない。
『理樹』
 硝子ごしの僕に、話しかける沙耶。
 その顔は儚くて、本当に消えてしまいそうで。
「…沙耶。いやだ。僕は…」
『俺は大丈夫だ。…お前に、いろんなものをもらったから』
 笑顔で、自分の頭に銃を向ける。
 ドアは…開かない。
「沙耶っ!!やめてよ、僕は、僕はどうすればいいんだよっ!!」
 硝子をたたく。
 その度に、沙耶の瞳が揺れる。
『理樹…』
「沙耶っ!!僕を、おいていかないでよっ!!」
『…り…き…っ!!』
 涙が、溢れ出す。
『本当は、ずっといたかったよっ!!俺だって、ずっとお前といたかった!!でも…だめなんだ。俺はここで、いなくならなきゃいけないんだよっ!!』
「どうしてっ!!」
『…それは…』
 目の前の景色がゆれる。
 ああ、どうしてこんなときに。
『……』
 沙耶の唇が動く。
『大好きだよ』
 そう見えた。
 …僕も。
「…だい…す、き…」
 大好きだよ。


「…恭介…」
 僕の部屋。
 となりには、恭介。
「大丈夫か?」
「僕、どうしたの?」
 今までのこと、全部夢だったのだろうか。
「倒れてた」
「…そっか…」
 でも、部屋にあった。
 あの、大きなぬいぐるみ。
 あれは、沙耶との思い出だ。
「恭介、あのね…僕、戦ってたんだ」
 だから、話した。
「ずっと、僕は一緒に戦ってた、僕のパートナーが大好きだったんだ。…さっきまで一緒にいたんだ。…でも、もういないんだ」
 話すと同時に、涙があふれ出てきた。
「ねえ、…夢、だったのかな…っ、…恭介…っ」
「…それは分からない…。けどな」
 恭介が、ゆっくりと話す。
「闇の執行部が、スパイに出し抜かれたという話を聞いた」
 それは。
「理由はタイムマシンで逃げられたから、だそうだ。なんとも間抜けだが、本当だったらすごいよな」
 理由もない、確信。
「まあ、本当かも分からんが」
 それは、沙耶だ。
 絶対に。
 そんなこと、ないのかもしれないけれど。
 それは、間違いなく僕の中にあるもので。
「…きっと、本当だよ」
 僕の好きな人は、存在していたんだ。
 …それだけ。
 そんな、確信。




「……」
 長い夢を見ていた。
 あれ…俺、生きてる?
「あや」
 お父さん?
「よく眠ってたね」
「…夢を、見てたんだ」
 やさしい、夢。
「俺はスパイだったんだ。強かった。すげー強かった」
「やんちゃなあやっぽい夢だな」
 思い出す。
「それで、パートナーと恋に落ちるんだ。…好きだったんだ。でも、俺…素直に言えなくて。あいつに…迷惑かけちまって…」
 好きだったやつのこと。
 そこにあった、青春のこと。
「あやは素直じゃないからな」
「そ、そんなことねーよっ!…だって、いえるわけねーだろ、初恋なのに」
 トントン、とドアの音。
「あ、あの子じゃないか?」
「…りき?」
 …そうだ。
 こいつと、同じ名前だった。
「さや。遊ぼう?」
 あの、楽しかった青春の夢は、こいつと一緒にいたんだ。
 …好きだったんだ。
 
 ―――また、いっしょにあそぼうな。りき。




「あれ、朱鷺戸さんって男じゃなかったの…?!」
「何言ってるのよ。あたしは元から女よ?」


[No.558] 2008/09/12(Fri) 18:44:41
ただひたすらに、ずっと。 7772 byte (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@BL注意


 独りよがりなこの気持ちは、いつしか消えるものだと思っていた。
 
 
   ただひたすらに、ずっと。
 
 
 それは昔から続いていることで。
 ずっとずっと、いつまでも。
「……」
 終わらせなければならないと分かっていて。
 それでも、続いてゆく。
 思うのはただ一人のこと。
 そして、後悔。
 
 
 
 僕には好きな人がいた。
 昔から、ずっと。
 それは僕の片思いで。
 相手はまったく気付いていない。
 隠している。
 つらい、つらいんだ。
 誰にもいえないから。
 それでも、好きで。
 嫌われたくないから、いえなくて。
「はぁ…」
 つらい。
 いいたい。いい出せない。
 ずっとずっと続くなら、いっそ無くなってしまえばいい。
 こんな、思いなんて。
 
 
 
「理樹ー」
「恭介?」
 廊下。後ろから恭介の声。
「どうしたの?」
「ん?いや、見かけたから」
 …ドキドキ。
 心臓の音。
 うるさい、黙れ。
「そっか。じゃあ、部室まで一緒に行く?」
「ああ。そうするか」
 これから野球の練習なのだ。
 余計な事を考えている暇なんてない。
 だから、落ち着かないと。
「今日も頑張らないとね」
「そうだな。俺も理樹の打った球、キャッチしてやるぜ」
「うん。頼んだよ」
 ずっとずっと、いつまでたっても僕の片思いで。
 あほらしいと思う。
 …子供の頃から好きだった。
 そのキラキラと輝く笑顔に、僕は、ずっとあこがれてきたんだ。
「また、町にでも遊びに行くか」
「そうだね。試合も終わったし」
 そのときは、二人で?
 なんて、デートみたいだなとか。
 馬鹿なことを考える。
 もしも、僕が気持ちを伝えたら。
 恭介は、どうするのだろう。
 もし振られたとしても、今までと同じように接してくれるのだろうか。
 不安。
 そんなこと、いえるわけがないけれど。
「…あ、そうだ。俺買いたいものあったんだ」
「じゃあ、今度の週末にでも行こうか」
「ああ。そうだな」
 約束。
 小さな頃のように、約束をしよう。
 あの日から、ずっと追ってきた背中に。
 
 
 
「ああ、もう…」
 何でこう僕は根性なしなのかなぁ…。
 今の状態が、僕はいやなんだ。
 つらいから。
 変えたいんだ。
 …でも…。
「…どうしようもないしさ」
 告白なんて出来るわけがない。
 それに、あきらめることなんて、もっと出来ない。
 そんなこと、できるわけがない。
「…はぁ」
 ため息ばかりが口から出てきて。
 小さな頃から。
 それはずっとずっと続いてきた日常で。
 これで何年目になるだろう。
 出会ってから、ずっとだ。
 気の遠くなるような長い時間。
 一瞬で過ぎていった。
 まだ、先は長い。
「……」
 全て、僕の気持ちなのに。
 振り回されるのは、僕。
 
 
 
 今日は恭介と町に出かける日。
 服装は制服だけど、きちんと整えてきた。
 今は待ち合わせ時間一時間前。
 …同じ学校なのに、なにやってるんだろう…。
「……」
 心臓の音がうるさい。
 ただ、恭介を待っているだけなのに。
 いつもこうだ。
 昔から、ずっと、こうだった。
「……」
 顔はおかしくないかな。
 きちんと、笑っていられてるかな。
 自然な。友達としての顔に、なってるかな。
 怖い。
 この、自分の中にある気持ちが。
「…よし」
 今からこんなんじゃ仕方がない。
 とりあえず気持ちを落ち着かせようと、僕はひとつ、深呼吸をした。
 
 
 
 最初は、憧れだったんだ。
 僕を、暗闇から助け出してくれた、あの人の手。
 うれしかったんだ。
 こんな人が、いてくれるんだ、って。
 ずっと、ずっとこの人のそばにいられればいいな、って。
 …僕は、思っていた。
『じゃあ、いくかっ』
 恭介に、手を引かれて歩いた。
 一緒に歩いたその道は、どこでだって明るくて。
 キラキラと、輝いていて。
 大好きなんだ。
 そう思ったんだ。
 僕は、この人のことが、大好きだ。
 ずっと、ずっと。
 
 
 
「待ったか?」
「ううん、今来たとこ」
 なんて、まったくのうそなんだが。
 恭介が校門にやってきたのは待ち合わせ10分前。
 二人、駅に向かって歩く。
「なんかデートみたいだよな」
「…は?」
「いや、ふと思っただけなんだが。どうかしたか?」
「い、いやいやっ。なんでもないよ」
 動揺がばれてしまう。
 いや、急になんでそんなことを言うかなぁ…。
 何の意識もしていないんだろう。恭介は。
「よし、今日は本屋に行くぞ!!」
「何か出てるの?」
「スクレボの最新刊だ!!今、スパイ同士の戦いが激化しててだな…」
 すごく楽しそうに語っている恭介。
 その笑顔は、昔から変わらない。
 すごく、素敵で。
「おっと、語りすぎちまったな。今度続き貸すなっ!!」
「うん。楽しみにしてるよ」
 よく、恭介から漫画を借りる。
 いつもいつも、楽しいものばかりだった。
 もしかしたら、恭介に借りたっていうだけで、何でも楽しくなってしまうのかもしれないけど。
「…門限が嫌だよなー」
「結構厳しいもんね…」
 となりに並んで歩いているだけで、幸せだと、思う。
 
 
 
 恭介って、天然だと思う。
 いつもそうだ。
 いつだっていつだってひやひやさせるようなことばっかり言うんだ。
 他人に対していやみのないやさしさというか、かっこよさというか…。
 とにかく、恭介はそうなのだ。
 僕から見たら、だけかもしれないけど。
 どうしてだろう。
 どうして、こんなにも人のことを思えるのだろう。
 
 
 
「そろそろ時間か…」
「そうだね」
「帰りたくない」
「いやまあ、帰らないとだけどさ」
 楽しい時間も過ぎ、もう、帰る時間。
 空は夕暮れに染まり、遠く続いてゆく。
 恭介の手には買い物の袋が。
 中身は、本、食料、パーティーグッズ、スポーツ用品、等々。
 何に必要があるのかよくわからないものがたくさん入っている。
 あと、モンペチ。
「このまま野宿してみたいな」
「いつも就活でしてるでしょ」
「いや、理樹と、というところが大切だ。他人と野宿なんてめったにないからな」
「…帰ろうよ」
「…そうだな」
 本当に、楽しかったらなんでもやろうとするんだよな。
 止めたくはないのだが、さすがにいきなり学校からいなくなるのも怖い。
 心配もするだろう。いや、連絡は取れるんだが。
「それにしても、いっぱい買ったね」
「しばらく外出てなかったからな。たまにはいいだろ」
「何か持とうか?」
「いや、大丈夫だ」
 大丈夫そうには見えなかったが、恭介がそういうなら仕方ない。
 元から人に預ける気はなさそうだし。
「そうだ、お前、好きなやついるのか?」
「はぁ?!」
「いや、この前話してただろ」
「いや…それは…」
 確かに話した。
 部屋で、そんな話にはなった。
「いるんだろ?隠すなよ。俺が協力してやる」
「…その…いないよ…」
 協力って言ったって、その好きな人が恭介なんだ。いえるわけがない。
 何があっても、言っちゃいけないと、思う。
「うそつくなって。内緒にしてたっていいことなんてないぜ?」
「……うん…」
 って、何でうなずいてるんだ?!
 どうしたんだ僕は。どうかしている。
「……」
 …ずっと、隠してきたんだ。
 誰にもいえなかった。いえるわけがなかった。
 いっては、いけないと思っていた。
 どうしても、何があっても。
 だけどそれももう限界で。
 ずっとずっと思っていたことで。
 僕はそれをためにためてきて。
 もう限界なんだ。
 僕は、もう。
「……恭介」
 伝えたとして、いったいなにがどう変わるというのだろう。
 いや、変わる。確実に。
 僕らの関係は変わり、そしてなくなる。
 きっと、離れてゆく。
 だから怖かったんだ。いえなかった。
 いって、受け入れてもらえると思わないから。
 思えないから。
「…僕は…」
 言ってはいけない。言ってしまいたい。
 その狭間で、僕はずっと悩んでいた。
 いいのかな。
 ここから進んでも。
 ずっと、つらかったここから、抜け出しても。
「……好きなんだ」
「誰が?」
「恭介、が」
 言って、しまった…。
 どうしよう。
 どうしようもない。
 進めない。
 前を向いて、進むことが出来ない。
 怖いから。
 恭介が、どう反応するか、怖いから。
「……」
「……」
 沈黙。
 いつまでも続く。
 それはまるで永遠で。
 早く、終われ。
「…俺は…」
 声が聞こえる。
 聞きたくない。
 ずっと、友達のままでよかった。
 言ってからの、後悔。
「…好き…」
 好き?
「だ…。多分。いや、うん。そうか。好きだ」
 好きだ?
 断定?
 言い切った?
 パードゥン?
「好き…だ」
「好き?」
「ああ」
「僕が?」
「おう」
「恭介が?僕を?」
「そうだ」
 なんだ?
 なんていっている?
 いや、そんなわけがない。
 ありえるわけがない。
 だって、これはありえてはいけないもので。
 ありえるはずが、ないもので。
「好きだよ」
 その言葉を理解したとき、僕は、どこまでも走り、また、恭介のところへと、戻った。
 
 
 
 
 
 
「……」
 長い夢から目を覚ます。
 目の前は真っ暗。
 あるのは波紋。
「さて…」
 これは、私の妄想。
 影。
「進みましょうか」
 そうして、手に持った本をたたむと、私はあの静かに続いてゆく世界へと歩き始める。
「次は、女装もいいかもしれません」
 あの、風車のように続いてゆく世界へ。
 
 
 
 
 
 
「なんかさ、最近夢見が悪いんだよね」
「気のせい、じゃありませんか?」


[No.559] 2008/09/12(Fri) 19:02:31
[削除] (No.548への返信 / 1階層) -

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[No.560] 2008/09/12(Fri) 19:16:22
はぐれ恭介純情派 (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ・7738 byte


 世界が終る。
 そうして俺達は一度眠りにつく。次に目が覚めれば、また同じ朝が――。


    *


 謙吾と真人の怒号。飛び交うヤジ。やがて食堂の隅で寝転がる俺に、近づいてくる足音。
「恭介っ起きてよ!」
 俺はうっすら目を開く。
「真人と謙吾の喧嘩止めてよっ」
 またか。まぁ…恒例行事ではあるんだがな。たまにはお前が自分で止めようとは思わないのか、理樹。
 まだ弱いままか。もう少し…強くなってくれ。強くなって見せろ。
「お前が止めろよ。俺は眠いんだ」
「そんな…無理だよ」
「無理じゃない。…やってみろ」
「そ、そんな…」
 しばしの沈黙。そして――。
「どうして…そんな事、言うの…?恭介…僕の事、嫌いになっちゃった…?」
 ――は?ちょっと待て。な、なんだこの反応…。強くなる所か女々しさ倍増してないかっ!?
 今にも泣きだしそうな声に慌てて飛び起きる。
 そこに、ピンク色のリボンがひらりとはためいていた。小毬が着るような少しだぼついたセーターに、どこぞの風紀委員並みに短いスカート。そこから象牙色のややむっちりとした太股が伸び、黒いオ―バーニーが膝を隠している。
 総合的に見て――。
「98点だな」
「何が?」
「俺的に最高得点だぞ?」
「だから何が?」
「因みに2点の減点は決勝戦を盛り上げる為で、お前には何の落ち度もないから気にするな」
「だから何の話か分からないよっ!ふざけてないで止めてよ、二人の喧嘩」
 理樹は至って真面目な顔だ。…いや、今この場で最もふざけてるのは、どう考えてもお前だろう。
 胸まで盛り上がった完璧な女装。完璧すぎて女装というより女子にしか見えない。
「しかしよく出来てるな。何入れてるんだ?それ」
「え?」
 首を傾げる理樹の胸へ何気なく手を伸ばす。
 ぷにょ。
 柔らかいな。パンかと思ったが…こりゃあ違うな。手応えの無いような柔らかさでありながらそれでいて適度な弾力とふんわり感…でかいマシュマロか何かか?
 ぷーにょぷーにょぷにょ。
「きょきょ恭介ぇぇぇ〜っ!?」
「これ、マジで何入ってんだ?ちょっと見せてみ――」
「何やっとんじゃこの大変態ーーっっ!」
「がはぶっ!?」
 後頭部へ食らった鋭い衝撃に、俺は床へと沈む。
 フッ…成長したな妹よ…。いいキックだったぜ…。
 床へ伏せながら、惜しみない賞賛を込めて親指をぐっと立てて見せる。ついでにウィンクと歯をキラリも忘れない。
「きしょいっ笑うな!ていうか理樹に謝れこの馬鹿兄貴っ!」
「わ、わ、もういいよ鈴!恭介だって悪気があったわけじゃ…きっと寝惚けてたんだよ。そうだよね?」
 理樹は何故か頬を染めて俺を見る。
 ボケてるのはお前だろう。どうしたんだ理樹。突っ込み担当のお前がそんなボケボケでどうする。いや待てよ?もしかして、理樹だってたまにはボケたいと、そういう事なのか?突っ込みだけじゃ疲れるよ、と――そんな心の叫びが、女装なんていう奇行に理樹を走らせちまったのか…。
「理樹…気付かなくて悪かった…」
 その女装も、お前なりのボケだったんだな…。
「ううん…いいよ、もう気にしてないから」
「いや、ずっと一緒にいたのにな…大丈夫だ理樹。今日からは――」
 理樹の肩をがしりと掴んで、その顔をまっすぐに覗き込む。
「俺が毎日お前に突っ込んでやるから!」
「理樹に触るなこの犯罪者ぁぁーーっ!」
「ぐぼうぁっ!」
 な、何故だわが妹っ!?
 鳩尾に入ったローキックに、一先ず俺の意識はブラックアウトした。


     *


『ふむ。実は、理樹君が女の子だったらさぞかし楽しかろう、と思って願ったら叶ってしまった』
「しまったじゃねぇよっ!」
 何で俺がこんな盛大に突っ込まなきゃならないんだっ!携帯越しに、はっはっは、と悪びれた様子もなく愉快そうに笑う来ヶ谷の声が響く。くそっ…厄介な事態招きやがって。
 あれから、理樹が女として登校している事を知った俺は、慌てて思い当たる節が無いかをメンバーにメールで伝えた訳だが。それで返ってきたのがこの電話だ。なんつー傍迷惑な事願うんだよ…。
『強い願いが叶うというからやってみたんだが…やってみるものだな』
 どんだけ強いんだよお前の想い。
「あのなぁ…」
『まぁいいではないか。たまには少年が女の子でも。可愛かろう?』
「いい訳あるかっ!」
『何を動揺している、恭介氏』
「い、いや別に…」
 何言ってるんだ動揺なんかしてるわけないだろう当たり前だ。けどな、男だったはずの親友が突然女になったら誰だって――。
『ムラっと来たか』
「来てねぇよっ」
『誤魔化すな誤魔化すな。一度や二度は理樹君の肌蹴た胸元を夜のオカズにした事もあるのだろう?』
「ないっ!」
『ほほう、一度や二度ではない、と。中々に変態だな、恭介氏』
「………」
 こんな奴相手に一応ちゃんと突っ込み入れてたのか、理樹。お前は凄い奴だぜ…。っつか何で来ヶ谷はそんな事まで知ってごほごほいや何でもないぞ?
『フフ…。まぁ今回は、女の子な理樹ちゃんを楽しむとしようじゃないか』
「理樹ちゃんってな…理樹の身にもなってやれよ」
『思う存分モミモミしておいて何を今更善人ぶっているんだ、君は。ハァハァしながら思い出して今晩のオカズにでもするがいい』
「す、するかっ!大体あれはだなっ…知らなかったからで!」
『何だ、意外に純情だな、恭介氏。てっきり、そうするさ、位にかわすと思ったんだが』
 し、しまった…。くそ…思ったより動揺してるな、俺…。というかこれは純情というより、正常な反応と言わないか?
 が、これ以上来ヶ谷と話をしていても墓穴を掘るだけのような気がして、早々に話を切り上げる。まぁ、原因が分かっただけでもよしとするか。
 携帯を切って、部屋の中――机の上に置かれた無線機に視線を投げる。
 現在理樹は、鈴と一緒に女子寮潜入ミッションの最中だ。二人に内情を悟られる訳はいかないからな、ミッションを口実にちょっと出てって貰ったんだが…。取り付けたスピーカーから、きゃぴきゃぴと可愛らしい笑い声の交る会話が聞こえてくる。
『あっちの子に声かけるか、理樹』
『うん、そうだね。な、なんかドキドキするね、これ』
『そうか?何かあたしは慣れた気がするぞ』
『えっ慣れるの早いね!?そっかぁ…うん、僕も頑張らなきゃねっ』
『その調子だ。がんばれ、理樹!』
『よーしっ…頑張るぞっ』
 理樹…なんつーかもう、何の言い訳も出来ない位にすっかり女子だな…。違和感無さ過ぎだぞ…というか鈴に励まされてどうするんだよ…。
「――で、今回はどうなるんだ?恭介」
 謙吾が冷静に聞いてくる。まぁ…女になっちまったモンは仕方ない。
「取り敢えずはこのまま進めるさ。けど問題は…」
 そう、問題は――理樹がこんなにあっさり”女”を受け入れたという事実だ。どうやらあいつには、決定的に足りないものがある。それは――。


     *


「男のプライドだ」
「は?何の話?」
 翌日。俺はきょとんと目を丸くする理樹を正面に座らせて、とくと言い聞かせていた。
 自分が男だというしっかりした自覚とプライドがあったら、こんなあっさり”女”に変わる訳がない。
「理樹。思い出せ。今お前の体には、あるべきモノが付いてない」
 アレが無いんだぞアレが。男として耐えられるか?普通。いや耐えられる訳がない。女になっても平気だなんてそんな事はないだろう、理樹。心のどこかで男としてのプライドが叫んでいるはずだ。こんなのは自分じゃない、と…!
「違和感があるだろう、理樹。女である事に――どこかが何かを叫んでないか?」
 理樹は、ふっと視線を落として考えこむ。俺も一緒に視線を落とす。スカートが太腿と太腿の間にちょっとだけ入り込んで、その奥の三角地帯で布が沈み込んでいる。太腿が少し動くたびに丈の短いスカートが頼りなくずれてこう、もう少し屈めば奥が見え――。
「恭介」
「別に俺はヤマシイ事は何も考えてないぜこれは寧ろ男として正常な」
「恭介の言う事何となく分かるよ。確かに…女として違和感、あるよ」
 何だそっちか。…いや別にほっとなんかしてないからな?
 理樹は俺の言わんとする事を察したのか、しっかりした顔で頷く。
「あのね、恭介。見てほしいんだ」
「ん?」
 俺の目の前で、理樹がスカートの裾をそっと持ち上げる。捲れ上がっていくスカート。露わになっていく太腿と絶対領域。
 っておいおい…何を…。
「僕今日…穿いてないんだけど…」
「んなっ!?り、理樹っちょっと待て!俺は男でお前もいや今はお前は女だがでもな俺達は親友で幼馴染でそういうっ――」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。だってほら」
 ピラ。

 ――――。
 ―――。
 ――。
 フタナリだった。
 しかもツルツル。
 有りだ。

「――ってんな訳あるかっっっ!!こんなんリセットに決まっとるわぁぁぁーーーーっ!」



 かくて――世界は終わった。
 そうして俺達は一度眠りにつく。次に目が覚めれば、また同じ朝が――始まる前に、俺は強く願った。理樹は普通の男だ、と。


    *



 謙吾と真人の怒号。飛び交うヤジ。やがて食堂の隅で寝転がる俺に、近づいてくる足音。
「恭介っ起きてよ!」
 俺はうっすら目を開く。
「マサ子とケイ子の喧嘩止めてよっ」
「ああ分かってるさそう来ると思ったぜリセットだコンチクショーっっ!」


 …もしかして俺、色々と人選ミスっちまったのか……?
 同じ朝は中々始まらなかった…。


[No.561] 2008/09/12(Fri) 20:07:25
トライアングラー (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@どうかお手柔らかに わかりにくいEXネタバレあり 15730 byte

 初め、自分がどこにいるのか、どうなっているのかが全くわからなかった。
 目を開けた、という自覚はあるのに、視界には何も映らない。上下左右の感覚さえ不明瞭で、僅かな光も見当たらない世界に於いて、存在しているだろう肉体はまるで意味を成していなかった。自分の身体の輪郭が掴めない。手足が動く動かないという話以前に、たぶんとしか言えないけれど、今の僕は人間の姿をしていないんじゃないかと思った。
 不思議なことに、意識だけははっきりしていた。外界から遮断されたこの状況で他にすることも頭に浮かばず、まずはどうしてこうなったかを考えてみる。
(えっと、確か昨日は……)
 いつも通り勉強を済ませて、少し真人と話して、早めに布団に入ったはず。特筆すべき点もない。強いて言うなら、沙耶からおやすみのメールが来たってことくらいだろうか。でもそれだって最近はほぼ毎日だし、そもそも僕達は付き合ってるんだから何もおかしいところはない。
 じゃあ何でだろう、と闇の中で呟いた時、ふと物音が聞こえた。僕の意識が形作る仮想の耳に、箪笥を引くような乾いた音が響く。それはすぐに止まり、今度は別の、例えるなら着替えを選んでいるようなごそごそという音に変わる。
 視覚が働かない、状況を明確に把握できない所為で、じわじわと不安な気持ちが膨らんでくる。何かが、僕のすぐ近くで何かが行われているのはわかるけど、その正体が掴めず、しかも身動きは一切取れないとなると、静かにやり過ごすしかない。息を潜めて待つこと数秒、唐突に僕は、全身が持ち上がる浮遊感を得た。
「今日はこれ、かな」
 ほんの少し上の方から届いたその声に、言葉を失う。
 聞き間違えるわけがない。今、僕を持っている人物の正体は――沙耶だ。
 なら、こうして沙耶の目の前にいる自分は、いったい何なんだろう……?
 新たに出てきた疑問について考えをめぐらせようとした瞬間、身体が横に伸ばされる。痛くはない。人間には有り得ない柔軟さを発揮した僕は、おそらくは沙耶の両手に導かれるまま空気を掻き分け、
「ん、しょっと」
 するりと、柔らかくも固くもあるものが僕の中を通っていく。端の方が滑らかな皮膚らしき部分に擦られ、くすぐったさと心地良さを覚える。再度同じ感覚が来て、途中で僅かな間どこかに引っ掛かりながらも、さらに上へと運ばれた。
 ……ここに至り、ようやく僕は現状を理解し始めた。ただ、心の隅に現実を認めたくない自分がいて、否定する材料を必死に探している。けれどもひっきりなしに伝わってくる沙耶の動作が、仕草が、教えてくれる。
 確証はない。でも、何となく、これが答えな気がした。

 そう。
 今の僕は、沙耶の、ぱんつになっている、らしい。





   トライアングラー





 信じ難いことに、僕は沙耶に穿かれている。比喩や冗談じゃなく、本当にそのままの意味だ。これが実に奇妙なもので、沙耶の肌の柔らかさとか温かさはしっかりはっきり伝わってくるのに、触れているという認識がどこから来るのかは全くわからない。推測でいいならば、僕の身体――つまりぱんつの生地全体に触覚があるんだろう。穿かれれば当然沙耶に密着するわけで、全身を優しく引き伸ばされているような、息苦しさとも気持ち良さとも判別の付かない感じがする。
 彼女が動く度に足の付け根辺りの生地が小さく擦れて、否応なく僕は沙耶の太腿やお尻の肌触りを味わうことになっていた。
 着替えが終わってから、最初に聞いたのはドアの開閉音。いくつもの足音に混じり向けられる挨拶に、控えめながらも快活な声で彼女は「おはよう」と返していく。
 段差を跨ぐ時の僅かな、けれど僕にとっては大きな歩き方の変化を頼りに沙耶の居場所を想像することで、少しでも気を紛らわせようとした。
 視界は失われているにもかかわらず、何故か聴覚と触覚は生きている。何も見えない分そのふたつが強調されて、やすりで削り落とすよりも早く僕の理性を奪ってく。あらゆる外界の刺激が劣情を煽ってくるけど、手足も何もないこの身体ではどうすることもできず、限界が近付いてくればくるほど、余計に酷い精神的な拷問を受けているようだった。
 引き戸をほんのちょっと動かす音。沙耶が教室に辿り着いたことを理解する。
 椅子に腰を下ろした瞬間、僕は思わず声を上げてしまった。ある程度室内は温まってるとはいえ、朝の大気に晒されていた椅子の表面は当然ながら沙耶の肌より冷たい。心の準備をする間もなく襲いかかった温度差とお尻のふくよかさに、心臓が跳ね上がる思いだった。幸いなのは、ぱんつに声帯がないことかもしれない。有り得ないとわかっているけど、もし僕が文字通り沙耶の尻に敷かれていると知られたら大変なことになる。
 先生が出席を取りに現れて、最初の授業が始まってからがまた辛かった。いつもなら板書を見てノートに書き写したりするところだけど、チョークが黒板を叩く音が聞こえるだけで、白い字を読む目もペンを持つ手も今の僕にはない。寝ようとしても、時折沙耶がお尻をズラしたり足を組んだりするものだからどうしようもなかった。おそらく僕にしか聞き取れない声量で唇から漏れる悩ましげな吐息も、集中を乱す一因になった。こんな調子じゃ眠れるはずがない。
 極めつけに、休み時間のトイレだ。そりゃあ沙耶だって人間だし、生理現象は抑え続けられるものじゃないのもわかる。でも、いくら不可抗力とはいえ、女の子のトイレに強制的に連れてこられて、自分以外に誰かがいるというのを当人が全く理解していない状況の中、耳を塞ぐこともできずその現場に立ち合わされるなんて――もう死にたい。実際僕に聞かれてると知ったら死にたくなるのは沙耶の方だろうけど、望まず凶悪犯罪に手を染めてしまったというか、人間として致命的な領域に足を踏み入れた気がする。……僕、そんなに悪いこと、しただろうか。

 昼を過ぎても、事態は一向に好転してくれなかった。
 友達らしき女子生徒と一緒に食堂でご飯を済ませ、午後の授業。沙耶達は体育らしく、更衣室に入ってすぐ、指がスカートと僕の身体に掛かったのがわかった。ぱさりと布の落ちる音が響く。他の人も着替えてるはずなのに、僕は沙耶が発する音ばかりが気になって仕方なかった。それでいつの間にか時間が過ぎていたのは、不幸中の幸いなのかもしれない。スカートとは違う、僕を外側から覆い隠すようなスパッツの感触。今までが開放的だったからかどうにも慣れないけれど、色々なことにずっと耐えてきた僕にとって、このくらいは我慢のうちに入らない。むしろ、大変なのはここからだった。
 賑やかな女の子達を静かにさせた、一際大きな教師の声を聞く限り、今日は体育館でバスケらしい。床で弾むバスケット用のボールの特徴的な重い音がそこかしこから響き始め、全身に伝わってくる刺激、身体の収縮から、沙耶も動き出したのを感じた。
 クラスが違うから合同で授業を受けたことはないけど、彼女は運動神経がすごくいい。きっと試合でも活躍するだろうし、コートを走り抜けるその快活な姿は、間違いなく見ていて飽きないものだと思う。こんな状況でしか沙耶の授業風景を知ることができないのは悔しくもある――というか、下半身の動きが(特に試合中は)激し過ぎて、心の中で応援する余裕がなかった。滲む汗でしっとりと濡れた肌、柔らかく跳ねる足の動作に合わせて擦れる生地。増していく人肌の熱はさらに僕を追い詰め、授業が終わった頃にはもう精神的に疲れ果てて、しばらく何も考えられずにいた。
 ようやく復活できたのは放課後になってから。部活に入ってない沙耶は、クラスメイトに別れを告げて教室を出る。廊下を歩きながら、ふっと呟かれた言葉に、何度目かわからない胸の痛みを僕は覚える。
「……理樹くん、出ないな」
 休み時間のうち数分、必ず沙耶が無言になる瞬間があって、その時微かにこちらへ届いてくる音から、彼女が携帯でメールを打っていることに気付いた。憂いを含んだ溜め息と一緒に僕の名前を呼ぶのが聞こえて、複雑な気持ちになる。
 実際僕自身がどうなっているのかは謎だけど、僕の意識がここにある以上、おそらく今、本当の身体は抜け殻になっているんだろう。眠ってるのか、あるいはもっと違う状態になっているのかはわからない。ただ、手元に携帯がなく、例え目と鼻の先に置かれていたとしても触れる手が存在しない現状、沙耶のメールに返信するのは不可能だった。

 ――不意に、恐ろしいことを考える。
 もしこのまま元に戻れなかったら、僕はいったい、どうなるんだろうか。

「……そうよね、恋人なんだから心配するのも当然よね」
 こっちの不安を余所に、沙耶は何かを心に決めたのか、急に廊下を走り出した。予想していなかった刺激に僕の思考は乱される。軽いステップと共に幾度も彼女の身体は機敏に動き、スカートの中で僕は為すがままに振り回されていた。二十秒も経たず足が止まる。引き戸に手を掛けたのか、疾走の勢いを殺した沙耶は、迷いのない足取りで教室の中程を目指して進む。
 聞き慣れた声が、お、と少しだけ意外そうに漏らした。真人だ。
 遅れて鈴と謙吾の声も耳に入る。恭介はいないみたいだった。
「ねえ、井ノ原くん、理樹くん知らない?」
「あー……朝の早いうちにアレで倒れちまったからよ、ベッドに寝かせてオレ達だけ先に登校したんだ。でも、何かみんなでメール送ってんのに全然反応なくてな」
「普段こんなに長い間起きないことはなかったんだがな……。これから様子を見に行こうと思ってたところだ」
「棗先輩は?」
「……抜けられない用事ができたらしい」
「そっか。あの、見に行くのあたしに任せてくれないかな」
「む……正直俺達も心配なんだが、まあ、無理に大勢で顔を出さなくてもいいだろう。見舞いが終わったら教えてくれ」
「うん。ありがとう」
 再び全身が揺さぶられ、教室を離れたと知る。段々ぱんつであることに慣れてきている自分が怖い。
 階段を駆け降り、渡り廊下を通って男子寮へ。女子寮と違って特に見張りもいないから、門前払いされる可能性はまずない。沙耶自身は人目を惹く容姿だけど、一応付き合ってることは隠してないし、寮内でナンパされはしない……と思う。
 僕と真人の部屋に、沙耶は真っ直ぐ向かっているらしかった。一階の中間地点辺り。徐々に速度を緩め、ぴたりとストップ。入るね、と確認する声が聞こえる。いつも通りと言うべきか、盗まれて困るものはほとんどないので、鍵は掛かっていなかった。だいぶ錆び付いてきているドアが小さく悲鳴を上げ、開いた扉と玄関の隙間に沙耶はその身を滑り込ませる。仕草のひとつひとつに焦りめいたものを感じ、今更彼女を心配させている自分が情けなくなった。
 入口から数歩、身体の伸び方、皺の寄り方で、沙耶がしゃがんだのを察知。しばらく下半身の動きはなく、上の方から伝わってくる微かな揺れに、ベッドで横になっているであろう僕に手を伸ばしてるのかもしれないと当たりをつける。
「理樹くん……」
 愛おしげな、けれど一抹の寂しさと不安が混じった声色に、一層僕の心は軋んだ。
 できるのなら、今すぐにでも目覚めたい。沙耶の前に現れて、大丈夫だよと安心させてあげたい。抱きしめたい。
 そう願っても僕がぱんつであるという事実は少しも揺るがず、風通しの良い制服のスカートに守られ、ただ無言で沙耶の下腹部とお尻を包み込むことしかできない。現状に於いて、僕はどうしようもなく無力だった。
『沙耶……っ』
 届かない。
 わかってるのに――わかってるけど、叫んだ。
 繰り返し繰り返し、喉があれば枯れて潰れてしまうほどに、彼女の名を呼び続けた。
 幾度声を張り上げただろうか。急に沙耶が立ち上がり、上半身を機敏に動かし始めた。まるで辺りを見回すような、誰かを探すような。まさかと思った瞬間、囁きに近い言葉が降りてくる。
「……今、理樹くんの声が聞こえた」
 何故、どうして届いたのかはわからない。けれどひとつだけ確かなのは、このチャンスを逃せばもう打つ手がなくなるということだ。馬鹿馬鹿しくても、有り得なくても、信じてもらうしかない。僕に残された唯一の意思伝達手段を以って、自分が沙耶のぱんつであると訴える。脳の血管が切れそうな勢いで叫んでいるにもかかわらず、こちらの声は断片的にしか伝わっていないらしかった。それでも愚直に、僕は同じ台詞を吐き出す。沙耶が穿いているぱんつが僕なんだ、と。
「ぱんつ!? ぱんつが何なの?」
『だから、……ま、……に……って……!』
「ああもうっ、携帯じゃあるまいし!」
 突然の、尋常じゃない事態に沙耶も混乱してたんだと思う。でなければこんなことをするなんて考えられない。
 僕の身体、つまりぱんつの両端に指を掛け、彼女はおもむろにそれを勢い良く脱いだ。汗の浮いた肌に引っ掛かってくるりと丸まった僕を元に戻し、持ち上げていく。そして柔らかくも複雑な形をした場所――おそらくは耳に近付け、押し当てた。
『……あの、沙耶?』
「本当に上手く行くとは思わなかったけど……理樹くん、なんだよね?」
『うん。今、僕が沙耶の目の前で寝てると思うんだけど、でも、僕はここにいるんだ』
「訳わかんない……。何で理樹くんがあたしのぱんつになってるの?」
『ごめん、起きたらもうこうだったから……』
「原因は不明、かあ。……え、ちょっと待って。起きたらって、もしかして、朝からずっと?」
 その問いには頷けるわけがない。とはいえ無言でいることはそれ自体が肯定になるもので、結果、気まずい、痛々しくすらある静寂が場を満たす。何か言おうにも、沙耶さんをそうさせている原因が僕自身な以上どうしようもなかった。一秒。二秒。三秒。表情は窺えないけれど、彼女の様子は脳裏にありありと思い浮かべられる。
 そして、一呼吸の間を置き、
「うわあああああああああああああああああああああぁん! 理樹くんに全部聞かれたあああああああぁぁぁぁっ!」
『わ、ストップ、ストップ沙耶! 声大きいよ!』
「もうこうなったら死ぬしか……!」
『早まっちゃ駄目! お願い、お願いだから落ち着いて!』
「でっ、でも、あたしトイレにだって入ったし、着替えの時とかもっ」
『聞いてない、聞いてないよ、耳塞いでたから!』
「……ぱんつなのに、どうやって?」
『………………』
「やっぱり嘘なんだあああああぁぁぁ!」
 男子寮の一階、僕と真人の部屋で響き渡る沙耶さんの泣き声。自室に女の子連れ込んでしかも泣かせたなんて、醜聞以外の何物でもない。いや、そんなことより、この状況は致命的だ。どうにかして沙耶を宥めようと思いつく限りの言葉を並べてみるも一向に静まらず、自然に落ち着くまで待つしかなかった。
 幸い誰かが騒ぎを聞きつけてやってくることもなく、ようやく一段落した沙耶が目元の雫を拭った頃には、色々と神経を削られて僕はへとへとになっていた。
「……理樹くん、ごめんね。取り乱しちゃって」
『いやまあ、仕方ないとは思うよ……。不可抗力とはいえ僕が悪いんだし』
「ううん。理樹くんだって、こうなりたかったわけじゃないんでしょ?」
『ぱんつになりたいなんて言ったらただの変態だよ』
 そりゃあ僕も男だし、興味がないと言えば嘘になる。それが沙耶のであるなら尚更。
 だけど僕が好きなのは沙耶であって、ぱんつじゃない。必要以上にプライバシーを暴く必要も、当人が見せたくないものを無理に見ようとする気持ちも持ち合わせてはいない。
 そう返すと、安心したような声色でもう一度、ごめんね、と沙耶は囁いた。
「にしても……どうしてあたしのぱんつなんかになっちゃったのか、心当たりはある?」
『さっぱり。手掛かりも全くないけど、強いて言うなら――』
「言うなら?」
『ここに来て、僕の声が届いたってことかな』
「じゃあ、理樹くんはその前にもあたしに呼びかけたりしたんだね」
『何度か試したけど駄目だったんだ。……今考えると、聞こえなくてよかったのかもしれないけど』
「どうして、……って、ああ、そっか」
 僕と沙耶だけの空間に、小さな笑みがこぼれる。
「こんな風になってもあたしを気遣ってくれるなんて、やっぱり理樹くんは優しいな」
『……別に、特別なことをしたつもりはないよ』
「あはは、照れてる照れてる」
 気恥ずかしくなって口を閉ざした僕を掴んでいる手、その親指で、沙耶は優しく生地を撫で擦り始めた。
 我慢できず声が漏れる。それに気を良くしたのか、全身に絡む指が甘い圧力を与えてくる。
 痛みとは程遠い、愛しささえ伝わってくる感覚に、胸の奥底で渦巻いていた漠然とした不安が少し薄くなった。
「あの……ね、理樹くん」
『うん』
「もし、もしこのまま理樹くんが戻れなかったら……戻れなくても、あたし、絶対見捨てたりなんかしないから」
『……うん』
「だから、だから――どんな姿でも、あたしの気持ちは変わらないよ」
 ぱんつのままじゃ、キスも、抱き合うことも、まともに触れることだってできないのに。
 ひたすらに純粋で真っ直ぐな言葉と想いには、これっぽっちの嘘も感じられない。
『沙耶』
「なに?」
『ありがとう』
 戻らなきゃ。
 本当に心から、僕はそう思った。





 闇に埋め尽くされていたはずの視界にベッドの裏側、部屋の天井が入った時、最初に僕は自分の目を疑った。
 一拍遅れて身体の重みに気付き、無意識のうちに頬へ当てられていた手を前に伸ばし、眺める。
 ゆっくり上半身を起こすと、組んだ腕を顔の下に置き、傍らですやすやと眠る沙耶を見つけた。その左手に皺の寄ったぱんつが握られているのを知り、ああ、夢じゃなかったんだ、と嘆息する。
 ぱんつでいた頃は時間の感覚が全くなかったけれど、枕元に転がっていた携帯は意外と早い時刻を示していたので、知らないうちに意識を手放してから目覚めるまで、さほど経ってはいないんだろう。
 結局、僕が沙耶のぱんつになった理由も、無事に戻れた理由も、わからずじまいだ。
 夢でない以上、何か超常の力が働いていたのは間違いない。でも、僕をぱんつにして特定の人が得をするとは到底考えられないし、仮にこちらを貶めるつもりだったなら、もっと他にやりようがあったはず。悪意を向けられたわけじゃない……と、とりあえずは信じたかった。
 あるいは――これは試練だったのかもしれない。僕と沙耶を試すもの。何のためにそんなことをするのかと訊かれると答えられないけど、そう、例えば、僕達を見守ってる誰かが変な気を利かせちゃった、とか。
「……なんてね」
 苦笑してベッドから出る。
 みんなにも迷惑と心配を掛けた。真人達には感謝しなきゃいけないかなと思う。
 でも、何よりも先に――ふにゃりと安心しきった顔で、無防備な寝顔を晒している彼女の髪に触れ、撫でる。それからそっと左の手指を解き、お腹を冷やしてしまわぬよう、静かにぱんつを穿かせることにした。



 傾きかけた橙色の陽に照らされて、沙耶のぱんつがどこか誇らしげに輝いて見えたのは、たぶん、錯覚だろう。


[No.562] 2008/09/12(Fri) 21:34:15
奇跡の果てで失ったもの (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@10365 byte EXネタバレありません

それは『私』の一部であり全部だった。フワフワと漂う世界、理にない一瞬の永遠。人を愛し、人に愛される事を学んだ私の命は現実に還ったけれども、想いだけはここに取り残された。つまりそれは、私にとってこの想いは命より大事だという事だったのだろう。
 ただ一つの想いのみで形作られた小さな小さな世界。季節は初夏、あるのは放送室とそこから見える景色だけ。

 〜〜〜♪

 暇つぶしに奏でられるピアノの音。ここにあるのはそう多くない、夏の日差しにセミとピアノの合唱。それと――
 携帯が震える。『私』はピアノから手を離し、手慣れた動作でその届いたメールを見る。
 ――それと定期的に届く、たった一言だけのメール。
 いつもの通りに『きっとそこにいくから、まってて』の一言だけが誰が書いても同じように、画一的に綴られている。そして『私』は変わらず心当たりの無い差出人の名前を見てため息を吐き、画一的な文字の向こう側に夢を見て次のメールを待つ。筈だった。
「え?」
 私の口から意せず言葉が漏れた。だって有り得ない、差出人に心当たりがあるなんて。
「あ、あああ…………」
 直枝、理樹。
 その4つの漢字に『私』は頬が緩むのが止まらない。ああそうだ、この小さな世界は一人の少年の為のもの。強く強く強く、その少年への想いが無くなって欲しくないと願ったから生まれた世界。

 コンコン

 ならないはずの扉が叩かれる。そして開かれる外への世界。
「迎えに来たよ、来ヶ谷さん」
 忘れていた『私』の名前。いや、忘れていた訳ではない。単にこの世界では自分の名前なんて意味を持たなかっただけだ。
「大遅刻だぞ、理樹君。早すぎるのも問題だが遅すぎても女性は疲れてしまうものだ」
「ははは……」
 そんな『私』の言葉に微妙な笑みで答える理樹君。対して『私』は満面の笑みで小さな部屋を歩く。
「まあいい。結局私も一緒に行く訳だからな」
「…………」
「ああ、普通のセリフのはずなのに来ヶ谷さんが言うと何でこんなにエロいんだろう」
「って、えええ!?」
 曖昧な笑みを浮かべる理樹君の言葉を代弁してあげたら大層な驚きようだった。
「何で分かったのっ!?」
「瞬間移動に比べれば心を読むなぞ容易い事」
「えええー!」
 まあ、実際は顔を見てだいたい分かったのだけれども。
「うー、まあいいや。とりあえず行こうよ。みんなが待ってる」
 理樹君が言うみんなには、きっと私も含まれているのだろう。それが分かったから『私』は静かに頷いた。そして互いの手を取り合い、放送室の扉を潜り抜ける。
「…………」
 ふと、気になって後ろを見る。扉の向こう側にはもう何も無い。ただひたすらに空白の白が目に映る。そんな中、ピアノの音が白の奥まった部分から聞こえてくる。
 役割を終えた世界は消える。私の想いを守るために作られた、この世界は今静かに消えていく。
「世話になった」
 ポツリと呟いたその言葉、それに応えるようにピアノは最後にポロンと音を奏でた。



 そして時は流れる。嬉しかった時もあった、悲しかった時もあった、悔んだ時もあった、辛かった時もあった、悩んだ時もあった。いくつもの感情と季節が通り過ぎて、今は秋。

 私は一人教室に居る、誰もいない放課後の教室。この胸にある想いを伝える為に、約束を守る為だけに。
「…………」
 バクバクと伸縮を繰り返す心臓の音が痛い。告白する事がここまで緊張するなんて知らなかった。しかしこれも恋をしなければ知らなかった事だという事を考えると、そう悪い気分にならない事が不思議ではある。
「……はぁ」
 口から無意識に溜息がもれた。時計を見れば約束の時間までは後20分と少し。だが律儀な理樹君の事を考えると約束の時間より早くここに来るだろう事は容易に想像が出来る。実際には10分かそこらといった所だろう。
 その10分を有効に活用するために頭の中でシュミレートをする。初めにかける言葉は何がいいのか、どんな言葉で繋いで告白すればいいのか。
 グルグルと回る頭の中、黙っていればいいと心のどこかで囁く声が聞こえた。約束なんか守らなくていいと、黙っていればこれからも友達としてやっていけるじゃないかと。
「……黙れ」
 そんな思考をかき消すために響かせた言葉は想像できない位に無機質で暗い音色だった。かつての夢の中、あの猿山の雌猿共に叩きつけてやった時よりも尚重い声。つまり、あの約束を守らなくていいなんて思考は人生で最大級に腹立たしい事なのだろう。無意識を意識するというのは大変タメになる。
「うむ、また一つ勉強になった」
「何が?」
「…………」
 返ってきた言葉に固まる。いや、もちろん私が。現実逃避していた事は認めるが、まさかここまで近寄られるまで気がつけないとは。
「ななななな、なぜ少年がここにっ?」
「なぜって、呼び出したのは来ヶ谷さんでしょ?」
「そうだが……時間はっ!?」
 現実逃避していたとは言えそう長い時間意識が飛んでいたはずも無い。慌てて時間を確認しても、やはり約束の時間まで15分以上も余裕がある。
 勢いよく理樹君の方を向く。理樹君は若干引きつった顔でその問いに答えてくれた。
「ええっと、呼び出した時の来ヶ谷さんがすごく深刻そうだったからさ、大切な話だった遅刻したらまずいと思って早めに出てきたんだ」
「……………………そうか」
 理樹君の言葉に全力で脱力しながら、かろうじてそうとだけ口から言葉が出てくれた。
「何か僕、悪い事しちゃった?」
「いや、構わない。確かに遅刻するよりかは早く来た方がいいものな」
 どう考えても早く来てくれて怒るのは筋違いだし、自分から呼び出してとなればなおさらだ。かと言って何から話せばいいのかと言った事もまとまっていなかったし、いきなりの理樹君の出現に頭も真っ白になったまま。
「あ、あぅぅ」
 これは本当に私の口から出ている言葉なのかと思えるようなナニカが聞こえる。どうすればいいのか、どうしたらいいのか。
「あ、そうだよね。大切な話だったら……話す方だって緊張するよね」
「今気が付きましたって口調で言うのはやめてくれ…………」
「ゴメン。本当に今気がついた。だって来ヶ谷さんにそんなイメージってなかったから」
 軽くヘコんだ。
「……ゴメン」
 私のヘコんだ顔を見た理樹君が謝ってくれるものの、そんな事をされればますます私の立つ瀬がなくなる。落ち込むのは私の勝手、それを今から告白しようとしている相手に気遣われるのはどこをどう見ても格好悪い。
「あのさ、それならちょっと外の空気を吸ってきたら?」
「いや。私から呼び出したのにそんな事は……」
 そう言う私に理樹君はニッコリと笑って時計を指さす。
「約束の時間まで、まだ15分もあるよ。落ちついてくれた方が僕としても嬉しいしね」
「う……」
 そう言われるとこちらとしても断れない。だとしても、ここで頷くのは色々とダメ人間な気がする。しかし落ち着く時間が欲しいのは事実だし――――
 頭の中で是と否が交互に浮かぶ。どう返事をしようか迷っていると、
「じゃ、じゃあ僕がちょっと外に出てるよ。時間になったら戻ってくるから」
 そんな言葉を残した理樹君が先に教室を出て行ってしまう。
「あ……」
 私の口からこぼれた言葉はたったそれだけ。他に何も言う事は出来ず、そそくさと出て行った理樹君の事を目で追うだけだった。
「…………はぁ」
 失望の意味が込められているのか安堵の意味が込められているのか、それすらも判断できない溜息が一つ。
「しっかりしろ、私!」

 パァン!

 思いっきり顔を叩く。過ぎ去ってしまった事を悔いても仕方がない。それは、もう過去に理解した筈の事ではなかったのか。
「せっかく理樹君が時間をくれたんだ。ここでちゃんとしないと本当にバカだぞ、リズベズ!」
 気合いを一つ。
 時間はまだ10分以上も残っている。だから絶対に失敗出来ない一言の為に心を落ち着ける。もうウダウダと考えるのは無し、性に合う訳が無い。ただ真っ向から玉砕するのみだ。



「来ヶ谷さん?」
 教室の入り口から控え目な声。
「やあ理樹君、気を使わせて悪かったな」
「いや、それは構わないけど」
 こちらを探るような声に微笑みをもって応える。
「私は大丈夫だ。それより、私の話を聞いて欲しい」
 私のその言葉に理樹君はようやく納得してくれたようだ。真面目な顔をして窓際に居る私に向かって足を進めてくる。
「それで何の話?」
「うむ。とても言いにくい話なんだが――」
 さて、なんと言うべきか。
「――好きな人が、いるんだ」
 …………と、思ったら頭を経由しない言葉が出てきた。
「って、えええええ!!」
 そして最高に失礼な反応を返してくれる理樹君。余りに腹が立ったので、無言で睨みつけてやる。
「…………」
「…………ゴメン」
 素直に謝ってくれる。
(というか、今から告白する相手に向かって私は何をしているんだ…………)
 意味不明な行動に、自分で自分がバカらしくなってしまう。やはりこれも現実逃避の一種なのかも知れない。
(じゃあ、なおさら腹をくくらなくてはな)
 現実逃避の一種ならば私は告白を怖がっている事になる。それを捻じ伏せるのは意志の力、そう信じて言葉を続ける。
「話を進めていいか?」
「うん」
 理樹君の言葉を聞いて、そして理樹君の目をしっかりと見る。
「私はな、その人に告白をしたいんだ」
 理樹君も私の目をしっかりと見て、話を聞いてくれる。
「誰もいない放課後の教室で、告白をしたいんだ」
 それが約束だったから。その言葉だけは必死で飲み込む、これだけは絶対に言ってはいけない言葉だから。
 必死になっている私をどう感じているのか分からないが、理樹君は茶化さないで話を続けてくれる。
「なるほど、じゃあ僕を練習台にして。っていう事なんだね?」
 そして見事に勘違いしてくれた。まあ、仕方のない事ではあるけれども。
「いや、違う」
「ええー。じゃあ僕は何で呼ばれたの?」
 目を丸くする理樹君に、私はクスクスとした笑みが隠しきれない。
「もう1パターンあるだろう? こういった場合には」
「え?」
 疑問符を浮かべる理樹君に、私は言葉で答えないでただじっと目を見るのみ。しばらくは理樹君も私の目をじっと見てくれる。
 絡み合う視線に、少しずつ理樹君の挙動がおかしくなっていく。薄々気がついたのだろう、私の想いに。
 頃合いだ。万感の想いが籠もったこの言葉を理樹君に届ける、その瞬間の。
「好きなんだ」
 一言、劇的な変化が理樹君の顔に表れる。
「え……それって」
「うん……。恋してる、って方の、好きだ」
 言った、言えた。ずっとずっと言いたかった言葉が、理樹君に届けられた。
「ごめん、なさい」
 だから、俯き加減のその返事に、覚悟していたその言葉に、微笑みで応えた。申し訳なさそうな、理樹君の顔を、涙で歪ませないで、見てられる。
 告白するという事は、この覚悟が出来たという事だから。
「……なんで、笑ってるの?」
 理樹君の意外そうな顔に、私は笑って答える。
「好きな人の視線というのには思った以上に敏感になるものらしい。だから理樹君が誰かに恋をしていたのは知っていた。それが私で無いのも……知っていた」
「そんなっ!」
「それでも。私は君に好きだと伝えたかった、誰もいない放課後の教室で」
 それが私の初恋の、最後に果たさなければいけない約束。始まった小さな恋は――ただ失う苦しみと悲しみを残す。
「来ヶ谷さん…………」
「ありがとう、理樹君。私の告白を聞いてくれて。
 …………勝手だが、しばらく一人にしてくれないか?」
 流石に気まずいのだろう、理樹君は辛そうな顔で教室を後にする。私はそれを笑みを張り付けたままの顔で見送った。
 響くリノリウム、遠ざかる足音。
 沈む夕日、星が煌めく。
「…………」
 ただ一人、無為に眺める。移りゆく時間をただ眺める。
「ぁ」
 やがてふと気がついた。
「そっくりだ」
 満天の星空、夜の世界。二人で花火を見上げたあの時と。けど、それでも花火があがる事は無い。隣で理樹君のぬくもりを感じる事もない。
「…………こんなに、そっくりなのに」
 涙がこぼれる。もうハリボテの笑みも崩れてしまった。
「…………構うものか、好きなんだから。諦められるものか、好きなんだから」
 そして、それでも恋は終わらない。
「忘れられるものか。捨てられるものか……!」
 そうだ。かつて、理樹君もそうだった。別に理樹君に嫌われた訳じゃない、それなら恋を終わらせるにはまだ早い。
「愛しているんだっ……!」

 奇跡の果てで失ったもの。それをもう一度取り戻す。小さな恋は、まだ終わっていない。


[No.563] 2008/09/12(Fri) 21:59:19
ブラックリトルバスターズ (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ 16138 byte

「なあ、ブラックリトルバスターズって出てこないだろうか」
 練習を終え渡されたお茶を飲みながらのんびり休んでいるときに突如出たその一言、それは恭介以外を混乱させるには十分だった。
「あの恭介もう一度言ってくれる」
「だからブラックリトルバスターズだ。いや、別にダークでもシャドーでもいいんだが、要はリトルバスターズに見た目はそっくりなんだけど中身はまるで違う偽物集団だ。ほら、アニメや特撮とかでときどきあるだろ、主人公の偽物が現れて主人公がピンチになるイベント」
「ああ、あるね」
 僕は恭介ほど漫画とかに詳しくはないけれど、それでもそういうのは少しは見たことがある。なんかまたそういうシーンが出てくる漫画でも読んだのだろうか。
「たしかにそういう話はありますけれどさすがに10人の偽物はあまりないと思いますが」
 比較的こういう話が通じる西園さんがそう反論したが恭介は楽しげな表情を崩さない。
「いや、さすがに俺だってそんなのが現れるとは思ってないさ。ただそんな偽物のせいでピンチになるイベントを逆転できたら面白そうだとは思わないかって話だ」
「なんだ、単に話のタネとして偽物が現れたらどうかというとことか」
「そういうこった」
 来ヶ谷さんの言葉に恭介がうなずいた。たしかに実際そんなのが現れたら大変だと思うけれど、こうして話をするだけだったら楽しそうだ。僕だけでなくみんな興味津々って表情をしている。ただ休むだけよりそんなおしゃべりをするほうが楽しそうだ。



「あれ、でも葉留佳さんは佳奈多さんがいるんじゃ」
 いきなり話の腰を折るようなことを言ってしまった。なんだか佳奈多さんを偽物扱いしているようで悪いけど顔は同じで中身は違うという点では条件に合っていると思う。
「なるほどお姉ちゃんはそいつらに騙されて敵になってしまうんデスね。そして悪事の限りを尽くすんだけど私が改心させるんデスね。なんか燃えてきたな」
「三枝さんと違い成績優秀、品行方正、文武両道、責任感と人望がありほかの生徒から信頼されいたずらで困らせたりしない……なるほど中身はまるで違いますね」
「ああ、いかにも悪のて……」
 そこまでいって恭介の言葉が途切れてしまう。あれ、なんだろう。この違和感は。
「あれどうしたのみんな。なんだかまるで前々からお姉ちゃんの時々見せる不器用な優しさにドッキンと来たけれど、最近になって優しさが前面に出るようになってもうお姉ちゃんにドキドキしまくりだから、お姉ちゃん相手にはるちんじゃ絶対人気勝てないゼと言いたげな雰囲気がしているんだけど」
 その嘆きにこたえることができる者はだれ一人としていない。
「目ぇそらさないでぇーっ!」
 まったく悪気がなくただ暇つぶしにこんな話を始めただけなのに、あんなに傷ついた葉留佳さんを見て恭介は申し訳なさそうな顔に変わった。



「じゃあみおちんはどうなの」
 ひとしきり泣いたのち葉留佳さんが隣の西園さんに質問、いや詰問した。西園さんはまさにブラック西園さん的な美鳥がいるか。あの時はそれこそ偽物扱いしたけれど、でも本当は誰よりも西園さんのことを考えていたことを今はもう知っているし、こっちも偽物扱いしたくないな。
「あんまりいじめてると冷たくなくて明るいみおちんに浮気して、みおちんに捨てないでって言わせてやるんだから」
「捨てないで以前にそもそもあなたの物になった覚えがありません」
「ちょっとは反応して」
「うーむ、葉留佳君はMキャラだからいいとしてもやはりくだけた子の方が一般的な人気は得られそうだな」
「くるがや、えむって何だ」
「よし後で私の部屋に来てくれたまえ、たっぷり教えてやろう」
「やっぱりいい、顔がこわい」
「みおちゃん優しいと思うけれど」
「あまりべたつかず適度な距離を保ってでの優しさだからな。べたつくぐらいの方が優しさはわかりやすい」
「思ったんですけど西園さんの反対というと本を読まず体を鍛えてばかりしているのでしょうか」
「何!? 体を鍛えている西園だと。くっすまねえ、今そっちの方がいいと思ってしまった」
「ありえません。どんなに珍妙な偽物でもそれはあり得ません」
「じゃあそっちの方は何をしているの?」
「百合あるいはノーマルカップリングでしょうか」
 明るくて優しさが前面に出て男同士でなく普通の男女の恋愛話が好き……やっぱりそっちの方が一般的なような。
「あのところでなんで誰もはるちんがMって言われたことに突っ込んでくれないの」



「さて次は神北さんですか」
 いつの間にか時計回り順になってしまったようだ。次はブラック小毬さんか。小毬さんには今までのような良く似た存在はいないわけだし、今度こそちゃんと悪の手先らしい偽物になってくれるだろうか。
「中身だけ違う小毬君か、いつものようにほえーとかへぎょーなんて言ったりせずしっとりした大人の女性といった感じか」
「ゆいちゃん私へぎょーなんて言わないよ」
「だからゆいちゃん呼ばわりはやめてくれ」
「ゆいちゃん、ゆいちゃん、ゆいちゃん」
「ぬおーっ」
「小毬、そのくらいでこのくらいでやめてくれこのままだと……」
 恭介の言葉がそこで詰まってしまった。でも言おうとしたことはもうなんとなくわかる。
「まあ、へぎょーとかは余計だったと思うが、確かに来ヶ谷が言うように大人っぽいキャラになるのだろうか」
「そうですか? 小毬さんは今でも十分大人だと思いますけれど」
「そりゃミニ子からすればみんな大人だけど」
「わふー」
「あたしもこまりちゃんは大人っぽいと思うしそれにとってもやさしい。だからきっとこまりちゃんの偽物はとっても悪いやつだ」
 あまり積極的に発言しない鈴だけど、その分一言一言はわりと大事なことを言ってたりする。たしかにそうだ。大人っぽいか子供っぽいかより優しいかどうかの方がずっと重要だと思う。
「ありがとう、りんちゃん」
 そんな鈴の言葉に感極まったのか小毬さんが鈴に飛びつく。
 ゴトリ
 けどその温かな雰囲気はその音によってかき消された。飛びついた拍子に屋上侵入用のドライバーがポケットから落ちたようだ。あれ、気のせいか前よりサイズ大きくなっていない。
「……ありがとう、りんちゃん」
 その凶悪な道具をしまってからもう一度シーンを再現したけれど、正直もう手遅れだと思う。凶器を持ち歩き立ち入り禁止の場所に入り浸っている女の子。ダメじゃん。見ると真人や鈴の顔にも戸惑いが見えている。間違いなくもうすでに全員がそれを感じているのだろう。ブラックリトルバスターズの方がまともになるんじゃないのかって。



「クド公はおっぱいぼーんでエロエロでアダルトなキャラに変るんですネ」
「おっぱいが大きくなってあだるてぃな私ですか……勝てません」
 クドはうなだれつつ自分の胸をも……いや、触っている。どうしよう。そっちのニーズも多いよなんて言えるわけないし。
「三枝さん最初の条件を忘れたのですか。中身は違っても外見は一緒ですよ」
「あっそっか。じゃあ今のまんまのクドでエロエロなキャラですか」
「世の中にはギャップ萌えというものがあるがあまりこれはうまいギャップ萌えだと思わないな。喜べクドリャフカ君、君の勝ちだ」
「なんだか複雑です」
「果たしてそうかな」
 不敵な笑顔を浮かべつつ恭介は言葉をかぶせてきた。恭介には僕らが見えてないものが見えているのだろうか。
「能美は確かにロリだ。だがロリは決して一種類だけで分類されるような単純なものじゃない。過去多くのろりが生まれいくつもの大きな分類が生まれてきた。そして能美を分類するならば子犬系ロリだ。好きな男、いや失敬女を含めたすきな相手にパタパタとすり寄っていってひたすら懐いて絶妙なタイミングで上目づかいをするそれが子犬系ロリだ。この上目遣いをしてくる際頭をなでるのに適した身長だったらなおいい。しかもそれを計算ではなく天性の間合いでやらなければならない。もしわずかでもそこに計算が入ってしまったのならそれは子犬系ロリではなくなってしまう。いや、必ずしもそれが悪いとはいえない。そういう多少の計算が入った小悪魔系ロリに魅力を感じる奴もいるのだからそれはそれでニーズがあるしな。でもやはり子犬系ロリしかもその胸のサイズだ、相当ニーズは大きいだろうな。おっと話が脱線したかった。さてでは子犬系ロリの反対となるキャラだったがそれは決して大人なキャラじゃない。子犬系ロリの反対側に来るのは子猫系ロリだ。子犬系ロリが積極的に相手にすり寄ってくるのに対し、子猫系ロリは相手から遠ざかるんだ。下手をすればその時点で相手は立ち去ってしまう。けれどそこで残った相手に対して徐々に徐々に近づいてくる。ここで相手が一気に近寄ろうとするとまた遠ざかってしまう。かといって近寄ろうとしないとするとまたすねる。ここらへんな機微が子猫系ロリの魅力だ。まあ要するに能美のブラックバージョンはそんな子猫系ロリになるのだろう。わかったかみんな」
 うん、わかったよ恭介。恭介が一生理解したくないことを長々としゃべった事は痛いぐらいよくわかったよ。クドの胸のサイズでニーズがあるって堂々言ってるし。今のわずかなセリフの中に一体何回ロリって言葉が入ってたの。
「最近はツンデレブームも手伝ってか鈴みたいな子猫系ロリの方が優勢かもしれない。だがな子犬系ロリの方も根強い人気がある。だから自信を持て能美」
 ものすごくさわやかな笑顔でそんなのことを言ってるよこの人。クドが全身鳥肌が立ってるの見えないの。
「恭介」
「おっとすまないな鈴、やきもちを焼かせてしまったか」
「死ね」
「な、おいおいそうやって怒るのはたしかに子猫系ロリの特徴だが死ねはいくらなんでも言いすぎだぞ」
「死ね、消えろ、クド怖がってるだろ、二度とあたしたちの前に姿を見せるな」
「あがっ、り、理樹、鈴が鈴があんなことを」
「……ねえ、誰。今リトルバスターズで話しして楽しんでいるんだけど。関係ない変態は今すぐ消えて」
「くっ理樹までそんなことを……罵られてちょっと興奮してしまったじゃないか。けど理樹や鈴が俺を嫌がるなんて、そんなのそんなの耐えられるわけねえだろ! うおおおっ!?」
 その雄叫びとともに恭介は泣きながら去って行った。いいんだよねこれで。少しは反省してもらった方がいいんだよね。どうでもいいけど議論するまでもなくブラック恭介はシスコンでロリコンでホモでないということはわかってしまった。ダメだ、そんなのがブラックリトルバスターズのリーダーだったらとても勝ち目がない。



「気を取り直してさっきのきょうじゃなかった変態さんが言ってたけど、鈴ちゃんは子猫系ロリなんだよね」
「変態の発言とはいえ正しい意見だと思う」
「そうなるとブラックリトルバスターズでは能美さんが鈴さんの性格で鈴さんが能美さんの性格ですか。いまいち盛り上がらない結果のような気がします」
「中身が入れ替わっただけだからね」
「えっじゃあクー公が蹴ってくんのか」
 真人幼馴染なんだし鈴に自分に蹴りかかるイメージないの……あれ、真人からすれば自分を蹴るイメージしかないかも。
「しかし今度はさっきと違いギャップ萌えに期待できそうだ」
「ええ駄目だよそんなの」
 ギャップ萌えに期待する来ヶ谷さんを小毬さんが否定する。鈴に抱きつき首筋やお腹周りをなでながら。
「こ、こまりちゃん」
「りんちゃんはこうして逃げようとしないと。抱きついても逃げようとしないりんちゃんなんてりんちゃんじゃないよ」
「にゃああーっ」
 口を動かしながらも小毬さんのその手は止まらない。服の上にあった手を服の中に入れたが、服のしわの動きでその手がどんどん胸に近付いているのが分かる。
「うにゃああーっ」
「りんちゃんは今のままの子猫さんのようなりんちゃんが一番かわいいし、クーちゃんもいつものクーちゃんが一番かわいい。変わった方がいいなんて言っちゃダメだよ」
「なるほど。たしかにギャップ萌えは普段の二人を見ているからこそのものか。反省、反省」
「ここにきてようやく勝利でしょうか」
「やっぱり今までの負けてたんですネ」
 勝利か、長かったな。でもそれを喜びつつもある僕にはある気がかりがあった。
「かわいいより〜んちゃん」
「うにゃ、うにゃ」
 ブラック小毬さんは鈴にいたずら(性的な意味で)しなくなってるんじゃないのかって。そんなことする正義の味方はないよ。



「ブラック来ヶ谷さんはちゃんとボタンを留めているのでしょうか」
「はっはっはサービス精神のない奴だな。せっかくの胸を隠すなど」
「持てるものの余裕ですか、ぷんぷん」
「ああ私もブラック姉御は胸隠してくれるんだったらそっちの味方するかも」
「男性はともかく女性は多分そちらを支持すると思いますが」
「なんだ、いやな雰囲気がするな。ひょっとして嫌味な女とか思われているのか」
 その質問に対してはみんな何も答えない。たとえそう思っていてもそれを口にするのは完全に負けだから。でも胸を見られたりするのを恥ずかしがる来ヶ谷さんか。あのサイズそのままで自信満々でなく恥ずかしがるキャラはそれはそれでおいしいかも。
「ふむ、ではよくいわれる迷信を試してみるか。どれ大きくするために少し揉んでみる。いや、揉ませろ」
「ひゃふん、あねご……」
「わふ、くるがやさん……」
「今迷信て言わなかったか」
「うん、聞こえたね」
 そんな僕と真人の声をまるっきり無視して次々と来ヶ谷さんの魔手がみんなに伸びる。この様子だとブラック来ヶ谷さんもセクハラしないんだろうな。リトルバスターズって正義の味方のはずなのに。なんでこんなことになったんだろう。



「もう残りはわずかだな」
「次は俺か」
「井ノ原さんは筋肉を鍛えずメタボ街道を走っているのでしょうか」
「うわあ、マッチョもいまいちだけどそれでもブクブク太ってるよりはいいかな」
「小毬君も気をつけないとな」
「あーゆいちゃんひどい」
 あっなんかいい雰囲気だ。さすがは真人、リトルバスターズの良心。
「へっだから言ってるだろ。筋肉を鍛えろって。筋肉は世界を救うって」
「そうだね筋肉、筋肉」
「筋肉、筋肉」
「筋肉、筋肉」
「筋肉、筋肉」
「あれそうなりますとその井ノ原さんは筋肉よりも物理を選ぶのでしょうか」
「ひいっ」
 筋肉のおかげで温かい雰囲気になりかけたけどそれはクドの言葉によって壊された。物理その一言が真人のトラウマを刺激したようだ。
「だいじょうぶか、真人」
「えっなんだ鈴。今何が起こった」
「たった一言にこんなおびえるのか」
「……物理」
「ぬごぉ!」
「葉留佳さん!?」
「数学」
「ごほぉっ!」
「西園さんも乗らない!」
「英語、現国、古文、日本史、世界史、化学」
「げほっぐふっぎゃぁぬぐおっぎひゃぎょひゅっ」
「来ヶ谷さん!」
 三人の攻撃? により真人はすっかりおびえきっている。真人のあの大きな体が今はクドよりも小さく見える。なんて弱弱しく悲しい姿なんだろう。
「ねえ、ここどこ。おにいちゃんたちだれ?」
「ちょっと真人!」
 お願い、物理とかの単語聞いただけど幼児退行起こさないで。筋肉だけでは幸せはつかめないのかな。



 あれそういえば謙吾がいないな。どこに行ったんだろう。
「ねえ、みんな謙吾は」
「先ほどトラック走り去っていくのを見て、ちょっと追い抜かして来ると言って走って行かれましたけれど」
 はは、そうだね。今の謙吾は大分おかしいよね。ああブラック謙吾は以前の謙吾みたいな感じかな。なんかもうこれ以上ブラックリトルバスターズについて考えたくないよ。



 あと残ったのは僕だけか。僕は自分で言うのもなんだけど特徴がないしブラックになっても特徴なしか。
「ブラック理樹君くんはやっぱりあれかな。今みたいに六股なんかしないで一人の女の子だけ見てくれるのかな」
「えっ!?」
「違うよ。さーちゃん達もいるから九股だよ」
「いや、杉並君もキープしているようだし十股か」
「わたしの妹も直枝さんによって散々もてあそばれましたから十一股でしょうか」
「さすがに美鳥はノーカウントにしてよ!」
「それでも十股か。最低だなこいつ」
 あれ、なんか急に僕を糾弾する会議が開かれたような気が。
「ぶらっくリキはきっと浮気なんかしないで女の子に対して誠実なんでしょうね」
「ちょっと指と指が触れただけで照れるような純情なキャラですネ」
「わたしはそういうプラトニックな恋愛の方がどちらかといえば好みですが」
「私もえ、えっちなことに興味ないということがないわけでもないような気がしますが、どちらかというと心で結ばれるような関係にあこがれがありますが」
「みおちゃんやクーちゃんだけでなくみんなそう思ってるよ」
「理樹はえろいからな」
「うむ、少年は恋愛とエッチをすることがイコールで結ばれているとしか思えないからな」
「二人きりになったが最後まるで魔法にでもかかったように直枝さんのされるがままになってしまいます」
「そんなことないよ。理樹くん二人きりのときだけじゃなく、何人か一緒にするときだってあるよ」
 反論したいんだけど何だろう反論を決して許さないような雰囲気がするんだけど。事実だからか。
「別にわたしが選ばれなくてもそれはそれでいいんですよ。今のようなハーレムの中の一人という状況を終わらせることができるのなら」
「今の状況は絶対に変デスしね」
「私を選んでほしいという気持ちはありますけど、一人をちゃんと選んでくれたのなら私はちゃんとその人を応援します」
「理樹くんみんなと付き合おうだなんて外道なこと考えてるから」
「正直なところ少年がこんな鬼畜キャラだとは夢にも思わなかったな」
「ブラック理樹くんだったらよかったのにね」
「浮気なんかしないで一人の女の子だけちゃんと見て、エッチ目的で女の子と付き合ったりしないで、真面目で純情で好きな娘と側にいるだけで幸せだと思うような理樹くんか……ハア」
 葉留佳さんのため息につられるようにしてみんな一斉にため息を吐いた。あれそんなに僕ってみんなから嫌われていたのだろうか。
「なあ理樹。お前はどうしたらブラック理樹になるのだ」
「鈴さん、ないものねだりはやめましょう」
「そうですよ、妄想の中にしかいない存在に恋い焦がれても決して現実で実るわけではないですし」
「でもほんとに理樹くんをブラック理樹くんに変えたりできないのかな」
「これは我々全員の人生に関わるような大問題だからな。一度真剣に考えてみてもいいかもしれない」
 あれ、おかしいな。練習の後の暇つぶしとして多少ブラックジョークは混じっていても楽しんでいたはずなのに、いつの間にかみんな人生の大きな局面に向き合っているような厳しい表情をして話をしている。止めようとしても言葉すらなくただ突き刺さるような視線が来るだけだ。そんなみんなの雰囲気と話している内容に耐え切れなくなり僕は逃げ出した。





 自分の部屋に逃げ込みしばらく過ごしていたけど、食事の時間が来たので食堂へ向かおうと部屋を出た。そしてすぐに鈴たちに出会った。
「どうしたのみんな。男子寮に来るなんて」
「ちょっと用事がありましたから」
「僕、それとも恭介?」
「いや、リトルバスターズのメンバーではない。バイオ田中氏に会って相談したいことがあってな」
「バイオ田中さん?」
「なあ、理樹。頼みがある」
「な、何かな鈴」
「髪の毛を少し分けてくれ」
 何に使うのかと尋ねたいけれど、みんなの表情は一切の反論を許さないかのように険しくなっている。今のストレスに耐えかねたのかはらりと一本髪の毛が抜け落ちた。当然その髪は拾われる。ああ、ブラックリトルバスターズのせいでリトルバスターズが崩壊のピンチだ。どうなるリトルバスターズ!? そしてどうなる僕!?


[No.564] 2008/09/12(Fri) 22:22:11
孤独を染め上げる白 (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@10452byte


孤独を染め上げる白い光


カーテンの隙間から見える窓の外には一面の銀世界が広がっている。
誰も足を踏み入れていない新雪の雪原のように神々しい輝きを放っている。
朝の静寂が広がる世界には、空からは白い粒がポツリポツリと絶え間なく降り注ぐ。
雪兎でも作れそうな肌寒い季節だ。
人肌で温まった布団から出るのは惜しいが、いつまでもそうしているわけにもいくまい。
仕方なく寝起きのけだるい体にそう言い聞かせながら立ち上がった。

顔を洗うために洗面台に向かう。
鏡の向こうの私は寝ぼけ眼だ。
だらりと垂れた髪が肩にかかりうっとおしい。
冷たい水を我慢しつつ、しかし、目を覚ますにはちょうどいいと思い顔を洗う。
あらかたの身形を整えて、薄暗い部屋の中に光を取り入れようと、中途半端に開いたカーテンの隙間に手をかける。
雪に濡れた窓から差し込む光が部屋に満ち、それは乱反射して部屋中を白く染め上げた。
といっても白い壁や白いシーツばかりなので大して変化はわからないのだが。
せいぜい自身の黒い髪が艶めくぐらいだろう。
しかし、光があるのとないのとではやはり違うものだ。
薄暗い世界よりも、光に満ちた世界のほうがいい。
冷たい世界よりも、暖かい世界のほうがいい。
彼もそれを知っていて固執的になっていた。
それが彼の弱さでもあった。

そしてそれを肯定してもなお、暖かい夢を、だが夢にしか過ぎない幻想を、捨て去る覚悟もその先に進む強さも持てたのだろう。
それは喜ぶべきことだった。
しかし、それは共に描いた夢の日々を捨て去るのと同義でもある。
それは私達が少年と鈴君を強くするために、仕方のないことでもあった。
その中で、私は一人、彼との夢の中の時間を願ってしまった。
皆が彼との時間をあきらめて、潔く去っていった中で、私だけは最後までぐずってしまった。
せっかく感じられたこの感情が消え去ってしまうのが怖かった。
元の世界に戻ったら、私はまた、独りぼっちの人形に戻ってしまうのではないのかと。
そして、そんな私を励ましてくれたのも、理樹君だった。
結局のところ、私は彼よりも弱かったのかもしれない。
それでも私は、彼を救うためにはこのままではいけないと、わかりきっていた現実に立ち向かう覚悟を決めた。
結果的には彼を強くしたのは私ではない。
彼は私のために、自ら強く在ってくれたのだ。
そして、私達が諦めさせようとした夢の中での楽しいバスターズの日々を諦めずに、私達をも助けてくれた。

彼の幸福への執着という弱さは、同時に強さでもあったということだ。

ふと、窓の外へと目を向ける。
窓枠の奥に広がるどこまでも白く、深い世界。
あの夢の日々もまた、この光景のように、美しいものであったのだろうか。
朧げにしか覚えていない日々も、だが掌で空を掴むような記憶に残る、この胸に深く刻まれた愛も。
その声無き疑問に応える答えは無かった。
もとより不確かな夢の中でのことだ。
そうであると信じよう。
せめて夢でぐらい私は人らしい感情が感じられたのだろうと。

そこまで考えてふと気づく。
このように固執するということ自体、私が人間らしい感情を感じられたということではないだろうか。
先ほどの疑問のように応える声は必要ない。
それは自分で考えることだ。
もとよりそんなことはわかっている。
そしてその気持ちは間違いなく、理樹君がくれたものである。
彼を愛せたから私は、この暖かい気持ちを育めたのだろう。
彼が私を愛してくれたから、もっと彼と一緒にいたいと願うのだろう。
そして、それはこれからの私次第でもあるということだ。

しばらく窓の外を眺める感慨的な雰囲気が伝わってしまったのだろうか。
心配そうに、しかし冷静な口調の声が聞こえる。

「どうかしましたか?」
振り返ると可愛らしいパジャマ姿の美魚君がいた。
カーテンを開けた時に差し込んだ光で起こしてしまったのだろうか。
こんな心境でなければ思わず手が出てしまいそうであったが、いたって平静を装う。
「すまない。起こしてしまったようだな」
「いえ、それはいいのですが。……何か考え事でも?」
「うむ。ちょっとな。」
そうしてしばしの沈黙が部屋を包み込む。
ほかの皆はまだ眠っているようだった。
そもそもまだ夜が明けたばかりといった空模様の時間なのだ。
むしろ今起きている私達のほうが異質なのだろう。
そうして先に口を開いたのは美魚君の方からだった。

「直枝さんのことですか?」
「なッ……」
思わず顔を背け赤面してしまう。
まるで窓の向こうの雪がこの火照りを冷ましてくれでのはないかと期待するように。
「な……なんのことだ……美魚君。」
当然すぐに冷めるわけもなく少し声が上擦ってしまう。
「いえ、何か深く考え事に耽っていたようなので。おそらく直枝さんのことではないのかと思ったのですが。」
「ふむ……何故そこで理樹君の名前がでてきたのかは追求するのは後にしておこう。
ところで美魚君。
先ほどの私はそれほどまでに思いつめいていたように見えただろうか?」
しばし考えた後、少し微笑みながら美魚君が口を開く。
「いえ、ただ私には今の来ヶ谷さんが恋に焦がれる少女がその思いの丈を胸にくすぶらせているよう見えただけですよ?」
少しどころではない。
完全にニヤついていた。
美魚君の性格上それが穏やかであっただけで、彼女は明らかに微笑ましいといった感じにこちらを見ている。
「それは私が理樹君に対して恋心を抱いていると言いたいのか?美魚君。」
先ほど不意打ちを受けたばかりなので今度は声が裏返らずにすんだ。
何よりこのままやられっぱなしというのは柄に合わない。
「そこまでは。ですが昨日の宿泊会には直枝さんが参加しておられなかったので。
来ヶ谷さんは終始そのことを気に掛けていたようですし。」
私と美魚君が朝から一緒の部屋にいるのはそういうことだ。
他の部屋に敷かれた布団やベッドには鈴君たちがまだまどろみの中にいるだろう。
さすがに一人部屋の私の部屋に全員が寝泊りできることが出来ず、部屋が分かれてしまったが。
理樹君に関しては恭介氏達と一緒に遊ぶことを選んだようだ。
曰く、恭介氏が3年の冬ということもあり、就職活動のない夜しか遊べないということもあり。
曰く、女装はもう勘弁してほしいのだそうだ。
私としては理樹君の女装姿が見れなくて残念がっていただけなのだが。
「それは……、君もだと私は思うが?」
「はい。私も直枝さんの女装が見れなくて残念です。」
見抜かれていたようだ。
「今日の君はなかなか鋭いな。」
「そういうわけではありませんが……来ヶ谷さんならそのように茶化してしまうのではないかと思いました。
それに来ヶ谷さんの場合、文献で読んだような知識を『こうではないのか?』と相手に確認するようにして、自分自身の話題から話を逸らそうとする節がありますので。」
「ああ。私は自分のことを話すのが苦手なのでね。そもそも私には話すべき中身などないのだよ。」
もとより、あの世界で感じることができた恋情は直枝理樹という少年が与えてくれた感情であったのだから。
そしてその感情がなければ……私はただの感情のない人形なのだから。
「そんなことはありませんよ。」
ザクリと、布切り裂かれるような音が聞こえたような気がした。
「来ヶ谷さんは……おそらく与えられるのに慣れていないだけなんです。
人間は初めから何もかも持っているわけではありません。
家族や友人から与えられる愛情によって、自我を形成して感情を築いてくものなのだと思います。」
目の前の少女からの普段は見られない積極的な言動に少々目を丸くしながら応える。
「美魚君。私はさっき言ったとおり自分のことを話すのは少々苦手なんだ。これくらいで勘弁してもらえないか。」
そういうと美魚君は少し伏目がちになり、だが再び口を開いた。
「すみません……。出過ぎた真似だとはわかっています。
それでも、家族や友達と触れ合う機会が少なくて、自分の感情を吐露するのが苦手なことを負い目に感じたり……中身がないなんて言葉で自虐しないでほしいんです。
あの世界から帰ってきた後も、来ヶ谷さんが時折寂しそうな目をするところを私は知っています。
それは自分のような空白の存在が、この賑やかなで楽しいバスターズの輪の中にいてもよいのかと考えているからなのではないですか?」
ゆっくりとだが、しかしいつものように冷静な口調に感情をこめて言い放ってくれた。
「美魚君。確かにそのとおりかもしれない。
私はあの世界で最後まで理樹君と一緒にいようとぐずってしまった。
まるで子供のように、だ。
怖かったんだ。
君たちのように、人間らしい感情をやっと持てたと思った私が、やっとバスターズのメンバーとしてふさわしくなれると思った私が。
この気持ちを忘れてしまったら、私はまたバスターズに出会う前の人形のような私に戻ってしまうのではないかと。」
同じバスターズの仲間だからだろうか。
こんなに直接的に自分の心情を話せたのは本当に久しぶりな気がする。
あの世界で理樹君と過ごした日々以来のはずだ……。

「だからそんな私が……、リトルバスターズにいていいのかと……そんな風に考えてしまうんだ。
そうなるとわかっていたのなら、私は早々に君たちの前から立ち去るべきだったんだ。
私は本当に……大馬鹿者だよ。」
我ながら、児戯めいた言葉だとも思う。
「はい、来ヶ谷さんは大馬鹿者です。」
だがそんな戯言に、美魚君は笑わず、逆に少し怒ったように言い返してきた。
「来ヶ谷さんは気に病む必要なんてないんです。
私達は誰一人としてそんなことを気にしてなんかいません。
逆に皆、心のうちでは来ヶ谷さんと同じように、直枝さんや鈴さんと過ごしていたいと考えていたんですから。
それに……そうやって気持ちを惜しむこと自体が、実に人間らしいことなんですよ?」
最後の言葉に胸の中の氷が溶かされていくような気がした。
思えば理樹君以外の人物に人間らしいと呼ばれること自体が今までなかったかもしれない。
そのこと自体に今まで私が苦しみを感じていたわけではない。
むしろ他人にどう思われようと構わないと考えていたのだから。
それ故に、私は心の許せる仲間であったはずの者たちにどこか遠慮していたのかもしれない。
どう思われても構わないということは自分が自分のことをどうでもいいと考えているからだ。
ある種の完璧主義のような自身の性格がそれに拍車をかけてしまったのだろう。
そんなどうでもいい存在が、彼らのような輪に入っていても良いのかと思ってしまうときがあるのだ。
一人だけ……心のない人形が混じっていてもよいのだろうかと。
普段のバスターズとの遊びが楽しくて、ついつい忘れてしまうそのことを。
美魚君は杞憂だと言ってくれた。

振り向いて、窓の外に向けていた視線を美魚君の方に向ける。
そこには真剣な眼差しをした一人の少女がこちらを見ていた。
視線が合う。
「ありがとう。美魚君。少し楽になれた気がするよ」
「いえ、私も来ヶ谷さんと同じように自分に素直になれない部分があったので。
つい見ていられなくなってしまい。
本来なら直枝さんの役割でしたでしょうし。」
先ほどまでの力強さはどこへやら、段々と声が小さくなっていく。
「いや、何も気にすることはないよ。大体いつまでも卒業間近の恭介氏にばかりかまけて、年頃の若い娘たちのムフフな寄り合いに来ないあの朴念仁が悪い。」
「いつもの来ヶ谷さんに戻ってくれたようでうれしいです。」
その声がすぐ近くから聞こえてきた。
いつの間にか傍まで寄っていたようだ。
「綺麗だ」
「美しいですね」
窓枠に切り取られた絵画のように美しい期間限定の雪原を見ながら、二人で声を揃えて呟く。
様々な言葉を重ねるのがおこがましいほどの自然の美術館だった。
言い尽くせないほどの思いを伝えるには、単純な一言にまとめるしかない。

それは最後の世界で約束したことと同じことで。

「美魚君。」
何気なく、隣のすばらしい仲間に声をかける。
「何でしょうか。」
私がいつもの調子を取り戻したおかげか、美魚君の声色は穏やかだった。
「今日もう一度、改めて理樹君に告白してみようと思う。」
「……それはまた、突然ですね。」
肩を一瞬ビクリとさせた後、窓の向こうを向いたまま応えた。
「なあに。思い立ったが吉日さ。それにかねてからの約束だったからね。」
「実に、貴方らしいと思いますよ。」
今度は平然と、やさしさのこもった声で応えてくれた。




「それに。」
頭の中に浮かぶのは放課後の教室。
「それに?」
目の前には最愛の人がいて。

ただあの時と違うのは。

「夕焼けの朱よりも、白銀の白に埋め尽くされた教室の方が、素直になれると思うからだよ。」

そこがまっさらな白い教室で。

あの日の約束を果たすことができたことでした。


[No.565] 2008/09/12(Fri) 23:32:21
一つの絆 (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@初投稿 8316byte EX微バレ

「…………」

目の前にある光景が意味するもの、1つの可能性を理解し、彼女は呆然としていた。
靴下やスカートが汚れることを気に留める余裕などない彼女は、あまり清潔とは言えないトイレの床にぺたんと座り込み、自分の行った行為を眺めることしか出来なかった。

どうしよう……。

そんな思いが頭の中をぐるぐると回り続け、正常な思考を妨げる。
気だるい身体は立ち上がることさえ拒否し、現状をなんとかしようとする気力さえ削いでいく。
目の前で異臭を放つ吐瀉物を眺め、彼女が――葉留佳が思うことはただ一つ。
「まさか……出来ちゃったの?」




一つの絆




長い間すれ違いからいがみ合っていた双子の姉――佳奈多と和解してから2ヶ月が経っていた。
まだ全てが解決したわけではない。三枝の家とか、佳奈多のこととか。
それでも昔と違い、心の底から笑えるようになってきたのは間違いない。
そしてそのキッカケを作ったのは、普段はなよなよとしてお人よしで頼りないけど、深い優しさを持ちここぞと言う時に普段とは比べ物にならない強さを発揮する彼――今は葉留佳の彼氏である直枝理樹だった。
そしてその……なんだ……えっとまあ、葉留佳にとってのは、初めての相手でもあるわけで……。
その後は色々とバタバタしてたりして逢瀬の時はなかったので、つまり原因は間違いなくその時なわけでして……。


「葉留佳、大丈夫?」
吐き気を催してしまったのは授業中であったため、葉留佳は脱兎の勢いで教室を飛び出し、トイレに駆け込んでいた。
周りの目を気にする余裕など全く無かった為、傍から見ても只ならぬ状況であったのは一目瞭然で、その様子に同じクラスにいた佳奈多が不安そうに様子を見にきた。
「お姉……ちゃん……」
吐瀉物と汗と涙で酷いことになっている顔を佳奈多に向ける。不安と未知への恐怖から、全力で身を投げ出して助けを乞いたくなる衝動をぐっと堪え、努めて冷静に振舞おうとする。
「やはは、昨日あまりに暑かったもんだから、ちょっとアイス食べ過ぎちゃったのデスヨ。見っともないところをお見せしてしまいましたネ」
普段と変わらぬ明るい調子で喋る。いつもの葉留佳らしく喋る。
まだお姉ちゃんには知られたくない。ただでさえお姉ちゃんに心配かけてばっかなんだから、これ以上心配かけたくない。
「だからそんな心配しなくても大丈夫なのですヨ。明日になったらケロッとしてますって」
「馬鹿っ!そんな楽観的でいいわけないでしょっ!」
佳奈多は自分のポケットからハンカチを取り出して葉留佳の顔を拭くと、強引に手を取り引っ張って行く。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃ……」
「この暑い時期はサルモネラとかボツリヌツとか、食中毒の菌がうようよしてるんだから!どうせ他に変なものでも食べたんでしょっ!さっさと保健室行ってきちんと診てもらうわよ!」
「いやちょっとお姉ちゃあう痛い引っ張んないでキャア〜!」
周りの視線を集めることも気にせずに、今や過保護気味となった佳奈多にずるずると無理やり引っ張られていくのだった。


「最低ね…本当に最低」
突きつけられた現実に、佳奈多は深いため息をついた。
「あはは…やっちゃいましたネ」
葉留佳もいつものように明るく振る舞おうとするが、現実の重さにひきつった笑いしか出てこない。
「この私の可愛い葉留佳に手を出して、あまつさえ妊娠させるなんて……。全く、あの鬼畜のド変態のスケコマシには、二木家流三日三晩地獄の交響曲オンパレード(拷問)を味わせてあげなきゃ気が済まないわね……」
三日月型に反った口許からうふふふと妖しい笑いを浮かべ、普段より深く深く色を無くしてきりりとつり上がった目をしたその様子は、まるでこれから黒い儀式か何かを始めるかのよう。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん、落ち着いてってば!」
その後、六法全書を片手に、さーこれから腸流しにいくわよ、顔を潰して七つの杭で打ち据えてあげるんだから!と息巻く佳奈多を止めるのに、軽く一時間は費やしたという……。




「ふう……、全く大変なことになったわね」
「やはは、そうですネ」
「何も考えず勢いだけに任せるから、こういうことになるのよ?」
「やはは、反省してますヨ」
「……ねえ葉留佳、一つ聞いていい?」
「ん?何デスカ?」







「何であなた、そんなに嬉しそうなの?」
「……え?」


言われて初めて、葉留佳は薄っすらと微笑んでる自分に気づいた。
心の底から湧き上がってくる得体の知れない感情、自然とお腹に当てた手が示すもの。それは自然と表情という形で表に表れていた。
今まで感じたことなどないのではっきりとは分からないが、これがつまり母性本能というものだろうか?
それはつまり。
「…うん、嬉しいのかもしれない」
「な……!」
自分の想いをはっきりと自覚した葉留佳が見せる姿を、佳奈多は初めて目にしていた。


今まですれ違いながらもずっと、怒った顔も苦しむ姿も、ときおり見せる笑った顔を見てきた、和解してからは今までより様々な表情を見てきた佳奈多が、一度も目にしたことのない葉留佳だった。
複雑な家の事情ゆえ、今まで殆どそれに触れる機会のなかった佳奈多は、知識としては知っていても実際に目にするのは…実は初めてかもしれなかった。
だから理解は出来なかった。
「馬鹿っ!そんなんでいいわけないでしょっ!普通の夫婦だって子供1人出来るってのは大変なことなのに、結婚どころかまだ学生のあなたが子供なんて出来ちゃったら、そんなの抱えきれるわけないじゃないっ!なんとかなるなんて思えるほど、世の中は甘くないのよ!」
「うん、お姉ちゃんが言うとおり、すごく大変なことなんだと思う。でも、それでも、大変だとか学校だとか世間だとか全然関係なしに、すっごく嬉しいんだ」
正論に自分の感情を交えながら一気にまくし立てられても、全く臆することなく葉留佳は冷静でいられた。
これが母親の強さなのかなと思いながら、お腹の中の子供のことを考える。まだ人の形すらしていないそれは、葉留佳の夢のように感じられた。
「はあ……。とにかくまず、この原因を作った張本人を呼ばないとどうしようもないわね。ここに呼び出すわよ」
「うん、お願い」
事の重大さを全く理解していない(佳奈多にはそう思える)葉留佳の様子に呆れながらも、最大の元凶を呼び出すために佳奈多は携帯を手にした。


葉留佳が今現在重症重態危篤、3分以内に現れないとあなたの部屋に葉留佳の生首を届け、その後フォアグラにして首2つ一緒に並べてあげる、という、悪徳業者も真っ青のメールにより強制問答無用的に呼び出された理樹が部屋に現れたのは、律儀に秒読みをしていた佳奈多のカウント結果によると、わずか62秒後のことだった。
宇宙人未来人一般人が仲良く過去へ飛んで帰ってきた時と同じ時間とは、理樹君もなかなか通デスナ。
「…で、何の冗談なのかな、これは?」
息も絶え絶えになって駆け込んできた理樹(おそらくUBラインも全力無視で突破してきたのだろう)が見た光景は、いつもの無表情に怒の感情をちりばめた佳奈多と、さすがに危篤と言うには無理がある葉留佳だった。
「まあ、鬼畜でド変態でスケコマシな貴方には、これくらいいい薬よね」
「…いや、事情を説明してよ」
「そうね、そのために呼んだんだものね。どうする?私が説明していいの?」
「ううん、私からきちんと話すよ」
ベッドの上に腰かけていた葉留佳が、小さなちゃぶ台を間に挟んで理樹と向かい合う。


理樹の目を真っ直ぐに見る葉留佳は、しばらくあーとか、そのですネーとか言いよどんでいたが、やがて意を決して、一番確信の部分を口にする。
「あのね……出来ちゃいました」
「出来たって、何が?」
「赤ちゃん」
「誰の?」
「私と………………理樹君の」
「………………………………………………………………」
あまりにも重い、押しつぶされそうな沈黙が部屋を包み込む。
佳奈多は立ったまま、微動だにしない2人を見つめている。


怖い。
嫌だ。
苦しい。
悲しい。


葉留佳の胸を渦巻くのは、そんな感情。ぎゅっと目をつぶり、ただひたすら耐えるしかない。
この沈黙が解けたとき、生まれるのは希望か、絶望か、それとも……。






と。


硬く握った手が、暖かい何かに包まれるのを葉留佳は感じた。
ゆっくりと目を開けると、そこには葉留佳の手を握り、満面の笑みを浮かべた理樹の顔があった。


「そうなんだ、おめでとう、葉留佳さん」


盛大にずっこけている佳奈多を目の端に捕らえながら、葉留佳は今の言葉を必死に理解しようとした。
あめでとう?何それ?それでいいんだっけ?
「こら直枝理樹!今言うべきはそういうことじゃないでしょっ!」
そうそう、そういうことじゃない。もっと別の何かがあったような。
「え、違うの?おめでたなんだから、おめでとうでいいんじゃないの?」
あれ、そうだっけ?それでいいんだっけ?
「ああもうっ!あなたは一体なんなのよっ!」
がしがしと頭を掻き毟る佳奈多は、私が変なの?私が他人とは違うの?と自問自答するしかなかった。
そして葉留佳はと言うと、まだ理樹の言ったことに頭の理解が追いつかず、ぼうっと理樹の顔を眺めていた。


2人が落ち着くまでに、理樹が自分の部屋からここまで来るのに要した時間の、ざっと10倍を必要とした。
「あなたねえ……どれだけ大変なことなのか分かっているの?」
先に落ち着きを取り戻した佳奈多が、呆れ度数80%配合の表情で理樹を詰問する。
「うん、これから大変になるだろうね」
対する理樹は余裕しゃくしゃくだった。
そして葉留佳は、なんとか落ち着きを取り戻したものの、まだ会話に参加出来るほどには回復していない。
「あなた全然分かってないでしょ…。生むにしても経済的な負担から身体的、精神的負担がずっしりとのし掛かるし、子供に殆ど手を取られちゃうから学業もまともに出来るわけないし。中絶するにしたってリスクは高いんだし…」
そこで佳奈多は唇をぎゅっと噛み、憎々しいげに顔を伏せる。
「とにかく!望まない妊娠で苦しんでる人は沢山いるんだからね!」
「それは違うよ、二木さん」
理樹が佳奈多の言葉を遮る。普段の頼りない彼の姿からは想像出来ないほど、その瞳は強い光を湛えていた。
「僕は葉留佳さんが本当に好きだよ。だから僕はこうなることを望んだんだと思う。まあちょっと早すぎたって感は否めないけど、決して望まなかった、じゃないよ。それだけは間違いない」
その言葉に、葉留佳と佳奈多の2人は同じように顔を赤らめた。その言葉はとても純粋なもので、だからこそ2人の心を強く打った。


ああそうか、私も同じなんだ、と葉留佳は思った。
彼に身も心も捧げた私は、本当の意味で結ばれることを望んでいた。
それは決して離れ得ない絆。彼と自分を結んでくれる、存在。
そんな存在を、私は求めた。だからこそ。


「そうだネ、私も理樹君との子供、欲しかったんだ。絶対になくならない絆が、居場所が欲しかったんだ。私は心の底で、ずっと望んでいたんだ。だからこの子は私の元へ来てくれたんだね」
「うん、きっとそうなんだと思う。僕も話を聞いたとき、本当に嬉しいって言葉しか浮かんでこなかったんんだ。だから迷いなく『おめでとう』って言えたんだと思う」
「うん、私も嬉しい。だから私が言うのは、ありがとう、だね」


ラブラブカップルと言うよりは既に夫婦的オーラを全身から発している2人を横目に、佳奈多はやれやれ、と大きなため息をついた。
ここまで聞かされてはさすがにもう、2人を説得しようという気は起こらなかった。


「まあ、お幸せに、というしかないわね。でも1つだけ、どうしても言いたいことがあるから言わせてもらっていいかしら?」
「な、何?」
「な、ナンデショウカ?」
「あんたたち、もう夫婦みたいな雰囲気作り出してるけど、それよりも先にプロポーズをするべきじゃないかしら?」
「あーそういえば」
「まだでしたネ」


3人は苦笑する。もうその表情に戸惑いはない。これから始まる希望という名の未来を、ここから書き続けていけばいい。


「じゃあとりあえず…いいかな、葉留佳さん?」
「ええっ!こ、ここで!?」
「うん。善は急げって言うしね」


真っ赤になってあたふたする葉留佳の目の前に、理樹は姿勢を正して座る。横ではこんなところで、はしたないとぶつぶつ呟くが、実は興味津々な佳奈多がいる。


「葉留佳さん…いや、葉留佳。」
「は、はい……」






「親子に……なろう!」
「…はいっ!」



空に瞬く幾千の星たちが、新たな絆を見下ろしていた。


[No.566] 2008/09/12(Fri) 23:54:30
茜色の雲 (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@9540byte EXネタバレ無し

 西日に照らされ、茜色に染まった放課後の教室。そこにいるのは、私と彼の二人きり。
「恋してる、って方の、好きだ」
 あの世界で抱き、それ以来ずっと秘め続けてきた想い。その思いの丈を今、彼に伝える。
 やがて、戸惑いがちに返された彼の答えは。







「……ごめん、来ヶ谷さん。今の僕には、鈴がいるから……」













 がしゃん、ぴー。
 取り出し可能のブザーが鳴ったのを確認して、自販機から紙コップの紅茶を取り出す。
 ……まあ、分かっていたことなのだがな。
 修学旅行以来の理樹君と鈴君の仲睦まじさ。二人で互いを補いながら歩んでいく初々しい姿を知っていれば、今更彼らの間に入っていく余地など無いということは、とっくに分かっていた。
 けれど、もしかしたら。そんな一縷の望みにかけて、想いを伝えて……そしてこの結果だ。
「思い出してもらえただけ僥倖とすべきか」
 独りごちる。理樹君は少なくとも、あの約束を思い出してくれていた。思い出した上で、しかし今の彼の立場上、それを受けることは出来ないと断られた。まさか鈴君と別れろなどと言うわけにもいかず、ならばこれが収まるべき形だったのではないか。
「……ふん」
 鼻を鳴らし、砕かれた安っぽい氷の浮かぶ紅茶を口もとに運び。
「む?」
 紅茶の水面に波紋が立っていた。雨だろうか。空を仰ぐ。見上げた空では、茜色に染まった大きな入道雲が二つ、風に流れていく。それ以外、見える範囲には雲は無い。明日は晴れるだろうか。ふと、そんなことを思った。
「んお? やはー、姉御、姉御ー!」
 突如、周囲の静寂を打ち破る、聞き覚えのありすぎる騒々しい声。視線を下ろし、声の方向に向けてみれば予想通りの人物の姿。
「葉留佳君か」
「姉御、なーにこんなところで黄昏てるんですカ? まあ姉御がやるとそれも絵になるんだ……け、ど……」
 ぱたぱたとこちらに駆け寄りながら話しかけてくる彼女だが、その足と言葉の勢いが急に弱まった。見れば、何やらぎょっとしたような表情を浮かべている。
「どうした、葉留佳君?」
 一拍の間を置いて。 
「ど、どうしたの、姉御! 何があったのっ!?」
 先程以上の足と言葉の勢い、更にえらく取り乱した様子で詰め寄ってくる。その勢いにこちらの方が面食らう。
「キミこそどうした。何をそんなに取り乱している?」
「だって姉御、泣いてる……っ!」
「……なに?」
 左手を頬にやる。指先に触れる、濡れた感触。
「……涙、だと?」
 紅茶の水面に波紋を立てていたのは雨などではなかった。頬を伝う、自分でも気付かないままに流していた涙だった。
「っく、ぅ、ぁ……」
 自覚してしまえば止まらなかった。瞼から溢れ出る涙。喉の奥から這い出てくる嗚咽。紅茶の紙コップが手から滑り落ちる。がしゃ、と下の方で音がした。膝から力が抜ける。がくんと視界が下がり、そのまま蹲ってしまう。地面にぶちまけられた紅茶が靴下に染み込み、氷が足の肉に食い込む。きもちわるい。いたい。……そしてなにより、かなしい。
「ぅぁ、うあああぁああぁあぁぁ……」
 とまらない、とまらない。ただわたしはそれいがいのなにもしらないかのようになきつづけ
 ふわり、と頭部が温かく柔らかいものに包まれた。仄かに漂う、爽やかな柑橘系の香り。葉留佳君に頭を抱きかかえられたのだ、とやや遅れて気付いた。
「はるかくん……?」
「何があったのかはわかんないけど、今はとりあえずいっぱい泣けばいいと思うよ」
 言って、そっと私の背中を撫でてくる。その言葉と優しい感触に、箍が外れた。葉留佳君に縋りつき、周囲も気にせず、ひたすら泣き叫んだ。
 ここに来て、ようやく実感が追いついてきた。

 ……私は、振られたのだ、な……










「……理樹君にな、振られたんだ」
「そ、っか……」
 どれぐらいそうしていただろうか。情けなくも葉留佳君の胸で泣き叫んでいた私はようやく落ち着きを取り戻し、鼻声で教室でのことを話していた。
「そうだよね。みんなあの世界で一度は理樹くんのことを好きになったんだもんね。そういうことだってあるよね」
「覚えているのか、あの世界のことを?」
 表情を窺おうとしても、私の頭は葉留佳君の腕にかき抱かれており、視界は真っ暗だ。かと言ってその腕から抜け出す気にもなれず、そのままの体勢で問う。
「うん。あちこち曖昧だったりするけど、みんなが理樹くんと鈴ちゃんのために動いて、みんなが理樹くんを好きになって、そして二人が強くなっていったことは覚えてる」
「なら、キミはどうなんだ? 理樹君のことが好きな気持ちは残っていないのか?」
「……残ってるよ。私は、理樹くんのことが好き。あの世界でのことはよく思い出せないから比べられないけど、事故で目覚めたばかりの頃よりずっと強く、そう思ってる」
 考えてみれば当然のことかも知れない。記憶自体は薄くとも、葉留佳君ならば、感情の無い私などよりもずっと強く、彼のことを想っていたのだろうから。けれど、それなら。
「ならキミは哀しくないのか? 今彼の隣にいるのがキミではなく鈴君であることが。キミのその想いが報われないことが」
「哀しいよ。すごく哀しい。でも、ちょっとだけ嬉しくもあるんだ。理樹くんと鈴ちゃんがああやって仲良く歩いていく姿は、あの世界で一度、確かに望んだものだったから。それに、一番嬉しかったのは好きって言ってもらえたことだけど、私が貰ったのはそれだけじゃないから。こんな私でも好きになってもらえる可能性があると教えてくれたこと。そして、私が誰かを好きになれるということ。誰かを好きになれるという事は、それだけで私にとっては意味のあることだった。だから私は好きであることをやめない。たとえそれが横恋慕でも、友達として以上の好意は返ってこなくても。それが哀しくても、きっとその想いは変わらない」
 そこまで言って、彼女は深く息をついた。更に、「ま、もし二人がうまくいかなかったらその時は私が理樹くんを横からかっさらっちゃいますヨ」と冗談めかして付け加えて。
 私はただ、圧倒されていた。日頃いい加減な言動の葉留佳君がそこまで考えていることに。普段彼女に対して偉そうに振舞っておきながら、今回はただ泣きじゃくっていただけの我が身が情けなく思えた。
「……なあ、葉留佳君。私に幻滅したか?」
「ほえ、なんで?」
「キミは格好のいい私に憧れていたのだろう? その私がよりにもよってこんなにみっともなく泣き喚いて、未練がましくて。不様だろう?」
「んー、そんなことないよ。確かに私はかっこいい姉御に憧れてたし、今の姉御はあんまりかっこよくないけど、これはこれでなんか可愛いし」
「なっ……か、かわいいとか言うな……」
「あはは、やっぱ姉御、かわいい」
「……ぅ、うるさい、黙れ。葉留佳君の分際で生意気だ」
「酷いっスよ姉御ー」
 特に気分を害した風も無く、くすくすと笑い声を上げながらそっと私の髪を梳く葉留佳君。優しいその手つきに安らぎを感じてしまう自分が情けなかった。
「ねえ」
 髪を撫でながら、そっと葉留佳君が話しかけてくる。
「姉御はさ、何でもできるすごい人だから、これまで何かを上手くやれなかったことって無かったんだよね? だから、悲しむことも泣くことも無かった」
「……そう、かも知れない。これまで私の思うようにならなかったことなど、ほとんど無かった。だから物心ついて以来、泣いたのはこれが初めてだ」
「あはは、やっぱり。それじゃ世界で唯一人、私だけが姉御の泣き顔を知ってるんだ。ちょっと嬉しいかも」
「……不覚だ。葉留佳君如きにそんな弱みを握られるとは」
 悪態をついてみても、あれだけ号泣して見せた後、未だ声を情けなく震わせ、葉留佳君の胸に縋りつきながらでは威厳も何もあったものではない。葉留佳君はまた言葉を続ける。
「姉御と違って、私なんか何やってもダメだからさ。上手くいかないことばっかりで、辛い思いもして、泣いてばっかりで。だから、泣くことに関しては姉御よりずっと上級者なんだ。あんま自慢になんないけどさ」
 不意に、私の背に回された腕が緩む。そっと目を上げると、まだ滲む視界の中で葉留佳君は真剣な目でこちらを覗きこんでいた。
「ね、姉御。この歌、聴いて」
 脈絡なくそう言って、すぅと一つ息を吸い込んだ後、葉留佳君は一つの歌を歌い始めた。



 ―茜色の雲 思い出も二つ 遠く流れていくよ―



 歌詞の通り、茜色の雲が流れ行く空の下で、葉留佳君が口ずさむ歌。どこか遠くで聞いたような、懐かしいメロディ。



 ―キミは泣いた後笑えるはずだからって言ったんだ 僕らの旅 忘れたりしないよ―



「泣くことってやっぱり哀しいけど。いっぱい泣いて、泣いて、泣き止んで。そうしたらその後にはきっと笑える。辛い思い出でも、忘れちゃいけないことってあると思うんだ」
 歌を途中で切り、そう語りかけてくる。
「その歌は?」
「や、何か知らないけどいつの間にか自作の曲とかに混じって携帯に登録されてたんですヨ。しかも歌詞付きで」
 不思議だねー、とくすくす笑い、また語りかけてくる。
「辛いことでも忘れちゃいけないことがある。例え報われなくても、『いっそ好きになんてならなければ良かった』なんて、考えちゃいけないと思う」
「なっ……」
 思わず息を呑む。葉留佳君の言ったのは、まさに私の考えていたことだったから。
「自分が好きになって、相手も好きになってくれたらそれが一番いいことだと思う。けど、誰かを好きになるっていうのは、きっとそれだけで意味があるんだよ。姉御はさ、理樹君のこと好きになって、それで得たものって心当たりない?」
「それ、は……」
 ある。彼がくれたのは、私に対する好きと言う言葉だけではない。この世界を感じること、それ以外にもたくさんのものを私は彼から貰っていた。
 私の表情を読んだかのように葉留佳君は言う。
「だったら、好きでい続けようよ。今は哀しくて急には無理だろうけど、いっぱい泣いて、その後にまた笑って欲しいよ。いつもみたいにフハハハハ、って格好良くさ。そうしてまたいつか歩き出して欲しいよ」
「………………ああ、いつか………………」
 そう呟き、小さく頷く私を見てにこりと満足げな笑みを浮かべ、葉留佳君は普段どおりのおちゃらけた声を出す。
「にしても理樹くんってば、いくら鈴ちゃんがいるからって勿体無いことするなぁ。もし私が男の子だったら絶対姉御をほっとかないのに」
「……ふん、男版葉留佳君などこっちから願い下げだ」
「姉御ひどっ!?」
「……キミはそのままでいてくれ……」
「え? 姉御、今何て言ったの? よく聞こえなかったんだけど」
「……さっきの歌の続きを歌ってくれないか、と言ったんだ」
「やはは、あんまり上手じゃないからちょっと恥ずかしいけど、姉御のご要望とあらば」
 そう言って、息を一つ吸い込む葉留佳君。吸った息を止めて、口を開いて、
「あ、それとね、姉御。さっきは言い忘れてたけど、私、理樹くんのことだけじゃなくて、姉御のことも好きだよ」
「なっ……!」
 またえらく脈絡の無い言葉をぶつけられ、返事に窮する。そんな私を余所に、どこか楽しそうな表情で葉留佳君は再びその唇に音階を乗せた。葉留佳君の唇が紡ぐその旋律に子守り歌のような安らぎを覚える。その安らぎと、葉留佳君の温もりに包まれて。
 私はまた、泣いた。



 ―失くさないよう魔法かけて さよならを伝えない 歩き出すよ またいつか―


[No.567] 2008/09/13(Sat) 00:01:34
君が居た夏は (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@11312バイト バレほぼ無し

 君がいた夏は

 人の密度が増してきて、つなぐ手に一層力を込めたとき、不意に古い歌のフレーズが耳をよぎった。
 着メロ?
 目で追ってみたけれど、雑踏に飲まれてしまって、もう聞こえない。
 トン、と背中になにかぶつかってきた。
「急に止まるな!」
 鼻をさすりながら鈴が怒鳴る。
「前見て歩け。危ないだろ!」
 いけしゃーしゃーと言うけれど、多分鈴も前見てなかったんじゃないかと思う。家を出てから鼻緒をずっと気にしていたし、着いてからも目移りばかりしているし。
「ごめん、ちょっとよそ見してた」
 機嫌を損ねられても怖いので、ちゃんと向き合って謝った。いや、ここで立ち止まるのも危ないんだけど。
 そしてまた鈴の手を掴む。歌詞の通り……ではないか。つないでないとどこに行くか分かったもんじゃない。純情ぶってる場合じゃないよね。
 赤信号の向こう、次の交差点に車止めの看板が見えた。そうかと思うと、今ソースの匂いがしたかもしれない。大勢の人の声と笛の音が聞こえてくる。
「やっと着いたな」
 鈴が人を掻き分けて僕の前に出てきた。いつもと違うシャンプーの香り。結った髪の下に白い首筋が覗いた。
 ……あの歌を思い出したのはシチュエーションのせいなんです。決して鈴の浴衣姿にドギマギしたとか、そういうことじゃなくって。はい。
 信号が青に変わった。ずりずり草履を引きずりながら、鈴が先頭に飛び出していく。僕は慌ててその手を掴んだ。
 さっきまで意識してなかったけれど、なんだってこんな無闇に柔らかいんだろう。
「急ぐぞ、理樹!」
 グイ、と強引に引っ張られた。ピッチャーやってただけのことはあって、女の子にしてはやけに握力が強い。柔らかさもどこへやら、だった。
「よし、あれやろう」
 歩行者天国に入って、鈴が真っ先に指差したのはヨーヨーつりの屋台だった。戦隊ヒーローやキティちゃんの浴衣を着た子供たちが、青いビニールプールの周りにしゃがみこんでいる。
「……いや、いいけどさ」
 なにも着いて早々荷物を作らなくてもいいのでは、と思う。電車に持ち込むのもなんだし。
 鈴はもうプールの前に駆け寄っている。僕のつぶやきなんかお構いなしだった。なんとなく気まずくて、独り笑って歩み寄る。
「300円ね」
 とは店のおじさん。鈴が首から提げたガマ口に手をかけるのを制して、財布を取り出す。
「あたしが先だ!」
「いや、そこは空気読んで欲しいんだけど……」
 まぁ空気なんて作れてないけどさ。
 行きがけにコンビニで作った小銭を三枚、おじさんに手渡す。こよりの先に釣り針のついた、釣り糸? を二本受け取る。鈴に差し出すとようやく理解してくれたようで、
「じゃあゴチになる。理樹の分も取ってやるからな」
 と。なんだかなあ。
 一歩後ろに下がって、鈴の背中を見守る。
 それにしても、2回300円。……地味に高い? まだ財布は重いし、まあいいか、と思えるけれど、それがこの屋台の狙いなのかもしれない。考えすぎだろうか。
「おまたせ」
 鈴が立ち上がっていた。こういうの苦手なのは知ってたけど、ちょっと早い。
「あれ、もう終わったの? 二本渡したよね?」
「ん」
 鈴が手を出す。指の先に、例の釣り糸を摘んでいた。
「一回ずつ」
「……あ、なるほどね」
 鈴が楽しんでくれればよかったんだけど。でもこう言われて断ることもない。
 プールの前にしゃがみこむと、ビニールの、なんだか懐かしい匂いがした。プールとか、海とかの、出発前? というか、さあこれから遊ぶぞ、というときの匂い。ボートとかビーチボールとか。
「違う、それじゃない! 隣の茶色い奴だ!」
 鈴のせわしない指示に追い回されて、もうこよりの部分がぐずぐずになってしまっている。猫の絵が描かれたヨーヨーはふらふら波に揺られて、手を伸ばしても届かない奥のほうまで行ってしまった。なんとかゴムの輪に針を通すけど、少し持ち上げたらすぐ切れてしまう。
「意気込んでた割には大したことないな」
「えーっ」
 鈴は500円玉を手で転がしている。ま、いいか。立ち上がって鈴と場所を代わる。
 釣り糸を構えて、真剣な目。雰囲気に気おされたのか、おじさんが手でチョイチョイとヨーヨーを動かしてくる。浴衣の袖が思いっきり水についてるけど、それにも気付いてないみたいだった。
「――見切った!」
 さっ、と。ベタだけど獲物に飛びつく猫みたいな動きで。針先に見事ヨーヨーがぶら下がっていた。
 振り向いて、それ見たことか! と誇らしげに笑った。
「まってろ、一生ヨーヨーに困らないくらい取ってやる」
 今まで困ったことはない。鈴は腕まくりして、白い肌が覗く。赤みがかった灯りに照らされて、なんとなく目を逸らしてしまう。
「これ持ってて」
 早速とった獲物を渡された。
 鈴の才気煥発。鈴が飽きてしまうまで、僕は後ろで道行く人に鈴の獲物を配っていた。最後に残したのは、鈴の猫のヨーヨーと、僕にはベーシックな青いやつ。
「次、あそこだな」
 何歩も歩いていないのに、また別の屋台を指差す。このままだと盆踊りをやってる広場までたどり着けないかもしれない。それはそれで構わないんだけど。
「そのまえに」
 鈴の手を取る。ん? と鈴は首を傾げる。もう手を握ったくらいじゃ反応がないのが、悲しいような、どうなのか。いやそうじゃなくて。
 ポケットからハンカチを取り出して、濡れた浴衣の袖を拭った。
「いい、自分でできる」
 とは言うけれど、嫌がったりはしない。されるがままになっている。こういうところはまだ気恥ずかしいんだろう。
「……ありがと。行くぞ」
 拭き終えてハンカチを仕舞うと、鈴はさっと歩き出す。
 鈴がいきなり浴衣で現れて、僕も気合入れた方がよかったのかな、と思ったけれど、鈴と一緒ならこっちのほうが良かったのかもしれない。浴衣だったらハンカチ一つ持ち歩くのも苦労しそうだ。
 と、ここでまた「夏祭り」が聞こえてきた。今度ははっきり。
 大通りの交差点の真ん中で、バンドをしている人たちがいる。まあ、そのまんまの選曲だった。原曲自体それほど聴いたわけでもないので、上手いかどうかは分からない。
 腕を引っ張られた。
「ちょっと待て、どこ行く気だ」
 射的の屋台の前。鈴が僕を睨む。
「またよそ見か」
「射的やるの?」
「ごまかしてるだろ」
 うん、その通り。保護者気取りしてる場合じゃありませんでした、すみません。
 黙って並べられている鉄砲を手に取る。割にしっかりした作りに見えたけど、持ち上げて見るとずいぶん軽い。
「……あ、コルク鉄砲ね」
 火薬じゃないのか。
 なんだか、残念な気がする。いや、火薬を使う射的屋台なんてあるわけないんだけどさ。
「理樹、先にやるか?」
 隣の銃をいじっていた鈴が、なんだか心細そうに言う。おっかなびっくり、という感じに銃を置きながら。
「うん、ちょっと自信あるかも」
 おじさんに小銭を渡す。400円。あんまりかさ張る景品もない。
 ここらでいいとこ見せとこう。と思ったら、鈴は隣の型抜きにもう目を奪われていて、見ちゃいない。
「あれ、楽しそうだな」
 騒がしい人通りの中で、隣の一角だけは不思議な静寂に包まれている。見ていると、画鋲が台を突く音が聞こえてきそうだ。
「お兄さん、やんないの?」
「あ、すみません」
 催促された。いつの間にか若い男のグループが並んでいる。
 鈴に先に型抜きしてるよう言って、僕は銃を構えた。12時方向。狙いをつけて引き金を絞る。緊張感もないし引き金も軽い。パコ、と間抜けな音がして、コルク詮が猫のぬいぐるみの眉間に当たる。少し揺らいだだけで倒れはしない。もう二度当ててもだめだった。
 まあ、こんなもんか。
「残念だったね」
 おじさんはニヤニヤしながら酢昆布をくれた。なんで酢昆布なんだろう?
 列を離れて隣の屋台。なかなか多くの人が台を囲んでいるのに、やっぱり不思議に静かだ。鈴はまだ始めていないで、その周りをうろうろしていた。
「なかなか上手かったのに、惜しかったな」
「あー、うん。まぁね」
 あんまりカッコいいもんじゃない。
「理樹、もし5000円もらえたらどうする?」
 型抜き表を指差す。最高賞金が5000円。
 いや、貰ってどうしよう、という金額ではない。というか今でもそれくらい持ってきている。
「鈴はどうするの?」
 困ったときのごまかし。でも鈴は腕組みして真剣に考え始めた。
「あたし? あたしか……そうだな」
 うーん、と唸りながら、なぜかニヤついたりしている。
 どちらにせよ、5000円くらいになるといちゃもん付けられて貰えないのが関の山だろうけど。
 そういえば、もし、と考えることも減った。もし魔法が使えたら、なんてね。今では、あるとしても、もし地震に遭ったら、とかそういうろくでもないことばかりだ。もしやり直せたら、とか。
「それじゃ、一緒にどこか行くか!」
 パッと顔を輝かせて、鈴は言った。
「……5000円で?」
「ばかか? 無理に決まってるだろ」
 まあ、そりゃそうだ。たぶん積立金の一部みたいな意味なんだろう。
「こーいうの、あいつ上手そうだよな」
「あー……そうだね。というか昔やってたような」
 懐かしい話だ。
「おじさん、一枚」
 鈴は串団子の絵を指差して、100円玉と引き換えに薄っぺらな板と画鋲を受け取る。
 しゃがみこんで、端の方からそっと削り始める。その横顔は無邪気なんかじゃなくて、もう真剣そのものだった。なんだか怖い。
 それにしても、旅行か。いつ以来になるんだろう。
 汗で張り付いた前髪をかきあげて、鈴はちっぽけな板切れにまた向かい合う。どうか壊れないでくれよ、と思った瞬間、鈴がむせて真っ二つに割れてしまった。
 よほど悔しかったのだろうか。鈴は元気がなくなっていた。手にはヨーヨーと残念賞の駄菓子を詰めてもらった袋をぶら下げている。親切な人でよかった。
 しばらくはむくれてて可愛いな、なんて思ったけれど、それにしてはちょっと落ち込みすぎじゃないだろうか。というか、型抜きが終わったころはまだ元気だったのに、急に屋台に興味を示さなくなった。
「どうかしたの?」
 訊ねてみても、
「どうもしてない!」
 と言い返されるだけだった。
 でも鈴の表情は険しい。歩くペースも落ちた。心持ち足を引きずっているような。
 そう思ったところで、やっと気が付いた。
「ちょっと疲れたね、休憩しようか」
 鈴も頷いた。

 案内板を頼りに、近くの公園まで来た。真っ暗な中、誰かの花火の光だけが見える。鈴をベンチに座らせて、草履を脱がせた。指の隙間が赤くなって、皮が浮いてしまっていた。 痛い? なんて聞こうと思って、やめる。痛くないわけがない。ポケットティッシュを取り出して、でも水のみ場がどこにあるか分からない。
 仕方がないので、どうかな、とは思ったけれど、つばで少し湿らせてから、傷口に宛がった。鈴が痛そうに声を上げる。ちょっと息を漏らしただけなんだけど、はっきりと耳に届いた。辺りにはばちばちと火花が散る音と、太鼓の拍子が遠く聞こえるだけだった。
 ちょっと考えれば分かりそうなものだったんだけど。いたたまれない。
 鈴は気を使ってくれたんだろうか。
「お腹すいたな」
 そう言って浴衣の帯の上、お腹をさすった。
「遊びばっかりだったからね」
「うん。たこ焼きとか食べればよかった」
「なんか買ってくるよ」
 鈴はなにも言わなかった。
 公園を出る。歓声が聞こえた。
 アンコールでもかかったんだろうか、また「夏祭り」が流れた。それにかぶせるように、太鼓と笛の音が大きくなる。盆踊りの会場が近い。
 そういえば、鈴を独りにしてしまって大丈夫だったんだろうか。考えて見ると、危ないことだ。かといって何も持たずに帰る勇気も、ない。
 子供のころ、一度不安になるとちょっと暗い場所でも怖かったみたいに、別の嫌な想像が沸いた。もし、鈴がいなくなってしまったらどうしよう?
 いや、うん、馬鹿げてるんだけど。
 鈴はちゃんと今、この夏、僕のそばにいる。遠くもないし夢でもない。
 それでも足を急がせた。
 ヤキソバとジュースをそれぞれ二つ買って、暗い公園へ戻った。ちょっと見ただけでは鈴がいるかどうか分からなかったけど、目が慣れれば、さっきのベンチに誰か座っているのが見えた。
「鈴」
 声をかける。返事はない。
「鈴でしょ?」
 不安になって、駆け寄る。
 鈴はちゃんと居た。さっきと同じ場所に座っている。
 でも、一人で泣いていた。
 手には駄菓子の袋を持って、袖で涙を何度も拭っていた。
 言葉もかけられないで、ただ、鈴の持っていた袋を手に取る。『まめ知識 盆踊りの由来』と書かれていた。盆踊りは、お盆で帰ってきた霊を踊りに巻き込んで、存分に楽しませて返す儀式だ、とか、なんとか。
 こんなときかけてあげる言葉の一つも見つからない。慰めなんてあるわけないし、もし、なんて想像する余地もない。
 公園の真ん中で、打ち上げ花火が上がる。パン、としょぼくれた音がした。木に隠れて、火花は見えなかった。
 たむろっていた連中が引き上げていく。また静かになる。
「足は、大丈夫?」
 鈴は頷いた。手を取って、ベンチから立たせる。申し訳ないけれど、ヤキソバとかはここに置いていってしまおう。
「盆踊り、やってみる?」
 この足じゃ無理かな、と思ったけれど、鈴はまた頷いた。
「でもやりかた分からん」
「さあ、僕もわかんない」
 でも適当でいいんじゃない? と言った。鈴は笑わない。
 鈴の手を握る。辺りは本当に暗くて、なにがあるか分かったもんじゃない。だから離さないようしっかりと。
 好きだよ、と言うと、鈴はまた頷くだけだった。


[No.568] 2008/09/13(Sat) 00:02:29
――MVP的K点―― (No.548への返信 / 1階層) - 主催

これより後の投稿作はMVP選考外とします。
これ以降の投稿ももちろんオーケーですので、びしばしどうぞー。


[No.569] 2008/09/13(Sat) 00:11:35
直枝理樹のある生活 (No.548への返信 / 1階層) - ひみつ@22336 byte EX微バレ 大遅刻&容量オーバー

 『さようなら二木さん』
 さようなら直枝。
 『短い間だったけど、僕は、楽しかったよ』
 私も、貴方と過ごせて本当に楽しかった。
 でも、それもおしまい。
 『……』
 直枝はもう、何も言ってくれない。
 それが最後。





 直枝理樹のある生活





 最初の出会いは女子寮内の見回りをしている時だった。


 「ここも異常なし、と」
 一日の最後を締める女子寮内の見回りを終えて私はようやく一息ついた。
 学園に満たない広さではあるものの、女子寮内全部を一人で見て回るのはやっぱり時間が掛かる。
 早く部屋に戻ってお茶でも飲もう。
 そう思って廊下の電気を消そうとして、あるものに気が付いた。
 「何かしら?」
 廊下の隅っこに置かれた、手の平大サイズの物体。
 私は少し警戒しながら恐る恐るそれを拾い上げた。
 ふわふわとした柔らかい、綿の感触が手に伝わる。
 「ぬいぐるみ、かしら?」
 人のような形はしているが黒いだけのそれは何を模ったのか分からない。
 何気なくそれを裏返して、そこで私の思考が急停止した。
 「――な、直枝!?」
 そのぬいぐるみは直枝理樹にそっくりな人形だった。
 何で直枝の人形が落ちてるわけ?
 誰がこんな物を作ったのかしら?
 そもそもどうして直枝なの?
 え?直枝?
 え?えぇっ!?





 「はぁ…」
 シャワーを浴びて私はようやく落ち着きを取り戻した。
 あの後、パニックを起こす思考を引きずりながらも、私は直枝人形(仮)を部屋に持ち帰ってきた。
 女子寮内に落ちていたのだから間違いなく女子寮生の物だろう。
 寮生の落し物を預かるのも寮長の仕事のひとつであって、別に欲しかったからとかそういう訳じゃない。
 ええ、そうよ。
 誰にともなく言い訳した私はもう一度、問題のぬいぐるみを手に取った。
 当たり前だが既製品ではなく手作りである。
 直枝のぬいぐるみがファンシーショップに並べられているなんて幾らなんでもシュールだと思う。
 それでもかなり上手に、それこそ既製品に近い完成度である。
 頭から紐で吊り下げられたぬいぐるみの直枝が紐を中心に右に左にとくるくる回る。
 半球型のボタンで作られた円らな瞳。
 男の子っぽい髪型なのに女の子っぽさを感じる可愛らしさ。
 そして何より特徴を捉えた優しい微笑み。
 「やっぱり、直枝、よね…」 
 直枝理樹。
 私と同じく寮長を務めていて、今や棗先輩に代わってリトルバスターズの新リーダーとなった彼。
 そして、修学旅行の事故から妹の命を、また、私たち姉妹を家のしがらみから助け出してくれた恩人でもある彼。
 ぬいぐるみはその直枝の身体的特徴だけでなく、彼の最大の魅力である優しい雰囲気もよく捉えていた。
 ただ、少し可愛らしくデフォルメされているせいか普段から男っぽくない直枝がより女の子らしく感じられた。
 かろうじて学園の男子制服に身を包んでいることが男子であることを主張しているように思えた。
 しかし、一体誰がこんな物を作ったのか。
 女子寮内に落ちていたのだから間違いなく女子の物と見ていいだろう。
 仮にも男子が直枝のぬいぐるみを作って持っているなんて可能性がゼロでなくとも想像したくない。
 そしておそらく、というかこれもほぼ間違いなくリトルバスターズのうちの誰かの物だ。
 その中でもぬいぐるみを持っていそうな人となると…。
 「神北さんかクドリャフカあたりかしら?」
 もしかしたら棗さんも持っているかもしれないが、流石に幼馴染みの人形は持たないだろう。
 一瞬だけ頭の中に、はるちん無視するなー!と騒ぎ立てるアホの妹が映ったけど全力でスルーした。
 葉留佳が裁縫なんて器用な真似ができるとはとても思えない。ええ、ありえないわ。
 神北さんもクドリャフカもそそっかしい部分はあるけれど、二人ともああ見えて器用な手先をしている。
 料理の腕も良いので、裁縫だってぬいぐるみの一つや二つ、簡単に作ってしまうかもしれない。
 「でも、クドリャフカが、ねぇ…」
 クドリャフカがぬいぐるみを作っている姿はルームメイトである私も見たことがない。
 それに犬や熊といった動物のぬいぐるみは持っていても、彼女が直枝のぬいぐるみなんて持つだろうか。
 一応、直枝はクドリャフカの想い人でもある。
 好意を寄せる余りその相手の人形を作ってしまいあまつさえそれを愛でている、というのは恥ずかしがりやの彼女からは想像できない。
 いや、寧ろそれ以上に何か危ない雰囲気すら感じてしまうような行為に思えてきた。
 そう考えると人形の持ち主がクドリャフカである可能性は低いかもしれない。
 「となると、やっぱり神北さんかしら…」
 ある意味、クドリャフカ以上に子供っぽい彼女なら直枝の人形を作っても許されるような気がする。
 もっともそれを指摘した途端に驚きの声を上げて真っ赤になる様子も想像するに容易い。
 「よし」
 神北さんの部屋まで届けよう、とそこまで考えて立ち止まる。
 まだ起きている生徒も沢山居るだろうけど、消灯時間が過ぎてから出歩くのは好ましくない。
 「また明日にでも渡そう…」
 ふぁ、と小さいあくびが零れた。
 少し考えごとしただけなのに何故だかいつも以上に疲れてしまった。
 これも全部直枝のせいだ、などと責任転嫁しながらもベッドに倒れ込む。
ぼふ。
 自然と顔が向いた先にあったベッドにルームメイトの姿は無かった。
 そういえばクドリャフカ、誰かの部屋に遊びに行ったのかしら…
 まあ、そのうち戻ってくるでしょう、と沈みかかった頭が結論付けた。
 おやすみ、クドリャフカ…





 ピピピピピピ…

 朝。

 目覚まし時計から控えめな電子音が聞こえる。
 私は朝に弱いから他の人より早い時間にセットしているため、周りに迷惑を掛けない程度の音量しか出ないようになっている。
 とは言っても、やっぱり眠たいものは眠たい。
 秋も終わりに近付いたこの時期の朝、布団のぬくもりから出るのは辛い。
 昔からの慣習になってしまった朝の五分間の抵抗を見せようと身じろぎする。
 ふに。
 右手に柔らかい感触。
 またクドリャフカがベッドに潜り込んだのかしら…
 確認しようにも重く閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。
 ふにふに。
 罰としてこれくらいはしないと…
 寝惚けた頭に小さな悪戯心が生まれ、しばらくその感触を楽しむことにした。
 ふにふに。
 あら?
 ふと違和感を覚えて手を止める。
 いつもならこうしてふにふにすると、わふー…、という声を漏らす筈なのに今日はそれがない。
 それに寝惚けてたからすぐには気付かなかったが、右手に感じる柔らかさは彼女のそれとはまた違った感触がする。
 意識がはっきりしてきたのを感じ取り、ゆっくりと瞼を開く。

 目の前に直枝の笑顔があった。

 「きゃあああああああぁぁぁっ!!」
 「わふーーーーーーーーーーっ!!」

 早朝の女子寮内に私の大きな悲鳴が響き渡った。





 「大丈夫ですか?佳奈多さん」
 「…ごめんなさいクドリャフカ」
 「いえいえ。佳奈多さんが大丈夫ならのーぷろぶれむ、なのです」
 そう言ってクドリャフカは器用な箸使いで冷奴を半分に切って片方を口に運ぶ。
 今朝の騒動のせいで食堂は普段より早くから朝食を取る女子の姿が多く見られた。
 彼女らに済まないと思いながらも、今朝の事件を思い出すだけでまた顔が熱くなるのを感じた。
 何とか事件はうやむやな状態で幕を閉じて周囲には悲鳴の正体が私だと悟られずに済んだ。
 目の前のルームメイトを除いて。
 「本当に大丈夫ですか?顔赤いです」
 「ほ、本当に何でもないから…」
 心配そうに見つめるクドリャフカに無理やり作った笑顔で返した。
 まさか、昨日拾った直枝の人形をうっかりベッドに置いたまま寝てしまい朝起きたらそれを抱いた状態で寝ていてその上目を覚ました時に人形を本人と間違えて思わず悲鳴を上げてしまいました、なんて口が裂けても言えない。
 アイデンティティ云々以前の問題で、人としてどうかと疑われる間抜けっぷりである。
 「あ、リキ。おはようございます」
 びくっ!
 リキ、という言葉に反応して肩が揺れる。
 振り返ると、おはようクド、と挨拶を返す直枝がいた。
 直枝の後ろにはまだ眠たそうな井ノ原や朝練を終えた宮沢の姿もある。が、今はそんなことどうでもいい。
 「二木さんもおはよう」
 にっこり笑う直枝の表情が人形と被って見えて嫌でも今朝の騒動を思い出させる。
 そうよ。全部直枝のせいだ。
 私を変に疲れさせるのも、朝っぱらから恥ずかしい思いをしたのも、今こうして羞恥に耐えなければいけないのも全部直枝のせいだ。
 しかし、当の直枝はそんなの知らないと言わんばかりに暢気に笑っている。
 なんていうか、すっごいムカつく。
 その可愛らしい顔にお似合いな可愛らしい人形を思いきりぶつけてやりたいが、完全に八つ当たりだと理性が押し止める。
 やっぱり暴力はいけないので人形の代わりにキッと鋭い視線をぶつけてやった。
 「ぁぅ…」
 たじろいだ。いい気味だわ。
 直枝を庇うように宮沢が間に割って入るが、私は無視して食堂を後にした。





 右に、左に、くるくる。
 「…どうしよう、これ」
 手から吊り下がった直枝人形を眺めながらひとりごちる私は寮の自室に帰ってきていた。
 部屋の窓から僅かに差し込む弱々しいオレンジ光線が放課後から時間が経過していることを物語っていた。
 結論から言うと、この厄介な人形をまだ返せずにいた。
 神北さんの教室まで届けるだけなのだが、当然2−Eには直枝がいる。
 今朝の一件もあって直枝に会いたくなかった私は神北さんが休み時間に一人になる機会を伺った。
 が、リトルバスターズの結束力の仕業か、休み時間になる度に直枝の傍には神北さんの姿があった。
 それだけでなく、私の葉留佳やクドリャフカまで直枝にべったりと引っ付いて離れなかった。
 結局、神北さんと接触できず時間だけが過ぎていって放課後になってしまった。
 今も直枝らと一緒にグラウンドで野球の練習をしている。
 クドリャフカもいないので、私は一人こうして頭を抱えながら直枝人形を持て余していた。
 右手の直枝は相変わらずといった様子で笑顔のままくるくると回っている。
 「…本当にどうしようかしら」
 すると、ずっと左右に回っていた直枝がこっちを向いたままぴたりと止まった。
 にっこりと笑顔で私の顔を覗き込んでくる。
 『二木さん、二木さん』
 なんていう声が聞こえるような気がした。
 ぺしっ。
 なんとなくムカついたのでデコピンをお見舞いしてやった。
 私のデコピンの威力に直枝はじたばたと飛び跳ねる。
 やがて落ち着くと再びくるくると回り始めた。
 もう一発お見舞いしてやる。
 ぺしっ。 じたばた。
 もう一発。
 ぺしっ。 じたばた。
 少し強めに。
 びしっ。 じたばた!
 せーいっ!!
 びしっ! じたばたじたばた!
 うりゃーっ!!
 びしっ! じた、 ぷちっ。
 「あ」
 飛んだ。
 直枝は私の手から離れ、壁にぶつかってころころと床に転がった。
 焦った私は思わず駆け寄り、直枝を拾い上げる。
 『いてて…ひどいよ二木さん』
 表情は笑顔のままだけど、直枝の顔は何処か拗ねているようにも見えた。
 幸い、ぬいぐるみの直枝には怪我ひとつ無かった。当たり前のように思えるけど。
 しかし、頭にあった紐は根元から千切れてしまい直しようもない。
 「ああ、どうしよう!」
 たとえ直枝とはいえ、他人の物を壊してしまった。
 …くっつかないかしら?
 焦るあまり混乱した私は何度も千切れた紐の先を直枝の頭にくっつけようとする。
 無駄だと気付いたのはそれから二分後のことだった。





 「これで、よし、と」
 パタン。
 ソーイングセットの蓋を閉じた私は直枝を両手で掲げてみる。
 たらん、と頭から垂れ下がった紐を見て私は満足げに頷いた。
 ふと、神北さんもこれを作ったとき、こうしていたんだろうかと思った。
 『ありがとう二木さん』
 「お礼なんていいわ。その、私が悪かったんだから…」
 『それでもお礼くらい言わせてよ』
 「そ、そう?なら勝手にすれば?」
 『うん。ありがとう二木さん』
 にっこりと笑顔を浮かべる直枝に気恥ずかしくなって顔を背けた。
 ちらっと横目で伺うと、直枝は変わらない表情で私を見つめていて、それが妙にムカついた。
 『それよりさ、二木さん』
 「…なによ?」
 『あ、えと、一緒に遊ばない?』
 「…は?」
 『だから、また一緒に遊ぼうって…あ、あはは』
 気圧されたように愛想笑いをする直枝。
 私は直枝の言っている意味が理解できず聞き返した。
 「またって、私がいつ貴方と遊んだって言うの?」
 『え、昨日の夜とか、さっきもそうだよ。こう、くるくるーって』
 アレか。
 私が直枝を眺めている間、直枝にしてみれば遊んでるということらしい。
 よく分からないが、それが直枝の感性なのだろう。
 「…まあ、そんなのでいいなら」
 『うん』
 またにっこりと笑う。
 私は千切れないように紐の先を摘んで持ち上げた。
 宙に吊るされた直枝は右に左にとくるくる回る。
 くるくる、くるくる。
 『楽しいね、二木さん』
 「そう?よく分からないわ」
 『少なくとも僕は二木さんと遊べて楽しいよ』
 ドキン、とした。
 直枝の言葉に顔が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
 ちらり、と直枝の顔を覗き見る。
 楽しそうにくるくると回る直枝は私の様子に気付いてないみたいだ。
 ほっとする半分、なんとなくムカついたので紐を摘んだ右手を左右に振ってやった。
 勿論、紐が千切れないように手加減はしている。
 ぶんぶんぶん。
 同じように直枝の身体も勢い良く左右に振られる。
 ぶんぶんぶん。
 『わ、わ、わぁ!ふ、二木さん!?』
 「どうしたの直枝?楽しいでしょう?」
 『いや速いから!速すぎですから!』
 「そんなことないわよ、ねえ?」
 『と、止めてよっ!止めてーっ!』
 楽しい。
 絶叫する直枝を見て私は素直にそう思った。





 「…何やってるのよ、私」
 食堂で夕食を済ませ、部屋に戻った私は激しく後悔した。
 何を、と言うと直枝人形のことである。
 デコピンして遊んでいて、紐が千切れたのを直して、その先から夕食の前までの記憶が酷く曖昧だ。
 よく覚えてないが、かなり恥ずかしいことをしていた気がする。
 それこそ周りから奇異な目で見られてもおかしくないようなことを。
 大体、いい年してぬいぐるみで遊ぶなんてどうかしている。
 それもこれも全部直枝と、この忌々しい直枝人形のせいだ。
 さっさと神北さんに返してしまおう。
 そうだ。それがいい。
 私は決心して直枝人形を掴んで神北さんの部屋へ向かった。
 手の中の直枝が少しだけ寂しそうな表情をした。
 そんな気がする筈も無いのに。





 神北さんの部屋の前までやってきた。
 もう一度、手の中の直枝人形を確認して、控えめにドアをノックする。
 コンコン。
 ガチャ。
 「はーい。あ、かなちゃん。こんばんはー」
 「こ、こんばんは、神北さん」
 中から出てきた神北さんは、直枝とはまた違う明るい笑顔をしていた。
 やっぱりかなちゃんと呼ばれるのは慣れない。
 訂正を求めても直らないし、あーちゃん先輩と違ってあまり強くも言えない相手なので流しているけど。
 「ささ、あがって。お菓子もいっぱいあるよー」
 「いいわ。すぐに済む用事だから」
 「ふえ?何かご用事ですか?」
 「ええ。ぬいぐるみの落し物なんだけど、これ」
 私は直枝の人形を神北さんに見せた。
 が、神北さんの反応は予想していたものとは違った。
 「うわー!理樹くんにすっごいそっくりだよー」
 両目をきらきらと輝かせて直枝の人形を眺めている。
 まるで、初めてそれを見るような目だ。
 「これは神北さんの物ではないの?」
 「ふえ?違うよー。あ、ゆいちゃん。見て見てー」
 「だからゆいちゃんはやめろと、…む?」
 通りがかった来ヶ谷さんが私の手にある人形を覗き込んで何を悟ったのか、ふむ、と頷いた。
 「来ヶ谷さん。何か分かりましたか?」
 「ああ、分かったぞ」
 そう言ってニヤニヤと笑みを浮かべて私の肩に手を置いた。
 嫌な予感がする。
 「ぬいぐるみを愛でるとは君も存外に乙女だということか」
 「へ?」
 「ゆいちゃん。かなちゃんは女の子だよー」
 フォローのつもりなのか知らないが、神北さんの言葉はスルーした。
 来ヶ谷さんも同様だ。
 「だがそういうのは自室でやるといいぞ。余りの出来栄えに自慢したくなる気持ちも分かるが」
 来ヶ谷さんは一人だけ納得したかのように頷いている。
 物凄く嫌な勘違いをされてしまった。
 なんとか訂正しないと私の人格が破壊されてしまう。
 「いや、ですから…」
 「まあ、少年には黙っておこう。佳奈多君の楽しみを邪魔するわけにもいかんからな。私はこれで失礼する」
 「ですからっ!」
 私の言葉に耳を貸さず、はっはっは、と笑い声だけ残して来ヶ谷さんは去っていく。
 終わった。
 なにかもう、色々な意味で。
 その場に残されたのは絶望に打ちひしがれる私と状況を理解していない神北さんだけだった。
 「……」
 「……」
 「えっと、お菓子食べる?」
 「いりませんっ!」
 「ほわぁ!?」
 怒鳴ってしまった。





 「本当にどうしよう、これ…」
 私がシャワーからあがると、クドリャフカは既に自分のベッドの中で眠っていた。
 時折、寝言のように、わふー、という声が漏れている。
 私は髪を乾かすのもそこそこにベッドの上に仰向けになった。
 右手には直枝の人形。
 紐に吊り下げられて左右にくるくると回る直枝は何処か楽しそうに見える。
 「…貴方、本当に楽しそうね」
 『うん。楽しいよ二木さん』
 「殴っていいかしら?」
 『勘弁してほしいな…』
 変わる筈もない笑顔で愛想笑いを浮かべる。
 なんとなくそう感じるのだ。
 「ねぇ」
 『何?二木さん』
 「貴方の持ち主って誰なの?」
 神北さんという有力候補が消えた今、他に思いつくのはクドリャフカくらい。
 かといって、安易に訊ねてもし違ったら先程のような誤解を再び招くかもしれない。
 正直、来ヶ谷さんと神北さんだけでも辛い。
 来ヶ谷さんはともかく、神北さんは他の人にも気軽に話しそうで怖い。
 だから早く持ち主に返してしまって誤解を解かなければならないのに。
 けれど直枝は、うーんと唸るだけで答えない。
 「何で黙ってるわけ?」
 『意地悪してるわけじゃないんだ。ただ…』
 「ただ?」
 『知らないというか、知りようがないというか』
 「煮え切らないわね」
 知らないとはどういうことだろう?
 自分の持ち主くらいは知ってるだろう。
 『まあ、今の持ち主は二木さん、かな』
 「…はぁ」
 『う、ごめん』
 済まなそうにする直枝。
 とりあえず手掛かりはないので持ち主が現れるのを待とう。
 「なんだかとても疲れたわ」
 『そろそろ寝たらどうかな?』
 「誰のせいだと思ってるのよ」
 『すいません』
 「貴方、謝ってばかりね」
 『う、ごめ………はい』
 枕元に置いた直枝はしゅんと項垂れた。
 ちょっと可愛い。
 「おやすみ直枝」
 『おやすみ二木さん』
 自然と言葉が交わされた。





 それから数日。
 直枝の持ち主は一向に現れず、私もまた直枝のある生活に慣れつつあった。

 朝。
 『おはよう二木さん』
 「…お、おはよう直枝」
 枕元に置いた筈なのに、いつの間にか抱いて寝ていた。

 昼休み。
 『今日もパンなの?』
 「食堂だと人が多いでしょう」
 『偶にはいいと思うけどなぁ』
 軽くデコピン。
 ぺしっ。
 『いたぁ…ひどいよ二木さん』
 馬鹿。

 放課後。
 『お疲れさま二木さん』
 「……」
 『どうかした?』
 「貴方って本当に直枝そっくりよね」
 『まあ、僕も一応、直枝理樹だから』
 まるで直枝は二人います、と言っているような変な会話。

 夜。
 『今日も一日お疲れさま』
 「貴方も寮長なら見回りしなさいよ」
 『ちゃ、ちゃんとやってるよ』
 「本当に?」
 『…たぶん、おそらく、めいびー』
 葉留佳の真似かしら?
 何故だか分からないけどムカついた。
 ぺしっ。
 『えぇー』

 そしてまた一日が終わる。
 「ふぁ、…ん」
 『もう遅いし寝た方がいいよ』
 「そうね」
 『あ、えーと…』
 「…なに?」
 『引き出しはやっぱり嫌かなー、なんて…』
 「…やらしいわね」
 『えぇっ!?』
 「やっぱり貴方最低ね、最低」
 『べべ別にベッドじゃなくて机の上でいいからっ』
 「いいわよ」
 『え?』
 「…ぬいぐるみの貴方が何か出来るわけでもないし」
 人形の、と言いそうになった。
 他意はなくとも言われていい気分にはならない。
 『二木さんは優しいね』
 「やっぱり引き出しの奥に仕舞っておこうかしら」
 『えぇーっ!?なんでそうなるのさ!?』
 「冗談よ」
 『悪い冗談だよ…』
 直枝を枕元に置いて、私もベッドに潜り込む。
 『おやすみ二木さん』
 「……」
 『二木さん?って、わぁ!?』
 ぎゅっ。
 『ふ、二木さん?』
 「き、今日だけよ。さっきの、お詫び」
 『う、うん…』
 ドキドキドキ。
 どうしてだろう。
 ただぬいぐるみを抱いているだけなのに胸の鼓動が速く大きくなる。
 腕の中の直枝から鼓動は感じられない。
 当たり前だ。この直枝は人形であって人ではないのだから。
 でも。
 『ドキドキ、するね。二木さん…』
 「そ、そう?そうかしら?」
 『う、うん』
 「そう…」
 たとえ人形であっても、心臓がなくても緊張するのだろうか。
 あるいは、私がそうしてほしいと願っているのか。
 「なお、え…」
 『なに?二木さん』
 「もし…」
 もしこのまま、持ち主が見つからなかったら。
 その先を訊きたいのに言葉が続かない。
 『…おやすみ二木さん』
 おやすみ直枝。
 瞼が落ちる。
 最後に見た直枝の笑顔は儚げで弱々しかった。





 それを訊いてはいけなかったのだろうか。
 翌日、私と直枝の奇妙な生活から丁度一週間。
 その日の晩、遂に直枝の持ち主が私の前に現れた。




 「それで葉留佳ったら――」
 『……』
 「直枝?」
 『え!?な、なに?』
 「どうかした?」
 『ううん、大丈夫』
 今日の直枝は朝からずっとこんな調子だった。
 話しかけても何処か上の空で、くるくる回るお気に入りの遊びにも全く興味を示さない。
 直枝の笑顔には今まで見たことのない翳りがあった。
 私の胸に得体の知れない不安が湧き上がってくる。
 もしかすると逆で、私の中の不安が直枝の表情を翳らせているのかもしれない。
 只でさえ小さい直枝がますます小さく見えて、そのまま何処かへ消えてしまいそうだった。
 『二木さん…』
 「なに?直枝」
 襲い掛かる不安を払拭するように明るく振舞った。
 だが、直枝の表情が晴れることはない。
 『もし今、僕の落とし主が現れたら、二木さんどうする?』
 昨日の私の問いとは逆の問いかけ。
 直枝の言葉に少しだけ驚いたが、冷静を装って問いに答えた。
 「勿論返すわ」
 『だよね。ゴメン、変なこと訊いて』
 そう言ったときの直枝の表情がどうだったか分からない。
 ただ、昨日の夜と違ったのは確かだった。
 コンコン。
 小さくドアを叩く音が聞こえてまた驚いた。
 『誰か来たよ』
 「…そうね」
 直枝の言葉に答えながら、机の一番上の引き出しを開く。
 普段は鞄や引き出しに仕舞おうとすると嫌がるが、他の人がいる時だけは大人しくしてくれる。
 コンコン。
 もう一度、ドアをノックする音が聞こえてきた。
 「今開けるわ」
 ドア越しの相手に伝えると、手の中にある小さな身体を引き出しの奥にそっと仕舞った。




 ドアの向こうにいたのは先月この学園に転入してきた朱鷺戸あやさんだった。
 しかし、赤い顔で人差し指を合わせる仕草に普段の彼女とは違った印象を受けた。
 彼女はもじもじとしたまま一向に用件を話さない。
 じれったいとは思うものの、まだまだ勝手が分からない部分も多いだろうから此処で冷たくあしらうわけにもいかない。
 「あ、あのっ!」
 「なにかしら?」
 「お、落し物を探してるんですけど…」
 そこまで言って既に赤い顔をさらに紅潮させると俯いてしまった。
 落し物。
 その言葉に私は嫌な胸騒ぎが覚えた。
 思い当たるのはひとつしかない。
 「いつ、何を落としたのか教えてもらえる?」
 分かってる癖に、私の口からはそんな言葉が易々と出てきた。
 朱鷺戸さんは上目遣いで私を見ると、おずおずと話し始めた。
 「一週間くらい前で…お、落としたのは、その…ぬいぐるみ、です」
 間違いない。
 そういえば彼女もリトルバスターズの一員で、幼馴染みだと直枝本人から聞いたことがある。
 彼女の事をよく知らないというのもあって、朱鷺戸さんがぬいぐるみの直枝の持ち主だという可能性を忘れていた。
 「それで、その…届いてないですか?」
 朱鷺戸さんは恥ずかしそうにしながらも、やはりその表情は不安に満ちていた。
 きっと彼女は今日までずっと直枝のことを探していたんだろう。
 「ちょっと待ってて」
 私の言葉に、彼女は俯いていた顔を上げる。
 「は、はい!」
 彼女の表情に光が差したように見える。
 それとは反対に、私の胸騒ぎは押さえようの無い動悸へと変わった。



 ドアの向こうに朱鷺戸さんを待たせると、私は引き出しから直枝を取り出した。
 紐の先から吊るされた身体が右に左にくるくると回る。
 直枝の表情は一日ぶりに見る明るい笑顔だった。
 『また遊んでくれるんだ二木さん』
 「なによ。さっきも遊んであげてたじゃない」
 『そうだったね』
 もっとも、直枝は楽しくなさそうだったけど。
 言葉を飲み込んだ私は楽しそうに回る直枝をじっと見つめていた。
 こうして眺めていると、私の動悸が緩やかに治まっていくのを感じる。
 初めの頃は気付かなかったけど、どうやら直枝にはヒーリング、癒し効果があるようだ。
 「ねぇ直枝」
 『なに?』
 「貴方は知ってたの?」
 直枝の問いに答えた直後、直枝の持ち主である朱鷺戸さんが現れた。
 どう考えても彼女が現れるのを知っていたとしか思えない。
 『なんとなく、かな?そんな気がしてたんだ』
 直枝は困ったように笑う。
 嘘を言っているようには見えない。
 「で、どうするのよ?」
 『なにが?』
 「なにがって、持ち主が来てるのよ」
 帰りたくないの、と訊こうとしてはっと気付く。
 私は直枝を帰したくないと思っていることに。
 そもそも人形相手にそれを問うとはおかしな話だ。
 物が持ち主の手に返るのは当たり前なことで、そこに物の意思がある筈も無い。
 『帰るよ』
 言葉の意味をすぐには理解できなかった。
 『僕は、帰る』
 繰り返される言葉を聴いてようやくその意味を理解する。
 ずきり、と胸が痛んだ。
 「そう」
 『うん』
 一言交わし、直枝の身体を持ち上げた。
 在るべき場所に帰すために。
 『ねぇ二木さん』
 「なに?」
 『もし僕が、一緒に遊ぼうって言ったら』
 「いいわよ」
 『え?』
 「遊んであげるって言ってるの」
 『ありがとう二木さん』
 このときの直枝の笑顔はとても眩しかった。
 『あ』
 「なに?どうしたの?」
 『二木さんはやっぱり笑顔が似合うよ』
 「ぷっ」
 思わず笑ってしまった。
 『な、なんで笑うのさ』
 「貴方に言われてもね」
 困ったように拗ねる直枝は、誰よりも笑顔だった。
 出来ればもう少しだけ眺めていたかった。
 『あや、待ってるよ』
 「分かってるわ」
 『さようなら二木さん』
 ドアノブに手を掛けたとき、直枝は別れの挨拶を告げてきた。
 最後だというのに、相変わらずにっこりと笑っている。
 「さようなら」
 さようなら直枝。
 私も別れの挨拶を返す。
 『短い間だったけど、僕は、楽しかったよ』
 「そう?良かったわね」
 私も、貴方と過ごせて本当に楽しかった。
 でも、それもおしまい。
 『……』
 直枝はもう、何も言ってくれない。
 それが最後。
 私はゆっくりとドアノブを引いた。


[No.573] 2008/09/13(Sat) 19:55:03
奇跡の果てで失ったもの・蛇足 (No.563への返信 / 2階層) - 117

「…………」
 無言で一人、校庭に佇む理樹。満天の星空の下、それを見上げて自分の中に沈んでいく。
「断っちゃったなぁ」
 考えるのは当然、来ヶ谷の告白を断った事。泣かれなかったけれども痛々しい笑顔は心に突き刺さる。
 でも仕方ない、好きな人がいるのに告白を受ける方がよっぽど失礼な話だから。
「でも、なんで分かったんだろう。僕に好きな人がいるって」
 その人の事を、自分ですら知らないと言うのに。
 気がついたら恋をしていた。朧気な記憶の向こう、それが誰かも分からない、どんな人だったのかも分からない。その人の顔すらも知らない、不思議な感覚。
「でも、好きなんだよなぁ」
 溜息を一つ。もうどうしようも無い位に好きなんだって、自分でも分かる。
「本当に、誰なんだろう」
 好きだと気がついたのは、あの事故の後。霞むような繰り返す世界の中での恋なんだって、だから気がついた。
「……案外、僕が好きなのは来ヶ谷さんだったりして」
 冗談混じりに呟いた自分の言葉。それが妙にしっくりときた。

 奇跡の果てで失ったもの。それを取り戻せる時がいつか来るのだろうか?


[No.584] 2008/09/14(Sun) 23:41:16
[削除] (No.560への返信 / 2階層) -

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[No.586] 2008/09/15(Mon) 10:03:25
ありがとう〜Another Side〜 (No.557への返信 / 2階層) - 117

 どんな感傷だろうか、俺はここに来ていた。耳に聞こえる陸上部の掛け声が遠い。屋上の一角、今まで一度として来た事のない場所に立つ。
「…………」
 この景色が見れるのは恐らく今日が最後になる。それが覚悟になるとは情けない話ではあるが、実際ここに足を運んだ理由はそれに他ならない。明日より屋上は立ち入り禁止になるからその前に一度古式が死ぬ直前に見た光景を見ようと思っただけ。だけどそれが心に響き過ぎたから、古式と同じ時間でここからの町を眺めたくもなる。
「未練だな」
 自嘲する。
「そうだ。ただの、未練だ」
 自嘲する。
 何がしたいのか分からない。古式が見た風景を見て、何がしたいのか分からない。心の奥底ではここから飛び降りたいとでも思っているのだろうか? …………分からない。

 ガンッ!

 重い扉が開く音が背後から聞こえた。一瞬、そこに古式がいるような気がして硬直する。そんな訳ないのに、もう彼女はこの世にいないのに。
 動揺を隠すために少しだけ間を外し、そして誰がそこにいてもいいようにゆっくりと後ろを振り返る。そこに居たのは――恭介だった。
「よく、ここに俺がいると分かったな」
 心にあるのは安堵か、それとも落胆か。自分の心が分からない。
「校庭から僅かに姿が見えた。まさかとは思ったが」
 恭介はこれ以上ない位に真剣な眼差しでこちらを射抜いてくる。それだけで恭介の話の内容がなんとなく分かってしまった。先ほど感じた勘が正しかったのだと、恭介の様子が教えてくれた。そう言えば、部活からの呼び出しを喰わない為に携帯の電源を落としていた。漠然と、現実逃避気味にそんな事を思う。
「お前は、こんな所で何をしているんだ?」
 分かっている、それが本題でない事くらい。そして恭介も分かっているだろう、俺が古式の最期の光景を見ていることくらい。つまりこの問いかけは実際に何をしているのかを聞いているのではなく、俺の心の中を知りたいが為の質問だろう。古式の死を、本当に俺に伝えていいのかどうかを計る問い。
「…………ここからの景色、どう思う?」
 だから思った事をそのまま言ってやる。それがどんな結末になるか、俺にも判断がつかないが。
「綺麗だろう? …………俺もそう思う。だけどこれからは見れなくなる、屋上は立ち入り禁止になるらしい。まあ、仕方がないだろうな」
 ゴクリと緊張で喉が鳴る。言えるのか、その事実が自分の口で言えるのか。それがまだ自分でも分からない。

「古式のように、また飛び降り自殺する生徒が出てはかなわんだろうからな」

 杞憂。最上にサラリとその言葉は空気を震わした。
「本来ならば自殺なんていくらでもしようがあるはずだ。一つの場所だけ封鎖しても実質的な意味は少なかろう。だがまあ、学校側としても何かしなくちゃいけないというのも分かる。
 分かるが、そんな場当たり的な対処で古式が最期に見た景色を潰されてしまうのはどうも、な」
 あの言葉が出ればスラスラと滑らかに口が動いてくれる。そしてそんな俺を大丈夫と取ったのだろう、恭介は辛そうな顔で口を開く。
「――謙吾、落ち着いて聞け。実は先ほど古式みゆきが亡くなったと、病院から連絡が来た」
 その言葉を、なんの心の動揺もなく受け入れられた自分に驚く。それは予感がしていたせいか、それとも――本当は古式の事を何とも思っていなかったせいか。笑みを浮かべる事さえしながら返事が出来る。
「ああ、ありがとう恭介。なんとなくそんな気はしたんだ。虫の知らせというやつか。30分程前だろう? 古式が息を引き取ったのは」
 時間と空間に真空が生じる。俺と恭介、その間を何かが隔てている。この緊張感は、どこか剣道の試合を連想させた。
 ――そしてやがて、恭介が口を開く。
「なあ。古式は最後、お前になんて言ったんだ?」
 目が見開かれる。それは自分の中で封印していたはずの記憶、決して思い出すまいと思っていたソレを、恭介は容易にこじあけた。
「ありがとうございますって、言ったんだ」
 自分の表情は想像できない。ただ最後の意地で声色だけは変えずに口を開く。
「馬鹿だよな、俺。古式がありがとうございますって言って、もう大丈夫だなんて思った。そんな訳、あるはずなかったのにな…………」
 辛い、辛い辛い。そうだ、あの時に古式を引きとめられていたら、古式の決意を知っていたら。違った結末があったんじゃないだろうか? あの時、何か言葉を言えたら古式はっ…………!
「ここは空に近いな」
 突拍子もなくそういう恭介。
「古式の最期の場所で、空も近い。ここなら、もしかしたら古式に言葉が届くかもな」
 気休めだ。即座に俺の理性がその言葉を導いた。だけど同時、他の何か分からない部分が、恭介の言葉に強く惹かれる。
「そうだな、恭介」
 一言、そうとだけ言葉を置いて広がる世界を視界に収める。そこは、古式が最期に見た光景。
(ここならお前に届くかな、古式……?)
 俺の理性が否と言う。俺の何かが肯と言う。その矛盾を抱えたままで俺は古式への言葉を風にのせる。
「古式…………」
 一言だけで十分だった。そのたった一言で、俺の目から涙がこぼれる。だけど、それでも。体も声も震えずに言葉は風に乗ってくれた。
「俺にはそんな資格は無いのかもしれない、悲しむ事すら許されないのかもしれない。
 …………すまない、これは俺のワガママだ、分かっているんだ。だけど、悼ませてくれ…………。
 そしてな、これだけは伝えたいんだ。俺は、お前が大好きだった。俺と出会ってくれて、ありがとう」
 言いきった途端、体が震えた。嗚咽が漏れる、悲しみがよみがえる。
 ああ、そうか。今更ながらに気がついた。今の俺は、昔の理樹と同じなのだと。俺の心は閉じていたんだ、誰に対しても。だから古式の死にも動揺出来なかった。
 でも今は違う、今の俺は絶対に違う。今は悲しい、とても悲しい。精一杯に泣いて体と声を震わせて、それでも誰にも悲しみは理解されないだろうと思えるくらいに悲しい。
 でも、それでも心は開かれたから。もしかしたら幻かも知れない、もしかしたら妄想なのかも知れない。それだとしてもその時だけは古式の笑みが見えた気がした、古式の声が聞こえた気がした。



 ありがとうございます、そしてごめんなさい。最後にさようなら、宮沢さん。


[No.592] 2008/09/21(Sun) 00:49:53
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