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No.685に関するツリー

   第21回作品への感想や投票やその他 - 主催 - 2008/11/13(Thu) 00:17:25 [No.685]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - uma - 2008/11/18(Tue) 23:09:41 [No.715]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - 大谷 - 2008/11/19(Wed) 14:16:44 [No.716]
とても長いですが… - uma - 2008/11/23(Sun) 21:57:25 [No.717]
Re: とても長いですが… - 大谷 - 2008/11/25(Tue) 20:50:25 [No.719]
やっぱりとても長いですが…! - uma - 2008/11/29(Sat) 04:00:00 [No.746]
Re: やっぱりとても長いですが…! - 大谷 - 2008/11/29(Sat) 12:06:11 [No.747]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - ぶりかま - 2008/11/16(Sun) 23:49:24 [No.713]
前半戦ログ - ― - 2008/11/16(Sun) 01:43:54 [No.710]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - 蒼風 - 2008/11/15(Sat) 23:13:05 [No.708]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - uma - 2008/11/15(Sat) 15:45:04 [No.706]
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 - Foolis - 2008/11/15(Sat) 06:48:07 [No.705]
追記 - Foolis - 2008/11/15(Sat) 16:16:08 [No.707]



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第21回作品への感想や投票やその他 (親記事) - 主催

事前感想や事後感想、お名乗りなどにご利用ください。

[No.685] 2008/11/13(Thu) 00:17:25
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 (No.685への返信 / 1階層) - Foolis

「秋の夜長の過ごし方」「まちぼうけ」
とりあえずこの2本でお願いします。チャットに参加できましたら後1本追加するかも。
解釈をどうするのか迷っている作品があるので。


[No.705] 2008/11/15(Sat) 06:48:07
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 (No.685への返信 / 1階層) - uma

参加できないと思いますので、「小春日和」へ一票お願いいたします!

[No.706] 2008/11/15(Sat) 15:45:04
追記 (No.705への返信 / 2階層) - Foolis

ご存知の方も多いかと思いますが、自分のブログにてフライング感想を行っております。
今回仕事で更新しません、とかいていたのですが、仕事が思いのほか早く終わり、すごいミスをウルーさんにて突っ込まれましたので更新しました。
#該当作者の方々ほんとに申し訳ありませんでした。
普段からてきとーな感想ですが、もしよかったらのぞいてみてください。

http://d.hatena.ne.jp/foolis/20081115/p1


[No.707] 2008/11/15(Sat) 16:16:08
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 (No.685への返信 / 1階層) - 蒼風

たき火 作者の蒼風です。
感想会参加予定でしたが行けそうにないので、
紅い葉っぱに一票お願いします。


[No.708] 2008/11/15(Sat) 23:13:05
前半戦ログ (No.685への返信 / 1階層) - ―

ttp://www.geocities.jp/st58sp60/rog21-1.zip

『第21回リトバス草SS大会感想会前半戦〜来るとか言ってたかきさん来なかった後でボコる〜』のログです。

後半戦は21時スタート予定です。


[No.710] 2008/11/16(Sun) 01:43:54
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 (No.685への返信 / 1階層) - ぶりかま


 えー、「もみじ ゆうやけこやけ きんぎょ」作者のぶりかまです。
 性懲りも無く解読不能な作品を投稿してしまいましたので、これまた性懲りも無く作品解説をつけようと思います。

 まず始めに今回の話の下敷きは北原白秋の「金魚」という童謡です。
 この世にいない葉留佳を待ちながら、お山の家で退屈しのぎをしています。
 「一」「ニ」「三」はそれぞれ一匹め、二匹め、三匹めに対応してました。三匹めの後に目を閉じ、開いたところが冒頭部分になります。
 携帯電話が何度か出てきていますが、あの電話は初めから電源が入ってません。誰と会話していたんでしょう。
 それから、最後のお風呂の場面ですが、それまで佳奈多は自分の都合のいい情報だけを受け取り、大半の情報を無かったことにしています。それが、お風呂に入って気を緩めたことで感覚が戻ってきた、ために生臭さや騒がしさを感じている、ということにしたのですが、まあ、まるで書き込みが足りなかったところです。
 最後に佳奈多を見ていたのは、水面に映った佳奈多です。前述の理由により、佳奈多は自分が普段と何も変わっていないと思っているので、全くの別人、というか人間にすら思えなかったと。
 あと、お題ワードとしては「もみじ」で、お山の本家を綺麗な紅葉で覆ってみました。
 「夕焼小焼」についてはちょっとこじつけっぽいですが、お手てつないで帰る相手がいなくなったのに、それを受け入れていない佳奈多の狂気、ということで。

 いろいろ自分に制限をつけて書くのは楽しかったですが、読む方に親切でないというのは考え物なので、今後はもっと考えます。
 読んでいただいた方々、ありがとうございました。


[No.713] 2008/11/16(Sun) 23:49:24
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 (No.685への返信 / 1階層) - uma

「夏の終わる日。」を書いたumaです。11時位から書き始めたんですが…やっぱり一時間では到底間に合わず大遅刻。「秋」は季節としてでなく、夏季終了点という符号的な意味で使用しました。強い弱い云々はやっぱりこうお約束な話を書きたいとゆー欲求で…申し訳ない。どーも感傷的なシリアスは胡散臭さが抜けきらない…。
一応時間的な設定としては、理樹と鈴でバスから逃げて理樹がナルコレプシー(現実)→病を克服してない理樹は喪失を拒絶してるのでそのまま目を覚まさない(現実)→夏終わりそう(現実)→恭介達がしょーがないのでもう一回二人を虚構世界に引きずり込む→病院で目が覚めるトコ(虚構世界)→ここからずーーっと虚構世界のターン(奇跡の生還&海行き含む)。そんな感じで。
因みに、基本はリトバスのエンディング(Alicemagic)の歌詞からネタを引っ張ってきてますので、夢を夢として切り捨てるのではなく、夢は夢として大事に取って置く、とゆー方向だったんですが……力不足が露呈しました。敢えて有体に陳腐な言葉で言えば、「夏はまた来るし、夢もいつでも見られる。忘れさえしなければ」がこの話の本筋。鈴と読み手には完全スルーされましたが!(笑)「寂しくなったらいつでも戻ってこいよ、うまうー!」な超絶後ろ向きな希望溢れる話だったのに…!(いやそれ駄目だろう…)おかしい…鈴は知らないままでいて理樹も言わないままでいたら、読み手にも伝わらなかったマジック……がびんっ。

えー以下は後半ログ読んでない方には意味不明な自己弁護なので、スルーでおけですっ。麦藁人形の代りに…ちまちまとした反論を…いえ、最後告白ですけどね(笑)


「醒めない夢はないならプレイ後リトバス封印」は個人的には矛盾かと。ゲーム終了時点で現実に帰ってくる訳で、夢は醒めるからこそ再度見たいもの。だからこそ二次を書く。要するに「醒めない夢はないからこそ二次を書く」が論理的に正しい、とも言える。夢が醒めないものなら、二次を書く(醒めた夢に戻る)必要はなく、現実に帰らずずっとゲームやってりゃいい話。がこれも極論。この辺は「夢」という単語の定義づけ次第だし、多分言いたかったのはそんな重箱の隅を突く様な細かい定義の相違ではなく、折角夢見てるんだから、興醒めする様なもん書くなよ、って事だと理解。個人的には、夢も現実もどっちも同じくらい大事だと思いますが、読まれた小説に書き手の意思は必要無いものだとも思ってますので、読んだ人が夢を切り捨てた、と感じたならそれはその個人にとってはそういう話だという事になります。なのでそこは言い訳出来ない。しかし自分はこうした二次創作を夢ではなく、妄想と萌えと欲望と本能で書く如何わしい人間なので、何でこんな二次書くと言われたら、そらもう本能で書いたから、理由などない!と無駄にない胸を張るしか…煩悩まっしぐら(笑)。書くのが楽しい下手の横好き。もう色々末期ですんません…。作品の批評はともかく、こういう二次に於いて「書く」行為そのものを否定する権利は――しまったぁぁぁ著作権持ってる人にはあるなっ…!ま、まぁ…それはどっかに置いとくとしてっ…、結局は個人の感性次第で、「二次を書く」事に正しい定義などないというのが真実かと。
同時に、自分の持論を持つ事も大事だと思いますので、信念に合わない物を徹底的に否定するという心意気は、ある種書き手として純粋に格好いいと思います…(ぽ)。(何だ結局告白か?)
そして、チャット不参加の身では説得力が欠片もないというこの事実っっっ!まぁ…本当は反応貰えるとそれがフルボッコでも何でも嬉しいんですよね…不思議…。読んで下さって本当にありがとうございました!次は…次こそは読みオンリーでもいいからチャット現場にっ…!


[No.715] 2008/11/18(Tue) 23:09:41
Re: 第21回作品への感想や投票やその他 (No.715への返信 / 2階層) - 大谷

 どうも、反論先の大谷です。
「醒めない夢はないからこそ二次を書く」というのは正しいと言えば正しい話で、それそのものに反論する気はありません。ただし私が述べた、「醒めない夢はないんだったら君なんで二次創作書いてるの?」という「極論」は、リトバスの持つ「虚構世界/現実世界」という極端な二分法が必然的に要請するものであることは確認しておく必要があると思います。
 リトバスは「虚構世界」と「現実世界」のいずれか一方を選択するようにしか作られておらず、前者を選択することは幼児的で駄目な振る舞いであり、後者を選択することは倫理的な素晴らしい行ないであるとするゲームでした。その二分法的な枠組みに従う限りにおいて、虚構(「現実に帰らずずっとゲームやってりゃいい話」)と現実(「醒めない夢はないならプレイ後リトバス封印」)を往還するという中間的な回路(「「寂しくなったらいつでも戻ってこいよ、うまうー!」な超絶後ろ向きな希望」、「醒めない夢はないからこそ二次を書く」)は成立しません。リトバスにあってその往還は、一方で「現実世界」へ帰還する選択を称揚しておきながら、しかしその称揚の背後で、二次創作という名の「虚構世界」へとこそこそ舞い戻っている、という矛盾としてしか存在しえないでしょう。「醒めない夢はないんだったら君なんで二次創作書いてるの?」という私の言葉はその矛盾の指摘です(「折角夢見てるんだから、興醒めする様なもん書くなよ」とか割とどうでもいい言明として受け取られてしまったようなのでそれは同時に否定しておきます)。
 無論その矛盾を乗り越えて「醒めない夢はないからこそ二次を書く」とし、虚構を選択することや二次創作を書くことを肯定しようとするSSはありうるでしょうし、私もそんなSSを読んでみたいですが、「夏の終わる日。」がそのようなものであったかと言えばそうは読めなかったと言わざるをえません。

 最後に。「結局は個人の感性次第で、「二次を書く」事に正しい定義などないというのが真実かと」とはこれもまた正しいと言えば正しい話です。が、そうした相対主義は往々にして、他人との正常な会話さえ不成立にさせてしまうことには注意を払っていいと思います。「個人の感性次第」という魔法の言葉であらゆる反論を回避することになりかねないからです。


[No.716] 2008/11/19(Wed) 14:16:44
とても長いですが… (No.716への返信 / 3階層) - uma

ふざけた反論に真面目に返答ありがとうございます。驚きました。折角真面目に返して頂いたので、こちらも真面目に…。
非常に長くなりますが、お付き合い下さるとうれしいです。

まずはじめに、二分法という言葉の定義が私と少々違うようですので、その点確認したいと思います。二分法と聞くと私の中では無限級数が舞い踊るわけですがここではそうした意味ではない、という事でよろしいでしょうか?その意味での二分法であるなら、限りなく現実には近付くもののそれは近似でしかなく結局虚構からは抜け出せない事になりますし、逆に中間回路を許容する事にもなりかねません。ですので、ここでの二分法とはゼノンのパラドックス的な意味合いを元に、抽象的な表現として用いたものである、と解釈します。(アキレスと亀に代表されるパラドックス。そもそも運動が成り立たないとする理論。現実とのその矛盾からの連想的な”二分法”である、と考えます)
以降、二分法という言葉を「Aが肯定されるならBは否定され、またBが肯定されるならAは否定される」という一風変わった定義として扱います。

さて、改めましてご回答内容は、いわば後書きを読んだ後の作品に対する批評であり、先の発言である「夢を夢として切り捨てる」という感想の下導き出された「プレイ後リトバス封印」「君は何で二次書くの?」といった、「書く」事そのものへの批判に重点をおいたものというよりは、作品への批評、という観点から論理展開されたもののように感じました。私の反論へのご回答とするには、多少意味合いが異なるように思いますが、折角ご批評頂いたので、そちらの方は真摯に受け止めたいと思います。
よって、まずはこれは作品への批評である、として以下に回答します。

前回も述べた通り、作品に対する批評は「フルボッコでも何でも嬉しい」ですので、そこについて言及するつもりは毛頭ありません。ご回答を、書き手の意思を加味した上での批評として判断するなら、リトバスの二分法という趣旨を以て作品を矛盾であるとする理論は全く正しいものですし、その点について否定するものではありません。自分にない感性を感じる事は、私には楽に通じる面白さを伴うものですから、作品への批評、という事でしたら一切の否定はないと断言します。リトバスの趣旨を以てして「虚構と現実を往還するという中間的な回路」は存在しえないという論理を導き出す事は確かに可能です。中間的回路が存在しえない、というこれもまた個人の考察ですが、確かにそのような帰結も有り得るでしょう。
ご参考までに、私の解釈では、リトバスに於ける趣旨は寧ろその中間的回路が許されたもの、となります。”辛ければいつでも戻ってきていいし、振り返ってもいい心を閉ざしてもいい。それでも大切なものがあるなら再び現実へも戻れるはずである”という事を踏まえた上で、更に実際現実で生きる上では、”虚構は大切にしまっておき、それにさよならは言わない。一度現実に戻ってしまえば、きっともう虚構へ帰る事は出来ないかもしれないけれど、虚構を忘れさえしなければ、「寂しくなったらいつでも戻ってこいよ!」的な超絶後ろ向きな希望を持ちながら、現実を歩いていける。”と考えます。つまりは、人間的弱さへの赦しであり、また虚構からの忘れずにいてほしい、というメッセージをも内包している(帰る事が出来ない=虚構側からの諦めであって実際に虚構を切り捨てて帰られないとしている訳ではない)と解釈しています。ですが勿論、「虚構を選ぶのは幼児的で駄目な振る舞い」であり、「現実を選らぶのは倫理的な素晴らしい行ない」であって、その二分法を以て二者択一を迫るゲームである、という理解もまた成り立ちます。(ただ、これを以てしても私は、どんな内容の二次であれ「書く」事そのものを否定する事は出来ない、と考えます)。どちらが正しいのか、ではなく、これはやはり個人の感性、とするしかありません。この「個人の感性」という言葉を持ち出した事に関しては、後ほど理由が分かると思います。
次に、矛盾を乗り越えたSSならば読んでみたい、との事ですが、それはただ単に、矛盾を忘れるほど面白ければいい、という意味ではないと受け取ります。単に面白ければいいなら、ログでの、信念に合わないものは徹底的に否定するとした言葉とは裏腹になりますし、それこそ矛盾しますから。ですからこの発言は、例えば技巧的であるといった事以上に、ssは論理的に矛盾なく円滑に一つの物語として正しく完結している必要がある、という意味に理解しました。書き手の中で勝手に完結していても、それが読み手に伝わらなければ意味はなく、逆にいえば読み手に伝えるだけの技巧は必要で、そうした面も含めて読み手が「矛盾を感じた」時点で、そのssは確かに未熟であると言えます。「「醒めない夢はないんだったら君なんで二次創作書いてるの?」という「極論」は、リトバスの持つ「虚構世界/現実世界」という極端な二分法が必然的に要請するものである」という発言は、「夢から醒めるss」を他のゲームなら書いてもいいとしているとも受け取れますので、全ての二次(虚構)に於いて書いてはいけない、としている訳ではない。ならば必要であったのは、「夏の終わる日。」に関して言うなら、リトバスの趣旨として中間的回路が存在する事の明示と、その根拠への確かな論理展開があるべきだった(読み手の感じる矛盾を解決する=物語として矛盾を乗り越える)という事になるかと。この点については作品への批評として、ありがたく参考に致します。

さて、私が前回反論した問題ですが、これは作品への批評についてではありません。「醒めない夢はないならプレイ後リトバス封印」に関する事柄で、「君は何で二次書くの?」という発言から、これは作品に対する批評の一貫ではなく、個人に対する「二次を書く行為」そのものへ問題提起と受け取れました。ご回答を見る限り、結果としては作品への批評、という形に丸く収まっているようにも見受けられますが、これですと私の反論(ログでの発言を元にしたもの)と多少意味合いが異なるようですので、一先ず先の発言を問題提起とします。
ご回答内容自体は作品への批評と思われるものであって、「書く事」そのものへ言及した批判は殆どふくまれていないように感じますが、中に反論への回答と受け取れる論理も混在していますので、回答として認識した内容に間違いがあれば、ご指摘下さい。
前回「批評はともかく、書く事そのものを否定する事は――」と書きました通り、私が反論を奮起する要となったのは、「君は何で二次書くの?」という発言そのものです。
まず、私の解釈とは異なりますが、ご回答の「リトバスの持つ「虚構世界/現実世界」という極端な二分法」を肯定した上で話を進めます。つまり、書いた作品がリトバスの趣旨と矛盾している、とします(実はこの点はさして重要ではありません)。
ご回答に「一方で「現実世界」へ帰還する選択を称揚しておきながら、しかしその称揚の背後で、二次創作という名の「虚構世界」へとこそこそ舞い戻っている、という矛盾」という表記がありますが、これは、「二分法的な枠組みに従う限りにおいて」という発言から、リトバスの二次に限定した発言とします。ですが、これはあまり意味のある限定ではありません。二次というのものはそもそも個人の自由思想によって成り立つものであり、そうした特定の個人の思想的限定を受けるものではない。誰であってもどんな内容のものでも書く事を許されるからこそ、二次「創作」であると言えるからです。リトバスの趣旨から「書く」という行為の矛盾性を指摘する事は、「二次創作」という根本的な趣旨を無視しています。これはある種の詭弁であり、そうした意味で二分法的なパラドックスを孕んでいる、とも言えるでしょう(二次創作の根本的な趣旨を否定しながら、一方で二次創作におけるリトバスの趣旨を肯定している)。
これを、「ssの中で現実を称揚しておきながら自分はこそこそ二次を書いている(虚構へ舞い戻っている)じゃないか、それは矛盾だ」とする一般論に当て嵌めての議論だとしても、これもやはり成立しません。それは下記「二次を書く事そのものが矛盾である」という点を以て、発言そのものが論理的に破綻しており意味のないものと考えるからです。
例えリトバスに於ける二次に特定した上であっても、ゲームの趣旨と矛盾するものを書く事を認めない、とするなら、そもそも二次を書くべきではありません。リトバスに限らず、どんなゲームのどんな二次でも同じです。
それは「幼児的で駄目な振る舞い」だからではなく、二次創作が原作からの本質的な乖離を意味する行為であり、ゲームをするという受動的虚構から、二次を創作するという能動的虚構へ移行した時点で、受動的ゲームの趣旨は変質し、それを以て原作の趣旨を重用するという理論は成立し得ないからです。能動的虚構の主体者によって原作の世界観は新しく再構築され、それは受動的虚構の消失でもあります。これは原作への冒涜ともいえる行為に他ならず、「二次創作」という行ないには、原作を愛するが故に原作を冒涜する、という矛盾と葛藤が常に付き纏います。二次を創作するにはその矛盾と葛藤を受け入れる必要があり、その時点で二次の創作者は同時に冒涜者であり矛盾者である、ともいえます。
だからこそ私は、「二次を書く」という行為に派生する矛盾を肯定する。でなければ二次を受け入れる事もまた出来ません。世界観を好む人もいれば、そうした趣旨をそっちのけでキャラクターへの萌えで二次を書いたり読んだりする人もいるでしょうし、二次、とはそうしたあらゆる暴挙が罷り通るものです。現実には著作権の問題がある通り、そこには確かにある種の許容範囲は存在しますが、私は二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら、どんな趣旨のゲームであっても、どんな内容の二次を書いたとして「同じく二次を書く(もしくは読む)人間に、書く事自体を否定されるべきではない」と考えています。
勿論、作品そのものの矛盾点を指摘したり、批評を言い合い、好む好まざるを議論する事自体は大いに盛り上がっていいと思いますし、そもそもここはそういう場であると認識します。
「醒めない夢はないんだったら君なんで二次創作書いてるの?」という言葉について、「折角夢見てるんだから、興醒めする様なもん書くなよ」と理解した理由としては、二次を書く人間は少なからず、それがたとえ無自覚であっても、自分が原作を冒涜している、また二次そのものが矛盾の塊である、という感覚的な自覚を持っているはずだと思ったからです。同じく二次を書く人間が、同じく二次を書く人間に対し、「書く」行為そのものを批判するとも取れるような発言をした事に、それが感情的な理論であるならまだしも受け入れられると、自分にとって都合のよいように解釈した結果です。これについては、リトバスの趣旨からの矛盾の指摘である、というご意見のようですが…であるならば、これが「書く」事そのものへの批判では無いと思いたい所です。
もし、「書く事」への問題提起のつもりはなく、純粋に作品への批評のつもりだったとするなら、私の反論は全く的外れであると言わざるを得ません。ですがその場合、「君なんで二次創作書いてるの?」ではなく「君なんでこんな二次を書いたの?」とすべきだったと思います。前者と後者では、理由を問い質す言葉の位置があまりにも違います。
逆に、やはり「書く事」への批判であるとするなら、私はそれを狭隘と判断はしても迎合する事はありません。
それは大谷氏にとっても同じではないでしょうか。私の矛盾を理解はしても受け入れる事はないでしょうし、その平行論を以てして、私と大谷氏の間には「個人の感性」という緩衝材的役割を担う妥協が必要であると考えます。人となりを知っている訳ではありませんが、少なくとも信念を持っていると言明出来る方ならば、相手を説き伏せようとはしても、それを容易く曲げる事はないでしょう。しかしながらここは相手を論破するディベートの場ではなく、あくまで二次創作を楽しむ場であると思いましたので、「個人の感性」という言葉によって双方を認めたつもりでした。この言葉はけして魔法(原理はよく分からないけれどいつの間にか物事が解決している)の言葉として使用した訳ではなく、以上の根拠あっての言葉であり、反論つぶしの意図はありませんのでその点誤解なきよう。
とはいえ、筋道を立てず、何の説明もないまま一気に結論へ走り「個人の感性」として早々に片付けようとした自分の怠惰は反省すべきであり、ともすれば「他人との正常な会話さえ不成立」とする危険性を持っていたことは事実であると思います。ですので、謝罪と自戒の意味も込めまして、今回は出来得る限り順序立てて分かりやすく、先のご回答と整合性を持たせて持論を展開したつもりです(これが長くなった所以です)。

さて…今己の所業を省みると、どうやら私自身が二分法的であると気が付きました…中庸がない…(笑)

長くなりましたが、以上が私の個人的見解です。
しかし、私は直感的な人間であり、逆に大谷氏は理性的な人間である、と考えます。何故なら、私は直感的に大谷氏の発言を「おかしい」と感じ、その理由を考察した結果として、以上の理論が出てきたからです。確かに以前よりの持論もありますし、全てが後付けではないものの、やはり後付けの理論が内包されているのも確かです。もちろん論議によって止揚されるべき事柄もあるとは思いますが、何やら後出しジャンケンのようですので、その点明記しておくべきだと思いました。

最後に、遅くなりました事お詫びいたします。
直感的人間である所の私には、理論をまとめるのが中々に一苦労だったという一点、また、なにかと忙しく週に2、3度ネットができれば僥倖という身ですので、その二点を以てご容赦くださいませ…。


[No.717] 2008/11/23(Sun) 21:57:25
Re: とても長いですが… (No.717への返信 / 4階層) - 大谷

 丁寧なお返事ありがとうございます。丁寧すぎて本気でびびったというのが第一印象です。
「二分法」という言葉の定義はそれで構いません。不確かに使ってしまって申し訳ありません。
 さてumaさんの分類で言うところの「作品に対する批評」と「個人に対する「二次を書く行為」そのものへ問題提起」を、umaさんが綺麗に分割しているほどには私は分けて考えていません。私が問題にしているのは、虚構に対する作者の態度、とでも言うべきものであり、それは両者にまたがる形で存在しているからです(と言おうかそもそも、「夏の終わる日。」という一個の作品を読み、そこに表れている作家の創作にまつわる態度について問う、という自然な流れにあって、前者と後者を峻別し、前者はよいが後者は駄目であるとする理由の方が私にはよくわかりません)。
「「個人の感性」という緩衝材的役割を担う妥協が必要」との意見には賛成するため、以下、その妥協点を探るべく可能な限り整理して説明してみます。

 既に書いたように、私の眼から見てリトバスは、虚構と現実を往還するという中間的な回路は成立しないゲームであり、虚構を捨てて現実を称揚するゲームです。「その二分法的な枠組みに従う限りにおいて」と書いたのは、umaさんの「夏の終わる日。」もまたこの「二分法的な枠組み」に従って、虚構を捨てて現実へと帰還する様を描いたSSであると私には読めたからです。したがって私の理解を単純すぎるほど単純に要約すれば、「夏の終わる日。」は「夢なんて見てないで現実へ帰れ」と書いてあるSSだ、ということになります。しかし、その作者であるところのumaさんは同時に、そのようにして二次創作小説を書く、という振る舞いそのものにおいて、「現実」へ帰っておらず「夢」の側に立っています。これは端的に矛盾です。「夢なんて見てないで現実へ帰れ」という思想を貫徹する限りにおいて、その思想の持ち主は二次創作を書けないことになりますが、にもかかわらずどういうわけか二次創作を書いている彼に対して、私は、「君なんで二次創作書いてるの?」と疑問を投げかけざるをえません。それはまさしく疑問以外の何ものでもないからです。なぜ「君なんでこんな二次を書いたの?」ではなしに「君なんで二次創作書いてるの?」でなくてはならないかと言えば、問題は「夏の終わる日。」一作に限定されるものではなく、作中で示された彼の作家としての立ち位置に――彼の他の作品をも貫いているだろう彼自身の思想に――かかわるためです。「夏の終わる日。」一作についてどうしてこれを書いたのか、を問いたいのでは少しもありません。
 一つ注意を促しておくとすれば、ここで私は、umaさんが理解したように「ゲームの趣旨と矛盾するものを書く事を認めない」と言っているのではありません。そうではなくて、「夏の終わる日。」というSS自身が「ゲームの趣旨」なるものを受け入れているにもかかわらず、その内容を自ら裏切っているのは矛盾している、と述べています。したがって矛盾の生じている場所は、ゲームとSSの間ではなく、SSの内部です。言い換えれば、私がこの件を問題化しているのは、そもそも「夏の終わる日。」がそれを問題化しているからなのです。

 さて、今回の私の理解は大方以上のように整理できます。そしてこれに対するumaさんの返答は、リトバスは中間的な回路を許容するゲームであり、「夏の終わる日。」もまた中間的な回路を描こうとしたSSだった、というものでした。であるならばこの問題は、そのことを描ききれなかった「夏の終わる日。」の完成度の問題、もしくは、私たちの間に生じている原作に対する見解の相違、のいずれかに帰着するでしょう。前者に関しては読者である私の深く関与するところではありませんし、後者に関してはさしあたり別問題です。
 そんなわけで、私としては妥当な妥協点を発見できたように思っていますが、いかがでしょうか。

 以上で今回の私の返答は基本的に終了します。以下は誤解を防ぐための言い添えです。批判を無視したと思われると嫌なので、一応。

 私の発言を、「リトバスの趣旨から「書く」という行為の矛盾性を指摘する事は、「二次創作」という根本的な趣旨を無視してい」るとして批判する部分は、「リトバスの趣旨」を俎上に載せたのはそもそも「夏の終わる日。」自体だった、umaさんが意図していたかどうかは別として私にはそうとしか読めなかった、という既に上に書いた内容で、反駁或いは返答になるかと思います。
 また、私の今回の文章は、umaさんの言う「「ssの中で現実を称揚しておきながら自分はこそこそ二次を書いている(虚構へ舞い戻っている)じゃないか、それは矛盾だ」とする一般論に当て嵌めての議論」にかなり近いですが、それを「「二次を書く事そのものが矛盾である」という点を以て、発言そのものが論理的に破綻しており意味のないもの」だとする意見については、同じ返答を返しうるほかに、更に根本的な指摘をすることが可能です。二次創作にまつわる「葛藤」や「矛盾」や「冒涜」の問題は、そもそもこの件とは本質的に無関係である、という指摘です。なぜなら問題は二次創作に限らないからです。仮に「夏の終わる日。」が一次創作だったとしても、同じ問題はほぼ同じように成立するでしょう。
(問題は二次創作に限らない、と書いた以上はこれはどうでもよいことですが、あからさますぎる矛盾なので一応指摘しておきますと、「二次というのものはそもそも個人の自由思想によって成り立つものであり、そうした特定の個人の思想的限定を受けるものではない。誰であってもどんな内容のものでも書く事を許されるからこそ、二次「創作」であると言える」と言った直後に「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」と「特定の個人の思想的限定」を条件として掲げることの矛盾をどう解消されるのか、他人事ながら心配ではあります。)


[No.719] 2008/11/25(Tue) 20:50:25
やっぱりとても長いですが…! (No.719への返信 / 5階層) - uma

前回、こちらこそお返事ありがとうございました。
かえすがえすも申し訳ないです…あれだけ書いたのにどうやら私は基本的に言葉が足りないようで…。
しかもまたも遅くなってしまい申し訳ありません…!
まずは整理しまして、「あからさまな矛盾」と「作品の批評と書く事への批判とを分ける理由」と「不条理な小説(ゲーム)」として三つに分けて話を進めたいと思います。前回の妥協点に関しては、大谷氏さえそれでよろしければ、こちらとしても異論はありません。

まずは、瑣末な問題ではありますが、今まで一応、「二次である事」を大前提として論じてきましたので、その辺を先に解決しておきます。

最初に、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」が「特定の個人の思想的限定」にあたるのでは、というご意見ですが、この言葉以前に、「二次を創作するにはその矛盾と葛藤を受け入れる必要があり」としている通り、「二次を書く事は、二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れる事を必然とする」という図式を作っています。よって「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」は、言わば前置きを再度念押し強調したようなもので、二次を書く上での「特定の個人の思想的限定」にはなり得ず、理論上は矛盾しません。
「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」=「二次創作を肯定してさえいるなら」と単純に置き換えて頂ければよろしいかと。逆に、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れない」=「二次書きたくも読みたくもない」という意味合いを持たせているつもりでしたが、どうやら書き方が紛らわしかったらしく、いらぬ混乱を招いてしまったようです。もっと単純に、「二次を書きたい」と思っているなら、書く事は許されるべきでは?という風に書くべきだったかもしれません。
が、その一方、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」を二次を書く上での「特定の個人の思想的限定」にあたるとお考えになった経緯には興味がありましたので、ちょっとだけ考察を。取り敢えず三つほど考えられるので、以下に。
まず一つ目は、前述した「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」が、「二次を書く事は、二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れる事を必然とする」という図式と繋がらなかった場合。
二つ目は、「特定の個人の思想的限定」でいう個人を、二次創作者に限らず、広義に解釈した場合。(「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れていない」人=いわゆる二次否定派も含んだ場合)
三つ目は、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れない」けれど二次を受け入れている二次創作者がいる、という主張がある場合。
二つ目の場合は、一つ目同様すぐに解決します。まず「特定の個人の思想的限定」でいう個人とは、ご存じのごとく元々大谷氏の事をさしており、詰まるところこの「個人」は二次創作者である個人です。例えば「二次というのものはそもそも個人の自由思想によって成り立つもの」としていますが、これもやはり前提として、ここでの個人は二次創作を受け入れている人、という事が必然となります。よって「誰であってもどんな内容のものでも書く事を許される」のも、やはり二次創作を受け入れている人達の間で、という事になります。私からすると、「矛盾を受け入れ二次を書きたいとしている人達」でもあり、「矛盾を受け入れ二次を書きたいとしている人」でさえあるなら、「同じく二次を書く人間に、書く事自体を否定されるべきではないのでは?」という事になります。(因みに、二次否定派であるなら、二次を「書く事」の否定は十分あり得ると思っていますが、ここではさほど関係ないので、割愛します)
三つ目の場合、そもそもの「二次を書く事は、二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れる事を必然とする」という図式が崩れますので、そうなるともう、これは私の論理が及ぶ所ではありません。勿論、只単純に「矛盾も葛藤も受け入れない。でも二次は書く」としているだけでは、やはりそこにはどう足掻いても原作の再構築が事実としてある訳で、私の中では、その人は無自覚に二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れている、という図式が成り立ってしまいます。ですので、そうではなく「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れないが、二次を受け入れる二次創作者」がいるとしたら、それは何やら興味深い。私個人は出会った事がないので分かりませんが、もしそういう方がいるなら会って話を聞いてみたいところではあります。
以上、私の推測は三つですが、一つ目なら、これは理解されるよう書けなかった私の表現が悪かった、力不足、という事になるかと思います。二つ目なら、これもまた、私が「特定の個人の思想的限定」の個人を二次創作者であると言明しなかったという落ち度があると思います。三つ目なら、それはある意味素晴らしい事かもしれません。(つまり私を含む全二次創作者が、自覚無自覚を問わず矛盾と葛藤を受け入れる事から解放される訳です!)。
以上をもちまして、「あからさますぎる矛盾」への回答とします。


次に、「作品に対する批評と書く事への批判」を分ける理由について説明します。
この二つを別に扱うのは、それが読み手と書き手、どちらに帰属しているか、という違いがあるからです。作品は読まれるべくして公の場に出されたものであり、それは読み手に渡されたものでもあります。が、依然として「書く事」は書き手に帰属しています。誰かが、ある作品を嫌いだったとしても、だからといってそういう作品を「書くな」と強要する事は出来ないし、その権限も権利もない。それは「書く事」自体を保有しているのが書き手であり、書き手の「書く権利」まで読み手に委ねられてはいないからです。
書き手は読み手からの「作品の批評」に真摯であるべきで、こう読め、そう読むな、と読み手に強要すべきではない。それと同様、読み手もまた「書く権利」に真摯であるべきで、こう書け、そう書くな、と書き手に強要すべきではない。それが私の持論です。故に、「作品の批評」は良くて、「書く事への批判」は駄目だとしている訳です。(勿論、こう読んで欲しかった、という書き手の弁明や、こう書いてほしかった、という読み手の要望はあってしかるべきだと思います)
しかしながら前回、それは「なぜ書くのか?」という純粋な疑問である、という回答を頂きました。「書く事への純粋な疑問」であるなら、つまり私の言う否定的な意味での書く事への批判=「書く事の否定」には当たりません。よって、何ら書き手の権利や思想を侵すものではなく、私としても妥協点を見つけられたようです。寧ろ、私の反論は実に的外れであった、とも言えます。「書く事への否定」だとして強い拒絶を示してしまい、不快な思いをなさったと思います。その点は申し訳ありません。同時にお付き合い下さってありがとうございました。


最後に、主問題である所の不条理な小説についてです。…大丈夫です、これは…そんな長くは…多分…。
大谷氏にとってはリトバス自体が「夢なんて見てないで現実へ帰れ」としているゲームであり、具体的にいえば「ゲームなんてしてないで現実へ帰れ」と言っている、つまり「じゃあなんでゲーム作るの?」と製作者に問いたい対象となり得る訳ですね。同時に、敢えて目を瞑っていた部分を切り出す「夢なんて見てないで現実へ帰れ」とするSSは、その問題を顕在化してしまったという事になる。
小説を夢や虚構と定義するか否かはまた人によりますので、ここでは具体的に「小説を読むなと書いてある小説」もしくは「ゲームをするなという内容のゲーム」であるとします。それは確かに端的に矛盾であり、いわば不条理な小説、若しくはゲームであると言えます。
リトバスの二次ですと、特に「夢なんて見てないで現実へ帰れ」というようなSSを目にする機会は多いと思います。が、それは未だ大谷氏の中では解決されていない、という事ですか?私自身はリトバスをそうしたゲームとは思っていませんので正しくは言えませんが、その手のSSの多くは、「虚構で遊ぶ」=「ゲームをする事」と定義せず、リトバスを理樹成長記として考え、「虚構で遊ぶ」=「モラトリアムの停滞」としている可能性が高いのではないかと。リトバスを「夢なんて見てないで現実へ帰れ」というゲームだと定義していても、それが「ゲームなんてしてないで現実へ帰れ」とするか、「モラトリアムから卒業し、一人立ちして強く生きろ」とするかで、そこに於ける夢(虚構)の定義は大分変ってくるかと。モラトリアムは社会的な責任からの執行猶予期間に過ぎないので、そこを卒業したからといって、ゲームをするなという事にはなりませんし、そういう解釈だとすると少しは矛盾も解決するかもしれません。
また、二次の書き手が「二次なんて読んでないで現実へ帰れ」とする二次を書く事は滅多にないように(少なくとも私は知りません)、一次であれ二次であれ、「夢なんて見てないで現実へ帰れ」とする小説があったとして、そこで言う”夢”が小説自身を指し示す事は、寧ろ少ないのではないかと思います。語彙力不足で有体な言葉でしか言えませんが、小説の数だけ言葉の定義がある、とすれば「夢なんて見てないで現実へ帰れ」とするSSの矛盾も少しは軽減するかと。
以上、…気がつけばまた長くなってしまいました。最後辺りは蛇足ですので、お気になさらず。多分大谷氏にとっては既知の事柄だと思うので…。
的外れな反論であったにも関わらず、長々お付き合い下さりありがとうございました!


[No.746] 2008/11/29(Sat) 04:00:00
Re: やっぱりとても長いですが…! (No.746への返信 / 6階層) - 大谷

 第22回が既に始まっているにもかかわらずこうして第21回の記事を上げるのは微妙に躊躇われますが、しかたありません。誰かが22回の記事を上げてくれるのを祈るばかりです。

「あからさまな矛盾」について。
 一つ目です。具体的には、「二次を書く事の矛盾と葛藤を受け入れてさえいるなら」「書く事自体を否定されるべきではない」のであれば、「矛盾と葛藤」を受け入れていないままに書く者は書く事自体を否定されてもかまわない、と言えてしまうのではないかと私は考えたわけです。しかし「「矛盾と葛藤」を受け入れていない者」は定義上あらゆる二次創作の書き手を含むとのことなので、「「矛盾と葛藤」を受け入れていないままに書く者」は存在しえず、私の疑問は的を外していた、ということになります。

「作品の批評と書く事への批判とを分ける理由」について。
 これには特に付け加えるべきこともないように思います。解決。

「不条理な小説(ゲーム)」について。
 これについては、返答を書いているうちに別の問題に滑り落ちてしまう可能性が高いと考えますので、手短に。
 私が「リトバス自体が「夢なんて見てないで現実へ帰れ」としているゲームであり、具体的にいえば「ゲームなんてしてないで現実へ帰れ」と言っている」と考えているのは、私がこの言い回しを導入する際に「単純すぎるほど単純に要約」と言ったように、極めて単純化しすぎではありますが、おそらくそのとおりです。「「じゃあなんでゲーム作るの?」と製作者に問いたい対象となり得る」かは微妙だと言わなくてはなりません。というのも製作者代表であるところの麻枝准は既にシナリオライターを引退しており、その意味では有言実行だとも言えるからです。
「夢(虚構)の定義」の話については本当に別の話にしかなりませんが、リトルバスターズというゲームにおいて「虚構世界」とはノベルゲームそのものの比喩であり、私たちがPCの前に座ってゲームをする、という体験を丸ごと物語の中に落とし込んだのがリトバスであるわけです(これは、リトバスそのものの分析の他に、Keyの過去のゲーム、同時代の他のゲーム、およびそれらを追跡するエロゲー批評との緊張関係もあわせて考慮に入れれば、ほぼ立証が可能でしょう)。したがって夢や虚構という言葉を用いた場合、リトバスにおいてはそれはゲームそのもののことだと見なす他ない。したがってリトバスSSについても、そのことへの留保や批評が含まれていない場合、つまり素直にリトバスを受け継いで書かれたSSの場合、同様であるということに私にとってはなってしまう。それを「モラトリアムの停滞」であると読み替え、「モラトリアムは社会的な責任からの執行猶予期間に過ぎないので、そこを卒業したからといって、ゲームをするなという事にはなりませんし、そういう解釈だとすると少しは矛盾も解決する」というのは本当に仰るとおりなのですが、繰り返しになりますが私にはリトバスはそのような話にはやはり見えないわけです。

 さて返答しうるのはこのくらいでしょうか。
 なお、長い投稿に対して、こうして長くない返事を書くとやる気がないように見えてしまって嫌なのですが、別にやる気がないわけではありません。
 今回は結果的に変な応酬に付き合わせることになってしまいすいませんでした。


[No.747] 2008/11/29(Sat) 12:06:11
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