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雪が降っていた。窓から覗くと、積もり始めた雪はちらちらと白に銀にと輝いて見えた。 出歩く人もいない時間。しんと沈んだ夜の音に耳を澄ます。 僕の意識は聞こえてきた声のおかげで、室内に呼び戻される。 「ところで直枝さん、後期クイーン問題という言葉を知っていますか?」 振り返ると、西園さんが微笑んでいる。
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誰もいない世界を歩く。それはとても楽しかった。でも楽しかったのは最初だけだった。本当に楽しかったのさえ、今となっては疑問だ。 いつからここにいるんだろう。 僕が尋ねると、彼女たちは各々に答えてくれる。ずっとだと彼女は言ったし、つい最近からだと彼女は語った。 僕は首をかしげて、彼女たちの顔を見てみた。 知っているのに知らない顔。 同じなのに違う顔。 ところで僕は誰だろう。 ひとに出くわすたび、何度も何度も聞いてみた。 答えてくれるひとはいなかった。 僕はいつから僕なんだろう。 考えるたび、分からなくなる。 直枝理樹はどこに行ってしまったんだろう。考えていると、どうしてか眠くなる。 不思議だった。 夢の中なのに、眠ってしまえるなんて。
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「で、どういうことですかあーちゃん先輩」 「んー。どうもこうも、ねぇ」 あーちゃん先輩は笑っている。いつもみたいに楽しげに。私の戸惑いを全部分かっているみたいに。 だけど、そんなのは嘘だ。 本物のあーちゃん先輩は、こんなふうには笑わない。 私はそれを知っている。 すでに寮長ではなくなったはずのあーちゃん先輩が、寮長室でさも今まで通りと言いたげに、ゆったりと椅子に腰掛けている。手元には甘くないお菓子。判の押されていない書類。 光の加減で、窓から射し込む光が私とあーちゃん先輩とを隔ててくれている。伸びきれない影の長さが季節を教えてくれる。 本当なら騒々しいはずの外からは人間の声は一切聞こえてこない。窓の外には、凍り付いたみたいなひどい眩しさ。 「だってほら、役目も終わっちゃったでしょ」 「役目?」 困ったように、あーちゃん先輩は目を伏せた。それで私は自分が何をしに寮長室にやってきたのかを、不意に思い出した。 窓に目を向けると、そこには光があった。 雪のような真っ白な輝きが。 「ね、せっかくだからもう少し……ここで見ていきましょうよ」 「……はい、そうですね」 「直枝くんも戻ってくればいいのにね」 私は何も答えない。ただ無言で肩をすくめるだけだ。 「冗談よ、二木さん」 「知ってます」 あーちゃん先輩はからかうような口調のわりに、寂しげに息を吐き出した。
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「ばすたーずりとる、ってなんだ?」 「そうだ! バスターズリトルだっ!」 答えになっていない。 尋ねた鈴はアホの子を見る目で恭介を眺めた。 その恭介がにやりと笑って、懐から(ってどうやってずっと隠してたんだろう)かなりの大きさの箱を取り出した。 確かに表題にバスターズリトルと書かれている。なんとなくボードゲームっぽい匂いを感じた。 「というわけで本日の活動はTRPGだ。うちのチーム名に似ているのも何かの縁だろうと思ってな。今日はこれで遊ぶ」 「てぃーあーるぴーじー?」 鈴がさっきから繰り返すだけになっている。 つまり、あまり興味が無さそうだった。恭介は敏感に感じ取ったらしくそこはかとなく楽しげな雰囲気を漂わせた説明を始めた。
五分後。 「そうかっ。クドもこまりちゃんもバインバインのナイスボディになれるのかっ」 「確かに……能美ならアダルティーでエロティーーーーック! なキャラクターになれるだろう。フッ、俺さえも悩殺できるかもしれん。もちろん理樹もめろめろだ」 「あ、僕がめろめろになるのは決定事項なんだ……」 クドが目を輝かせて身を乗り出した。テーブルが動く。 「わふーっ! それはすごいです!」 乗せられていた。 「えっと……劇、みたいなものかなあ?」 「そうだな。ロールをプレイするんだ。考えるな、感じろ。don't think feelだ!」 「どんとしんくふぃーるなのですっ」 クドが小毬さんを引き込みに入った。バインバインというあたりに魅力を感じたらしい。 僕は周囲を見回した。けど、すぐに前に向き直った。 この手の遊びには放っておいても加わる数名が、手ぐすね引いて背後で待っているのをひしひしと感じる。その気配の張本人が口を開いた。 「ところで恭介氏。人数からすると、二つに分けるのかね。それとも三つに?」 「あー。そうだな。GM三人で、三グループが妥当なところか。経験者は?」 「私と恭介氏、それに西園女史でどうだろう?」 了解を取ると西園さんはこくりと頷いた。恭介に手渡されたルールブックとかいう本をじっくり……もとい、すごい早さで読み進めている。 「良し、それでいこう」 恭介がテーブルの上に紙の束を取り出した。ふと見ると、どこから用意したのか、さっきの箱がいつの間にか三つに増殖していた。 ……えええっ!?
「というわけで、各グループ三人か四人に別れてくれ」 恭介はぽん、と手を叩いた。 「ちなみに理樹は最後に選ぶからな」 「え、なんで?」 いきなり言われたので、僕は理由がよく分からない。 「なんでってお前……いや……理樹が先に選ぶと真人が自動的にそこに入りたがるだろ。それを避けるための処置だ」 一度口ごもったので、なんとなく言い訳ぽかったのだが、僕はそれ以上聞くのを諦めた。 真人の顔がひどいことになっていたのだ。 ひどかった。 と、期待に満ちた顔で、ちらちらとこちらを窺っている。 なぜか腕の筋肉をアピールしている。一通り見せつけてくると、ふぅ、とやりきったような満足感を滲ませた笑顔になった。 「……いや、別に筋肉で決めるわけじゃないから」 「なにっ! オレの筋肉じゃ足りねえってのか!」 向こう側ではほのぼのとしたやり取りが。 「鈴ちゃんといっしょ〜」 「うん。小毬ちゃんと一緒だな」 「私もそちらにご一緒し……」 予想通り騒がしくなった。
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奇跡なんかいらなかったんだ。 起こってしまったことは変えられない。なぜなら、時間は戻ることはないからだ。 なのに、変わってしまった。 変質してしまったんだ。 さいごのゆめ。なのに繰り返される夢の続きを。 当たり前のような顔をして悲劇が起きた。決まり事みたいに奇跡も起きてしまった。 じゃあ、僕たちが願ったことは何だったんだろう。僕たちが願わなくても奇跡は起きたんじゃないだろうか。 この変質してしまった何かを抱いたまま、僕たちはこの物語と寄り添って生きていくしかない。 だけど。 もし、僕たちの求める価値が、結果に至るまでの過程にあるのなら。 終わりゆく夢が、その輝きを胸に残そうとするのなら。 嘆くべきなんじゃないか。僕は。誰でもなく、僕だけは。
終わったはずの物語に誰かが書き加えた。僕たちは感じた痛みが、つかみ取った救いが、あとから付け加えられたものだなんてしらない。知らなかった。以前の僕たちが悲劇を乗り越えたことも、幸福を追い求めたことも知らないまま、ただひたすらに失い続けなきゃいけないなんて、思いもしなかった。
いや。僕はまだ何も知らない。知ることは出来ない。 知ってしまった僕は、僕ではなくなるから。直枝理樹は夢の意味を知るけれど、そうやって夢の意味を知ることで、初めて強さを手に入れるのだけれど……僕はもう最初から知ってしまっている。すべてが夢だってことを。この夢が違う形に作り替えられてしまったことを。
僕は強くなれない。僕は忘れられない。 僕はだから、直枝理樹ではない。 僕はもう。 ここにいることしかできない。 誰でもない。ただの日々のカケラ。夢の歪み。 夢って言うのは、記憶だ。 記憶の影だ。 ここには記憶しかない。 記憶だけだってことは、ここは過去でしかないんだ。 もう。 すべては遠い。どこにもいけない。
僕は夢の中で、ひとりきりでいる。他のみんなと同じように。僕の顔をして、僕の記憶や、僕の身体を持ったまま、夢から覚める僕を羨んで見つめている。
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ゲームマスター(GM)の操るラスボスが、僕たちを打倒しようと決死の攻勢を仕掛けてきた。僕たちのキャラクターはすでに満身創痍だ。回復の手段も尽きて、使える技もほとんど残っていない。 あとはダイスの目にかけるしかない。 GMは真剣な目で、ダイスを転がした。 「この時風瞬、とっておきの必殺技だ。耐えられるものなら耐えてみろ! 《シャドウバスター!》」 高笑いまでしている。しかし手は抜いてくれないらしい。 5、4、2、6。 「さあ、行くぞリキ! ……全員に20ダメージと、リキには硬直をプレゼントだ!」 「うわ! それはヤバイですヨ! 誰か庇えるひとはっ」 「俺が庇おう。特殊能力《ナイトの誓い》発動! が、代わりに俺のゲンゴロウが倒れる……後は任せた」 ぱたんとキャラクターを表す駒を倒した。 「えーとえーと、ここでゲンゴロウがいないと……リキくんが攻撃に成功して、なおかつこのターンに倒しきれないとアウトっぽいよーな」 「わたくしのサミーも次のターンが来たら耐えられませんわね……」 「と、ゆーわけで頑張れリキくん!」 「失敗は許されませんわよ」 ラスボスのHPは分からない。が、すでに相当なダメージを与えたはずだ。ゲームマスターは不敵な笑みを浮かべている。 僕は現状の把握に努めた。 ……よし! 「どっちにしても、これが最後の一撃になるね。それじゃあ、行くよGM!」 「ああ……来い!」 サミーとルッカが補助能力を使えるだけ使ってくれる。これで防御もままならない。僕が当てれば勝ち。失敗すれば負け。 シンプルな戦いになった。 キャラクターシートに書き込んだ技を読み上げる。 「えっと、特殊能力《眠りの森の憂鬱》、そして《ラプンツェルの幸福》。あとはダイスの神様に祈るだけ……!」 僕は万感の想いを込めて、ダイスを振った。 4、4、5、2、6……6。 クリティカル! 「当たった!」 「まだだ! こっちの判定が残ってる!」 GMはダイスを三つ振った。小さく跳ねたダイスは軽い音を立て、テーブルの上で踊った。 6、3、1。 「これで、26ダメージ通ったね」 計算しているGMは、ばっと顔を上げた。 「耐えたぞ!」 「いや、まだだよ。クリティカルしたから、もう一つの特殊能力が使えるんだ」 「なにっ」 GMに対し、僕は宣言する。 「《いばら姫の祝福》」 一個だけダイスを振る。 6。 「成功。さっきの半分、13ダメージ追加!」 「……く」 GMは笑い出した。 「くははははははははははははは」 「まさか……」 しばらく笑っていたGMは、時風瞬として語った。 「この時風瞬……闇の執行部を率いてきたこの俺が……こんなことで敗れるとはな……ぐふっ」 ぱたん、とラスボスの駒を倒して、GMが告げる。 「……お前たちの勝ちだ。よくやった」 僕はルッカとサミー、そしてゲンゴロウとを見回して、頷いて、それから叫んだ。 「やった、勝てたあっ!!」
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そして西園さんは悲しげに微笑んでいる。 「この夢は終わらないんです。そこにいる誰かが見ている限り」 僕は答えない。 窓の外では、光が降り続いている。 僕は知っている。雪が輝くのは透明だとか、白が、そこにある明るさを反射するからなんだ。 なのに僕は答えられなかった。 だって、問われているのは僕ではなかったから。 「直枝さん……」 そこで、物語は綴られている。 優しい言葉で。明るい心で。 何度となく。幾度となく。 紡がれ続けようとしている。誰もそれを止めない。止めることはできないし、止める必要なんてない。 僕たちはそれを知る必要は無い。 すべては変わってしまった。 だから僕たちは……本当は、ここで嘆いている必要もないんだ。 不思議だった。 そのときは当たり前だと思っていたのに。一度でも疑問に思ってしまうと、もはや何も出来る気がしなかった。とても怖かった。僕が僕でなくなることが。それ以上に、僕が、このまま僕として生きていくことが。 窓を開けた。寒い風が吹き込んできた。西園さんが少し不満そうに口を尖らせたけれど、触れ合った肌のぬくもりは優しかった。 雪はいつまでも降り続いている。 淡い夢の中で、小さく強く輝きながら。
[No.718] 2008/11/24(Mon) 01:43:19 |