[ リストに戻る ]
No.720に関するツリー

   第22回リトバス草SS大会(ネタバレ申告必要無) - 主催 - 2008/11/26(Wed) 22:09:30 [No.720]
消臭剤の朝 - ひみつ@6.972byte@遅刻@再投稿 - 2008/11/30(Sun) 08:00:55 [No.755]
筋肉も荷物 - ちこく、ひみつ 6192byte - 2008/11/29(Sat) 12:55:17 [No.750]
[削除] - - 2008/11/29(Sat) 12:45:20 [No.748]
えむぶいぴーしめきり - しゅさい - 2008/11/29(Sat) 00:15:17 [No.744]
ひとりきり - ひみつ@20472 byte - 2008/11/29(Sat) 00:08:03 [No.743]
[削除] - - 2008/11/29(Sat) 00:07:24 [No.742]
さいぐさはるかのあるいちにち - ひみつ@3436byte - 2008/11/29(Sat) 00:01:52 [No.741]
[削除] - - 2008/11/29(Sat) 00:01:19 [No.740]
初雪 - ひみつ 15326 byte - 2008/11/28(Fri) 23:54:39 [No.739]
初雪(改訂版) - ゆのつ@16475 byte - 2008/12/17(Wed) 23:37:28 [No.809]
匂いは生活をあらわす - ひみつです 14055byte - 2008/11/28(Fri) 23:26:14 [No.738]
優しさの匂い - ひみつ 初@1516byte - 2008/11/28(Fri) 22:01:45 [No.737]
よるのにおいにつつまれたなら - ひみつ@8553 byte(バイト数修正) - 2008/11/28(Fri) 21:21:36 [No.736]
しあわせのにおいってどんなにおい? - ひみつ@11339 byte - 2008/11/28(Fri) 19:49:18 [No.735]
鼻づまり - ひみつ@3067byte - 2008/11/28(Fri) 18:01:23 [No.734]
こっちから負け組臭がプンプンするぜ! - ひみつ@10046 byte - 2008/11/28(Fri) 18:00:02 [No.733]
女の香り - ひみつ4050KB - 2008/11/28(Fri) 12:05:16 [No.732]
仄霞 - ひみつ@8109byte@若干エロティック - 2008/11/28(Fri) 03:09:32 [No.731]
フラグメント或いは舞い落ちる無限の言葉 - ひみつ 18428 byte - 2008/11/28(Fri) 01:14:07 [No.730]
夏の日だった。 - ひみつ 972byte - 2008/11/28(Fri) 00:22:23 [No.729]
類は恋を呼ぶ - ひみつ@13896 byte - 2008/11/28(Fri) 00:17:08 [No.728]
におい≒記憶 - ひみつ@10657 byte - 2008/11/27(Thu) 23:06:12 [No.727]
ぬくもり - ひみつ@19998 byte - 2008/11/27(Thu) 22:08:55 [No.726]
腐敗の檻 - ひみつ@7899byte - 2008/11/27(Thu) 19:39:06 [No.725]
永遠の一瞬に子犬は幸せを嗅当てる - ひみつ 10347 byte - 2008/11/27(Thu) 17:57:43 [No.724]
世界で一番君を愛してる - ひみつ 18,521byte - 2008/11/27(Thu) 02:29:00 [No.723]
こないの?リトルバスターズ - ひみつ 4807byte - 2008/11/26(Wed) 23:29:10 [No.722]
MVPとか次回とか - 主催 - 2008/11/30(Sun) 01:29:39 [No.753]



並べ替え: [ ツリー順に表示 | 投稿順に表示 ]
第22回リトバス草SS大会(ネタバレ申告必要無) (親記事) - 主催

 エクスタシーネタバレの申告は必要ありません。
 未プレイだけど参加しちゃうぜ!な方はご注意ください。


 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「におい」です。

 締め切りは11月28日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は11月29日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.720] 2008/11/26(Wed) 22:09:30
こないの?リトルバスターズ (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 4807byte


「野球のメンバー集めをしてもらう」
 恭介の一言はそこから始まった。
 勝手に借りられている部室には、男3人に女1人がいる。
 恭介の発言の意味はまともな野球をするのに、人数が足りないからというちゃんとした理由がある。
 しかし、恭介以外の人は「やっぱり本気なのか……」と言いたそうな目をしていた。
「今は放課後だから明日からだな」
「へっ、俺の筋肉に任せれば人数集めなんて簡単だな」
「…あれっ、そういえば鈴は?いつのまにかいなくなってるけど」
「さっき出て行ってたな。鈴は人と接することは苦手だからな。とりあえず理樹、頑張ってくれ」
「ってオレのことは無視かーッ!?」
 真人の叫びの影にため息がひとつだけ隠れていた。



     こないの?リトルバスターズ




 翌日昼休み。恭介は周囲の目も騒がしさも気にせずに漫画を読んで笑っていた。
 しかし、それをすぐに遮る者がいた。
「おい、恭介」
 年中袴姿の男、謙吾が三年の恭介の教室に現れた。
「珍しいな、謙吾。ここまで来てどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない。理樹が変なんだ」
「変ってなんだ?特になんも操作はしてないが……」
 その時だった。
 教室の外。廊下が騒がしい。
 同時に二人がいる教室も先ほどまでより、騒がしくなる。
「―――においでよ!―――――ね。僕たちはいつ―――!」
 廊下も教室も騒がしすぎて、誰がなにを言ってるのかが少しだけしか、聞き取れない。
 謙吾の顔を窺うと、なぜだか呆れた顔をしている。
 不思議に思った恭介は、立ち上がって廊下へと出ることにした。

「リトルバスターズにおいでよ!放課後、野球の練習してるからね。僕たちはいつでも大歓迎だよ!」
 三年生の廊下へと来てまで、理樹が必死に勧誘をしていた。
 もっとちゃんとした勧誘の方法があるだろ……と、恭介は思う。
 いやいや、もっと別の突っ込みどころがあるだろ、とも思ってしまう。
 こんな理樹の様子を見て、今の恭介は少々困惑気味だった。
「あっ、恭介!」
 廊下にいる恭介の姿を確認した理樹は真っ先に恭介へ駆け寄る。
 なぜ、理樹がこんなになってしまったのか……原因は見当もつかない。
「今、メンバー集め頑張ってるんだけど…えーと……ちゃんと人が来てくれるかな?」
 理樹は目に涙を浮かべている。落ち込んだ表情で、この顔は反則だった。
「あ…あぁ、ちゃんと来てくれるさ!」
 やっぱり困惑気味の恭介だった。
「あっ、謙吾」
 恭介に続いて理樹は教室から出てきた謙吾にも気付いた。
「なんだ」
 無表情を装っているが、謙吾の顔には焦りが多少含まれている。
「放課後さ、僕たちの野球の練習だけでも見においでよ!」
「俺はやらないと言ってるんだが……」
「まぁ、謙吾。そんなかたいこと言わずによ、たまにはいいんじゃねえか?」
「むぅ、分かった……。今日だけだからな」
 笑顔の理樹とは対照的に、そして恭介の言葉もあり、渋々了承を許した謙吾だった。
 謙吾の返事を聞いた理樹はそのまま廊下の影へと消えていった。
 周りに居た生徒たちも、騒ぎの原因がいつものリトルバスターズだと知ったことで、何事もなかったかのように教室へと戻って談笑をしていた。

「まぁ、今回の理樹は少し変みたいだが問題はないみたいだ。謙吾、いつも通りに過ごしてくれ。もしなにかあったら俺の方で解決はしておく」
「そうか……わかった」

―その日の放課後。
 リトルバスターズ、野球の練習は謙吾しか見に来なかった。

―その次の日。
 誰もこなかった。

―その次の日。
 誰もこなかった。

 そんな日が一週間ほど過ぎた日だろうか。
 恭介、鈴、真人しかいなかった部室に突然、それは現れた。
「イヤッホゥー!」
 赤いジャンパーを袴の上に羽織った謙吾だった。
 しかも、様子が一週間前とは全く変わっていて、変になっている。
 部室に居た三人は同時にそれを思っただろう。
「なんだ、謙吾か」
「なんだとは失礼なやつらだな。俺は野球をしにきたんだ」
 その言葉に三人は絶句。
 なんでいきなり、と思っていることだろう。
「事情がわからないなら教えてやろう。おまえらがなにやら、楽しそうに野球をしている。と聞いたからだ」
 その言葉に三人はますます混乱。
 知恵熱が出そうになる者もいる。
「実はな、俺は十人兄弟でだな、恭介が野球を始めると宣言した時は謙志だった。そしてその次の日は謙斬、次は謙次、謙壱となって戻って謙銃。そして今日の俺が謙吾だ。
「なんだかよくわからねーが、十人の謙吾と聞いて血沸き筋肉踊ってきたぜ……そしたらオレは、あと九人オレを作って百一人謙吾ちゃんかなんだか知らねーが、勝負を挑もうじゃねーか」
「きしょいからやめろ!」
 真人の言葉に鈴は一体何を、想像したのだろうか。
 目の前の謙吾が百一人いる光景なんだろうか、真人が十人現れて筋肉筋肉ー!と騒いでる光景なのだろうか、はたまた……十人の謙吾と真人が同時に戦っている姿だろうか。
 どんな光景を想像したのかは分からないが、鈴は真人を文字通り一蹴し、へんじがないただの真人は部室の飾り物と変化した。
「まぁ、とにかくだ。十人の真人と謙吾が勝負したら学校が崩壊してしまうからな」

 その時、不意に謙吾の後ろのドアが開いた。
 ……開いたドアの先には理樹がいた。
「遅かったな、理樹」
「うん、約束通りメンバーを連れてきたよ」

 さらに――理樹の後ろには五人の女子生徒がいた。その五つの姿を認めた鈴は、物陰に隠れてしまう。
 しかし、恭介はそんな鈴には気にも掛けずに、突然現れた五人のメンバーたちにも動揺せずに声をだす。
「ついにこの時がきたか……」
 理樹はその台詞に若干ながらも既視感を覚えるが、言葉の続きを待つ。
「これが俺たちのチーム………リトルバスターズだ!」
 その言葉は部室にいる男女十人に響き渡った。


[No.722] 2008/11/26(Wed) 23:29:10
世界で一番君を愛してる (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 18,521byte

 明日のことを考えるだけで窒息しそうなくらいに苦しかったことがある。どこかに行きたくて、でも行けなくて、何かが欲しくても与えられず、帰るべき場所はなくなってしまってもう二度と戻れない。

 鈴の背中の向こうに暮れゆく夕陽を見ていた。空は見渡す限り深い橙に染まり、まるで空が燃えているように見えた。小高い丘の向こうにある小さな煙突からは、ちょうどいい具合に灰色の煙が一筋立ち昇っていた。だけど、あれだってきっと知らない誰かを空に還した残り滓のようなものなんだろうなと考えると、どうしたって暗い気持ちになった。少し前にあの煙になって空に還っていた二人のことを思った。自分達を育ててくれた人。今は空にいる。恨み言の一つも言ってやりたいと、そんなことを思っていた。
 もう帰ろうぜ、と鈴の背中に話しかけようとしてやめて、それを何度も何度も繰り返していた。もとより、帰ろう、なんてのは帰る家のある奴が言う言葉で、ついこの間それをなくしてしまった自分達が使えるような言葉ではなかった。自分たちのこれまでも、これからも、何もかもがよく分からなかった。深い霧の中にいるようだった。そこにいるだけで不安が膨らんで、膨らんでもっと恐ろしい別の何かに変わってしまいそうで怖かった。
「鈴」
 返事はない。だけど何かを伝えなくてはならない。言葉に出来ない自分がもどかしい。
 帰ろうとは言えない。俺達にはもう帰る場所がない。なければ、どうする。
 だから、俺は彼女にこう言った。
「友達、たくさん作ろうな」
 永遠のように長い数秒が過ぎて、ん、とわずかに頷いた気配がした。
 それだけでもう十分だった。
 だから、俺は――







世界で一番君を愛してる







 突っ伏していた机から顔を上げると目の前に鈴がいた。柄にもなく、あ、え、え、なんてきょどってしまう。少し前まで見ていた情景と現状の落差が大きすぎて時間と時間の感覚がつかめない。今っていつだっけ。てか今日って何日だ。俺、何してた。これから何しなきゃいけないんだ。むぅ、わけわからん。
 俺の痴態を余す所なく眺めていたらしき鈴が大きな大きなため息をついた。
「なんでこんな奴があたしの兄貴なんだ……」
「開口一番ご挨拶だなおい」
「黒歴史ってこういうことを言うのか……ああ、どうやったらお前と兄と妹の関係にあったという過去を消せるんだ? スイス銀行にいくらか振り込めばゴルゴがうまいことやってくれるのか?」
「妹! お前、兄を暗殺する気か! ていうか兄妹関係過去形なのかよ!」
「Yes,I do」
「無駄にいい発音本当にありがとうございました」
「馬鹿なことやってないでとっとと出てけ馬鹿兄貴」
「んあ? なんでだよ」
「お前、ここがどこだか分かってないのか?」
 鈴に言われて、慌てて周りを見回す。
 大きな鏡がある。鏡台には高級そうな化粧品がずらり。一目で俺の月収を楽に越えていると分かる高級な調度の数々。うむ、これは間違いなく――
「すまん、どこかわかんね」
「新婦の控え室だぼけぇっ!」
 必殺! 花嫁キック!
 棗恭介はひらりとかわした!
「えーほんとだーぜんぜんきづかなかたよー」
「うざい……殴りたい……これから式じゃなかったら絶対ボコってるのに……」
 目がマジです鈴さん。
「そもそも、なんできょーすけはこんなとこで寝てるんだ」
「いやな、お前のことが心配で心配でな、心配のあまり会場前日入りを敢行したんだスネーク」
「もういい。お前に常識とか期待したあたしが馬鹿だったんだ……」
「まぁそう気を落とすなって」
「お前が落としてるんだ!」
 ふぅふぅと荒い息をなんとか静めようと頑張っている鈴を、会場スタッフがやや苦笑い気味に見守っている。む、ちょっとこれは体裁が悪いか。
「理樹はもう控え室か」
「あー、でももうすぐこっち来ると思うぞ」
「そっか。ま、あっちもちょっと見てみたいし、行ってみるわ」
 待ちきれない奴らがもうそろそろしびれ切らしてる頃だろうしな、と言うと、鈴は笑った。
 ドアを開ける。向こうの方には大広間がある。もう準備を全て終えて、今日の式を待ちかねているような冷えた空気。
「馬鹿兄貴」
「ん、なんだ」
「今日な、叔父さん達と一緒に来たから多分その辺にいると思うぞ。きょーすけは久しぶりなんだろ。まったく、お前はちっとも帰って来ないもんだから、叔父さんたち寂しがってたぞ」
 叔父さん。夢の中の鈴の姿がオーバーラップする。帰る場所なんかない。そんなことを口にしたのは一体誰だったか。
 そうか、わかった、とだけ返事をした。うん、と鈴のような声が鳴る。
「あ――」
「ん、どした」
「……いや、なんでもない」
「そか」
 じゃあ――また、会場で。
 ドアを閉める。
 俺はきっとちゃんと笑えていたのだと思う。俺は上手くやってこれた。言い聞かせるように歩き出すと、今日のために新調したスーツの裾が少しよれていることに気付いた。懐かしい夢の残り香のように、俺には思えた。







 リトルバスターズ。そう名付けられた一つの集団について考えるにはその起源がどこにあったのかを考えなければならない。
 それは、誰かが拾い上げたボールと共に生まれた言葉か。悲しみの淵に沈もうとしている少年に差し伸べられた正義の味方の救いの手か。剣に迷う少年に示した道か。悪童との闘いの果てに得られた笑顔か。

 言葉にするなら、空だ。
 空。
 あの日あいつと眺めた、何もない空。



 俺と鈴は小さい頃に両親を事故で亡くした。確か俺が小学校に上がってすぐだったから、鈴はまだ保育園でお遊戯の練習でもしていた頃だと思う。小さかった俺達にはよくわからなかったが、両親は非常に優秀な人たちだったらしい。いつも忙しく世界を飛び回っていて、俺達のことはベビーシッターに任せて海外出張、なんてざらだった。普通の家庭に比べれば放っておかれた子供だったが、別に寂しくはなかった。俺には鈴という手のかかる妹がいたし、鈴はその頃から俺によく懐いていた。二人でいれば何も怖いことはなかった。父や母がいつもいないのは寂しいことだったけど、家に帰ってくれば二人はとても優しかった。
 ある日、俺が保育園まで迎えに行った帰りだ。家に戻ると見知らぬ大人がいた。大人は酷く取り乱した顔で、俺達に何事かをわめいた。何を言われているのかわからなかった俺は、きょとんとして鈴の顔を見た。鈴もき俺と同じようにきょとんとしていた。わけもわからないまま俺達は車に乗せられ、大きく白い建物の中にある狭い部屋で、白い布を顔に被せられた父と母に対面した。やけに暗い部屋の中でろうそくの炎がゆらゆらと輝いていた。別にどこも震えてもいないのに自分の身体がガタガタと揺れているように感じた。鼻につく焦げたような匂いがしていた。

 おとうさんたち、しんじゃったんだ。
 ふぅん。
 で、おとうさんたちはいつかえってくるんだ?

 俺と鈴は、母方の叔父の家に引き取られることになった。本当は別々の家に引き取られることになるはずだったのだが、引き取り手となった叔父の強い希望によりそれは避けられたのだと、後になってから聞かされた。
 鈴は人付き合いの苦手な子供だった。両親が死んでから、その傾向はより顕著なものになった。転校した先の小学校ではいつも虐められていた。無視され、上履きを隠され、机には落書きをされた。守ってやろうにも、学年の違う俺には限界があった。何より、俺はまだまだ弱く、そして子供だった。鈴は次第に心を閉ざし、やがて猫にしか笑わない子供になった。
 俺は鈴さえいればいいと思っていた。鈴だって、俺だけがいればいいと思っているに違いないとさえ思っていた。
 間違っていた。
 俺一人の力では鈴を守ってやるどころか、笑わせてやることすら出来やしない。

 一人がつらいから二つの手をつないだ。
 でも二人だけでは、手をつなぐことしか出来ない。
 ならば。

 俺は仲間を作ることにした。ただの仲間じゃない。普通の友達なんか必要なかった。そいつらがいれば俺と鈴がずっと笑顔でいられて、いつまでも楽しく遊んでいられるような、そんな仲間。面白いのは絶対条件で、腕っぷしが強ければ申し分ない。そして、出来るなら俺達と同じ外れ者がいい。
 俺は意識的にそれまで以上に周囲と上手くやっていくようにした。中心となる俺自身が強くなければ仲間達を従えることなんか出来やしない。校内で一定の評価を得ることによって、妹である鈴への風当たりを弱める狙いもあった。元々素養があったのか、有象無象の中心となるのに時間と努力は必要なかった。俺は望みもしない奴らとの交流を積み重ね、仲間となりうる人間をただ淡々と峻別していった。
 最初に眼鏡に適ったのは、近所で評判の悪童だった井ノ原真人という少年だった。腕っぷしは文句なし。誰とも群れず、媚びず、それでいてどこか愛嬌のある目をしていた。俺は十分に策を練り、屈服させた。仲間となった彼は、俺の思った通りに強く優しい人間だった。次は、剣道で鳴らした宮沢謙吾。彼も、やはり愛すべき性質を持った少年だった。
 俺と鈴はようやく仲間を得た。真人や謙吾と過ごす毎日は、俺達がかつて経験したこともないようほど楽しく、愉快だった。彼らとの交流を経て、鈴は少しずつ笑顔を取り戻していった。俺や真人が馬鹿をやって、謙吾が呆れて、しらんぷりをしていた鈴がかすかに笑う。そんな様子を見るのが一番の幸せだった。いつしか俺は、こんな毎日がずっと続いてくれればいいと思うようになっていた。 
 直枝理樹という少年に出会ったのは、その頃のことだ。




「恭介君」
 中庭に置かれていたベンチに腰掛けて物思いに耽っていた俺にかけられた声。夢見心地だった意識が呼び戻される。
「ご無沙汰だね。元気だったかい」
「はい。まぁ……それなりに」
 振り向いて初めて声の主が叔父であることに気付いた。
 叔父の声には特徴がない。就職して完全に家を出てしまってからはほとんど聞く機会もなかったから、その声は本当に他人の声のように響いた。
「いい日だね」
 呟いて、叔父は空を見上げた。太陽は既に高く、手の届かない所にある。
「さっき直枝君に会ってきたよ。彼は本当にいい青年になったね。恭介君は小さい頃から仲が良かったんだろう?」
「そうですね」
「あんなに小さかったのにね。本当に立派になった」
 昔を懐かしむように目を細めた。
「理樹は落ち着いてましたか」
「ああ、大したものだ……ああ、それに恭介君の友人達にも会ったよ。まだ会ってないのなら直枝君の控え室の方に行ってみるといい。積もる話もあるだろう」
「ええ、まぁ」
 あいつらはもう来てるのか。駆け出したい衝動にかられる。
「友達はいいね。うん、友達はいい」
 まるで自分に言い聞かせるように叔父は言った。
「友達は宝だ。どれだけ時間が経っても本当の友達はいなくならない。たとえどんなに遠くにいたとしても必ず側にいてくれる」
「そういうものですかね」
「そうだ。恭介君が築いてきたのは、そういう関係なんだろう?」
 ふと、叔父と目が合った。何気なく眺めた彼の顔に、随分と皺が増えていることに気付いた。
「俺にはまだ……よく分かりません」
「そのうちに分かるさ。もっとも、そんな友達は人生に何人と出来るものじゃない。偶然だったり、意図したものだったり、何か人智を越えたものに操られてるのかもしれないな。恭介君と鈴君は幸せだ。本当の友達があんなにもたくさんいてくれるのだから」
 本当の友達。
 本当って一体何だろう。考えたこともなかった。
 本当に大切な物が何かわからなくて、不安で眠れぬ夜があった。リトルバスターズの面々と別れ、一人で都会に行き、働き始め、社会の厳しさを知り、俺の中の何かは作りかえられたのかもしれない。あの頃の俺は本当に大切なものをもっとたくさん胸の奥にしまいこんでいたような気がする。年を経る度、俺の中にあった大切な何かは時間というナイフでごりごりとこそぎ取られていくように感じていた。どれだけ削られても消えないものがあったとして、それが叔父の言う本当ということなのだろうか。もしもそんなものがあるとしたら、それは。
 ちりん、と耳の奥で鈴の音がした。
 まだ幼かったあの頃、誰一人友達がいない妹に俺は、寂しくないようにと小さな鈴を買ってやったことがある。手の中でちりんちりんと鳴らして、俺の方を向いては顔をくしゃくしゃに綻ばせていた。そんなことばかりを覚えている。
「叔父さん」
「なんだい」
「鈴のこと……よろしくお願いします」
 俺は叔父に深々と頭を下げた。
「それは――、今日のことかい?」
 静かな声で叔父は言った。
 はっとして、頭を上げる。
 固辞したはずの約束を思い浮かべざるをえなかった。
「恭介君は今までに数え切れないくらいたくさんのことを鈴君や直枝君や他の友達にしてきただろう。君にしか出来ないことというのは、そういうことだ。私に頭を下げることなんかじゃない」
 太陽の光に目が眩んだ。思わず手を額にかざす。
「それぞれにとって、それぞれにしか出来ないことなんてそんなにたくさんは無いものだ。たとえそれがどんなことであろうとも、ね……さぁ、早く直枝君のところに行ってあげなさい。もうすぐ式が始まってしまうよ」
 はい、と口にしてくるりと叔父に背を向ける。振り返りたくなる気持ちを押さえ込んだまま。歩き始めてからもずっと、君にしか出来ないこと、という叔父の言葉が頭の中で渦を巻いていた。
 俺にしか出来ないこと。
 俺にしか出来なかったこと。







 終わらないものが欲しかった。変わらないものばかりを求めていた。なくなってしまうものは嫌いだった。俺達を置いてどこかに行ってしまわないでほしかった。ずっとずっと俺達のそばにいてほしかった。いつまでも沈まない太陽があればいいと思っていた。
 だから俺は、直枝理樹という少年の手を引いたのかもしれない。
 悲しいことがこの世にあることを知っている少年。
 俺と同じものを抱えた、孤独な少年。
 


 控え室のドアを開くと、理樹は昔と何も変わらない笑顔で俺を迎えてくれた。部屋の中にいるのは理樹一人だった。他の連中はもう会場に行ってしまったらしい。
「遅くなって悪かったな」
「いいよ。そういうのも恭介らしいし」
 理樹はもう着替え終わっていた。白のタキシード。窓から入ってくる光を反射して、心なしか輝いているように見える。
「まだ時間は大丈夫か?」
「うん。もうちょっとなら大丈夫。第一、気を遣わなきゃいけないお客さんなんていないからさ、少しくらいなら遅れても大丈夫だと思う」
 理樹はよいしょ、と近くにあったパイプ椅子を引き寄せて座った。俺もそれに倣う。
 俺はふと窓の外を眺めた。太陽の祝福を受けた新緑の季節だ。
「久しぶりだね」
 短い沈黙の後に理樹の口から出てきたのはこんな言葉だった。
「そうか?」
「そうだよ。僕らが卒業するまでは恭介もちょくちょく顔見せてくれたけどさ、卒業してからは……ね。やっぱりみんなバラバラになっちゃったし」
「そうだな。お前ら二人は揃って地方の大学に行っちまうし」
「うん。みんな揃っては行けなかったけど、それはそれで楽しかったよ。本当はもっと頻繁にみんなと遊べたらよかったんだけどね」
「中々そういうわけにもいかないだろ。お前らもそうだと思うけど、みんなにだってそれぞれの生活があるんだ」
 高校の頃、それぞれの生活はぴったりと重なっていた。だけど重なったものはいつまでもそのままではいられない。徐々に離れていかざるを得ない。それぞれが動いているのだから、当たり前のことだ。
「いつまでも懐かしんでばかりはいられないさ。変わっていかないものなんてないんだ。離れていくものもあるし、より近づいていくものもある。お前らのようにな。変わっていくことだって、良し悪しだ。そういうことだろ」
「でも僕は何もかもがずっと変わらなければいいと思ってたんだ」
 どくんと胸の奥から響いてくる。
「僕らの修学旅行の時にバス事故があったでしょ? 恭介は覚えてる?」
 忘れるはずがない。俺だってそのバスに乗っていたのだから。
 あの時のことは今でもよくわからない。誰も助かるはずのない事故だった。誰の命も失われなかったのは、目の前にいる理樹と鈴のおかげだ。誰も彼もがその一件のことを奇跡だと口にした。
「あの時、僕らは終わらない夢を見てたんだ」
「ああ、言ってたな」
 修学旅行後、それぞれの怪我も癒えた頃にみんなが口々に言っていたことがある。何か不思議な夢を見ていたようだ、と。はっきりと覚えている者は誰もいなかった。だけど、そのイメージは誰もが共有することが出来た。言葉にしなかっただけで、誰もが。
 でも、終わらない夢なんて、ない。
「僕、ずっと思ってたことがあるんだ」
「ああ」
「僕はね、あの夢をずっと終わらせたくなかったんだ。はっきりと思ってたわけじゃない。でも、心のどこかでそう感じてた。僕が一番この夢を終わらせたくないと思ってるんだって。でもね、違ってた」
 理樹はまっすぐに俺の目を見つめてきた。
 消え入りそうな微笑みを浮かべていた理樹はもうどこにもいない。時間は人を変える。変えていく。
「僕らの中で本当にあの夢を終わらせたくないと思っていたのは、僕じゃなくて、恭介なんだ。結局、恭介は僕らに何も教えてくれなかったけど、あの夢を作っていたのだって本当は恭介なんだ。恭介はみんなの中で一番、あのメンバーで過ごすあの時間を本当に本当に大切に思っていたんだ」
 肯定することも、否定することも出来なかった。
 俺は何も言わない。言えない。
「恭介に一つ、お願いがあるんだ」
「なんだよ」
「鈴を僕のところまで連れてきてほしい」
「それは俺の役目じゃない。叔父が鈴をお前の所まで連れて行ってくれることになってたはずだ。俺には……出来ない」
 式の前に受けた打診を、俺は固辞した。俺には自信がなかった。こいつらから長い間離れてしまった俺がそんな役目をこなせるのか。
 理樹は首を横に振る。
 違う、違うよ、恭介。
 そんなことを言う。
「恭介以外には出来ない。恭介にしか出来ないんだ」
 理樹は立ち上がり、閉ざされた窓を開いた。
 風は吹き込み、緑の匂いを運んでくる。
 土の匂い。
 水の匂い。
 あの日あいつと見た空の匂い。
 変わらないものなんてない。
 なくなってしまわないものなんてどこにもない。

 だけど。
 俺にだけ出来ること。
 俺にしか出来ないこと。
 そんな台詞が頭をよぎる。

「……条件が一つある」
「何?」
「全部済んだら、一発殴らせろ」
「いいよ。恭介がいいなら、何度でも」
「思いっきりだぞ。手加減なしだ」
「うん。痛そうだね。手加減なんかしたら、許さないけどね」
 俺と理樹は声を上げて笑った。
 俺はこいつを殴れるだろうか。
 兄弟のように育ったこいつを。
 鏡に映した、自分の半身のようなこいつを。
「お前に一つだけ言っておきたいことがある」
「うん」
「俺は今まで鈴のためだけに生きてきた。あいつが笑顔で暮らしていけるためならなんでもやるし、なんでもやった。あいつは俺の全てだったんだ。あいつの幸せ以外は全部どうでもよかった。俺はあいつのことを――」
 ついに言葉に出来ず、俺は部屋を飛び出した。最後、理樹は笑っていたような気がする。
 うん、知ってたよ、と。



 俺は鈴のために、何をしてこれただろう。
 俺は鈴のために、何が出来ただろう。
 俺は鈴のために、何をしてやれるだろう。



 今まで生きてきた中で一番速く走った。廊下を抜け、中庭をショートカットし、植え込みを飛び越え、人の群れをかきわけ、息を切らし、髪を振り乱して、走った。迷うはずなんてなかった。

「遅いぞ。きょーすけ」
「ああ――悪い」

 振り向いた鈴は純白のドレスに身を包み、美しく整えられた瞳の線が涙で少し滲んでいて、真っ白な手袋をした両の手は白いブーケをしっかり握り締めている。見ると、その手は小さく震えている。緊張しているのだろうか。怖い物など何もないというのに。これからお前の未来は今まで経験したこともないほどの幸せに溢れているというのに。守ってやりたいと思った。大切にしてやりたいと思った。だけど、もう違う。
 鈴の側には叔父がいる。叔父はいつもと同じ無表情だったが、目尻の皺に一粒光る雫があった。俺の姿を見て何かを察したのか、その目はみるみる細く細められていった。
「恭介君、大丈夫かい」
「はい。俺がこいつを理樹のところまで連れて行きます」
「うん、うん、うん」
 叔父は頷くばかりだった。
 それだけで俺には全てがわかった。

 扉が開いた。
 俺と鈴は割れんばかりの拍手の渦へと身を投じた。ライトが眩しすぎて周りが見えない。先の見えない道を、足下の感覚とつないだ手のぬくもりを頼りに歩いていった。急ぐこともなく、遅れることもなく、俺達はただ淡々と歩いた。ライトに目が慣れると、懐かしい奴らの顔が見えた。皆思い思いの格好をして、俺達に向かって歓声を上げていた。
 こんなに長いのか、と思った。いつまで歩いてもゴールに待つ理樹の姿は一向に近づいて来なかった。急ごうとする足を鈴の手が止める。鈴を見る。恥ずかしそうに、少し笑っている。その手は、昔俺が引いた手だ。保育園に迎えに行った時、公園で遊んだ時、虐められている鈴を助けに行った時、真人や謙吾と馬鹿をやってはしゃぎまわっていた時。ただ俺に引っ張られるだけだったその手は今、急ぎ足になろうとしている俺を諫めている。俺は鈴の隣で、鈴と歩調を合わせて、ただ歩くだけでよかった。
 いつの間にか純白の道は終わっていた。
 言われた通りに俺は、鈴の背中をぽん、と押した。鈴は静かに俺から離れてゆっくりと理樹の元へと歩いていった。俺は呆けたようにその様子を眺めていた。終わったらすぐに席に座るように指示を受けていたにも関わらず、俺の身体はぴくりとも動こうとしなかった。
 俺の様子がおかしいのを察して鈴と理樹が側に歩み寄ってくる。その様子が、スローモーションのように俺の目には映る。
「きょーすけ?」
 俯いた俺の顔をのぞきこんで鈴が言う。
 俺の言葉はそこで生まれた。

「――――」

 呟いた言葉を残して、俺はゆっくりと自分の席に向かって歩き、腰を下ろした。妙な雰囲気になった会場の意識を司会が軽やかに元に戻し、式は始められた。俺は身動き一つ取れず、死んだように座っていた。隣に座っていた叔父から差し出されたハンカチを見て、初めて俺は自分が泣いていることに気付いた。涙は後から後から溢れて、溢れていつまでも止まることはなかった。


[No.723] 2008/11/27(Thu) 02:29:00
永遠の一瞬に子犬は幸せを嗅当てる (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 10347 byte

 見えない、何も聞こえない。

 私の前に光はなくて、自分の足音すら聞こえなくて。

 人が頼る大部分を失っても尚、それでも進んでいかなければならないのなら。

 残りの三感は、どれほど頼りになるだろうか。



 にせものの中で、あらゆるものを嗅ぎ、味わい、触れることが出来るのなら。

 そのどれが一番信頼に足るというのだろうか。



 時計の秒針が鳴って、自分の吐息を感じて、時間が過ぎてしまう。胸のあたりがどきどきとしてきて、ますます正解が見えなくなって……

 でも、それがなくなった時、頼りになる何かに手を伸ばせる。

 ひくりと動いた私の鼻が、たった一つの正解を探す。私の希望、私の未来、たった一つの幸せを、私の鼻は嗅ぎ分ける。

 柔らかな匂いが鼻に伝わり、心を満たすそれに、確信を得る。



「わふ……これなのですっ!」



 手を伸ばす。柔らかな感覚に触れた、その感覚を認識した時。



「ふきゃ!!」



 まるで猫の尻尾でも踏んづけたかのような叫び声を聞いて、目を開けた。

 どうやら眠ってしまっていたようだ、と気づく。

 再び迫り来る眠気を振り払おうと頭を振ったところでようやく、私に光を連れて来た何かの存在に思い当たった。



 ベッドの横の床に視線を落とす。

 そこには、何故か鼻を押さえてうずくまっている風紀委員長様がいた。



 萌えた。









                〜永遠の一瞬に子犬は幸せを嗅当てる〜











「わふっ!? 佳奈多さん佳奈多さん、どうしたのですか? 大丈夫なのですか? お病気なのですか? 救急車を呼ぶのですっ!!」

「お、落ち着きなさいクドリャフカ! これは……その……ちょっと鼻をぶつけただけなのよ! ティッシュでも詰めておけばすぐに治るわ。って何携帯に手を伸ばしてるの!? しかもそれ110番でしょう!」

 落ち着けとか言っている風紀委員長が一番落ち着いてなかった。大体今鼻に詰めようとしてるのは私のぱんつだ。一体いつの間に盗ったのだろう?

 あと、110番に電話しようとしたのは間違いじゃない。毎朝毎朝、この変態委員長のせいで乙女の危機を感じる羽目になっているのだから。そもそも何故に女子寮内で変態に注意しなければならないのか、私は声を大にして叫びたい。じゃぱにーずは変態ばかりか?

「ほ、本当に大丈夫なのですか? 葉留佳さんを呼んできましょーか?」

 わざとらしく携帯をいじると、目の前の風紀委員長が焦り出す。

 そりゃそうだ。このシスコン、妹に自分が変態だなどと知られると距離をとられるとか思ってるんだろう。全く、妹も妹で変態なのだから、仲良し姉妹でうまくいくと思うのだけど。

 ちなみに、その妹は部屋の前で待機している、髪留めには隠しカメラを内蔵しているのもお見通しだ。

 頃合いを見計らって突入を図るつもりだろう、全く。

 で、風紀委員長は冷静な風を装っているのがバレバレだ。そして、今ポケットから出して汗を拭いたのは私の靴下、真性の変態が脳にまわっているようだった。





 さて、ここのところ毎朝、目が覚めると風紀委員長の顔がすぐ傍にある。その唇を、私のその部分と触れ合わさんとばかりに突き出した状態で。

「はあ、はぁ……クドリャフカ、いい、いいわぁ……っ!!」

 ここのところ私の目覚まし代わりとなっている第一声。ついでに言えば、その手は私の胸元に伸びている上に、いつの間にか布団がはぎ取られている。

 まったくもってイカレている、頭のビョーキだと思う。漢字でなく、片仮名の方の。

 

 こんな朝の一場面を切り取るだけで彼女のダメ具合が分かっていただけると思うが、それにしても、これで隠し通しているとでも思っているのだろうか?
 全く、愚かの極みだ。私的にはその方が遊びようがあって楽しいわけだけど。



 さて、箱の中のりんごは、一つが腐ると連鎖的にすべてのものが腐ってしまうと聞いたことがある。

 同じ部屋の一人が壊れていた事だけは疑いようのない事実ではあるが、かといって私は壊れたわけでも、壊された訳でもない。もちろん肉体的な意味も含めて、である。

 そう、この能美クドリャフカはこの程度の変態に振り回されるほど甘くはない。伊達に母国大ロシアが誇るイカレポンチの孫娘ではないのである。

 赤の広場を甲冑姿で駆け抜け、エカテリーナ宮殿を褌一丁で闊歩し、クロンシュタット軍港に忍者装束で忍び込んだクソ爺の元で育った私は、変態の扱いなどお手の物だ。それに萌える事すらできる、まさしく対変態決戦兵器だ。

 考えてもみよ、うら若き乙女、それもこちらの言葉で言う『ツンデレ美少女』が私の掌の上で踊っているのだ、これに萌えずして何に萌えよというのか? もっとも、私好みに育てるのには少々苦労した上、ここまで真性の変態だったとは思わなかったけど。

 昔は、ちょっとボタンを外してわふーと言えば、少し頬を染めながら「クドリャフカ、もう少し服装はしっかりとしなさい」と言いつつ直してくれていたのが、今じゃ盛大に鼻血を吹き出しながらボタンを留めようとしてさらに外すのである、この時はさすがの私も焦った。焦ったあまり、上着をはぎ取られ、壁に押しつけられた状態で、スカートのファスナーという乙女防衛ラインを死守する羽目になった。

 おそらく、服に鉄十字を縫い込んでいるぶっとんだ服飾センスの妹が、鼻息荒く電撃戦を仕掛けてこなければ危なかったろう。独をもって毒を制すとはこのことである……違うか。

 ともかく「お姉ちゃん私に!」とつっこんできたばかちんガールと、直後「佳奈多君私も!」とつっこんできたサムライガール、「5人百合……アリです」と天井から降ってきたカゲナシガールによる大変態戦争が勃発したどさくさで、どうにか逃げだす事ができた。ちなみに、あの後あの部屋はどうなったか知らない。知りたくもない。

 それにしてもツンデレ変態恐るべし、である。危うく、ツシマ沖海戦の二の舞を演じる所だった。やはり、じゃぱにーずは油断ならない。

 まぁ、おかげで今まで一方的に遊んでいたのが、ぱんつを巡って虚々実々の駆け引きを行う、スリリングな毎日を送っている。もっとも、さっき風紀委員長が持ったのを含めて全部囮だけど。

 このクドリャフカ、同じ失敗は繰り返さない。彼女は、私の掌の上で踊っていればいいのだ。適度の刺激をもたらしつつ……ね。

 サンタ帽に褌という破滅的な格好で孫娘の枕元に立つ祖父に萌えろと言われても無理だが、この『愛想なし、素っ気なし、配慮なし』の風紀委員長様の痴態を眺めるのは悪くない。まだ時間はあるし、もうちょっと楽しんでみよう。

「……いたいのいたいのとんでけーなのでわふっ!?」

 そこまで言いかけた瞬間、風紀委員長が吹っ飛んだ。鼻血の噴射で人が飛ぶのはなかなかに珍しい光景に思えるが、遺憾ながら私の周囲では日常であった。祖国のじじいなど、私がわふーと言えば鼻血の噴射で軽く2mは飛ぶ、おじーちゃん大好きなのですをオプションで加えれば5m、カレリアのR-7と言われた鼻血ロケットだ。

 一方ここの風紀委員長はせいぜい勢いよく倒れる程度、所詮は小娘か。いずれは火星まで飛ばせられるほどにしようと心に誓う。

 その風紀委員長はつま先でつんつんやってみたが動かない。
 撃沈確実だったが、無意識の内に私のスカートに潜り込もうとするのは変態の鏡だった。その意気に免じて、起きた瞬間に介抱してやるとしよう。さらなる戦果拡大が期待できそうだ。



 



 さて、二木三枝の姉妹は、明らかに本性を現わしてしまっているのは分かっていただけたと思うが、他の連中はどうか。いや、大体分かって頂けた気もするが……想像通りである。

 傘かぶりのビブリオマニアは、人目も憚らずBL萌えを語り、彼女自身が入門編だと語っていた漫画のキャラクターの名を叫んだ後、「何故終わってしまったのでしょう……」と鬱に入る日々が続いている。『カゲナシ』なんて呼ばれていた頃が、もしかしてこことは別の時間軸なのではないか、なんて思わせる位だ。

 サムライガールは、あまり変わっていない。夜な夜な女子寮内を徘徊し、部屋に忍び込んでは生徒を毒牙に掛けている。この間百人に到達した、と眩しい笑顔で語っていた。まぁ、こちらは量より質で勝負するつもりだが。

 お菓子娘はどうだろう。多分あまり変わっていないと思う。……おそらく体重を除いては、お菓子の食べすぎだと思う。
 指摘したら「ほわぁ!?」とか「ほえぇぇぇ!?」とか言って慌てていた。萌えた。
 仮にも友と呼んだ誼で、今度我が祖国が誇るラーゲリに招待してやろう。少しは痩せるだろうと思う。私の眼福の為には、ベストスタイルを固守してもらわねばならない。

 猫娘は、普通だ。周りにも普通に接しているが、逆にそれが不気味だった。実は一番油断ならない相手なのではないだろうか?

 特に、ドルジとかいう化け猫には注意が必要だ。

 同志ストレルカに命じ、寮長の弱みを探らせようとしたところ転がってきたヤツに押しつぶされ、同志ヴェルカも、花畑にローアングルからの隠しカメラを設置しようとした瞬間に撃破された。もしかすると、予想外の強敵かもしれない。

 ここはとても愉快で、油断ならない世界なのだ。





 

 目の前に転がる風紀委員長の姿を見下ろす。散らばった鼻血を拭きながら、ふと考える。

 愉快。楽しい。面白い。そう思う。

 歪んでいる。壊れている。反面そうも思う。

 足りない。何かを形作る何かが、圧倒的に足りていない。

 分からない。その何かが分からないけれど、目に映る光景に異常を感じなかった、私自身が既に。

 冷たい何かが、私の中を駆け抜ける。すっと冷えた。そんな気がした。



 何かが起きる気がする。或いはもう起きた後だったかも知れない。

 今はいつだ、という声無き回答に対して、答えはない。カレンダーを見る、そんな現実的な対処をしたところで、その時に瞳に映る文字の羅列は果たして信頼に足るものなのか。

 神様が居たとして。その存在がほんの気紛れで、地軸をつかみ少しだけ地球を早く回したのなら。何もかもが少しずつ狂っていくのではないか。

 日没が朝になる。夜闇を纏った昼が出来上がる。海で遊ぶ冬が来て、雪の降る夏が来る。

 そんな時間が来るはずがないと、一体誰が言えるのか。



 虚だけを映す瞳を、自ら閉ざす。



 闇の中、音がする。

 水。ちゃぷちゃぷと。

 鎖。じゃらじゃらと。



 いつか聞いた。空っぽの自分を満たす絶望。涙の牢獄。懺悔の手枷。

 過去か未来か、夢か現か。判別はもはや出来ない。

 冷たかった。寒かった。お腹が減った。

 そんな事はなかったはずなのに。夢だと割り切れない自分が居る。その境目が、逆転してしまいそうなくらいの現実。



 耳を塞ぐ。蹲るようにして、自らの身体を抱く。

 すべての感覚が閉じていくような、不思議なイメージ。



 ここがどこか分からなくなった。

 もう、終わるのだろう。そんな理解しがたい論理が、頭の中に浮かぶ。

 何らかの、例えば強力なジャミングで正を妨害し、異を常とするのなら、それはもう異ではない。

 始まりからすべておかしかったのか。

 捻じ曲げられ、歪められていく。その中で私は私を続けられるのだろうか。

 そんな事だけを、考えていた。







 見えない、何も聞こえない。

 私の前に光はなくて、自分の足音すら聞こえなくて。

 人が頼る大部分を失っても尚、それでも進んでいかなくてはならないのだから。

 

 ひくりと動いた私の鼻が、たった一つの正解を探す。私の希望、私の未来、たった一つの幸せを、私の鼻は嗅ぎ分ける。

 柔らかな匂いが鼻に伝わり、心を満たすそれに、確信を得る。



「わふ……これなのですっ!」



 手を伸ばす。柔らかな感覚に触れた、その感覚を認識した時。



「ふきゃ!!」



 まるで猫の尻尾でも踏んづけたかのような叫び声を聞いて、目を開けた。





 

 覚えている。この光景を知っている。

 狂った歯車は、依然として回り続けるようだ。

 ならば私は、ぬるま湯のようなこの時間に身を浸していようと思う。

 見たくないもの、聞きたくないものを回避した結果、嗅ぎつけた希望が、未来が、幸せが、此処にあるというのなら。

 起こり得る未来、歪んでしまった過去。どちらにも抗えないのならば、せめて。

 

 



 ベッドの横の床に視線を落とす。

 当然のように、鼻を押さえてうずくまっている風紀委員長様がいた。



 とりあえず。

 萌えておいた。


[No.724] 2008/11/27(Thu) 17:57:43
腐敗の檻 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@7899byte

 両目を覆うように巻かれた包帯にそっと触れる。指先にざらついた布の感触。これを取り払ってまぶたを上げれば、この瞳にかつて見た世界が映るのではないだろうか、なんて。僕はそんなことを夢想する。
 バス事故に巻き込まれた僕は、両目を潰して光を失った。先日、病室と思しき部屋のベッドで覚醒したとき、傍らにいてくれた鈴にそのような意味のことを告げられたのだ。視力を奪われた僕は、今となっては自らの置かれた状況すらもあやふやな言葉でしか表現することができない。
 耳を澄ませる。かすかな足音が聞こえる。僕は起こした体をベッドに沈め、狸寝入りをする。病室の扉が軋みを上げて、部屋の空気に人の気配が混じる。静かに歩み寄ってきた誰かが、僕の寝顔に視線を向けているのが何となく分かる。その双眸にどのような感情を宿らせているのかまで、窺い知ることはできないけれど。
 その誰かが顔を寄せてきたことで、僕の鼻腔を柔らかく甘い匂いがくすぐった。鈴、と思わず口を割って出た言葉に、そこにいる彼女が息を呑んだ。ごめん、起こしたか、と申し訳なさそうに鈴は言う。
 答える代わりに首を振り、鈴を抱き締めようと手を伸ばす。その手が温かな肉体を捉えるよりも早く、僕は彼女の唇で口をふさがれていた。
 その刹那、僕を取り巻く世界の時間は極限まで濃縮されて、残された五感が一つずつ閉じていく。静寂が満ち、命の匂いが霧散し、重ね合わせた唇の感触すらも失われ、何も映さない瞳が生み出す闇の向こうに僕たちだけが取り残される。
 深淵に沈み込んでいくような絶望は、今こうして鈴の存在を身近に感じているときにこそ色濃いものとなる。彼女と繋がり合うこの一瞬が、光を取り戻すことのない瞳のように、仄暗い永遠に届くことを思う。自他を区別する存在の輪郭線が、ぬらつく鈴の唾液のように、流れて溶け出し混じり合うことを思う。
 惜しむように離された鈴の唇から、熱っぽい吐息が漏れる。偽りの久遠は瞬く間に砕け散り、この身へと五感が乱暴に突き返される。正常に時を刻み始めた世界の中で、何の前触れもなく、あたしが理樹の目になると、鈴が漫画か映画でしか聞かないような台詞を大真面目に口にする。
 その言葉が脳に染み入ると、頭の芯が不思議と痺れた。頭蓋を切り開いて柔らかな脳を取り去り指先で弄ぶような快楽。噛み潰した血管から命を啜るような甘美。数多い血濡れの臓器を峻別していくような堕落。やがて僕の意識は自然と薄れ、思考は曇り硝子に似て散漫となる。その間隙を縫うように、鈴がまたしても僕の口を吸う。
 鈴の温かな唇から垂れ落ちた涎が、僕の手の甲に落ちる。彼女の皮膚から滲み出た生温い汗も重ねて落ちる。
 鈴はどんな表情をしているのだろうとふと思う。僕の心を占有する彼女によって、その思索は瞬時に押し流される。今なお脳は痺れている。寒空の下に神経を剥き出しにしたような、異常なほど鋭敏な五感が彼女の存在と直接繋がっている。僕は彼女を抱き締める。世界そのものを抱き締める。
 鈴の方から口を離す。弾みで二人分の唾液が糸を引く。それを感じる。ぷつりと切れて重力に引かれて落ちる。あたしが理樹の目になると、一度聞いた言葉を鈴が繰り返す。あたしが理樹の手になると、吐息混じりにそう続ける。あたしが理樹の足になると、静かに言葉を紡ぐ。あたしが理樹の全てになると、そう言い終えた直後にまた口づける。
 僕は見えもしない目を閉じる。闇が闇を塗り潰す。


 電気の切れた薄暗いバスに人の気配はない。窓から射し込む月明かりだけが、朽ちた内部を微かに照らし出す。足裏に触れるのは弾力のある柔らかな地面。見下ろせば、随所に血管の浮き出た脈打つ内臓の床がそこにある。
 車窓から見上げた空は低く、強烈な圧迫感に眩暈を起こす。黒檀の夜空に鎮座する満月は、縮尺が狂って異様なまでに大きい。彼方に屹立するのは骨の塔。野放図に組み上げられた廃墟の白刃めいた表面が、淡い月光を浴びて不穏に煌く。周囲に広がるのは虹の森。並び立つ七色の木々は、色彩から濃淡に至るまで一本とて同じものはない。天を突く幾千の槍のごとく、寂寞の森に根を下ろしている。
 バスの内部は窓も扉も閉じているのに何故か底冷えしている。僕はかじかむ手をすり合わせる。何気なく見上げた天井は闇の濃度が高い。しかし刻々と隆起と沈降を繰り返す様は、やはりそこもまた脈動する内臓の一部であると告げている。
 狭小な空間に息苦しさを覚えて、外に出ようと考える。閉じた扉を引くが反応はない。壊すつもりで手荒にやっても無駄だった。諦めて窓の鍵に手をかけるがこちらも動かない。錆びついているのだろうか。


 病室の扉が軋む。途端に食欲を刺激する匂いが部屋に充満する。ご飯持ってきた、と弾んだ口調で言葉を落とし、鈴がこちらに寄ってくる。思わず身を起こそうとするが、叶わずに背中からベッドへと沈み込む。理樹、とまるで自分のことであるかのように彼女が悲痛な声を漏らす。
 無理するな、と甘くとろけるような声で鈴は言う。ほら、あーんしろ、とそのままごく自然に言葉を継いだ。僕はそれに従う。スプーンが口に差し込まれる。
 痛むか、とひどく心配そうに問いかけられ、大丈夫、と普段通りに返して笑う。うまく笑えただろうか。鈴が、包帯の巻かれた僕の腕を優しくさする。肘から先のない腕を、彼女の熱が包み込む。僕はバス事故に遭って、両目と両腕を失った。二度と治ることのない傷痕。それでも生きていられたのは僥倖だ。鈴がここにいてくれたから。
 食事を終えた僕の体に、鈴が体を寄せてくる。僕を見上げる彼女が、その瞳を飴細工のようにとろかせていることを思う。密着した肉体と肉体が、離せば糸を引く粘着質の境界を持つことを思う。漂い始める甘い腐臭に鼻の奥が痺れる。プルースト効果というやつか、唐突にいつか見た夢、あるいは過去の記憶が呼び起こされる。だが、それが明確な形を成す前に僕は口を吸われる。想起した感情が、風景が、鈴の存在に圧されて消えていく。その快感に身を震わせる。
 僕は自らが蜘蛛に絡め取られる虫けらとなることを思う。粘つく糸に束縛されて感覚は麻痺し、一切の抵抗を許されないまま四肢を順にもがれていく。そうして生きながら身を喰われる様を想像してみて、それが存外に堕落にも似た快楽を呼び覚ますことを知る。
 僕の頬に触れる鈴の小さな手が、ぬめりを帯びているように感じられた。絡み合い、浮き出た汗に濡れているのかもしれない。彼女の妖艶な吐息が、僕の肌を刺激する。触れ合う全ての場所が熱を帯びている。
 耐え切れず、僕の方から深く鈴の存在を求めて再び身を起こそうとする。叶わないと知りつつ行った僕の愚鈍な本能を見透かしたように、彼女は激しく身悶えする。その行為に根ざした感情は、魂を揺さぶるほどの征服感か達成感か。あるいは。


 雨音が聞こえ始めた。閉ざされた車窓から外を見ると、幾条もの雨粒が地上に降り注いでいる。それは蛍火に酷似した輝きを纏い、大気を鮮やかに彩る。地に落ちた雨は寄り集まって水溜まりを作る。すると水は蛍火から、魂を思わせる燐光へと色を変える。
 視線を空へと転じれば、雨風を切って舞い飛ぶ鳥の姿が捉えられる。肉も皮も削ぎ落ちている骨格標本めいた鳥だ。空洞だらけの翼が激しく揺れ動いている。甲高い鳴き声が雨粒の隙間を縫い、硝子窓を突き抜けて僕の耳に届けられる。
 横殴りの豪雨が窓に映る世界を滲ませる。間断なく叩きつけられる雨粒が硝子窓に当たって何度も弾ける。もはや骨の塔も虹の森も見えない。僕は静かに視線を切ると、先程よりも明度の落ちた車内を振り返る。
 不自然に雨音が強まった途端、頭上にある天井が破れて大量の雨粒が僕の体に降り注ぐ。全身が濡れそぼるのに数秒とかからなかった。今や世界と繋がる抜けるような天を仰ぐ。見ていて吸い込まれそうな程に壮大な満月がそこにある。僕は片手を空へと掲げる。すると五指が音も痛みもなく溶けるようにもげ落ちる。手首、肘、肩と順々に雨の勢いにさらわれ流れ落ちていく。
 急に足から力が抜けて倒れ込む。気がつくと僕には足がない。脈打つ地面に取り込まれているのだ。どこまでも落ちていくような浮遊感の只中で、それでも聞こえ続けた雨音が緩やかに収束し、消えていく。五感が鈍りつつあるからだろうか。分からない。空が遠い。


 目が見えず、四肢すら動かない僕の世界には、もうずっと音がない。事故で鼓膜でも破れたか、しかし僕は誰かにそれを問い質す術がない。現状が何一つ分からなかったから、誰か、と僕は他人の温もりを求めて声を上げる。耳が正常に機能していないから、声が出ているのかすら不明だった。
 すると誰かが僕のおとがいをそっと持ち上げて、甘く痺れるような接吻をする。そうしてから、出来の悪い恋人をたしなめるように唇を甘噛みしてきた。
 そこにいる気配は伝わるのに、その誰かはすぐに口を離してしまい、再び僕に触れようとしない。見捨てられるのではないかという恐怖が湧いてきて、それと同時に心の深層から溢れ出てきた、たった一つの切実な言葉を口にする。
 鈴、と。
 それが正解だと教えるように、彼女は僕に長く深く口づける。彼女の体から染み出す甘い香りが、僕の脳を侵すように染み入る。直後に漂い始めた腐臭は、溶け始めた僕の脳が発するものか、彼女の存在が発するものか、あるいは別の何かなのか、僕には分からなくなっていた。だが、その疑問も口を吸われることで溶けるように消えていく。押し流されていく。闇のみを映し出す瞳の奥で、彼女が満足そうに笑っているような気がした。


[No.725] 2008/11/27(Thu) 19:39:06
ぬくもり (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@19998 byte

 ――――寒い
 もうすぐ冬本番となる寒空の中、私は自販機の近くを歩いていた。
「どこに行ったのかしら、あの子」
 結構探していると言うのにクドリャフカの姿が見つからない。
 本人は気にしているけれど、あの子の容姿は学園の中ではとても目立つからすぐ見つかると思ったのだけど。
「神北さんも西園さんも見かけてないと言うし、どこに行ったのかしら」
 寮内を歩いていると神北さんを見かけたので声を掛けたが、あの子の行方については知らないと答えが返ってきた。
 その後、図書室に寄った時に西園さんを見かけたのでこっちでも聞いたが、答えは同じく彼女も会ってないらしい。
 ならばと校舎内をしばらく歩いたが発見は出来なかった。
 そのため現在、私は外に出て捜しているところだった。
「むっ、そこを行くは二木女史かね」
「え?来ヶ谷さん」
 声を掛けられて振り向くと、来ヶ谷さんが僅かに朽ちた椅子に優雅に座り紅茶を飲んでいた。
 なんと言うか絵になる人だ。
 朽ちかけた椅子とテーブルに囲まれて尚……いやだからこそ彼女の美しさを引き立てていた。
「何か探しているのかね。少々挙動不審だぞ、君らしくもない」
「そう……でしょうか。西園さんにもそう言われてしまいました」
 これで二度目。
 神北さんはああいう性格だからいいとして、あの西園さんや来ヶ谷さんまで声を掛けてくるなんて、自分はそれほどまでに動揺しているのだろうか。
 情けない。
「うむ。僅かだが焦りが表情に見える。何かあったのかね」
 思いの他真剣な声。それが心配な気持ちから来ることが分かる。
 なんと言う未熟。こんなことくらいで動揺して心配を掛けてしまうとは。
 私は動揺した心を落ち着けるために一度咳払いした。
「大したことではないんです。ただちょっとクドリャフカを探しているところで。見かけませんでしたか?」
「能美女史か。すまんな、見ていない」
「そうですか」
 僅かな落胆と共に溜息が出てしまう。
 ホント、どこ行ったのかしらあの子。
「なんだ、佳奈多君は彼女に緊急の用事か」
「いえ、緊急と言うほどではないですが、まあ」
「ふむ。携帯に電話はしたのかね」
「ええ、それはもう。自室で電話してすぐ近くからあの子の着信音がした時はどうしてやろうかと思いましたよ」
 携帯はちゃんと持ち歩きなさいと言っているのに、あの子は時折ポカをする。
 はぁ〜、何もこんな時でなくても。
 あの子の机の上から携帯の着信音が鳴り響いた時にはさすがに怒りを覚えてしまった。
「ハハハ、忘れて行ったか。ある意味彼女らしいな」
「笑い事じゃありません。本当に連絡できないんですから」
 あの子がいつも通り携帯を持ち歩いていればこんな苦労はしなくて済んだというのに。
「まあ落ち着きたまえ」
 来ヶ谷さんは静かな口調で私を諌める。
 そして少しの間何事か考える素振りを見せると口を開いた。
「………そうだな。とりあえず私の方で見かけたら連絡してやろう」
「それは……その、すみません。お願いします」
 一瞬断ろうかと思ったが、すぐにそのほうが効率がいいだろうと思い直し頭を下げる。
「ふっ、気にするな」
「はい。では私は別の場所を探しますので」
「ああ、気をつけてな」
 来ヶ谷さんに見送られ、私は再び歩き出した。

 次に訪れたのはグラウンド。
 直枝から今日の練習はないと連絡は受けていたものの、僅かな可能性に掛けて見に来たのだが、当然のように彼女はおろか他のメンバーも誰もいなかった。
 いや、ソフトボール部が練習をしているのだから誰もと言うのは語弊があるか。
 最近葉留佳たちの仲間になったらしい笹瀬川さんが相手ピッチャーの鋭い投球を完璧に打ち返し、ダイヤモンドを一周している姿が見えた。
「上手いわね、彼女」
 無意識に言葉に出してしまった。
 それくらい彼女の動く姿は力強く洗練されていた。
「ふぅー、別の場所を探しましょうか」
 笹瀬川さんに尋ねると言うのも一つの手だが練習の邪魔をしては悪い。
 誰ともなく呟いて私はその場を後にした。

 そしてしばらく学園内を歩いていると今度は人だかりが出来ているのが見えた。
「なに、かしら」
 もうとっくに風紀委員は辞めたとはいえ、染み付いた習慣はそう簡単に消えないのだろう。
 私は即座にその場に赴いていた。
 ・
 ・
 ・
「で、何をやっているんですか?」
 言った後で自分でも声が硬くなっているなと反省するが、言ってしまったものは仕方ない。
 相手は僅かに身を震えさせた後、罰の悪そうな顔でこちらを振り向いた。
「ん?なんだ、二木か。……あー、何をやってるって言うかな」
 私の顔を確認して一瞬ホッとした表情を見せるが、すぐ答えを言いあぐねたような顔に変わってしまった。
 なんと言うか私のイメージは変わらないままなのね。いや、今回は聞き方が悪かったか。
「別に止めさせようとかそういうつもりはないですよ、棗先輩。もう風紀委員はとっくに辞めましたし」
 彼らが何をやろうとしていたかは察しが付いている。
 それに咎めようと言うつもりではなく少々呆れただけなのだ。
「ん、そうか?……じゃあ、みんな。武器を投げ入れてくれ」
 野次馬連中を見渡した後そう宣言すると、最初は私の姿に躊躇していたようだが徐々に武器が投げ入れられ最後にはいつも通りの光景となった。
「で、なんの用だ」
 通常通りにバトルの準備が始まろうとしているのを確認して、棗先輩は声を掛けてきた。
「いえ、こんな時期に余裕があるなと思いまして」
「なんだ、時期って。学期末テストまでまだ余裕はあるはずだが」
 見当違いの事を彼は言い出した。
 と言うか聞いた話によれば彼自身は全ての学科でいい成績を修めているらしいので、テストの日程が迫ったとしてもジタバタすることはないだろう。羨ましい。
 それよりも彼にとって重要なことがあるはずだ。
「就職活動、まだ終わっていないと聞いたのですが」
「ぐっ……」
 私の言葉に彼は冷や汗を大量に噴き出すことで答えた。
 ……本当に大丈夫なんだろうかこの人は。
 特別親しい間柄ではないのに心配になってしまう。
「いいんだよ、偶の息抜きだ。……で、用はもうないのか?ならバトルを開始したいんだが」
 見ればすでに武器を二人とも選び終えているようだ。
「ってうなぎパイでどうすればいいってのよ、うんがーっ」
「斉藤さんの判子ですか。どうやって戦えば……」
 と言うか二人とも碌な武器じゃなかった。
「ふっ、いいわ。優秀な兵士は武器を選ばないものよ。このくらいのハンデどうとでもなるわ」
「ほう、大きく出ましたね。私がまともな武器でなかったこと、天に感謝してください」
「なにそれ。まるでまともな武器なら絶対勝てるような言い草ね」
「まるで、ではないです。例え貴女の得物が銃だったとしてもこのような代物でないなら勝てるかと。まあ、弓ならば一瞬で片が付くでしょうけど」
「へー、吼えるわね。片目しか見えない分際で」
「ふふ、貴女如き片目で充分です」
 何か知らないけど盛り上がってるわね。
 と言うか錯覚だと思うけど二人の背後から禍々しいオーラが出ているような気がするのだけど。
 ふと視線を戻せば棗先輩が先ほどとは別の意味で冷や汗を流していた。
「あー、で、用はいいのか?なにか困っているように思ったんだが、俺の思い違いか?」
 極力あちらを注視しないようにしながらもそんなことを尋ねてくる。
 なんと言うか本当にこの男は鋭い。おそらく私の僅かな表情の変化から読み取ったのだろう。
「その……あります。クドリャフカを見ませんでしたか?」
「能美?いや、見てないが。何か用事か?」
「ええ。さっきから探しているのですが」
「そうか」
 私の言葉に棗先輩は何かを思い出すように顎に手を当てた。
「……そう言えば理樹と鈴が能美のところに行くと言ってたな」
「え!直枝たちがですか?どこに行くとは?」
 それは大きなヒントだ。
 出来れば行き先も伝えていてくれるとありがたいのだけれど。
「いや、そこまでは。……ただ能美のところと言う言い方からしてどこかに出かけるわけではないだろう。普通そんな言い方はしまい。能美の部屋……はもう確認してるだろうから、それ以外であいつが居そうな場所は知らないのか?」
「クドリャフカが居そうな場所ですか?」
 あの子のところという言い方からすれば、あの子がいて当然の場所だろう。
 そんな場所、私たちの部屋以外にどこに……あっ。
「お、なんか気づいたか」
「ええ、ありがとうございます。お蔭で見当が付きました」
「そりゃ良かった。んじゃ早く行きな」
 棗先輩は爽やかな笑顔で私を送り出す。
「ええ、棗先輩も早くバトルを開始した方がいいですよ。あの二人、凄い殺気の篭った目でこっちを見てますし」
「なに?……うおっ!?わ、悪い、バトルスタートっ」
 合図の直後、凄まじい戦闘音が後方から聞こえ始めたが、私はそれを無視して目的の場所に向かった。

 ちなみに後で聞いたところ、戦っていた二人はバトル終了後お互い地面に額を擦り付ける勢いで自分たちが発した暴言の数々について謝りあったとか。
 まあ、どうでもいいけれど。

 ――――なんて愚か。
 自嘲してしまう。他にあの子が居そうな場所なんてここしかないのに。
 家庭科部の部室。あの子が所属する部の部室を考慮していなかったなんてどうかしている。
「……居るわね」
 部屋の前に立ち中を確認する。人の気配、それも複数。
 おそらく直枝と棗さんが居るのだろう。
 ホント、なんで思いつかなかったのかしら。
 私は自分の愚昧さ呪いながら扉をノックした。
「クドリャフカ、いる?」
「あ、佳奈多さんですかー。すぐ開けまーす」
 声を掛けるとすぐにあの子の声が聞こえた。
 良かった、いた。とりあえずあの子の顔を確認したら文句の一つでも言っておこう。
「どうかしたんですか、佳奈多さん」
 能天気な声。
 思わず怒鳴ってやろうかと息を吸い込んだ瞬間、思わずたたらを踏んだ。
「うっ……」
 顔を歪めそうになるのを必死に耐える。
 この匂い。これは……柑橘類の香り?
「クドリャフカ。あなた、家庭科部で何をやってるの?」
 声は震えなかっただろうか。
 私は内心心配になりながらも彼女に尋ねた。
 すると彼女は両手をポンと合わせ、目を輝かせながら教えてくれた。
「わふー、そういえば言ってませんでした。どうぞどうぞ、ご招待します」
「ちょ、何を……」
「中に入れば分かりますよ。外は寒いですからね。ゆっくりくつろいでください」
 手を引かれ、中に連れ込まれてしまう。
 匂いは……扉を開けた所為だろう。幾分薄れている。
 これなら何とか耐えられるが表情に出ないか心配だ。
「わふ、どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないわ。……で、いったい何を……」
 それ以上言葉が続かなかった。
「あれ、二木さん?」
「ん?なんでかなたがいるんだ?」
 直枝と棗さんがいるのはいい。予想の範囲内だ。
「はれ?どうしたのおねえちゃん、こんなとこに」
 けれどまさか葉留佳までいるとは思わなかった。
 なにか思いっきりくつろいでるし。
「クドリャフカに用事があったのよ」
「わふっ、そうなのですか?」
 私の言葉にクドリャフカは吃驚したように声を上げる。
 ……そう言えばここを訪れた用件を言ってなかったわね。
 いえ、それよりも。
「これはなんなのかしら」
 葉留佳たちがくつろぐその物体を指差し尋ねる。
「これ、ですか?」
 クドリャフカはポンとそれを叩く。
「そう、それ。初めて見る物なのだけれど」
「おこただよー」
 すると彼女の代わりに葉留佳が答えた。
「おこた?」
 初めて聞く言葉だ。いったいなんなのだろう。
 私が怪訝な顔をしたのが分かったのだろう。直枝がフォローするように答える。
「えっとね、正式には炬燵って言うんだ。結構メジャーな暖房器具なんだけど、二木さんも知らない?」
「二木さん『も』?」
 直枝の言葉に引っ掛かりを覚える。
 いや、それよりもこれってそんなに有名な代物なの?
「なんだ、かなたも知らないのか」
「やはは、まあ家ってそういうの使うところじゃなかったしね」
 棗さんの言葉に葉留佳が答える。
 ああ、そうか。葉留佳のことだったのね。
「わふー、それは勿体ないのです。炬燵は日本の心。家族団欒の象徴なのです」
「大げさね」
 でもそっか、家族団欒の象徴ね。なら家にそんなものがあるはずないわね。
「別に大げさじゃないです。炬燵のよさを知らないなんて人生の8割6分を損しています」
「また微妙な数字を……」
 額に手を当て溜息をつく。
 ホント、日本人よりも日本の物に愛着持っているんだから。
 けれどそう思っていると棗さんからも同意の言葉が上がった。
「うん、クドの言うとおりだな。お前もこたつの魅力を味わっていくがいい」
 偉そうな口調で言い終えると、口に何かを放り込んだ。
 あれは……蜜柑か。
 そうか。さっきから匂っているこの香りの正体はそれだったのね。
 見れば直枝も葉留佳も、クドリャフカが座っていたであろう場所にも大量の蜜柑の皮が散乱していた。
「ぺろ……うん、やっぱりこたつでみかんを食べるのは格別だな」
 指に付いた汁を一舐めし、棗さんは満足そうに呟く。
「だねー。炬燵なんて入ったことなかったけどこの組み合わせは癖になりそうデスネ」
 元々好物である蜜柑を葉留佳は幸せそうに口に放り込んでいる。
「ですねー。炬燵といえば蜜柑。蜜柑といえば炬燵です」
「いやいや、さすがにそれは言いすぎでしょ」
 直枝がクドリャフカの言葉につっこむが、目の前に散乱している物体を見るに説得力がない。
 たぶん大げさにしろその組み合わせは間違っていないのだろう。
 私は僅かに顔をしかめる。
 家族団欒の象徴に最適の組み合わせは蜜柑……か。
 なにか家族の団欒そのものに拒絶されているような気分だ。
 ……そんなことないはずなのに。
「とりあえずどこかに座っちゃってください。今お茶を入れますから」
「お構いなく」
 社交辞令ではなく、本気で告げる。
 でも当然あの子はそれをスルーし、ポットからお湯を急須に入れ始めた。
「おねえちゃん、こっちこっち」
 座布団を自分の隣に置き、葉留佳が手招いているので私は渋々そっちに向かった。
 炬燵……ね。いったいどんな代物なのかしら。
「ささ、どうぞおねえちゃん」
「自分の物みたいに言わないの」
 葉留佳の言動に呆れつつ、私は恐る恐る布団の中に足を入れた。
「あ……」
 ぬくい。芯から温まる気分だ。
「やはは、おねえちゃん幸せそう。あったかいよねー」
「はいです。ぬくぬくです」
 葉留佳の言葉に湯飲みを差し出しながらクドリャフカが同意する。
「そう、ね。確かに温かいわ」
 意地を張る理由もないので素直に答える。
 その言葉に葉留佳たちは笑顔を見せる。
「理樹ー、次の蜜柑剥いてくれ」
 ふと見ると棗さんが直枝に蜜柑を要求していた。
「たく、偶には自分で剥きなよ」
 直枝は溜息をつくと蜜柑を彼女に放り投げた。
 というかいつも彼女は直枝に皮を剥かせているのだろうか。
「う〜、苦手なんだ皮剥くの」
「そう言わないで。ほら頑張って」
「うう……うわっ」
 どうすればそうなるのか分からないが、蜜柑に勢いよく指を突き刺した反動で中の汁が飛び散った。
「ぐっ」
 私は思わず葉留佳の袖を掴んでいた。
「おねえちゃん?」
 怪訝そうに問いかける彼女に答える余裕はない。
 口元に残った手を当て、吐き気を抑える。
 大丈夫、大丈夫。口に直接入ったわけではないんだし、これくらいなら耐えられる。
「うわ、えらいことになってしまった」
 蜜柑の汁は机どころか彼女の手や顔を汚していた。
「はぁー、もう。ほら、これで拭いて」
「ん、いい。これくらい舐めとく」
 直枝が渡そうとし布巾を手で制し、棗さんは蜜柑の汁で濡れた指先を口に含んだ。
「ぴちゃぴちゃ……ちゅ……ん、これはこれで美味しいな」
 舌を指先から手首辺りまで這わせ、垂れていた汁を舐め取る。
「鈴、行儀悪いよ」
「気にするな。ちゅぱ……くちゅ……はぁ〜。うー、まだべたついてる気がする」
 顔に付いた汁を指で掬い、口に含みながら呟く。
 確かにまだ僅かに汁がこびり付いている。
「はぁー、仕方ないな」
 机を拭き終わった直枝はティッシュを取り出すと彼女の顔をそれで拭った。
「少し動かないで」
「ん、分かった」
 頷き直枝にされるがままにされる棗さん。
 一連の彼女の動作。それは私が全く出来ないものだった。
 ぎゅっと、知らず知らずの内に両手の拳を握り締めていた。
 息が……少し苦しい。
 バンッ!!
 突然の大きな音に驚き、振り返った。
「は、葉留佳?」
 そこにはいつの間にか立っていた葉留佳が部屋の窓を全開にしていた。
 室温の差があるからなのか、外にいるとき以上に寒く感じる。
「やはは、なんかさー部屋暖かくなっちゃったから冷ましてみようかと」
 あっけらかんとした口調でそんなことを言い放つ愚妹。
 脈略がないにもほどがある。
「う〜、何てことすんじゃぼけーっ」
「わふー、寒いですー」
 冷たい外の空気が流れ込んできて、棗さんとクドリャフカは慌てて布団の中に身を隠す。
 なんと言うか……。
「やはは、なんかと子猫とわんこみたいですネ」
「葉留佳さんが言わないで……」
 直枝が呆れた口調で諌める。
 ……という事は直枝もそう思ったということか。
「葉留佳、とりあえず窓閉めなさい」
「えー」
 不満そうに唇を尖らせる。
「閉めなさい」
 もう一度、今度は強い口調で言う。
「う〜、はいはい、分かりましたよ。閉めりゃいいんでしょ」
 文句を言いながら窓を閉めると、私の隣の席に潜り込んできた。
「あ、クド公。別の食べ物ない?なんか飽きちゃった」
「あ、ありますけど、ちょっと待ってください。寒いです〜」
「はい、ラジャ。早くね〜」
 な、なんと言うやり取り。
「ぼ、傍若無人だね……」
 さっきよりも呆れた口調で直枝は呟く。
 返す言葉もない。あんなおバカな子が身内なんて恥ずかしい。
「うう、寒い。理樹、暖めてくれ」
「え?ちょ、鈴っ!?」
 何事かと思って見ると、棗さんが炬燵の中を潜り直枝のところに顔を出し、あろうことか彼に抱きつくような格好をとった。
「うわっ、鈴ちゃん大胆」
「鈴さん、凄いです」
 葉留佳たちの言葉もどこ吹く風。
 棗さんは更に直枝の胸に顔を埋めぐりぐりと押し付けた。
「ちょ、や、やめてって」
 口では嫌がっているもののその口元が僅かに緩んでいることを私は見逃さなかった。
「直枝。よくもまあ私の目の前で不純異性交遊をやる勇気があるわね」
「へ?僕?僕が悪いのっ?」
「当然」
 直枝はアタフタとして顔を引き攣らせるが特にリアクションを取るわけでない。
 一方棗さんも直枝の身体からまったく離れようとしない。
「はぁー、理樹の身体は温かいな」
 あまつさえそんな言葉を口にする。
「まあまあ。バカップルになに言っても無駄ですって」
「そうです。お二人はとっても仲良しさんなのです」
 葉留佳の言葉に、いつの間にか炬燵から抜け出しお煎餅を取ってきたクドリャフカが答える。
「お二人とも、どうぞ」
「ありがとね、クド公」
「ええ、ありがとう」
 受け取りながら直枝のほうを振り返る。
「別にバカップルじゃないと思うんだけど……」
 どうやらこの子達の感想に不満なようだ。
 でも言いながら棗さんの頭を撫でる仕草を止めないところが色々と末期だ。
 きっと無意識なんだろう。
「そうね。なに言っても無駄でしょうね」
 私は溜息をつきながらクドリャフカたちの方へと視線を戻す。
 風紀委員は辞めたんだしこれぐらいいいしょう。
 それに無駄な努力はしたくない。
「そう言えば佳奈多さんは何のご用事でここに来られたんでしたっけ」
「え?……あ、忘れてたわ」
 葉留佳のポカがうつったのかしら。
 私は心の中で溜息をつきつつ彼女に用件を伝えた。
 ・
 ・
 ・
「わふ〜、わざわざすみません」
「いいのよ、別に。ただ出かける時は携帯電話を持ち歩くこと。せっかく新しいの買ったんだから気をつけなさい」
 用件を伝えること自体は手間じゃないけど、そこだけは注意しておかないと。
 まあまたやらかしそうな気がするのだけれども。
 それから色々と雑談。
 季節柄食べ物や服のこと、果ては勉強のことなど普段喋らないことまで喋ってしまった。
 この炬燵とやら、ぬくぬくしすぎて気持ちが緩みきってしまう。
 ふと視線を移せば棗さんが直枝の足の間に身体を移動させバリバリとお煎餅を頬張っている。
 なんかこう、彼氏がいない立場としてはかなり殺意が沸く光景だ。
 ちらりと見れば葉留佳もクドリャフカもなんだか不機嫌そう。
 まあこの子達は仕方ないか。敗者に言葉を掛ける気はないので、特にコメントするつもりはないけれど。
 でもそれでも変わらず仲良くやれるところがこの子達の凄いところだなと心から感心してしまう。
 そんな益体無いことを考えながら私はお煎餅を取るため手を伸ばした。
 スカッ
「あれ?」
 見れば袋の中にはお煎餅は一枚も残っていなかった。
 変ね。まだ残っていたと思ったのだけれど。
 ……ふと思いついて隣を見る。
 見ると相変わらず緩い表情でお煎餅を頬張る我が愛しい妹が一人。
「ねえ、葉留佳」
「なーに、おねえちゃん」
「人の分を食べるのって美味しい?」
「そりゃもちろん。やっぱ人が残していたものを掠め取るって最高ですネ」
 やははと笑う表情が途中で固まる。
「お、おねえちゃん?」
「ふふ……」
 引き攣った表情を見せる葉留佳に笑顔を見せる。
 なのにどうしてか更に彼女は顔を引き攣らせる。
「あんたねぇ、自分の分を……」
 声を荒げようと彼女の回りを見た瞬間気づいてしまった。
 蜜柑が、一つもない。
「そっか」
 そう言えば私が隣に座って以降一度もこの子は蜜柑を口にしていない。
 いや、今私たちがお煎餅を食べているのは元はといえば誰が言い出したからか。
 気づいてしまえばそれ以上何も言えなくなる。
 葉留佳はと言うと当然怒ると思った私が何も言わなくなったので不思議そうな顔を見せる。
 ……駄目なお姉ちゃんだな、私。
 私は無言で席を立った。
「はれ?どうしました、佳奈多さん」
 怪訝そうな表情をクドリャフカは見せる。
「えっとね、仕事があるのを忘れていたのよ。そろそろ戻らなくちゃ」
 嘘ではない。急ぎの用事ではないけれど。
「寮会の仕事?」
「ええ」
 直枝の言葉に頷く。
「誰かさんが男子寮長の仕事を断ったから大変なのよ」
「い、いやー」
 彼は困ったような表情を見せる。
 直枝の代わりに就任した新寮長は明らかに直枝より使えなかった。
 まあ全く戦力にならないわけじゃないけれど。
「偶には手伝いに来て」
「うん。分かったよ」
「そっ。じゃあ行くわね」
 4人に軽く挨拶をして早々に部屋を出て行く。

 ――――寒い
 暖かいところから出たからか、余計に外の寒さが身に染みる。
「おねえちゃん」
「ん?どうかしたの、葉留佳。こんなところにいたら風邪引くわよ」
 何故か追いかけてきた葉留佳に苦笑でそう返す。
 すると幾分真剣な表情で彼女は私を見返す。
「あのさ、おねえちゃん。お願いがあるんだ」
「なに」
「う、家でも炬燵買わない?」
「え?」
「クド公に聞いたんだ。炬燵って蜜柑以外にもお汁粉とかいっぱい合うものがあるんだって。だ、だから両親ズに頼んでさ……」
 徐々に消え入りそうな声になる。
「だ、駄目かな」
 不安そうな視線。
 相変わらず脈略のない事を……とは思わない。
 きっとこの子なりに気遣っているんだろう。
「そうね。私のほうからお父さん達に頼んでおくわ」
 だから私は安心させるように極力優しい声でそう告げた。
「そ、そっか。うん、それだけ。じゃあまた訪ねに来てね」
 葉留佳は予想通り嬉しそうな表情を覗かせる。
「ええ。また行かせてもらうわ。だから戻りなさい」
「うん」
 そして元気よく葉留佳は部屋へと戻っていった。
「……訪ねる……か。私はお客さんなのよね、やっぱり」
 あの幸せな暖かい空間は私にとって少し居心地が悪い。
 偶に顔を覗かせる程度で充分だろう。
 その方がきっとあの子ためにもなるはずだ。
「よぅし、頑張ろう」
 諸々の不安の打ち消すようにそう呟く。
 ……意外と効くわね、神北さんのこの台詞。
 僅かに残る胸の疼きを無視し、私は寮長室へと足を進めた。


[No.726] 2008/11/27(Thu) 22:08:55
におい≒記憶 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@10657 byte

 ニオイ。嗅覚というものは記憶と密接に繋がっている、と人は言う。本能が、食料のありかや周囲の環境、あるいは身に迫る危険の記憶をニオイと結びつけて蓄積し、ニオイを鍵として瞬時に検索するため、らしい。
 理屈はどうだか知らないが、ある種のニオイは確かに、俺の記憶を呼び覚ます――

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 鼻を鬱陶しくくすぐる、ざらざらと乾いたニオイ。太陽に炙られ、細かく砕けた土埃のニオイだ。湿った土のニオイには気持が沈むが、乾いた、特に熱く灼けた土のニオイは心をざわつかせる。連想するのは、戦い。
 風に巻き上がる土埃のニオイが俺に戦いの予感を運んでくる。戦いの末、自らの血と混ざり合った土にまみれ、這い蹲る弱者。それが敵であったことも、味方の誰かであったこともある。そして、自分であったことも。勝利の記憶は薄れていくが、敗北の傷痕は決して忘れることはない。

 季節は冬。時折舞い上がる土埃に視界が霞む。チリチリによじれた枯葉が木枯らしに流され、俺の首筋にまとわり付く。鬱陶しいそいつを払いながら、俺は眼前の敵を睨みつけた。
 ソイツは当時の俺より二回りは大きく、こちらを小馬鹿にした薄笑いに巨体を揺らしていた。
「何だ、テメェが“北町の虎”かよ?まだ餓鬼じゃねェか。…やれやれ、期待して損したぜ」
 うっそりと胸を反らし、俺を見下す。こちらの視線などそよ風ほども恐れちゃいない。その自信を裏打ちするだけの強さをヤツは持っている。
 ヤツの足下でボロ雑巾のように横たわっている“新聞屋(ブンヤ)”だって、全盛期を過ぎたとはいえ近所の若い衆を束ねていた実力者だった。
 壊れた玩具を前にして遊び足りない子供のように、脚でごろりと無造作に転がす。ヤツの退屈そうな顔に、知らず血が沸騰する。だが、怒りに任せて叩きのめしたところで俺の気は済まない。
 今にも暴れだしそうな衝動に身を焦がしながら、俺は努めてクールに口を開く。
「そうがっかりするなって。遊び足りないなら俺がたっぷり相手してやるぜ。“福祉会館の黒豚”さんよ」
「黒豚じゃねえ、“黒獅子”だ!てめぇ、ぶっ殺すっ!!」
 安い挑発に乗って激昂するソイツを迎え撃ちながら、俺は言ってやった。
「お前、もう負けてんだよ」

 戦いの衝動とともに記憶の底から浮上した俺は、すぐに今の戦いへと意識を向ける。
 今度の戦いで斃れるのは果たして誰だ?敵か。俺か。それとも、仲間か。
 戦いに望む覚悟は既に完了した。さあ、戦いを始めようじゃないか。

「ぬおー」
「こら、ドルジ!グラウンドでごろごろするなっ」
「うわぁ、すごい土まみれ…」
「ぬおー」
「日向ぼっこかぁ〜気持よさそうだね〜…くー」
「こ、小毬さんっ、ねちゃだめなのですっ!?」
「ぬお」

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 不快だ…。生温くへばりつくような空気がニオイを運んでくる。濃密な湿気に耐えかねた地面が発するそれは、雨のニオイ。
 嵐になる。俺は確信する。それはいまだ癒えず、血を流し続ける記憶が鳴らす警鐘だ。二度と繰り返さないための。

「くそっ、こっちも水没してる。他を当たるぞ!」
 パチンコ球の散弾みたいな豪雨の中、俺は仲間数匹を連れて避難できる場所を探し、さまよっていた。
 最初に避難した橋の下は、雨が降り出すとほぼ同時に急激に川の水かさが増し、危険だと判断したのだ。
「“虎”、やっぱり動かない方が良かったんじゃないか?もう毛皮が重くてこれ以上歩けないよ」
「そう思うなら戻ってもいいぜ“空き缶拾い”。今ごろはそこも川に沈んでるだろうがな」
 苛立ちに揺れる尻尾を隠しもせず、ぶっきらぼうに言い返す。何も疲れているのはこいつだけじゃない。
 橋の下を出てからもう長い間歩き通しだ。だが、どこもかしこも水浸しの有様で、へたり込むことすら出来ない。
 俺一人なら、それでも何とか適当な隙間に潜り込めただろうが、そのときは女と子供を連れていた。
 一刻も早く安全な場所を探さなければならない。
「…ぼうや?」
「どうした“垂れ耳”?」
 振り向くと仲間のメスがきょろきょろと辺りを慌てたように見回しており、他の連中もすぐ異変に気付いた。
 子猫が一匹いない。
「ぼうやっ!」
 “垂れ耳”が半狂乱になって声をあげる。他の子供たちも、事態が飲み込めないまでも切迫した状況を察したのか母親と一緒になってきょうだいを呼ぶ。
「どこだ…」
 どこか物陰に迷い込んでしまったのだろうか、そうであればいいと捜していた俺は、冠水した道路の一点を目に留めた。茶色く濁った一面の水溜りで、そこだけ微かに白く沸き立っている。
「側溝…!」
 ようやく一人歩きし始めたばかりの子供だ、好奇心に駆られて沸き立つ水に近寄ってしまったのかもしれない。水を蹴立てて駆け寄るが、濁った水は見通すことも出来ず、痕跡すら見つけられない。
 “垂れ耳”が悲痛な叫びを上げる。側溝に飛び込もうとするのを慌てて押さえ込んだ。
「馬鹿野郎!飛び込んだって流されるだけだ!」
 それでも諦めきれずもがく母親に、噛んで含めるように言い聞かせる。
「この水量じゃ無理だ。それに、他の子供たちはどうなる。みんなお前が必要なんだぞ!」
 自分で言っていて反吐が出そうだったが、不快感はご立派な建前で塗りつぶして言い切る。
 子供たちの父親はいいとこの家猫だ。今はきっと明るい屋根の下で昼寝でもしているだろう。自分に子供が居ることも知らずに。
「…急ごう。雨がまた強くなってきた」
 背を向け、返事を待たずに歩き出す。溢れかえったドブのニオイが、骨の髄まで染み付いていくようだった。

 ツンと鼻の奥に走る痛みで我に返った。見上げるとうすらどんよりと空が翳っている。鼻を蠢かすと雨のニオイはますます強くなっている。風も強い。やはり嵐が来るのだ。
 もう二度と繰り返さない。俺は誰も見捨てないし、失わない。
 冷静であれ。自分にそう言い聞かせ、目からこぼれそうになる弱い心を拭うため、立ち上がった。

「ぬおー」
「すっげぇ!ドルジが立った!」
「しかも、なにやら前脚をさかんに動かしているぞ!」
「ぬおー」
「これは…もしかして顔を洗おうとしているのではないでしょうか」
「うむ。雨が降るときは猫が顔を洗う、というやつだな。しかし…」
「ぬおー」
「顔に全然届いてないですネ」
「どっちかっていうと雨乞いの踊りみたいだよね…」
「とてもえきぞちっくなのですっ!」 
「ぬおー」

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 迂闊だった。鼻腔をくすぐるこのニオイ。気付いたときには身体が既に動いていた。懸命に駆ける四肢とは独立するように、どこか醒めた思考が脳内を巡る。このニオイにへばりついた記憶が勝手に浮上する。
 仲間たちとの出会いや別れ、信じていた者からの裏切り、孤独。様々な他者との関わりの中、いつもこのニオイがそばにあった。妬み、憎しみといった負の感情と、喜び、楽しみという正の感情が混じりあう混沌の記憶。

「来ました!ヤツです!」
 偵察に出ていた“腹白”が息せき切って駆け込んできた。広場に集まっていた仲間たちも報告に色めき立つ。
「昨日は二丁目のヤツらに危うく出し抜かれるところだったからな。今日はしくじるんじゃねぇぞ!」
 “空き缶拾い”が気勢を上げる。この弟分との付き合いは長い。ついこの間まで俺の尻尾を追いかけていたガキが随分ふてぶてしくなったもんだ、などと年寄り臭い感慨にふけっていた。
 二丁目の奴らは塀の上に陣取り、俺たちを見下ろしている。先頭に立つのは“夜叉三毛”、女だてらにバラバラだった二丁目のごろつきどもを纏め上げた傑物だ。
 だが間もなく道の向こうから馴染みのある人間のニオイが近づいてくると、皆軽口を一旦おさめて一斉にそちらへと首を向ける。
「出だしで決まる。先手を取れ」
 俺の指示はそれだけだ。後は各々が判断して最善の結果を導き出す。俺はそう信じていた。
 位置取りは地べたにいる俺たちが僅かに有利。昨日は不意打ちを喰らったが、同じ手は二度通用しない。
 隣家の塀の陰から姿を現した人間。丸っこい体をした大柄な女だ。
 姿を視認した瞬間に双方の軍勢が一斉に動き出す。高い位置に陣取っていた二丁目の連中は先んじて飛び出す。しかしそれは一瞬の差でしかない。
 入り口に近い俺たちは“空き缶拾い”率いる先鋒が既に標的の足元に迫っている。
「今だ、かかれ!」
 俺の号令で先鋒が標的への攻撃を開始する。標的の脚にしがみつき、顔をこすりつけて威嚇の声を上げる。標的は足を止め、小首をかしげて頬に手を当てるが攻撃の手は緩めない。二丁目どもがたどり着く前に更に畳み掛ける。
――なーおー。にゃごなごー♪
――あらあら、せっかちさんだこと。はいはい、ご飯にしましょうねー?
 精神攻撃が絶大なる効果を発揮し、標的の足止めに成功。標的はその場に膝をついて俺たちに貢物を差し出すのだ。
 ぱきゃっ、といういささか間の抜けた音と共に勝利のニオイがあたりに立ちこめる。
 仲間たちは勝利の雄叫びを上げながら標的の足元に群がっていく。
 俺も仲間の輪に加わり、勝利の美酒を味わおうと一歩を踏み出し、そして気付いた。雄叫びの数が多すぎる。
 俺の仲間だけじゃない、二丁目の連中までもが勝利の雄叫びを上げているのだ。何故――。
 困惑する俺の目の前を悠々と“夜叉三毛”が通り過ぎていく。俺に一瞥もくれず。そして、仲間たちの中心にいた“空き缶拾い”に寄り添い、甘えた声をあげた。
 そこまで来てようやく俺は腹心の裏切りと、自らの孤立を悟ったのだ。敗北の象徴と化したニオイに腹の虫を泣かせながら。

 今、俺の行く先にはあの時とは違う仲間たち。駆け寄る俺に目もくれず、みな一点を見つめている。
 だが、それでいい。それがいい。群れとは違う寄り合い所帯。競い合い、ごくたまに寄り添う。気負わず並び立てる居心地のいい場所。
 今新たに重なる記憶が幸せなものであればいいと願いながら、衝動のまま動く身体に行く末を託し、思考を手放す。

「ぬおっ、ぬおっ」
「こら、ダメだっ。このモンペチはみんなの分!」
「ぬおぅ…」
「そんな悲しい顔をしたってだめだ。お前いっぱい食べたじゃないか」
「ぬおー」
「…仕方ない。あたしのゼリーをやろう。いっこだけだぞ?」
「ぬおっ、ぬおっ」
「あ、こら、いっこだけだって言ったろーっ!!」

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 窓の外を流れる雲を眺め、思う。何に寄り添うこともなく、といってただ朽ちてゆくことも許せず、もがき、抗っていた日々を。
 俺にはじめて出来た、家族のニオイとともに。

 孤独こそがねこのあるべき姿だとうそぶいて突っ張ってみたが、食い物ばかりか身体を休める場所にさえ不自由する有様だった。
 塀に囲まれた、じめじめとうす寒い路地に這いつくばって僅かな休息を貪っていた俺は、そのときあの人間に出会ったんだ。
――なんだ、きったねぇ猫だな。
 人間の餓鬼の声だ。弱りきっていた俺は鼻すらまともに働いていなかったらしい。声を聞くまで気付くことが出来なかった。
――お前も一人なのか?
 顔を上げるのも億劫だ。最悪だが、俺はここで終わるらしい。どうせなら犬にでも食い殺された方がましだと思ったが、逃げ切る体力がないことも分かっていた。
「うるせぇ、消えろ」
 せめてもの強がりとヒトコト吐き捨てた。もう目を開けるのすら重労働だ。
――よし。お前、来いよ。会わせたいヤツがいるんだ。
 餓鬼の手に捕らえられた俺は、自分のあっけない最期に可笑しさを覚えながら、さっさと意識を手放した。

――がんばったんだなー。お前、すごいやつだ。
 何かあたたかいものに包まれて、声を聞いた気がした。何を言っているかは分からないが、どんな気持で言っているかは分かる気がした。
――きょうからお前もうちの子になるか?そうか、よろしくな。
 ややあって、自分がニオイに包まれていることを知った。暖かく、明るいニオイと、乳のニオイ。遠い、遠い昔にも俺を包んでいた、これは――

 うたたねから目覚めると、今では馴染みとなったあのニオイがやってくる。あのときから俺の家族となり、ともに過ごしてきた人間のニオイが。
 俺は彼女にゆっくりと歩み寄る。俺に穏やかな日々を運んでくる、忘れがたきそのニオイの主へ。
 そして、いつまでも共にあろうと願う。母のニオイのする少女と。

「あら、ドルジ君じゃない。どうしたの?お腹すいちゃった?」
「ぬおっ、ぬおっ、ぬおっ」
「あ、ちょっと慌てないでって、うひゃあっ!?」
「ぬおー」
「何しとるんじゃこらーっ!てゆーか、あたしは無視かっ!?」
「ぬお?」
「『どちら様ですか?』って顔ね、これは」
「なにいっ!?」
「ぬおっ、ぬおっ」
「あ、ちょっと、そんなとこっ、くすぐった…ぁんっ」
「お前なんかきらいだーっ!」
「ぬおー」

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―

 理屈はわからない。だが確かに、俺の記憶を、呼び覚ます。


[No.727] 2008/11/27(Thu) 23:06:12
類は恋を呼ぶ (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@13896 byte

 猫の気持ち、というものを、かつて幾度か想像したことがある。
 当時はまさか、本当にその立場になって物事を考える日が訪れるとは露ほどにも思わなかったし、こんな何もかもが有り得ない状況で悩むことになるとも思わなかった。人間は四つ足で歩かない。尻尾で身体のバランスを取らない。耳もぴくぴくとは動かない。暗闇の中で鮮明に風景が見えることも、恐ろしく遠くの音を聞き分けることもできない。にもかかわらず、今はそういった全く未知の感覚を、自分のものとして受け止めている。
 不思議なことに、猫の姿になっている時は違和を感じない。人間が二本の足で立ち、歩くのと同じように、猫としての振る舞いが自然にできる。勝手が違う身体であるはずなのに、最初から自分はそうだったのかもしれないと一瞬でも馬鹿らしいことを考えてしまうほどに馴染んでいた。
 だからだろうか、直枝理樹の部屋に帰ってきて、ぼん、と気の抜けた音が響いて元に戻った後も、猫でいた時の調子が残っているようで微妙なズレを覚える。それは文字通り変身する回を重ねる毎に強くなっていて、そのうち心まで猫に近付いてしまわないかという恐怖があった。
 だが、外に出るのをやめるわけにもいかない。現状を打破するためには、どんな些細な情報も貴重だ。徒労になると知りつつも、見かけた生徒や教師に声を掛けること、そしてこの世界の“綻び”を捜すことは毎日継続して行っていた。
 実際いくつか新しい発見をしているのだから、無意味ではないと思う。ただ、確実に感覚が猫寄りになっているという現状が頭を悩ませていた。響く足音が妙に気になったり、腰の後ろに尻尾がないことを物足りなく感じたり、耳の位置の違いに僅かながら戸惑いを覚えたりと、既に兆候は表れている。何より問題なのは、匂いに関する感覚の変化だった。
 これまでよりも嗅覚が鋭敏になり、さらに、時折特定の物が発する匂いに惹かれてしまう。変身直後は特に顕著で、理性とは別の何か――わたくしの中にいる、猫の本能めいたものが、勝手にそれを求めているような、抗い難い衝動を得る。以前はまだ抑えられたが、昨日辺りからもう、耐えることが難しくなっていた。
 今日も、手掛かりの捜索を済ませて猫一匹が通れる程度の窓の隙間から部屋に入り、座布団の上で丸まって大人しく戻るのを待っていたはずなのに、気付けば部屋の端に積まれた洗濯物を前足で引っ繰り返していて、全身の感覚が切り替わった時には、いつの間にかベッドの上で彼の靴下を手に持っていた。
 猫のまま一人でいると、自分が人間だということを忘れそうになる。これまでにない寂しさ、心細さを感じ、無意識のうちにぎゅっと靴下を強く握り締める。顔を軽く埋めた枕からは、染み付いた男の匂いがした。落ち着かなかったのは最初の頃だけ。異性の残り香は不安なわたくしを優しく包んでくれているようで、今は安堵さえ覚える。
 頬が赤くなっているのを自覚しつつ、すんすん、と鼻を鳴らす。濡れた瞳を薄く開き、熱のこもった吐息をこぼす。

「どうしてわたくしが、こんなことを……」

 嘆きの色を滲ませた呟きは、本心からのものだった。
 が、胸の奥から突き上げてくる衝動は治まらない。靴下を握った右手を、ゆっくりと顔に近付ける。

「んふ……っ」

 むわりと広がる重い匂いを吸い込むと、鼻腔を通り抜けたそれは脳に行き渡り、陶酔感をもたらした。
 嫌悪に先立つ強烈な心地良さが、思考を麻痺させる。半ば自動的に再び鼻をひくつかせ、甘美な感覚に浸る。
 鼓動が何かを急かすように速まった。身体が疼く。胡乱な頭で、この靴下が包んでいた足指を思い浮かべる。そこから徐々に想像の範囲を大きくし、閉じた瞼の裏に彼の姿を刻んだ。くらくらする。柔らかな笑みを夢に見る。無言で伸びてきた腕が腰に回り、後ろから抱きしめられるイメージ。吐息が耳に掛かる。くすぐったさと背筋の震えに悶える。服越しに人肌の温かさを感じる。心臓が破裂しかねないほどに高鳴って止まらない。ああ、どうしよう、もしかして、やっぱりわたくしは――。

「……は、ぁっ!」

 跳ね起きた。
 転がるようにベッドから飛び出し、両手と膝を床に付いて荒れた呼吸を整える。
 額にじんわり浮かぶ汗を左手の袖で拭い、地面の上でくしゃくしゃに折れ曲がった靴下に視線を落とす。何をしているんだろう、と我に返り、途端凄まじく情けない気持ちになった。
 こんなの、変態以外の何物でもない。不可抗力とはいえ殿方の部屋に居座ることになって、猫でいる時の五感に引きずられ、枕や布団から漂ってくる匂いに安心し、あまつさえ洗濯していない靴下を手に取って嗅いでみるなんて、相当に致命的な所業だ。
 かつてないほど落ち込むが、ずっとそうしているわけにもいかない。彼が帰ってくる前に、洗濯物の小山に靴下を戻しておく。乱れたベッドも、完全に元通りとは言わないまでも綺麗に整え、とりあえず証拠は隠滅した。
 流し場で手を洗う。それから窓際に並べて置いておいたものを運ぶ。

「苦労して、持ってきた甲斐がありましたわ」

 盗むようにして取ってくるのは気が進まなかったが、背に腹は代えられない。昼前の人気がない時間に学食からこっそり拝借してきた食材と、昨日見つけたカセットコンロ、中華鍋。これだけあれば真っ当なご飯が作れる。
 複雑な気分を紛らわせるためにも、決して悪いアイデアではなかった。
 それに、

「……まあ、頑張ってくださってることですし」

 ついでに労うのもいいかもしれない、と思いながら、近くにあった可愛らしい猫柄のエプロンを身に着けた。



 午前の授業を終え、足早に彼が帰ってきてからのことだ。
 おかずをおいしそうに頬張る姿を何となく嬉しくなって見ていると、不意にその視線がちらりと洗濯物に向いた。彼のではない、自分のもの。猫の姿で洗濯機まで運びに行けるはずもなく、けれど下着を含めた衣服を彼に預けるというのも有り得ない。神北さんが健在なら他にやりようはあっただろうが、彼女は既にこの世界にはいない、らしい。実際消えた様子を目の当たりにしたわけではないので確証はないものの、着替えをこちらに持ってきてもらってから一度も顔を合わせてない以上、本当のことなのだろう。
 結局、脱いだものは丁寧に畳んで紙袋に押し込んでいる。制服は皺になって困るのだが、今回ばかりは仕方ない。パンツとブラジャーはほとんど使い捨てのような扱いで、足りなくなった場合はどうにかして女子寮の自室から引っ張り出してきている。口にくわえてせっせと背中に乗せようとしていた自分を顧みると、あまりにも情けなくて泣きたくなった。
 まだ紙袋の容量には少し余裕がある。ただ、どうも先ほど何かの拍子で倒れたのか、ぐちゃりと中身がこぼれていた。

「笹瀬川さん、あれ……」
「ああ、気付きませんでしたわ。今戻しますから、あなたはもう見ないように」

 でも、と言いかけた彼の頭を立ち上がって真横にねじり(骨の鳴る鈍い音が聞こえた)、悶絶する姿を無視して洗濯物に駆け寄る。幸いと言うべきか底の方に仕舞った下着は外に溢れておらず、代わりに昨日着ていた制服とソックスがぐしゃっとだらしなく広がっていた。溜め息を吐き、正座して膝の上で畳む。立て直した紙袋に再び押し込み、改めて部屋の端に寄せておいてから、首の調子を念入りに確認している彼の正面に座った。

「あのさ、ごめん」
「いきなり何ですの?」
「いや、息苦しい思いさせちゃってるかな、って」
「……確かに、できることなら一刻も早く普通の生活に戻りたいですけど。でも、あなたのせいじゃないでしょう?」
「うん……」
「なら一人で気に病まないでください。こっちまで肩身が狭くなりますわ」

 半分は本気、半分は照れ隠しで最後にそう呟き、残りのご飯を口に入れる。
 既に片付いていた彼の食器もまとめて持ち、あ、と腰を浮かせかけたのを掲げた左手で制止して、流し場に置きに行った。二人分ならすぐに洗い終わる。たまにこういう用途で使っているからか、スポンジと食器用洗剤は隅に並んでいた。軽く水で流し、洗剤を数滴垂らしてスポンジで泡立てる。油物を乗せていた皿は殊更丹念に力を込めて擦り、油が完全に落ちたのを確かめて再度水で流す。途中泡が少し跳ねたが、また身に着けたエプロンのおかげで制服は汚れずに済んだ。
 ……この子も洗いに出す必要がありますわね。
 腰後ろの紐を解き、腕の上で四つ折りにして彼の洗濯物に重ねておく。丁度こちらを見ていたので、後で寮の洗濯機に持っていくよう目線で伝えた。返ってきた頷きに満足し、午後の予定を話し合う。
 まだここでは、彼はおかしな素振りを見せなかった。
 問題は夜、電気を消してお互いベッドに潜り込んだ後。
 偶然ふっと目が覚め、何より最初に全身を包む彼の匂いを意識して、複雑な気持ちになる。もぞりと身じろぎして目を閉じると、暗闇の中で敏感になっている耳が、上の方から響く物音を捉えた。つい息を殺し、布団に包まったまま神経を研ぎ澄ませる。数秒が経ち、今度はベッドの木枠が軋む音。気になってそっと薄目を開けた瞬間、視界に突然影が飛び込んできた。驚きに声が上がりかかるも、どうにか喉元で抑える。冷静になって考えてみれば、今この部屋で上のベッドにいるのは彼だけだ。暗がりに慣れた目は、想像した通りの華奢な輪郭を見つけた。
 直枝理樹。彼は静かに、音を立てないようにベッドから降りている。
 とん、と軽く絨毯に着地した人影は、流し場の方に移動した。トイレなのかと思ったが、外に出る様子はない。おもむろに部屋の隅で屈み、おそらくは両手で何かに触れた。
 ……気付く。その場所に置いてあるのは、確か、自分の着替えだ。
 嫌な予感をなぞるかのように、ごそごそと紙袋を探る音が聞こえる。やがて動きが止まり、ゆっくりと腰を上げた彼の手には、細長い布が握られていた。制服、ではない。下着でもない。昨日膝上までを包んでいた、ソックスのシルエットだった。
 梯子を一段一段踏みしめながら、彼は上のベッドに戻っていく。
 信じられない一連の光景に、こちらはしばし呆然とするしかなかった。

「どうして――」

 ゆるゆると布団を頭まで被り、声には出さず呟く。
 その自問に対する答えは、とうにわかっている。同じことを、昼の間に自分もしたのだから。けれど、

「おかしいのは、わたくしだけではない……?」

 己を守っていた理論に、小さな罅が入った気がした。



 翌日、彼が登校してから紙袋の中身を確認したところ、ソックスは元の場所にきっちり戻されていた。
 少し畳み方が違っていたので、昨日見たものが夢だったということは有り得ない。皺が増えた以外に変わった部分もなく、ある意味では良心的な扱いと言えるのかもしれなかった。
 勿論、だからと言って割り切れるわけはない。真実を知るためには、現場を押さえる必要がある。
 昼のうちに寝溜めをしておき、可能な限り平静を装い、芽生えた不信感を夜まで隠し通した。大人しく眠った素振りをし、ベッドの中で息を潜め、決定的な瞬間を待つ。焦れる心を落ち着かせ、時間の感覚が麻痺してきた頃、微かな気配を察知した。闇を纏った裸足が梯子に体重を掛け、軋みの音を立てる。そうして昨日と同じように、人影は迷いのない足取りで部屋の隅に置かれた紙袋に近付き、触れようと手を伸ばした。
 今しかない。わざと派手な動きで、掛け布団を跳ね飛ばす。

「……こんな時間に、いったい何をしてるんですの?」
「笹瀬川、さん」

 視線が合う。後ろめたさと、それに勝る申し訳なさを色濃く宿した表情が彼の顔に浮かぶ。
 決定的な状況証拠を前にして――何故か、わたくしの心は奇妙なほどに凪いでいた。

「盗み見なんてはしたないとは思いましたが……昨日も、わたくしの……その、靴下を、取りましたわね」
「……うん」
「あなたがリスクを考えられないような馬鹿でないことは、ここしばらくの付き合いで理解していますわ。なのにどうして――」

 こうも、短慮な行動に出たのか。
 返ってくるだろう答えを頭のどこかで理解していながらも、そう訊かずにはいられなかった。

「……我慢、できなかったんだ」
「靴下を人知れず持ち去ることが?」
「最初は自分自身に戸惑ったよ。曲がりなりにも僕を信頼してくれてる笹瀬川さんを裏切りたくはなかったし、こんなのは気の迷いだろうって思ってた。でも、違うんだ。気付けば抑えられなくなってて……ごめん。謝っても許されることじゃないのはわかってるけど、本当に、ごめん」

 俯く彼の声には、確かな真摯さが宿っていて。
 だからこそ、そこに一片の嘘もないことを、はっきりと理解してしまった。
 そして、裏返しの事実にも気付く。
 ……ああ。
 結局わたくしは、ずっと、目を逸らしていただけですのね。

「謝らなきゃいけないのは、こちらの方ですわ」
「……え?」
「わたくしも、昨日の昼前、あなたと同じようなことをしたのですから」

 猫としての感覚に引きずられていたというのも、勘違いではないのだろう。けれど、それはきっかけのひとつでしかない。軽蔑されるのが嫌で受け入れられなかったものは、確かにある。
 ――もう、認めざるを得ない。わたくしもまた、彼の靴下の匂いで興奮する、変態なのだと。
 互いの告白によって訪れた沈黙を、溜め息でそっと払う。
 ここまでに築き上げた関係を崩しかねない状況であるはずなのに、心の中では何より安堵が先立っていた。
 世界が大きく拓けたような、自由を得て解放されたような、高揚感にも似た気持ち。

「不思議ですわね。あなたになら、知られても構わないと思うなんて」
「僕も……何て言えばいいのかな。笹瀬川さんがそういう人だってわかっても、全然、嫌だとは感じない」
「あら。でしたらわたくし達は、二人揃っておかしいんですわ、きっと」
「そうだね。うん、そうかもしれない」

 お互いに顔を見合わせ、小さく噴き出す。
 ひとしきり笑った後、梯子を登る背中におやすみなさいませ、と言葉を掛け、再びベッドに潜って、大きく息を吸い込んだ。
 無意識のうちに頬が綻ぶ。
 そろそろ自分の身体に染み付いてしまいそうな彼の匂いも、今は、素直に好きだと頷ける。

 ……思えば。
 その時、わたくしは本当の意味で、恋をしたのかもしれなかった。



   ○



「あー、すっきりしましたわ。ふふ、棗鈴のあの反応と来たら」
「笹瀬川さん、事ある毎に鈴を挑発して楽しんでたよね……」
「まだまだあの程度では足りませんわよ。もっと見せつけてやりたいところですわ」

 夕焼け色の帰り道。二人で肩を並べながら、他愛ない話をする。
 リーダーである彼の推薦という形で、初めて野球の練習に参加した。意外にハードで騒々しくて、けれど何より楽しかった一時間半。まだ部室に残る皆より先にグラウンドを出たわたくしは、一緒に帰ろうと彼に誘われてこうしている。傾いた赤い陽射しに照らされたその横顔を窺うと、こちらの視線に気付いたのか、きょとんとした表情で「どうしたの?」と訊いてきた。
 正直に答えるべきかどうか、しばし迷う。
 迷った結果、周囲に人がいないことを確認し、無言で一歩身を寄せた。背中の側に回り、手を置き、首筋に鼻先を触れさせる。微かな湿り気と汗の匂い。それをじっくり味わうように感じ、最後にそっと両手で背を押す。
 続きは後。そういう意図を腕の力に込めた。

「えっと……臭くはなかった?」
「お風呂には入った方がいいと思いますわね」
「まあ、そうだよね……。にしても、笹瀬川さんだけってちょっとずるくない?」
「寮に戻ってからなら、好きなだけ確かめて構いませんのに」
「いやほら、この状況だと生殺しみたいじゃない」
「少しは我慢して男らしいところを見せてほしいものですわ」
「……ずるいなあ」

 苦笑いを浮かべ、彼は止まっていた足を再び動かす。
 一拍遅れて追いかけると、横に付いたこちらの手を握り、指を絡めてきた。そんな繋がり方が何だかとても普通の恋人らしく思えて、自分も苦笑する。
 ……常識の観点から考えれば、わたくし達はそこから逸脱してしまっているのだろう。互いに互いの汗や靴下の匂いに恍惚とし、それを良しとするような関係は、誰が見てもおかしいと断言するものだ。
 でも、他者の理解は必要ない。二人の間で完結してさえいれば、文句を言われる筋合いもない。
 だから――わたくしと彼は、間違いなく理想的な関係だ。己の性癖を認め、受け入れた今なら、胸を張って言える。

「直枝さん」
「何?」
「好きですわよ」
「……ここはやっぱり、僕も、って答えるべき……だよね」

 きっかけは錯覚だとしても、この気持ちはもう、確かな形を持っている。
 それだけで、充分だった。


[No.728] 2008/11/28(Fri) 00:17:08
夏の日だった。 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 972byte

 日なたで猫が眠っていた。昇りきらない太陽を白い腹毛が照り返していた。ひげがそよいだ。むずがるように寝返りを打って、ひとつ鳴いたが、それだけだった。大きな犬が近寄ってきても、耳を片方動かすだけで、目は開かなかった。犬はくわえた子猫を芝生に寝かすと、木陰に歩き出した。眠りに落ちる間際、すぐ頭の上で蝉が鳴き出した。鳩が降りてきて、芝の合間をつつき始めた。犬は起き上がって歩き出した。猫たちはやはり眠ったままだった。鳩は餌がないのを知ると、枝に飛び上がった。蝉が鳴くのをやめて空に逃げた。太陽は高くから照りつけていた。犬はだらりと舌をこぼして歩き回った。建物の影にはたくさんのベッドが置かれていた。そのうちのひとつを選んで、犬はようやく眠りに就いた。
 開け放たれた入口から風が吹き込んだ。風は廊下を抜けて、奥の部屋の束ねられたカーテンを揺らして消えた。がらんとした部屋は窓から差す光でもって明るかった。舞った埃が輝いていた。電池の切れた時計が微かに音を立てていた。カレンダーは机の影に掛けられていて、風に揺れることもなく、薄暗さの中にあった。カレンダーは六月のものであった。


[No.729] 2008/11/28(Fri) 00:22:23
フラグメント或いは舞い落ちる無限の言葉 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 18428 byte

 この物語の主人公は直枝理樹である。改めて言うまでもなく彼は無数の宇宙や世界や虚構や物語の狭間で、泡のように儚く、幽霊のように曖昧に、夢のように断片化しながら、水のように自在に流れ行く何か――無数の人びとに語られ、書かれ、物語化され、虚構化され続ける存在に他ならない。したがってひとが往々にして求めがちな神聖なる唯一の物語など何処にも存在しないということになるのだが、物語は何処からどのように語り始められても一向に構わないのだとその事実をここでは肯定的に捉えておくとして、さて本編の主人公である直枝理樹は、特筆すべき事柄のない至って平穏な高校生活を送った後、都会の大学に進学した。修学旅行中のバス事故? そんなものありはしない。バスの運転手は安全な運転を極めて円滑におこなった。事故で登場人物の全員が死ぬという暗い展開は誰も必要としていないし、事故で崖から転げ落ちてバスが爆発してなお全員生き残るなどというご都合主義極まりない展開は更に要らないと言ってよい。要らないと言ってよいのでバス事故は存在しなかったのである。それでは虚構世界が誕生しないではないかと心配する向きには安心していただいて構わない。バスが崖から転落するといった決定的な一瞬が存在せずとも虚構世界などとっくの昔に誕生しており、勝手な場所から勝手に生成して勝手に展開し、勝手に増殖し続けて何処まで行っても終わりがないからである。そんな世界の只中にあって理樹は友人たちと共に大過なく高校を卒業し、大学に合格し、今ここでこうして鈴との二人暮らしを開始しようとしている。二人暮らしとは同じ部屋で二人の人間が一緒に暮らすことである。とすれば二人は何やらそのような関係であるかの如きだが、二人は未だ名目上は単なる友人で、これは大学が近くにあるからという理由でなし崩し的に決定した同居であった。具体的には以下のとおりだ(1)。
「ん? お前ら学校近いな。家賃勿体無いから一緒に住めよ」
「んなことできるか馬鹿兄貴ーっ!」
「え? 嫌なのか?」
「僕は別に嫌じゃないけど……」
「うーみゅ、そう言われてみればあたしも別に嫌ではないな」
「じゃあ決定な」
 しかしここで理樹は鈴との同居を拒否することも可能だった。その際に交わされる会話は具体的には以下のとおりだ。
「ん? お前ら学校近いな。家賃勿体無いから一緒に住めよ」
「んなことできるか馬鹿兄貴ーっ!」
「ええー、さすがにそれはまずいんじゃないかな、恭介」
「そうか、そうだよな。まずいよな」
 こちらの道を辿った場合にはその後、(2)一緒には住まなかったけれど家は近かったので鈴が理樹の家に入り浸り、そのせいで結局一ヶ月くらいでくっついて、半年後に鈴が理樹の部屋に転がり込んで後は同じ展開、という未来に進むことも、(3)一緒には住まなかったけれど家は近かったので理樹が鈴の家に入り浸り、そのせいで結局一ヶ月くらいでくっついて、半年後に理樹が鈴の部屋に転がり込んで後は同じ展開、という未来に進むことも、(4)一緒に住まなかったせいで鈴以外の女性と仲良くなりかけた理樹だったが、彼女は実は能力者であり、その出会いによって力を覚醒させた理樹は組織の下で様々な活動をこなしていくも、ある日任務の最中に遭遇した敵側の能力者が恭介で、壮絶な戦いの末に相打ちに終わってどちらも死亡するが、鈴はそんなことは露知らず家でテレビを見ている、という未来に進むことも、(5)一緒に住まなかったせいで鈴以外の女性と仲良くなりかけた理樹を鈴が刺し殺し、恭介が号泣して理樹をサイボーグとして復活させ、その技術の流用によって量産型直枝理樹の開発に成功するが、そのうちの一体がオリジナルの記憶を蘇らせて復讐のために鈴を刺し殺し、恭介が号泣して鈴をサイボーグとして復活させ、その技術の流用によって量産型棗鈴の開発に成功した結果、量産型直枝理樹と量産型棗鈴の日本全土を巻き込んだ戦争が勃発する、という未来に進むこともありえただろう。斯様に彼らの人生は無数の未来へ向かって開かれているのである。そんな沢山の未来の中から(1)を選んでお話を先に進めよう。
 さて一緒に住んでれば元々仲はいいのだから一週間で事は進展する(1)。しかしここで理樹はその時期を早めることも遅くすることも台無しにすることも可能だった。言い換えれば、(2)二人暮らしの始まったその日の晩に理樹が不埒な行為に及ぼうとして一度はぶん殴られるも、鈴も別に嫌ではないので最終的には素直に行為に及ぶ、という未来に進むことも、(3)へたれなので理樹が一ヶ月くらい手を出しかねていたところ、ぶち切れた鈴に逆に襲われ以下はほぼ同じ展開、という未来に進むことも、(4)二人暮らしの始まったその日の晩さえ待たず真昼間から不埒な行為に及ぼうとして理樹が蹴り飛ばされ、倒れて頭を打ってそのまま植物状態となるが、鈴はずっと理樹のことを待ち続け、十年後理樹は遂に目覚める、という未来に進むことも、(5)理樹は植物状態となった後、現代医学では治療は不可能と判断されてコールドスリープを施され、鈴も一緒に眠りに就き、六百年の時を経て再び目覚めた二人の前には地球外生命体との半永久的な戦争に突入した地球があって、適性を見出された二人は人型兵器を駆って地球外生命体との最終決戦に臨む、という未来に進むこともありえたのだ。斯様に彼らの人生は無数の未来へ向かって開かれているのである。そんな沢山の未来の中から(1)を選んでお話を先に進めよう。或いは(5)を選んで欲しいという向きもあるかもしれないが、そんなひとにあっては人類対地球外生命体の激烈なる戦いを活写した一大巨編を手ずから妄想もしくは想像もしくは創作されるのがよろしかろう。ここではあくまで(1)である。
 ところで実質的に話はまだ始まってさえいない訳だが、始まってさえいないにもかかわらず理樹の生活の大体は決定されたと言ってよい。学生である。周知の通り学生とは生物学的に言って勉学とは無縁であり、悪事、誹謗、怠惰、傲慢、背信、などの語によって特徴付けられる生き物である。加えて同棲である。無窮の欲望と飽くなき放縦の虜たる十代後半、このたった二文字から如何なる罪深き展開が導き出されるかは最早自明と言う他ないであろう。可能性としては確かに、(1)学問に勤しみ、勤しみすぎてフランス現代思想とラカン派精神分析の不毛の沼地に脚を踏み入れて沈み込み、沈み込みすぎて知と学の人間として今後生きていこうと決意するに至る、という未来も、(2)学問に勤しみ、勤しみすぎて日本近代文学百五十年の歴史の泥沼に脚を踏み入れて沈み込み、沈み込みすぎて文学に一生を捧げようと決意するに至る、という未来も、(3)学問に勤しみ、勤しみすぎて溢れる探究心を暴走させた結果師事していた文化人類学の師に研究室から放逐され、仕方なく自ら南アメリカ大陸に赴き現地のとある部族の集落で参与観察を実施する最中、現代に残されたイエス・キリストの血液の伝説を巡ってナチスドイツの残党との抗争が開始される、という未来も、(4)学問にさえ頓着せず瞑想に瞑想を重ね、人生と人間の真理について真摯に考えを巡らせる、という未来も、なくはなかっただろう。しかし学生であり同棲であるので、やはりここはめくるめく倦怠と懶惰、まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の日々へと突入するのである(5)。
 そうしてめくるめく倦怠と懶惰、まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の日々を送っていた二人であるが、それは具体的にはどのようなものなのだろうか。
「だ、駄目だ理樹、そこは……」
「鈴はこういうの嫌なの?」
「別に、嫌というわけじゃ……ひあぁっ!? り、りきぃ……」
 我々の品位と節度のためにもこれ以上の再現的な描写は控えるが、さしあたり以上のような台詞を伴いながら、互いの凹凸をその形状に則って然るべくあてがい、真剣に描写するにはあまりにも滑稽かつ単調な動作を、多くの場合は前後に繰り返すものだと言って間違いはない筈だ(1)。しかしここで想像力を逞しくしてみるのも無駄ではないと思われる。理樹、という名前を冷静に眺め、性別を男性に特定する名では必ずしもないと気付く時、我々の前にはたとえば、かのフランス王家の紋章に用いられた美しき花の名を冠して謳われるある想像力への道が開かれることだろう。フランス王家の紋章に用いられた美しき花とは百合であり、つまりは以下のとおりである(2)。
「だ、駄目だよ、鈴、ボクたち女の子同士だよぅ……」
「なんだ、理樹はこんなふうにされるのは嫌なのか?」
「ひゃっ、鈴、んっ、あぅ……嫌じゃないけど……恥ずかしいよぉ……」
 我々の品位と節度のためにもこれ以上の再現的な描写は控えるが、さしあたり以上のような台詞を伴いながら、然るべくあてがう凹凸といったものは特に存在しないため、後はご自由に妄想もしくは想像もしくは創作していただいて構わない。そうして(2)は各々の妄想もしくは想像もしくは創作に委ねるとして、ここで選ばれるのは勿論(1)である。むしろ(2)を選べ、是非とも(2)を、(1)なんて知らねえよという罵倒と雑言、罵詈に讒謗の空耳が響いて仕方ないのは空耳である以上は勿論気のせいなのだ。さて概ねそのようにして続いためくるめく倦怠と懶惰、まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の日々は、初夏に恭介から突如入った電話によって一時的に中断される。高校時代に結成されていた野球チームの面々で、連休を利用して海へ行こうと言うのだ。
 ここに至って物語は漸くその本筋に入った。本筋とはこの場合、理樹たちが海へ行くことである。そう、これはあくまで理樹たちが海へ行く物語だったのであり、ここまでに費やされた記述は物語を正しく理解するために必要な解説、注釈、説明の類に過ぎなかったのだ。というわけで二人は恭介の申し出に即座に承知して旅行の準備を始めた。さてここでもまた例の拡散的な力学が働いて、(1)恭介の運転する車で海へ行く、(2)電車で海へ行く、(3)やっぱり海へ行かずにめくるめく倦怠と懶惰、まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の日々を続ける、という三つの道が開かれることになるが、(1)の場合には恭介の運転する車が、狭い山道を走っている最中に突如として崖から転落し、その後は我々のよく知るところの、事故で登場人物の全員が死ぬという暗い展開は誰も必要としていないし、事故で崖から転げ落ちて車が爆発してなお全員生き残るなどというご都合主義極まりない展開は更に要らない、つまり二重の意味で不必要なあの物語の幕が数年遅れで開かれる。このように執拗に世界が分裂する場にあって、単一の虚構世界から単一の現実世界へと脱出する、という単純な枠組みを今更持ち出すのは些か滑稽であるし、第一そんな展開は必要がなく、海へ行く物語であるという本編の原理に抵触する(3)もやはり避けておくべきであるとすれば、ここはまず(2)が妥当であろう。
 電車が崖から落ちるという無茶苦茶な出来事はさすがに起きない(1)。いや、起きても全く構わないが(2)、ここではとりあえず起きないということにしておこう。理樹たちは無事に海に辿り着いた(1)。いや、海に向かっていたはずが山に辿り着いてしまっても全く構わないが(2)、ここではとりあえず無事に海に辿り着いたということにしておこう。それにしても彼らは海になどやって来て一体何を企んでいるのだろうか。何せ、悪事、誹謗、怠惰、傲慢、背信、などの語によって特徴付けられる、無窮の欲望と飽くなき放縦の虜たる十代後半の連中の集まりである。可能性としては確かに、(1)遠泳や水の掛け合いや西瓜割りなどをして三泊四日を健全に過ごす、ということもなくはないだろう。しかしそれとて(2)遠泳で遠くまで行き過ぎて恭介が沖に流されて行方不明になり、水の掛け合いが放り込み合いに発展した挙句真人が水没して浮かんでこず、木刀を使い慣れた謙吾が西瓜割りを試みたところ使い慣れすぎていて犠牲者が多数出るなどして三泊四日を健全に過ごすつもりが実に不健全に過ごした、という展開に容易になりうるのであって全く始末に終えないが、更には次のような展開だってありうるのだ。(3)夕食に毒が盛られて直枝理樹が死亡し、名探偵棗鈴が捜査を開始する。バーベキューの行なわれた砂浜に足跡はなく外部犯の可能性は消え、各人のアリバイが次々と立証されていく中、唯一アリバイの成立しない神北小毬が犯人として浮かび上がった。その朗らかな仮面の下に覆い隠していた黒く冷徹な素顔を露にし、理樹のグラスに毒を投じたというわけである。なんという卑劣な犯行か。神北小毬、許すまじ。無論彼女がそのまま犯人であってもよい(3´)。しかしここで名探偵の推理が冴え渡る。なんと一瞬の間隙を突けば井ノ原真人にも犯行が可能だったのだ。したがって、井ノ原真人が筋肉のない理樹に少しでも筋肉をつけてやろうという全くの親切心からグラスにプロテインを入れたところ、それは実は事故で青酸カリに摩り替わっており服した理樹が死亡する結果となった、という悲劇がその後に明かされても構わないだろう(3´´)。或いはその摩り替えが、朗らかな仮面の下に黒く冷徹な素顔を覆い隠した神北小毬の手によるものだった、との展開も十分にありうる(3´´´)。だが、事態は更に凄惨な様相を呈するのだ。
「きょーすけ、お前のアリバイは確かに、この醤油に塗れたキュウリで立証された。でもそれこそが巧妙なトリックだったんだ。きょーすけのアリバイを崩し、理樹殺しの犯人だと証明するものは、そう、いつの間にか脱がされていたこまりちゃんのぱんつだ!」
 暫く目を瞑って黙り込んでいた恭介は、不意に短く笑ったかと思うと、「そのとおりだ。よく見破ったな、鈴」と呟く。その時鈴は、涙を浮かべながら恭介の襟首を掴んで締め上げ、次のように言うだろう。
「馬鹿兄貴! どうして理樹を殺した!」
「理樹が俺の手から離れて、お前のものになってしまったからだ。俺のものにならないのなら、いっそこの手であいつを――」
 嗚呼、かつてあれほど仲の良かった兄妹が、一人の男を愛してしまったが故に斯様な愛憎劇を演じ、斯くも悲痛なる結末を迎えるなど一体誰が予測したであろうか。誰も予測しない。と言おうかあまりしたくない。したくないのでこの展開はさしあたり選ばれないのであり、(4)突如としてテロリストに占拠されるホテル、人質に取られた恭介達を救うために、たった二人自由の身である鈴と理樹が銃を手に取り敢然と立ち上がる――という展開や、(5)砂浜で楽しいひと時を過ごしていた面々の目の前に突如として降り注ぐレーザー光線、人類が誕生して以来月の前線基地で侵略の機会を窺っていた火星人たちが、その時遂に侵略の魔の手を差し伸べてきたのだ――といった展開もやはりどうかと思われるので、ここは大人しく(1)ということになるだろう。
 さてそうして彼らは三泊四日を健全に過ごした。初日は海を泳ぎ回った。それが健全な過ごし方だからである。二日目は海を泳ぎ回った。それが健全な過ごし方だからである。三日目は海を泳ぎ回った。それが健全な過ごし方だからである。しかしその健全さを打ち砕かんとする邪悪な意志がここで台頭するだろう(1)。いや、しなくても全く構わないが(2)、ここではとりあえずしたということにしておこう。邪悪な意志の持ち主は小毬と葉留佳とクドであった(1)。或いはそれは朗らかな仮面の下に黒く冷徹な素顔を覆い隠した小毬による煽動の結果であり、真に邪悪なのは彼女一人なのかも知れぬ(2)。しかしここではわかりやすく、邪悪な意志の持ち主は小毬と葉留佳とクドの三名であったとしよう。それでは他の人びとはどうであったか。美魚はパラソルの下でずっと本を読んでいるし、来ヶ谷は女性陣の水着姿を追い掛け回していればそれで満足そうだったし、鈴と理樹はめくるめく倦怠と懶惰の気分を引きずっているので一緒にいれば何一つ文句を言わないし、残りの男三人は基本的に何も考えていなかった。彼らは営々と海で遊び続けるというまことに健全なるおこないを健全に実行できる正義の偉人たちだった。それに対して小毬と葉留佳とクドは邪悪なる意志をもって、海で遊び続けるその健全さを破壊しようとしていた。では彼女たちは具体的には一体どのような悪しき企みを抱いていたのであろうか。
「ふえーん、飽きたよー。他のことしようよー」
「肝試し大会なんかいいんじゃないですかネ、ほら、ホテルの裏に廃屋あるし」
「肝試しはちょっと……で、でも、他のことをしたいというのには賛成なのですっ」
 そう、彼女たちは、泳ぐのに飽きたと言い出したのである。海で泳ぐ以外の、別のことをしようと言うのである。より具体的には、肝試し大会などを一つ催してみては如何かな、などと提案するのである。肝試し大会とは肝を試す大会のことである。なんという悪辣非道、なんという驚くべき邪悪さだろうか。溺れたり水没したり西瓜割りで別のものを割ったりして数多の犠牲者を出すこと(2)でも、直枝理樹殺人事件(3)でも、テロリスト襲撃(4)でも、火星人襲来(5)でもなく、ごく普通に健全に過ごすこと(1)を現に選択した以上、幾ら彼らの人生が無数の未来へ向かって開かれているとは言え、既に選び取ったその選択肢までをも翻したり、翻しえた可能性があったと考えたりすることは大変に非倫理的であると言わざるをえないのである。したがって初日にひたすら海を泳ぎ回り、二日目にひたすら海を泳ぎ回り、三日目にひたすら海を泳ぎ回り、四日目にひたすら海を泳ぎ回る、このようにしない者は大変に非倫理的なのであり、それ故に小毬と葉留佳とクドは非倫理的だった。
 ここで彼女たちの邪悪なる意志に屈し、海で泳ぎ続けるという正義の遂行を中断することも或いはありえただろう(1)。ひたすら海で泳ぎ続ける理樹たち正義の人びとは端的に言って無計画なのであり、成程確かにそれも面白そうだ、やってみよう、などと考えて肝試しの準備を始める光景は容易に想像できるためである。その場合海で泳ぎ続けるという正義は脆くも崩れ去り、この三泊四日にあって泳ぎ回る以外に唯一実施された例外的な出来事、肝試しが、三日目の夜に招致される運びとなろう。しかし我々はあくまで過酷すぎるほどに倫理的でなければならなかった。そうでなければならないので邪悪なる小毬と葉留佳とクドの考えは退けられ、延々と海で泳ぎ続ける道が選ばれるのである(2)。斯様にして我々は邪悪を打ち払い、無数の未来へ向かって開かれている人生に、倫理と責任と正義をもたらさなければならない。
 こうして倫理と責任と正義の名の下、驚嘆すべき単調さと無窮の退屈さとこの上ない滑稽さとを存分に発揮した三泊四日が終了し、朝が訪れた(1)。いや、時がとまったり(2)、時空が歪んだり(3)、次元が断裂したり(4)して朝が訪れなくなっても全く構わないが、ここではとりあえず訪れたということにしておこう。まだ他の面々が起きていない時刻のこと、理樹と鈴は二人で手をつないで砂浜を散歩していた(1)。いや、していなくても全く構わないが(2)、ここではとりあえずしていたということにしておこう。やがて砂の上に座り込み、漣の音に耳を傾けながら海を眺め始めた二人の脳裏に去来するのは、楽しかった時間の終わりという真っ当な事柄である(1)。まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の機会が一度もなかったことを嘆いている(2)、というわけではないし、まるで一定のデータベースに基づいた物語素とキャラクターとを有意味に配列し、文字列として出力することで無限の虚構世界を半自動的に生成するシステムが何処かに存在してでもいるかのように、斯くも複雑な分裂と分岐と拡散を延々と繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返した挙句今もこうして繰り返して単線的な物語の進行を執拗に阻み、その結果話が一向に進まないことを嘆いている(3)、というわけでもない。尤も話が全然進んでいないのは厳然たる事実だし、何より今ここにこうして登場した一つの比喩――一定のデータベースに基づいた物語素とキャラクターとを有意味に配列し、文字列として出力することで無限の虚構世界を半自動的に生成するシステムという比喩は、我々を不断に貫き続ける分裂的な力を鑑みるに如何にも示唆的ではないだろうか。こうして図らずも虚構世界の無限の生成の仕組み、世界の真実の一端が明かされたわけであるが、これはあくまでも(3)の話であって(1)の鈴と理樹には関係がない。(3)を選べば或いは世界の真実を巡る真摯なる思考がこの後に展開されるのかもしれないが、幸福なる生を生きるためには無知と蒙昧の只中に留まって世界の真実から目を背けるべきであるのは言うまでもない。故に(1)である。
「なんだか一生分泳いだ気がするよ」
「馬鹿兄貴は馬鹿だからな。泳ぐことしか考えてない」
「でもまあ楽しかったしいいんじゃない?」
「まーそうだな」
 そのように会話を交わした後、不意に黙り込んで見詰め合う二人は一体何を企んでいるのだろうか。ひと目につかぬ岩場に移動した後、三日間に渡って抑え付けられてきた欲望をここぞとばかりに解き放ち、めくるめく倦怠と懶惰、まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の日々を再現しようとしているのだろうか(1)。或いはひと目につかぬ岩場に移動さえせずにそのまま砂浜で、三日間に渡って抑え付けられてきた欲望をここぞとばかりに解き放ち、めくるめく倦怠と懶惰、まことに不埒かつ不純な所謂一つの交渉の日々を再現しようとしているのだろうか(2)。それともそのような欲求に由来する身体的接触をおこないつつも、互いの凹凸をその形状に則って然るべくあてがうことだけは自重するのだろうか(3)。更に自重して、口吻程度に留めておくのであろうか(4)。しかし選ばれたのはそのどれでもなく、手を取り合って立ち上がるという実に健全なものだった(5)。無限の理樹が同時に立ち上がっただろう。無限の理樹が同時に立ち上がらなかっただろう。彼らがその後どうするのかは知らないが、僕は、鈴の手を引き、その細い体を抱き寄せた。
 吃驚させようと思ってのことだったのだけれど、鈴は慌てる様子もなしに「どうしたんだ?」と僕に言った。それが悔しかったので、頭に顔を寄せて、「鈴の髪の毛、いい匂いがするね」と言ってみた。
 ばーか、と返された。


[No.730] 2008/11/28(Fri) 01:14:07
仄霞 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@8109byte@若干エロティック

季節は冬めき、いよいよ全ての葉っぱが路上に落ちようかという今日この頃。
気温もだんだんと下がり始め、同時に防寒具も必須になり始める時期になりつつあった。
かくいう僕も寒さを凌ぐ為に座布団の代わりに布団の上に座って暖をとり、みかんを食べながらテレビを見ていた。
僕と鈴が住んでいるこの部屋には炬燵やストーブなどの暖をとることの出来る電化製品はなく、ブランケットや毛布で暖まるしかない。
鈴は寒がりだから炬燵を欲しがっているけれど、如何せん今の僕達の懐事情は木枯らしが吹きつける物寂しい冬のような状況が現状だったりする。
財政の一途は悪化とはいかないまでもどうにも余裕が見受けられる兆しというものがない。
だから仕方なしに僕達は炬燵やらストーブには頼らずこの冬を過ごしていかなければならない。
そう考えると懐だけではなく心も寒くなっていくように思えた。
現実逃避。
僕は取り敢えず当面のお金の工面は頭の隅に追いやってそのまま布団に寝転んだ。
「おぎょーぎが悪いぞ、理樹」
我が家の財政難について考えあぐねていると横から鈴の注意を受ける。
僕の行動に腕を組みながら半眼を投げる鈴。
僕にそう言いつつも鈴は僕の隣に寄り添って同じようにぐうたらとしている。
同じような体勢だからあんまり強く人のことは言えないし、家事で疲れているのは分かるけれど人に注意するときくらいはもう少ししゃんとして欲しいかなあ、なんて思ってしまう。
「鈴も食べる?」
「いらん。というかお前、あたしがみかんをあんまり好きくないのを知ってて言ってるのか?」
僕は咄嗟にみかんを差し出すことで話を反らそうとしたけれど、逆に鈴の機嫌を損ねてしまったようだ。
が、言葉ではそう言いつつも僕の方へとぐいぐい体を押し付けてくるという事は構って欲しいことの表れなんだろうか。
分かりやすい反応だなあなんて僕は思わずくすりとにやけ、自惚れてしまう。
視線を巡らすとテレビに映し出されている映像が目にとまった。
映っているのはありきたりなバラエティー番組。
僕、こういうベタな番組嫌いなんだけどなあ。
と思ったけど、他のどの番組もつまらないし。
無音と言うのも寂しいし、生活音を取り入れるためにも仕方がないから点けている。
僕は残ったみかんを口に放り込み、既に剥き終わった皮をゴミ箱に投げ捨てた。
へたったみかんの皮は綺麗な放物線を描いてゴミ箱の中へと消えていった。
「ん〜」
一方の鈴はというと布団の上をごろごろと転がっていて時折僕の方へと体を押し付けてはまた転がり始める行動を繰り返している。
「ところでさ、鈴。さっきから何やってるの?」
「うみゅ?」
ごろごろと転がっていた鈴は僕の声に動きを止めた。
シーツは既にしわくちゃになっていて大半は敷き布団から剥がれている。
アイロンをかけるのは鈴だけど、流石にもう直ぐ寝るだろう場所を荒らされてはどうにも居心地が悪い。
なので、なるべく転げ回る行為を止めて欲しいと婉曲に言おうとしたら鈴の方から意外な返答が返ってきた。
「ああ、いやされてる」
「癒されてる?」
胸を張って鈴はなぜか誇らしげに告げる。
いや、僕の目にはただ布団とじゃれているだけにしか見えないんだけども。
それでも鈴はどうだと言わんばかりの様子を崩さない。
「って、ここは僕の布団でしょ」
「そーだ」
よくよく見てみると鈴の布団の位置は変わっておらず、僕がいる布団はもう既に荒涼たるものとなっていて、僕の枕なんかは押し潰されそうなほど鈴が抱きしめていてこれまたなかなか凄惨な状態だった。
「布団が恋しいのは分かるけど自分の布団で癒されてね」
「いやだ」
「またなんだって…」
鈴は僕の言うことは聞かずそのまま布団に顔を埋める。
僕の布団なだけに鈴の頭を埋める行為はなんだか見ていて気恥ずかしかった。
「…言わなくちゃダメか?」
その一言がこの場の空気を変えたのだろうか。
先程までの様子とは一変した鈴に僕は訝しさを感じるも、鈴の問いに僕は首を縦に動かし首肯する。
だって僕は訳を知りたい訳だし。
きちんとした理由があれば僕だって鈴に怒ることは無いのだから。
鈴は視線を泳がせ、うろたえている。
それでも鈴は追憶を想い起こしながら、ぽつりぽつりと経緯を零し始めた。
「今日はあたしが一人で布団を干そうと思ったんだ」
「うん」
「理樹はいつも仕事で忙しいし、たまにはあたしがやらなきゃって思った」
鈴と僕とで家事分担をする。
一緒に暮らすと決めて当初に決めた約束だった。
基本的な家事は鈴がこなして、時間が余ったり男手を要するだろう作業は僕がこなす。
かさばった布団は重くはないけれど運び辛いという理由で布団干しは鈴の代わりに僕が引き受けていた。
「でも、出来なかった」
「どうして?」
鈴は泣きそうな顔で僕を睨む。
そこまで言わせるのか、と言いたげな表情だった。
だけど、僕は鈴の考えが皆目見当もつかない。
僕には黙ることで鈴の発言を促すことしか出来なかった。
鈴は何も言えずにただ口を何度か開けたり閉じたりを繰り返す。
僕は鈴が口にしてくれるのをただ只管に待つ。
もどかしく、歯痒く感じる時間だけが過ぎていく。
どれくらい経った時だろうか。
小さく息を吸い込む鈴の声が聞こえた。
「理樹の、匂いがしたから。あたまがまっしろになって、からだがしびれて…」
「あ――」
「なんかめちゃくちゃいい匂いで、それからはもうくちゃくちゃで――うぅ……何言わせるんじゃぼけー」
「わぷ」
鈴は抱きしめていた枕とは別の近くにあった枕を僕に投げつける。
ただ力が入らなかったせいなのか、枕は僕の顔面にゆっくりと当たっただけで済んだ。
先程の鈴の一言に図らずも赤面してしまった顔を隠すことに関して言えば、投げられた枕はちょうど良かったのかもしれない。
僕は枕を顔に押し付ける。
「あ、これ、ちょっと分かるかも」
「……何がだ?」
ふと僕はあることに気付いた。
鈴が抱いている枕は僕の枕。
つまりは、投げられた枕は僕のじゃなくて鈴がいつも使っている枕で。
埋もれている最中、僕は鈴と同じように鼻を利かせた。
「鈴の枕。ちゃんと鈴の匂いがする」
「あ……うぅ…」
照れる鈴をよそに鈴の香りをたっぷりと堪能する。オーデコロンのようないい匂いは鼻孔を通して僕を蝕んでいくような錯覚すら覚えた。
鈴は恥ずかしさのあまりか僕の枕に顔を埋めている。
隙間から見えた真っ赤に染まった顔を見て、僕は先程の自分が言った言葉を思い返して先程以上に、もっと言うならば今の鈴と同じくらい赤く頬を染める。
鈴と目が合う。視線は次第に絡み合い、艶やかささえ帯びているようにさえ感じた。
蕩けた瞳は僕だけを映し、時同じくして潤み始めた瞳は僕に何かを訴えているかのように思えて。
「ん…」
「んぅ……ふ…」
どちらからともなく自然と僕達はキスをした。
唇を押し付け合う少し荒っぽい口付け。
もっと互いの匂いを感じれるように僕は鈴の頭を自分の方に引き寄せる。
鈴も僕の首の後ろに手を回して離すまいとしているのが感触で分かった。
それでも物足りなく感じ始めていた僕は少しだけ開いていた鈴の唇に舌を入れた。
「んっ……はむ…」
鈴は驚いたのかくぐもった声を上げる。
そんな鈴の非難を無視して僕は鈴の舌を探り当てそのまま絡めた。
鈴はどうやら観念したらしく、この状況下に関して怒ることも咎めることさえもせずに僕の舌を受け入れ始めたのが霞みがかった頭の中でも理解出来た。
淫らな水音がお互いの情欲を高め合い、唾液が唇の端から流れ落ちていることに構わず遮二無二になって僕らはキスを続けた。
しばらくキスを続け、再び唇を離したのはいつのことだっただろうか。
銀色の唾液の橋が艶やかに輝き、まるで名残惜しむかのようにゆっくりと消えていった。
よくよく見ると、今更ながら僕が鈴を押し倒しているような体勢をとっていることに気付く。
鈴も今の僕達の体勢に気が付いたようでばつが悪いような表情で僕を睨む。
耳まで真っ赤にしちゃってまあ。
「…理樹、テレビ消さないのか?」
恥ずかしさ故からか、鈴は点けっ放しになっていたテレビに視線をやることで僕の注意を反らそうとしている。
相変わらずも陳腐な番組を垂れ流していたテレビをちらと一瞥。
適当に回し見をしていたから、チャンネルは手の届くところにあった。
鈴に向けている視線は決して外さずに手探りでチャンネルを探し当てスイッチを押す。
ぷつり。
何かが切れたような一瞬の電子音の後にはこの状況を妨げるものは何一つ無くなっていた。
ぷつん。
何一つ無くなったことをいいことに僕は理性を引き千切る。
僕は鈴の髪を手櫛で梳いてやりながら時折自分の方へ持って来てはその髪にキスをしたり鼻を押し当てたりした。
「なんか、今の理樹はすごくえっちぃな」
「うーん。ただ今は長く堪能していたいし、ね」
「…理樹のすけべ」
「すけべな僕は嫌?」
「やじゃないに決まってるだろ。ぼけぇ」
言っていて悔しいのか、頬を膨らます鈴。
額と頬にそっと口付けをし、鈴を宥めた。
鈴は黙って僕の行動を享受する。
顔が綻びつつあることをいいことに僕は鈴の服に手をかけた。
「って、いつの間にお前あたしの服を脱がしてるんだっ」
「えー…だって嗅ぐ時に邪魔だから」
「嗅ぐとか言うな! もっと歯に衣着せて言え! そこに鼻を押し付け――――んぁっ」
だってもっと女の子特有の、鈴の匂いを楽しみたいから。
僕は柔らかくていつまでも触れていたい心地にさせてくれる鈴の肌に直接鼻を押し当てる。
そういえば今まで致している時は互いの匂いのことなど考えもしなかった。
気が付いてみればこの甘い痺れにも似た甘美さはなるほど癖になりそうだった。
しばらくの間鈴の匂いを嗅いでいた僕は、一度断ち切った理性の残滓を敢えて自らの手で完膚なきまでに砕いた。
もっと余すことなく鈴の匂いを感じるため、そして僕の匂いを感じさせるために。
ただそれだけを本能に僕はもう一度鈴の唇を奪った。


[No.731] 2008/11/28(Fri) 03:09:32
女の香り (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ4050KB

ある日。

絶対的な平和が支配するこの世界の、とある学生寮の一室に、3人の人影があった。

1人は直枝理樹。
この部屋の住人であり、男子寮長でもあるので、この寮の管理者と言っても過言ではない。

2人は三枝葉留佳と能美クドリャフカ。雰囲気こそ違えど、とても可愛らしい容姿である。

余談(?)だが、理樹と葉留佳は付き合っている。

まぁ、同じ部屋で暮らしていれば、嫌でもバレてくるはず…なのだが、それに関しては、女子寮長兼風紀委員長であり、葉留佳の姉である二木佳奈多が黙認しているため、教師たちには全く知られていない。
実家(三枝ファミリー)への裏口合わせをするに至って、彼女がよほどのシスコンであることが伺える。

更に言うと、理樹の部屋には彼の他に、中山きんにくn…げふんげふん!井ノ原真人という、もう1人のルームメイトが居るのだが、今日は筋トレに出掛けていて不在だった。


『ふっ、ふっ、筋肉、筋肉!』


目を閉じればすぐに、彼の筋トレ姿を思い浮かべることができる。

全く、彼はこれ以上無駄に筋肉をつけてどうしたいのだろうか。小一時間ほど問い詰めたいところである。
そして、能美クドリャフカ。
彼女は葉留佳と理樹の友人であり、学校1有名なお騒がせ集団(自称:正義の味方)リトルバスターズの仲間である。

リトルバスターズには全員合わせて14人のメンバーがいるのだが、クドリャフカが今日、1人でこの部屋の2人に会いに来ているのには理由があった。












「さて、始めますヨ?」
「う、うん」

いつからか突然始まった。

例えるならば、それは儀式。2人の通過点。

「リキの浮気ちぇっく、なのです〜」


そう、超人的な嗅覚を持つ犬娘。
理樹くん浮気発見用新型嗅覚兵器:クドリャフカ1号!(葉留佳が命名)による理樹の浮気チェックなるものらしい。

別に、理樹は浮気などしていないのだが、葉留佳としては調べてみたくなるものらしい。

「よーし、クド公行け〜」
「わふー♪」

クドに飛び付かれ、理樹は焦る。

「ちょっ…クド!?」

「くんくん…どうしましたか、リキ?」

一生懸命に理樹のにおいを嗅ぐ理樹くん浮気発見用新型嗅覚兵器:クドリャフカ1号。

(ヤバい…かわいい)

思わず抱きしめてしまいたくなるほどのかわいさだが、なんとか堪える。

「くんくん…ん〜…わふ?」

上目遣い。理樹を無邪気な瞳で見つめる。

「ぐっ…ぅ…」

顔中の穴という穴から萌え血なるものを噴出して霞んでいく視界の中。

(これは…拷問…?あと、恭介…今まで(21)なんて言ってごめん。僕は…もう…)











































「理樹…女の子のにおいがします」


















「……え?」











「ななな、なんですとー!?クド公、それは本当なのかー!?」

「わ、わふー!?」
驚きのあまり、ガクガクとクドを揺さぶる葉留佳。

「さささささ、三枝さん!?おちついてくだひゃいー……!」

「これが落ち着いていられるかー!?誰だ!?相手は誰なんだクド公!鈴ちゃん?みおちん?恭介さんか!?…ひょっとして、ひょっとすると、姉御!?姉御が理樹くんを寝取ったのかー!?」


動揺をぶっとばして暴走する葉留佳。
理樹が姉御(来ヶ谷唯湖:リトバス1グラマラスなおねーさん)に寝取られたと信じ込んでいる。

しかも、1人我らがリトルバスターズのリーダーで(21)の変態の名前が混ざっていた気がする。

(うわっ!?恭介!?僕の脳内に突然現れないでよ!HAHAHAじゃないよ!そんなに爽やかに笑いかけないでよ!)

脳内に突然現れた恭介の対処に困る理樹。

(全く、なんで恭介相手にドキドキしているんだ…僕たちは男の子同士で…だから!)

全く難しい年頃である。
少年の心は誠に度しがたい。
























「これは…このミントの香りは…佳奈多さんなのです!」































クドの爆弾ハツゲン。


ピシリ!

そんな音をたてて葉留佳が固まる。

しかしそれも一瞬。

「かぁぁあぁぁなぁあぁたぁぁあぁぁ!!」






ダダダダダダダダ―――

と葉留佳は駆けていく。 明確な殺意を抱いて。
血の繋がった姉の元に。


僕はそれを見守るしかなかった。












































「やっと…2人きりになれましたね、リキ」














「え?」











寝返った、理樹くん浮気発見用新型嗅覚兵器:クドリャフカ1号。




彼女は先ほどの無邪気な瞳に妖艶さを含ませて
ふふふ、と笑った。


[No.732] 2008/11/28(Fri) 12:05:16
こっちから負け組臭がプンプンするぜ! (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@10046 byte

「やっぱ俺大学行くわ」
 恭介が毎度アホなことを言い出すのはおおよそ予定調和ではあったが、それは遊びに関してのことである。アホに変わりはないが、洒落になっていない。
 ちょうど一週間後がセンター試験である。もちろん、勉強などしていない。そんなことする暇があるなら遊んでいた。就活しろよ。したさ。でもダメだったんだもの。遊ぶしかないじゃない。
「恭介、そもそもおまえは願書を出していないんじゃないのか?」
 恭介と面と向かうのは謙吾である。二者面談が行われているのは謙吾の部屋だった。真人は筋肉だから役に立たないし、理樹は佳奈多と葉留佳、それになぜか鈴と一緒に絶賛駆け落ち中で不在。よってこの面子である。
「そのあたりは抜かりないぜ。なんとなく、こんなことになるような予感がしていたからな」
「そんな予感があったなら勉強していろよ」
「それにはちゃんと理由があるんだよ」
 要するに言い訳であった。



 6月の修学旅行で、恭介は死ぬはずだった。というより、理樹と鈴以外は全員死ぬはずだったのだが、まあとにかく恭介は覚悟を決めたのだった。自分が死んででも理樹と鈴を生かそうという覚悟である。
 しかし理樹と鈴が思わず頑張りすぎてしまったせいで、恭介は助かってしまった。
 困ったことになった。せっかく死ぬ覚悟を決めたのである。未練を残さないよう、理樹と鈴を鍛えるという名目で散々遊び倒したというのに。
 未練といえば、そもそも件の不思議世界は、理樹と鈴を鍛える場という以上に、鍛える側の未練を晴らすような役割が強かった。放っといたら気絶したままバスガス爆発であぼんできていたのに、わけのわからん世界に放り込まれてしまったせいで数瞬先に近付いている自身の死を自覚する羽目になってしまったのだ。それ自体は時間を置けば落ち着きもするが、いざ死ぬとなるとどいつもこいつも未練タラタラである。まあピチピチ女の子と一部ムチムチ男の子だからしょうがない。若さ故である。しかも都合の良いことにどいつもこいつも複雑な事情やら問題やらを抱えていた。
「これじゃ死んでも死にきれねぇよ」
 みんながみんなそう思いつつも、色んな遠慮から言い出せなかったことをあっさり口にしたのは、真人であった。そんな真人のために、恭介は筋肉ルートを用意してやった。理樹に筋肉的な強い暗示をかけてルートに誘導し、他メンバーには土下座して頼んで回った。強敵の来々谷には必殺ジャンピング土下座をお見舞いしてやった。頭を踏みつけられて色々と罵られた。興奮した。しゃらららららうーあー。えーくすたすぃー。いつの間にか紛れ込んでいた佳奈多は、理樹と真人が自力で打ち破った。



「いささか話が逸れ過ぎではないか?」
「まあ最後まで聞けって」



 要するに恭介は心残りがないように遊びまくったのである。他メンバーも似たようなものであった。小毬はたらふくお菓子を喰らい、葉留佳は和解した姉に甘え、クドは現実で選べなかった道を往き、美魚は薄い本を読み漁り、来々谷はよくわからんがハァハァしていた。真人は筋肉を謳歌し、謙吾は馬鹿だった。
 よーしこれで心残りはナッシン。死ぬぜー。あれ助かったー。でもまあ、そりゃ生きてるほうがいいよね。生きてるってスバラスィー。
 小毬は体重を気にしながらお菓子三昧の日々を送り、葉留佳は姉と和解してしまいには姉妹プラスαで駆け落ちし(うまいこといったぜ)、クドはこすもなーふとを目指して牛乳をガブ飲みし、美魚は自分で薄い本を作り始め、来々谷はよくわからんがハァハァしている。真人は筋肉だし謙吾は馬鹿だし。そんな中で恭介だけが違っていた。
 当時(というか今もだが)、リトルバスターズというお騒がせ集団の中にあって、恭介だけが特異な立場にあった。卒業後のことを具体的に考えなければならない時期になっていた。
 実は、恭介には夢があった。漫画雑誌の編集者になることである。どう考えても漫画好きが高じての小学生みたいな夢ではあったが、当人からすれば真剣そのものであった。何もチンプだのヨンデーだの、そういった有名ドコロを目指していたわけではない。もっとこう、ささやかな感じの何かである。
 ここでようやく話が戻るが、恭介は覚悟を決めていた。そうするための過程で、その夢についても考えなければならなかった。悩み抜いた末に、結局綺麗さっぱり諦めるしか道がないことに気付いたのが三回目で、綺麗さっぱり諦められたのは五回目のことであった。
 恭介は、あまりにも諦めすぎていた。理樹と鈴を見くびっていたとも言う。そんなんだから、ひょんなことから生き残ってしまっても、諦めてしまった夢をどうにも取り戻せなかったのである。いっそ留年してしまおうかとも思ったが、それでは元々あるのかどうかも怪しい兄の威厳が残念なことになってしまいかねない。むしろ、なる。そんなこんなで、恭介が新たな目標を定めるにはいくらかの時間が必要だった。



「な、わかるだろ? そんななぁなぁな状態じゃ勉強なんて出来るわけがない」
 然も当然であるかのように言っているが、そういう状態でも出来る奴は出来るのである。もっとも、よくわからん予感のために勉強をやろうとする人間は稀だろう。ましてや恭介は勉強嫌いであった。
 謙吾がいつの間にか用意していたらしい湯呑みにたっぷりの茶をずずっと啜り、ふむ、とひとつ頷く。
「おまえの言い分は……まあよくわからんがわかったことにしておこう。で、結局急に大学に行くなどと言い出した理由はなんだ」
 恭介が、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「そんなに俺の新たなる目標を聞きたいか。聞きたいんだな?」
「いや別に」
「俺はスルーされるのが大嫌いだっ!」
「わかったわかった」
 ほら言ってみろ、と謙吾が促すと、恭介は胸を張って答えた。野郎が胸張ってもどうにもコメントしづらい。
「俺は集米社に入って、スクレボを完結させてみせる!」
「なん……だと……?」
 謙吾は戦慄した。それはいくらおまえでも無理だ、よすんだ恭介。
「さすがに集米社なんて大手のとこになると、いいとこの大学出なきゃ話にならないからな。つまりそういうわけさ」
 違う。俺が言いたいのはそういうことじゃない。勉学なら、おまえが本気になればなんとかなるかもしれない。だが、スクレボは……奴だけは無理だ……!
 ちなみに謙吾はスクレボを読んだことがない。



 スクレボ――『学園革命スクレボ』は、集米社の週刊少年チンプで好評連載中だった漫画である。ボーイ・ミーツ・ガールに始まる王道展開ながらも、複雑な心理戦を描いた少年漫画として人気を博し、8年ほど前にアニメ化もされた。
 しかし、そのアニメ化とほぼ同時期からしばしば休載するようになり、恭介が寮に入って鈴から離れざるを得なかった魔の一年間など、たった4回しか掲載されなかった。以後、今に至るまで絶賛休載中である。来週で130週目を迎える。もうしばらくしたら、半年ごとに10週集中連載といった形式で復活するだのしないだのといった噂があるが、真偽のほどは定かではない。
 ちなみに恭介は、不思議世界での未練晴らしの一環として「おれのかんがえたすくれぼ」を新刊として発売させてみたが、あまりにもつまらなくて絶望した。やはり、原作者の手樫先生が描かないと駄目なのである。



「目標は高く持てと昔の偉い人も言っていた! だがこれは高すぎだ! 50ノーティカルマイルの空なんて目じゃないほど高い!」
「止めてくれるなよ、謙吾。俺は本気なんだ」
「大体、考えてもみろ! まずは、どう考えても浪人するから最低1年! 卒業するのに最低4年! 仮に入社出来たとして、チンプの編集部にまで辿り着くのにどれだけの年月がかかることか……! それに加えて、大物である手樫先生のケツをひっぱたけるほどの地位に立たねばならない……! なんたる! なんたる茨の道か!」
 無駄にテンションの高い謙吾。謙吾はスクレボを読んだことがないが、そもそも彼は完結してからコミックスを大人買いするタイプであった。もしかしたら、あのすごくおもしろいと噂のスクレボがようやく読めるかもしれない……謙吾でなくとも興奮するところである。
 しかし、対する恭介は冷静であった。
「おいおい謙吾さんよ、その計算だと1年余計だぜ?」
「謝れ! 全国の真面目に頑張ってる受験生に謝れ!」
 バカなだけだった。
「というか、普通に考えてだな。さすがにその前には完結してるんじゃないか?」
 テンションの上下が激しい謙吾である。お茶をずずーっと啜る。注ぎ足した。
「大丈夫さ。手樫なら……手樫ならなんとかしてくれる……!」
 信じているのかいないのかよくわからない。



「聞きそびれていたが、なんでまたそんな無理難題に挑戦しようと思ったのだ?」
 あーでもないこーでもないと近所迷惑な議論を交わしていたわけだが、消灯間際になってようやく謙吾はそこに触れた。
 恭介は、ふ、とニヒルな笑みを口元に浮かべ、言った。
「こればっかりは、どうやったって晴らしようがない未練だからな。せめて、全巻セットをあいつの墓前に供えてやろうと思ったのさ」
「…………」
 恭介が毎度アホなことを言い出すのはおおよそ予定調和であったが、彼がそのアホなことに毎度真剣に取り組むのも、また予定調和だった。
「……まずは、墓がどこにあるのか調べないとな」
 恭介は、おおっとそれは考えてなかったぜ的な顔をした。



 当然だがセンター試験の結果は散々なものであった。「小毬、俺と(英語の勉強に)付き合ってくれ!」「え、ええええっ!? そ、そんな、いきなり!? ふええっ」「俺にはおまえが必要なんだ!」「きょ、きょーすけ、さん……。わ、わかりましたっ。ふつちゅかものですが、よろしくおねがいしますっ」的な流れでゲットした恋人兼家庭教師のおかげで、英語は辛うじて7割を取れたものの、他は3割だとか4割だとかそれ以下だとか、まあそんな感じである。そもそも恭介の志望校を考えれば、センター英語7割の時点でハハッワロスだった。
 私立はもとより受験する気がない。件の修学旅行事故での治療費やら入院費やらで、ただでさえ両親には負担をかけている。ちなみに恭介の場合は、匿名掲示板で報じられたら「自業自得乙」だの「むしろそいつのせいで事故ったんじゃね?」などと叩かれそうな具合であったので、保障やら保険やらはあんまり……な感じだった。
 さすがの恭介も、足切りされるとわかっていて願書を出すほど愚かではない。予備校に通う金もないので、バイトして入学費用を溜めつつ、宅浪することに決めた。



 いつの間にか4月である。素晴らしいことに、スクレボの連載が再開された。まあ10週限りの集中連載で、これが終わったら次はいつになるのかわかったものではない。もうちょっと休んでろよ手樫、と心中で呪詛を吐きつつ、恭介はお玉で鍋の中をかき混ぜる。
 ボロアパートの一室である。単純に家賃の安さだけで決めた。日当たりは去年まで良好だったようだが、隣に建っている新築高級マンションのおかげで今は最悪だ。
「今日は激辛にするか」
 かき混ぜているのは、三日前くらいに作ったカレーの残りである。なんとも食欲を誘うにおいを放つぐちゃぐちゃした茶色いナニカに、一味唐辛子をドバドバと振りかける。うーん、スパイスィー。
 しゃらららららうーあー。えーくすたすぃー。
「ん。メールか」
 カレーが鍋に焦げ付かないよう、そっちに7割ほどの注意を向けつつ、ポケットから携帯を取り出す。理樹からだった。鍋への注意が3割になった。
「そういや理樹たちも、今日から三年生か」
 葉留佳と佳奈多の家のごたごたも片付いたらしく、理樹たちは春休み中にこっちに戻ってきていた。
 開いてみると、やたらと長いメールである。写真付き。要約すると、「今日から同じ受験生だね。僕たちも頑張るから恭介も頑張って。それと転入生が来たんだよ。朱鷺戸沙耶(仮)さんっていうんだ。これがまた可愛い子でさー、ほら見て見てー。ところで恭介、今晩のオカズは?」といった感じであった。
「ふはは! ふははははは!」
 笑った。笑いまくった。
「はーっはっはっは!」
 ふと、どこか懐かしい硝煙のにおい。
 カレーが焦げていただけ。


[No.733] 2008/11/28(Fri) 18:00:02
鼻づまり (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@3067byte

鈴に朝食とカップゼリーを持っていくと、すでに鈴は起きていた。
「風邪、もう治ったの?」鈴に問いかけると、ベッドの上で鈴はこくりと頷いた。
数日前から、鈴は風邪をひいている。どうも前に出かけたときにうつされたらしい。特に鼻づまりがひどいらしく、しょっちゅうちり紙で鼻をかんでいた。顔色を見る分には、もう大丈夫そうに見える。でも、まだ油断は出来ない。今日も一日休ませたほうがいいだろう。
「まだ休んでたほうがいいよ」僕は朝食を差し出す。食欲はまだないのか、鈴はカップゼリーにだけ手をつけた。
食べ終わると、鈴が言った。
「理樹、みんなのところに行くぞ」
まだ休んでたほうがいいって。





結局みんなのところへ向かうことになった。鈴の風邪がぶり返さないか心配だったが、鈴の顔色も回復して桃色になっていたので、しぶしぶ了承した。
厚着をして出かける。季節の移り変わりは早く、つい二週間前までは秋だと思っていたのに、もう北のほうでは雪が降っているらしい。外を歩く人も少ない。道端に落ちていた柿も熟しきっていた。
寒さに負けないように、二人で手をつないだ。
「そういえば、鼻づまりなくなったね」
「なんか前より鼻がスースーする。」
「よかったんじゃない?」
「なんかいつもより色んなにおいがしたんだ」
「どんな匂いなの?」
「色んなにおいだ。くちゃくちゃ色んなにおいがする。」
「それじゃあ、みんなにあってもきっと色んな匂いがするんじゃないかな。」
「におい……こまりちゃんは甘そうだな」
「いつもお菓子を持ち歩いてるからね」
ポケットの大きさとお菓子の量がつりあってなかったことがあったけれど、あれってどうなっていたんだろう。
「でも、はるかもたまに甘いにおいがしてたぞ。」
「葉留佳さんも?」
「うん、なんか焦げてたにおいもしてた」
「……。じゃあ、来々谷さんは?」
「くるがやは…辛そうだ」
「辛そう?」
「うん。……あれだ、キムチのにおいがする」
確かにキムチを常備してる人なんてはじめて見た。
「くどは、嗅がれるより嗅ぎそうだな」
「子犬みたいだしね」
くんくんかぎまわるクドの姿が容易に想像できた。
「みおは…においがしない。水みたいだ」、
「香水とかもつけそうにないしね」
「あとの奴らは、汗臭い」
「…真人と謙吾は分かるけど、何で恭介も汗臭いの?」
「馬鹿兄貴はばかだ、だからバカ二人と同じだ。」
「いやいやいや、今すごく納得しそうだったけど。……じゃあ、僕は?」
「理樹のにおいだ」
「……。」
「理樹は、理樹のにおいがする。あたしは、理樹のにおいが一番好きだ。」
僕は返事をしなかった。
しない代わりに鈴の手をぎゅっと握った。
握り返された力は、同じくらい強かった。

しばらく無言で歩く。
空を見上げると、曇ってきたように思える。鈴の手を引きながら、みんなの元へと急いだ。
そのうちポツポツと雨が降ってきて、僕と鈴は少し雨に濡れながら、病院の自動ドアをくぐった。
エレベーターを使い、みんなの待つ病室へ。鈴は一言も話さなかった。
そして、鈴とつないだ手を意識しながら、みんなの病室のドアを開ける。開けた瞬間、何かが僕の中へ流れ込んできたような気がした。うまく説明できないけれど、とても優しい、心が満ち足りたような気分だった。しかし、その充実感もすぐに立ち消えてしまった。


みんなはまだ眠っていた。白い部屋でみんなは安らかに眠っている。
笑っているようにも見える。
怒っているように見える。
悲しんでいるようにも見える。
みんなが起きるときは来るのだろうか。みんなの匂いが戻る日は来るだろうか。
今のみんなは、等しく消毒液の臭いしかしなかった。
ズズッ。
鈴が、鼻をすすった。
僕も、風邪をひいていたらよかった。


[No.734] 2008/11/28(Fri) 18:01:23
しあわせのにおいってどんなにおい? (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@11339 byte


 あたしは鼻が利くほうじゃない。
 だって、犬じゃないし。
 だから、そんなことを聞かれたって答えられない。


――しあわせのにおいってどんなにおい?――


 閉じたまぶたの向こう側が明るい。カーテンを透かしてうすく差し込む朝の光。しんと冷えた空気に鼻がつんとする。
 ぼんやりした意識のなか、規則正しいうなり声が聞こえ、隣で安らかに眠っていた相方がもぞもぞと動き始める
 意識がはっきりしていくのに合わせて、相方の行動が見えずとも伝わってくるようになる。
 相方は枕元で震える携帯を手探りで掴み、適当にボタンを押す。止まらない、止まらない、とまらない。
 何度か失敗を繰り返し、ようやく携帯は沈黙する。ぱたり、と力なく手を落とし、うぁ、とかうぐ、とか意味のない声を出す。ぼんやりと目覚めかけの宙ぶらりん。
 時間は画面を確認しなくてもわかる。6時25分。相方がふとんの誘惑を振り切って、愛する妻のために朝食の支度を始めるところだ。
 眠っている私を起こさないよう、ごそごそと布団を抜け出していく。それでも相方の抜けた隙間には冷気が滑り込むと、寄り添って寝ていたぶん余計に寒い。
 あたしがむずかるとすぐに相方の手が伸びて、布団の隙間をぺたりとつぶす。押し出された空気は汗とゆうべの匂いがちょっぴりして、恥ずかしい。
 あたたかく、ほんのちょっぴりなまぐさい空気が頬にかかる。いつもこのときがいちばん緊張する。寝たふりがばれないよう、ゆっくり息をする。
 頬に触れる濡れたくちびる。少し冷たい感触はすぐに離れ、ようやく相方は出て行ってくれた。よかった。あの変態はたまに耳を舐めたりするから油断ならない。

 ふすまが閉まってからたっぷり100数え、ようやく目を開ける。薄明かりに照らされた和室には真新しいたんすと古い鏡台。見慣れた部屋に相方の姿がないのを確認して安心する。
 寝返りを打って枕元のペットボトルに手を伸ばす。ラベルはコーラだけど中身は夕べのポットの残り湯だ。
 キャップをあけるとだいぶ薄まったコーラの残り香。ひとくちふたくち含んでべたついた口内を軽くすすぐ。いけないとは思うけど吐き出すところもないし、まあそうしてる。
 応急処置を終えたら、あとは朝ごはんができるまでのんびりするだけだ。枕を相方のものと取替えて、顔を埋める。
 汗と髪のにおいにつつまれて、あったかいふとんでうたたねする。今日は休みだから、朝ごはんはゆっくりでいいぞ、理樹――。



 名前を呼ばれ、身体を揺すられている。焼けたパンとバターの匂いがする。美味しそうなにおいにたちまちお腹が元気になるけれど、理樹め、休みなのに手を抜いたな。
 うたたねの邪魔をされてあたしの機嫌はだいぶ斜めだ。罰として理樹の首根っこを抱きかかえ、唇をつき出す。パンのにおいのする髪が近づいてくる。お腹すいたな。ハラがなったからって笑うなよ?
 理樹が従順に、かつサービス過剰におつとめを果たしたあと、ようやく半分くらい目が覚めたあたしは布団から這い出して、身支度を整える。
 テーブルにはバターを塗ってから焼いたトーストとベーコンエッグ、あとレタスをちぎっただけのサラダが並べられていた。やっぱり手抜きだ。
 コーヒーメーカーがお湯をこぽこぽさせていて、洗った顔をタオルで拭いていると、鼻先に焦げたような香ばしいにおいが届いた。
 あたしはコーヒーはそれほど飲まないし、理樹もたまに飲むくらいだったけれど、来ヶ谷にお祝いでコーヒーメーカーをもらってから、理樹はほとんど毎朝飲むようになった。何だかしゃくなのであたしは飲まないことにしている。コーヒー牛乳で十分だ。コーヒー牛乳最高ー。
 トーストの合い間に甘くて苦くないコーヒー牛乳をたしなんでいると、今日の予定を聞いてきたが、そんなのあるわけがない。呆れたことに、理樹も考えていなかったらしく、パンをかじりながらふたりであーでもない、こーでもないと悩むことになった。
 困ったことに外はいい天気なのだ。起きたときから分かっていたけれど、気が抜けるほど晴れている。でもさむい。
 公園、寒いから却下。部屋で昼寝、もったいないから却下。そんな感じだ。ちなみに外に出たいのが理樹、昼寝したいのがあたしだ。昼寝の
 あたしが二杯目のコーヒー牛乳を飲み終える頃、間を取って小毬ちゃんの家に行くのはどうだろう、ということになった。

 理樹が向こうに電話している間、あたしは急いで着替えを済ませる。別に、今すぐ飛んで行きたいという訳じゃない。もたもたしていると着替えを手伝おうとする変態がいるからだ。
 チビたちの相手をするためにデニムのパンツとボーダーのニット、あとで上にダウンを羽織れば防寒は完ペキだ。
 仕上げに使ったハートの小瓶をしまったところで、ふすまの向こうから声がかかった。今回は覗いていたのか変態め。
 ふすまを全開にして見せてやったのに、リアクションはてんで薄かった。製作過程は悦んで見ているくせに、完成品に興味を示さないとはどういうことだ。
 近くに寄っても理樹は全くいつもどおりだ。確かに小物はほとんど身に着けていないしお化粧も薄くしかしていないが、ちゃんとお出かけ仕様にしたというのに。お前の鼻はつけっ鼻か。エセ外人か。
 はじめてつけたときみたいに、鼻に染み付くほどきつくしないとダメなんだろうか。こんど気付かなかったら鼻に突っ込んでやろう。
 頭の中にたくさん生まれていた文句は、表に出る前に可愛いのヒトコトでぜんぶ封じこまれてしまった。そういうところが理樹はずるい。たまに指輪返してやろうかと思う。
 あたしの半分以下の時間で身支度を済ませた理樹は、近くのコンビニに行くのと大差ない格好をしていた。……本当に指輪返すぞ。



 ――寒いから、手を貸せ。そう言わないと手も繋げなかったころをふと思い出した。高く高く、はるかかなたに遠ざかってしまった青空の下、つないだ手のひらだけうっすらと汗ばむほどにあったかい。
 歩道の脇に吹き寄せられた落ち葉をがさがさ踏みつけながら、隣を歩く横顔を見上げる。前よりも少し近くなった唇は、リトルバスターズマフラーが隠している。
 おそろいの猫が胸元で揺れる。玄関を出たとたんにえらく冷たい風に首筋を撫でられて、慌てて追加したマフラーをあたしも巻いている。冷気に揉み解されて、鼻と耳はイタ痺れだ。ダウンのポケットが鼻をかんだティッシュで膨らんでいる。
 これで、小毬ちゃんの家があと少し遠かったらあたしはきっと凍死してしまっただろう。南極探検隊もこの寒さにはきっと耐えられなかったに違いない。
 それだけに小毬ちゃん家の暖かさは天国のようだった。家じゃ理樹がケチってあんまりあったかくしてくれないからな。
 一緒に出迎えてくれた上のチビは、歩いてるのか転がってるのか分からないが、最初から全開であたしにまとわりついてきてあたしを困らせてくれた。おかげで靴を脱ぐのもダウンを脱ぐのも理樹まかせだ。
 ようやく戦闘体勢を整えて、足にしがみついた毬子を抱き上げる。前よりもずしっと来る手ごたえに成長の速さを実感する。ぎゅっと抱きしめるとすごくあったかい。おやつに食べたのか、バターと小麦粉と砂糖が焼けたおいしそうなにおい。うちの朝ごはんと原料は同じはずなのに、どうしてこんなに違うんだろう。ちょっと美味しそうだからほっぺたを咥えてみる。ふにふにしていてなかなかの美味だ。ちょっとだけよだれのにおいもする。なんだか理樹がうらやましそうに見ているが無視だ。みるな変態。
 普段は母親によく似てほんやりしているけど、両手で高く持ち上げて振り回すと手足をばたつかせながらくちゃくちゃ喜ぶ。その辺は父親に似たんだろうか。あんまり似ないで欲しい。がんばれ小毬ちゃん。
 理樹は小毬ちゃんと一緒に小介の寝顔を覗いていた。小介がかわいいのは認めるけど、ちょっと近すぎないか浮気者。
 ついつい毬子を回しすぎてぐったりさせてしまう直前、危ういところで唐突に現れた手が毬子をさらっていった。この(21)はいつも唐突に現れる。かすかにタバコの匂いがする。休日に家族をほったらかしでパチンコか、ダメ夫め。
 そのダメ亭主はあたしに軽く挨拶しながら、回り疲れた毬子を寝かしつける。悔しいが手際がいい。負けたわけじゃないが悔しい。しかも理樹が気付かなかったあたしのにおいにすぐ気が付いて、子供っぽいと笑う。気に入ってるんだからほっとけばか。それより何でお前は詳しいんだ。思い立ったら気ままに蹴れていた頃が懐かしい。蹴るけど。

 お昼は恭介と理樹が二人で作った。あのダメ夫はダメなダメ亭主だが、チビどもの相手で忙しい小毬ちゃんのかわりに、家事の大半を引き受けている。いまだに信じられないが。
 でも、ああやって理樹と二人で台所に並んでいるのを見ると、まるで付き合い始めのカップルみたい、いやなんか違うぞ。
 メニューは毬子の大好きなミートスパと理樹の得意な野菜スティック…また手抜きか。
 野菜スティックはともかく、トマトとたまねぎのいいにおいがずっとしていて、寝ていたはずの毬子も今では落ち着きなくテーブルの周りを飛び跳ねていた。わふーというのはクドから伝染ったのか、それとも(21)が教え込んだのか…後者ならちょっと抹殺しよう。
 本当にくやしいがミートスパはおいしかった。簡単だと言っていたからこんどうちでもやってみようと思う。頑張れ理樹。
 と、野菜スティックを無視していたらなぜか理樹がえらいニコニコとあたしの方を見てくるので、仕方なくにんじんを一本引っこ抜く。
 テーブルに、何に使うか分からない小皿がいくつも並んでいたのはこれにつけるためらしい。いつもはマヨをてきとーにつけるだけだったのに。
 小皿の中身は赤・緑・黄色・うす茶色と、なじみのマヨの皿が一つもない。迷った末に一番マヨに近い黄色の何かをつけてみる。なかなか口に入れる勇気が出ずにいると、毬子があたしをじっと見ているのに気づいた。見ると、毬子も野菜スティックに手をつけていない。野菜が嫌いなのかもしれない。手本を見せてやらないとダメそうだ、と思ったあたしは、ためらいを捨て、思い切ってにんじんをかじる。
 かりかりとにんじんを噛み砕く口の中で、食べなれたマヨの味がしてまずは安心する。その安堵の息が鼻から抜けるとき、ふと学食の賑やかさを思い出した――馬鹿がカツの乗ったそれを興奮してかきこむ。馬鹿の食べこぼしが飛び散ってジャンパーを汚された馬鹿が落ち込む。迷惑な馬鹿を蹴ろうとするあたしを理樹が止め、それを一歩引いて眺める馬鹿。みんなで食べているのは――そうだ、カレーだ。
 などと料理まんがみたいなことをやっていたら馬鹿兄貴が勝手にあたしの分をつまみ食いしていたので蹴っておいた。毬子も楽しそうに蹴っていたのできっと大物になるだろう。



 小毬ちゃん家からの帰り、銀杏を見に行こう、と言い出した、唐突に。
 まあ、あたしが道すがら、ずっと子供のかわいさについて語っていたから、危機感のようなものを感じたのかもしれない。こしぬけめ。
 見に行くといってもちょっと回り道して公園を通るだけだから、歩く距離はそんなに変わらない。あたしもそれくらいならと特に気にせずに頷いた。
 ゆうべ、ドラマでやっていたんだ。恋人と二人で銀杏並木を歩いて、いい雰囲気になってた。寒いからなのか、二人の他に通行人はなく、並木道の真ん中でキスまでしていた。だからたぶん、理樹もそんなことをして見たいと思ったのかもしれない。あたしもまあ、やってみたくないこともない。
 ふたりとも忘れてたんだ。あの並木道と今向かってる公園は違うってことを。何より、あれはテレビだってことを。
 目的の公園の手前に来て、風が吹き付けてきたとき、あたしたちは間違いに気付いた。
 クサい。思わずつないだ手を離して両手で鼻を押さえたくらいにクサい。つんと鼻を刺す刺激。勝手に涙がにじんでくる。例えるならそう、う○このにおい。
 公園に植えられた銀杏の木々は眩しいほど鮮やかな黄色に色づき、石畳にはらはらと葉を降らせ、原色のトンネルを作っている。それこそテレビで見た並木道のように。
 でもクサい。そして、よく見るとあちこちの木の陰でもそもそ動く人影が見える。別に銀杏のトンネルでいちゃいちゃするカップルを覗き見するためじゃない。みんな手に袋とでかいピンセットみたいなやつを持ってオレンジ色の実を熱心に拾っているだけだ。
 入り口に立ち尽くしたあたしたちは、入る前からすっかりやる気を喪失していた。だって、いくらがんばってもう○こくさい中ではいい雰囲気になんてなれっこない。しかも周りはぎんなん拾いの老若男女で溢れかえっているのだ。そんなにはいないが。

 立ち尽くしていたのはちょっとの時間だと思う。どちらからともなく帰ろうと言い出した。もう一分一秒でも早く家に帰りたい。なのに理樹は自分たちも拾っていこうかなんて言う。どちらからともなくじゃなかった。帰ろうといったのはあたしだけだ。とりあえず理樹を置いて帰ろう。
 だってそうじゃないか、見た目栗っぽいのに全然甘くないあんなのを拾って食べるなんてどうかしてる。う○このにおいをさせて帰ってきたら閉め出そうとか考えていたが、すぐに追いかけてきた。
 念のためにおいをかいでみたけど、う○こくさくはなかったので許してやった。
 許した証拠に左手を差し出してやる。手をつないで帰ろう。それで、ごはんの前にお風呂に入ろう。帰ったらすぐに、一緒に。
 ふたり、おんなじにおいになるところからはじめるんだ。





 …まあ、なんだ。どんな、って聞かれてもな。
 そもそも、形がないものなんだから、質問自体がおかしいと思うけど。
 それでも知りたいならこう言うつもりだ。
 こういうのがみんな しあわせのにおい なんじゃないか、って。


[No.735] 2008/11/28(Fri) 19:49:18
よるのにおいにつつまれたなら (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@8553 byte(バイト数修正)

「臭う! 臭うぞよっ!」
 芝生に寝転がっていた葉留佳がいきなり叫びながら起きるものだから、半ば眠りかけていたクドは驚いて何事かと周囲を見回した。
 中庭の芝生で過ごすまったりとした午後の時間はそのようにして引き裂かれたのだった。
 僅かに白濁した思考の内、見える範囲に異常はないように思える。
 ここは常にそうだった。立ち寄る人は多いが立ち止まる人は少ない。
 まして、陽射しこそ温かいものの風の冷たさが感じられるこの季節、時が止まったかのような静寂が二人を包み込んでいた。
「あのぅ、どうかしたのですか?」
「臭いまくりすてぃ」
 意味はまったく分からなかったが、葉留佳の言う事、そもそも意味がないのだろう。
 クドはそう納得し、しかしいったい何が匂うのかと不思議に思う。
 すんすんと鼻を鳴らしてみたが感じるのは草の匂い、木の匂い、そして空気の澄んだ匂い。
 冷えた大気はシャーベットのようにふわりと消えてしまう。
 その軽さを多少残念に思いつつも、不快はなかった。
「何も匂いませんが……」
「夜の臭いがするのですよ」
「はぁ……夜ですか?」
 空を仰げば白く輝く太陽が真っ青の海を泳いでいる。
 日照時間が日々目減りしていく昨今ではあっても、夜の闇はまだまだ就労時間外だ。
「夜の匂いというものはどういうものなのでしょう? お月様の匂いですか? それともお星様ですか?」
「クド公は可愛いね〜」
 葉留佳の手がクドの頭を撫でた。
 その行為自体は嬉しくあったものの、どうやら正解ではないらしい。
「では、どんな匂いなのです?」
「う〜ん……くさい」
「はい?」
「とってもくさいのですよ、クド公の鼻が曲がっちゃうくらいに」
 ますます意味が分からない。
「ちっちっちぃっ。はるちんレーダーが搭載されていないとこの臭いは届かないのですよ」
「おおっ、はるちんれいだぁですかぁ! はいてくな響きです!」
「モチのロン! ハイテクも超ハイテク! 二十一世紀の技術を応用した魔法のソナーこそ、はるちんレーダーなのだっ!」
「れ、れいだぁなんですかっ、そなぁなんですか、どっちですっ!?」
「細かい事は気にしない! 臭いの方向へと艦首を向けよ、面舵一杯、ヨーソロー」
「わふっ、いきなり走り出さないで下さい〜」
 


 特別急いでいるわけでもないらしく、葉留佳の足は軽やかで緩やかだった。
 そのおかげもあって追いつくのに苦労はなく、むしろ唐突に立ち止まった彼女の背中にぶつかりそうになったほどだった。
「葉留佳さん?」
 急激なブレーキに身体を硬直させながら、背中に声をかける。
 丁度校舎に入り廊下を曲がったところで、葉留佳はその先を見つめている様子だった。
「見〜つけたっ」
 それは小さく、けれど弾むような声。
 恐らく悪戯を思いついた子供というのはこういった声を出そうのだろうとクドは思う。
 何を見つけたのだろうかと横から覗き込むと見知った影があった。
「……佳奈多さん」
 葉留佳とよく似た容姿の友人が、そこで一人きり、立ち尽くしていたのだ。
「佳奈多さんを捜していたんですか?」
 クドはそう聞いたが、葉留佳は答えなかった。
 意図的に無視したのではなく、彼女の思考には届かなかったのだろう。
 不思議に思いつつも、見つけたからには挨拶せずにはいられないクドの性。
 葉留佳の横をすり抜け進もうとして、そこで足が止まった。
 廊下に佇む佳奈多は窓の外を見つめている。
 だがそこにクドリャフカの知る覇気はなかった。
 風紀委員長として日々活躍している佳奈多とは大きく違っていた。
 瞳の輝きは擦れ、寒気を覚えるような空虚さに苛まれる。
 彼女は何を思っているのだろうか。様々な問題を抱えている事はクドも知っている。
 知っていた事で、そして全ては過去形になったと思っていた。
 身体が自然と震え、投げかけるはずの挨拶の言葉は出てこなかった。
 それどころか、まるで見てはいけないもののように思え、自然と視線を逸らしてしまっていた。
「佳奈多さん……どうしたんでしょうか」
「さぁ? わかんないよ、そんなの」
 葉留佳の声は冷たかった。
 気になって顔を見ると、彼女は小さく微笑んでいた。
「全部はわかんない、だけど夜の臭いがしたんだ」
「佳奈多さんからですか?」
「全部が全部、上手くいくなんて事、ないんだと思うのですよ。一番大きな問題が解決されたからって、他の小さな問題がなくなるわけじゃないから」
 直ぐにはその意味を租借できず、やがて理解したとき、肩を落とした。
 乗り越えてしまった場所に、解決したものの欠片が燻っている。
 それは残像となってクドの瞳に映っていた。
 佳奈多と同じ瞳をしている事も気づかず、クドは思う。思おうとした。
 それを止めてくれたのは、葉留佳の手だった。
 頭を撫でるその手は暖かく、葉留佳はニカリと笑った。
 そしてどこからともなく、手のひら大の巾着を取り出してみせたのだった。
「じゃじゃ〜ん」
「そ、それはいったい……」
「ここに取り出したるは、謎のガラス製のボール、たくさん!」
 つまりはただのビー玉である。
 クドが止める暇もなく、葉留佳は巾着の口を引き裂かんばかりに広げると、中のビー玉を地面に転がした。
 味気のない色合いの廊下を、色とりどりの輝きがころころと散らばっていく。
 まるで夜空に浮かぶ星々のように綺麗だった。
 だがそれは、誰が見ても悪戯だった。
「きゃっ、ちょっとっ、やっぱり葉留佳なのっ!?」
 案の定、風紀委員長の怒声が響く。
 視線を向けると、そこにはクドのよく知る、そのままの佳奈多が居た。
 先ほどの姿はまるで錯覚だったのではないかと思うほどに、何時もどおりだった。
「あなた、またこんな事をしてっ」
「えへへ〜」
「笑って誤魔化そうとしないっ!」
 怒気を篭められた視線を受けても、葉留佳は揺るがない。
「クドリャフカも、見ていたんなら止めてちょうだい」
「あいむそ〜り〜なのです」
 むしろ傍にいて巻き込まれただけのクドの方が身を小さくした。
 子犬のような彼女の姿に、佳奈多も毒気を抜かれたらしい。
 深い溜息の後、優しく微笑んだ。
 それが何もクドだけに向けられたものではない事に気づいて、少女は少しだけ何かが分かったような気がした。 
「いいわ。さっさと拾いましょう」
「は〜い」
 元気よく葉留佳が答え、一歩踏み出した時だった。
「きゃうっ!」
 無数にばら撒かれたビー玉の一つが壁にぶつかり、二人の足元にまで返ってきていたのだろう。
 滑る球体を踏みつけた彼女の足は空回りし、蹴り上げるような見事な姿で後ろに倒れた。
「葉留佳っ!?」
 それを見た佳奈多が慌てた表情で駆け寄る。
 クドは今度も止める事が出来なかった。
 本気で心配したのだろう。
 完全に失念していたらしく、無造作に差し出された佳奈多の足がビー玉を踏んだ。
「きゃうっ!」
 姉妹揃って、まったく同じ悲鳴だった。
 転び方まで同じなのだから、最早ある種の運命さえ感じられるだろう。
「お二人とも、大丈夫ですかっ」
 盛大に尻餅をついた二人の身を案じつつも、クドはビー玉を踏まなかった。
 気をつけながらまずは葉留佳を、そして佳奈多を起こす。
 スカート越しにお尻をさする二人は、痛みのあまり目に涙の雫を浮かべていた。
 だが、やがてどちらからというわけでもなく、二人同時に息を吐いた。
「あはっ、あはははははっ」
 二人の声は完全に一つのもので、クドにも区別できないほどだった。
 二つの口からあふれ出す調和した笑い声は、それからしばらく続いた。
 クドは一人、葉留佳と佳奈多の笑顔を見つめていた。



「佳奈多さんが何か悲しそうにしていたから、元気付けたのですね」
「ん〜、どうだろうね〜」
 その後、三人で散らばったビー玉を拾い集めると、佳奈多は少しだけ説教した。
 葉留佳は嬉しそうな表情でそれを受け止め、佳奈多もまたかつてとは違い嫌悪を宿してはいなかった。
 子犬同士のじゃれ合いのようなその光景を、クドは嬉しく思う。
「でも、どうして分かったんです?」
「ん? だからはるちんレーダーが臭いを察知したのですよ」
「私はぜんぜん分かりませんでした」
「そりゃ、姉妹だからね。特別製なのですよ〜」
 葉留佳はからからと笑った。
 上機嫌なのは誰の目からも明らかだった。
 だが、クドは少しだけ考える。
 佳奈多の場合は葉留佳が居た。
 姉妹だからこそ伝わる「におい」があったのだろう。
 けれどもし、自分がその立場になった時、果たして誰が「夜の臭い」を感じてくれるだろうか。
 遠く微かなそれを、誰が気づいてくれるだろうか。
 そんな疑問は、小さな不安へと変化していく。
 怖い……寂しい……。
 だから「夜」なのかもしれない。
「あれ? 二人とも、そんなところで何してるの?」
 声が聞こえた。
「おやおや〜、理樹くんではありませんか。そっちこそどうしたの?」
「真人が新作プロテインドリンクを開発して……いったい何を混ぜたらあんなとんでもない臭いになるんだろう。嗅覚神経が死滅しそうだったから逃げてきたんだよ」
「それはそれは、ご愁傷様ですなぁ」
「葉留佳さん、他人事だからって楽しんでない?」
「そんなっ、まさかっ!」
「いや、顔、顔。笑ってるから」
「葉留佳さんは今、とってもご機嫌ですから。その所為でしょう」
 クド公ナイスフォロー、などと軽く自爆している葉留佳の声も遠い。
 それでも、彼の声だけはよく届いて、それが更に切なくする。
「クド、どうかしたの?」
「い、いえ。何でもないのです。べり〜ぐっどなのです!」
「とてもそうは見えないけど……って、そんな無理して笑顔を作らなくても良いよ」
 空元気は容易く見破られ、クドはますます切なくなる。
 彼女としてはそんな自分の姿は誰にも見せたくなかった。
 遠くを見つめていた佳奈多もそのように思っていたのだろう。
 そして自分には、葉留佳のような存在はいない。
「クド……」
 沈み込む彼女を引き上げたのは、温もりだった。
 理樹に抱きしめられたのだと気づいた時、クドの身体を満たすものがあった。
「何か心配事があるんだとしても、大丈夫だよ。僕らはリトルバスターズだから。どんな事からだって助けてみせる」
「……はい」
 暖かな日溜りの匂いがした。
 夜の臭いをかき消していくそれに包まれて、クドは一つ応え、それから僅かに涙した。
 そこにいる事が、嬉しかったからだった。


[No.736] 2008/11/28(Fri) 21:21:36
優しさの匂い (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 初@1516byte

冬の近づいたある日、野球の練習が終わり、二木さんとかえっていると、
「直枝…なんか汗くさいわよ?」二木さんは顔を近づけ、僕に言ってきた。
「野球していたんだから泥も土も汗もつくから汗くさくなるのは仕方がないよ。」
そう言ったものの僕の制服は泥や土がつき汚れていたし、汗もかいているからとても汗くさかった。
「直枝の部屋に洗濯機あるわよね?」
「あるけど…」
「なら、私が服を洗ってあげる」
二木さんはそういうと僕の腕を引っ張り、男子寮に行った。
僕の部屋で二木さんは、ブレザーを脱ぎエプロンを着けていた。
「汚れた服を早く脱いじゃいなさい。」
僕は制服を脱いで二木さんに渡した
「直枝はシャワーを浴びなさいよ。汗かいているんでしょ?」
二木さんはそういうと洗濯機を回し始めた。


シャワーの音が流れるように出てくる。スポーツをした後にシャワーで汗を流すと、とても清々しい気分になる。
「ふぅ…」
口から小さく息を吐き出すと今日あったことを思い出した。朝のこと、休み時間のこと、放課後のこと、今日も楽しいことばかりだった。明日も、明後日もずっとこの楽しい日々が続いてほしいと思った。



ゴロンゴロン…一定のリズムで洗濯機が回っている。
「直枝はまだあがってこないし…」
私は床に座り洗濯が終わるのと、直枝があがってくるのを待った。
「今日もなんだか…疲れたな…」


僕がお風呂場から出ると洗濯機はまだ回っていた。
その洗濯機の隣に二木さんが静かに寝息をして寝ていた。
「疲れたのかな…」
僕は、二木さんの体が冷えないように毛布をかけ隣に座ると眠気に誘われ目を閉じた。
起きた時には、二木さんの顔は少し赤くなってた。
乾燥機で乾かしてくれた服だったけど、二木さんの優しい匂いがした。
そして僕は、大切な彼女にこういう…


「二木さん、ありがとう」


[No.737] 2008/11/28(Fri) 22:01:45
匂いは生活をあらわす (No.720への返信 / 1階層) - ひみつです 14055byte

 本は大好きだ。
 なぜ?と聞かれたら、わたしの生活には常に本があったからだ。と答えるのだろう。
 また、貴方の幸せはなんですか?と聞かれたら、わたしは迷わずに『本』と答えてしまうのだろう。
 ゆえに、わたしは本を読む。



     匂いは生活をあらわす



 昼休み。本を読むのに最適な天気。
 やはりこの日もわたしは、中庭の木の下にいた。
 一年と半年。いや、もっとそれ以上長い期間ここに居るかもしれない気がしたが、記憶が定かではない。
 だが、これからもずっと、飽きもせずにここで本を読み続けるのだろう。
 たまにしか来ないけど、ここには様々なお客さんが来るのだから。

「あっ、みおち〜ん!やっほ〜!」
 早速来た、本日のお客さん第一号、三枝さん。
 お客さん自体が少し珍しいこの場所で彼女が現れるのも珍しかった。
「こんにちは。どうかしましたか?」
「適当にどんぶらっこ〜どんぶらっこ〜してて暇だったときにみおちんを発見したから、そんなこと言われてもこまりんじゃなくても困りますヨ」
 相も変わらず発言の内容はよくわからない。
 しかも、ちょうどわたしが本を読み始めようとしたところで現れるとは、いいタイミングなのか、空気読めないタイミングなのかが分からない。
「用がないなら――」
「みおちんっ、ちょっと待って!」
 突如彼女から発せられた言葉にちょっと待たざるを得なかった。
 わたしの台詞を遮ってまで言いたいこととはなんだろうか。
 …だけれども三枝さんのことだから、大したことでも無いような気がしなくもない。
「くんくん」
 三枝さんは突然、わたしの匂いを嗅ぎ始める。身体を密着させる勢いで近づいてきた三枝さんからは柑橘類の匂いが鼻につく。
 もしかして、あっち系に目覚め始めたとか?それか、前世は犬だったとか?
 様々な憶測がわたしの中を飛び交うが、そのどれもが見当違いで終わる。
 それに、声に出さなくてやらなくてもいいのでは、と思う。
「みおちんってなんか変な匂いがするよね」
「……いきなり、乙女の匂いを嗅いで変な匂いとは失礼ですね」
「いやまぁ、だってネ〜気になったんだもん……」
―ピピーーッ!!
 ご自分の匂いではないでしょうか、と口に出して喋ろうとした瞬間、脈絡もなく響いたホイッスル。おそらくは二木さんでしかないだろうけど。
 なぜか、その脈絡の無さが三枝さんに似てる気がしなくもない。
 そしてけたたましい音の目的は。
「三枝葉留佳ーッ!」
「うひゃ、やばっ!じゃっ、みおちんまたねー!」
 やっぱり、暇ではなかったと。大体の予想はついていたけれど。
 唐突に現れ、そして唐突に現れた二木さんから逃げる三枝さんに、なぜ匂いを嗅がれたかも分からずにわたしはほんの少し、呆然としてしまう。

 とにかく、気を取り直して本を読み進めようとしたが、それを邪魔するかの如く新たなお客さんが現れてしまう。
「わたしに本を読ませたくないのですか?」
 そんなことを呟いてみてもやって来た相手は……
「オンッ!」
「ヴァウッ!」
 ストレルカ、ヴェルカだった。その二匹はわたしに向かって猛然と走ってくるが、目の前でピタッと止まり、なぜかお座りの体勢をする。
「すとれるか〜……う゛ぇるか〜……」
 続いて現れたのは、どこからどう見ても息切れをしている能美さん。元気なこの二匹に走りまわされているのだろう。
 彼女はふらふらのへとへとのへなへなとなりながらも二匹の後ろでぺたんっ、と座り込んだ。
「わぁっ、ふぅっ、わぁっ、ふぅっ……あっ、西園さん…」
「こんにちは」
 朝に会ったばかりでも、今は昼。とりあえず、昼の挨拶をしておく。能美さんも返してくれるだろう。
「わぁっ、ふぅっ、こんにちは、なのです」
「大変そうですね」
「元気なのは、大変いいとっ、思うのですが、少し困りさんです……」
 わぁ、ふぅ言ってる、今の能美さんの姿は犬にしか見えない。
 ここにいる、本物の犬二匹に勝るとも劣らずの犬的な能美さんだ。
「そういえば、なぜわたしはストレルカとヴェルカに匂いを嗅がれているのでしょうか…?」
 そう、いつの間にか―――。
 なぜか、ストレルカとヴェルカに匂いを嗅がれている。
 さきほどの三枝さんといい、今日は人の匂いを嗅ぐ日なのか。そんな日はわたしの記憶の中にはなかったはずだが……。
「きっと、西園さんが、良い匂いなの、ですよ。わふー」
「…そうなのでしょうか」
「そうですよ。ふぅ、大分落ち着いてきました」
 自分で確かめてみても――分からないだろう。
「あっ、そうです、西園さん」
「なんですか?」
「三枝さんが、どこへ行ったのか見ませんでしたか?佳奈多さんから探して、と言われてるものなので」
 あ、なるほど。と瞬時にストレルカとヴェルカが、能美さんと一緒に居る理由を悟る。
 わたしのところへこの二匹がやってきたのも、三枝さんの匂いを辿ってのものなんだろう。
 だけど二木さんに追われて、三枝さんがここから逃げて行ったところまでの匂いは辿れないのだろうか、と疑問に思った。
 しかし、わたしは三枝さんが逃げて行った後は知らないから、知りません。とだけしか答えられなかった。
「そうですかー。ありがとうございます西園さん!では、ストレルカ、ヴェルカ。行くのですよ!」
「オンオン!」
「ヴァウヴァウ!」
 能美さんがそう宣言する前に、二匹はもう走り出していた。
「わふーっ!待ってくださいー!」
 彼女は、またストレルカとヴェルカに走りまわされるのだろう……。
 お疲れ様です。と、心の中で労いの言葉をかけてあげよう。

 ふぅ……。二連続でやってきたお客に少し、息を吐く暇もなかったなぁと思いながらも息を吐く。
 今日は、もうお客さんはいい。と思ったその時――。
「にゃー!」
 一匹の猫がダッシュをしてわたしの方へと向かって来る。
 その猫は、徐々に減速をしたかと思いきや、ジャンプをしてわたしが開いていた本へと器用に体を丸め、収まってしまった。
 猫の顔を見てみると、幸せそうな表情をして目を瞑っている。その顔があまりにも幸せそうで、わたしの顔も自然と和やかなものになってしまう。
「アクタガワ!」
 突然本へと収まった猫に続き、鈴さんがやってきた。その後ろにたくさんの猫を引き連れて。
 鈴さんはわたしに気付いたようで、素早く駆け寄って来る。後ろの猫たちもぞろぞろと、それに続く。
「みおじゃないか、ここで……本を読んでいたんだな」
「はい、見ての通りです。鈴さんは?」
「猫を探している」
 彼女はちょうど、わたしの本の上にいる猫を指差して。
「そうそう、こんな感じの猫で、名前はアクタガワだ」
「では鈴さん、この猫ではないでしょうか?」
 わたしも本の上にいる猫を示して。
「なにぃっ、そうだったのか!みお、ありがとう」
「いえ、別に…」
 未だに丸くなっている猫を鈴さんは、わたしの本からゆっくりと抱き上げる。
「こいつ、アクタガワはなぜか本の匂いが好きみたいなんだ。歩いてると、よく道端にある本に興味を示すんだ」
「そうなんですか、わたしと趣味がなんだか合いそうですね」
 名前からして……そうなんだろう、と思ってしまった。
「みお、こいつが迷惑かけたみたいだな。すまん」
「いえ……突然来たのでびっくりはしましたが、迷惑ではありませんでした。それより、少々和みましたね」
「そうか、それは良かった。みお、またあとでな」
 鈴さんはそのまま、猫を抱きかかえて来た道を引き返して行った。
 猫もぞろぞろと歩き出す。その光景を見ていると、なぜか不思議な気持ちになってくる。

 ゆっくりと消えて行く猫の行進を見届けながら、本の表紙を開く。
 さっきから、何回……この行為を繰り返しているのだろう。
 目次を見ることすら叶わなかったが、やっとそれが出来るようになった。しかし、目次の中の、ある二文字に目を通したら――。
「おうっ、西園じゃねーか」
「こんにちは」
 なんとなく予想通りというか……また、誰かが来るのだろうなと思っていた。
「筋肉の匂いがして来てみたが、ここには筋肉がなさそうだな…オレとしたことが無駄に筋肉を使っちまったぜ。ん?ちょっとまてよ、もしかして……」
 突っ込みどころ満載――とだけしか、言い切れない。
 筋肉の臭いとはどんなものだろうか………しかし、わたしから見たら、どう考えてもそれは美しくなかった。でも……恭介さんと直枝さんの――――いえ、今は止めて置こう。
 本の目次の欄でわたしの目に映った『筋肉』の二文字に反応したのだろうか。もし、仮にもそうだったら井ノ原さんの筋肉センサーは侮れない。
「西園…もしかして、おまえにも筋肉があるのか!?」
 なにを考えていたのかと思えば、わたしには到底理解が出来ない発言が突然飛び出た。
「残念ですが、わたしにはそんなものはありません」
「そうか、それは残念だ。でもなんかおかしいぜ、確かにここから筋肉の匂いがしたんだが……
 ま、考えてたって仕方がねえ。西園よ、鈴を見なかったか?理樹の奴が探してるらしいが、見つからねえんだよなぁ」
 まるで、筋肉探知機そのものの彼は、文字にも反応してしまうのか。全く、不思議なものだった。
「鈴さんなら先ほどこちらに来られましたが、すぐに戻って行かれました」
「そうか、ありがとな」
 井ノ原さんはわたしの言葉を聞いてすぐ歩き出しましたが、なにかを忘れたかのようにくるっとわたしの方へ、また向き直った。
「っとと、鈴はどこに戻ったんだ?」
 そうだった、一番重要なことを言い忘れていた。だが、鈴さんがどこへと向かったのかが、わたしには分からない。
 でも……おそらくは、猫が集まる場所みたいなのがあるのだろう。
「猫の集会場……でいいのでしょうか、きっとそこに居ると思います」
「おっ、なるほど、あそこのことか。サンキュ、西園」
 そう言い残した井ノ原さんは、思い当たる場所があるのか、そこへと向かって行った。

「む……筋肉の匂いがしたから真人がいるかと思ったが、西園だったか」
 はぁ……。なぜか二つ目のため息が出てしまった。幸せが少し逃げてったんだろうなと、関係のないことも考える。
「宮沢さんですか。こんにちは」
 それにしても、宮沢さんまでも井ノ原さんのような筋肉探知機を持っているのだろうか……。
 隠された潜在能力がどんどん、開花していく時期なのか。謎が深まるばかりのリトルバスターズだな、と思ってしまう。
「真人にバトルを挑もうと思ったんだがな……そうだな、ちょうどいい。西園、アイテムが無駄に余ってるんだ、貰ってくれないか?」
「なにが貰えますか?」
「俺手製のリトルバスターズジャンパーだ」
 じゃじゃーん!と、そんな効果音が似合いそうな勢いで懐から取り出した。
 現在、宮沢さんが着けているジャンパーは一時も手放す気は無く、取り出された物は新たに作られた物なのだろう。
 ついに、リトルバスターズジャンパーの普及活動を始めようとしているのか。
「…わたしは遠慮しておきます。他の方へお譲りしたらどうでしょうか?例えば、井ノ原さんにこれを着ければ筋肉を鍛えられるぞ、とか言ってですね…。または神北さんにはこれで幸せになれるぞ、とか……」
「そうか、その手があったな!ナイスだ西園。それじゃ、俺は真人を探してくる」
 これでどうにかジャンパーの魔の手からは逃れられたようだが、これから先、どうなるか分からない。気が付いたら洗脳されてジャンパーを着けていたり……。
 しかし、わたしはあんな事言ったが、せめて悪徳商法まがいのことにはなりかねないように祈ろう。
 ついでに井ノ原さんの居場所を宮沢さんに、教えようと思ったが姿はすぐに見えなくなってしまった。
 それでも、己が持っている筋肉探知機で井ノ原さんを探し当てるのだろう。
 
「あっ、みおちゃ〜ん!」
 入れ替わりに神北さんがやってきた。
 ただでさえ珍しかったお客さんは、今日を境に珍しくはなくなるかもしれない、と続けざまにたくさんやってくる客人を見てそう思う。
 これでは、本を読む暇さえなくなる恐れがある。どうしたものか……と考えるが、わたしがここへ来ることは止めないだろう。
「こんにちは」
「こんにちは〜」
 見れば彼女の手には袋がある。それには、とてもお菓子が入っている物には見えない……。
 中を見たら思わず息を呑んでしまう様な光景が広がっているのだろう。想像は出来そうだが、したくはない。
 そんなことを考えながらも、神北さんの顔を見たらなぜかその笑顔が怖いものに思えた。
「みおちゃんどうしたの?」
 自分の顔を見られて無言になったわたしに疑問を投げ掛ける。本当のことを言ったら、この人はショックを受けてしまいかねないので、適当に誤魔化しを入れよう。
「なんとなく太りやすそうな顔だな、と思いました」
「ほぇえぇええーーーっ!?」
 むしろこちらの方がショックを受けてしまったのかな、と思った。本を読めないストレスのせいで少し思考が鈍っている、と考えることにする。
 いつもの神北さんのニコニコした顔はどうしたものか。思いっきり――!ではないが、崩れている。
 わたしには少し、罪悪感が残る。それを残さないためにも彼女の好きな物で話題を作ることにしよう。 
「その袋の中は幸せがあるのですか?」
「うん、そうだよ〜。なんかいいね、その言い方」
 見る見るうちに、神北さんは表情を取り戻した。能美さんと同じく、とても分かりやすい人だと改めて感じる。
「えーと、じゃあ……みおちゃんは、幸せを読んでるのかな?」
 わたしが言った事をそのまま返してくる。対象を本に変えて。
「はい、そうです。ですが、今は読めてません」
「私が邪魔しちゃってるからかな…?」
「いえ、別に。気分で読んでないだけですから」
「そっかぁ。あっ、そうだ」
 そう言いながら片手に持っていたはちきれんほどに膨れている袋の口を広げる。ほんのり、軽く甘い匂いがこのあたりに広がった。
「みおちゃんにお菓子あげるね」
 取り出したのはひとつの箱。口ッ〒とか朋冶とか、ダリ匚とか林泳あたりのお菓子がたくさんあるのだろうか。
 神北さんは、幸せをわけて、私も幸せ。と言いたそうな目をしている。どこまでも、幸せが好きな人だった。
 その幸せを無駄にはしないためにも、それを快く受け取る。
「ありがとうございます」
「じゃあねー、みおちゃん。またくるね」
 わたしが受け取るのを確認すると、神北さんは手を振りながら遠ざかっていった。
 自分の手に持ったお菓子を見ていつ頃食べようかな、と思ったが、野球の練習を見ながらでも食べようと思った。

 珍しくもなくなった次にやってくるお客さんは、一体誰なのかを予想をしてみる。予想をするだけで、答えは知らない。
 もう、本は閉じておこう。もうすぐ昼休みが終わってしまうから。
 今日の昼休みは10文字程度しか、読むことが出来なかったなぁ…と考えていたら、ただでさえ木陰で少し暗かった場所が、さらに暗くなった。それも急に。
 空の光が雲に覆われたのかと考えていると、それは空から降ってきた。
「西園女史か、ここでなにをしている?」
「来ヶ谷さんですか。相変わらず人を驚かすのが好きなんですね。それに、わざわざ身体をそんなに近づけてまで言うことでしょうか」
 ああ、突如現れた来ヶ谷さんには言いたいことが今、考えただけでもたくさんある。しかし全部は言い切れない。
 なぜわたしの視界を覆い隠すようにして現れたのか。やはり、びっくりさせてみたいだけなんだろう。
「君はあまり驚いてるように見えなかったがな」
「いえ……驚きました」
「ふむ、そうか。突然だが、“だがしかし”と言うと一見すると、お菓子のことを言ってるように思えないか?」
 ほんとに、突然すぎるだと思った。
「そうですね、それがなにか?」
「今度小毬君の前でこれを言ってみようと思う」
 はぁ……。相変わらず神北さんで遊ぶのが好きな人だった。

――その時、不意に学校の鐘の音が聞こえた。
 わたしが立ち上がろうとすると、なぜか来ヶ谷さんは笑い出した。携帯を取り出して。
「ハッハッハ、君は見事に騙されたな」
 来ヶ谷さんの罠だった。くそっ、やられたっ!と悔しさは募ったものの、それはすぐに消え去る。
 本当に今の音は、学校から鳴ったものだと感じてしまった。それにしても、どんな方法で録音したのか。また、作ったのか、少しだけ気になる。
「内緒だ」
 ………思考を読み取られていた。
「まあいい。もうすぐで本当の予鈴が鳴る。そろそろ戻ったほうがいいと思うぞ」
「分かってます」
 来ヶ谷さんはそれだけを言って校舎内へと足を進めるかと思ったが、わたしの元へと戻ってきた。
「ひとつ言い忘れていた」
「なんですか?」
「君は本の匂いがする」
 ………来ヶ谷さんの口から出た事はそれだけで、少し拍子抜けをしてしまう。当の彼女はというと、すでに校舎内へと入っていた。
 そういえば、直接そんなことを言われたのは、今の来ヶ谷さんで初めてな気がする。

 しかし、そんなことを言われてもわたしは本を購入することを止められない。
 本が大好きだから。
 ゆえに、わたしは本を読み続ける。


[No.738] 2008/11/28(Fri) 23:26:14
初雪 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ 15326 byte

 大学の校門から人が歩き去る。皆が寒そうに肩をすくめ、早足で歩き去る中、俺は一人、漠然と立っていた。
 午後の講義は予定より早く終わり、時間が空いた。何かをするには短く、何もしないには長い……中途半端な時間。
 上空に真冬並の寒気がから始まる型どおりの天気予報は見事に当たり、今日は酷く冷え込んでいる。
 空は暗く、時折、鋭い風が吹き付ける。木々はとっくに丸裸で、木の葉が舞い飛ぶ事もなく、ただ寒い。身体だけでなく、心まで冷えてくる、そんな景色。
 諦めて視線を戻せば、疲れ切った通勤客を乗せたバスが目の前を走り去っていった。それに乗り込む学生達も、皆一様に暗い。俺も黙って肩をすくめる。
 足下が冷える、剣道をやめてから身体がなまったか? まぁ、いい、どうせ今の俺には必要のないものだ。

 その時、何もかもが冷え切った、くすんだ景色の中で、俺はあるものを見つけた。
 灰色の空から舞い降りる、真っ白な雪。
 儚く消える、新雪。
 
 歩き去る人々はそんな事には気付かない、気付いても気にとめる事もないだろう、せいぜい空を見上げる程度。誰もが黙って家路を急いでいる。
 その程度の出来事。
 だが、それは、俺にとっては忘れられない、忘れてはならない記憶の象徴だった。
 手を伸ばす、だが、それは手のひらに冷たい感触を残すだけで消えてしまう。透明な残骸が、そこに残っていた。
 雪は次々と舞い落ちる、地面に落ちて、一瞬の後には消えてしまうのに、それ以外の選択肢がないかのように。

 雪は、少しずつ数を増す、行き交う学生も気づき始めた。
 見上げて、顔をほころばせる者もいれば、忌々しそうに舌打ちする者もいた。明日は積もっているだろうか? 全てが、白く覆われるだろうか? 
 いくつかの思考がよぎり、そして彼女の言葉を思い出した。

「宮沢さん、雪の匂いというのはご存じですか?」

 空を見上げる。雪は、静かに降り続けていた。
 
 











 

 その日は、朝から寒かった。
 数日前までの陽気はどこかに消え去り、寂しく揺れる木々が、次々と木の葉を失っている。天気予報は雪。
 今でこそ雪は降っていないが、時間の問題だろう。空は真っ暗だ。
 HRも終わり、部活動は『交通機関の乱れが予想される為』全て中止、寮生を含め、生徒には早く帰るように指示が出された。無論、そんな事を言われずともほとんどの生徒は帰る。
 積極的に外に出て行ったのは、寒風に戦いを挑むと言って消えた筋肉馬鹿位なものだった。無論、付き合うつもりはない、俺にはもっと重要な約束があるのだ。
 俺は空き教室に向かっていた。放課後、もし時間があるのなら来て欲しいと、古式に言われていたからだ。おそらく例の悩みの件だろう。
 それにしても、彼女の方から誘うのは珍しい、何故こんな日にと思ったが、断る理由などなかった。弓を失って以来、自分から行動する事などほとんどなかった古式が、相談とはいえ自分から俺を呼んだのだ。
 足早に目的地に向かう俺を、剣道の試合に臨む時に似た高揚感が包んでいた。
 間抜けな話だが、あの時の俺は、それは、自分が手助けした少女が立ち直りつつある事に対するものだと思っていた。
 


 引き戸の前に立つ、中から古式の気配を感じた。戸に伸ばした手を慌てて引き、息を整える。

「早いな」

 俺はそう呟きつつ、頬に手を伸ばした。
 古式に不安感を与えてはならない、しっかり頼れるよう、毅然と、それでいて緊張させないように親しみやすい表情を。
 普段だったら絶対しないであろう行動は、気落ちした少女を万が一にも傷つけない為と己に弁明する。なぜ自分にそんな事を言わなければならないのか、そんな事は考えもしなかった。
 心なしかほころんでいたであろう顔を引き締め、そして少し戻す。2、3度試行錯誤を繰り返し、扉を叩こうとするが……面接でもあるまいし、と思い直した。

「古式、入るぞ」
「はい、どうぞ宮沢さん」
 短い会話を交わし、教室に入る。何もない、空虚なだけのその場所で、古式は一人佇んでいた。 



「……こんな日にお呼びたてして申し訳ありません」
「いや、この雪ではどうせ帰ってもやる事がない。古式がいいのならば、いくらでも付き合おう」
 ほとんど予測していた通りの挨拶に、俺も予定していた通りの答えを返し、彼女の隣に進む。友人と呼ぶにはやや遠い距離、だが、それでも古式の側に行くと不思議と暖かい。
 俺が定位置につくと、彼女は遠慮がちにこちらを見た。色白なその顔が、なぜかいつもよりもさらに白く見え、一瞬驚いた。

 だが、古式は話さない。彼女にしては珍しく、視線が落ち着かず、さまよっている。何故か、俺の方まで落ち着かなくなってくる。いかん、なんとかせねば。
 彼女の支えになるはずの俺がこれではどうにもならん、彼女があのように落ち着かないのは、何か重大な相談があるのかもしれない。よし、話そう、何か、天気の話題でも、何でも……

「「あ……」」
 声が被った、古式の顔が真っ赤になる。まずい。

「「う……」」
 再び被る、窓が揺れる、遠くで誰かの声が聞こえる。

「「ん……」」
 三度目、気まずい沈黙、見事なまでに呼吸があってしまった。いっそ二人でフィギアスケートでもやったらどうかと思考が飛ぶが、今はそんな事を考えている暇などない。
 どうする、この場をどう収める?
 視線をさまよわせ、ヒントを探す……馬鹿か俺は、そんな事で何かが見つかるか! くそ! 
 自分に悪態をつきながら、しかし視線は何かを探す、時計、窓、古式、可愛い……違う、いや、違わない、そうじゃない、論点がずれている、何を考えている!
 何か、何か話題だ、落ち着け宮沢謙吾、話題を探せ。空、木、雲、筋肉……何?

「……あの馬鹿何をやっている?」
 思わず言ってしまった、視線の先では、真人が空に向かって筋肉を誇っている。そうとしか言いようがない……なんだあの不気味な動きは? これだからあの馬鹿は……

「……あの」
「あ」
 隣から遠慮がちに聞こえてきた声に、思わず間抜けな声を返す。あの馬鹿のせいで、完全に現状が頭から離れていた。あまりに迂闊な自分の行動に呆れ、そして現状を再認識し、自己嫌悪のあまり膝をつきそうになった。あの馬鹿、今夜正々堂々闇討ちにしてやる。
 間抜けに口を開いた俺の視線の先には、上目遣いでこちらを見る古式の姿。
 何か言いたそうで言えないその口が、もごもごと動く……ああ、古式、遠慮するな、存分に言え、罵れ、俺は愚かだ。
 そして、立ちすくむ負け犬に、彼女は口を開いた。

「……あの、もしかして、風を叩き落とそうとしているのではないでしょうか?」
「……何?」
 真面目そうに言った古式の視線の先には、何やら空を殴りつけるような動きの筋肉、ああそうか、確かに……言われてみればそう見える。
 耳を澄ませば「雪だろうが風だろうが! オレの筋肉を破れるものなら破ってみろ!!」などと、全く理解不能な発言が聞こえてくる。

「そうだな、ああ、全く馬鹿だ」
 そう答え、顔を見合わせて、俺たちは笑った。緊張はすっかり消えていた。あいつに助けられた形になったのは少々悔しいが……まあいい。
 ふっ、あの馬鹿には今夜コーヒーでも差し入れてやるとするか。
 
 俺がそんな事を考えていた時、外を見ていた古式が、何故か、少し緊張したように表情を変えた。何か見えたのか? 俺が、そう声をかけようとした時だった。
 彼女が言った。

「宮沢さん、雪の匂いというのはご存じですか?」



 唐突な問いかけに、俺は思わず呆けた。教室からは再び声が消え、古式の浅い呼吸の音だけが響く。
 訳の分からない発言には、周りが周りだけにすっかり慣れてしまっていたが、そこから一番遠い位置にいるはずの彼女がこんな事を……?
 一瞬戸惑ったが、俺は、すぐに気を落ち着けた。
 古式らしくない質問だが、考えてみれば、それは彼女が変わりつつある証なのかもしれない。それはきっと……いや、間違いなく喜ぶべき事だ。
 それに見ろ、上気して、緊張した彼女の顔を……彼女も、きっと慣れない事に緊張しているんだ。この緊張を解きほぐし、普段からこんな他愛もない会話をできるように、その為に俺は頑張っているんだろう?

「雪の匂い?」
 問い返した、古式の表情が緩んだ。
 今まで彼女は、悩みを語り、全てを諦めた事を語り、そして、そういった事ばかりを話した事を謝る。その繰り返しだった。
 だから、問い返す俺は、きっと笑顔だったろう。彼女が、こんな事を話してくれるようになったのだから。
 そんな俺に、古式は少しだけ懐かしそうに答えてくれた。

「ええ、雪の匂い。世界を真っ白に染めてしまって、どんな匂いも消してしまった雪の、鋭い匂い。嗅いだ事はありませんか? 顔が引っ張られているみたいで、身体中が冷たくなって……何もかもなくしてしまったような中に、つんとやってくる匂い。私は、あの匂いが好きだったんです」
 古式はそう言って空を見る。空からは雪が舞い降りていた、真っ白な雪が、今日ばかりは美しく見える。

「そうか、そういえばそんな気はするな」
 しばらくして、声にしてから思う。素っ気なさ過ぎたろうか? 突き放すような言葉を投げかけてしまったろうか? 自分の口下手が悔しい。
 深く雪が降り積もった時、その匂いを感じようなどとは思っていなかった。雪は、己の心身を鍛える為に使う程度の存在で、それ以上の何かを感じようとはしていなかった。
 だが、古式はその中で何かを感じていたんだろうか?

「ふふ、そうですね。雪の匂いっていうのは変な表現ですよね。いえ、いいんです、自分でもおかしいな、と思っていますし」
 俺が言いかけた言葉を遮って、古式は言う。どことなく懐かしそうに、楽しそうに。
 そこでふと気付いた、古式が笑ったのは……本当に久しぶりだ。今日の彼女は、何かいつもとどこか違っていた。
 
「私は友だちがいませんでしたから、部活を終えた後、雪道をよく一人で帰っていたんです。真っ白な世界の、音さえも聞こえない通学路、いつも通っている道が、その時だけ別な場所みたいで、私は立ち止まるんです。そこでふっと息を吸い込むと、不思議な感覚がして、それを雪の匂いと言っていたんですよ」
 そこで、古式の声は少し低くなった。
 共に武道に生き、厳しい家に生まれた彼女と俺。だが、俺には友がいて、彼女にはいなかった。だから、俺は、昔の俺を見ているようで、彼女を放っておけなかった。
 彼女を見た時から何か気になっていたのは、きっと、そうなのだろう。
 だが、そんな俺の思考になど気付かず、古式は言葉を続ける。今日の彼女は饒舌だった、まるで緊張を払い落とそうかとしているかのように、話し続ける。

「でも、あの匂いを感じると、私は、まるで自分が自分ではないみたいで、普段ならできそうもない事、やろうともしない事をしたくなるんです。例えば、雪の中でくるくる回ってみたり、雪山に思いっきり飛び込んでみたり」
 俺は、この真面目そうな彼女が、誰もいない雪の中で楽しそうに舞い踊る姿を想像して、思わず微笑んだ。彼女が慌てたように口を押さえる。
 余計な事を言ったと思ったのだろうか? 古式は一度話をやめ、うつむいた。恥じらう仕草に、思わず心を奪われる。



 古式の声が消え、教室に音はなかった。
 窓の外では本格的に雪が降り始めていて、その中を生徒達が足早に帰っていく。あの馬鹿の姿もどこかに消えた。
 暖かなこの場所は、外とは全く世界にあるようで、古式と俺が二人だけ取り残されている気がして、怖かった。
 もしここから俺がいなくなれば、古式は一人になってしまう……そんな気がして、怖かった。



 その時、古式が一歩、二歩と歩き、窓に近づく。
 思わず手を伸ばしたその先で、彼女は窓を開け、振り返り、言った。

「ここから見える場所が真っ白になって、何もかもが雪に埋もれて、雪の白さと、冷たさと、匂いだけの世界になったら……その中で、何もかもを忘れて、大切な人と一緒に思いっきりはしゃぐ事ができたなら、悩みなんか捨て去る事ができるんでしょうか?」

 窓からは雪が舞い込み、寒風が肌を刺す。古式の髪が揺れ、止められていなかったカーテンがはためく。
 そこに立つ彼女の姿は儚く、だが、こちらを見る瞳は真っすぐだった。

 ……彼女は、俺にどんな答えを望んでいるんだろう?

 一瞬、そんな思考が脳裏をよぎった。そして、俺は彼女に歩み寄り……



「古式はロマンチストだな」
 彼女は、拍子抜けしたかのような表情で、こちらを見る。俺は黙って視線をそらすと、古式の肩を抱き寄せた。
 寒いだろうという言葉は飲み込んだ、彼女に嘘をつくのは憚られた。だが、かといって古式が消えてしまいそうで怖くなったとも言えない、いくらなんでも突拍子がなさすぎる。
 だが、彼女はなんの抵抗もなく俺に寄り添う。長い髪が手にかかり、彼女の身体は思った以上に細かった。まるで、手放したら消えてしまうかのように……


 
 俺たちは身を寄せ合ったまま、一瞬の時間を過ごす。古式の鼓動がこちらに伝わり、俺の鼓動も彼女に伝わっているのだろう。
 なぜだろう? とても幸せに感じていた。



「宮沢さんもたいがいですよ?」
 しばらくすると、俺の肩に顔を寄せ、楽しそうに古式は言う、こんな軽口をたたく彼女は本当に珍しい。ふざけたようなその顔に見とれ、そして、その口元に紅が差してあるのに気付く。
 だが、彼女はそんな俺の視線に気付いてか気づかずか、身体を押しつけてきた。自分で始めたことだというのに、思わず焦る。
 鈴とは違う、落ち着いた女性の匂いがやってくる。古式の体温と、鼓動が今まで以上に強く、俺に届く。それに、腕に、彼女の……
 いかん、落ち着け、古式をそういう対象として見るんじゃない。俺は、彼女を助ける為に話しかけているんだ、下卑た感情の対象にするんじゃない。
 所詮は俺も男か……気合いが足りない事を痛感しつつも、必死にあらぬ想像を押さえ込む。
 
「ロマンチック大統領でしたっけ? 本当、その通りですね」
 だが、その葛藤は思いもかけない古式の言葉に吹き飛ばされた。
 あまりに意外な言葉を、あまりに意外な人物から聞いたせいで、さっきまで無闇に高速回転を続けていた頭は一瞬で停止し、呆然とその相手を見る。
 すぐ側に彼女の顔があった。まるで、この瞬間を予測していたかのように、俺の間合いに入り込んでいた。
 間髪を入れず、次の言葉が来る。

「でも、私はそんな宮沢さんが……好きですよ?」
 真っ直ぐな瞳がこちらを見ていた、頭に血が上ったのがわかった、唐突な言葉が、俺の動きを止めていた。
 時間も止まる、古式は、何も言わずに俺を見る。普段は透き通るような彼女の頬が、今はとても赤かった。
 反射的に俺もだと答えそうになる自分を、必死に押さえる。何故か、素直になれない自分がいた。
 そうだ、古式の言葉は、恋を伝えるものではない、あくまで信頼を伝えるもの、仮にそうでなかったとしても……彼女の気持ちは、きっと弓道を手放した代わりを求めているだけだ。
 そんな気持ちにつけこむ事などできない。

「それは嬉しいな、これからも、色々なものを好きになってくれ」
 視線を古式からそらせながら、俺は答え、そして息を呑むような声がした。落胆したかのような、吐息。
 時間が過ぎる、長い長い一瞬。



「そうですね、見つけていけるのなら。でも、私の勇気はもう……」
 どこか遠くで、階段を駆け下りる音が聞こえた。
 そして、その音に紛れ込むように、静かに、呟くように古式は言った。その声は、とても弱かった。

「見つかるさ、その為に、俺に出来ることは何でもしよう」
 我ながら酷い事を言っていると思う、なんて情けない男だと思う、何も出来やしないのに、何でもしようなどとは無責任にもほどがある。真人や、理樹や、恭介が、俺のこんな心を読んだとしたら、どれほど軽蔑されることか。
 結局の所、俺は逃げたのか?
 




 

「古式は、雪が好きなのか?」
 空を見ながら、もう一度尋ねた。
 雪は絶えることなく降り続き、地面に消えていく。これほどの雪が、一体どこに消えてしまうのか……迷うことなく舞い降りた雪は、一つ残らず消えてしまう。
 不思議とそれが悲しかった。

「……雪は邪魔です、邪魔でした。弓がひけなくなりますから。でも、何もかもが雪に覆われた世界は、まるで、私が私ではないかのようで、何か違う事が出来る気がしたんです」
 しばらくして聞こえた声は、過去を伝えていた。同じ事を言っていても、そこに生気はなかった。諦めたような言葉が、空き教室に響いていた。
 そして、彼女は最後に言った。

「……でも、結局、雪に覆われた世界は、雪の中に立っていた私は、幻だったんですね」

 それは、過去しか伝えない古式の声、俺が一番嫌いな声だった。



 










「……雪の匂い、か」
 俺はそう言って空を見上げた。
 まだ夕方だというのに空は暗く、その中を次々と雪が舞い落ちる。いつか彼女と話した時と同じような、今年の初雪。

 雪は降り続く、真っ直ぐ、迷う事なく。逃れられぬ運命に、逆らうことなく。たった一つの運命のレールの上を、淡々と走る。
 
 あの時、俺は間違いなく彼女の事が好きだった。
 馬鹿げたプライドか、何か……それが邪魔をして、結局彼女の想いに応えられなかった。その過ちは、取り返す事は出来ない。

 白い雪は絶えない。
 一度空から落ちれば、ただただ地面を目指すだけ、そこから逃れる事はできない。





 ……だが





「謙吾君、お待たせしてしまいましたか? こちらは、講義が長引いてしまって……」
 聞き慣れた声に振り返る。

「いや、雪を眺めていたんだ。あの時の事を思い出して……な」
 俺の声に、目の前の少女は、恥ずかしそうに口を尖らせる。

「忘れて下さい。さもなくば、あなたが、あの事故の後、包帯だらけの格好で私に言った言葉を思い出しますよ?」
 ふざけたように言う彼女の顔は、とても可愛い。だから俺は言った。



「何度でも言ってやるさ、お前の事が好きだ。みゆき」







 あの時と同じ雪の中を、彼女と共に歩く。

 二人寄り添い、家へと向かう。ここはとても暖かい。

 雪は、一度出来てしまえば決まり切った未来へと向かうだけだ。

 だが、俺たちは、その未来を変える事が出来る。
 
 たくさんの可能性の中から、自分に一番都合のいいものを掴み取り、ご都合主義の未来を作る事ができる。

 あの事故で、あんな馬鹿げた未来を掴み取ったんだ。誰もが諦めた未来を手に入れたんだ。

 そう、諦めさえしなければ、自分の真っ直ぐな気持ちを、偽ることなく信じ抜けば。



 ……だから



 こんな幸せな結末があったって、いいだろう?


[No.739] 2008/11/28(Fri) 23:54:39
[削除] (No.720への返信 / 1階層) -

この記事は投稿者により削除されました

[No.740] 2008/11/29(Sat) 00:01:19
さいぐさはるかのあるいちにち (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@3436byte

 狭いアパートの一室を、ビーフシチューのにおいが漂う。私の夕食、もとい、私、と、お姉ちゃん、理樹くんの『夕食』、おいしく出来たみたいだ。味見をしてみると、やはりおいしい。肉やじゃがいもにしっかりと味がしみこんできたことがわかる。ここに来てから、お姉ちゃんの尽力のかいあって、料理の腕があがったおかげで大分鼻が利くようになったみたいで、においで料理の出来がわかるようになってきた。
 そのことをうれしく思いながら、時計をみると、午後五時だった。二人が『バイト』から帰ってくる時間は午後七時くらい。でも、水曜は『忙しい』から、ひょっとしたら帰ってくるのはさらに遅れるかもしれない。せっかくだから、帰ってくるまで煮込んでみようか。
 でも、早くお姉ちゃんと理樹くん、帰ってこないかなぁ。
 コトコトと、小気味良い鍋の音を聞きながら、そんなことを考えた。



 ”さいぐさはるかのあるいちにち”




 私とお姉ちゃん、そして理樹くんが駆け落ちしてから三ヶ月がたっていた。私たち三人は、三人がお互い別の場所でアルバイトしながら生活していた。別の場所でアルバイトしはじめたのは、お姉ちゃんが、一緒の場所で働いた場合、三人がまとめて休みをとるのが難しい、そう判断したからだった。働いてみて、改めて、その判断は正しかったと思う。
 今日はお姉ちゃんと理樹くんがバイトの日だから、私は家事をやっていた。
「今日は、いつ帰ってくるでしょうかネ」
 部屋の中でひとりごちた。時計を見ると、午後六時。二人が予定通りだったら帰ってくるまであと一時間くらい。ビーフシチューが焦げていないか、注意しながら、今日は、二人とも時間通り、出来れば、なにごともなく、帰ってきてくれるといいな、と思う。でも、お姉ちゃんは頼まれたら断られないだろうし、理樹くんはああ見えて体力あるし、難しいかもしれない。でもその反面、毎週毎週、そんなことはないとも思う。
 私はふと、二ヶ月前のことを思い出した。
 二ヶ月前の火曜日、私が始めてバイトの時間が延びた次の日、理樹くんとお姉ちゃんが遅く帰ってきたときのこと。「いや〜、バイトって思っていたより大変ですネ」そういう私に、二人は苦笑いで答えたっけ。
 もう、結構前なんだな、そんなことをふと思った。

 コトコトコトコト

 鍋から小気味よい音が相変わらず聞こえていた。鍋からは相変わらず、おいしそうなにおいが漂っていた。
 三人で食べるのが本当に、楽しみだった。


『葉留佳、料理、ずいぶん、うまくなったわね』
『葉留佳さん、このビーフシチュー、おいしいよ』
 そういって、笑顔でほめてくれる二人に、私は抱きついて、『こら、食事中よ』なんて、お姉ちゃんに笑顔でたしなめられる。


 そんな光景を、私は思い浮かべて、私は望んで、笑みが、こぼれた。














 午後七時になって、まず理樹くんが帰ってきた。
「理樹くん、お帰り」
「ただいま、葉留佳さん、佳奈多さんはまだ帰ってきてないの?」
 白々しく、そんなことをたずねた理樹くんにまだ帰ってないことを告げると、理樹くんは「そう」といった。
「理樹く〜ん」
「わ、わ、葉留佳さんいきなりだきつかないで」
 あわてる理樹くんにかまわず、私は理樹くんにだきついた。
 そして首筋から漂ってくる――お姉ちゃんの、におい。
 間違いなく、お姉ちゃんの、におい――。
 そんなことを考えると、今度はお姉ちゃんが帰ってきた。
「お姉ちゃんに、今度はだきつき♪」
「わ、葉留佳、いきなりやめなさい」
 笑顔でそんなことをいうお姉ちゃんにかまわず、抱きついた。そしてやっぱり首筋からただよってくる、理樹くんの、におい。二人とも

首筋が好き、みたいだ。……今日は、二人でどこのホテルにいったのだろう。
「二人とも、『バイト』お疲れ様」
 そういうと、二人とも笑顔で「ありがとう」といった。苦笑いじゃなく、自然な笑顔で。


 三人で夕食を食べる。
「葉留佳、料理、ずいぶん、うまくなったわね」
「葉留佳さん、このビーフシチュー、おいしいよ」
 笑顔で望んだことをいってくれた二人に、私は笑顔で「ありがとう、理樹くん、お姉ちゃん」とだけ答えた。


[No.741] 2008/11/29(Sat) 00:01:52
[削除] (No.720への返信 / 1階層) -

この記事は投稿者により削除されました

[No.742] 2008/11/29(Sat) 00:07:24
ひとりきり (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@20472 byte

「うう、疲れましたヨ」
 立ち仕事で両足は棒のようだし肩も凝っている。
 これはもうマッサージしてもうしかないですネ。
 私はコキコキと首を鳴らしながらアパートの部屋のノブを回した。
「ありゃ、まだ帰ってきてないんだ」
 残念。中でゆっくり待つとしますか。
 私は鍵を取り出し開けると、そのままフラフラと中に入る。
「ありゃりゃ、布団がしっかり片付いている」
 敷きっぱなしならそのままダイブしようかと思ったのに。
 残念ですネ。……ん、あれは。
「きゅぴーん」
 いやいや、何もないと思ったら枕が出てるじゃないですか。
 あれはまさしく理樹君の枕。
「これはもう抱きつけって言ってるようなもんだよネ」
 うん、そうだ。そうに決まってる。私が決めた。
 とりあえず持っていた鞄を放り投げ上着を脱ぐ。
「理樹君の枕……」
 ぎゅっと抱き寄せ、その感触を楽しむ。
 理樹君には何度も私の枕と交換して欲しいとお願いしてるけど全然代えてくれないのだ。
 こんなに幸せになれるアイテムなのに。
「はふぅ〜、幸せですネ……」
 抱きついたままコテンと転がる。
 そのまま枕に顔を埋め思いっきり吸い込んでみた。
「んー、理樹君の匂い〜」
 シャツの匂いとかも好きだけど、やっぱ枕の匂いの方が私は好きかも。
 むむむ、やっぱり本格的に交渉してみようかな。
「はぁー、理樹君」
 ここにいないあの人の名前を呟く。
 それだけで気持ちが満たされれていく。
「やはは、だいぶやられてますネ……」
 前から思っていたが、最早末期だ。
 きっと彼に嫌われた時点で私は生きていけないだろう。
「だからはるちんは理樹君にだけは嫌われないようにするのだ」
 ごろごろと畳を転がりながら呟く。
 ぎゅっと腕に力を入れ身体を擦り付ける。
「う〜、理樹君まだかな〜」
 そんな遅くなるって聞いてないんだけどな。
「こっちは働いてるってのにいいご身分だ。はるちんはお怒りだぞー」
 彼への不平不満を冗談っぽく述べてみる。
 ……そうやって軽口を叩いて気を紛らわせるが、耐えられないかもしれない。
 そろそろ理樹君の匂いだけじゃ我慢できなくなってきた。
 触れ合いたい。これだけじゃ満足できないよ……。
 けれど答える声は無い。
「理樹くぅん……」
 駄目と思ったが遅かった。
 仕方ないよ。
 こんな疲れ切った体で理樹君の残り香を嗅いだら、心だけじゃなく身体までやられるに決まってる。
 私はさっきまで軽く擦り付けていた身体を、より強く擦り付ける。
「はぁ……駄目、なのに」
 胸元に指を伸ばし這わせる。
 姉御ほど大きくは無いけど、形にはいいと思う。
 なにより押し付けた時に理樹君はなんだかんだで喜んでくれるんだ。
 その事実が私に自信を持たせてくれる。
「んっ……」
 少し先端に触れただけで感じてしまった。
 普段ならこんなこと無いのに、やはり枕を抱きしめている所為だろうか。
「はぁはぁはぁ……」
 指を止めることができない。
 シャツをはだけ、下着をたくし上げて直接触る。
 思い出す、彼の肢体を。
 キスもあの時の感覚ももう朧気だけど一緒に暮らしているんだ、理樹君の裸は上半身なら見てしまったことが何度かある。
 そこから想像して妄想する。
 その手で、指で全身を触られ、這わせ、揉まれることを。
「んんっ……」
 彼の身体を思い出しながら触れた瞬間、軽く達してしまう。
 この感覚は久しぶりだ。ただ擦り付けるだけじゃ不完全燃焼だったってのに。
 ……やはは、これじゃあみおちんのこと言えないなぁ。
 欲求不満ここに極まりって感じデスネ。
「あふっ……やっ、あ……」
 考えながらも指は胸から下へ、お臍を経由して更にその先まで伸びる。
 スカートの下から下着に触れ横にずらす。
「これで触れれば……」
 きっと今日ならいける。
 理樹君の匂いも身体もしっかり思い出すことができる。
 あとは自分のこの指を理樹君のモノだと思い挿れればあの時の記憶を思い出せるはず。
 あの幸せで満ち足りた気持ちを……。
「…………ふぅー」
 そう考えた瞬間、それまで高揚していた気持ちが一気に冷めてしまった。
「空しいな……」
 身体の力を抜いて枕にポフッと頭を載せる。
 幻の姿はあっさり消えてしまった。
 自分を騙しきれないなんて、ホント馬鹿だなぁ。
 代償行為にすりゃなりはしない。
「……欲張り、だよね」
 一番欲しかったものは手に入ったというのに更に求めちゃうなんてダメだよね。
 分かっているのに一緒に暮らし始め少し経った頃からこうやって一人身体を慰める日々が続いている。
 そしてそれはいつも中途半端に終わりを迎える。
「理樹君にキスして欲しい、触って欲しい、撫でて欲しい……」
 理樹君がいない、それだけでこんなにも寂しく感じるなんてどうかしてる。
 それだけならまだしも空想の彼を求めちゃうなんて最低だね……。
 そしてそれに浸れるならまだしも自分を騙しきれずに弱さを自覚してしまうなんてホント馬鹿みたい。
「いつものことなのに、さ」
 疲れているからだ……そう自分に言い訳しようとしてやめた。
 もっと空しくなりそうだったし。
 でも……。
「もう離れるなんて出来ないのに……」
 今回のは発作みたいなもの。
 でも一緒に暮らせば暮らすほど欲求は高まりいつか抑えられなくなるかもしれない。
 なにより今の状態が続けば心も身体もどうにかなってしまうと確信すら出来る。
 それを回避する最良の方法はきっと彼から距離を置くことなんだろうけど、そうしたら自分は壊れちゃう気がする。
「やはは……本当に依存症なとこはそっくりだ……」
 理樹君があんなに優しくて素敵だからいけないんだぞ。
「もっとぞんざいに扱えぇ……」
 そうしてくれたら気が楽だったのに。
 けどもう後戻りは出来ない。
「ホント最低だ……」
 こんなことくらいで寂しくなる、欲張りで嫉妬深い弱い自分が嫌だった。
 私はただただぎゅっと枕を強く抱きしめた。

 カタッ
「ッ!?」
 外で人の気配がする。
 まさか帰ってきた?
「あっ……」
 慌てて立ち上がると急いで身繕いをする。
 下着を直しシャツのボタンを閉め、スカートを戻す。
 たぶんこれでばれないはず。
 最後までしていたら後始末が間に合わなかったかもしれない。
 そんなことを頭の片隅で思いながら最後に枕を自分の傍から引き剥がすように投げつけ、アパート部屋の扉が開くのを待った。
「ただいま〜」
 少し疲れたような表情を見せながら入ってきたのは理樹君。
 そして……。
「……ただいま」
 いつもの落ち着いた声でその後ろから入ってくるのは私の大切な姉、佳奈多だった。
「もう、二人とも遅いよ。はるちん待ちくたびれたー」
 私はいつも通りの言葉と仕草で二人を迎える。
 ……もう慣れたし、やってるうちのさっきまでの気持ちもどこかに消えてしまうのでこのスタイルを貫き続ける。
「ああ、ごめんね、葉留佳さん。ちょっと電車が遅れちゃってさ。連絡すればよかったね」
 済まなそうに理樹君は頭を下げる。
「やはは、別にいいけどね。けど電車で遠出かぁ。どこでデートしてたの?」
「んー、別にデートというかただの買い物だけどね」
「またまた〜」
 理樹君の言葉を茶化すようににやけた表情を作る。
 すると理樹君は予想通り苦笑してくれた。
「葉留佳……」
 名前を呼ばれて視線だけそちらに移すと、佳奈多が済まなそうな表情を浮かべていた。
 きっと気を遣ってくれてるんだろうな。
 もう、そんなこと考えなくていいのに。
「おねえちゃんも楽しめたー?理樹君は優しくしてくれたのかなぁ?」
 佳奈多から視線を外し、理樹くんを見ながら意地悪っぽい笑顔を向ける。
「ちょ、そんなことしないよっ。変なこと言わないでよっ」
 当然のように焦った表情を理樹君は見せる。
「あやや、私は別に理樹くんがデート中ちゃんとリードできたのか聞いただけなんだけど」
「む……」
「理樹君はなにを想像したのやら。エロイなー、理樹君はホントエロ介だなー」
「うう……」
 理樹君は予想通り顔を赤くして押し黙ってしまった。
 いやー、姉御じゃないけどまだまだからかい甲斐があるよね、理樹君は。
 もうちょっと切り返しが上手くならないとダメですネ。
「はぁー、バカなこと言ってないの。夕食作るからあんたも手伝いなさい」
「はーい」
 私たちのやり取りを見ていた佳奈多は軽く溜息をついて台所に向かった。
 ……私が態とはぐらかしたのきっと分かってるんだろうけど、追求する気はないようだ。
 私はまだ少し落ち込んでいる理樹君に笑いかけた後、台所に向かった。

 そして私たちはいつものように仲良く夕食を食べ、バラバラにお風呂に入り、しばらく雑談したあと川の字になってそれぞれの布団に潜り込んだ。
 私はまだ夕食前の出来事が原因でなかなか寝れなかったけど、隣の布団に入っている理樹君は草々に寝入ってしまったらしい。
 詳しくは聞かなかったけど、かなり今日のデートでお疲れだったようだ。
「……相変わらず寝顔も可愛いな」
 彼の寝顔を見てついついそう呟いてしまうと、無意識の内に彼の頭へ手が伸びていた。
「葉留佳」
「え?あ、お、おねえちゃん」
 その声に私は慌てて伸ばした手を引っ込めた。
 ……けれど今佳奈多の声、やっぱりどこか憂いを秘めていた。
「どうかしたの?」
 少し心配になってしまう。
 私と同様に佳奈多も弱くて脆くて……それ以上に優しいから。
「……ごめんね、葉留佳。二人だけで出かけてしまって」
「……なんだ、そんなことか。いいよ別にそんなこと。私たち二人で決めたことでしょ」
「それはそうだけど。それでも貴女が今日どういう気持ちで過ごしたか分かるから」
 これがまったくの赤の他人なら即座に私は否定の言葉を投げただろう。
 でも相手は私の片割れ。正真正銘血を分けた肉親で、分身ともいえる存在だ。
 なら誤魔化す意味は無い。
「うん、そりゃ寂しかったよ。それに羨ましかった。……勝手だよね、ちゃんと決めたことなのに」
「そうね。……でも私もきっとそうなるだろうから仕方ないわ」
「姉妹だもんね」
「ええ。そして双子だもの。だから妹にそんな気持ちにさせた姉として謝らせて」
 布団の向こうで僅かに頭を下げる気配がする。
「うん、じゃあこっちも。ちゃんと決めたのに嫉妬する気持ちを抑えられなくてごめんね」
 弱ちぃ自分は頭では理解しているのに佳奈多に対する反感を少なからず持ってしまった。
 ……おねえちゃんの気持ちちゃんと分かってるのにな。だからそれに対する謝罪。
「おやすみ、葉留佳」
「おやすみ、佳奈多」
 私たちはどちらともなく手を差し出すと理樹君の布団の上で指を絡めしっかりと握り合った。
 うん、これなら安心して眠れる。
 私は……いや私たちは理樹君の体温とお互いの手の温もりを感じながら夢の中へと落ちていった。

































「今日もデート日和ね」
 窓から覗く外の景色を見ながら呟く。
 私の目覚めは早い。
 いまだ学園にいた頃の癖が抜けないんだろう。
 いや、抜けてもらっては復帰した時大変だから寧ろこのままのほうがいいのだけれど。
 でも妹と直枝の安らかな寝顔を見てると一緒に寝こけていられたらなと思ってしまうのは贅沢だろうか。
 けれど今日は違う。
 いつもはバイトがある日でも寝ぼけた表情で辺りを徘徊している葉留佳が今日はシャキッと目を覚まし朝食の準備を手伝ってくれている。
 これはまああれだ。気合が入っているのだろう。
「葉留佳。そろそろ直枝を起こしてきて」
「あいあいラジャ。いやーもう、理樹君はネボスケだなぁ」
「そう言わないの。ここのところ疲れが溜まってるみたいなんだし」
 彼はほとんど休みなくバイトを入れている。
 お金に余裕はあるというのに、彼はどうしてもそうしたいと言って聞かなかった。
 それが彼自身の手で私たちを守りたいという気持ちの現われだということが分かっていたから私も葉留佳も何も言えないのだけれど。
 でも健康にだけは気をつけて欲しい。
「やはは、分かってますって」
 葉留佳も分かってるからこそ彼を起こす時はなんだかんだで優しい。
 でも今日はそうはできないだろう。
 私だって昨日はそうだった。
「ほら理樹くん起きて起きてー」
 葉留佳は彼の上に跨るという大胆な行動で起こしていた。
「耳元で囁いてみたらー」
 私は更にあの子の行動を炊きつける。
 結果的に食事が早く片付くなら止めるつもりは無かった。
 ……ホント、風紀委員長だった私がなにをしているのやら。
 ついつい苦笑が漏れてしまう。
「理樹君、今日は私とのデートの日なんだから早く起きろー」
 そう、今日はあの子がデートの番だ。
 なら姉の私がサポートしなくてどうするというのだ。
「うう……二木さん、今日は無理だから寝かせて……」
「「……」」
 だから彼の寝言に私たちが固まるのは当然だ。
 私たちは互いにアイコンタクトを取ると直枝の隣に座り大きく腕を振り上げた。
 バシンッ
 そして左右から思いっきり彼の頭はたいた。
 それはきっと許される行為だろう。
 視界の下で悶絶して転げまわっている直枝を尻目に私たちは微笑みあった。

「うう、酷いよ、二人とも」
 朝食を食べながら直枝は恨みがましい視線を私たちに向けてきた。
「自業自得でしょ」
「そうそう。むしろはるちんは謝罪と賠償を要求するー」
「あ、いや、うん。葉留佳さんはホントごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げる。
 そうアッサリ主張を取り下げて殊勝な態度を取られるとどうにも罪悪感が沸いてしまう。
 隣を見ればどうやら葉留佳も同じ気持ちらしい。
「やはは、私もさすがに叩くのはやりすぎたと思うから別にいいよ、うん」
 どうやら葉留佳は水に流すことにしたようだ。
「でも直枝。もうちょっと寝起きを良くしなさい。今日は久しぶりの葉留佳とのデートなんだから」
 そう、直枝はどうにも気合が足りていないように思える。
 こんなに可愛い女の子とデートをするならもっと気合を入れていつもより早く起きるのが普通だと思うのだけど。
「いやあのさ、言い方悪いけど疲れてる状態で二日連続で出かけるのはキツイんだって。こ、今度の機会てのじゃダメかな」
「駄目よ」
 葉留佳が何か言う前に私のほうできっぱり否定する。
 あの子は優しいからもしかしたら遠慮してしまうかもしれない。そんなことはあってはいけないのだから。
「なに?この子と一緒じゃ楽しくないって言うの?」
 更に畳み掛けるように詰問。
 もっとも問いかける視線には頷いたら殺すというしっかりとした殺意を乗せるのは忘れていないけど。
「い、いや、そんなことあるわけないよ。葉留佳さんといるのは楽しいよ、それは本当」
「そう」
 見れば隣でパンを頬張っていた葉留佳が若干顔を赤らめている。
 そういう仕草も可愛いわね。
「でもさ、もう何度も言うようだけどこういうデート紛いのことを二人の女の子達とするのは倫理的にどうかなって思うんだけど」
 それが本音ということかしら。
 私は深く溜息をついてみせる。
「じゃあこっちも何度も言うようだけど、気にする必要は無いわ。二人の女の子とデートしちゃいけないだなんてルール、どこにも無いわよ」
 デートという言葉は否定しない。
 私の口から否定なんて出来ないし、したくないもの。
「ふ、二股って言葉あるよね。姉妹でこんな真似って世間体的にも良くないと思うし」
「世間体なんて私たちにとっては今更よ。寧ろこんなの可愛いものよ」
 親族間でも近親婚を繰り返した結果、一人の女に二人の親族の男をあてがうなどと言った忌まわしい慣習に比べればなんでも可愛いものだけど。
「いやいやいや、一応気にしようよ」
「あー、もう、うっさいわね」
 直枝はどうしても線引きをしようとする。
 私たちのことを嫌ってるから……という訳ではない。それは自信を持って言える。
 これがどちらかを優先してというなら一応理解は出来る。納得する気はないけれど。
 でも直枝はどちらかというと私たち二人共に自制を求めようとしてくる。
 まるでそれはこれ以上親密にならないようにと考えているように。
「いいこと、直枝。もう何度も説明するけどもう一度言うわ」
 けれど私と葉留佳、二人とも直枝と距離を置かれるなどというのはもう無理なのだ。
 たまのデートでなんとか気持ちを発散させているのが現状なんだから、それを否定されたらどうなるか想像も付かない。
「私と葉留佳の一番の望みは一緒に暮らすこと。それは貴方達のお陰で可能になったのだから本当に感謝しているわ」
「いや、別に大したことじゃないからそれは気にしなくていいよ」
 直枝は優しい笑みを浮かべる。
 はぁー、たく天然ジゴロが。私は頬が赤くなってしまうのを悟られないようにしながら言葉を続ける。
「だからこそその関係を崩す要素は排除しなくちゃいけないわ」
「それが、僕でしょ」
 分かってるけどさと彼は言葉を続ける。
「勘違いして欲しくないのは、あなたのことを邪魔だと思ったことは無いってこと。寧ろ凄い支えになってくれていると思う。葉留佳もそう思うでしょ」
「うん、そうだね。理樹君はもう私たちの掛買いの無い家族なのですよ」
 葉留佳の言葉に頷く。
 直枝はというと少し恥ずかしそうだ。
「直枝に望むことは一つだけ。私たちの間で優劣をつけて欲しくないってこと。だから葉留佳ともデートに行ってと言ってるのよ」
「いやー、二人と出掛けないという選択肢は?」
「無いわよ、そんなもの」
 なんでそんなに嫌がるのかしら。
 女としての魅力が無いんじゃないかと結構不安になってしまう。
「一緒に長いこと暮らしてるのよ。これでも私たちは女なんだからデートもしたくない存在なんて思われたらかなり傷つくの。分かった」
「う、うん」
 まだ直枝は納得できないといった顔だ。
「理樹君。はるちんとデートは嫌?」
「い、いや、そんなことはないけど」
 突然の葉留佳の言葉に若干うろたえる。
「じゃあデート、しよ」
「…………はぁー、分かったよ」
 渋々と直枝はは頷くのだった。


 朝食を食べて少しし、直枝は葉留佳に引っ張られるような格好で出かけていった。
 まだ少し気乗りしなさそうだったけどなんだかんだで実際に向こうに付けば昨日みたいにリードしてくれるはずだ。
「さてと、バイトの時間までまだ余裕あるし、溜まった洗濯物を洗ってしまいましょうか」
 私は軽く伸びをしながら洗濯機のところまで歩いた。
「ふぅー、いっぱいあるわね」
 溜息をつきながらもこういう穏やかな生活が嬉しく、私はテンポよく洗濯物を放り込んでいった。
 どうやら厳しく言ったお陰か色物とそれ以外はちゃんと分けて篭に入れているようだ。
 そんなことを考えながらある洗濯物を手で持った瞬間固まってしまった。
「これは……」
 私たちよりもサイズが大きいシャツ。
 どう考えても直枝の洗濯物だった。
「いつ着ていたやつかしら……」
 知らず知らずにそれを握り締め、胸元に持ってくる。
「って、何しようとしてるのよ私は」
 意識して手を止めなきゃ何をやらかす気だったのやら。
 自分が怖い。
「最低ね、最低」
 危うく変態行為に及ぼうとした自分を酷く嫌悪する。
 欲求不満だったとしてもこれはないだろう。
 な、直枝のシャツの匂いを嗅ごうとするなんて。
「はぁー、葉留佳だって我慢しているはずなのに何をしているのかしら」
 深い溜息をついて、意識してそれから視線を外すと洗濯機の中に放り込むのだった。


[No.743] 2008/11/29(Sat) 00:08:03
えむぶいぴーしめきり (No.720への返信 / 1階層) - しゅさい

なのですっ!

[No.744] 2008/11/29(Sat) 00:15:17
[削除] (No.720への返信 / 1階層) -

この記事は投稿者により削除されました

[No.748] 2008/11/29(Sat) 12:45:20
筋肉も荷物 (No.720への返信 / 1階層) - ちこく、ひみつ 6192byte




 115…116…117…117…アリ○…アリ○――
 腹筋をする。腕立て伏せをする。スクワットをする。とにかく筋トレをする。他にすることは思いつかねえ。
 理樹がいない休みの日はやることが見つからない。勉強なんてする気はない。やっぱり野球の練習すらない日はこれをするしかない。
 でも、ちょっと待てよ……勉強を脳の筋トレと言い換えてみると凄く魅力的なものになってくるじゃねえかっ……!そのことに気付いたなら早速、脳の筋トレとやらに挑戦状を叩きつけてやる。
「よっしゃ、いっちょやってやらぁ!」
 意気込んで適当な教科書とノートを取り出しては見たのいいものの、次の試験範囲…じゃねえ、脳筋トレーニングの範囲なんて聞いたこともないからどこからやればいいのか分かるはずもなかった。
 理樹が戻ってきたらちょっくら聞いてみようと思った。

バタンっ

 そんな音を立てながらいいタイミングで理樹の奴が帰ってきて、理樹が部屋へと入ってくる。
 その頃を見計らってオレは脳筋トレーニング範囲を訊きだすことにする。
「おい理樹」
「何?」
「次の脳筋トレーニングの範囲ってどこだ?」
「言ってる意味が分からないからさ……」
 理樹はオレの方をちらっと見た。
「って、真人っ!なんで一人で勉強してるの!?」
 くっ、頭が痛くなってきた…。理樹はいつもそうだ。オレの弱点を的確についてきやがる。オレのことをなんでも知ってるかのように。
 しかも理樹は、まるでオレを珍獣とかUFOとか、火星人とか、関西人などを見たかのように言う。
「勉強なんてそんな柔なもんじゃねえ……オレは、脳の筋トレをしているんだ」
「真人が勉強するなんて珍しいね」
 こいつめ、オレが脳の筋トレって言い張ってるのに聞く耳も持たねえ。
 こんなことになるなら、素直に普通の筋トレをしていれば良かったと思った。
「あっ、そうだ真人」
 理樹はこれからオレがやろうとしていることを無意識に悟ったのか、なにかを提案しだした。
「これから一緒に買い物行かない?二人で」
 なんだか小さい不安を覚えるが、理樹となら一緒に行っても構わない。
 しかし、なぜオレなんだ?
 いつもはこの部屋に来た女子たちに誘われて行ってるみたいだが、今日は理樹が誘ってきた。しかもオレを。
「あぁ!?その筋肉はいつも部屋に引きこもってて可愛そうですね、仕方がないからたまには外に連れ出して鍛えさせてあげましょう、とか言いたげだなぁ!?」
「いやいやいや、とりあえず行こうよ」
 まぁ、特に断る理由もなかったのでついていくことにしよう。

 校舎外へと出て、暫くしたところでたまに、オレたちが通う商店が立ち並ぶ道路へと出る。
 まぁ、近場で買い物するならここしかないけどな。
「そういや何を買うんだ?」
「えっと、必要なものを少し、かな。真人も好きなの買っていいよ」
「だったら、オレは必要ないんじゃないか?」
「いやまあ……たまには二人で、ってのもいいんじゃないかな」
 その言葉になんだか無性にうれしくなってくる。だから、小突いてやる。
「へへっ、こいつめっ」
「やっ、やめてよ。ここ道路だから、危ないからね」
 なんだか女みたいな小さな悲鳴を出しながらガードをしている。小突いてみて感じたが、少しずつ理樹の身体が筋肉によって硬くなっていた。
 これも日々の賜物だな。これからも筋トレをやらせてやろう。
「あっ、そろそろだよ」
 理樹は目の前の大きい建物を指差す。
 ここにこんなところあったか……?と疑問に思っていると、理樹が自然と答えてくれた。
「そっか、真人はこの百貨店にまだ来た事無かったね。よくみんなに誘われてここに来るけど、結構なんでも揃ってるんだよ」
 へぇ、なんでもか。この百貨店にどんな筋肉が眠っているかと思うとわくわくしてきたぜ。
「じゃあ行こうか」
 理樹はそう言うと中へと入っていく。オレも一緒に入ることにしよう。

 …と、中に入ったはいいが、初めてだから構造がよく分からない。適当に理樹について行こう。
 だが、この要塞みたいな建物の中で最初から買うものを決めているかのように、理樹の歩く足が速い。
 なにかに突き動かされているみてえだった。
 まず最初に理樹が向かった先は、本が売られているとこらしい。
 理樹の手に持っていた買い物かごの中には筋肉が集まるみたいに本が積まれて行く。その数は…30冊?それだけで理樹は次の場所へと向かう。
 本の名前を見ることすら叶わねえ。理樹っちよ、ちょいと速すぎじゃね?と言う事も。
 次はペット関係の場所みたいだな……。
 犬の、ドッグフードを少し。そして――。
 ――い、今起こったことをありのままに話すぜ…。
 猫の―――モンペチが雨が降ったかのように何十缶もそのかごの中に流れ込んでいた。
 何が起こったのかわからねえが、原因は理樹だと言う事だけは分かった。
 そして、この時になってやっとオレはこの買い物の目的が分かってしまう。
 女子たちに買え、と言われたのだろう。その一言で従ってしまう理樹もどうかと思った。少しは反論したのか。オレが考えても分からない。
 次はお菓子が大量に。見てるだけで甘い。その次はこんぶが。見てるだけで目の前が真っ黒に。筋肉革命スクレボのグッズまでもがかごの中に入る、入る、入る。
 オレが何を買おうかと迷う暇もねえ。酷いぜ、理樹。
 そして、悪戯グッズとかネーミングが直球なものも。おいおい、いつそんなに持てるようになったんだ。
 さらにはキムチともずくが。そんなもんいらねーだろ、と思っていると脳裏に黒髪の女がオレの方を見て笑っていやがる。気味が悪すぎるので筋肉のことを考えてやった。
 理樹のことを観察しているとなんだか必死な表情で結構面白い。筋肉さんまでもが笑ってしまう。
「おい理樹」
 オレが声をかけてやると我に返ったかのような表情で振り返った。
「あ、真人もなにか買いたい物がある?」
 そういや、必要な物を少しと言ってたがこれで少しなのだろうか。と思った。
「すまん、ただ声をかけてみただけだ」
「そっか」
 それだけを言うと理樹はレジへと向かっていった。

 ◆

 ……今のことを簡単に言うと、理樹が買った物の会計に時間がかかっていやがる。
 モンペチの数を数えるにしても、その他たくさん。値段がバラバラだから余計に掛かる。
 値段のところがどんどん跳ね上がっていきやがる。どこからそんなに理樹の懐から金が出るのか、不思議だった。
 暇だから筋トレでもしていようと思った。

 ◆

「あっ、真人。待った?」
「待ったもくそも無いな。楽しくて待ってる暇がなかったぜ」
「それはよかった」
 理樹の傍を見てみると、そこには買い物袋が大量。まあ、そりゃあそうだろうなと思った。
「えっと、それじゃあ真人、持って帰ろうか」
「え?オレが持つのか?」
「真人はそのために来たんじゃなかったっけ」
 どうやら理樹は最初に言ったことを忘れてるらしい。筋肉で少しお仕置きをしなきゃならねえな。
 どう見ても、オレを荷物持ちとしてか見ていなかった。
「いくら理樹の頼みと言っても、オレはこんなことをするために来たんじゃないが……」
「これを全部持って帰れば筋肉がたくさんつくよ」
 ……くっ、こんなことを言われたらやるしかねえじゃねえか。オレにとって、その言い方はとても魅力だ。
「やります」
「うん、じゃあよろしくね。帰ったら筋トレもしようか」
 くっ、理樹と一緒に筋トレが出来るならするしかねえな。
 オレは全ての袋を持ち上げた。
 本の袋だけ重かった。


[No.750] 2008/11/29(Sat) 12:55:17
MVPとか次回とか (No.722への返信 / 2階層) - 主催

 MVPは大谷さんの長いタイトルのあれでした。おめでとうございます!
 感想会後半戦は日曜21時より。

 次回 お題『夜』
 12/12 金 締切
 12/13 土 感想会


[No.753] 2008/11/30(Sun) 01:29:39
消臭剤の朝 (No.720への返信 / 1階層) - ひみつ@6.972byte@遅刻@再投稿

 ファブリーズはどこにあったっけ。
 立ち上がろうとして、自分が思いのほかくたびれていることに気づいた。ふくらはぎの辺りがじんわり痛む。揉み解そうと手を伸ばせば、腕がだるい。背中も張ってる気がする。若返りたいなんて思わないけれど、歳は取りたくない。
 よっ、と声に出して、立ち上がる。オヤジ臭いからやめろって鈴にはいつも言われてるけど、いかんともしがたい。
 玄関。靴箱の上。床の間。洗面台。いろいろ探し回ったけれど、一向に見つからない。確かに鈴が使ってた記憶はあるんだけど。
 それから家中探して回って、トイレの消臭剤で代用できないかと考え始め、やっとタンスの引き出しにファブリーズを見つけたとき、トタトタと階段を下りる足音が聞こえてきた。微かに鈴の音が聞こえた。
 ファブリーズを手に持ったまま台所へ行く。
「なにしにきたの?」
 問いかけてみても返事はない。りんりんと首輪を鳴らしながら僕の前を素通りして、鈴の椅子の足に身体を擦り付け始めた。ホントに可愛げがない。
 脱衣所に戻って、明日の背広に念入りにファブリーズした。こうも線香の匂いがするとかなわない。ついでに自分の髪にも吹きかける。頭皮に一抹の不安がなくはないけど、シャンプーだけで落ちるかどうか不安だった。
 猫はまだ鈴の椅子にじゃれついていた。
「なに、ご飯?」
 にゃおん。振り向きもせず答える。僕はうすらぼけた記憶を頼りに、キャットフードを探して皿に盛った。乾燥タイプの餌(猫のお医者さん推奨:糖尿病予防タイプマグロ味)がカラカラと音を立てると、興味深げにこっちを見だして、でも寄ってくることはしなかった。まあ勝手にしてほしい。こっちは朝から出勤なもので。
 階段を登って寝室へ向かう途中、空き部屋のドアが半開きになっているのが見えた。廊下の灯りが差し込んで、南向きの大きな窓が見えた。その左右にぶら下がったカーテンには爪あとでボロボロになっていて、その下の壁や、鈴の両親がくれた古臭い勉強机も同じだった。我が物顔で何様のつもりなんだろうか。犬は人に猫は家に付くというけれど、だったらもう少し大切にして欲しい。なに考えてるんだろう。鈴の両親も両親で、予定もないのになに考えてるんだろう。
 寝室のただっぴろいベッドに独りで寝転んだ。電気は点けないままで、枕元の充電端子を携帯に差し込んで開く。電池マークが点滅する下に着信アイコン。ちょっとうんざりした。開いてみれば案の定鈴の母親からだった。葬儀の形式というのはこんなに人を執念深くさせるものなんだろうか。極楽浄土で幸せにって、知りもしない坊さんにお金を出すだけで幸せになれるなら誰も苦労しないと思うんだけど。そんな嘘っぱちにすがるほど僕らは落ちぶれてない。人は死んだらそれっきりってことくらい知ってて欲しい。本当、なに考えてるのかわからない。
 電話帳編集のコマンドを選ぶ。フォルダの上から二番目『親戚』。もう連絡を取ることもないだろう。削除の項目を選びかけて、眠かったのでそのまま携帯を置いて目を閉じた。まぶたの裏の暗がりに目が慣れると、案外早く眠れた。

 翌日僕が出勤すると、同僚がみんな驚いた顔をしていた。まあそんなもんだろうと思う。席を立って、トイレに入った。鏡を覗くと、光の加減のせいで妙に酷い顔をしていた。袖をまくって顔を洗っているとき、背中のドアが開いて、同期の奴が顔を出した。
「……大丈夫なのか?」
「うん、まあ、なんとか」
 ポケットから薬を取り出す。もう半分くらいまで減っていた。また病院にいかなきゃならないのかと思うと憂鬱になる。
「まだ休めるんだろ?」
「あと一週間かな? でも、いつも迷惑かけっぱなしだし」
 言いながら錠剤を口に含んで、手で水を掬う。鏡越しに見た同僚の顔は複雑で、哀れんでくれているのか、非常識だと困惑しているのか、よく分からなかった。
「仕事してた方が気が紛れるからね」
 僕が落ち込んだ風にそう言うと、やっと微かに笑って、控えめな同情の言葉をくれた。
「あんまり無理するなよ」
 薬を飲み下して、鏡越しに頷いて見せるとドアが閉まった。用も足さないで、どうやら僕の後をつけてきただけらしい。悪い奴じゃないのは間違いないけど、相変わらず抜けている。
 トイレから出て席に着くと、上司がなんの気なそうにやってきて体調を訊ねてきた。いや、大丈夫ですよー、なんて返していたら、
「気を遣うことないよ。規則で大丈夫ってなってるんだからさ。こういうときはお互い様だよ。仕事も少ないし。……それに、みんな気にしちゃうみたいだからさ」
 なんて言われてしまった。僕は空気が読めていないようだった。結局根負けして帰されてしまった。
 昼間の街を歩いた。やることなんてない。どこかでお昼でも食べようかと思ったけれど、サボリのサラリーマンと一緒に見られるのは嫌だからやめた。本屋でなにか買おうか。そうは思っても本なんて読みたくない。
 スクランブル交差点で香水の匂いとすれ違いながら、中学校のころはこういう休み時間が大好きだったなあ、なんてことを思い出した。自分の未練がましさにいささかあきれる。こんなんでこの先やっていけるんだろうか。そう思ってまたあきれた。やってけるやってけないじゃなくて、やってかなきゃならないのに。

 そうは思うんだけど、外灯の点いていない玄関で鍵を開けるのに手間取って、ただいまに返事がないのに戸惑って、やっぱりダメだなと思う。
 猫は鈴の椅子の上で眠っていた。スーパーの袋をテーブルに乗せると、ピクピクひげを揺らした。僕はその正面の席に座って、テーブルの下から寝顔を眺めていた。飼い主が死んだことなんて分かってないようなのん気さで、あきれを通り越して感心してしまう。それともなにか、幽霊でも見えてるんだろうか。
 下らないことを考えていたらかんぴちょう巻きに醤油をかけてしまった。その醤油のしょっぱいことしょっぱいこと。味わうからに身体に悪い。『自炊』なんて慣れない言葉が頭に浮かんで憂鬱になる。
 そう言えば、猫は匂いでものを判断してるとか、そんな話を聞いたことがある。線香の匂いが酷いけど、ここから鈴の匂いをまだ嗅ぎ取ってるとか。僕にはそんなの、分かるはずもない。
 もし家中にファブリーズしたら、こいつはどんな反応をするだろう。自分の飼い主がいなくなったことに気づいて、どこかに消えてしまうかもしれない。いや、多分消えると思う。そういう奴だ。恩だなんて思ってないに違いない。抜け毛ばかりで肌が丸見えのまま拾われてきて、変な病気にかかって、いつも鈴を心配させていた。そのくせ元気なときでも食う寝る遊ぶで鈴を振り回していて。今だって鈴が椅子に座ろうとしていたらどうするつもりなんだ。鈴はバカみたい甘かったから、きっと笑ってずっと立ってたんじゃないかと思う。腕を組んで、頷いたりして。
 ため息が漏れた。意味のない想像だった。
 ……シャワーでも浴びて寝てしまおう。
 食器を流しに戻そうとして、今日のは別に捨てちゃって構わないことに気づいた。猫は眠ったままで、僕が風呂から出ても静かに背中を上下させていた。

 分厚い羽毛布団の中は薄ら寒くて、夜中に何度も目が覚めた。そのたび暗闇の中で携帯を操作した。電話帳編集。フォルダ名『家族・友人』。もうフォルダごと要らなくなった。震える指でフォルダの削除を選ぼうとして、できないまま眠りに落ちた。
 もう会うこともない人間のアドレスなんて、残しておく意味はない。そのはずなのに、みんなのアドレスは女々しくメモリーに仕舞われている。そんなだから僕はなにもできないままなんだ。
 そんなことを考えていたら、隣の部屋からコリコリ音が聞こえてきた。またあいつが爪を研いでいるらしい。
 この家にはまだ本当に、鈴の匂いが残ってるんだろうか、と思った。
 僕は毛布に鼻を押し付けてみた。いくら嗅ぎ取ろうとしても、洗濯洗剤の無機質な甘い匂いがするだけだった。そうすることで、鼻腔の奥に染みついた鈴の匂いが、少しずつ薄らぐ気がした。息をすればしただけ、鈴の匂いが削り取られる気がした。
 眠ってしまいたくはなかった。猫が爪を研ぐ音が辛うじて僕の意識を保っていた。でも明日は仕事に出なくちゃいけないし、僕はまだ生きていかなくちゃいけない。早起きして家に消臭剤を撒かなきゃいけない。そのために眠りはゆっくりと近づいてくる。
 いつまでこうして生きていけばいいんだろう?


[No.755] 2008/11/30(Sun) 08:00:55
初雪(改訂版) (No.739への返信 / 2階層) - ゆのつ@16475 byte

 大学の校門から人が歩き去る。皆が寒そうに肩をすくめ、早足で歩き去る中、俺は一人、漠然と立っていた。
 午後の講義は予定より早く終わり、時間が空いた。何かをするには短く、何もしないには長い……中途半端な時間。
 上空に真冬並の寒気がから始まる型どおりの天気予報は見事に当たり、今日は酷く冷え込んでいる。
 空は暗く、時折、鋭い風が吹き付ける。木々はとっくに丸裸で、木の葉が舞い飛ぶ事もなく、ただ寒い。身体だけでなく、心まで冷えてくる、そんな景色。
 諦めて視線を戻せば、疲れ切った通勤客を乗せたバスが目の前を走り去っていった。それに乗り込む学生達も、皆一様に暗い。俺も黙って肩をすくめる。
 足下が冷える、剣道をやめてから身体がなまったか? まぁ、いい、どうせ今の俺には必要のないものだ。

 その時、何もかもが冷え切った、くすんだ景色の中で、俺はあるものを見つけた。
 灰色の空から舞い降りる、真っ白な雪。
 儚く消える、新雪。
 
 歩き去る人々はそんな事には気付かない、気付いても気にとめる事もないだろう、せいぜい空を見上げる程度。誰もが黙って家路を急いでいる。
 その程度の出来事。
 だが、それは、俺にとっては忘れられない、忘れてはならない記憶の象徴だった。
 手を伸ばす、だが、それは手のひらに冷たい感触を残すだけで消えてしまう。透明な残骸が、そこに残っていた。
 雪は次々と舞い落ちる、地面に落ちて、一瞬の後には消えてしまうのに、それ以外の選択肢がないかのように。

 雪は、少しずつ数を増す、行き交う学生も気づき始めた。
 見上げて、顔をほころばせる者もいれば、忌々しそうに舌打ちする者もいた。明日は積もっているだろうか? 全てが、白く覆われるだろうか? 
 いくつかの思考がよぎり、そして彼女の言葉を思い出した。

「宮沢さん、雪の匂いというのはご存じですか?」

 空を見上げる。雪は、静かに降り続けていた。
 
 











 

 その日は、朝から寒かった。
 数日前までの陽気はどこかに消え去り、寂しく揺れる木々が、次々と木の葉を失っている。天気予報は雪。
 今でこそ雪は降っていないが、時間の問題だろう。空は真っ暗だ。
 HRも終わり、部活動は『交通機関の乱れが予想される為』全て中止、寮生を含め、生徒には早く帰るように指示が出された。無論、そんな事を言われずともほとんどの生徒は帰る。
 積極的に外に出て行ったのは、寒風に戦いを挑むと言って消えた筋肉馬鹿位なものだった。無論、付き合うつもりはない、俺にはもっと重要な約束があるのだ。
 俺は空き教室に向かっていた。放課後、もし時間があるのなら来て欲しいと、古式に言われていたからだ。おそらく例の悩みの件だろう。
 それにしても、彼女の方から誘うのは珍しい、何故こんな日にと思ったが、断る理由などなかった。弓を失って以来、自分から行動する事などほとんどなかった古式が、相談とはいえ自分から俺を呼んだのだ。
 足早に目的地に向かう俺を、剣道の試合に臨む時に似た高揚感が包んでいた。
 間抜けな話だが、あの時の俺は、それは、自分が手助けした少女が立ち直りつつある事に対するものだと思っていた。
 


 引き戸の前に立つ、中から古式の気配を感じた。戸に伸ばした手を慌てて引き、息を整える。

「早いな」

 俺はそう呟きつつ、頬に手を伸ばした。
 古式に不安感を与えてはならない、しっかり頼れるよう、毅然と、それでいて緊張させないように親しみやすい表情を。
 普段だったら絶対しないであろう行動は、気落ちした少女を万が一にも傷つけない為と己に弁明する。なぜ自分にそんな事を言わなければならないのか、そんな事は考えもしなかった。
 心なしかほころんでいたであろう顔を引き締め、そして少し戻す。2、3度試行錯誤を繰り返し、扉を叩こうとするが……面接でもあるまいし、と思い直した。

「古式、入るぞ」
「はい、どうぞ宮沢さん」
 短い会話を交わし、教室に入る。何もない、空虚なだけのその場所で、古式は一人佇んでいた。 



「……こんな日にお呼びたてして申し訳ありません」
「いや、この雪ではどうせ帰ってもやる事がない。古式がいいのならば、いくらでも付き合おう」
 ほとんど予測していた通りの挨拶に、俺も予定していた通りの答えを返し、彼女の隣に進む。友人と呼ぶにはやや遠い距離、だが、それでも古式の側に行くと不思議と暖かい。
 俺が定位置につくと、彼女は遠慮がちにこちらを見た。色白なその顔が、なぜかいつもよりもさらに白く見え、一瞬驚いた。

 だが、古式は話さない。彼女にしては珍しく、視線が落ち着かず、さまよっている。何故か、俺の方まで落ち着かなくなってくる。いかん、なんとかせねば。
 彼女の支えになるはずの俺がこれではどうにもならん、彼女があのように落ち着かないのは、何か重大な相談があるのかもしれない。よし、話そう、何か、天気の話題でも、何でも……

「「あ……」」
 声が被った、古式の顔が真っ赤になる。まずい。

「「う……」」
 再び被る、窓が揺れる、遠くで誰かの声が聞こえる。

「「ん……」」
 三度目、気まずい沈黙、見事なまでに呼吸があってしまった。いっそ二人でフィギアスケートでもやったらどうかと思考が飛ぶが、今はそんな事を考えている暇などない。
 どうする、この場をどう収める?
 視線をさまよわせ、ヒントを探す……馬鹿か俺は、そんな事で何かが見つかるか! くそ! 
 自分に悪態をつきながら、しかし視線は何かを探す、時計、窓、古式、可愛い……違う、いや、違わない、そうじゃない、論点がずれている、何を考えている!
 何か、何か話題だ、落ち着け宮沢謙吾、話題を探せ。空、木、雲、筋肉……何?

「……あの馬鹿何をやっている?」
 思わず言ってしまった、視線の先では、真人が空に向かって筋肉を誇っている。そうとしか言いようがない……なんだあの不気味な動きは? これだからあの馬鹿は……

「……あの」
「あ」
 隣から遠慮がちに聞こえてきた声に、思わず間抜けな声を返す。あの馬鹿のせいで、完全に現状が頭から離れていた。あまりに迂闊な自分の行動に呆れ、そして現状を再認識し、自己嫌悪のあまり膝をつきそうになった。あの馬鹿、今夜正々堂々闇討ちにしてやる。
 間抜けに口を開いた俺の視線の先には、上目遣いでこちらを見る古式の姿。
 何か言いたそうで言えないその口が、もごもごと動く……ああ、古式、遠慮するな、存分に言え、罵れ、俺は愚かだ。
 そして、立ちすくむ負け犬に、彼女は口を開いた。

「……あの、もしかして、風を叩き落とそうとしているのではないでしょうか?」
「……何?」
 真面目そうに言った古式の視線の先には、何やら空を殴りつけるような動きの筋肉、ああそうか、確かに……言われてみればそう見える。
 耳を澄ませば「雪だろうが風だろうが! オレの筋肉を破れるものなら破ってみろ!!」などと、全く理解不能な発言が聞こえてくる。

「そうだな、ああ、全く馬鹿だ」
 そう答え、顔を見合わせて、俺たちは笑った。緊張はすっかり消えていた。あいつに助けられた形になったのは少々悔しいが……まあいい。
 ふっ、あの馬鹿には今夜コーヒーでも差し入れてやるとするか。
 
 俺がそんな事を考えていた時、外を見ていた古式が、何故か、少し緊張したように表情を変えた。何か見えたのか? 俺が、そう声をかけようとした時だった。
 彼女が言った。

「宮沢さん、雪の匂いというのはご存じですか?」



 唐突な問いかけに、俺は思わず呆けた。教室からは再び声が消え、古式の浅い呼吸の音だけが響く。
 訳の分からない発言には、周りが周りだけにすっかり慣れてしまっていたが、そこから一番遠い位置にいるはずの彼女がこんな事を……?
 一瞬戸惑ったが、俺は、すぐに気を落ち着けた。
 古式らしくない質問だが、考えてみれば、それは彼女が変わりつつある証なのかもしれない。それはきっと……いや、間違いなく喜ぶべき事だ。
 それに見ろ、上気して、緊張した彼女の顔を……彼女も、きっと慣れない事に緊張しているんだ。この緊張を解きほぐし、普段からこんな他愛もない会話をできるように、その為に俺は頑張っているんだろう?

「雪の匂い?」
 問い返した、古式の表情が緩んだ。
 今まで彼女は、悩みを語り、全てを諦めた事を語り、そして、そういった事ばかりを話した事を謝る。その繰り返しだった。
 だから、問い返す俺は、きっと笑顔だったろう。彼女が、こんな事を話してくれるようになったのだから。
 そんな俺に、古式は少しだけ懐かしそうに答えてくれた。

「ええ、雪の匂い。世界を真っ白に染めてしまって、どんな匂いも消してしまった雪の、鋭い匂い。嗅いだ事はありませんか? 顔が引っ張られているみたいで、身体中が冷たくなって……何もかもなくしてしまったような中に、つんとやってくる匂い。私は、あの匂いが好きだったんです」
 古式はそう言って空を見る。空からは雪が舞い降りていた、真っ白な雪が、今日ばかりは美しく見える。

「そうか、そういえばそんな気はするな」
 しばらくして、声にしてから思う。素っ気なさ過ぎたろうか? 突き放すような言葉を投げかけてしまったろうか? 自分の口下手が悔しい。
 深く雪が降り積もった時、その匂いを感じようなどとは思っていなかった。雪は、己の心身を鍛える為に使う程度の存在で、それ以上の何かを感じようとはしていなかった。
 だが、古式はその中で何かを感じていたんだろうか?

「ふふ、そうですね。雪の匂いっていうのは変な表現ですよね。いえ、いいんです、自分でもおかしいな、と思っていますし」
 俺が言いかけた言葉を遮って、古式は言う。どことなく懐かしそうに、楽しそうに。
 そこでふと気付いた、古式が笑ったのは……本当に久しぶりだ。今日の彼女は、何かいつもとどこか違っていた。
 
「私は友だちがいませんでしたから、部活を終えた後、雪道をよく一人で帰っていたんです。真っ白な世界の、音さえも聞こえない通学路、いつも通っている道が、その時だけ別な場所みたいで、私は立ち止まるんです。そこでふっと息を吸い込むと、不思議な感覚がして、それを雪の匂いと言っていたんですよ」
 そこで、古式の声は少し低くなった。
 共に武道に生き、厳しい家に生まれた彼女と俺。だが、俺には友がいて、彼女にはいなかった。だから、俺は、昔の俺を見ているようで、彼女を放っておけなかった。
 彼女を見た時から何か気になっていたのは、きっと、そうなのだろう。
 だが、そんな俺の思考になど気付かず、古式は言葉を続ける。今日の彼女は饒舌だった、まるで緊張を払い落とそうかとしているかのように、話し続ける。

「でも、あの匂いを感じると、私は、まるで自分が自分ではないみたいで、普段ならできそうもない事、やろうともしない事をしたくなるんです。例えば、雪の中でくるくる回ってみたり、雪山に思いっきり飛び込んでみたり」
 俺は、この真面目そうな彼女が、誰もいない雪の中で楽しそうに舞い踊る姿を想像して、思わず微笑んだ。彼女が慌てたように口を押さえる。
 余計な事を言ったと思ったのだろうか? 古式は一度話をやめ、うつむいた。恥じらう仕草に、思わず心を奪われる。



 古式の声が消え、教室に音はなかった。
 窓の外では本格的に雪が降り始めていて、その中を生徒達が足早に帰っていく。あの馬鹿の姿もどこかに消えた。
 暖かなこの場所は、外とは全く世界にあるようで、古式と俺が二人だけ取り残されている気がして、怖かった。
 もしここから俺がいなくなれば、古式は一人になってしまう……そんな気がして、怖かった。



 その時、古式が一歩、二歩と歩き、窓に近づく。
 思わず手を伸ばしたその先で、彼女は窓を開け、振り返り、言った。

「ここから見える場所が真っ白になって、何もかもが雪に埋もれて、雪の白さと、冷たさと、匂いだけの世界になったら……その中で、何もかもを忘れて、大切な人と一緒に思いっきりはしゃぐ事ができたなら、悩みなんか捨て去る事ができるんでしょうか?」

 窓からは雪が舞い込み、寒風が肌を刺す。古式の髪が揺れ、止められていなかったカーテンがはためく。
 そこに立つ彼女の姿は儚く、だが、こちらを見る瞳は真っすぐだった。

 ……彼女は、俺にどんな答えを望んでいるんだろう?

 一瞬、そんな思考が脳裏をよぎった。そして、俺は彼女に歩み寄り……



「古式はロマンチストだな」
 彼女は、拍子抜けしたかのような表情で、こちらを見る。俺は黙って視線をそらすと、古式の肩を抱き寄せた。
 寒いだろうという言葉は飲み込んだ、彼女に嘘をつくのは憚られた。だが、かといって古式が消えてしまいそうで怖くなったとも言えない、いくらなんでも突拍子がなさすぎる。
 だが、彼女はなんの抵抗もなく俺に寄り添う。長い髪が手にかかり、彼女の身体は思った以上に細かった。まるで、手放したら消えてしまうかのように……


 
 俺たちは身を寄せ合ったまま、一瞬の時間を過ごす。古式の鼓動がこちらに伝わり、俺の鼓動も彼女に伝わっているのだろう。
 なぜだろう? とても幸せに感じていた。



「宮沢さんもたいがいですよ?」
 しばらくすると、俺の肩に顔を寄せ、楽しそうに古式は言う、こんな軽口をたたく彼女は本当に珍しい。ふざけたようなその顔に見とれ、そして、その口元に紅が差してあるのに気付く。
 だが、彼女はそんな俺の視線に気付いてか気づかずか、身体を押しつけてきた。自分で始めたことだというのに、思わず焦る。
 鈴とは違う、落ち着いた女性の匂いがやってくる。古式の体温と、鼓動が今まで以上に強く、俺に届く。それに、腕に、彼女の……
 いかん、落ち着け、古式をそういう対象として見るんじゃない。俺は、彼女を助ける為に話しかけているんだ、下卑た感情の対象にするんじゃない。
 所詮は俺も男か……気合いが足りない事を痛感しつつも、必死にあらぬ想像を押さえ込む。
 
「ロマンチック大統領でしたっけ? 本当、その通りですね」
 だが、その葛藤は思いもかけない古式の言葉に吹き飛ばされた。
 あまりに意外な言葉を、あまりに意外な人物から聞いたせいで、さっきまで無闇に高速回転を続けていた頭は一瞬で停止し、呆然とその相手を見る。
 すぐ側に彼女の顔があった。まるで、この瞬間を予測していたかのように、俺の間合いに入り込んでいた。
 間髪を入れず、次の言葉が来る。

「でも、私はそんな宮沢さんが……好きですよ?」
 真っ直ぐな瞳がこちらを見ていた、頭に血が上ったのがわかった、唐突な言葉が、俺の動きを止めていた。
 時間も止まる、古式は、何も言わずに俺を見る。普段は透き通るような彼女の頬が、今はとても赤かった。
 反射的に俺もだと答えそうになる自分を、必死に押さえる。何故か、素直になれない自分がいた。
 そうだ、古式の言葉は、恋を伝えるものではない、あくまで信頼を伝えるもの、仮にそうでなかったとしても……彼女の気持ちは、きっと弓道を手放した代わりを求めているだけだ。
 そんな気持ちにつけこむ事などできない。

「それは嬉しいな、これからも、色々なものを好きになってくれ」
 視線を古式からそらせながら、俺は答え、そして息を呑むような声がした。落胆したかのような、吐息。
 時間が過ぎる、長い長い一瞬。



「そうですね、見つけていけるのなら。でも、私の勇気はもう……」
 どこか遠くで、階段を駆け下りる音が聞こえた。
 そして、その音に紛れ込むように、静かに、呟くように古式は言った。その声は、とても弱かった。

「見つかるさ、その為に、俺に出来ることは何でもしよう」
 我ながら酷い事を言っていると思う、なんて情けない男だと思う、何も出来やしないのに、何でもしようなどとは無責任にもほどがある。真人や、理樹や、恭介が、俺のこんな心を読んだとしたら、どれほど軽蔑されることか。
 結局の所、俺は逃げたのか?
 




 

「古式は、雪が好きなのか?」
 空を見ながら、もう一度尋ねた。
 雪は絶えることなく降り続き、地面に消えていく。これほどの雪が、一体どこに消えてしまうのか……迷うことなく舞い降りた雪は、一つ残らず消えてしまう。
 不思議とそれが悲しかった。

「……雪は邪魔です、邪魔でした。弓がひけなくなりますから。でも、何もかもが雪に覆われた世界は、まるで、私が私ではないかのようで、何か違う事が出来る気がしたんです」
 しばらくして聞こえた声は、過去を伝えていた。同じ事を言っていても、そこに生気はなかった。諦めたような言葉が、空き教室に響いていた。
 そして、彼女は最後に言った。

「……でも、結局、雪に覆われた世界は、雪の中に立っていた私は、幻だったんですね」

 それは、過去しか伝えない古式の声、俺が一番嫌いな声だった。



 










「……雪の匂い、か」
 俺はそう言って空を見上げた。
 まだ夕方だというのに空は暗く、その中を次々と雪が舞い落ちる。いつか彼女と話した時と同じような、今年の初雪。

 雪は降り続く、真っ直ぐ、迷う事なく。逃れられぬ運命に、逆らうことなく。たった一つの運命のレールの上を、淡々と走る。
 
 あの時、俺は間違いなく彼女の事が好きだった。
 馬鹿げたプライドか、何か……それが邪魔をして、結局彼女の想いに応えられなかった。その過ちは、取り返す事は出来ない。

 白い雪は絶えない。
 一度空から落ちれば、ただただ地面を目指すだけ、そこから逃れる事はできない。





 ……だが





「謙吾君、お待たせしてしまいましたか? こちらは、講義が長引いてしまって……」
 聞き慣れた声に振り返る、振り向いた先には、髪を長く伸ばした少女の姿。

「いや、雪を眺めていたんだ。あの時の事を思い出して……な」
 俺の声に、目の前の少女は、恥ずかしそうに口を尖らせる。

「忘れて下さい。さもなくば、あなたが、あの事故の後、包帯だらけの格好で私に言った言葉を思い出しますよ?」
 ふざけたように言う彼女の顔は、とても可愛い。だから俺は言った。



「何度でも言ってやるさ、お前の事が好きだ。みゆき」








 あの時と同じ雪の中を、彼女と共に歩く。

 ……それは、願うべきだった未来

 寄り添った身体が、お互いに暖めあう。

 ……それは、果たそうとして叶わなかった願い

 隣を歩く古式は笑顔で、幸せそうに未来を語る。

 ……それは、果たせなかった夢



 だが、俺は今彼女と歩いている。寄り添って、先へと……
 彼女は弓を捨てさせられ、しかし新たな夢を見つけた。
 俺は新たな夢を見つけ、竹刀を捨てた。
 二人が見つけたのは、共に目指すささやかな幸せ。
 
 結局の所、俺が竹刀を握ったのは、今を得る為だったのではないかと思う。古式の弓も同じだったんじゃないだろうか?
 必死に素振りに打ち込んだのも、高まる高揚感と共に試合に挑んだのも、自分の未来を拓く為だったのだと思う。
 それを得た今、俺にとって竹刀は必要ない。もう、彼の助けはいらないのだ。
 もし再び助けを求める時があるとすれば、それはきっと、俺たちの子に、その助けを教える時だろう。



雪は空を埋め、静かに降り続く。明日、きっと俺たちの前には白い世界が広がっているだろう。
 そして、その中に、彼女と共に雪の匂いを探しに行こう。彼女と同じ匂いを吸おう。二度と心が離れないように……
 そして、何年か先、雪の中で子どもと共に竹刀を振るいながら、あの時の事を語って聞かせるのだ。願わくば、彼……あるいは彼女も幸せな結末を見つけられるように。

 



 雪は、一度出来てしまえば決まり切った未来へと向かうだけだ。

 だが、俺たちは、その未来を変える事が出来る。
 
 たくさんの可能性の中から、自分に一番都合のいいものを掴み取り、ご都合主義の未来を作る事ができる。

 あの事故で、あんな馬鹿げた未来を掴み取ったんだ。誰もが諦めた未来を手に入れたんだ。



 ……だから



 こんな幸せな結末があったって、いいだろう?


[No.809] 2008/12/17(Wed) 23:37:28
以下のフォームから投稿済みの記事の編集・削除が行えます


- HOME - お知らせ(3/8) - 新着記事 - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - 環境設定 -

Rocket Board Type-T (Free) Rocket BBS