この場所に初めてやって来たとき少女だったその人は、いつの間にか大人の女性になっていた。冬休みを利用して帰省した際ふいに思い出して訪れた学校は、表面は何も変わっていないものの中身は大きく変わっていた。卒業してからの三年という月日が多くのものを流していった。卒業した時一年生だった生徒ももう誰もいない。親しかった先生も何人か異動していた。そしてその女性が少女だったときもっとも大きな意味を持っていた少年も、今は大人となりこの場所を離れていた。今は散っている桜並木。朝偶然一緒になって並んで歩いたこともあった。けれどもその少年が並んで歩いている少女はいつの間にか別の少女になっていた。そして今もその二人は並んで歩んでいた。
タッタッ
「あっ!」 「……どうも」 足音が聞こえ後ろを振り向くとそこには見知った相手がいた。智代もまた大学入学とともに町を離れ今日同じように思い出を抱えるこの場所を訪れた。二人の間の空気に微妙な気まずさが漂ってきた。二人はあくまで知っている程度で、相手を親しいかと問われたら答えに窮するようなそんな間柄であった。二人をつなげているのもまたあの少年。この二人の関係に一番適当な答えがあるとすれば、お互い同じ切ない恋をしたことに共感を感じる相手だろう。
「あのさ、たしかにあんたたち最初に説明する時話せば長くなると言ったよ。でもさ、いくらなんでもムダに長すぎない」 「美佐枝さん待ってください。これからいいところなんです」 「いいところなんていらないからあたしの部屋でおでんを食べようとしている理由だけ話して」 「もともと私が美佐枝さんにご挨拶に行くつもりで、そのことを話したら藤林さんがせっかくだから三人で飲まないかと言って」 「ものすごく短いじゃない!」 「まあまあ抑えて抑えて」 「あんたが言うな」 あの後も色々気まずい雰囲気のまま短い言葉での会話が続いていった。そのような中で今日これからどうするのかという杏の質問に智代が返した答えで杏はあることを思いついた。このまま気持ちをうまく吐き出せないまま家へ帰っても嫌な気分はきっと抜けないだろう。それならばお酒の力を借りて気持ちを全部吐き出した方がいいのじゃないのか。智代もまた思うところがあったがため、杏の提案にすぐ賛同した。美佐枝の迷惑とかを考えないまま。 「ちょっと迷惑かもしれないけれどちょうどいいタイミングじゃなかったんですか。一人でおでんとビールなんてさびしくないですか」 「まあね。お酒なんて飲めるのこんな時期だけだからね」 寮生もまた冬休みだから順次帰省し、今日の午前をもって全員がいなくなっていた。そのような理由で今年の仕事が全部終わった祝杯を挙げようとしているなか、ビール、日本酒その他もろもろを持ってやって来た杏と智代に困惑し来た理由の説明求めていたところであった。 「はあ……まあ、いいわ。たしかに一人で飲むのもさびしいし。それじゃ二人もグラス持って」 「「「乾杯」」」
「それにしてもあんたたち冬休みだというのに他に行くところないの」 「椋のや、ああ妹だけどね彼氏ができたとかで家帰るといろいろとうるさいの」 「私の方も弟が一度別れた彼女とよりを戻してたぶん藤林さんのところと似たような感じになってる」 「それで家に帰るのから逃げているわけ。情けないわね」 「それを言ったら美佐枝さんだって実家に帰ってないじゃないですか」 「あたしはほら寮の管理があるわけだし」 「それにしたって冬休みになってるのだからちょっとぐらい帰ったって罰当たらないんじゃないんですか」 「……時々実家から電話かかってきて結婚はどうしたとかいろいろとうるさいのよ」 「人のこと避難できる立場じゃないですか」 そうして三人は様子をうかがうようにお互いの顔を見合わせた。このとき三人はみな同じことを考えていた。間違っても気持ちが一つになったわけではなく同じことを考えていただけである。すなわち『なんだかんだ言ったってこの中で一番ましなのは自分だ』と言うネガティブな考えを。 「「「ハハハハハ」」」 乾いた笑いが狭い部屋に響いた。子ども、お年寄り、心臓の悪い方はこの姿を見ないように。
酒と共に会話が進んでいった。今どうしているのか。そしてこれからどうしたいのか。話のタネはたしかに色々とある。それでも一番話が花咲くのはこの場にいない一人の男性の話であった。 「ふーん。まあ悪いやつじゃなかったけど、それでも卒業して何年も経つのに想い続けるほどではないと思うけれどな」 「それはほら乙女の切ない恋心で」 「そんな格好して乙女とかよく言えるわね」 こたつ、おでん、酒これらで三人の体はどんどん熱くなっていった。熱くなるにつれ杏と美佐枝は上着を脱ぎ、シャツを脱ぎそして今は下着姿になっていった。 「ところで智代、あんた空気読めないとか言われない?」 「そうそうあんたも脱ぎなさい」 「私は清純派だ」 「ずいぶんと引っかかる言い方ね」 「あんた馬鹿やれるときは馬鹿をやる。それも結構大事だわよ」 智代は抵抗しようと思った。けれど智代はまじめだからこそ相手の方が年上だからと考え、そして何より智代は気が弱いわけではないがもともとの気の強さに加え酒が入っている今の二人に逆らうことなどとてもできなかった。そして智代もまた下着姿をさらすことになった。今この場で智代の地位はものすごく低かった。 「一番スタイル悪いあたしがこんな堂々としているのに何縮こまっているのよ!」 「そんなことで堂々としているのががいばれることか!」 「あ、美佐枝さん卵どうですか」 「ありがとう」 「無視された……もうこんな記憶を失いたい」 そんなすっかり欝な雰囲気を醸し出した智代を尻目に、二人はまた先ほどの話に戻っていた。 「もう何年も経っているとか言いますけれど、女子寮の方に入ってた子から聞いたんですけれど、美佐枝さんて死んだ恋人を想って寮母になっているんですよね」 「まあ、別に好きに考えてくれいいけど」 「いつまでも想い続けていなければいけないとか考えず、もう自分を許したらどうなんですか」 「そういう風に見える?」 いつの間にか復活していた智代と共に杏は首を縦に振った。そんな二人の様子に美佐枝は思わず苦笑いした。 「別にそんな立派なもんじゃないよ。恋人とかがいないのは単に縁がなかっただけ。あんたたちも余計なことを考えないでいい男が見つかったらとっとつかまえちゃなさい。でなきゃあたしみたいにずるずると年食うことになるわよ。別にいまさら岡崎を奪いたいとか考えてるわけじゃないでしょ」 「そりゃまあそうですけど」 「あの私はちょっと考えて……」 うまくまとめようとした美佐枝の言葉は智代の言葉によってさえぎられた。今日の智代は本当に空気が読めてなかった。 「私の両親はお互い愛人を作り家に寄り付かない日々を送っていた。そんな家庭から愛が消えていた寂しさから私は荒れた生活を送っていた」 「ちょっと待って。それって普通家庭を大事にしたいとか言う言葉につながるんじゃない」 「そうだと思ってたのだけれど、いざ自分がこういう状況になるとどこか興奮してくるものがあるのだ。問題がある恋愛に惹かれるものを感じるなんてこんな理由で血のつながりを感じたくはなかった」 「やな遺伝ね」 「遺伝よりおでん食べましょ」 場を和ませようとした美佐枝の駄洒落も凍りつきそうだった。先ほどまであれほど体も心も熱くなっていたのがまるで嘘のようだった。
「大体こんないい女三人がそろいもそろって一人身なんて世の中間違っているわ」 「おうおう、もっと言ってやりなさい」 「社会も間違っている」 「他には」 「見る目のない男が多いのも間違っている」 「なるほど」 「いい女がこんなにいるというのに何でいい男はすでに結婚してるのだろ」 「そんなに愚痴をこぼさなくても杏さんならすぐに素敵な人が見つかりますよ」 「ありがとう。はああっ、いい女はこんなところに固まって……」 言葉が半端なところで途切れ杏はぼうっと何かを考えだした。そして何かを決したように顔を上げると智代に詰め寄り始めた。 「ねえ、智代」 「は、はい」 それは智代がよく知っているようで知らない瞳だった。不良と呼ばれていた頃智代はこれに近い瞳を何度も見てきた。喧嘩を前に強烈な意思を持って相手を睨み付ける。獣が本能でより強い者を見分けるように、その睨み合いだけで強者と弱者が決定することも多々あった。だがこの時智代の前にある瞳は過去に見てきた瞳と決定的に違っていた。今まで智代の前にある瞳は最終的には弱者の瞳へと変わっていた。だが今の杏の圧倒的な意思を伴った瞳にはとても抗しきれないと智代は感じた。智代はこのとき初めて弱者の瞳で相手を見ることになった。 「あんた、あたしがいい女だと思うわよね」 「ええ、まあ」 「世の中見る目のあるいい男がいないことに不満があるわよね」 「少し」 「そう……だったらあたしが女の子に走っても文句はないわよね」 「ん……」 智代が驚きの声を上げることもできないくらいの速さで杏の唇が智代の唇に覆いかぶさる。舌を智代の口の中に滑り込ませ貪るように智代を味わう。
チュパ、チュパ、チュプ、ピチュ
「やめてくれ!」
ピチュ、ピチュ、チュパ、チュパ、チュプ、ピチュ
「そんな」
ピチャ、ピチャ、ピチュ、チュパ、チュパ、ピチュ、チュプ、チュプ、チュパ、ピチュ
「あっもっと……」
奪い、そして与えるそんな矛盾すらも簡単に成し遂げるような口付けがそこにあった。そして智代にとっては何年にも感じるような三分間が終わった。部屋の隅で顔を両手で隠すようにしながら智代は押さえ切れない涙を流していた。 「汚された。ファーストキスはレモンの味じゃないのか! なんで私はお酒とがんもどきの味なんだ! しかも女に奪われるなんて。こんな人生考えたことなかった!」 確かにこんな人生を予測できる人がいたら見てみたいと思う。 「そんなくだらないことで泣くな」 「へっへっへっ、何いまさらカマトトぶってるの。結構感じていたくせに」 「あんたも追い討ちをかけない」 こんなサバトのごとき宴はその後も何時間と続いていった。
「ああ、昨日はさすがに飲みすぎた」 翌日もう昼近くになって最初に目覚めたのは杏だった。最初に水をいっぱい飲み、下着姿から変わりそして鏡の前で髪を整える。そして最後に映った姿は昨日ここへ来たときと違い輝いているようにすら見えた。 「いい顔になったわね」 いつの間にか起きていた美佐枝の言葉を聞いて杏は振り返った。 「昨日来た時のあんたはなんともまあ悲しそうな見ていてやな気分になってくる顔してた。けど今はそんな雰囲気がすっかりなくなってる。そっちの顔の方があんたらしいと思うよ」 「昨日あれだけはめはずして飲んだから。それで暗い顔はさすがにできませんよ」 「それでいいわよ。それに引き換えあんたはひどい顔してるね」 「ほっといて下さい! もう二度と二人とだけは飲みません!」 いまだ完全に復活できていない智代の顔は昨日ここへ来る前よりも暗かった。
美佐枝の部屋を去り寮の外へ出ると眩しいくらいに日が照っていた。昨日は薄暗かった空が今日はすっきりと晴れ渡っていた。後数日で年が変わる。その明けた年は三人の人生もまた必ず明けたものになるだろう。 「でも昨日はあんた本当にかわいかったわね」 「ちょっと待ってくれ! ひょっとして本気でそういう趣味を持っている人なのか?」 ……ええと、きっと明けたものになるだろう。 「そうやっておびえる姿かなりそそるわね」 「やめてくれ。ファーストキスばかりでなくセカンドキスまで女の子に奪われるなんてそんなの嫌だ」 ひょっとしたら明けたものになるになるだろう。 「あれ、あたしはキスしたいなんて一言も言ってないのにもしかして期待してるわけ」 「そんなわけない。というかなんでどんどんにじり寄ってきてるんだ」 限りなく低い可能性ながら明けたものになるだろう。 「それじゃいただきます」 「やめてぇぇぇぇぇっ!」 智代諦めろ。
[No.81] 2006/12/22(Fri) 00:42:22 |