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父娘の平日〜看病編〜 - ひみつあーんど初 5810byte - 2009/02/05(Thu) 21:46:40 [No.910]



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第26回リトバス草SS大会(ネタバレ申告必要無) (親記事) - 主催

 エクスタシーネタバレの申告は必要ありません。
 未プレイだけど参加しちゃうぜ!な方はご注意ください。


 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「病」です。

 締め切りは2月6日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は2月7日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.908] 2009/02/05(Thu) 21:25:32
父娘の平日〜看病編〜 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつあーんど初 5810byte

不覚をとった。久しぶりに家族で一緒に過ごすために土日を利用して実家に帰って来たのだが、葉留佳と一緒にずいぶん遅くまで雪で遊んでいたのが原因で風邪を引いてしまった。
翌日、見事に高熱で床に伏していた。それから日曜はずっと家でベッドで寝ていたが熱は下がらないまま月曜日になり、両親は仕事、葉留佳は学校を休んで私を看病しようとしてきたがそれを必死に止めて…もっとも葉留佳はそれを口実にサボるつもりだったんだろうけれど、とにかく今は一人で寝ている状態。
「だる…」
私は緩慢な動作で額に冷たかったタオルを枕もとの洗面器に戻した。
熱はまだありそうだったが、昨日の夜に比べればずいぶんと体調もよくなったようだ。
寝なおそうと時計を見ると9時過ぎ。葉留佳はちゃんと授業に間に合っただろうか…余計な心配をかけてしまった、と思いながらもそんな関係になれたことに笑みがこぼれる。
ふと、昨日の夜から汗をかいていたが着替えていないことに気付いて胸元に鼻を突っ込んでみる。うん、そんなに匂わない。

―――でも、やっぱり…気持ち悪いわ…

そう思ってのっそり着替えを取りにベッドから起き上がる。
「誰もいないし、とりあえず全部脱いじゃおう…」
上着を脱ぎ、葉留佳よりほんの少しだけ小さい胸を見下ろしてため息。
―――べ、別にそんなに気にしてるわけじゃないんだからっ、むしろ私のほうがウエストは細くていいのよっ
「はぁ…誰に言ってるのよ私…」
ブラを外してズボンを脱ごうと屈んだそのとき、

バタンッ

「佳奈多! 風邪引いた…って…」
「……」
「…いや、えーっと…」
「…父さん…」
「あ、あーっとだな…ますますアイツに似てきたな」
「でてけええええええぇぇぇぇぇっっっ!!!」






父娘の平日〜看病編〜






「ったく、どうせ娘の裸なんて見たってどうも思いやしねーってのに」
「そういう問題じゃありません」
ピシャリと切って捨てる。ノックもなしに女の子の部屋に入ってくるなんてどういう性格してるんだか…
「とにかく、次入るときはぜっっっったいノックして入ってきてくださいねっ!」
「へいへい」
「返事はハイ!」
「ほらほら、病人が大きな声出すんじゃねえよ」
両肩を押されて無理やりベッドに押し付けられる。文句を言おうとした途端に、くーっと可愛いおなかの鳴く音がして思わず黙り込んでしまう。
「なんだよ、腹が減ってたのか…? 朝飯は食ったのか? っていうか…あいつらなんか用意していけよな…ったく」
「〜〜〜っ」
「ちょっと待ってろ、なんかすぐに食えそうなもん探してくる」
「…うん…」
この家にそんな調理もなしに食べられるものはおいてなかったと思うが、とりあえず父さんの思いやりは素直に受け取っておく。


……
………
ちょっと待ってろ、と言われてからもう既に30分以上経っているが、父さんが戻ってくる気配がない。
もしかしたら、どこかに買いにいっているのかもしれない。
「…喉渇いた…」
と、机の上においてあるペットボトルを見ると中身は空。仕方なく起き出して上から猫柄の半纏を着て体を冷やさないようにする。
階段をゆっくり降りていくと台所から妙な騒がしい音が聞こえてくる。
『えーっと、こうか…? うわっ、入れすぎちまった…っておいおい吹き出してんじゃねえかよ! あちーっ!』
訂正、台所は既に戦場になっているようだった。
「父さん、忙しそうね?」
「ん? おお、佳奈多か…わりいな、お前におじやでも作ってやろうかと思ったんだが…まぁ、この有様だ」
母さんが帰って来たら泣くわね…これは…
「いいわ、私も手伝うから…っとと」
そういった途端にふらついて父さんにもたれかかってしまう。
「いいから、休んでろ、な? 後は俺に任せとけ」
「どの口がそんな事言うのかわからないけれど…」
と台所の戦禍を見て呟く。
でも、いつものように頭が回らないところを見るとやっぱりまだ体調が万全でないからだろうか。
「なんとかなる…いや、なんとかするさ」
そういって私を…その…いわゆるお姫様抱っこをして部屋まで連れて行く父さん。
「や、やめてよ…こんな…恥ずかしいってば」
「俺の大事なお姫様だ。ちょっとばかし口が悪いがな」
「父さんに…似たのよ、きっと」
「はは、違いねえ」
クスクス二人で笑いあいながら私の部屋に戻って、ベッドに乗せられて、布団を被せられる。
大人しく寝てろよ、と言って父さんが部屋から出て行く。その背中にありがとうと言って私はもう一度眠ることにした。


……
………
「…ん? 佳奈多、起きたか?」
目が覚めると額に冷たい感触。どうやら濡れタオルが乗っているようだ。
今何時かと聞くと昼を少し過ぎたところだと答えが返ってきた。
「熱、測ってみろ」
「ん…」
しばし沈黙。37.1℃。平熱に近づいてきたみたい。
「飯、食うだろ?」
「うん」
お盆の上に土鍋とレンゲだけ乗っていた。
「ちょっと、小鉢か何かで分けてくれないの?」
「あん? ほら、あーんしろ」
「………」
「そんな可哀想な人を見る目で見るんじゃねえ、ほら」
強引にレンゲにおじやを乗せて口元に持ってくる。おなかが空いてるのは事実だし、つまらない問答で時間を使うのももったいない。
あーん、もぐもぐ、あら、意外とおいしい。ちょっと味付けが濃いけれど、私はこれくらいが好き。
「おやじのおじやの味はどうだ?」
「…寒いわ…」
「そりゃ、風邪引いてるからな」
「最低ね…最低…」



夕方を過ぎて熱も下がり、ベッドから起きだして飲み物を取ってこようと戦場に向かう途中、居間で昔懐かしいドラマを見ていた父さんがこちらに気付く。
「ん…佳奈多、どうした。もう寝てなくて良いのか?」
「うん、熱も下がったし、体もだるくないから平気」
んっ、と体を伸ばす。ちょっとだけポキポキと音を鳴らして間接が伸びるのを感じる。
「そういう治りかけが肝心なんだよ、ほら。お茶か? スポーツドリンクのほうがいいか?」
父さんはどうやら私をまだ子ども扱いしているようだ。自分の体くらい、自分で管理できるんだからいつまでも過保護なのはどうかと思うんだけれど。
「もう、父さんは過保護すぎるのよ。いつまでも子ども扱いしないで」
そういうと父さんはこちらを真っ直ぐ見つめて、

「そうか…でもいままで子ども扱いもしてやれなかったからな」

「……」
そうか、過保護なだけじゃなくて、私の事をどう扱っていいのか戸惑っているんだ。
「…そうね…そういえばそうだったかな…」
「こんな病気のときくらいはよ…俺に甘えてきても、良いんだぞ?」
ストン、そんな音を立てて私の心に広がっていく父さんの言葉。
「うん、そうする」
そう、素直に言えた。
「ありがと、父さん」
「礼なら俺じゃなくて、俺たち家族を繋ぎとめたアイツに言えよ」
照れくさそうに私の頭にポンと手を置いてあさっての方向を向く。
「直枝の事?」

ピンポーン

「佳奈多さーん?」
噂をすればなんとやら。
葉留佳に私の事を聞いた直枝が呼び鈴を鳴らす。
きっと、彼の姿を見たらまた熱が上がりそうな予感がする。
だって、私は今…

風邪よりひどい恋の病を患っているんだから。


[No.910] 2009/02/05(Thu) 21:46:40
わらしべクドリャフカ (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@20356 byte

 昔の服のポケットから古銭が出てきた。一銭玉だった。
「わふーっ」
 クドリャフカは幸せな気分になり、得意のパッチワークで小物入れをつくり、中に一銭玉を入れてお守りにした。
「さいきょーなのですっ」
 そしてクドリャフカは、反対側のポケットからもう一枚の一銭玉を発見する。頭上にかざし穴があくほど見つめながら思い出す。そういえばこの小さい服を着ていた幼いころ、日本贔屓の祖父が愛蔵していたものを何枚かねだってもらったんだっけ。
 さてどうしたものか。
 思いがけぬ再会の喜びはもう充分に噛みしめたし、形にも残した。同じお守りは、二つもいらない。
「一銭の価値もない、と人は言いますが」
 一銭には一銭以上の価値がある、そのことを証明しよう。
 幸せを、誰かにおすそわけしよう。
 クドリャフカは再び裁縫箱を開ける。

 最初に出会った相手にプレゼントしようと決め、クドリャフカは恋する少女のような足取りで部屋を出た。
「わふーっ!」
 お守りをポケットに忍ばせてズンタカポンと行進し、寮の階段を降り立ったところで、クドリャフカは昇降口に小毬の姿を見つけた。
「小毬さん小毬さん、そんなところでなにをしているのですか?」
「あ、クーちゃん。私はお散歩中だよ〜」
「そうなのですかー。私もこれからお散歩に出かけるところなのですっ」
「そうなんだ〜。今日はいい天気だもんね〜」
「ですね〜」
「……ふぅ」
「あれ、小毬さん、なんだか元気がないみたいです。どうかされたのですか?」
「えっ……そんなことないよ?」
「隠してもダメです。私にはわかります。今の小毬さんはどちらかというと困りさんです」
「よ、よくわからないけど……う〜ん、そうだね、ちょっとだけ疲れちゃってるのかも」
「なにか疲れるようなことをされているのですか?」
「うん、ちょっとね。私、ボランティア活動をしてるんだけど、最近そっちが忙しくて」
「おおー! 偉いです小毬さんっ。尊敬しちゃいますっ」
「そんなことないよ〜」
 クドリャフカは深く感心する。周囲の同年代がバイトだデートだとはしゃいでいる中でボランティアとは! クドリャフカは躊躇なくポケットに手を入れた。
「そんな偉い小毬さんにプレゼントですっ」
「私に? なんだろなんだろ〜」
「これ、私がつくった幸せのお守りです。よろしければどーぞっ」
「わぁぁ、ステキなプレゼントだね。かわい〜」
「元気の出るお守りです。これで元気になったら、またぼらんちあーがんばってくださいですっ」
「一生大事にするよ〜」
 プレゼントしてよかったとクドリャフカは思う。彼女ならきっと、幸せを何倍もの大きさにして他の人に還元してくれるはず。一銭も計り知れない価値を持つことだろう。
「じゃあじゃあ、私からクーちゃんにおかえし〜」
「ふぇ?……これは、ぽっきーですか?」
「うん。食べると元気出るよ〜」
「あうあう、それなら私より小毬さんに必要なものだと思うです……」
「私はクーちゃんから元気の出るお守りをもらったからだいじょーぶ。ね、私からの気持ち、もらってくれる?」
「……そこまで言われてしまうともらわないわけにはいかないです。小毬さん、ありがとーございますっ」
 そうして二人は別れた。古銭の入ったお守りはクドリャフカから小毬の手に渡り、お返しにクドリャフカはぽっきーを得た。
「わふーっ!」
 ぽっきーを咥えながらズンタカポンと行進し、女子寮を出て北校舎を通り抜けたところで、クドリャフカは渡り廊下の陰に鈴の姿を見つけた。
「鈴さん鈴さん、そんなところでなにをしているのですか?」
「クドか。うん、ちょっと困ったことになっているんだ」
「お困りですかー。どうされたんですか?」
「猫が排水溝から出てこないんだ」
「はいすいこー?」
 鈴の視線の先をクドリャフカは追った。校舎に沿って伸びた側溝は、渡り廊下に差しかかったところで小さな空洞になっていた。
「この中に猫さんが入ってしまったのですか?」
「レノンのやつだ」
「なんでまた、こんなところに入ったんでしょう……」
「あいつ、コバーンと大喧嘩したんだ。よくわからんが、方向性の違いとかなんとかが原因らしい」
「それは……ある意味当然の結果だったのでわ……」
「で、喧嘩に大負けして、この中に引きこもってしまったんだ」
「引きこもりですかー」
「そうだ、ニートだ。むしろニャートだ」
「それはなんとも現代的で社会的で非生産的な事態ですっ」
「……もう、二時間もずっとこのままなんだ」
 クドリャフカは、鈴の真剣なまなざしに気づく。我が子の安否を気づかう母親の顔に近い。
「……なんとか出てくるように説得できないのでしょーか」
「あいつは猫一倍気難しいやつだからな。何回か試してみたが全然ダメだった」
「では、なんとかして引っ張りだしてしまうとか」
「あと少しのところで手が届かないんだ。ねこじゃらしでおびきだそうとしてみたが、うまくつかまってくれない」
「うーん……」
 鈴がダメだったのでは自分の手の長さではどうにもできるわけがないし、そもそも自分の浅知恵で思いつくことなど、鈴のことだから一通りは試した後だろう。打つ手なし。クドリャフカは歯がゆさを覚えるしかない。
「このままではエサもやれない……」
「はうー……あ、それならよいものがありますですっ」
 クドリャフカは、小毬からもらったぽっきーの袋を取り出した。まだ何本か残っている。
「おお、それだっ」
「これなら手が届かないところにいる猫さんにも食べさせてあげられますっ」
「いや、もっといいことを思いついたぞ。クド、あたしにそれを一本くれ」
「あ、はい」
 鈴は、ぽっきーを受け取った手をそのまま排水溝にねじこんでいく。3、2、1でフィッシュオン。素早く抜け出された手にはぽっきーと、それに齧りつく猫の仔一匹。
「おおーっ、見事な一本釣りですっ」
「こらレノン、暴れるなっ。あたしの指まで食おうとするなっ」
「とてもお腹がすいていたのですねー。よしよし、もっとあるからねー」
 ぺろりといかれた。
「全部食べられてしまいました……」
「まったく、食い意地の汚いやつだな。罰としてお前は今日の昼飯抜きだ」
「ええっ、そんなかわいそうですっ」
「いいんだ。あまりエサをやりすぎてぶくぶくに太ったら、将来困るのはこいつなんだ」
「そうなんですか……ああっ、レノンが猫なで声で激しく抗議してますっ」
「だからこのレノン用のツナ缶はクドにやる」
「ああっ、抗議の矛先がこの瞬間私のほーにっ!?」
「もらってやってくれ。それがレノンのためでもあるんだ」
「ああっ、こちらを見ながら激しく爪を研ぎはじめましたっ!?」
「早く行ってくれ。この子にはあたしからきつく言い聞かせておくから」
「よいのでしょうか……」
 そうして二人(と一匹と周囲の十数匹)は別れた。ぽっきーはクドリャフカから鈴の手(レノンの腹の中)に渡り、お返しにクドリャフカはツナ缶を得た。
「わふーっ!」
 ツナ缶を手にしながらズンタカポンと行進し、渡り廊下から南校舎に入ったところで、クドリャフカは掃除用具入れの陰に葉留佳の姿を見つけた。
「三枝さん三枝さん、そんなところでなにをしているのですか?」
「やはークド公じゃん。見ての通り逃亡中だよ、現実から」
「戦わなきゃ現実と、ですっ」
「うん、本当は風紀委員から逃げてるんだけどねっははー」
「お元気そうでなによりなのです。で、今日はなにをやらかされたのですか?」
「キュートな顔してなにげに毒吐くなぁクド公よぅ! 私はただ風紀委員が校則違反のお菓子を持っているのを偶然目撃してしまったから、その不法行為を是正しただけなのだよ!」
「なんとーっ! それでは三枝さんは悪の組織から恨みを買ってしまった正義の味方的な感じみたいなですかっ」
「ま、校則違反者から没収したブツだったってオチだったんだけどね。食べちった後で知ったけど」
「勘違いなうえに食べてるんじゃないですか……」
「だってわかんないじゃーん。おいしそうだったから仕方ないじゃーん。実際においしかったじゃーん」
「不慮の事故だったとしても、風紀委員のかたが三枝さんを追いかけまわるのもわかる気がしますです……」
「お腹すいてたんだから大目にみてほしいよまったく。こちとら金欠でお昼抜きだったんだからさー」
 申し合わせたようなタイミングで葉留佳の腹が鳴る。
「……お菓子を食べたはずなのでは?」
「んなもんで足りるわけないじゃん。こちとら花も恥じらう育ちざかりの乙女ですヨ」
「恥じらってない、恥じらってないのです……あ、そうだ、よいものがありますっ」
「お、食べ物? 食べ物?」
「先ほど鈴さんからいただいたツナ缶がここに……あ、ダメですこれ、猫用って書いてます」
「食えりゃいーのサっ。もーらいっ」
「ああっダメですダメですっ。お腹を壊してしまいますっ。それに缶切りがないと開けられないタイプなのですっ」
「ばりばりばりー!」
「あああっ、そんな歯でなんてっ!? 三枝さん恥じらい恥じらいっ!」
「あーおいしかった。意外といけるネこれ」
「もう食べ終えてますし……」
 にっこり笑ってピースサイン。三枝葉留佳の辞書に悪気という文字はない。
 そのとき、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。三枝は見つかったか、今こっちから妙な金属音が、それは怪しいわね行ってみるわよ見つけたら即刻捕獲しなさい、ワンワン、などという穏やかでない声が聞こえてくる。
「あー近いねこりゃ。ここが見つかるのも時間の問題だなー」
「はわわわ、三枝さん、早く逃げてくださいっ」
「ん、じゃーそろそろ行くね。あそだ、お返しにこれあげるよー」
「これは……たんばりんですか?」
「そ、ノリノリタンバリン。これでキミもノリノリタイガーだっ」
「いえふーっ! ノリノリですっ」
 そうして二人は別れた。ツナ缶はクドリャフカから葉留佳の手に(缶だけ)渡り、お返しにクドリャフカはノリノリタンバリンを得た。
「わふーっ!」
 タンバリンをシャカシャカヘイしながらズンタカポンと行進し、南校舎から中庭に降り立ったところで、クドリャフカは大きな木の下に美魚の姿を見つけた。
「美魚さん美魚さん、そんなところでなにをしているのですか?」
「能美さん、こんにちは。私はちょっと芸術の壁と戦っているところです」
「芸術の壁ですかっ。いわゆるぐらふぃてぃあーとですかっ」
「それは、壁の芸術ですね。まあ壁となっている建物の所有者にしてみれば、芸術だなんてとんでもない話だとは思いますが」
「まともに返されてしまいました……」
「私がやっているのは、短歌です。良い詩が書けずに悩んでいたところです」
「おおーっ、短歌ですかっ。それはすばらしいですっ」
「能美さん、今から私が創作中の詩を詠みますので、ちょっと聞いてもらえませんか?」
「わふーっ、もちろんですっ」
『直枝さん 受けと見せかけ 鬼畜攻め 恭介謙吾 真人もいける』
「一応完成の形をとってはいますが、どうもしっかりこなくて……能美さん、どこかおかしいと感じるところはありませんか?」
「ありすぎて困るくらいなのですが、いろいろと素人の私が口出ししてはいけないと防衛本能が訴えるのですよ……ぶるぶる」
「そうですか……芸術とはやはり難しいものですね」
「わ、わふー……あ、そうです。芸術ということですので、ここは新しい視野を持つという意味で、別の芸術に触れてみるのはいかがでしょーか?」
「別の芸術、ですか?」
「音楽ですっ。幸いここに三枝さんからいただいたたんばりんがありますですっ。さあこれを持って、れっつみゅーじっくちぇけらっ、ですっ」
「こう、でしょうか」
 シャカシャカヘイ、シャカシャカヘイ。世にもシュールな二人組の音楽が繰り広げられる。
「わふーっ、たくさんシャカシャカしすぎて疲れましたっ」
「私もです……しかし、良い刺激が受けられたおかげで、良い案が浮かびました。そう、ここをこう変えて……」
『直枝son 受けと見せかけ 鬼畜攻め 恭介謙吾 真人でもイける』
「多少字余りですが、すばらしい出来です。文句のつけようがありません」
「わふーっ、もうよくわかりませんがこれで万事解決ですっ」
「能美さんのおかげです。本当にありがとうございました」
「お役にたてたようでなによりですっ」
「それでご相談なんですが、このタンバリン、よろしければ私に譲っていただけませんか? またアイデアに詰まったときに使いたいですので」
「はいもちろんっ。実はいただきものなのですが、私が持っているより誰かの役にたつほうがたんばりんも喜ぶと思いますっ」
「助かります。ではお返しにこれを能美さんに差し上げます」
「わふーっ……め、めがねですか?」
「メガネです」
「でも私、視力だけは英語の成績よりもよいですので……」
「能美さんの英語の成績がいくつなのかは怖いので聞きませんが、大丈夫です、伊達ですから」
「ふぇ? 伊達めがねなんですか?」
「はい、伊達じゃないメガネじゃない伊達メガネです」
「………………えーと?」
「伊達じゃないメガネじゃない伊達じゃない伊達メガネです」
「ああああ」
「……つまり、伊達メガネですね」
「おー、それなら私でも大丈夫なのですっ」
 そうして二人は別れた。ノリノリタンバリンはクドリャフカから美魚の手に渡り、お返しにクドリャフカは伊達メガネを得た。
「わふーっ!」
 伊達メガネを掛けながらズンタカポンと行進し、中庭から食堂横の裏庭に差しかかったところで、クドリャフカは自動販売機の近くに唯湖の姿を見つけた。
「来ヶ谷さん来ヶ谷さん、そんなところでなにをしているのですか?」
「おや、なんだか今日は知的に見えるクドリャフカ君ではないか。誘っているのかねそうなんだろうええ?」
「最初からぶっとばしすぎですこの人……」
「まあ、特に何をしていたわけではないな。あえて言うならひなたぼっこだ」
「ひなたぼっこですかー。それはとても楽しそうなのですっ」
「ああ、楽しいとも。こうやって下級生の教室の窓からよく見える場所でミステリアスでアンニュイな雰囲気を醸し出しながらひなたぼっこをしているとだな、可愛らしい下級生の少女が潤んだ瞳でラブレターを持ってくることがよくあるんだ。たまに可愛らしくない男も釣れてしまうのが難点だが」
「そういえば来ヶ谷さんはもともとこのようなお方なのでした……」
「しかし最近はどうも掛かりが悪い。どうやらおイタが過ぎて警戒されるようになってしまったらしいな。ゆゆしき事態だ。クドリャフカ君は解決策をどうみる?」
「ええっ……えと、えーと、よくわかりませんが、いめーじちぇんじをはかってみてはいかがでしょうか」
「なるほど、今キミがしているようなことをしてみる、というわけだな」
 唯湖は流れるような手つきで、クドリャフカの顔から伊達メガネを抜き取った。実に瞬きひとつの間の出来事。驚いている暇もなかった。
「どうだ、似合っているか?」
「と、とてもよくお似合いだと思いますですっ」
「ハハハ、そうだろうそうだろう。よし、これで万事解決だな」
「ただ私が言いたかったのは、もう少しこう内面的ないめーじちぇんじといいますか……って、なんか潤んだ瞳でらぶれたーを持った下級生女子が押し寄せてきましたーっ!?」
「ハハハ、よしよし、慌てずとも全部読んであげるから順番に並びなさい。ああ至福至福」
「もうなにを信じてよいのかわからなくなってきました……」
「そういうわけでクドリャフカ君、おねーさんはこれから大事な用事ができてしまったわけだが」
「はい……私はそろそろ行きますです。そのメガネは差し上げますのでお役にたててくださいです」
「恩にきるよ。そうだ、お返しにこれをあげよう」
「これは……ぶ、ぶらじゃーですかっ!? た、たいへん申し上げにくいのですが、のっぴきならない身体的な事情ゆえ、これを私がいただいても有効活用しかねると思うのですが……」
「不満か。ならばぱんつも付けよう」
「いえあの、そういうことではなくっ」
「ついでにサービスでもずくも付けておくか。ハハハ」
「もはや私にどうしろと……」
 そうして二人(と下級生女子大勢)は別れた。伊達メガネはクドリャフカから唯湖の手に渡り、お返しにクドリャフカは???のブラジャーと???のぱんつともずくを得た。
「わふーっ!」
 ブラジャー(そうびできない)とぱんつ(そうびしかねる)ともずくをとにかく所持しながらズンタカポンと行進し、裏庭から部室棟を抜けてグラウンドに出たところで、クドリャフカはグラウンドの中心に真人と謙吾と恭介の姿を見つけた。
「皆さん皆さん、そんなところでなにをしているのですか?」
「能美か」
「お、いいところに来やがったな!」
「わ、わふーっ? なにがですか?」
「事情は後だ、とにかく武器をくれ」
「できるだけ強そうなのを頼むぜ、クー公!」
「わ、わ、わふーーっ!?」
「待て待て、それじゃ能美はわけがわからないだろう。俺がちゃんと説明する。かくかくしかじか四角いムー○」
「なるほど、いつものバトルが勃発して恭介さんが立ち会ったまではよかったものの、ギャラリーが誰もいないせいで武器が用意できずに困っていたと」
「そういうわけだ」
「さあ、わかったらさっさと武器を寄こしやがれ!」
「わ、わふーっ」
 投げこまれるブラとぱんつ。もずくは食べ物なので投げるわけにはいかない。
「し、下着だとっ?」
「うおーっ、ブラジャーなんかでどうやって戦ブラジャー!」
「おお、真人のやつやる気だな。さっそく「戦うんじゃー」と「ブラジャー」を合体させてやがる」
「まさかと思いながら聞いていましたが、やはりそういう意図なのでしたか……」
「しかし、これは布ではないか。こんなものでどうやって戦えというのだ」
「へっ、これは勝負あったな、謙吾」
「……なんだその自信は。貴様のブラジャーだって所詮は同じ下着ではないか」
「甘いな。テメーはひとつ重要な見落としをしてるぜ」
「なんだと?」
「ブラジャーはぱんつと違って……ワイヤーが入っている!」
「なっ……しまったぁぁぁぁ!」
「そこまで驚くようなことなのでしょうか……」
「ま、健全な男子学生にとっては未知の領域だからな」
「ちなみにオレも今手に持って初めて知ったが……とにかく、これだけ武器の性能差がはっきりしていたら勝負は決したも同然だな」
「くっ、どうすればいい……っ」
「落ち着け、謙吾!」
「……恭介?」
「ここは発想の逆転だ。武器にならないのなら……防具にすればいい!」
 青天の霹靂。謙吾にかつてない衝撃が走る。ついでにクドリャフカにも。
「そうか! つまりこういうことだな!……おおお、これは羽根のように軽く、少ない面積ながらも体幹をしっかりガードし、かつ視界の妨げにもならない、すばらしい面だ!」
 謙吾は、すでにアホに開眼した謙吾だった。
「テメーそんなのずりーぞ! そういうことならオレだって!……おおお、これは大胸筋を包みこみ、少ない面積ながらも心臓をしっかりガードし、かつ広背筋のトレーニングにもなる、とんでもねぇ胸当てだぜ!」
 真人は、元からアホだった。
「……ま、防具にした時点で勝ちはなくなるわけだがな」
 恭介は、アホだがフィクサーだった。
「よし、そこまでだ。この勝負、両者引き分けっ」
「ふ、貴様相手では珍しい、白熱した好勝負だったな」
「おう、たまにはこんな激しい戦いもいいな。気が引き締まるぜ」
「それはぶらじゃーを付けたままだからなのでは……ともあれ、お二人ともお怪我がなくてなによりなのです」
「クー公、この防具返すぜ、サンキューな」
「うむ、俺のも返そう」
「か、返されてもとても困ってしまうですっ。それはお二人に差し上げますっ」
「お、マジか。へへ、わりーな」
「そうか、ならばありがたくいただいておこう」
「ど、どういたしましてです……」
「お返しにこれ、やるぜ。理樹のノートだが」
「俺からもこの剣道部の面をやろう。最強の面を手に入れた俺にはもはや不要の品だ」
「あ、ありがとうございますです……」
「……いいな、みんな仲が良くて」
 仲間外れになっていた恭介が、地面にのの字を書いていた。
「俺なんかどうせ(チラ)……一人だけ学年も違うし(チラ)……」
「あわあわ、こんなものしかありませんが、恭介さんにもこれを差し上げますですっ」
「もずく、だと……? イヤッホー、もずく最高ーぅ!」
「喜んでいただけたようでなによりです……」
「お返しはこれだ。名作劇場DVD-BOX。ラッ○ーの健気さにむせび泣くがいい」
 そうして四人は別れた。???のブラジャーと???のぱんつともずくはクドリャフカからそれぞれ真人と謙吾と恭介の手に渡り、お返しにクドリャフカは理樹のノートと面と名作劇場DVD-BOXを得た。
「わふーっ!」
 面を被りノートとDVD−BOXを小脇に抱えながらズンタカポンと行進し、行くところがなくなって寮に戻ろうとしたところで、クドリャフカは男子寮の入口に理樹の姿を見つけた。
「リキ、リキ、そんなところでなにをしているのですか?」
「や、クド。僕は今日出た課題の準備をしているところだよ」
「課題? 今日の授業で課題なんか出ましたっけ?」
「いや、僕だけ特別にね。前の試験の結果があんまりよくなかったから、その補習みたいなもんかな」
「そうなのですかー。リキ、ふぁいとですっ」
「あはは、ありがとう……ゴホゴホ」
「おや、風邪引きさんですか?」
「うん、朝からちょっと体調がね。でも、今はそれどころじゃないんだ。ちょっと困ったことになってて」
「お困りですかっ。ならば私にご相談してみてください。なぜだかわかりませんが、今の私なら必ず困りごとを解決できる自信があるのですよ」
「その課題ってのが、名作劇場DVDを全巻観て、剣道の面を被りながら自分のノートに感想を書いて提出するってやつなんだけど、DVDも面も、なぜか僕のノートも見つからなくて困ってるんだ……」
「ここまでくるとさすがに作為的なものを感じざるをえませんが……リキのお役にたつためなら気にしませんですっ。リキ、これどーぞっ」
「わ、持ってるうえにくれるんだ? ありがとうクド!」
「どういたしましてですっ」
 クドリャフカはニコニコと理樹を見つめる。今度はどんなお返しがもらえるのだろうかとわくわくする。しかし、いつまで経っても理樹の手からは何も差し出されなかった。
「……?」
「あ、ごめん……何かお返しをしたほうがいいんだろうけど、僕、何も持っていないんだ……」
 リトルバスターズでのバトル時にも、基本的に人からもらったアイテムを活用していた理樹は、自分のアイテムをひとつも持っていなかった。
「あ……」
 クドリャフカは気づく。理樹がアイテムを持っていないことにではなく、人に幸せのおすそ分けをするために部屋を出たはずが、いつの間にか見返りを期待するようになっていた自分に。
「そ、そうでしたか。別になにもぜんぜん気になさらないでくださいです……」
「ごめん、本当にごめん……」
「謝らないでくださいです……謝られると泣きたくなってしまうのです……」
 クドリャフカは、自分の卑しさを呪った。

 その日、クドリャフカは遅れて理樹からお返しをもらった。
 もらったのは、風邪だった。
「ケホケホ。うう、辛いのです……寂しいのです……」
 ルームメイトの二木佳奈多は所用で実家に帰っており、クドリャフカは部屋で一人だった。
「やはりあさましい私への天罰なのでしょうか……」
 そのとき、部屋のドアがノックされた。クドリャフカはふらふらになりながらもベッドを這い出てドアを開けた。そこには……
「り、リキっ!?」
「僕の風邪が移っちゃったって聞いて……看病に来たよ」
「はわわわ、そんなダメですっ。リキに風邪が移っちゃいますっ」
「僕から移った風邪なんだから、僕は大丈夫だよ。ほらクド、病人なんだから早くベッドに戻って」
 クドリャフカをベッドに寝かせると、理樹は手際よく暖の確保や空気の入れ替え、掃除や炊事に取りかかった。
 全てを終えるころには、クドリャフカもすっかり理樹に甘えるようになっていた。
「ふーっ、ふーっ」
「あ、ごめん。お粥、熱かったかな?」
「少し。でも、とてもおいしいのです」
「熱はどうかな?」
 そう言うと、理樹はクドリャフカのおでこに自分のおでこを当てた。クドリャフカはドキドキしながらも理樹の行為に身を委ねた。
「……ちょっと熱いかな」
「はい、でもだいじょーぶなのです。今はこの熱が逆に心地よいのです」
「そうなの?」
「ですです」
 おでこを寄せ合ったまま、クドリャフカはこっそりポケットに手を這わせた。幸せのお守りは確かにそこに、ある。
「今日はずっと、クドのそばについているからね」
 幸せのおすそわけをして本当によかった、とクドリャフカは思う。
 一銭玉から始まった幸せは巡り巡って、こんなにも素敵なお返しになったのだから。


[No.911] 2009/02/06(Fri) 00:01:36
裏庭での一時 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@17018byte(冒頭、若干修正)

「でもでも、やっぱり少しだけ不満があるです」
「気持ちは分かるけどね、あなたも私も姉さんも仕事があるのだから少しは我慢なさい」
「でもでも〜」
「むぐ、もぐ」
「食べてばっかりいないでお姉ちゃんに反論してよ〜」
 人気のない裏庭。放課後、恭介の都合で野球の練習までに少しだけ時間が出来て、帯に短くたすきに長いその空白の時間、寮に帰る気になれなかった理樹が散歩していた時にそんな会話が耳に入ってきた。
「?」
 裏庭は物寂しい場所で秘密の会話をするにはうってつけの場所だがこういった雑談をするには不向きだ。なんというか、風景を見ているだけで気が滅入る。真面目な会話をするには向いている風景なのかも知れないけど。
 こんな所でそんな雑談をする人達にちょっとした興味がわき、ひょいと裏庭を覗いてみる。ゆっくりと邪魔にならないように静かに顔を出したつもりだったが、最初の瞬間からバッチリ全員と顔が合ってしまった。
 3人とも女の子。背が高くてきりっとした顔つきの、灰色がかかった髪で色白の女の子。背が低くてぽややんとした、肌が少し焼けた黒髪の女の子。食べてばっかりの、けれども黙って立っていたら絵になりそうな女の子。
「あ、ごめん。邪魔しちゃっ――」
「あ、理樹君だ」
 と。理樹が謝る前に背の低い女の子が、いきなり名前を呼んできた。
「え?」
「どうしたのかしら? こんな所になにか用事でもあるのかしら?」
 背の高い女の子も気安くそんな事を言ってくる。
「え? え?」
 全く見覚えがない。理樹は助けを求めるように最後の一人の女の子の方を見る。
「もぐ、もぐ、ごっくん」
 口の中の物を咀嚼し終えた女の子は、
「や」
 そう言って親しげに手をあげて挨拶したら、また目の前にある羊羹に手を伸ばした。なんというか、行動ですべてを台なしにしているような女の子だ。
「って、そうじゃなくて」
 ぶんぶんと頭を振って変な考えを振りはらう。失礼な事を聞くとは分かっているが、これを聞かない事には話が進まない。
「皆さん、どちらさまですか? 僕と会った事ってありましたっけ?」
 理樹の言葉に、背の高い少女はああそうかといった顔になり、背の低い少女は頬を膨らませ、台なし少女は食べる動きを停止させる。
「まあ、よく考えたら分からないわよね」
「ひどいよー。理樹君、3日前一緒にご飯食べたじゃん!」
「僕とは昨日一緒だったのに……」
「???」
 全く心当たりがない。機嫌が傾いてきている2人の少女を背の高い少女がまあまあと慰める。
「そう言えば私たち、理樹さんにちゃんと自己紹介してないじゃない。いい機会だからちゃんと自己紹介をしましょうよ」
 そう言ってコホンと咳払いをする背の高い少女。
「私はストレルカ。改めてよろしくお願いしますね、理樹さん」
「ヴェルカだよ、ヴェルカ〜」
「……ドルジ」
 !?





 裏庭の一時





 名称未定。感染した哺乳類を人間に変える。病原菌が消えるまで約半日。もちろん人間には感染してもなんの効果もない。
「らしいですよ」
 ズズ〜。とストレルカがお茶を飲みながらそう解説をつけてくれる。
「いや、もう、何と言えばいいのか。いや、もう、なんでもありだね」
 理樹にはそんなコメントしかつけられない。というか、他にどんなコメントをつければいいのか。隣にいる鈴とクドも似たような反応をしている。ちなみにこの二人はパニックに陥った理樹によって呼び出された。
「ほらほらクドリャフカ姉さんもそんな顔しないで」
「は、は、はいぃ!」
 穏やかな顔でそう言うストレルカに、クドもリアクションが上手く取れていない。
(っていうか、背の高いストレルカに姉さんと呼ばれるクドにすごい違和感が……)
 それを言うならクドにストレルカにヴェルカにと、外見で似ている所がないのに姉さんお姉ちゃんと言い合うのにも違和感が。まあ、これは義姉妹というべき間柄だから仕方ないのかもしれないけど。
「う〜」
 ちなみにヴェルカは理樹どころかクドにまで気がついて貰えなかったのが寂しいのか、涙目で睨みあげてくる。
「ヴェルカ、あなたもいい加減に機嫌を直しなさい」
「でもでも〜」
 姉妹がじゃれあう。人間としては当然の光景でも、元がストレルカとヴェルカだと考えるとどうにも違和感が付きまとってしまう。
「鈴ちゃん、」
「お前メスだったのか! そして食ってばっかりか!」
 鈴は鈴でドルジが口を開く度にこんな突っ込みばかりを繰り返している。気持ちは分からないでもないが。
「いや二人とも、そろそろ落ち着こうよ。気持ちはすごい分かるけど。ほら、深呼吸して」
 理樹の言葉に半ば暗示的に従い、スーハーと深呼吸する二人。
「って、落ち着けるかー!」
 鈴の雄叫びも無理はない。
「鈴さん、落ち着きなさいって。はい、お茶。クドリャフカ姉さんも」
「……ありがとう」
「ありがとうございます、ストレルカ」
 そんな鈴に、そしてクドにそっとお茶を差し出すストレルカ。なんというか、大人だ。
 そしてずず〜とお茶をすすって、ようやく落ち着きを取り戻したらしい二人。
「はい、理樹さんもどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 理樹にもお茶が配られる。それを口につけて喉を通す理樹。
「あ、美味しい。これ、どこのお茶?」
「知らない、恭介君に貰った物だし」
 答えたのはヴェルカ。彼女はお煎餅をパリパリと食べていてご機嫌だ。さっきまで大騒ぎだったのに食べ物一つで機嫌が直る辺り、なんというか、子供だ。
「って、恭介に会ったの?」
「うん」
「ええ、人間の姿になって困っていた所に通りがかったのが恭介さんだったんですよ。服を用意して頂いて、しかもバイオ田中とおっしゃる方の所まで連れて行って頂き、原因まで特定して下さったんですよ」
「血、抜かれたちゃったけどね」
 ドルジがモグモグと口を動かしながら補足するが、ちょっと待って欲しい。今、ストレルカのセリフの中に聞き逃せない言葉があった。
「ゴメン。僕の聞き間違いだったら嬉しいんだけど、今ストレルカは服を用意して貰ったって言ってなかった?」
 声が強張っていると自覚できる程、平静とはかけ離れた理樹の声に答えたのはヴェルカ。
「うん。恭介くんが服を用意してくれたんだよ」
「ヴェルカ! お前大丈夫かっ!?」
「へ?」
 色を無くしてヴェルカに詰め寄る鈴。ドルジでもストレルカにでもなくヴェルカを真っ先に心配する辺り、この兄妹は心底理解しあえているのだろう。
「り、鈴ちゃん? 大丈夫ってなにが?」
「体だ、体は大丈夫か!?」
「いや、だから変な病原菌に感染してるんだって」
 微妙に話がかみ合っていない。見ればストレルカもドルジもクドも首を傾げていて、鈴が何を心配しているのか分かっていないようだ。仕方なく理樹が助け船を出す。
「恭介に何か変な事されなかった?」
「変なこと?」
「うん。例えば不要に抱っこされたりとか、ジロジロと舐めまわすように見られたりとか」
 理樹の言葉にヴェルカは不思議そうに首を傾げながら答える。
「別に。最初チラリと見たきりこっちに全然顔を向けてくれなかった位。最初は嫌われてるのかなとか思ったんだけど、服を持ってきてくれてから普通になったよ」
「そうだったんだ。僕には最初から最後まで普通だったけど」
「私にも普通でしたよ。ヴェルカにだけそうだったなんて、恭介さんはどうかなさったのかしら?」
 お団子を口に運びながら言うドルジに、少し心配そうなストレルカ。そんな彼女らにニッコリと笑って返事をする理樹。
「ああ、それなら心配しなくても大丈夫だと思う」
(ただの紳士なロリコンなだけだから。っていうか恭介、ストレルカたちに反応しないなんて筋金入りだったんだね)
 心の中でだけそう付け加える。
「やっぱり、恭介は恭介だ」
「だな。バカ兄貴はバカ兄貴だ」
 満足そうな顔で同意を示す鈴。そこからは恭介が真性のロリコンだった事に安心しているのか、それともヴェルカに手を出さなかった紳士さに安心しているのかは判断できない。
「でも、恭介さんはストレルカ達の制服と下着をどこから調達してきたのでしょーか」
 不思議そうにクドが呟くと、理樹と鈴の動きと表情が凍った。女子の制服、しかもサイズがバラバラ。下着つき。ブラだってサイズが一人一人違う。そんなもの、どうやって調達したのか。
「まあ、恭介だし」
「まあ、きょーすけだしな」
 また同じセリフを繰り返す幼なじみ。今度はやや好意的な色を込めての言葉だった。きっとまた不思議な方法を使ったんだろうとごまかしておく。
「何の話なの?」
 向こうの三人には聞こえてなかったらしく、ヴェルカがキョトンとした目で聞いてくる。
「いや、恭介がどこから三人の服を調達してきたのかが気になってね」
 アハハと浅く笑いながら言う理樹に、意外な返事をしたのがストレルカ。
「あ、それ私が聞きました。制服は購買にあったものを拝借したらしく、下着は借りてきたらしいです」
 借りてきた。
「「「誰に?」」」
 三人の声がはもった。ヴェルカはうーんとと首をかしげるが、答えを思い出せないらしい。
「忘れちゃった。見れば分かる?」
 ばっさとスカートをたくしあげるヴェルカ。黄色いレースのぱんつだった。
「わ、わわっ!?」
「何してるんだー!!」
 絶句する理樹と、目を丸くして硬直するクドと、神速で駆け寄りたくしあげたスカートをたくしあげた手をはたき落とす鈴。実に意外なお母さんスキルだった。
「いったーい。鈴ちゃん、何するのよ」
「下着を人に見せるなっ! そんなことをしちゃ、めーだ!」
 左手を腰にあて、右手の人さし指をたてて。そして涙目のヴェルカに視線を合わせて真摯に言う鈴。ネコにしつけをしている時の雰囲気にそっくりだ。そう考えるとお母さん的な行動も実は鈴に似合った行動なのかも知れない。
「そんな事って?」
「下着を人に見せることだ」
 常識人が聞いたら頭を抱えそうな質問にも苛立ったりしないでしっかりと答える鈴。
「そうなの?」
「そうだったのですか?」
「そーなんだ」
 常識を教える対象が増えた。
「ああそうだ。それからハダカも見せちゃだめだぞ。特に男に見せたらダメだ」
 それでも鈴は一人一人に視線を合わせてちゃんと説明する。しかしそれでも納得いかない風のヴェルカ。
「でも、みんなそんなに隠してないと思うけど」
「そ、そんな事はない!」
 意外にも純真そうな口調でとんでもない事を言うヴェルカに、とうとうたじろいだ鈴。そしてヴェルカの言葉にピンと来た理樹が口を開く。
「あ、そうか。ヴェルカが犬の時は背が小さいから、スカートの中が見えちゃうんだ」
 とたんに鈴とクドから生温かくも冷たい視線を向けられる理樹。いたたまれなくなって視線を逸らす。
「そう言えば、誰にもそうですけどどうやって下着をお借りしたのでしょーか?」
「僕は校舎裏の林の中で服を脱ぎ合っている女の人と男の人を見たことがあるけどなぁ」
 理樹はクドとドルジの言葉は全力で無視する。どっちも分かりやすく、深く掘り下げたら地獄に繋がっているだろうから。

「ふう、食べた食べた」
「食い過ぎじゃボケー!」
 お腹をポンポンと叩くドルジに突っ込む鈴。
「8割方ドルジさんが食べましたからね」
 そう言うのはゴミを拾ってビニール袋にまとめていくストレルカ。そして傍らではヴェルカが寂しそうに落ちて行く夕日を見ている。
「あーあ、もう夕方か。もうすぐ半日経っちゃうね」
「そうなのですか? いつ人間の姿になったんですか?」
「詳しい時間は分からないけど、確かお日さまが昇るか昇らないかって時だったと思う。結構面白かったのに」
 クドの疑問に、残念そうに答えるヴェルカ。
「僕は人間の美味しい物をたくさん食べられたから、満足」
 本当に満足そうに言うドルジを呆れた目で見るヴェルカ。
「でもでも、恭介君が他の人に見つかるとまずいからここから動くなって言うから、人間の姿でお散歩とか出来なかったんだよ」
「仕方ないですよ、ヴェルカ。これ以上恭介さんにご迷惑をおかけする訳にもいきませんからね」
「う〜……」
 分かってはいるけど納得は出来ないのだろう。文句はこれ以上言わないけれども、機嫌を直しもしない。
「困った子ね」
 やんちゃな子供を見るような顔でヴェルカを見るストレルカ。
「じゃあ、ここで何か遊びましょうか?」
 それを見かねてクドがそんな提案をした。目を丸くするストレルカとヴェルカ。
「いいの、クド姉さん?」
「いいの、クドお姉ちゃん。野球の練習があるんじゃないの?」
 声を合わせる姉妹に笑って首を振るクド。
「いいのですよ。一回くらい休んだってだいじょーぶなのです。それにヴェルカ達と遊ぶ方が大切ですから」
 太っ腹なクドの言葉にパァっと顔を輝かすヴェルカ。
「よかったわね、ヴェルカ」
「うん! じゃあ、じゃあ、何をして遊ぶ!?」
「私はヴェルカの好きなものでいいわ」
「私もですよ」
「あたしもだ!」
「僕も何でもいいよ」
「僕は寝てる……」
 唯一協調性の無いドルジは既に草の上でゴロンと横になっていた。
「牛になるぞ、ドルジ」
「今更〜」
 いちおう自覚はあったらしい。そして草の端の方に座りこちらを眺めてくる所を見ると、動く気はなくても遊んでる姿を見る気はあるらしい。まあ、それだったらネコでも出来るけど。
 一方、全権を託されたヴェルカは一生懸命に頭を捻っている。だけどやがて大きな声で叫んだ。
「キャッチボールがしたい!」
「……ヴェルカ、あなたたまにクド姉さんにして貰ってるじゃない」
 ちょっと呆れているストレルカに、ブンブンと首を振るヴェルカ。
「そうじゃないの! 私はストレルカお姉ちゃんみたいに投げ返せないから、私からもクドお姉ちゃんにボールを投げ返してみたいの!」
 確かにストレルカの大きな体だったら首を振る遠心力でボールを投げる事は出来るけど、ヴェルカの小さな体ではまだそんな事は出来ない。
「まあ、ヴェルカがそう言うならいいけど」
 ほんのりと残念そうにストレルカは首を縦に振る。
「じゃあ僕はグラウンドに行って、え〜と、5人分のグローブとボールを借りてくるよ。後、恭介たちに今日は休むって伝えてくる」
 そう言って駆け出す理樹。
「あ、私も行く!」
 そしてついて行きそうになったヴェルカの首根っこを捕まえるストレルカ。
「だからあなたはここに居なくちゃダメでしょう?」
「うう〜……」
 遊べると分かって少しタガが外れてしまったらしい。残念そうに唸るヴェルカの声を聞いて、理樹はくすりと微笑んだ。

「えーい!」
「おーらいです」
 ちょっと後ろに下がってヴェルカの投げたボールをグローブにおさめるクド。
「ストレルカ、投げますよー」
「はい」
 そしてクドの投げたボールをキャッチするのはストレルカ。次にストレルカが見るのは鈴。
「行きますよ」
「て、手加減は忘れないでくれ」
 ブォンとやや恐ろしい音を立てて鈴に迫る白球。
「くわっ!」
 パァン!!
 鈴の気合の入った声と共に軽快な音をたてるグローブ。
「びっくりしただろぼけー!」
「ごめんなさい。それなりに力を抜いたつもりだったのだけど、やっぱり力加減が難しいわ」
 チラリとドルジの横を見るストレルカ。そこには頭にコブをつくって目を回している理樹の姿が。ストレルカの初球をなめた結果だった。
「……まあ、努力は認める」
 ちょっと冷や汗を流しながら油断した男の末路をチラ見する鈴。そしてボールは次に鈴からヴェルカへ。

 パンパンパンパァンと軽やかな音を立てながらボールが流れる。
「はいっ!」
「と、と、と」
 またヴェルカのボールが流れ、クドのジャンプでギリギリ届く。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ、ヴェルカ。初めてにしてはとても上手です」
 笑って八重歯を見せながら、ボールをストレルカに回すクド。
「この位かしら?」
 パン!
「ふかー!」
「ストレルカお姉ちゃんはあんなに上手なのに……」
「ストレルカは前からボールを投げていましたから」
 クドの言葉にヴェルカはおーと右手をあげて気合いを入れ直す。
「次は真っ直ぐ投げるもん!」
 パンと鈴からの返球を受けて、しっかりとクドを見るヴェルカ。
「……、えいっ!」
 ぶんと白いボールが飛ぶ。パンと音を立てて、真っ直ぐにグローブにおさまるボール。
「やったです、ヴェルカ」
 笑ってヴェルカを見るクド。
 けれども、ヴェルカはそこに居なかった。いや、多分いる。地面に落ちて服の、盛り上がった所でもぞもぞ動いているのがきっとヴェルカだ。
「ヴェルカ……」
 ストレルカの方を見ても、そこに人間はいない。大きな服を被って顔だけをのぞかせている大型犬がじっとクドを見ているだけ。
「ストレルカ……」
「わん!」
「きゃん!」
 クドの妹たちはそう吠えると姉の元に駆け寄ってくる。そしてペロペロとその顔を舐め始めた。
「く、くすぐったいですよ、二人とも」
 クドはそう言って二匹の頭をかき抱くが、それでもストレルカもヴェルカも舐めるのをやめようとしない。
「くすぐったいですって。くすぐったくて……涙が出ちゃいます」
 グスっと鼻をすするクド。
「楽しかったですよ。ストレルカ、ヴェルカ。私たちが本当の姉妹だったみたいに、夢みたいに楽しい時間でした」
 そう言ってクドは笑った。頬に涙が流れていたけど、それでも静かに笑っていた。

「で、お前はいつネコに戻るんだ?」
「病気だから、個人差があるんだよねぇ」
 その後ろで呆れた目でドルジを見る鈴の姿があった。
「まあそれでも、僕ももうすぐネコに戻ると思うけどね」
 そう言って寝転がっていた体勢から立ち上がるドルジ。それから理樹、クド、鈴と一人一人の顔を見つめる。
「理樹とクドは聞こえてないと思うけど。楽しかったよ。理樹、クド、鈴。今日は僕とお話をして、一緒にお菓子を食べてくれて、」
 瞬間、女性の姿が消える。そして現れるデブネコ。
「ぬおっ!」
 ありがとう。女性の言葉がドルジの言葉に重なった。



「そうなんだ。僕もみんなとお別れしたかったな」
「ストレルカのボールを受け取りそこなうのが悪い。本当にお前はキャッチャーか」
「う、それを言われると……」
「まあまあ鈴さん。ストレルカのボールを受け止めるのが怖かったっても、そんなにリキを責める事ないじゃないですか」
「こ、怖くなんかなかったぞ!」
 翌朝。そう言いながら三人は渡り廊下を歩いている。休みのこの日、昨日の休み分を引け目に思った三人は、せめて朝のグラウンド整備くらいはと引き受けたのだ。
 そうしてふと裏庭に目を向けてみると、
「「「は?」」」
 わらわらわらと、何十人もの老若男女がたむろっていた。しかもそのほとんどが裸だ。
「前を隠せっ!」
 とりあえず誰よりも早く鈴が突っ込んだ。そしてそれを聞いて一斉にこっちを見る全裸の老若男女。
「あ、鈴だ」
「鈴ちゃんだ〜」
「手に持ってるのは今日のご飯? ご飯?」
「ダメだって。人間になるとネコのご飯はまずいってドルジが言ってたじゃないか」
 もうこの会話だけで半ば彼らが何者か想像がつくというものだが、全裸の人間の集団に迫られた鈴は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「誰だお前らっ!」
「アガサだよ〜」
「レノン〜」
「……ヒョードル」
 次々と名乗る中、集団の中から服を着た女性が飛び出した。
「ストレルカ!?」
 その顔を見たクドが叫ぶ。驚いていいやら喜んでいいやら分からないと体全体で表現する程のビックリっぷりだった。
「みんな!」
「ストレルカ、これ、どうしたの?」
 事態に着いて来れていない二人に代わって理樹がストレルカに問いかける。
「昨日バイオ田中って人に血を取られたって言ったでしょ? あの人が病原菌を培養していたらしいんだけど、今朝がた何かの理由で病原菌が漏れたらしいの。いわゆるバイオハザードって奴ね」
「ええええええええええええ」
 裸の老若男女を生み出すバイオハザード。イヤ過ぎる。
「そして私に関してなら、どうやらこの病原菌は免疫を作らないらしいの。だから何度でも人間になれるわ。ドルジは向こうで日なたぼっこしてるし、ヴェルカは」
「クドお姉ちゃん!」
 ストレルカが言いきる前に、横からヴェルカが飛び出してクドに抱きついた。
「ヴェルカ!」
 飛びついて来たヴェルカに、クドもびっくりしながらしっかりと抱き返す。
「あははは、お姉ちゃん。クドリャフカお姉ちゃんだ! 抱っこじゃなくてちゃんと抱き合えてる!」
 そしてそんな二人を見て笑うストレルカ。感動の、姉妹の再会だ。そしてその奥では全裸の民衆に威嚇をする鈴と、そんな鈴を悲しそうに見る全裸の民衆。
「……これ、どう収拾つけたらいいんだろう」
 理樹は一人、額に手を当てて空を仰いだ。ゆっくり日向ぼっこをしているであろうドルジをうらやましく思いながら。


[No.912] 2009/02/06(Fri) 05:09:24
一滴の涙 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@14144 byte

 オレは、自分の筋肉で理樹を救えたことが嬉しかった。

 自分の筋肉に自信が持てた。

 自分の筋肉が誇らしかった。

 だからオレは、油断していたのかもしれない。

 この筋肉があれば、なんでもできるんだと。





一滴の涙





 修学旅行へ向かうバスが事故にあい、その事故で入院してから、もうかなりの日数が経った。ケガが軽かった奴はどんどん退院していく。
 気づけば退院していない奴は数えるくらいになっていた。
 まぁ、リトルバスターズのメンバーが見舞いに来てくれるから退屈ってことはねぇんだが…

「……はぁ、筋トレできねぇのがつらいぜ…」

 ぼそり、と屋上のベンチに腰かけながらぼやく。
 病室は2人部屋。いくらオレでも親しくもない奴がいる部屋で筋トレをする気にはならないし、病院内だとどこでやっててもすぐに止められちまう。

「退院するころにはかなり鈍っちまうんだろうなー」

 まぁ、それでも構わないって気もすっけどな。
 筋トレができねぇのはつれぇけど、その程度のことで親友を助けることができたんだしな。むしろ嬉しいじゃねーかよ。


キィ


「んぁ?」

 屋上の扉の開く音が聞こえ、オレは視線を扉の方に向ける。そこにいたのは見知らぬ小さな女の子。
 クー公や来ヶ谷を知ってるオレとしては見た目で歳を当てることは不可能だが、そこにいる少女はクー公よりさらにちいせぇから年下だろうと思った。

「…………」

 少女はオレを警戒してるのか扉のかげからじー、とこっちを見たまま動かない。
 オレはオレで視線を外すタイミングを逃してヘタに動けなくなっていた。

「…………」
「…………」

 見つめあった(警戒しあった?)ままどれだけ経ったのか分からないが、沈黙に耐えきれずオレは声をかけることにした。

「なぁ、入ってきたけりゃ入ればいいんじゃねぇか?」
「………いいの?」
「いや、別に確認する必要ねぇだろ。オレの部屋ってわけでもねぇんだし」
「……ありがとっ!」

 少女はお礼を言って笑顔で屋上に入ってきた。と、思ったらなぜかオレの側にやってきた。

「隣、いい?」
「へっ?」

 オレは辺りを見渡す。ベンチは別に1つだけじゃない。ならなぜわざわざオレの横に座ろうとするのか?
 謎だ…

「そりゃ構わねぇが…」
「ありがとっ!」

 何を考えてんのか分からねぇが、とりあえずオレは体をずらしてスペースをつくる。
 少女はニコニコと笑いながらそのスペースに腰を下ろした。

「…………」
「…………」

 さっきと似たような沈黙。
 先に声を発したのは今度は少女の方だった。

「今日は、いい天気だね」

 言われて空を見上げる。確かによく晴れていた。雲1つない……なんて言うんだっけな?前に謙吾から教えてもらったんだよな。えーっと、確か…

「そうだな。雲1つないカイハレだ」
「………」

 な、なんだ?どうしてこいつは可哀想な筋肉でも見るような目でオレを見やがるんだ?

「え、と…きみ………きみ、名前は?」
「は?」
「だから名前」
「井ノ原真人だが…」
「真人ね。おそらくなんだけど、真人が言いたかったのはカイセイ、じゃないかな」
「へっ?」
「カイハレじゃなくてカイセイが正しい読み方だよ」
「な、なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 おのれ謙吾!また騙しやがったなぁ!くっそぉぉぉぉ!!

「あははは、真人ってバカなんだ」
「なにぃ!?こいつは見た目通りの筋肉しか取り柄のない脳筋野郎とでも言いたげだなぁ!」
「うん、そうかも。だってすごい筋肉だよね。服の上からでも分かるもん」
「そ、そうか?…ありがとよ」

 あれ?なんかごまかされたような……まぁ、いいか。

「あははは!真人って面白いね。わたしこんなに笑ったの久し振りだよ」
「そうかよ。そりゃよかったな」
「拗ねない拗ねない…っと、そろそろ時間切れ。わたしはもう戻るね」
「え?あ、あぁ、気をつけて戻れよ」
「階段から落っこちたり?あはは、わたしはそんなドジじゃないよ。でも心配してくれてありがとっ。それじゃ、またね」

 言うだけ言って少女はベンチから立ち上がり、出口へと向かって歩いていく。
 ったく、またねって言われても……あ、そういや、名前聞いてなかったな。

「そだ。すっかり言うの忘れてたけど、わたしの名前は……きみふうに名乗るなら、ユウナツ、かな」

 オレの疑問に答えたかのように少女…ユウナツが名乗った。

「変わった名前だな」
「あはは、そだね。別に覚えなくてもいいよ。じゃねー」

 ユウナツは笑顔で手を振りながら屋上から出ていく。
 だけどオレには、その笑顔がなぜか泣いているように見えた……気がしたんだ。





 次の日、オレは同じ時間に屋上に向かっていた。
 とくに理由があったわけじゃない。ただ、昨日の別れ際の悲しげな笑顔が気になった…のか?いや、自分でもよく分からねぇ。

「あ、真人!来てくれたんだっ!」

 屋上に出たオレをユウナツが出迎えてくれた。
 いつから屋上に来ていたのか、オレには分からない。
 それに、そんなことは聞かなくてもいいような気がした。

「まぁ、部屋にいたって暇だしな」
「あー、分かる分かる。暇だよねー。わたしは入院生活長いからさ、その辺の気持ちはよーく分かるよ」
「入院長いのか?その割には元気そうに見えるんだが…」
「あはっ、そう見える?確かに最近は体調がいいんだ。でも、少し前までは寝たきりだったんだよ?だからその暇だーって気持ち、よく分かるよ」
「そうか……入院、いつからしてんだ?」
「んー、小学6年の頃からだから、もう3年くらいかな」

 さもなんでもないことのようにユウナツは言う。
 オレは、なんと言っていいか分からずに、思いついた言葉を発した。

「……お前、腕ほっせぇな」
「え?…あー、まあ仕方ないよ。寝たきりだったし、そもそも元から筋肉とかなかったしね」
「ダメだぜそんな筋肉じゃ。もっとオレみたいに筋肉をつけてみろって。そうすりゃあっという間に退院できるぜ!」

 オレはワハハと笑いながらユウナツの頭に手をおいた。
 クー公より小さなその体は、それだけで壊れてしまいそうで少しだけ怖かった。

「えー、真人みたいになるのー?それは嫌だなー」
「ちっ、筋肉フレンドができるかと思って期待しちまったぜ」
「筋肉フレンドは絶対に嫌だけど、フレンドにならなってもいいよ」
「まっ、最初はただのフレンドでも構わねぇか。だがいつかお前にも筋肉の素晴らしさを教えてやるからな」
「あははは!余計なお世話だこのやろう!」

 オレ達は大声で笑いあう。ユウナツが屋上から去る時間になるまでオレ達は他愛のない話で笑いあった。
 だけど、屋上から去る時のユウナツの顔は、やっぱり悲しげに見えた。



 次の日も同じ時間に屋上に向かい、ユウナツと笑いながら話した。



 次の日も。



 その次の日も。



 次の日も、次の日も。

 屋上へ向かうことが日課になっていた。
 基本的にユウナツが自分のことを話すなく、オレが学校でやったことなんかを話すことがほとんどだった。
 オレは話すこととかはあまり得意じゃなかったが、それでもユウナツは楽しそうに聞いてくれた。

「えー!真人って高2だったの!?」
「まぁな。だから敬語を使えよ」
「そんなの今更無理だよ。それに、わたし敬語って苦手だし」

 そう言ってユウナツはあははと笑った。その笑顔を見たら確かに今更な気がした。
 まぁ、敬語を使われたかったわけじゃないしな。むしろなぜオレが高2だと驚くのかが分からん。

「でもあれだね。真人って学校生活楽しんでるよね。そのりとる…ばすたーず?の、話をしてる時の真人すごい楽しそうだし」
「ん…あぁ、そうかもな。あいつらといると飽きねぇからよ」
「そっか…いいなー、楽しそうで羨ましいよ」
「確か今中3だろ?なら来年オレ達の学校にくるか?」

 なんてな、と軽い気持ちで誘いながらユウナツを見ると、いつも別れ際に見せる悲しそうな表情を浮かべていた。

「なんでそんな顔してんだよ…」

 オレの言葉にユウナツは静かに首を横に振る。

「ううん、なんでもないよ。でも、そうだね…行けたら、いいね。真人や…まだ会ったことないけど、他のみんなと一緒に、過ごせたらきっと……きっと、楽しいだろうね!」
「あぁ…楽しいぜ。絶対に。オレが保障してやるよ」
「いいよね、楽しい学校生活。わたしの夢なんだ!だからその中にわたしがいられたら……」

 ユウナツはどこか遠くを見たまま語る。

 なぁ、お前はオレに隠していることがあるんだよな?

 その言葉を、オレはぐっ、と飲み込む。
 ユウナツがなにも話さないなら、自分から聞くことじゃないと思ったからだ。

「あはっ、真人はやっぱり優しいね。そして今日は時間切れ。またね」
「あ、あぁ。まぁ、気ぃつけて戻れよ」

 手を振りながら去っていくユウナツの背中が、扉の前で止まった。

「おう、どうかしたのか?」
「ド、ドアが開かなくて…」
「あん?どれどれ…」

 近づいて扉を確認してみると、鍵がかかっていた。
 外からかけられたわけじゃねぇな。多分整備不良かなんかで勝手に閉まっちまったみたいだな。

「ど、どうしよう…」
「へっ、心配すんなって!この程度の障害、オレの筋肉にかかれば…」

 オレはユウナツに笑いかけてからドアノブを掴み―――

「うおらぁぁぁぁ!!!」

 一気にドアを引っこ抜いた。

「ざっとこんなもんだぜ」

 ユウナツを見ると、ポカーンとした表情でドアがあった場所とオレの持つドアを交互に見ていた。
 ヤバ、いつものノリでやっちまった……さ、流石にやり過ぎたか?

「……あ、あは…あはは、あははは!な、なにこれ?ま、漫画?あは、あははは!ちょ、いくらなんでも、やり過ぎだって!あははははは!!」
「は、反省してます…」
「あはは、素直でよろしい!それじゃ、行くね。今日も本当にありかとっ!」

 階段を下りていくユウナツを見送る―――が、ユウナツはまた立ち止まり、振り返った。

「ん?どうかしたか?」
「えとさ、もしかしてーっと思っただけなんだけど、真人携帯持ってたりしない?」
「は?そりゃ持ってるが…」
「……ドア壊さなくても、携帯で助け呼べたんじゃ…」

 あっ………

「…………」
「…………」



「ぬぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「あはは!バーカっ!」

 ユウナツは今度こそ立ち止まらずに去っていく。
 別れ際に見せた表情は、いつもの悲しげものではなく、最後まで楽しそうに笑っていた。
 オレはその笑顔が嬉しくて、明日会ったらまた笑わせてやろうと密かに思ったんだ。


 それが、ユウナツに会った最後の日になると知らずに。





 次の日、オレはいつも通りの時間に屋上に向かったが、ユウナツはまだ来ていなかった。

「珍しいな…」

 そんなこともあるんだろうと先にベンチに座り、しばらく待っていたがユウナツは現れない。

「―――あの、きみが井ノ原くん、かな?」

 部屋に戻る気にはならず待ち続けていると、1人の看護士がオレに話しかけてきた。

「彼女は来ないわ………亡くなったの、今朝早くに…」

 ……は?なに言ってんだ?死んだ?誰が?

「彼女が最近きみと仲がよかったのは知ってる。だけど詳しく話すことは出来ないの……ごめんなさい」

 ちょ、ちょっと待ってくれ…まだ頭の中が整理できてねぇんだが…

「それでね、これを井ノ原くん渡してほしいって頼まれたの。本当に…最後の最後に…」

 そう言って渡されたのは1枚の封筒。
 オレは、聞きたいことがたくさんあったのに、それを受け取って立ち尽くすことしかできなかった。

「私は仕事があるからもう行きます。なんの説明も出来なくて、本当にごめんなさい」

 看護士は1度頭を下げると振り返ることなく屋上から出ていった。
 オレはなにも考えることができなくなり、ベンチに座り込んだ。

「……んだよそれ。またねって、言ってたじゃねぇか……」

 ぼそりと、今はいなくなってしまった少女に文句を言う。
 そこでようやく手の中の封筒の存在を思い出した。

「……読んでみっか」

 慎重に封を開け、中身を確認する。
 入っていたのは数枚の手紙。
 オレは手紙を取り出し読みはじめた。





【こんにちわ真人。あ、こんばんわ?それともおはようかな?
 まあ、挨拶なんて気持ちが伝わればそれでいいよね。

 えーと、まずは最初に謝っておくね。この手紙を真人に送ってごめんなさい。

 わたしは生まれつきの病気持ちだったの。いつ死んでしまってもおかしい病気。
 でも勘違いしないでほしい。わたしはその事についてはなんとも思ってないの。
 ただね、少しだけ…ほんの少しだけ、寂しかった。
 学校なんてほとんど行かなかったから友達なんていなかったし、お父さんもお母さんも仕事が忙しくて、誰もお見舞いなんて来てくれなかった。

 って、わたしの事なんて書いても仕方ないね。

 えと、わたしが書きたかったのは感謝の気持ち。残された時間の中で、わたしを笑わせてくれてありがとっ!
 真人と出会ってからの毎日は本当に楽しくて、わたしの人生で最高の時間だった。
 真人はバカだけど、優しくて、話してると楽しくて楽しくて…嬉しかった。
 だから、この手紙がいつまでも真人の手に渡らない事を願いながら書いています。
 明日も、明後日も、できることならずっとずっと、真人と話すことが出来ますように。】





 手紙はそこで終わっていた。
 読み終えたオレは大きく息を吐く。
 なんか、疲れちまったな…
 読みなれない手紙を読んだせいか、それとも他の理由かは分からなかったが、オレは立ち上がることさえできず、ただ空を見上げ続けた。


「真人!…おい!真人!」 
「……んぁ?」

 どうやらオレはいつの間にか眠っていたらしい。
 声のした方に目をやると、いつからそこにいたのか、謙吾がオレの肩を揺すっていた。

「まったく、どこをほっつき歩いているかと思えば、こんな所で昼寝とはな。いつも話している女の子とやらはどうした?愛想でもつかれたか?」
「……だったら、よかったんだけどよ」
「何かあったのか?」
「いや、なんでもねぇ…それより謙吾っちよ、今日はいい天気だな。こういうのをカイセイっつーんだよな」
「お前……本当に何があった。いいから話してみろ」
「…………」

 オレは迷ったが、全部話すことにした。出会ってからのこと、今日いきなりの別れがあったこと、そして最後の手紙を受け取ったこと。

「なる程な…」
「……なぁ、謙吾。オレは今までこの筋肉があればなんでもできるって本気で思っていたが……筋肉じゃどうしようもないことがあったんだな」
「さてな。お前の気持ちはお前にしか分からん。お前の辛さはお前にしか分からん。お前の悲しみはお前にしか分からん」
「冷てぇじゃねぇか謙吾っちよー」
「真人よ、お前が俺に何を求めているか知らんが、俺に出来ることは辛さや悲しみを共有することじゃない。お前と共に馬鹿騒ぎをして、お前と共に笑いあうくらいしかしてやれない。それを踏まえて、お前が俺に望むものはなんだ?」

 ………そうだ、オレがあいつのためにしてやれることがあるなら、それは落ち込むことでも悲しむことでもないのかもしれない。
 きっと、あいつの分まで、笑って生きていくことだ。

「おっしゃー!」

 オレは立ち上がり、久しぶりのセリフを発した。



「筋肉筋肉〜!筋肉筋肉〜!!」



 聞こえるか?
 オレはバカであり続けるぜ。
 お前の分まで笑っていられるように。
 だから、オレの声は届いているか?

 なぁ、友夏(ゆうか)。



「ん?真人、何か落ちたぞ」
「へ?」

 言われて足元を見ると、そこには1枚の紙が落ちていた。
 拾って確認してみると、それは友夏の手紙の続きだった。
 どうやら封筒の中で引っかかっていたらしい。
 オレは慌てて手紙に目を通した。





【だけど、もしもこの手紙を真人が受け取ったなら、最初で最後のわたしのお願いを聞いてほしい。
 どうか、わたしのかわりに笑顔で過ごす日常を過ごしてください。真人ならきっとできるから。

 手紙はこれで終わり。
 さようなら。
 ごめんなさい。
 そして、本当にありがとう。


 わたしの大好きな親友 真人へ。】





 手紙を読み終えたオレは再びベンチに座り込む。

「…真人?」
「悪ぃ謙吾、ちょっとだけ、1人にさせてくれ」
「……あぁ、分かった」

 謙吾が屋上から出ていくのを見てからオレは目を閉じる。
 生まれたときから病におかされていた少女。
 わずかな時間しか一緒にいることができなかった少女。
 彼女の笑顔を思い浮かべながら、オレの意識は暗闇へと落ちていった。





 オレ達は走っていた。
 向かう先なんて知ったことじゃない。ただ、オレ達リトルバスターズが揃っていれば、その先にはみんなが笑っていられる未来があると確信しているから、オレ達は走りつづける。
 ふと、足を止め後ろを振り返ると、そこには小さな少女がいた。
 少女はオレを追い抜き、少し離れた場所で止まり、オレへと振り返ると―――


「真人!わたしの夢、叶えてくれてありがとっ!」


 そう言って少女は笑顔で駆けだしていく。



 オレはその少女の背中を見送り、一滴の涙を頬に流した。


[No.913] 2009/02/06(Fri) 07:36:37
pony症候群 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@12934 byte

 その日、登校した西園美魚が着席すると、読み途中の小説を鞄の中から取り出すより早く、騒がしい声が飛んできた。つまりかなり早い。
「みっおちーん!」
 当然三枝葉留佳である。やってきたスピードアタッカー葉留佳は、美魚の反応など完全無視でバルカントークを繰り出した。一発一発はぶっちゃけどうでもいいが、弾数の多さがウザいことこの上ない。しかも葉留佳のくせにたいした連射性能なのが気に食わなかった。
「葉留佳」
 シールド代わりに、普段しない呼び方をする。連射が止まった。いかにも悪戯好きそうな子供っぽい瞳の奥に、キラキラした何かが見える。よくわからんが喜んでいるっぽかった。さらに喜ばせてあげよう、美魚は思った。
「葉留佳がバルカントーク!」
「…………」
「く、くくっく……」
 これは上手いこと言った、と美魚は一人で笑う。こんなにおかしいのだ、葉留佳のことだからきっと大笑いしているに違いない、美魚が視線を上げると、いわゆるレイプ目の葉留佳がそこにいた。輝きは失われている。死んだ魚の目のようだ。そういえば私の名前には魚という字が入っているが、それはどうでもいい。
「ところで三枝さん。どうしたんですか、その髪」
「……はっ。へ? え? あれ? どったの、なんだってみおちん」
「どうしたんですか、その髪」
 さっきまで死んだ魚の目だったのだから、今は生きた魚の目ということになる。こんな目の魚いたら嫌だ。いつもは左から生えている葉留佳のトレードマーク? が、今日は真後ろから生えていた。
「席替えの結果、そこのほうが光合成に都合が良くなったとか」
「いやそりゃ日向ぼっこは好きだけどさー。いくらなんでも光合成はねーっすよ、みおちん」
「そ、そうなんですか!? では、頭から自生している花の養分はどこから……」
「しまいにゃキレるぞ、コンニャローッ!!」
「それで、なんなんですか」
「くそぅ、しれっと言っちゃってぇ……そんなの、ポニーテールに決まってるじゃないデスカ」
 ポニーテール。女性の髪形の一。別に男性でもいい。こんな可愛い子が女の子のわけないじゃないですか的男性ならばいい。髪を後頭部で一つにまとめて、毛先をポニーのしっぽのように垂らしたもの。
「世の中にはしっぽが二本あるポニーがいるんですね……知りませんでした。ご教授ありがとうございます」
「ムキーッ! その言い方は、はるちんをそこはかとなくバカにしてるなー!?」
「いえ、おもいっきり、ですが」
「そんなみおちんがすきだーっ!」
 飛びついてきたのを、ひょい、と椅子ごと避ける。どんがらがっしゃん。
 机と椅子と、教科書やらノートやらプリントやらが混ぜ混ぜになった海に沈む葉留佳を見下ろして、一言。蔑みながら言ってやった。
「このドMが」
「ひゃうん!」
 ビクンビクン、と幾度か痙攣してから、果てた。まったくお話にならない。美魚は席を立つと、窓際の席で優雅に黄昏ている来々谷のところへ向かった。なぜかそこだけ夕暮れなのだ。
「来々谷さん。その髪はいったいどうしたのですか」
「おや、西園女史」
 美魚と来々谷は、それぞれ妄想派と実践派として、夜な夜な激論を交わしている間柄である。何度か(文字通りの意味で)ベッドを共にしたこともあり、美魚にとってはもっとも親しい友であると言えるかもしれない。
「放熱索……ですか?」
「いや、ただのポニーテールだが」
「ポニーテールといえば放熱索です」
 力説する美魚に、来々谷は若干引いていた。
 ちなみに来々谷のポニーテールは、別に珍しくない。体育の授業など、邪魔になりそうな時には適当にまとめている。まあ常時であればそんなことはないのだが。つまり、やっぱり珍しかった。
「それで、なんなんです」
「まあ、ちょっとした気分転換さ。特に意味はないよ」
 胸元で、まとめた髪の先を指にくるくると巻きつけて遊びながら、来々谷は口元を緩めた。なんか色っぽくてムカついた。小さい胸が好きな殿方もいるんですから。小さい胸が好きな殿方もいるんですから。小さい胸が好きな殿方もいるんですから……。
「ど、どうした、西園女史。なぜ泣く?」
「なんでもありませんっ」
 ぶわっ。回れ右して走り出す。人とぶつかった。
「きゃっ」
「わふー!?」
 間違い。犬とぶつかった。たいした衝撃でもないはずだが、お互い様々な意味においてちっこいせいで、尻餅をついてしまう。
 ぱさり、と小さな音。たぶん、犬がかぶっていた帽子を落としたのだろう。
「ああ、すいません、能美さん」
「あっ、いえいえ、こちらこそ」
 先に立ち上がった美魚が、手を差し伸べる。その手を取る能美さんことクドリャフカ。愛称クド。放熱索を装備していた。
「…………」
「わふ……? 西園さん、どうかしましたか……?」
「わんちゃんが舌を出してハァハァ言っているのは、熱を逃がすためだと聞いたことがあります」
「さすが西園さん、物知りなのです。その舌出し呼吸は、ぱんでぃんぐと言って」
「つまりっ、それはっ、舌……舌なんですね?」
「わ、わふ……?」
「そんなわけないじゃないですか! 裏切りものっ、裏切りものーっ!」
「ああっ、西園さんっ。うぇいと、うぇいとなのですーっ」
 自己完結した美魚はまさに無敵で、クドの制止など馬の耳に鳥の詩であった。今度は誰にも犬にも猫にもぶつからず、美魚はどこぞへと走り去っていく。
 その背中を呆然と見送った一匹と、すぐそばで傍観していた一人。
「ど、どうしたのでしょう、西園さん……」
「さてな。ま、拗ねているだけだろうさ」



 廊下を疾風のように駆け抜ける美魚。嘘。そんなに早いわけがない。
「あ、こら、廊下を走るな!」
 途中ですれ違った元風紀委員現女子寮長も、ご多分に漏れなかった。途中ですれ違ったがっかりおっぱいも、ボケボケスパイも。どいつもこいつもアホだ。バカだ。
「ぜはあっ……ぜはぇあっ……ヒュウゥぅ、ヒュゥゥゥ……げほっがはっ」
 ろくに体力のない娘っ子が全力疾走などしたものだから、当然こうなる。最後には歩くことすら出来なくなり、美魚はリノリウムの冷たい廊下の上で崩れ落ちた。
「……こんな……惨めな……なんで……わたし、は……」
「わ〜っ!? み、みおちゃんっ、だいじょうぶ!?」
 聞こえてくるはエンゼルボイス。我らが小毬さんの登場である。倒れたままピクリともしない美魚に駆け寄り、涙目でその名を呼びかける。
「みおちゃん、みおちゃん! しっかりぢてっ」
 涙目の涙声。ああ、美しきは友情かな。
「ええと、ええとっ、あ、そーだっ! ぽっきーはいかがですかっ。それともワッフル?」
「……わっふる……わっふる……」
 それきた、と小毬が美魚の口にワッフルを詰め込んだ。ヒットポイントが30回復した。
「ふぅ……助かりました」
「よかったぁ〜……あ、ゴゴティーもありますよ〜」
「いただきましょう」
 ごきゅごきゅごきゅ。ヒットポイントが55回復した。美魚の最大ヒットポイントは801なので全快には程遠いが、まあ無いよりはマシである。
「それで、そのチョンマゲはなんなのです」
「ほえ?」
 いつもは頭の両側をちょこんと結えている小毬だが、今日はそれが、チョンマゲ的位置にあった。いつもの髪留めは、そのチョンマゲ的位置の一か所にまとめてくっついていて、少しばかり野暮ったい感じである。
小毬が心外だとばかりに、けっこうある胸を張りながら、えっへんと訂正する。
「違うよ〜、これはポニーテールだよ〜」
 また放熱索か、と美魚は呆れた。そんな放熱索のどこがいいと言うのだ。というか、そもそもチョンマゲである。美魚は心を鬼にして、言ってやることにした。
「いいですか、神北さん」
「うん?」
「……あなたに足りないもの、それは! (胸の)謙虚さ、おつむ、ダイエット、謙虚さ、謙虚さ、謙虚さ、謙虚さ! そして何よりも――長さが足りない!!」
「がーんっ!?」
 よろめく小毬。しかし倒れる寸前で、踏ん張ってみせた。
「で、でもほら、これ!」
 くるりと背中を向ける。チョンマゲの星飾りから、長さが変わることで有名なリボンが計四本、垂れている。
「見ようによってはポニーテールみたいな感じに、ほら」
「姑息ですよ」
「う、うう……みおちゃん、いじめっこ〜……」
「私は今日も恭理本に囲まれて幸せですが、何か?」
「うわーんっ!!」
 よくわからんが、決着した。見事に恩を仇で返した美魚は、満足げに、はんっ、と鼻を鳴らす。非常にいい気分だった。軽くエクスタシィ。ほとがホットだぜひゃっはー。さて教室に戻りましょう。
 ちなみにここは一階だったので、窓の外に猫と戯れる鈴の姿を見つけたのも、多分偶然ではない。



 皆が変わってしまった中で、鈴だけがそのままでいた。
 渡り廊下まで出て、声をかけようかかけまいかと考えている内に、鈴は立ち上がる。たちまち猫たちが大合唱。にゃーにゃーぬおーにゃー。じゃれつく猫たちを、こら、あたしはこれから授業なんだ、と優しく振り払う。優しすぎて、猫たちは遊んでくれているのだと勘違い。鈴があっち行け、と優しく。それにじゃれつく。ループって恐い。
「鈴さん」
 美魚が声をかけると、猫たちはにゃーにゃーぬおー言いながらどこかに逃げて行った。美魚は、鈴の猫たちとはあまり親しくないのである。
「ん、みおか。ありがと、たすかった」
「どういたしまして」
 ちりん、と鈴が鳴って、一緒に鈴の放熱索、否、ポニーテールが風に揺れた。
 その時である。
「にゃおん!」
 どこかに隠れていたらしい猫の一匹が、何をチャンスと思ったかは定かではないが、鈴に飛び掛かった。より正確に言うと、鈴のポニーテールに飛び掛かった。つまりチャンスを窺ってたとかではなく、動くものに反応しただけだった。美魚に気を取られていた鈴は、反応が遅れる。
 ずるっ。
 その猫はちっこかったので、体重はたいしたことはない。でも、髪の一房で支えるには重すぎた。すなわち、ずるっ、とは鈴のかつらがズレた音であった。そして落ちた。
「いやいやいや」
「うにゃー!? なんてことしてくれてんじゃー、ボケー!」
 怒りまくっているが猫相手では手も足も出ない鈴。にっくき猫畜生は、“堕ちた鈴のポニーテール付きかつら”(ルビは“エンゼルフォール”でよろしく)でうにゃうにゃと遊んでいた。
 現れたのは花の女子高生生活をドブに捨てているようなつるっぱげガールでなく、普通のショートヘア娘である。それはそれで似合っている、というか直枝さんの制服着せたらサイズ的にダボダボで、だがそれがいい、つまりかなり美味しそうな男の娘(こ)になるんじゃないか、恭介×鈴・禁断の兄弟愛編……これはイケます、と美魚は思った。
「というか、ヅラだったんですか」
「ヅラゆーな」
「かつらだったんですか」
「まあな」
 なぜか偉そうな鈴である。
 美魚は屈んで、うにゃうにゃごろごろとしている猫の横から、かつらの髪を何本か掬い上げる。鈴の頭にぶら下がっていた間は艶やかに見えたそれが、今は輝きを失っているように見えて、どういう仕組みなのだろう、と割と真面目に考えてしまった。
「最近? それとも、昔から?」
「高校上がった頃だから、最近か」
 鈴によれば、恭介は長い髪の子が好きらしく、趣味の押し付けがいよいよウザくなってきた頃から使い始めたという。実に恭介らしいキモさで、美魚はその話をすんなりと信じた。
「まあ、髪長いのは見てる分にはいいんだけどな。くるがやはきれーだし、クドはかわいいし。はるかはどーでもいいが」
 美魚は、親指をグッと立てた。鈴も応える。奇妙な、それでいて必然の連帯感。哀れなのは葉留佳だけだった。つまりいつも通り。これが彼女向けの親愛表現なのだから仕方ない。そんなこんなで棗鈴式髪型論が続く。
「でも、自分でやるのはゴメンだと思う。動くときにうっといし、手入れはめんどいし」
「ですよね、ですよね」
 美魚は嬉しくなった。今朝になってからなんとなく感じていた疎外感が綺麗さっぱり吹き飛ばされていくような、素晴らしい気分だった。
「でもまあ、最近は伸ばしてもいいかなー、なんて思ってる」
 一転ずんどこに落とされ、美魚は逃げ出した。



 こういう時逃げ込むのは屋上だと相場が決まっているが、まあ決まっていなくてもいいが、どちらにせよ残念ながら鍵がかかっていた。どこぞのドジ娘がドライバーを置き忘れていたりするわけでもなく、美魚は埃だらけの踊り場に腰を下ろした。
「わかっているんです」
 天井を見上げる。その向こうには、青い空が広がっているはずだ。いとしいあの子が溶けた、青い空。曇りでも雨でもない晴天。
「本当は、わかっているんです。でも」
 チャイムが鳴った。教室に戻る気は起きない。何か本を持ってくればよかった、と美魚はそれだけを後悔する。
 そういえばあの頃は髪を伸ばしていたなぁ、と天井を眺めながら回想する。いつ、どうして切ってしまったのだろう。今となっては思い出せない。それとも、覚えているほどでもないつまらない理由だったのか。後者のような気がした。むしろそれで間違いないような気がした。なら、
「……髪、伸ばしてみましょうか」
 つまらない理由でそうしたって、いいじゃないか。むしろそうするべきだ、と美魚はなぜか義務感にすら駆られていた。



 丸一日授業をサボって、放課後。
 ずっと姿を見せなかったせいでみんな心配しているらしく、メールやら電話やらが来まくったのだが、未だケータイを使いこなせない美魚は、結果的に全て無視した。今時ジジババでもケータイ程度扱えるというのに、ひどい体たらくであった。
 しかし、今の美魚は希望に満ち満ちている。
 髪が伸びたら、どうしてみよう。やっぱりまずはポニーテールだろうか。ちょっと媚びた感じがするが、ツインテールなんてものが現実に通用するのか試してみるのも一興だ。三つ編みにしてメガネかけて、図書委員を装ってみるのも楽しそう。
 気分はウキウキ、下手クソなスキップでグラウンドへ。悪戦苦闘の末、理樹に生存報告のメールを送っておいたから、みんなはいつも通り野球の練習に勤しんでいるはずだ。
 カキーン、と気持ちのいい音が空を突き抜けるように。しかし打球はグラウンドを転がっていた。理樹が打ったその球を、恭介が拾い、返す。こんなセリフ付きで。
「理樹は本当にショートヘアが好きだなぁ。球筋に出てるぜ」
 直後、来々谷を筆頭とする女性陣とノリで参加した真人と謙吾、ドルジによる粛清の嵐が吹き荒れ、マウンドの鈴は“エンゼルフォール”を装着した。もう堕ちてないのでただの“エンゼル”だった。意味がわからないが、ポニーテールは至高なので“エンゼル”でいいのだ。
「……べ、別にそれがどうしたっていうんですか」
 美魚は苦し紛れに空を見上げた。何か大笑いされている気がするが、美魚はこれでけっこう頑固なので、今さら後には退けないのである。
 なんとなく視線を大地へと戻すと、小毬がにょわにょわと伸ばしたリボンで恭介にトドメを刺していた。再び空を見上げた。
「ポニーテールは素晴らしいです。ショートのうなじの色っぽさ、ロングのしっとりした女性らしさ、一見矛盾する二つの要素が見事に融合した、まさにリリンが生み出した文化の極みなのです。きっとそうに違いありません。違いありませんとも」
 言い聞かせる。
 なんか真面目に、髪伸ばしてみようか、と思えてきた。



 さすがに髪をバッサリやるような子は出なかったので、「なんという直枝無双……死ねよあの野郎」だとか「やっぱり恭介先輩が本命なのよ、きゃっ!」などという噂が立つことはなかった。ポニーテールも消えた。美魚は、まだ髪を伸ばす気でいる。いつまで続くかはわからない。
 今日も、つい体調を心配してしまいそうなほど青い空が広がっている。


[No.914] 2009/02/06(Fri) 18:04:37
世界の卵 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@19577byte

 少年はそこが何処なのか理解していなかった。見知らぬ街並みを見知らぬ人々が滑つく足取りで通り抜けていく。自分の家の方角は凡そ理解している。何せここまで走ってきたのは自分なのだから。しかし、その道順はすっかり記憶から失せていた。
 端的に表現してしまえば、彼は迷子である。誰に聞かれたって帰り道なんて分からない。それでも赤く染まった顔に不安はなかった。彼にとって自分が迷子であるという認識などなく、迷路の途上だったのだから。少年の名前は翔。だから翔る。道は知らないし何処かも分からないが、とにかく翔ていく。空は青い。身体も軽い。通い始めた小学校は楽しいが、友達は居ない。とある事情から彼は他人に敬遠され、何時だって一人きりだった。それを寂しく思う感情はある。だが、それよりも強い愛情が小さな身体に溢れていた。
 夏の日差しに気付けばすっかり汗だくで、髪に篭る熱に驚くほどだった。帽子を被ってくるべきだったと少しだけ後悔する。後悔なんて長くは続かないけれど。心の高揚感に反して肉体の疲労感は小さくなかった。丁度通りかかった公園で一休みする事にする。
 公園なんて何処も大差ない。ブランコがあって滑り台がある。翔はそれを知っているから、迷わずベンチへと向かった。
「あ……」
 その足が止まったのはベンチに一人の草臥れた男が居たからだった。
 背を丸め手の中で缶コーヒーをゆらゆらと動かしている。お盆休みであり身なりも整っている事からホームレスではないようだが、退屈そうに欠伸を繰り返すその姿は何処となく野良猫を髣髴とさせる。
 なんだかその仕草が可愛く思え、翔は怖れる事無く男性へと声を掛けた。
「おじさん、暇なの?」
 男性は少し驚いた様子だったが、相手が子供だと分かると表情を和らげ頷いた。
「お兄ちゃんは、確かに暇だよ」
「おじさん、もしかして怪しい人?」
「お兄ちゃんだから、全く怪しくはないさ」
 拘る年頃なのかもしれない。翔には良く分からなかった。それよりも何故こんなところで退屈そうにしているのかが気になっていた。大人の男の人は何時も仕事が忙しくて、父親がそうであるように少しも構ってくれないものだと信じている翔にとって、よほど奇妙に感じられたのかもしれない。
 覗き込んで来る真っ直ぐな瞳に男性は困ったように視線を逸らしてみせた。それから少し間をおいて子供のような顔をして告白した。
「いやいや、ちょっとお掃除中の嫁さんにちょっかいを出したんだけど、怒られちゃってね」
「イタズラしちゃいけないんだよ」
「君はとても良い子みたいだけど、分かっていないね。あの後姿を見ていると、こう……沸々とちょっかいを掛けたくなるもんなんだ。君だって学校でスカート捲りの一つもするだろう?」
「そんなのしないよ!」
「しないだって? 駄目だ駄目だ、スカート捲りの一つも心得ていない人間は、まともな大人にならないよ」
「でも……してた奴、先生に怒られてたよ」
「如何なる強権によっても、この内なる情動は屈しない!」
 翔には良く意味が分からなかったが、とりあえず面白い人であることは間違いなかった。何せ、周りに居る大人と言えば誰も彼も自分の話を聞くよう言いつけるだけなのだ。何時だってそれらの言葉は高い位置から降り注ぐだけで、何処までいっても一方的でしかない。だから目の前の人物がとても対等に感じられて嬉しかった。
「少年、君の名前は?」
「翔! 翔って書いてかける!」
「そいつは良い名前だ」
「おじさんは?」
「お兄ちゃんの名前は、理樹だよ」

                             ・ ・ ・

 悪意は無かった。善意ではなかったし、欲望に塗れていたのかも知れないが、少なくとも邪魔するつもりではなかったのだ。結果的に邪魔になってしまっただけの話で。
 お盆休み、退屈を持て余していた理樹は詰まらないワイドショーを肴に惰眠をむさぼっていたが、それにも限界があった。やれ誰それが結婚しただの離婚しただの下劣な好奇心が溢れ、チャンネルを変えれば大食いタレントが登場し、もう一つ変えれば節約特集が流れる。混沌としたその映像に、理樹は新種の拷問であると結論した。
 生憎と苦痛を覚えながら電気を浪費するほどマゾヒストではない彼はテレビを消した。するとたちまち、窓ガラスの向こう側から蝉の大合唱が聞こえてくる。中の雑音と外の騒音。どちらがマシかと問われれば、答えは決まっていた。
 即ち、嫁の尻だ。嫁の尻と書いて現実逃避と読む。92年製の無骨なエアコンは愛情の欠片もなくゴォゴォと老人が咳するように冷気を吐き出していたが、室温の上昇を辛うじて防いでいるだけで、座っているだけでも汗が浮かぶほどだった。
 だから愛する女性は、三日三晩掛けて説得し着用してもらったハート型のエプロン以外には、タンクトップとホットパンツだけの姿で掃除していて、剥き出しの太ももと張り詰めた尻肉がしきりに揺れて見えるのである。
 我慢できるわけもなく飛びついた理樹を、華麗な回し蹴りが襲った。暑さに苦しみながら家事をこなしている彼女にとって、だらけた旦那の存在は堪らなく鬱陶しいものだったのだろう。容赦の欠片も無いそれに吹き飛ばされた理樹を更に踏み付け、彼女は宣言した。
「出て行け、もしくは出て行く!」
 フーッと猫のように威嚇する愛する嫁を前に旦那が出来る事は、只管雷雨が過ぎ去るのを祈って待つ事だけと古来の碑文にさえ記されている。
 そんなわけで、一人ぶらぶらと公園にやってきたわけだが、すっかり退屈していた。パチンコなどのギャンブルに興味はなく、映画を一人で見に行っても意味はない。とりあえずベンチに座ってみたものの、次なるプランは思い当たらなかった。嫁の機嫌が直るまで、まだ数時間は掛かるだろう。
 キンキンに冷えていたはずの缶コーヒーはすっかり温くなり、不味さばかりが際立っている。不健康飲料として登録したいほどの甘さにウンザリしながらも、捨てられないのが貧乏人の性だった。
 直ぐ傍にある灰色のゴミ籠には誰かが捨てたスポーツ新聞があり、それに手を伸ばしかける事、数度。普段読まないが、退屈しのぎにはなるだろう。しかし、どうにも汚らしい行為のように思えて、理樹はその衝動を抑えていた。
 あるいは、このまま三十分もすれば羞恥心などかなぐり捨てていたかもしれない。退屈に狂うか熱で狂うか、そのどちらか限界が訪れていただろう。
 だから、翔の登場は理樹にとって僥倖だった。
 面白い少年に出会った。それが最初の感想だった。見た限り、小学校に入りたてという程度の年頃である。大きな瞳は好奇心に輝いていて、身体全体から活力が溢れていた。とてもではないが現在の理樹には出せない力が、そこに見えるようだ。
 物怖じしない幼い翔に、若干のこそばゆさを感じながらも理樹は微笑む。
「翔はこんなところで何をやってるの?」
「走ってる!」
「走ってるって……何で? スポーツでもやってるの?」
「ううん、違うよ。ただ走ってるだけ」
「どこか行きたいところがあるの?」
「あるよ!」
 満面の笑みを浮かべ身体全体で頷く翔に、理樹は少しだけ戸惑っていた。公園に立ち寄ったのは軽い休憩だったのかもしれないが、それにしても急いでいる様子は見られない。この炎天下、走ってまで向かいたい場所があるのだからよほど重要な用事だろうに。
「この近く?」
「わかんない。知らない」
「知らない? なんで?」
「だって、誰も知らないもん。おじさんは知ってるの?」
「待って。もしかして、迷子だったりする?」
「じんせいにまよってる!!」
 元気良く叫びながら煙草を吹かす仕草は、テレビドラマか映画の真似事なのだろう。言葉の意味も良く分かっていない様子で、ニコニコ笑顔だった。理樹は知らなかったが、それは日曜の朝にやっている『ハードボイルドライダー・V3』という特撮ものの主人公のキメ台詞だった。
 さて、困ったぞ……と理樹は脳内で独り言ちた。少年との会話は退屈しのぎにはもってこいだが、迷子の相手は若干手に余る。泣きもしなければ不安の欠片も見られない翔だが、それが三十分後も続いている保証などありはしない。不安は突然空を覆い、涙は必然降り注ぐ。
「翔は、一人? お友達は居ないの?」
「……友達、居ないから」
 軽く地雷を踏んでしまった事実に、理樹は頭を抱えたくなった。
 だいたい、夏休みに一人でいる事から想像は難くないだろう。普通なら網と籠を持って仲間達を走り回っているはずだ。最近なら携帯ゲーム機かもしれないが、凡そこれくらいの歳の子供が一人きりというのは、何かしらの事情があるはずだ。
 理樹の脳裏に、かつての自分の姿が浮かんだ。彼もまた、一人きりだった事がある。
 瞼を閉じれば、幼い恭介の姿が僅かな誤差も無く浮かび上がった。真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐに手を伸ばしていたその姿は、今でも、あるいは今だからこそ夏の太陽よりも輝かしい。救い出してくれた、そして引っ張ってくれたその手の厚さと温もりは永遠に刻まれている。
 だからこそ、自分がどれほど恵まれていたかも分かっていた。例え何百の人生をやり直したとしても、恭介とはもう二度と出会えないだろう。そして彼が居なければ他の誰とも出会えなかっただろう。リトルバスターズという奇跡のようにあり得ない仲間を持てた自分は恵まれている。愛されている。
 その証拠として、翔のような孤独な少年が居る。
「だって、仕方ないもん。一緒に遊べないんだもん」
「遊べない? どうして?」
「だってだって……」
 翔はそこで少しだけ躊躇っていた。口をもごもごと動かして、言葉を租借し吟味しているようだった。聞いてはいけない事だったかと理樹がたっぷり冷や汗を掻く時間を置いて、少年は唇を尖らせながら言った。
「いっつも、いきなり寝ちゃうから」
「寝ちゃうって、夜更かしでもしてるのかい?」
「違うよ! そういう病気なの。お休み病!」
「…………ナルコレプシー?」
「あっ、そうだっ! そんな変な名前!」
 不可思議な手品でも見たかのように目を見開きながら肯定した翔に反して、理樹は何てことだ、と今度は本当に頭を抱えた。
 そんなところまでそっくりだと、奇妙すぎる縁に眩暈を覚える。
 理樹は既にそれを克服している。だがかつてはそうだった。突然襲いくる睡魔に度々意識を奪われ、その度に周りの人に迷惑を掛けた。恭介達のように、助けてくれる仲間が居なければ、友達など出来なかった。出来るはずがなかったのだ。
「おじさん、どうかしたの?」
「いや、なんでもない。何の因果かって思っただけだよ」
「インガ?」
「困っちゃうくらいの偶然って意味さ」
「おじさん、困っちゃったの?」
「ん? いや、そう言われてみれば別に困るような事じゃないのかもしれない。あ、けどむしろ翔の方が困っちゃうんじゃないか? ナルコレプシー……翔のお休み病は突然やってくるんだから、一人でいたら危ないよ」
「大丈夫だよ。だって僕、ワープ出来るんだから」
「ワープだって? そいつは凄い、君は超能力者なのか」
 理樹が感心すると、翔はよほど嬉しかったのか鼻息を荒くした。少年にとって、ここまで話が通じる相手は初めてだったのかもしれない。理樹にとっても記憶がある、理解者の存在は心を強くする。彼はヒーローのように胸を張って宣言してみせた。
「それだけじゃない、僕は死んだ人とだって会えるんだ!」
「死んだ人と?」
「そう! 眠るとね、次に眼が覚めた時、色んな場所に居るんだ。学校の保健室だったり、家だったり、車の中だったり、あっちこっちワープしちゃって、すっごく困るんだけど、時々だけど見た事もない場所に辿り着くの。そこにはお母さんが居るんだよ」
「……それは、いや、うん。凄いな」
 言葉を濁したのは、理樹がワープの正体を知っているからだった。ナルコレプシーは場所や時間を選ばない。本人にさえどうしようもない睡魔が訪れ、強制的に眠りへと誘う。たとえ道端であったとしても、だ。
 そんな場所で子供が倒れていれば、常識的な大人が無視する事は出来ないし、また社会的に許されない。誰かが安全な場所へと運んでいるだけだ。眠っている本人には分からないが、ワープしているわけではない。
「死んだ人とも会えるって言ったけど、もしかして翔のお母さんは?」
「うん、死んじゃったの」
「そっか。寂しいね」
「でも、会えるから良いの! 時々しか会えないんだけど、ちゃんとお話も出来るもん」
 これについても、理樹は答えを知っていた。
 ナルコレプシーには入眠時に幻覚を見る事がある。幽霊などの心霊現象を見るという例があるのだ。だが、それらはただの幻覚であり、夢は所詮夢だ。どれほど現実的であったとしても、存在しないものなのである。
「翔は、そんなにお母さんに会いたいの?」
「なんでそんな事、聞くの?」
 当たり前の事を聞かれ、翔はとても不思議そうだった。それと同時に、瞳の中に僅かな、初めて見せる警戒の色を悟り、理樹は言葉を濁す。
「ほら、お父さんとか……色んな人に心配をかけるじゃないか」
「そうかもしれないけど、お母さんに会いたい」
「お母さんの事が大好きだったんだね」
「うん! お母さんはね、とっても優しいの! だから会いたいよ!」
「その気持ちは、分かる」
「おじさんも会いたい人が居るの? あっ、もしかしたらおじさんも一緒に行けるかもしれないよ。一緒に居たら、会えるかもしれない!」
「……ありがとう。でも、ごめん。その人達とはもう会えないんだ」
「なんで? そんな事ないよ、ちゃんと会えるよ?」
「そうだとしても、会っちゃいけない。会おうとも思っちゃいけない。それを望んでしまったら、僕はイカロスになってしまう」
「イカ? なんで?」
「あぁ、まだ知らないのかな。学校の音楽の授業で絶対習うと思うんだけど、昔々イカロスって名前の男の人が居てね、蝋燭で固めた羽で空へと飛び立ったんだよ。でも、あんまりにも高くに上がってしまったから、お日様の光で羽が溶けちゃったってお話」
「……つまんない」
 子供は正直だ。理樹は思わず苦笑してしまった。夢のようなお話は夢でしかなく、待っているのは現実としての結末なのだから、これほど退屈なものもない。
「実はね、お兄ちゃんも翔と同じ病気だったんだ。僕は翔みたいに死者には会えないけど、何時だって直ぐ傍に眩しい光があった。僕にとってそれこそが目指すべき場所で、そのためにずっと走ってた。でも今は少しだけ違う。凄く綺麗なものがそこにあるのは知ってるけど、僕らはそれを求めるべきじゃないんだよ。イカロスみたいにさ、近づき過ぎて落ちちゃうよりも、地面の上で生きていくべきだって」
「……つまんない!」
 吐き出された少年の声には強い憤りがあった。賢い子だと理樹は思う。伝えなければならない事だが、伝えたくはないというのが理樹の本心だった。だから出来る限り迂遠に話を運んだ。不思議そうにしていてくれたなら、むしろ成功だとさえ考えていたほどだった。
 死者を求めるべきではない。彼らとはもう会えないのだ。
「そんなの嫌だ! おじさんもお父さんみたいな事を言う! どうして皆、そんな事を言うの、どうしてお母さんと会わせてくれないの、会えるんだから、本当に会えるんだから、僕は知ってるの、眠ったら会えるんだよ、会えるのお母さんと会える!」
「分かってる。分かってるから」
「わかってない! お母さんに会えるんだ! 会えるんだから!」
 乗り越えるには余りにも高い壁がある。現実という名のそれに幼い心は我武者羅にぶつかり時には砕けそうになる。理樹にはその記憶があった。認める事の出来ない事実を前に膝をつき崩れ落ちる瞬間があった。
 それでも、死者とは会えないし、それを願うべきではない。もし本当にそれを望んでいたのなら、太陽よりも高く飛ぶ事が出来たのなら、そんな風に考える事はあった。膝を抱える鈴の手を取ってもう一度挑戦していたとしたら、そんな夢を見る事はあった。そうしていれば、もしかしたら自分達はずっとリトルバスターズで居られたのかもしれない、などと。その度にあり得ない事だと自嘲するのが彼の癖になっていた。恭介は助からなかった、真人も謙吾も助からなかった、理樹と鈴以外は誰も助からなかった。それが、現実だ。
 それでも幼い少年には認めがたいものだったのだろう、ついには癇癪を起こし始めた彼の身体から、急に力が抜けた。操り人形の紐が切れたようにその場に崩れ落ちる。
 理樹は慌てて軽いその身体を受け止めた。受け止められる側としては熟練だったが、受け止める側は少ない理樹だから、若干乱暴になってしまった。それでも、ゆっくりと瞼は落ち、翔は夢の中へと去っていく。
 強い感情に誘引されやすいその眠りは、かつての自分にそっくりだ。だからこそ、受け止める事に成功した後は冷静だった。理樹は当然のように翔のポケットを探り、そこから薄い財布と共に一枚のカードを取り出した。携帯を持っているかと思ったのだが、どうやらそれだけらしい。
 症状が時と場所を選ばない以上、万が一の事を考えて常に氏名と連絡先が分かるものを持っているのは当然だ。カードはどうやら翔の自作らしく、のたうつ平仮名で名前と住所、電話番号が書かれていた。
「なんだ、直ぐ近くじゃないか」
 あまりの読み難さに何度か角度を変えながらようやく解読した理樹は、思わず呟いた。迷子と思っていたから、何処からやってきたのかと考えていたが、表記された住所はものの十分ほどで辿り着く距離だった。
 この距離なら電話するよりも直接送った方が早いだろう。
 理樹は翔を背負い上げると、歩き出した。
「何時かきっと、君もその夢から覚める時が来るよ。死んだ人とは会えないし話せないんだ。それが悲しくてたまらなかったとしても、僕らは皆、受け入れて生きていくべきなんだよ」
 好きな人が出来れば、尚の事そう思うだろう。理樹は無性に愛する人に会いたくなった。まだ怒っているかもしれないが、土下座してでも許してもらおう。それでしっかりと抱きしめていたい。
 だから祈るしかない。今はただ、翔がそれを乗り越える日を。それまで見守るしかないのだ。案外、恭介も同じような気持ちだったのだろうか。理樹はそんな風に考えてみた。あんな悲劇がなければ、あるいは彼は何時までだってその場所で待っていてくれたのかもしれない。
 翔の家は直ぐに発見できた。見るからに草臥れたアパートの一室だった。表札はなかったが住所は確かであり、錆びた金属のドアの奥からはテレビの音が聞こえていた。雌の蛍のようにひっそりと佇むチャイムを鳴らすと、低い女の声が返ってきた。
「……女の人?」
 てっきり父親が在宅しているのだと思っていた理樹は、ドアを開けて現れた女性の姿に困惑した。もしかしたら再婚したのかもしれない。そう思うのだが、目の前の彼女からは母親のイメージがどうしても浮かんでこなかった。
 ほとんど下着同然の薄着の彼女は理樹を見て眉を顰め、それから背負われている翔へと視線を移し、たちまち表情を醜く変えた。
「糞ッ、またか!」
 酒焼けし擦れた声はドスが効き、思わず引いてしまうほど迫力があった。化粧をしていない顔が真っ赤に染まっているのは羞恥ではなく怒りに起因したものである事に疑いようはなく、理樹はさらに混乱する。
「あの……お姉さん、ですか?」
「どうして何時も何時もあたしの所に!」
「こちらの住所が書かれたカードを持っていたのですが、もしかして間違っていましたか?」
「カード!? またっ、こんなの作って!」
 理樹が確認のために差し出したそれを彼女は乱暴に奪い取ると、びりびりに破いてしまった。本能的に危険を感じ、理樹はこの女性に翔を渡すまいと後ずさる。だが、伸ばされた腕は少年の服をしっかりと握り締めた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「五月蝿い! アンタには関係ないでしょ!」
「関係あります、そんな乱暴に……」
「自分のガキをどう扱おうが、親の勝手じゃない!」
「……親? 親、ですか?」
 では女性に見える目の前の人物は、実は男性だというのか。理樹は目を凝らして見たが、何処にも男性的な部分は見えなかった。メイクもしていない荒れた肌は女性的な柔らかさがあり、口元にヒゲの色も見えない。
 事実として、彼女は女であった。
「で、でもお母さんは亡くなったって」
「死んだわよ! あたしはもうコレの親じゃない! こんなの要らないのに!」
 理樹は言葉をなくした。
 では、何故翔は母親が死んでいると思い込んでいたのだ? 父親が離婚した母親と会わせないために嘘を教えたのかもしれない。だが、それなら何故夢の中で出会っているのか。いや、それは本当に夢だったのか? ナルコレプシーの症状として心霊現象を見たという例はある、だが全てがそのように幻覚だったとどうして言えるのか。
 彼女の言葉から、こういった事が初めてではない事が覗えた。カードの連絡先が彼女の家であった以上、周囲に彼の立場を理解している人間が居ない場合、当然連絡が入る。
 翔は何度も、この家を訪れている。
 だが、そこで母親と会話したのなら、生きている事を理解しているはずだ。
「はぁ? そんなの、コレの妄想でしょ。糞っ、何時まで経ってもガキだんだから! 鬱陶しい! 邪魔なのよ、コレ!」
「違う……あなたは、死んでるんだ。彼の中で、ここに居るあなたなんて居ない」
「は? 何わけの分からない事言ってんのよ! 死んでる? 結構よ、死なせて欲しいわ。こんなモノの親になりたくてなったんじゃないんだからっ!」
「違う。そうじゃないんですよ!」
「死ねば良いのに。こんな馬鹿、死んじゃえば楽なのに!」
 理樹は一歩、後ずさった。それは彼の意識を超えたものだった。
 肉体的に疲弊していたわけではなく、心が崩れ落ちそうだったわけでもない。
 それは、逃避だった。ぐらりと視界が歪んで見える。懐かしいその感覚を懸命に拒絶しながら、理樹は女性の声を聞いていた。
「良い? もう二度とこの糞ガキを家に連れて来ないでよね! 次に連れて来たら、男呼んで追い込み掛けてやるから! 分かった? 分かったらさっさと消えろよ、糞野郎!」
 理樹の顔に、彼女の吐き出した唾が掛かった。それでも理樹は、優しさも愛情も感じられない力で翔が床へと投げ捨てられるのを見ていた。ナルコレプシーの力は強く、ちょっとやそっとじゃ起きない。目覚める事が出来ない。だから知る事もない。
 それでも、何時かは目覚めなければならないのだ。永遠に眠ったままで居られるわけではない。だが、目覚めたところで、何処に翔にとっての救いがあるというのだろうか。
 母親は生きている。本当に会う事が出来る。
 それは素晴らしい事だが、絶望の色しか見えなかった。
 そこには否定しかない。優しく大好きな母親の姿はなく、翔を拒絶しながら生きる女が一人居るだけで、決して彼の願いとは両立しない。翔が願う日常はそこではっきりと途切れていた。本人の意思とは関係なく、まるで不意の事故のように。
「何度も……繰り返しているの?」
 理樹は眠る少年に問いかけた。街中を駆け回り、眠りに落ち、母親の元へと辿り着く事を願い、時には失敗しながらもようやく願いを叶え、しかしそこに待っているのは少年にはどうしようもない現実。
 だが、翔はそれを否定する事が出来てしまう。感情の高ぶりによっても眠りに落ちてしまう彼はそこで受け入れる事の出来ない現実を夢に、夢を虚構に、虚構を現実に、一つずつズラす事が出来てしまう。だから母親と会えた事は夢になり、優しかった記憶が現実として残る。
 そうして、繰り返す。何度でも、何度でも。
 理樹は震える手を伸ばそうとした。届く事の無いその先に翔を求め、その回転する小さな世界に触れようと思った。だが、指先は薄膜のような意識によって遮られた。
 バタン、と扉が閉じられた。


[No.915] 2009/02/06(Fri) 19:16:02
手樫病 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@9345 byte

「ふうっ……」
 陶然としたように美魚がため息をつく。部屋を掃除しているうちに奥深くのところに眠っていた最初に買った同人誌を発見した。当時はまだ恥ずかしさがだいぶあったため、今美魚が買っているような同人誌やBL小説と比べると性的な描写が薄い作品だが、その分こまかいしぐさなどでの繊細な描写はふんだんに含まれていた。世間的には眉をしかめられるようなものだがそれを愛おしく抱きしめながら思う。
「(優しい作品です。次の作品はこのようなものもよいかもしれません。次の作品……次の)」
 そして美魚は現実に立ち返る。
「あああああっ!?」
 ここへきて掃除をし存在を忘れかけていた本を読んでいるうちに三時間も時間をロスしていたことに気づいた。締め切りが近付いたというように一向にネタが出ず、部屋を模様替えしたら気分が変わってネタが出るかもしれないと思って掃除をしていたが、当然そんなことをしてもネタは出てこずただ無情に時間が過ぎただけであった。
「はあ、気分転換するつもりでそのままずるずると行ってしまうなんて馬鹿です。滑稽です……自虐ネタなんてそこまで需要のないネタをするキャラは、リトルバスターズみたいな少数グループに二人も要りませんね」
 自虐的な発言をするがそれすらも二番煎じということに気付き、さらに美魚の気分は深く沈んでいった。そしてしばらく生気のない瞳でブツブツとつぶやいていたが、やがてその瞳に暗い光が宿る。そしてその間にさらに10分ほど締め切りまで近付いたことには少しも気づかない。
「なんでしょう。急に朱鷺戸さんのような買う専門のオタクが憎くなってきました。今も彼女は締め切りとか考えずに楽しく過ごしているんでしょうね……ふふ……ふふ」
 コンコン、ガチャ
「西園さん。また何か漫画貸し、ニュギャフッ!?」
 そんな風に美魚が暗い考えを巡らせている最中、恐ろしいまでの空気の読めなさであやが扉を開けて顔をのぞかせた。瞬間美魚が普段からは想像できないほどの機敏な動きで近くにあった一冊の本をあやに投げつけた。別にそれはただすぐ近くにあった本ではない。一瞬であったにもかかわらず美魚はその本を選んでいた。あやに著しいダメージをもたらした本、それはしばし攻撃力というおよそ本に必要ない要素で語られることがある本。コミケカタログと並び称される二大兵器、すなわちガンガンであった。ちなみに美魚はアル×エドというリバ派である。



「一体何なのよ、さっきのあれは!?」
「すみません、たまたまあなたに殺意がわいた時に来られたからつい」
「たまたまで人殺したくなるの!?」
「ですが殺したくなるほど愛していると言われれば納得できませんか」
「えっ! 西園さん、あなたあたしのことそんなに好きなわけ」
「いえ、嫌ってはいませんけどそこまで好きというわけでは」
「あたしはあんたのこと大嫌いだ!」
 気を失って部屋に引きずり込まれたあやが目を覚まし突然起きたことについて詰問する。その受け答えに思わず切れてしまったが、さすがに自らの態度を反省した美魚が深く頭を下げたことでようやく落ち着きを取り戻す。
「で結局なんであたしはいきなり攻撃されたの。あたし何か西園さんに悪いことした?」
「すみません、今わたしは病気にかかっていて」
「病気? どこも悪そうに見えないけれど」
「精神の疾患でしょうか。いわゆる手樫病にかかってしまったのです」
「はあ? ごめんもう一度言って。手樫病って言ったように聞こえたのだけど」
「はい、その通りです。手樫先生のように全然ネタが出てこないで作品が全然進まなくなる病気。これを俗に手樫病といいます」
「病気ってただのさぼりじゃない」
「全然違います。これはまぎれもない病気です。中核症状の作品が進まないことのほかに、先ほどのようにやたらと攻撃的になる、反対にうつ状態になる、暴飲暴食をする、過眠や不眠になる、逃避行の旅に出る、模様替えをしたくなる、ゲームや漫画などに集中するなど様々な周辺症状があらわれる大変な病気なのです!」
「たしかにいろんな意味で今の西園さん病気っぽいね」
 血走った眼で自分に詰め寄る美魚の姿を見てあやはそう感想を述べる。時々変なことをするけれど基本的にはしっかりした人間というのがあやの美魚に対する印象だったが、今の美魚の姿はその印象をがらりと変えてしまうぐらい異常であった。あやは本来の目的であった漫画を借りるというのはとても無理だとはわかったが、それでも今の美魚はとってもほっておけないと思い、美魚の落ち着きを取り戻すために家主に代わって二人分のコーヒーを用意した。



 疲れている時には糖分がよいと思い砂糖たっぷりのコーヒーを出したあやがあらためて美魚の話を考えてみる。かつてあやがいた国々とは違う日本の平和の象徴が漫画やアニメである。恭介や美魚はもちろんリトルバスターズ以外でも漫画などをきっかけに友達になった人もいる。あやは確実にオタク化が進行しているが、そんな彼女であっても今の美魚の状態はとても理解できなかった。
「ねえ、西園さん。そんなつらいのだったらやめたら」
「なんてことを言うのですか。やめていいわけがありません」
「いや、だってそういうの書くのただの趣味でしょ。なんでそんな必死になってるの」
「それは……」
 何かを言おうと思いはしたが言葉が途切れた。実際美魚自身も時々疑問に感じることがある。好きなことをやっているはずなのになぜこんなに苦しんでいるのか。好きなことをしているのであればもっと楽しんでいるはずではと考えることがある。普段であればたとえそういう考えがわき起こったとしても、すぐにネタが出ないから苛立ってるだけだと意識から外すが、こうして他人から言われることでその問題を直視せざるを得なくなってしまった。
「う、産みの苦しみです。途中で苦しんでも完成した時には何物にも代えがたい喜びがあるからです」
「だったら締め切りとか気にしないでゆっくりと完成させればいいんじゃないの」
「そんな当たり前のように締め切りを破るなんて手樫病の末期症状ではないですか。あなたもなかなか連載されないことを文句を言っているではないですか」
「それはそうだけど西園さんのは仕事じゃなく趣味でしょ。趣味だったらさぼっていいじゃない」
「二次創作はそんなに甘いものではありません。今やかつて同人誌などを書いていた人がプロになる例は決して珍しくありません」
「えっプロ目指しているの」
「あっええと、どうでしょう」
 言われて美魚はふと考える。あやが言ったようにプロを目指しているのであれば苦しい思いをしてまで書くことも理解されやすいと思うが、そこまではっきりとした考えはない。せいぜい好きなことを仕事にできたらいいな程度の気持ちであり、そして彼女は同時にそんな簡単に仕事にできるほど甘くはないと考えている。現状では間違いなくちょっと変わった趣味でしかない。創作という中毒性の強いものに侵された人間の気持ちは、興味がない人からすればとても理解できないだろうことはわかってはいるが、それでも美魚には何か譲れないものがあった。そこでアプローチを変えて攻めてみることにした。ちなみに今この瞬間締め切りが近いのにネタが出ないことは完全に美魚の頭の中から抜けていた。
「今から質問をいくつかしていきますがそれに答えていってくれますか」
「ええっうーん、まあいいけど」
「原作とアニメで違う展開をどう思いますか」
「いいんじゃないの。そっちの方が面白いのあるし」
「ファンがもしこうだったらいいなとか考える。あっこれはわざわざ聞くまでもありませんね」
「うん、結局秘宝何なんだろう。それ分かるまであたし絶対死ねないから」
「手樫が秘宝を明かしたら本気を出すというやつですか。じゃあ考えるだけでなく文章などにして形にする」
「えっ何かすごいって」
「ではその文章などを本にしてお金を取る」
「同人誌ってこと。西園さんには悪いけどちょっとそれおかしいんじゃないかなって思う。そんなんでお金取ったりしたらダメだと思う」
「ですが原作と違う展開のアニメのDVD買っていますよね」
「あれ?」
「では作者自ら同人誌を出して原作とは違う展開を書くのはどう思いますか」
「そんなのいるの?」
「さすがに数は少ないですけれどたしかに存在しています」
「えーと、うん、うーん」
 オタク化が進行しているとはいえ、あやが本格的に漫画などに触れたのはこの学校へ来てからのわずかな期間。長年オタクをしている美魚とでは知識も経験も圧倒的に差がある。美魚の立て続けの質問で知らなかったようなことにもふれ、あやは混乱してしまった。
「すみません。少し意固地になってしまいました。二次創作をどう思うかは意見の違いの問題であって、意見の優劣ではありません。漫画の読者数全体などからすれば、朱鷺戸さんのように二次創作に興味がない人の方がはるかに多いでしょう。興味がない方が普通といえます。それでも創作するからには少しでもいいものを作りたいと思ってしまうのです」
「まあ、他にも何人かやってる人知ってるけど、何かみんないろいろ頑張ってるなとは思ってるけど」
「ありがとうございます。手樫先生はつつましく生きればもう一生暮らすだけのお金を稼いでいます。それでも手樫病と揶揄されながらも書き続けているのは、苦しんでもいいと思うほど創作の楽しさを知っているからでしょう……どちらかというと病気より麻薬ですか。その後の禁断症状が苦しくても一瞬の喜びがやめられない」
「なんか怖いね」
「ちなみに手樫病の症状の一つとして、今のように創作そのものよりも創作論をしたくなるというのもあります」
「ほんと迷惑な病気ね!」
 そうあきれたように言ったもののあやは少しうらやましくも感じていた。日本での暮らしに最初はとまどいそれらになれることに必死の日を送ってきた。ようやく生活に困ることはなくなったがそうなることで少し身気力感を感じていた。リトルバスターズのメンバーと過ごすのは楽しいし、戦場では考えられない大量の漫画なども楽しいものの、何か新しい目標はないかと最近考えることが多くなっていた。そして少し考えあやは口を開いた。
「あたしも一度やってみようかな」
「じゃあ……」
「ああ、西園さんがやっているのはダメ。あたしは熱い展開がいいの」
「あれはあれで熱い展開ですが。今年は戦国物がブームになるでしょうが、舞台が戦国だけに熱い展開にもっていきやすいですし。石田三成×直江兼続のカップリングは……」
「だからそっちは興味ないって」
「うっかりすると『え』の字を直枝さんの字と間違いそうになるのが問題ですね」
「だーかーら」
 そしてこの日あやをBL系に興味を持たせるべく、美魚は友情やライバル関係の豊富な漫画などを紹介していった。そんな彼女が締め切りのことを思い出したのは翌日の朝のことであった。





 それから数日後あやはスクレボを題材にしたSSを書いた。初めてのため誤字脱字は多く非常に短くまた展開も拙いもののそれでもあやが二次創作の喜びを知るには十分であった。美魚や恭介に見てもらったときそこには満面の笑みが浮かんでした。しかしこの時あやはまだ知らなかった。美魚があの日語らなかった手樫病の非常に重要な特徴を。二か月がたったある日、
「うんがーっ!? ネタが! ネタが!」
 手樫病は非常に感染力が強い病気であることを。


[No.916] 2009/02/06(Fri) 22:43:28
風邪をひいた日に (No.908への返信 / 1階層) - 秘密 @4507Byte

〜風邪をひいた日に〜



 目を覚ますと寮の天井が目に入った。
 周りは何もないように静かだった。
 時計を見たらそろそろ昼の12時だった。
「まだ授業中なんだ…休んだことなんてなかったから知らなかったけど、こんなに静かなんだ…」
 こんな時間に寮にいるのはサボりじゃなくて風邪を拗らせて熱が出てしまった…
 熱はひいたけど、喉も痛い。
「やっぱり一日では治らないか…」
 なんか無性に虚しくなるけど溜息が出る。
「そういえば…昼ごはんはどうしようかな…学食に行くとみんなに風邪をうつしそうで嫌だし…」
 悲しいけど、寝てたら治るから昼ごはんは我慢しよう。





 しばらくしたら授業が終わるチャイムが鳴った。
 でも、僕は外には出られないからベッドに入り続けないといけないんだけどね…
 すると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「こんな時間に誰だろ?」
 時間って言ったら昼休みだし、昼はどうしたんだろ…恐る恐るドアを開けてみた。
「あ、直枝。気分はどう?」
 そこには二木さんがいた。
「二木さん?こんな時間にどうしたの?来ちゃダメだよ。風邪うつしたら悪いよ」
「私は大丈夫よ。あなたの方が心配だから。入るわよ」
 靴を脱いで中に入ってきた。
「熱はどう?」
 二木さんの冷たい手が僕のおでこに当たった。
「ふ、二木さん!?」
 自分でも分かるくらい顔が赤くなってくのが分かった。
「熱はないみたいね。どうしたの!?顔が真っ赤よ!?熱があるんじゃない!?」
「だ、大丈夫だよ。熱は完全にひいたから」
 心配してくれたみたいで嬉しいけど、少し驚いた。
「大丈夫なら良いんだけど…さて、昼、食べるものないんでしょ?」
「え…なんで知ってるの?」
 僕が風邪で寝込んでるのを知ってるのは恭介たちだけなのに…
「知らない人なんていないと思うわよ?葉留佳たちが言いふらしていたわ」
 葉留佳さん…心配するのは嬉しいけど、言いふらさいでほしいと思った。
「本当に葉留佳さんは言いふらすのが好きなんだから…」
「ふふふ。良いじゃない。心配してくれる人がいるのは幸せなことよ?」
 それはそうだけど、話題になってしまうのは嫌だと思うのは僕だけなのかな…
「昼は、何食べたい?寮だから豪勢なものは出来ないけど…風邪ひいてるならお粥が良いかしら?」
 エプロンを着て料理の準備をしていた。
 エプロンと言っても鈴が持ってきたと思われる猫のやつだ。
 二木さんも思ってたより似合ってる。
「直枝、聞いてる?熱はないわよね?」
「う、うん…ないよ。大丈夫」
 二木さんに見とれてた…なんて言ったら顔を真っ赤にして怒るんだろうな…
「もう、何ニヤニヤしてるのよ。なんか可笑しいわよ」
 呆れた顔をしながらお粥を作り始めた。
「直枝は寝てていいわよ。出来たら起こしてあげるから」
「そう?それなら…お願いするよ…」
 そういうと眠りに誘われてしまった。





「な・・・て。なお・・・きて。直枝、起きて。」
 僕を呼ぶ声が聞こえた。
「二木…さん?」
「直枝、出来たけど、食べれる?」
 蓋を開けると温かそうな湯気が昇った。
「うん。食べれるよ。ありがとう。二木さん」
「そんなに感謝されることじゃないわよ」
二木さんらしく恥ずかしそうにしていた。
「ほらっ、口あけて食べさせてあげるから」
「い、いいよ。食べれるから」
 スプーンでお粥を一掬いして口に近づけてくれた。
「病人なんだからこれくらいするわよ。それか私がすると嫌なのかしら?」
「嫌じゃないよ!!二木さんがしてくれるから嬉しいくらいだよ!!」
 こんなに落ち込む二木さんは久しぶりに見たかもしれない。
 なんで僕は彼女の悲しむ顔に弱いんだろ…
 でも、僕って変態なこと言ったような気がする。
 嬉しいのは確かなんだけど…
「どう?美味しい?」
「うん。美味しいよ」
 食べてみると、なんともいえない美味しさだった。





 食べ終わると次の時間の予鈴が鳴った。
 二木さんは、慌てて部屋から出て行った。
 僕はまた深い眠りについた。







 何時間たっただろう。

 何時間目?

 放課後?

 ふに…?

 ふにふにふにふに…
 なにかな。
(この柔らかいのは…)
 手を伸ばしてみると柔らかいものが手に当たった。
「ん……」
 何か声が聞こえた。
 ふにふにふにふにふにふに…
 また触ってみた。
 なんだろ。
 この柔らかいものは…
「えっ…」
 目を開けてみると目の前に二木さんが眠っていた。
 一定のリズムで寝息をたてて気持ちよさそうに眠っていた。
 当たっていた場所は彼女のほっぺたみたい。
 でも、こんなに柔らかいんだ。
 ふにふにふに…
 でもこれ以上すると僕の理性が持たないような気がする。
「…あ…な、直枝…ごめんなさい…寝ちゃったみたい…」
 気づいてないみたいなのが嬉しいような悲しいような気がする…
 気づいたらきづいたで顔を赤くして恥ずかしがりそうだけどね…
「どうしたの?顔赤いわよ。熱が出たんじゃない?」
「だ、大丈夫だよ!?」
 突然、おでこを当ててくるから驚いた。
 顔が熱いのは必然のことなんだと思うけど…
「うん、これは熱のせいじゃなくてね?」
「熱のせいじゃなかったら誰のせいかしら?」
 その張本人は気づいてないみたい。
「その犯人はね?君だよ」
 僕はゆっくり二木さんに指を突きつけた。
 僕の目に映ったのはだんだん顔を真っ赤にしていく彼女。
 僕の熱は風邪でもあるけど、君にみとれてしまったせいなんだよ?
 そういうのはまだまだ先の話かもしれない。


[No.917] 2009/02/06(Fri) 22:47:32
桃缶はっぴぃ (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@9202 byte

「ついでに何か買ってくるよ。何がいい?」
「え、何でもいーい?」
「…500円以内で」
「えーっ、けちんぼー!」
「勘弁してよ…」
「じゃあ、じゃあねぇ…桃缶!」
「桃缶?桃じゃなくて」

「そう、桃缶たべたい!」



 『桃缶はっぴぃ』



「うん。結構あるね、熱。今日は中止かな」

 布団から身体を起こしている葉留佳に理樹は冷酷な現実を突きつけた。体温計の液晶には微熱以上高熱未満の数字がくっきりと浮かんでいる。

「いやいや大丈夫だってば。ちょーっと熱くてぼーっとするだけ」
「それ十分ダメだから」
「えー」

 せっかくのお出かけ、諦めきれずに悪あがきをする葉留佳をすげなくあしらいながら、理樹は体温計をケースにしまう。念のため、葉留佳のおでこと首筋にも触れてみる。
 理樹の手のひらは冷たいというほどではなかったけれど、くすぐったさに近い不意の感触に思わず声が出る。

「うひゃ」
「と、ごめん」
「手つきエローい。抵抗できない病人にナニをするつもりなのかなー?」
「違うから。しないから」
「えー」
「いやいやいや」

 慌てて手を引っ込める理樹に、にぃっと唇の端を吊り上げてからかってみても、うろたえもしない。
 膨れる葉留佳を改めて布団に寝かせ、顔にかかる髪を横に流す。いつもの髪留めは鏡台の上。赤みがかった髪はばらばらに広がっている。

「今日と明日、ゆっくり休んで治そうか。月曜には治るといいけど…」
「それじゃつまんなーい。お休みなのにぃ」

 しかも久しぶりの土日休み。なかなか休日が合わない二人にとっては貴重な時間なのに。

「しょうがないでしょ。長引いちゃったらお店の人にも迷惑かかるんだし」
「やははー、人気者の辛いトコロですな」
「はいはい、だから大人しく寝なさい」
「スルーされたっ!?」

 葉留佳の嘆きもスルーしながら、理樹は小さな冷蔵庫を空けて中を漁る。

「食欲は?」
「あんまりないかなぁ」
「卵と…うわ、なんか緑色の物体が」
「やん、見ないでぇえっちー♪」
「これも賞味期限切れてるし…」

 一人暮らしのお約束を具現化したような冷蔵庫相手に苦戦する理樹は、食材としての使命を全うできなくなったそれらを葉留佳のボケごとゴミ袋に詰め込んでいく。
 しかも軽く片付け終えた理樹は、冷たい水で汚れた手を洗ってすがすがしい顔までしている。

「…理樹くんがかまってくれないー。さみしーいー」
「帰っていいかな?」
「ひゃーごめんなさい許してあいらびゅー」
「誠意が感じられないし最後関係ないけど」

 しょんぼりとうなだれる葉留佳を見て、しょうがないなぁ、と呟くと布団の横に腰を下ろし、あやすようにその頭を撫でた。
 葉留佳は、かいぐりかいぐりと撫でられて目を細めながら、微妙に頬を膨らませる。

「ん〜っ、もしかしてコドモあつかいされてますかネ?」
「まあ、今の葉留佳さんは手のかかる子供だからね」
「なんか納得いかなーい。もっとあだるてぃなスキンシップを要求するー」

 かもーん、とばかりに葉留佳が広げた両手は、すぐに理樹の手で布団の中に戻された。

「はいはい、後でね。とりあえず薬買ってくるから」
「いいよ薬なんか飲まなくてもー。お話してー。添い寝してただれた生活しようよー」
「すごい勢いで堕落したね」
「やはは」

 結局、身支度を整え、ついでに何か買ってくるという理樹に桃缶を注文し、笑顔で手を振って理樹を送り出した。



 すぐ戻るから、と約束して理樹は出かけていった。それから約3分。

「飽きたっ」

 布団から手足を放り出し、ばたばたと暴れる。けれどなけなしの体力はすぐに尽き、ぐったりとして他の獲物を探す。
 寝返りをうってすぐに目に入ったのは枕元の携帯電話。葉留佳の目がきらりと光る。

「お電話でんわー♪」

 鼻歌交じりに履歴の2番めを選択。4回目のコールで相手が出た。

「あ、もしもしお姉ちゃん?」
『あら。今日はどうしたの?』
「何にもー。ヒマだったから」

 ごろーりとうつ伏せになって枕を抱え込む。髪の毛が巻きついてくるのを首を振って振り払った。

『仕事は?』
「今週は久しぶりに土日休みなのですヨ」

 電話越しにため息が聞こえる。

『あなたねぇ。それなら直枝に構ってもらえばいいじゃない。私に電話なんかしてないでデートでもなんでも行けばいいわ』
「いやー、私もそのつもりだったんですがネ。理樹くんに逃げられちゃいまして」

 やはは、と笑いながら頭を掻いた。

『何、また喧嘩でもしたの?』
「またとはなんですか、私と理樹くんはケンカなんてしませんヨ?なんたってらぶらぶなんですから」
『あーはいはいご馳走さま。なに、のろけ?切るわよ』
「あー待ってまって待ってくださいお姉さま佳奈多さまーっ!」

 切る、と言っておきながらいつも佳奈多は葉留佳が話すうちは自分から切らない。葉留佳も口調は慌てているものの顔に緊張感はない。
 そして先より長いため息が聞こえてくる。

『それで?』
「へ?」
『だから、何で直枝に逃げられたかよ』
「そういえば私もそのうち直枝になるんですけど?」
『別にいいじゃない。葉留佳は葉留佳のまんまで』
「つまんないですネ。理樹、とか理樹さん、とか弟くんとかリッキーとかりっきゅん☆とか変えればいいのに」
『変えないわよ。いいから早く説明しなさい。あと3秒以内に。いち、に、さ』

 ぴっ。
 終了ボタンを押した葉留佳は、只今の通話時間が表示された画面をじっと見つめて待った。たぶんきっちり3.00秒。低音から始まる着信音が鳴り響く。
 自作のその曲は、もちろん優しい姉をイメージして作ったもので、たっぷりその曲を堪能してから通話ボタンを押した。

「は――」
『切ったわね』
「やはは、なんとなくここは切るところかなって」
『もういいわ。どうせくだらない事なんでしょうから』
「何が?」

 一瞬の沈黙。微かに聞こえる深呼吸。

『…だから、直枝が、逃げた、理由』
「やー、なんかお姉サマすっごい怖い顔してる気がしますヨ」
『…で?』
「あー…えっと、まあ私がカゼを引いちゃったもんで、薬を――」
『大人しく寝てなさい!』

 それから理樹が戻ってくるまでの間、葉留佳は終始ニコニコと、悲鳴や呻き声を交えながら姉の説教を聞いていた。



「ただいま」
「やー、ごくろーごくろー♪」

 理樹が小さなエコバッグを手に提げて戻ってきたのは、佳奈多と話し終えてすぐだった。葉留佳は身体を起こして鷹揚に出迎える。

「ねーねー、桃缶はー?」
「ちゃんと買ってきたよ。これでいい?」
「そうそう、その白いやつー。ね、ね、早く食べよ?」
「だめだめ、ちゃんとご飯食べてからね。待ってて、すぐおかゆ作るから。レトルトだけどね」
「はーい。あ、そだ。理樹くん理樹くん」

 エコバッグからおかゆのレトルトパックを取り出した理樹を葉留佳は手招きする。

「なに?」
「んっ」
「?」
「んーっ♪」

 目を閉じて、軽く上向けた顔をちょんと突き出してくる。何を待っているのかは明らかだけど、理樹はそれをあえて聞いてみる。

「何をしろと」
「ただいまのちゅー。ちゅーしろーっ!」
「ダメです」
「えー、けちー。いいじゃーん」

 不満たらたらで今にも襲ってきそうな葉留佳に、理樹は仕方なく説得を始める。

「僕にうつして葉留佳さんが治るなら構わないんだけどさ、この前二人ともダウンしちゃって大変だったでしょ?」
「そんなの忘れましたー」
「懲りないなあ」
「私は過去にこだわらない女なのですヨ」
「ものは言いようだねぇ」
「だからしてして♪」
「元気になったらね」
「ちぇー」

 まだ諦めきれない葉留佳の頬をなだめるように撫でて、理樹は笑った。



 小鍋におかゆをあけて温める理樹の背中を、葉留佳は大人しく見ていた。換気扇のまわる音、理樹がねぎを切る音。布団がすれる音。時間がゆっくりと落ち着いていく。

「たまご入れるね」
「あ、2つ入れて、ふたつー」

 はいはい、と請われるままに卵を2つ溶いて流し入れていく。ふたをして卵に火を通す。次にふたを取ったとき、鍋からねぎと生姜の香りが湯気に溶けて立ち上った。

「いいにおいー。ちょっとおなか空いてきたかも」
「おまたせ、できたよ」

 茶碗に取り分けたおかゆをお盆に載せて、葉留佳の枕元へと運んでくる。たっぷり溶き入れたたまごは、とろっとした橙色、ふわふわの黄色、ぷりぷりの白がマーブル状に混ざり合って、ねぎの緑がよく映えていた。

「おいしそう!」
「熱いから気をつけてね」
「うん、熱そうだねー」
「そうだね」

 にっこりと頷いた葉留佳は、お盆に載ったれんげに手を伸ばそうともしない。代わりに、傍らに座る理樹に熱い視線を送り続ける。

「じー」
「…はいはい」

 ふーっ、ふーっ。

「はいあーん」
「あ〜♪」

 ぱくり。差し出されたれんげを大口を開けて咥えると、まだ熱いおかゆを口の中で冷ましながら少しずつ咀嚼する。

「はちち…はふ…ぅん、おいひぃ」
「よかった。もう一口いく?」
「うん。あ〜♪」
 
 少しの間、二人は親鳥と雛になった。



「ごちそうさまぁ」
「もういいの?」
「うん、おかゆはもういっぱい。ありがと、理樹くん」

 空になった茶碗を下げる背中に、葉留佳は声を掛ける。

「ねーねー理樹くん、桃缶開けて?」
「お腹いっぱいなんじゃないの?」
「それはホラ、桃缶はベツバラってやつですヨ。てゆーか、それが楽しみだったんだから」
「普段は缶詰なんか全然食べないのになぁ」

 台所で背を向けたままの理樹の言葉に、葉留佳は一瞬だけ言葉を捜した。

 お見舞いの定番だから。むかし、そう聞いたから。
「や、だって桃缶は病気のときに食べるものと法律で決まってますからネ」
「誰が決めたのその法律」
「んー、裁判長?」
「そんな仕事もしてたんだね、知らなかったよ」

 理樹は食器を洗いながら、そっけなく言葉を返す。葉留佳の顔は理樹からは見えない。

「まあまあ、細かいことは気にせずに、お願いしますよ旦那ぁ」
「なんで三下口調なのさ。…まあいいや、ちょっと待ってて」
「うん」

 缶を開け、中の桃をまな板に載せている理樹に、そっと声をかける。

「…ありがとね」
「何か言った?」
「あ、うん。なるべく大きく切って欲しいなって」
「はいはい」

 聞き返して振り返った理樹が見たのは、いつもの葉留佳の笑顔だった。



 理樹が桃をガラスの器に盛り付けて戻ると、葉留佳が笑いながら携帯電話をいじっていた。

「はい、お待たせ。メール?」
「うん。あとでお母さんたち来るって。心配性だなぁ」
「いいじゃない、近くなんだし」
「そうなんだけどー」
「あ、でもまずは部屋を片付けないとね」
「あーっ、それは考えないようにしてたのにぃーっ!」

 携帯を放り出し、葉留佳は頭を抱える。けれど一人の悲鳴はすぐに二人分の笑い声に変わった。
 まだ熱は下がらないけれど。

 独りで朽ちていかなくていい。
 大好きな人たちがそばにいてくれる。

「はい、あーん」

 特価380円の。

「んぅ、おぃし♪」

――あまずっぱい幸せ。









「そういえばさ」
「んー?」
「黄桃じゃダメなの?あれも美味しいと思うんだけど」
「んー、なぁんか違うのですヨ、うまくは言えないケド」
「何が違うのかな?」
「んー…タマシイ?」


[No.918] 2009/02/06(Fri) 22:57:21
ガチ魔法少女 マジカル☆みおちん (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@13165Byte・作者は病気

 世界は危機に瀕していた。
 圧倒的な感染力を持つ新種の疫病が蔓延したのだ。脳を侵し、常軌を逸した行動を取らせるこの病の恐ろしさは、“感染者の身体を一切弱らせない、むしろ活性化させうる”ことにあった。感染者は元気に外を出歩き、爆発的にその数を増やしていった。
 この未曾有の危機に、しかし人類は黙って屈しはしなかった。国連主導のもと、世界中の医療関係者からなる対策チームが結成され、原因の究明、治療方法の発見に力を注いだ。彼らの努力の甲斐あって、疫病の保菌体が日本に住む一人の少年であること、彼をどうにか――例えば、厳重な隔離、あるいは殺害――すれば、病原菌はやがて死滅していくであろうことが判明した。
 だが、そこまでだった。
 脳を支配された感染者たちはキャリアーである少年を守ろうとする。病原菌によって活性化された身体と、そして何より圧倒的な数を持つ彼らはいつの間にやら国連本部、対策チーム内にも侵入し、病原菌を撒き散らした。
 頭と腕を潰され、人類にはもはや組織立った抵抗は不可能となった。個人レベルでの抵抗ではなす術もなく、一人、また一人と感染者の海に呑まれ、屈していった。もはや感染者は全人類の99%に上ろうとしていた。
 だが人類にはまだ希望が残されていた。未だ抵抗を続ける1%の非感染者、その中に現状を打破しうる力を持った一人の少女がいた。
 彼女の名は西園美魚。またの名を――







  ガチ魔法少女 マジカル☆みおちん







「みおちゃん、どこぉ〜? 筋肉いぇいいぇーいっ! 筋肉いぇいいぇーいっ!!」
「西園さん、一緒に筋肉しましょうなのですっ。筋肉いぇいいぇーいっ! 筋肉いぇいいぇーいっ!!」

 奇声を上げる“筋肉病”感染者たちの様子をビルの影からそっと窺う。どうやら撒いたようだと美魚はほっと息をついた。

「で、どうするの美魚? このままじゃまたすぐに見つかっちゃうよ」
「そうですね、どうしましょうか…」

 肩に止まる小鳥、カワセミの使い魔<ファミリア>である美鳥の声に、美魚はしばし考え込む。

「…多少危険ですが、仕方ありません。このままキャリアーを叩きます」
「大将首を狙うってわけだね。でも大丈夫? 今は美魚、大した魔法は使えないんでしょ?」
「そうですね、せめてNYPブースターとサイバー兵器が持ち出せていればなんとかなったのでしょうが」

 突然の筋肉病感染者たちの襲撃に、美魚は這う這うの体で逃げ出した。なんとか持ち出せたのは彼女の手の中にある一冊の薄い本だけだった。その本をぎゅっと握り締め、美鳥を見据える。

「ですから、いざというときは頼りにしてますよ、美鳥」
「はぁ… 仕方ないなあ、お姉ちゃんは」

 やれやれとため息をつく美鳥に、美魚は小さく笑みを浮かべた。

「それでは、とりあえず移動しましょうか。こちらが見つかるより先にキャリアーを見つけて……っ!」

 一歩を踏み出したその時、足元に違和感。

「美魚っ!」

 美鳥の声が飛ぶが、気付いたときにはもう美魚の体は宙に浮いており――そして、地面に背中から落ちていた。

「みんなーっ! みおちん見つけたよーっ! こっちこっちー!」

 倒れて低くなった視界に映るそれと聞き覚えのある叫び声、そして向かいの薬局から出てきた人物の姿でようやく何が起こったか認識した。どうやらばら撒かれたビー玉に足を取られたようだ。

「美魚、大丈夫っ?」
「ええ、なんとか… つぅっ」

 美魚が痛む背中を押さえながら身を起こしたとき、既に彼女は見知った顔ぶれに囲まれていた。やや距離を取って半円状に包囲している彼ら、背後にはビルの壁。逃げ道はない。

「みおちゃーん、みおちゃんも筋肉しようよぉ〜」
「筋肉、筋肉ー、なのですっ」
「みお、筋肉はすごいぞ。くちゃくちゃすごいんだ」
「みおちんかもーん! みおちんも筋肉ヘイッ!」
「はっはっは。美魚君もおねーさんと筋肉といこうではないか」
「西園さんも、筋肉いぇいいぇーい!」
「西園、お前も筋肉しろ。これはミッションだ」
「今なら筋肉ジャンパーをプレゼントするぞっ!」
「西園美魚、あなたがそうやって一人だけ筋肉しないことがどれだけ風紀を乱しているか分かってるの? まわりを見てみなさいよ、みんな筋肉してるでしょう? まったく、筋肉ね…筋肉」
「西園さんっ、あなた一人だけそうやって筋肉を拒んで、世の中舐めているんじゃありませんこと?」

 顔見知りたちの奇行に頭が痛くなる。風紀を乱してるのも世の中舐めてるのもあんたらの方だとつっこみたい気分は抑え、頭を回転させる。ここで自分が感染を許せば、自分もアレの仲間入りをしてしまうのだ。どうしたものかと思案する美魚の前に、一人がゆっくりと歩み寄ってくる。

「西園、おめぇで最後だ。既におめぇを残して全員が筋肉旋風に巻き込まれた」
「やはり、あなたの仕業でしたか…井ノ原さん」
「おっと、そいつは違うぜ。俺はただ偉大なる筋肉様の御心に従っているだけだ。全ては筋肉様の意思さ」

 睨み付ける視線を受けても平然と美魚を見下ろす筋肉質の男。筋肉病のキャリアー、井ノ原真人だった。
 このままではまずい。そう判断した美魚は肩の美鳥にそっと目配せを送り、美鳥も頭を縦に振る。

「美鳥っ!」
「りょーかいっ!」
「うおっ!」

 美魚の合図とともに美鳥が翼を広げ、真人の顔を掠めるように飛ぶ。反射的に顔を腕で庇った真人の横を駆け抜ける。包囲していた感染者たちが慌てて美魚捕らえようと動くが。

「能美さん、お座りっ!」
「わふっ!」

 よく躾けられたわんこよろしく条件反射でその場に座り込むクドリャフカ・アナトリエヴナ・ストルガツカヤ。横を走り抜ける際に目の前に昆布を置いてやって食べてよしと言ったら早速かぶりついている。行儀が悪いし後ろから見ればかぼちゃぱんつが丸見えだったりするがどうでもいい。
 包囲を脱して美魚は走る。その肩に上空から舞い降りてきた美鳥が音もなく止まる。

「美鳥、重いです」
「失礼なっ! ってか美魚は体力なさすぎ!」

 軽口を叩きながらも追っ手の様子を振り返った美鳥は、それを見た。

「逃がすかよっ! おらあああぁぁぁぁぁあっ!!」

 振り上げた真人の右腕の筋肉がびきびきと音を立てて盛り上がる。もとより強靭な上に更に筋肉病病原菌によって強化された真人の筋肉、言わば菌肉は宿主の意思に応えて圧倒的な物理エネルギーを生み出す。咆哮とともに振りぬかれた拳は空気を圧縮し、拳圧は逃げる美魚の足元を粉砕した。

「きゃっ!?」

 美魚の足元のアスファルトが爆ぜる。ビー玉に足を取られたときの比ではなかった。軽い美魚の体は破片とともに巻き上げられ、地面に叩きつけられる。霞む視界の中、真人が近づいてくる。口の中で小さく呪文を紡ぎ自分との間に水の壁を生み出すも、それは真人の腕の一振りによって貫かれ、水飛沫を残して消えていった。

「こんなんじゃ俺の筋肉は止まんねぇぞ」
「くっ…愛<マナ>が…美しい愛が足りないっ…!

 地に蹲ったまま呻き、どこか焦点の合わない目で見上げる美魚。対照的に余裕の表情で立ち止まった真人は美魚を見下ろし、告げる。

「終わりだ、西園。おめぇも大人しく筋肉様の支配を受け入れろ」
「筋肉の…支配…?」
「そうだ。筋肉様は日々を生きる力を全ての人間、全ての生き物に与えてくれる。筋肉様なくして世界は無い。だったらいいじゃねぇか、世界の全てを筋肉様に委ねても」
「…冗談ではありませんっ!」

 美魚の瞳に光が戻った。ゆっくりと身を起こしながら、呪を唇に乗せる。朗々と、力強く。

「美鳥、いきますよ」
「オッケー!」

 美鳥が応えると同時、美魚の手の中の薄い魔道書<グリモア>から光が溢れ出し、筋肉の暴徒たちの目を灼く。

「うおっまぶしっ!?」
「う、うあぁぁーん! 目が、目がぁ〜」

 目を開けていられないほどの眩いそれは幾条もの光の帯となって伸び、美魚と美鳥を包み込む。一際光が強くなり――やがて、恐る恐る目を開いた暴徒達は見た。
 そこには二人の少女がいた。美魚と、美魚に瓜二つなもう一人の少女。二人は青い衣に身を包んでいた。海のように深い青と、空のように澄んだ青。

「ガチ魔法少女、マジカル☆みおちんっ!」
「同じく、みどりんっ!」

 びしぃ、と音がしそうなほどに恥ずかしい決めポーズをとる二人。感染者たちは呆気に取られる。

「………」

 しばし耳が痛くなりそうな沈黙があたりを包んだが、やがて自称魔法少女二人は何事も無かったかのようにポーズを解き、こほんと小さく咳払いする。

「…それではいきますよ、美鳥」

 美魚はスーツのような服を身に纏っていた。上半身だけをみればかちっとした普通の青いスーツに見えなくも無いが、そのタイトなロングスカートにはきらきらと光を反射する意匠が施され、ただのスーツではないことを物語っていた。

「ま、あたしはそっち方面への興味はないんだけど。筋肉筋肉言う美魚は見たくないし、協力してあげるよ」

 対して、人の姿となった美鳥の服はドレスのようだった。大胆に開いた胸元から覗く膨らみは控えめだったが、その肌は白く肌理細やかで艶かしい。ドレスの各所にあしらわれた飾り羽が風に揺られてふわりと靡いた。
 呆然としている感染者たちを余所に、二人はそっと手を取り合い、そして声を重ねた。

「海と空のラヴソング、“Sha La La Ecstasy”っ!」

 ――人魚姫<マーメイド>と鳥乙女<セイレーン>。ともに人を惑わす歌声と美しい女の姿を持った伝説の存在。その力を身に宿す二人が歌う。澄んだ声で、愛を込めて。
 船乗りを魅惑するかのような甘美な歌声は、筋肉の暴徒たちの耳に届き、脳髄を痺れさせ、その心の中に眠る一つの感情を呼び覚ます。

 ――そう、“愛”を。

「理樹…好きだぜ」
「僕は恭介が好きだからっ」
「お前のことは、ずっと可愛いと思っていたからな…」

 甘い声で囁きかけ、すっと指を理樹の頤に沿えて顔を持ち上げる恭介。潤んだ瞳で見上げる理樹の頬には、確かに朱がさしていた。

「ああ…やはり棗×直枝こそ至高です。これこそが美しい愛と呼ぶにふさわしい」

 歌い終えた美魚は恍惚とした表情でほぅと悩ましげなため息をつく。薄く上気した頬に手を当て、愛を語り合う恭介と理樹の二人をひたすら凝視し続けている。

「うわー… あたしと同じだとか思いたくない顔だー…」

 うんざりとしたような妹の声も絶賛トリップ中の美魚には届かない。

「はるかぁ、私のはるか…」
「おねっ、ちょ、ゃ、やだっ、どこを…ひゃわぁっ!」

「私、りんちゃん大好きだよぉ〜」
「にゃっ!? こっ、こまっ、ふにゃああぁぁぁぁぁぁ!」

「宮沢様、わたくし、貴方のことが…」
「さっさささささしぇがわっ!? ふ、服を…」

「はぁはぁクドリャフカ君はぁはぁ」
「わふー!?」

 ついでに巻き添えになった者が何人かと巻き添えになったふりをしている者が若干一名いたが気にしない。見なかったことにしよう、おっけー、というやつだ。
 で、一人取り残されたのは真人である。

「西園てめええぇぇぇえ! 理樹に何しやがった!?」
「…無粋ですよ、井ノ原さん」

 真人の怒声にトリップしていた美魚も現実に引き戻される。不満を隠そうともせずに目を細める美魚だが真人は構わず詰め寄る。

「すぐに理樹を元に戻しやがれ! でないと… うおおおおおお!?」

 美魚に伸ばした手に火花が散り、弾かれる。真人の目が驚愕に見開かれる。

「病原菌まみれの汚い手で触らないでください」
「こっ、これは…NYPバリアー!? 嘘だろっ、NYPブースターもバリア発生装置もねぇのにっ!」
「NYPは愛の発現形態のひとつに過ぎません。美しい愛を十分に取り込んだ今の私なら、NYPブースターもサイバー兵器も無しに、それ以上の事象を引き起こすことが出来る。たとえば…こんな風に」

 美魚の言葉と同時、真人ががくりと膝をつく。 

「うっ…く、これは、NYPウィルスか…?」
「正解です。筋肉病の保菌者である井ノ原さんにはお似合いかと」

 蹲ったままの真人。筋肉病病原菌のキャリアーではあっても、NYPウィルスに対する抗体は持たず、体を動かそうとしても四肢の先がぴくぴくと痙攣するように動くばかりだ。
 サディスティックな笑みを浮かべた美魚の手の中に、光が集まっていく。その形状は美魚が普段使うサイバー兵器、ライトセイバーと酷似していたが、その放つ光は圧倒的に強く、そして激しい。

「それでは覚悟はいいですか、井ノ原さん」
「や…やめろ…」

 口の端に酷薄な笑みを浮かべ、真人を見下ろす美魚が光の剣を振り上げる。

「…かたじけのうござる」
「無念なりいぃぃぃぃぃぃっ!」

 地を響かせる轟音と天を白く染める閃光が周囲を包み込んだ。










「西園…なんで殺さなかった…」

 光が収まった後のそこには、大の字になって地面に倒れている真人の姿があった。真人が意識を取り戻したとき、何やら向かいの薬局を物色していた美魚。口の端に微笑を浮かべ、真人に答える。

「筋肉の全てを否定することはしません。均整の取れたしなやかな筋肉は美しいものですし、それは人が生きていくために不可欠なものですから。けれど、筋肉を尊ぶあまり筋肉を崇拝し筋肉の操り人形となる、それはとても愚かで、そして美しくないことです。人は人であってこそ美しい。――そして、それこそが愛なのです」
「そう、か…」

 真人は空を仰ぎ、深く息をつく。美魚の言っていることは正直よく分からなかった。よく分からなかったが、なぜだかとても清々しい気分だった。負けたはずなのに清々しい気分、こんなのは恭介にやられた時以来か。ふと、そんなことを思った。

「なので、井ノ原さん、これを飲んでください」

 言葉につられ下ろした視線の先では、美魚が錠剤を乗せた掌を差し出している。

「何だよ、それ」
「サクシニルコリンです」
「は?」
「平たく言えば、筋弛緩薬です」

 筋弛緩薬。筋肉関係以外では貧困極まりない真人のボキャブラリーの中で、その名は忌むべきもののほぼ頂点に存在していた。その意味するところを理解した真人の表情が青ざめる。

「ちょ、ちょっと待て! いくらなんでもそりゃねえだろ!」
「あなたのせいで世界中に筋肉病が蔓延したんですよ? まさか無罪放免だなんて甘いことを考えないでくださいね」
「違ぇ! お前、魔法少女なんだろが! そんな薬に頼るんじゃなく、魔法で病原菌を封印するとかだな」
「嫌です。せっかく美しい愛を得られたのにこんなくだらないことにこれ以上愛を使いたくありません。というわけで美鳥、やっちゃいなさい」
「はいはーい。真人くんごめんねー」

 ちっとも悪く思っていなさそうな明るい声とともに真人の顎が美鳥に掴まれる。美魚はどこから出したのか水の入ったコップと錠剤を容赦なく真人の口の中に放り込んだ。

 ごぼぼぼぼ。










 こうして、保菌者である真人の筋肉はその力の大半を奪われ、筋肉病の病原菌はその猛威を失った。
 まだ感染者たちは世界中にいるが、大元が断たれた以上、病原菌はやがて死滅していくだろう。世界の危機は救われたのだ。
 だが、美魚の戦いはまだ終わらない。世界には未だ醜い争いや不毛な諍い、人の心無さゆえの災いが蔓延っているからだ。世界が愛で満たされるその日まで、彼女の戦いは続く。

 ――今、キミは素直に笑えているだろうか? 卑屈には生きていないか?
 笑えているのなら、きっとキミは愛されている。その愛が失われないように生きてほしい。
 そして…もし、笑えていないのなら、彼女の名を呼ぼう。愛の使者たる彼女のその名を。



「ガチ魔法少女、マジカル☆みおちん」!





 ――世界が、美しい愛に包まれますように。


[No.919] 2009/02/06(Fri) 23:58:32
馬鹿につける薬はない (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@10133byte

 僕は来ヶ谷さんに告白されて舞い上がっていた。数学の授業は来ヶ谷さんとの蜜月の時間、クッキーみたいに甘いひとときだった。僕が席を立ったとき来ヶ谷さんの姿はすでになく、テラスへ向かうと目隠し+背中の弾力という不意打ちを貰ったりする。お返しにクッキーを褒め称え、そんな来ヶ谷さんの女の子らしさを褒め称える。それから二人で赤面しながらお茶を飲む。
 僕が授業に出る日は、メールのやり取りをする。真人のパンツの写メを送ると、三十分くらいメールが返って来なかった。もうチャイムが鳴ろうかという時間になってようやく「これで我慢してくれ」とスパッツの写真が届く。
 休みの日。来ヶ谷さんにコーディネートしてもらった服を着て、まだ見ぬ喫茶店を探して歩く。よく晴れた暑い日にはレモンソーダを飲みに。冷たい雨粒の落ちる日には甘いココアを飲みに。来ヶ谷さんの唇は酸っぱかったり、甘かったりした。
 本当に本当に幸せだった。だからすっかり忘れてしまっていた。
 二年の冬、真人の留年が決まった。


 僕らの学校は単位制なんてあってないようなもの、出席さえ足り補習を受けていれば絶対に留年なんてありえない。
 でも、ありえないことを成し遂げてしまうのが真人だった。真人は僕がいない時間、机に伏してずっと頭を抱えていたんだそうだ。だから名前を呼ばれても返事をしなかった。それが積もり積もって出席不足。
 僕は自分の浅はかを呪った。大切なものの大きさは、失ってみないと気づけないのだ。僕と来ヶ谷さんがちゅっちゅしているあいだ、真人はずっと苦しんでいた。『来ヶ谷さん来るから謙吾の部屋泊まって』。そんなメールを真人はどんな気持ちで読んでいたんだろう。『おう、気をつけてな』と返事を打つとき、どんな顔をしていたんだろう。受信ボックスと送信ボックスが全く同じメールで埋め尽くされた携帯を、どんな想いで握り締めていたんだろう。
 そして真人は、僕に救いを求めようとさえせず、笑い続けていたのだ。自分ひとりで抱え込むため。
「ねえ、何か方法はないの?」
 真人の背中は逞しかった。僕の問いには答えようとせず、ひたすらにダンベルを上下していた。
「それはもう、どうしようもないの!?」
 その肩に取り付いて、僕はすがるように叫んでしまう。
「ああ……どうしようもねえ」
 真人はそれだけ答えて僕を振り払い、ランニングシューズを手にして部屋を出ていこうとする。その背中を追いかけないではいられなかった。
 でも、なんと言えばいいのかわからなかった。
「誰も悪くねえんだ……」
 シューズの靴紐を結ぶ背中は、丸まっているせいかやけに小さく映った。
「自分を責めるんじゃねえぞ……」
 真人は立ち上がる。
「待ってよ、話をっ……」
 硬く、ごつごつした厚い背中を、僕は抱きしめた。
「話をしてよ、真人っ」
 僕を引き離して真人はやっと、振り向いてくれた。
 真人はなんでもなかったように、豪快な笑みを浮かべて僕の頭に手を置いた。
「そんなので、これから先どうすんだよ」
「だって、こんなのってないよっ」
 廊下にみすぼらしい悲鳴が響いた。
「僕は真人がいたからここまで生きこられたんだっ」
 手が離れていく。滲んだ涙で、もう真人の顔は見えなかった。
「言ったろ。こればっかりはどうしようもねえんだよ」
 本当に、なにも出来ないんだろうか。
 僕は、真人のために何もしてやれないんだろうか。真人からはこんなに多くのものを貰っておいて?
「……なら、僕も留年する」
 そんな言葉が口を突いていた。
 真人が腕を振り上げるのが見えた。
 右肩から壁にぶつかって、電灯の光が揺れた。頬が熱かった。舌の上に、ぬらりとした鉄の味が広がる。舌を頬に押し当ててみると、ぽっかりと抉れていた。
 不思議と痛みは感じなかった。ただ溜まった涙が振り落ちて、真人の顔が見えた。
「馬鹿言え! 理樹、俺はもういいから、お前だけでも進んでくれよ! もう振り向くんじゃねえ!」
 真人は泣いていた。目を真っ赤にして。真人の泣き顔を見るのなんて生まれて初めてだった。
 思えば、真人に殴られるのも初めてだった。
「なんでこんなに理不尽なんだよ!」
 眠れないままベッドに入ると、真人の慟哭が聞こえてきて、僕は耳をふさいだ。


 渇いた喉を唾でなんとか繋ぎ留め、もう放っておいて欲しい、とだけ口にした。
 風が吹くいて、落ち葉が転がるささやかな音だけが聞こえた。
「理樹君。その……気持ちはわかるんだ」
 来ヶ谷さんが、泣きそうな顔をしていた。辛くなって僕は足元の敷石を見た。冬の寒々しい日差しが、淡くおぼろな影を落としていた。
「理樹君……」
 来ヶ谷さんの声。
 道端に、どこで迷ってしまったのか、一匹の黒い蟻が弱々しく這っていた。踏み砕かれた枯葉がレンガの隙間を埋めていた。ぽつりと一つ、水滴が落ちてきて染みを作った。顔は上げなかった。日差しはあるけど気温は低くて、いつまで経っても乾かない染みを、僕はいつまでも見つめていた。
 僕は真人のためにあった。
 できることはない。運命なんだ。なんて悲しいことだろう。
 そんなんじゃダメなんだ。自分にできることを、死に物狂いで探し出して、何もかもかなぐり捨てて解決しなきゃ、未来は変わりはしない。僕はそのことを知っていた。だから必死で走り回った。
 数学教師は呆れたように僕の顔を見、鼻の奥を刺すような煙を吐いた。
「もう決まったことだぞ」
 油の切れた椅子が耳障りな音を立てて、数学教師は僕に背を向けた。
「でも、真人は問題だって起こしてないし、真面目な子なんです」
「問題だって起こしてないし」
 僕の言葉を繰り返して、教師は笑う。
「一番の問題はこの成績だな」
 ははは、と他の席からも笑い声が上がった。自分の顔が紅潮するのがわかった。握ったこぶしの震えを抑え、声色を押し隠し、僕は言う。
「真人は進学希望なわけでもない。それに、数学だけなんですよね?」
「就職ねえ。最近増えたが、誰の影響なんだか」
 めんどくさそうに、顔だけ回して僕を見る。
「直枝。じゃあ他の就職組みで、井ノ原以上に真面目にやってる連中に馬鹿を見ろって言うのか? どんな点数だって関係ない。お前らの頑張りは無意味だって?」
 言い返さなければ、と思った。
 でも、無理だった。教師の言うことは正論だったから。
「……授業には、出ていたはずなんです。返事をしなかっただけで」
「奴の馬鹿はもう病気だな」
 教師はまた机に向き直って、二度と振り向かなかった。
 できることを全力でやってダメだったら、諦めるしかないと知った。


 ひばりが空を行き交い、桜が一斉に香りを放ち始めた。クラス名簿に真人の名前はなかった。みんなは泣いたり笑ったり希望に胸を膨らませたりしながら、僕の部屋の前を通り過ぎていった。力強い若葉が花を追いやり、雨に打たれてその生気をますます漲らせた。木々の作る濃い影が人や動物や虫、とくに蝉たちの安息の場となった。皆が木陰から立ち上がると、葉は力を失くしたように地面を覆い、虫たちの亡骸を隠した。やがて冬の雲がみんなの頭上を覆った。微かに舞う雪が舗道に染みを残し、やがて薄れていった。時間は進んでいたが、僕の時計の砂は閉じられたガラスの中を行き来するだけだった。自分の行く大学がどこなのかさえよく知らなかった。蟻たちが砂を密かに掘り進めるころ、何気なく耳を傾けたホームルームで、明日が卒業式だと知った。でも僕は、卒業式が出席日数に影響しないことを知っていた。
 部屋の隅にうずくまり、楽しい空想を巡らせていた。この絶望に打ち勝とうとする僕たちの姿だ。真人が頑張って秀才になる。隣には……僕を置こう。直枝先輩! と真人が僕の肩を叩く。振り向くと逆光の中に白い歯が浮かび、分厚い胸板が歓喜に打ち震えている。
「理樹君……聞こえているかい?」
 ドアの向こうから、毎日のように顔を合わせていたはずの、懐かしい声が聞こえた。僕はその声に応えたいと思った。けれど声は出なかった。
「私は、理樹君と一緒に過ごせれば、それだけでよかった」
 真人と一緒に過ごせればそれだけでよかった。
「楽しくて楽しくて、理樹君だけ見ていたいと思った」
 楽しくて楽しくて。
「でもそれじゃ、ダメだったんだな」
 ダメだったんです。
「もう、遅いかもしれないけれど」
 手遅れだけれど。
「すまなかった。……ほんとうに、ごめん」
 僕も、ごめん。
 来ヶ谷さんの声はそれきり聞こえなくなった。もう行ってしまったのだろうか。
 それとも、僕の空想だったんだろうか。
「似合わないって、笑う、かもしれないが」
 空想の続きなのか、本当に聞こえているのか、分からなかった。
 かすれた、詰まるような、絞るような声だった。
「好きな人と……、理樹君と一緒に、卒業、したいよ……」
 それきり来ヶ谷さんの声は、いくら耳を澄ませても聞こえては来なかった。日が昇ったとき気がつけば、卒業式に出てもいい、という気持ちになっていた。
 体育館に暖房はなく、底冷えするような空気が充満していた。多くの女子がしくしくと、あるいはさめざめと泣いていた。
 校長らの挨拶が終わり、僕の名前が呼ばれるまでの、長い時間。卒業のなにが悲しいんだろうな、と考えてみた。
 新しい環境に出て行くのが不安なんだろうか。そんなことでいちいち泣いてちゃどうにもならない。
 知り合いともう会えなくなることが悲しいんだろうか。でもそんなの、会おうと思えばいつでも会えるのに。会う気があるなら悲しむことじゃないだろう。ずっと一緒にいたかったなら、ずっと一緒にいられるように努力すべきだったんだよ、みんな。
 僕から言わせれば、そんな人たちはみんな馬鹿だ。びょーきに違いない。なのになんで。
『直枝、理樹』
「はい」
 立ち上がるとフラッシュが焚かれた。膝先が冷たく痺れていて、歩くのも億劫だった。これが済めば僕の仕事は終わりだと奮い立たせて、ステージに上った。銅像よりも不恰好な顔をした理事長が、恭しく卒業証書を差し出した。僕は形式どおり受け取って、来賓に向けてお辞儀をし、ステージを降りて席に着いた。あとは時間が過ぎるのをただ待つばかりだった。
『在校生送辞』
 マイクから声がする。
 立ったとき、在校生席を見たけれど、あの赤いTシャツはどこにも見当たらなかった。少し悲しくなったが、馬鹿にはなりたくなかったので、鼻をつまんで涙を抑えた。つまらない、学年主席の美辞麗句で泣いてるような、そんな風には思われたくなかった。


『在校生代表。二年E組。井ノ原、真人』


「はい!!」


 懐かしい、声がした。
 周りのみんながざわめき出した。
 輝くような光沢の制服が、一歩一歩、ステージへの階段を昇っていった。
 そして、壇上で制服を着こなし、手元の紙に目をやるでもなく、真っ直ぐに僕らを見据える巨漢。
 ああ、誰が見間違えるものか。
『梅の香りに包まれて、卒業していく皆さんを、心から、お祝いいたします』
 野太い声が、体育館の強張った空気を打ち据えて、遠く強く響き渡った。
 小学校の卒業式のパクリだった。
 誰が忘れるだろう。盛大に先生の名前を読み間違った馬鹿のことを。
『私たちは、先輩方から多くのことを学びました』
 真人の言葉が、凍りついた僕の胸を、容赦ない力で殴りつけてくるように思えた。
『諦めない強さを教えられました』
 僕は、諦めてしまったじゃないか。
『皆さんが振り向かず、進む勇姿を、ずっと見てきました』
 僕は立ち止まってしまったじゃないか。
『皆さんはこれから、幾千の星々の海に飛び込んで行かれます』
『皆さんなら、どんなに荒れた海も、その知恵と勇気で渡っていけることを信じています』
 僕は、僕は――
『私は皆さんに、そんな皆さんに、貰ったたくさんの贈り物を、決して忘れません』
『いつか皆さんに追いつき、そしていつか振り返るその日が来るまで、振り向かず歩いていくことを誓います』

 僕は、涙をこぼしていた。
 悔恨の涙だった。惜別の涙だった。素晴らしい友達への感謝の涙だった。
 涙の雫はズボンの膝で跳ね、床に落ちた。俯くと、とめどなく床に滴り続けた。僕はその涙が乾くまで、ずっと見つめていたいと思った。


[No.920] 2009/02/07(Sat) 00:00:25
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[No.921] 2009/02/07(Sat) 00:00:46
持たぬ者 (No.908への返信 / 1階層) - ひーみーつ@6144Byte

 いつもどおりの変わらない朝。真人と一緒に食堂へ向かい、途中で鈴にも合流し、今日に迫ったキャプテンチームとの試合のことを話しながら、三人で食堂へと歩を進める。
 各々好きなメニューをトレイに乗せて、いつも僕たちが陣取っているテーブルに腰を下ろす。
 テーブルではすでに謙吾と恭介が先に朝食をとっていた。
 いつもどおりの風景。当たり前だけど、僕にとっては何よりの大切な日常。
 おはよう、と二人に声をかけて朝食を食べようとすると、テーブルの下から誰かが僕の足を突っつく。足元を見ると、見慣れた袴から突き出た足が僕の足を突っついている。謙吾の顔に向けると、謙吾は少し青ざめた顔で僕を見ていて、僕と目が合うと目線を恭介のほうへと向ける。つられて僕も恭介を見る。
 恭介は黙々と朝食をとっていた。僕と謙吾が見ているのにも気づかない様子で、黙ってご飯を口に運んでいる。ただ、箸を持った右手には真っ白い包帯が巻かれていた。
「恭介の右手、怪我でもしたの?」なんとなしに訪ねる。
 恭介は箸を止め、僕を見て、こう言った。

「……邪気眼を持たぬ者には、わかるまい」

 再び箸を動かし始める恭介。真人と鈴も、恭介を変な目で見ている。謙吾は僕に視線を戻し、どうなっているんだ、と目で問いかけてきた。そんなこと僕に言われても分からない。
「……ふっ、なかなかの食事だったぜ」
 恭介が朝食を食べ終えた。立ち上がって僕らに言う。
「俺は先に教室へ向かう。…授業が始まる前に二、三匹、片付けておかなければならない連中がひそんでやがるからな。」
 ぽかんとしている僕らを尻目に、恭介はトレイを持って歩いていく。
 その時。恭介がトレイを投げ出し、右手を押さえてうずくまった。食器が散らばり、食堂にいた生徒が恭介のほうを向く。食堂が急に静かになる。茶碗の転がる音が、大きく響き渡る。
「恭介っ!」
 僕は立ち上がり、恭介の下へ駆け寄る。すると、恭介が押し殺すような声で呟いた。

「…くそ!…また暴れだしてきやがった……!」

 そのまま立ち上がり、食堂から出て行く恭介。誰もが怪訝な顔をしながらも、自分たちの食事を再開する。自分たちのテーブルに戻ると、謙吾が言った。
「お前らが来る前に、俺も話しかけたんだがあんな調子だった…。理樹、何か心当たりはないか?」
「……全然分からないよ。鈴や真人は?」
 真人と鈴に視線を向けるけれど、二人とも首を傾げるだけだった。
 その時はまだ、いつもの気まぐれだろうと思っていた。




「中二病、だな」
 来々谷さんは、重々しい口調で、断言した。
「中二病って…。恭介は何かの病気に!?」
 思わず身を乗り出す。お昼休みになるまで、僕たちが耳にした恭介の奇行はとんでもなかった。
 まず、小テスト中に「奴ら、こんなときまで…!」と叫びながら教室を飛び出し、休み時間には何もない空間に気合一閃、掌底を叩き込み、「ふっ、俺の“眼”を欺けると思ったか…!」と叫び、体育での柔道の練習中にも「俺から離れろっ!死にたくなかったら今すぐに離れるんだ!」と暴れだした、というのだ。最初は信じていなかったけれど、そんな噂が次々に耳に入り、実際に確かめに鈴と一緒に恭介のクラスへ行くと、恭介の姿はなく、恭介の机には右腕に巻かれていたはずの包帯だけが残っていた。
 いくら考えても、恭介の奇行に思い当たる節はなく、僕たちでは手に負えないと思い来々谷さんに相談したのだった。
「落ち着け、少年。恭介氏は病気になどかかっていない。ただ…」
「ただ?」
「自分の妄想にとらわれている、とでも言うべきか。中二病というのはもともとはとある芸人が言い始めたのが広まったんだが…。少年、君は中学二年生ごろに、社会や大人のやり方に不満を覚えたり、学校で習っていることがどうしようもなく意味のないことに思わなかったか?」
「え…?」
「それが中二病だ。最近はネットスラングとしてのほうが有名だが、恭介氏が囚われているのも中二病の一種だ。『邪気眼』と言って、例えば自分は選ばれた勇者、もしくは魔王、そうでなかったら大天使の生まれ変わりであり、その“力”が強大であるがために自らの体の一部を封印している、という自分の中での設定を頑なに信じている。そして頭の中の空想と現実をごっちゃにしている。右腕に包帯が巻かれているのも、それが原因だろう。まさか恭介氏に限って…」
 来々谷さんはそのまま考え込んでしまった。礼を言って自分の席に戻り、頭を抱え込む。
「恭介…。なんでこんなことに…」
なにやら考え込んでた鈴が言った。
「理樹」
「どうしたの?」
「結婚してくれ」
「ええっ!?」
「あんなのが兄貴なんてあたしは嫌だ。今から棗鈴から直枝鈴になる。よろしく頼む、理樹。」
「鈴…。たとえ僕と結婚しても、鈴は恭介の妹なんだよ…」
「なにぃ!?」
 どうすればいいんだ、と再び真剣に考え込む鈴をなだめているうちに、お昼休みは過ぎていった。







 最終回、二死二、三塁。一打逆転の大チャンス。
 剣道部の主将が投げる球も、確実に遅くはなってきている。疲労は隠せていない。
 バッターは恭介。その凛々しい眼で相手を睨みつける。たまらず叫ぶ。
「恭介!!」
 恭介は僕のほうを振り返ると、にやりと笑い再びピッチャーと対峙する。カウントはフルカウント。
 ピッチャーが大きく振りかぶる。スクイズなんて男じゃない。僕らのリーダーにできないことなんてないのだから
 投げた。その渾身のストレートは、この試合中一番の豪速球だった。
 一際大きな音がして、バットが投げられる。
 僕と鈴は思わず走り出した。バッターボックスでうずくまる恭介に向かって。
「ぐうっ!また封印がぶほあっ!」
「死ね!この、バカ兄貴―――!!」
 鈴の声がいつまでも夕焼けの空に響き渡っていた。





 傷だらけでグラウンドの整備をする。鈴が俺に命じたからだ。責任を取って今日の片付け全部お前がしろ。散々蹴った後、鈴は俺にそう言い残し、理樹と一緒に寮へと帰っていった。キャプテンたちに帰らせると、他のみんなも呆れ果てた、と言う顔をしてそのまま手伝わずに帰っていった。薄情な奴らめ。
 鈴があそこまで勝ち負けにこだわったのはいいことだ、と自分を納得させ、俺は黙々と後片付けを始めた。
 途中で泥だらけの包帯をほどいてみたが、何が起きるわけもなく、ため息をついて片づけを再開する。
 明日のための準備も終わり、さすがに疲れ果てて部室へ戻る。中には、来々谷が一人で椅子に座っていた。
「二人のためか?」
 やけに真面目な口調だった。
「当たり前だろ。俺がこの世界で起こす何もかもが、あいつらのためさ」
「意味があるとは到底思えんが」
「そんなことはない。仮に、あいつらのどちらかが学校の教師になったとするだろ、そうすれば、今回の俺でそういう奴らとの接し方が分かるわけだ」
「それで二人から嫌われても?」
「そうだ。」
 俺が自信を持って答えると、来々谷はご苦労様、と言って部室から出て行った。
 部室を見回す。あちこちに書かれた落書き。積み重ねられた古いグローブとバット。隅の方に置かれた救急箱。俺は救急箱を手に取ると、その中から包帯を取り出し、右腕に巻きつける。
 どんな小さい可能性もすくい上げる。あいつらが困らないように。
 明日の設定はどうしよう。そう考えると自然に笑みがこぼれてくる。
 俺はもう一度呟く。
「ふっ、どうせ邪気眼を持たぬ者には分かるまい…。」


[No.922] 2009/02/07(Sat) 00:05:34
しめきりー (No.908への返信 / 1階層) - 主催

だよー

[No.923] 2009/02/07(Sat) 00:15:37
死ねない病 (No.908への返信 / 1階層) - ひみつ@6617 byte まにあったきがする

 これは、僕の懺悔の告白です。
 誰にも話すことも出来ず、また、話せる人間もいない。そんな僕の唯一の外への出力方法です。今も、心の中に降り続ける黒い雪は、止むことなく積り続けています。
 僕の罪は、夏から始まります。僕は事故に遭いました。そして、僕だけが生き残りました。光り輝いていた世界は、一瞬で色褪せ、何もかもがどうでもよくなりました。誰も助けることのできない無力な僕は、僕を助けることも出来ない。当然の如く、自殺という手段を選びました。しかし、皆の居る世界に逝くという僕の望みは叶えられることはありませんでした。屋上からの飛び降り、首吊り、リストカットなど。色んな手段を試そうとも、僕に罹った呪いが邪魔をするのです。やろうと決意した瞬間、僕は眠りに落ちてしまうのです。また、死のうと思わずとも、所構わず眠ってしまう。事故以前より、その頻度は増し、僕を更に苦しめました。
 誰にも迷惑は掛けたくはないし、誰とも繋がりを持ちたくはないし、このまま消え去りたいと、物言わぬ雲になってどこかに流れてしまいたいと願い、とにかく死に場所を探す毎日でした。
 ある時、そんな歩く死体のような僕に話しかける人物が現れました。女性でした。知り合いでした。
 彼女とは以前から、多少の交流はありました。彼女の役職柄、僕とその仲間達とが衝突する場面は幾つもあったからです。
 しかし、彼女は、僕の知っている彼女ではありませんでした。彼女もあのことで余程ショックを受けたのでしょう。空元気を絵に描いたような人間になっていました。この時、すぐに気づいて、彼女が近づいてこようとも逃げて避けて生きていけば良かったのですが、僕は興味を示すことなく、また追い返すことも無く、傍目には受け入れているように見える行動を取っていました。彼女が僕に喋りかけて、僕が生返事をする。彼女も、受け入れられたと思ってしまったのでしょう。それが間違いだった。
 彼女は、どんどん元気を取り戻していっているように見えました。演技が上手になっていきました。言動も、行動も。いつしか、僕は耐え難い拷問に感じるようになっていきました。遣る瀬無い思いが、僕の中でどんどん溜まっていきました。それは、まるで、黒い雪のように。
 ある日の放課後のことです。僕は、一人教室で眠っていました。いつもの発作が起きたせいです。いつからか、僕を起こそうとする人は誰もいないし、僕を部屋に運んでくれる人は誰もいない。しかし、それは、僕が望んだ結果で、僕はそれに満足していました。しかし、この日は、彼女が僕を待っていました。僕が起きるのを待っていました。彼女が彼女の真似をした顔で、彼女が彼女を真似した仕草で、僕の寝顔を見ていたのです。
 目を覚まして、僕は狂ってしまいそうでした。夢ならば覚めて欲しいと願いました。しかし、彼女は僕の気も知らずに彼女の真似をするのです。馬鹿を演じ続けるのです。僕にはそれが我慢ならなかった。気付けば彼女を殴り付けていました。狂った叫びを上げ彼女の頬に握った拳叩きつけ、悶絶し床を転がる彼女を踏みつけて、馬乗りになり何回も平手を打ち。そうする内に、彼女の衣服は乱れていき、それを見た僕の劣情は顔を覗かせてしまいました。夕暮れに染まる教室の中、僕は彼女を犯しました。何度も何度も自分の精子を彼女の膣内に吐き出しました。胃の中身も吐き出しました。きっと涙も出ていたのでしょう。それは忘れました。僕はまた、眠りに落ちました。
 目覚めて最初に見たものは、教室の汚い天井でした。のろのろ起き上がる僕の横に、彼女の真似をする彼女がいました。彼女は、もう彼女の真似をしない普通の彼女に戻っていました。顔は痣と鼻血で汚れ、衣服は乱れ、足元は粘ついた汚らしい液体と、真っ赤な血で染まっていました。しかし、眼だけはハッキリと僕を見据えていました。そこに映るのは、怒りでも、嘆きでもなく、ただ僕の絶望した汚らしい顔だけでした。彼女は僕が眠ってしまった後も、逃げださず、助けを求めず、僕の側に居たのです。理解が出来ませんでした。理解が出来ず僕は、僕を殺してください、と彼女に願いました。彼女は、嫌よ、と言って立ち去りました。その晩、臆病者の僕は闇中で震え、眠ることができませんでした。眠れないまま、夜は明け、僕は学校へと怯えながら向かいました。彼女は僕の教室の前に立っていました。逃げることも、無視することも出来ず、僕が立ち尽くしていると、彼女は彼女の真似をしながら僕に近づいてきました。制服は新しくなっていましたが、顔は痣だらけでした。呆然とする僕を無視して、彼女は彼女の真似をし続けます。放課後、再び眠りこけた僕を待っていたのは、彼女の真似をする彼女で、昨日と同じことを僕は彼女にしてしまいました。彼女が悪いんだ。彼女が僕を虐めるから。彼女が僕を放っておいてくれないから。そう自分に言い訳しながら、僕は彼女を殴り、踏みつけ、犯しました。それは、次の日も、また次の日も続きました。なんの拷問なのか。早く誰か僕を彼女の呪縛から解き放ってくれ。そう願いました。彼女にも何度も僕を殺してくれと頼みました。眠りにおち、眠れない毎日を過ごすうちに、僕の現実は霞みだしました。来る日来る日も彼女は殴られ、踏みつけられ、犯され。痣は増え、彼女にそっくりだった顔立ちは、少し歪み始めていました。ある日、僕は彼女を見ても、彼女が彼女の真似をしても何も感じなくなりました。彼女の顔が歪んだおかげか、彼女の声がしゃがれたおかげか。僕は彼女が彼女の真似をしても何も感じなくなりました。解放されたのだ。許されたのだ。僕は歓喜しました。放課後のあの時間も僕は彼女を無視して、自分の部屋に帰ることが出来ました。その日の僕は、あれ以来初めてぐっすりと眠ることが出来ました。しかし、全ては僕の勘違いだったのです。それは、再び放課後でした。僕はいつものように眠り、そして目を覚ましたところです。僕の目の前には、彼女が居ました。彼女が宙づりになり、お漏らしをしながら、ぶらぶらと揺れていました。僕の机には、彼女の書き置きらしきものがありました。『ありがとう』。僕はすぐに理解し、そして、彼女に嫉妬しました。彼女は僕の逝く事の出来ない皆の待つ世界へと一人で旅立ってしまったのです。僕からの暴力を贖罪とし、それを糧に生き、そして、僕を一人残し、彼女は逃げていきました。羨ましい。羨ましい。どうして死ぬならば僕を殺してくれなかったんだ。僕を一緒に連れて行ってくれなかったんだ。自分だけずるい。僕は勢いに任せ、教室の窓から飛び降りようとしました。しかし、呪いはその力をより強めを僕を縛り付けました。
 次に目を覚ました時は病院でした。最初に考えたことは彼女は本当に死んだのだろうか、ということでした。希薄になる現実感を明確にしたのは、警察官でした。ぼんやりとする頭で、事情聴取を受けました。僕は、彼女を殴ったこと、彼女を無理矢理犯したことなど洗いざらい言うつもりでした。そうして、誰かが僕を裁いてくれればいい。そう考えていました。それなのに、僕は何も言わずにいました。何も言えなかった。何が怖いというのか。失うものなんて何も無いのに。ただ、僕は涙を流すことしか出来ませんでした。そして、眠りに落ちました。後日、警察官が再び訪れ、僕に一枚の紙を渡しました。それは彼女の真似をする彼女が、彼女の真似をしないで書いた、遺書でした。遺書には、事故で妹が死んだこと。自分を罰するために僕を利用したこと。僕を好きだったこと。僕は悪くないということ。最後にごめんなさいとありがとう。涙が出ました。彼女は僕に、再び一人で苦しめと。そう言っているのです。どんな罰もお前には下さないと。許されないまま生きて行けと。
 僕は泣きながら警察官に自分の罪を告白しました。僕を捕まえて下さいと懇願しました。しかし、警察官は僕を捕まえませんでした。そこで、また、いつものように眠りに落ちました。
 誰か僕の罪を裁いてください。
 誰か僕を殺してください。
 誰か僕に


[No.925] 2009/02/07(Sat) 21:33:50
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