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   第27回リトバス草SS大会(ネタバレ申告必要無) - 主催 - 2009/02/19(Thu) 00:32:27 [No.930]
Future_Drug - ひみつ@4940バイト 1秒遅刻するのも1日遅刻するのも同じ。 - 2009/02/21(Sat) 03:04:05 [No.941]
しめきるー - 主催 - 2009/02/21(Sat) 00:18:56 [No.940]
[削除] - - 2009/02/21(Sat) 00:00:59 [No.939]
みんないっしょに - ひみつ@14804byte - 2009/02/20(Fri) 23:57:41 [No.938]
透明な涙 - ひみつ 20464byte - 2009/02/20(Fri) 23:51:44 [No.937]
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リトル・ホリデイ - ひみつ@17364byte - 2009/02/20(Fri) 23:48:02 [No.935]
ダブルサプライズ - ひみつぅ@1851 byte - 2009/02/20(Fri) 22:47:06 [No.934]
ある晴れた日のカクテル光線 - ひみーつ@10741byte - 2009/02/20(Fri) 10:12:23 [No.933]
愛のおはなし。 - ひみつ@11951byte - 2009/02/19(Thu) 08:47:35 [No.932]



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第27回リトバス草SS大会(ネタバレ申告必要無) (親記事) - 主催

 エクスタシーネタバレの申告は必要ありません。
 未プレイだけど参加しちゃうぜ!な方はご注意ください。


 詳細はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/rule.html
 この記事に返信する形で作品を投稿してください。

 お題は「未来」です。

 締め切りは2月20日金曜24時。
 締め切り後の作品はMVP対象外となりますのでご注意を。

 感想会は2月21日土曜22時開始予定。
 会場はこちら
 http://kaki-kaki-kaki.hp.infoseek.co.jp/chat.html
 はじめにMVP投票(最大3作まで投票可能)を行いますので、是非是非みなさまご参加くださいませ。
 ご新規、読みオンリー、感想オンリー、投票オンリー、大歓迎でございます。


[No.930] 2009/02/19(Thu) 00:32:27
愛のおはなし。 (No.930への返信 / 1階層) - ひみつ@11951byte

□■□

 消去法なんて無意味だと聞いたことがある。例えばそこで殺人事件。容疑者は六人。とか決めた時点で既に消去法を使ってしまっているからだ。容疑者は人類全員だ。消去法はそこから始まる。犯人は超能力者でサンディエゴから念力で日本にいる男性をひねり殺したのかもしれない。犯人はブードゥー教の敬虔な信者で数千km離れた地にいる女性を自宅にいながら呪殺したのかもしれない。馬鹿言うなって?僕もそう思う。例えば最後の一頁に初めて出てきた男が犯人だったり本文に一行も記述されない女が犯人だったりなんてのはちゃぶ台返しもいいとこだ。とはいえ実際問題そんなもんじゃないか?人は「愛してる」なんて臭い台詞を何遍だって吐くことを許されているし許されていなきゃ困るだろう?誰かと交際を始めたらエンドロールが流れ始めてそのまま人生に幕が引かれる?なんだなんだその茶番!人は一度好きになった相手を嫌いになることがあるんだ。そしてまた別の誰かを好きになることもあるんだ。当たり前だろう?とかぐだぐだ考えていても何も変わらないので僕はこの状況を適度に肯定。適度に拒否!大切なのはバランスだ。消去法=無意味説は正しいと今でも思うが、僕はどうやら両手で数えられるぐらいの数の女の子しか恋愛対象として許されていないし未来で誰かと恋愛することもないようだ。そんなわけで僕はここで誰かと恋愛した方がいいし誰とも恋愛しないというのはおかしいわけだ。ロリとか巨乳とか活発系とか大人しめ系とかほんわか系とか色々揃っているので誰か一人ぐらい好みな子がいるはずでいないのはおかしいことなのだ。はいはいそうですよどうせ僕はおかしいんだ!と開き直ってぶん投げたら世界は暗転。バッドエンド!ィィハハハ!誰か僕を助けてほしい。

 □■□

 周りにいる女の子たちがあんまりにも好き好きスキスキ言ってくるもんだから、僕はかつて流行ったファービーのことを思い出していた。ファービーとは映画版グレムリンのギズモのような顔と形をした玩具のペットのことだ(間違っても水をかけてはいけない。壊れて声がイカレるだけだ。「ヴァー・ブルヴルヴゥー!」)。こいつは舌のボタンを押したり目隠ししたり背中を撫でたりすればセンサーが作動してリアクションを取ってくれる。その中に特定の順番でセンサーを作動させると愛の言葉を口にしてくれるというものがあった。隠しコマンド。イッツシークレット。こうだ。「クックドゥドゥドゥー!クックドゥドゥドゥー!ボク・キミノコト・ダイスキ!」。最高だろう?殴っても踏みつけても火に投げ込んでもこいつはいつでも愚直に僕のことを愛してくれる。僕がこいつのことを愛していなくとも。こいつが僕のことを愛していなくとも。「ボク・キミノコト・ダイスキキキィィ!キミノコト・ダイスキィィィハハハハハハ!」
 ジュースの自販機にお金を入れてボタンを押せばジュースが出てくる。間違っても野菜や電化製品や愛の言葉が吐き出されることはない。そういう風に出来ているのだから当然だ。普通は誰も自販機からジュース以外のものが出てこないことを疑問に思わない。自分に目があること鼻があること口があることを不思議に思わない。どうやら普通でないらしい僕は、僕がここにいる意味や僕が本当に本当に僕であるかどうかということを最近よく考える。残念ながら自分探しの旅を始めることはない。僕の断片が日本全国世界各国に散らばって落ちているわけないだろう?馬鹿げてる。足りない頭をひねって考えてみるに、珍妙な疑問を抱く原因は僕の周りにいるメタ化された女の子たちにあるようだ。責任を他人に押しつけるのは嫌だが事実なんだから仕方ない。彼女たちは軒並み僕に惚れていて隙あらば好感度を上げようとしてくる。まぁ気分は悪くない。なんたって水準を遥かに超える美少女たちを選び放題!抱き放題!とか思っていたのだけれどあんまりスキスキスキスキ言われるもんだから複雑だ。これじゃどっちが攻略してるんだか分かったもんじゃない。実のところハンバーグ好き好きビーフシチュー好き好きドーナツ好き好き言ってるのと理樹くん好き好き言ってるのは彼女たちの中で等価なんじゃないか?ピラニアの群れに投げ込まれた餌(不本意ながら僕のことだ)が誰に食べられたいかうだうだ考えてるようなもんじゃないのか?悶々とした気分のままで僕は寮の部屋に戻って眠る。

 □■□

 妙な胸騒ぎを覚えて目を開ける。「やっほー理樹くん」。目を閉じた。「そうよそうよ。理樹くんがうっかり忘れ物をして夜の校舎に一人現れてくれないから寂しくなって会いに来たのよ。滑稽でしょ、笑いなさ」。うるさい。唾を飛ばしながら喚き立てる沙耶の唇を奪ってやる。唇を離すと静かになっていた。ん?沙耶?待て待て。沙耶がいる?素朴な疑問。そして氷解。どうやら僕は沙耶を愛することになったらしい。冗談だろう?と言いたいがマジもマジも大マジだ。ここで問題が浮上する。これから沙耶を好きになったとしてその好きって感情は本物なのか?本物だとしてカレー好き好きケーキ好き好きと同じ意味の好きじゃないって証明できるのか?人はその時々で巨乳が好きだったり貧乳が好きだったり熟女が好きだったりロリが好きだったりツンデレが好きだったりヤンデレが好きだったり素直クールが好きだったりするようなことはない。そりゃ確かに人の嗜好は変わるけれど短時間で極端にコロコロコロコロ変わることはない。普通はそうだ。それなのに僕はどれだけ分裂すれば気が済むんだ?僕は気がつかないうちに自身の断片を色々な場所に撒き散らしてきたのか?
 状況整理。自販機でボタンを押せばジュースが落ちてくることと、沙耶がここに現れたこととはイコールだ。需要→供給の流れ。ジュースが飲みたいと思うように沙耶を求める誰かがいたということだ。要請に応じて僕は沙耶を愛し沙耶は僕を愛する。この時点で鈴と小毬さんとクドと西園さんと葉留佳さんと来ヶ谷さんと二木さんと笹瀬川さんとのフラグは消滅!ボキボキボキ!僕は一途に沙耶と愛を育む。めでたしめでたし。なわけがない!だろう?自販機のボタンを押せばボク・キミノコト・ダイスキ!という言葉が吐き出され、隠しコマンドを入力すればボク・キミノコト・ダイキライ!と返ってくるようなデタラメがあってどうして悪い?需要は常に供給されないし供給してやるつもりもない。押しつけの愛をはいそうですかと納得?そりゃ無理だ。拒否拒否拒否!
 沙耶が僕を見下ろしている。「眠いから帰って」とストレートに僕は言ってみる。「折角来たんだし話でも。ね?」。甘えた声が僕の頭をガンガン揺らす。ガンガンガン!「実は一ヶ月ぐらいお風呂入ってないんだ」。沙耶の表情が固まる。「歯は三ヶ月ぐらい磨いてないんだ」。沙耶が自らの唇を押さえる。火が点いたみたいに泣き出した沙耶が「うわーん!」と叫びながら走り去っていく。ファーストキスだったんだろうか?僕は安心して目を閉じた。
 
 □■□

「やっほー理樹くん」
 月曜日。早朝。驚いた。意味不明なことに沙耶がまた僕の部屋に来た。十年に一度の熟睡旋風が寮に吹き荒れて寮内の誰もが熟睡している最中のことだ。同室の真人は昨夜から寝ずのトレーニングに出かけている。もうたくさんだ。もうこりごりだ。早く帰ってくれと心の中で懇願するが口には出さない。どうしてだろう?なけなしの良心が疼くのか?そんなものがまだ僕の中に残っていた事実に思わず笑う。不覚にも笑ってしまった。「やっぱり起きてるじゃん!グッモーニン理樹くん」。まずい。「僕は恭介の愛を受け止められない……」と寝言を言ってやった。沙耶が一メートルぐらい後退して心の距離がさらに十メートルぐらい離れたのを知る。「うわーん」。沙耶が泣きながらどたどたと部屋を出て行く。妙な誤解を与えた気がするがまぁ結果オーライだと思うことにする。沙耶はもう二度と僕の部屋に来ないだろう。なけなしの良心がズキズキズキ!知ったこっちゃない。目を閉じた。

 □■□

 火曜日。早朝。「やっほー理樹くん」。なんてことだ。沙耶は僕が思った以上にしたたかな手合いであるらしい。しかし山奥で熊に出会えば死んだふりをするし寮で沙耶に出会えば狸寝入りをするのだ。誰だってそうするし僕だってそうする。「起きてくんないとキスしてやるー」とか言い出し始めた。シット!形勢は不利であるようだ。「昨日の餃子パーティ楽しかったなぁ」と寝言をつぶやく。にんにく臭に恐れをなした沙耶が「く、口じゃなくて頬っぺただもん」と自らを奮い立たせている。思い切り伸びをしてやる。ホォウァァァァッッ!口をホの字にして吠える。ガーリィック!「わーん!」。沙耶が泣いて逃走する。これで心は折れただろう。また良心がズキる。これは一体なんなんだ?目を閉じた。

 □■□

 水曜日。早朝。「やっほー理樹くん」。さすがに認めなくてはならないだろう。沙耶はマジだ。既に三日連続で熟睡旋風が吹き真人は不屈の闘志でトレーニングに励んでいる。真人は大丈夫なのか?世界の法則と真人の筋肉はどっちが強いんだ?僕は目を開け起き上がる。待ってましたとばかりに沙耶が「おっはよー!」と言う。「起こしに来てあげたの。萌えた?」心臓がバクバクバク!本当に馬鹿げたことに僕は萌えていた。どうして僕は萌えているんだ?どう考えたっておかしいだろう?「あたしは理樹くんのために朝ごはんを手作りしてあげるんだー」クリティカルヒット!心臓の鼓動は止まらない。沙耶がガスコンロを取り出す。フライパン。食材。調味料。エプロン。調理器具。片っ端から取り出す。どっから出したか聞くのは無粋だ。やばいやばいやばい!苦し紛れに「沙耶!背中にゴキブリ!」と叫んでやった。「うわーん!」。沙耶は全てを放り出して逃げた。僕はゴキブリに負けたのか?勝ったのか?ベッドに潜り込んで目を閉じた。ズキズキくる。厄介な良心め!

 □■□

 木曜日。夜明け前。ガンガンガン!僕は寮の扉に内側から木の板を打ちつける。寮内の人間は熟睡しているし真人はいない。二度あることは三度あるし三度あることは四度あるのだ。チャッチャカ板を押し当てて釘をガンガンガン!僕は部屋を密室に。沙耶が入れないよう厳重に。隙間があればそこから沙耶は入ってくる。それはまずい。いいことなんて何一つない。そうだろう?僕は誰に聞いてるんだ?まぁいい。僕は締め出さなくてはならない。ガンガンガン!ズキズキズキ!ふざけたことに釘を打つ度に心が同じ数だけ痛む。僕は厳重に厳密に完全に完璧に自分以外の存在を閉め出さなきゃならないというのに!ガンガンガンガン!ズキズキズキズキ!
 作業が全部終わってしばらくすると「お邪魔しまーす」。今日もまた沙耶が来た。「あれ?あれれ?」。ガチャガチャガチャ!開くわけがない。「理樹くん開けてよぅ」。僕は扉の前で息を殺して立ち尽くす。ズキズキズキ!どうして僕は沙耶が来るまでここで待っていたんだ?僕は真正の馬鹿なのか?とっととベッドに潜っていればこのズキズキも少しは大人しくしていてくれただろうに。「わーん」。沙耶の泣き声。ベッドに戻って耳を塞ぐ。塞いだってズキズキはやってくる。目を閉じた。沙耶!頼むからもう来ないでくれ!

 □■□

 金曜日。早朝。「やっほー理樹くん」。そして沈黙。廊下の方から妙な音が聞こえてくる。「理樹くん、危ないからそこにいるならちょっと離れててねー」と沙耶が声をかけてくる。僕は目を閉じたまま。ガガガガガ!ババババババババ!なんだなんだなんだ!僕は跳ね起きる。扉が引き裂かれたみたいにずたずたになっている。沙耶は重火器で扉をぶち抜いたのだ!三度あることは四度あって四度あることは五度あるから誰もこの騒ぎになんて気づきやしない。寮生は寝ていて真人はいない。蜂の巣になった扉が部屋の内側に向かって倒れる。舞い上がる埃の向こうに沙耶がいる。「理樹くんお目覚めいかが?」。僕の知る限り最高にクールな起こし方だ。ヘイ沙耶、僕を殺すつもりなのか?
 沙耶は部屋に入らず廊下側に立ち尽くしている。「さ。理樹くん早く出てきてよ」。僕は首を横に振る。沙耶はメタ化された恋人でしかないだろう?何も届かないんだ。何も。僕の心はズキズキ痛む。理屈とは無関係なところでズキズキズキ!沙耶は僕に向かって手を伸ばす。
「密室作って閉じこもってそれで終わり?腐っていじけて諦めて引きこもってたら満足なの?誰かに引っ張り出されるのを待ってるの?それとも一生そこにいるの?ばーかばーか!甘えんな!」
 泣ける言葉だ。手を伸ばせば何が変わる?この密室を抜けた先もまた密室だろう?この密室の向こうにある密室のそのまた向こうにあるのも密室じゃないのか?沙耶は僕をどこからどこに救い出そうとしてるんだ?
「あたしが手を握ってあげるわよ!だから手を伸ばせばいいじゃない!もう二度とばらばらにならないように握っててあげるんだから!」
 沙耶は僕を本当に救えると思ってるのか?思っているんだろう。最高だ。「ばらばら?僕が?」。「そう。理樹くんはばらばらだよ」と言って沙耶は笑う。やっぱり僕は自分探しの旅に出るべきかもしれない。どうやら自分の知らない自分があちこちにいるようだ。「どんな僕がいるの?」。「さぁ。二股三股四股と浮気しまってる理樹くんとか?」。最低で最悪で最高だ!僕より人生楽しんでるなんてどういうことだ?「結婚して子供を作ってる僕とかも?」。「いるいる。絶対!」
 無数にいる僕はどいつもこいつも密室の中にいるんだろう。結婚して家庭を築いて子供が生まれていても。誰かを愛し誰かに愛されていたとしても。ずっと閉じ込められたままなんだろう。そりゃそうだ。僕が無限に寸断されて僕が僕でなくなっても、僕は僕でしかいられないのだから。逃れられないのだから。そいつは確かに密室だ。《直枝理樹》という名の密室だ。沙耶はそこから僕を救い出そうとしている。それだけじゃない。ここにいる僕だけでなくここにいない無数の僕たちをも同時に救い出そうとしている。滅茶苦茶だ。イカレてる。笑う。
 僕はベッドを下りて沙耶と真正面から向かい合う。ドアは穴だらけでぶっ壊れて倒れているから僕たちの間を遮るものはない。どこのどいつが僕をばらばらに引き裂いたんだ?とか思わなくもないが今は差し置くことにする。伸ばした手を沙耶のそれと絡ませ僕はそのまま彼女を抱き締めて離さない。似合わない愛の言葉を沙耶の耳元で囁いた。この気持ちは嘘だろうか?そうかもしれない。どうだって構わない。腕の中に彼女の体温。繋いだ手。


[No.932] 2009/02/19(Thu) 08:47:35
ある晴れた日のカクテル光線 (No.930への返信 / 1階層) - ひみーつ@10741byte

 売り場はこれでもかと冷房が効かされていて、初めは快適だったんだけど、湿ったシャツが冷やされてきてそろそろ寒かった。
「では、こちらのストライプ柄などいかがでしょう? お客様は細身でいらっしゃいますし、あまり幅広なものよりも、こちらの細目のものの方が映えるかと」
「なんか、色が年寄り臭いな。地味だ。ほかの色は?」
「でしたらこちら、明るいグリーンや水色などご用意しておりますが」
 店員さんに差し出されたのを、ひっくり返したり指で摘んでこすってみたり。
 買い物が、今日に限ってやたらと長い。
「んー……これ、いいな」
 頷きながら、顎に手を当て毎度のように唸って見せて。
「ご試着なさいますか?」
「よし理樹、着てみろ」
「いい加減寒いんだけど」
「つべこべ言うな。あたしだって寒い。というか、むちゃくちゃ寒いぞ」
 試着室に向かいながら、鈴が二の腕を手で大げさにこする。いや、そんな無理してくれなくとも。
 後ろを窺うと店員さんがなんとも言えない苦笑いを浮かべていたので、恐縮して頭を下げた。取り繕おうと言葉を探す間にネクタイを押し付けられて、真っ白いカーテンの向こうに鈴が消えた。
 それにしてもネクタイ一本で試着ってどうなんだろうね?
 ため息をついて、抱えていたワイシャツに袖を通す。
「お優しそうな方ですね。おに……ご主人様ですか?」
「いえ。まだ違います」
「あらっ! それはおめでとうございます。ご予定はいつごろに?」
「ん? ……んー、あー、まー、はるごろ? です」
「そうですね。ジューンブライドとはいいますけれど、あれは外国の文化ですから。日本でしたらやはり温かくなってきて明るい雰囲気のある春ごろがよろしいかと」
「あたしもそう思います」
 もしや出て行きづらい会話なのかと思ったけれど、間違いなく適当に相槌を打っているだけだった。
「こんな感じでどう?」
 カーテンを引きながら尋ねると、鈴は一瞬目を輝かせて、それから首をかしげてまた顎に手を当てようとした。
「僕はこれがいいな」
 慌てて口にする。
「ええ、とてもお似合いですよ。スラッとして」
 いいタイミングで合いの手が入る。鈴は顔を傾けたまましばらく僕の顔を見つめていたけど、やがて首を元に戻してにっこり笑った。
「うん、かっこいいな、そこそこ」
 店員さんがシャツとネクタイを手にレジへ走って、鈴は満足げだった。背中に手を回して胸を張って歩いている。新品のスニーカーが照明が映る白い床と擦れてきゅっきゅと音を立てた。
「上着もみてくか」
 鈴はまた軽い調子で、店の一角を指差す。天井から、青地に白く縁取られた赤で大きく「夏物売り尽くし」と書かれたポップが下げられていた。鈴はこういうのに弱いんだろうか。一年じゅう出てそうなセールののぼりに釣られたくらいだし、弱いのかもしれない。
「さすがに冬服はまだ置いてないんじゃない?」
「ん? そーいうもんなのか?」
「いや、わかんないけどさ」
「礼服ならあるんじゃないか?」
「礼服にも冬用とかあるでしょ。あとお金持ってないし」
「むう、そーか」
 そんなことを話しながら歩いていたら、レジで袋詰めも終えた店員さんが僕らを待っていた。
 店から外に出たときは暖かくて過ごしやすいくらいと思えたんだけど、陽に照りつけられて新しく汗が浮かぶと、やっぱり暑かった。
 ショッピングモールの広い駐車場にはたくさんの車が並んでいて、フロントガラスの光が眩しい。熱した黒いアスファルトからはかげろうが立ち上っている。人通りを見ると、家族連れの人の多くが帽子を被っていた。お父さんが野球帽、お母さんが白やベージュのソフト帽、子供たちは麦わら帽や、幼稚園の制服だろうか。紺のベレー帽をしている子もいた。
 出てくる前に言え、と言われるかもしれないけれど。
「鈴は服とか見なくていいの?」
 尋ねてみても、隣の鈴は歩く早さを変えないで僕を見た。
「お金ないんだろ?」
「さすがにスーツとかは無理だけどさ。見るだけとか」
「あたしのは別に今日じゃなくていい」
「でも、パーティとかって女の子の方が気、遣うんでしょ?」
「理樹のセンスには期待してないからな」
「……あ、そ」
 そういうことなら納得しておこう。
 駐車場を抜けて大通りに出る。僕らと入れ替わりに何台かの車がモールに入っていった。
 ここからアパートまではけっこう距離があるけれど、鈴は足腰の丈夫な子で、乗り物など使おうとしない。僕はといえば、体力のピークはそろそろ過ぎ去ってしまった感があり、鈴のペースに合わせるのが少しだるい。
 僕の思いが伝わったのか、鈴が歩くペースを落としてくれた。
「楽しみだな、結婚式」
 やけに嬉しそうな声。隣に並んだ顔を見る。
 怒られるから言わないけれど、鈴がこういうのに興味を示したのが意外に思えた。
「理樹はどうだ?」
「いや、そこまででもないけれど、僕は」
 嫌な気持ちもしないけどね。
 その答えを鈴はどう受け取ったのか。また、ペースを戻して歩き始めた。小学生の一団が、マウンテンバイクみたいな自転車で僕らの横をすり抜けて行った。少し風が吹いたが、涼しくはならなかった。
 案内状の、新郎の顔を思い出そうとした。でもその前に、『往信用ハガキが付いたままでしたので当局にて切り取らせていただきました』という手書きのメモを思い出して笑ってしまった。『折り返し投函してください』と書かれていたのを見て、鈴は本当に、往復はがきの裏表を折り返して出したらしい。
「なんだ、一人で笑って。きしょいぞ」
「いや、ごめん。思い出し笑い」
 世間知らずさが不安になる反面、そういうところが好きだ。やっぱり。
「どんな子だっけ? 結婚するのって」
「なんだ、覚えてないのか。招待されといて」
 まあ半分引きこもりみたいなもんだったもんな、お前。
 鈴はそう呟いて一人で納得していた。かなり酷い言われような気がするけれど、ともかく鈴の答えを待った。
「まーあれだ。地味な奴だった記憶がある。地味だったかもしれない。そんな感じ」
「鈴も覚えてないの?」
「いーや、あたしはぼんやり思い出せる。なんというか、地味だった」
 不毛な言い合いだった。
 なんでこんな二人を、人生の門出に招待してくれたのか。二人で考えてみてもわからなかった。当日、それとなく聞いてみることにしようと、二人で話した。

 家まであと四分の一くらいのところまで来て、鈴がお昼にしようと言った。これだけ歩けばおなかも空く。鈴にリクエストを取っても「なんでもいい」というので、目についたラーメン屋に入った。『冷やし中華始めました 六百円』。
 お昼時ということで、カウンターには薄水色の作業着の背中が並んでいた。テーブルにはおじいさんたちが座って、タバコを吸ったり漫画雑誌を読んでいたりした。壁掛け型の扇風機がぬるい風を吹きつけてきて、ラーメン屋さんの匂いがした。テレビではNHKのニュースが流れていた。厨房にはせわしなく湯気が立って、鍋を振る音がした。
 入れないかな、と店を出ようとしたら、レジ台の奥のドアが開いて、愛想のよさそうな割烹着のおばさんが出てきた。
「お二人ですか。座敷でよければ開いてますが」
 促されるまま僕らは畳の部屋に通される。たぶんいつもは家族連れが入るんだろう。それか仕事帰りの人たちがお酒を飲んでいくか。二人で使うには広い部屋だった。薄暗く思えたけれど、電気がつけられるとすぐ解消された。
「ご注文お決まりですか?」
 僕らが座布団に腰掛けたころ、鉛筆を手にしておばさんが尋ねてくる。まだメニューも見ていなかった。慌ててあたりを探すと、カベの一角、短冊に手書きのメニューが並んでいた。
「あたしチャーシューメン」
「張り切るね。……じゃ、冷やし中華」
「チャーシューメンと冷やし中華ね。ちょっとお待ちください」
 おばさんが立ち上がり、戸が閉められた。「チャーシュー一丁、中華一丁!」という元気な声が聞こえた。
 網戸の窓から風が抜けて、風鈴が微かに音を立てた。あぐらをかいて、後ろに手を付きながら背筋を伸ばすと、天井の木目が見えた。節穴の部分がぽっかり穴になっていて、その奥は真っ暗だった。
 引き戸を少し開けて、厨房の方を見る。やはり忙しいのか、おばさんがせわしなく動き回っていた。でもまあ、このくらいの方がゆっくりできていいかもしれない。
「少し待とうか」
「うん。漫画読む?」
「僕はいいや。鈴は?」
「あたしもいい」
 鈴は女の子座りして、ぺたりとテーブルに頬を乗せた。
「行儀悪いよ?」
「んー、冷たくて気持ちいいぞ? 理樹もどうだ?」
 ちょっとだけ、誘惑に負けそうになった。
 童心に帰りたいのをぐっと堪えて、背筋を伸ばす。さすがにそりゃできない。
「猫、触りたかったなー」
 独り言みたいに鈴が言った。
「また今度行こうよ」
 いつになるかはわからないけど。
 鈴はテーブルに突っ伏したままで、頭を動かした。きゅいい、と音がする。頷いたのか、寝返りを打ったのか、わからなかった。
「テレビでも観るか」
 身体を起こして、物怖じせずリモコンに手を伸ばす。なんだかふてぶてしい。死角になってるからだろうか。
 ピシン、という独特の音がして、テレビに電源が入った。こう言っては失礼だけれど、店構えに比べてだいぶ立派なテレビだった。
『三遊間!』
 映像が浮かぶ前。鋭い男の声がした。人のざわめきが聞こえた。
 ランナーのヘルメットが、黒く日差しを反射して光っていた。
「はい、チャーシューメンひとつ、冷やし中華ひとつですね」
 おばさんが入ってきて、テーブルに料理が並べられた。チャーシューメンが僕の前に置かれた。それがまたいい匂いをさせていて、僕もラーメンにすればよかったなと思った。
「理樹、それこっちだ」
 おばさんが出て行くなり、鈴が冷やし中華を僕のほうに押し付けてくる。取り替えてくれやしないかとちょっとだけ期待したけど、だめだった。
 僕のほうは僕のほうで、おいしそうだとは思うんだけど。箸を割って、麺を啜る。ほのかにゴマの風味がして、まあ、冷やし中華だった。
 キィン! という、金属音がした。
 テレビを見る。紺の帽子の外野手が背走する、その向こうにボールが落ちた。三塁ベースを回るランナーの背中が映され、それから画面の下に得点が点滅した。5対0だった。
「なんか懐かしいね、野球」
「ん?」
 鈴はメンマを口からぶら下げて、目だけで僕のことを見た。
「いや、だから懐かしいねって、野球」
 あー、と言ったのだろう。でもメンマをかじったままだったので、「んうー」としか聞こえなかった。もぐもぐ、ごくん。
「あたしはそんなでもないな」
「そう? 懐かしくない?」
「なんかな、あたしらのと甲子園は違うと思う。上手さとかじゃなくて」
 そんなふうに言うから、てっきり続くものと思ったけれど、鈴はチャーシューを挟んで口に運んだ。結構大きかったのに、二つ折りにして丸々食べてしまう。それを見て、僕も冷やし中華に箸を伸ばした。
 白地に紺の刺繍が入ったチームの選手が、マウンドに集まっていた。
「負けた人らはこれ見てるのか?」
 なんの気なさそうに鈴が言った。口に食べ物が入ったままだったようで、その声はくぐもっていた。
 僕はキュウリと金糸玉子を噛みながら、どう答えようか考えた。
 多分、見ていない、という気がする。
 なんでそんな気がしたんだろう。また次を目指して練習をしているはずだから……ということではない。
 それで思い至ったのが、今野球をしてる彼らは、自分が家のテレビで甲子園を観戦するってことを、想定していないんじゃないか、ということだった。負けたあと甲子園を見ないこととは繋がらないけれど。
「見てないんじゃないかな」
 簡潔に、それだけ言った。
「そうか? ……そーか」
 鈴はまたチャーシューを食べて、僕は麺がくどくなってきたので紅しょうがをつまんだ。
 また、金属バット独特の鋭い音がした。
 打球が外野の芝を鋭く転がる。ランナーが連なって、ガッツポーズしながらホームに帰ってくる。ピッチャーがマウンドの横に膝を突く。
 8回、点差が7になっていた。
「先のこととか、考えないのか?」
 甲子園のことなのか、僕に言っているのか。判断がつかなかった。
 次の甲子園のことなんて、きっと彼らは考えてないだろう。みんな今に賭けてると思う。なにが起こるかわからないのだから。次なんてあてにはならない。
 じゃあ僕はどうなのか。
 どんぶりを手で持って、スープを飲み干そうとする鈴を見ながら、僕と鈴のことを考えてみた。
 甲子園が終わって、同級生の結婚式に出て、春になったら。
「僕ってそんなにセンスない?」
「なんだ、無視する気か」
「いやまあ、ともかく。センスないかな?」
「服のセンスに限っては、……中くらい。下の」
 下の中ときた。
 そっかー、なんて言いながら、頭を掻く。
 鈴のドレス、一緒に選びたかったんだけど。


[No.933] 2009/02/20(Fri) 10:12:23
ダブルサプライズ (No.930への返信 / 1階層) - ひみつぅ@1851 byte


 最後のボールが落ちた。
「よし、今日はここまでだ」
 恭介の声が暗く染まったグラウンドに響く。僕を含めてそれを聞いたメンバーは恭介の周りに集まる。
 この、10人全員が集まったリトルバスターズでの野球の練習が終わった。
 明日は卒業式。もちろん恭介はその卒業式に出る。
 今日の練習で最後なんだと思うと、寂しい気持ちが湧き上がる。みんなもきっと同じ事を思っているだろう。
「おいおい、お前らそんな悲しい顔すんなよ。また集まれば出来るだろ?」
 恭介はこんな時なのに、笑顔を忘れてなかった。
 僕は恭介の言葉に返事をしようと思ったけど出来なかった。
 ……声が、出なかった。

「お前らも来年度は頑張れよ。俺だってな、こう見えても頑張ったんだからな」
 恭介はいつだって凄かった。僕には超えられない存在なんだと、改めて感じる。僕達には成し遂げられないことも、全て一人だけで成し遂げてしまう。
「そうだね……僕達も、頑張るよ。ね、みんな」
 恭介の姿を前にして今日始めてちゃんとした声が出せた。声を出して、言葉にする。この行動は、今の僕には大変に思えた。
「ああ、そうだな。オレから恭介にやる筋肉がなくなった分、これからはお前ら全員に分け与えてやれるな……」
「いらんわぼけぇーーーっ!」
 真人のボケに鈴のハイキックが炸裂。そこでみんなが笑い、しんみりとした雰囲気から和んだ空気が流れた。
「ふっ、まぁ貰ってやってもいいんじゃないか?真人の筋肉はいいもんだぞ」
 恭介が真人のボケに合わせてくれた冗談に、変わらない日常の一コマがまだこれからもあるのだと僕は感じていた。

「それよりだ……今日はもう遅い」
 だけど、その言葉に突然現実に戻された。やっぱり、もう終わりなんだと。
 この寮と学園生活の中で、もう数える程しかなかった。
 恭介からの言葉も、とても少ない。何かあるのかと思ったが、何もなかった。
「解散だ」
 その後には何も続かなかった。



 


「そうだ。忘れていたが、また四月から野球の練習を始めるからよろしくな。忘れるなよ!」

「えっ?」
「あ?」
「は?」
「ふぇ?」
「うみゃ?」
「へ?」
「わふ?」
「む?」
「はい?」

 みんなの声がひとつになった瞬間だった。


[No.934] 2009/02/20(Fri) 22:47:06
リトル・ホリデイ (No.930への返信 / 1階層) - ひみつ@17364byte


 クドリャフカはサンタクロースだった。しかも相当ドジなサンタクロースだった。なにぶん体が小さいうえに威厳も何もないため、トナカイたちの手綱を豪快に持て余していた。
「わーっ! ストレルカ、ヴェルカ、すとっぷなのですぅぅぅ」
 加えてトナカイたちはずいぶんと気性が荒かった。無理やり付けられたツノの感触が不快なのか、頭をぶんぶんと振り回しながら己が思う方向に突き進んでいた。
「うう……またプレゼントを配る予定が遅れてしまいました」
 ようやく目的地である家にたどり着くと、クドリャフカは律儀にも煙突からよちよちと住居侵入を試み、気が遠くなるほど長い時間をかけて、また煙突から煤まみれの姿で這い出てきた。
 要するに、格式や作法に対して真面目すぎるクドリャフカは、サンタクロースにはめっぽう不向きなのだった。
「ふぅ……これでようやく半分終わりなのです。あと半分がんばらねばです」
「つってもさー、もうクリスマス終わって三日だよ? いくら子供でもさすがに待ちくたびれちゃってるに決まってんじゃーん」
 ソリに戻ってみると、トナカイが一頭増えていた。
「三枝さん……あの、なにをされているのでしょうか」
「ノンノン、私はトナカイのハルカだよ」
「だから三枝さんじゃないですか……」
「全然ちがーう。私と容姿端麗才色兼備文武両道焼肉定食なはるちんは別物なの。ここテストでるよー」
「そ、そうなのですか。それで、どういうご用件でしょうか。申し訳ありませんが私、まだ大切なお仕事が残っていますので……」
「その必要はないよ、クドリャフカ君」
 声はトナカイたちの背後から聞こえた。クドリャフカのソリには見知った人物が座っていた。
「来ヶ谷さんではないですか。あの、なぜストレルカたちの手綱を?」
「いや違うな。私はサンタクルーガーだ。まあサンタクロースの親戚のようなものだ」
「そ、そうなのですか。それであの、なぜストレルカたちの手綱を?」
「クドリャフカ君が困っていると聞いてな、子供たちの永遠のヒーローにふさわしく、こうやってピンチに馳せ参じてみたというわけだ」
「助けていただけるのですかっ。あの、ではなぜストレルカたちの手綱を?」
「いやなに、君のその風体を見て気が変わってな、どうしようもなく虐めてみたくなったのだよ」
「は?」
「ではクドリャフカ君、あとは一人でがんばりたまえ。ハイヨー、ストレルカ、ヴェルカ、ハルカ!」
「あいあいさー! わんわんわおーん!」
「え、ちょ、あのーっ!?」
 トナカイたちはサンタクルーガーの手に落ち、クドリャフカはその場に一人置き去りにされた。
「ええー……」
 ただでさえ要領が悪いのだから、トナカイがいなければクドリャフカはサンタクロースとして無能だった。
 しかも、プレゼントの入った袋は、トナカイのソリの上だった。
 何もなくなってしまったものだから、クドリャフカは身も心も寒くて死にそうだった。
 あてもなく歩くしかなかった。

 鈴は七福神の弁才天だった。しかも相当人見知りする弁才天だった。なにぶん男集団の紅一点という理由だけで花形に抜擢されたため、神事や慶事などに全く無関心な鈴は、面倒で苦痛な行事のための準備などから幾度と脱走を図っていた。
「あたしはもうこんなとこにいたくないんじゃーっ!」
 その蹴り技は神界でも名を轟かせており、彼女に手を伸ばす者はことごとくその餌食となっていった。なので彼女を取り押さえるのはもっぱら屈強な毘沙門天と大黒天の役目だった。
「いててて、おい謙吾、早くそっちの手を抑えろ!」
「貴様こそしっかり肩を抑えていろ」
「くそっ、筋肉の神様の力を舐めるんじゃねーぞ!」
「くっ、毘沙門天であるこの俺がここまで手こずるとは……」
「離せぼけーっ! 触るなーっ! きしょいーっ!」
 鈴の蹴りには容赦がなかった。謙吾と真人はぼこぼこになりながらもなんとか鈴を離さずにいた。
「鈴、落ち着いて……」
 布袋な理樹はやや離れたところから冷静を訴えるしか術はなかった。
「鈴、鈴ってば、そんなに暴れないで。ちゃんと話し合おうよ」
「話し合うことなんかないっ!」
「一体何が不満なのさ? お正月の準備は毎年みんなで一緒にやってきたことじゃない」
「ああそうだ毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年毎年な! もう嫌でも嫌になるわっ」
「で、でも、僕たち七福神が大晦日までに準備を済まさないと、みんながお正月を祝えなくなるんだよ?」
「そんなのあたしはしらん! 正月を祝いたいやつは今年から寺にでも行け寺に。毎年神社にばっか集まってくるな!」
「やれやれ、鈴はとんだお子ちゃまだな」
 理樹の背後から恭介が姿を現した。肩に釣り竿を担いでいる。恭介はチーム・リトル七福神ズのリーダー・恵比寿だった。
「鈴、お前の気持ちもわからんではない。お前も年頃の女の子だ、年の瀬のこの時期だからこそ友達とキャッキャして遊びたいんだろう」
「そんなつもりは断じてないが……」
「だがな鈴、俺たち七福神は、そういう時期だからこそせっせと働かなければならないんだ。なぜだかわかるか?」
「しらん」
「そういう宿命なんだ。そして俺たちがこの尊く崇高な仕事に身を尽くしているのには理由がある。わかるか?」
「しらん。まさか人の幸せのためだとか言いだすんじゃないだろうな」
「それは……野球より楽しそうだったからだ!」
 単なる一個人の飽き性と好奇心だった。
「死ね!」
 いい顔の恭介を宝船の甲板に沈めると、鈴はそのままの勢いで真人たちの手を引き離し、あかんべーをして逃げた。
「ああっ、鈴、どこ行くのさ!」
「どこだっていいだろ、ばーか」
 行くところなど限られていた。
 1、2の3で、鈴は地上界へと飛び降りた。

 クドリャフカにしてみれば、辛くなって空を見上げていたところに、突如として和服姿の少女が降ってきたのだからたまったものではない。
 鈴にしてみれば、誰もいないと思って着地しようとしたところに、突如として煤まみれの少女の姿が浮かび上がったのだからたまったものではない。
「わふーーっ!?」
「じゃまだどけーーっ!!」
 そうして二人は、12月28日に出会ったのだった。

「では、あなたは私の知る鈴さんによく似ているうえに同姓同名の、七福神の弁天さまなのですね?」
「ああそうだ、あたしの知ってるクドによく似てる同姓同名のサンタのひと」
 たんこぶをさすりながらお互い自己紹介をした後、二人はその奇妙な偶然に驚いた。
 一通り驚いてから、思う。
 なぜ、こんな時期に七福神が下界をうろついているのか。正月の準備で忙しいはずではないのか。
 なぜ、こんな時期にサンタクロースが町をうろついているのか。その汚れまくった格好はなんなのか。
 お互いの視線の意図を悟ったのか、クドリャフカはにこりと、鈴はかろうじてへへへと笑う。
「私のことはクドで良いですよ。さんたくろーすというのは仕事で使う、いわば芸名のようなものですので」
「あたしも鈴でいいぞ。七福神とか弁才天とか、あたしとってはにはどうでもいいことだからな」
 二人はとりあえず、公園のベンチに腰かけた。雪を掃ったばかりのベンチは座ると、ひやりと冷たい。
「どうでもいいというのは少し悲しい気がしますが……」
 クドリャフカは、探るように丁寧に言った。
「悲しくなんかないぞ。むしろあたしは今、ものすごく清々しいんだ」
「清々しい、ですか」
「ああ、これでようやく自由になれたんだからな」
 鈴は、隠すことなく身の上を話した。気分が高揚しているためか、早口だ。同僚たちの悪口も、しっかりと内容に盛りこまれている。
「なるほど。それはたいへん窮屈な思いをされていたのですね」
「そうだろう。しかもあいつら、面倒くさい仕事は全部あたしに投げてよこすんだ。宝船の先頭に立って、てんのーこーごーみたいに手を振らされたり、大勢の人前でうまそうな名前の楽器を弾かされたり。あたしが人前に出るの嫌なこと知ってるくせにだぞ」
「ひどいと思います。人権問題ですっ」
「神さまだけどな。自分で言うのもなんか恥ずかしいが」
 言ってから、鈴は照れた。ほとぼりも幾分か冷めたことで、鈴はクドリャフカが困ったような顔をしていることに気づいた。しまったしゃべりすぎたか。鈴は少しばかり反省する。
「お前は?」
「はい?」
「お前はどうしてここにいるんだ? クリスマスはとっくの昔に終わったと思うんだが」
「……お恥ずかしい話なのですが」
 情けなくて人には言うまいと思っていたが、鈴が先に話してくれたおかげで、クドリャフカは驚くほどすんなりと自分の身の上話を口に出すことができた。
「なるほどな。で、トナカイに逃げられてしまったわけか」
「逃げられたといいますか、連れ去られたといいますか……」
「なんにしろ、そのサンタグローバーだかサンタクルーンだかサンタクロマティとかいうやつは最低だな。困ってるお前をさらに困らせにきたってことだろ」
「来ヶ谷さんも決して悪気があったわけでは……いえあったんでしょうけど、決して悪いさんたさんではないのです。全部私がのろまなのがいけないのでして……」
 クドリャフカは、しおしおと小さくなっていく。
 鈴は、どう声を掛けていいものか悩んだ。悩んでも答えは出なかった。生まれてこのたび、ほとんどの時間を宝船の上で過ごしてきた鈴は、クドリャフカのような少女とまともに話をしたことなどなかったからだ。
 だから鈴は、直感のままに動くことにした。なんとなく重苦しい雰囲気をなんとなく嫌い、なんとなく走り出したくなった。
「お互い、同僚に恵まれなかったってことだな」
「……」
「走るぞ、クド」
「えっ?」
 返事も待たず、鈴はクドリャフカの手を掴んで駆け出した。
「わーーーっ!!」
「わーーーっ!?」
 すぐに転んだ。鈴は着物の裾を踏み、クドリャフカは巻き添えを食らった。
「くそっ、この布めっ」
「わーっ、破こうとしてはダメですっ。きっとすごくいい生地ですっ」
「そんなのしらん。あたしは今、走りたいんだ。というか、破れんな、これ」
「ほらほらほら、やっぱりすごくいい生地なのですよ」
「……呪いをかけられてるみたいで、なんかいやだ」
「呪い?」
「……ああもうっ、どれもこれもそれもあれも全部恭介のアホが悪いんじゃーーーっ!」
 クドリャフカは辟易する。鈴の一挙一動に圧倒される。
 クドリャフカとてサンタクロースのはしくれなのだから、これまでに大勢の子供を目にしてきた。中には鈴のように不可解な言動に突き動く少女もいた。しかし、目の前の少女ほど、世を嘆き、抱えこみ、もがき苦しんでいる子供を見るのは初めてだった。
 彼女を見ていると、自分の悩みなどちっぽけなもののような気がして、クドリャフカは体が軽くなったような気がした。同情したのではない。悩むことそのものが馬鹿らしくなったのだ。
「……私も、なんだかむかむかしてきました」
「なら、走ろう。走ると気持ちいいぞ」
 二人は大声をあげて、走った。今度は裾を踏んで転んでも、起き上がってまた走った。
 奇妙な光景に、公園に遊びにきた子供が、入口のところでまわれ右をする。砂場の鳩も、驚いて飛び去っていく。
 腹の音で、二人はようやく止まった。
「……お腹すきましたね」
「……そういえばそうだな」
「なにか食べたくはありませんか?」
「食べたい。あったかいものがいい」
「私もあたたかいものがよいです。それがこの国ならではのものだとなおよいです」
「そうだな。いくか」
「「ラーメン」」
 しかし、その望みは叶わなかった。お金を持っていなかったわけではない。ただ持っていたのが、鈴は百万円の価値はあるであろう小判、クドリャフカはユーロだっただけの話だ。
「この国は腐ってるな」
「まったくなのです。ぐろーばる社会の名が泣いてしまうのです。食べたいものも食べられないこんな世の中じゃぽいずん、なのですっ」
 二人は、腐った。腐った勢いのまま公園に戻り、百円自販機の下で見つけた百円玉でしるこドリンクを買って回し飲みした。
「まったくやってらんねーのでふよっ」
「そうらそうら」
 小豆飲料で器用に酔っぱらう二人だった。
「くるがやさんもくるがやさんなら、さいぐささんもさいぐささんなのでふっ。だいたいなんなのでふかその言いづらい名前わっ。噛んでしまうではないですかっ」
「それは噛むな。噛んでしまうな。その点あたしの周りはアホとアホとアホと理樹しかいないから恵まれてるな」
「そりゃ私もたいがい言いづらい名前でふが、「クド」といふにっくねーむがあるからまだマシなのでふ。省略しただけ? いいえ違いまふれっきとしたにっくねーむなのでふっ。なんでふか私も呼んでもよいのでふか同じよーに。「クル」「サイ」わああ、前者はともかく後者は誰のことだかまったくわかりませんでふーっ」
「よく考えてみれば、三人もアホがいるとわかりづらいな。「ア」と「ホ」と「アホ」と「理樹」でいいか……いかん、それだと理樹以外誰だかわからん」
 やいのやいの。寒空の下ですっかり陽気になった二人は、ブランコから靴や下駄を飛ばし、砂場で雪合戦を繰り広げ、すべり台の上から力の限り叫んだ。ついには草むらの陰に陣取って苦節数年のホームレスが、「たまらん」と言い残してとぼとぼと公園から去っていく。主の交代劇だ。しかし、当の本人たちは気づいていない。
「わふーっ!」
「ちょわーっ!」
 これだけ大騒ぎしても苦情のひとつ飛んでこないのは先代の功績か。都会の喧噪から離れた公園に、そういえば冬休み中だというのに人の子一人見当たらないのも変な話である。
「恭介のアホの差し金か……」
 腐っても七福神な鈴である。周囲の不自然が同僚の見えざる手によるものだと察した鈴は、まず真っ先にクドリャフカの存在も疑った。
「お前、ホントにサンタクロースなのか? あのアホからあたしを見張っておけとか言われたんじゃないのか?」
「わふー?」
「和風とか言うし、サンタっぽくない」
「わ、わふー……」
「……いや、すまん。お前はそんな感じじゃないな。ドジだし、そもそもそんな時間なかったはずだ」
 鈴の心ない一言に、クドリャフカはめそめそ泣いた。泣き上戸だった。
「おい、泣くな。悪かったって言ってるだろ」
「違うのです。辛くて」
「だから、辛くして悪かったって」
「違うのです、違うのです……」
 辛いのは、鈴の一言などではなかった。
「私、自分が情けないのです」
 だから辛いのだ、とクドリャフカは言う。
「私、自分のお仕事が大好きなのです。みなさんに幸せをプレゼントするこのお仕事が、本当に大好きなのです。寒いのは苦手ですが、この国でお仕事をするのは楽しいので我慢の子なのです。あ、私、この国担当のさんたくろーすなのです。偉い人がお前はドジだから小さな国のほうがいいだろうって。でも来てみたらすごくたくさんの人で、毎年毎年プレゼントを配るのが遅れてしまって……。小さな国だからということで、担当は私一人です。他に頼る人はいませんです。だから私、考えたのです。まずはこの国の人たちと仲良くなって、この国の人たちのことをもっとよく知れば、きっとうまくできるようになるんじゃないかって。私、変な出で立ちなので、変な目で見られることもよくあります。当たり前のことが当たり前でない私は、この国では異端です。でもきっとそれは私がしっかりしていないのがいけないからで、たとえば来ヶ谷さんみたいになんでもすまーとにこなせる人になれば、私みたいなのでも認めてもらえるんじゃないかってそう思って、でもなかなかできなくて……」
 辛くて。
 胸のうちに溜めこんでいたものをひと通り吐き出して、クドリャフカは俯いた。鈴は、黙ってそれを聞いていた。じっくりと時間を掛けて、鈴は考えて考えて、でもやっぱり何と言うべきかわからなくて、着飾らない言葉を発した。
「お前は、独りが嫌なんだな」
 クドリャフカは顔を上げた。親に置いていかれた、小さな子供のような瞳をしている。
 鈴は、喧嘩別れしてきた仲間たちの顔を思い浮かべた。
「あたしには、仲間がいる」
 だから辛いのだ、と鈴は言う。
「変なやつばっかなんだぞ。簡単に言うとアホとアホとアホと理樹なんだが、もう少しわかりやすく言えば筋肉とゲイと兄と理樹だ。もう大昔からの付き合いだ。毎年この時期になったら宝船を出して、地上界で新年の祝い事をするんだ。祝い事っていっても船上でどんちゃん騒ぎするだけなんだけどな。恭介のアホは自分が楽しければなんでもいいんだ。前なんかシーズンオフだからっていって船上野球とかはじめるしな。で、あたしも巻きこむんだ。たまったもんじゃないぞ。でもまー、あいつらとバカをやるのは正直楽しい。あたしは知らないやつと話すのが苦手だから、あいつらとバカやってる分には気楽でいい。あたしがそんなだし、一人だけ女だからってので、特にかわいがってくれてるのはなんとなくわかる。あたしが嫌がることをさせるのも、きっとその裏返しなんだ。こんなこと本人の前じゃ口が裂けても言えんが……その……あいつらには感謝してる。でも、ときどき思うんだ。あたしはこのままでいいのかって。あいつらに守られてぬくぬく生きて、それでこの先やっていけるのかって」
 不安なんだ。
 口にして、鈴は初めて自分が逃げ出した理由を自覚した。なんだ、そういうことだったのか、と納得する。
「鈴さんは、独りになりたかったのですね」
 顔を上げたクドリャフカは、もう小さな子供の瞳ではなかった。涙は乾き、慈しむような表情で、鈴を見上げている。
「ああ、そうだ。そうすればきっと何かが変わると思ってた」
「でも、それは」
「間違いだ。あたしが気づいてなかっただけ」
「自分の幸せに」
 そうだな、と鈴は笑う。
 そうですよ、とクドリャフカも笑う。
 鈴は、胸のつかえがすっかり取れてしまっていることに気がづいた。
「お前は、すごいサンタクロースだな」
「ええっ、そんな、私なんてダメダメのダメ子ちゃんで……」
「謙遜するな。現にあたしは今、お前からすごいプレゼントをもらったんだからな」
「そんな……私は何もしていませんです。鈴さんが、自分で気づいただけで」
「お前が気づかせてくれたんだ」
 鈴は本心からそう思って、クドリャフカの手を取った。自分の幸せが、少しでも相手に伝わるように。
「お前はぜんぜんダメダメなんかじゃないぞ。あたしと違って、努力もしてるし、辛い思いをしても、めげずにがんばってる。なにより、お前は、お前だけにしか用意できないプレゼントをあたしにくれたんだ。他のサンタなんかめじゃないぞ。クド、お前は、あたしとっては最高のサンタクロースだ」
 クドリャフカは、また泣きそうになった。しかし、なんとか堪えた。泣くところではないと思ったからだ。
「いいじゃないか、ドジなサンタがいても。自分のペースでゆっくりやればいい」
「それでは、子供たちが待ちくたびれて怒ってしまいます」
「そんな我慢の足りない子供は、あたしが根性を叩き直してやる」
「鈴さん、神さまなのに」
 くすっ、とクドリャフカは笑った。
「そういえば、あたしは神さまのくせに正月の準備をサボってるところなんだった。一番我慢の足りないのって、もしかしてあたしか?」
「いいじゃないですか、神さまが神事をサボっても。きっとその分、仲間が助けてくれますよ」
「それじゃ、六福神になってしまうじゃないか……」
 二人は、声を出して笑った。これまでのヤケクソ感漂うものではなく、カラッとした気持ちのいい笑いだった。
「よし」
 ひとしきり笑った後で、二人はベンチから立ち上がった。
「あたしは帰る。帰ってまず、あいつらに謝ってみる」
「私も、仕事の続きに戻りますです。私はトナカイとソリを探すところから始めねば」
「お互いがんばろう。あ、そうだ。帰る前に、さっきのプレゼントのお返しがしたいんだが」
「そんな、私は別に何も……」
 言いかけて、クドリャフカは動きを止めた。見返りなど期待していなかったし、欲という欲もなかった。その瞬間までは。
「なんだ、どうした。はっきり言え」
「あの……そのぅ」
「あたしも一応神さまのはしくれだからな。ちょっとした願いごとくらいなら叶えてやれるぞ」
「あ、あの……実はですね」
 他に誰も聞いちゃいないというのに、クドリャフカはとっておきの内緒話をするように、鈴に耳打ちした。
「……なんだ、そんなことでいいのか」
「そんなこと、ではないのです。鈴さんにしか叶えられない、私にとって何よりも大切なお願いごとなのです」
「……ん。わかった。お前のその願い、絶対に叶えてみせるぞ」
 二人は並んで公園の入り口へと向かった。
 お互いの帰り道を、いっせーのせ、で指差してみる。見事に逆方向だった。二人は向かい合って、どちらからでもなく握手を交わした。
「あたしは鈴、弁才天だ。また来年の今日、ここで会おう」
「私はクドリャフカ、さんたくろーすなのです。また来年の今日、ここでお待ちしています」
 指きりをするようにして、二人は別れた。今日という出会いの日を、二人だけのささやかな祝日にすることを約束して。
 それぞれ逆方向の道を歩いていく二人は、申し合わせたわけでもないのに、1、2の3でジャンプした。


[No.935] 2009/02/20(Fri) 23:48:02
彼女と赤橙の空 (No.930への返信 / 1階層) - ひみつ@20428 byte

 潮騒の音が聞こえてきた。そちらに目を向けると、あるのは一面の青。空の青と海の青。それらは遠くに行くごとに近づいているような錯覚を抱かせた。足下に熱せられた砂の感触。わたしは辺りを見回す。防波堤。テトラポッド。後はどこまでも続く肌色と青ばかり。ふふっ。わたしは小さく笑う。聞こえてくるのは波の音ばかり。その静けさが殊更強く、教えてくれる。この世界は、きっとどこまで行っても今のような景色が広がっていることだろう。わたしの願いは叶ったのだ。ふいに、幾人もの顔が通り過ぎる。楽しそうに笑っている女性。可笑しそうにしている男性。最後に、悲しそうにわたしを見つめている男の子。唇を一度、強く噛む。望んだのはわたし。見捨てたのはわたし。
 わたしは波打ち際までくると、その青の中に足を沈める。染み込んできた水が靴を通り、やがてわたしの足を濡らす。すみません。気が付けば口からは、そんな言葉が漏れ出していた。その言葉は、ふいに吹き抜けた風にさらわれて行く。その風を追うように、わたしは視線を前へと向けた
 視界に入るのは、どこまでも続く砂浜と海だけ。この景色に果てはあるのだろうか。あるのなら見てみたいと思った。わたしは歩き出す。先ほど、濡れたはずの靴はもうすっかり乾いていた。







「西園さん、これどうもありがとうございましたー」
 能美さんが、そういって文庫本を差し出してきた。わたしは開いていたノートから視線を上げて、それを受け取る。それは先日、能美さんに貸した小説だった。わたしは口元を緩めると、能美さんへと視線を向ける。その瞳には、多分期待のようなものがこもっていただろう。それに気づいた能美さんは、人懐っこい笑みを浮かべると胸の前で、その小さなこぶしを握った。
「とっても面白かったのです!」
「そうですか。お気に召したようでなによりです」
 そういってにこりと能美さんへと笑いかける。その時、視界の隅に写った机の角からにゅっと腕が生えてきた。わたしは、机の上に広げっぱなしのノートの上に手を置く。そうとは知らずに腕はノートの端を掴むとぐいっと引っ張った。もちろん、手が置かれているので動かない。すぐに「あれ? お?」という素っ頓狂な声が響く。数秒後、声の主はそーっと顔の半分を上げて机の上を見た。その視線がわたしの目を捉える。わたしは、何も言わずにその瞳を見つめ返す。その間も、その人はくいくいっとノートを引っ張っていた。
「……何をしているんですか、三枝さん?」
「……イヤー、別に何もしてないですヨ」
「そうですか。ならノートから手を離してください」
「いや、ほらあれですヨ。広げっぱなしだったから閉じて上げようかなって」
「それぐらい自分でします」
 そこまで話したところで三枝さんは、立ち上がってノートを離した。そして、今度はその上にあるわたしの腕を掴んできた。
「お願い! 今日、抜き打ちで英語のテストがあるのすっかり忘れてて、しかもノートとってないから予習も出来ない可哀想なはるちんに愛の手を!」
「……嫌です。普段から取ってないからそういうことになるんです。自業自得だと思って、今回は赤点をとって下さい」
「おにー、美魚ちんのあくまー!」
「あのー、三枝さん、私のお貸ししましょうか?」
「あ、ミニ子のはいらない」
「能美さん、甘やかしてはいけません。三枝さんのためになりませんよ。それが真の思いやりというものです」
 そうわたしは能美さんに向けていう。けど、どうにも能美さんの耳には入っていないみたいだった。能美さんは、ツカツカと三枝さんに近づくと両手を掲げる。そして、三枝さんのことをポカポカと叩き始めた。
「えい、えい!」
「うわわ! な、なに!?」
 三枝さんは驚いてわたしのことを見てくる。それにわたしは顔を背けて返す。これも自業自得だろう。と、ちょうどその視線の先に鈴さんと直枝さんが教室に入ってくる姿が見えた。わたしは、「鈴さん」と短く呼ぶ。二人は、その声に気づくとわたし達の所へとやってきた。二人は、三枝さんと能美さんのやり取りに首を傾げていた。
「どこか行ってらしたんですか? 先ほどから姿を見かけませんでしたけど」
「うん、鈴とね。職員室に」
「職員室?」
「えと……」直枝さんは、そう短く漏らすとはにかむ。「あの事故のことでね」
「ああ……ヒーローですものね。直枝さんと鈴さん」
「そんなんじゃないよ。ただ必死だっただけだよ」
「謙遜しなくてもいいですよ。直枝さんと鈴さんは、わたし達の命の恩人なんですから」
「うむ、西園女史の言うとおりだ。理樹くん、鈴くん。胸を張りたまえ。特に鈴くんは、もっと強調するように張りたまえ」
 その唐突に聴こえてきた声に、わたしは振り返る。いつの間にいたのか、ちょうど後方に笑みを浮かべた来ヶ谷さんがいた。その言葉を聴いて鈴さんは威嚇するように目を剥く。猫ならきっと毛が逆立っていることだろう。ふいにそんな鈴さんの肩に、そっと手が置かれた。手の主──神北さんは、陽だまりのような笑みを浮かべながら鈴さんのことを見つめていた。鈴さんは、照れたのか頬を赤く染めると、下を向いてしまった。皆が、そんな鈴さんを見て嬉しそうに笑う。それを見ながら、わたしは直枝さんに話しかけた。
「あと、三人ですね」
「え?」
「井ノ原さん、宮沢さん、恭介さん」
 そのわたしの言葉に直枝さんは合点がいったというように一度頷く。それを確認した後、わたしは窓の外へと視線を移す。
 そこにある澄んだ空を見ながらわたしは、あの可笑しくてバカバカしい日々が、また間近に迫っていることに小さく口元を綻ばせた。





 果てはまだ見えなかった。一体どれだけ歩いただろう。この世界で太陽は沈まなかった。視界に映るのは水平線で交差する青と地面を満たす砂浜のみ。だから、時間の経過なんてわからない。そもそも時間という概念があるのかさえあやふやだ。わたしは、果てを目指して歩き続けていた。けれど一向に果ては見えなかった。それでもわたしは歩き続けた。何故、それほどまでに果てに執着しているのだろう。多分、わたしは自分のいる場所がどんな所なのか知りたかったのだと思う。わたしは誰でもないわたしになりたかった。けれどそれはここに来ただけではかなっていないような気がする。だから、その答えが果てにあるのだと思った。
 わたしは波打ち際に向かい、しゃがみ込む。そして、そこにある青を掬った。青は、手の平の上で無色透明へと変質し、零れ落ちていく。零れ落ちた透明は海に戻り青と混ざり合っていく。染まっていく。わたしは、また無色透明の水を手の平で救う。その動作を何度も繰り返す。
 ふとその時、視界の隅で一瞬何かが光った。それは波が引く瞬間だけ、太陽の反射を受けて輝いていた。その眩しさに一度、思わず顔を背ける。わたしは、波打ち際に近づいていくと、それを拾い上げる。それは小さなガラス細工の瓶だった。瓶の中に、半分ぐらい砂が詰っていた。けれど、瓶の上部には、ワイン容器の栓のような蓋がしっかりと押し込まれていたその瓶は、太陽の光に照らすと中にある砂が輝いているように見えて綺麗だった。しばらく、その捩れた瓶に映る砂の輝きを見つめる。きっと普段、こんなものを見つけた所でなんとも思わないだろう。けれど波にさらされている姿は、人の持つノスタルジィを刺激する。それはまるでこの瓶を覗けば、その軌跡が見えるのではないかという幻想。わたしは、目の前に瓶を掲げて、その向こう側を見る。奇妙に歪んで、遠近が曖昧になった景色。この幻想的な景色を見て、人は夢想をするのだろう。わたしにはそう思えた。そんな感傷じみた考えがおかしくて、瓶を掲げたままクスリと笑う。
 その時、瓶を介して見える捩れた景色には、奇妙なものが映った。それはココに来て初めて目にする色。けど、それはわたしがとてもよく見慣れた色。「あ……っ」うめき声のような声が漏れる。心臓がせっつくように一度、大きく跳ねた。わたしは、瓶をポケットに無造作に入れると覚束ない足取りで、そちらへと向かっていた。

 その色まではまだ遠い。けれど、その色はまるで自分の存在を誇示するように鮮やかさを放ち、わたしの視界を固定する。
 それは青と同じ、自然の象徴。
 ふいににこりと屈託なく笑う見慣れた顔が浮かぶ。けど、その顔はそんな風に屈託なく笑うことは少ない。わたしは、そんな風には笑えない。
 鮮やか過ぎる色が迫ってくる。それは世界の息吹を感じさせる色。あの子の名前と同じ色。
 ──緑。
 やがて、わたしはその場所に辿りつく。そこには緑を囲むように小さなブラスティック製の柵が刺さっており、その中に芝生が広がっていた。その芝生の中央付近、そこにはわたしをここまで連れてきた緑色。ケヤキの木が風にさらされながらゆったりと無数の葉を揺らせていた。わたしは、柵を乗り越えて芝生の中に入り、そこにあるケヤキの木へとそっと触れた。その時、まるで波が岩に当たり弾ける様な音が聞こえてきた。それは断続的に聴こえてくる。その音を境にするように辺りの景色が変わり始めた。灰色をした大きな建物がケヤキの下を見下ろすように現れる。その建物から少し離れた所にコンクリィトの壁があたりを囲むように広がっていく。わたしは、その景色を呆然と見詰めた後、視線を下へと向ける。そこにもやはり灰色のコンクリィト。それはわたしの見慣れた風景。あの人たちと過ごした一番の舞台。
 その風景にふいに朱がさし始めた。それを見て弾かれたように頭上を見上げる。そこにあるのは茜色に染まりながら沈み行く太陽。もうどこを見回しても青はない。それがどうしようもないほど、告げていた。ここが果てであると。
 沈まない太陽は、沈み。孤独を求めたわたしは。わたしは──。

 この場所でボールが飛んできたこと。中性的な少年と話した記憶。人見知りする少女に聞かせたお話。
 グラウンドで、部室で、皆と話した他愛のない会話。
 それらが頭の中で映画の予告編のように忙しなく過ぎていく。
 ……ああ。
 わたしは、漸くそこで自分の間違いを認められた。






 車窓から沈んでいく茜色に染まった太陽を眺めていた。
「わふー、とっても面白かったのです!」
「しかし、どうせ海まで行ったのなら、皆の水着姿が見たかったな。もう少し時期が早ければ、ああ、諦めきれん!」
「ゆいちゃんは、楽しくなかったの?」
「いや、楽しかったぞ。それとゆいちゃんはやめてくれ」
「来ヶ谷、いい加減諦めろ」
 車内から、そんな賑やかな声が聞こえてくる。わたしはそちらへと視線を移す。そこにはオレンジ色に染まりながら笑っている皆の顔。ふいにコンコンと窓がノックされる。普通に考えて今車は走っているのだから、そんなことはありえないのだが、けどそれがありえるのがこのメンバーなのだ。わたしは、ドアについたボタンを押す。
「お、開いた開いた」開いた窓から井ノ原さんが逆さまに顔を出す。「なんかやけに楽しそうだがなんかあったのか?」
「別に何もないですよ?」
「うむ、何もないから黙って屋根に座っているがいい」
「なんだよ! こっちは謙吾と二人で暇なんだよ。風があるからオチオチ話もできないしよぉ」
「この車内は今や女の子の秘密の園だからな。君達のような男性はお断りだ」
「恭介と理樹はいいのかよ!」
 井ノ原さんは、運転席と助手席のほうを指差してブンブンと振り回す。直枝さんは、それに困ったように笑う。恭介さんは恭介さんで運転で忙しいのか無反応だった。いや、ただ単に無視しているだけかもしれない。その間も井ノ原さんは、如何に天井にいることが仲間外れにされているようで寂しいか切々と語り続けた。
「ええい、うるさい。美魚君!」
 来ヶ谷さんは、きっと井ノ原さんを睨み付けるとそう言って来た。その言葉の意図をすぐに察知するとわたしは、先ほど押したボタンを今度は、上へと上げる。井ノ原さんの「おい、ちょ、ちょっと待って」とか「いや、待ってください。お願いします」とか、とても情けない声が聞こえてきたが無視した。窓が完全に閉じると、ドンドンと井ノ原さんがガラスを叩く音が聞こえてきた。けれど誰も取り合わないことに気づいたのか、しばらくしてその音もやんだ。わたしは、それを確認するとまた沈み行く太陽を見ようと窓のほうを向いた。だが、ツンツンと肩を叩く気配を感じてわたしは動きを止めた。少々、残念な気持ちになりながらそちらを向くと何故か頬を膨らませた三枝さんの顔があった。そういえばいつも無駄に喧しい三枝さんが、さっきからまったく会話に参加してないことに気づいた。「三枝さん?」わたしは、短く口を開く。けれどそれを聞いた三枝さんは、ぷいっとそっぽを向いてしまった。その態度に首を傾げる。三枝さんは何も言ってこない。わたしは早々に諦めると、窓のほうへと視線を向けた。すると今度はさっきよりも強くグイグイと肩を押された。わたしは眉間に皺が寄るのを自覚する。
「なんですか? 三枝さん」
「美魚ちん、冷たすぎ! 普通、もっとなんか聞くでしょう? 私にはそんなに興味がないってことかー!?」
「聞いたじゃないですか?」
「もっとですヨ!」
「……めんどくさい人ですね」
「むきー、冷静にめんどくさいとか言うなー!」
 三枝さんはそういうとわたしの肩を掴んで左右に激しく揺すりだした。乗り物にはあまり強くないので、そういう行動はやめてほしい。
「はぉ……それで、どうしたんですか?」
「……メール」
「メール?」
「そうですヨ。美魚ちんの気に入りそうな場所見つけたからメールしたのに、無視されたんですヨ!」
 わたしは、その言葉を聴いてポケットに入れていた携帯電話を出す。そしてメールチェックしようとボタンを押した。けど、どのボタンを押しても液晶は黒いままだった。それに首を傾げる。「あれ?」という声が知らず漏れる。その声を聞きつけた他のメンバーが、手元を覗き込んできた。
「ふぇー、美魚ちゃん。もしかしてこれ壊れているんじゃないかな?」
「ありゃりゃ、携帯、壊れてたの? なんで今まで気づかなかったの美魚ちん?」
「……操作に慣れてないので、そんなに頻繁に取り出さないんです」嘆息しながらわたしは、携帯をポケットに仕舞う。
「西園さん、それでしたら今度、私が携帯ショップに付き合いますから、新しいの買いに行きましょう」
「はい。わたし一人ではどうしたらいいかわからないので、能美さんが付き合ってくれるなら助かります」
「はいです。いっつ・びっく・ぼーと、なのですよ!」
「そかそか。携帯が壊れてたんじゃ仕方ないですネ。むぅ、しかし残念ですね。美魚ちんの驚く顔がみたかったのに」
 三枝さんが腕組みをしながら口をへの字に曲げる。ふいに前方から「じゃぁ」という声が聞こえてきた。皆が、声の聞こえてきたほう──恭介さんのほうを見る。
「じゃぁ、来年も行くか?」
 最初、その言葉を聴いて誰も何も言わなかった。けれど、皆の高揚感がみたいなものが膨らんでいくのを、わたしは感じた。
「それ、いいな」鈴さんがにこりと笑いながら呟く。「バカ兄貴にしては、くちゃくちゃいいこと言った」
 その言葉を皮切りにしたかのように皆が口々に、来年に向けての予定を立て始める。
「わふー、今から楽しみですー」能美さんが両手を挙げながら、笑う。
「では来年こそ水着着用だな!」来ヶ谷さんが、腕組みをしながら何度も頷く。
「あはは、ゆいちゃんったら……でもそれもいいかもしれないね〜」神北さんが幸せそうに微笑む。
「そういうことなら今度は美魚ちんを連れまわしますヨ!」三枝さんが、ニヤニヤしながらわたしの腕に絡みついてくる。
「楽しみだな?」鈴さんが、口元を緩めてわたしに話しかける。
「もちろん、行くよね?」直枝さんが、後ろを向きながら尋ねてくる。
 わたしは考える素振りをするように車窓に映るオレンジ色を見る。子供の頃、このオレンジ色はお別れの合図だった。けれど、それと同時に明日の約束を決める合図でもある。そう思った。わたしは皆の顔を見回した後、口を開く。きっと今のわたしも皆と同じように笑っているのだろう。
「はい、とても楽しみです」



◇◆



 夢を見ていたような気がした。そこは暗くて鉄臭くて、わたしはそこで重たい瞼を開けて回りを見回そうと体を起こそうとした。けどそうすると右足に激痛が走る。それに耐えながらなんとか上半身だけ起こしたわたしの目に、映る二つの影。それはとても遠くて誰だかは判別としない。けれどその二つの影は走っていた。走って、わたしから遠ざかっていた。二つの影の間、そこにはしっかりと繋がれた手の平が見えた。
 わたしは2、3度頭を軽くふると、ゆっくりと瞼を上げた。ふいに緩やかな風がわたしの傍を通り過ぎる。わたしは、膝に広げていたノートが捲れてしまわないように慌てて手を置く。けれど、今度はそのせいで書かれた文字が滲んでしまわないか気になり、わたしはノートを覗き込んだ。そこにはいくつもの物語がつづられていた。リトルバスターズの毎日を描いたお話。わたしが書いた、ありえない未来の物語。そこには何百、何千というリトルバスターズの面々の物語が描かれていた。
 わたしは、誰でもないわたしになりたいと願った。そして、この世界を構築した。仲間の──そう思える人たちを見捨てて作り出した世界の果てにあったものは、結局、その人たちとの想い出で溢れた場所だった。もし、わたしが皆を見捨てなければノートに書いたような未来があっただろうか。直枝さんと鈴さんが恭介さんの思惑を超えるぐらい強くなり、そして皆を助け出す。そんな未来が。わからない。でも、創作でならそんな未来も存在する。そこでは皆が助かり笑いあっている。その輪の中にはわたしもいて、皆と同じように笑っているのだ。
 わたしは、辺りを見回す。そこには海辺の上に上書きされた学校。上を見上げれば視界の隅にオレンジ色に輝くケヤキの木の葉が見えた。気が付けば辺りは茜色に染まり始めていた。わたしは、沈むことを覚えた太陽を見詰める。このオレンジ色が悲しくて、皆、明日の約束をする。明日も会えるのが当然なのだと、そう思い込むことで魔法をかけるのだ。
「大切なものほど失った時に初めて気づく。……本当にそうでした」
 そう呟きながら、わたしはポケットの中に入っていたものを取り出す。それはくすんだ銀色の携帯電話。歴から直枝理樹と棗鈴の二人を呼び出す。なんて打ち込もう。散々、悩んだ挙句、お元気でとそれだけを打ち込んだ。送信ボタンを押して、わたしは携帯をポケットに仕舞う。届けばいいと思った。きっと、二人は助かった。先ほど見た夢がそう確信させてくれた。もし届いたら直枝さんと鈴さんはどんな反応をするだろうか。困惑するだろうか。それとも泣いてくれるだろうか。そんなことを考えながら、わたしはもう一度頭上へと視線を向ける。そして茜色の空の中、フワフワと浮かぶ雲へと手を伸ばす。雲を掴むように伸ばした手を握り締める。手を開いてみても、そこには何も載っていない。ああ、ここでもあんなに雲は遠い。わたしは、後ろにあるケヤキの木にもたれ掛かるとそっと目を瞑った。この中庭にボールが飛んできたことで、わたしの毎日は変わり始めた。その時のことを思い出してわたしは口元を緩めた。
「あ、いたいたー」
 ふいにそんな声が聞こえた気がして、瞼を開ける。あ。そんな短い悲鳴のような声が口から漏れた。遠くからこちらに向かってくる人たちがいた。その人たちは口々に何かを言い合っている。その声はひどく楽しそうだった。
「美魚、探したぞ」わたしの前まで来た鈴さんがそういいながらにこりと笑う。
「だから西園さんは、ここだって言ったでしょ?」
 直枝さんが、鈴さんに向かってそういった後、わたしに微笑みかけてくる。恭介さんが、井ノ原さんが、宮沢さんが、能美さんが、来ヶ谷さんが、三枝さんが、わたしに話しかける。どこ行ってたんだ。マネージャーがサボってどうする。これは罰ゲームだね。自分の体がワナワナと震えていることに気づく。そんなわたしの前に、そっと手が差し伸べられた。わたしは、その手をしばらく見つめた後、視線を上へとズラした。
「……美鳥」
「なに? どうしたの美魚? 変な顔して。ほら行こうよ!」
 そういって美鳥は、わたしの手を無理やり掴むと引っ張ってくる。わたしが仕方なく立ち上がると、皆はニカっと笑って歩き出した。
「皆、校門に車が止めてある。そこまでダッシュだ」
「するかボケぇ!」
「く……るま?」
 掠れたような声で、無邪気な笑顔を浮かべている恭介さんに話しかける。その言葉を聴いた恭介さんは、何をおかしなことを言ってるんだっというような顔して、わたしの顔を覗き込んできた。
「西園、どうした? 熱でもあるのか?」
「西園さん、忘れたの? 約束したじゃない。また海へ行こうって」
わたしは息を吐く。海に行く約束。たしかに皆と交わした。けどそれは……それは創作のわたしの書いた物語の中での話。訳がわからなくてわたしはその場にへたりこみそうになる。その時、そんなわたしの背中を誰かがぐいぐいと押してきた。そちらを見ると楽しそうに笑っている三枝さんの顔。
「まぁまぁ、細かいことは気にしないでさ。早く行こうヨ! 今度こそ美魚ちんに私推薦の場所、見せてあげますヨ」
「わふー、わたしも見たいのですー」
「あ、じゃぁ皆でいこ〜。ね、鈴ちゃん」
「うん、あたしも見てみたい」
「よーし、そんじゃ決まりー! ほらほら美鳥ちん、早く美魚ちんをひっぱってひっぱって!」
「はーいはい。まったくいつにもましてうるさいなぁ。葉留佳は」
「まぁ、うるさいのは葉留佳君のアイデンティティだからな」
「あれ? 姉御。なんかひどいこと言ってますか?」
「気のせいだ」
 皆はわたしは引っ張って歩き出す。その顔は凄く楽しそうで、満たされている。誰も今言ったことの矛盾に気づかない。あの約束は来年のはずだ。ならこの場所に恭介さんがいるはずはない。誰もそれに気づかない。きっとそれはわたしが望んだから。誰一人欠けてほしくなかったから。
やがて前方に正門が見えてきた。そこにはたしかに一台のオンボロのバンが止まっていた。バンの前まで来ると嬉々として、皆は乗り込んでいく。わたしは乗るのに一瞬、躊躇する。すると先ほどのように美鳥が手を差し伸べてきた。美鳥はわたしの顔を見ると「ん?」というように首を傾げる。わたしは、曖昧な笑みを浮かべるとバンの中へと乗り込んでいった。バンの中はギュウギュウ詰めで、皆体を密着させながら座っていた。けど、その窮屈さすら楽しいのか皆、ワイワイと騒いでいて楽しそうだった。わたしは座席の隅、少しだけ開いた隙間を見つけるとそこに腰を降ろす。その時、ふともものところに何か硬いものが当たる感触がした。
「よし! んじゃミッションスタートだ!」
 恭介さんは皆が座ったことを確認すると悪戯っ子のような笑みを浮かべて、声を上げた。車窓に景色が後ろ後ろへと流れていく様子が映る。そのスピードはぐんぐんと上がっていく。すぐに景色はとろけたバターのように混じり合った色彩へと変貌していく。それを見詰めながら、先ほどふとももにあたったものをポケットから取り出した。
「……あ」
 そんな声が漏れる。隣に座っている美鳥がその声を聞いて視線を向けてくる。
「なにそれ? 砂? 星の砂……とかじゃないね。どうしたの、それ」
「いえ……」
 わたしは曖昧に答えると、手に持ったガラス細工の小さな瓶を見詰める。瓶は茜色の光を反射して、オレンジ色にキラキラと輝いていた。わたしは、それをあの時のように翳した。その歪んで捩れた景色の中から皆のことを見る。茜色に染まった皆の笑っている顔が捩れ、遠くにいるのか近くにいるのかわからなくなる。その風景を綺麗だと思った。全てが茜色に染まった世界。歪んだ瓶の景色。そこに入れられたキラキラと光るオレンジ色の砂。それが綺麗じゃないなんて、思えない。
「ねぇ、美魚」
 隣から美鳥の声が聴こえてくる。
「このメンバーといるのって楽しいよね?」
「はい」
 わたしは、応えながら瓶の蓋を取る。それは思いのほか軽く取れた。
「美魚は幸せ? この人たちと友達で」
「……はい」
 口が震えて上手く喋れない。それでもわたしは呟く。だってそれだけは間違いがないのだから。
「幸せ、でした」
 わたしは、窓を開けると、瓶の中に入った砂を外へと流す。砂は、キラキラと輝きながら後ろへと流れていく。あの砂たちは、砂浜に辿り付けるだろうか。わからない。砂は砂浜とは逆に飛んでいっているのだから、可能性は低いだろう。でも、もしこの世界が丸いのなら、いつかあの砂たちは辿り付けるだろうか。
 辿りつければいいと思った。わたしはキラキラと輝きながら、空へと舞っていく砂たちを見詰め続けていた。視界が滲み、その輝きが見えなくなっても、それでもわたしは見つめ続けていた。


[No.936] 2009/02/20(Fri) 23:49:52
透明な涙 (No.930への返信 / 1階層) - ひみつ 20464byte

 ただ道路だけが地平の果てまでまっすぐに伸びる、一面の荒地に立ち尽くして風を感じた。砂混じりのざらついた風だ。道端に一輪、青い花が咲いていた。東の地平線が次第に明るみ、野面が彼方から濃淡をなして照り輝き、やがて金色の陽光が青く澄み透る大気に水の流れるように射し始める、その最中から岩とパイプラインと鉄塔の影が黒々と、長い列をなして立ち上がった。もう何年も前、車が故障して立往生した時にお父さんと一緒に見た、冬のファルアニアの朝焼けになる。
「ファルアニア?」
「クウェートよ」
 長い入院生活の中で、ある時思いもかけずたくさんできた友人たちに、海の向こうの思い出話をする。毎回のように何事か感心される。そのうちの一人は理樹くんという名前で、あたしの子供の頃の友達であるあのりきくんなのかはよく思い出せないけれど、彼や彼の仲間たちと一緒に過ごす日々はなかなかに騒がしくて楽しい。大きな病院の片隅でゆっくりと流れていく、とても穏やかな時間だ。


 スクレボを一巻から読み返しているところに制服姿の鈴さんがやってきて言った。
「またそれ読んでるのか? 飽きないのか? 内容忘れるのか? 馬鹿なのか?」
「うんがーっ!」
 顔を合わせるなり酷い言われようだったけれど、鈴さんは悪びれることもなくベッドの脇に座ると、床に積み上げられた漫画を見て「これ、馬鹿兄貴が好きだな」などと言った。今日ここに来てくれたのは、未だに立ち上がれないらしいお兄さんのところに来たついでなんだろうと思った。きつそうな見た目と口調に反して、お兄さんへのお見舞いを欠かさない優しい子なのだ。
「馬鹿。あ、違う、あや」
「どんな間違え方よ!」
 本当は優しい子なんだって思わないとやってられないのだ。
「そんなことはどうでもいいとして、これなんだ?」と首を傾げる鈴さんが手にしているのは、漫画の脇に放り出された何冊かの冊子だ。「高校の入学案内よ」とあたしは答えた。お父さんに取り寄せてもらったものである。鈴さんの頭上に浮かぶ疑問符の数が増えた。
「あやは高校生じゃないのか?」
「ほら、話したじゃない。あたし日本にいなかったから」
「ん? 向こうでは学校は?」
「戦車が大砲撃ったり飛行機が爆弾落としまくったりしてるから、学校どころじゃないわ」
「それは物凄い世界だな」
「でも意外と慣れるわよ。後は、各地を点々としていたから、学校はあっても行けなかったな」
「じゃあ勉強はどうしてたんだ」
「うーん、周りのひとに教えてもらったりはしたけど……」
 そこまで言った時、「あやちんみおちん、こんにちはー」と三枝さんが部屋に入ってきた。いつもどおり、松葉杖を突いているとは思えない速さで歩いている。
「あれ? 鈴ちゃんがいる。理樹君一緒じゃないの?」
「こまりちゃんたちの病院に行ってる」
「そっかー残念だなー」
「ちなみに西園さんはいないわよ」
「ん? そうなのか?」と言って鈴さんが隣との境にかけられたカーテンを引くと、本に埋もれた西園さんのベッドはもぬけの殻だ。「なんだってー!?」と三枝さんが松葉杖を放り出して逆側からカーテンを全開にした。足大丈夫か。
「あれだな」鈴さんが納得した表情で言った。「はるかが来そうな時間だから逃げたんだな」
「そのとおり」
「ちくしょー! 病院中這いずり回ってでも探してやるー!」
 三枝さんは松葉杖を拾って出て行った。何しに来たんだろうか。うるさいひとが去って病室がしんと静まる。鈴さんは入学案内に黙って目を落としていたけれど、少しするとこちらを見て訊いた。
「学校行くってことは、これからは日本で暮らすのか?」
「たぶんね。電車混んでるのと冬寒いのは嫌だけど」
「電車はあたしも嫌だ」と言って顔をしかめてから、鈴さんはいいことを思いついたという顔で冊子を閉じた。「うちの学校に入ればいいんじゃないか?」
 何を言い出すんだこのひと、と思ったものだ。


 中庭を行き交う制服姿の生徒たちが表紙だった。鈴さんや理樹くんが学校帰りに来る時、いつも着ている制服だ。頁を捲っていくと校舎や寮、授業風景、中庭、グラウンド――眩しい陽射しの中で撮られた、色鮮やかな写真が現れる。
 例の突拍子もない提案の翌日に鈴さんが早速持ってきてくれた、入学案内の冊子になる。受け取ってからというもの、とりとめもなく開いては、制服を着た自分の姿を思い描いたり、今病院で繰り広げているのと同じ賑やかな日々をこの学校で送っているのを想像したりして、鼓動の少し早くなるのを感じている。それはたとえるならば、新しい物語の始まる予感と期待のようなものだ。
 まあ入学するには頑張って勉強しなきゃいけないんだけど。勉強は苦手、と言うか今までまともにしたことがほとんどない。
 気分が塞いできたので入学案内を放り出した。代わりにスクレボを開いたのはいいけれど、確かに鈴さんの言うとおり、何度も読み返しすぎて新鮮味には欠けた。昨日西園さんが一方的に貸してくれた小説を試しに読んでみようと思い立って、戸棚から引っ張り出した。一頁目から読めない字が出てきて泣きそうだ。いっそ奇声でも上げてやろうかしら。
「あのー、西園さーん」と奇声は上げずに呼びかけながらそっとカーテンを開くと、本を読んでいた西園さんがこちらを向いた。
「なんでしょう」
「この本、もう少し優しいのにしてもらえないかと……」
「そんなに難しいですか?」
 意外な顔をされてしまう。難しくはないのだろうけど、あたしは漢字がとっても苦手なのだ。
 滑稽でしょ? 一応日本語が母語なのにずーっと外国にいたせいで全然漢字読めないし、書くのはもっと無理で頑張って書こうとすると新たな文字の誕生の瞬間に立ち会うことになるなんて馬鹿丸出しよね、笑えばいいじゃない、ほら笑いなさいよ。あーっはっはっは!
 と自虐をかましても西園さんはきっと華麗に流してしまうので、大人しく漢字が得意でないことを告げると、なるほど、そうでしたか、と頷いて別の本を探そうとしてくれた。その手が途中でとまったのは三枝さんが現れたからだ。部屋の入り口で松葉杖を両手に、「へいへいみおちーん!」とギターをかき鳴らすようにした。足は大丈夫じゃないに違いない。
「昨日も一昨日もその前の日もその更に前の日も逃げやがってー。今日こそ捕まえましたヨ」
「ちっ」
「むきー! なんだその、こいつわざわざ時間をずらして来やがったよ早めに逃げときゃよかった、みたいな顔はー!」
「わかっているなら出て行ってください」
 すると三枝さんは西園さんの隣の椅子に腰かけて松葉杖を壁に立てかけ、「ふふふふふ、居座ってやるのですヨ」と不適に笑う。それから背後にいるあたしを振り返り、「みおっちはやたら難しい本を押し付けてくるので適当にいなすといいですヨ」と言った。
「いえ、三枝さんにだけ嫌がらせで難しい本を貸しています」
「え? マジ?」
「マジです」
 それではどうぞ、と本を手渡す。受け取り、表紙を捲った一瞬後には「そもそも日本語じゃねー!」と放り出した三枝さんに、「日本語訳を面白く読んだので原著も買ってみたのですが、全然読めませんでした」と西園さんが説明した。
「ってあんたも読めないのかーっ!」
「読めたら驚きです」
「自分で言うなー!」
 言い合う二人を尻目に三枝さんの投げ出した本を拾い上げて開いてみると、久しく見ていなかったアルファベットの列が目に飛び込んできたものだ。I was never so frightned as I am now. They have left me sitting in the dark, with only the light from the window to write by. 懐かしい。日本語しか周囲に存在しないのは酷く不自然なことだと改めて思った。
 三枝さんがこちらをじっと見ていた。
「あやちん、それ読めるの?」
「読めるでしょう。海外での生活が長かったのですから」
「うんまあ、英語は問題ないわ」
 すると三枝さんは膝の上に身を乗り出してきて「ねえ、喋って喋ってー」と言った。
「いきなり言われても困るわよ」
 本当に困るのだった。むう、と三枝さんは考え込んだ。「じゃあ先にお姉ちゃんに電話してくるので、戻ってきたらお願いしますネ」と言って松葉杖に手を伸ばした、その手首を咄嗟の思いつきで掴み、低い声であたしは言った。
「They're tapping on the wire.」
「へ?」
「We face a rapidly changing situation. Now it is you who could be their target.」
 びっくりした顔で三枝さんが固まり、病室は静まり返った。静寂を破ったのは西園さんの笑い声だ。
「『学園革命スクレボ』にそんな場面がありましたね」
 ばれたか。


「前に鈴さんが来た時」と言った。西園さんが頁に落としていた視線を上げた。あたしは続けた。「あたしたちの学校に来ればいいじゃないか、って言われたの」
「はい」
「最初は何言ってるんだって思ったけど。でも、持ってきてもらった入学案内読んだり、こんなふうに毎日騒いでいられるって想像したりすると、それもなんだか悪くないなって」
「やめた方がいいです。うるさすぎてうんざりしますから」
「ははは、想像できるわ」
「三枝さんみたいなのが他にもたくさんいます」
「凄いわね、それ」
「でもたぶん、楽しいです」
 西園さんは視線を病室の入り口にやった。ついさっき電話をかけに行った三枝さんの背を、遅れて見送るようだった。一見仲の悪そうな言葉しか言い交わさない二人は、とても仲がいいんだろうと思った。向こうを向いたまま「この夏はきっと、本当に楽しいですよ」と繰り返した。穏やかな口調だ。
「それ、差し上げます」
 振り返ると西園さんはあたしの手元の洋書を指差して言った。
「え? いいの?」
「読めるひとの手元にあった方が本も嬉しいでしょう」
 そう言い残してカーテンを閉めた。お礼を言う暇もない素早さだ。置いていかれたようでちょっと寂しい。
 しばらくはその洋書を読んでいたけれど、ベッドの上でじっとしているのもなんだか退屈になってきて、ふらりと病室を出た。一階の売店にでも行こうと思って角を曲がったところで、聞き覚えのある声を耳にした。見ると公衆電話の前に、受話器を片手に話し込む三枝さんの姿がある。頻繁に電話をしないとすぐに三枝さんのことを心配し始める、心配性のお姉さんらしい。一度だけ、三枝さんにそっくりなその姿を遠くから見たことがある。三枝さんがふとこちらを向いた。視線が合った。笑いながら手を振ってきたので振り返した。そのまままた電話に没頭し出した。あたしも一人で歩き出した。
 夕陽が綺麗だった。
 本館につながる渡り廊下の真ん中だ。暮れ始めた空から西日が射し込んでいた。窓に近付いて硝子に触れた。冷たい。その場に立ち尽くした。
 硝子越しに夕焼け空を眺めていると、砂嵐に霞みながら砂漠の地平に落ちる、真っ赤な夕陽を思い出したものだ。あれは眼に痛いほどの鮮やかさだった。日本とは比較にならない過酷な環境も、同時に思い返された。水一杯を手に入れるために水源まで一日かけて歩き通さねばならぬ村々。地雷に足を奪われた人びと。死んだゲリラから弾薬を集める最中に撃ち殺された女の子。戦闘と熱病と飢餓とで家族をすべて失った男のひと。あたしは彼らを知っている。彼らのことを、あたしはいつも傍で見ていたからだ。
 修学旅行、と呟いた。学校のみんなと一緒に行く旅行だそうだ。その途中で大きな事故に遭い、病院に担ぎ込まれたのだと西園さんは話していた。もしもあたしが、今のあたしよりもずっと小さな子たちが親兄弟を亡くし、カラシニコフを手に戦場に狩り出され、薬物を打たれて眠りもせずに行軍し、やがて機関銃の掃射でゴミのように殺される、そんな国でじゃなくこの日本で普通に育ち、普通に学校に通っていたとしたら、修学旅行に行けたのだろうか。彼女たちのような楽しい生活を送ることができたのだろうか。
 そしてそれは、今からでも遅くはないんだろうか。


「あや」
 名前を、呼ばれた。声で鈴さんだとわかった。振り返ると理樹くんもいて、本館の側から二人並んで、渡り廊下に射す光の中へ歩いてくる。
 理樹くん。幼い日に、この日本で出会っていたかもしれないひと。あたしの、ひょっとしたら初恋の相手かもしれないひと。
「お揃いでどうしたのよ。この前来たばかりじゃなかった?」
「いや、恭介がね」と理樹くんは苦笑していた。鈴さんが嫌そうに言った。「あたしだけで見舞いに行ったら、理樹がいないと嫌だ、俺の理樹を出せ、とか言い出した。まあ馬鹿だから仕方ないな」
「理樹くん、妹だけじゃなくてお兄さんともそういう関係なわけ?」
「いやいやいや!」
 理樹くんは物凄い勢いで首を横に振る。冗談なのになんでそんな必死に否定するんだろう、と思ったけれど、頻繁にそういう本を読んでいる隣人の存在を思い出す。いつもそんな冗談を言われ続けてトラウマだったりするのか、理樹くん。鈴さんは相変わらず嫌そうな表情をしていたけれど、眩しげに眼を細めて窓の外に視線を向けると、「綺麗だな」と言って手すりに体重を預けた。
「前に、外国の夕陽が綺麗だったって話、してたよな?」
「したかしら?」
「あれ? 夕方じゃなくて朝だったかもしれん」
「ああ、たぶんクウェートに入った時の話ね」
「そう、それだ」
「ファルアニア、だっけ。車が故障しちゃったんだよね」
「ええ。ジャハラから移動してる最中に車壊れて、夜を明かす羽目になって、あの辺治安悪いからまずかったんだけど、それで、地平線までなーんにもない荒地に朝陽が昇るのを見たの」
 説明しているうちに懐かしさがこみ上げてきて、「綺麗だった」と一言呟いて、黙り込んだ。一年ほど離れているだけなのに、ずいぶん長いこと戻っていないように思われたものだ。退院したら一度中東に帰ろうか、と考え始めたところで、自分が妙な考え方をしているのに気が付いた。帰る。どこに帰ると言うのか。長い長い旅を終えて、最近ようやく日本に帰ってきたんじゃないのか。
「そういえばあやさん」
 名前を呼ばれて、はっとした。暮色に染まった理樹くんの顔を、その黒い瞳を正面から見た。
「鈴から聞いたんだけど」
「え? うん」
「高校の話。うちに来るかもしれないんだって?」
「話進みすぎ。ちょっと考えてるってだけよ」
「そーなのか?」
「だって、試験とか住む場所とか色々あるじゃない」
「全寮制だから住む場所は大丈夫だと思うけど、試験はどうだろうなあ」
「馬鹿でも合格したし大丈夫だろ。よし――」
 鈴さんが、まっすぐにあたしを見た。
「あや、うちの学校に来い」
 あまりにも直截なその言葉に、一瞬反応できなかった。ほうけたように立ち尽くすあたしから、鈴さんは視線を外さずにいる。理樹くんによく似た瞳だ。「鈴さんたちの学校」とようやくあたしが呟くと、ああ、と深く頷いた。
 それはきっと、差し伸べられた手だった。学校の話を持ちかけ、入学案内を持ってきてくれた時からずっと、鈴さんはあたしに手を差し伸べてくれていたんだと気付いた。ならば、と思う。ならば躊躇わずに握り締めて、放さなければいい。そうだ。そうすれば、学校とも友達とも無縁だった生活とお別れできるだろう。戦地を回ることも砲声に怯えて避難することもなく、長年夢見ていた新しい青春の物語の入り口に立てるだろう。
「But my story has already started.」
 けれどあたしは思わずそう呟いていた。なくしてはならないものをなくしてしまう、そんな気がしたのだ。英語が口から出たのは咄嗟のことだった。鈴さんは眼を丸くして腕を組み、少し考えてから言った。「すまんが何を言ってるのかまったくわからん」
「あー、いいのいいの。独り言よ」
「ん? だったらいいんだが」
「それよりそろそろ面会時間終わるわよ。いいの?」
「そうだった。あ、よければあやさんも一緒に行く?」
「鈴さんのお兄さんのところに?」
「うん」
「駄目だ、あやに馬鹿がうつる。いくら馬鹿でも入試受かるからって、それはまずい」
「いやいやいや」
「悪いけど、遠慮しておくわ」と言った。「今から下の売店に行かなきゃいけないし」
「そっか」
「ええ」
 その場で二人と別れて、エレベーターで一階に下りた。早くに閉まってしまうので、お菓子とか飲み物とか、色々買い込んでおこう。夜明けを見ようと思いついたのだ。あたしの記憶に強く焼きついたあの朝焼けを見ることは、ここでもできるんだろうか。


 非常階段で屋上まで上がる。星はほとんど見えないけど、月が青く輝いて綺麗な夜空だった。
 給水塔によじ登って座った。電線を巡らし、大小の道路に覆われ、明かりを落として眠りにつく薄暗い街並みが、眼下に遥かに見渡せた。夜明けまではまだ時間がある。のんびりと待つつもりで缶珈琲を口にした。お菓子の袋も開けた。準備は万端だ。東がどっちかわからないのは誤算だったけど、お菓子をつまみながら一時間ほども待つと、右手の空が次第に明るみ始めた。そちらを向いて座りなおして、息を、飲んだ。
 屋根と屋根の間から、光が溢れ出していた。暗い空が白に近い青に、下からゆっくりと染まっていた。思わず飲みさしの缶を置いて立ち上がった。服が風にはためくのを感じた。眩暈のしそうな高さだ。地平線は家並みに覆い隠されて見えなかった。朝陽の昇るにつれて空は希薄になりまさり、優しい光が幾筋も伸び上がって、夜の暗さを淡い色で払っていく。やがて屋根を越えてまっすぐに射し込んだ陽が、家という家、道という道、木立という木立に照り返り、映え渡り、街を眩しさでいっぱいにした。
 違う場所にいる、と思った。
 他に何と言ってみようもなかった。そう言うしかなかった。砂嵐も枯れ木も罅割れた大地もない。爆撃の痕跡も、地雷原を示す標識も、油田を連絡するパイプラインもない。あたしにとってここは、違う場所だった。ファルアニアで見たのと同じくらい綺麗な、けれどまったく別の朝陽の昇る場所だった。そんな当たり前の事実が、嘘のように胸にすとん下りてきて、涙が出そうになって、でも泣きたくなくて、だから、思いっきり息を吸い込んだ。
「滑稽よね! 滑稽でしょーっ!」
 ひと影のない街に向かって、明るむ空に向かって、全力で叫んだ。
「だったら笑えばいいじゃない! 笑いなさいよ! 笑えこの野郎! あーっはっはっは! あーっはっはっは! あーっはっはっはっは! あーっはっはっはっはっはっはっはっはげごぼぉうおえっ」
 笑いすぎて咳き込む。咳き込みながら心の中で、帰ろう、と呟いた。いつになるかはわからないけれど、海の向こうに必ず帰ろう。あたしの住んでいた世界に。そして一面の荒野を照らす冬の朝焼けを見よう。
 だって、そうでもしなきゃ滑稽でしょ? あんなつらくて寂しい場所にはもういなくていい、これからはこの日本で楽しく暖かな日常を送ればいいんだ、そんな言葉で、あたしの通り過ぎてきた場所、見てきた風景、耳にしてきた音楽や言葉、出会ってきた無数のひとたちを――その中で確かに過ごしてきた十何年かの日々を切り捨てることなんか、したくないに決まってる。たとえどんなに過酷でも、それはあたしのたった一つの、かけがえのない記憶だから。別の土地に移り住んで、名前だけが同じの別人になって、そんな過去なんて少しも存在しなかったような顔をして生きていく、それはきっとこの上なく幸せなことだけど、でもやっぱりそんなのには耐えられないって、今、はっきりとわかったから。
 だから願わくはあたしの今までの人生に、肯定を。
 学校に行けず、友達もできず、お父さんに連れられて戦地を渡り歩き、望みなんて一切かなえられなくて、口にすることすら忌避して、銃弾と爆撃と砲撃に曝されてただ命だけを脅かされ続けた、そんなあたしのものでさえないのかもしれない、けれどあたしが現にずっと生き続けてきたこの人生に、否定ではなく、肯定を。
 風が冷たくなってきた。最後にもう一発叫んでおこうかと考え始めた時、「誰がそこにいるの!」と背後で声がした。やばい、見つかった。叫びすぎたか。振り返ると屋上の入り口に顔見知りの看護師さんがいる。よし、今こそリハビリの成果を披露する時だ。缶とお菓子の袋を拾って給水塔の裏から下に降り、もう一つの出口へと全力で走った。自分で言うのもなんだけど、半年前まで支えなしに歩けなかったとは思えない逃げ足だ。
 鈴さんに謝ろうと、階段を二段飛ばしで駆け下りながら考えた。病室に到着すると、西園さんのベッドの前を通り過ぎて、何事もなかったかのように自分のベッドに潜り込む。日の出前に起きたせいで眠い。これから色々と大変だろうけど、ひとまずは何も考えずに、起床時間まで眠ろうと思って眼を閉じた。


 眼を開くと、視界に飛び込んでくるのは巨大な地平線に懸かる輝く朝焼けだ。
 砂漠のような荒地の真ん中だった。青く冷たい空気を縫って射す光は眩しくて直視できない。いい天気だ。
 デジカメを掲げて東の空に向けた。知り合いの教授に頼まれて、英仏と合同の地質調査に随伴する現地通訳などという厄介な仕事を引き受けたのは、三ヶ国語のできるひとが他にいなかったからでもあるけれど、それ以上に、仕事の合間にこうして日の出の写真を撮ろうと思ったからだった。でもやってみると難しい。ていうか何これ、フラッシュ焚いたら真っ黒になるんだけど。しばらく頑張るとなんとか見れる写真が撮れた。これでよしとしよう。
「何をしてるんですか」
 びっくりした。風の音に紛れて届いた。鈴さん理樹くん夫婦と国際電話で話して以来、実に半年ぶりに聞く日本語だ。調査団に日本人の研究者が一人参加しているのは当然知っていたけれど、他のひとの手前、英語で通していたのだ。振り向くとお父さんほどの歳の、品のよさそうな男のひとが立っていた。日の出の写真を撮ってるんです、と息を白く立ち昇らせながら告げた。「日本にいる友達とお父さんにメールで送ろうと思って」
「お父さん? ご家族は日本に?」
「ええ。お父さんだけですけど」
 男のひとはちょっと戸惑っているふうだ。無理もない。日本から遥々クウェートまでやって来て、アラビア語の通訳として現れたのがなぜか日本人なのだ。「一人娘を小さい頃から中東だのアフリカだの東欧だの連れ回して、日本での普通の生活をできなくさせたろくでもないお父さんです」とふざけて説明するとおじさんは苦笑した。うん、いいひとそうだ。
「日本は今どんな感じですか」カメラを仕舞って訊いてみた。「全然行ってないんでわからないんです」
「どうって言われても困るなあ」
「たとえば、スクレボの連載が再開しそうかとか」
 勿論冗談で言ったのだけれど、「ああ、十二月に十週限定で連載再開するそうだよ」と意外すぎる返事が返ってきて、なんであんたそんなこと知ってるんだ。研究者ってオタクが多いのか。と言うか連載再開マジなのか。
「え? 本当に?」
「本当に」
 その言葉をゆっくりと反芻する。そして、「おっしゃああああああああああ砂岩の調査とかもうどうでもいいわ! 鈴さん鈴さん、来月からジャンプ毎週送れ! 送らないとぶっ殺す! え? 何? ここ国際電話つながんない? ていうか現につながってない? ふふふ……そうね、よく聞いてみたらなんにも聞こえてないわ。この役立たずめ死に曝せええええええええっ」
 携帯電話をぶん投げた。吹きつのる突風に巻き上げられた砂礫が、その行方を完全に覆い隠した。
「来年になったら日本に帰ればいいんじゃないかい」と言われたのは、半壊した携帯電話を砂の中から探し当てて、手伝って頂いてありがとうございます、と頭を下げた後だった。「つまり、スクレボを読みに日本に行く?」と問い返すとおじさんは頷いた。なんだそれ。一応生まれ故郷である国を数年ぶりに訪れる理由としてはかなり馬鹿馬鹿しい。けれどそれもあたしらしいのかもしれないと思った。お父さんや鈴さんたちにも久々に会えるし、何週間か向こうに滞在してもいい気がしてくる。
「うん、考えておきます。仕事に差し障りがなければ」
 それから朝食を食べにテントに戻ると言うおじさんに、久々に日本語話しました、と告げた。嬉しそうに笑っていた。


 おじさんの後姿を見送るとまた一人になった。日本、と呟いた。
 もしあの時あの高校に入学して日本で暮していたら、と今でも稀に考える。夢見ていた日常があそこには確かにあった――日本を離れたのが正しい選択だったのかはだから、実のところよくわからないのだ。でも鈴さんや理樹くんが毎日を過ごしているのとは別の場所と別のやり方で、別のひとたちに接しながら、今のあたしは確かに生きている。通訳、西側国境付近での僻地教育、スクレボのアラビア語翻訳、やるべきことは山積みだ。
 空高くで風が鳴っていた。時計を見ると朝食の時間の終わりが近い。まずい。早く戻らないと食べ損ねる。食事担当のおばさんは時間に厳しいひとなのだ。けれどあたしは動かなかった。
 もう少しだけ、岩と鉄塔と廃墟とを明々と照らすこの冬の荒地の朝焼けを、一人で静かに見ていようと思った。


[No.937] 2009/02/20(Fri) 23:51:44
みんないっしょに (No.930への返信 / 1階層) - ひみつ@14804byte

 しゅらり。かりかり。ん、けほっ。咳払いひとつにも配慮を求める、圧し掛かるような沈黙の中、紙をめくる音と文字を書き付ける音とがその空隙を埋めていく。
 ひどく乾燥した室内は、普段ならば歳経た紙の放つ、かすかに埃じみた匂いで満たされているのだろうが、この時期は利用者が規則ぎりぎりで持ち込んだガムや飴の香料が際立った存在感をもっている。 
 そのうちの一人が、今まで止めていた呼吸を再開して喘ぐと、ばりばりと髪をかきむしりながら叫んだ。
「ぬぅおあああっ!だ、ダメだ、オレはちょっと腕立て伏せしてくるぜ……」
「ちょ、ダメだよ真人、まだ二問しか解いてないじゃない!」
 暗くよどんだ瞳で立ち上がる真人を理樹は慌てて引き止める。そこに横から冷えた言葉が飛んできた。
「理樹、馬鹿は放っておけ。そいつに高校受験などどだい無理な話だ」
「てめぇ、勉強も出来ない筋肉は、その立派な肉体がまぶしくて邪魔になるだけだから受験なんかさっさとあきらめて筋肉だけ鍛えていろとでも言いたげだなぁっ!」
「誰もそんなこと言ってないよっ、何その言いがかり!?」
「いや、全くその通りだ」
「謙吾も認めないでよっ!?」
「お前らうっさい!どこまで訳したかわかんなくなっただろーが!!」
 そこまで騒ぎに目もくれず、しかめ面でテキストを睨みつけていた鈴は、立ち上がると騒ぎの元凶に窮屈な受験勉強で蓄積したフラストレーションを叩きつけた。主にハイキックという形で。
「何でオレだけっ!?」
 首をあらぬ方向に捻じ曲げながらも倒れない真人を鈴は無言で蹴り続け、理樹が取り押さえた頃には周囲の視線が氷柱となって全身に突き刺さっていた。
「……お静かに願います」
 誰かがぽつりと呟いた一言に、理樹たちは逃げるようにそそくさと退出するしかなかった。
 
「はあぁ……また追い出されちゃったよ」
 電車で二駅も離れた図書館に来たのに、またしても騒ぎになってしまった、と理樹は肩を落とす。これでもう四件めだ、立てかけられた周辺地図を眺めてまたひとつため息をついた。この二酸化炭素で気温が1度くらいは上がっているかもしれない。
 そんな彼をはさんで両側からかけられる慰めの声は、優しく明るく、そして軽い。
「なんだ、暗いな理樹。まあげんきだせ」
「そうだぜ、そんなに気にすんなよ!」
「二人は気にしてよっ!」
「……まあ、仕方あるまい。この二人に大人しくしていろというほうが無理だったんだ」
 一人自販機で買ったコーヒーをたしなんでいた謙吾がさも当然という調子で言うと、何故か真人は得意気に鼻を鳴らした。
「へっ、オレの筋肉をあんなちいせぇ箱に閉じこめようってのが間違いなのさ」
「この馬鹿といっしょにするな」
「んだとぉ?オレの筋肉さんは天然物だから狭い箱の中で育てると病気になる、だから広い空の下でのびのびと育ててくださいとでも言いたげだなぁっ!……ありがとよ」
「そんなこと言っとらんわっ!」
「……付き合いきれんな」
 ちょうど飲み終えた缶をくず篭に捨てると、袴の裾をひるがえし、言い合いをはじめた二人に背を向けた。
「あ、待ってよ謙吾、帰っちゃうの?」
「今日はもう勉強にならんようだからな。素振りでもした方がマシだろう」
「ああ、うん、そっか、剣道の練習か……確かに、最近は勉強ばかりで練習できてないよね」
 肩越しの答えを、よく言えば物分りよく聞き分けて理樹は頷いた。しかし顔を見なくともにじみ出る心細さに謙吾は軽く息を吐いて足を止め、訂正した。
「一日でも休めば腕が鈍る。だから毎朝の稽古だけは欠かしていないぞ。……不本意ながら、あの馬鹿のトレーニングと一緒だ」
 その言葉で目に見えて明るくなった表情に、謙吾はこっそりとまたため息を吐いた。
「謙吾はすごいなあ……。もしかして剣道で推薦取れたんじゃない?」
 なのに理樹たちと同じく一般入試を希望している。理樹のその疑問に謙吾は「いや、そんなに甘くはないだろう」と頭を振った。
「生徒の自主性を重んじる自由な校風を掲げていて、特にスポーツに力を入れているというわけではないようだからな」
「へぇ、そうなんだ?」
 人事のように驚いてあっさり納得した理樹に、「それくらい調べておけ」とだけ答えた。
 そこへ、いつの間にかそばに戻ってきた真人と鈴が混ざってくる。
「なんか大変なんだなぁ。ま、オレは筋肉スイセンで一発合格だけどな!」
「そんなもんあるか、馬鹿」
「ねぇのかよっ!?」
「あるわけないよっ!」
「…じゃあ、じゃあオレは一体、どう・すりゃ・いいん・だぁーーっ!!」
「勉強してよっ!」
「無茶言うなよぉっ!?」
 うっすらと空を覆う雲の下、賑やかで平和な阿鼻叫喚を、謙吾は一人冷めた目で眺めていた。
「やれやれ…」

「はあぁ…」
 地図で見つけた次の図書館へと向かう道すがら、理樹はまた一つ地球温暖化を促進させた。
「お前ため息ばっかだな」
 隣を歩いていた鈴がうっとうしそうにしても、理樹は力なく笑うのが精一杯だった。
「だって、もう一月も終わりなのにちっともまともに勉強できてないじゃない。まぁ、今から勉強しても急に頭が良くなるわけじゃないけどさ」
 一緒にいるはずのもう二人は、行き先を決めるや否や競争だと言って走り去ってしまった。ずっと身体が動きたがっていた真人はともかく、帰ろうとしていた謙吾も。だから理樹の泣き言を聞かされる相手は鈴だけだ。
「鈴は不安にならない?」
「いや、全然」
「その自信はどこから来るのさ……」
 授業中はいつも気もそぞろな鈴の成績は、真人ほどでないにしろ決して芳しくはない。しかし、まるで気に病む様子もなく、むしろ誇らしげにその平らな胸を反らした。
「やってだめなら行かなきゃいい。べつにそんなの行かなくても全然へーきだ」
「鈴、それは現実逃避とか負け惜しみとかいうものだと思うんだ」
「そんなことないぞ。あれだ、しかれたレールの上をはしるだけの人生なんてまっぴらごめんだ」
 立ち止まり、仁王立ちになってどこかで聞いたような台詞を言い切った鈴の顔を、半眼になった理樹がじとっと見つめる。小鼻がひくひくと動いている。しかもかなり棒読み。
「それ、言ってみたかっただけでしょ」
 ひゅーっ、と風が吹いて、くしゃみが一つ、鈴の音が一つ。

 二人は結局、途中で道が分からなくなって戻ってきた。戻ってきた二人は全身汗だくで、遠くからでも分かるほど湯気を上げていた。
「不覚だ。目的を忘れてひたすら走ってしまった……」
「一体どこまで行ってたの?」
「ありゃあどこだろうな?なんか川沿いで橋の近くだったぜ」
 先ほど見た地図で言えば端のほうだ。往復で10キロ近く走ったことになる。
「こいつらアホだっ!」
「よく戻って来れたね…」
「この馬鹿が『こっちから理樹のにおいがする』などと言い出してな。半信半疑だったが」
「んだよ、合ってたんだからいいじゃねぇか」
「いや、せめて人間らしくしようよ」
 気力をごっそりと削がれ、理樹の突っ込みにも勢いがない。車道を大きなトラックが過ぎていく。
「……今日はもう帰ろうか」
「なんだ、図書館はやめか?」
 熱のない理樹の言葉に、汗臭い男二人から距離を置いていた鈴が尋ねる。声が弾むのを隠しもしない。
 自分の欲求というか人見知りへの正直さにほんの少し笑みを取り戻しながら、急な方針転換に戸惑う残り二人を交互に見る。
「寒くなってきたし、二人ともそのままじゃ風邪引いちゃうでしょ?」
「へっ、謙吾はともかく、オレの筋肉はこのくらいじゃ負けねぇよ」
「まあ、俺はこの程度で風邪を引くほどやわではないし、何とかは風邪を引かないというからな」
「マジかよ、ナントカってのはすげぇな。ナニ人だよ…」
「こいつ馬鹿だ!?」
 真人の勘違いを放置したまま、謙吾は理樹に尋ねる。
「帰ろう、なんてどうしたんだ急に」
「うん……今日はもうみんな勉強する気分じゃないみたいだし、つき合わせるのは悪いから」
 理樹の言葉に、原因の大半を作った真人が神妙な顔をした。
「そんなことはねぇんだけどよ。ただ、10分以上机に向かってると頭がこむらがえっちまうだけで」
「そうだぞ理樹。馬鹿の事をいちいち気にしていたらきりがない」
「うん、それはそうなんだけどね」
「ちょっ、見捨てないでくれよ理樹さまぁーーーっ!」
 少し意地悪く笑って謙吾に乗った理樹は、うろたえる真人を見て今度は本当に笑った。

 それを謙吾が提案したのは最寄駅の近くまで来た頃だった。昼下がり、馴染みの薄い駅前は人の少なさも相まってよそよそしい。
「なぁ理樹、まだ時間が早いから、少し寄り道していかないか?」
「いいけど、何か買い物?」
「いや、そうじゃない。…確か、隣の駅じゃなかったか?」
 その言葉で、すぐに思い当たったのは鈴だった。騙されて亀ゼリーを食べさせられたときのような顔になる。
「…きょーすけの学校か」
「そうだ。そして、俺たちが行く学校だ」

 がらがらに空いた電車の、扉のすぐ横の席に鈴、隣に理樹、そして二人の前に真人と謙吾が立った。
「やっぱり帰る」
「鈴、家は逆方向だよ」
「うう……」
 他の三人が行くのでついてきていたものの、鈴は数分ごとに繰り返した。
「あんまりくっつくなっ、でかいんじゃぼけー」
「いでっ、蹴るんじゃねーよっ!」
 一駅5分の乗車時間、真人はずっと脛を蹴られ続けていた。
 そして、男三人でできるだけ人目を遮りながら、何とか目的地が見えてきたところで、ついに鈴は一歩も進まなくなった。
「帰る」
「ここまで来て?」
「あたしはテレビを見なくてはいけないんだった。こうしてはいられない、先に帰るぞ」
 つけていない腕時計を見る振りをして、踵を返す鈴。しかしその足はそこから先を踏み出さない。
「いちおう聞いてみるけど何の番組?」
「う……噂の岐阜マガヅン」
 口にしたそれは確かにこの時間に放送されているものの、内容は行政や悪徳業者への不満云々。
「ええー」
 完全に足を止めてしまった鈴に理樹たちが頭を抱えたとき、その人は現れた。
「よう、来たな」
「ふにゃっ!?」
 黒をベースにした制服をホストのように着こなし、さっきまで誰もいなかったはずの門柱にもたれかかった少年は、切れ長の目を真っ直ぐに理樹たちへ向け、口許にいつもの笑みを浮かべていた。
「恭介!」
「なんだよ、そんなに俺に会いたかったのかい、顔に出まくってるぜ?」
「なわけあるかっ!」
「おっと」
 駆け寄りざまに蹴り上げられたつま先をひょいとかわし、恭介は久しぶりに会った妹に愛情を垂れ流す。
「おいおい、そんなに照れるなって。鈴は本当にお兄ちゃんが好きなんだなぁ」
「しねばーか」
「うっ……。ハハ、まったく、素直じゃないなぁ」
 胸を押さえてよろけても、あくまで爽やかな笑顔は崩さない。
「きしょい」
「そうか、ツンデレってやつだな?鈴は本当に恥ずかしがりやさんだなあ」
「まだ認めねぇぞ……」
「ある意味凄い精神力だね……」
「哀れな……」
 和やかな兄妹の再会を、理樹たちはしばしの間、離れて見守った。

 20分後、すっかり憔悴した恭介の案内で、理樹たちは学園の中庭を散策していた。丸裸になった並木道は
今は寂しさを感じさせるが、春には青々と葉を茂らせ、夏には日差しから守る涼しい木陰を作るのだという。
「どうだ、受験勉強は?」
 出るべくして出た恭介の質問に、理樹は言葉を濁した。
「あー、うん。まあまあ、かな?」
 だが、無難なその答えのそこを見透かしたように、恭介は唇の端を吊り上げる。
「その様子だとはかどってないみたいだな」
「こいつが悪い」
「オレかよっ!?」
「実際お前のせいで図書館を追い出されただろうが」
 すかさず鈴が真人に罪をなすりつけ、謙吾が証言する。
「う……オレに筋肉以外の勉強なんてムリだっつーの」
 言い訳を諦め、開き直った真人に恭介が助け舟を出す。
「真人は大丈夫さ。一芸入試って手があるじゃないか」
「何だそりゃ?」
「おいおい、自分が受ける学校の制度くらいちゃんと調べとけよ」
 恭介は頬をかいて、真人たちに、何か秀でた特技を持っている受験生は、面接を受けることで筆記試験の点数に大幅に加点されると説明した。
 はじめはぽかんと口を開けているだけだった真人は、徐々に生気をみなぎらせていった。
「良かったね真人、それなら真人の得意分野で勝負できるよっ!」
「ぃよおおおっっし!オレは取るぜぇ、筋肉スイセンをなぁっ!!」
 「推薦じゃないから」という理樹の突っ込みも聞こえないのか、その場に仰向けになると早速腹筋の強化に励みだした。
「ああ、こんなところで始めちゃって……」
「ま、いいんじゃないか?本人がやる気なんだから」

 真人の筋トレを眺めながら、恭介は理樹たちをぐるりと見回す。
「さて、真人は筋肉として……」
「俺は問題ない」
 半ばはね付けるように言い切った謙吾に、恭介はその済まし顔を見て頷いた。
「……そうだな、まあ謙吾は大丈夫だな。となれば、理樹と鈴だ。どうだ?」
「無理だな」
「ちょ、鈴っ?」
 悪びれることなく言い切った鈴に、傍らの理樹のほうが慌てる。その答えも予想していたのか、淀みのない動作で懐から分厚い紙の束を取り出した。
「そんなお前たちにはコレだ」
「そんな量よく入ったね……」
 理樹が受け取って紙をめくると、横から覗き込んでいた鈴が呟いた。
「テスト?」
 どの紙にも、数式や年表、そして文章がびっしりと詰め込まれていた。得意げな顔の恭介に、理樹がおそるおそる尋ねる。
「どうしたのこの問題…まさか恭介」
「やばいもんじゃないから安心しろ。ここ数年の過去問から俺が作った予想問題だ」
 言われて良く見れば、書かれた字には恭介の癖が表れている。横で見ていた謙吾が、恭介に疑問をぶつけた。
「もしや最近連絡が取れなかったのはそれを作っていたからか?」
「ああ、この2週間かかりっきりでな。けど先生気分で面白かったぜ?」
「全く、あきれた奴だ」
 夢中で問題をめくっていた理樹は、喜びに輝く目で恭介を仰ぐ。
「凄いや恭介!これなら大丈夫な気がしてきたよ、ありがとう!」
「よかったな理樹」
「何を言ってるんだ、お前もやるんだぞ?」
「なにぃ!?」
 人事のように構えた鈴に釘を刺すと、理樹の手をとってその目を真っ直ぐに見つめた。
「理樹、鈴を頼んだぞ」
「うん…ええっ、僕っ?」
 恭介に見つめられ、反射的に頷いた理樹は、大役を任されたことに遅れて気付いた。
「だ、駄目だよ、自分が合格できるかも分からないのに」
「だからやるんじゃないか。分からないもの同士、お互いが力を合わせて乗り越えて行く。…な、燃えるだろ?」
「でも…」
 なかなか頷けない理樹に、恭介は声の調子を一段落とし、真剣な顔で告げる。
「いいか理樹、これは受験なんてちゃちなものじゃない、ミッションだ」
「また始まったな」
「うるせぇ。…理樹、クリアの条件は二人一緒に合格することだ。難しいが、やりがいがあると思うぜ?」
「けどさ…」
 それでもなお頷かない理樹に、恭介は態度を軟化させ、肩を叩く。
「……ま、分からないことがあったら教えてやるよ。謙吾もときどき見てやってくれ」
「仕方ない、たまになら引き受けよう」
「…わかった。やってみるよ」
 鈴はまだ眉間にしわを寄せてだんまりを通しているが、嫌だ、とは言わなかった。

 日が傾き、校舎の色がゆっくりと変わって行く。理樹たちは恭介に見送られ、校門の外までやってきていた。長く伸びた影が足元で手を振る。
「今日はありがとう。僕もここに通えるよう、頑張るよ」
「ああ、こいよ。んで、また一緒にやろうぜ!」
「うんっ!」
「ああ」
「おうっ!」
 恭介の言葉に、男たちは晴れ晴れと応じる。そして、今だだんまりを通す最後の一人に理樹が促す。
「鈴も一緒にやろう…ね?」
「…ん」
 持ち主を真似るように鈴の音もひとつ、控えめに答えた。














 そして三月、合格発表当日。
「なんですのこの人ごみはっ?」
「うう…怖くて見にいけないぃ〜」
 同い年の少年少女とその保護者達でごった返す中庭に、理樹たちの姿もあった。
 謙吾は早々に結果を確かめたのか、今は鈴と理樹を人ごみからかばう盾となっている。
「どうだ理樹?」
「まだ……」
 小さな紙切れを手に、張り出された数字の羅列を一つ一つ追っていく。周りであがる歓声と悲鳴に心を乱されながら、列の半ばまで視線を進めたとき。
「えっと……あ、あーーーーっ!」
 何度も手元と見比べ、間違いがないことを確かめる。そして、晴れ晴れとした、やり遂げた顔で傍らの少年を見上げる。
「あった!あったよっ!ごうかく、ごうかくっ!」
 興奮のあまり言葉が断片となってしまう。謙吾もしっかりと頷いて、手元の紙片を見せる。
「おめでとう理樹。俺もだ、これからもよろしくな」
「うん、うんっ!!」
「あっ……あたしもあった」
 ぽつりと呟かれた言葉に視線を下ろすと、はにかんだ顔と視線が合った。
「鈴も。これからもよろしくね?」
「……ん」
 その鈴の音はかすかなものだったけれど、背後で始まった胴上げの掛け声にもかき消されることはなかった。

「……そういえば真人は?」
「あそこで固まっているぞ?」
 見れば、人ごみから頭一つ突き出た真人が、掲示板の前で彫像と化していた。
 駆け寄った理樹は、頭上から降って来る嘆きの声を聞いた。
「――ぇ」
「え?」
「オレの名前が、ねえぇーーーーーーーっ!!」

 後になって理樹たちは、補欠合格のところに真人の名前があったのを発見した。後日正式に合格の通知が来るまで、真人の筋肉はジャーキーのようにしおしおにしぼんでいた。

「やあ、みんな…こんなうんこ以下のオレの事なんか気にしねぇでくれよ。でも、もしオレのことをまだ仲間だって思ってくれるなら、そうだな、うんこマンとでも気軽に呼んでくれ。『おはよううんこマン』『うんこマン、ジュース買ってきて』『これ運んでくれよ、うんこマン』
 ……うあぁーーーーーーーーーーっ!そんなん耐えられるかーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 卑屈な真人の相手をするのは普段の倍以上疲れた。


[No.938] 2009/02/20(Fri) 23:57:41
[削除] (No.930への返信 / 1階層) -

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[No.939] 2009/02/21(Sat) 00:00:59
しめきるー (No.930への返信 / 1階層) - 主催

なのですよー

[No.940] 2009/02/21(Sat) 00:18:56
Future_Drug (No.930への返信 / 1階層) - ひみつ@4940バイト 1秒遅刻するのも1日遅刻するのも同じ。

 過去はすぎさりもう無い。



 未来はきたらずまだ無い。



 現在はうつつにあって……



 僕はここにいる。




---Future_Drug---



「なんだ理樹、今日も脱走か?」
「うん、ゴメン真人、今日も頼まれてくれるかな?」
「任せとけって。その代わり、机の上にあるものは勝手に使わせてもらうけどな」
「わかってるよ。でも、ところどころちゃんと答えを変えておいてよ。全部同じだとさすがに先生も疑うから」
「どうせ寮じゃ同じ部屋だってのは向こうもわかってんだから、いまさら気にすることもねぇだろ」
「それでも、だよ」
「ちっ、しゃーねーな。所々てきとーに片付けるか」
「そうしてよ。じゃ」
 それだけ短く真人に告げて僕は部屋を出た。行き先は学校。夜の学校。誰もいない、夜の学校。少し前には人が居た、夜の学校。

 しんと静まり返った廊下を一人で歩いている。時間は前に進んでいるのに、足も前に向かって歩いているのに、目に見える世界は変わっていくのに、何も変われていない。夜の学校を行くあても無く徘徊して、ありもしない未来を望んでいる。
 僕の望む未来は来ない。それは『未だ来ず』じゃなくて『決して来ず』。僕が望んでいるのは決して来ない未来。
 誰もいない廊下。ただ一言だけ、僕は呟いた。こうしているといつか彼女に逢える……そんな気がした。いつかのように僕を締め上げて、その後生徒証を忘れて、僕がそれを届けにいく。そしてまたあのデタラメなに地上が始まる。
 それはいつかの夢現。
 ここではないどこかで、ここでしかないいつか。
 沙耶と一緒にすごしたい。沙耶と一緒に未来を歩きたい。
 きっとこんな僕は周りから見れば滑稽で、哀れなんだと思う。でも、僕にとっては彼女と一緒にいられることこそが重要だった。手段も方法もどうでもよくて、結果彼女と一緒にいられればそれでいい。
 来年も、再来年も、それからもっと先も。『決して来たらず』な未来を僕は手に入れたいと願った。
 だから僕は今日も彼女の名前を呼ぶ。誰もいない廊下で、その誰かが訪れるその日まで、僕は彼女を呼び続けるのだろう。
「沙耶」
 ただ一言、彼女の名前を。

 目の前には扉。開かない扉。行くあてもなく彷徨って、結局いつも屋上にくる。そこは終着点。これ以上進みようが無い僕の現状を表すかのようで、それはまさしくその通りで、それでももうここ以外に行き場所が無いことを僕は知る。ここが僕のたどり着く終着点。そして再出発点。
 いつものように小毬さんから預かっているドライバを取り出して窓を開けようとしたら、そこはすでに外れていて入り口が出来ていた。誰もいないと思っていた屋上に先客がいた。
 沙耶……っ。
 いてもたってもいられなくなって僕は必死になって屋上に出ようと身を乗り出した。けど、何かに引っかかってうまく屋上にいけない。うまく体が動かない。焦れば焦るほど屋上には出られなくて、僕は余計に焦る。
 そんな僕の体を、誰かが引っ張った。
「沙耶っ!!」
 やっと逢えた。そう思って彼女の名前を呼んだけど、僕を引っ張り出したのは彼女じゃなかった。
「よう。今日は星がきれいだな」
「恭介か……」
「恭介か、とはご挨拶だな」
「どうしてこんなところに?」
「それはこっちが聴きたいところなんだけどな。まぁいいさ。今日は星がきれいだぞ」
 そういって空を見上げる恭介につられて、僕も上を見る。確かに星がきれいだった。そうだね、それだけ返事をしてフェンスに近づく。ここからは校舎がある程度見渡せる。
「『どうしてこんなところに?』っていうさっきの質問だけどな」
 視線は校舎を彷徨せたまま、うん、と短く返事をした僕に恭介は空を見上げたまま言葉を続ける。
「星がきれいだったから、だな」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
「そっか」
 恭介だってそんな理由で屋上に来たくなる。そんな日もあるんだろうと、勝手に結論付けてみたけど、もちろん恭介が本当に言いたいことはそんなことじゃないだろう。なんとなく、わかる。
「なぁ、理樹」
「うん?」
「もう少し、肩の力を抜いてみないか?」
「……深夜徘徊を止めろって言わないんだね」
「俺は夜回り先生じゃないからな。それに、止めろと言ったところでどうにかなるものでもないんだろう?」
「うん」
「なら止めないさ。ただ……あんまりみんなを心配させるなよ、リーダー。リトルバスターズはお前の守ったリトルバスターズなんだからな。守り抜いてくれよ」
「そうだね。あんまり無理もしちゃよくないね。気をつけるよ」
「ああ、そうしてくれ」そういって大きなあくびをする恭介。「さてと、俺は眠いから先に寮に戻るな。あ、そうだ、理樹」
「なに? っととと。いきなり缶なんて投げないでよ、危ないなぁ」
「ははは、ナイスキャッチ。それでも飲んでゆっくりしてろよ。後、なにか困ったことがあったらいつでも言ってくれ。みんな、力になるぜ」
「うん、ありがとう」
 それだけ言って恭介は帰っていった。とりあえず、貰った缶のプルタブを引っ張って中身を呑んでみる。
「ぶっ……まずっ」
 不意に口の中を覆ったなんとも言えない不味さに噴出してしまった。なにこれ?
「とんかつジュース?」
 これって前に葉留佳さんが買って僕に押し付けていったやつだ。まさか今頃になって自分が飲む羽目になるとは。流石恭介、侮れない。
「はははっ」
 そのあまりの下らなさに思わず笑ってしまった。バカだなぁ。
「ありがとう」
 余計なお世話に一言だけお礼を言って、中身の入った飲みかけのとんかつジュースを思いっきり屋上から投げ捨てた。風紀委員が見てたら追い掛け回されることは間違いないだろうけど、そんなことは知らない。こんなものを自販機に設置しておく方が悪い。
 それから僕も屋上を出て、もう一回校舎の中を上の階から彷徨ってから寮に戻って眠りについた。
 明日も明後日もこれからも、僕は彼女を求めて現在を彷徨い続ける。


 決して来ない未来を掴み取るために。未だ来ない未来を終わらせるために。


[No.941] 2009/02/21(Sat) 03:04:05
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