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記憶喪失になりました。 余りにも突然すぎて私自身も理解が追いついていないのですが、どうやら様々な過去の記憶を失ってしまったようです。名前は、覚えています。私の名前は井ノ原真人。間違いありません。その響きは確かに私の名前なのです。 ですが、実感がありません。自分の名前に確信はあるのですが、困った事にそう呼ばれたところで、もちろん自分で呼びかけてみたところで、全く心は応答してくれないのです。雲の中に居るようなふわふわとした感覚でしょうか。しかし決して安らかではなく地に足の着かない不安がありました。 怯えるように鏡に身を映してみます。屈強な身体つきの少年、それがどうやら私のようでした。失われていない記憶の何処かにそれを裏付ける根拠を見出したのか、不思議と親しみを感じました。確かめるように何度も触れてみましたが、違和感は全くありませんでした。これが私の身体なのです。 それにしても何という筋肉でしょう。もしかしたら、私はボディビルダーだったのかもしれません。室内には怪しげな錠剤やドリンクがあり、自然に伸びる手が、それらが私の日常と共にあった事を示しています。 「しかし、私はどうして記憶を失ってしまったのでしょうか?」 「なるほど、これはキモいな」 「やっぱりキモいよね」 「キモいにも程がある」 恭介さん、理樹さん、謙吾さんが口を揃えて言いました。 どうやら私は皆さんを不快にさせてしまっているようです。恥ずかしさの余り身体をぎゅうぎゅうと小さくしようとしました。しかし筋肉が邪魔で、どうしても私の身体は大きなままです。 「その身体で縮こまるな。見苦しい」 「鈴が逃げ出すのも頷ける。あれはしばらくトラウマになるぞ」 「夢に出そうだよね。というか、悪夢そのものかな?」 そうです。恭介さん達の他にも鈴さんという可愛らしい少女が居たのです。ですが、私がご挨拶をするとどうしてだか猫が威嚇するような声を上げて走り去ってしまったのでした。思い出すだけで、悲しさに涙を流してしまいそうになります。 彼らはどうやら私のお友達のようです。それも、とても親しい。 ですから尚の事、私は申し訳ない思いでした。私には彼らとの記憶がありません。何時、どのようにして出会ったのかも、どんな事を経験してきたのかもまるで思い出せません。 私が井ノ原真人である事は確かなのです。ですが私は彼らの言う真人ではありません。 まるで彼らと真人との間に割り込んでしまったように、繋がりを断ってしまったかのように思えるのでした。 「申し訳ありません、皆さん。私はどうすれば良いのでしょうか?」 「そんなの決まってる」 恭介さんが力強く答えてくれました。 「まずはこの前貸した千円を返してくれ」 「ちょっと、恭介!」 「お金を借りていたんですか! 済みません、直ぐにお返しします」 慌てて財布を取り出してみましたが、そこには百円玉が一枚と一円玉が三枚入っているだけでした。後は逆さにしても埃が落ちるだけで、どうやら私が酷く貧乏な人間だった事が分かります。 「済みません……手持ちがありません」 「真人、嘘だから。恭介酷いよ」 「ツマラン奴だな、理樹よ。ただのお約束じゃないか」 「こいつは本当に記憶を失ってるいるのか? 自分の名前を覚えているのはともかく、財布の場所を覚えていたようだが」 「日常的に繰り返されてきた行動の記憶は残っているんだろうさ。それに記憶喪失ってのは往々にして都合よく都合の悪い事だけを忘れるように出来てるもんだ」 私には良く分かりませんが、恭介さんの言うとおり私はとても重大な事を忘れてしまっているのかもしれません。しかしどれだけ思い出そうとしても、私にはその片鱗さえ見つける事が出来なかったのです。 「気にするな。八十キロのベンチプレスを人差し指一本で、しかも立てた状態で持ち上げようとして頭に落としたんだ。そりゃ記憶喪失にもなるだろう」 「そんな事があったんですか!? だ、大丈夫なのでしょうか? 病院に行かなくて良いんでしょうか?」 「大丈夫だ。真人だからな」 「そ、そうです……か?」 とても危険な事のように思えるのですが、私なら大丈夫だというのはどういう意味なのでしょう。気になりましたが、恭介さんはもちろん誰も答えてはくれませんでした。代わりに純粋に抱いた疑問を投げかけてみます。 「ですが、どうして私はそんな馬鹿な事をしていたんでしょう?」 「…………」 どなたも沈痛な面持ちで、これにも答えてはくれません。 きっと已むに已まれぬ事情があったに違いありません。例えばそう、誰か大切な人を人質に取られ犯人から要求されたとか、それとも実はベンチプレスが爆弾の起爆スイッチになっていて落とすわけにはいかなかったとか。 まさかそんな訳もありませんが、それくらいの事情でもなければ、つまり自発的にはそのような愚かな行為するわけがないでしょう。 「そ、それで。恭介、何か案はないの?」 「案? なんだそれは」 「真人の記憶を直す方法だよ。このままじゃ幾ら真人でも可愛そうだよ」 理樹さん……一番小柄でまるで少女のような顔をしたこの人は、真剣に私を心配してくれているようでした。彼と、彼らと一緒ならきっと大丈夫だと思えてきます。 ですがそんな喜びはつかの間、謙吾さんは冷たい声で拒絶しました。 「すまん、理樹。俺は力になれん」 「どうして!?」 「俺にはこれがさほど悪い事だとは思えん。お前の邪魔はしないが、協力も出来ない」 「そんなっ、何を言ってるのか分からないよ! 真人が変になっちゃったんだよ? 謙吾はこのままでも良いの?」 「思い出さない方が真人にとって幸せなのかもしれんという事だ」 「そんなっ、それっておかしいよ!」 「かもしれん。だが、俺には無理だ」 頑なな表情ではありましたが、私にはそれがとても痛々しく思えました。 冷たく突き放すような言葉でしたが、きっとそれは私を思っての事なのでしょう。 急に不安が大きくなりました。私は記憶を取り戻す事を望んでいましたが、果たしてそれが本当に良い事なのか、確かに分からなかったのです。私がどんな人間だったのか、どんな風に暮らしていたのか。それらを保証してくれるものなどありません。記憶が失われた今、戻る事が最善であるとどうして言い切れるのでしょう。 それでも理樹さんは、そんな私の代わりに怒ってくれています。 「謙吾っ! もうっ良いよ! 恭介ならなんとか出来るよね?」 「そうだな……しかし理樹、そんなに急ぐ必要もないんじゃないか? 確かに限りなくキモいが、これはこれでも面白いじゃないか」 「お、面白いって……」 「このキモさはなかなか斬新だぞ。アルパカみたいにキモかわいいキャラで売り出すチャンスかもしれん」 「そんなっ! どうしてだよ、謙吾も恭介も! 二人とも酷いよ!」 理樹さんは悲しそうにお友達を責めています。 ですが私には、そんな彼を止める事が出来ませんでした。 理樹さんの怒りを真正面に受けながらも耐えているお二人の姿を見てしまったからでしょう。結局物別れに終わり、理樹さんだけが残りました。理樹さんは私の記憶を取り戻すため試行錯誤してくれましたが、全ては無為に終わりました。 その時、私は気付いてしまったのです。この可愛らしい人は、とても弱い存在なのだと。それでも必死に考えてくれています。私のため、思ってくれています。それが嬉しく、そして残念でならなかったのです。 何故そのように思うのか、私はずっと考えていました。すっかり夜の帳が下りて、二段ベッドの上に横たわるに至っても、脳は考える事を止めてくれません。蛍光灯は消されカーテンも閉められた部屋は天井さえ見えないほど真っ暗で、それが更に私を孤独にしていたのかもしれません。 先ほどから虫が気になって仕方がないのです。振り払う事の出来ないそれらのざわめきが耳の内側に響いています。きっとそれは脳みその中に巣食っているのでしょう。しかし小さな節足にしては、本当に五月蝿いのです。 遠くから、あるいは近くから、理樹さんの寝息が聞こえていました。 それがまるで泣き声のようで、心がざわざわとしました。聞くたびに落ち着かなくなり、身体が自然に動き出したのです。堪えるように寝返りを何度繰り返したでしょうか。しかしそれはベッドを軋ませるだけで、何の役にもたってくれません。 私は考えました。 記憶を失った私は、井ノ原真人です。 ですが記憶を失う前の真人は、居なくなってしまったのでしょうか? きっと違います。今はただ何処か奥深くに押しやられているだけで、そんな彼がドアを突き破ろうと暴れているのです。虫の音はきっとそんな私と私の軋みだったのでしょう。そのように私は思いました。 私は部屋を飛び出しました。暴れる心を身体に乗せると、全ての歯車がぴったり合わさったように自然と足が動きます。力が溢れてくるようで、このまま朝までだって走り、飛び跳ね、転がり続ける事が出来るように感じられました。 屋外へと伸身宙返りで躍り出ると、空には月がありませんでした。そして地上に猫が居ました。彼か彼女かは荒れ狂う私に驚く事もなく、にゃあと鳴きました。私はそれに「がおー」と答えます。 「にゃにゃ〜」 「ぐほー」 「にゃにゃ、にゃん?」 「くっくどぅー」 「にゃ!」 ついて来い、と言われたように思いました。それを証明するように猫はとことこと軽い足取りで進んでいきます。猫の後を追って行くと、やがて人影が見えました。世界は暗く僅かな陰影だけが頼りでしたが、私にはそれが誰なのか分かったのです。 「恭介、さん」 「まったく、難儀だな」 「え? なんですって?」 「いや、こっちの話だ。それで、お前はどう思ってるんだ?」 何を問われているのか、私には分かりました。 「お前には必要ないのかもしれないが、一応先に言っておく。確かに今のお前は俺達の知ってる真人じゃない。だが、それは問題じゃない。たかがそれくらいで俺達はお前を見捨てたりしない。理樹や鈴も分かってくれる。新しい、限られているかもしれないが特別な未来がある。井ノ原真人って名前に縛られてしまうのなら、別の名前で呼んだって良い。女性陣がきっと素敵な名前をプレゼントしてくれるぞ。きっとそれはとてつもなく愉快なものだ。何も、無理をする必要はない」 「それで、良いんでしょうか?」 「良いのさ。だって俺達はリトルバスターズだからな」 その響きが、とても遠く感じられました。 私にはそれが非常に大切なものであると分かったのです。そして同時に、私にはまったく覚えがない事も。それはきっと、濁流の中溺れる私に指し伸ばされた優しい沢山の手だったのでしょう。その手を掴めば私は救われるのです。それが許されているのです。 しかし私は、当然のように首を振ったのでした。 私の決断はとっくの昔に、恐らくは記憶を失う以前から、下されていたのです。 「理樹さんが悲しんでいました」 「…………」 「恭介さんの言うとおり、思い出す事が唯一の答えなのではないのかもしれません。ですが私には、それがどうしても許せないんです」 「そうか。お前は本当に変わらないな」 「記憶を失う前の私と変わっていませんか?」 「変わっている。だが違うのさ。変わらないのは根っこの部分だ。お前は何があったって、きっと何度だって、何百回だって同じ事を繰り返すんだろう。偶然という迷路だってお前は真っ直ぐ進んでしまうんだ。壁をぶち破りながらな」 「なんだか馬鹿みたいです」 「馬鹿なんだよ、お前は。けどその真っ直ぐさに、理樹だけじゃない、俺や謙吾だって救われてるんだろう」 恭介さんは表情を崩して笑ってくれました。 それがきっと私の最後の不安を取り除いてくれたに違いありません。 「さて、そうなると……ちょっと痛いが我慢できるよな?」 「痛いんですか?」 「記憶喪失には昔からショック療法と相場が決まっているんだ」 「そういうものなんですか〜」 「ああ、お約束って奴だ。この世界は、そういうもので出来ている」 なるほど、それなら我慢します。 私は眼を瞑り、そしてその時を待ちました。 「真人、最後までやり遂げよう。たとえ……何があろうとも」 どうか、本当の私。 いいえ、もう一人の私。 貴方が優しい彼らの助けとなってくれますように。 悲しみから救ってくれますように。 なんて……きっと言われるまでもねぇって、貴方(わたし)は答えるんでしょうね。 恭介さんが言うとおり、私達は何度繰り返したって、同じ場所に辿り着くんでしょう。 今はただ、それが、とても、嬉しい。 ガタゴンとバスが揺れた。 何が起こったのか分からねぇ。 だが傾き始めた景色が、ヤバイ状態だって教えていた。 ポテトチップスの最後の一枚を謙吾と奪い合っている最中だった。 だからマジでどうしたら良いのか分からねぇ。 そんな時だった。 頭の中で誰かが叫びやがった。 理樹を守ってやれとか、そういう内容だったと思うが、そんなのはどうでも良い。 言われるまでもねぇ。 驚いた顔のまま、無防備に硬直している姿が、それだけが見えた。 オレはただ、そんな理樹を抱え込んだ。 それは何よりも自然で、オレにとって唯一の選択だった。 「理樹、守ってやるぜ」 そして、 [No.103] 2009/05/15(Fri) 21:46:26 |
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