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「すべてを覚えていることができたらいいなと、思ったことは……ありますか?」 はらり。 彼女――三人称の『彼女』ではなく名詞としての『彼女』だ――の言葉がページをめくる音にまぎれてしまい、僕はふぇ? という変な声で聞き返した。 同じ言葉を、今度は一単語ずつゆっくりとかみ締めるかのように言われた。 本に落としていた視線を水平にする。そこにはぼんやりと窓のほうをながめる彼女の横顔がたたずんでいた。 その遠くを見るような、懐かしそうな、でも悲しそうな瞳に、僕の胸が高鳴った。 動揺を隠すために目を天井に向け、わざとらしく腕を組んでさきほどの質問の意図を考えてみる。 彼女がこういう唐突な質問をしたときは、何気ない質問に見せかけた『試験』である。間違えれば、氷点下の目でじっとりとみつめられることうけあいである。それは避けなければ。 考える。考える。考えろ――。 「テストのとき便利だよね、うわぁごめんなさい僕が悪かったです冗談です」 「まじめに答えて……ください」 今本気でこの部屋の気温が下がったよ。真剣に考えよう。 すべてを覚えていることができる。つまり、ぜったいに忘れないということ。それはとても。 「やっぱり便利だよね」 「便利、ですか?」 「うん。いや、テストの話だけじゃなくって。たとえば、約束とか建物の場所とか買い物のリストとか。覚えておかなきゃいけないものって多いでしょ? だから、そういう忘れたくないことを覚えていられるのは、いいことだと思うよ」 「なるほど……直枝さんはそういう考え、ですか」 「西園さんは違うの?」 「はい」 目の前の人と違う考えを持つ。そのことがなぜか、少しだけさみしかった。 彼女は手元のティーカップを口元に運んで、くちびるとのどをうるおした。こくん、と動くのどになんとなく見入ってしまう。 「すべてを覚えているということは、すべてを忘れることができないということ……です。他人の罵声、悲しい出来事、過去に犯した過ち。人は忘れることができるから生きていける。なにもかも覚えていたら、きっと心が押しつぶされてしまう。……それでも直枝さんは、便利だと思いますか?」 「そう言われるとちょっと考え物だね」 「……直枝さんには自主性がないのですか?」 そう言って長い息を吐く。甘いミルクティーのにおいがした。 「あれじゃない? メリットとデメリットとか、物事には常に二面性があるとかそんな感じの」 「それは……直枝さんにも二面性があると。人好きのする笑顔の裏には欲望が渦巻いてるぜうぇっへっへっとそういうことですかそうですか」 「いやいやいや。誰もそんなこと言ってないから。とりあえずお願いだからイスごと引くのは止めて」 必死で頼み込むと、壁際まで下がった体をどうにかテーブルまで戻してくれた。 それでも若干距離があるけれど。 ため息を一つ。読んでいた本にしおりを挟み、テーブルの端に置いた。今から続きを読む気にはなれなかった。 代わりに自分の紅茶を一口飲む。紅茶の豊かな香りと少しの苦味、砂糖のほのかな甘さが口内を満たした。 「で、話を戻すけど。確かに、覚えていたくないような悲しい出来事もあるかもしれない。でもそれ以上に、忘れたくない楽しい思い出だってあると思うんだ」 悲しさで押しつぶされようとしていても、楽しさが救ってくれる。 かつての僕がそうだったように。 「だからきっと大丈夫。全てを覚えていても、人は生きていけるはずだよ」 「そう、ですか……では」 「うん?」 「直枝さんにとって、一番楽しいことは……一番楽しかった思い出は、なんですか?」 一番楽しかった思い出……。 悲しさで押しつぶされそうだったとき、失意の底から引っ張りあげてくれた、暖かい手。 一気に視界が開ける感覚。そこから始まった輝かしい日々。 僕の一番は、ここにある。 「今が一番楽しい、かな」 僕の言葉が意外だったのか、軽く目を見開く彼女。 「両親が死んで、とても悲しくて。まるで世界が僕だけをおいて通り過ぎてしまったような気がしてた。それをここまで引っぱって、救ってくれたのが西園さんだから。その西園さんとこうして同じ部屋にいて、同じ時間を共有している。これ以上の楽しさは……幸せは、ないよ」 さすがに言い過ぎたかもしれない。歯の浮くようなセリフに、首筋がむずがゆくなる。 でも否定の言葉はあげない。どんなに歯が浮こうとも、これが僕の本心だから。 「理樹……直枝さんは以外に口がうまいんですね」 「そんなことはないと思うけど。ってちょっと待って、今名前で呼ぼうとしなかった?」 「……してません」 彼女になってからも、西園さんは僕を「直枝さん」と呼ぶ。それにつられるように僕も「西園さん」と呼んでしまう。 小さいこだわりだとは思うけれど、やはり恋人どうしは名前で呼びあうものだと思う。 「したよね」 「してません」 「呼んだよね」 「呼んでません」 「しました?」 「しましたません」 噛んだりしたけど、中々に認めようとしない。強情だ。 「残念だな。西園さんには……彼女には名前で呼んでほしいのに」 「そういう、直枝さんこそ。私を苗字で呼んでいるじゃないですか。おあいこです」 「じゃあ、僕が名前で呼んだら、西園さんも僕を名前で呼んでくれる? これで『おあいこ』」 「…………」 「ダメかな? 恋人になった証というか、もっとお互いに近づくことができる気がするんだ。僕はもっと、西園さんを知りたい。西園さんに、もっと僕を知ってもらいたい」 「……ひきょうです」 彼女は僕から視線をはずして、窓のほうを見やった。僕を見たくないのだろうか。それとも何かが見えているのだろうか。 同じほうを見る。残念ながら、薄暗い光を放つカーテンしか目に入らなかった。 「……そんな風に、か、か、彼氏に言われたら、呼ぶしかないじゃないですか」 横目で見た彼女は、頬を赤く染め上げていた。それを見て、僕の体温も上昇する。 彼女は口を開き、息を吸って、 「…………………………………………ふぅ。」 そのまま吐き出した。 「……、西園さん?」 「…………」 「呼んでくれないの?」 「女に二言は、ありません」 眉根を寄せて、口を開けては閉め、開けては閉め。なんだか魚みたいでかわいかった。 しかし、待てど暮らせど彼女の口から「理樹」の名前が出てくることはなく。 「……やはり、こういう場合は男のほうから言うべきです」 なんて言う始末。 思わず口元がニヨニヨとくずれてしまう。 「……直枝さん。おそろしくキモい笑顔になっています」 「いやいやいや、キモいとか言わないでよ。西園さんがかわいかったからつい笑っちゃっただけだよ」 「……直枝さん。とても気持ち悪い笑顔になっています」 「ていねいに言い直さないでよ!?」 個人的な意見だけど、「キモい」よりも「気持ち悪い」のほうがダメージがでかい気がする。さらにその上は「気持ちが、悪い」だ。 まあそんなどうでもいいことは置いといて。 ……彼女を名前で呼ぶのか。うわ。意識したらなんだか緊張してきた。 顔をまともに合わせられない。流れるようにさらっと言おうとしてみるも、うまくいかない。彼女も、こんな気分だったのだろうか? 「…………」 彼女の顔を横目でうかがう。……まただ。遠くを見るような、懐かしそうな、でも悲しそうな瞳。そのメガネ越しの目に見すえられ、僕は息を止めた。 不安、なのだろうか? そういえば今日の今日まで恋人らしいことはしていなかった気がする。放課後になるたびに彼女の部屋に行き、お茶を飲みながら本を読む。そんな一般的ではないデートを重ねていたが、それ以外はてんでしていない。まともに手をつないだこともない。 なら――これくらいは言おうではないか。簡単だ。彼女を名前で呼ぶ。ただそれだけだ。それだけで彼女はきっと、タンポポのようなきれいな笑顔で微笑んでくれる。 よし、言うぞ、言うぞ。言え、言うんだ直枝理樹――。 どくんどくんどくん。 耳に痛いくらいに心臓の音が響く。その鼓動が空気を震わせて、部屋全体を揺らしているように錯覚するぐらい。くらくらする。頭に酸素が足りていない。ゆっくりと深呼吸をする。肺が彼女のにおいでいっぱいになった。ますますくらくらする。 前も後ろもわからなくなり、でも彼女の目からは外すことなく。 「――み、」 一音、出た。あとはそのまま言えばいい。 白鳥(しらとり)のように美しい名前を。 「美鳥」 悲しい瞳から温かいしずくがこぼれ。 ありがと、理樹くん。と呟いた彼女の言葉が、いつまでも忘れられなかった。 [No.105] 2009/05/15(Fri) 23:26:44 |
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