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白布は日差しを受けて輝いていたが、先に置かれていた献花はこの暑さでしなびて見えた。献花台には真新しいお菓子や飲み物がちらほらと供えられていて、僕らのほかにもまだ誰かがここを訪れているらしいと分かった。敷布も雨ざらしになっているような様子はなく、面倒だろうに、誰かが取り替えているらしい。 ポッキーやなっちゃんの鮮やかなオレンジ色のパッケージが、背景の薄暗い山あいに映えていた。 鈴はささやかな慰霊碑の横で、名前が刻まれた辺りに手を触れていた。ベージュのソフト帽の下で鈴の口が動いたのが見えたが、僕の考えすぎなのか、気の早い蝉たちに遮られたのか、その声は僕の耳までは届かなかった。僕は台の上に枯れ落ちた花弁を少し払って、そこに手に持っていた花束を置いた。すっかり行きつけになった花屋で買った、ピンク色のなんとかという花だった。菊よりは似つかわしいだろう、と思う。 「うおわあっちぃ!!」 道路脇で線香に火をつけていた鈴が、ばばっ! と手を振って線香を投げ捨てた。慰霊のために設けられたスペースの白いコンクリートの地面に、緑の線香がバラバラと砕けて散った。 鈴は火がついた部分をスニーカーで踏み消して、水筒の中身をかけてから、横の茂みにざざざと払った。 「……帰ろっか」 なんだか投げやりな気持ちになって僕が言うと、鈴は何事もなかったかのように、 「そだな」 と相槌を打った。 立ち去り際振り返り、誰にと言うわけじゃないけれど、僕は軽く頭を下げた。小さな石碑は直立したまま汗ひとつかいていない。花崗岩のなめらかな白い結晶が、太陽の中できらきらと光っている。向き直れば、鈴はどんどん歩いていって、もうきついカーブの先、岩壁の向こうに消えようとしていた。 思えば、僕たちは呪われているようだった。 合同葬の日はまだ入院中で、点滴の針が何度やっても刺さらなかった。看護婦さんに「嫌な顔しないで下さい」と逆ギレされた。試験前だからと三回忌をすっぽかしたら、ヤマが外れた。七回忌では鈴と別れた。年々酷くなってくものだから、今年はしっかり来てみたのだけど。 「……あの、大丈夫ですか?」 「誰がジジイかっ!!」 おじいさんの喝が山彦となって響き、鈴が竦み上がって僕の背に隠れた。 おじいさんは息も絶え絶え、顔面蒼白、汗びっしょりで、ミスタードーナツの箱を抱えたまま歩道に座り込んでいた。 まったく鈴も困った人を見つけてくれたものだった。 「下ったところのタクシーの番号教えますから、迎車してもらいましょうか?」 あるいは救急車だ。この時期熱中症ニュースなんて洒落にもならない。 答えも聞かないうち携帯からメモリーを呼び出すが。 「要らん。無線など持っとらんでな」 「いやでも、歩きで山を越えるのは難しいと思いますよ?」 最寄のバス停から一キロあるかないかのこの場所でこの有り様だと、多分無理だろう。もしかしたらバスすら使ってないのかも知れないけれど、どっちにしろ無理だ。 それでもおじいさんは、 「いらん、世話を、焼くな」 とかすれた声で言う。 でもこのまま行き倒れられたら過去最悪の命日参りになるのは間違いない。ここでなんとしても諦めさせなくてはならなかった。自腹覚悟でタクシーを呼び、連れ込んで強制下山させるプランまで考えた、けれど。 「心配せんでも、山など越えん。儂の用は、そこの仏でな」 そう言って、僕らの背後を指差した。 ドーナツの箱を供えてからおじいさんはじっと手を合わせた。僕と鈴はおじいさんを挟むように立っていて、しわくちゃの横顔を眺めた。目を瞑った額から汗の粒が滴って落ちた。じいさんの羽織りは元々濃緑なのではなくて、汗が染みていたのだと気づいた。遠い蝉の声や葉擦れが沈黙を深めていた。 「孫じゃった」 おじいさんは手を合わせ目を閉じたまま、詰まる声を絞るようにとも、無念の呻きを噛み潰すようにとも取れない、しわがれた声で呟いた。気難しい表情は、道に座り込んでいたときと変わらないように思えたけれど、それでも言い知れない居た堪れなさを感じさせられた。 黙っているのも、生き残りだと申し出るのも憚られた。申し出ることで理不尽といえばあんまりに理不尽なことをされたりしたし、そもそも自分たちが他の人に理不尽を突きつけてしまうようなこともあった。 どう応えていいのか僕には分からなかった。 「友達、でした」 そんな風な無難な言葉。 僕が口にするのに被せて、 「あたしらはクラスメイトでした」 鈴がきっぱりと言ってのけた。おじいさんが振り向いた。 人の気も知らないで。 眩暈がしたり冷や汗が出たり、おじいさんの驚きに見開いた目に睨まれたように思えたり、それで思わず身構えてしまったりした。口裏を合わせて他人の振りをするべきだったとさえ思った。 「そうか。お前さんらが……」 おじいさんは僕らの顔を交互に見比べ、深く息を吸った。鈴は平気そうにしているけれど、僕は続く言葉を聞きたくないと思った。耳でも塞ごうかというくらいに。 だけど、恐ろしい想像とは裏腹に、そう言ったきりおじいさんはそっと微笑んで見せた。 とても優しい目をしていた。 「さっさと忘れることじゃな。死に子の歳など、数えるだけ馬鹿馬鹿しい」 次の瞬間には唐突に投げやりな態度をとって見せる。 「せっかく拾ったもんは無駄にせんほうがいい」 ぶっきらぼうに言い捨てて、さっきの鈴みたいにさっさと歩き出してしまう。 「あの、タクシーは」 「ジジイ扱いするなと言っておろうが!」 また怒鳴られる。けれどもついさっき半死半生みたいなことになってた人に言われても困ってしまう。 「まあそう言わずに、ちょっと贅沢すると思って」 「足腰には自信があるでな」 食い下がってみるものの、取り付く島もなく突っぱねられる。確かに歩調は速くしっかりしていて、登りよりは楽そうにしているけれど、汗は止まらず流れ続けている。正直見てられない。 困ったなあ、と鈴の方を見る。 「じゃあ、バス停まで一緒に行こう。……行きましょう」 鈴がおじいさんの腕を捕まえて、足を止める。半身になって振り向いたおじいさんは鈴を一瞥して、それからまた歩き始めて、 「勝手にせい」 と言った。鈴は大儀そうに頷いて、笑った。 途中、水筒なんかを分け合いながら一緒に歩いた。バスやトラックが僕らのすぐ横を通り過ぎていった。並んで歩くわけにも行かず、会話はなかった。バス停に着いてからも同じだった。 同じ停留所でバスを降り、分かれる間際、鈴が、 「なんでおじーさんはお参りしてたんだ?」 と訊ねたのが最後になった。 鈴がなぜそんなことを訊くのか、僕にはよく分からなかった。でもおじいさんは袖の中で腕組みしながら、真剣な顔をしてなにごとか考えているようだった。自分が蚊帳の外に思えて空を見た。太陽はまだ十分高く思えたけれど、薄く広がる雲が夕焼けの色を帯び始めていて、建物やその下にいるおじいさんと鈴の顔を赤く染めていた。 「近々くたばるようなジジイは、忘れんでもいいんじゃよ」 その答えが鈴の質問とどう繋がるのか、やっぱり分からなかったけど、少し考えてみて、慰霊碑の前から去るときの、おじいさんの言葉を思い出した。僕らより長生きするんじゃないかとは思うけど。 それからおじいさんは、吐き捨てるように、 「忘れてたまるものか」 と言ってから、僕らに簡単に礼を言って歩き出した。 その言葉の意味はまるきり分からなかった。鈴に訊ねてみても、分からないようだった。 ◆ 早いとこ身を固めたら? という僕の言葉を、鈴はくしゃみで盛大に吹き飛ばして見せた。 「すまん。聞く気がなかった。なんだって?」 「……ま、いいけどね」 予想はしてたし。 フライドポテトでマヨネーズを掬って口に運ぶ。なんだか変に酸っぱくて、不安になったのをビールで飲み込んだ。なんだか温くて、苦いというよりしょっぱく思えた。 店内にはバイオリンだかチェロだか、弦楽器の音楽が流れている。どこからかきつい煙草の煙が漂ってきて、料理がまずくなるなあなんて思った。正面の席、鈴の跳ねっ毛の向こうでは、大学生風の人たちの席で紺の着物の板前さんが巨大な魚の頭を解体していた。 視界が遮られたと思ったら、鈴の目が僕を見ていた。 「たこわさ」 ポツリと言う。僕がノーリアクションでいると、 「イカの一夜干し」 と言った。 お好きなのをどうぞ、と左の手の平を差し出してメニューを促す。なにを勘違いしたのか、鈴はその上にプライドポテトをポトリと乗せる。 「……ありがと」 「いや、気にするな」 礼には及ばんよ、と手をぱたばた振って見せる。 「好きなの頼みなよ。奢るし」 「たこわさダメか?」 「鈴がいいなら」 「やだな」 鈴はまたメニューに目を落として、大学生風がじゃんけんをしているのが見えた。経験から言わせてもらうと、あれは多分目玉を誰が食べるか決めているのだ。冷静に考えれば筋肉とか皮膚とか食べてるだろうに、なにを嫌がることがあるのか。決して僕がじゃんけんで負けたから言ってるわけじゃないんだけど。 最後の最後で僕を負かした張本人を見る。肉料理のとこを上から順に指でなぞっていた。まだ決めかねているらしい。 ポテトは湿気がでてきて、なんだかしなしなしていた。もう一度ビールで流す。やっぱり、しょっぱい。塩の味がする。 「よし」 鈴が顔を上げた。向こうのテーブルから馬鹿でかい笑い声が聞こえてきた。 「サイコロサーロインステーキ」 先回りして僕が言う。 すると鈴は驚いた顔をして、 「一口ヒレカツ」 と言った。 まあこういう日もある。 手を上げて、黒エプロンの店員さんを呼ぶ。壁にかかった伝票を持って、こちらに早足で歩いてくる。 はい、お待たせしました、ご注文承ります。 ヒレカツ、生中、カルーアミルク。 「カルーアミルク?」 「カルーアミルク」 鈴が繰り返して、店員さん復唱。背中を向けて去っていく。 「ヒレカツと、カルーアミルク?」 僕がもういっぺん言うと、鈴は不機嫌に顔をしかめる。そういえば、いつだったか前もおんなじことして怒られたような。 失敗したなあ。 思いながら、ジョッキの底の薄い泡を飲み込む。温い。それでもって苦い。僕もチューハイにしとけばよかったかな、と考えてるとき、お酒が運ばれてくる。ヒレカツはまだ来ない。つまみもなしに、しぶしぶ汗をかいたジョッキを口に運ぶ。 「なんであたしにだけ言うんだ」 グラスをテーブルにトンと押し付けて、鈴が言った。 「えっ? なにが?」 当然僕の返しはこうである。 でも僕の反応が不服だったようで、鈴は口を尖らせた。 しばらく考えてみて、運ばれてきたヒレカツにレモンを絞ろうとするのを鈴に足蹴で止められて、しぶしぶビールにまた口をつけて、 「自分のことは棚上げで、あたしだけ結婚せにゃならんのか」 と言われてようやく思い至る。 「あれ、僕は同棲してるって言わなかったっけ?」 「別れたのは知ってる」 なんで鈴が知ってんのさ。 ビール、ビール、とジョッキを掴む。苦い。随分古い話を持ち出してきたもんだ。 「で、結局鈴はどうなの?」 僕の質問を黙殺して、ベージュ色のグラスを傾ける。それからヒレカツをソースだまりにぶちこむ。 「じゃああれか。だんそんじょひか。女は家に入れというのか」 鈴も小賢しい言葉を覚えたものだ。 「そうは言ってないけどさ」 「みんなはみんな、あたしはあたしだ」 首を振って、こーさん、とジェスチャーしてみるが、うまく通じないで、その後も鈴の小言が続く。こうなると止まらない。お前はすっきりしないの、優柔不断だの、やわだの続いて、 「本当にお前は地味だな」 と締められる。 途中頼んだ焼き鳥の、ネギだけ僕の皿に放ってよこす。 しばらく黙る。鈴はケータイをいじり始める。ビールを呷って、背もたれに体重を預けると、ニスで黒光りする木目の天上が見える。不自然にごつい、黄ばんだ換気扇に煙草の煙が流れていくのが見える。空き皿を下げに来た店員さんに、各々適当な注文をする。復唱して去っていく。 鈴の後ろでは、学生風の一人が潰れていて、仲間の一人が肩を貸しながら、トイレの方に歩いて行く。それを見て別の仲間が囃し立てる。本人たちとしてはどうか知らないけれど、僕の目にはやけに楽しそうに映る。まあこうしてるのもやじゃないけどさ。飲み会する前にみんなですることがあるだろ、とか思わないでもないけど。まあきっと言っても分からないだろうけど。僕も分からなかった。 「お、あたしの他にもまだ独身の奴、いたぞ」 ああ、まだ続くんだ。 なんだかちょっと気が滅入る。うんざりしつつ、なにを見たのかと鈴に目を向ければ、ケータイを画面がこちらに見えるよう突きつけてきた。どこかのニュースであるようだった。その見出しにはこうあった。 『五輪>ソフトボール:笹瀬川佐々美投手に県民栄誉賞』 なにを言わんとしてるのかちょっとだけ考えて。 「いや、この人は別枠でしょ」 「関係ないだろ。今度会ったら言え」 「そんな恐れ多い……」 冗談半分言ってみたら、 「ダブルスタンダード。ダブスタ」 と僕に指を突きつけてきた。 「なんであたしにばっかり言うんだ。あたしが独り身で孤独死して、迷惑かけてるか? それでお前死ぬのか? いーやありえん。あたしはお前に迷惑かけてないし、お前は死なない」 酷い感じに絡まれる。 それはもう置いといて。 「この人と野球したなんて信じらんないよね」 思い出そうとして、浮かんでくるのはあの高笑いだったけど。それでも頑張って感慨にふける。僕と鈴、二人でキャッチボールしてたのを見かねて、部の練習に誘ってくれたのだった。でもなぜ三角ベースだったんだろう? と考えると、やっぱりあれは練習なんかじゃなくて。 「佐々美の話とか、するな」 鈴は不機嫌に言って焼き鳥を頬張った。 自分で振ってきといてこれなのがまた鈴らしいというか。 それでも僕は笹瀬川さんのことを考えた。 笹瀬川さんの活躍は純粋に嬉しいと思える。知人に脚光が当たっているという、それだけじゃなくて。あんなことがあって、直接の当事者じゃないにせよ、ショックを受けていたはずで。それでも引きずられることなく、自分のやるべきことをこなして、自分で選んだ道を進めるものなんだ、人と言うのは。もちろんそれはきっと僕らにも当てはまることなのだ。 笹瀬川さんのことは、そんなことを信じてここまでやってきた、鈴と甘えあうのもやめた、そんな僕を支えてくれるものだと思う。 そう考えれば、『早く忘れろ』という昼間のおじいさんの言葉。あれもきっとその通り、多分年の功ってやつだ。早く僕らも忘れてしまった方がいいのだろう。きっと。 「お待たせ致しました。こちらブルーハワイになりますね」 はっと顔を上げる。鈴が控えめに手を上げて、店員さんからグラスを受け取った。 「綺麗だな」 鈴はグラスの脚をつまんで、注がれた青く鮮やかな液体を、光に透かしてみたり、軽く波打たせたりしていた。なぜだか泣きたくなるような、それはそれは綺麗な青色をしていた。澄み切ってるわけではない、向こう側が見通せないくらいの強い青色。 鈴は酔いの回った、涙ぐんで潤んだような目を細めて、グラスの縁に口をよせた。白い喉が微かに震えた。 「……苦い」 口元を押さえてながら、コトリとテーブルに置く。涙目が極まっている。 「かき氷のやつかと思った」 「見た目は甘そうなんだけどね」 そのグラスを引き寄せて、口をつける。飲み下してから、柑橘系の独特な苦味が、喉の奥に尾を引いた。あんまり好きじゃないけれど、鈴の代わりに全部飲み干す。鈴が僕の顔を、信じられないというふうな目で見ていた。 「しね、ばーか」 すると突然、脈絡もなく僕をなじった。 「いっつもお前、わけ分からん。いきなり別れるっていうし、お参りには誘うし、全部飲んじゃうし、なにがしたいんだ?」 それからテーブルに突っ伏して、笑ってるのかと思ったらなぜか泣き出す。しゃくりあげる声は大きくて、ふと周りを見れば、例の学生らが僕らのことを、酔いも手伝ってるのか無遠慮に見つめている。 どうしたものかと思って、背中でもさすろうと伸ばしかけた僕の手が、空中で止まっている。本当にどうしたものかと思う。 僕は止まった手を持ち上げて店員さんを呼ぶ。お冷を二つ頼む。水が来るまでのあいだ、喉の奥の苦味を舌の先で転がしていた。 [No.106] 2009/05/16(Sat) 00:00:18 |
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