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トイレは兼用。お風呂は銭湯。アルミサッシの扉。プライバシー皆無の木造建築。錆びついた階段。築三十二年。 そんな古臭くて狭苦しい六畳一間のおんぼろアパート。家賃が安いという理由だけで決めたことを今は後悔している。家を決める時、鈴が安ければなんでもいいとか不動産会社に言うもんだから、紹介される家は全て似たようなところだった。僕はオートロックやら、色々と家を決める上での条件があったのだが、鈴の「そんな金がどこにある?」の一言で何も言えなくなってしまった。 部屋の約半分を占めるセミダブルのベッドから、のそりと這い出る。台所まで二歩と半歩。冷蔵庫から一リットルパックの麦茶を取り出し、飲み口に直接口をつけて喉を潤す。ぷはぁー、と控え目な音で息を吐く。ブルリと下腹部に尿意。喉が乾いて起きたというのに、水分をすぐに排泄したがる人間の構造に神秘を感じつつ、サンダルを履き、トイレへと向かう。 外はまだ薄暗かった。太陽も昇り切らない紫色の空は、少し綺麗でずっと眺めていたい気持ちになったが、尿意がそれを許してくれないようで、僕はいそいそと共同便所へと歩を進めた。住み始めの時は、不気味で怖かったが、人間は慣れる動物らしい。今では余裕で便座に座り用を足すことが出来る。便座の冷たさが眠気を逃がそうとするので頑なに目を瞑る。ホッと一息。立ち上がり、パジャマのズボンを上げ、レバーを捻る。水が大量に流れていく。僕はトイレを後にした。 家に戻り、そっとベッドの中に潜り込む。もう一人の住人は、これだけ僕がもぞもぞと動いても起きる気配はない。慣れたんだろう。人間は慣れる動物らしいから。外に出て冷えてしまった体を温めるために、素早く布団に潜り込む。僕はもう一人の住人の身体を湯たんぽ代わりに抱きしめたが、冷たくて代わりになんてならなかった。僕が温めてあげなきゃ。眠気が襲ってきた。抗わず、それに意識を沈めた。 ピピピ。機械的な電子音。枕もとの目覚まし時計が鳴いていた。手を伸ばして、スイッチを切る。音が止み、小鳥の囀りだけが朝を包む。二度寝への誘い。おやすみなさい。 「起きろ」 「いたい」 本当は全然痛くない。再び眠りかけた僕の頭をチョップが襲う。我が家の使い物にならない湯たんぽこと、鈴が眠そうな顔で欠伸をしていた。 「鈴」 「なんだ?」 「二度寝しよう」 「馬鹿。起きろ。堕落し過ぎて死ぬぞ」 「じゃあ、死ぬ」 「死ぬな」 寝ぼけた会話をしながら、どうにか眠気を消さないように目を瞑る。今朝のトイレへの移動が堪えているのだろうか。分からないけど、とにかく眠い。そんな時は二度寝に限る。チョップが再び飛んできた。全く痛くない。 「なにするのさ」 「お前こそ何してんだ」 「二度寝を」 「起きろ」 チョップ一閃。涙目になった。ちなみに、欠伸が出て少し涙が出ただけで、チョップとは一切関係無い。痛くないし。 「理樹、お前が起こせって言ったんだろう。今日は約束があるって」 「ああ」 そういえば、今日は笹瀬川さんと買い物に行くことになっていた。春用のスカートやら何やらを見るとか何とか。 「そうだね。うん、準備しないと」 「そうしろ。本当にあたしがいないと理樹はダメだなぁ」 「あははー」 白々しい笑いでその場は逃げる。台所に避難したところで、ついでに朝ごはんも用意することにした。冷凍庫から食パンを二枚取り出す。それをオーブンにぶち込み、つまみを捻る。その隙にお皿を二枚、コップを二つ。冷蔵庫からマーガリンや、あとお茶。随分こういうことも手際がよくなったなぁ、とか考えながら作業を進める。鈴には朝食がいるかどうか聞いてなかった。けど、まあ、置いておけば食べるだろう。さっさと、狭い部屋の小さな炬燵の上に、こんがりいい匂いのするトーストを並べた。 しかし、僕を起こした後すぐなんだろうか。既に鈴は眠りに落ちているようで、ベッドから寝息が聞こえた。起こしたら悪いので、静かに手を合わせて、心の中でいただきますを唱えて、食事を始めた。すぐに食べ終えて、そこら辺に落ちているTシャツ、パーカー、ジーンズに着替える。 約束の時刻は九時。待ち合わせの場所までに掛かる時間は約二十分。今の時間は、八時五十分。遅刻確定。 待ち合わせの場所に歩いていくと、『GO MY WAY!』と書かれたTシャツの上から黒色のカーディガンを羽織っているジーンズ姿のプンスカと怒る笹瀬川さんがいた。プリプリする様も見慣れた。僕は彼女を怒らせる癖があるみたいだ。今回は確実に僕が悪いので、まあ、仕方がなく謝ることにした。 「ごめんなさい」 しかし、僕の謝罪の言葉を聞いた笹瀬川さんは気分が悪そうな顔をしていた。なんでだろう? しかめっ面をずっと向けられる。居心地が悪いので、さっさと出発しようと彼女の手を掴み、目的の場所に移動しようと思った。 思ったけど、そういえば目的の場所をよく知らなかった。今日は笹瀬川さんの買い物に付き合うって話だったから。 「で、どこ行くんだっけ?」 掴んだ手を振りほどかれた。彼女は憤慨の面持ちをしていた。しかし、その後溜息を吐き、呆れ顔。そして、諦めた表情。それから、今度は僕の手を掴んで彼女が歩き出した。ああ、エスコートされてる。まあ、いいや。 「で、どこ行くんだっけ?」 もう一度同じ質問をする。 「着いたら分かりますわ」 そりゃそうだ。握った手から、笹瀬川さんの手が若干汗ばんでいることが分かった。最近少しだけ温かくなってきたしなぁ。横に並んで歩く。 手、離さない? と提案したところ、あなたはすぐに迷子になるからダメ、と言われてしまった。なんだかムカついたので、手のつなぎ方を世のカップル共がするように指と指を絡める形にしてやり、キュッと少し力を込めると、笹瀬川さんがビクンと身体を揺らすのが、手を通して伝わってきた。面白かったので、そっと寄り添ってみた。真っ赤な顔で睨まれてチョップされた挙句、手を力任せに振りほどかれた。面白いので、その後抱きついたり、色々した。笹瀬川さんは、変な悲鳴を上げたり、怒ったり、チョップしたりと大慌て。最後は疲れて呆れて諦めたみたいで、僕のされるがままになっていた。 笹瀬川さんの髪型が三つ編みになったところで、足が止まる。目的地に到着したらしい。ピンク色の看板の小さなショップ。センスが極めてわたくしに近くて良い店ですわ、とのこと。興味無い素振りで、僕も引っ張られるように店に入る。 店は派手な看板とは対照的に木目を基調とした落ち着いた内装だった。掛かっている音楽もラウンジ風のもので、リラックス出来る。僕がゆったりと棚の上の商品を眺めている隙に、笹瀬川さんは店員と何やら話しこんでいた。断片的に、アレが言っていた、とか、あの子が、とか。そんな台詞が聞こえてとてつもなく嫌な予感がした。 「ちょっとこっち来てくださる?」 案の定、そんな台詞で僕は二人の方へと呼ばれた。聞こえない振りをして、再び商品を眺める。あ、このスカートかわいい。 「ほら、こっち来なさい」 気づけば笹瀬川さんは僕の後ろに居て、腕を掴まれ、引きずられるように店員の元へと連れて行かれた。誠に遺憾である。 「じゃあ、後はお願いします」 勝手にお願いされた。知らない人は苦手だ。ちらりと店員の顔を窺う。笑顔だった。怖いから、あははと笑って、逃げることにした。それを予期していた笹瀬川さんに首根っこを掴まれた。 「やっぱり逃げ出そうとしましたわね」 「あははー」 もう一度笑って誤魔化す。何を誤魔化すのか。自分でもよく分からないけど、とりあえず笑っとけ。そのまま猫みたいに首根っこを掴まれずるずると店員の元に。正面から見た店員の顔には、微妙な笑顔と微量な汗が張り付いていた。なんか申し訳なくなったので、借りてきた猫みたいに大人しく言うことを聞くことにした。 気を取り直した店員は、さて、とレジカウンターの裏から何かを持ってきた。メジャー? 多分、メジャーだ。 「じゃあ、脱いでください」 「いやだ」 早速、拒否してしまった。今度は笑顔でも、目尻に涙がうっすら浮かんでいるのが見えた。かわいそうですわー、とニヤニヤしている笹瀬川さんに言われた。黙れ。店員を見る。顔は笑顔だったが、普通に泣いていた。困った。ああ、困った。困ったけど、どうしようもないので脱ぐことにした。店員と二人狭い試着室に入り、鏡を正面にパーカーを脱ぐ。終わり。 しばらく待って店員の様子を見ると、号泣していた。しょうがないのでTシャツを脱いだ。もう一度動きを止めると、ヒックという声が聞こえたので、慌ててジーンズを脱いだ。店員は遂に最初の笑顔を取り戻した。それじゃあ測りますねー、と甲高い声でメジャーを僕の体に当ててサイズを測っていく。くすぐったい。 「あの」 「ん?」 「胸のサイズを測りたいんですけど」 「どうぞ」 「ここ、痛くないですか?」 大丈夫ですか? と泣きそうな顔で聞かれた。僕の右脇腹には大きな火傷の痕がある。それは、あの事故の時のもので、一生消えることは無い罪の印。まあ、痛みは無いので大丈夫ですと言うと、笑顔になった。疲れる。なんだかはるかみたいな店員だと思った。かわいいしましまパンツですね。黙れ。 測定し終わり疲れた顔で試着室を出る。逆に店員はツヤツヤと血色の良い顔をしていた。よく分からない。設置されている木のベンチにニヤニヤしている笹瀬川さんが腰かけていたので、僕もその横に座る。背もたれに、思いっきりもたれて、天井を仰ぎ見る。ヘリコプターのプロペラみたいなものがクルクルと回っていた。それを眺める。気持ち悪くなった。 さっきの店員が小走りで服を持って、僕の前に来た。嫌な予感しかしなかった。予感的中。再び試着室へと舞い戻る。手元には黒と赤のタータンチェックのプリーツスカートと黒の髑髏の絵が描いていあるロンTがあった。どういうセンスしてんだろう。店内の雰囲気とは違う妙にパンクな衣装に戸惑う。早く着なさいよー、という笹瀬川さんの鬱陶しい声が聞こえる。黙れ。着ないで出たら店員が泣く。ただ、こんな着るのは僕が泣く。でも、泣く泣く着る。 試着室を出る。どうだ。あら、いいじゃない。そう? うん。そうかなぁ? 似合う似合う。うーん、そう? 気に入った? そこはかとなく。ふーん。これ幾らですか? ……高っ! 「まあ、気に入ったんならいいですわ」 「ん?」 「お代は結構ですわ。わたくしが払うから」 「はあ?」 意味が分からない。そもそも。 「お前の欲しいもの買いに来たんだろう?」 「そうでも言わないと、来ないじゃない」 「でも、なんでプレゼント?」 「誕生日」 「ああ、でも、僕の誕生日は」 僕の誕生日はまだ……。 「いいですわ。とにかくプレゼント。次はランチ行きますわよ。その後は……どこか行きたいとこは?」 「別に……」 溜息を吐かれる。別に行きたいところなんて無い。どちらかと言えば、今は早く家に帰りたかった。無性に鈴に会いたくなった。会わないと不安なんだ。なんでだろう。鈴は家で寝てる。僕も一緒の布団に入って寝たい。ギュッと抱きしめたらこのよく分からない不安も消えてなくなる気がする。 「もう、家に帰りたい」 「だめ」 「えー」 「今日は、とことんのとんまで付き合っていただきますわよ!」 なんでか鼻息荒く、テンションの高い笹瀬川さん。今日これからのことがとても怖い。こういう時はダメなんだ。妙に空回りする。なんとか落ち着かせようと、ポケットに入れておいたモンペチを、勿体ないけど渡した。力一杯投げ捨てられた。星になった。 家に帰る頃には、既に陽は落ちて、僕のテンションもガタ落ちで、体力もすっからかんだった。笹瀬川さんの暴走のことは色々と忘れることにした。 軋む階段を上り、薄っぺらい扉を開ける。家の中は真っ暗だった。炬燵の上のトーストは、置きっぱなし。鈴はいつまで寝てるんだろう。 布団に潜り込み、鈴を抱きしめた。とっても冷たい。温まらなきゃダメだ。耳元で、一緒にお風呂に行こうと囁いた。鈴は、しょうがないやつだなぁ、とのっそり起き上がる。支度をする彼女から視線を逸らして天井を見る。染みだらけだった。 着替えとお風呂セット一式は僕が持つ。そういう担当だから。番頭に二人分と渡して、入る。僕と鈴は、いつも向かい合って服を脱ぐ。僕の右脇腹に、鈴の左脇腹にそれぞれ同じような火傷の痕がある。 これは僕等の罪の印。 そして、二人はずっと一緒っていう、絆の証。 [No.12] 2009/03/07(Sat) 00:14:56 |
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