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No.136へ返信

all 第34回リトバス草SS大会 - 主催 - 2009/05/28(Thu) 21:27:13 [No.128]
そして、おほしさまに - ひみつ。ちこく。5116byte - 2009/05/30(Sat) 10:31:46 [No.145]
しめきり - しゅさい - 2009/05/30(Sat) 00:43:04 [No.142]
[削除] - - 2009/05/30(Sat) 00:04:04 [No.141]
キミを待つあのソラの下 - ひみつ@9898byte - 2009/05/30(Sat) 00:00:54 [No.140]
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星色夜空 - ひみつ 8506 byte - 2009/05/29(Fri) 19:28:14 [No.138]
リン、ジュテーム - ひみつ@20480 byte - 2009/05/29(Fri) 02:11:29 [No.137]
今にも落ちてきそうな空の下で - ひみつ@15546 byte - 2009/05/29(Fri) 01:55:03 [No.136]
ノンコミタル - ひみつ@13410 byte - 2009/05/29(Fri) 00:54:24 [No.135]
羂索は空から - ひみつ 6470 byte - 2009/05/28(Thu) 23:03:44 [No.134]
空の頭はいつまでも - ひみつ 14421 byte - 2009/05/28(Thu) 22:49:16 [No.133]
ふと空をのぞんでみれば - じみつ(誤字) 13946 byte - 2009/05/28(Thu) 22:26:03 [No.131]
婚礼には焼肉が必要だ。 - ひみつ 9131 byte - 2009/05/28(Thu) 22:16:03 [No.130]


今にも落ちてきそうな空の下で (No.128 への返信) - ひみつ@15546 byte

 目の前には空があった。
 今にも泣き出しそうな曇り空。もしかしたら、既にポツポツと降り始めているのかもしれない。だが、今の私にはそんな小雨を感じる余裕は無い。
 私は道路に横たわっていた。車に轢かれたものの、当たり所が良かったのか悪かったのか、未だに意識があった。最初は、全身が痛くて熱くて堪らなくて、芋虫のようにもがくばかりだった。だが今では、血を流しすぎた所為か、或いは傷が深すぎた所為か、痛みはそれほど感じない。ただ、体が寒くて寒くて仕方なかった。血と一緒に体の熱が奪われてしまったのだろう。そのためなのか、既に体が動かない。指を動かそうとしても、指が動いている気配が無い。そもそも、私の指はどうなっているのだろう?骨折して、動かせないのかもしれない。或いは――――。そちらまで視線を向けることが出来ないことが、不幸中の幸いだ。そんなものを見てしまったら、私はどうなってしまうのか。想像すらしたくなかった。
 止めよう、そんなことを考えるのは。私は視線を再び空に向けた。
 結局、最期まで私は誰にも必要とされなかったな。口元が歪む。理樹くんにさえ、結局私のこと気付いて貰えなかったわけだし。悲しいなあ。ずっと一人ぼっちで、最期のときも一人ぼっちで。寂しいなあ。
 でも、今は必要とされたいとかそんなこと関係なく、誰かに会いたかった。私の最期に傍に居てほしかった。
 誰が良いかな?クド公とか?すっごい泣き顔でオロオロする様が想像できてしまう。ああ、やっぱりダメだ。なんかこっちが悪い気がしてくる。姉御なんかはどうだろう?ああ、すっごい安心できそう。姉御はこうゆうときどうするかな?冷静に救急車の手配を済ましてしまうだろうか?あ、なんかヤだな。こんなときにそんな事務的な姉御なんて見たくない。姉御は私の意図を汲み取ってくれる人だ。きっと最期まで私のこと見ててくれる。うーん、でもこれもやっぱりダメだ。私を心配そうに見る姉御なんて想像できないし、きっと私は姉御にそんな顔して欲しくないんだと思う。あーでもないこーでもないと、順番にバツ印を付けていくと、結局最後にはそこに行き着いた。
 理樹くん。やっぱり好きなものは止められないのですヨ。
 理樹くんはこんなときどうするのかな?きっと、理樹くんは優しいから、うんと心配そうな顔して、うんと優しい言葉をかけてくれるんだろうな。
 いや、別に理樹くんは何もしないでいい。そんなことよりも私は、理樹くんにお礼が言いたかった。理樹くんは、それを聞いてくれるだけで十分だ。
 あのとき、ベンチで座っているだけだった私に話しかけてくれて、ありがとう。
 仲間に入れてくれて、ありがとう。
 そして、「好き」って言ってくれて、ありがとう。
 そんなことを考えていたら、急に悲しくなって涙が溢れてきた。どんなに空想しても、それは決して叶わないどころか、今の惨めさを強めるだけだ。誰か、お願い。私の傍に来て。誰か誰か誰か。一人ぼっちは寂しいの。悲しいの。苦しいの。痛いの。怖いの。誰か私を助けて。助けて助けてたすけてたすけてタスケテタスケテ、理樹くん!

 空から降る雨粒は大きくなっていき、私の体を冷やしていく。空には雨雲がかかり、私の視界から色彩を無くしていく。
 と、そのとき。色彩を無くした視界に、突然鮮やかな紫色が見えた。それは円の一部分を切り取ったようで、骨組みが中心から放射状に延びていた。これは、傘だ。誰かが来てくれたんだ!私は嬉しさで心臓が止まるかと思った。一体誰なんだろうか?しかし視線を動かし、その誰かを確認した途端、私は凍り付いてしまった。

「ばかね。・・・本当にばかな子ね」

 二木佳奈多。
 何で最期の最期、こんなときに限って。私は運命をこれ以上なく呪ってやった。
 こいつは私を見て何をするだろうか?何を喋るだろうか?私の無様ななりを指差して、嗤うのだろうか?もし、人が死のうってときに、そんなことができたら尊敬してやる。おまえは最低の人でなしだ!
 だけど、こいつの行動は私の予想に反するものだった。
 私は、二木佳奈多に抱きしめられた。それも壊れ物や赤ん坊でも扱うかのように優しく。私の体は血や泥やらで汚れているのに、そんなこと気にする素振りも見せなかった。

「はるか・・・」

 二木佳奈多の声は優しかった。それはいつも高圧的な態度で私を脅かす「あいつ」ではなく、かつて私が大好きだった「おねえちゃん」だった。ミントの匂いがする。でもこれは「あいつ」の匂いじゃなく、「おねえちゃん」の匂い。
 ああ、多分私は幻を見ているんだ。きっと、もう駄目だから。誰も来てくれないだろうから。私は、私のために、私の願いを幻として映しているんだ。そう考えると、酷く空しい気持ちになるが、納得がいく。「おねえちゃん」が来ることなんて無いから。「あいつ」はもう「おねえちゃん」ではなくなってしまったのだから。

「これは夢よ。起きたら、きっといつもの日常が待ってる」

 ほうら、やっぱりね。それにしても、最期に理樹くんじゃなくお姉ちゃんの幻を見るとは。理樹くんと、自分の出生について色々調べ物をしてたけど、もしかしたら私は本当はこうなることを望んでいたのかもしれない。ただ、お姉ちゃんと一緒になりたかったのだけなのかもしれない。あはは。本当バカだなあ、私は。もう、こんなタイミングで気付いたってどうしようもないのに。
 お姉ちゃんの体は、私と違って暖かだった。さっきまで寒くて堪らなかったのが、今は嘘のように暖かい。大好きな人に抱きしめてもらうというのは、こんなに安らぐものなのか。さっきまでの恐怖や怒りは霧が晴れたように消え失せ、代わりに干したての布団で包まれたような心地よさが胸の奥から湧き上がった。こんな気持ちは何年ぶりだろう?お姉ちゃんが私に、この髪飾りをくれた時以来か。

「今まで、辛かったでしょう?もう、忘れなさい。これまで起こったことも、直枝理樹のことも、全部」

 そうだね。私、もう疲れちゃった。そろそろ全部忘れて眠ってもいいよね。理樹くんのことは忘れたくないけど、やっぱり思い出すと、辛いから。

「次に起きたら、あなたがこれまで大切にしてたもの、全て切り捨てなさい。直枝理樹も、リトルバスターズの人たちも、全部。そして、私だけを見なさい。あなたには、私以外は何にも必要ないの。あなたの全ては、私だけのものなのだから」

 あはは、凄いこと言うね。でもお姉ちゃんとなら、私は二人きりでも構わないですヨ。 私は想像してみる。お姉ちゃんと二人だけの世界を。
 寮では三人部屋に私とお姉ちゃんの二人だけ。そこには邪魔な監視役の子も居ない。朝起きたら一緒に食事して、学校行く準備したら二人で登校する。私たちは同じクラスだから、途中で別れることも無い。休み時間には、授業でわかんなかったことをお姉ちゃんに訊こうとして。そしたら「どうせ寝てたんでしょ」とか言われたり。そんな感じで、お昼休みも午後もずうっと一緒で。でも、お姉ちゃんには風紀委員の仕事があるから、そのときだけは離れ離れ。だけど、はるちんは寂しがり屋のイタズラっ子だから、風紀委員のいるところでわざと騒ぎを起こしちゃうのデス。で、正座させられて、お姉ちゃんからお説教されるけど、怒った顔も可愛くて。私が思わずニヤニヤしちゃうと、勘違いしてもっと怒るんですヨ。まあ、そんなこんなで、放課後はお姉ちゃんの仕事の邪魔なんかしながら、テキトーに時間を潰して、最後は委員会室の前でお姉ちゃんの仕事が終わるを待ってるんだ。で、一緒に帰るときに、手を繋いじゃったりして。お姉ちゃんは「子供じゃないんだから」なんて言うけど、おやおや?顔が緩んでますヨ?帰ったら二人で食事して、その後、お姉ちゃんが勉強、私がお姉ちゃんの邪魔といった感じに分担作業して?最後はお風呂に入って寝るだけですヨ。お姉ちゃーん、たまにはお風呂一緒に良いでしょ?女同士だし。ちぇ、ケチんぼ。寝るときは一緒のベッド、ななな何だってーー!お姉ちゃん、最後の最後で大胆ですネ。ちょ、ちょっと狭いんですケド。え?もっとくっ付けって?しょうがないなあ、お姉ちゃんは。
 なんて、そんな感じで一日が過ぎていって。
 ああ、それはとっても幸福な世界。二人で完成された世界。そんなことが出来たなら、他には何もいらないかもしれない。

「私を憎みなさい。私を呪いなさい。私を殺しなさい。―――――だからお願い、ずっと私の傍にいて」

 一際大きい雨粒が、私の顔に落ちてきた。
 いやだなあ。「あいつ」ならともかく、お姉ちゃんにそんなことするわけないじゃないですか。だから安心して。私はずっと、お姉ちゃんの傍に居るよ。
 アラアラ、そんな暗い顔しないで下さいヨ。可愛いお顔が台無しですぜ。って、私の視界が暗いのか。テレビの砂嵐みたいになってきてるし、端っこは墨汁でも垂らしたように真っ黒になって、殆ど視界がない。耳もキーンといって、もう断片的にしか聞き取れない。もう体の感覚だって、随分前から無いし。ああ、これはもうそろそろ限界かな?まあ、結構もった方じゃないかな?十分だよ。
 あ、そうだ。私、最期にお姉ちゃんに言いたいことがあったんだ。私は顔の筋肉を精一杯動かしてみる。満面の笑みになるように。思いっきり、空気を吸い込む。血の匂いが肺に充満し、えづきそうになる。とても苦しいけど、これだけは言っておきたい。例え、目の前のお姉ちゃんが幻でも構わない。私の、ただただ苦しいだけだった人生の最期に、こんなに安らいだ幸福な気持ちになれたのだから。あの時の、優しかったお姉ちゃんに会えたのだから。この気持ちを、お姉ちゃんに。

 お姉ちゃん、大好きだよ。





「ぉ、ねぇ・・・ちゃ・・・・・・・・・」

 葉留佳が、―――――逝った。
 ぱきん、と。私の中で何かが砕けたような、そんな音がした。
 先程まで、雨脚が弱まり霧雨程度の雨を降らせるだけだったが、徐々に空から大粒の雨が降ってくる。
「――――――――――――っ」
 私は葉留佳を腕に抱いたまま空を仰ぎ、息の続く限り叫び声を上げた。しかし、私の口からはヒューヒューと息が出るだけで、声を出すことすら出来なかった。胸を体の内側から掻き毟られている気がし、今にも鼓動が止まってしまうのではないかと思われた。
 見上げた空から降ってきた雨粒が、私の顔を叩く。空は雨雲に包まれて真っ黒で。雨と一緒に空まで落ちてきそうな気さえしてくる。いっそ、落ちてしまえばいいのに。
 私は天を睨み、声にならない嘆きや呪いを投げつける。

 何故、なぜ、ナゼ。どうして、「また」?
 私には、こうなる未来が分かっていた。
 だから、私は葉留佳を止めようと、以前の世界でも、そのまた前の世界でもそうしたようにこの子を探し、追いかけた。だけど、何度も何度も、いくら急いでも、待ち伏せをしても、私の手が、この子の肩を掴むことは叶わなかった。私は、永遠に葉留佳に到達することができないのかもしれない。それはさながら、アキレスと亀のように。私がこの子のいた場所に到着したとき、この子は既にその先の場所に進んでいて。また私がこの子のいた場所に行っても、この子はそのまた先にいて。
 そして、葉留佳は必ず車にはねられて、死んでしまう。私が駆けつけたときには、いつだって手遅れで。私には血に塗れたこの子を抱き、この子の体から力が抜ける瞬間を、瞳孔が開ききる瞬間を、胸の動きが無くなる瞬間を、ただただ看取ってあげることしか出来なかった。

 この世界は狂ってる。
 棗恭介が虚構世界と呼んだこの世界は、一見すると「今がいつまでも続けば良い」とさえ思えるほど平和で優しく、悲しみの無い世界だ。しかし、私は知っている。この世界で奪われ、蹂躙され、犠牲になっている人たちを。
 クドリャフカ。あの子の心に大きな傷を残した、あの哀しい出来事を何度も再現させ、その度にあの子が壊されていることを、私は知っている。そのさまは傷口を無理やりこじ開け、そこに執拗に塩を塗り込む、そんな拷問のように思われた。
 リトルバスターズの他の子たちとそれほど仲が良かったわけじゃないから、よくはわからない。しかし恐らく彼女たちも、自身が抱える、他人が触れてはいけない部分を暴き立てられ、責められ、壊されているのだろう。
 その中でも葉留佳に対する仕打ちは、悪辣を極めた。棗恭介の差し金で中傷ビラがばら撒かれ、学園全体から排除される。ここまでは他の子たちと同じだ。しかし、ここからが本当に恐ろしい。学園から排除されたこの子は、「必ず」車にはねられる。即死すら出来ず、意識を保ったまま、苦痛に呻きながら死んでいく。そして、死んだ後も、この子は何度もそれを繰り返す。そう、この子だけは、現実世界で「死ぬ」ことが決まっているにもかかわらず、更にこの世界で無限に「死に」続けなくてはならないのだ。
 私はこの仕組みに気付いたとき、二木や三枝の連中のやってきたことが児戯に見えてしまうほどの、棗恭介の、その限りない悪意に肌が粟立ったのを憶えている。
 果てしなく死の苦しみを与え続け、永遠に死後の安らぎを与えない無間地獄。こんなことが果たして人間にできるのだろうか?
 棗恭介はその意味で、もはや人間ではなくなってしまっている。この世界は、今や出口の無い無限の迷宮となり、棗恭介は迷宮の主、ミノタウロスになったのだ。人肉を貪り食らう、おぞましい怪物。生贄は、この迷宮で彷徨い続ける私たちだ。

 私は、子供の頃からずっと葉留佳を守りたかった。
 でも今まで私は、この子を守るどころか、傷付けてばかりだった。そしてあのバス事故の結果、この子を守る機会は永遠に失われてしまったはずだった。
 だから、この世界に迷い込んだとき、私は最後のチャンスを与えられたのだと思った。現実世界での私の罪を償える、最初で最後の機会。しかし、結局のところ私はこの子を守れずにいた。それどころか、私がこの子を何度も何度も殺していたのだ。
 葉留佳を死に追いやったのは私ともう一人、直枝理樹。葉留佳を守りたい私、葉留佳を救いたい直枝理樹。それぞれ、手段は違えど目的は同じ二人。それなのに、そこに棗恭介が手を加えることで、二つの歯車は歪に噛み合ってしまう。そして、歪に噛み合った歯車は、歯車が全く望まない方向へとこの子を暴走させ、やがて死へと導いてしまう。全くもって皮肉で滑稽な話だ。本当に救えない。
 繰り返す日々の中、私はずっと同じことを考えていた。どうすれば、葉留佳をあの運命から救えるだろう?どうすればこの子は、無間地獄から抜けられるのだろう?
 考え抜いた末に得られた結論は、この子を直枝理樹から、リトルバスターズから引き離すことだった。直枝理樹が傍に居ることが、いつか葉留佳を追い詰める。他の子たちも近づけたくなかった。近づけば、いつか必ずリトルバスターズと関わりを持ってしまうから。そして何よりも、棗恭介をこの子に近づけたくなかった。この諸悪の根源を、この子の視界にさえ入れたくなかった。
 そうすれば、この子の居場所は殆ど無くなってしまうかも知れない。でも、少なくとも中傷ビラが撒かれて、本当に居場所を奪われることだけは回避できる。

 いや、葉留佳を救うため、なんて嘘だ。
 本当は私が彼らから葉留佳を奪いたかったのだ。私は彼らが羨ましかった。妬ましかった。この子が彼らに笑顔を向けること。この子が彼らと楽しそうに話すこと。全部全部、私には許されないことだったから。
 私は、葉留佳の身も心も縛り付けたかった。今までも、これからも、私には葉留佳しかいないから。葉留佳が私を見てくれないと、私には生きていく意味が無くなってしまう。それは、自分が葉留佳の身代わりになることより、一生自分を殺して生きていくことよりも、ずっとずっと恐ろしいことだった。
 今まで散々葉留佳を傷付けた私を許して欲しいなんて思わない。好きになって欲しいなんて思わない。私は、この子の憎しみのはけ口でも構わない。
 だからおねがい、葉留佳。私だけを見て。憎しみでも殺意でもいい。私のことだけ考えて。私の傍を離れないで。
 私を独りにしないで。

 どれくらい、私はここに居たのだろうか。さっきまでは空を見ていたのに、いつの間にか、私は地面を見つめていた。いや、見てはいなかったように思う。うつむいて、気を失っていたのかもしれない。
 雨は本降りになっていて、私と葉留佳の体を濡らしていた。
 葉留佳。
 私は、葉留佳をもう一度抱きしめた。この子の手を握りたい。この子に触れていたい。そんなちっぽけな願いが叶えられるのが、この子が死んだ今だけしかない。そのことが酷く悲しい。だけど、だからこそ私は葉留佳の亡骸に触れていたかった。この子の存在を私の肌で感じたかったのだ。
 葉留佳の全てが愛おしかった。
 葉留佳の体は柔らかだった。これまでこんな優しく頼りない体でずっとあいつらの虐待に耐えていたのだ。よく頑張ったね。
 この子の温もり。もう事切れて時間も経ち、更に雨にうたれた所為か、体は冷え切っていた。寒かったでしょう。私が暖めてあげるから。
 葉留佳の匂い。いつもの柑橘系の香りはもうしない。するのは生臭い血の臭い。柑橘系は生理的に受け付けないので、あの匂いも苦手だったが、せめて最後くらいこの子の匂いを感じたかったのに。それが残念でならない。
 私は体を起こし、葉留佳の顔を目に焼き付けようとした。口角がわずかに上がっていることに気付く。それだけでこの子の顔が一気に大人びて見えた。憂いを含んだその微笑みは、私が終ぞ見たことのない表情だった。私の目の前でこの子は、笑顔なんて見せてくれなかったから。ああ、何て綺麗な表情なのだろう。私は、葉留佳の前髪の乱れを直してやると、人差し指をこの子の唇に当て、その微笑みをなぞってみた。そして、一瞬躊躇った後、私は葉留佳の唇に、そっと自分の唇を重ねた。

 もうしばらく、葉留佳と一緒にいたかった。だが、私にはまだ、やることが残されている。
 私は葉留佳の亡骸を近くの軒下まで動かした。雨が当たらないことを確認すると、葉留佳の顔には私のハンカチ、体には私の上着を掛けてあげた。最後に念のため私の傘を葉留佳の頭上に差して置く。
 ごめんなさい、葉留佳。もう私には、あなたを部屋まで運ぶ時間は残っていないの。だから、ここに置いて行くわ。せめて、雨があなたの体をこれ以上濡らさないようにしておくから。
 空から、ざあざあと雨が降り注ぐ。私はずぶ濡れになるのを気にせず歩く。上着を脱いだから、私の両腕の傷が濡れた服の上から透けてくる。だが、それすらも気にならない。もう、この世界も、この世界での私も、既に終わっているのだから。

 葉留佳。また会いましょう。
 今度こそ、あなたを守ってあげる。
 そのためになら、どんなにあなたに憎まれてもいい。
 あなたに呪われてもいい。
 あなたに殺されたっていい。
 私の全ては、あなただけのものだから。


[No.136] 2009/05/29(Fri) 01:55:03

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