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No.155へ返信

all 第35回リトバス草SS大会 - しゅさい - 2009/06/11(Thu) 23:22:09 [No.154]
そりゃ、煙じゃ腹は膨れねぇが。 - ひみつ@10211byteここからがほんとうの遅刻だ! - 2009/06/13(Sat) 18:28:57 [No.171]
しめきりー - しゅさい(笑) - 2009/06/13(Sat) 00:23:57 [No.167]
どくどく - ひみつ@8596byte - 2009/06/13(Sat) 00:06:48 [No.165]
[削除] - - 2009/06/13(Sat) 00:00:08 [No.164]
駕籠の鳥と毒りんご - ひみつ 8074 byte - 2009/06/12(Fri) 23:56:40 [No.163]
精神解毒薬 - ひみつ@7950byte - 2009/06/12(Fri) 23:53:01 [No.162]
気の毒な姉妹 - ひみつ@1071 byte - 2009/06/12(Fri) 19:10:20 [No.161]
毒は上に積もる - ひみつ 9397 byte - 2009/06/12(Fri) 18:25:23 [No.160]
コルチカム - ひみつ@12180byte - 2009/06/12(Fri) 14:34:55 [No.158]
(No Subject) - ひみつ@12180byte - 2009/06/12(Fri) 14:36:16 [No.159]
修正しといたよ! - すさい - 2009/06/13(Sat) 00:17:30 [No.166]
Sweet Baggy Days - ひみつ@14977 byte - 2009/06/12(Fri) 04:34:51 [No.157]
彼岸花 - ひみつ@7372 byte - 2009/06/12(Fri) 00:21:30 [No.156]
彼岸花 - 橘 - 2009/06/28(Sun) 15:37:45 [No.207]
『彼岸花』修正しました - 橘 - 2009/06/28(Sun) 15:42:27 [No.208]
All I Need Is Kudryavka - ひみつ@18627byte - 2009/06/12(Fri) 00:05:09 [No.155]


All I Need Is Kudryavka (No.154 への返信) - ひみつ@18627byte


 ◇


 僕が愛したクドリャフカは爆炎に呑まれて死んだ。
 と、僕はメモ帳に書きつける。


 ◇


 僕が愛したクドリャフカは爆炎に呑まれて死んだ。
 あの日の事故から生き残った僕は小説を書くことを覚えた。記した物語はメモ帳の中に閉じ込めて誰にも見せなかった。それで構わないと思えたのは僕が自分自身のために小説を書いているからだ。ゆえに物語の中心には常に彼女がいた。僕の手によって形作られた世界の内側で彼女は元気に走り回っていた。僕に無邪気な笑顔を向けてくれていた。
 数本の小説を書いたところで閉塞感に覚えた。彼女のことを小説にしたいと強く望んでいるのにどうしても新たな物語を紡げない。一行も書けずに手が止まってしまう。何故かと思い、これまで自分の書いた小説を読み返してみて愕然とした。その小説のどこにも僕の愛した彼女がいなかったのだ。こんな小説には何の意味もなかった。
 僕は能美クドリャフカという人間を、彼女の仕草や発言を、蓄えた記憶の中から一つずつ掬い出してノートに書き溜めていった。一週間も経てばノートは彼女に関する膨大な量の記述で埋まった。これだけあれば足りるだろうか。本当の彼女を書き記すことができるだろうか。
 書き記した本当の彼女を、救うことができるだろうか。
 一ヶ月ほどかけて僕はメモ帳に新たな小説を書き上げる。ノートに記した情報を元に彼女を描き出すことができたはずだと思う。僕は興奮気味に書き上げたばかりの小説を読み始める。だがページをめくるにつれて期待に膨らんだ胸は萎んでいった。全てを読み終えた僕は打ちひしがれていた。この小説に描かれているのはやはり彼女ではなかった。絶望と激情のあまりメモ帳を投げ捨てる。ゆっくりと首を横に振る。涙で視界が滲み始めた。
 どうしてか、彼女のことを書けば書くほど、彼女は彼女という存在から離れていくことに、本当の彼女でなくなってしまうことに、気づいた。どれだけ仕草や口癖を真似させても、彼女は彼女にならない。なってくれない。こんな小説は欠陥品だ。
 どうしてこんなにままならないんだろうと思う。
 どうして思い通りの小説を、彼女を、書けないんだろうかと思う。


 土曜日の昼前、鈴に連絡を取る。話がしたいと言うと家に来いと返された。外出するのが億劫らしい。お土産は何がいいかと尋ねると、観たい映画があるからDVDを借りてきてくれと頼まれた。告げられた珍妙なタイトルをメモして携帯の電話を切る。
 厚着をして家を出る。先に用事を済ませようと思い、バス停付近のTUTAYAに立ち寄った。ガラスの扉に張り紙がしてあって、今月限りで店を閉めるという旨が印字されている。三ヶ月も前に張り出されたものらしい。透明なガラス越しに店内を覗き見る。薄暗い空間には山積みのダンボールやメタルラックが放置されていた。床に堆積した分厚い埃が取り払われる日はいつだろう。
 諦めてバス停に引き返す。時刻表を眺めているうちにバスが来た。鞄から舞城王太郎著の『スクールアタック・シンドローム』を取り出す。収録された三つの短編の中の『我が家のトトロ』に栞が挟まっている。既に内容を忘れていたので冒頭から読み返すことにした。
 小説を書くことと同時期に、僕は小説を読むことも覚えた。幸か不幸か、購入したものの一行も読まずに本棚に眠らせていた本が数多くある。今はそれらを一冊ずつ読み崩している最中だった。
 愛が等しく世界や人を救うなんて嘘っぱちだ。でも気まぐれに意地悪に、愛が何かを救ってしまうことはきっとある。その不完全さや残酷さを思わず糾弾したくなるけれど、どんな形であれ人や世界を救えるというのはそれだけでたぶんほとんど奇跡的なことだ。
 僕はそのことに対してうまく自覚的になれない。今だって僕は自分の愛がいつか必ず彼女を救うと信じている。だけどもし、この愛が彼女の救いに繋がらないのなら、小説に詰め込んだありあまるほどの愛はどこに行ってしまうんだろう。どこにもだれにも届かず無意味に消えてしまうんだろうか。それはひどく悲しいことのように思える。悲しいことだと切り捨ててしまってはいけないことのように思える。
 バスを降りてから交番でTUTAYAの位置を尋ねる。鈴の住むアパートからそう遠くない場所にそれはあった。店内に人の姿はまばらだ。併設された本屋を素通りして邦画ホラーの棚に向かう。五分ほどかけて『自殺サークル』『紀子の食卓』『回路』の三作を探し当てる。中身は手つかずだ。三枚まとめてレジに持っていくと店員にカードの有効期限切れを告げられた。そういえばもうずっと更新していない。次にまた借りるあてもないが更新料を支払い、鞄にDVDを押し込んで店を出た。
 半年ぶりに会う鈴は心なしかやつれて見える。挨拶も抑揚に乏しく素っ気ない。お邪魔しますと一応口にする。六畳一間の彼女の部屋にはゴミが散乱していた。僕の基準からすればとても来客に耐えられるものではない。ベッドの上には服が脱ぎ捨てられているし、キッチンの流しには洗い物が放置されている。たぶん長く掃除も自炊もしていないのだろう。
「はい、頼まれてたDVD。一週間後まで大丈夫だから」
「適当にどれか再生してくれ」
 言いながら、鈴はこたつに潜り込んでコンビニ弁当を食べ始める。
「そういうのばかり食べてたら体に悪いよ」
「余計なお世話だ。最近、なにをするのも面倒でしかたない」
 食事も呼吸も、もちろん僕との会話もだるいという感じの表情をしている。
 苦笑しつつ、僕は三本のDVDを床に並べる。正直どれも食事時に観る映画とは思えない。悩んだ末にタイトルが一番穏当な『紀子の食卓』を手に取る。鈴が素早く「それは『自殺サークル』の続編だ」と指摘してくる。さすがに苛立ちを覚えるが、無言で『自殺サークル』を選び取る。再生を始めてから僕は鈴に倣ってこたつに足を突っ込む。わけもなく横顔を盗み見る。画面を見つめる彼女の瞳はどこかうつろで濁っている。
「大学はちゃんと行ってるの?」
「ろくすっぽ行ってない」
「単位は大丈夫なの?」
 鈴は露骨に顔をしかめて舌打ちをする。リモコンに手を伸ばして映画を一時停止する。ペットボトルのお茶を一口飲んでから僕の方を向く。
「かろうじて留年はしないぐらいだ。サークルは入ってなくて友達も恋人もおらん。バイトは深夜のコンビニだったが愛想が悪いとかで先週クビになった。明日は新しいバイトの面接だ。生活は楽じゃないが死ぬほどではない。まだ他に聞きたいことはあるか」
 かつての鈴はこんなに攻撃的な物言いをする人だっただろうか。気圧されて何も言えずにいると彼女は僕から視線を逸らして一時停止を解除する。画面の中のプラットホームには数十人にも及ぶ女子高生が白線を越えて横並びに手を繋いで立っている。バックに楽しげな音楽が流れている。「いっせーの」という掛け声に合わせて彼女たちは繋いだ手を振り上げる。「せっ」で躊躇なく飛び降りる。迫り来る電車が線路に落下した数多の肉体を轢き潰す。衝撃で四方に血と臓物が撒き散らされる。僕は吐き気を覚えて口を覆う。鈴は無感情に画面を見つめながら割箸で弁当のおかずを口に運ぶ。こちらを一瞥して「おまえ、なにしに来たんだ」と吐き捨てるように言う。
 僕は持参したメモ帳を鈴に差し出す。誰にも見せるつもりでなかった小説を、僕はこのとき初めて他人の目に晒す。無言で受け取った鈴がそれを読み始める。相変わらずの無表情だが瞳は文字を追って動いている。やがてこたつの上にメモ帳を放り出した彼女が「で、これがなんだ」と不機嫌な声で言う。テレビに流れているのは、母親と思しき女性がまな板に載せた自分の手を穴開き包丁で切り落としている映像だ。
「クドの物語を書きたいんだ」
「書いてるだろ、ここに」
「そこに出てくるのは本当のクドじゃない」
 鈴は呆れたようにため息をつく。
「なにを言っているのかさっぱり分からん。それは単におまえがここに出てくるクドをクドだと思ってないってだけだろ。それともなんだ、おまえの書いた小説だから、その中に出てくるクドも作者であるおまえそのものでしかないとか言いたいわけか。このクドは物語の駒でしかない、作者の言葉を代弁させているだけだ、愛が足りていない、とか思っちゃうわけか」
 愛は足りているし、僕は彼女のために物語を書いた。それでも僕の書いた彼女は彼女にならない。やはり別の何かになってしまう。そう感じている。
「そもそもだ、はっきし言って死ぬほどつまらん。読むに堪えん。どうせ書くなら面白いものを書け、面白いものを。起承転結とか三幕構成とか序破急とかで物語をちゃんと整えろ。技巧を凝らせ。メタフィクションとかミメーシスとかミザナビームとかオマージュとかなんでもいいから取り入れてやってみろ」とよく分からないことを偉そうに言いながら、鈴は自前のノートパソコンをベッドの上から引っ張ってくる。そういう問題じゃないんだよ、とは言わずにおいた。
「実はあたしも暇なときに小説を書いてる」
 マウスを託された僕はデスクトップに並んだ文書ファイルの一つを適当に開いてみる。
 鈴の書く物語はどこまでも陰惨だった。彼女の描く世界からは致命的に倫理が欠如していた。登場人物たちは偶然や事故や不運や悪意で次々と苦しみながら死ぬ。血が流れ肉が裂け四肢が千切れ飛ぶ。差し出された一握りの希望は誰かが手にする前に叩き潰される。作中に蔓延する数々の死が現実にいる僕の精神をも蝕むようだった。
 他にもいくつか読んでみたが、程度の差こそあれ鈴の小説はどれも似たような作風だった。登場人物は老若男女の区別なく徹底的に蹂躙され、流れた血は物語の潤滑油になる。提示される幸福はどれも擬装されたもので、薄皮一枚剥がした先には破滅だけがあった。
「愛だとか恋だとか、幸せだとかがな、書けないんだ」
「それこそ」と言って僕は自分のメモ帳を拾い上げる。
「ただ普通に書けばいい」
「普通ってなんだ」
「普通は普通だよ。世間一般が持ってる常識だよ。出会った二人が惹かれ合って恋に落ちて、愛し合うようになって、困難があるかもしれないけど結ばれて、それで家庭を持つようなことが愛であり恋であり幸福だよ」
「そんなの、嘘くさい」
 愛を愛として、恋を恋として、幸福を幸福として書き記すことのできない鈴が哀れだと思った。人を殺し世界を壊し物語さえも破綻させた先に、彼女は何を描き出そうとしているのだろう。
「実際に書いてみれば、考え方も変わるんじゃない?」
「書いたことはあるが、だめだった。どんなに頑張って書いてみても、最終的にそれは愛でも恋でも幸福でもない、なにか別のものになるんだ」
 既視感を覚え、そして悟った。僕に鈴を哀れむ資格はない。愛を愛として、恋を恋として、幸福を幸福としてしか書き記すことのできない僕もまた、彼女にとってたぶん理解不能な存在なのだと気づいたからだ。僕たちはおそらく共通の病に侵されている。書きたいものが書けない、書こうとしたものが書こうとしたものにならない、あるいはそう感じてしまう、病だ。あの事故で僕たちは、大切な人たちの命と共に大切な何かを炎の中に持ち去られてしまったのかもしれない。焼け崩れたその何かが返ってくることは永遠になくて、だからこの病は不治なのかもしれない。そんなことを思う。


 虹色のシャボン玉が飛んでいる。数え切れないほどたくさんだ。
 僕もまた淡い膜の内側にいる。そっと膜に触れてみる。ぶよぶよとした感触だ。指先で思い切り突いてみる。僕を包んでいたシャボン玉は一瞬にして割れてしまう。重力のない闇の中に投げ出される。たちまち上下左右が分からなくなった。宇宙空間はこんな感じかもしれないと思う。
 何となく近くにあるシャボン玉を覗き込んでみる。思わず声を上げる。シャボン玉の表面がスクリーンみたいになって映像を映し出している。彼女がいた。教室で授業を受けている。声をかけてみるがこちらに気がつく様子はない。他のシャボン玉も次々と覗き込んでみる。その全てに彼女の姿があった。野球の練習に励んでいたり、料理に夢中になっていたりといった状況の差異だけでなく、年齢もまちまちだった。今より大人びている彼女もいた。我慢できなくなって、僕はシャボン玉の中に腕を突き入れる。指先に彼女が触れたのが分かる。
 一気に引きずり出す。彼女は僕と視線を合わせる間もなく液状に変化する。彼女の残滓が空間に舞い漂う。どこからか悲鳴が上がる。シャボン玉の中の世界にいる僕が号泣している。地面に散乱した肉片を抱き締めている。
 僕は別のシャボン玉から彼女を引っ張り出す。やはり同じように溶けてしまう。構わない。シャボン玉によって囲われた世界から彼女をさらい続ける。この世界に存在することのできる本当の彼女を捜し求める。やがてこの世界には、絶叫とすすり泣きと怨嗟の声だけが残される。彼女はどこにもいない。いなかった。頭痛がする。うまく呼吸ができない。シャボン玉を叩き割る。一つの世界がぱちんと弾けて消える。ぱちん、ぱちん、ぱちん。もう耳障りな音も声も聞こえない。
 方々に拡散していた液体が急に凝集を始める。彼女だったものが一つの塊を練り上げていく。それは人の形をしていた。ゆっくりと形作られる四肢と胴体と顔を見た瞬間に、僕は自らの行いを後悔する。人に似ているがそれの顔も体も造形がおかしいのだ。無数の世界に散らばった無数の彼女たちが、僕とは違う誰かの手で紡がれた物語の中に存在する彼女たちが、溶け合い混じり合い一つの個体になったところで本当の彼女にはなれない。ならない。それを思い知らされる。
 彼女になり損ねた彼女がこちらに寄ってくる。恐怖を覚えて反射的に突き飛ばす。打ちひしがれたような表情を浮かべた彼女が、脈絡なく両手で自らの首を絞め始める。突然の事態に僕は何もできずにいた。間もなく息絶えたそれの瞳には涙が滲んでいた。
 僕の口から吐息が漏れる。この子は僕が身勝手に産み出してしまった存在であることに気づいた。罪悪感が体中を満たす。どんなに出来損ないでも、僕はこの子を守るべきだったんだ。誰からも嫌われ見捨てられたとしても、親である僕だけはこの子を受け入れてあげるべきだったんだ。どうして信じてあげられなかったのだろう。どうしてそこにいることを許してあげられなかったのだろう。この子だけじゃない。僕はこれまでどれだけの子を自分の都合で産み出して、それが気に入らないからといって切り捨ててきたのだろう。どんな謝罪の言葉ももはや救いにはならない。
 もう一度、小説を書こうと思った。彼女についての物語を。
 今度こそ、僕は産まれてくる子を愛してあげようと思う。
 そのための物語を、彼女を、書こうと強く思った。 


 電気の消えた暗い室内でうごめく小さな影がある。何も見えなくともそれが彼女であることを理解する。胸の中に彼女が飛び込んでくる。華奢な体をそっと抱きしめる。柔らかな肌の感触と甘い匂いに脳が痺れる。言葉は必要なかった。僕たちは唇を重ねる。重ねた唇をそのままに二人揃ってベッドに倒れ込む。僕は手を伸ばして彼女の服を脱がせる。さらけ出された彼女の肉体はもしかすると焼けただれているのかもしれない。でもきっと綺麗なままだ。彼女が本当の彼女であるということも、これが現実であるということも、死んだ彼女と出会うということも、僕は疑わずに受け入れる。この暗闇は僕から想像力を奪わない。
 服を脱ぎ捨てた僕は静かに彼女と交わり合う。彼女が僕の中に流れ込んでくるのを感じる。たぶんこれは錯覚じゃない。溶け合って一つになる感覚を味わいながら僕は彼女のことをより深く知る。ここにいる彼女が僕の愛した彼女であることを思う。彼女を抱いているという感覚が徐々に薄れていく。たまらなく眠い。彼女を決して離してしまわないよう、僕は背中に回した手に力を込める。
 一度散り散りになった意識は翌朝まで戻らなかった。目覚めると僕の腕の中に彼女はいない。部屋に彼女を思わせるものは何一つ残されていなかった。あるとすれば僕の記憶ぐらいのものだろう。強烈な喪失感の只中で僕はまた新たな小説を書き始める。
 この日を境に僕のお腹は膨らみ始めた。
 僕は妊娠していた。
 小説を書くのと等速度でお腹の子どもは大きくなっていく。戸惑いはなかった。産まれる子どもはきっと彼女そのものだ。これから産まれる彼女のために僕は物語を書く。できるだけ楽しく幸せな世界を描写によってつくり上げ、そこに彼女を産み落としてあげようと思う。
 僕の描く世界は以前よりも随分と美しかった。世界に色を乗せる術を僕はお腹の子のために学んだからだ。逆に物語それ自体は大きく意味を失った。物語の駒として動く彼女の姿は見たくない。産まれ落ちた彼女自身が物語をつくるべきだと思った。
 数ヶ月の期間をかけて僕は小説を完成させる。文句のない出来栄えだと思った。かつてない充実感に胸が満ち溢れていた。逸る気持ちを抑えて小説の文字を最初から順に追っていく。だが読み進めるうちに違和感を覚えた。それは際限なく膨らんでいき、中盤を越えた辺りで確信に変わる。
 違う。これは彼女じゃない。
 この小説にも本当の彼女は不在だった。だがもう落胆はしない。やれるだけのことはやったのだ。産み落とした子を愛することに変わりはない。
 そのとき初めて、僕は床に横たわる我が子を見た。絶句する。そこにいる子の姿は彼女と似ても似つかないどころか醜悪な化け物だった。不器用に立ち上がったそれの腹は横に裂けていて、そこから血に押し出された臓物がいくつもぼたぼたとこぼれ落ちる。再び床に転倒したそれの、長い頭髪が放射状に広がる。剥き出しになった顔面は肉が派手に崩れていて目も鼻も口もどこにあるのか分からない。親である僕を求めて伸ばされた片腕は数秒ともたずに血溜まりを叩く。
 唐突に確かな理解が胸中へ落ちてきた。めまいがする。馬鹿みたいに嗚咽を漏らす。僕はその場に座り込み、床に倒れて痙攣を続ける我が子を見つめる。あたたかな涙がどうしようもなく頬を伝う。
 僕の子はじきに死ぬ。彼女になれなかったから死ぬんじゃない。彼女になったから死んでしまうんだ。僕の愛した彼女は焼け死ぬことでしか本当の彼女足りえないんだ。フィクションの世界と物語の中でさえ、僕は彼女に爆炎に呑み込まれる以外の結末を与えてあげることができないんだ。


 肉の焦げつく臭いが部屋に充満している。
 彼女を救いたい。幸せにしてあげたい。
 その気持ちは、僕もあなたも変わらないはずだ。
 彼女のことを小説にする僕がいて、彼女のことを小説にする僕のことを小説にするあなたがいる。僕にとってこの世界は《彼女が事故に巻き込まれて数年後》の《現実》で、あなたにとってこの世界は《彼女が事故に巻き込まれて数年後》の《創作》なのだろう。僕とあなたで立場は違うが、彼女を救えないという状況は同じだ。僕もあなたも、彼女が事故に巻き込まれたという確かな記憶を持っている。記憶喪失にでもならなければ、その事実を頭から消し去ることはできない。できない以上は僕たちが何度小説を書いたって同じことだ。どんなに優れた物語も彼女を救いはしない。
 涙を拭い、燃え続ける彼女の死体から視線を逸らす。床に落ちたメモ帳を見た瞬間、ある一つの考えが僕の頭の中に落ちてくる。それはあまりにも無謀で突飛な考えのように思えた。しかし試してみるだけの価値はあるかもしれない。元より彼女のためならどれだけ分の悪い賭けでも乗るつもりだった。僕はメモ帳をそっと拾い上げ、部屋の片隅にある椅子へ腰かける。机の上に白紙のページを開けてシャーペンを手に取った。彼女のために小説を書こう。僕にできるのはいつだって小説を書くことだけだ。書き出しの文章はもう決めている。いや、決まっている。


 僕が愛したクドリャフカは爆炎に呑まれて死んだ。
 と、僕はメモ帳に書きつける。


 ――と、僕はメモ帳に書きつけた。


 ◇


 マグカップに注がれた珈琲を口に運ぶ。苦味が舌先を痺れさせる。僕は握ったシャーペンを机の上に放り捨て、大きく伸びをした。椅子の背が軋みを上げる。
 僕たちを題材にしたゲームが発売されていると聞いたとき、僕はひどく驚いた。慌てて購入して、つい一週間ほど前に全てのシナリオを終えたわけだが、これがなかなかよくできていた。ゲーム内では僕たちがバスの事故に巻き込まれたり、それが原因で虚構世界なんてものが生み出されたりしていたけれど、もちろん現実でそんなことはなかった。しかし、と僕は思い、手元にあるメモ帳を見下ろす。何故、僕はこんな小説を書いたのだろう。どれだけ頭をひねっても何一つ思い出すことができない。
 この小説の最後で、僕は彼女を救うために小説を書いている。このとき、僕は自らの現実とその物語を小説化することで、バス事故が起きた世界を丸ごと創作のレベルに落とそうと試みたのではないだろうか。事実として事故は起きていないし、起こらなかった。とはいえ、あまりに突拍子もない推測だ。非現実的に過ぎる。だけどもし、この小説に書かれた世界を生きる僕が、彼女に対する愛だけを根拠として、今ここにある現実と、今ここにいる僕に至ることができたなら、それは――……いや、もう考えるのはよそう。
 本当のところは分からない。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、この世界が本物であることは確かだ。この世界を創作している人間なんてどこにもいない。僕の物語は僕だけのものだ。彼女が在るこの世界を、あなたが不在のこの世界を、僕はきっと喜ぶべきなのだろう。
 メモ帳をめくり、記された小説の最後のページを開く。この物語は僕が小説を書き始めたところで終わっている。それ以降のページは白紙だ。どれだけめくっても何も見つかりはしない。もし彼女が永遠に未完のこの小説を読んだなら果たして何を思うだろう。
 僕と彼女の物語はこれから書かれるだろうし、これまでも書かれてきたのかもしれない。あるときは誰かを愛し、あるときは誰かに愛され、あるときは誰かに苦しめられてきたのだろう。そんな未来や過去がきっとあるし、あったはずだ。それでも構わない。今ここにある、彼女の生きるこの世界だけが僕にとっての本当だ。この世界と物語だけは絶対に誰にも引き裂けない。引き裂かせはしない。
 僕は引き出しの奥深くにメモ帳を仕舞い込み、何気なく掛け時計を見る。彼女との約束の時間まではまだ随分あるが、早めに準備をしておこうと思う。何かの手違いで遅刻でもしたら目も当てられない。彼女と二人きりで出かけるのは久しぶりのことなのだ。マグカップに残された生温い珈琲を飲み干して立ち上がり、僕はその場でもう一度だけ伸びをした。


[No.155] 2009/06/12(Fri) 00:05:09

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