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「おめでたですね。現在3カ月です」 近所の産婦人科でそう告げられた時、あたしは思わず理樹の顔を見た。理樹もあたしの方を見て、嬉しそうに微笑んだ。 「やったね、鈴」 理樹のそのきれいな笑みに思わずうなずくと、あたしの髪飾りがチリン、となった。 近所でも有名なおじいちゃん先生がしわくちゃの笑顔でめでたいですなあ、とうなずいて、あたしの横で理樹が何度もペコペコしていた。それを見ていると、なんだかくすぐったい気分になる。ふと自分の下腹部に手を当ててみたら、なんでかは分からないが、あたしも微笑んでいた。 産婦人科からの帰り道でも、理樹はやっぱり笑っていた。その幸せそうな横顔を見てるだけで、もっかい理樹にほれなおしてしまいそうだ。商店街を過ぎても、今家にいる猫と出会った街路樹を通り過ぎても、理樹の笑顔はまだまだとどまるところを知らなかった。これが最近こまりちゃんが言ってた幸せタイフーンだと気付き、そのことを理樹に教えてあげるべきか悩んでいると、突然理樹が自分の羽織っていたコートを脱いであたしの肩にかけてきた。なんか悪のギャングっぽいなと思っていると、やっぱり笑顔で理樹が言った。 「もう一人の体じゃないんだから、さ」 くちゃくちゃほれなおした。頬に赤くなったのがばれないようにあたしは笑顔で、 「3か月前なら、お医者さんごっこの時のやつだな!」 そう叫んでやった。 おめでた。夜にベッドの上で呟いてみた。もっかいおなかに手を当てる。へんな感じだ。頭の中の意味と自分の中の感覚とが一致していない。この事実になんだか怖くなって、横に首をひねると、あたしの横には理樹がいて静かに寝息を立てていた。隣に理樹がいると思うとだんだん怖い感じは薄らいできた。うん。おめでた。なんかそれもいいんじゃないか。そう思えてくる。理樹を見ながら、あたしは目を閉じた。 ジャー! 物音で目が覚める。目の前はまだ真っ暗で、時計で確認してもまだ夜だ。あたしは眠い目をこすりながら音のする方へと歩く。なんとか体をどこにもぶつけずに歩を進めると、そこは洗面所で、水を流しながら何度も口をゆすいでる理樹がいた。あたしが背後にいることも気がつかないみたいだ。 「理樹」 声をかけるとあたしの姿に心底びっくりした様子で理樹が振り返る。眠いのも相まってジト目で睨む。理樹は固まったまま動かない。水が排水溝に吸い込まれていく音がやけに大きく聞こえた。あんまりにも理樹が動かないのであたしから話した。 「理樹。何してるんだ?」 「え、えっと…」 「理樹もだからな」 「え?」 「もうあたし一人の体じゃないんだからな」 帰り道のお返しだ。理樹はあたしの言葉にポカンとしてたが、あたしとしては言うべきことは言ったので寝ることにする。ふらふらと寝室まで戻ってきたところで意識が途切れた。 次の日から大変だった。くちゃくちゃ大変だった。知らせを聞きつけたみんながかわるがわる家に来てくれたり、悪阻とやらでゲボゲボ吐いたり、無性に気が立ってみんなに当たったりした。 3ヶ月たってようやく悪阻の収まってきた頃、運動のために近所を散歩していると、携帯に馬鹿兄貴から電話がかかってきた。 「理樹が倒れた。今すぐ帰ってこい」 理樹が倒れた。いやいやいや。わけが分からなかった。馬鹿兄貴があたしを驚かせようとしたんだ。そうに違いない。そう決めつけて一応少し早足で家に帰ると、落ち着かない様子でこまりちゃんがいた。あたしはろくに事情を説明されないまま、こまりちゃんに連れられて病院に行った。緊急治療室、と掲げられたガラス張りのその部屋に、いろんな機械を体中につなげられた理樹がいた。 言葉も出ず立ち尽くしていると機械の一つが甲高い音を鳴らした。部屋の中の人たちが慌ただしくなった。周りの人は何度も理樹を起こそうとしたけど、甲高い音はずっとあたしの耳にこびりついて離れなかった。 いやいやいや。 あたしはその場に崩れ落ちた。 その日からのことはあまり覚えていない。気がついたら冷たい理樹と一緒に家に帰ってきていて、気がついたら理樹は温かい骨になっていて、気がついたら理樹は冷たいお墓の中にいた。 妊娠の知らせを聞いた時、すでに理樹の命はあと少ししかなかったこと、あたしに隠れて何度も血を吐いていたこと、理樹の体のことをあたしの両親と馬鹿兄貴は知っていたこと、あたしには自分から話すからと言って理樹から口止めされていたこと、そのことを泣きながら土下座した馬鹿兄貴に伝えられた。 いやいやいや。 あたしの世界は簡単に崩壊してしまった。朝起きるとあたしの横に理樹がいない。あたしに微笑んでくれる理樹がいない。あたしが作ったご飯を食べてくれる理樹がいない。怖くなったときに慰めてくれる理樹がいない。夜寝るあたしの横に理樹がいない。あたしの手の先に理樹がいない。 両親にも馬鹿兄貴にもこまりちゃんにも馬鹿二人にもはるかにもクドにもくるがやにもみおにもささこにも、誰一人理樹の代わりなんてできない。あたしは怖くなって目をつぶる。こんな現実なんて見たくない。なのに餌を求める猫たちがないている。 いやいやいや。 そんな感じで絶望していたあたしはおなかの赤ちゃんのことなどすっかり忘れていた。まるで関心がなかった。いまだに自分の中に誰かがいるという自覚は無かった。少しだけショックから立ち直って久しぶりに産婦人科へ検診にいくとおじいちゃん先生はあたしをみてひどく驚いたようだった。 「流産の危険性がある」 検査結果をみておじいちゃん先生は険しい顔をしてそう言った。 「理樹がいないなら、もうどうなってもいい」 あたしは正直に何もかもを話した。心境を口にするたびに、どんどん沈んでいくのが分かる。もうどうしようもないのに、変わりようがないのに愚痴る自分に嫌気がさす。頭がお腹につくぐらいにうなだれたあたしに、おじいちゃん先生が言った。 「…君の旦那さんから、手紙を、預かっておるよ」 その言葉に顔をあげると、おじいちゃん先生が渋い顔で 「少し前に君の旦那さんから、今度妻が来たら渡してほしいって手紙を預かっていてな、まさかこんなことになるとは…」 そう言って引き出しの中から一通の封筒を渡された。差出人の欄にはきちんと直枝理樹と端正な字で記されている。あたしはゆっくりと糊をはがし、折りたたまれた手紙を取り出す。そして意を決してあたしは読み始めた。 読み終わったあと、あたしは目尻の涙をぬぐって先生に宣言した。 「産む。理樹の子供を、産みます」 先生は朗らかにうんうんとうなずき、あたしにこれからどうすればいいかを教えてくれた。 あたしはおじいちゃん先生の指示に従って毎日を過ごした。体にいいものを食べ、猫を連れて散歩し、疲れたら眠った。減っていた体重は戻り、安定した毎日を送れるようになった。流産の危険性は無くなったそうだ。ある日、診察を終えたおじいちゃん先生が 「そろそろ、おなかの赤ちゃんが動き始める頃ですよ」 と、あたしに告げた。帰ってきて、大きくなったお腹に意識を合わせてみるけれど一向に動く気配はない。ずっとその体制でいると眠くなってきた。瞼を閉じてうとうとしていると気がついたら目の前に理樹がいた。 理樹があたしに向かってごめんとか申し訳ないとか謝るのを無視して、あたしは理樹に近づいてハイキックをお見舞いしてやった。確かな手応えを感じる渾身の一発だった。思わず残心のかまえまでとってしまった。派手に吹っ飛ばされた理樹はいやいやいや、と苦笑しながら立ち上がり、 「今までありがとう。鈴」 お礼を言われた。思わずうつむく。馬鹿理樹め、くちゃくちゃほれなおしたじゃないか。何か言わなくてはと顔をあげると、もう理樹の姿はなく、代わりに、 ゲシッ お腹の中で独特な動きが生まれた。ハッと目を覚めしてお腹にそっと触れる。こそばゆいような、どこか懐かしい感覚。気がつくとあたしは微笑んでいた。これから先どうするとかは後で考えよう。それよりも、あたしには考えるべきことがあった。 「…女なら理樹子で決定だな。うん、男でも理樹子だ」 ゲシッ。 あたし譲りのハイキックで不満を示したお腹の子に、早くいい名前を考えないといけないな。 理樹、手伝ってくれ。 [No.277] 2009/07/24(Fri) 21:10:19 |
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