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「鈴、そろそろ時間――」 僕がそのドアを開けたとき、教会の時計は十時二十二分を指していた。木立に囲まれた丘の上のチャペル。柔らかな木漏れ日が差し込む廊下の窓から、初夏の匂いがそよいでくる。ヒタキの声が遠くから耳をくすぐる。真鍮のドアノブが手のひらにひやりと冷たい。 僕は大きく息を吸った。呼吸を忘れていたのかもしれない。ゆっくりと吐き出す。頭の中がクリアになっていく。記憶もクリアされた。一から思い出そう。 僕は誰?――直枝理樹。 ここはどこ?――教会、の新婦控え室、の入り口。 オーケイ、それで僕は何をしてる?――見てる。 何を?――うなじ。 What?――うなじ。鈴の、白くて、細い、滑らかな、うなじ。 僕がそのドアを開けたとき、鈴はこちらに背を向けたまま、純白の長手袋で髪を結い上げていた。 「理樹、手伝ってくれ。お団子、むずかしい……」 U字型の大きなヘアピンを口にくわえたままで不明瞭な言葉だったけれど、僕の言語野には何の不都合ももたらさなかった。 天窓から降ってくる光が、鈴の髪を蜂蜜色に彩っている。いや、それは大袈裟か。けれど、いつもより高めにくくったポニーテールの周りを、光の粉がきらきらと舞う光景はちょっと幻想的だ。しっぽの影が薄いヴェールとなって、うなじの上を行ったり来たり。 鈴は僕に手伝いを要請してからもなお、自分でどうにかしようといじっているけれど、やっぱり上手くはいかないようで、だんだんと二の腕が震えてくるのが見て取れた。 「……理樹、そんなところでぼーっとしてないで、手伝ってくれ」 入り口から一歩も動かない僕に痺れを切らして鈴が言う。くわえていたピンは膝の上に落ちていた。 じゃりっ。美しい光景をただ眺めるだけの場所から一歩を踏み出し、その中へと踏み込んでいく。五歩。意外と近かった。 「何をやってるんだ、お前?」 ようやくのことで鈴の背後に立つと、鏡越しに怪訝な視線を送ってきた。僕からは見えないけれど、きっとよほど厳かな顔をしていたんだろう。どんな顔が厳かなのかはわからないけど。 僕は曖昧に笑ってごまかし、試行錯誤の末に乱れたしっぽを櫛で整えていく。ぼんやりと輝く細い髪は、ゆっくり丁寧に梳いているつもりなのに、ときどき微かにぷつっと切れる手応えがあった。 怒られるかな、と顔色を窺ったけれど、鏡に映る鈴たちは目を閉じて、意外なほどに上機嫌な様子だった。 「どーした?」 僕が手を止めてしまったから、上目遣いで訊いてくる。答えの代わりに痛くない?と訊くと、なぜか不満そうに平気、と答えた。 何が不満なのかが分からないけれど、いつものことと思い、気にしなかった。ちょっと梳き過ぎたのか、静電気でしっぽが膨らんできてしまった。せめて霧吹きくらいは用意すればよかった。 「……あのな。いつもとちょっと違ってたり、しないか?」 ぽつりと鈴が呟いた。不満を通り越して不安になったような顔で。そうか、僕に言って欲しかったのはそれか。答えは分かったけれど、すぐに答えるのは慌てたみたいで何だか癪なので、手を止めて、少し勿体つけてから答えた。 「ドレス、似合ってる。綺麗だよ、鈴……」 すると鈴は口許をほころばせながら頷いて。 「ん、ありがと……でも、それはさっきも言ってもらったし、ちょっとの違いじゃないぞ?」 あれ?言われてみれば、着付けを手伝ってそのときに言った気もする。……うん、思い出した。一言一句同じだった。 見ると、僕の癖が伝染ったのか言葉での突っ込みも最近鋭くなってきた鈴は、続きを期待するようにじっと見つめている。正解は別にあるらしい。いつもとちょっとだけ違うところを探しながら、何気なく鈴の尻尾をいじっていた。整えなおしたしっぽを二つに分け、片方をねじっていく。そして、しっぽの根本に巻きつけていてふと気付いた。 「そういえば、すず付けてないね?」 いつも付けていたすずの髪留め。あの涼しげな音を今日は聞いていなかった。 僕の答えを聞いた鈴は、ずっと考えてこれか、と呟いてため息をついた。 「理樹、この状態でどーやったらそれを付けられるのか言ってみろ」 ……ごもっとも。これから髪を巻こうってのに髪留めは付けませんね。ああ、そんなアホの子を見るような視線を送らないで欲しい。鏡に映った鈴たちに一斉に見つめられると、さすがにちょっと居たたまれない。ちょっと待って、もう一回だけチャンスを下さい。落ち着け、まずは素数を数えるんだ。素数が一つ、素数が二つ、ダメだ、違う気がする。といって他にいい手立ても浮かばない。ベタだけれどまた深呼吸をして―― ふわり。 ようやく気付いた。鈴の香り。花だろうか。果物の花。酸っぱさと青い苦さ。それと蜜のような甘さ。強くはない、けど確かにある。 「気がついた?」 一瞬だけ見えた自分の口許は、ぽかんとだらしなく開いていた。鈴が見た僕の顔はさぞ間抜けだったろう。いい香りだね、なんてありきたりなことを言うのがやっとだった。 それでも鈴の機嫌は直ったようで、だから僕も余計なことを言ってしまった。 「鈴と香水って組み合わせが思いつかなかったよ」 「なにぃ、馬鹿にしてるのか?蹴るぞ」」 「せ、セットが終わるまで待ってください」 頬をぷくっと膨らませた鈴に慌てて前を向かせると、髪を巻くのを再開した。巻きつけた髪をざっくりとピンで留め、残りのしっぽをそこに重ねて巻きつける。 しっぽがいなくなり、露わになったうなじは、産毛を申しわけ程度にまとっただけのあられもない姿で僕を誘惑する。襟足に後れ毛がかかっているが、それは大事なところをまるで隠せていない。 そよ風が産毛の草むらを震わせ、きわどいラインで僕の心をくすぐる。気付くと僕は蜜の香りに誘われるように、そのうなじへと顔を寄せていた。 「理樹……ひゃっ」 鈴の怪訝そうな声は遅く、その草むらへと唇を押し当てていた。 「んっ、ゃめっ……」 鈴の吐息が甘い熱を帯びている。身を捩って逃れようとするのを、抱きすくめるように押さえつける。 「や……」 鼻をくすぐる香りが、昂りに拍車をかける。繰り返し唇で、食み、舐り、撫でる。そして、印を刻むように吸―― 「やめんかーーーーーーーっ!!」 きんっ☆ ――無限に広がる大宇宙。生まれては消えてゆく幾千億の星々。その片隅の、ほんの一瞬、それが我らに知ることが出来る世界の全て―― 「おぉ……マイ、サン……」 「お前さん?」 視界が現世に戻ってきたとき、渾身の裏拳で僕の昂りを一瞬にして鎮圧したマイハニーは、タキシードで床掃除にいそしんでいる僕をしゃがんで覗き込んでいた。けどあんまり心配そうじゃない。 「できればもうちょっと心配して欲しいかな……」 「じごーじとくだ。エロいことしようとするお前が悪い」 と、つれないお言葉。僕が悪かったのは認めるけど、これはあんまりだと思う。せめて少しはすまないと思って欲しい、というのは図々しいんだろうか。 「お陰でもうエロいことが出来なくなりそうだよ」 「しんぱいない。理樹のは丈夫だから」 太鼓判を捺された。 「あー、えー。それは喜んでいいのかな?」 「あ、あたしに聞くなっ!」 真っ赤な顔で怒られた。凄く理不尽なんじゃないだろうか。 痛みはまだ収まらないけれど、そろそろ式の時間なので立ち上がって埃を払う。 「お前すごいホコリまみれだな」 鈴もぼやきながら一緒にはたいてくれた。誰のせいだと言ったところでまた自業自得と返されるのは分かりきっているから、言ったのは別のこと。 「そんなに嫌だった?」 「だって……あとつけようとした」 「あー……ごめん」 いつもならしっぽで隠せるけれど、シニヨンじゃ隠しようがない。 「あいつらに見られたらはずかしいだろーが」 見せてもいいじゃん、とか言ったら今度こそ僕の性別が危うくなるので胸にしまっておく。 「髪、ほつれちゃったから直そうか。あ、今度は大丈夫。さっきの続きは夜に取っておくから」 「……うっさい」 空は快晴、雲が流れ。目の前には木立に埋もれるように立つ小さなチャペル。 ふと匂いたつ花の香り。薄いヴェールを被った鈴が、僕と手をつないでいる。その手の温もりをしっかりと握り締め、また一歩を踏み出す。 練習なんかしていない。牧師もいないし段取りも適当だ。でも、誓いの言葉はもう決まっている。だから大丈夫。 「それじゃ、行こうか」 「……ん」 靴底がやわらかい草を踏む。鳥の声と木々の葉擦れを音楽にして、僕たちはその扉を開けた。 [No.28] 2009/03/20(Fri) 12:52:28 |
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