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鈴が泣いていた。真上から降る街灯で鈴の影が黒く地面に落ちていた。その横にアジサイが咲いているけれど、時期どおりなのか時期はずれなのか微妙に分からなくてガッカリした。なぜガッカリしたのかはよく分からなかった。 「だからもう一度言うけどさ」 噛んで含めて僕は言う。 もうこの夜で、何度同じ言葉を口にしただろうか。 鈴はワンワン泣きながら電信柱を抱きしめ続けていて、僕のことなど忘れているようだった。鈴なのにワンワンと泣いてるのがなんだか釈然としなかったけど、でも僕には鈴が僕の言葉に耳を傾けているのが理解できたので言葉を継ぐ。 「学校の地下には間違いなく巨大なラビリンスがあって、そこで僕は昔大冒険を繰り広げたことがあるんだよ。これはもう論理的に正しいと証明してて、なのになんで鈴は認めようとしないの?」 それが僕には分からない。目を瞑れば今でもコルトのマルズフラッシュが思い出せるんだよ? 目を瞑る。まぶたの裏に鮮烈な、いろんな色の光が飛び跳ねていた。 ウコンの力を一息に呷る。ニューデイズで199円なり。なんだ199円って。だって200円出してすっきり帰りたかったのに、呼び止められて一円玉を掴まされる身になって欲しい。店は1円損、僕は1円分以上のカロリーを損。卸売業者も多分損。誰が得してるって誰も得してない。やっぱりローソンに限る。 そうローソンの話だった。 「ねえ鈴、聞いてる?」 「聞いてない! あたしは聞いてないぞ!」 鈴は泣き続けていた。僕はその背中が無性にいとおしくなって、両腕でガッチリ抱きしめた。鈴は僕と電信柱に挟まれてうめき声を上げ、ぐったりと地面に崩れ落ちた。僕は力を失った彼女の身体をいつまでも抱きしめ続けていた。光の輪の外には延々と暗闇が続いていた。僕は泣いた。 「なんで分かってくれないのさ」 鈴が身体をよじって、僕の首に弱々しく腕を回してきた。 「本当に、僕は戦ったんだよ」 いや、鈴は首に手を回したのではなかった。火照った頬に鈴のひんやりとした手が添えられ、前髪がかき上げられた。 「ホントにそうだとしても」 潤んだ瞳を震わせながら、僕の目を覗き込んでくる。 「あたしの前で、他の女の話とかするな」 その声があまりに切実な響きに思えて。 僕は思わず吹き出してしまった。 「ばかだね、鈴」 こつん、と二人のおでこが触れ合った。鈴の後頭部が電信柱にぶつかって、鈍い音を立てた。 「りき……っ!」 飛び上がるように、鈴が抱きついてくる。その身体をしっかりと抱きとめる。 そして僕は座布団に座って半脱ぎの鈴を膝に置いたままテレビを見ていた。僕は全裸だった。はて? しんしんと降り積もるような寒気が部屋に満ちて僕を包み、鈴の温もりだけが僕を繋ぎとめているような錯覚をした。完全に錯覚だった。敏感な臀部に座布団のザラつきがなんとも言えなかった。テレビではNHK高校講座が始まろうとしていた。「高校物理 運動に関する探究活動」。 『高校講座、物理へようこそ!』 お姉さんの声がする。あ、いえ、どうもお招きありがとうございます。最近はアナウンサーも美人揃いになったなあ。アナウンサーなのかどうかは知らないけどさ。 本日の講師は、どこぞの県立高校の能美クドリャフカ先生であるらしかった。 「はあん?」 思わず変な声が出た。つい膝に置いた鈴の頭を揺さぶってしまう。 「やめろウザイ!」 腰骨の薄いところを殴られて大いに痛かった。鈴は頭痛ですぅといったように頭を抱えて床に転がり落ちて動きを止めた。 テレビでは簡易な天体模型? かなにかの向こうに、そこはかとなく緊張した面持ちの若い女性が座っていて、なるほど、言われてみれば確かにクドのようだった。 それで高校時代の積もる話を思い出したんだけど、さっき怒られたばっかりだったから黙っておいた。鈴は全身を使って頭を抱えようとしていた。 僕は立ち上がって、鈴の足首に引っかかっていた僕のパンツをとり、足に通した。そうして冷蔵庫から鈴の缶チューハイを失敬して口を付ける。居間に戻るとクドが高校生となにかの実験をしていた。 重力加速度が〜 落体のなんとかが〜 僕が馬鹿なせいというのが全てではないと信じたいんだけど、もはやチンプンカンプンだった。クドは失望するに違いない。 黒板になにか図を描いては、変わらない丁寧な手つきで綺麗にチョークのあとを消していく。 クドに告白されたのは2年の秋口だった。詳しいやり取りは覚えてない。クドの頭の向こうに体操服の女子がちらと見えたことくらいだった。卒業後の進路については誰の口からも耳にしなかった。 運動の法則なんて、少なくとも僕は一切使わないで今過ごしている、という気がする。 果たしてあの時間にどんな意味があったんだろうね? というのが問題になってるとか。だけどこうして見る限り、クドにとっては無駄ではなかったのかもしれない、と思うけど、実際のところは尋ねてでもみないかぎり分からなかった。 鈴が寝返りを打つ。よだれが派手にこぼれて下のまぶたを掠めていた。僕は手近にあった靴下でその跡をそっと拭った。 角運動量がどうの、という解説が聞こえてきたので、視線を上げると、生え際の寂しい男性がいやに嬉しそうな顔をしてトークを繰り広げていた。 さて僕はここにきて不思議に思うんだけど、クドの告白を受けていたらどうなったのかな、と。最初に思いついたからそんな例なんだけど、例えば恭介に言われたとおりプロ野球選手を目指していたら、とかそういうことでも別に構わない。 クドに当てはめてみれば、先生でなくとも技術者であるとか、なんたら宇宙センター職員であるとか、いろいろあった訳で、あの時間があったからこそ悪い方向に進んでしまったということも十分に考えられる。缶チューハイにしてはアルコール度数が高い。含有量か? 8パーセント。それでも僕はウコンの力を信じてる。 寒くなったのか、人恋しくなったのか、鈴が僕の方へ擦り寄ってきた。鈴の顔は当たり前だけど標準的な寝顔であって、嬉しそうだったとか影が落ちていたとかそういうことはない。 そのほっぺたに手を添える。あったかい。鈴はむず痒そうに身体をくねらせる。扇情的だなあ、などと他人事のように考える。 その肢体は視界の片隅に置いておいて、だ。 鈴の寝顔を眺めつつ別の女の子のことを考えるというのは、やっぱり怒られるべきことなんだろうなあ、と思った。 鈴の頭が膝に乗っていて、立ち上がるに立ち上がれない。僕はそろそろ眠いし、それ以上にトイレに行きたい。 「ねえちょっと、どいてくれない?」 優しく言葉をかけてみるけど、鈴は意地になったのか、僕の腰の裏側に思い切り爪を立ててしがみつく。ちょー痛い。 痛みで我に返るってことがあるのかどうか分からなかったけど、一瞬部屋の惨状が目に映って、すごく気力が萎えた。我慢して寝てしまおうか、と考える。 そろそろこの部屋も狭いだろう。 そんなわけで、上半身を倒して、床に落ちていたアパートなりの情報誌を拾い読みした。テレビの明かりだけだから、ちょっと目が痛い。 ところどころの物件の、「ペット可」に赤丸が付いている。そのうちから、いくつか勝手に見繕う。できれば、広い部屋。7、8人入れるような部屋だったらいいかもしれない。都内じゃ無理だろ、たぶん。 [No.285] 2009/07/25(Sat) 00:11:40 |
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