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細い首筋から汗の粒が静かに伝わっていく。鎖骨を舐めるようにして乗り越え、慎ましく穏やかな胸のふくらみにさしかかったところで薄桃色の下着に吸い込まれる。汗のなぞった跡には窓から飛び込んだ太陽が微かな軌跡を浮かび上がらせている。室温は三十六度。デジタル式の目覚まし時計についているお粗末な温度計だけれど、実際の体感温度もそんなものだ。 再び目線でなぞる先では、最低限の下着だけ身につけたすらりとした肢体が肌を露わにしている。大理石が光を通してぼんやりと輪郭をとろけさせるように、夏の日差しは鈴の体を陽炎のように揺らめかせていた。手を伸ばせば触れて撫でれる距離だというのに。 僕の視線に気づいたのか、鈴のジト目が飛んでくる。 「理樹、えろい」 「それ、そっくりそのまま返すよ」 「お前だって似たような格好だろうが」 確かにその通りだ。六畳半の一室に、下着だけの男女が寝転ぶ。響きから想起される世界には何だか生温いエロスがあるけれど、現実は暑くてしょーがなくて二人してすっぽんぽんになってしまう一歩手前で暑さを凌いでいるだけだ。 昼下がりの部屋は温度も最高潮で、テレビから流れてくる甲子園の熱気と窓から飛び込む蝉のわめき声が、どうしようもなく夏を醸し出している。 甲子園は現在三回の表。対戦は事実上の決勝戦などと銘打たれた準決勝を勝ち抜いてきたチームと、クジ運で勝ち抜いてきたと言われたチーム。前者にとっては勝てば久しぶりの、後者にとっては初の優勝だそうだ。生憎とどちらの県の出身でもない僕らは、何となく後者のチームを応援していた。どちらも打力に自信のあるチームらしく、試合は乱打戦の様相を呈していた。見ている分には投手戦よりも盛り上がりやすいから嬉しい限りだ。 「暑いな」 鈴が唐突にぽつりと言った。現在言ってはいけない言葉ベストテンに入る、というか間違いなくナンバーワンの言葉だった。 「クーラー」ちらりと沈黙しているそれを見る。「つける?」 「電気代、理樹持ちでよろしく頼んだ」 「いや、ないない」 鈴がむすっとした顔を向ける。こんな馬鹿みたいに暑い日でなかったならば、無駄のぎっしりと詰まった阿呆な会話が繰り返されるのだろうけれど、今、そんな余力はどちらにもない。体から出すものなんて汗だけで十分だ。 テーブルの上へと手を伸ばし、置かれていた二つの団扇を手に取る。緩慢な動作で片方を鈴に渡す。こいつあほだー、みたいな視線が突き刺さるけれど気にはしない。 「理樹」 「団扇だよ」 「わかってるわ、しね」 「会話すっ飛ばしすぎでしょ」 鈴の言うようなことなんて十分想像できるし、暑さのことを考えると、省エネで会話を進行させたいからこれぐらいがちょうどいいというのも一応は事実だ。 「まあ、とりあえず扇いでみようよ」 「団扇は自分の頑張った分しか涼しくならんから嫌いだ」 もちろん、扇子もな! と、人差し指をびしりと突きつけてくる鈴のでこに、中指と親指から繰り出される会心の一撃を加えてやりたくなるけれど、暑くて動く気がしないのでやめておく。 「扇風機、寝相で蹴り飛ばしてぶっ壊したの誰だと思ってるのさ」 首を振る扇風機を寝ながらも追いかけてごろごろと転がる鈴を可愛いなあなんて思っていたら、右足をすらりと不意に振り上げて、そのまま渾身の踵落としで扇風機をへし折った。あの時はこの世全ての悪意を身にため込んだような感情が爆発寸前まで膨らんだ。何とか我慢したけれど。 「それじゃあ、僕が鈴を扇ぐから、鈴は僕を扇いでよ」 「うむ。了解した」 即答だった。 「……言っておくけど、僕を扇がないで自分を扇ぐなんてベタなことしたら、すぐに思いっきり抱きつくからね」 鈴の表情が一瞬固まって、すぐに拒絶の色合いを濃くした嫌な感情が浮かび上がる。暑い中くっつかれるのは嫌だろうけれど、そこまで露骨だと流石にへこみたくなった。 せーの、でお互いに扇ぎ始めた団扇は、しばらくしてどちらともなく止めた。結局は部屋の空気も暑いから、涼しいような気のするだけの生温い風しか送られてこない。手首を振り続けている方がよほど体温を上昇させていた。 「しんでしまえー」 「ごめん、これは僕のミス」 どこへともなく鈴は言葉を投げ、僕もそれに応える。 甲子園の様子はいつの間にやら盛り上がりが徐々に収まり、乱打戦から停滞した投手戦へと姿を変えていた。両チームともに、エースは速球派ではない。変化球のキレや制球力が素人目から見てもそれなりにあるのはわかるけれど、盛り上がりに欠けるのは否めない。ヒットが出るたびに方向転換される実況の方が面白いと言えば面白い。 甲子園の歓声も実況もかき消して、開け放った窓からは名前を連呼して投票を訴えかけてくる車の声が響く。どうやら誰かが手を振ったらしい。五月蠅くて仕方がないけれど名前はうっすらと記憶に残っている。記入用紙を前にしてぼんやりしたとき、たぶんふと思い出したその名前を書くのかもしれない。 蝉の声が窓から飛び込んで、その下を滑り込むように聞こえたのは子供の声だった。特に怒っているわけでもないのだろうけれど、さっきの選挙の車に向けて文句を大声でとばしている。うるせー、と叫ぶ自分たちの声が今は最も五月蠅くなっていることなんて気にしないんだろう。どうやら彼らは野球をしに、近くにある広めの公園へ行く途中らしかった。 同じように鈴も彼らの声を聞いていたらしい。 「キャッチボールでもやりに行くかー」 「ボールもグラブもないからね」 「そりゃ、どうしようもないな」 「うん。どうしようもないよ」 「小学生から借りるか」 「その格好で?」 「この格好で籠絡してみせる」 無言で鈴のどこまでもスレンダーな体つきを見る。僕は落とされても小学生はどうかなあ、と考えているうちに団扇を頭に投げつけられた。 甲子園は投手戦が続き、折り返した六回表になってもたびたび映し出される電光掲示板はゼロ行進で進んでいた。終わらない悪夢のようなゼロ行進でも、ごちゃ混ぜになって届く観客の声に変わりはない。窓越しに聞こえる蝉の声も相変わらずだ。 繰り返しすらもやめて停止したような部屋の中で、鈴の肌を伝う汗だけが動きを持っていた。たぶん僕の汗も。暑さでうつろな鈴の瞳にも、僕が見ているのとまるで変わらない甲子園が映っている。 不意に、テレビから聞こえる歓声が熱量を上げた。打球が歓声を切り裂いて、弾けるようにバッターと塁上にいたランナーが走り出す。砂埃をあげて駆け抜けた彼はホームベースを叩き、試合は唐突に動きを取り戻した。 ずるずると続く押し寄せる津波のような大量得点。釣り合っていた天秤の大破。事実上の決勝戦を制してきたこのチームは、実際の決勝戦もやはり勝ってしまうらしい。 「理樹」 「何?」 「お腹すいた」 「あー、僕もちょっとすいてきた」 ゼロ。 「理樹」 「何?」 「やっぱり、クーラー」 「ごめん。あれ実は壊れてて、今動かないんだ」 ゼロ。 相手が打ったから打ち返す、というわけにもいかないらしい。ゼロで進む試合の進みは早い。試合はもはや終わりかけていて、それでいてこの上のない熱気に包まれていた。九回ツーアウト、諦めて帰り始める人を繋ぎ止めるように、金属音が球場に鳴り響く。点差はあれよあれよと残り一点。実況は大盛り上がりで声を上げて、信じられないと言葉をを繰り返す。ここまで追い上げたのも奇跡的、逆転できたらまさに奇跡、らしい。 「理樹」 「何?」 「暇だな」 「暇だねえ」 追いかける彼らは、初の優勝を手放したくないとか意地を見せたいとか、意識の上ではいろいろ考えてはいるのだろうけれど、結局はいつもと変わらず打っていただろう。相手だって少し早くこの大量得点に結びつけただけなのだから、彼らが取れないという道理はない。 「理樹」 「何?」 「いや……何でもない」 「そう?」 でも僕は思う。残り一点。奇跡の一歩手前――そこまで近づけたのはたぶん天にいらっしゃるであろう誰かの考えか何かで、決勝のやり直しなんてありはしないから、誰かが間違えてそんな馬鹿なことを願いはしないように、奇跡寸前のまがい物を甲子園球場に放り投げたに違いない。 こんだけ頑張ったんだ。潔く、あきらめろ――。 単純に、飽きただけかもしれないけれど。 「理樹」 試合終了のサイレンが響いている中、鈴は言った。 「何?」 「ちょっと、寂しい」 サイレンに隠されていて気がつかなかったけれど、あれだけ持続していた蝉の声が途切れ途切れになっていて、ふと見た窓枠の中を上から下へと蝉が落下していった。選挙の車も戻ってこない。蝉の声は聞こえない。少年たちは帰ってきそうもない。 サイレンがまだ止まない中、僕は鈴のすぐ隣に移動して、無造作に置かれた右手の上に左手を重ねた。汗がじっとりとしていた。 「理樹」 「何?」 「言っておくが……しないぞ」 顔を横に向けると、鈴と目が合った。 「そっか」 ならばどうしようかと考えると、サイレンが鳴りやんだのを見計らったかのようなタイミングで玄関のチャイムが鳴った。宅配便か何かだろう。 最低限の服は着ようと、脱ぎ散らかしてあった衣服を手に掴んで立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。中腰になった僕に、鈴がしがみついていた。 玄関のポストに再配送の紙が滑り込み、人の立ち去る音がする。 「ねえ、鈴」 「何だ」 「窓ってさ、開けるためにあると思う? 閉めるためにあると思う?」 「どっちでも構わんけど……今は暑いから開けといてもいいんじゃないか」 「おっけー」 それならば、蝉に混ざって鳴き疲れてしまえばいい。 腰に巻き付いた鈴の両手を手にとって、畳の上へと押し倒す。遠くから、蝉の声がまた聞こえ始めた。 [No.358] 2009/08/28(Fri) 11:46:04 |
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