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お母さんは両目を布巾で覆い、ひたすらに俯いていた。 「やめないか。みっともない」 お父さんはそう言って母から布巾を取り上げた。母の両目は真赤になって、受け止めるものを失った涙はテーブルに零れた。 「睦実も。ティッシュを使いなさいよティッシュを。寝巻きで拭かない」 手に握らされたティッシュペーパーで、ジクジク痛む鼻の頭を押さえた。エンドロールが読めなかった。流れ続ける綺麗な歌も、耳をかすめて頭に入ってこなかった。テレビがNHKに切り替わった。 「何するのよ!」 お母さんが大声をあげ、お父さんの手からリモコンを取り上げる。 「何って、終わったんだろ?」 「エンドロール観ないで映画館から出る人ってなに考えてるの?」 お父さんは聞こえよがしにため息をつき、カシューナッツを頬張った。 「睦実は明日早いんだろう? 寝ないでいいのか」 「いいじゃない。映画くらい。ねえ?」 うん、映画くらい、いいと思う。頷くと、お父さんはまたわざとらしく首をかしげた。 「こんな恋愛してみたかったわあ」 「見合いで悪かったね」 そう言ってお酒の缶に口を付ける。 「恋に恋するお年頃ってんじゃないでしょ」 「何よその言い方」 「嫌味ってわけじゃ、ないけど」 二人はそんな感じに、ずっとお酒を飲んでいた。私はエンドロールにあった主題歌の名前だけ覚えて、二階に上って、ベッドに飛び込んだ。 ヒロイン役の子、綺麗だったな。美人さんじゃないけれど、とにかくもう、綺麗だった。憧れてしまう。あんな顔ができる人なんて、他にいないんじゃないかと思う。こんな気持ちでベッドに入れば、たいていよく眠れるのだ。 翌日は両親に揃って見送られた。 昨日吹いた強風のせいで桜はずいぶん散ってしまっていた。コンクリートの地面のそこかしこに、白く積もった花びらが落ちていて、車が横を過ぎるたび転がるように足元を舞った。普段話すことも無いクラスメイトが早足で追いついてきて、抜き去り際私におはようと声をかけてから、また弾むように歩き出した。私は心持ち歩を緩めて、左手の垣根の向こうの公園を眺めた。塗り替えられたばかりの滑り台、銀色の斜面が眩しかった。今日は卒業式だった。 朝の教室は普段より騒がしいくらいだった。みんながいつもより少しずつ大きな声を出して、手を叩いて笑っていた。浮き足立っている、というのではなくて。でもみんななにかに背を押されるように、騒ぎ立てている。先生が来るまで、まだ時間があるのに、殆どの人は教室に集まっていた。 そんな中で直枝君だけが、いつもと変わらないように見えた。棗さんたちが大騒ぎするのを、横で柔らかく見守っている。緩めた唇。優しいまなざし。幼い顔の印象より先に、どこか大人っぽい、そんな雰囲気があった。 直枝君が棗さんになにか話しかけた。棗さんは興奮して井ノ原君の襟を掴み上げていたのに、直枝君に話しかけられた途端、パッと笑顔になった。井ノ原君はアゴから床に落ちた。かがみこんで井ノ原君の様子を見ている直枝君。その横顔を見つめる棗さんは、とても可愛くて、綺麗だと思った。 席を立ってトイレに行った。大声ではしゃいでいる女子の間を頭を下げて通る。流しで髪を整えた。朝、いつもより早く起きてアイロンをかけたのに、まだ癖が残っていた。鏡の中、あまりいい顔をしてるとは言えなくて、ちょっとガッカリしてしまった。きっとこんな日なら、と、昨日の映画みたいなことを私は期待してしまっていたらしかった。ふとお父さんの言った、恋に恋するという言葉を思い出して恥ずかしくなった。自分の顔が真っ赤になっていて、蛇口をひねって顔を洗った。春先なのが関係あるのかは分からなかったけど、水はとても冷たかった。 廊下に出ると、さっきまでおしゃべりしていた人たちがいなくなっていた。無人だった。遠くから男子の声が聞こえた。急いで教室に戻らないといけないのは分かっていたけれど、廊下の窓から見える風景に、つい足を止めてしまった。散り散りの桜の木の枝間から黒いアスファルトが見えた。ピカピカのワゴン車の屋根に桜の花がひらめいていた。赤い乗用車がひときわ目を引いた。いつも閑散としている駐車場に何台も車が止まっていている。そのうちの一つに、たぶんうちの車があるのだ。探そうというのじゃなく、やっぱりただぼんやり眺めていたいと思った。でもそれも予鈴がなるまでだった。 教室に入るとみんなはもう席についていて、先生が教卓に手を突いて立っていた。私は頭を下げて席に座った。先生の話は何事もないように始まった。いつものように軽口を叩きながら、思い出話を続けた。今だから言うけど、修学旅行の事故のとき、積立金は学年の先生で飲もうなんて話してたんだ。でもまあ残念ながらみんな無事だったみたいでなにより。そんな感じのことを。私も含めて、みんな笑った。今になっては笑い話で済んでしまう。あのときには考えられない。不思議なことだった。 先生が腕時計を見た。軽口を叩く声のトーンが、落ちた、というか、震えていた。でも先生は笑みを崩さないで、今日は先生方みんな居酒屋に行くから、酒飲むなら隣の市まで行けよな、と言った。眼鏡を外して、いつもするみたいに目を指でこすった。 「じゃあ列整理始めるから、出席番号順に廊下」 わいわい話しながらみんな席を立つけれど、朝とは雰囲気が全然違っている。それでも体育館に続く道のり、話をやめる人はいなかった。 体育館は暖房が焚かれていて、暖かい。ブラスバンドの校歌に合わせて、人の間を割って歩いていく。視線がこそばゆい。 「ああもう、聞いてらんない」 そう、隣の女子が話しているのが聞こえた。 「あんな調子で夏の応援、どうするのよ、もう」 「旧部長さん、遣り残したこと多すぎみたいですね」 「うかうか卒業もさせてくれないなんて、ホント先輩思いの子たちだこと」 そんなことを言っているけど、私には立派な演奏に聞こえた。聞く人が聞くと違うんだろうか。パイプイスはとても冷たかった。 そして卒業式が始まる。 校長先生、教頭先生、来賓代表。 『皆さんはもう成人を間近にし、社会の海原へ漕ぎ出そうとしています』 そうだなあと思った。 証書授与。 『三年E組。相川直哉』 自分の順が近づいてくるにつれ、喉が渇いてくる。この頃になると、女子の何人かは泣きはじめているけれど、私にそんな余裕は無かった。予行を思い出しながら、なんとか失敗しないよう、こなす。ひとつずつ手順どおり。大過なく席に戻ると、ようやく一息つけた。 『直枝理樹』 「はい」 顔を上げる。その背中を眼で追った。直枝君は堂々としていて、胸を張っていて、かっこよかった。 直枝君が卒業してしまうんだということが、すとんと胸に落ちた。 卒業式はつつがなく終わり、解散になった。 打ち上げしようぜ、と男子が言い出した。私は両親との約束を思い出したけれど、少しくらい時間を押しても構わないな、なんてことを考えていた。 みんなの顔を見回してみた。 もう多分、1、2度しか会うことはなくなるんだなと思った。それでようやく、卒業するということがどういうことなのか、分かってきた気がした。寂しいと言葉にするとなにか違う気がする、変な感じがする。なんだか、鼻の頭が痛くなってくる。 少し離れたところで別のクラスの子たちが、誰々君に告白してくる! ということを話している。よく分からないけど、嫌だなと思った。まるで宝くじでも買ってるみたいだ。カラオケがいい人! と男子の一人が大きく手を挙げた。多数決になったらしいけど、それに倣って手を上げる人は少ない。でもみんな、このまま解散はしたくないようだった。私も、そういう気持ちになっていた。 直枝君たちが、こっちに向かって歩いてくるのが見えた。 直枝君たちはどうするんだろう。考えた。 少し前なら、きっと自分たちだけでなにかしたがったんだろうけど、今は多分違うと思う。これは私の願望なのかもしれない。少しでも直枝君が見られたらなと思ったのだ。 棗さんが直枝君の前に立って、クラスのみんなになにか提案している。その提案は好評だったらしく、緩みかけた雰囲気がまた盛り上がった。胸を張る棗さんのことを、直枝くんはやっぱりいつもと同じく、嬉しそうに見つめていた。 残念じゃないって言ったら嘘になった。 夢の中でなら。 直枝君を想ったら、私は絵本のお姫さまにも、漫画の綺麗な主人公にもなれた。 直枝君は私の手を取って、どんな場所へも連れていってくれた。 でも、それは夢の中だけのことなのはもう分かりきっていた。 ちょっと親に話してくるから、と、何人かが言い出したので、私も便乗してお父さんたちを探した。うっかり父兄席を探すのを忘れていて、本当に来てくれているのかどうかも自信が無かった。それはさすがにひどいかもしれないけれど、保証はできない。 体育館の裏手を通って、駐車場に行ってみることにする。たしか駐車場のどこかで待ち合わせだったはずだから。 「杉並さん?」 突然、声をかけられた。よく知っている声だった。 振り向くと、直枝君が立っている。 どういうことか分からない。私のあとを追ってきた。そんな空想が一瞬頭をよぎったけれど、すぐに打ち払う。 頬に張り付いた髪を払って、直枝君に向き直った。太陽はちょうど体育館の屋根に隠れて、空の明るさに似つかわず辺りは暗くなっていた。 「さっき、なんだか元気なかったみたいだけど、大丈夫?」 言われて、動揺してしまった。胸が詰まって声なんて出せそうになかった。 顔が紅潮するのが自分で分かった。 そんな、直枝君が声をかけなきゃと思うほど、変なことになっていたんだろうか。最後の最後で、こんな風になってしまうなんて。 もう顔も上げていられなかった。雑草の狭間に引っかかった桜を見るしかできなかった。 「どうしたの? 調子悪いの?」 訊ねられて、思い切り首を振る。そのせいで、髪が思い切り乱れてしまった。 もうダメだった。 二人で黙ったまま少し、立っていた。 恐々視線を上げたら。 直枝君は、棗さんに見せるような、優しい笑みを浮かべて私を見ていた。 初めて会ったとき、棗さんの友達になってと頼まれた、そのときもこんなふうな笑顔だったのが、すぐに思い出された。 「みんなで小学校の頃の遊びやるんだって。学級活動の時間にやった、レクリエーションみたいな。杉並さんも、来たら?」 そう言って直枝君は、一番の笑顔になる。 直枝君が歩き去ろうとする。 私は地味で。おどおどしたつまらない子で。全然可愛くなくて。 緊張すると、勝手に一人で泣きそうになる。喉に水が詰まったみたいに、声がだせない。足が震えて、顔が熱くなって、鼻の頭がヒリヒリする。怖くてしゃがみこんでしまいたくなる。 そんな私なのに。 「まってっ!」 私の声で、直枝君はまた、私に振り向いてくれた。 この三年間。直枝君のことを考えると、私は元気になれていた。幸せな気持ちにしてもらえていた。 「私、直枝くんのことが」 ほんとに地味で、ダメな私。 なのにどうして、今はこんなに、頑張りたいと思えるのだろう。 「一年生の頃から、ずっと好きでした!」 ひょっとして君は、魔法使いなんじゃない? 「もし良かったら、私と付き合ってください!」 クリーニングに出したばかりの袖は、涙を上手く吸ってはくれなかった。 鼻の頭がすごく痛かった。ハンカチで押さえても、全然収まらなかった。 直枝君の背中が遠くなっていく。 私はそれに背を向けて、駐車場へ歩いた。晩御飯は遅くなるかもしれないと、話さなければいけなかった。角を曲がったところに、ちょうど両親が立っていた。 [No.403] 2009/09/12(Sat) 00:13:34 |
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