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昏い想いに土潤い、花咲けり。 花の様、美にして艶なること甚だしく、 腐れた香を薫ずるものなり。 其の香、人を誘いて狂わしめ、 花弁の頤(おとがい)にて齧り殺さむこと、日に千頭(ちがしら)なり。 そこは荒廃しきったテヴアとは思えない光景だった。 部屋は日本の八畳間くらいだろうか。地下室であるはずにもかかわらず、昼間のような明るさ。闇市で手に入れることが出来る最高級の蛍光灯――日本製には及ばないが、それでも十分な明るさがあり、辺りを昼白色で照らしていた――が惜しげもなく使われていた。一面ベビーピンクのタイルで覆われたその部屋は清潔に保たれており、タイルは蛍光灯の光を柔らかく反射する。一見すると新生児室や授乳室といった平和で柔らかな印象を与える。 その片隅にあるキャビネット。ぴかぴかに磨かれたステンレスのトレイの上に並べられた様々な道具。メスに注射器、ノコギリ、ペンチ、そして万力。全く用途の異なる道具がここではまるで正しい配置だといわんばかりに美しく規則正しく並べられていた。 それだけではない。天井を見上げると丁度サンドバッグを吊るすような頑丈な鎖。その鎖は手枷のようなものに繋がっており、恐らく数時間前は人間の手であったであろうと思われる肉の塊がそれに括り付けられていた。 部屋に耳を澄ませば、聞こえてくるのは男が泣き、叫ぶ苦悶の絶叫。そして恐らく少女のものであろう、涼やかで凛とした笑い声。 そこは荒廃しきったテヴア、いや人の世とは思えぬ光景だった。 室内にもかかわらず白い雨合羽を着込み、フードで頭をすっぽりと覆った小柄な少女が、嗤いながら、吊るし上げられた全裸の男を眺めている。 少女はおもむろに手に持った奇妙な道具を男の剥き出しの太腿にあてがった。吊られた男が小さく悲鳴を上げ、懇願する。彼女は男の懇願に耳を傾けることなく、引き金を引いた。 その途端、痛みに耐えられなくなった男が鎖をがちゃがちゃといわせながら暴れ始める。 奇妙な道具の正体は、圧縮された空気で釘を射出する自動釘打機。見た目には皮膚に小さな穴が開き、少量の血液が滲んでいるだけに見えるが、打ち込まれた釘は体内奥深くまで到達し、時には骨を貫通するものもあった。 そして、男の大腿や脚には、無数の小さな穴が、開いていた。 その様子に気を良くした少女はブロークンなロシア語で誰にともなく話す。 「大の男がこれくらいで泣き喚いてはダメダメなのですよ」 少女はその後も、男の太腿に釘を打ち込み続けた。何度も何度も、打ち込み続けた。 優しいベビーピンクの部屋の中、くぐもった声と釘打機の音が支配していた。 やがて、痛みで感覚が麻痺してきたのか、あるいは体力が消耗し果てたのか、釘を打ち込んだ際の反応があまり無くなってきた。 面白みが無くなったためか、少女も釘打ちの作業を止めてしまう。――かに思われた。彼女は踏み台の上に立ち、男を見上げる。そして射出口を男の陰茎に向けると、ぞくりとするような冷たい真顔になって言い放つ。 「お母さんは、あの時乱暴されなかったんでしょうか? きっと、乱暴されたのでしょうね。お母さんは、私が言うのもなんですが綺麗な女性でしたし、それにあの状況、何があってもおかしくはないでしょう? 汚らわしい汚らわしい汚らわしい」 男が焦点の合わない目をしたまま、つぶやいた。 「……俺は、関係、ない……その場にも、居なかったんだ」 「そうですか」 彼女はふわりと笑みを見せた。尖った八重歯が彼女の可憐さを際立たせたが、彼女の目は全く笑っておらず、そのちぐはぐさが凄絶さを強調する。 そして彼女は、再び、引き金を引いた。 その激痛に、これまでとは段違いの絶叫が上がった。 絶叫に興奮し頬を赤く染めた少女は、鈴が鳴るような美しい笑い声を上げた。蝶が踊るようにステップを踏みつつ、踏み台から飛び降りる。そして、部屋の隅でパイプ椅子に座って本を読んでいた自分の相方に日本語で声を掛けた。 「まーさーとー。次はマサトの出番なのです」 真人は日本から持ってきた雑誌――言うまでもなく『ターザン』である――を床に放り出すと、細身の鉄パイプを持って少女、クドリャフカの傍へ歩み寄る。 「お願いしますのです」 真人は無言で吊られた男に向き直り、つぶやいた。 「……わりいな」 真人が鉄パイプを振りかぶる。 「あじーん!」 嬉しそうにクドリャフカが掛け声を上げる。 鉄パイプが男の脚にめり込む。その衝撃で脚に打ち込まれた釘が折れ曲がる。折れ曲がったり、折れて二つになってしまった釘が脚の肉を抉り、血管を裂き、骨を砕く。 男は声を上げた。上げようとした。しかし、既に幾度となく叫び続けた彼の口からは、ひゅうひゅうと呼吸音がするだけだった。 「どう゛ぁ! とりー!」 からからと笑いながら掛け声を上げるクドリャフカ。その声に合わせて、真人は鉄パイプを振り続けた。 彼女が数え終えたころ。男の脚も大腿も、血と肉と骨片、そして金属片を捏ね回した赤黒い練り物になっていた。 男の意識は既に混濁し、口からは無様に涎を垂らしているばかりで、呻き声しか上げなかった。それがクドリャフカの癇に障った。 クドリャフカはキャビネットへ近づくと、注射器を手に取った。そして、男の頚動脈におもむろに注射針を刺すと、中に入った液体を血中に押し込んだ。 男の瞳孔が急速に散大する。しかし、意識ははっきりしたようで、目の前のクドリャフカと目を合わせることが出来るようになった。 そんな彼にクドリャフカは笑顔で話しかけた。 「おはようございます。まだ、おねむの時間には早いのです」 「……ころして……くれ」 「嫌ですよ。私の玩具なんだから、もっともっと楽しませてくださいよ。……うーん、そうですねえ。活きも悪くなってきたことですし、他に私のお母さんと同じクラスだったひとを教えてください。それで手討ちにしてあげますよ」 「……全部、はな……した」 「クラス以外でもいいのです。お母さんと話したことがある人、お母さんと面識がある人、なんでもいいのです」 男は血が混じった唾を吐きかけた。 「いねえよ……サディストが」 クドリャフカは表情を変えずにハンカチで吐きかけられた唾を拭うと、釘打機の射出口を男の唇に押し当てた。 「やっぱり悪い人なのです。聞き分けの無い悪い子には、お口は要らないですよね」 クドリャフカが引き金を引こうとした時、その肩を真人が掴んだ。 「そのくらいにしておけ」 「……マサト」 クドリャフカは真人の手を振り払う。 「私に口出しするのですか?」 向き直ったクドリャフカは、釘打機を真人に向けた。先程までの笑みが無くなり、爛々とした猛禽類を思わせる目を真人に向ける。日本に居たときでは絶対に見ることが出来なかった、恐ろしい双眸。真人は息を呑んだ。 「……ああ、聞けねえな。やりたかったらやってみろよ」 真人はクドリャフカの迫力に幾分たじろぎながらも、不敵な笑みを浮かべて拒絶の意を示した。 しばらくの間、睨み合いが続く。部屋は明るいはずなのに、その一帯だけ墨で塗りつぶしたように光を失ってしまう。壁が迫ってくるように思われ、酷くねっとりとした空気が立ち込めていた。 やがてクドリャフカは大きく舌打ちをしロシア語で悪態をつくと、踏み台から降りた。その足で傍にあったキャビネットに近づき、その上に釘打機を叩きつける。大型のフィレナイフを掴み、吊るされた男の傍に歩み寄る。 一瞬の出来事だった。クドリャフカはナイフを逆手に持ち替えると、踏み台を踏んでゆらりと静かに跳んだ。振りぬかれる右手。男の頸が裂ける。傷口がぱくぱくと開いては閉じ、まるで空気を求める口のようだった。次の瞬間、男の頸からどっと鮮血が噴出す。そのまま男は声を上げることもできないまま、肉塊と化した脚をびくびくと痙攣させながら絶命した。 頭から男の血を被ったクドリャフカは、白い雨合羽を真っ赤に染め上げて真人に向かって叫ぶ。 「マサト! 興が冷めましたのです。こいつを早く処分するのです! 早く!」 クドリャフカは血濡れの雨合羽を脱ぎ捨てると、そのまま部屋を後にする。大きな音を立てて、扉が閉められた。 クドリャフカが居なくなった後、真人は一旦部屋から離れ、二頭の犬を連れてきた。クドリャフカによってヴェルカ、ストレルカと名付けられた犬達。しかし、彼女が日本にいたときに飼っていたそれらとは全く異なる犬種。 彼らはクドリャフカがこの街にやってきたとき、ただの野犬だった。それをクドリャフカが拾い、最低限の躾や予防接種を施して飼っていたのだ。とはいえ、散歩どころか、まともに餌も与えていない。真人は足元の二頭の醜悪な顔を見ると、クドリャフカの神経に眩暈を覚えた。 死んだ犬と同じ名前をこんな犬に付け続けるなんて、正気の沙汰じゃねえ。 真人は首輪に繋がったリードを手放す。犬達は久々の食餌に我先へと駆け寄っていく。そして、ヴェルカとストレルカは、地面に降ろされた男の死体を、貪り尽くした。 その光景を遠巻きに見ながら、真人は思う。いつになっても、この光景は見慣れないものだ。胃液が食道まで逆流するのをインナーマッスルで抑える。さすがのクドリャフカも最初に一度見たきり、処分の時には顔を出さなくなった。しかし、その理由は自分のそれとは異なる気がしてぞっとしてしまう。あのときのクドリャフカの表情。全く無関心で、心此処に在らずといった表情。身震いがした。 器具を洗おうと思い、キャビネットに近づく。そこで真人は違和感を感じる。クドリャフカが部屋を出たときに置いていった釘打機が無い。真人は扉へと駆け寄り、勢いよく開ける。上の階から、クドリャフカの悲鳴が小さく聞こえた。 クソッタレ! またか! 真人は扉を閉めると階上へと駆け上がった。 地上階の、クドリャフカが寝室に使っている部屋の扉を開けたとき、真人は自分の迂闊さを呪った。 雨合羽を着ていないクドリャフカは、キャミソールにショートパンツという軽装で、床にぺたんと座り込んでいた。目は涙で濡れ、赤く腫れ上がっている。唇を強く噛んでいたためか、血が滲んで鮮やかな紅が差していた。右手には地下室のキャビネットに置いていたはずの釘打機。そして、左手は手の甲から何本もの釘に刺し貫かれて、床に縫い付けられていた。 「クー公!」 真人は両手でクドリャフカの右手を押さえつけると、安全装置をかけて、クドリャフカから釘打機をもぎ取ろうとする。クドリャフカは必死に抵抗するが、そもそもの体格が違い過ぎている上に、片手が使えないのだ。真人は赤子の手を捻るように、釘打機を奪い取り、部屋の隅に放り投げた。 「何するのですっ!」 クドリャフカが釘打機に手を伸ばそうとするのを、真人が肩を掴んで押し留める。 「こっちの台詞だ!」 「放せっ。放せ放せ放せぇぇ!」 クドリャフカが狂ったように右手と両足を動かして、真人から逃れようともがく。縫い付けられた左手も動かそうとするため、そのたびに床の染みが大きくなる。 「何故止めたァ!足りない、足りない足りない足りない!憎い憎い憎い憎い憎いィィ!」 両手を押さえられたクドリャフカは無茶苦茶に頭を振り乱して叫ぶ。時折真人の顔や胸板に頭突きをする。 「落ち着け、クドリャフカ!」 真人は、両腕でクドリャフカの華奢な体を抱き締めた。しっかりと、そして彼女が彼女自身を傷付けないよう優しく。 錯乱状態のクドリャフカは真人の首に思い切り噛み付いた。異常なる顎の力をもってして、彼女の犬歯が真人の皮膚を食い破る。クドリャフカの口内に、自分の血とは異なる血の味がした。 それでもなお、真人はクドリャフカを抱き締めるのを止めなかった。 「そうだ、落ち着け、落ち着け」 真人は幼子をあやすように、ゆっくりとゆっくりと呟いた。 やがて、肩で息をしていたクドリャフカの呼吸がゆっくりとしたものへと変わっていく。真人の首から口を離し、真人の胸板に額をつけた。 「……ごめんなさいなのです」 「気にすんな。それよりも、だ」 真人はクドリャフカを離すと、彼女の左手に手を添える。幸い床が硬かったために、手の甲の上部に釘頭が飛び出していた。真人は、近くにあったタオルをクドリャフカに噛ませた。 「いくぜ」 真人は、片手でクドリャフカの左手を固定すると、もう一方の手で彼女の左手から突き出した釘を一本ずつ引き抜いた。 その痛みに、クドリャフカは背中をそらす。タオルを強く噛む。右手で真人の体を叩く。 全ての釘を引き抜いたころ、クドリャフカは噛んでいたタオルを口から離し、涎を垂れ流していた。見開いた目の焦点は、何処にも合っておらず、ただ虚空を見つめるばかりだった。 クドリャフカが気が付いたとき、彼女はベッドの中にいた。左手を見ると包帯が巻かれ、真人によって手当てを施された形跡が見られた。当の真人は右手を椅子に添え、一ガロンの水の容器を左手に持ち、カーフレイズと呼ばれるトレーニングを静かに行っていた。クドリャフカが起きたことに気が付くと、トレーニングを中断する。 「よう。どうだ、気分は」 真人は椅子を持って、クドリャフカに歩み寄る。 「ごめんなさいなのです」 「またか。今日二度目だぜ?」 真人はベッドサイドに椅子を置き、座り込んだ。 クドリャフカは無言で開かれた窓の外を眺める。最近は国連軍の介入もあってか、ある程度の平穏を取り戻していた。だからこんな月明かりの日には戦闘行為も行われず、窓の鉄格子を外すことは出来ないまでも、窓を開けるくらいであれば可能だった。 生ぬるい風が吹く。 「もう、此処に来て何年になるのでしょう……」 この島には四季というものが無く、そのために今が何年の何月か、分からなくなってしまうことがある。 「ああ、オレたちカレンダーとか持ってないからよくわかんねぇけど、多分三年じゃねぇか?」 「そんなに経つのですね」 真人は何も言わず、クドリャフカの次の言葉を静かに待った。 「みなさん、それぞれの道を歩んでおられるのでしょうね。進学した人、就職した人。それでも、彼らはどこかで繋がったまま、眩しくて綺麗な、光り輝く日々を過ごしているのでしょう」 クドリャフカはどこか寂しそうな表情をして、ベッドの先、タオルケットに包まれた自分の足先に目を遣る。 「でも、もう私はリキに会うことさえ出来ない。私は暗闇に身を埋め、その手を血で染めてしまった。こんな私を、きっとリキは許してはくれないでしょう」 真人は、頭を掻くとぶっきらぼうにこう言った。 「まあ、あいつはあんなナリでも根は頑固な奴だからなあ」 「でも、どうして?」 「あん?」 クドリャフカは真人の顔を覗き込む。 「どうしてあの時、マサトは私から離れなかったんです? あんなことしてまで、私は皆さんから離れようとしたのに」 真人は思い出す。今夜のこの風同様、嫌に生ぬるい空気をした晩秋の夕暮れを。 ――そこにはバットを持ったクドリャフカが居た。血で赤く濡れたバット。クドリャフカの足元には彼女の妹でもある愛犬が二頭、折り重なるようにして倒れていた。ストレルカもヴェルカもだらしなく真っ赤な舌を垂らし、おびただしい量の血を吐いていた。 誰もクドリャフカの凶行を止めることは出来なかった。一番近くに居た理樹は、顔を真っ青にして立ち尽くすだけだった。 リトルバスターズの面々に振り返るクドリャフカ。泣きながら、ぎこちない笑みを浮かべて、理樹に言い放つ。決別の言葉を。全てを断ち切る言葉を。 「リキ。きっとあなたはいつも正しいのでしょうね。でも、例えそれが世界中のみんなにとって正しいことだったとしても。私にとって正しいこととは限らないのです。だから、リキ。私にだって自分の考えがあるのです。押し付けないでください――」 真人はクドリャフカの左右の手首にはめられた、ヴェルカとストレルカの首輪をぼんやりと見つめる。 「マサト?」 「あぁ、実はな。理樹も最後の最後までお前の考え、認めようとしていたし、助けたいと思ってた。だから、あの後オレに相談してくれたんだ」 「リキが、ですか?」 「ああ。『僕は八方美人の偽善者だって思われてもいい。だからクドの傍にいてあげて』だとさ」 その言葉に、クドリャフカは表情を曇らせた。 「……わからないのです」 「あ?」 「だからって、マサトがそんな貧乏くじ引く必要無いじゃないですか」 「オレ馬鹿だからよ。そんな損得ってぇの、わかんねぇけど。理樹が俺を頼った、それだけじゃ、理由になんねぇか?」 真人は照れ隠しに、再び頭を掻く。 「……マサトは馬鹿なのです。本当に救いようの無い、馬鹿なのです」 「おめえ、人を馬鹿馬鹿って……」 そっと、クドリャフカの両手が真人の左手に添えられる。白魚の指が、真人の手に絡む。その指は少し、震えていた。 「ちょっとの間だけ、このままで居させてください……」 真人に目を向けずに、クドリャフカは俯いた。 真人の手が、柔らかな白い指を包んだ。 風が凪ぐ。外は森閑としており、銃声も虫の声さえも聞こえなかった。 しばらくして、風が吹き始めた頃、思い出したように真人は言う。 「なあ、クー公。いつまで続ける気だ?」 「え?」 「この無意味な人狩りだよ。自分でもわかってんだろ? 初めから、お前が討つべき仇なんて居なかったんだ」 およそ三年前。彼女らがテヴアの地に降り立ったころには、既にクドリャフカの母親を処刑した人間は全員死亡していた。 もとよりテヴアは、国民の半数にも満たない欧露米系住民が国の富のおよそ九割近くを独占していた――これは、宇宙開発事業にテヴアが傾倒していたこと、そしてその関係者のほとんどが欧露米系住民で占められていたことと密接に関係しているのであるが――といわれるほど、民族間の格差が大きかった国である。テヴア共和国航空宇宙局によるロケット打ち上げ失敗に端を発する大規模な暴動は、直ちにテヴア全土に飛び火し、テヴアを無政府状態に陥れた。あの後、テヴア共和国政府はテヴア全土に対する実効的な支配力を失い、テヴア本島以外の島ではそれぞれの地方豪族による分割統治が行われるようになってしまった。さらにテヴア本島においても、オーストロネシア系の民族で構成された反政府組織が国外のイスラム過激派による支援を受け、政府軍を脅かしていた。 クドリャフカの母親を処刑した人間はその反政府組織のメンバーであり、暴動の直後に行われた政府軍による掃討作戦によって彼らは死亡していた。クドリャフカたちが様々なルート、時には先程のような「卑劣な手段」を用いてこの呆気なく下らない事実を知ったのは、彼らの死後半年が経ってからのことだった。 「いえ、無意味なんかじゃないのです」 クドリャフカの憎悪は行き場を失った。その呪詛はテヴアを彷徨い歩き、やがて一つの答えに辿り着く。 「みんな死んでしまえばいいのです。お母さんを殺した人、お母さんを助けなかった人、お母さんを生贄にした人、お母さんを英雄に仕立て上げた人。お母さんと一緒に居たことがある人、お母さんに関係ある人、そして関係がない人。テヴア人全員、惨たらしく死んで欲しいのです」 そして彼女は実行した。手始めに母親を殺した人間を殺害した政府軍の兵士。そして、母親の処刑の瞬間を撮影したカメラマン。悪意の矛先は徐々に範囲を広げていった。 クドリャフカは目を瞑る。 いったい、いつ自分の旅は終わるのか。いや、終わることを許されるのか。 「いつまで続くのかは、私にもわかりません。ですが、最後のターゲットは決まっているのですよ」 そこでクドリャフカは一拍置くと、目を開いて真人の瞳を覗き込んだ。クドリャフカは彼に向け、笑みを浮かべる。それはこれまでのどんな笑顔よりも儚く美しく、そして残酷な笑顔だった。それは見た者に、深々と雪が降り積もる平原を思い起こさせ、その涯ての無さに眩暈を覚えさせる。 「……そいつは、今まで殺したどんな奴よりも罪深くて悪い奴なのです。だからマサト、お願いです。そいつはマサトが殺してください。うんと惨たらしく苛め抜いて、殺してください」 そして、クドリャフカはロシア語で小さく呟いた。 それまで、こんな私と一緒にいてくれますか? そんなクドリャフカの呟きが聞き取れたのか聞き取れなかったのか。真人はクドリャフカの亜麻色の髪を、優しく、撫でた。 「……ああ、わかった。そんときはオレが、全部終わりにしてやるよ」 月明かりの夜。孤独な犬の鳴く声が、木霊した。 [No.485] 2009/11/06(Fri) 00:35:18 |
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