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No.488へ返信

all 第44回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/11/06(Fri) 00:01:38 [No.483]
赫月ノ夜ニ咲キ誇レ悪徳ノ華 - ひみつ@遅刻11087 byte - 2009/11/07(Sat) 16:44:04 [No.502]
主題歌 - ひみつ@遅刻11087 byte - 2009/11/08(Sun) 04:45:31 [No.511]
設定資料 - ひみつ@遅刻 悪ノリにも程がある - 2009/11/07(Sat) 16:45:38 [No.503]
花摘み - ひみつ@6331 byte 遅刻 - 2009/11/07(Sat) 02:39:47 [No.501]
供え - ひみつ@3,678byte - 2009/11/07(Sat) 01:56:52 [No.500]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2009/11/07(Sat) 00:34:13 [No.499]
好きだからこそ - ひみつ@4761 byte - 2009/11/06(Fri) 23:54:25 [No.497]
アンソダイトの森のなか - ひみつ@9144 byte - 2009/11/06(Fri) 23:20:37 [No.496]
寄り添いながら - ひみつ@7295byte - 2009/11/06(Fri) 23:03:28 [No.495]
幸せの三つ葉のクローバー - ひみつ@7104byte - 2009/11/06(Fri) 21:21:35 [No.494]
名付けられた一輪 - ひみつ@13732byte - 2009/11/06(Fri) 20:29:56 [No.493]
おっぱい消失事件 -Momoto-Yuri - - 秘密@13621 byte - 2009/11/06(Fri) 20:21:03 [No.492]
不可思議な事もあるもんだ - ひみつ@12181 byte - 2009/11/06(Fri) 19:30:53 [No.491]
台風一過と幸せと - ひみつ@15953byte - 2009/11/06(Fri) 04:18:40 [No.488]
終わりのない友情 - 秘密になっていないのはわかっている@10057 byte - 2009/11/06(Fri) 00:43:25 [No.486]
狂花狂酔 - 秘密 16850 byte - 2009/11/06(Fri) 00:35:18 [No.485]


台風一過と幸せと (No.483 への返信) - ひみつ@15953byte

 大型台風が猛威を振るう中、果敢にも家を飛び出したクドリャフカは、またたく間に強風で傘を粉砕され、涙目の瞳を豪雨に洗われ、店員が暇そうにしているスーパーでかごに品物を投げ込み、幽鬼めいた顔のままレジで清算を済ませ、体を丸めて築四十年のボロアパートに帰り着き、階段をのぼった先の廊下で派手にすっ転び、ほとんど這うようにして家の中に入った。
「意味が分からんのですっ!」
 うつろな目で叫んだクドリャフカは、ふすまの向こうから雨音とは違う奇妙な音が漏れ聞こえてくることに気づく。まさか幽霊、と考えた彼女の顔から血の気が引く。慌てて方向転換しかけた直後に背後で雷鳴が轟いて、いよいよ逃げ場を失った彼女は、べそをかきながらも前に進むことを選んだ。
 ふすまに片耳を押し当てたクドリャフカは、その音が人間の声であることを知る。まさかお経、と考えた彼女はいよいよ泣き出しそうになるが、真っ白な頭の中に楽しげな笑い声が飛び込んできて、ああこれはテレビのバラエティ番組なんだと理解する。そうなるとただ単にテレビを消し忘れただけで、幽霊だ超常現象だ強盗だなんてものは最初から存在しなかったのですねいえっふーと一転陽気なクドリャフカがふすまを威勢よく開け放つと、こたつ机にあごを乗せて超リラックスした葉留佳がそこにいた。
「やっほークド公。おかえりー」
「え? あ、と、えええええっ?」
「お邪魔してますヨ。不法侵入なんのその!」
 クドリャフカが手に提げた袋を目ざとく見つけた葉留佳は「はるちんレーダーがいい具合に反応してますネ」と言い残してこたつの中に潜り込み、反対側から芋虫みたいに這い出してきた。クドリャフカが思わず尻餅をつき、弾みでカーペットの上に落ちた袋を葉留佳が無遠慮に漁り始める。
「みかん見っけ! やっぱこたつではみかんに限りますなぁ。クド公は風情というものを分かってらっしゃる。結構結構」
 葉留佳は困惑気味のクドリャフカの「はいえっと、ありがとうです。ただですね、その、何で三枝さんがここに」という問いかけを聞くやいなや、広げた両手で全てのみかんを抱え込み「三十六計逃げるに如かず!」と口にして再びこたつの中に姿を消した。
「ところで能美さん。買ってきた卵の半分以上が割れています。これは大問題では」
 振り向いたクドリャフカの眼前に、ひしゃげた卵パックが差し出される。大半の殻が割れて白身と黄身が派手に流出していた。
「わーっ! さっき転んだときに割れたに違いないですっ! 台風の馬鹿っ! 私の馬鹿っ!」
「そんなに自分を責めることはない。おねーさんが優しく慰めてあげよう」
「うう、ありがとうござ……って、来ヶ谷さん? それにそれに西園さん? えっとえっと、あの」
「お気づかいなく。それにしても今日は冷え込みますね。ちょっとこたつをお借りします」
 卵パックを机の上に置き、腰を下ろしかけた美魚の足首に、こたつの中から唐突に伸びてきた二本の腕が絡みつく。抗う術なく引き倒された彼女の向こう、こたつ内の闇にぎらつく二つの瞳があった。
「ここに近づいたが運の尽き! おぅおぅ、良い眺めよのう。大人しく引っ張り込まれてしまえばよいではないか、よいではないか。グヘヘヘヘー!」
「……一度、お灸をすえておきましょうか」
 そして聞こえ始めるおよそ人間離れした絶叫を意識から追い出しつつ、クドリャフカは目の前に立つ唯湖を見上げて嘆息する。逆に彼女を見下ろす格好の唯湖は「ふむ。能美女史と会うのは久しぶりだな」と言って腕を組む。
「そうですね。久しぶり、なのです」
「驚いただろう? サプライズイベントというやつだ。これからまだまだ騒がしくなる。それよりも」
 クドリャフカと目線の高さを合わせた唯湖は、妖艶に目を細めて彼女の両肩に触れる。
「このままだと風邪を引く。今すぐ風呂に入った方がいい。それに目の毒でもある。いや、保養になると言った方が正しいかな」
 唯湖は自らの指先をクドリャフカの両肩から動かして、胸の辺りをなぞっていく。雨に濡れて白い下着が透けていた。
 頬を真っ赤にしたクドリャフカは両肩を抱き、和室を飛び出して風呂場に通じる廊下に出た。玄関ではちょうど今来たばかりの恭介と真人と謙吾が目を白黒させていて、彼らと鉢合わせしたクドリャフカは「わぁぁぁぁっ!」と可愛らしく叫んだ。
 立ち尽くす三人の背後、開いた扉の向こうから雷音と共に小毬が現れる。にこやかな表情を浮かべてクドリャフカを見つめる彼女は、悠然と歩いて男たちの脇を抜ける。真人と謙吾が白目を剥いて倒れる。泡をふく。恭介が両手をぶんぶん振って「待てこれは誤解だ!」とむなしい弁明をする。
「クーちゃん。この人の記憶は消しておくから安心して入ってきて。ね?」
 シャワーを浴びるクドリャフカの耳に「え、なにそれ聞こえない」や「私は別にどっちでもいいんだけど」という小毬の声が水音に混じって届けられていた。
 温かな湯を吐き出すノズルの前でおわんを作り、クドリャフカは何度も顔を洗う。最後に頬をぱちんと叩いて風呂を出た。
 ラフな格好に着替え、洗面所と廊下とを区切るカーテンを開けたクドリャフカは、えりぐりを支点として恭介が和室に引きずり込まれる瞬間を目撃してしまう。小毬が廊下側に顔だけをひょこっと出して「クーちゃんもおいでよ。みんな中で待ってる」と言う。はい今すぐ、と返すクドリャフカは自分でも気がつかないうちに微笑みを浮かべていて、仲いいんだ、と思いながら二人の後を追った。
 ふすまを開ける寸前に、クドリャフカはキッチンで動く人影を見つける。鈴が食器棚から湯飲みを引っ張り出して盆の上に置いている。あの、と声をかけると彼女は全身を震わせてから振り向いて「クドか」と安堵したように言う。
「理樹とはうまくやってるのか」
「ええと」とクドリャフカは言いよどむ。鈴の気持ちを知っているだけに複雑だった。彼女はいったん目を伏せてから「はい」とだけ答える。
「あ、私も手伝います」
 気まずさを振り払うように、クドリャフカは鈴の隣に身を寄せた。食器の触れ合う音だけがしばらく続く。凍りついた空気を「ところで理樹はどこに行ったんだ」という鈴の疑問が溶かす。クドリャフカは湯飲みを両手で握り込んだまま「バイトです。台風なのに呼び出されたみたいで」と返す。机の上に放り出した携帯電話に視線を転じ、彼女は「電話しましょうか」と思いつきを口にする。
「いーや、いらん。お前らが乳繰り合ってるところを見たら理樹を窓から投げ落としそうだ」
 盆で両手が塞がっている鈴の先導をして、クドリャフカは和室に繋がるふすまを開ける。女子勢四人がこたつの四方に陣取って談笑していて、残りの三人が部屋の片隅で寒さに身を縮ませている。
 暖房を作動させるクドリャフカの脇を通り、鈴が両腕を小刻みに揺らしながらすり足で移動する。唯湖が露骨に戦略的撤退を始め、恭介が自ら小毬の盾になって何か恥ずかしいことを叫び、こたつに潜ろうとする葉留佳を美魚が引きずり出して盾にする。
 爆弾の解体作業現場めいた雰囲気の中、たっぷり五分ほどかけて無事に盆が下ろされる。感動に打ち震える恭介が「甲斐甲斐しくなったな我が妹よ!」と鈴に抱きついた直後にあごをかち上げられ、小毬の胸の中に押し返された。まぶたを下ろして穏やかな笑みを浮かべていた。
「おい、何で俺は茶碗なんだ」
「オレは味噌汁入れるやつじゃねぇか!」
 理樹とクドリャフカの愛の巣であるアパートに九人分の湯飲みが用意されているはずもなく、全員の力関係と立ち位置を考慮した正当な配膳だった。湯飲みで優雅に茶を飲む唯湖や美魚を見てぶつくさ言っていた真人と謙吾は、枯れた目をして丼を抱え持つ恭介を目にした途端、黙り込んで大人しく茶をすすり始めた。
「葉留佳君、私にも一つみかんをくれ」
 一人でもりもりみかんを食べていた葉留佳が、はいよー姉御とみかんを投げ渡す。行儀が悪いですよと美魚にたしめなめられた彼女は、はいはーいと素直に返事をしつつも、美魚の視線が逸れた瞬間を狙ってべろべろばーをやっていた。勘のいい美魚に即刻気づかれてぼこぼこにされる。その間隙を縫っていくつもの手が伸びてきて、葉留佳が守銭奴よろしく溜め込んだみかんは残らず奪い取られた。
 成敗されて無一文になった葉留佳がぎゃーすかわめき、クドリャフカが「あの、果物でしたら他にもありますよ」となだめる。瞳に輝きを取り戻し蘇った葉留佳が再び芋虫化してスーパーの袋をがさごそやり「りんご見っけ! バナナも見っけ!」と歓喜する。
「葉留佳君、子どもじゃあるまいしだな。もう少し落ち着きというものを」
「キムチもありましたヨ。それからもずくも」
「なに、それは黙っていられないな」
 身を寄せ合っていつの間にからぶらぶ空間を形成していた恭介と小毬を一瞥した美魚が「おや、お菓子もたくさんありますね」とつぶやく。間もなく小毬に見捨てられて灰燼に帰した恭介を尻目に、美魚があくどい笑みを見せる。
 りんご切ってくる、と殊勝にも宣言した鈴が和室から出て行く。失礼かなと思いつつも、クドリャフカは小声で「何かあったんでしょうか」と誰に対してでもなく問いかける。小毬が小首を傾げて「色々と思うところがあるんじゃないかな」と曖昧に言う。
「それより私はクド公の話が聞きたいですヨ!」
 視線がクドリャフカに集中する。たじろぐ彼女は正座をして膝の上に手を置いて、その場にいる七人を見渡す。唯湖がこたつから身を乗り出して「手始めにだな、クドリャフカ君たちの夜のぐふぉ」
 手刀で首筋を打ち込まれた唯湖が崩れ落ちる。小毬が「セクハラ禁止」とにこにこ笑顔で言う。空気が二割ほど重くなる。当事者でもない恭介が顔を青くする。美魚が控えめな挙手をする。
「直枝さんと住むようになってから、何か変わったことはありますか」
「家事全般が得意になったと思います。料理や洗濯はすごく好きなんですけど、食器洗いだけは、前にゴキブリを見てからトラウマになりました」
「ゴキブリの一匹や二匹、しゅばっとやってばしゅっと仕留めてやればよかったのですヨ」
 おおげさな動きで腕を振り回す葉留佳の隣で、美魚が実に邪魔そうに目を細める。机に片肘をついた葉留佳は「クド公はまだまだ頼りないなぁ」と言いつつ、もう片方の手の人差し指でクドリャフカの鼻先にそっと触れる。うりうり、と擬音をつけて柔らかな頬をも弄ぶ。
「ゴキブリが苦手な人は多いですよ。そんなこととは関係なく、能美さんは今の三枝さんよりも遥かにしっかりしていると思いますが」
「へーんだ、ゴキブリ程度の敵も倒せないようじゃ、まだまだ免許皆伝には遠い遠い! 今後あの黒い悪魔を見るたびに、私はやっぱり葉留佳様がいないとだめだめなひんぬーわんこなのですぅぅ、ってな具合になるに違いないのですヨ!」
「防虫スプレーで十分に代用可能ですよ。それにそもそも」と言う美魚がため息を一つ吐いて「フグは自分の毒で死にませんもんね」と言葉を継ぐ。
「え? え? それどういう意味?」
「ふむ。美魚君は葉留佳君がゴキブリだと言いたいらしい」
「な、ななな、どこがじゃー!」
 憤慨する葉留佳の背後に回った真人が、彼女の頭の後ろで指を立てて触覚を作る。爆笑する謙吾の顔面にみかんの皮が投げつけられ、みかんの皮とすじを周囲に爆散させる。それは学園革命スクレボの最新刊を寝そべって仲よく読んでいた恭介と小毬の間にも降り注ぎ、全く同じタイミングで振り返った彼らが謙吾を鋭く睨みつけた。
「いったい何をやってるんだ。馬鹿かお前ら」
 盆を携えて戻ってきた鈴が、和室の惨状を見て呆れた声を出す。彼女が机の上に置いた皿のりんごは誰がどう見ても切り方が不細工だったが、茶化す者はいなかった。突き刺さった九本のつまようじを各々が手に取った。
「おー甘い。いけますネ」
「蜜がたっぷりでよかったですね」
「だから私は昆虫じゃないって!」
 しかしだ、と唯湖が冗談めかして言う。
「鈴君がこれほどしおらしくなっていたとはな。我が子が巣立つのを見るようで、嬉しくもあり悲しくもありだ。おねーさんはちょっと泣きそうだぞ」
「余計なお世話……ん。何でもない」
 腰を上げて髪を逆立てかけた鈴は、クドリャフカの顔を見てすぐ、乱暴な言葉を押し殺して座り直す。恭介が驚きに目を見開き、口笛を鳴らすときの仕草をする。唯湖が両手を左右に小さく広げ、どこか寂しそうに笑う。
「ふん、あたしはもう昔のあたしとは違うんだ。食器洗いはそれなりにできるし、洗濯もまぁできるし、料理だってできないことはない」
「不安要素しかないな」
 一刀両断された鈴は謙吾に牙を剥きかける。
「だが、頑張った。能美もそうは思わないか?」
「え? ええ、はい。そう思います」
 謙吾が満足そうに頷いて、鈴の頭をぽんと叩く。彼女は首を振ってわずかな抵抗を見せる。
 急に立ち上がった真人が、壁や窓の辺りを眺める。
「それにしてもよぉ、この家はだいぶ古く見えるな。さっきからみしみし言ってるし、隙間風もすげぇ。大丈夫なのかこれ」
「できるだけ安くて、でも二人で暮らせる家を選んだんです。だから確かにぼろっちょですが、私は満足しています。たぶん、リキもそうです」
「出た出たおのろけ! はるちんにもその幸せを半分ぐらい分けてくださいヨ!」
「それではただの貧乏神ですよ。それより今は真面目な話の途中です。少し黙りましょうか」
 本気でしょんぼりしている葉留佳を尻目に、恭介が「能美。今後どうするか、考えはあるのか」と問いかける。クドリャフカはまばたきを繰り返し、どういうことですかと問い返す。
「これからの生活のことだ」
「リキと暮らしていこうと思ってるのです」
「ずっとか?」
「できることなら、そうしたいです」
「あぁもうまどろっこしい。恭介氏、そんな誘導尋問みたいな真似はもういいだろう。クドリャフカ君、要するに彼はこう尋ねているのだよ。君たちはいずれ夫婦になるつもりでいるのか、とね」
 クドリャフカは面食らい、自らの膝の辺りに目線を落とした。きつく目を閉じてからゆっくりと顔を上げると、そこには彼女を見つめる八人の優しげな瞳があった。
 温かな視線を浴びながら、クドリャフカは静かに頷いた。去来する様々な思いに、彼女の胸は締めつけられて痛んだ。両の拳を握り締めた彼女の元へ、鈴が最初に駆け寄ってその小さな体を抱いた。
 クドでよかった。鈴は言う。あたしより、料理も洗濯も食器洗いもうまくやれる。そのぶんだけ、あたしよりも理樹を幸せにしてやれる。そんなこと関係ないです。ああそうだ、関係ない。でも、関係ないけど、仕方ない。だってもう、どうしようもない。
 既にぼやけ始めていたクドリャフカの視界は、鈴の言う「おめでとう」を皮切りにして涙に沈んだ。そこにいる鈴の表情さえもまともに見えていなかった。
「クド公は泣き虫だなぁ。どうして泣くんですかネ。よしよし」
 まだ乾ききっていないクドリャフカの髪をなでながら、葉留佳が美魚の方を向いて苦笑する。毎度のごとく無視しようとした美魚は、不意に目を細め、自らの体をそちらに寄せる。戸惑う彼女の顔に手を伸ばし、指先で目尻に触れる。すくい取られたのは透明なしずくだ。葉留佳が「え、え」と混乱気味に服の袖で目元をごしごしとやる。目が充血している。濡れている。
「葉留佳君……」
 唯湖が沈痛な声で呼びかける。葉留佳は必死に何か言おうとしていたが、できるのは自らの膝を抱いて震えることだけだった。唯湖は細く長い指をその肩に伸ばし、彼女を背中側から包み込む。
「泣かないんじゃ、なかったんですか」
 美魚が淡々と問いかける。誰からの返事も得られないと悟った彼女は、やれやれ、というように大きなため息を吐いて、人一人ぶんだけ二人に体を近づける。本棚から適当に抜き出した文庫本を開いて読み始める。
「こいつも未完のままか」
 残念そうに言い、恭介がスクレボを本棚に戻す。ちょっとでも読めてよかったんじゃないかな、と小毬が言う。ああ、そうだな。うん、そうだよ。二人はどちらからそうするでもなく手を繋ぎ、歩き出す。恭介は美魚の傍らに放り出された紙製の栞を拾い上げて、差し出す。彼女が首を横に振る。必要ありませんから。恭介が微笑む。
「能美。今日はありがとな。お茶やお菓子、うまかったぜ。それにスクレボもな」
 クドリャフカは胸が詰まって何も言えなかった。何を言うべきかも分かっていなかった。涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見て、恭介が笑う。心を見透かすような笑みだった。
「鈴はどうする」
 問いかけてきた恭介でなく、その隣に立つ小毬を鈴は見つめた。鈴ちゃん、と彼女が言う。鈴は「あたしはここにいる」と力強く告げた。恭介が「それなら、それでいい」と言って笑った。
「真人と謙吾はどうだ」
「外は雨も風もひでぇからな。オレはここでいいぜ」
「俺もそうさせてもらおう」
 二人が壁に背を預けて座り込む。
 小毬が体を反転させ、恭介と向き合った。
「やっぱり、私もここにいたい」
「そうか」
「うん」
 それでも繋いだ手は離れずに、恭介は「なら、俺も最後までつき合おう」と言ってその場に腰を下ろす。彼は小毬の肩にそっと手を回した。
 もう誰も互いに言葉を交わそうとしなかった。あまりにも穏やかに流れすぎる時間の只中で、クドリャフカは何度も目をこすった。彼女の瞳に映る世界が次第に滲んでいくのは、際限なく流れ落ちる涙のせいか、また別の何かのせいか、もう彼女には分からなかった。
「結局、こうなるわけか」
 雨音だけが遠く聞こえる室内で、恭介が独りごちる。
「どいつもこいつも、未練たっぷりじゃねぇか」
 でもたぶん、それで正しい。
 家事が得意になっても、理樹と婚約しても、強くなっても、戻らない断絶がある。埋まらない空洞がある。割り切れない思いがある。それが自然だ。いつか過ぎ去る一ページに成り果てるほど、あの日に失った世界と人と時間は軽くない。
 全身から力が抜けていくのをクドリャフカは自覚していた。立ち上がるどころか、声も出せない。気を抜けばまぶたさえも落ちてしまう。それだけは嫌だと彼女は思うが、やがてあらゆるものの輪郭が朧になっていき、闇が四方から視界を食いちぎる。黒く塗り潰されていく世界に再び光が射し入れられたとき、窓越しに見える空はどこまでも明るく青かった。
 身を起こしたクドリャフカの体には毛布がかけられていた。室内にゴミの類は見当たらない。肩を落とした彼女が濡れた瞳を指先でぬぐうと、ふすまが開いて心配そうな顔をした理樹が顔を出す。彼は言いにくそうに、果物や食材、汚れた湯飲みや茶碗が部屋の中に散乱していたのだと彼女に告げた。そうですか、とだけクドリャフカは言う。説明するつもりはなかった。信じてもらえるとか、もらえないとか、そういうのとは関係がなかった。
「お供え物、なくなっちゃったね」
「もう十分なのですよ。後は花があればそれでいいです」
「そう? じゃあ、駅前に花屋があるからそこで買おっか」
 わふーと片手を突き上げる。
 強くなろう、とクドリャフカは思う。料理もうまくなろう。洗濯も手際よくやれるようになろう。食器洗いも、いつかゴキブリを撃退できるぐらいの度胸をつけて、てきぱきこなしてやろう。頑張って、頑張って、頑張って、頑張って、どれだけ頑張っても欠けてしまった一人ぶんの空白さえ埋められなくて、それでもいいから頑張って、幸せになろう。そう思う。


[No.488] 2009/11/06(Fri) 04:18:40

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