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『マドリード五輪 ロマンチック/シチュエーションの部 日本代表』こと謙吾が、珍しく僕らを自室に呼んだ。 A.面白い冗談を思いついた B.予想を裏切る深刻な話題を切り出す といった予測を立てつつ、訪ねた先でゴロゴロした。 『好きな言葉は円満退職』恭介は言った。 「予想を裏切るってどんな話題だと思う?」 残る三人、いっせいに挙手。 「鈴と婚約」 「無いわ筋肉ボケダルマ。明日から三枝謙吾」 「それも無いんじゃ。実はこの世界は虚構、俺が神」 「ふふっ、今お前らが挙げたものは全て予想されている。だからありえん!」 「あっ! ずるいぞお前!」 「え? どういう意味だ?」 またもや珍しいことに、謙吾は始終緊張した面持ちを見せていた。雑談に混じることもせず、一日一回ロマンティックの誓いも未達成なままだった。 そして雑談が途切れたそのとき、おもむろにB4くらいの紙の束を差し出してきた。 「なんだなんだぁ? ロマンティックの匂いがするぜ! さすが日本代表!」 妙なテンションのまま恭介は紙束を受け取り、固まった。僕は幅広な恭介の肩ごしに覗き込んでみた。 そこには一目で遠近の狂いが窺える、日本家屋が描かれていた。 「読んでみてくれないか」 まず謙吾の顔を見た。 緊張しているというより、不安におびえているようにも見えた。 それから僕らは顔を見合わせた。 「なるほど予想外だな」 限りなくAに近いBであることを予感したのであった。 名付けられた一輪 真紀という少女が主人公だった。 彼女は伝統ある華道家元の息女。才覚もあり、将来を嘱望されていた。というより、もはや家を継ぐのは決まっているようなものだった。 しかし真紀はある日、町の花屋の少年に恋をする。ロマンティックというよりも、あまりにベタな出会いであった。 彼の趣味はフラワーアレンジメント。我流というのもおこがましい、ささやかな花の飾り立てだった。真紀は最初彼を見下したものの、少しずつ彼の作品に惹かれていった。彼の生き方と、そして彼自身にも。 あとはお決まりの流れ。 嘆く両親を他所に、真紀は家を出る。そして彼女は思うのだ。 『私の見つけた花は、とても小さいけれど――』 少年の微笑みと、真紀の険しい、決意の表情が映された。 『それがどんなに美しいか、いつかみんなに教えてあげたい』 ―― fin(筆記体) 鈴は猫じゃらしの手入れを始めたし、真人はセルフ腕相撲をしていた。恭介はワナワナと震えるだけだった。 さて僕はどうしようか。まったく頭は回らなかった。肩は回ったので、ぐるぐる回してみた。 「俺は、漫画家になる」 口調とは裏腹、変な汗を顔に浮かべて謙吾は言った。そりゃそうだ。この流れで北極観測船に乗るなんてことにはならないだろう。 そりゃ、この漫画は例の、彼女のことなのだろう、と誰もが理解した。謙吾の気持ちに同情するなんてそれこそ不可能だし、尊重して然るべきなのだろう。 でも現実問題として、謙吾は僕の親友で、彼の失敗は我が身の失敗と同じか、それ以上に辛いことだろうと思えるのであった。 「親御さんは今おいくつだったか」 唐突に、顔も上げず恭介は言った。 「父は今年で還暦になる」 その答えを聞いた恭介は、そっか、と呟き、腕を組んで天井を見上げた。それきり黙りこんでしまった。 また居づらい沈黙。 それに痺れを切らしたのだろう。謙吾が口を開く。 「俺の人生が二度あれば、俺は両親の望む……いや、それ以上の男になってみせよう。 ――だが、俺の人生は、一度きりなんだ」 きっぱりと言い切ったけれど。 それを聞いて、一つ疑問を持った。そんなに決意が固いのであれば、僕らに何を訊ねようというのだろう。漫画の講評なら、西園さんとか、……西園さんとかに頼めばいい。 つまるところ、謙吾はまだ迷っているのだろうと思った。 だからここで僕らが、背中を押すのか、後頭部のツンツンの髪を毟らんばかりに引っ張るかで、謙吾の人生は変わるのかも知れない。 軽々しくなにか口にするのは憚られた。少なくとも、無責任なことは言いたくないと思った。 「いーんじゃないか? お前ならできるぞ。ガンバレ」 鈴は言った。猫じゃらしのしなり具合を入念に確かめながら。片目を瞑って、ヒュンヒュンと跳ねるもこもこの軌道を見定めている。 「ちょっと鈴、あんまり無責任なこと言っちゃダメだよ……」 クリッ、と鈴は瞳だけを僕に向けた。 「あたしに責任ないだろ。面白そうだし」 なにこの娘。 「なあ鈴……本当にそう思うか?」 「あぁ、お前バカだからな」 馬鹿はお前だ! とどれだけ言いたかったことか。 それでも謙吾は額に手を当て、大げさに笑って見せた。 「そうか! そうだ、俺は馬鹿だったな! ハッハッハ!」 晴れやかな表情が、どれだけ不安に思えたことか。 謙吾はウキウキと擬音を発しながら、教科書類の一切が消えたテーブルに向かい始めた。 「おい理樹、大変だ! 左手がテーブルに着かねえ!」 決着がついたらおいで、と言い残し、僕ら三人は部屋を後にしたのだった。僕は、謙吾が後悔しないで済むことを祈るしかできなかった。願わくば、地に足を着けた生活を送ってくれますように。 恭介がプロ野球挑戦を言明する、その五年前の出来事だった。 ◆ コーヒーカップを口の高さまで持ち上げて、中を覗き込んでみた。わずかに残った褐色の底に花の模様が印刷されていた。僕はそれを一息で飲み干してしまう。苦いような、すっぱいような。 「ギャグ?」 僕は恭介に訊ねてみた。恭介はゆっくりとかぶりを振った。 「俺は本気だ」 そうだろうなとは思っていたので、僕は驚かなかった。 ただ、残念だった。 「それはもう決まったことなんだ?」 「決意はした、ってだけだな」 そっか。それもそうだね。 スプーンの柄を手の中で転がす。特に意味はない。考える振りをしているだけだった。 「寂しいね、遠くに行っちゃうみたいで」 口にしてから、それが酷くおざなりに聞こえて、打ち消すように言葉を継いだ。 「鈴にはもう言ったの?」 「いや。……アイツなら、多分気にしないんじゃないか、謙吾のときみたいに」 そう言って笑って見せた。皮肉めいたもののない、無邪気な恭介の笑みだった。 そんな薄情な娘じゃ……反論しようと思って、そうでもないなと思い直した。 「信じられるか? あれでいっつも俺にベッタリだったんだぜ?」 「なに言っても返さないよ?」 ようやく僕も笑った。 でも、伝票を摘んで立ち上がる恭介は、もう笑ってはいなかった。 「元々俺のもんじゃない……それに、こうなって欲しいなって、ずっと思ってたからな」 それは本当に恭介の本心だったんだろうか。 疑問に思ったけれど、恭介を疑おうとはしなかった。本心がどうであるにせよ、本心だと信じていなければ、僕らがつつがなく過ごす道はないのだから。 会計を済ませる。自動ドアが開く。身構えていたよりずっと冷たい空気に、思わず身を震わせてしまう。 「ねえ恭介」 「なんだ」 プロ野球って難しいんだろうね。 言おうと思ったけれど、馬鹿らしいのでやめた。だから代わりにこう切り出した。 「鈴には僕からそれとなく伝えておくよ」 「ああ。頼む」 それで僕らは別れた。恭介の背中は、がっちりと大きかったけれど、でもどこか弱々しさを感じさせた。コートの色が繁華街の華やかさに溶け込めなかったせいかもしれなかった。 帰り際、書店に立ち寄る。ねこぱんちの最新刊が出ているはずだった。書店には僕と同じような背広の姿がチラホラと見て取れた。肩さげ鞄をしたまま、黙々と本棚に向かう人たち。資格関係の本のところや、写真週刊誌の棚に集まっているようだった。 ふと、レジ前に宮沢千春の漫画が無数に積み上げられているのを見かけた。彼女、いやさ彼の名前を知らない人は、殆どいなくなっていた。頼めば貰えるんだろうけど、一冊買った。処女作品集ということで、あの漫画が載っているのではないかと期待したのだった。 部屋に帰ると鈴は猫じゃらしの手入れをしていた。パッと顔を上げて、僕の元に歩み寄ってくる。 「おお、お帰り。ご飯できてるぞ」 「じゃあ鈴で」 「amazonで頼め」 今日も釣れなかった。 「はいこれ、お土産」 本屋の紙袋を差し出す。 「うむ。ご苦労だった」 そう言って顔をほころばせた。 今日のご飯は鮭の塩焼きとほうれん草のソテーとほうれん草と豆腐の味噌汁だった。 「安かったから」 「うん。おいしい」 「そか、よかった」 「猫たちは?」 「でかけた」 ふーん。呟いて味噌汁に口を付ける。おいしい。豆腐が入ってる分まろやかな気がする。塩気の少なさにもそろそろ慣れた。 「今日はどうだった?」 「ん、仕事? ……んー、普通かな。何事も無く」 「おー、そりゃよかった。今日もお疲れ様」 なにが良かったのか、鈴はずっとニコニコしてる。 「あ、そういえば」 思い出したことを口にしてみた。 「恭介に会ったよ」 「元兄貴か。元気だったか?」 「いやいや、今でもお兄さんでしょ」 「冗談だ。それで、なに話したんだ?」 あんまりそういう冗談言うものじゃないよ。 釘を刺して言葉を継いだ。 「プロ野球選手になるんだって」 「アパラチア山脈?」 「プロ野球選手」 ぷろやきゅーせんしゅ。鈴は口先で呟いて、鮭の皮をべろりと口に放り込んだ。 「あたしがか?」 「恭介が。今度、入団テストっていうのがあるんだって」 「そうなのか? そうなのか」 納得したのかしないのか、うんうんと頷いて、でも多分自己解決してご飯を食べた。 「あいつも相当馬鹿だな」 鈴はやっぱり興味がないみたいだった。 僕にはそれがどうしても薄情に思えてしまうんだけど、でも鈴なりの考え方なんだろう、とほうれん草(バター風味)と一緒に飲み込む。 鈴は、僕が例えば「南極観測船に乗るんだ!」なんて言い出しても、同じことを言うんだろうか。心配したり、逆に応援してくれたりはしないんだろうか。 考えても詮無いことだった。だって僕は、元よりそんな気はないのだから。ずっと鈴とこうしていられたらいいと思っている。だから、関係はない。 考えても、しかたないことだったけど。 「あいつ、練習とかしてたのか?」 「うん、そんなこと言ってたような。腕なんか真人みたいに太くなってた」 「きしょ! やっぱ元兄貴だろ、それ」 僕たちは笑い合い、ささやかな夕餉を終えた。 これでこの話は全部終わりだと思った。 ところが後日、恭介の一次テスト合格の報を受けて事情が変わった。 ある休日。耳にした鈴はまず猫じゃらしを手に取り、一時間ばかり猫と遊んだ。いつもより二時間も少なかった。ついで、テストテストと口走りながらキャットフードを摘んで食べた。 そして鈴は言ったのだった。 「よし、家族会議だ」 一時間後、僕らは恭介の住まいに居て、恭介は鈴の前に正座させられていた。僕はお茶を入れたり茶菓子を補充する仕事をこなした。 「なんで大事なこと話さないんだ」 鈴は立腹しているようだった。 「だって」 恭介は申し開いた。 「お前、俺のことなんて気にしないだろ?」 「それはあたしが決めることだ」 さすが横暴だった。 「夢ばかり見るな」 「謙吾だって、実現したじゃないか。俺だって挑戦くらいしてもいいだろ」 「じゃあお前、ダメだったら諦めるのか?」 恭介は息を大きく吸い込み、だが口ごもった。僕は二人の横に座って将棋の記録員みたいに成り行きを見守った。 「諦めることを考えたら、実現なんてできない」 「実現できない夢は諦めるしかない」 「誰が決めた? 事実一次は――体力テストだが、受かった」 「だからお前もう、諦められないだろ?」 「元よりそんな気はない。謙吾もきっとそうだった。なんであいつは良くて、俺はダメなんだ?」 「それは――」 次口ごもったのは鈴の方だった。 いや、口ごもったのではなかった。 鈴は肩を上下させ、息を整え、胸に手を当て、それからようやく言葉を継いだ。 「お前が兄貴だからだろ、ボケ!」 こらえ切れなかったように「ボケ!」の声が上ずった。釣られるように恭介の声も大きくなった。 「お前の兄貴がやりたいことやろうってんだぞ? 応援しようとか思わないのか?」 「思わん!」 即答だった。 「俺はお前のためにずっとやってきたじゃねえか!」 叫ぶその勢いで恭介は膝立ちになった。 「そんなお前も、理樹と一緒になった! じゃあもういいだろ! 俺はやり遂げた! もう俺も、自由にやらせてくれよ! 俺だって、他人に胸張れることがしたいんだよ!」 その言葉に、背筋が粟立つのを感じた。 あんなに強くて頼もしくて、僕らを笑って守ってくれた恭介が、こんなことを言い出すなんて、思いもしなかった。 ずっと僕らは、恭介は何でもできて、何もしなくても特別な人だと思ってたのに。 そうだ。恭介は鈴の……僕らのために、きっと色々なものを犠牲にしてきたのだ。 そのことを思い知らされた気がした。 「あたしが知るか!!!」 鈴は怒鳴った。負けじと立ち上がり。 ここでそう切り返すのは、恭介も、もちろん僕も予想外だった。 「お前が野垂れ死んだら、理樹と遊びに行ったり、子供の面倒見てもらったり、お前の子供と遊んだり、正月に会ったり、できないじゃないか! 勝手なことすんな!!」 むふー、と鼻から息を吐いた。 ヤバイくらい自己中心的だった。 「そんな生活、俺には……」 「あたしの夢を馬鹿にするつもりか!?」 しかし恭介は完全に勢いを殺がれてしまっていた。 「じゃあ謙吾は……」 「ああするのがあいつにとって一番だからだ!」 迷いもなく、切り捨てる。 「お前はどうだ? なんで野球なんだ? 目立つからか? みんなが立派って言うからか?」 恭介の動揺は酷かった。 「……じゃ、じゃあ、野球で決着を」 「こんな大事な話、野球なんかで決まってたまるか! ばーか! 真面目に考えろ!」 言い切って、座布団にあぐらをかく。 困り果てた恭介の目が泳いで、僕を見た。 鈴の据わった目が僕を見据えた。 「理樹。お前はどう思う」 急に訊ねられて。 当然言いよどんだ。 僕。僕はどう思っているんだろう。答えはすぐには見えてこなかった。 急に水を向けられたから答えられなかったのではなかった。僕は、多分、他の人に胸を張って誇れるようなものを何も持っていなかったから、岐路で頼るべき言葉を持てないのだ。 二組の眼が僕を見つめている。 誇らしい友人に、数少ない家族に、どう言ってあげるべきなんだろう。 何か成し遂げたことも、築いたものもない僕。 そんな僕が生涯で得られた、唯一誇らしいもの。 それは友達と、鈴だった。 「僕は」 渇ききった口。 上手く回らない舌で、なんとかして言葉をつむいだ。 「僕は、恭介がしたいように、すればいいと思う」 二人はどんなリアクションも示さなかった。 「自慢できる、誇らしく思えることさえあったり、したりすれば、きっとどんなことしてても、楽しくなるから」 頭の中で、ホントかよ、と自分でツッコミを入れてしまった。 でも、僕はそういうもんだと、思う。少なくともそう信じていいと感じてる。鈴がいれば自分は大丈夫だと、そう思っている。確信している。 だから恭介も、誰かじゃなくても、なにかそういうのがあれば。 他の人がどう思うかじゃなくて、自分でそう思えるものがあれば。そう思ったのだった。 そしてこれは、宮沢千春の漫画の影響だろうと頭のどこかで納得していた。 「そうか」 鈴は寂しげに眼を伏せた。下唇を噛んでいた。何かを堪えているようにも見えた。 「馬鹿兄貴はもう知らん。勝手にがんばれ」 そして、僕は慌てて鈴の後を追った。 鈴は別に泣いてはおらず、猫の餌の時間だから、と言った。慌て損だった。 ◆ その年のドラフトに恭介の名前はもちろん無かった。 ただ正月、いつものメンバーが集まる機会があって、そこに恭介も来た。葉留佳さんに根掘り葉掘り新婚生活の中身を聴かれて殆ど話せなかったのが悔やまれるけれど、恭介が腕相撲で真人をやっつけているのは見えた。 入団テストには年齢制限があって、恭介の歳からすると、チャンスはあと一度のようだ。 そして鈴は最近すっぱいものをやたら欲しがる。年明け、今度一緒に病院に行く。 [No.493] 2009/11/06(Fri) 20:29:56 |
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