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No.527へ返信

all 第45回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/11/20(Fri) 00:00:56 [No.515]
それぞれの行方 - ひみつ@26023byte - 2009/11/21(Sat) 17:28:50 [No.531]
物足りませんの - ひみつ@19980 byte 超遅刻&ちょっとエロい - 2009/11/21(Sat) 13:15:42 [No.530]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2009/11/21(Sat) 00:42:32 [No.528]
能美クドリャフカのキッスで殺せ! - ひみつ@17181byte - 2009/11/21(Sat) 00:37:09 [No.527]
[削除] - - 2009/11/21(Sat) 00:09:59 [No.526]
分割手数料10%OFF!! - himitsu@7665byte.co.jp/ - 2009/11/21(Sat) 00:03:59 [No.525]
Exit - 9266 byteの秘密 - 2009/11/20(Fri) 23:55:59 [No.523]
双子姉妹、増し増しで 〜エロシチュー編〜 - ひみつ@7093 byte - 2009/11/20(Fri) 23:31:29 [No.522]
風に溶けるその日まで - ひみつ@5725 byte - 2009/11/20(Fri) 23:27:21 [No.521]
成層圏を突き抜けて。 - ひみっつ@2043 byte - 2009/11/20(Fri) 21:39:22 [No.520]
冬の幻 - ひみつっすよ!@9629byte - 2009/11/20(Fri) 21:38:24 [No.519]
彼女たちの絆 - ひみつ4326 byte - 2009/11/20(Fri) 21:20:39 [No.518]


能美クドリャフカのキッスで殺せ! (No.515 への返信) - ひみつ@17181byte

 椅子で窓ガラスを叩き割り、窓枠に残ったガラスの破片を残らず落としてから、真人は地面を見下ろした。建物から少し離れたところに生えている木に寄りかかるようにして、クドリャフカは髪の毛を弄んでいた。窓を見上げ、真人と目を合わせる。
「おい」
 自分を呼ぶ声に振り返ると、謙吾が男の両脇を掴んで引きずっているところだった。真人は回り込んで、男の両足を持った。男は声を上げようとするが、口に突っ込まれたタオルはそれを許さなかった。二人は一、二の三と声を合わせ、男を窓の向こうへ放り投げた。鈍い音がした。男は土ばかりの枯れた地面に横たわり、身体をぴくぴくと震わせていた。それを見て、クドリャフカが歩き始める。
 二人は廊下に出た。突き当たりに置かれた花瓶が床に落ちて、割れていた。陶器の破片の間から流れ出した水が廊下に広がり、床に敷かれたカーペットに染みを作っていた。二人はその上をつかつかと歩き、階段を下りようとした。階段を下りた先には玄関があった。ちょうどその扉が開き、強い光があふれた。二人は構わずに階段を下りる。玄関から入ってきたのはクドリャフカだった。階段の下で一瞬立ち止まったが、すぐに上り始めた。
 階段の途中ですれ違う。目を合わせただけで、言葉はなかった。クドリャフカは急ぐこともなく階段を上り、今しがたまで真人と謙吾がいた部屋へ迷わずに入った。本棚が部屋の中央に置かれたソファーに重なるようにして倒れ、無数の書籍が床に散乱していた。ほとんどは黒く塗り潰されたような表紙の分厚い書物だった。割れた窓から時折風が吹き込み、カーテンが揺れていた。クドリャフカは倒れた本棚に足を乗せ、バランスを確認してから、そこに腰を下ろした。それから身を屈めて、床に落ちた本を手に取った。
 それは詩集だった。英語とフランス語の対訳で構成されている。英語もフランス語も読めなかった。しかしクドリャフカはその詩を知っていた。いつか日本語で読んだことがあった。
 詩集を片手に室内を物色していると、庭から銃声が聞こえてきた。クドリャフカは窓へ目をやった。雲一つない青空が広がっている。鳥の群れがどこかへ飛んでいくのが見えた。
 クドリャフカは部屋を出て、階段を下りた。しかし途中で二階へ引き返し、廊下の壁に飾ってあった絵画を眺めた。マティスの『金魚』の複製画だった。クドリャフカはそれを外しに、床に投げ捨てた。それから階段を下りた。玄関の戸がわずかに開いていて、白い光が線のようになって差し込んでいた。庭へ出ると、強い陽射しに目を開いていられないくらいだった。クドリャフカは目を細め、手をかざした。倒れた男のそばに真人と謙吾の姿があった。真人はクドリャフカへ声をかける。
「こいつ吐いたぜ、クー公」
 クドリャフカはゆっくりと彼に歩み寄る。
「やっぱり鍵はお前のお袋さんがどっかに隠したらしい。だから箱はまだ開けられていない。将軍の手元でくすぶってるとさ」
 クドリャフカは真人へ頷き、ただ男を見下ろした。まだ息があるようだった。何も言わずに、死にかけの男をただ見つめている。
 そのとき太陽が雲に隠れ、眩しさが緩んだ。謙吾が拳銃のハンマーを起こし、倒れた男の後頭部を撃ち抜いた。
「非情の河また河と下りゆくに、船曳が綱を引く手の覚えいつか失せたり――アルチュール・ランボー」
 クドリャフカはしゃがみ込んでからそう囁き、手に持っていた詩集を男の傍らに置いた。雑草が風になびいた。それ以上の言葉はなかった。
 太陽が再び顔をのぞかせ、陽射しの強さが戻ってきた。クドリャフカは髪の毛を手で押さえながらつかつかと歩き出し、二人は慌ててその小さな背を追った。


 レコードプレーヤーの針を落とすと、かすれたような音楽が雑音混じりに響き始めた。クドリャフカは穴の開いたソファーに座り、手に持った箱を開けた。小銭とクーポン券ばかりが入っている。つまらなそうに鼻を鳴らし、床に放った。
 男が頭部を暖炉に突っ込んで死んでいる。炉と床の間にはわずかな段差があり、したたり落ちた血液が丸く広がっていた。この家の主人で、政府の役人だった。名前は覚えていない。男の死体を眺めながら、クドリャフカが歌うように呟く。
「霧たち籠むる河水に樹木の影は烟の如くに消ゆ――ポール・ヴェルレーヌ」
 母の死の原因がどんな願いも叶える箱にあると知ってから、かなりの時間が経過していた。確実な情報は、箱はテヴアの政権を握った軍部が所持していること、彼らが箱を開ける鍵を探しているということ、そして鍵を隠したのが母であるという三点だった。
 しかしクドリャフカの母は処刑された。ある男は、母の処刑が鍵の隠し場所を吐いたが故に行われたと言った。しかしその隠し場所は嘘だった。確かめもせずに刑を執行してしまうなんて。軍部の阿呆さ加減には呆れたが、そのおかげで対抗の手段はまだどちらとも言えないところにあるはずだった。
「でもよー、なんで箱をぶっ壊さないんだ。その方が楽だろ」
 部屋中のタンスや机の引き出しを調べた真人がクドリャフカの向かいに座った。クローゼットの中身をぶちまけ、ポケットの中まで探っていた謙吾もその隣に座る。
「箱にはきっと錠前がついているんです」
「だから錠前を壊せばいいじゃねえか」
「錠前は鍵を使って外すものです。それはとても正しいことです」
 穏やかにそう答えるクドリャフカに、真人は「そういうもんかね」と後頭部をぽりぽりと掻きながら呟いた。黙り込んでいた謙吾が立ち上がり、窓に近寄った。緑色のカーテンを指先に引っかけ、外の様子を探った。目線を外へ向けたまま、空いた手で二人に合図を送る。二台の車がちょうど屋敷の前に到着するところだった。
 謙吾は「裏口だ」と声を殺して言う。真人は頷いて、クドリャフカを伴って部屋を出て行った。謙吾も続いて部屋を出る。足音を消すために、履いていた靴を脱いだ。冷たい床の感触が足の裏から伝わってきた。
 蓄音器から、数十年前の流行歌が流れ続けていた。謙吾が戻ってきて、電気のスイッチを落とした。そしてまた忍び足でその部屋を出ようとしたが、窓沿いの柱に緑がかった蛍光色の染みを見つけた。時間はなかった。それでも気になってしまい、謙吾は柱に歩み寄り、その染みに触れた。指先で押してみると柱の一部がくるりと回転した。くり抜かれた空間に封筒が突っ込んである。謙吾はそれを引っ掴んで、中身も確認せずに急いで部屋を出た。


 桟橋から小型の船に飛び移った。ぐらぐらと揺れるが、謙吾と真人は構わずにトランプを続けていた。ぱたぱたと札が床に放られる音がやけにリズミカルだった。クドリャフカは紙袋をデッキに置き、取り出したリンゴを服の裾でこすり、かぶりついた。
 その船はもう使われていないものだった。所有者は不明、エンジンはすでにいかれていた。クドリャフカは船首に置かれた木箱に座り、謙吾が持ち出した封筒の中身に目を通した。母の名がそこにはあった。調査報告書だった。鍵の探索がどこまで進んでいるかが書かれている。上質の紙の束をめくりながら、これからのことを考えた。
「私たちはどこを探せばいいんでしょう」
 誰に言うわけでもなく、そう口にした。一瞬トランプの音が止まったが、またすぐに繰り返されるようになる。
 報告書によると、クドリャフカの母にゆかりの場所は全て調査を終えているようだった。にもかかわらず、彼らは鍵を手にしていない。どこかに隠されたままになっている。しかし彼らが見つけられないようなものを自分たちが探し出せるのかは甚だ疑問だった。何よりクドリャフカは、いかなる願いも叶える箱なぞというものは信じていなかった。眉唾にも程があった。
 甲板に寝そべって、空を見上げた。見事な夜空だった。
「やつらが探してないところを探せばいいんじゃないか。探したところにはなかったんだから」
 真人がそう口にした。
「それはどこだ」
「さあな。へへっ、わかるわけねえよ」
 トランプを切りながらそう笑い、謙吾と自分の前に配り始める。謙吾は手持ちの札を見ながら、二枚を交換する。そして再び札に目をやるが、すぐに顔を上げる。
「能美、お前のお袋さんの遺体ってどうなったんだ」
「え? あ、すぐにウチまで運ばれてきたって聞いてます。すぐ火葬したって」
「お袋さんに最後に会った人は?」
「祖父です。執行の直前に差し入れを……」
 そこまでを口にして、はっとした表情を浮かべた。
「調べてみる価値はあるんじゃないか」
「でも遺灰はロシアに――」
「空港は封鎖されてる。FEDEXもUPSも今この国では稼働してない」
 そこまで言って、謙吾は口元を少しだけ緩めた。慣れた者でないとわからないくらいの笑みだった。
 クドリャフカはフランスパンの固まりとナイフを謙吾に投げて渡した。手頃なサイズに切り取り、残りを真人に手渡す。真人は「じゃ、行くか」と声をかける。フランスパンをかじりながら桟橋に移り、ナイフを足元に投げつけ、腐りかけた木材に突き立てた。


 家じゅうをひっくり返すまでもなく、骨壷はあっさりと見つかった。かつて母が使用していた部屋に仏式の祭壇が組まれていて、そこに置かれたままになっていた。クドリャフカの祖父は拷問を受け、一度は釈放されたもののそのときの傷がもとで病死した。二人が拘束されている間、屋敷は荒され放題になっていた。帰宅した祖父は母の遺体を迎える準備で手一杯で、屋敷の修復には手を回せなかった。そしてこの世を去った。
 祖父と母、二人の死に居合わせられなかったクドリャフカにとって、祖父の屋敷は居辛い場所でもあった。母の部屋に座布団を敷き、お茶を入れた。謙吾と真人は広げた新聞紙の上で骨壷をひっくり返し、割り箸を使って遺灰を探っていた。さすがに素手で行うのは憚られるようだった。
 三人分のお茶の用意が終わる頃、謙吾が鍵を探り当てる。どのような錠前かはわからない。しかしその鍵が探し求めているものであると思って間違いないようだった。最期の面会のとき、祖父は母に鍵を渡した。母は鍵を飲み込み、永遠に葬ろうとした。そのようなシナリオを容易に思い浮かべることができた。
 お茶は母の遺影に捧げた。三人は早々に屋敷を立ち去ることにした。彼らと鉢合わせしないとも限らない。階段を下り、玄関で靴を履いた。祖父の屋敷は日本式だったから、土足厳禁だった。玄関の扉を開けたとき、一発の銃声が響き、先頭を歩こうとしていた謙吾の額に穴が開いた。そのまま仰向けに倒れる、真人は慌てて謙吾の体を引っ張って、玄関ドアを閉めた。周囲はまた静かになった。
「ダメだ」
 謙吾の首筋に手をあてた真人が首を振りながら言った。
「ちくしょうめ」
 唾を吐き捨て、真人は玄関ドアに張りついてドアスコープに片目をつけた。しかし狙撃者がどこにいるのかはわからなかった。視認できる範囲の問題ではなく、どこから狙撃されたのかもわからなかった。
 背後のクドリャフカを振り返り、今度は唾を飲み込んだ。そして微かな笑みを浮かべる。
「マサト……?」
「周りを見ててくれ。それから、これ」
 そう言って、クドリャフカに拳銃を手渡した。銃身が長く、クラシカルなデザインの回転式の拳銃。スミス・アンド・ウエッソン。スコーフィールド。
 そのままぶらりと、まるでコンビニにでも行くような仕草で真人はドアを開け、屋敷を出ていった。クドリャフカは半開きの扉に身体をぴったりと寄せた。
 銃声が聞こえた。胸部を撃たれた真人が倒れる。クドリャフカは植え込みの陰に赤い光を確かに目にした。一瞬だけ見えた炎のような光へ向かって発砲し、息を止めた。間もなく男の姿が現れ、そのままうつ伏せに倒れた。クドリャフカは息を吐き出し、外へと出た。玄関ドアは開けっ放しになっている。
 真人の元へ駆け寄った。すでにこと切れていた。開いたままの目を閉じてやり、玄関で同じように倒れている謙吾を見やった。
「これがあなたたちの強さだったんですね」
 ぽつりとそう呟いた。それから茂みに潜んでいた男へと目をやる。ぴくりとも動かない。念のため確認したが、彼もすでに死んでいた。
「お前は二度と帰ってこないね。お前がドアに入っていくのを見送って、おれはさよならと言うよ――カール・サンドバーグ」
 拳銃と鍵。手にあるのはそれだけだった。肩掛けのキャンバスバッグにそれらを放り込み、クドリャフカは祖父の屋敷を後にした。


 蛍光灯の電球が切れかかっているようだった。打ちっぱなしのコンクリートの灰色がどこまでも続いているような長い廊下はちかちかと点滅を繰り返す電灯のせいでひどく空虚に見え、靴音の響きがことさらそれを強めているようにも思えた。
 将軍は扉の脇に取り付けられたセンサーへ手をかざした。鍵の外れる音がしてから、ドアノブを回した。電気の消された室内は真っ暗で一歩先も判別できないくらいだったが、家具や物の配置は身体が憶えていた。真っ直ぐに机へ向かった。置かれた通話機のボタンを押し、マイクに向かって蛍光灯の交換を指示した。
 引き出しから煙草を取り出した。くわえた煙草にマッチで火をつける。煙を吐き出しながら、暗闇の中で映える赤い炎を見つめた。風もないのにゆらゆらと揺れていた。炎が指先に触れる前に机に押しつけて消し、電気スタンドのスイッチを入れた。
 帽子を脱ぎ、机の上に置いた。それからネクタイを緩めながら、寝室へ向かった。クローゼットを開け、上着とネクタイをハンガーに掛ける。ワイシャツを脱ぎながら、床に落ちていたリモコンを拾った。室内灯をつけるためのものだった。将軍はクローゼットの鏡にぼんやりと映る自分を見ながら、手に持ったリモコンの先端を電灯へと向けた。明かりが灯る。
 将軍はくわえた煙草を落とした。クドリャフカがベッドに腰をおろし、拳銃を構えているのを鏡越しに見た。慌てたように振り返った瞬間、クドリャフカは将軍の右膝を撃ち抜いた。苦痛に顔を歪め、その場に崩れ落ちる。
 膝を押さえながら、将軍は助けを呼んだ。しかし周囲は静まり返ったままで、怒号にも似た叫び声に反応する者はいなかった。
「お前、何をした」
 憎しみのこもった声色で将軍がそう訊ねた。クドリャフカはわずかに微笑むばかりで答えない。
「どうやってここまで来た?」
 クドリャフカは銃口を将軍へ向けたまま、ゆっくりと口を開いた。
「たくさんの人の助けを借りました」
 将軍はクドリャフカの傍らに置かれた木箱に気づく。錠前は外されていた。その様子を見ていたクドリャフカは小さな銀色の鍵を将軍へと投げつける。
「……開けたのか」
「どんな願いも叶えてくれる箱」
 クドリャフカは箱の中へと目をやる。Kindleが一台入っている。
「こんなもので願いが叶うんですか」
「叶うよ」
 吐き捨てるようにそう言った。
「確実に、少なくとも宇宙開発よりは」
 将軍は脱いだワイシャツを破り、太股に強く巻きつけた。それから呼吸を整えるかのように大きく息を吐いた。
「あんたのお母さんは偉かったね」
 挑発するように笑う。
「母国の機密を渡すまいとして死んだんだから」
 クドリャフカは静かに立ち上がり、将軍へ歩み寄った。そして銃口を額に押し当てる。将軍はクドリャフカを見上げ、観念したように瞳を閉じた。クドリャフカは指先に力を込めた。シリンダーが回転し、ばちんという音が静寂を割った。
 将軍の全身から力が抜けた。肩で大きく息をしている。クドリャフカはグリップで後頭部を殴りつけ、耳元で囁いた。
「それで平和な国を作ってください」
 クドリャフカは箱を睨みつけてから、寝室を出た。頭の中にこびりついているのはKindleの中にあったデータだった。元素記号や化学式、あるいは図面がほとんどだった。それから報告書や調査書、そして何かの記録。ロシア語ばかりでほとんど読めなかったが、辛うじて読み取れた文字もあった。セヴェロドヴィンスク、チェルノブイリ、ROSATOM……。
 それらのデータは全て消去した。将軍が目を覚まし、Kindleを目にしたときのリアクションを想像すると自然と頬が緩んだ。今、あのKindleにはたった三行の詩が入っているだけになっている。
「覆された宝石のやうな朝、何人か戸口にて誰かとささやく、それは神の生誕の日」
 クドリャフカは廊下を歩いていく。人の気配はない。自分の足音だけが聞こえている。


 水平線が見えていた。彫師の工房を出たとき、真新しい朝がテヴアに訪れていた。クドリャフカは海を見ながら、車道を歩いた。左右の二の腕には十字架が彫られている。
 歩道に電話ボックスを見つけた。近くに車が止まっている。ボックス内は無人だった。クドリャフカは中に入り、持っていた硬貨を電話機の上にばらまいた。そして数枚を投入口へ放り込む。
 直枝理樹の電話番号は暗記していた。国番号に続き、その番号を押していく。数度のコール音の後、聞き慣れたはずの、しかし懐かしい声が彼女の耳に飛び込んだ。
「もしもし?」
「もしもし、あの、リキですか?」
「え? あ、クド?」
「はい。元気でしたが」
「うん。僕は元気だけど」
 驚いているのか、口数が少なかった。クドリャフカはガラスにもたれかかり、車道へと目をやった。
「あの、もうすぐ帰ります?」
「え? ほんと?」
「はい。ケンゴとマサトも一緒です」
 そう言いながら、空いている手で二の腕の刺青を撫でる。
「そうなんだ。よかった。」
 心底ほっとしたような声だった。クドリャフカにもその安堵が映ったが、車から二人の男が降りてくるのが目に入り、彼女の口は急速に乾いていった。と同時に話そうとしていた言葉も失われる。
「……クド?」
「……」
「ねえ」
「……」
「……どうしたの?」
「ごめんなさいなのです、リキ」
「え?」
「予定が変わりました」
「クド?」
「私はもう日本へは帰れないと思います」
「どういうこと?」
 クドリャフカはしばし黙った後、その問いには答えずに続けた。
「リキ、一つだけお願い聞いてくれますか」
「え? あ、うん。いいよ」
 クドリャフカは唾を飲み込んだ。電話ボックスの入り口を見つめながら、バッグの中の拳銃へ手を伸ばした。


 その通話は終了したのではなく、強制的に切断されたように感じられた。理樹は手の中にある携帯電話の液晶画面を見つめた。わずかな通話時間が記録されている。
 彼は公園にいた。ベンチに座って、携帯電話の画面を見ている。少し離れたところに鈴がいて、彼が来るのを待っている。
「おい、何やってんだ」
「あ、うん。クドから電話だったんだけど」
 理樹は立ち上がって、鈴の元へと駆け寄っていく。穏やかな午後だった。二人は肩を並べて歩き始める。しかし鈴はどこか不機嫌そうに理樹を睨んでいる。
 やがて口を開いた。
「……浮気者」
「違うよ。謙吾と真人も一緒だって言ってたけど、途中で切れちゃった」
「で?」
「だから違うって。浮気なんてしてないよ。だいたいクドは海外にいるんだし」
「詳しいな」
 そう言って、つまらなそうに唇を尖らせる鈴に理樹は肩をすくめた。会話が途切れる。
 公園の出口にさしかかったころ、隣を歩く幼馴染を見ながら、ふと気付いたことを口にした。
「そういえば、鈴、今日髪型違うよね」
「え?」
「いや、なんか違うから」
「ちょ、おま、何言って」
「髪型変えたの?」
「き、気付くなよ、ばか!」
 鈴はうろたえたような顔をして、そそくさと早歩きで公園を出て行った。「あ、ちょっと待ってよ」とその後ろ姿に声をかけながら、理樹も公園を出て行く。
 クドリャフカの最後の言葉を思い返す。「りめんばー・みー」。彼女は確かにそう言った。声と言葉が理樹の耳元に焼き付いている。


 "Kiss Me Deadly" , performed by Kudryavka Noumi


 電話ボックスの四面の曇りガラスは全て粉々に割れていた。クドリャフカと男が一人、それぞれボックスの中と外に倒れている。男は額を正確に撃ち抜かれて、仰向けになっている。一方のクドリャフカは全身に銃弾を浴び、もうぴくりとも動かない。
 長身の男はクドリャフカに撃たれた脇腹のあたりを押さえながら、車へと戻った。クドリャフカは一人を即死させたが、もう一人に致命傷を与えるには至らなかった。男は運転席に乗り込み、上着のポケットから煙草を取り出す。しかしそれは空き箱だった。
 男は車を降り、倒れたもう一人の男へと歩み寄った。ジャケットのポケットを探り、見つけた煙草の箱から一本を抜き、口にくわえた。残りは男の死体の胸元へ置き、再び車へと戻った。
 ライターで火を付け、煙を吐き出した。腹部に激痛が走る。右手で脇腹を押さえ、左手をハンドルに置いた。エンジンは入れたままだった。大きく煙草を吸い、路上へ投げ捨てた
 男はアクセルを踏んだ。車が走り始める。加速とともにサイドミラーに映り込んだ電話ボックスはどんどん小さくなっていき、クドリャフカの姿もやがて見えなくなった。


(了)


<参考資料>
『キッスで殺せ』(ロバート・アルドリッチ、1955)
『空ろの箱と零のマリア』(御影瑛路、2009)


[No.527] 2009/11/21(Sat) 00:37:09

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