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all 第45回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/11/20(Fri) 00:00:56 [No.515]
それぞれの行方 - ひみつ@26023byte - 2009/11/21(Sat) 17:28:50 [No.531]
物足りませんの - ひみつ@19980 byte 超遅刻&ちょっとエロい - 2009/11/21(Sat) 13:15:42 [No.530]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2009/11/21(Sat) 00:42:32 [No.528]
能美クドリャフカのキッスで殺せ! - ひみつ@17181byte - 2009/11/21(Sat) 00:37:09 [No.527]
[削除] - - 2009/11/21(Sat) 00:09:59 [No.526]
分割手数料10%OFF!! - himitsu@7665byte.co.jp/ - 2009/11/21(Sat) 00:03:59 [No.525]
Exit - 9266 byteの秘密 - 2009/11/20(Fri) 23:55:59 [No.523]
双子姉妹、増し増しで 〜エロシチュー編〜 - ひみつ@7093 byte - 2009/11/20(Fri) 23:31:29 [No.522]
風に溶けるその日まで - ひみつ@5725 byte - 2009/11/20(Fri) 23:27:21 [No.521]
成層圏を突き抜けて。 - ひみっつ@2043 byte - 2009/11/20(Fri) 21:39:22 [No.520]
冬の幻 - ひみつっすよ!@9629byte - 2009/11/20(Fri) 21:38:24 [No.519]
彼女たちの絆 - ひみつ4326 byte - 2009/11/20(Fri) 21:20:39 [No.518]


それぞれの行方 (No.515 への返信) - ひみつ@26023byte



   1


 待ち合わせ場所の喫茶店にはクドリャフカが先に着いた。店員に案内された席に着き、彼女はメニューも見ずに珈琲を注文する。壁一面に嵌め込まれたガラス窓から射し込む、匂い立つような淡い光のまぶしさに、思わず目を細めた。
 肩の前を滑って胸の前に垂れ落ちる髪の、痛んでまとまりなく跳ねた毛先を、クドリャフカは指先でつまんでもてあそぶ。あれから幾分肉が落ち、さらに華奢になった体にこびりつく重い疲労感が、彼女のまぶたを静かに落とす。
 閉じられたまぶたを焼くあたたかな陽射しが、闇に満たされた狭苦しい視界を仄かに赤く黒く輝かせていた。指先に薄く硬い紙が触れていた。誰かの髪が頬を撫でた。浮き沈みする色彩の数々が、今ここにない懐かしい感触や音や声を誘い込んでいるとクドリャフカは感じた。ちりん。鈴の音が湧き出る。彼女の手にしたトランプの一枚が、向かい側の席から伸びてくる無骨で大きな手に抜き取られる。顔を上げた彼女の視線の先に、窮屈そうな座席から身を乗り出して笑う真人がいた。俺はあがりだ。手持ちの二枚を補助席に投げ出して彼は言う。
「待たせてごめん」
 真人の笑顔が光に溶けて、クドリャフカは、喫茶店の窓を背負う席に理樹が腰かけるのを見る。変な姿勢で束の間の眠りに落ちていたため、彼女の右手は痺れていた。そのすぐ隣に珈琲が置かれている。
 クドリャフカは痺れる右手を左手で包み、理樹の顔を見つめる。彼の目の下に浮き出た濃いくまは、今朝彼女が病院の鏡で自らの顔に見たそれと同じだ。心が凍てつく感覚を覚えて珈琲に手を伸ばす。舌先に触れた苦味と熱とが、今なお彼女の肉体を覆う眠気を追い払う。
 いくらか量の減った珈琲を見下ろしながら、クドリャフカはカップを持つ手をわずかに揺らして、暗く凪いだ表面を揺らした。ゆるく立ちのぼる湯気を浴びながら、濃淡が移り変わっていく様をただ見ていた。顔に当たる熱が心地よく、逃げ出したばかりの睡魔が再び忍び寄ってきていると感じた。
「真人は、まだ目を覚ましてない」
 理樹は、うつむいて両手の指を組んでいた。
「でも、手術は成功して、命に別状はないって」
 どこかで聞いたような台詞だ、とクドリャフカは思う。ここは確かに現実なのに、理樹の発する言葉の一つ一つが現実味を奪っていた。
 そうですか、と淡白に返したクドリャフカは、視界の端で、理樹の指の爪が、彼自身の手の甲に食い込んでいるのを見た。うっすらと滲み出る赤い血が、自らの瞳の中にも同じ色のしずくを落としたとクドリャフカは感じた。鮮血に濡れて、彼女の見る世界はあらゆるものの輪郭がぼやけていく。薄く塗り延ばされた赤色は、たちまち濃度を低くして本来の色を失う。残されたのは白く濁る曖昧な景色だ。深い霧の只中に放り出された彼女は、直後に訪れた振動によって足場を崩される。天地の区別すらつかなくなった彼女は、強烈な浮遊感に晒されるさなか、どこからか伸びてきた腕に体を引き寄せられた。
 息苦しさにあえぎながら、クドリャフカはきつく目を閉じた。彼女が再びまぶたを上げたのは、幾度もの振動が収まった後、顔に何かの液体が垂れていると感じたときだ。目を開けた彼女は、自分が真人に抱きしめられていることを知った。
 双眸を見開いたクドリャフカには、意識を失った真人の顔が滲んで見えた。体と体の間に挟まれた腕を強引に引っ張り出して、目元をこする。手の甲にかすれた血がついている。腕もあちこちが血みどろだった。自分が流したものではない血の、あまりにも鮮やかなその色に、彼女の意識は激しく揺さぶられる。彼の名を呼ぼうとしたが、喉から漏れるのは声にならない吐息だけだった。
 まばたきを繰り返すたびに、赤々とした大小の点が視界を乱暴に穿った。クドリャフカは、震え始める手を自らの胸元に押しつける。染まりゆく視界の赤が中央に凝集し、一つのまるい点になる。まばたきをした彼女の瞳からその色が剥がれ、透明なしずくに変じてこぼれ落ち、喫茶店でクドリャフカが頼んだ珈琲の黒い表面に、穏やかな波紋を一度だけ渡らせた。
 クドリャフカの涙が、二粒、三粒とテーブルを濡らした。泣くことが他者から同情を引くための卑怯な行為であるように思えて、彼女は服の袖で必死に目元をぬぐった。
「リキ」
 乾いてかすれた声が出た。いずれどちらかが言い出さなければならないのなら、その役目は自分が負うべきだとクドリャフカは考える。傷の深さを天秤にかけることはできないが、彼女には理樹の苦悩が少なからず理解できた。
「私たち、もう、会うべきではないです」
 言いながら、クドリャフカは顔を上げる。理樹はうつむいたままだった。今このとき、互いの視線が結ばれないことを知った彼女は、表情を歪めてから同じようにうつむいた。何を恨めばいいのかも分からなくて、ぬるくなった珈琲をひといきに飲み干す。ひとかけらの砂糖も混じっていないそれの苦味が、彼女の濡れた瞳をいっそう潤ませた。
「真人とは、どうするのさ」
「意識が戻るのを待って、話をします。その先のことまでは分かりません」
 それでも、真人に何を言えばいいのか、言いたいのか、今のクドリャフカには分からなかった。
「僕は、会わない」
 痛々しく傷ついた手の甲を見ながら、理樹は言い切る。クドリャフカは思い立ってハンカチを差し出すが、彼に受け取る意思がないことを知ってポケットに収めなおした。話はもう続かない。かつてなら決して訪れなかった沈黙が、この現実に取り残された二人の距離だった。鈴を失った彼の心に、クドリャフカが届けられるものは何もない。
 クドリャフカは財布から取り出した硬貨を席に置いて立ち上がる。理樹に背を向け歩き出し、不意に足を止めて身震いする。莫大な時間と思いの上に築かれた仲間たちとの関係が、あのたった一枚の硬貨と等価なのだと告げられたように思えたからだ。それが錯覚だと思いたくて、彼女は足早に喫茶店を後にした。


   2


 クドリャフカは、退院の翌日から学校に通うことを選んだ。元々、体に傷はほとんど負っていない。望めば何日でも休めたはずだが、甘えを知れば二度と復帰できないだろうと彼女は思う。
 歯を食い縛って登校したクドリャフカは、職員室から校長室にたらい回しされた挙句、まだ療養を続けた方がいいと告げられた。数少ない生存者の一人である彼女は、自分が、事故の動揺が収まらない在校生の心をかき乱す存在であることにそのとき気づいた。新たに配属させるクラスや寮室も決まっていないという校長の言葉の裏に、大人しくしていて欲しいという思惑が見え隠れしていた。
 クドリャフカは拳を握り締める。皮膚が裂けるほど強く唇を噛んだ。別に褒められたいわけではなかった。それでも、自らの覚悟が単なるわがままとしか見られない不条理に、彼女は憤りを覚えずにはいられなかった。校長から視線を逸らして床を睨んだ。激情はたちまち悔しさに成り代わり、瞳の奥が湿り気と熱とを帯び始めた。
 慌てて校長室を飛び出して、授業中だから誰もいないであろうトイレに駆け込んだ。流した涙の意味を勘違いされるのが嫌だった。泣き腫らした目を後で見られて、勝手な物語を組み上げられることを思うと、激しい羞恥と怒りで身もだえした。
 存分に泣いているとチャイムが鳴った。クドリャフカは反射的に鍵を閉め、両足を抱えて便座の上で身を縮めた。膝の間に顔を埋めて息を殺していると、扉一枚を隔てた向こう側から女生徒たちの声が聞こえてくる。何事もなくやがて遠ざかる声を、安堵の息を吐くことで見送った彼女は、自らの行動のみじめさを悟って愕然とする。片手を伸ばして、個室の厚く冷たい壁に指先を触れさせた。もう前とは違うんだ、とごく当然のことを思う。
 教室に行くことを諦めて、クドリャフカは女子寮の自室に向かう。別の誰かが居場所を押しのけている可能性もあったため、そこに自分の荷物が残されているのを見て彼女は救われた心地になった。
 ルームメイトである佳奈多の机にフォトフレームが載っていて、いつかに二人で撮った写真が内側に収められていた。胸が詰まり、そして、また別種の理解が胃の腑に落ちてきて、クドリャフカは目を伏せた。机に近寄って、写真を隠す形でフォトフレームを倒す。私はもう死んだ人間なんですね、と彼女は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。卑屈な考えだとは分かっていた。けれども、事実として佳奈多の妹である葉留佳は死んだ。クドリャフカは生き残った。どんな顔をして佳奈多と顔を合わせればいいのか、彼女には分からなかった。
 自らのベッドに背中から倒れ込み、クドリャフカは両手を大きく広げて投げ出した。柔らかな布団に身を沈ませ、深呼吸をしてみる。ここから見上げる天井が、たまらなく懐かしかった。遅くまで試験勉強をする佳奈多にホットミルクを差し出した日のことが思い出された。彼女のことが好きだった。今もそうだ。だからもう、終わりにしようと思った。
 学校が落ち着くまで校舎に近寄らないことを条件に、クドリャフカは寮内の一人部屋を勝ち取った。その日のうちに佳奈多の部屋から自らの荷物を引き払い、彼女と出くわす前に自室へ引っ込んだ。身勝手な選択だという自覚はあった。
 クドリャフカが何気なく自室の窓を開けると、夕陽が射し込んできて彼女自身の影を床に伸ばした。茜色に染まる胸に当てた手のひらに、心臓の鼓動が伝わってきた。あたたかだった。彼女は生きていた。


   3


 独りきりの部屋で眠るクドリャフカは、夢と現実の狭間をさまようとき、決まって真人の腕のあたたかさを思い出す。大きな体を抱き返そうとするそのたびに、クドリャフカは彼の背後に累々と横たわる仲間の死体を見せられた。彼女たちの流した血が真人の腕を汚していて、彼の流した血がクドリャフカの全身を汚していた。波打つ赤黒い血だまりの只中で、それでも彼女は溺れずに生きていられた。
 クドリャフカの見る夢は、現れるたびに形を変える。判で押したように変わらないのは、真人の一番近くに鈴がいることだけだ。何もかもが虚無に呑み込まれかけたそのときに、彼は伸ばす腕の矛先を自らの意思で選ぶことができた。選び取られたクドリャフカはだから、選ばれなかった彼女たちの顔を、夢の中でさえも見ることができない。誰もが等しく死んでいれば。自分と誰かの立場が逆であれば。自分だけが生き残っていれば。無意味な仮定は弾けて消える泡沫で、弾けた後には今ここにある現実しか残らない。
 授業中だけを狙って、クドリャフカは人気のない学校を歩き回った。見慣れたはずの景色がひどく新鮮だった。彼女は世界が変わらずに存在することを確かめるように、空気を吸い、手で触れ、匂いを嗅いだ。人目を忍ぶ彼女は喧騒と無縁だった。校舎から溢れ出る沢山の人の気配を浴びて、彼女の肌は孤独に焼かれた。わふーと小さく口ずさみ、立ち止まりたがる足を無理やり前に進ませた。
 数日後の昼休み、自室に戻るのが遅れて途方に暮れていたクドリャフカは、二つの鳴き声を聞きつけて、人目も構わずに中庭へと足を向けた。佐々美がケヤキの下に腰を下ろして弁当を広げ、その両側にヴェルカとストレルカが行儀よく座っていた。彼女は二匹の頭を順に撫で、食事を与えている。
 二匹が唐突に顔を上げた。佐々美の制止を振り切って駆け出すと、木の陰に隠れたクドリャフカをたやすく見つけ出し、観念して立ち尽くす彼女の体に容赦なくすがりつく。謝罪の言葉を口にしつつ遅れて走り寄ってきた佐々美が、クドリャフカの顔を見て驚きに目を見開いた。彼女の瞳に怯えの色が混じるのがクドリャフカには分かった。それが自然な反応だと思った。
「その、ありがとうでした」
 クドリャフカは深々と頭を下げる。いえ、と返した佐々美は、片膝をついて二匹と目線の高さを合わせる。喉をくすぐり、彼女は微笑む。
「笹瀬川さん。勝手なお願いだと分かっているのです。あの、ヴェルカとストレルカの世話をこれからもお願いできないでしょうか」
 断ることができない性格だと知りながら、知っていたから、クドリャフカは佐々美に二匹を再び託すことを選んだ。打算的な考え方が板についてきたように思えて、彼女は顔に出さずに自嘲した。
「この子たち、能美さんの帰りをずっと待っていましたわ」
 結果的に二匹の世話を押しつけられたことや、理由すら告げられず、今またその継続を求められていることに対し、佐々美は一切の不満を言わなかった。クドリャフカを責める風でもなかった。佐々美はただ、辛そうに目を細めた。
「能美さんも、ここを去られるのですか」
「いえ、私はここに残るのです。それより、もしかして」
 佐々美は沈痛な表情で頷く。先日、理樹が退学届けを出したということだった。生徒たちの間で随分噂になっているようだった。届けが受理されるまではしばらくかかる。だが、その間に彼がここを訪れることはないだろうとクドリャフカは思う。
 理樹の決断が自分のせいだと思えるほど、クドリャフカは傲慢になれなかった。表情を変えずに頷いて、彼は逃げたのだろうかと考える。たぶん、そんなことはない。学校生活にしがみつくことと、過去に背を向けること。どちらがより強く、より価値のある選択であるかなんて、他の誰にも決められない。その道を選んで行く者だけが、自らの選択の意味を知っている。クドリャフカは目をつむり、今も病室で眠っているであろう真人の行く先に思いを馳せた。抱き締められたときのことを思い出した。彼に会いたい、話がしたいと強く思った。
 佐々美と別れたクドリャフカは、学校を出て病院に向かった。駅前で花束を買い、受付で見舞いを申し出た彼女は、真人が病室から抜け出したことを知る。誰にも目覚めを知らせないまま、夜中のうちに姿を消したということだった。クドリャフカは太陽が沈むまでロビーで花束を抱えて待ち続けたが、彼が戻ってくることはなかった。


   4


 真人が消息を絶ってから週が一回りし、誰も知り合いのいないクラスにクドリャフカは編入することになる。生徒たちから向けられる視線は、好奇と恐怖がおおよそ半々だった。ただ、クドリャフカは露骨に避けられていた。休み時間になっても彼女に声をかける者はおらず、彼女が歩けば自然と道ができた。そうなるだろうと予想していたが、そんな理解とは無関係に心が軋んだ。
 翌日、登校したクドリャフカは、自分の机の上に一枚のルーズリーフが置いてあることに気づいた。赤マジックで太く『死神』と書き殴ってあった。頭に血がのぼった彼女は、乱暴に紙を引き裂いて、教室中に視線を巡らせる。誰も彼女と目線を合わせようとしてくれなかった。
 クドリャフカは、屈強な肉体を持つわけでも、狡猾さを持っているわけでも、折れない心を持っているわけでもなかった。彼女をよく知らない人間にとって、彼女は貧弱で気弱な少女でしかなかった。耐え忍ぶ以外にいじめの受け流し方を知らなかったことも、彼女の立場を際限なく悪くした。
 直接の因果関係はなくとも、事故から生還したクドリャフカの背後には、無残に死んだ多くの人々がいる。もし何も起きなければ死体の群れに加わっていたはずの彼女はだから、顔の見えない他人から吐きつけられる『死ね』という罵倒を持て余した。
 初日から数えて三日目の早朝、椅子の上に折り重なって置かれた引き裂かれた数冊の教科書と、マジックで机に直接書き連ねられた暴言の数々を目にしたとき、クドリャフカは脇目も振らずに教室を飛び出した。行き先など彼女も知らなかった。闇雲に走って校舎を抜け、渡り廊下で派手に転倒した。膝をすりむいて血が滲み、誰かの笑い声を聞いた気がしてまた走り出す。嘲笑を振り払いたくて耳を塞ぎ、気づけば中庭に辿り着いていた。
 貧血に襲われたように、クドリャフカの視界は揺れて落ち着かなかった。立ち尽くす彼女の足元にヴェルカとストレルカがいた。比喩でなく腰が抜けてその場に崩れ落ちた彼女を、あの日のように駆け寄ってきた佐々美が優しく助け起こした。
 この後の授業には出ないとクドリャフカは言った。佐々美は「仕方ありませんわね」と肩をすくめて、頼みもしないのに、一時限目の授業をサボると宣言してくれた。それならということで、クドリャフカは、まだ他人が入ったことのない寮内の自室に佐々美を招くことに決める。
 おっかなびっくり部屋に入った佐々美が、いい部屋ですわね、と当たり障りのないお世辞を口にする。何だかおかしくて、クドリャフカは独り小さく笑う。まだこうして笑えたことが意外だった。
 佐々美は殺風景な部屋をしきりに見渡している。何を言っても重苦しくなりそうな空気の中、必死に楽しい話題をひねり出そうと苦闘してくれているのだと気づいて、クドリャフカの胸は多くのあたたかな感情で詰まった。
「二木さんの、ことなんですけれども」
「はい」
 それでも、思案の末に佐々美が導き出した言葉はクドリャフカをどうしようもなく怯ませる。もはや自分たちの間には日常のひとかけらすらも残っていないように思えて、寒くもないのに彼女は身を縮ませた。
「ちょっとした話を小耳に挟みまして。ついこの前、二木さんが職員室で先生と話をしていたらしいんですの。その内容が、なんと言いますか、空いている寮の部屋を一つ貸して欲しいというものだったそうで」
 佐々美が何を言おうとしているのか、すぐに分かった。ベッドに腰かけたクドリャフカは、両手で布団をきつく握り締める。体のあちこちが火照り始めるのが分かった。
 佳奈多が寮内にクドリャフカの新たな居場所をつくろうとしてくれたことが嬉しくて、でもそれが彼女の隣でないことだけが悲しかった。自分の意思で部屋から出たくせに、傍にいることを許されなかったのだと、捨てられたのだと、クドリャフカはそのとき確かに思った。
 自らを醜く貶めることだと知りながら、クドリャフカは、佳奈多が厄介者のルームメイトを追い出すために手切れ金を用意してくれたように思った。思うことは確かな罪で、クドリャフカはもう自分に佳奈多と関わる資格がないことを知る。面と向かって言えなかった別れの言葉も、今の自分が発せば卑しいものに成り下がると思った。
「どうかされまして?」
 こみ上げる吐き気を抑えるように、クドリャフカは口元を軽く覆う。彼女を苦しめるのは醜悪な自分自身だった。佳奈多の思いを踏みにじるたびに、彼女は自らの心をも踏み潰していた。
「笹瀬川さん」
「はい?」
「これからはもう、私に優しくしないで欲しいです。無視して下さい。私もそうします。それがたぶん、一番いいです」
 苛烈さを増す最近のいじめで、心がすり減っているからこそ出てきた勢い任せの言葉だとクドリャフカは分かっていた。ここで佐々美を突き放したことを後悔すると知っていた。だが同時に、自身の磨耗した心がいずれ猜疑心の根を佐々美にまで伸ばすことをも、クドリャフカは知っていた。これ以上、優しい彼女の顔が辛く歪むのを見たくなかった。
「ありがとうでした。そしてごめんなさいです。それから、ヴェルカとストレルカのこと、どうかよろしくお願いします」
 佐々美が何か言うのを待たずに、クドリャフカは彼女を部屋から強引に閉め出した。鍵をかけると静寂が部屋に満ちた。佐々美や佳奈多、ヴェルカやストレルカにまで悪意や暴力が伝染することを思うと血の気が引いた。クドリャフカは自分が死神と罵られたことを思い出した。扉に背中を押しつけて座り込んだ。これで本当に独りぼっちだ、と彼女は思った。


   5


 教室に向かうのが憂鬱だった。それなのに早朝から足を運んでいるのは、早ければ早いほど、いじめに対処できる時間が増えるからだ。昨日の有様を思えば、落書きどころか、机や椅子が丸ごと撤去されていてもおかしくはない。空き教室に向かう算段を立てながら、クドリャフカは廊下を歩いた。余計な思考で頭を満たしていないと落ち着かなかった。
 幸いにも、教室には誰もいなかった。身構えつつ自分の席に向かったクドリャフカは唖然とする。悪戯の痕跡すらない机と椅子が、揃ってそこにあったからだ。慎重に机の中を探ると、新品の教科書までもが出てきた。浮つきかけた心を彼女はすぐに鎮めた。どうせ、教師の誰かが気を回しただけだろうと思う。クラスメイトが急に改心してこんなことをするとは考えられなかった。
 時計の針が進んで人が増えても、案の定、クドリャフカに近寄ろうとする者はいない。何も変わらない朝だった。三時限目の終わりにクドリャフカは我慢できなくなってトイレに向かう。席から離れれば何をされるか分からないため、手早く済ませて戻るつもりだった。
 洗面台の前で佳奈多が手を洗っていて、振り向いた彼女とクドリャフカの視線が一瞬だけ結ばれる。構わずに個室へ駆け込んだクドリャフカは、十数秒の間を置いて、上から多量の水を浴びせかけられた。髪と体から滴り落ちた水が、しばらく床を叩き続けた。下卑た笑い声が聞こえてきた。ずぶ濡れになった彼女の肌に制服が張りついていた。下着の線がくっきりと透けていて、これでは外に出られないと彼女は思う。絶望的な思いで天井を見上げた。電球の白い光が、潤んだ瞳の中にべったりと滲んでいた。
 クドリャフカはトイレットペーパーで服の水気を吸い取り始めた。どれだけ紙を使っても一向に乾く気はしない。水の冷たさが身にしみて、彼女はときおりくしゃみをした。悔しさとみじめさがこみ上げてきて仕方がなかった。
「クドリャフカ」
 抑揚のない佳奈多の声が、扉の向こう側から聞こえた。懐かしさに息を呑んだ。だが、彼女に対して抱いた汚らしい感情のことを思い出して、クドリャフカは何も答えられなかった。そうしていると「ここを開けて」と無感情な声が続く。
「嫌、なのです」
 舌を滑って出たのが拒絶の言葉だったことが、自らの姿以上に恥ずかしかった。佳奈多はどんな顔をしているのだろうと思った。冷え切った彼女の瞳を思う。いじめの現場に立ち会いながら、どうして何もしてくれなかったのかという疑問がクドリャフカの喉元までせり上がっていた。答えを聞くのが怖かった。佳奈多と過ごした日々の幻影が、彼女の心に灼熱の焼きごてを押し当てていた。
「そう」
 頭上に影ができたと思った直後、クドリャフカの髪や肩に数枚のバスタオルがぶつかった。それが佳奈多から届けられたものであることにしばらく気づけなかった。礼を言おうと口を開いたとき、彼女の気配はもうどこかに消えていた。
 翌日、クドリャフカのクラスの女生徒が数人、学校を休んだ。体調不良ということだった。その日を境として、数人ずつ生徒が休み始めた。一週間も経つとクラスは櫛の歯が欠けたような有様になった。
 クドリャフカが独りで食堂で昼食をとっていると、急に隣の席に誰かが寄ってきて面食らう。後から来た数人の女子グループに、あなたがいると仲がいい友人同士で並んで席に座れないという理由で追い出されたことがあったため、彼女はそれから窓際の個人席を選んで座るようにしていた。また難癖をつけられるのかと思うと顔がこわばった。
「いいかしら。隣」
 佳奈多が昼食の載った盆を持って立っていた。クドリャフカは目をまるくする。戸惑いのあまり、声が出なかった。彼女の沈黙を肯定と受け取ったらしい佳奈多は、盆を置いて遠慮なく椅子に腰かけた。クドリャフカは食事を再開せず、上品に食事をする彼女の横顔を見つめている。
「何?」
「私といると、ろくでもないことに巻き込まれます」
「知ってるわ」
 にべもなく言う佳奈多が何をどう考えているのか、クドリャフカには見当もつかない。敢えて空気を読まない受け答えをしている佳奈多を前に、彼女は自分が喜ぶべきか悲しむべきか分からずにここでの態度を決めかねた。そのうち、クドリャフカは、自分の顔や髪、露出した肌などを佳奈多に注意深く観察されているということに気がついた。
「クドリャフカ」
「はい」
「病気はしてない?」
「はい、平気なのです」
「怪我は?」
「それも、平気です」
 佳奈多の質問には事務的な響きがあった。クドリャフカは嘘をついていない。だが、まばたきもしない彼女に見つめられているとわずかな感情の揺らぎさえも見透かされているようで怖くなった。適切な距離の取り方が分からない相手と共にいることは息苦しかった。
「そう」
 手早く食事を終えた佳奈多は、クドリャフカよりも早く席を立つ。盆を持ったまま、足を止めて振り返る。あのねクドリャフカ、と淡々とした口調で呼びかける。
「悪いことした人間には罰が当たるわ。絶対にね」
「そう、でしょうか」
 この世界にそのような仕組みや法則が存在しないことをクドリャフカは知っていた。佳奈多だってそうだろうから、何故そんな戯言を彼女が口にしたのか理解できなかった。それでも、佳奈多との繋がりに対する無意識の甘えが、曖昧な返答をクドリャフカにさせた。ただ、もしそんなものがあったとしたら、自分はどうなるだろうかと彼女は思った。あの事故と、鼻をつく血の臭いを思い出した。
「そうよ。そうなるの」
 佳奈多はクドリャフカに背を向けた。


   6


 少し前から兆候はあったが、クドリャフカに対するいじめは嫌がらせめいたものが大半となり、彼女を表立って晒し者にするようなことは滅多に起こらなくなっていた。多少の不愉快さを許容すれば、彼女はそれなりに普通の高校生活を送ることができるようになった。
 無視されることだけは変わらずに、クドリャフカは独りでぼんやりと毎日を過ごした。いじめでかき乱されていた心が落ち着くと、彼女は自分の前に長すぎる空間の時間が横たわっていることに気づいた。食事をして、勉強をして、眠りに落ちて、それでも埋まらない圧倒的な空白だ。
 クドリャフカは、佐々美がヴェルカとストレルカと一緒に遊んでいる姿を物陰から見ているのが好きだった。筋書きのない、彼女たちの動きの一つ一つを眺めているだけで、良質の映画を見ている気分になれた。胸が締めつけられた。
 クドリャフカの誕生日は朝から小雨が降っていた。別に、だからどうしたということはない。雨だから、中庭で二匹と遊ぶ佐々美を見られないことだけが少し寂しいと思った。一方的に別れを告げてから、クドリャフカは佐々美と一度も話していなかった。いじめが収まったのだから仲直りすればいい、と彼女の一部がささやいていた。意地を通したいとか、謝るのが恥ずかしいとか、そういうことではなかった。
 真摯に頭を下げれば、佐々美は笑って許してくれるだろうと確信できた。だから再び友達になった後、自らの都合でいつかまた彼女を突き放す日が来ることが怖かった。そしてまた彼女の優しさにすがることが嫌だった。そうしないとは言い切れない。今ここに、その道をなぞろうと考えているクドリャフカ自身がいるからだ。
 普段通りに登校したクドリャフカは、普段通りに授業を受けた。今日が彼女の誕生日だと知る者が教室にいるとは思えなかったし、そもそも知られたいとも思わなかった。長く教室にとどまったり、学校をあてもなくさまようのが未練がましくて嫌で、だから彼女は一直線に自室へ戻った。
 扉を開けると、机の上に大小の小箱が一つずつと薄いピンク色の液体が満ちたガラス瓶が置かれていた。天井に近い四方の壁をぐるりと取り囲むようにして、折り紙を輪にして繋げた鎖の装飾品が吊り下げられていた。震える手で箱を開ける。片方には甘そうなケーキが入っていて、もう片方には銀色に輝くネックレスが収められていた。すぐ傍に、クドリャフカの誕生日を祝う名前入りのプレートが添えられていた。シャンメリーの瓶はまだ冷たかった。彼女は部屋を飛び出した。
 クドリャフカが向かった先は生徒会室だ。中を覗き込むと佳奈多が他の役員を前に話をしている。偶然なのか感覚が鋭いのか、彼女は視界の端にクドリャフカを捉えたらしく、口をつぐんでいた。一言断りを入れる仕草をして、教室から出てきた。
「何? 悪いけど、忙しいの」
「あ、その、ありがとうなのですっ」
 鍵を閉めて自室を出たクドリャフカには、自分がいない間に部屋へ入ることができたのは、寮の合鍵を手に入れた人間だけだと分かっていた。そんな芸当ができて、自分のことを気づかってくれそうな人間は佳奈多以外に思い当たらなかった。
「悪いけどそれは私じゃない。放課後すぐここに来たから、そんな細工をしている時間はなかったもの。何なら、クラスの人たちに確かめてもらってもいいけど。でも、誕生日おめでとう、クドリャフカ。それじゃ、まだ話の途中だから」
 寮長室に引っ込む佳奈多を見送りながら、クドリャフカは彼女が嘘をついていると思った。いくら急いでるとはいえ、風紀委員の彼女が、寮室の合鍵が不当に使われたという話を無視するのはおかしいからだ。
 クドリャフカは自室に引き返し、ケーキを食べてシャンメリーを飲んだ。自分自身でさえもそれほど特別視していなかった誕生日が、このとき確かな意味を持ったようで、彼女は思わず涙ぐんだ。これらを誰が与えてくれたかなんて、どうでもいいことのように思えた。誰かに見守られているという感覚は、独りきりを選んだクドリャフカの、痛めつけらてささくれた心を優しくとろかした。
 姿の見えない誰かのために何ができるかと考えて、クドリャフカは手紙を書くことを選んだ。受け取る相手が佳奈多だとしても、佐々美だとしても、もっと違う誰かだとしても、構わないと思った。彼女は自分の気持ちを自分の言葉で書き記し、鍵をかけた自らの部屋に残した。それから、手紙は、おおよそ一週間に一度の割合でクドリャフカの部屋から持ち去られた。彼女は余計な詮索をせずに、手紙を書き続けた。返事の代わりに部屋から手紙が消えた。それだけだった。それだけで構わなかった。時が流れた。


   7


 卒業式を終えて渡り廊下を歩いていると、中庭の方でクラスメイトたちと一緒に泣いている佐々美の姿が見えた。佐々美の気も知らず、ヴェルカとストレルカは彼女に構って欲しくて吠え声を上げながら体にすがっている。
 誰もが外に出払ってしまっていて、寮内には人気がなかった。クドリャフカにはこの静けさが心地よくも悲しくもあった。高校生活が終わってしまったと思うと道が突如として途絶えてしまったように感じられた。彼女はこれから自分がどう生きていくのか、この期に及んでも結論を先延ばしにしたくて、自室で後ろ向きな眠りにつこうと決めていた。
 クドリャフカの部屋の扉に背を預け、両腕を組む格好で佳奈多が立っていた。クドリャフカが近づいたことに気づくと目を開けて「卒業おめでとう」といつも通りの声で言った。おめでとうなのですと彼女が返し、それで会話は不自然に止まる。
 何かありましたかとクドリャフカが問うと「さぁ」と芝居めいた動きで佳奈多は両手を左右に広げて見せた。ふと思い立って、クドリャフカは制服のポケットから、今朝出し損ねた手紙を取り出した。出そうか出さないか迷って、結局持ち出してきてしまったものだった。無言で手紙を差し出すと、彼女はまじまじとそれを見つめ、わざとらしくため息を漏らしてから「駐車場」とつぶやいた。
 ありがとうなのですと頭を下げて、クドリャフカは駆け出した。喧騒を縫い、風を切って足を前に進めた。柔らかな空気が肌に気持ちよかった。広々とした駐車場の奥、車止めの一つに、彼女に背を向ける格好で真人が座っていた。クドリャフカは息を殺して歩み寄り、真横から彼の大柄な体に小柄な体をぶつけてみた。体重差のせいでびくともせずに、けれどクドリャフカを見上げた真人は、無言で少しだけ体を寄せて、車止めの端の方を彼女に譲った。それで十分だった。彼女はそこに腰かけた。肩に触れる体があたたかだった。クドリャフカは生きていた。独りではなかった。


[No.531] 2009/11/21(Sat) 17:28:50

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