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「こんばんは。今日は随分遅かったじゃない」 開口一番、沙耶はそんな台詞で僕を迎えた。すました顔を取り繕っているけれど、普段より遅れてきた僕に内心むくれているのが見え見えだ。少し楽しくなる。 「ごめんね。仕事が中々終わらなかったんだ」 「仕事ぐらい勤務時間中にちゃっちゃと終わらせなさいよ。ったくグズなんだから」 似たような台詞をさっき鈴にも言われたな。 「しょうがないよ、元々手際がいい方じゃないんだしさ。それに、なんだかんだ言いながら今日もちゃんと会えたんだから、それで良しとしようよ。ね?」 沙耶の頭に手を伸ばす。沙耶はいつも、いや、いや、と少し拒むようなポーズを取るが、最終的には僕のされるがままになる。本当はそうされるのが好きなくせに、すぐには素直になれない沙耶。 「よしよし」 「なっ、なによっ、私は子供じゃないんだからねっ。そんなので誤魔化されないんだからっ」 「はいはい」 顔を真っ赤にしながらそんなことを言ったって、説得力は全くない。 「沙耶は、どうしたいの」 声のトーンを変えて、思い切り耳元で囁いてやる。ひゃあっ、と飛び上がって、もがが、げぼごぼ、となんか色々ごちゃごちゃやったあと、消え入りそうな声で、 「理樹君と……キス、したい」 僕の腕の中の沙耶は震えているように見える。 あくまで見えるだけだ、あくまで。 こんなことを思うと醒めるから、出来るだけ考えないようにしたいんだけど、どうも今日は日が悪いみたいだ。申し訳ないな、などと思う必要のないことを思いながら、沙耶にキスをした。 「ん……」 音もなく光るPCから照射されたホログラムで作られている腕の中の沙耶が幸せそうに頬を緩ませているのを確認して、僕はようやく目を閉じる。 「うげえ」 台所で食器を洗っていると、居間の方から奇妙な声が聞こえてきた。ちょっと前なら「鈴、どうしたの」とかなんとか言って、すぐさま駆け寄ってやる所だが、お生憎様、僕と鈴はそんなスウィートな期間はとっくの昔に通り越しているのだ。「りーん、うげえーとか言ったらはしたないよー」とかなんとか棒読みで言ってやるくらいだ。鈴はテレビの音に合わせて、キモい、キモい、とくり返している。 「何がキモいのー」 身体を逸らせて居間を覗き込むと、鈴は布団を頭から被って、小さくなってがくがくぶるぶる震えている。テレビでやっているのはいつものニュース番組。巷で大流行中のプログラムについての特集みたいだ。 「あー、これか」 「理樹はこれ、知ってるのかっ!?」 「知ってるも何も、結構有名じゃない。多分知らない人の方が少ないと思うな」 「そ、そうなのか」 布団の隙間からちょろっと首を出す。お前は亀か。 「そうか、有名なら、知らなきゃいけないような気がするな。世間に置いてけぼりは、い、嫌だからな」 「別に無理して知らなくてもいいと思うけど……」 「理樹、あたしはむちできょーよーのない女にだけはなりたくないんだ」 「はいはい」 「ところで理樹、これ、いったい何が楽しいんだ?」 「僕に聞かないでよ」 画面に映し出されたにきび面の男は、「もう僕の生活は“さや”なしじゃ考えられないですね」と、嬉々として語っていた。 「だって、これ、プログラムなんだろ?」 まぁ、そうだね。 「そうみたいだね」 映像はスタジオに戻された。サブのキャスターがしかめっ面を崩さないメインキャスターと取り巻きに向かって一生懸命それについて説明をしている。 ――えーと、これはですね、最新のホログラム技術と、AIをドッキングさせた画期的なプログラムなんですよ。現実の時間に対応して、自分が会いたい時に会って話が出来て、ほら、あれですよ、恋人同士のような感じでラブラブになれるという。このソフトの開発者はですね、あの有名なスクレボの大ファンだったらしく、恋人になれるキャラを朱鷺戸沙耶というキャラにしたんだとか ――いや、でもアンタね、こんなのがあるから少子化に歯止めがかかんないんじゃないの? キクちゃんはどう思う? ――そーですね、このキャラクターとっても可愛いのでこの男性の気持ちもわからなくはないんですけど、私もこれはちょっと ――いや、でもですね、これはある意味で男性の夢なんじゃないんですかぁ? だって男性って生身の、実体のある女性に対して心のどこかでは倦怠感のようなものを抱えてるじゃないですか。その点この『プログラム』の“さや”って子は プチン。 リモコンを握った鈴の一撃でテレビはあっけなく沈黙した。時計を見ると、もう出なきゃいけない時間だった。 「もう出る?」 「ああ、理樹は今日も遅くなるのか?」 「うーん、月末だしなぁ……昨日も結局夕飯食べ損ねちゃったし、今日ぐらいは早く帰りたいなぁ」 沙耶も待っていることだし。 「ところで理樹、明日は休みか?」 そらきた。 「うん、休みだよ」 「じゃあ、久しぶりに」 「うん、二人でどこか行こうか」 鈴の顔がぱあっと華やいだ。僕は、そういう鈴の顔が好きだ。これはもう間違いなく。だけどたまに、ほんのたまに、誰よりも綺麗なはずの鈴の顔が世界で類を見ないほど醜いもののように見えてしまうことがあって、そんな時、僕の気分は酷く落ち込んでしまう。だけど、そういう感情を絶対に鈴に悟らせてはいけない。僕の中にいる鈴は世界で一番美しく愛しいものでなければならない。それ以外の僕があってはならないのだ。僕がそういう気分になったことを鈴に悟らせたことはこれまで一度もなく、これからだってそうだ。きっと僕はそういった小賢しいことを、他の人よりもほんの少しだけ巧妙にやることが出来る。 「鈴」 「ん、どーした理樹」 「今日も良い天気だね」 「限りなくどうでもいい会話だな」 「一見どうでもいいことが一番大切なのさ」 「意味がわからない……」 「こんな日は」 「こんな日は?」 「鈴と果てしなくエロいことがしたい」 僕が空を仰いでしみじみと語っているうちに鈴はさっさと走っていってしまった。わけがわからない奴はスルーだ、とでも思ったのだろうか。それは問答無用に正しい判断だ。知らずに肩が震えてしまうほど。 プランの立案は一瞬だ。通勤途中にあるコンビニで菓子パンを買うついでに、何らかの情報誌で行楽地に関する情報を仕入れ、明日一日僕の大切な鈴と楽しく過ごすための計画を練る。溜息を漏らすのはきっとその時だ。 予定通り定時プラス三十分くらいで退社した僕は、その足で家の近くの百円ショップへ行き夕飯の材料を調達する。時間があるのだし手の込んだものを作ってもいいのだけれど、なぜだかそんな気にもなれず、結局焼きそばにするつもりで少しの野菜と生麺を買う。家に着いて調理を始めたところで鈴が帰ってくる。二人でなんとなく夕飯の体裁を取り繕い、それなりに仲睦まじく夕食を終え、食欲を満たした僕らはまったく自然な流れで互いを引き寄せあう。どちらからともなく始まるキス、流れ続ける下らないバラエティ、消された蛍光灯、引き出しの手前に無造作に置いてあるコンドーム、少し乱れたシーツ、濡れた指、瞳、閉じる、たった0.05ミリの隔たりをその日君は、ああ、いやいや。 ああ、なんて面白いんだろうね。 シャワーも浴びず、裸のまま眠ってしまった鈴が冷えないように毛布を慎重に被せてやると、僕は忍び足でPCのある部屋に行く。服を着て行かなくちゃとは少し思ったけど、さっきまで僕が着ていた服は鈴と一緒に布団の中で、服が入っているたんすはさっきの部屋の中だ。面倒。そのまま行こう。僕を見た沙耶がどんな顔をするのか、それが楽しみでしょうがない。 PCのスイッチに触れるとぶぅんとフィンが回り出す音がした。机に立て付けたスタンドが自動的に立ち上がり、ホログラムのデスクトップを作り上げる。Internet Explorer Advancedを立ち上げ、ブックマークを探っていく。 僕の沙耶は、ネットに遍在する無数の“さや”のうちの一人に過ぎない。僕がこのプログラムの存在を知ったのは、年末に久しぶりに顔を合わせた恭介が教えてくれたからだ。僕は恭介ほどスクレボに心酔していたわけではなかったので、最初は興味なんて全くと言っていいほどなかった。恭介が、恭介の“さや”と話すのを見て、うわぁキモいなぁと思ったぐらいだった。 それが、まぁ、どうしたものか。 ログインパスワードを入力し、Enterキーを叩く。 「ふんっ、今日も遅かったじゃな……ってうぎゃあああああぁぁぁぁーーーっ!!」 「やぁ、沙耶。今日も息災だったかい?」 「なああああんでマッパなんじゃああああぁぁぁーーーーっ!!」 「うるさいよ、沙耶。ご近所に迷惑じゃないか」 「服を着ろおおおぉぉぉーーーっ!!」 しょうがないので、隣の部屋から服を持ってきた。 「あーあ」 「なんで残念そうなのよ」 「実は僕は見られると燃えるタイプなんだ」 「火事でも起こして勝手に消防のお世話になってなさいよ」 憎まれ口を叩く沙耶を見ていると自然と笑みが漏れてくる。どうしてだろうね。よくわからないけど、楽しいし、楽だ。いつもいつも僕をがんじがらめに縛り付けた鎖を、沙耶は簡単に消し去ってくれる。身体はまるで羽根が生えたみたいに軽くなる。 「で、明日は一日休みだったわよね。明日こそは私と一日遊んでくれるんでしょうね」 「いやー、それがさ、なんというか」 「用事でも出来たの?」 「うん……まぁ」 「ふーん」 あさっての方を向いて、少しだけ頬を膨らませている。その少しだけ膨らんだ頬を人差し指でつついてみる。 当たり前の話だが、僕の指は沙耶の頬に触れることなくすり抜けてしまう。 「ひゃあっ」 「あ、ごめん、つい」 柔らかそうだな、と思って。 つい、じゃないわよっ、と沙耶はまたへそを曲げてしまう。 「また今度、今度は間違いなくたっぷり付き合うよ」 「……本当?」 「うん、本当」 「なら、いいよ」 ようやく笑ってくれた。沙耶が笑うのは、沙耶の心のどこかが嬉しいと感じているからだ。だから沙耶が笑ってくれれば、僕は嬉しい。だからなんだってわけじゃないけど、全てはそういうことなんだろう? 「一日かぁ。よーし、楽しみにしてよっと」 「でもさ、一日この部屋の中ってのもさ、ちょっと味気ない気がしない?」 「それもそうね。どこか連れて行ってくれるの?」 沙耶の瞳がきらん、と輝いた。もちろんPCにはバッテリーがついているので、どこかへ持ち出すことは可能だ。昨今は“さや”とデートをする若者が増えている、という、僕が言うのもなんだが、世も末だなというニュースも流れているくらいだ。 「そうだなぁ」 「わくわく」 「沙耶はどこへ行きたい?」 「え、私?」 「うん」 「い、いいよっ、理樹君が行きたいとこで。私はどこでもいいから」 「でもさ、沙耶は僕んとこ来てから、ろくに外に出たこともないじゃない? だから、今回は沙耶の意見を全面的に尊重する。だからさ、」 きょとん、と沙耶は急に止まってしまった。あれ、と思って咄嗟にPCを見るが問題なく動いている。昔のPCでいう処理落ちのような現象に見えた。PC全体ではなく、沙耶だけが止まってしまっていた。 時間にしたら五分くらい止まっていただろうか。 ぽつりと、夢を見るような口調で沙耶は言った。 「迷宮」 その日、沙耶はそれ以上の言葉を喋らなかった。一時間くらい物を言わない沙耶の顔を眺め続けた後、ようやく僕は“さや”からログアウトした。 次の日僕と鈴は昼過ぎくらいからイルミネーションが綺麗なことで有名な郊外の植物園に来ていた。イルミネーションが点灯していない時期は閑散としているこの植物園も、この時期だけはカップルや、親子連れで賑わっている。 「にわかだな」 まったく。 僕と鈴はイルミネーションが点灯していない植物園も結構好きなのだ。とはいうものの、こうしてイルミネーションに釣られているのだから、人のことは言えないのかもしれない。点灯してからでは混雑するので、その前に早い夕飯を取ることにした。園内のレストランはどこも高価なので、僕と鈴は外にある屋台の焼きそば屋さんで食べるのが好きだった。 「おっちゃん、焼きそば二つ!」 「あいよっ!」 この時期でも半袖にねじり鉢巻のおっちゃんは、いつでも元気だ。僕と鈴はここに数回来ているが、毎回こんな風に元気な声で僕らに暖かい焼きそばを提供してくれる。初めてここに来たのは二年くらい前だろうか。おっちゃんはその頃から、何も変わっていないように見える。 「もうすぐじゃない?」 「そうだな」 腕時計を見ると六時十五分前だった。 ここのイルミネーションは、点灯する前の十分間は全てが消灯される。この時期にもなると、この時間で電灯がなければもう真っ暗だ。真っ暗闇の中、再び眩い光が灯る瞬間を観衆は固唾を飲んで待ち続ける。 「点いてる時もきれいだけど、この、消えるときも実は結構好きだ」 「知ってる」 「んなっ!?」 そんなの鈴のわくわくした顔を見れば一発だ。あと一分。握り締められた右手がまたきゅっと締まる。うっすらと汗ばんだ鈴の左手。握り返すことも忘れてしまいそうな独特の緊張感に包まれている。 「あ」 暗闇。 ざわめく群衆の声が耳にうるさい。街灯の明るさに慣らされた目が暗闇に順応する頃、ようやく空の星が少しずつ見えるようになった。 「あんなに星があったんだね」 「ん、ああ」 あと少しに迫った点灯の瞬間に、鈴は気もそぞろだ。この灰色の世界が塗り替えられる瞬間を観衆は今か今かと待ちわびている。 でも、みんな気付いていないのかな。こんな電飾で飾りつけたって、僕らの世界は何も変わっちゃいないんだぜ。そこにあるべきものの美しさを覆い隠して、派手なだけの虚構で自分の中の自分を騙しているだけなんだ。しっかりと目を見開けば本当のことが見えるはずだ、電飾の向こう側に咲いたみすぼらしい赤い花が見えるはずなんだ。本当のことは残酷だけど、残酷なだけじゃない。だけど嘘をつくのは、きれいで、虚しい。 不意に足下が青色に輝いた。 黄色い歓声が夜空を貫いた。見渡せば、木も、草も、川も、空も、まるで違うものに変わった。本当に世界は塗り替えられてしまった。眩しさに負けそうになる。 どこからともなく拍手が起こる。気付けば僕も、鈴も、魅入られたように拍手をしている。ただ手を勢いよく合わせているだけの行為を、拍手と呼びやがったのは誰だ。どこにも行けないのは、どこのどいつなんだ、こら。 「理樹!」 「うん?」 「ぼやぼやしている暇はない! 早く行くぞっ!」 早く行かないと一番いい場所とられちゃうだろっ! 呆けていた僕の手を引いて、動き出した群衆をかきわけて、鈴は駆ける。僕は足をもつれさせながらなんとかついていく。いつだって僕はこんなだ。鈴の手は温かく湿っていて、僕はなぜか声を上げて笑いだす。 「ただいま」 「おかえり」 深夜零時、人波にあてられたせいか、家に辿り着くと鈴はすぐに眠ってしまった。僕は鈴をベッドに寝かせて、またPCの電源を入れて“さや”にログインした。 「遅くなってごめんね」 「理樹君、いつも遅いもん。もう慣れっこになっちゃった」 出だしの毒舌はなりを潜めていた。その代わり、どこか疲れたような笑みが顔に張り付いていた。 「理樹君と会えるのは真夜中を過ぎてから。なんかその方が、らしい気がする」 「らしい?」 「うん。私たちっぽい」 「そうかな」 「そうだよ」 沙耶はゆっくりとこちらに歩み寄り、僕の隣に腰掛けた。 「ねぇ理樹君。キスして、くれないの?」 沙耶の顔が僕のすぐ近くにある。吐息がかかりそうな距離。沙耶は確かにそこにいる(でもいない)。 「ねぇ」 「ごめん」 「そっか。ざーんねん」 僕が手を伸ばすのをするりとかわして、薄く笑った。 「沙耶、なんか今日は、変だな」 「そう? 私は別に普通だよ。変なのは理樹君の方なんじゃない?」 「僕は、変かな」 「そうだよ、理樹君は、変」 「僕は普通だよ」 「嘘ばっかり」 あっはっはっは、と沙耶は笑った。沙耶がそんな風に笑うのを、僕はあまり聞いたことがなかった。いや、昔どこかで聞いたことがあるような、いや、でもそれはあまりに違うような。 「理樹君は今度どこに連れて行ってくれるんだろ。楽しみ」 「そうだね……」 「でもやっぱり理樹君と行くなら、あそこがいいな」 「どこ?」 沙耶はくるっと反転してにっこり笑いながらこう行った。 「迷宮。地下の大迷宮よ。最下層にはすっごいお宝が隠されてるの」 「ああ」 また出てきた迷宮という言葉に僕は納得した。要するに沙耶はスクレボの設定の話をしているのだ。斜め読みしただけだからなんとも言えないけど、確か学校の校舎に隠された秘密の入り口から潜入した地下の迷宮で宝探しをする、なんていう話があったような気がする。 でも、今まで沙耶が漫画の中の登場人物としての台詞を口にしたことなど一度もなかったのに、今になってどうしてなんだろう。 「ね、だから行こうよ、迷宮に。私と理樹君ならきっと迷宮をクリアして宝物をゲット出来るんだから」 「ねぇ、沙耶」 「うん、どうしたの理樹君」 「迷宮なんてどこにあるの?」 沙耶の笑顔が凍りついた、ように見えた。 「もう僕は高校生じゃないし、学校にも通ってない。校舎に秘密の入り口なんて隠されてないってこと、もう分かっちゃったんだ。だから、迷宮には行けない」 「で、でも、迷宮はあるよ。私と一緒に行けば理樹君にも見えるよ!」 「見えないよ。多分、ね」 そっか。 そう言って沙耶は俯いた。泣いているのだろうか。肩が小刻みに震えている。 「沙耶?」 うふふ。 くくくっ。 あはは。 あはははっ。 あっはっはっはっは! あーっはっはっはっはっはっは! 天をつんざくような声で沙耶は笑った。涙の粒が後から後から零れて床に落ちた。それも全てホログラムで、雫のようなものが落ちたように見えるだけだった。 沙耶はしばらく笑い続けた後、小さな声で、ごめん、と言った。 「理樹君、疲れてるよね。私も疲れちゃったから、もう寝るね」 僕は何も言わず“さや”からログアウトした。 ログアウトの瞬間、沙耶は少し微笑んで手を振っていた。 それを見た僕は、何がなんだかわからないくらい悲しくなって、ぼろぼろと涙を零した。僕の涙はどうしようもなく本物で、床とソファが少し濡れた。沙耶の涙も本物だったら良かったのに、と思った。でも、本物だったらきっと僕は沙耶と出会うことはなかった。それだけはきっと確かなことなのだ。 その後、沙耶は二度と迷宮のことを口に出すことはなかった。それどころか、沙耶は迷宮のことを聞いてもそんなの知らないよ、としか言わなかった。沙耶はどこからどう見てもネットに遍在する“さや”だった。 沙耶は眠りに就いたのだと、僕は思った。 [No.560] 2009/12/04(Fri) 23:59:28 |
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