[ リストに戻る ]
No.561へ返信

all 第46回リトバス草SS大会 - 大谷(主催代理) - 2009/12/04(Fri) 00:02:16 [No.544]
魔窟 - MVPに敬意を@10628 byte(無論遅刻だ) - 2009/12/05(Sat) 23:55:40 [No.564]
コタツで寝ると風邪をひくから気をつけろ - ひみつ@12273 byte 寝るまでが締切。遅刻 - 2009/12/05(Sat) 14:29:16 [No.563]
しめきり - 大谷(主催代理) - 2009/12/05(Sat) 00:19:06 [No.562]
オープニング・エンド - ひみつ@20466byte - 2009/12/05(Sat) 00:10:48 [No.561]
形あるものを僕は信じる。 - ひみつ@15,411 byte - 2009/12/04(Fri) 23:59:28 [No.560]
朝帰り - ひみつ@2968byte - 2009/12/04(Fri) 23:56:28 [No.559]
制服を返せ! - ひみとぅ@15427byte - 2009/12/04(Fri) 23:11:57 [No.557]
unsleeping beauty - ひみつ@15820byte - 2009/12/04(Fri) 22:42:31 [No.555]
君がいるから - ひ蜜@3425 byte - 2009/12/04(Fri) 20:15:53 [No.554]
微睡みから醒めて - ひみつ@14924 byte - 2009/12/04(Fri) 14:15:44 [No.553]
夢から覚めても - ひみつ5253 byte - 2009/12/04(Fri) 14:10:01 [No.552]
茨姫 - ひみつ@4641 byte - 2009/12/04(Fri) 14:08:40 [No.551]
寝ろ! - ひみつ 13716byte - 2009/12/04(Fri) 13:04:56 [No.549]
Re: 第46回リトバス草SS大会 - さいとう - 2009/12/04(Fri) 02:46:58 [No.548]
今回の投稿作について - 大谷(主催代理) - 2009/12/04(Fri) 13:50:30 [No.550]
図書館の君 - 秘密 8670 byte - 2009/12/04(Fri) 02:28:34 [No.547]
眠姫 - ひみつ 2432 byte - 2009/12/04(Fri) 00:08:42 [No.546]


オープニング・エンド (No.544 への返信) - ひみつ@20466byte

 目を開けた。瞼の下がわずかに痙攣していた。朝とはいえ、電気の消えている室内は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光のおかげで、辛うじて様子が窺えた。
 クドリャフカはベッドを抜け出し、カーディガンを肩にかけた。耳を澄ました。美魚の寝息が聞こえる。物音を立てないように浴室へ向かった。電気をつける。鏡に見慣れた顔が映る。冷たい水で顔を洗った。鏡に映る自分の姿を見つめる。髪はぼさぼさで、目の下の隈が深くなっていた。ただ寝起きというだけではなかった。満足な睡眠を最後にとったのがいつだったのかもわからなかった。瞳を閉じることに恐怖を感じている。
 鏡が曇っていた。カーディガンの袖で曇りを拭った。見慣れた顔が映っている。少女の、表情のない虚ろな顔。不意にこみ上げてきた吐き気に、慌てて便器へ向かった。しかし浴室の湿った床に足を滑らせ、その場に転倒した。棚から物が落ちる。
 美魚はその音で目を覚ました。彼女が上半身を起こしたとき、すでに辺りは静かになっていた。彼女はもう一つのベッドへ目をやった。めくられた掛け布団が見えた。
「能美さん?」
 彼女のベッドに歩み寄り、すぐに室内を見渡した。浴室から光が漏れていた。早足で浴室へ向かい、曇りガラス越しに彼女の名前を呼んだ。しかし反応はなかった。美魚はドアを開けた。クドリャフカは床に倒れ、嗚咽していた。美魚は彼女を起こし、頭を抱え込むようにした。
「能美さん、落ち着いて」
 美魚はしばらくそのままでいた。肩の震えが収まってから、彼女の顔を自分の胸から離した。パジャマの袖で涙や鼻水、涎を拭いてやり、身体を抱きかかえたまま立ち上がった。そしてベッドへと戻る。
 クドリャフカは何も言わず、なすがままにベッドへと横になった。美魚は布団を掛け、彼女の髪の毛を軽く撫でた。
「眠ってください。まだ早いです」
 実際は、誰もが起きようとする時間だった。実際、二人の部屋の外からは話し声や物音が聞こえてきていた。クドリャフカは美魚の目を見たままこくんと頷き、布団を頭までかぶった。
 美魚は急いで制服に着替え、食堂へ行く準備をした。髪を手櫛で整えながら、クドリャフカの様子を伺った。布団に隠れていて表情まではわからなかったが、大人しくしているようだった。声をかけようとして、思いとどまった。美魚はそのまま部屋を出た。
 廊下にはすでに朝の光景になっていた。起床した生徒たちが挨拶をしたり待ち合わせをしたりしている。見知った顔に「おはよう」などと声をかけながら、美魚は食堂へ早足で向かった。
 理樹は細長いテーブルの端っこに座っていた。トレイには朝食が置かれていたが、箸で突っつくばかりで食べようとはしていないように見えた。美魚は静かに彼へ近づいた。
「あ、西園さん、おはよう」
「直枝さん、能美さんが――」
 言い終わる前に理樹は立ち上がった。椅子が倒れ、大きな音が食堂内に響く。視線が集中するが、全く気にせずに理樹は美魚の顔をじっと見た。それから無言で食堂を出て行った。ほとんど駆け足で女子寮へ向かう彼の後ろ姿を美魚は見送る。
 珍しい光景ではなくなっていた。理樹自身の信用もあったが、何よりもクドリャフカが理樹でないと落ち着かないということもあり、女子寮への出入りは例外的に許可されていた。もちろん入っていい部屋はクドリャフカと美魚の部屋だけだった。
 「なおえー、今日も朝から大変だなー」という声が聞こえたが、無視をした。最短距離で彼女たちの部屋に辿り着いた。躊躇なくドアを開ける。鍵はかかっていなかった。クドリャフカはベッドに座っていた。ドアが開く音に気づき、視線を理樹へと投げかけた。
「クド――」
 理樹はベッドに駆け寄り、彼女の手を取った。そして傍らに寄り添うにようにして、顔を覗き込んだ。深い隈のできた顔は痛々しく、日に日に頬がこけていっているように思えた。
「大丈夫?」
 クドリャフカは力なく頷く。理樹は床に腰を下ろした。片手をベッドへ伸ばし、指先を彼女の手のひらへ絡める。言葉はなかった。何があったの、クド。そう訊きたい気持ちはあった。しかし言えなかった。しばらくの間、そのままでいた。
「学校、行かないと」
 理樹は手を離し、立ち上がった。少しだけ屈んで目線を合わせ、「また夕方に来るね」と言い、部屋を出た。廊下の壁に寄りかかるようにして、美魚が立っていた。理樹は「ごめんね、西園さん」と小さな声で囁いて、返事を聞かずに歩いていってしまった。
 美魚は自室に戻り、学校へ行く準備をした。といっても、鞄を手にするくらいだった。ベッドに座ったままのクドリャフカに「寝てなきゃだめです」と言い残し、部屋を後にした。
 クドリャフカは視線を窓へとやった。窓はカーテンに覆われていて、外の様子を目にすることができなかった。光の気配から、外が晴れていることくらいは見当がついた。
 瞳を閉じると、聴覚や嗅覚が研ぎ澄まされていく。帰国してからずっとそうだった。それは周囲にあるものに限らなかった。聞こえてしまうのだった。テヴアの朝の路上で起こった出来事。記憶をすぐそこにあるものとして感じてしまうことに恐怖を憶えてから、クドリャフカは眠っていないし、瞳を閉じることすら恐れていた。
 外の景色が見たかった。クドリャフカはカーテンを開けようと、ベッドを降りた。その瞬間、床に崩れ落ちた。力が入らなかった。ベッドの脚と脚の間に目が行った。向こうには窓と壁があるだけのはずだったが、二本の足が見えた。か細く汚れた脚だった。ほつれたスカートの裾からぬっと伸びている。クドリャフカは息を飲み、そのまま失神した。


 手に持った紙パックのジュースを恭介に手渡し、ベンチに腰を下ろした。グラウンドではソフトボール部がキャッチボールをしていた。理樹はストローを刺し、口をつけた。しかしストローの先端を噛むばかりだった。
「どうなんだ、能美は」
 ぽつりとそう口にした恭介に理樹は「わからないよ」と疲れ果てたような口ぶりで返した。
「わからないんだ」
「そうか」
 恭介は前屈みになって、紙パックを弄んでいた。冷えていたパックの表面に汗が浮かんでいく。
「クドはね、何も言ってくれないんだ。テヴアのこと、何も言ってくれない」
 そう言う理樹の足元にボールが転がってくる。理樹はそれを足で受け、拾い上げた。顔を上げると、部員の一人が手を振っているのが見えた。理樹はボールを下手で放り、ベンチに腰を戻す。
「でも僕はそれでもいいと思ってる。クドがいつか自分から教えてくれるのを待ってるよ」
 正面を見据えたまま、そう口にした。その口調の確かさに恭介は頷き、「お前がそれでいいんなら、俺は何も言わないよ」と言った。ジュースは相変わらず手の中で遊んでいる。
 テヴアで何があったのか。変調の原因はそこにあるのだろうと理樹は考えていた。しかし彼女は何も語ろうとしなかった。そしてその怯えたような瞳を目にしてしまうと、理樹としても、強く問い質すことはできなかった。彼女の帰還まで散々待った。今度は、クドリャフカは目の前にいる。だから待てないことはない。理樹はそう思っていた。いつか全てが解消される、そう信じていた。
「あ、あれは」
 恭介の声に、俯けていた顔を上げた。鈴がいた。制服のまま、グラウンドを歩いている。
「入部したの」
「するわけないだろう」
 途中で落ちていたボールを拾い、ゆっくりと佐々美との距離を縮めていた。佐々美も部員たちも、彼女の行動に動けなくなっていた。立ち止まった鈴は佐々美へ向かってボールを思いきり投げつけた。きゃっという悲鳴が聞こえてきた。
「何やってんだ、あいつは」
 グラウンドは静寂に包まれた。倒れた佐々美の元へ集まる部員たちをしり目に、鈴は二人の座るベンチへ歩き始めた。歩調は徐々に強まり、やがて鈴は走り出していた。「捕まえなさい!」という叫び声がグラウンドに響いた。鈴はベンチの真横で止まり、「じゃ」と片手を上げて走り去って行った。
「じゃ、じゃないよ! 何やって――」
 追いかけようとした理樹の肩に手が置かれた。いつの間にか二人は部員たちに取り囲まれていた。理樹は鈴の名を大声で叫んだ。
 自分を呼ぶ声を無視し、走って学校の敷地を出た。他に用事もなかったので、鈴はそのまま寮へ戻ることにした。自室へ向かって廊下を歩いていると、茫然とした表情を浮かべている美魚が目に入り、そっと近づいた。しかし近づいたはいいが、どう声を掛けていいかがわからず、口をもごもごと動かすばかりだった。ようやく、恐る恐る肩に手を置いた。手のひらが若干汗ばんでいた。
 肩に触れられて、ようやく美魚は鈴に気づいたようだった。彼女は戸惑っていた。鈴は「どうした?」という言葉が言えず、代わりに首を傾げた。美魚は視線を室内へと戻した。鈴も続いて彼女の部屋を覗き込む。
 クド。その言葉よりも先に駆け寄っていた。床を這うようにしていたクドリャフカを抱き起こした。彼女は弱々しい笑みを浮かべていた。
「戻ってきたときにはこの様子で――」
 鈴は背後を振り返る。美魚の顔には濃い影が差していた。
「私どうしたらいいのか。能美さん、足が動かないみたいで」
 クドリャフカはしきりと足を気にしていた。鈴は捲れたパジャマの裾から覗いている肌に触れる。体温はあった。何事もないように思われた。
 鈴は彼女の左足を掴み、軽く持ち上げた。そして手を離す。細く白い足は、何の意思もないかのようにストンと床に落ちた。静まり返った部屋にトンという音だけが響いた。


 日が暮れかけていた。一人で教室に残っていた理樹はぼんやりと窓の外へと目をやっていた。太陽が沈んでいくところだった。鞄を手に教室を出ようとして、クドリャフカの机の前で足を止めた。机の表面を指でなぞる。人差し指の腹に埃が多く付着した。
 自然と足は街へ向いていた。寮に戻るのが嫌だったわけではなかった。ベッドの上から動かなくなったクドリャフカに喜んで貰えるような何かはないかと考えていたのだった。
 左足が動かない原因は不明だった。外傷はなく、神経に異常があるわけでもなかった。帰国してから、彼女は一人でいることが多くなっていて、口数が少なくなっていた。
 本屋やレコード屋、衣料品店などを通り過ぎた。それまで目に留まるものはなかったが、ふと彼はリサイクルショップの前で立ち止まった。何の変哲もない店だったが、ショーウィンドーの中に置かれた車椅子が目には行ったのだった。
「これ、使えるんですか?」
 店員にそう聞くと、「もちろん動きますよ。まあかなり古いものですがね」と答えた。確かにひどく古ぼけた車椅子だった。しかし理樹はその姿に魅せられたように、その場に突っ立って車椅子を見つめていた。


 エアスプレーで埃などを取り除き、車輪に油を差すだけではどうにもならなかった。理樹はリサイクル店で買った車椅子を整備しようとしたが、どうにもならなかった。一応動作に支障はないが、おんぼろな印象は拭えなかった。
「おやおや理樹くん、それ車椅子ですネ」
 気がつけば、葉留佳がしゃがみ込んで車輪に手をやっていた。理樹はうんざりしたような口ぶりで、「そうだよ」とぶっきらぼうに返した。葉留佳は全く気にせずに、ふむふむと何かに納得しながら、携帯電話を取り出した。
「三枝さん、何してるの?」
「わからないかなあ、改造してあげちゃおうって話ですヨ」
「え? 何それやめてよ」
「もしもしこまりん? 画材持って玄関前までカモンメーン!」
 話を聞かない葉留佳に舌打ちをして、「あのさ、お願いだから壊さないでね」と言い残し、女子寮へと向かった。クドリャフカを呼んでくるつもりだった。車椅子を飾ることに興味はなかったが、動きに問題がなければどうでもよかった。「へいへい合点承知之助!」という能天気な返答が聞こえてきたが、無視した。
 女子寮に入ってすぐのところで小毬とすれ違った。小毬は画用紙やマジック、スプレーなどを両手に抱えて、ぱたぱたと外へ出て行った。画材の類が視界を遮っていて、理樹には気づかなかった。
「はるちゃん、どこー?」
「こまりん、こっちこっち」
 ふらふらとよろめきながら、声のする方へ歩いていき、画材を落っことした。目の前に現れた車椅子に「おおっ!」と声を出してしまう。
「なんかオッサンくさいリアクションですネ」
 そう言う葉留佳は携帯電話で誰かと話している。美魚を呼んでいるようだった。話しながら、地面に落ちたマジックを拾い、フットサポートのところにイラストを描き始めた。それを見て、小毬もマジックを手に取った。
 キュルキュルと音を立ててイラストやメッセージを描いている二人を目にし、すぐに踵を返そうとした。しかしため息をついた後、転がっていたスプレー缶を手にとって、キャスターに色をつけ始めた。葉留佳は唯湖や佳奈多、佐々美を呼び出した。たまたま連れ立って戻ってきた恭介、真人、謙吾の三人にも加わり、車椅子は徐々にカラフルなものになっていった。 夕暮れ頃には古ぼけた姿は見る影もなくなっていた。
「直枝さん、戻ってこないですね」
 美魚がそう呟いた。見上げた先には自分の部屋があった。カーテンは閉ざされている。葉留佳が「じゃあミニ子を迎えに行こう」と言い出した。男子三人を残し、威勢よくクドリャフカの部屋へ向かった。
 廊下には人の姿がなく、静かだった。ぞろぞろと歩く彼女たちの足音がやけに大きく響いていた。ドアの前で止まり、「直枝さん、いますか?」と美魚が声を掛けながら、部屋に入った。電気は消されていた。カーテンの間から入り込んだ夕陽が室内の一部を赤く染めている。
「直枝さん?」
 理樹は床にしゃがみ込んでいた。クドリャフカはベッドに座っている。ちょうど彼女たちへ向かうような格好になっていた。理樹は美魚たちを見やるが、何も言わずに視線を床へと戻した。
「直枝さん、能美さん、どうしたんで――」
「その声、美魚さん……?」
 クドリャフカが美魚の声を遮るようにそう言った。
「見えない……何も見えない。リキ、誰がいるんですか?」
「西園さんと三枝さんとあと……」
 理樹の声はだんだん小さくなっていき、やがて嗚咽に変わった。クドリャフカが立ち上がり、両手を前に差し出した。そして歩き出そうとする。理樹は慌てて、ベッドから落ちそうになる彼女を支える。
 そのとき、言葉はなかった。誰の呼吸すらも聞こえないくらい静まり返っていた。クドリャフカの「見えない……見えない……」という呟きだけが、室内を満たしていた。


 紙袋を抱えて、土手の芝生を駆け上がった。クドリャフカが車椅子に座って待っている。理樹は紙袋の中の焼き芋を折り、彼女の小さな手のひらに握らせた。それから、その手をとって口元まで導く。
「熱いです」
「焼きたてだから。すぐそこで焼いてたんだ。聞こえるでしょ、あれ」
 焼き芋屋のトラックからは客寄せの声がカセットテープか何かで流されている。夕暮れが近かった。理樹は車椅子を押し、土手を歩き始める。道はコンクリートで綺麗に整地されていたが、車輪の回転が悪く、きゅるきゅると軋むような音が響いていた。雨が上がってからしばらく経っていたが、まだコンクリートは少し湿っていた。
 失明してからというもの、ただ黙ってベッドに座る日々を続けていた。何をするというわけでもなく、一日中ただ座っていた。朝と晩の食事は理樹が運んでいた。入院させるべきという意見があり、異を唱える者はいなかった。しかし今は書類上の関係で、手続きは停止してしまっていた。入院費用や後見人など、いくつかの問題が顔を覗かせ始めていた。
 そんな中、理樹は彼女を寮の外へ連れ出していた。彼女は自発的に動こうとしなかっただけで、部屋から出るのを嫌がっていたわけではなかった。彼女を背負い、玄関まで歩いた。二人を茶化す者はいない。
「クド、目の調子はどう?」
「……」
「思ったんだけど、学校卒業したら、一緒に暮らさない?」
 クドリャフカは何も言わず、視線を前方へ向けたままだった。少し先を橋と車道が横切っていた。脇に坂道があり、橋の下をくぐれるようになっている。
「今は寮だからあまり一緒にいられない。でも一緒に暮らせれば、そうじゃないでしょ」
「リキ……」
「目が見えなくても、僕がついていればどうにか――」
「私の目、何も見えないと思ってますか?」
「え?」
 クドリャフカの言葉の意味がわからず、理樹はそう問い返す以上のことは言えなかった。ただ車椅子を押していた。横道に逸れ、橋の下を通る坂道の上に立った。グリップを握る手に力を入れた。
 手のひらが汗ばんでいる。
「あの日から、だんだん見えるようになってきました」
「見えるの?」
「見えますよ。でもリキの顔は見えません。他の何もかも」
「……どういうこと?」
 理樹はブレーキを軽く入れてから、坂道を下り始めた。引っ張られそうになるところをどうにかこらえ、ゆっくりと坂を下りていく。
「目は見えていないのに、私にはあの朝がはっきりと見えるんです」
 橋板が太陽を遮っているせいで、橋の真下は日中とは思えないほど暗かった。理樹はそこで車椅子を止める。クドリャフカは片手を背後へ伸ばし、グリップを握る理樹の手に添わした。
「クド……」
「私はもう許されないんだと思います。あの朝の出来事がまぶたに焼きついている。彼女の瞳に私が焼きついた、あのときはそう思った。でも違っていたんです。彼女が私に焼きついたんです」
「ねえ、クド――」
「リキ、お願いを聞いてくれますか?」
「お願い? うん、できることなら」
「簡単なことです。もう私はこれ以上耐えられそうにない。だから最期はせめてあなたの手で」
 理樹はグリップから手を離し、後ろから両手を彼女の身体へ回した。か細い身体に確かな熱が感じられた。クドリャフカが振り返る。こけた頬、落ちくぼんだ目、光のない目。彼女の姿を見ているだけでも辛いくらいだった。理樹は顔を彼女の傍へ寄せる。
 食事は細くなる一方だった。運んだ食事を半分食べればいい方で、ご飯をほんの一口、あるいは牛乳をなめるだけのときもあった。精神的に参ってしまい、衰弱している。理樹にはそう思えた。
「だんだんとはっきりしてきました。最初は影みたいなものでした。もしかしたら治るのかもしれない。そう思いました。でも違っていました。色がつきました。徐々に明らかになってきて、今もそれは進んでいる。私のまぶたの裏で、あの朝が繰り返されている。私は、もうこれ以上耐えられそうにないんです」
 頬と頬をすり寄せた。理樹は彼女を抱き上げ、車椅子から下ろした。そしてアスファルトの路上に座らせて、自分もその傍らに寄りそう。ブレーキを緩め、車椅子を思いっきり押した。雑草が生い茂る水辺へ向かって、車椅子は真っ直ぐに進んでいった。
 理樹は指で彼女を長い髪を梳いた。クドリャフカは光を失った瞳をくすぐったそうに細めた。


 日本大使館の重い門扉までは数十メートルの距離だった。トラックの荷台でクドリャフカは震えている。隣には祖父がいた。牢から逃げ出し、大使館のすぐそばまでやってきていた。あの門扉を超えれば、お前は保護され、日本へも戻れる。祖父はそう言った。しかし検問が設置されていた。
「クーニャ、私たちが時間を稼ぐ。お前は隙を見て、あそこまで走れ。大した距離じゃない。大声を上げれば、助けてもらえるだろうよ」
 毛布を頭から被ったクドリャフカに祖父はそう言った。そして荷台を降り、検問に立つ二人の兵士の元へ歩いていった。続くように運転席と助手席からも男が一人ずつ降りていった。毛布をかぶって身を隠したまま、その様子を見つめる。
 祖父が軽く振りかえった。兵士はその動きに気づいていなかった。クドリャフカは身体を丸めてトラックを降り、走り始めた。その瞬間、祖父と二人の男は兵士に掴みかかった。一人は地面に倒したが、もう一人はするりと男の腕から抜け出し、笛を吹いた。早朝のテヴアを切り裂くような鋭い音色だった。
 クドリャフカは大使館の門扉に縋りつき、大声を上げながらよじ登ろうとした。しかし足がすべり、落ちてしまう。背後を振り返る。兵士が一人走ってきていた。喉が枯れんばかりの声を出した。彼女をテヴアへ連れてきた大使館員の名前を呼んだ。ようやく駆けてくる足音が聞こえ、もう一度門扉をよじ登ろうとした。
 左足を掴まれた。クドリャフカは悲鳴を上げて、左足を大きく動かした。「能美さん?」という声が聞こえた。顔を上げると、見覚えのある男が駆け寄ってきていた。クドリャフカはその男の名を呼びながら、門扉を乗り越え、地面に落ちた。全身に痛みが走ったが、それどころではなかった。とっさに門の向こう、直前まで自分がいたところを振り返る。
 そこにいたのは少女だった。バスケットを抱えた、盲目の物乞いだった。みすぼらしいなりをして、しかし顔には笑みを浮かべている。
「能美さん。この子に亡命の――」
 銃声がした。遠くに立っていた兵士が銃を構えていた。銃口からは煙が上がっている。少女はその場に仰向けに倒れ、ぴくりとも動かなくなった。兵士のものと思しき舌打ちが聞こえた。
 クドリャフカはその少女から目を離せずにいた。目を見開いたままの少女はいまだに自分を見つめているようだった。ごめんなさい。そう呟いた。しかしその言葉は、もはや届かなかった。


 車椅子が杭にひっかかっていた。川の流れに合わせて車輪が回転し、虚ろな音を立てていた。鈴は水草の茂みをかき分けるようにして、水辺へ向かった。土手の上を歩いているとき、見覚えのある車椅子が目に入ったのだった。
 その車椅子はやはり理樹のもののようだった。鈴は傍に落ちていた木の棒を拾い、車椅子を突っついた。川面は濁っていた。雨により若干増水しており、上流から流れてきたと思われる木材や植物の類が水面を漂っている。
 棒で突っついている内に、車椅子は杭から離れ、川の流れに合わせてぶくぶくと沈んでいった。鈴は棒を投げ捨て、車椅子が見えなくなるまで、その様子をじっと眺めていた。


 電話を掛けようとしたときだった。恭介の視界に理樹の姿が入ってきた。クドリャフカを背負っているようだった。恭介は理樹に駆け寄り、「車椅子はどうしたんだ?」と訊ねた。理樹は「別に」と答える。
「能美は? どうかしたのか」
 ぐったりと理樹の背中へもたれかかっているクドリャフカの様子にそう声を掛けると、理樹は小さいがはっきりとした口調で言った。
「眠ったんだ。寝させといてあげようね」
 そして女子寮の玄関へ向かって歩いて行った。恭介は何も言うことができずに、その姿を見送った。
 理樹は真っ直ぐに彼女の部屋へ向かった。ちょうど美魚が部屋から出てくるところだった。「直枝さん、能美さんは?」と訝るように訊ねてくる。理樹は「うん」と頷き、部屋へ入っていった。そしてクドリャフカをベッドに寝かせる。
 理樹が振り返ったとき、入口に立っていた美魚はびくんと身体を震わせた。理樹は穏やかな表情を浮かべている。
「今日一日、このまま寝かせておいてほしいんだ」
 美魚はこくんと頷いた。
 その様子を目にしてから、理樹はその場を立ち去った。


 真夜中の校舎は静かだった。理樹は家庭科部の部室にいた。窓際に立ち、校庭を見下ろした。動くものはいなかった。電気をつけようとして、すぐに思いとどまった。代わりに引き出しからろうそくを取り出し、マッチを擦って火をつけた。室内がわずかに明るくなる。
 思い出が色濃く残っている場所だった。最後はここにいようと思っていた。
 携帯電話を出し、警察に電話を掛ける。
「もしもし? あ、あの、人を殺しました。はい。いえ違います。僕は……彼女を愛していました」
 名前と現在地を告げ、電話を切った。そこを動くなと言われたが、動くつもりは毛頭なかった。
 ろうそくを手に、廊下へ出た。水道へ向かい、鏡の前にろうそくを置く。べたついた唾が不快だった。うがいをし、それから蛇口に口をつけるようにして水を飲んだ。
 きゅるきゅるという音が聞こえた。理樹は水を止め、耳を澄ました。廊下の先から聞こえてきているようだった。理樹はろうそくをかざすが、何も見えなかった。ろうそくを元に戻す。音は徐々に大きくなり、彼のすぐ真後ろからしているように聞こえた。
 理樹は振り返った。やはりそこには何もなかった。ため息をつきながら、鏡へ向き直った。鏡には車椅子に乗ったクドリャフカとそれを押す少女が映り込んでいた。理樹は息を飲んだ。
 少女とクドリャフカが理樹を見ることはなく、真正面を向いたまま廊下を進んでいった。ただ車輪の軋む音だけがしていたが、理樹の目には彼女の口元が焼きついて離れなかった。声はなかったが、確かに動いていた。単純な言葉を紡いでいた。助けて……まだ見える……助けて……まだ見える……助けて……。
 理樹はろうそくの炎を吹き消した。真っ暗な部室へと戻り、サイレンが近づいてくるのを、息を潜めて待った。


(了)


[No.561] 2009/12/05(Sat) 00:10:48

この記事への返信は締め切られています。
返信は投稿後 60 日間のみ可能に設定されています。


- HOME - お知らせ(3/8) - 新着記事 - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - 環境設定 -

Rocket Board Type-T (Free) Rocket BBS