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あの子が雨の中、叫ぶ。 「ふっざけるな! 佳奈多ぁ! 本当にあんたはそれでもいいわけ?」 私は二木家の人間に連れられて、黒塗りのセダンに乗り込む。ドアが閉まるその瞬間、あの子の声が聞こえた。 「認めない! こんな結末、誰が認めるものかァ!」 狂ったような金切り声。それが私が最後に聞いた、あの子の声だった。 蛇口を捻る。水が出る。 私は茶碗に付いた泡を水で流した。 先程までは親族達が騒ぐ声が聞こえていたのだが、今はもう聞こえない。皆酔い潰れて眠ってしまったのだろうか。 私は一人、空いた食器を洗う。この家で一人で居られるのは、こんな時ぐらいしかない。 一人のとき、私はいつもあの時の事を思い出す。葉留佳と直枝、三人で一つ屋根の下で暮らした、夢のような日々を。バイトから帰ると、大好きな人たちが待っていてくれる。たった数ヶ月のことだけど、きっと私が人間らしく生きることが出来た、唯一の時間。あの時の事を思い出すと、胸が温かくなるのを感じる。 それと同時に、胸が痛くなる。私は葉留佳をまた裏切ってしまった。あの子のためにと、裏切ってしまった。 そして、この家に戻ってすぐだろうか、私は父さんからあの子が失踪したことを聞かされた。私は、せめてあの子だけは普通の女の子として生きて欲しかったのに。結局、私はまた葉留佳を追い詰めてしまったのだ。 そのことだけが、私の心を苦しめ続けた。それに比べたら、この家に戻ってからの仕打ちなど、何てことは無かった。どんなに苛烈な虐待を受けようとも、嫌悪感しか湧かないような男達に触れられようとも、ただただ植物のように鉱物のように何も考えなければ、何も感じないから。 「ふうっ」 食器が全て洗い終わってしまった。また私はあいつらのところに行かなければならないのか。足が竦む。無限に洗い物があったら良かったのに。 そのとき、玄関から戸を叩く音が聞こえた。もう深夜といってもいい時間なのに、誰がやってきたのだろうか。 居間から家の者が出てくる様子は無い。私はエプロンを脱ぐと、玄関へと足を運んだ。 引き戸の磨りガラスに、丁度私と同じくらいの背丈の人影があった。 「明けましておめでとうございます。遅くなってしまい、申し訳ありません」 引き戸の向こうから声がした。おそらく今日の宴会に参加するはずだった親族なのだろう。私は引き戸の鍵を開け、戸を開ける。 しかし、そこには見慣れない女性が居た。 「こんばんわ」 「あの、どちら様でしょうか?」 女性は薄ら笑いを浮かべながら答える。 「ヤマダハナコ」 「は? あの、冗談は……」 「そんなことどうでもいいから、さっさと入れてくれない? 寒いんだからさ」 彼女は私の制止をまるで無視するように、家の中に入ってきた。体を寒さに震わせながら靴を脱ぐ彼女の姿を横目に見る。 茶色の髪に、吊りあがった目尻。歳は私と同じくらいか。こんな女性、親族には居なかったはずだ。 「ねえ、二木の叔父様たちはいらっしゃるかしら?」 やはり親族なのだろうか。言葉遣いこそ丁寧だが不躾な女性だ。 「もう、皆寝静まっています。静かにしていただけませんか」 彼女は私の言葉を無視すると、私の方に顔を近づけ鼻をひくつかせた。 「あなた、折角の正月の集まりなのにお酒飲んでないでしょ? 全然そんな匂いがしない」 馴れ馴れしい口調で話しかける。本当に不躾な人間だ。 「ええ。どうせ私は接待係だから。それに、飲むのは好きじゃない」 「へぇ、そぉ。それはそれは、全くもって重畳なことで」 彼女は思わせぶりな笑みを浮かべる。 「ねえ、あなた。ここにいて愉しい?」 「え?」 「どうせあなた、ここでの待遇よくないんでしょ? 顔に出てるわよ」 私は言葉を失う。 「まあ、いいわ。あなた、部屋に行って、自分のコートを取ってきなさい」 「え?」 「いいから」 私は、訳が分からないまま寝室に行くと、コートを掴む。 何故、彼女は私にそんな命令をするのだろう。そんなこと分かるはずなどなかったが、私は何も考えずに彼女の元に戻っていく。既に私は、人の命令に従順に従う犬になってしまっていたから、考える必要など無かった。このことで後で叔父達に殴られても構わなかった。 玄関に戻る途中、居間の戸が開いており、そこから光が漏れていた。誰か起き出したのだろうか。 私が居間に入ると、そこには寝静まる親族達と先程の女性の姿があった。彼女はガスストーブの傍に座り込んでいた。始めは暖を取っているだけかと思っていたが、そうではなかった。彼女は、ストーブから延びるガス管に包丁を突き立てていた。 私の気配に気が付いた彼女は立ち上がると、包丁を持ったまま両手を広げ、私の方に向き直る。 「新年の悲劇。正月に集まった親戚一同、ガス中毒で全員死亡、か。中々いい記事になると思わない?」 「なんてことをっ」 私は咄嗟にストーブの方に歩み寄る。 「止めないで。私はあなたを傷付けたくないわ」 彼女は包丁を私の方に向けていた。刃先が震えることも無く、私の心臓の辺りを指している。彼女の吊り上がった眼を見る。彼女は真っ直ぐに私を見ていた。剣呑な目つき。彼女は本気だ。 私が一歩下がり、彼女を止める意思が無いことを示すと、彼女は口角だけを吊り上げて包丁を仕舞った。 「さてと、行きましょう」 彼女が私の手を取る。 「ちょっと、私はあなたと一緒に行くなんて……」 「じゃあ、ここで皆と一緒に死ぬ?」 私が声を失うと、彼女は半ば強引に私にコートを被せて、外へと連れ出そうとする。 外に出ると、身を切るような冷たさに体が震えた。 彼女と私は二人、走ってあの家を後にする。私は素性も知れない女性に手を引かれながら、何故だかあのときの事を思い出していた。あのときは泣きたいくらい嬉しくて綺麗な心持がしたのに、今は何の感慨も無い。ただただ、不安感だけが私の胸の内を満たしていた。 石畳を抜けると石造りの階段。私たちは転げ落ちないように急ぎながらも慎重に降りていった。 階段を降り切り公道に出ると、私たちは足を止め、息を整える。しばらくして落ち着いてくると、私の頭の中は疑問文で一杯になり始める。 彼女は誰なのか。私は彼女に見覚えが無い。 それなのに、何故私は彼女の言うことを聞いてしまったのか。 そして。 「何で皆を殺したの? 何で、私を生かしておいたの?」 彼女は私の質問を聞くと、少しだけ困ったような表情を浮かべた。 「わからない?」 「だから、それを訊いてるんじゃない」 「じゃなくて、私が誰か」 「え……」 「じゃあ、これでどう?」 そう言うと、彼女はアップにしていた髪を下ろすと、両手で髪を纏め始める。 「ほら、似合う?」 その髪型を、私が見間違えるはずも無い。 しかし私はまだ、自分の目が信じられなかった。 「まだ、わからない?」 街灯の光の下、彼女が自分の茶色い瞳に手をやる。暫くしてその手を外したとき、彼女の瞳の色が左右で異なることに気が付いた。 その蒼い瞳を忘れることなど出来やしない。それは私の片割れの印だから。 「あなた、そんな、嘘……葉留佳なの?」 「そうよ、いや――そうデスよ。お姉ちゃん」 色んな思いが駆け巡る。どんな声を掛けてあげたらいいんだろう。 しかし、私の喉から出た言葉はあまりに下らないものだった。 「十年もっ、あなたはっ」 私は葉留佳の胸倉に掴みかかる。 「やはは、いきなりご挨拶ですネ。お姉ちゃん」 葉留佳は、あのときのような屈託の無い笑顔を浮かべる。 しかし、その笑みはすぐに消え去り、元の酷薄そうな表情に戻る。 「再会の挨拶はとりあえず置いておいて。すぐにここから離れるよ」 こっちよ、と言って、葉留佳は再び私の手を引っ張る。葉留佳は私を引っ張りながら、もう一方の手で携帯電話を取り出した。片手で操作し、自分の耳に当てる。しばらくすると葉留佳は電話の相手と会話を始める。どうも日本語ではなく、少なくとも英語でもなさそうだった。 電話が終わるのと、立ち止まるのはほぼ同時だった。目の前には路上駐車されたコンパクトカー。葉留佳は助手席を開けると私に乗るように促した。私が乗り込むと、葉留佳も運転席に乗り込む。エンジンをかける。 「ねえ、葉留佳。さっきの電話は?」 「ん。お姉ちゃんのアリバイ作りの一環だよ。それより佳奈多」 葉留佳が私の方に向くと目尻を下げ、優しい表情を浮かべる。 「ゴメンね。佳奈多を十年もこの家に残しちゃって」 「いいのよ、もう……」 車は静かに動き出した。葉留佳は視線を前に移すと、冷たい声色で言った。 「これじゃあウチの莫迦親どもと同じだ。ねえ。あの人たちは今日あそこには居なかった?」 「父さんたちがこんな親族の集まりに呼ばれるわけないじゃない」 「ふうん。それは残念」 葉留佳のそっけない物言いに、ぞっとした。 「あなた、まさか父さんたちまで?」 「別に、あの人たちは私の親じゃあないしね。もうとっくの昔に戸籍上死亡者扱いでしょ。私って」 「だからって……」 「いいよ、あんな役立たず」 気まずい沈黙が続く。車の心地よい振動の中であっても、私はまんじりともせず暗い前方の道を眺めていた。 一時間くらい経った頃だろうか。葉留佳が古ぼけたマンションの前で車を止める。 「起きてる? 着いたよ」 私は葉留佳に連れられて、電気の付いていない暗い階段を上る。古い金属製のドアが、厭な音を立てながら開かれる。 部屋の中は広かった。実際に広いと言うのではなく、物が殆ど無かったのだ。正方形の1Kには、一人で使うには大きすぎるテーブルと小さいブラウン管テレビ、三人掛けのソファに粗末なベッドくらいしか見当たらなかった。 「適当に座っててよ」 私はソファに腰を下ろすと、いそいそと忙しなく動く葉留佳の様子を目で追った。 この十年、この子はどんな風に生きていたのだろう。葉留佳の風貌は既に変わり果てていた。きっと整形を何度も行ったのだろう。私でさえ、葉留佳だと気付かないほどに。それに何より、葉留佳の瞳が恐ろしかった。この子が私を嫌っていた頃なんかより遥かに濁りきって、ギラついた瞳。もしも他人だったら、すぐにでも目を逸らしたくなる。そんな瞳だ。 「はい。温かい飲み物」 葉留佳が私にマグカップを手渡す。一口飲むと、温かくて甘いコーヒーの味が口いっぱいに広がる。 「寒かったし、それに疲れたでしょ? ベッド貸してあげるから、それ飲んだら横になったら?」 「……ええ、そうするわ」 ずっと緊張し通しだったのか、今頃になって疲れが出てくる。頭が重い。私はコーヒーを飲み切ると、葉留佳のベッドに潜り込む。 「じゃあ、お休み」 葉留佳が部屋の電気を消す。冬の静かな暗闇が、部屋を占領する。 窓の外が白み始める。意外なことに、あんなに気だるく、体が鉛のように感じられてもなお、私は眠りに就くことは出来なかった。 私はのっそりと起き上がり、ベッドから離れる。葉留佳は部屋の反対側に置いてあるソファで、布団を頭から被っていた。私はキッチンに行くとシンクの傍に置いてあったグラスを手に取り、水道の水を汲む。私はグラスの水を飲みながら、テーブルの隅に置かれたテレビのスイッチを入れる。 徐々に映像が見えてくる。正月と言えど、さすがにこの時間は放送していないかニュースばかりだ。 私はチャンネルを回して、地方版のニュースを探した。もしかしたら昨夜のことがニュースに取り上げられているかもしれない。本当に叔父達は死んでしまったのだろうか? どうにも現実味が湧かなかった。ひょっとしたらガス漏れなんて嘘で、彼らは未だに眠っているだけかも知れない。 そんな私の下らない希望は、意外な形で裏切られた。 丁度、地方版のニュースが画面に映った。そこには消防車と炎。次の瞬間、画面が切り替わり、焼け焦げた家の一部が映る。 アナウンサーは平坦な声で、深夜に発生した火災について話していた。台所が火元と見られる火災で、家で眠っていた家族と、丁度新年の集まりか何かで泊まっていた親族ら全員が焼け死んでいたようだった。その家族の名がテロップで表示された瞬間、私は背中に氷水を注ぎ込まれた思いがした。 二木、二木、二木。 その中に「二木佳奈多」の名前があったのだ。 「どうしたの? お姉ちゃん」 私の後ろで私を呼ぶ優しい声。 「は、るか……コレ」 私は震える指で画面を指し示す。 しかし葉留佳は驚くことも無く、どこかにこやかな声を出す。 「へえ。上出来上出来」 「これは、どういう、こと?」 「ガスに引火したんじゃない?」 私は声を張り上げる。 「そんなこと言ってるんじゃない! 私が死んでるのよ!」 「そうだね」 「そうだね、って……! あなた、これがどういうことか!」 「佳奈多は、死んだんだよ」 葉留佳が事も無げに言う。眩暈がする。 「正確には社会的に、だけど」 「どういうこと?」 「死体を、買ったの。佳奈多の身代わりにね」 「そんなこと……」 「出来るよ。私だって、この十年遊んでたわけじゃないよ。今の私は、お金さえあれば偽の死亡診断書だろうが、死亡届だろうが用意することが出来るんだもの」 私は言葉を失う。葉留佳のこの十年を知ることが恐ろしくなる。 葉留佳はテレビの電源を切ると、部屋の窓の傍に歩いていった。安っぽく外の光を通すカーテンを指で軽く開く。 「これで、もう誰も佳奈多を追いかけたりする人は居ないよ」 葉留佳は外を眺めながら、独り言を言うように呟く。 「本当に長かったよ。その間に、色んなことがあって、色んなものを失くしちゃった。今ではもう、私のことを誰も葉留佳と呼んではくれないの。私はもう顔も、名前も無くしてしまったの」 葉留佳が私の方に振り返る。 「それでも、私は後悔なんてしてないよ。だって、お姉ちゃんを助けることが出来たんだから」 「葉留佳……」 「そして、お姉ちゃんを私だけのものに出来たんだから」 葉留佳が気味の悪い笑みを浮かべる。暗くて顔が良く見えないけど、その声色が変わったことで、それを感じ取った。 「もう、お姉ちゃんにも戸籍は無いんだよ。だから佳奈多は、二度と真っ当な人生は送れないんだ」 葉留佳はくつくつと笑う。 「でも、大丈夫だよ。私と一緒に生きればいいんですヨ」 「もしかして、あなた、あのときの事を……」 雨の日、葉留佳が叫んだ言葉が頭の中を再生する。 「あのときは悲しかったなぁ。やっとお姉ちゃんと一緒になれたのに。例えどんなことになっても、私はお姉ちゃんと一緒に居たかったのに。でも、佳奈多はそんな私の気持ちを踏みにじったんだ」 葉留佳の声に怒りの色が混じる。 「だけど、もういいの。佳奈多はもう私無しじゃ生きられなくなったから。もう絶対に私の傍から離れられなくなったから」 逆光に映る葉留佳の姿。その歯を剥き出した、般若のような口元だけが、私の目に映る。 その日から、私は再び駕籠の鳥になった。もう誰の目にも止まらない、暗い暗い場所に。 だけど、今までとは違って私は苦しくなんてなかった。この駕籠はことさら優しく出来ていて。やんわりと私を護ってくれている。 いつまで続くのだろう。この優しい地獄は。きっと私の首が絞まって窒息するまでか、あの子が死んでしまうまで続くのだろう。そして、もしあの子が死んだなら。私にはもう空へ飛ぶ翼など無くて。私も干乾びて死んでしまうことだろう。 でもきっと。私に許された人生の中で、これはきっと素晴らしいものなのだろう。 それならそれで、構わない。 [No.622] 2010/01/08(Fri) 23:59:30 |
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