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ふっと息を吐くと、目の前の湯気が少しだけ晴れて、向かいのタイルに描かれた小さな紫色の花が見えた。 それにしても。実家お風呂とは、なんでこんなに気が休まるんでしょう。 故郷は遠きにありて思うもの。 そうは言っても、こればかりはどうしようもない。 湯船で足を伸ばそうとしたら、膝が伸びきる前に給水口にぶつかった。仕方ないので映画の入浴シーンのように、浴槽のヘリに足を掛けようとしたら、太ももの裏が突っ張ってバランスを崩し、そのまま水没する。入浴剤は仄かにしょっぱかった。 湯からあがって前屈してみると、手が膝を越えようかというそのときに絶望的な痛みが下肢を襲った。まっすぐ立ってもまだビリビリしている。 運動不足。忌まわしい言葉が頭をよぎる。思い出されるバットの重み。それだけでもう野蛮なのに、さらにそれを振り回そうだなんて。 頭を振って蛇口をひねった。一瞬冷たい水が背中に注ぎ、やがて温かな流れに変わる。頬を伝って甘い水が流れてくる。手探りでシャンプーを探すが、いつもあるべき場所にボトルがない。なんだかぬるついた感触がするだけである。 こういうときは寮のお風呂が恋しくなって、勝手なものだななどと思った。 そうして薄く目を開けたときだった。不意を打って、鏡が視界に飛び込んでくる。なんの心構えもしていなかったせいでかなり驚く。鏡の位置がいつもと違ったせいだ。白いプラスチックに縁取られた中で、表裏が逆のわたしもまた、酷く驚いた顔をしていた。 「美魚、もうご飯よ」 脱衣場に人の気配がして、それから母の声がした。わたしは生返事を返すと、シャンプーで乱暴に髪を洗って浴場を出た。外の空気は想像外に冷たくて、顔をしかめてしまう。 母が用意してくれたパジャマを着込み、髪を拭きつつ台所へ入ると、父が待ち構えていた。ランニング姿で。 「よし、じゃあお父さんも入ってきちゃおうかな」 そう言って脱衣所のドアに手をかける。 「えー? もうご飯だって言ったじゃない」 母が不満げな声を上げるが、父は気にした風もない。 「いいじゃないか。寒い中ずっと待ってたんだから」 「寒いのは動いてないからでしょ」 聞き流したのか、聞こえない振りをしたのか。父はそのまま脱衣所に消えた。母はため息を吐いて、味噌汁をかき回していたお玉で鍋のヘリを二度叩いた。 「なにか手伝いことある?」 フォローではないけれど、訊ねてみる。すると母は振り返り、嬉しそうな困ったような曖昧な笑みを浮かべた。 「美魚、料理とかちゃんとしてるの? 洗濯はできてるんでしょうね?」 小言を言われるとは思ってもなく、ちょっとたじろぐ。 「お弁当はたまに作ったりするけど」 サンドイッチやおにぎりだけれど。 母は納得したのかしないのか、頷いてから、 「もう出来ちゃったわよ。お風呂が長いのはお父さん似ね」 そう言って、またコンロに火をつけた。 「せっかく帰ってきたんだし、座ってなさい」 これは戦力外通告と見ていいんだろうか。 しかたなしに、自分の席に着く。四角いテーブルは、正面は母の席。右隣が父の席。三人分の小さなものだ。四人座ろうと思っても、ちょっと難しい。 「お父さんって、ちょっと太った?」 思ったことを口にしてみた。 振り返りはしなかったが、母は頬に手を当てるような動きをして見せてから、 「結婚式の写真よりは、ね」 と言った。 「一番風呂派じゃなかったっけ?」 「年頃の娘に気を遣ってるんでしょ」 なんでもなさそうに言う。なるほど。そういうものなんだろうか。 父の席の向かいにあるテレビでは、シマウマの群れが水辺でおいしそうに喉を潤していた。なんとなくリモコンに手を伸ばす。クイズ番組や、ドキュメンタリーや、クイズ番組や、クイズ番組。 「勉強はちゃんとしてる?」 黒いシャツに白いエプロンの紐の背中越しに、母が言った。 「うん、大丈夫」 「そう。よかった」 お決まりの流れだ。 「美魚が一人暮らしっていうから、今でも心配」 「一人暮らしって言っても、寮だし、相部屋だから」 「自分のことは自分でやんなきゃいけないのは一緒じゃない」 「同じ部屋の子がしっかりしてるから、大丈夫だよ」 そう。よかった。 母が繰り返した。 再びコンロの火が止められたとき、風呂場のドアが開く音がした。 「彼氏、連れてきてもよかったのに」 突然だった。今話していた声より、一回り大きな声でそんなことを言い出す。 わたしは困惑して言葉に詰まる。 なぜ母はいきなりそんなことを言い出すのか? 答えるより早く、父が下着のまま台所に入ってきた。身体を拭ききれてなかったのか、シャツがぺったりと、少し膨らみ始めた胴回りに張り付いている。 「さ、ご飯にしましょ」 母が味噌汁をよそり出す。意図を理解して、わたしも席を立ち、しゃもじを手に取った。父はしばらく立ち尽くしていたが、一度首をひねるとそのまま席に着いた。 いただきます、とやってから、三人で野菜炒めをつつき始めた。母の味付けは以前よりも薄味になったように思えた。 暖房が効いているとはいえ、やっぱり寒くなったのか、父が寝巻きを持ち出してくる。そして立ったついで、と言わんばかりに、冷蔵庫から缶ビールを持ってくる。母はとがめるような目をしたが、口には出さなかった。 「お友達とは仲良くやってるのか?」 ビールをあおりあおり、またお決まりの質問。親っていうのも大変だな、などと他人事のように考えてから、答えを考えた。お友達、と言われて、連想する人々がいるのはいいことだと思った。 「うん。この前みんなで、人形劇とかしたり。幼稚園で」 はっはっは、と父が笑う。 秋にみんなでやった人形劇。恭介さん主導で脚本がめちゃくちゃになったのを、結局小毬さんが直して。来ヶ谷さんが三枝さんをスパルタで演技指導して。直枝さん井ノ原さん宮沢さんの男性陣が雑用しながら仕事を増やして、鈴さんと能美さんとわたしは練習に打ち込んで。いざ本番になると、ヴェルカとストレルカ(そういえばなんで連れてきたんだっけ?)に群がって無茶する子供たちを追い払うのに能美さんが離脱して、結局恭介さんが代わりに入って、やっぱり脱線して。 ゆっくり、噛み締めながら話した。 父は二本目の缶ビールを開け、よかったな、と言った。 「美魚はうまくできたか?」 「うん。なんとか」 「そうかそうか」 ビールが父の喉を落ちていく。 「美魚は昔からごっこ遊び、好きだったもんな。お姫様と魔女一緒に一人でやってたり。可愛かったなあ」 しみじみ呟く父の隣。横目に、母が表情を強張らせているのが見えた。その母の顔には既視感があった。次いで夜毎朝毎の、ご飯のあとの苦味が喉の奥によみがえってきた。流し込むための水は、用意されていない。わたしはお椀を手にして、ひと息に飲み下す。 まあ、母の反応は、もっともだろうと思った。 自分なりに本で、症状を調べたことがあったから。恐らく母も、再発の心配については聞き及んでいるんだろうと思った。 母の思いに父が気づいて、慌てて話題を変える。 「勉強はしてるのか?」 「お母さんもおんなじこと聞いたけど、大丈夫だよ」 答える声が明るくなりすぎた。失敗したと思った。でも両親は気づかなかったようにして、父は目を伏せながら、 「無理、しなくていいからな。辛いと思ったらすぐ言えよ」 と言った。わたしは頷き、箸を置いた。それから母と並んで食器を洗った。三枝さんから仕入れた知識で、芸能人の話題なんかを話した。どのタイミングだったかは思い出せないのだが、「あなたは大事な一人娘なんだから」という言葉が耳に残った。 台所の電気が落ちて、暗い中に誘蛾灯の明かりだけが灯っていた。板張りのテーブルが薄く光を跳ね返していたが、輪郭はぼやけて暗闇と混じっていた。それでもやっぱり、テーブルは小さくて、三人しか席に着けないように思われた。 おやすみ、と母が言った。 おやすみ、と返して、階段を昇って部屋に入った。かつて鏡が置かれていた場所には、大きな本棚が置かれていて、そこにはいつのまにか日に焼けた絵本が並んでいた。 [No.63] 2009/04/17(Fri) 23:59:45 |
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