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華やかなネオンを張り巡らせた繁華街の真ん中で、直枝理樹は途方に暮れていた。ぽつんと一人立ち尽くしていると、ホスト風の派手な髪したお兄さんや、胸元がぱっくり開いたお姉さんがひっきりなしに声をかけてきて、置いてけぼりを食らった自分が妙に情けなく思えてくる。 会社の飲み会帰り、遊び好きの先輩の誘いを断りきれず盛り場に連れ出されたまでは良かった。着いた、じゃあ今日はどこのお姉さんのお世話になろうか、と二、三度お世話になったことのある店のドアを開くと「すんません、今混み合ってましてぇ、すぐご案内できるのはぁ、お一人様だけなんですがぁ」と間延びしたやる気なさげな店員の声。「じゃあ直枝、一時間後な。ラーメン食って帰ろうぜ」と、一人だけさっさと待合室に姿を消した先輩も先輩だが、まぁこういう人だ。諦めるしかない。 見上げれば、ネオンの谷間に星が綺麗だ。あの人に捕まる前に帰ってしまえば良かった。あのオンボロ安アパートでは、遅くなるであろう夫の帰りを健気に待ち続ける美しい妻が――なんてことはおそらくないのだが、それなりにわがままで愛らしい妻が猫のぬいぐるみを抱いて小さく寝息を立てているに違いない。 「帰ろっかな……」 自分にそれが出来ないことも自覚しつつ。先輩が欲しいのは、共にいけないことをしてくれる共犯者で、虚しい帰り道に二人でラーメンを食べてくれる友だ。さばさばしているようで、内側は酷く女々しい。そんな人だ。 どこかで時間を潰そうと思ってぶらぶら歩き出してはみたが、どうもピンと来るものがない。普段好んでは飲まない酒に酔ってもいた。おかげさまで、居酒屋で飲み直す気にはなれなかったし、ネカフェに行くには普段の仕事に疲れすぎていた。 無数の客引きをかわして街の端まで来たところで、雑居ビルの三階に出ている看板に目が留まった。中国式マッサージはぴねす。何が中国式なのか、何がしあわせなのかよくわからなかったが、マッサージには惹かれた。原色系の看板を眺めているうちに、なんだか肩や腰が痛いような気までしてきた。行こうかな。四十分五千円。微妙な価格帯ではあった。 「いラッシャイまセっ」 意を決して入ると、胸元が大きく開いた派手な服を着たママさんが笑顔で駆け寄ってきた。たどたどしいイントネーション。 「お一人サマ?」 頷く。 「ココはハジメテ?」 「はい」 「コースはどうシマスカ?」 「あ、じゃあこれで」 壁に貼ってあったコース表の、四十分コースを指差す。 「ありがトウござイマス。マエキンでオねがシマス」 「え?」 「マエキン」 「え、な、なんて?」聞き取れない。業を煮やしたママさんは人差し指と親指で小さく輪っかを作る。 「オカネ。ゴ千円」 「あ、あぁ、あぁ」 ようやく理解。財布からお金を出す。ありがトウごザイます、とまた微妙なイントネーションで笑う。 「チョットまっテて。オチャのむ?」 「いえ、いいです」 「まっテてね、イマ準備シてるだカラ」 そう言ってママさんはそのままカーテンの奥に引っ込んでしまった。ちらっと見えたカーテンの奥はかなり薄暗いように見えた。これはヤバい所に入ってしまったかも、と理樹は思った。 少しして戻ってきたママさんは「コッチ、キテくだサイ」と、手招きをした。誘われるままにカーテンの奥に足を踏み入れると、そこは二メートル前が見えないくらいに暗かった。少し大きな部屋のような場所で、ついたてのような粗末な壁とカーテンで間仕切りされている。そこら中から物音が聞こえてくるが、店内に流れる中国語っぽいポップスでよく聞き取れない。ママさんは入り口から一番離れた小部屋のカーテンを開けた。 「ハルちゃん、じゃあヨロしくネ」 はい、と意外に若そうな女の人の声がした。どうぞ、と言われるので中に入ると、外にもまして部屋の中は暗かった。脇の机に置かれた小さな照明器具に照らし出された、すらっとした女性のシルエット。暗くてよくわからないが、おそらくかなり美人。ママさんに負けず劣らず目のやり場に困るチャイナドレスを着ている。 「じゃあ服を脱いでくだ」 女性の動きがぴたりと止まった。かと思ったら、ばっとこちらから顔を背け「服を脱いで下着一枚で、脱いだ服はそこの籠に、早くベットにうつ伏せで寝てください!」とまくしたてる。なんとなく、ふるふると震えているようにすら見える。長い髪をまとめる小さな髪飾り。誰かとお揃いの―― ――直枝理樹。 そう呼ばれた記憶がにわかに蘇る。 「もしかして……二木さん?」 「ひ、人違いです」 「いや、二木さんでしょ」 「そのような事実は一切ございません」 「うわぁ久しぶり、高校の時以来だからもう十五年ぶりくらいになるんじゃない? 元気してた?」 「まだそんなに経ってないわよっ!」 「ほら、二木さんじゃないか」 無言。 肩を震わせながら降り返った二木は改めて理樹の顔を見た。まるで親の敵がそこにいますとでも言わんばかりの形相で、ぎろぎろと。あまりの迫力に理樹は、じゃあまたいつかどこかで会えたらいいね、ほらたとえばネバダぐらいで、とかなんとか適当に吹いて遁走しようかと思ったほどだ。 長い長い数秒間の沈黙は、大きな溜め息によって遮られる。 そして、諦めたように肩を落とす。 「……ここではハルって呼ばれてるから、そう呼んで」 ハル。 「うん……、わかった」 「うん」 二木はうなずくと、佇まいを正した。表情が変わる。高校の頃から変わらない、張り詰めて凛とした空気。 「ようこそ“はぴねす”へ。今日は私、ハルが担当させていただきます。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 思わず頭を下げてしまった。うん、と一度うなずくと、『ハル』は照れたように笑った。そんな表情はあの頃にも見たことがなかった。あるいは、見せなかったのか、見ていなかったのか。どれもそうなのだろうと理樹は思う。 「こういうのは嫌ね。照れるし」 「まあ、そうだね」 ぽりぽりと頭をかく。むずがゆい。 「じゃあさっさと脱ぎなさい」 「脱ぐって、どこまで?」 「逆に、どこまで脱ぎたい?」 「……えっと」 「時間ないんだからさっさと脱ぐ! はい! パンツ一枚!」 「ええー」 「それとも私が脱がせたほうがいい?」 「自分で脱ぎます」 腕組みしてふんぞり返る元同級生セラピストに急かされて、ベルトのバックルに手をかける直枝理樹二十六才・冬。 「脱ぎました」 「よろしい」 「もうお嫁にいけません」 「いや、いけると思うわよ?」 「マジレスありがとう!」 やけになって叫んだ。うるさいくらいのBGMにかき消される。理樹は『ハル』に急かされるまま、ベッドの窪みに頭を押し付ける。 「……直枝は、よく来るの? こういう所」 「いやそんなには。ここは初めてだよ」 「そう」 ベットにうつ伏せになったら、すぐさまバスタオルをかぶせられた。直接触られるのかも、と内心どきどきしていた理樹は、なんだか肩すかしを食らったような気分だった。 「直枝は座り仕事でしょう」 「うん、そうだけど、どうして」 「肩と腰がね、すごい」 肩甲骨と背骨の間あたりに体重をかけられる。少し痛い。 「痛くない?」 「少し」 「でしょ」 「わかるの?」 「そりゃわかるわよ。こんなに酷いのはあんまりお目にかかったことないわね」 「ですか」 横目で後ろを見ると、薄暗い部屋の中で二木の太股が白く輝いているのがわかる。派手な色のチャイナドレスの丈は短く、下手したら付け根のほうまで見えてしまいそうなほど。 「どうしたの?」 「いや、だいじょぶ」 「あ、そう」 背中の真ん中あたり、肩甲骨の下を凄まじい力で押される。呼吸が止まる。数秒が長い。解放された時、皮膚の下を血が巡っていくのがわかる。 「すごい」 「何が?」 「二木さん」 「ハル」 「ああ、ハルさん」 もうされるがままだ。痛いと気持ちいいが交互に来る。嵐に翻弄される小舟、沈没寸前。落ちてしまわなかったのは、背中や臀部にあたる『ハル』の柔らかい太股とお尻の感触があったからに他ならない。 「気持ちいい」 「だと思う」 「いや、ホント」 「次、肩ね」 柔肉が離れていく。 「さよなら」 「なにが」 「僕の愛しいハニーが行ってしまったのさ」 「頭大丈夫?」 「僕、客なんだけど」 「お客様、頭部の具合はよろしかったでしょうか」 「ダメかもしれません」 「お察しします」 察された。冗談抜きでかなり馬鹿になっている気がした。マッサージって知能指数下がるんだろうか、と理樹は思った。 「そういえばさ」 「うん?」 『ハル』は理樹の正面に回って、肩の指圧に入っている。目の前にドレスの裾と太股がある。 「二木さん、はどうしてここで働いてるの?」 「なんとなくよ」 「なんとなく」 「そ、なんとなく」 「ふーん」 ふと、前に伸ばした理樹の手に無防備な肌が触れた。ひんやりとした感触。あ、と思ったが『ハル』は全く意に介する様子がない。『ハル』の肌が酷く冷たく感じられる。 「でも、この店に勤めてる子の中にはワケありの子もいてね、売られてきたなんて子もいるのよ、私の友達なんだけど」 「売られてきた?」 「実家の借金で、ね。お優しい債権者がこの店を紹介してくれたらしいわ。ここなら働きながら返済できる上に生活の面倒まで見てもらえる、一石二鳥だ、なんてね」 手は彼女の肌に触れ続けている。冷たい肌と指が擦れている。 「まぁ、あとは家出とか。一家心中の遺児、なんて子もいたんじゃないかしら」 「でも、二木さんは、なんとなく」 「そう」 一通り肩の指圧を終え、足の指圧に入る『ハル』。正面から離れていく瞬間、理樹はその顔を伺うが、暗くて表情はよく見えなかった。 「可愛い足」 ため息まじりに。疲れたような声。 「本当、男にしとくのはもったいないわね」 「褒め言葉と受け取っておくよ」 「ねぇ、本気で転換してみない? 安いとこ紹介してあげましょうか?」 「遠慮しとくよ」 くすっ、と。 『ハル』は確かに笑った。 「楽しそうだね」 「ん? 誰が?」 「ハルさんが」 「そう、かな」 「うん」 ふくらはぎの裏をぐ、ぐ、と押される。 「楽しい、のかも」 「ほら、楽しいんじゃない」 「うん、楽しい。この仕事も今の生活も。何も不自由ないし、毎日色んな人と会える」 足の裏。土踏まずのちょっと上の部分。軽く押されてるだけなのに尋常じゃなく痛い。思わず体が避けてしまう。 「痛かった?」 「……うん」 「どのくらい?」 「鈴の蹴りを向こう脛にジャストで食らったぐらい」 キョトン、とした。 「何よ、あなた達まだ付き合ってたの?」 「付き合ってないよ」 「へぇ」 「結婚してる」 「…………」 無言でさっきの所を思い切り押された。 「おおおおお!?」 「自業自得」 ふん、と再び指圧の続き。今度は優しく。 「ねぇ、一つ聞いてもいい?」 「うん、何?」 「今さ、幸せ?」 足の筋肉を上から下までなぞるように順繰りに押していく。足の付け根辺りを押す時、理樹にとって最もきわどい場所を掠めていく。 「うーん、どうかなぁ」 「幸せじゃないの?」 足の指先に触れられる。吐息が足首をなぞる。 迷っていた。理樹はこの問いに対してどう答えるべきか、わからなかった。わからないままに口を開く。 「上手いこと言えないんだけどさ、こういうことってすごく個人的なことじゃないかって思うんだ。例えば、互いに些細なすれ違いから毎日包丁の刃を向け合うような仲だったとしても、当人達が幸せと思えば幸せだよ。でもそれって他人から見たら不幸じゃない? 当人達は幸せなのに。何か変だよね」 「そう、ね」 「だから、僕にとっての幸せがさ、二木さんにとってもそうなのかは、わからない。逆もまた、然り」 まくしたてるように、言った。二木は遠くを見ていた。何かを思い返しているように見えた。 「とかなんとか言っておいてなんなんだけどさ、もしかしたら自分が本当に幸せなのか自信がないだけなのかもしれないんだけど」 「まぁ、そんなものかもね」 「そんなものだよ、案外。結婚なんて楽しいことばかりじゃないし」 「意外ね、あの棗さんがちゃんと奥さんやってるんだ」 「そりゃ、もう」 「そっかそっか」 笑みがこぼれる。 「やっぱり幸せなんじゃない」 「そうかな」 「そうよ」 「なんかさ、言いにくいよね。自分で自分のこと幸せだ! なんてさ」 「別に気にすることないわよ。いいじゃない幸せなら幸せで。あなたの言うとおり、本当の所は自分しかわからないんだから」 だよね、と笑う。 「最後、仰向け」 「うん」 ぐるん、と身体を裏返すとまたバスタオルを被せられる。 「意外とさ、なんとかなっちゃうものよね」 「何が?」 「さっきの話」 「はぴねす」 「そう。はぴねす」 上半身から順に下へ向かって指が踊る。流れるBGMに乗せて、軽やかに。 「僕はね、あの時、もう一生僕には届かないんだと思ってたよ」 「私も、そうだった、かも」 足の付け根からつま先まで、指は淀みなく流れていく。 「詳しい話って、したことあったかしら」 「いや。まぁ、なんとなくは、聞いてるけど」 「私は……って」 やめよ、と言葉を遮った。 「長いし、辛気くさい話だし」 「別に、二木さんが話したいなら」 「いい。やめやめ」 「どうして」 「昔のことだもの」 「昔のことかな」 「昔のことよ。私、嫌だったこととか悲しかったことなんて、もうあんまり覚えてないもの。覚えてるのは、楽しかったこととか幸せだったこと。それだけ」 「それってさ、良いことなんだよね」 「たぶんね」 とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん。 断続的に太股の表を叩かれる。 とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん。 「はい、おしまい」 「ありがとう」 「と、言いたいところなんだけど、残念ながら決まりで一つ聞かなきゃいけないの」 「何?」 「延長する?」 『ハル』は、すっと後ろに下がった。瞳はまっすぐ理樹を見ている。うるさいくらいのBGMが、がさがさとした店内を平らにしている。 「延長って?」 「簡単に言うとね」 距離を詰め、理樹が避ける間もなく手を掴み、自分の胸に押し当てる。 「『ハル』とえっちなことしたいかって、聞いてるの」 額と額がくっつきそうな距離。手は相変わらず胸。 「どうする? そのつもりで来たんでしょ」 「それは……」 曲が終わった。人がうごめいているのがわかる。止まっているのは、カーテンとついたてで仕切られたこの小さな空間だけ。どくん、どくん、と『ハル』の心臓の音が、薄いドレスを伝って感じられる。 その時、スピーカーから流れだしたのは、控えめなギターとリコーダー。 渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ 知っている曲だった。日本の曲。少し上の世代の人なら、おそらく誰でも知っている。 知らず、口ずさんだのは理樹の方だった。どうしてだかわからない。ざわざわとした空気も、乱暴な空調に揺れるカーテンも、ごみごみとした街に輝くネオンサインも、今は遠かった。合わせて、二木も口ずさみ始める。理樹の右手を左胸に押し当てたまま。 誰のせいでもない、あなたがこの街で 暮らせないことわかってたの 何度も悩んだわ だけど私ここを 離れて暮らすこと出来ない 空いた右腕が、頬を少し擦った。 忘れてしまうはずがない、と理樹は思う。 やがて、右手は『ハル』の左胸を離れた。 「ごめんね」 「いや、いいよ」 「ごめん、迷惑だったよね」 「そんなことないよ。嬉しかった」 「本当?」 「たぶん」 「たぶんかよ」 「くふふっ」 「あははっ」 二人で屈託なく笑った。 笑えることの少なかった、あの頃そうであるはずだったように。 BGMはまた、言葉の分からない大きな国の歌。 「あーあ、チャンス逃しちゃった。折角これから直枝の指名ゲットし続けられるチャンスだったのにさ」 「いや、別にそんなことしなくても来るし」 「私のカラダ目当てなのよね。言わなくてもわかってるわ」 「もう……」 「お茶飲む?」 「あ、うん」 「待っててね、取って来る」 二木は軽やかにカーテンをくぐって出て行く。その隙に、服を着てしまうことにする。シャツを着て、靴下を履く。順を追って身につけていく。 「おまたせ……って、なんだ着替えちゃったの」 「ちゃったのです」 「はい」 「ども」 湯気が出ている。ふぅふぅと吹く。 残念そうな顔をしている二木の顔が、湯気の向こう側にある。なぜだか無性に込み上げてきて、堪えきれずに理樹は笑った。 「どうしたのよ」 「別に」 「言いなさいよ。言えっての」 「いやさ、変な夜だったなって」 「まぁ、そうね」 「また来るから」 二木の表情がふっと緩んだ。 寂しさを埋めることは出来ないと思った。それが例え時間という魔物であっても。 理樹は少し温くなったお茶をすすりながら、これまでのことと、これからのことを思った。 引用 渡良瀬橋 森高千里 [No.641] 2010/01/23(Sat) 00:22:47 |
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