![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
オレンジ色のぼんやりとした意識の片隅、ノートパソコンの強い光が、鈴の眼鏡を煌かせていた。 眼鏡? はて、鈴は眼鏡なんてかけてたっけか。 パソコンの灯りが眩しくて仰向けになる。豆電球が弱々しく光を放っていて、口の端からよだれが垂れた。 「きたなっ! それあたしの枕だろうが!」 遠く聞こえる怒鳴り声。抱きしめていたいい匂いのする枕を取られて、頬が乱暴に拭われた。あごの下がわが拭ききれてなくて気持ち悪い。でも自分で拭こうという気はしない。なんでだろうね? 覆いかぶさるようにして、鈴が僕の顔を覗き込んでくる。パソコンの光が遮られて視界が暗くなった。薄暗闇のなかで、鈴の瞳だけが輝いて見えた。眼鏡は見えなくなっていた。 「ねえ鈴」 「ん? なんだ、起きてるのか?」 どうだろう。起きてると思うけれど、眠ってるままの気もする。というか、僕のつばってそんなに汚いかな? 歯磨きだってちゃんとしてるし、たまーにだけど鈴の方からしてくるくせに、いや、そういう問題じゃないんだろうか。 それよりなにか聞こうとしていて、なんだったっけ。 「寝言? 紛らわしいわ」 鈴の顔が離れていく。眩しい光が目に染みて、鈴のくりくりした瞳がまたノートパソコンに向けられてしまう。 隣の枕元、畳にべた置きされたノートパソコン。ワードとインターネットエクスプローラが動いていて、ワードで少し書き物をしたかと思うとグーグルでなにか検索しだす。眼鏡に色々な像が映っては、パッと切り替わって消えていく。カチカチ。カタカタ。ヴィン! 「おわっ! なんじゃこりゃ!」 寝返りを打ってまた天井を見た。頼りないオレンジ色。部屋の左半分にあるこじんまりとした家具や、写真立てのアクリルが弱く反射しているだけで、右半分はノートパソコンが強い光源になって夕焼けを隅へ隅へと追いやっていた。 鈴の腕がヒモに当たって、猫の飾りが揺れた。 「おい理樹、起きろ」 身体を揺すられる。 また鈴の顔。まるっこくて、でも肉がついてる感じじゃない、恭介みたいに目鼻立ちのはっきりしてて。目は、つり目がちでも大きくて。可愛い。のぞきこむ形だから、赤フレームの眼鏡がちょっとズレてて。 そう、これだ。 「鈴って前から眼鏡してたっけ?」 「無視する気かお前」 「いや、可愛いなって」 「ん……そう?」 両手でツルを持ち上げて、位置を整える。ちょっとはにかんで笑う。 「うん。なんか新鮮」 「だから前からしてるって言ってるだろーが」 いやいや、言ってないでしょ。たぶん。 「そうだっけ?」 ああ、既視感。眼鏡をしてたの、してないの。 「だいじょぶか、理樹?」 「ちょっとゴメンね」 手を伸ばして鈴の眼鏡を奪う。チタンだかステンレスだかの冷たいような、人肌の温かいような感触がした。 「こっ、こらっ! 返せ!」 鈴が手を伸ばしてくる。両手で持ってる眼鏡を素通りして、人差し指と中指が僕の目を突いた。 「あぐう」 変な声が出る。 鈴の爪はとんでもなく長くて、とんでもなく痛かった。 「めがね取るからだ」 いつの間にか僕の手から眼鏡が消えていた。鈴が持ってったのかと思ったけれど、見ればまだ掛け布団の上に落ちていて、鈴の手がポフポフと布団の上をさまよっていた。 漫画じゃあるまいし。 拾って、鈴に手渡す。鈴が慣れた手つきで眼鏡をかけて、 「それよりパソコン、壊れた」 と言った。 「左下のC、T、R、LとA、L、Tを同時押ししたまま右上のD、E、L、なんとか。それ二回」 カチカチカチ。 「ぎゃあああ!」 短い悲鳴。 さて、鈴はいつから眼鏡をしていたのか。 自慢じゃないけど鈴の身体能力には自信がある。野球をすれば1番ピッチャー。サッカーならばミッドフィルダー兼ゴールキーパー。目だってそれはそれはよかったはずだ。ボール拾いをしてるとき、クドとたまたま手が触れ合っただけであとでそれはそれは怒られた。鈴はグラウンドの反対にいたはずなのに。 まったく鈴のヤキモチ焼きにも困ったものだ。 すぐ横にボスッとなにかが倒れこんできた。眼を開けると、オレンジ色にだけ染まった鈴の顔が見えた。 「パソコンは?」 「寝る。別にあとでいいし」 「そっか」 寝る、とか言いながら、目を閉じようとしない。二人でしばし見つめ合う。眼鏡が豆電球を映している。 「なんで眼鏡してるの?」 「ちっとは空気読め、あほ」 布団越しに蹴られる。 まあそれはともかく、鈴に空気読めと言われたことは純粋にショックだった。真人に馬鹿と言われたような気分だった。 「そうじゃなくって、寝るんでしょ?」 気を取り直して、そう尋ねる。 鈴は黙ったまま僕を見続けて、手を伸ばしてきた。首の後ろに回されて顔が近づく。眠かったけど、ちゃんと空気が読めることをアピールすべく、軽くキスした。横になってるのと暗いのとで、鼻の頭になってしまったけれど。 鈴が眼鏡のズレを直す。 「よくよく見ると、結構かっこいいな。よくよく見ると」 「そりゃどうも」 僕には暗くてよく見えないけれど。あんまりといえばあんまりなくらい控え目だけど、お世辞だろうか。それとも眼鏡に夜目を利かせる効能でもあるんだろうか。 「目、だいじょぶか?」 別に心配そうでもない。 「うん、まあ」 「そか」 短く答えて、鈴が隣でもぞもぞしだす。なにごとかと思っていたら、すごく冷たいすべすべしたのが布団の中に入ってきた。かなりびっくりした。 「冷たいんだけど」 「ちょっとくらいよこせ。減るもんじゃないだろ」 ふくらはぎに鈴の足が押し当てられる。引っ込める気配はなくて、仕方なしに両足で挟んであげると、眼鏡の奥で鈴の目が細められた。 また眼鏡のことを考えた。 度が入ってて、光を反射するとちょっとだけ緑色になる。眺めながら並んで歩く。鈴がそれに気づいて僕を見上げる。そのとき少しだけずり落ちて、鈴は上目遣い気味になったかと思うと、険しい顔で眉を寄せ、それから眼鏡を直す。そしてなにかを確かめるように僕をひと睨みして、ようやく笑う。赤銅色のフレームがキラキラしている。意味もなく、息が詰まりそうになる。それから変な不安に駆られる。 パソコンの起動音が聞こえてきた。何の意味があるのかわからない、あの音楽だ。刺すような光が瞼の隙間から滑り込んできた。 「寝るんじゃないの?」 「いや、やっぱやる。どうせやんなきゃだし」 鈴にしては殊勝な態度だった。明日でいいことは明日、今日やることは明日で済むように努力してきた鈴とは思えない。 パソコンに向かう鈴。眼鏡が輝いている。手つきにさえ気づかなければすごくデキる人に見えた。鈴のこんな姿なんて、生まれてこのかた想像したことがなかった。鈴は不満そうだったけど、やっぱり僕には新鮮に映った。 「その代わり、明日は帰りにケーキ買おう」 でも言ってることは相変わらず支離滅裂というか、相変わらずぶっ飛んでいた。いや、ぶっ飛んでるのは僕のほうで、もしかしたら鈴の話を聞き漏らしていたのかもしれない。怒られるのが怖いから眠っている振りをする。 「聞いてるのか?」 トーンが下がった、不満げな声。 無視したらしたで怒られそうなので、この際正直に受け答えることにした。 「誰が買うって?」 「ふっふっふ。あたしが買ってやろう」 「何を?」 「ケーキだ」 「なんで?」 「誕生日だからだ」 「誰の」 「おまえのに決まってるだろ」 「今何月だっけ?」 「自分で調べろ、ばーか」 枕もとの充電器からケータイを取って開く。眩しい。もう、四時をまわろうとしていた。 「ああ、ホントだ」 「寝ぼけてるのか?」 「かもしれない」 答えるや、ほっぺたを張られた。 「目、覚めた?」 びっくりするほど純真な瞳。ビンタをかました直後には見えなくて、夢だったんじゃないかという気がしてくる。 「なんで今、殴られたの?」 「寝ぼけてたから」 そっとしておくって選択肢はないんだろうか。 ないんだろうな、きっと。 「……で、明日僕の誕生日のお祝い? 明日だっけ?」 「正確には来週だが、まー気にするな」 うんまあ、気にしない。 誕生祝いなんて、いつ以来だろうね。 「なんで誕生日ってお祝いするんだろうね?」 ふとどうでもいい疑問が浮かんで、そのまま口にしていた。どうでもよかったんだけど、鈴は黙って、少し悩むようにあごに手を当てた。頬の輪郭と眼鏡が光の中に白く浮かび上がっていた。 「誕生日が来るのと来ないとじゃ、来るほうがいいだろ」 そしてさらっと、鈴はそんなことを言う。 回らない頭で意味を咀嚼して、そーいうもんだろうか、と思った。 残念なことだけど、迎えられる回数には限度があるわけで。その回数は本当、誰にも分からない。それを消費しちゃうっていうのはありがたくないことなんじゃないか。誕生日なんかずっと来ないで、ずっと過ごせる方がめでたいんじゃないか。 まだ寝ぼけてるのか、そんなよく分からない理屈が頭の中を流れていった。 「嬉しくないのか?」 鈴がまた僕の顔を覗き込んでくる。下ろした長い髪が僕の頬をくすぐってくる。くすぐったくて寝返りを打つと、リンスの甘いにおいがした。 「……それほど」 「そか。でもまあ、あたしは嬉しいから祝う」 今度は間髪おかずにそう言った。まるで答えを決めていたようだった。 当たり前だけど、その言葉に悪い気はしないで。 「明日の帰りだっけ」 「うん。ローソクが全部乗るくらいの買おう」 「お金は?」 「スポンジケーキになるな」 いや、それはさすがにむなしい。というかひもじすぎる。想像してげんなりした。 「じょーだんだ。お金あるから、安心しろ」 鈴は笑った。 「明日、鈴もどこか行くの?」 「理樹と一緒のとこ。……薬もらいに行くんだろ?」 「ああ、うん。まあ」 そのとおりだったので、曖昧に頷いておいた。 病院デートとかあんまり面白いもんじゃない。憂鬱になって鈴に背を向ける。以前鈴が先生の文句を垂れていたのを思い出す。 「眼鏡、不便じゃない?」 「さっきからめがねめがねって、なんだおまえ、めがねフェチか」 「いやいやいや……」 「ひてーしないのか。まあいい。めがね嫌いじゃないぞ」 「そうなの?」 「理樹がめがねフェチっぽいからな。冗談だが」 ああ、もしかして鈴は上手いこと冗談ではぐらかしているんだろうか。正直そこまで考えてる子には見えないけれど。でも眼鏡をしてると考えててもおかしくないような、賢い子に見える。 そーじゃなくってさ。 「手術で治せたりしないの?」 「できるけどやだ」 「なんでさ。病院、面倒でしょ?」 「物入れるのやだし、面倒じゃない」 そろそろカーテンが青白く光り始めている。白い光の狭間で、夕焼け色が駆逐されようとしている。いい加減そろそろ寝ておかないと、明日……今日に差し支えてしまう。 「痛かった?」 ん? と鈴が聞き返してくる。 僕はやっぱり寝ぼけていて、そんなこと聞いてどうなるんだろう。 「痛かった」 鈴が言う。眼鏡を外して、焦点の合わない瞳で僕の目の向こうを睨む。 なんでこんな目に合わなきゃなんないんだ、と、震える声で僕を問い詰める。 そうなってくれたら、どれだけいいか。 「んー、それどころじゃなかったし、よく覚えとらん。落ち着いたくらいに、眼鏡しろって言われた」 鈴はそっけなくそう言うだけだった。 僕は鈴の答えを残念に思った。 お前のせいだとか、一言だけでも口にしてもらえていたらと思った。 プリンターががりがりと音を立てて、印刷紙を飲み込んでいく。何度か繰り返されるあいだ、鈴があくびをして、指だか肩だかの関節をポキポキ鳴らす。やがて静かになった部屋で、トントンと紙をそろえる音がする。紙が一枚、薄明かりの中を滑って、僕の前に落ちた。どこから引っ張ってきたのか、円柱レンズの光路図がプリントされていた。 「すまん。取ってくれ」 紙を摘み上げようとしても、握力が全然入らなかった。結果、鈴に手渡す前に僕の手から落ちた。 鈴は何も言わなかった。代わりに、 「ホチキスは?」 と尋ねてきた。僕は答えようと思ったけれど、声は出なかった。 机を漁るゴソゴソという音のあと、少ししてホチキスがガチャリと歯を立てる。鈴のため息が部屋の空気を揺らす。 僕は息を大きく吸って、吐く。想像上のローソクは一発で吹き消えて、鈴が喝采をくれる。 そう思っていたら、一本だけ消え残ったローソクがあった。暗い部屋の中で未練がましく揺らめいている。鈴の眼鏡にゆらゆらと反射している。 「至らない奴だな」 眼鏡の奥、鈴が笑う。僕もそう思う。本当に至らない奴で。 渾身の力で、ローソクに息を吹きかけようとして、その直前、耳元でケータイが音楽を奏でる。 薄く目を開ける。サブ画面がオレンジ色に光っている。 「うっさいから消せ」 僕が黙っていると、鈴が僕を抱きしめるようにしてケータイに手を伸ばす。 「ん? メールだぞ?」 珍しいな、とでも言わんばかりだった。僕も珍しいと思った。鈴はいいにおいがした。 僕はそのまま鈴を抱き寄せて、キスしようとして、でも鈴の顔がどこにあるのかわからなかった。 困惑していると、布団を剥がれて、やっぱり鈴の顔があった。眼鏡の向こうの鈴の目は、朝日に映って、少し充血していた。 「眠いから、キスだけな」 横柄な声がして、唇に温かい湿ったものが触れた。 [No.7] 2009/03/06(Fri) 19:13:30 |
この記事への返信は締め切られています。
返信は投稿後 60 日間のみ可能に設定されています。