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この世界の正しい使い方 - 秘密@4175 byte - 2010/03/17(Wed) 23:48:16 [No.697]
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終焉を綴る者 前編 (No.682 への返信) - ひみつ 60629 byte


1.

 すべてを終わらせねばならないと決意した日のことを、理樹は覚えている。その日も傘を忘れて酷い雨に遭い、鈴と一緒に慌てて喫茶店に駆け込んだものだ。借りたタオルで髪を拭き、窓際の席に座って、冷たくなった手と身体とを熱い紅茶で温めた。鈴は猫舌だから冷めるまで口を付けもしなかったが、代わりにずっと、白に赤の縁取りの入ったカップを両手で包み込んでいた。
 それからどれだけの時間が流れたのか、鈴にも理樹にも実はもうよくはわからないのだが、硝子越しに微かな雨音を聴いているとあの日からずっと、この世界には冷ややかな雨が一度も途切れることなく降り続いているのだと錯覚しそうになる。今日も窓硝子は一面の露に覆われて殆ど真っ白だった。表の道を歩く人びとの鮮やかな傘の色だけが垣間見えた。理樹は硝子の表面に人差し指で触れた。ゆっくりと動かして文字を刻み始めた。曲線を描くたびに爪がかちかちと音を立ててぶつかり、水滴が指先と硝子との接触面に溜まって、やがて肌を伝い落ちた。その指の動きを不思議そうに見詰めていた鈴が、あ、と小さな呟きを漏らした。
「どうしたの?」
「そう言えば、モンペチがもうない」
「そう言えばっていうか、なんの脈絡もないね」
「脈絡なんか知るか」と鈴は一蹴した。「非常事態だぞ。あいつらの食べるものがなくなったら大変だ」
「じゃあ帰りに寄っていこうか」
 理樹がそう言うとしかし、鈴はちょっと不機嫌そうな顔つきになり、白く曇った硝子を見て溜息をついた。本当は、雨の粛々と垂れる灰色の空を見上げようとしたのだろう。雨だから余計な寄り道をしたくない、と表情が露骨に言っていた。量が多すぎるので半分こで食べているパフェに手を伸ばし、鈴はぽつりと呟いた。
「よし、あいつらには一日くらい食べずに我慢してもらおう」
「いやいやいや」
「ん? なんか問題でもあるか?」
「可哀想でしょ」
 すると鈴は銀のスプーンをくわえたまま、ふふん、という顔をする。
「あたしの猫じゃらしによる特訓をくぐり抜けてきた精鋭たちだ。一日の絶食くらいなんの問題もない」
 わけがわからなかった。



 空はまだ青いが、陽は既に傾きかけていた。先ほどまで辺りに雨を降らせていた雲が、物凄い速度で北風に流されながら、紫色に輝いているのを理樹は見上げた。さして幅もない縁石に器用に乗った鈴はその隙に、猫の駆けるような速足で、さっさと先に行ってしまう。濡れて滑りやすくなっているのに器用なことだ。急いで理樹が追いかけるとひらりと飛び降りて、「急ぐぞ」と言った。
「なんでそんなに急いでるのさ」
「おなかすかせて待ってるだろ、あいつらが」
「さっきは絶食でいいとか言ってたよね」
 そんなことは知らん、と眼で言って鈴はまた歩道を駆け出した。商店街の中ほどのペットショップに到着すると、目的の棚にまっすぐに向かって床にしゃがみ込み、鈍い銀色の下地に鮮やかな緑や青や赤の印刷の入ったモンペチの缶を、次から次へと手に取った。店の入り口で籠を手に取って理樹はその後を追ったが、追い付いた途端、軽くはない缶を後ろ手にぽんぽんと放り込まれてたたらを踏みそうになった――どうしてこっちを見てもいないのに、そんなに簡単に籠に入るのか。
「実はあたしは超能力者なんだ」と鈴が背を向けたまま言った。「魔眼の持ち主なんだ」
「いやいやいや」
 くるりと振り返り、鈴は理樹の背を両手で押す。レジに行け、と言いたいらしい。狭苦しい店内を縫ってレジに向かい、籠を置くと、顔見知りの店員さんがモンペチを一つずつバーコードリーダーで読み取っていく。幾らになるか頭の中で既に計算の済んでいる鈴は、何処から捻出されているのか理樹どころか鈴本人にもいまいちわかっていないお金をレジの上の皿に置いた。千円札が三枚と小銭を少々。かと思いきや、むー、という顔をして小銭入れの中を睨んでいる。
「幾ら?」
「一円玉があと三枚。一万円札ならあるんだが」
 理樹は財布を取り出して、一円玉を三枚レジに置いた。お、ありがとう、と鈴が言う。
「ところで鈴」
「ん?」
「余ってるから、三枚と言わず三十枚くらいあげるよ」と理樹は、鈴の財布の中に大量の一円玉を流し込んだ。鈴は瞬く間に膨れ上がった自分の財布を呆然と見遣った後、我に返って、「いらんわぼけー!」と財布を投げつける勢いだ。店員さんがたまらずに吹き出した。「笑うなー!」とそちらにも猫のするみたいな威嚇をして、なんだかとても忙しそうだった。店を後にすると外はもうだいぶ薄暗かった。それでも冬に比べれば陽は長くなった方だ、と思おうとして理樹は、冬の夕方の景色など、最早曖昧にしか思い出せないことに気が付いた。そりゃそうだ、と鈴は理樹を見た。濡れた地面から水の香りが昇っていた。
 校門の影には猫がいた。
 ところどころ錆び付いた鋳鉄製の門扉は、雨水を薄っすらと纏わらせ、薄暗い闇の底で淡く光っている。道路の向かい側の歩道に立つ街灯の光を受け、門柱の背後から長々と伸びる濃藍の影の最中に座っているのはレノンだ。今にも影に溶け込んでしまいそうな静かさだったが、鈴と理樹を見ると一声、にゃあと鳴いた。「なんでこんなところにいるんだ、レノン」と声をかけ、モンペチの袋を手にしていない空いた片手で、鈴はその小さく白い身体を抱き上げた。ん、と首を傾げた。
「どうしたの?」
「またこれだ」とレノンの尻尾を視線で示す。細く折り畳んだ紙片が尻尾に、いつものように丁寧に結び付けられている。
 理樹が結び目をそっとほどいて広げてみると指令ではなく、SIHC OXAROC、とアルファベットが記してあった。しばらくの間、理樹はそれをじっと見詰めていた。首を傾げた鈴がレノンの身体越しに紙切れを覗き込もうとした。その時、遠くからわははははははーと声がした。驚いたレノンが鈴の腕から飛び下りて、そのまま暗がりへ逃げ込んだ。
「理樹、あたしらも逃げるぞ」
「そうだね」
「ふはははははははははははーこのはるちんからそう簡単に逃げられると思うなー!」
 とうっ、と謎の掛け声と共に二人の間に突然現れた葉留佳が、鈴の手からモンペチの袋をひったくって走り出した。何処に隠れていたのかもわからなければ咄嗟の反応も許さない神業だった。校庭の向こうの方で「ふふふふふ、二人で仲よさそうに出かけて何買ってきたのかなー」などと呟いている――何って、モンペチだけど。空っぽになった手のひらを見詰め、闇に紛れる葉留佳の後姿を見詰めた鈴は、理樹の手から紙切れを奪い取って見もせずにポケットに突っ込むと、足を踏み締め腕を組み、髪を風にそよがせて決然と仁王立ちした。
「今日という今日は許さん」
 低いのによく通る声だった。
 その声に気付いて葉留佳が鈴の方を振り返るよりも先に、鈴は物凄い勢いで助走を開始していた。驚異的な脚力で跳躍して飛び蹴りを決めたかに見えたが、きわどく身を翻した葉留佳が「わ、わ、鈴ちゃんが本当に怖いー!」と喧しく逃走する。鈴が「黙れー! モンペチ返せー!」と追跡する。その有様を理樹が呆然と眺めていると、「二人とも楽しそう」と後ろから声をかけられた。酷くのんびりとした声だった。
「理樹くん、おかえりなさいー」
「ただいま、小毬さん」
「何かと思って出てきてみたら」とちょっと呆れたような表情を浮かべる。「りんちゃんとはるちゃんは、いつでも元気だねー」
「もう少し大人しいと周りは楽なんだけどね。特に葉留佳さんは」
 理樹が冗談めかして告げると小毬はふわりと笑って、「でも、あれがはるちゃんらしいのです」と子供に言い聞かせるように呟いた。それは確かにそうだけど、と思った。砂を散らし、風を巻き上げて逆方向に走り去ったかと思われた葉留佳が、器用に小毬の背後に回り込んだのはその時だった。素早い動作で首にぐるりと腕を回し、もう片方の手を小毬の肩越しに伸ばして鈴をまっすぐに指差し、「こまりんがどうなってもいいのか!」と高らかに叫んだ。どうやら人質に取ったらしい。小毬は小毬らしい鈍感さを存分に発揮して「え? え?」と、何が起こったのかわからないとでも言うようにただ眼を瞬かせていた。
「くっ、卑劣な!」と鈴が何故か本気で悔しがる。「どうする、理樹」
 そんなことを訊ねられても知らない。理樹は黙って首を横に振った。それを横目で見た葉留佳が「ふっふっふ。どうやらわたしの勝ちのようですネ」と不適に笑うと、鈴は何かを決心した表情になって、「こまりちゃんすまん!」と謝った。
「モンペチのために、尊い犠牲になってくれ!」
 見捨てていた。
「ふえええええー助けてー」
 泣いていた。
 理樹は騒ぎの現場を離れ、葉留佳の手によってとうの昔に校庭の片隅に放り出されているモンペチの袋のところに向かった。拾い上げて砂を払うと、いつの間に騒動を収めたのか、鈴が葉留佳と小毬に挟まれて、嬉しさ半分迷惑さ半分、と言った面持ちでやって来る。理樹の手に獲物のあるのを発見して葉留佳がまた眼を輝かせた。
「理樹くん、鈴ちゃんを帰してほしければそいつを寄越せー!」
「いや、葉留佳さん、もういいよそれ」
「ははは、そうですネ」
「それで、二人でデートして何買ってきたのー?」と小毬がビニール袋を覗き込んだ。「あ、猫さんのご飯」
「何ー! なんでそんないつもどおりなんだー!」と葉留佳が再び袋をひったくって中身を漁り始めた。その隣で小毬が苦笑し、鈴が「何を期待してたんだ?」と首を傾げ、理樹が「さあ」と呆れたように返す、そんな無邪気な後姿を、恭介と謙吾は窓越しに眺めていた。男子寮の三階の廊下でだ。非常階段の脇の、殆ど誰も通らぬ一角だった。切れかかった蛍光灯が交換されもせずにばちばちと音を立てており、時折、闇を呼び覚ますように明滅した。先に窓辺に立っていたのは恭介だ。その様子を見とめた謙吾が近付いて、「何をしている?」と声をかけたのだが、返事はなかった。ただ、恭介の視線を追ってみると、葉留佳や小毬と別れて中庭の方角へ歩き出す鈴と理樹の姿が見えたから、どうして恭介がこんな場所に立ち尽くしているのかはわかった。一緒にその場に佇んで、宵闇に消えゆく鈴と理樹の背を見送った。不意に恭介が口を開いた。
「もうどれくらいになる」
「どう答えればいい」と謙吾は問い返した。「時間がまっすぐには流れていないこの場所で」
「ならこう訊こう――何巡目だ」
「さあな。お前が一番よく知っているだろう」
「ああ」と少しの沈黙の後、恭介は頷いた。「そうだな。そのとおりだ」
 もう随分と長いはずだった。何度目なのか、咄嗟に数え上げることのできない程度には繰り返してきたはずだった。思わず恭介が問うてしまう理由が謙吾にはわかる――それだけ長い時間が経ったにもかかわらず、恭介の目論んだ計画にはただの一歩の前進も見られないのだ。鈴も理樹も未だに、安穏な選択肢を選んではこれまでと変わらぬ日常を過ごし、最後にまた元の時間と場所とに押し戻されることをだけ繰り返している。謙吾が我知らず溜息を吐くと、恭介に肩を軽く叩かれた。
「まあ、気長に行くさ」
 そう告げた恭介は、既に足音を立てずに歩き出し、謙吾の脇をすり抜けて廊下の薄闇の向こうに去りかけていた。
「何を悠長なことを言っている」と謙吾は振り返ってその背に言った。
「あいつらに過保護に接していたのは他ならぬ俺たちだ」と立ちどまった。「そんなに性急に事を運ぼうとしたところで、たぶん無理しか生じないぞ」
 謙吾が再び言葉を発する前に、恭介は曲がり角に姿を消した。



 鍋がぐつぐつと煮えている。ガスコンロの青い炎が土鍋の底を炙るのを、理樹たち四人は、狭い部屋にわざわざ持ち込んだテーブルを囲んで沈黙と共に見下ろしていた。「なあ恭介」と最初に口を開いたのは真人だ。
「よくわかんないんだけどよ、一つ訊いていいか――なんで鍋なんだ?」
「そもそもこの鍋はなんだ。その辺にある材料を適当に放り込んだだけだろう」
「ていうかもうご飯食べたし。それに、なんで僕たちの部屋でやるのさ」
「馬鹿は馬鹿なんだから何訊いたって無駄だ。諦めて食うぞ」
「お前ら、相変わらず俺の扱い酷いな……」と部屋の隅っこで恭介が早くも泣きそうになっている。鈴が言葉どおりの諦めた表情で鍋をつつき出すと、「まあいいか、食おう」と真人が真っ先に考えることを放棄し、「しょうがないなあ」と言って理樹も箸を取った。未だに釈然とせぬといった面持ちの謙吾の隣に腰を下ろし、「いいじゃないか。晩飯からもうだいぶ時間経ったし。ほら食え」と恭介が箸を押し付けた。謙吾は渋々受け取った。これでようやく全員で鍋を囲んだかたちになる。うどんやキャベツや白菜や人参や鶏肉や豚肉や肉団子や海老やホタテが無造作に投げ入れられており、寄せ鍋と言えば聞えはいいが、ひたすらに謎めくばかりの鍋である。
「で、どうして鍋なの?」と理樹はうどんを取りながら改めて訊いた。
「今日いきなり寒かったじゃないか。だから、鍋かおでんが食べたいなあと思ったわけだ」
「思ったことを何も考えずにそのまま実行する。さすがの馬鹿兄貴だな」
「ちなみに明日はおでんだぜ!」
「本当に馬鹿だ!」
「確かに今日は雨だったし寒かったけど、明日はあったかいって天気予報で言ってたよ?」
 理樹はぶつ切りの鶏肉から箸先で脂身を切り離す。謙吾が物凄い勢いでうどんを啜った。「しまった、俺としたことが……」と絶望する恭介に鈴は一瞥すらもくれなかったが、隣の真人が肉ばかり皿から転げ落ちそうな量を確保しているのを眼にすると、「野菜も食え! 野菜も!」と詰め寄った。理樹はその隙にこっそりと海産物を集め始めた。
「そうは行かん!」
「ああ! 僕の海老!」
 神速の早業で三匹同時にさらっていくと、「理樹には剥いた殻をやろう」と得意げに言ってばらばらと、海老の殻やら足の切れ端やらを理樹の皿に投げ込んでくる。要らないにも程がある。どう考えても昼間の一円玉のお返しだった。テーブルの向こうでは「鈴の言うとおりだ。ほら、野菜」と謙吾が真人に白菜の塊を押し付けていた。「えー、だってよー。野菜じゃ筋肉にならねーじゃん」と真人ががっかりしたように呟いた。呆れた謙吾が「まるで肉なら直接筋肉になるとでも言いたげだな」と返すと、真人は箸をくるりと回し、満面の笑みで宣言した。
「こと筋肉に関してはオレもそこまで馬鹿じゃないぜ」
「ああ、それは事実だな」と鈴が頷く。「他は普通に馬鹿だがな」
「ふっ、否定できないな」
「真人、そこはちょっとくらい否定しようよ……」
「諸君!」と沈黙を守っていた恭介がおもむろに立ち上がり、大声で言った。「今回の季節外れの鍋、口ではああ言っていたものの、その実諸君が心の底から喜んでくれていることがわかって、俺は非常に嬉しい! さあ、遠慮など微塵も必要はない、どんどん食ってくれ給え!」
「こら馬鹿、入れすぎだ。肉が硬くなるだろう」
「速攻で食べればいいだろ」
「うどん入れられないだろぼけー」
 鈴も真人も謙吾も、恭介の言葉など勿論聞いていなかった。かわいそうに思った理樹だけはこくこくと頷いてあげていた。しばらく演説を続けていた恭介はその有様に気付くと一転して黙り込み、このまま泣きながら屋上まで駆け上がって飛び降りるんじゃないかと、見ている理樹が心配になるほどの絶望の色を顔にじわりと滲ませたが、やがて正面に座る理樹を発見して表情を明るくした。
「やはり、俺の気持ちを理解してくれるのは理樹だけだな」
「え? そう?」
「ああ、そうだ」と頷くと、優しく表情を緩めて凛と立ち、優美に一揖するかの如く理樹に手のひらを差し出した。「今、俺は確信した。理樹は――理樹こそが、俺の運命のひとであると。だから理樹、俺とけっこ」
 んしよう、と言い切ることは叶わなかった。人智を超えた速度を誇る鈴の回し蹴りが、「黙って死ねーっ!」という声と共に理樹の頭上を掠めたかと思うや、鍋上空に鮮やかな弧を描いて恭介の側頭部を直撃したからだ。恭介の身体は冗談のように吹っ飛んだ。真人の筋肉グッズを蹴散らし、本棚にぶつかって本を撒き散らし、壁に激突してもとまらずに跳ね返り、真人と謙吾の死守するテーブルの上の鍋以外のありとあらゆるものをなぎ倒して転がり、最後にベッドのへりに直撃して、ぐげえ、とひとの口からは漏れてはならぬうめきを漏らしてようやく停止した。兄の暗殺を完遂した鈴は無言で食事に戻っていた。「あはははは……」ととりあえず笑っておく以外に理樹にできることはなかった。
 鶏肉と豚肉が共に尽きたのはそれから十分後のことだ。食べ足りないらしい真人と謙吾は肉を狩りに行く算段を立てている。意味が不明である。「何処で獲ってくるのさ」と白菜を齧りながら訊いてみると、学校でだと言った。真人曰く「知らないのかよ理樹。近頃の学校には鳥とか鹿とか熊が出るんだぜ」とのことだ。
「そんなん知らん。理樹は知ってるか?」
「うーん。なんか噂には聞いたことあるけど。でも、それって本当なの?」
「さあな」と謙吾が言った。「だが行ってみる価値はある」
「いや、お前ら遊びに行きたいだけだろ」
「なんだ、鈴も一緒に筋肉したいか?」
「するか」と鈴は即座に拒絶した。「おなかいっぱいになったから、あたしは寝る」
 箸を置き、髪を束ねるヘアゴムを眠そうに抜き取ってポケットに仕舞うと鈴は、二段ベッドの柵を乗り越えて理樹の布団に潜り込んだ。「行ってらっしゃい。帰ってくんな」と布団の中からくぐもった声が聞こえ、静まった。
「まあ、夜の学校には他にも変な噂が多いからな」と謙吾が気を取り直して呟いた。「某国のスパイが地下迷宮を探索しているとか、深夜になると二階の東の階段が三十段伸びるとか、図書室の窓や扉から謎の青い光が漏れ出すとか、校長室に触手状の幽霊が現れるとか――この際だから、確かめてくるのもいい」
「全部初耳なんだけど」
「そうか?」と謙吾は首を傾げる。
「一段増えるのなら聞いたことある気がするけど、三十段は増えすぎじゃない?」
「そうだな」と謙吾は頷く。
「青い光って何?」
「わからん」と謙吾は首を横に振る。
「図書室と校長室は鍵かかってて入れないと思うよ」
「そうか」と謙吾は悲しそうな顔をする。
 真人は横で準備運動を始めている。やがて二人が出発すると、これまでの喧騒が嘘のように、部屋はしんと静まり返った。恭介もいつの間にか何処かに消えた。理樹は鍋の火を落とし、五人分の食器を片付け始めた。小さな流しに皿を積み上げ、水に浸けると、黄色いスポンジに洗剤を染み込ませて泡立てた。手早く洗い終えて水切り台に並べ、部屋に引き返した。鈴の眠るベッドに歩み寄り、寝返りを打ったせいか布団が胸元まで落ちているのに気が付いて、そっとかけなおした。携帯電話を開いて時計を確認するともう十一時を回っている。朝までそのまま熟睡しかねない時刻である。
「鈴、ほら、起きて」
「んー」
「りーんー」
「んあー」
 身体をぐらぐらと揺さぶられても、枕に頬を埋めて眼さえ少しも開かずに、返事をするというよりはただ唸っていた。
 おんぶして女子寮まで連れて行こうかと考えたが、幾ら鈴が小柄だとは言えさすがにそれは無理だろう。根気強く揺すり続けると、寝惚け眼を擦ってなんとか起き上がってくれた。立ったまま眠り始めるのを肩を貸して支え、「自分の部屋に帰るよ」と言い聞かせる。「りきーねむいー」などと呟きながら今にもひっくり返りそうな足取りで、とことこと部屋を出て歩き出した。廊下ですれ違うひとが訝しげにこちらを見た。寮を出た。
 吹き寄せる風が冷たかった。
 なるほど確かに鍋でも食べたくなる寒さだ。中庭の街灯の下を通りかかった時、肩にかかる体重が不意に軽くなったように思われて、隣をちらりと盗み見た。赤みがかった瞳を暗闇の中で微かに輝かせ、髪を下ろした鈴は眼をぱちりと開いていた。「起きた?」と訊ねると「んー。いや、あんまり」と呟いて、理樹の背後へ身を翻した。どすん、と背中に体重がかかったのは次の瞬間のことだ。いやいやそれは無理だよ、と咄嗟に思ったけれど、こうして背に負ってみると鈴は意想外に軽い。女子寮くらいまでならなんとかなりそうだ。足を膝裏から支え、その細い身体をひょいと持ち上げて歩き出した。理樹の左肩の辺りを枕にして鈴は眼を瞑った。寝ないでよ、重いから。ああ、言われなくてもわかってる。本当? なんだ、そんなにあたしが信用できないのか? うーん、ちょっとなあ。うっさいぼけ、こういう時は頷いておけ。
 鈴の髪が風に揺れ、ちりんちりんと鈴の音が理樹の耳元で鳴った。
 星もなく月もなく、暗く冷たい夜である。



2.

 毎朝目覚めて最初に眼に映るのは、制服に着替える佳奈多の後姿だ。クドリャフカはその日も電灯の光を眩しく感じながら眼を開き、ブラウスのボタンを上からとめている最中の佳奈多を布団の中から見て、おはようございます、と眠たげに言った。佳奈多は物珍しげな顔をこちらに向けた。
「あら、今日は早いじゃない」
「そうですか?」
「ええ、三分くらいね」
「三分なのですか?」
「そうよ」
 本気で言っているのか冗談なのか、真顔だからわからない。怖ろしく眠いのでクドリャフカは再び布団を引っかぶろうとしたが、ベッドの縁に手を突いてぐっと顔を近付けてくる佳奈多に、「いいじゃない、早く起きなさいよ」と素早く布団を取り上げられてしまった。途端に冷たい空気が、四方から流れ込んでくる感触がしたものだ。速やかに運び去られる布団を掴もうとして虚空に手を伸ばし、「あうあうあー。寒いのですー」と眠気にまみれた声で言った。
「何言ってるの。もう春よ」
 佳奈多に背中を押され、眼を擦って起き上がる。ふらふらと隣のベッドに潜り込もうとしたところで首根っこを押さえられた。首筋に呼気の吹きかかる距離で「別に寝たいって言うならとめないけど」と佳奈多が囁いた。
「あなた、今日、一時間目に英単語の小テストがあるって言ってなかったかしら?」
 小テスト、小テスト、小テスト、と三度、回らない舌でクドリャフカは繰り返した。それから「そうなのです!」と天井に頭をぶつける勢いで飛び上がり、その勢いのまま机に向かおうとして自分のベッドに激突して床に転げ落ち、起き上がろうとしたところで今度は逆側の佳奈多のベッドに頭をぶつけ、「わふー……」と力尽きた。佳奈多が合掌した。
「クドリャフカ。あなたのことは一生忘れないわ」
「生きてるのですっ!」
「ああ、聞こえる、クドリャフカの声が聞こえるわ」と天を仰いだ。「天国から私を励ましてくれるのね。なんて優しい子なの、クドリャフカ」
「ふん、佳奈多さんなんて知らないのです!」
 ブラウスだけを羽織り、スカートには足も通していない中途半端な格好のままわけのわからないことを言いつのる佳奈多に背を向け、クドリャフカは机の脇にかかっている鞄から英単語帳を引っ張り出した。着替えるのも後回しにして単語の羅列に眼を通し始める。確か百頁から百五頁までが出題範囲だったはずだ。dear――高価な、大事な、親愛な。calculate――計算する、推定する。friction――摩擦、軋轢。circumstance――状況、事情。SNALB DO PMROC。クドリャフカは首を傾げた。まったく見覚えのない単語だったからだ。はて、これは一体どんな意味だっただろうか、と英単語帳をまじまじと覗き込んだ。
 クドリャフカがそうして悪あがきを始める頃にはもう、仲間内で誰よりも早起きの美魚は、制服に着替えて食堂に向かっているところだった。廊下にひと影は殆どなく食堂も閑散としていたが、部屋の奥の柱の影に見覚えのあるひとの姿を発見した。艶めく黒髪を背に流し、足を優雅に組んで椅子に座っている。来ヶ谷だ。背中を向けているので美魚のことは視界に入っていない。美魚は壁際をそっと移動し、見付からないようにカウンターで定食を受け取り、また足音を忍ばせて壁際を進み、来ヶ谷の座っている席からは柱を挟んで遥かに離れた席に着こうとすると、何故だか来ヶ谷が目の前に座っており、お盆をひっくり返しそうになった。なんとか死守したお盆をテーブルに置き、椅子に座って口を開いた。
「来ヶ谷さん」
「何かね美魚君」
「心臓に非常に悪いので、そういうことはやめていただければと」
「はっはっは。美魚君がつれないことをするから、つい、な」
 朝っぱらから高らかに笑う来ヶ谷を無視して美魚は味噌汁を啜った。豆腐とわかめと油揚げの味噌汁である。お椀を置くと今度は鮭の身を箸先で器用にほぐし、掴み取って口に運ぶ。来ヶ谷も真向かいで同じメニューを食べている。海苔をぱりぱりと噛み千切る軽やかな音、小鉢の中でかき混ぜられる卵の鮮やかな黄色、四角い皿の縁に綺麗に並べられた鮭の小骨――そんなものたちが閃いては消えゆく、静かな朝食のひと時だ。
 食べるのが遅い美魚を置き去りにして来ヶ谷は早々と食事を終えた。
「ふむ、これで美魚君の食事する姿をじっくりと眺めることができるな」
「さっさと死んでください」
「なんだ、今日の美魚君は辛辣だな」
「三枝さんの相手をしていて、ツッコミは可能な限り厳しくしなければならないと決意を新たにしました」
「ふむ、葉留佳君へのツッコミが大変なのは同感だ」と言うと来ヶ谷は、制服の上着のポケットから文庫本を取り出した。「ところで、今日早めにここに来たのはこれを返すためだったんだが」
「それを早く言ってください」
 机の上に置かれたグリムウッドの『リプレイ』をひったくるように受け取り、自分の制服のポケットに仕舞った。いつのことだったか夜にリトルバスターズの女子の面々で部屋に集まり、夜が深け脱落者も続出して持久戦の様相を呈し始めた頃、酔っ払いの如くテンションの上がった美魚が「サドもフローベールもプルーストもフォークナーも読んだことのない人間に、小説について薀蓄を垂れる資格なぞ毛頭ありません」と豪語し、「そうか、では何か本を貸してくれ」と言って来ヶ谷が大量に借りていった、そんな海外文学の文庫の分厚い束に紛れ込んでいた一冊だ。一冊読み終わるごとに返しに来てはこちらをからかって帰っていくのが実に迷惑で、美魚は毎回そうするように来ヶ谷を睨み付けたのだったが、来ヶ谷はそんな視線など何処吹く風で、「それではまた教室で会おう」と爽やかに席を立って去ってしまった。
 食堂には段々とひとが集まりつつあった。気を取り直して、周りがうるさくなる前に手早く食事を終えると、美魚は返された本の頁をなんとなく捲ってみた。果たしてその冒頭、栞紐の丁寧に挟み込まれた一頁目に、日本語の文字列に紛れて不自然に浮かび上がる謎のアルファベット――BEAP ROZAIZA LACUIL――を見付けたのだ。



「そういうことです」
「そうなのです」
 うんうんと木陰で頷き合うクドリャフカと美魚を前にして、恭介は困惑の表情を隠さなかった。助けを求めるように理樹の方に視線を向けてきたので、理樹は鈴に助けを求める視線を向けた。強い陽射しが斑に落とす枝葉の影の最中に立って、鈴は眼を眩しげに細めていたが、理樹の視線に気付くと一言言った。
「で、野球はいつ再開するんだ?」
「ええー」
 実に真っ当な指摘ではあった。何故なら今は放課後の野球の練習の真っ最中だからだ。休憩に入ってからもうだいぶ時間が経っている。でも、クドや西園さんの話もちょっとは聞いてあげようよ、と理樹は思った。すると鈴は首を横に振り、「正直言って興味ない」と言い放った。
「本当に正直だね!」
「今のは我が妹ながら凄かった」
「鈴さん、酷いのですー……」
 理樹と恭介が呆れ、クドリャフカが「うう、単語テストも全然駄目だったし、もう散々なのです……」とがっくりうなだれ、その原因となった鈴が「そう落ち込むな、クド」と慰めるとクドリャフカは「ありがとうございます。元気が出ました。鈴さんは優しいですね」などと世迷い言を言い始め、それらのすべてを無視して美魚が、「しかしこれは少々興味深いことではありませんか」と主張した。「どういうことだ」と恭介が真面目な声色で問い返した。
「その文字は、能美さんの英単語帳にもわたしの本にも、あたかも元からそこに印刷されていたかのように書き込まれていたのです。フォントも明らかに手書きではありません。これは、単なる落書きとは違うと思います」
「まあ、さっき現物を見せてもらった限りでは、確かにそんな感じだったが」
「それに第一、誰かが落書きする隙など、振り返ってみても何処にもありません。更に言えば、特に英語にも何にも見えない単語で統一されているという点も、些か不気味ではありませんか」
 美魚の声に耳を傾けながら恭介は俯いて何かを考え込んでいたが、突然くるりと鈴と理樹の方を向いた。いいことを思いついた、という表情だ。嫌な予感がした――と言おうか、嫌な予感しかしなかった。背後で砂を踏み拉く音がした。鈴が一歩後ろに後ずさった音だ。恭介は厳かに告げた。
「この件の調査を二人に任せようと思う」
「嫌だ」
「僕も忙しいからちょっと……」
「そんなに遠慮しなくていいぞ、二人とも。確かにちょっと面白そうではあるが、俺は敵のスパイと戦うのに忙しいからな。それよりも俺は、この調査を通じてお前たちが一段と強くなってくれることを期待している」
 背後ではクドリャフカと美魚が、「スパイってなんのことでしょーか?」「きっと恭介さんなりに脳内に事情があるのでしょう」などと言葉を交わしていた。鈴と理樹の嫌そうな顔も、クドリャフカと美魚の酷い結論の出つつある会話も平然と無視して恭介は、「よし、練習再開だ!」と宣言し、颯爽と駆け出した。グラウンドの隅に置いてあったグローブを手にして左手にはめ、ボールを拾い上げると、お、と意外そうな表情をした。
「理樹」
「何?」
「早速見付けたぞ」
 そう言って球を投げてくる。キャッチして見てみると、恭介が何を言いたいのかははっきりとわかった。ボールの白い表面に、縫い目に沿うようにして小さく、PALOM-RON FAAと刻まれているのだ。「こんなところにまであるんだな」と理樹の手元を覗き込んで鈴が呟いた。今度こそ練習を始めるらしく恭介はグラウンドの中央に向かった。クドリャフカが腰を上げ、思い思いの場所に散っていた他のメンバーたちも戻ってきた。美魚ばかりが普段どおり、木陰でそのまま本を読み始めた。
 鈴がマウンドに立ち、バットを握った理樹がバッターボックスに入ると、練習は即座に再開された。
 理樹の視線の先で、鈴が陽射しを背負いながら投球の構えを取った。その向こう、一塁側では恭介と来ヶ谷が、三塁側では葉留佳が、飛んでくるボールを虎視眈々と狙っている。小毬が何もないところで突然転び、クドリャフカがそれに巻き込まれて盛大に躓いた。謙吾が素振りをする「マーン! マーン!」という声と、真人が筋トレをする「ふんっ! ふんっ!」という声が、視界の外から喧しく響いてきた。鈴が獲物を狙うように眼を細めるのを理樹は見た。バットを強く握った。鈴が振りかぶった。投げた。
 振り切った。が、手ごたえはなかった。鈴のライジングニャットボールには掠りもせず、理樹のバットは空しく空振りしていた。バットを保持しなおして前を見ると、風に髪を泳がせて鈴は得意げな顔をしている。
「まだまだだな、理樹」
「次こそ打ち取ってみせるよ」
 二人の間をにゃあにゃあと猫の集団が行進していった。猫の姿が視野から消えた瞬間、鈴が足を踏み締めた。二球目が飛んできた。今度は完全に先読みし、狙い澄ましてバットを振るった。ボールの真ん中を捉えた確かな感触が手のひらに伝わった。高い音を響かせて理樹はボールを打ち返していた。鈴が口惜しげな表情でふり仰ぐ青空を、真っ白な球がぐんぐんと進んだ。「よし、俺に任せろ!」と恭介が駆け出し、来ヶ谷は「いや、今回ばかりは恭介氏の出番などない!」と殆ど瞬間移動じみた速度で恭介の先を行った。
「わははははー! 漁夫の利をはるちんがいただきだー!」
 葉留佳が真横から突っ込んできて恭介と来ヶ谷に激突した。三人がひと塊になって転がっていく光景を、鈴と理樹は唖然として眺めた。足が絡んでまだ起き上がれずにじたばたと地面でもがいていたクドリャフカと小毬を「わふーっ!」「ほわぁっ!」と巻き込み、何匹かの猫も加えて塊は更に巨大になってごろごろと回転を続け、やがてドルジの巨体にぼよんとぶつかって跳ね返ると、ばらばらに地面に投げ出された。ドルジは我関せず超然たる威風にてその場に凛と佇立している。偉大である。
 小毬が涙目になり、クドリャフカは眼を回し、恭介は起き上がる気配もなくひっくり返っていた。「大丈夫かこまりちゃん!」と鈴が小毬に駆け寄って肩を揺さぶった。葉留佳は既に立ち上がり、全力で走って逃げている。何処から取り出したのか模造刀を担ぎ上段に構え、「また余計なことをしてくれたな、葉留佳君」と低く言って粛清を加えんとする来ヶ谷からだ。「ちょっと待って! マジ怖いっすよ姉御ー!」という葉留佳の本気の叫び声はしかし、「マーン! マーン!」と「筋肉! 筋肉!」にかき消された。理樹は肩を叩かれて振り返った。日傘を差した美魚だった。
「図書館で借りた本の返却期限が今日だったことを思い出しましたので、これで失礼します」
「ああ、うん」
「それではまた」
 騒ぎの一切を受け流して、美魚は悠然とグラウンドを後にした。その背を見送っていると、「理樹! 続きをやるぞ!」と鈴の声がした。クドリャフカの足元が少しふらふらとし、葉留佳が遠くで行き倒れめいて倒れている以外は、何事も起こらなかったかのように全員が守備位置に付きなおしていた。理樹はバットを構えた。鈴が投げた。
 バットを振り抜いた時には確かな手ごたえがあった。しかし、今度はファウルボールだった。理樹の意図に反してまったく明後日の方向に飛んでいくボールを全員で眺め、グラウンド脇の小川に落ちる軌道であることを確信し、回収を諦めた。そして実際にボールは水に落ちたわけだが、その水音を聞いた者は何人かいても、ボールが水に衝突し、透明な飛沫が辺りに散らばり、水面が同心円状に波立つ光景を直接眼にした者はいなかった。僅かに土手のように盛り上がっている河原に阻まれて、川面はグラウンドからは殆ど見えないのだ。だから、ボールのぶつかった衝撃でざわめき泡立つその波間に、青く輝くアルファベットの文字列がびっしりと浮かび上がって消えたのを見た者もまた、一人も存在しなかった。



 椅子に座ったまま、眠気の中をゆらゆらと漂っていた小毬は、「神北さん?」というルームメイトの声ではっと飛び起きた。
「あら、眠っていらしたんですの?」
「寝てないっ。ぜんっぜん、寝てませんよー」
「どうしてそんな必死に否定なさるのかわかりませんわ」
 呆れた表情で溜息をつく佐々美の片手には、水玉模様の大きなマグカップがある。小毬が眠たい眼でそれをじっと見詰めていると、佐々美は「飲みます?」と訊ねた。傾くマグカップから甘い香りが漂った。中身はココアのようだ。小毬は頷いた。佐々美が台所に消えると、小毬はまた少しうつらとした。こと、と机にカップの置かれる音で眼が覚めた。ごしごしと両手で眼を擦った。
「ううー。ありがとう、さーちゃん」
「まったく。まだ八時ですのよ。早寝にも程があります。これを飲んで眼を覚ましてください」
「うん、大丈夫だよー」
 そう言ってカップに手を伸ばしたところで小毬は、絵本のアイデアを書き留めるためのノートが机に広げて置いてあるのに気が付いた。眠り込む前の自分はこれを書いていたのだとその時ようやく思い出した。カップに口を付け、ココアの温かい甘たるさを舌先で感じながらノートを眺めた。解読不能ののたくった字は明らかに半分眠って書いたものだ。
 ノートにはさまざまな種族や動物やお菓子が入り乱れていた。深く暗い森や打ち捨てられた寺院のある草原や枯れることのない花畑が広がり、天体と硝子と熾火と宝石が燦き、巨大な折鶴が天空を駆けた。そんな夢の世界にしかし、若干の不自然さを感じた。今日の夕方、野球の練習が終わった後に、恭介がチームの全員を集めて告げた言葉を思い出した――曰く、「このところ変なアルファベットの落書きがいろんな場所で発見されているらしい。この件に関しては鈴と理樹が調査するから、もし見付けたら教えてやってくれ」。その時小毬は、何を言われているのかよくわからないままにこくこくと頷いたのだったが、今ならどういうことかわかる気がした。
 SIHC NONOLIL ABOS。
 それが、ひとの言葉を喋り、大空を飛び、永遠の時間を生きる砂鯨の物語の、断片的に書き綴られた情景の最中に紛れ込んだ文字列だった。綺麗に印字されているとしか思えぬ謎のアルファベットを、小毬はしばらくじっと見詰めていた。小毬の背後の、小さなテーブルの前に座る佐々美が、ルームメイトの様子がまたおかしいことに気付いて「何をしてるんですの?」と訊いた。「うーん、変な落書きみたいなのがねー」と小毬は苦笑いで返した。
「寝惚けて自分でも知らない間に書いたんじゃありませんこと?」
「うわあ。さーちゃん酷いなあ」
 小毬はココアを飲み干すと椅子から立ち上がり、ノートを片手に、「ちょっと出かけてくるよー」と言った。
「えーっと、鈴ちゃんのところに行ってくるんだけど、さーちゃんも一緒に行く?」
「行きません。どうしてわたくしが――」
「だってさーちゃん、鈴ちゃんと仲良しさんでしょう?」
「違います! 絶対に違います!」と主張する佐々美に部屋を追い出されるように、小毬は寮の廊下に出た。少しだけ肌寒い。鈴の部屋は同じ新館の二階にある。鼻歌を歌いながら階段を昇り、すれ違うひとの視線も気にせず廊下を歩いた。鈴の部屋の前を足取りも軽やかに通り過ぎた。曲がり角まで来たところでようやく気が付き、「ほわあ!」と声をあげて引き返した。こんこんとノックした。「誰か来たから切るぞー」と内側から声が聞こえた。
「おお、こまりちゃんか」と戸を開いて現れた鈴は言った。
「えっと、お電話中でしたかー?」
「いや、理樹の奴だから気にしないでいいぞ」
「理樹くん?」
「ああ、おでんが暑苦しいらしい。逃げて正解だった」
「なんだかよくわからないけど、そっかあ、やっぱり二人は仲良しさんなんだねー」
「まあな」
「そう言えば、これ」とノートを差し出した。「例のアルファベットのなんだけど、恭介さんが協力しろって言ってたから」
「あー、あれな」と鈴は明らかにやる気なさげに受け取った。鈴の手のひらの上のノートを小毬はぱらぱらと捲って、例の文字のあるページを開いて指差し、「ここのところに変な文字があるから、渡しておきます。後で返してねー」と告げた。
「ん。わかった」
「それじゃあ、おやすみー」
 手を振って別れ、小毬は鈴の部屋を後にした。


[No.701] 2010/03/18(Thu) 01:19:49

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