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3. 鈴に服を引っ張られた。ラーメン屋の前でだ。 「昼飯食ってくぞ」 「えー。学校に戻って食堂で食べればいいんじゃない?」 「おなかすいた。もう一歩も動けん」 そう言うと鈴はラーメン屋の引き戸を開け、暖簾をくぐって、理樹の返答を待たずに一人でさっさと狭い店内へ消えた。一歩も動けないのではなかったのか。まあたまには学食以外で食べるのもいいだろう、と思い、鈴の後を追って理樹も店に入った。 店内の照明は暗めだった。皮膚に感じていた陽射しの圧力が途切れ、冷房に冷やされた空気の心地よさが足元から立ち昇ってくるのを感じた。結構混んでいる。二人分の席が空くまでには少し待たなければならなそうだ。鈴は入ってすぐのところにある券売機の前に立っており、お金は既に投入されているのだが、何にするか迷っているらしく指先を彷徨わせていた。早くしてよ。うっさい、わかってる。迷った末に鈴はチャーシューメンのボタンを押した。それから餃子のボタンを二回押し、その隣の半ライスも押して、とどめとばかりに単品のチャーシューを追加した。 「いやいやいや、どれだけおなかすいてるのさ」 「餃子は食べたかったら自分で頼め。あたしのはやらんぞ」 じゃらじゃらと落ちてくるお釣りを券売機から回収すると、鈴はカウンター越しに食券を渡した。理樹も急いで五百円玉を入れて醤油ラーメンの券を買い、一度に五枚の券を渡されて眼を白黒させている店員の手に、そのもう一枚を滑り込ませた。やがて席が二人分空き、丸い椅子に腰かけた。カウンターの向こうでは店員が、銀色に光る巨大な鍋から麺の入った振り笊を引き抜き、身体全体を使ってぶん回すように湯を切っていた。 「学校の外でご飯食べるなんて久々かもね」 「ん? そーか?」 「いや、実を言うとあんまり覚えてないけど」 「奇遇だな。あたしも覚えてない」 切り株のように分厚く丸い俎板の上に置かれたチャーシューの塊を、大きな包丁で勢いよく断ち切る音が響いた。天井の隅に据えられたスピーカーから、聞いたことのない音楽が流れ始めた。何曲目かが過ぎ去った頃、二人分のラーメンがやってきた。続けて餃子と半ライスとチャーシューの皿がカウンターに置かれるのを見て眼を輝かせた鈴は、理樹の方に視線をやると、ラーメン丼一つしかないのを確かめて、「お前、それで足りるのか?」と心配そうに言った。 「え? 大丈夫だけど」 そんな大食いでもあるまいし、ラーメン一杯あれば十分だ。 「ああなるほど。理樹はちっちゃくて華奢な女の子だから少食なんだな」 「ええー」 「違う」 「何が」 「そこは涙目になって、ふえぇぇひどいよぅボク男の子なのに、だろ」 「うわあ、鈴がやっても似合わないなあ」 「だから理樹がやればいいんだ」 「ふえぇぇぇん、ひどい、ひどいよぅ鈴、ボク、ボク男の子なのにぃ……」 「やめんかぼけー!」 「いや、やれって言ったのは鈴だから!」 「ここまで似合うとはさすがに予想外だった。やばいな」 「それより鈴こそ、そんなに食べられるの?」 「任せておけ」と鈴は自信たっぷりに頷いた後、割り箸を割ってラーメンを啜り始めた。 鈴はラーメンと餃子に交互に箸をつけて瞬く間にそれらを片付け、ちょっとおなかいっぱいになってきたかな、と思いながら理樹がラーメンを半分まで食べる頃には既に、ラーメン丼と餃子の皿一つを空にして、二皿目の餃子と半ライスに取りかかっていた。鈴の携帯電話が鳴ったのは、理樹がなんとか全部食べ終え、鈴は残ったスープにチャーシューを放り込んで嬉しそうに食べ始めた時のことだ。メールだ、ちょっと見てくれ。別にいいけど。理樹は鈴のポケットから携帯電話を引っ張り出した。開いてみると小毬からのメールだった。小毬さんからだよ。ふーん、そうか。メールは謎の装飾によって武装されており、何が書いてあるのか理樹にはいまいちわからない。 写真が添付されていた。 ファイルを開いて表示してみると、何故小毬がメールを送ってきたのかはわかった。この分だと学校は今、大変な騒ぎになっているのだろう。 「で、こまりちゃん、なんだって?」 理樹は無言で鈴に写真を見せた。チャーシューをもぐもぐとやりながら鈴は自分の携帯電話の画面をじっと見詰め、これはすごいな、と呟いた。 PALOM-RON FAA LE-TSER GNOSILEBO NARMAZ DO RACAZ LAAQ PI-A-O-OD ALIPA DO I SD DAM ERIZ ELGAB AGSOAC F DO IHASAUQ-RON UZROT ALC O-L TA SIHC NIHSOL SO NOAMIPAC SIHC ILAMIPAC T SD GEGV DO SIHC IZ-DO-ORC GMRASAC L PRC OPMROC GA MABOS MPAM ILAO IMRASAC VL-IV-IV FNOS SD D P PMROC OGAVAVA EG-SIHC-G LOHOG AHPROD DO EGABAB IDSUL LIHTO―― 窓硝子も含めた校舎の壁一面に、明るい青のペンキで隙間なくびっしりと描き込まれた大量のアルファベット――なんの前触れもなく忽然と現れたその文字列をひと目見ようと、中庭には生徒たちが続々と集まっていた。赤い腕章をつけた佳奈多ら風紀委員の面々も駆けつけたが、特に何ができるわけでもなかった。校舎の外壁を見るとひとは一様に感嘆の声を漏らし、誰の仕業なのかと友人たちと噂し合い、携帯電話で写真を撮ってはこの場にいない仲間に送信した。斯様に大規模ではないが似たような文字の並びを、別の場所で見たような気がすると言い出す者も中にはおり、廊下の壁、教室のカーテンの隅、職員室の机、などと目撃証言が飛び交った。ラーメン屋を出てのんびりと帰り道を歩いて学校まで戻ってきた鈴と理樹は、渡り廊下に差しかかったところでその騒ぎに直面し、驚いて立ちどまった。 「おお、写真で見るよりすごい」 鈴が無邪気に感嘆の声をあげる横で、手のひらの大きさほどの青い文字に埋め尽くされた壁を、理樹は黙って見上げていた。元々の白を圧して壁全体が青く染まったかのようだった。窓硝子に描かれたアルファベットが空の光を反射し、輪郭を微かに燦かせた。「りんちゃん! 理樹くん!」と木立の向こうから手を振って二人を呼んだのは、携帯電話で写真を送って異変を知らせてくれた小毬だった。群集を掻き分けて近付いた。 「大変なことになってるね」 「うん、みんな大変そうだねー」 「やっぱりこれって、こまりちゃんのノートとかに書いてあったのと関係あるのか?」と鈴が壁を見上げて呟いた。「さすがにこれなら、誰がやったか見た奴いるだろ」 「今探しているところよ」 背後から声がし、鈴がびっくりして振り返った。クリムゾンレッドの腕章を陽射しに光らせ、佳奈多は腰に手を当てて無表情で立っていた。鈴、小毬、理樹と順に視線を向けると、「あなたたち、何か知らない?」と訊ねた。理樹は不安になって問い返した。 「ひょっとして、僕たちが疑われてる?」 「まさか」と溜息をついた。「突拍子もなさすぎて、誰も疑えないというのが本当のところよ。幾らあなたたちでも、あんな高いところの壁に簡単に落書きできるとは思えないし」 「いや、馬鹿真人と馬鹿謙吾と馬鹿兄貴を縦に積み上げればいけそうだぞ」 「ええーっ。じゃあまさか、きょーすけさんが……」 「わけがわからないことを言わないで」と佳奈多は取り合いもせずに遮り、「何か思い出したら教えて頂戴」と告げて背を見せると歩き去った。建物の中にその後姿が消えたのを確認してから、「相変わらず愛想のない奴だな」と鈴が言った。 「りんちゃん、そんなこと言わないの。かなちゃん、お仕事頑張ってるんだからー」 「ふむ、そうか」と偉そうに腕を組んだ。「それは偉いな。実に偉い。評価してやってもいい」 「そうだな」と来ヶ谷が頷いた。「佳奈多君は多大な評価に値する、実に優秀な人材だよ。ただしまあ、些か堅物すぎる感は否めないがね」 「ああそうだ、堅物だ」と鈴も頷いた。「ところでくるがや」 「何かな? 我が愛しの鈴君」 「どっから沸いて出てきた」 「はっはっは。それは企業秘密とせねばなるまいが、どうして沸いて出てきたのかなら言うに吝かでない」と言うと来ヶ谷は、青いアルファベットの文字列に覆われた壁を見上げ、続いて理樹のことを見た。「これに関して少々心当たりがある。ついては少年にいろいろと借り受けたいものがあってな――部屋までついていってもかまわないだろうか?」 「いいけど、何?」 「文字の書かれているノートやら何やらを貸してほしいのだよ」 「それじゃあ、あたしらは帰るぞ」と鈴が小毬の腕に自分の腕を絡めた。来ヶ谷はひらひらと手を振り、「邪魔しないから、安心してコマリマックスとしっぽりむふふとやり給え」と言った。 「やるかぼけ」 来ヶ谷の言葉に顔を赤くする小毬をずるずると引きずって、鈴は女子寮の方へと消えた。理樹は来ヶ谷と一緒に、中庭へ行こうとする人びとでごった返す渡り廊下を歩き、男子寮に向かった。玄関を抜け、階段の脇にある戸を開いた。すぐ脇の小さな洗面所でマッスル・エクササイザー改良版を作っている真人に「ただいま」と声をかけた。 「おう、おかえり理樹」と言ってから、理樹の背後のひと影に眼をとめた。「おっと鈴もいるのか。二人で何処行ってたんだ?」 「なるほど、真人少年にはこの私が鈴君に見えるのか」 「ん? なんだ、来ヶ谷じゃねーか。すり替わってるのなら先にそう言えよ」 「ふむ、すまなかった。次からは事前に連絡しよう」 「ああ、そうしてくれよな」 怖ろしいくらいに会話が成立していなかった。 成立していない会話が交わされている間に、理樹は二段ベッドの脇に押し込まれた小さな段ボール箱を抱え、部屋の入り口まで戻ってきた。新型マッスル・エクササイザーの試飲の犠牲になったと思しい謙吾が、泡を吹いて窓際に倒れていたが無視した。箱の中にはクドリャフカの英単語帳や美魚の文庫本や小毬のノートや野球のボール、他にも、葉留佳の机の中で長年眠っていた正体不明のプリント、真人の筋肉グッズの説明書、教室から無断で持ってきたカーテン、化学室から無断で持ってきた試験管数本、美術室から勝手に持ってきた小さなカンバス、音楽室から勝手に持ってきた楽譜の束などが犇いている。「佳奈多君たちに見付かったら捕まるのは間違いないな」と呟いて来ヶ谷は箱を受け取った。 「何を調べるの?」 「あの謎の文字の正体がわかるかもしれない」 「え? あれって無意味な羅列じゃないの?」 「無意味な羅列にしては、妙に言語めいているとは思わないかね――まあ、判明してからのお楽しみ、と言ったところだよ」 謎めく言葉を残して、来ヶ谷は理樹たちの部屋の前を後にした。 男子寮を出て図書室へ向かう途中、来ヶ谷は葉留佳と顔を合わせた。 「ちょうどいいところで会った。葉留佳君、君にこの荷物を持たせてやろう。これは実に名誉なことなのだぞ」 「まじっすか姉御! 持ちます! 是非持たせてください!」 学校中のいたるところから拝借してきた盗掘品で溢れ返る段ボール箱を抱え、葉留佳が「あれ? もしかしてはるちん騙されてる?」と疑問を口にする頃には、二人は図書室に到着していた。来ヶ谷は図書室の戸を開けながら「さて、騙されたついでに手伝っていき給え」と言った。 「やっぱり騙されてたのかー!」 「はっはっは、よいではないか」 「ま、別にいいですけどネ。手伝いますヨ」 「うむ、助かる。このご時勢に未だにPCによる検索が不可能なロートル図書室で本を探すのは実に大変なのだ」 ひとのいない図書室に歩み入ると、葉留佳はどんと机の上に段ボール箱を置き、来ヶ谷は手近な書架を早速見て回り始めた。「とりあえず、宗教、魔術、神秘主義関連の一次史料を探し給え」というのが来ヶ谷の指示だった。葉留佳は首をひねった。 「魔術? 姉御、魔法でも使うんですか?」 「つべこべ言わずに探せ。ぶち殺されたいのか」 「なんでいきなりそんな怖いんすか!」 「冗談だ」 「それにしても、魔法の本なんてあるんですかネ?」 「怪しげなオカルト本が高校の図書室に入っているとはまさか思えないが、本格的なものなら世界史の史料として存在している可能性は十分にある。私たちの目からは単なる迷信にしか映らないものが当時の最先端の科学だったなどという事例は枚挙に暇がないし、実際に今日の科学の源流が占星術や錬金術にあったりもするからな。ほら、探すんだ。探して片っ端から積み上げろ」 「えっと、題名とかは」 「知るか」と切り捨てて、来ヶ谷は本棚と本棚の間に入り込んだ。何を探しているのかは自分でもわからないから、書架の端から端まで隈なく眼を通す以外にない。幸いにして図書館ではなく高校の図書室なので、蔵書数はさほどでもない――ある程度時間をかければ絞り込むのは可能だろう。黴臭さと埃っぽさを堪えながら世界史の棚を見終え、空振りだったことに落胆しつつ、キリスト教の棚に移ろうとした。「うひゃあ!」と葉留佳の叫び声が聞こえたのはその時のことだった。 「姉御! 姉御ぉ!」 「何かね葉留佳君。そんなに艶かしい声を出して」 部屋の反対側に並ぶ書架の隙間から這い出してきた葉留佳にそう声をかけると、最早はかばかしい返事はなく、葉留佳は机の脚を掴んでがっくりと突っ伏した。本棚と本棚の間を覗き込むと、先ほどまで葉留佳がいたのであろう辺りに、深い緑色の表紙の分厚い本が転げ落ちている。拾い上げて開いた。 途端に図書室の窓硝子が小刻みに振動し始めた。本の頁が見えない風に導かれて次々と捲れ出した。「これは――」と呟いて、先が続かず絶句した。書物をじっと見詰めると、蟀谷に嫌な圧力を感じる。細かく印刷された文字はすべて、澄みとおるような青い光を帯びて照り輝いていた。来ヶ谷は青さの一際強烈な頁を開いた。すると案の定、見覚えのある文字の羅列が姿を現した――OTHIL LUSDI BABAGE OD DORPHA GOHOL G-CHIS-GE AVAVAGO CORMP P D DS SONF VI-VI-LV CASARMI OALI MAPM SOBAM AG CORMPO CRP L CASARMG CRO-OD-ZI CHIS OD VGEG DS T CAPIMALI CHIS CAPIMAON OS LONSHIN CHIS TA L-O CLA TORZU NOR-QUASAHI OD F CAOSGA BAGLE ZIRE MAD DS I OD APILA DO-O-A-IP QAAL ZACAR OD ZAMRAN OBELISONG REST-EL AAF NOR-MOLAP. 葉留佳のところに戻り、椅子を荒々しく引いて座った。単語帳や文庫本を一つずつ取り出してはアルファベットの綴りを確認し、書物の記述と合致することを確かめて、息を吐いた。葉留佳も隣に座り、机の上に置かれた書物を恐る恐る見やった。 「えっと、姉御、これは――」 「道理で世界史の棚に見当たらなかったわけだ。存外に新しかった」とボールを投げ出し、独り言のように来ヶ谷は言った。「十九世紀末に英国に実在した有名な魔術結社、黄金の夜明け団。その教本の邦訳がこれだ。そう言えば、図書室の戸や窓から夜な夜な青い光が漏れ出しているという噂があったな。その正体もたぶんこの本だろう。ヒントは存外に近くにあったというわけだ。迂闊だった」 来ヶ谷は更に質問を重ねようとした葉留佳を手で制すると、携帯電話を取り出して恭介に電話をかけた。これで出なければ何もかもが詰むかもしれないと思ったが、幸いワンコールで出た。 「来ヶ谷から電話とは珍しいな」 「緊急だ。要点だけ掻い摘んで言おう」 「わかった」 「各所で発見されている件のアルファベットは、エノク魔術の天使語だ」 「天使語?」 「正確には、天使語を末尾から冒頭へ向けて、反転させて記述したものだ。ABCをCBAと言うようにな。これには単純だが騙されたよ――そのまま記述されていれば、ひと目見て気付けたかもしれないものを」 「ちょっと待て。あれがその天使語とやらであるってのはどうしてわかったんだ」 「実際に用いられている言語では明らかにない。しかし単なる落書きにしては、明らかに構文を持っているように見えた。とすれば思い当たる可能性は、なんらかのマイナーな人工言語しかあるまい。天使語の記載されている書籍自体は図書室で発見した。この世界に現れた異変である以上、たとえどんなに突拍子がなくともその由来は世界の内側にあるはずだ。そして、この世界は酷く狭い」 「いいだろう。続きを」 「天使語は過去に実在した魔術結社が儀式魔術のために用いた言語だが、これ自体はさしたるものではないんだ。ちょっと工夫された人工言語と言ったところで、別に魔術的な効果なぞありはしないし、だから発見された文字は単なる落書き以上のものではない――はずだった。この世界でなければ。何処かの誰かさんの強力な思いによって作り上げられ、それ故、強い精神的な働きかけさえおこなえれば操作の可能なこの世界でなければだ」 恭介は沈黙していた。 「いいか、恭介氏。誰かが明確な意志に基づいて魔術を仕掛けた。それもあれほど大掛かりに、周到にだ。魔術自体にはなんの効果もないが、意志の方には効果がある。そしてその時あの膨大な量のアルファベットは、意志を膨れ上がらせる強力な触媒になる」 そこまで説明したところで来ヶ谷は、葉留佳がずっと黙り込んでいることに気が付いた。おかしい、と咄嗟に思って隣を見た。誰もいなかった。肩に手のひらの置かれるのを感じた。何かがほどける音を聞いた。その音を最後に来ヶ谷の意識は途絶えた。来ヶ谷の身体そのものが、ほつれて無数の糸のように流れ落ちるのを見届けた理樹は、まだ恭介に通じている携帯電話を切った後、「ごめんね、葉留佳さん。来ヶ谷さん」と呟いた。 理樹は机の上に置かれている書物を取り上げた。かつてすべてを終わらせねばならないと決意した時に紐解いた、その魔術書をだ。小口から漏れる青い光が急速に明るさを増し、水のように溢れて流れ出すと、本は一瞬でそのかたちを失った。夥しい数の細かな文字と化して雪崩れ落ちた。床に触れた瞬間、白熱して膨れ上がる圧力を感じた。暴風と共に押し開かれ、それでいて波紋一つ広がらなかった。 何度も繰り返される時間の中で、レノンの尻尾に結わえ付けられた指令にも、ここに住まう誰もが心に抱える闇にも気付かない振りをしながら――それどころか、一度世界がリセットされるたびに記憶を失っている芝居をすらしながら、いたるところに単語単位で仕掛け続けてきた天使語が遂に臨界点に達し、現在のこの世界へと急浮上しつつある。たとえばあの外壁を埋め尽くした文字列のようにだ。そして今、箱庭のように閉ざされ、永遠のように時間を繰り返すこの世界を幾層にも貫いて、理樹の手により破滅の文字群が起動した。 第四の鍵から第十の鍵へ。水のタブレット、空気の小角OBLGOT-CAの天使を召喚。 がちり、と、歯車の噛み合う音を聞いたように思った。その瞬間、目の前の机が唐突に爆発し、木材の破片が宙に舞った。無音だった。衝撃もなかった。理樹は周囲を見回した。図書室の壁という壁、書架という書架に一瞬、天使語の羅列が幻めいて浮かび上がり、消えた。こちらから力を加えるのではなく、元々そこに潜んでいる力を軽く立ち上げてやるようなものだ。壁が見る間に罅入り、雲母のような断片に姿を変えて四散した。床板が水蒸気を上げて蒸発し、書架に稠密に並べられた書物は頁の端から次々と糸となってほつれた。何もかもが崩壊しつつあった。壁の吹き散った箇所に代わりに現れたのは外の風景ではなかった。空白だった。そこには最早、何物も存在してはいなかった。 ものの数秒で図書室は消滅した。空洞と化したその場から理樹は立ち去った。 4. 一歩を歩み出すごとに、踏み締めた地面が粉微塵に割れ、吹き飛んだ。輝く文字の群を足元に纏わらせ、床にまるで水面のようにアルファベットの波紋を立てながら理樹は階段を下りた。掴んだ手すりが歪み、その表面を力線が伝って踊り場の硝子を貫いた。轟音と共に極微の破片となって滝のように流れ落ちた。指の先から、髪の中から、照りわたる文字列が次々と吹き出しては、世界の組成に天使語によるノイズを走らせて切り裂いた。廊下を抜け、下駄箱の脇を通って外に出ると、それらのすべてが理樹の背後で虚空に消えた。青い空が眼に映った。一面に、燃えるように輝いた。 空がゆっくりと落ち始めた。 傾く空の下、木立の影にひそむように恭介は立っていた。険しい目付きで、黙ってこちらを見詰めていた。 理樹はグラウンドに下りた。渦巻く天使語の中心点と化した体が、無数の残響を伴って揺らいだ。脳髄の底に酷い疼痛を感じた。溢れ出す何かに五感が飲み込まれそうだったが、統御しようとさえ理樹は思わなかった。揺り起こされていくままに任せた。恭介の方へと一歩一歩近付いていく、その足裏で踏み締めた砂がざわめき、蠕動した。砂そのものの運動によって文字が連鎖的に綴られた。OL SONF VORSAG GOHO IAD BALT LONSH CALZ VONPHO SOBRA-Z-OL ROR I TA NAZPS OD GRAA TA MALPRG――われは怒りの蒼穹の上にあげられたる力のうちに汝を統べん、と正義の神は語りき、その両手にあって、太陽は剣なり、月は貫徹する炎なり。再び爆発が起きた。地が揺れた。校舎の一階の窓硝子が南側から順に次々と砕け、飛散した。枠だけになった窓から噴出する黒煙は微細な呪文の欠片だった。風に流され大気に溶けて、ゆっくりと浸透しながら世界への介入をおこなう破壊言語の群だ。 「考えてみればおかしかったんだな。疑うべきだった」と恭介は言った。「お前に例の文字の調査を任せた後、俺や謙吾は文字の入った物を幾つも発見してはお前に預けた。だが肝心の調査は進んでいるようには見えなかった。何処かに遊びに行ったりしてな。当たり前だ――お前が、犯人だったんだから」 「そうだね」と頷くと理樹は、恭介から少しの距離を置いて立ちどまった。「後悔しても遅いよ」 「何が目的だ」 「この世界を破壊すること」 沈黙が降りた。恭介の表情は変わらなかった。こうして静寂に包まれてみると、大気全体が耳鳴りめいた甲高い音をたてているのがわかった。悲鳴のようにもそれは聞こえた。恭介が「いいか、理樹。この世界は――」と口を開いた。 「説明は不要だよ、恭介」と理樹は遮った。「バス事故のことから、繰り返される時間のことまで、全部知っている」 「ありえない」 「そう?」 「お前の記憶は、リセットされたまっさらな状態を保つようにしておいたはずだ」 「それは不可能だよ。必ず無理は生じる。体験してないはずのことが記憶にあったり、記憶にあるはずのことを体験していなかったりね。そして一度異変を意識してさえしまえば、記憶を継承するのは難しくない。むしろ自然なことだ。だって現に、恭介たちはそうしてるんでしょ?」 「そこまでわかっていながら、お前は何故――」 歯噛みして告げた恭介のその言葉を、嘲笑うように理樹は言った。 「娼館でも作る気だったのかい? 恭介」 背に風を感じた。渦巻く文字の只中から吹き上がる風だ。吹きつのって幾重にも重なり合う眩い空気の幕をなし、水面に映り込むようにその上に、青く澄みわたる無数の文字を呼び寄せた。「何が言いたい」と恭介は押し殺した声で問うた。 「幾ら優しさや思いやりや善意で覆い隠そうとも、それがこの世界の本質だ。そうだろう、恭介。むしろ覆い隠しているが故におぞましい。尤もらしい免罪符を掲げているが故に愚かだ。僕はただ一つの記憶を持ったただ一人の人間だ。他の誰のものでもありえない僕自身の人生を、可哀相な他人を救ってあげるために差し出してやる気なんか微塵もない。ましてや都合よく記憶を失い、都合よく別の人生をやり直し、都合よく他人の過去を穿り返し、都合よく他人のトラウマを癒し、都合よく別々のひとと恋愛し、都合よく別々の誰かに精液を注ぎ込み、そしてそれを自分の成長だの強さだのと言い張るおぞましい行為に加担する気なぞ、欠片もありはしない」 「それが理由か」 「恭介は一度やると決めたことは何があっても捩じ曲げないだろう。僕が言ったことだって本当は全部わかっていて、それでもなお自分の目的のためにやり遂げようとするんだろう。僕の言葉にも、たぶん耳を貸さないんだろう。だから僕は――僕も、決めたんだ。こんな世界、何がなんでも叩き潰すと」 ごめんね、恭介、と理樹は最後に呟いた。殆ど誰にも聞き取れないくらいに小さな声だった。かまわないさ、と恭介は、なんでもないことのように言った。 「そう、かまわない。何故ならお前の言うとおり、俺は何がなんでも自分の計画を遂行してみせるからだ」 その言葉を合図に理樹は一歩、足を前に踏み出した。地面の感触は足裏には少しも伝わらなかった。触覚が既に振り切れているのだ。理樹の頭上で風に舞うアルファベットたちが、眼に見えない幾つもの網目の層を組み上げては解体した。蜘蛛の巣状に広がり、真円をなして畳み込まれ、幾何学模様に分裂し、野火のような光を放った。一際強い風に煽られて、背後の木立から葉が舞い上がり、落ちた。一枚一枚の葉の薄緑の表面に光り輝く筆跡で書き付けられた第二の鍵が、月色の砂によって地面に綴られた第一の鍵と甲高く唸りながら共振し、風の描き出す第六の鍵を呼び覚ました。眼に映るものが鮮やかさと色濃さを増し、視覚そのものが押し流されるかのようだった。 統一のタブレットから、BITOM節の天使を召喚。 全身が発火するような熱を帯びた。骨が軋んだ。衝撃が走った。視界の全体が一瞬で炎上した。炎が四方から吹き上がって空に渦巻き、地を怖ろしい速度で這って焼き尽くし、轟音を上げて理樹の周囲の何もかもを飲み込んだ。恭介の姿も消えた。傾いだ空さえ覆い隠す炎の中に、螺旋をなす天使語の羅列の影がよぎり、別の呪文を蔦状に組み上げ始めた。 しかし次の瞬間、折り重なる炎は唐突に掻き消えた。熱も風も残さずに、そのすべてがだ。唯一恐れていたものがやってきたのを理樹は知った。 「やっぱり、恭介には勝てないな――」 視野が上から急速に暗く狭まり、理樹は地面に倒れた。炎に曝された様子の少しもない元通りのグラウンドに、恭介がこちらを見下ろして悠然と立っている――それが、眠りに落ちる前の理樹が見た最後の光景だった。 炎が消えると恭介は深く息を吐き、明らかに安堵した様子を見せた。恐らく管理者権限によって恭介が操作したものなのだろうナルコレプシーに襲われ、理樹は支えを失って倒れ、眠り込んでいた。理樹に歩み寄り、しゃがみ込んでその柔らかそうな髪の毛を撫ぜながら、「お前は、本当に純粋だな」と恭介が呟いた。殆ど聞こえないくらいの小ささで、語りかけるようにだ。 「だが、それがお前の弱さだって言ってるんだ。なあ、この世界を壊してどうする。全員事故で死ぬのか。お前も死ぬんだぞ。いや、お前はいいのかもしれない。そう決意したんだろうからな。しかし、鈴は――」 そこで恭介が言い淀んだ。呼吸と共に上下する背の動きも、髪を撫でる手のひらの動きもとまったように見えた。何かを見落としていることに気付いたのだろう。ゆっくりと立ち上がり、身体の震えを隠しもせずに空を振り仰ぎ、凄まじい形相を校舎の屋上へ――こちらへ向けた。恭介の視線を真っ向から受けとめて、鈴は屋上の縁に立ち、グラウンドを見下ろしていた。 ポケットに手を突っ込むと鈴は紙切れを一枚取り出した。レノンの尻尾に巻き付けられる指令に紛れ込ませた一枚、SIHC OXAROCの文字の記された紙片だ。顔の高さに掲げて離すと、ふわり、と風に乗って足元に落ちた。事前に二人で立てた計画どおり理樹が恭介を惹き付けて時間を稼いでいる間に、鈴の足元に練り上げられていた天使語の魔法陣の、欠落した最後の一角に、何かに導かれるように収まった。 「ごめんな、兄貴」 鈴が呟いた瞬間、完成した魔法陣が発動し、光が爆発するように溢れ出した。眼下のグラウンドや校舎から真っ白な粉塵が爆風を伴って吹き上がり、理樹と恭介の姿を掻き消した。 輝く文字列が鈴を中心に放射状に浮かび、枝分かれしつつ先へ先へと地面を這って伸び続けた。全部で十二層に及ぶ積層魔法陣が自己増殖的に展開しているのだ。屋上の床面を埋め尽くし、校舎の外壁を隙間なく覆い、屋内に浸透して壁という壁、天井という天井を塗り潰し、グラウンドや中庭に入り込んで地面は元より立ち木の枝の一本一本、葉の一枚一枚にいたるまでを眩い天使の言語で一杯にした。積層魔法陣を綴り上げる数億のアルファベットが左右のみならずジグザグに、上下に、垂直に――或いは曲線、或いは螺旋、渦巻や二重円や逆三角形、車輪や葉脈や虹彩や系統樹、あらゆる形状に意味を連結させて無数の経路を開いては無数のタブレットを経由し、全種類の天使召喚を高速で同時進行させた。 身体の内側に、暴発する寸前までせり上がる力を鈴は感じた。召喚を一つ成立させるたびにじりじりと高まった。飛び火するようにあちこちで新たな小魔法陣が構築され、それらを接続する論理回路が全天に輻輳した。鈴の視野のすべては鮮やかに輝いていた。暗転する寸前の明るさだ。触れれば切れそうなほどの鮮明さで音を聞いた。殆ど地上のものではありえない軽やかさを全身に纏い、風もないのに舞い上がる長い髪の只中から青い燐光が燃えるように湧き上がった。足元の積層魔法陣の外周を螺旋状に縁取る三十のアェティール召喚文が回転し、伸縮し、明滅した。 眼に映らぬ光が辺りを焼き尽くした。遠雷のような音を立てて白く虚ろに燃え上った。遂に最後の召喚が発動したのだ。始まりは、空と大地とを襲う振動だ――太陽や雲が次々と溶けて落ち、焼き切れた地面に底なしの淵が開いた。まだ灯されていない街灯の並ぶ道や灰色の家並みを、そこにいるひとごと飲み込んで広がり続けた。魔法陣に収まり切らぬ文字が雨となって降りしきり、残された校舎をずたずたに引き裂いた。遠い地平の向こうで球体状の世界の内壁が粉微塵に剥落すると、いたるところに穿たれた大穴から、世界の構成素が滝となって流出した。既に目で見も、耳で聞きもせずに外界を知覚している鈴には、それらの様子が始まりから終わりまで、手に取るように理解できた。世界そのものに致命的な罅が入り、硝子が割れるように割れるのが――微細な断片と化して砕け散り、器を失った水のように零れ落ちるのがわかった。輝きながら闇へ溶け落ちていく、そのひと滴のかたちまでがわかった。 最後に鈴の手のひらに残ったのは、硬い殻を握り潰す感触だ。 それで何もかも終わりだった。世界を殲滅し尽くした魔法陣が翼を折り畳むように音もなく収束した。鈴は深く息を吐いた。身体の内に膨れ上がっていた力が霧消し、五感の回復と共に視野が平生の色合いに戻った。焼けた世界の残滓から吹き上がる夥しい水蒸気のせいで、辺りは夜のように暗かった。何も見えなかった。何も聞こえなかった。四肢を酷く重たく感じた。 「もう、おしまいなの?」と水蒸気の狭間から声がした。驚きはしなかった。そこにいるのはわかっていたからだ。「ああ」と頷いて、後ろを見やった。 水煙に沈む給水タンクの上に小毬は座っていた。鈴がその手で世界を破壊していくのをずっと見ていたのだ。漂い這う霧に覆われた地面を踏み締め、鈴は一歩ずつ小毬に近付いた。小毬の姿だけは霧の中でもはっきりと見えた。梯子で給水タンクによじ登った。笑顔に涙を浮かべた小毬がそこにいた。立ちどまった。 「凄いね、りんちゃん」と小毬は言った。「こんなことできるなんて」 「あたしは超能力者で魔眼の持ち主だからな」 「そっかあー」 小毬が深々と息を吐いた。鈴は梯子のすぐ傍に立ちどまったまま、ブラウスの上に白いセーターを着込んだその姿をじっと見詰めていた。こまりちゃん、と名前を呼ぼうとしたが、「私たちは――」と小毬の方が先に口を開いたから、鈴は押し黙った。 「私たちは、間違ってたのかな。間違ったことを、りんちゃんや理樹くんに押し付けてたのかな」 「自分で考えればいいと思う」 「うん」 「自分で考えて、間違ってないって思えたら、今度は自分の手でなせばいいと思う」 小毬は困ったように微笑むと、「そうだね、本当に、そのとおり」と一言ずつ区切って頷いた。 「だけど、ごめんね。私にはもう、そんな時間はなさそうかな。この場所を失って、あの現実に投げ出されて……」 「大丈夫だ」 「え?」 「あたしたちが助ける」 そう断言する鈴の顔を、小毬はびっくりした風にまじまじと見たが、「そっか、そうだったんだ」とやがて柔らかな表情を浮かべた。「なら、安心だね」と本当に安心したように呟いて、ふわりと笑った。その姿が爪先から、指先から薄っすらと滲み、ほどけ始めた。強い風が吹き寄せると、空気の中に溶け込むように小毬の姿は薄れ、消えた。 また、向こうで会おうね、りんちゃん、と声が響いた。鈴はこくりと頷いた。 波の音が聞こえた。理樹は重たい目蓋を開き、辺りを見回して、自分がまだこの世界に存在していることを知った。理樹と背中合わせに凭れあう鈴が、おはよう、と言った。おはよう、と返して理樹が上を見上げようとすると、ごつんと鈴の頭に後頭部がぶつかった。痛いだろぼけー。ごめんごめん。 「ええっと、待たせた?」 「いや。あたしもちょっと寝てた」 疲れてたからな、と言って鈴は立ち上がった。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、地面に置くと、澄んだ水にゆっくりと足を浸した。 世界の欠片と、世界を破壊し尽くした文字たちとが混ざり合い、液状化し、見渡す限りをまるで一面の海のように青々と浸していた。屋上の床面の一部と傾いた給水タンクとだけがかろうじてかたちを残し、その真ん中に浮かんでいるのだった。歩き出すと、粒子のように細かな文字が指の隙間に入り込み、皮膚をくすぐり撫ぜるのが快かった。鈴は頭上に視線をやった。足下に広がるのと同じ青の輝きに満ちていた。空と海との区別はなかった。透きとおる青さの中を、真珠母色の雲が光を放ちながら眩しく棚引いた。殆ど見通せぬ遥か上空を通る時もあれば、足裏を掠めるほどのすぐ真下を通過することもあった。 何処までも歩いていけそうだと思った。 立ちどまると鈴は振り返った。理樹はちょうど靴下を脱いだところだった。ズボンの裾を捲り上げ、物珍しげに周囲を見回しながら水の中を歩き始めた。ひたひたと波紋を広げ、水のような感触の何かを足裏に感じながらだ。理樹は鈴に追い付き、なんにもなくなっちゃったね、と言った。ああ、びっくりだ、と鈴は頷いた。 「それじゃあ、早速始めようか」 「そうだな。きょーすけたちも待ってるしな」 二人は並んで水の只中に立ち、手をつないで眼を瞑る。暗闇の中で、夢見るように現実の世界を覗き込む。崩落した山道の遥か下、血と鉄と燃料の臭いが立ち込める緑の谷底だ。ねじ切れた金属や砕けた硝子が散乱し、血に汚れた制服姿のひとが倒れている。バスの残骸の下敷きになっているひともたぶんいるだろう。要点は三つある――第一に適切な救助の実施、第二に燃料タンクからの燃料漏れの防止、第三に理樹のナルコレプシーの克服。 どうだ? なんとかなるんじゃない? そんなに簡単に言っていいのか? わかんないけど、怪我が酷くないひとの助けを借りれば。まあ最悪でもタンクはあたしが塞げばいいしな。後は僕のナルコレプシーだ。大丈夫。うん、大丈夫。 頷き合って二人は眼を見開いた。果てしなく広がる青の空間が目の前にあった。ここにこれからもう一度、今度は二人だけで世界を作る。みんなの命を救う、ただそのためにだ。二人は再び眼を閉じた。風が凪いだ。波の音が遠ざかった。互いの手のひらを、ぎゅっと握った。 [No.702] 2010/03/18(Thu) 01:21:16 |
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